ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2014-08-31(Sun)

 いろいろ考えて、きょうは渋谷に出て、シディ・ラルビ・シェルカウイの「BABEL[words]」を観ることにした。もうひとつ別の公演でほぼ同じ時間のものを観たい気もちもあるのだけれども、大きな劇場でのパフォーマンスを体験したく、渋谷の方に決めた。チケット代もバカにならない額でイタいのだけれども、その分受け止められるものが大きければいいと思った。

 開演は午後三時と思っていたので、地元十一時の電車で出発し、これでちょっと早めに当日券をゲットすればいいだろうという気もちだったのだけれども、到着してみると開演は午後の二時だった。すでに当日券目当ての人たちが列をつくっていて、一般の入場客ももう会場に足を踏み入れていらっしゃる。ちょっと失敗したなあと思う。

 当日券売り場に並んでいると下からEさんがあがって来られるのが眼に入ったので、「おひさしぶりです」とあいさつをする。「やせた?」といわれた。はい、ダイエットの成果です。

 しばらく並んでようやくチケットをゲットし、席に着く。S席ではなくA席、二階のごく後ろの方だけれども、そんなことはかまわない。開演、そして終演。だいたい四時になっていただろうか。感想は下に。

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 で、ほとんど目論んでいた通りに、井の頭線に乗って池ノ上で下車、「G」へ行く。日曜日のカウンターは前に展覧会のときに会った「South Park」のTシャツのコかな、と思っていたのだけれども、知らない女性が入られていた。いきなり「Havana Club」とか頼むと大変だろうから、遠慮してアイスコーヒーとかにするのだけれども、客席の方にオーナーのFさんがいらっしゃって、「あれ? ハバナクラブじゃないの?」と聞かれてしまった。「いや、まだ五時前だからアルコールもまだ」とかなんとか。その新しいスタッフのGさんだとかとお話しているうちにHさんもいらっして、いつもの「G」になる。わたしもこのところたまっていたものもあるもので、ちょっと長居して、あとから来られたお客さんとかHさんとかとの会話を楽しんだ。ほぼ三時間。精神衛生的にはとってもよかったと思う。

 帰路について自宅駅に降りてから、「もう遅い時間だから近所のスーパーも値引きしていることだろう」と、寄り道してみる。案の定、刺身のたぐいが半値以下になっている。ニェネントへの「おるすばんのごほうび」も兼ねて、「かつおのたたき」を買った。帰宅してニェネントにかつおを分けてあげ、わたしも同じかつおで遅い晩ご飯にした。舞台はちょっとアレ、だったけれども、いい一日だったと思う。

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[]「BABEL[words]」シディ・ラルビ・シェルカウイ&ダミアン・ジャレ:振付 アントニー・ゴームリー:舞台装置デザイン @渋谷・東急シアターオーブ 「BABEL[words]」シディ・ラルビ・シェルカウイ&ダミアン・ジャレ:振付 アントニー・ゴームリー:舞台装置デザイン @渋谷・東急シアターオーブを含むブックマーク

 う〜ん、こういう舞台を観たいのではなかったのだけれどもなあ。仕方がない。‥‥わたしは、先日観た勅使河原三郎の舞台の延長で、もっと抽象的なモノを観たい気持ちがあったのだけれども。

 それでも、舞台装置をからめたパフォーマンスで、記憶に残るようなシーンは多々あったのはたしか。


 

[]二〇一四年八月のおさらい 二〇一四年八月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●「睡眠 -Sleep-」勅使河原三郎:構成・振付・美術・照明 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウス
●少年王者舘 + tsumazuki no ishi 合同公演「寝覚町の旦那のオモチャ」スエヒロケイスケ:作 天野天街:構成・演出 @下北沢・ザ・スズナリ
●「BABEL[words]」シディ・ラルビ・シェルカウイ&ダミアン・ジャレ:振付 アントニー・ゴームリー:舞台装置デザイン @渋谷・東急シアターオーブ

映画:
●「GODZILLA ゴジラ」(2014) ギャレス・エドワーズ:監督
●「リアリティのダンス」アレハンドロ・ホドロフスキー:監督
●「ひろしま」(1953) 伊福部昭:音楽 関川秀雄:監督
●「シュトルム・ウント・ドランクッ」山田勇男:監督

読書:
●「決定版 カフカ全集 1」川村二郎・円子修平:翻訳
●「決定版 カフカ全集 2」前田敬作:訳
●「青白い炎」ウラジーミル・ナボコフ:著 富士川義之:訳
●「ことばの食卓」武田百合子:著

DVD/ヴィデオ:
●「天井桟敷の人々」(1945) マルセル・カルネ:監督
●「地球へ2千万マイル」(1957) レイ・ハリーハウゼン:特殊効果 ネイサン・ジュラン:監督
●「妖女ゴーゴン」(1964) テレンス・フィッシャー:監督
●「ゴッドファーザー」(1972) フランシス・フォード・コッポラ:監督
●「ゴッドファーザー PART II」(1974) フランシス・フォード・コッポラ:監督
●「モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン」(1979) テリー・ジョーンズ:監督
●「モナリザ」(1986) ニール・ジョーダン:脚本・監督
●「ホドロフスキーのサイコマジック・ストーリー」(2013) ジュリア・ブラッザーレ/ルカ・イメシ:製作・脚本・監督
●「アウトレイジ」(2010) 北野武:脚本・監督・編集
●「アウトレイジ ビヨンド」(2012) 北野武:脚本・監督・編集

 

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■ 2014-08-30(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 過去の記録を読み継ぐのはやっぱりつらいけれども、これはやっておかなくてはならない。きょうも、2007年から2008年ぐらいまでの記述を読んだ。これがある意味でのわたしの絶頂期、なのかも知れない。宇都宮の大きな企業への出向派遣社員として、それなりの収入はあったし、週休二日はきっちりと守られていた。毎週週末ごとに上京し、舞台やイベントを体験し、そのあとはその場でお会いした知人らと飲み、それは時には朝まで続いた。たいていの場合、飲み会のあとの深夜に今でも通っている下北沢の「G」にころがりこみ、そこでクダをまいてから渋谷のカプセルホテルとかに行っていたようだ。

 こういう「理想生活」が破綻したのは、その宇都宮のわたしの部署が九州に移転が決まってしまったせい。あのときのわたしの派遣会社の動き方次第では、わたしもいっしょに九州へという路線もなかったわけではない。そう声がかかればじっさい断ったかも知れないけれども、九州へ行っていた可能性もある。せっかくの「食い扶持」だったのだから。そうすれば、わたしのその後の生き方はもっともっと、ぜんぜん違っていたわけだ。

 その宇都宮の企業のわたしのちょくせつの上司はとても厳しい方で、わたしは彼に「あなたはパワハラだと思います」と、ダイレクトに言ったこともある。その上司が、けっきょくわたしが九州に同行出来なくなったと決まったとき、「わたしの下で二年以上持った外注さんはあなたがはじめてだ。そのことは自慢していいですよ」とわたしに語ったことが、そのわたしのブログには書いてあった。うれしいことだ。

 派遣会社からはその後「松本」への転職の可能性も示され、わたしも、もしもそれが実現するのなら松本だって行くつもりだったのだけれども、それは実現しなかった。ここからがわたしの「凋落」のはじまり、なんだろうな。

 2005年より前のわたしの歴史、今となってはたどりようもないのだけれども、せめてこの2005年以降の自分史、わたしには年表にでも起こして記録するひつようがありそうである。

 そう、ちょっと遊びにいけるお金と時間。ちょっと飲んでしまうお酒。約束してなくても偶然会える友だち。約束して待ち合わせる友だち、恋人(もういなくなった)。音楽の聴けるプレーヤー。いつでも本を貸してくれる図書館。たばこと食い物。屋根のある家の布団で寝て、春に桜を見る。それだけ、いや、そんなにたくさんのものが、いつまでもあるといい(気弱だな)。


 

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■ 2014-08-29(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 もっと早くにやっておくべきだったのだけれども、記憶をなくす前の<日記>を読み返し始めた。<日記>といっても<ブログ>なのだけれども、2005年、この茨城に転居して来た日から書き始めていたブログが、今でも消滅せずに残っていた。このブログは5、6年前にこちらの「ワニ狩り連絡帳」に吸収されるように更新しなくなっているけれど、もちろん、読んでみると今のわたしには記憶にない事柄の連続である。ほんとうは東京に居た頃に書いていたブログも別にあったのだけれども、そちらは消滅してしまっていて、もう自分は自分の「東京時代」を思い出す手がかりがない。

 そのブログの2、3年分、2005年から2007年にかけての記述を読む。4月25日にこの地の前の住居に転居して来て、あたらしいしごとにも従事するのだけれども、7月には十二指腸潰瘍の穿孔で入院するわけだ。勤め先ともひと悶着あり、けっきょくはそのしごとを辞めてしまう。そのときにはもう東京にもどるつもりもあったのだけれども、宇都宮の職場に派遣社員として通うようになり、収入がそこそこに良かったこともあり、週末ごとに上京して舞台などを観て、知り合いと飲んで東京に宿泊する。土曜日と日曜日とれんぞくして東京に宿泊し、月曜には東京からちょくせつ宇都宮に出勤するようなことも、かなりやっている。自分でもそのバイタリティにおどろくところもあるし、この時期には交友関係も拡がっていたようだ。ある意味では豊かな、ある意味では調子に乗った生活様式。どちらにせよこの生活様式は二年ぐらいで破綻するのだけれども、とにかくには読んでみても記憶に残っていないわけだ。そのときの交友関係も、今ではほとんどすべて消えてしまっているわけだろう。その上で今回の記憶の消滅、である。

 自己史を自分なりに頭に焼き付け直すためには必要な行為ではあるけれども、まるで記憶にない記述を「これはわたしの体験だったのだ」と、イメージをともなわずに「ことば」としてだけ反芻して行くのは悲しい。とても悲しい。記憶の消滅で失ったものの大きさに、あらためてことばを失ってしまう。いくら「再出発」だなんてはしゃいでみても、やはり「取り返しのつかない」ものはある。それがあまりにも膨大なのだ。続きの<日記>を読むのが怖くもなる。


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■ 2014-08-28(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 土曜日か日曜日にまた渋谷に出て、シディ・ラルビ・シェルカウイの「BABEL」を観ようかと思っている。チケット代はちょっと高いけれども、これからはもっと積極的にあれこれと観て行きたい気もちである。

 カフカ全集を読み継ぎ、きょうは「父への手紙」を読んだ。カフカの文章としては思いもよらずに、ダイレクトなことをストレートに書いているなあという印象。およそ男性というものは、その父親に抑圧されていたと考えるものなのだろうか。ホドロフスキーの「リアリティのダンス」だって、この延長線上にあるわけだろうし、わたしはわたしでそのような感覚はある。まあわたしの場合は「抑圧された」というより、「甘やかされて正当な成長をはばまれた」という思いなわけで、それがまたひとつの「抑圧」であることは、ある程度の年齢に達するまで気づかなかったわけではある。ある意味で「厳格」ということとは真逆な、徹底した「甘やかし」と「保護」。わたしがいちどやろうとしなかったことはその後二度とやらないですむようにされたわけで、つまりは「しつけ」ということをやられたおぼえがない。おかげでわたしはかなりの年齢まで極端な偏食を通していたし(いちど口をつけなかった食べものは二度と食卓に上げられない)、今でもわたしの箸の持ち方は奇妙なものである。たいていの遊びは「危険」として遠ざけられ、結果としてわたしはほとんど自転車にも乗れない。もちろん性格にもそうとうな「歪み」があることだろうけれども、そのことは自分では自覚出来ない。ちょっとしたことで学校に理不尽な文句をつけることはしょっちゅうで、つまりはモンスター・ペアレントだった。わたしと父との対話は、生涯にわたってほとんど行なわれなかった。「どうしてそのような親であったのか」ということは、後のわたしを苦しめることになる。そういう意味では、このカフカの「父への手紙」もまた、わたしには痛切なものではあった。わたしもどこかで、このような「父への手紙」を書かなければ、解決の出来ないもんだいを(無意識にでも)抱え持っていることだろう。

 

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■ 2014-08-27(Wed)

 八月だというのに肌寒いくらいの気候である。きょうも曇天で、予報では雨にもなるとか。

 きょうはCさんといっしょに、下北沢で演劇を観る。十二時に下北沢で、という約束にしたのだが、それだとこっちを九時半ぐらいに出る電車に乗ってもギリギリなので、九時前の電車で出かける。きょうは車内冷房はいらないと思うのだが、冷房はガンガン効いている。寒くなる。

 かなり予定より早くに渋谷まで出て、タバコを買ったりする。Cさんからのメールで、寝坊してしまって三十分近く遅れるとのこと。あらら、という感じで、本屋に寄ってじかんをつぶす。尾崎翠の「第七官界彷徨」の岩波文庫版を買った。

 下北沢に移動して、無事にCさんと遭遇。下北沢ではいつもランチに行っていたらしい店に行く。記憶からは飛んでしまっているのだけれども、店に入るところで店の名前は思い出したかな。パスタを注文したら出来るのにちょっと時間がかかり、劇場の開場ぎりぎりの時間になってしまった。せっかく早い番号の整理番号チケットを入手してあるのだから、それをムダにするのはもったいない。

 無事に整理番号順の列にもぐりこみ、Cさんの好みの席をゲットして観劇。とっても面白い舞台だった。感想は下に。

 舞台のあとはまだ外も明るい。どこかで飲みましょうということで、わたしはまだ時間も早いので、Cさんのお気に入りの神保町の「Y」まで行ってもいいよ、と提案したけれど、Cさんは下北沢でいいというので、こんげつの始めにAさんと行った「T」に行くことにした。

 やっぱり「T」の料理は美味で、Cさんも満足したみたいである。いろいろあったけれども、あまり遅くならないうちにCさんと別れ、帰路についた。

 

[]少年王者舘 + tsumazuki no ishi 合同公演「寝覚町の旦那のオモチャ」スエヒロケイスケ:作 天野天街:構成・演出 @下北沢・ザ・スズナリ 少年王者舘 + tsumazuki no ishi 合同公演「寝覚町の旦那のオモチャ」スエヒロケイスケ:作 天野天街:構成・演出 @下北沢・ザ・スズナリを含むブックマーク

  この「寝覚町の旦那のオモチャ」、このブログの古いところを見ると、ちょうど十年前にtsumazuki no ishiの公演として、同じザ・スズナリで上演されているのを観ていることがわかった。もちろんその時の記憶はわたしに残っていないのだけれども、そのブログにはその当時読んでいた阿部和重の「シンセミア」と比べた感想が書かれていた。なるほど。

 今回の公演。少年王者舘では決してやらないだろう展開の劇を、わたしにはおなじみの天野天街演出で魅せてくれる楽しさを満喫。その舞台の虚構性の中から、フッとリアルさがかもし出される空気感が格別だった。


 

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■ 2014-08-26(Tue)

 ずいぶんと涼しくなった。雨もときどき降っている。今年の夏も、これでおしまいなんだろうか。

 職場の近くにあるレンタルDVDの店のなかに古着屋があり、そこで今半額セールをやっている。わたしの着ている衣服、実はほとんどすべてがこの古着屋で買ったものばかりである。このところしばらくこの店に行っていなかったのだけれども、今はボトムスではけるものがあんまりなくなってしまったので、サイズが合えば買っておこうと思って行ってみた。agnis b.のボトムスで、ウエストも丈もぴったりなのを見つけた。喜んで買い、いきおいで他に二本のボトムス(ひとつは仕事のときはくつもりで、もうひとつは普段用)も買い、Tシャツもひとつ買ってしまった。トータルで1600円ぐらい。安いものだと思う。

 このところホドロフスキーにはまってしまった感があるけれども、きょうもホドロフスキーが関係した映画を観てしまった。

 

[]「ホドロフスキーのサイコマジック・ストーリー」(2013) ジュリア・ブラッザーレ/ルカ・イメシ:製作・脚本・監督 「ホドロフスキーのサイコマジック・ストーリー」(2013)  ジュリア・ブラッザーレ/ルカ・イメシ:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 物語の背後にホドロフスキーの提唱する「サイコマジック」があるのだけれども、つまりこれは「サイコ・セラピー」と言い換えてもいいもので、そこに儀式性をプラスして暗示効果を高めたもののようではある(この作品の原題は「儀式」、なのだと思う)。

 メインのストーリーは、暴力的に振る舞う男のせいでうまく行かない男女の姿、主にそこで悩み苦しむ女性がヒロインである。‥‥観ていて、「そんなバカな男とは早く別れちゃえばいいじゃん!」とばかり思っていたので、わたしはあんまりいい観客ではない。ラストも、けっきょくはそういう幕引きではあったのだけれども。


 

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■ 2014-08-25(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 カフカ全集第三巻、「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」に、「おまえと世界との闘いにおいては、かならず世界を支持する側につくこと」という有名な箴言をみつけた。これもまたカフカらしい「生きることの不可能性」の延長にある箴言だと思うけれども、若い読者らはここに「真実」があるものと読むのではないだろうか。いや、これはカフカの創作においての「リアリティ」ではあるだろうけれども、このリアリティを生き方として共有することには無理がある。というか、普通に不可能だろう。不可能事を創作の原点にすること、その不可能事をまさに「不可能」として書くこと、そこにカフカの創作があると思う。若い読者はここでいってみれば足をすくわれ、けっきょくはカフカを投げ捨てる。「世界との闘い」を忘れることで、今日、明日を生きて行こうとするだろう。「リアリティ」とは何かと問うことで、わたしなりに「世界との闘い」は継続して行けるのだ。「リアリティ」とは何かと問うことで、わたしは世界を支持する側につくことが出来るだろう。

 午後から、昨夜録画した「モンティ・パイソン復活ライブ!」の前編をを観た。ローマ法王とミケランジェロとのくっだらない(もちろん、これは褒め言葉)対話から、エリック・アイドルが「すべての精子は神聖である」と唄い始め、舞台はたいへんなことになって行くのだが(よくあのTV局が放映したものだ)、観ていて「あれ、この曲、記憶に残ってるぞ!」と思い出すことになった。これは「人生狂騒曲」のなかでの大ミュージカルシーンで唄われる曲で、わたしはその「人生狂騒曲」のなかで、この曲のとちゅうのソロをとる子の顔や表情までも思い出した。DVDをひっぱり出して来て該当のシーンを探し、何度も何度も再生した。この曲も大好きだし、このミュージカル映像もまた大好き。‥‥音楽をきっかけにして消えていた記憶が呼び戻される思いがして、なんだかうれしくなってしまった。

 そのあとモンティ・パイソン関係の映像とかをいろいろチェックしてみたのだけれども、調べていて「死んだオウム」なども思い出すことが出来た。それで今回のこの「復活ライブ!」、過去の作品の再演が基本になっているみたいだ。しかし、このライヴへのアレンジは半端ではない。堪能した。来週は後編が放映される。楽しみである。

 水曜日(あさって)は出かけるのだけれども、天気予報は(曇り/雨)ということ。雨は降ってほしくない。


 

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■ 2014-08-24(Sun)

 日曜日。きょうは、渋谷で夕方から一回だけ上映の「シュトルム・ウント・ドランクッ」を観に行く。昼すぎに家を出て、またターミナル駅で下車してじかんをつぶすのだけれども、きょうは駅のそばのビルの安売り店で、欲しいタイプの財布を安く買うことが出来た。前に買った財布が中国製ですぐにボロボロになってしまい、今はガムテープで貼ってごまかして使っている。やはり安物はダメだなあと、きのうはAmazon なんかで検索してみたりしていたのだけれども、そこでもやはり安いものはダメとレビューに出ていた。ある程度の出費は仕方がないかと思っていたのだけれども、あまりかさばらないタイプで、イタリアのメーカー名の入ったものをみつけたわけだ。材料は中国と書いてあるけれども、いちおうメイド・イン・チャイナという表記はない。価格も「激安」といっていい。この値段なら失敗だったとしても忘れることが出来るだろう。

 財布をバッグに入れ、気を良くして渋谷へ向かう。そう、きょうは先日つくったメガネをかかて外出してみたのだ。モノがみんなクリアに見えるので、まるで映画のスクリーンを見ているような気分になる。

 きょうは映画館をさがして迷うこともなく、まっすぐに映画館へ到着。ホッとした。

 

[]「シュトルム・ウント・ドランクッ」山田勇男:監督 「シュトルム・ウント・ドランクッ」山田勇男:監督を含むブックマーク

 空振りばかりの大正アナキスト群像の青春。このあたりのアナキストたちの伝説はむかし本で読んだものだったけれども、もちろん今ではすっかり記憶から飛んでしまっている。ただ、村木源次郎や古田大次郎、和田久太郎などの名まえなど、どことなく記憶には残っていた。

 ‥‥はたしてこれは、「映画的演劇」じゃない、「演劇的映画」にしたかったのか。もっと凝った映像をみせてもらえるのかと思っていたけれども、凝っているのは「効果音」だった。お元気な黒田オサムさんのお姿を拝見出来たけど、このシーンは効果音抜きで観たかったな。わたしは少年王者舘の山本亜手子さんがよかったのと、「ジンタらムータ」のライヴと。

 その少年王者舘と、この映画にも主演されている寺十吾さんの「tsumazuki no ishi」との合同公演、水曜日に観に行きます。


 

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■ 2014-08-23(Sat)

 前に書いたように、Amazon で米を買ったのだけれども、これがどうもイマイチおいしくはない。食べた感じはどうしても「標準米」だろうというところ。Amazon のカスタマーレビューではおおむね好評で、「とってもおいしい」なんて書いてる人が多いから「コレにしようか」と決めてしまったのだけれども、カスタマーレビューなんてほんとうにアテにならない。というか、この米をほんとうに「おいしい」と思って食べている人がいるわけだ。ある意味ではうらやましい。とにかくは10キロ買ったので、あと二ヶ月はこの米を食べて行かなくってはならない。がっくり。

 ニェネントはあきらかに、以前よりもずっと、わたしと遊びたがっている。こうやってパソコンに向かっていても、ふっと横を向くとわたしのすぐそばでニェネントが丸くなっているし、リヴィングでテレビを見ていると、とつぜんに横からわたしの腕をなめて来たりする。「ああ、遊んでほしいんだな」と、手をニェネントの顔の近くに持って行くと、前足でわたしの指にタッチして来て、わたしの指の爪に自分の爪をひっかけて来たりもする。それで、わたしの指に甘噛みして来たり。‥‥とにかくはかわいくって、わたしも出来るだけニェネントをかまってあげたいと思うわけである。

 カフカ全集の第二巻を読了し、図書館へ行って第三巻を借りて来た。本の汚れ具合やページの間の「しおり」の位置などからして、これまでまだ誰も読んでいない本なのだろうと思う。

 

[]「決定版 カフカ全集 2」前田敬作:訳 「決定版 カフカ全集 2」前田敬作:訳を含むブックマーク

 「あなたには存在理由がない」と告発、宣告された人物が、反論とかいうのではなく、繰り言を述べる。いや、「反論」のつもりなのかも知れないが、それはいつの間にか「繰り言」になってしまう。カフカには、そんなところがある。

ある戦いの記録
シナの長城
却下
掟の問題
市の紋章
寓意について
ポセイドーン
猟師グラフス
中庭の門をたたく
雑種

はげたか
出発
あきらめなさい!

舵手
こま
小さな寓話
バケツ騎手
夫婦
隣人
試験
弁護人
帰郷
仲間どうし
ブルームフェルト、ある中年の独身者
穴巣
大もぐら
ある犬の研究
<彼>
墓守り

《付録》
『学会の報告』の断片
『シナの長城』の断片
徴兵
『猟師グラフス』の断片
補遺


 

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■ 2014-08-22(Fri)

 ターミナル駅のシネコンへ行き、1953年の映画「ひろしま」を観た。広島ではまた災害が起きているけれども、そのことも思いながら、観ていて涙した。やはり無理してでも観に来てよかったし、もういちど観に来てもいいと思うぐらいだった。

 もう夏もそろそろ終わりなのだろうけれども、きょうも暑い。映画を観たあとは新宿に移動して、メガネをつくることにしている。新宿に着き、まずはタバコ屋に寄って「キャメル」を買ったのだけれども、タバコ屋を出たところでアンケートに呼び止められ、「何のタバコを買ったのか?」みたいな質問をされた。買ったばかりのタバコを見せると、「これをどうぞ」と、国産のタバコを一箱いただいた。「くれるんですか?」と、二回ぐらい聞いてしまった。あんなかんたんな回答の謝礼としてはずいぶんと豪華である。そういうアンケートなら、いくらでも答えてあげるよ。

 メガネ店へ移動し、ベーシックな黒枠のフレームを選ぶ。これで消費税を抜けば5900円。安い。検眼をして、メガネが仕上がるまで二時間かからない。もともとメガネがなくってもふだんは不自由するわけでもないのだから、この価格なら多少の不具合があったってかまわない。ほんとうは映画や舞台を観るときにだけ使おうと思っていたのだけれども、何となくかけてみて気に入ってしまったので、普段でもかけていようかと思うようになった。

 

[]「ひろしま」(1953) 伊福部昭:音楽 関川秀雄:監督 「ひろしま」(1953)  伊福部昭:音楽 関川秀雄:監督を含むブックマーク

 撮影時には当時の広島市民九万人が撮影に協力し、エキストラ出演もされている。被災当時の惨状を体験されている方々が、「当時はこんなだったのだ」と訴えようとされる気持ちに圧倒されるし、そうやって再現された地獄絵図の描写にはことばを失い、スクリーンを見つめながら涙があふれて来た。時を置いて被災者を抜きに撮られた記録映像からはぜったいに伝わらないことがら。あらためて、「映画」という表現の力を感じさせられたし、そんなことよりも、あのときの広島がどんなだったのか、そしてそのあとになっても人々がどんなに苦しんだのか、ひしひしと伝わって来た思いがする。

 わたしは「原爆の子」は観ていないけれども、「原爆の子」に比べてのこの作品の知名度の低さは「残念」なことだと思う。自主上映会でもなければ上映される機会はないのだろうけれども、ぜひ、多くの方々に観てもらいたい作品、だと思った。


 

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■ 2014-08-21(Thu)

 きょうは内科へ通院。やはり、あっという間に診察は終わってしまう。二週間分の薬を処方してもらい、帰宅する。きょうも暑い。

 やはりメガネをつくりたくなり、せんじつ池袋でみたよりももっと安く売っている店もあるはずと、ネットで検索してみる。‥‥いくらでもあるではないか。ネットショッピングなら、コンタクトレンズの度数を知らせるだけで三千円以下でつくれるメガネもある。驚異である。店舗に出向いて検眼してつくってもらえるところでも、四千円とか六千円ぐらいで出来るところがある。「この店がいいや」と店舗を調べると、新宿に店を出しているのがわかった。あしたはターミナル駅まで出て映画「ひろしま」を観る予定なので、そのあとに新宿に出てつくってしまおうかと計画する。

 

[]「モナリザ」(1986) ニール・ジョーダン:脚本・監督 「モナリザ」(1986)  ニール・ジョーダン:脚本・監督を含むブックマーク

 好きだったはずの映画。例によってその大半は記憶から消えてしまっている。‥‥たしか、高級娼婦の運転手をやる男が、その高級娼婦に惚れてしまうというストーリーだったのでは?という記憶は残っている。これだけでも記憶に残っている映画は少ない。

 ニール・ジョーダンは、好きな監督。この作品でも、その運転手(ボブ・ホスキンス)のウブさ、朴訥さにシンパシーを持ってしまう。そういう演出である。ラストに何となくホッとしてしまう、そういう映画だった。

 主役を演じたボブ・ホスキンス、今はどうしてるんだろうと調べたら、今年の四月末に亡くなられていた。ご冥福をお祈りする。


 

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■ 2014-08-20(Wed)

 市民病院での検診。きょうも二時間近く待たされ、検診は五分ぐらいで終了。ただ、待ち時間に読書がはかどるという利点はあるので、そういうものだと割り切ることは出来る。きょうも、カフカ全集をずいぶんと読み進めることが出来た。あともう少し。

 きょうは南のドラッグストアへ行き、また「吉乃川」を買って来て、冷蔵庫で冷やして飲んだ。やっぱりおいしい。上野御徒町の居酒屋に、吉乃川を升酒で飲ませてくれる店があった。肴もおいしい店だった。また行ってみたい。

 

[]「アウトレイジ ビヨンド」(2012) 北野武:脚本・監督・編集 「アウトレイジ ビヨンド」(2012)  北野武:脚本・監督・編集を含むブックマーク

 前作「アウトレイジ」よりも、どことなくユーモアを感じさせられるところがあって、わたしは好き。しかし、前作とこの作品とに出ている俳優さんたち、若い俳優さんでも、今ではすっかりお目にかからなくなった方々が多い気がする(そういうことは何となく記憶にあるものである)。たんじゅんにわたしが邦画を観ていないというだけのことかも知れないが。


 

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■ 2014-08-19(Tue)

 生き方を変えたいと、思う。前にも書いた十年ごとの変化、そのことをもっと積極的に考えてこれからは生きて行きたいと思う。おそらくはわたしはこの十年間はどこか消極的に生きて来たんじゃないのだろうか。それが先月久しぶりに「作品」を創るチャンスを与えられたことも「変化」への第一歩と捉えるべきだろうし、多くの記憶を失ってしまったということもやはり、「過去をリセットして生きなおせ」という指令なのであろう。その指令はきっと、わたしが無意識に発令したものなのだろう。「ものごとがどう見えるかを決定する、自分のすべての経験」を、まさに今から得て行こうとしているわけでもある。そのことがわたしの「リアリティ」なのだと、先週学んだわけである。忘れてはいけない。決して。

 ニェネントも、なんだか「変化」して来たような気配がある。このごろは前よりもずっと、わたしになついて来る印象がある。うれしいことである。

 午後からスーパーに買い物に行き、かつおのたたきの小さなパックを売っていたので、ニェネントといっしょに食べようと買って帰った。おそらくはひとり用の小さなパックなんだけれども、きっとご飯の方を食べすぎてしまったんだろう、かつおのたたきはあまり食べないでけっこうおなかいっぱいになってしまい、ニェネントにはけっこうな分量をあげてしまうことになった。‥‥しかし、かつおのたたきだと、ニェネントの食べるスピードがすごい。あっという間にあげた分をぜんぶ食べてしまう。こんどはニェネントのネコごはんもかつお味にしてみようか知らん。

 きょうは、たけしの「アウトレイジ」を観た。

 

 

[]「アウトレイジ」(2010) 北野武:脚本・監督・編集 「アウトレイジ」(2010)  北野武:脚本・監督・編集を含むブックマーク

 どことなく「ゴッドファーザー」を思わせるところがあるな、などと思っていたら、まさに「ゴッドファーザー」からのパクリ(というしかないだろう)のシーンがあったりする。

 東京の街の、住宅地の中のせまい道路を走る車とか、なぜか印象に残る。そして、ワンショットの中での俳優たちの表情の変化。

 先日観た「渇き。」よりは、ぜったいにいい。


 

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■ 2014-08-18(Mon)

 わたしはスーパーへ買い物に行くにも袋は持参するので、基本はレジ袋は部屋にたまらない。それがきのうは久々にレジ袋をもらってしまい、それをそのままキッチンのあたりに放置してしまっていた。ニェネントが、その袋の中に入ったりしていた。ネコはああいうのが好きだなあと思って、じゃあそのままにしておこうかと放置しておいた。それがけさになってわたしが目覚めると、まだニェネントがレジ袋に入ったままでいた。「飽きないんだなあ」と思ってニェネントをみると、どうやらレジ袋の持ち手の部分がちょうど胴にはまってしまって、取れなくなってしまったらしい。「なんだ、取ってあげるよ」とニェネントに手をさしのべると、ニェネントは「ふぎゃっ」と啼き声をあげ、四本の足をそろえたままで50センチぐらい飛び上がった。どうやら、どうやっても取れないもので、パニックにおちいっているみたいだ。「ほら、おいでよ」ともういちどニェネントの体にさわると、こんどはそのわたしの手にかみついて来た。甘噛みではなく、本気である。痛い。ニェネントはわたしのところから走って逃げようとして、そのおかげでとちゅうでレジ袋がはずれてしまった。ようやく落ち着いたニェネントは、ベッドの下に逃げ込んでしまった。‥‥あんなパニック状態になったニェネント、実に久しぶりにみたような気がする。

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 きょうはしごとは非番で休みなのだけれども、勤め先ではきょうから三日間、社員を対象にした健康診断をやる。勤め先なんてわたしの家から眼と鼻の先だから、きょうのうちに健康診断も終わらせておくことにした。体重から胴囲、血圧から視力聴力、心電図に血液検査、胸部のX線検査などひととおり。体重はきょねんの測定より4キロほど減り、身長とのベストのバランスになった。この日わかる範囲では、異常はどこにもなかったようである。

 ターミナル駅で「ひろしま」の映画を観て、そのあとに東京に出てメガネをあつらえようかと計画しているのだけれども、きょうは無理だし、あしたも市民病院へ行かなければならないのでダメ。あさってもむずかしいところがあるので、金曜日にしようかと思っている。そうすると土曜か日曜にまた渋谷に映画に行きたいわけだし、水曜日には下北沢で観劇の予定。けっこうハードスケジュールになりそう。

 きょうは午後から、「ゴッドファーザー PART II」を観た。

 

 

[]「ゴッドファーザー PART II」(1974) フランシス・フォード・コッポラ:監督 「ゴッドファーザー PART II」(1974)  フランシス・フォード・コッポラ:監督を含むブックマーク

 第一部で家族よりファミリーを優先させ、それでもかろうじてひとつの「ウソ」で家族をも守ろうとしたマイケルだけれども、もうそういう「隠し立て」も出来なくなってしまう。ファミリーの結束を守るために、実の兄をも殺害しなければならなくなったマイケル、彼がその人生で失ったものは何なんだろう。

 一方で父のヴィトー・コルネオーネの若き日が描かれ、第一部で描かれた世界がより幅を持たされ、豊かに補完されて行く。

 第一作につづいて撮影はゴードン・ウィリスで、入国管理局でのシーン、そしてヴィトーのアパートの上のシーンなどでの、長い長い横移動撮影が記憶に残る。


 

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■ 2014-08-17(Sun)

 一日経った今、きのうの舞台体験がよけいに強烈によみがえって来る思いがする。舞台そのものがそれだけ良かったということよりも、体験として「舞台を観た」ということの印象が強い。

 思ったのだけれども、今のわたしの脳内はからっぽで、そのからっぽさが眼に見えるような思いがする。それは単に空白なのではなく、いちどはあれこれとゴチャゴチャに描かれたカンバスに、上から白く地塗りをして塗りつぶしたような感じなのである。そこに、何か新しい体験があれば描き込まれたりするわけだけれども、モノによってはそのカンバス地に爪でひっかくように傷をつけ、そこからいちどは塗りつぶされた下に描かれた過去の絵がのぞいて来るような感覚がある。きのうのダンス公演がまさにそういう感覚で、たんじゅんに白地に何かがあたらしい記憶として描かれるのとはちがい、消えてしまったと思っていた過去の記憶が、ちらりちらりと見えて来るような感覚ではある。それが、何というのか、とっても刺激的ではあり、また、歓びでもある。

 おととい、ホドロフスキーの「リアリティのダンス」を観て、ここに書いたように「リアリティ」の意味を学び直したのだけれども、まさにそういうところでの「自分にとって物事がどう見えるかを決定する自分のすべての経験」というものを、今からやり直しているような感覚はある。そのような表現をより深く理解出来るようになったというわけではないけれども、より深くこころに残るようになった、とはいえると思う。

 こういう体験はやはりただの「娯楽」からは得られにくいわけで、そこで「爪でひっかくような傷」を与えてくれる契機になるような表現が欲しい。つまり、そのような表現を「アート」とか呼んだりもするわけだろう。やはりわたしには「アート」がひつようだ。

 きょうは、文庫本を一冊読んだ。


 

[]「ことばの食卓」武田百合子:著 「ことばの食卓」武田百合子:著を含むブックマーク

 武田百合子さんが、「食」にまつわる思い出をテーマに書かれたエッセイ集。幼い頃の戦前の思い出から、現在形での旅行やお花見での思い出が並ぶ。やはり幼い頃の思い出が興味深くも面白いのだけれども(ひとさらいだった牛乳配達の青年とか!)、わたしは著者が仕出し屋/料理屋でアルバイトをされた体験を書かれたエッセイがいちばん好き。とにかく、武田さんは味わい深い文章をあやつれる方なのだ。

 友だちとオムレツ屋でオムレツを食べる話があるけれども、わたしは読んでいて「そんな店、いかにもまずそうだな!」と思っていたのだけれども、武田さんは友だちに「こういう店はおいしそうだ」とかしゃべっていらっしゃる。しかし、そのオムレツが出て来ると、これがやっぱりまずいのである。「ほら、やっぱりね!」とか思いながら読ませるあたり、武田さんの術中にはまってしまっているんだろうか。


 

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■ 2014-08-16(Sat)

 ものすごく長いこと、ダンスの公演をちゃんと観ていない。同時に、そういう過去にダンス公演を観た記憶も、ほぼすべて消えてしまった。ではもうこれからはダンスは観ないということにはならないだろう。いつかはまたダンスの公演を観たい、観ることになるだろうとは思っていた。

 現在、池袋の芸術劇場で、勅使河原三郎の公演が行われていることは知っていたし、「観に行ってみようか」という気もちもあった。しかし、いきなり立派な劇場で勅使河原三郎のような大御所を観るのではなく、もっとこう、マイナーなといってはアレだけれども、小規模でも身近に感じられる公演を選んだ方がいいような気もしていた。自分の性格からしても「有名どころ」には余計に反発して「なんだ、つまらない」とかの感想を持ちそうだし、そうするとダンスという表現自体にも失望してしまうような気もしてしまう。うん、チケット代がちょっと高いというのもネックだ。

 ‥‥それでもやっぱりきょう、意を決してその勅使河原三郎の公演を観に行くことにした。きのう映画を観たばかりだし、先週も「GODZILLA」観てるし、ちょっと活発すぎるんじゃないだろうか。
 また電車に乗って、きょうは池袋で下車。池袋に来るのなんてずいぶんと久しぶりのことで、何年かぶりのことではないのかと思い、このブログで検索してみると、なんだ、去年の暮れにチェルフィッチュの公演を観に来ているわけだった。例によって、まったく記憶に残っていない。

 池袋の芸術劇場はJRの駅のすぐそばにあり、これでは迷いようもない。まだチケットを買っていないので、まずは当日券を入手する。S席ではなくて二階のA席にした。まだ開場〜開演まで時間があるので、ちょっと外を歩いてみる。そう、近々メガネを買おうかという計画もあるので、すぐそばにあったメガネ店をのぞいてみた。そして、メガネというものが思っていたよりもずっと高いことがわかった。わたしはてっきり、高くても一万円ちょっと出せば適当なものは買えるのだと思っていたのだけれども、その倍額必要ではないか。予定が狂ってしまう。

 開場時間になったので劇場へ行き、入場してみると、受付のすぐそばにDさんがいらっしゃった。そう、Dさんはこの東京芸術劇場のスタッフをされているのだった。ちょっとだけ立ち話をして、わたしは自分の席に向かった。開演。

 先に書いておけば、楽しい舞台だった。いろいろと心配したことはみな杞憂だったわけだし、これからもっともっと舞台を観るようにしたいと思った。それで、きょうはまだ時間も早いことだし、下北沢まで移動して「G」に行ってみた。あれこれとスタッフの方々と話をするけれど、「G」のスタッフの方々も、夏休みのあいだに新宿で「GODZILLA」を観たんだそうな。しかも、やはりわたしと同じく3Dで。

 あしたはしごともあるので、あんまり遅くならないうちに帰路についたけれども、きょうは何とはなしに充実した日になったと思う。思い切って出て来てよかった。


 

[]「睡眠 -Sleep-」勅使河原三郎:構成・振付・美術・照明 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウス 「睡眠 -Sleep-」勅使河原三郎:構成・振付・美術・照明 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウスを含むブックマーク

  観た結果からいうと、とても楽しめた舞台だったし、わたしは佐東利穂子さんのダンスの大ファンになった。

 勅使河原さんの舞台はむかし、一度は観ていると思う。観ていて、うすぼんやりとながら思い出すようなところもあった。今回はオーレリー・デュポンというダンサーとの共演、コラボだったわけだけれども、正直に書くと、この共演は大成功、というわけでもないようには思ったのはたしか。観ていて、オーレリー・デュポンという人は「背骨のダンス」という印象があり、じゃあ勅使河原三郎は何のダンスだろうと思って観ていたんだけれども、「腰のダンス」、なのかなあ。このあたり、勅使河原氏がオーレリー・デュポンに振り付けていっしょに踊る場面ではやはりオーレリー・デュポンのダンスが「ちがう」ように見えたし、逆におそらくはオーレリー・デュポンが勅使河原氏らに振り付けられたように見えるシーンがあり、そこでは勅使河原氏のダンスが「ちがう」ように見えてしまった。それでも、硬質で高さのある舞台美術、照明にからむダンスには眼を奪われたし(わたしはちょっと、ブラザーズ・クエイの「ストリート・オブ・クロコダイル」なんかを思い出してしまった)、やはり佐東さんのダンス。

 今のわたしの脳内はスッカスカなわけだけれども、こうやって舞台など体験すれば、それだけ中身が増える(充実する)ことが実感出来る。これからは経済状態が許す限り、出来るだけ舞台体験を増やして行きたいと思うことになった。


 

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■ 2014-08-15(Fri)

 急遽きょう、ホドロフスキーの「リアリティのダンス」を観に行くことにした。最初は新宿の映画館にしようと思っていたのだけれども、渋谷のアップリンクの方がいちにちの上映回数が多いようなので、時間の都合がつけやすいこともあって、渋谷に行くことに決めた。

 電車の都合での渋谷到着時間と上映開始時間には三十分ぐらいの余裕があり、まあちょうどいいといえばちょうどいいのだけれども、先日、シアターイメージフォーラムへワン・ビン監督の「収容病棟」を観に行ったときのようなこともある。アップリンクという劇場もむかしはよく行ったものだったけれども、やはり今ではどんなイメージもわかない。地図で調べ、住所を控えておいてから出発する。

 渋谷駅到着。きょうは暑い。ちょっと厚着をしすぎていて、汗まみれになってしまう。調べていた道筋で歩いて行くのだけれども、だんだんに「こんなところじゃなかったはず」と不安になり、道筋を変更してしまう。‥‥変更してはいけなかったのだ。あと十メートルも歩けばアップリンクに到着していたのに。

 「こっちにちがいない」と思ってしまった方向に進むけれども、いっこうに映画館の姿は見えて来ない。ちょうど交番があったので飛び込んで道を聞く。やはり、さっきの道でよかったのだ。もう時間は上映開始十分前。おまわりさんは「十分ぐらいですね」という。また、シアターイメージフォーラムのときとおんなじ悪夢が再現される。来た道を引き返し、ほとんどギリギリの時間で到着。まさに予告が始まろうとする時間だった。席はもう満席で、いちばんうしろに予備席をつくってもらったけれど、これがかえって快適に観ることが出来たわけだから、そういうことでは「善し」としよう。


 

[]「リアリティのダンス」アレハンドロ・ホドロフスキー:監督 「リアリティのダンス」アレハンドロ・ホドロフスキー:監督を含むブックマーク

 ホドロフスキー監督の少年時代を描いているのだけれども、映画の主人公はホドロフスキーの父親へとどんどんシフトして行く。息子には「強くあれ」と迫り、障害者には冷酷でありながらも疫病の流行時には患者のためにつくす。コミュニストとして政権に叛旗をかかげながらも、実は指導者への尊敬の念を捨て切れない。そんな矛盾した存在の描く精神の彷徨を、ホドロフスキーが描く。

 わたしはパンフレットを買わないので、この作品についてホドロフスキーがどのように語っているのかよくは知らないのだけれども、映画の公式サイトで監督は「これは人々の魂を癒す映画であり、映画の中で家族を再生することで、私の魂を癒す映画でもあった」と語っている。この「再生」とは、おそらくは彼の記憶にある「過去」をそのまま再生したものではなく、あれこれのアレンジをほどこしたものなのだろう。Facebook 上で知人が書いていたところでは、ホドロフスキーは「過去は変えられる」といい、過去の事実は変わらなくとも、過去に対する認識は変えることがことが出来るということらしい。それは、知人のことばによれば、「自分の父と父の人生を赦す」ということだと。

 映画を観終わって、そのようなことでちょっとした感銘も受けていたのだけれども、そこでこの作品のタイトルの「リアリティ」ということが、ちょっと気になってしまった。「リアリティ」という単語にはわたしなどの知らないような意味合いも含まれているのではないのかと思い、ネットで調べてみた。「WEBSARU Dictionary」というところで、興味深い記述を見つけた。

reality(名詞)

<1>本物である何かにより保有された品質(the quality possessed by something that is real)

<2>自分にとって物事がどう見えるかを決定する自分のすべての経験(all of your experiences that determine how things appear to you)

<3>現実的またはリアルである状態(the state of being actual or real)

<4>望むような世界ではなく、本当の世界の状態(the state of the world as it really is rather than as you might want it to be)

 「あ、コレだ!」と思った。わたしなどは<3>ぐらいの意味でしか「リアリティ」のことは捉えていないんだけれども、それだけではないんだ。特に<2>。ホドロフスキーは、この意味での「リアリティ」の操作をやっているんだと。それが、彼に言わせれば「リアリティのダンス」ということになるのだろうか。そしてしかも、<4>とも抵触しないような方法論でやっているわけだろう。単に「望まれた世界」ではない、ということ。めっちゃ興味深い。‥‥わたしも試みられるだろうか。

 「リアリティ」ということばが、ひとつには「自分にとって物事がどう見えるかを決定する自分のすべての経験」を意味するのだということは、しっかりと記憶しておきたいと思った。


 

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■ 2014-08-14(Thu)

 このところ、ニェネントがとてもかわいい。また少し子猫時代の容貌に戻ったようなところもあるし、わたしがかまうとうるさがらずに答えてくれる。わたしの手を甘噛みしてくれたり、ペロペロと舐めてくれたりする。愛おしくなる。

      f:id:crosstalk:20140813185614j:image:w280


 Facebook 上で知人がホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」について書いていたのだけれども、それを読むとわたしもどうしてもその作品を観なくてはならない気もちになり、スケジュールを考えている。ターミナル駅のシネコンでの「ひろしま」も観ておきたいし、再来週になれば山田勇男監督の新作もあるし、少年王者舘の舞台も控えている。けっこういそがしいではないか。来週の前半にでも行こうかと考えていたのだけれども、その来週の前半には勤務先で健康診断が行なわれることがわかった。「リアリティのダンス」を観るならば今週中にしておいた方が良さそうだ。

 きょうは、イギリスのハマープロの怪奇映画を観た。


 

[]「妖女ゴーゴン」(1964) テレンス・フィッシャー:監督 「妖女ゴーゴン」(1964)  テレンス・フィッシャー:監督を含むブックマーク

 ギリシア神話に登場するメデューサは有名だけれども、本当はメデューサは三姉妹の三女で、同じような妖怪がまだふたり存在する。そのうちの長女のゴルゴン(ゴーゴン)というのが、何千、何百年という時代を生き延び、イギリスの片田舎の古城に出現しつづけているというお話。

 どうもこのゴーゴン、ふだんは普通の女性として身を隠しているらしいわけで、はたしてゴーゴンは誰?という興味もあるのだけれども、このあたりの「謎」はちょっと軽すぎるというか、だいたい誰がみても「彼女がゴーゴンだ!」って、かんたんにわかってしまうだろう。

 ハマープロの二大スター、クリストファー・リーとピーター・カッシングが共演しているのだけれども、さすがに二人ともいい味を出していると思う。しっかし、これもハマープロ作品の伝統なのか、チープな画面づくりを情けなく感じてしまうのもたしか。少なくともこの照明とか、何とかならなかったんだろうか。


 

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■ 2014-08-13(Wed)

 ふとネットで検索していて、わたしがむかし書いていてそのまま放置し、アクセスもしていなかったブログが、まだ消滅せずに残っているのをみつけた。みつけた、というか、忘れていただけのことだけれども、もうとっくに消えてしまっているものと思っていた。じっさい、東京に居た頃に書いていたまた別のブログは、もう姿を消してしまっている。

 その放置してあったブログはこのブログと並行して書いていたブログなのだけれども、どうも読んでみるとこちらではない方、きょう見つけた方が精密な記述をしているような感じを受けた。ちょっとだけ読んでみたのだけれども、それは今のわたしには書けないような文章だった。映画を観ての感想も、本を読んでの感想も、すべてレベルが違う気がする。やっぱりわたしは「退化」しているのだろう。‥‥ではいったい、そのような現在の自分をどう処置するのか。考えるべきことがら、ではないだろうか。

 きのう新宿へ出たとき、うちのそばのターミナル駅の映画館で「ひろしま」という映画が上映されているのを知った。調べてみると1953年に日教組によって製作された作品で、実は新藤兼人監督の「原爆の子」と同じ原作らしい。こちらの監督は関川秀雄という人で、1955年にベルリン映画祭で長編映画賞を受賞している。ソフト化されてもいず、上映されるのも稀な作品らしい。ほぼ今月いっぱい上映されているようなので、観に行きたいと思う。むかしからこの映画館(シネコン)は気骨のある映画館だと思っていたけれども、やっぱり立派な映画館なわけだった、と思う。

 きょうは家で映画「ゴッドファーザー」を観た。


 

[]「ゴッドファーザー」(1972) フランシス・フォード・コッポラ:監督 「ゴッドファーザー」(1972)  フランシス・フォード・コッポラ:監督を含むブックマーク

 もちろん過去に観ている作品のはずだけれども、まったく記憶には残っていない。そういう、記憶にこそ残っていないわけだけれども、こういう重厚な作品をまた初めて観るように鑑賞出来るというのは、なんとなく理由もなく、得をしたような気もちにはなってしまう。

 とにかくはこの緊張感のリズム、とでもいったものが心地良いというのか、「来るぞ来るぞ」と予感させてからの爆発、そして不意打ちのような爆発とが、観ているわたしをノックアウトする。ラストに、あまりに非情な跡継ぎとして成長した姿をみせるアル・パチーノが、実は親族・家族よりも組織としてのファミリーを優先させながら、それでも家族をも守ることになる「一度だけのウソ」にはしびれてしまう。この脚本はコッポラと原作者のマリオ・ブーゾとの共同執筆。渋いカメラ担当はゴードン・ウィリス。「傑作」と呼ばれるのも当然だろう。


 

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■ 2014-08-12(Tue)

 きょうは新宿へ、ハリウッド版の「GODZILLA」を観に行く。日本版第一作の「ゴジラ」のことはそれなりに記憶に残っているし、モンスターものは好きなジャンルでもあるから、楽しみにしていた。

 十一時の電車で出発して乗り換え駅でいちど外に出て、おにぎりなどを買って昼食にする。節約、節約というわけだ。新宿には一時ちょっと過ぎに到着し、まずは映画のチケットの予約をしておく。わたしの調べたところでは「GODZILLA」の上映は二時四十分からのはずだから、まだ一時間以上、たっぷりの余裕がある。ところが、その回の座席はもうほとんど満席で、わずかに最前列にいくつか空きが残っているだけ。「まさか」という思いだったが、それだけヒットがつづいているのだろう。受付の人はその十五分後に3Dでの上映があるから、そちらにすればどうかと薦めてくる。これはおそらくは映画館の陰謀で、いまだにイマイチ入りの悪い3D上映になんとか客を呼び込もうとの、苦肉の策なんだろう。じっさい、わずか十五分あとの上映のその回、まだまだ空席だらけなのである。ここは映画館の策にはめられたところで、けっきょくはその3Dで鑑賞することにした。

 上映開始までの時間はすぐそばの大型書店でかんたんにつぶすことができた。映画館に戻って3Dメガネを受け取り、上映を楽しむ。おそらくわたしには3Dは二度目の体験。さいしょはティム・バートンの「アリス」だったと思う。‥‥まあ、たしかに3Dの画面は迫力もあるわけで、それはそれで楽しんでしまった。感想は下に。

 映画に満足してしまったので、このまま帰るのではなくてちょっと飲んで行こうなどと思い、下北沢に出て「G」に行くことにする。ところがその「G」の前に着いてみるとシャッターが下がっていて、つまりは「夏休み」で休業しているのだった。

 「もう帰ろうか」とも思ったのだけれども、やっぱり何となくアルコールが欲しい雰囲気で、駅へと向かう道のとちゅうの、入ったこともない居酒屋に飛び込んでしまった。知らない店でひとりで飲むなんて、ずいぶんと絶えてなかったことのように思う。まだ時間は五時半をまわったばかりで客はわたしひとり。カウンター席に座ってホッピーの黒を頼み、あとは「かつおのたたき」を注文する。かつおのたたき、好きだねえ。

 しばらくして男女二人連れの客が来てわたしの並びにすわられて、彼らがまた黒ホッピーとかつおのたたきを注文されたものだから、わたしは心の中で笑ってしまった。店員らもおかしかったんじゃないだろうか。Cさんにメールを打ったりしながら飲み、ホッピーの中身を二杯おかわりしておしまい。帰路についた。ひとりなら、このくらいの飲み方がちょうどいい。まあまあの店だったけれども、人と行くにはちょっと狭苦しいし、BGMが良くなかった。もう行かないだろうな。


 

[]「GODZILLA ゴジラ」(2014) ギャレス・エドワーズ:監督 「GODZILLA ゴジラ」(2014)  ギャレス・エドワーズ:監督を含むブックマーク

 おそらくこのハリウッド版の製作陣、日本版の第一作だけでなく、それ以降にシリーズ化されたところのゴジラ映画、つまり対怪獣戦で相手を打ち負かす、スーパー・ヒーローとしてのゴジラ像もまた、この作品の中に盛り込んでいるわけだろう。「第一作と違う!」なんて、とやかく言いなさんな。

 それでもその第一作の「災厄」としての怪獣というスタンスは、その前半ではゴジラとMUTOが分け持っているわけで、それがMUTOこそが「災厄」という描き方に移動して行く。そして渡辺謙が考えるように、ゴジラがMUTOと闘うことになる。このゴジラとMUTOとの闘いはわたしには迫力満点で、まさに堪能した。まさかこの作品でもゴジラが口からの白色光線(放射能?)を武器にしているとは知らなかったので「おおお!」って驚いたし、MUTOの一匹の倒し方なんか、「フフ、日本のお子様向けのシリーズではこんな描写は出来なかったでしょ?」みたいな凄みがあり、わたしも「うっへぇ〜!」って感覚。それで「救世主ゴジラ」になっちゃうのね(ここはわたしも笑ってしまった)。

 アメリカ人の「核」に対する認識ってこんな程度のものなのかという「あきれ」は感じたし、背後の「人間ドラマ」も、どうっていうものではない。しかし、ラストで「オレも疲れたよ」とへばっていたゴジラがふたたび起き上がり、咆哮をきかせてくれるシーンでは、観ている方もゴジラから「元気」をもらっちゃう感じだった。いいですね! そう、ラストクレジットで流れる音楽、明らかに変拍子から始まり、伊福部昭氏へのオマージュかな?などと思ってしまった。


 

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■ 2014-08-11(Mon)

 ニェネントと暮らすようになって、部屋の中はひどいありさまになっている。ふすまはニェネントにボロボロに破かれたままだし、壁紙もニェネントが爪をたててはがされてしまっているところがある。それにくわえて、この春にわたしが「うつ」っぽくなってからは掃除もしなくなっていて、もうゴミ屋敷の一歩手前という惨状になっている。いったいどこから手をつけてかたづけはじめればいいものか、「どうしようもない」と思うと、けっきょくはそのまま放置してしまうことになる。

 今は精神も落ちついて、「いつまでもこのままではいけない」とは思うようになっているのだけれども、やはりどこから手をつければいいのか。春のあいだにリヴィングのフローリングのワックスもはがれ、修復も困難になっている。

 まずはもう読まなくなった本、これから読むこともないだろう本を、ゴミの日ごとにどんどん捨てている。衣服なども着ないものは捨てるようにしている。本はいまの半分以下に減らしたいし、CDなんかもちゃんとチェックすればずいぶんといらないものが出て来るだろう。とにかくは部屋の中のいらないものをなくすこと、ここからはじめて行こうと思っている。

 ニェネントは元気で、わたしが和室でパソコンに向かっているときには、わたしのとなりに置いてある段ボール箱の中で丸くなっていることが多い。わたしがリヴィングに移動してテレビをみたりしていると、ニェネントもリヴィングにやって来て、わたしのけっこう近くでじっと横になっている。わたしのそばにいたいという意思表示なんだろうと思うけれども、ある程度の距離はいつも保っている。時にはわたしが近よると逃げ回ったりもする。

 きょうもカフカを読み継いだけれども、あんまり読み進められなかった。あしたは新宿へ「GODZILLA」を観に行くつもりなので、予習というわけでもないけれども、レイ・ハリーハウゼンの関わったモンスター映画を観た。


 

[]「地球へ2千万マイル」(1957) レイ・ハリーハウゼン:特殊効果 ネイサン・ジュラン:監督 「地球へ2千万マイル」(1957)  レイ・ハリーハウゼン:特殊効果 ネイサン・ジュラン:監督を含むブックマーク

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 金星探検隊が金星の生物を捕獲して地球に帰還して来るのだけれども、ロケットに小隕石が衝突し、シシリー島付近の海に墜落する。乗組員の一人だけが漁民に救出され、金星の生物を入れたカプセルは岸辺に漂着して漁民の子供に拾われる。金星クリーチャーはさいしょはネコぐらいの大きさだけれども、地球上での代謝でどんどん大きくなって行き、ついにはローマの遺跡の中で暴れるようになるわけだ。

 脚本、特にクリーチャー暴走の背後の人間ドラマはけっこうどうでもいいものだし、出演する男優たちは魅力に乏しく、みな頭悪そうにみえる(見習い医師役の女優さんだけはいい感じ)。それでも演出はけっこうしっかりしていて、特殊撮影とのからみもいい。この作品の原案はハリーハウゼン自身らしいから、かなり映画の内容に立ち入ったアイディアを出し、映像化したのだろう。クリーチャーの造形がいいし、後半の象との闘いのシーンはすばらしい完成度だと思う。

 観ていても、金星から理不尽にさらわれて来て、地球上であれこれといじめられる(?)クリーチャーのことが「何も悪いことしてないのに」とかわいそうに思いながら観てしまうのだけれども、クリーチャーがコロセウムのいちばん高いところへ登るとき、ああ、これは「キングコング」なのだと、ようやく思い当たった。もちろんラストにクリーチャーは墜死するわけだけれども、人間に理不尽な仕打ちを受けて反抗するクリーチャーの悲劇の、その根底に「キングコング」のドラマがあるわけだ。いい作品だと思った。


 

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■ 2014-08-10(Sun)

 わたしのしごとは日曜も祝日も関係ないので、今日はしごと。職場のBさんに、きのうの花火はけっこうウチの近くで開催されたものだったことを知った。ウチの東側の川の方でやられたもので、このあたりでも見られたはずだという。ずいぶんと音が近いとは思ったのだったけれども、ちょっと外を見てみればよかったかな。

 きょうは西日本に台風が接近〜上陸していて、このあたりでも突然に雨が降って来たりはしたけれども、だいたいはすぐにやんでしまう。ちょっと買い物に出て、ウチの入り口のドアの前に大きな(巨大な)芋虫がいるのをみつけてしまった。調べたら、「セスジスズメガ」という種類の蛾の幼虫らしい。Facebook にちょっと写真を掲載したら思いがけない反響があり、夜遅くまで友だちらとコメントの応酬になってしまった。みんな「虫」は好きだなあ。

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[]「天井桟敷の人々」(1945) マルセル・カルネ:監督 「天井桟敷の人々」(1945)  マルセル・カルネ:監督を含むブックマーク

 脚本はジャック・プレヴェールで、演劇的なその脚本がマルセル・カルネの演出と合わさって、舞台的な面白さをあふれさせていると思った。主人公のバチストの中にどこか、読んでいるカフカの登場人物のような「因果」を感じさせられもする(まさに「芸人」の話ではあるし)。これはそういう意味で、単に主人公が純粋だからとかチキンだからとかいうことを越えて、「(現世で)人を愛することの不可能性」についての作品、といえなくはないのではないのか。

 この映画でヒロインを演じるアルレッティという女優、この映画撮影時ですでに四十代後半になっている。それでこのあでやかさは「おどろき」というよりほかにないが、観始めたときには「無理があるんじゃないか」と思ったのもたしかなこと。


 

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■ 2014-08-09(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 Amazon に注文してあった白米が届いた。10キロのものを注文していたのだけれども、玄関で配達の人から受け取ったとき、思っていたよりも軽い気がした。配達の人は「重いですから気をつけて」といってくれたのだけれども、ちょっと拍子抜けした。それでも、仮に自分が近所のスーパーとかで米を10キロ買ったりしていたら、近い距離とはいっても、とても自宅まで持ち帰る力はなかっただろう。スーパーよりも価格も安いし、玄関先まで持って来てくれるというのは、二重にありがたいことだと思った。あとは、「おいしいお米」であってくれればいい。

 また少し、自宅で酒を飲むようになっている。南のドラッグストアで日本酒「吉乃川」を買ってしまい、冷蔵庫で冷やして飲むと、これが格別においしかったのだ。前のようにいちどにたくさんは飲まないけれども、やはり自宅で飲む酒もいいものだと思ってしまったりする。

 夕方、日の暮れる頃から、窓の外で花火の打ち上げられる音が響いた。きっと二つ先の駅の近くでの花火大会なんだろうと思うけれども、音はずいぶんと近くで聞こえる。うちのアパートは三階建てなので、その三階まで上ると、少しぐらいは見えるんじゃないだろうか。音は八時ぐらいまで聞こえていた。

 図書館から「カフカ全集」の第二巻を借りていて、そのさいしょの「ある戦いの記録」を読みはじめているのだけれども、そのチャプター2のサブタイトルが、「生きることが不可能であることの証明」となっていた。わたしは第一巻を読み終えたとき、カフカという人は生きることの不可能性についても書いている、という印象を持っていた。作者当人がはっきりとそう書いていたわけだ。

 リヴィングに文庫本がころがっていたので、何となく読み継いでみる。つげ義春の文庫版の「つげ義春とぼく」。真ん中の「夢日記」は気もち悪くて読まなかったけれど、それ以外はぜんぶ読んでしまった。つげ義春という人もまた、カフカのように因果な人物で、そういう人の本をつづけて読んでしまうことに、わたしまでが何かの不安感に包まれてしまうような気になってしまう。思い出してみたら、記憶をなくしたわたしには当然なことなんだけれども、彼の「ねじ式」も「李さん一家」も、「紅い花」も「ゲンセンカン主人」も、その他ひっくるめてすべて、その内容は思い出せないのだった。あらためてショックだった。


 

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■ 2014-08-08(Fri)

 ニェネントは、わたしがキッチンに立つと、いつもねぐらにしているベッドの下から這い出して来て、キッチンに置いてある自分のごはんにかじりついたりする。キッチンに立ったわたしが、もしかしたら何かおいしいものを出してくれると期待しているのかも知れない。そんなニェネントに、スーパーで「かつおのたたき」を買ってあげようか(半分はわたし自身のため)と思ったのだけれども、きょうは値段が高かったのでやめた。そのかわり、イカ下足の天ぷらなんかを買ってしまった。これはニェネントには無理で、ただわたしの大好物というもの。イカ下足の天ぷらというものはどこでもそうなのかわからないけれども、このあたりのスーパーで売られているものは「巨大」といってもいいぐらいの大きさなので、食べがいもある。

 きょうは内科医と心療内科へ通院する。ただ処方せんをもらうだけのための通院みたいなもので、診察時間もとにかくは短い。内科医で検診を受けていて、「背中にあせもが出来てますよ」と指摘された。自分でも何となく、そうではないかと思っていたのだけれども。

 夜、「青白い炎」を読了した。段ボール箱の中で丸くなっているニェネントと、遊んだ。というか、ニェネントが遊びに乗ってくれた。

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[]「青白い炎」ウラジーミル・ナボコフ:著 富士川義之:訳 「青白い炎」ウラジーミル・ナボコフ:著 富士川義之:訳を含むブックマーク

 あれこれと仕掛けのあるこの書物を、もういちど読み直してみたいという誘惑には駆られる。前書き、本編、注釈、そして索引からなるこの本を、次にはちがう順序で読んでみたいような。背後には、ロシア出身で亡命、ヨーロッパを渡り歩いて英語で執筆するようになり、アメリカに住むことになるナボコフの経歴が、大きな影を落としているわけだろう。


 

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■ 2014-08-07(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 髪をすこし切った。どうもわたしも歳をとって頭頂部の髪が薄くなり、前髪などはほとんどカットすることなく放置しているのだけれども、そのあいだにも側頭部の髪は伸び続ける。多少はカットしていたのだけれども、どうしても髪が横にふくらんでしまっていた。鏡をみるとまるでおばさんのようなヘアーになっていて、なんとかしなければと思っていたわけだ。いつものように自分でカットしたのだけれども、ちゃっちゃっと、意外とかんたんにやってのけることが出来た。

 米がなくなってきて、このところ近所のスーパーなどではあまり安い米を置いてないし、宮城とか茨城とかの、あんまり安心して食べられないような米ばかりなので、今回はAmazon に注文した。安いし、産地も安心して食べられるところのもの。これからは米はAmazon で買うようにしようか。

 このところ、ニェネントと良好な関係が続いている。ニェネントがわたしに甘えて来るというか、わたしのことを気にかけて近づいて来ることが多い気がする。そんなニェネントをつかまえて抱き寄せるわけだけれども、前ほどにはいやがらないで、されるがままになっているような。

 読んでいるナボコフの「青白い炎」も、もう少しで読み終わる。本棚をみて、もう読むこともないだろう本が並んでいるわけで、そういうのはどんどん捨てて行くつもり。ついでにヴィデオカセットとかも。

 Facebook で知人が、なつかしいブラザーズ・クエイの「スティル・ナハト II」をアップしてくれていたのを、見入ってしまった。音楽はHis Name Is Alive の「Are We Still Married」、というか、この作品自体がこの曲のPVだったわけだ。また、ブラザーズ・クエイの作品を観たくなった。


 

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■ 2014-08-06(Wed)

 きょうはしごとも非番で休み。あさから、となり駅の市民病院へ行く。診察は九時からのはずなので九時よりもちょっとだけ早い時間に行くのだけれども、待合室はもう満員。わたしの受付番号も44番だった。「これは待たされることになるだろう」と予測した通り、診察の順がまわって来たのは十一時を過ぎてから。二時間以上待ったことになるが、診察自体はほんの一、二分で終わってしまう。

 次回からはもっと早い時間に行った方がいいだろうかと時刻表をみたりするのだけれども、これよりも早いと八時ぐらいに病院に到着してしまう。その時間では病院もまだ開けてはいないだろう。でも、外で待つにしてもそのくらいに行っておいた方が待ち時間は少なくなるのかもしれない。考えてみよう。

 ほんとうは診察ももっと早く終わり、そのあとは東京に出て映画でも観ようかと思っていたのだけれども、とてもそういうスケジュールをたてることは出来なかった。

 借りているカフカ全集の<1>を読了。


 

[]「決定版 カフカ全集 1」川村二郎・円子修平:翻訳 「決定版 カフカ全集 1」川村二郎・円子修平:翻訳を含むブックマーク

 掲載作品リスト。

物語『ある戦いの記録』からの二つの対話
 祈るひととの対話
 酔っぱらいとの対話
観 察
 国道の子供たち
 詐欺師を見破る
 突然の散歩
 決意
 山への遠足
 独身者の不幸
 商人
 ぼんやりと外を眺める
 帰路
 走り過ぎて行くひとびと
 乗客
 衣服
 拒絶
 アマチュア騎手のための考察
 通りに面した窓
 インディアンになりたい願い
 木々
 不幸であること
判 決
変 身
田舎医者
 新人弁護士
 田舎医者
 天井桟敷にて
 古文書の一葉
 律法の門前
 ジャッカルとアラビア人
 鉱山の客
 皇帝の綸旨
 父の気がかり
 十一人の息子
 兄弟殺し
 夢
 学会への報告
流刑地にて
断食芸人
 最初の悩み
 小さい女
 断食芸人
 プリマ・ドンナ・ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族
<付録>
最初の長い汽車旅行(プラハーチューリヒ)
書評三篇
 青春のロマン
 クライストの『逸話集』について
 ヒュペーリオン

 ‥‥アーティストであることの絶望、独身者である宿命、他者という不可解な存在、父への畏れ、そして、おそらくは、生きて行くことの不可能性。


 

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■ 2014-08-05(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 きょうは夕方から下北沢。Aさんと飲む。場所はせんじつわたしがみつけた、駅の南口から右にしばらく行った「T」という店。外からの感じでは落ち着いたいい店にみえたけど、どうなんだろう。

 昼すぎに家を出て、おそらくは一日でいちばん暑い時間帯じゃないだろうか。まあすぐに電車に乗ってしまうからかまわないのだけれども、電車の冷房が心地よくて、また寝てしまう。持って来た本は読まずじまい。

 約束の時間に約束の場所にAさんもあらわれて、さっそくに「T」へ行ってみる。‥‥このあいだ外からみたときはいい感じだったんだけれども、なんだかきょうは、「ふつうの居酒屋」って感じになってしまう。まあいいや。店の中はカウンター席とテーブル席で、テーブル席はふたりにちょうどいい大きさというか、広くはないけれども、座ってみると落ち着いた感じはする。
 ちょうど店の開店何周年かのビール・フェアとかなんとかやっていて、ビールはたのまなかったけれど、ふたりで一杯目はサワーとか注文する。まずはいきなり刺身の三点盛りとか注文して、この刺身はどれも(かつおとハマチと鯛)美味だった。魚の得意な店なんだろう。壁にも魚関係のポスターが貼ってある。二杯目からは、Aさんとふたりで焼酎のボトルで行く。このところあまりアルコール摂取してないから、予想外に酔ってしまったりする可能性もある。気をつけないといけない。

 Aさんとあれこれと話もはずむのだけれども、Aさんはむかし状況劇場の公演を観るので、みんな(この頃のいつものメンバー四人)で下北沢に来たことがあるんじゃないかという。その当時は今のスズナリのところが更地になっていて、そこでやったんじゃないかと。下北沢ではなく、吉祥寺の可能性もあると。わたしにはもちろんそのあたりの記憶はないのだけれども、Aさんはその観劇後にどこか寿司屋に皆で行ったはずで、そこで寿司屋の大将のからかうような口調にBさんが怒ったのだと。あ、その、Bさんが怒ったのはわたしも記憶にある。ときどき、そういうエピソード的な事柄の記憶が断片的に残っているのがわかったりする。そういうものなんだ。

 けっきょくわたしの終電に間に合うギリギリまで飲み、ボトルはきれいに空になった。Aさんは、わたしが六飲んで、Aさんは四ぐらいだったという。その分余計に払うべきだったなあ。

 帰宅の電車の中でも猛烈に眠くなり、あやうく乗換駅を乗り過ごすところだった。なんとか無事帰宅。すぐにベッドに飛び込んで、そのまま熟睡。

 

 

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■ 2014-08-04(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 先月の下北沢での展覧会で、下北沢を訪れる機会が多くなったのだけれども、あのあたりをぶらぶらしているなかで、ちょっと落ち着いた感じの居酒屋を見つけ、一度行ってみようかと思っていた。それでAさんと連絡を取り、あした、ふたりでその居酒屋に飲みに行くことにした。楽しみである。

 きょうもあいかわらず暑い日なのだけれども、きのうよりはいくぶん、湿度が下がったような気がする。屋外でも日陰に入ると、それなりに涼しい風を感じるような。

 午後からは、録画してあったマルセル・カルネの「天井桟敷の人々」を観はじめたのだけれども、はじまって三十分ぐらいで猛烈に眠くなってしまい、我慢出来ずに「昼寝」ということにしてしまった。
 読書のペースも落ちているのだけれども、読んでいるカフカ全集の第一巻、ようやく残りわずかになった。あした東京に出る電車の中でとか、読了出来るんじゃないだろうか。


 

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■ 2014-08-03(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 午前中は、きのう観た「ライフ・オブ・ブライアン」の特典ディスクを観てすごした。「ドキュメント<ライフ・オブ・ブライアン>ができるまで」が秀逸で、世界でこの作品が巻き起こす騒動を、きっちりと捉えている。わたしなどが本編を観ていてもわからない問題、「そうか、こういうことが問題にされるわけか」ということを考えながら見せられ、とても学習になる。中でもキリスト教関係者二名とのTV討論は噴飯モノというか、西欧での保守クリスチャンの「どうしようもなさ」みたいなものがよくわかる。

 午後からもまた映画を観るなり本を読むなりしようと思っていたのだけれども、きょうは日曜日でTV番組もそれなりに楽しくって、午後いっぱいずっとTVを観てすごしてしまった。


 

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■ 2014-08-02(Sat)

 きょうは夕方から、この地の夏祭りの一環としての「灯ろう流し」が行なわれる。地方ならではの行事だと思い、風流だなあという感じで、ちょっと見に行ってみることにした。
 わが家からは北に向かい、図書館のところから川沿いに歩いて行く。十分ちょっと歩くと、川に沿ってぶら下げられた提灯が見えるようになる。あんまりこっちの方まで歩いて来ることはないけれど、何年も前にはこの先にあるレンタルビデオの店に通っていたことはあったっけ。

 まだじかんは六時半ぐらいで日も沈んだばかりであたりは明るい。これでは風情も何もないのだけれども、しばらくは<歩行者天国>にされている手前の橋の上にたむろして、灯ろうの流されるのを眺めていた。まあ「夏らしさ」を感じることは出来ただろうか。

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 歩いていて、すれ違った小学生高学年ぐらいの男の子に、「こんばんは」とあいさつをされたので、「こんばんは」と返したけれども、あれは、「不審な人を見かけたらあいさつをしてみよう」という、学校か何かの教えを実践されてしまったのではないのかと思う。まあ、「不審者」といえば「不審者」ではあるのだろう。自分でそう思う。

 昼はモンティ・パイソンの続きで、持っていた「ライフ・オブ・ブライアン」を観てすごした。モンティ・パイソンのDVDはもう一本、「人生狂騒曲」がある。

 

[]「モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン」(1979) テリー・ジョーンズ:監督 「モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン」(1979)  テリー・ジョーンズ:監督を含むブックマーク

 わたしにはおととい観た「ホーリー・グレイル」の方が楽しめたのだけれども、わたしの中にキリスト教文化のバックボーンがないせいで、この作品の持つ「毒」のことがわからないということはあっただろう。

 映画としては「ホーリー・グレイル」よりもずっと予算を使い、技術的にもより映画らしい出来になっているわけだけれども、「ホーリー・グレイル」の、その内容にマッチした「チープさ」というものがまた捨てがたい、という気がした。


 

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■ 2014-08-01(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 夜中に目が覚めて、そのときに夢をみていたのを記憶していた。おそらくはカフカなどを読んでいるせいなのか、「父」というのか、「家長」という存在への畏怖、または憎悪をあらわすような夢だった。

 このところ、なおさらながらに「父」への嫌悪感は強くなっている気がする。もうとっくに父は死んでしまっているのだが、あんな男に「子」として育てられたために台無しにされたことがあれこれといっぱいある。今さらそんなことで父を攻撃してもしょうがない、それこそ不毛なことではあるけれども、克服出来ない「うらみ」は残ってしまう。ただ、こうやって歳を重ねて来て、わたしの容貌が父の容貌とは似なくなって来ていることは、やはりうれしいことだと思う。若い頃はわたしは父親似だと思っていたのだけれども、どうやらそういうわけでもなさそうだ。そういうことでいえば、このところのタモリが(といっても、彼はもうテレビなどに姿をあらわさなくなっているけれども)晩年のわたしの父に似て来ていて、あんまりタモリの顔を見たくはないものだ、などとは思ったりしていた。じっさいに見る機会はなくなり、ほっとしている。

 この二、三日、エアコンを使うようになっているのだけれども、どうもエアコンで直接に送風にあたると、寒いような気がしてしまう。送風が「微」などで弱すぎるとこんどは冷房にならないし、その上の「弱」でやると、つまりはもう冷房が強すぎる感じ。

 きょうはカフカを読み、DVDはきのう観た「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」の特典ディスクなどを観て過ごした。特典ディスクは思いのほかボリュームがあった。そう、劇中に出て来る「アンスラックスの城(Castle of Anthrax)」って、ぜったいに、1971年にリリースされたJohn Cale & Terry Riley のアルバム「Church of Anthrax」から来ていると思う。このアルバム、あんまり聴かなかったけれども持っていた。

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