ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2014-12-31(Wed)

 きょうはついに大晦日。今年は「わが人生最悪の年」だったと、回顧してしまっていいんだろうか。考えてみればこのことは今年になって急に起きたことではなく、少なくとも去年(2013年)の六月にははじまっていたわけだけれども、そのことが顕然化して「何てこった!わたしはあれこれの記憶を、あれも、これも失ってしまったのか!」という認識に到ったのは、今年のこと。そして、「失ったものはもう二度と取り戻すことは出来ない」と知り、愕然となったわけだ。これが今年の六月末までのこと。そのあとのことは、いちおうは普通に記憶出来ていると思うのだけれども、それでもどことなく、記憶力が衰えてしまっているような気がしてしかたがない。とにかくはこれからはこういう自分と向き合って、付き合っていかなくっちゃならない。それでもそういうところで、この七月以降は「普通」の世界認識で生きて来れているのではないかと思う。

 今でも出来ないこと。それは過去からのリファレンス。たとえば映画を観ても本を読んでも、それらの映画や書物が過去に先行する(過去にわたしが体験したはずの)表現とどのように関わりがあるものか、まるで認識が出来ないことになる。つまり、「感想」というものが湧いて出て来ないということでもある。もちろん、そういう過去からのリファレンスなどなくっても「感想」というものは自ずから出て来るものではあるだろうけれども、わたしにはそんな狭い感想で自分や人を納得させられるような才能はない。あまりにキャパシティが狭すぎるだろう。いちおうこの七月以降には気もちを切り替えて、自分の中で蓄積されるものを増やせるように努力はしているつもり。そのことで、少しはキャパシティも拡がって来た感覚はある。

 あしたから新しく2015年が始まるわけだけれども、その新しい年も、まずはわたしのキャパシティを拡げるよう努めることにつくす年になるだろう。そういうことでは目標がはっきりとしている年になるだろうか。「がんばろう」などという言葉はあんまりガンガン使いたくはないのだけれども、やっぱり新しい年はがんばりたい、だろうか。

 きょうは録画してある映画から「ゾンビ」を観て、読んでいる途中の「嫌な話」というアンソロジーを読み継ぎ、どちらも嫌な気分に近づけられるわけで、このあたりで気分良くなりたいと、先日観た映画の「ゼロ・グラビティ」をまた観たりする。この映画は一時間半と短めだし、とにかくは勇気をもらえる映画だし、表現の奥にも深いところがある。希望を棄てずにやる気になれば、活路は見出される、って。
 あとはネットで「ツィゴイネルワイゼン」を途中まで観る。途中でやめて、残りはあした(新年に)観ることにして、まさに「彼岸と此岸」をまたぐ映画鑑賞にしようと。

 昼にスーパーに買い物に出て、ニェネント用にカツオの刺身を買ってあげる。わたし用には焼豚。昼食はまた中華丼にして、夕食はすき焼き風鍋。寝るまえにしばらく「紅白歌合戦」を観たりした。椎名林檎のライヴというのを、はじめて観た気がする。


 

[]「ゾンビ 米国公開版」(1978) ジョージ・A・ロメロ:監督 「ゾンビ 米国公開版」(1978)   ジョージ・A・ロメロ:監督を含むブックマーク

 こうやってショッピングモールに立てこもるという展開、たしかに過去に観た記憶がある。この日記で調べてみると、まずはほぼ一年前、去年のクリスマスの日にこのヴィデオを観ていることがわかった。しかしそれにしても、その時の鑑賞体験が記憶に残っているとすると、その前後に観た映画のことをまるで記憶していないということが、なんだかつじつまが合わないではないか、という気になる。そこでさらにこの日記を検索し続けてみると、つまりは今から十年前の六月にもこの映画を観ていることがわかった。‥‥つまり、わたしの脳裏にこの映画を観た記憶がどこか残っているとすると、それはその十年前の記憶なのではないだろうか。

 ここでおかしいのは、その去年のクリスマスにこの映画を観たという日記の記述には、「以前にこの映画を見たことがある」ということはまるで書かれていない。つまり、去年の段階では逆に、十年前の体験は忘れ去られていたのではないだろうか。それがきょうになってこの作品を観て、「これは観たことがあるぞ」と思うのは、おそらくは十年前の鑑賞体験を思い出していたのではないだろうか。

 ‥‥去年のクリスマスの頃ならば、わたしはすでに現在の疾病に侵されているわけで、その時の記憶があてにならないことはわかりきっている。その時には、この映画を過去に観たことは忘れ去られている。それがさらに一年経って、きょうになってこの作品を観たとき、「この映画は観たことがある気がする」と思ったとするならば、つまりは「いちど忘れてしまった体験が、時を経てまた思い出せるようになった」ということになりはしないだろうか。もしもそういうことだったとしたら、わたしにとってこれほどの朗報はない。「もう取り戻せない」と思っている、過去の消えてしまった記憶、まだまだ取り戻せる可能性もあるということではないだろうか。もちろんこのあたりに記憶を取り戻す方法があるわけでなく、そのときの恣意的な「行き当たりばったり」な成り行きに合わせなくてはならないだろうけれども。

 映画の感想とはまったく別のことを書いてしまったけれども、やはりこうやって日記を続けていてよかった、ということはいえる。この日記の上ではこの「ゾンビ」、三度目の鑑賞になるわけだ。今読み返してみると、やはり十年前の感想がいい。今のわたしにはここまでの「感想」は書けないだろう。それが狭まってしまった「キャパシティ」であったりもするのかもしれない。


 

[]二〇一四年十二月のおさらい 二〇一四年十二月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●福留麻里「川に教わる」@横浜・STスポット 
●「ハリー 新作オペラ『ソラリス』へ向けて」佐東利穂子:ダンス @荻窪・カラス アパラタス/B2ホール 
●チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」岡田利規:作・演出 @横浜・KAAT神奈川芸術劇場
鉄割アルバトロスケット「鉄割の6」戌井昭人:作 牛嶋みさを:演出 @下北沢・ザ・スズナリ

映画:
●「インターステラー」クリストファー・ノーラン:監督
●「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン:原作・脚本 デヴィッド・フィンチャー:監督
●「アンダー・ザ・スキン 種の補食」ジョナサン・グレイザー:監督
●「複製された男」ジョゼ・サラマーゴ:原作 ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督
●「天才スピヴェット」ジャン=ピエール・ジュネ:監督
●「吉原炎上」(1987) 五社英雄:監督
●「肉体の門」(1988) 田村泰次郎:原作 五社英雄:監督
●「紙の月」角田光代:原作 吉田大八:監督

美術:
● 「ウィレム・デ・クーニング展」@京橋・ブリヂストン美術館
●「日本国宝展」@上野・東京国立博物館 平成館

読書:
●「キャプテンサンダーボルト」阿部和重・伊坂幸太郎:著
●「悪意の森」(上・下)タナ・フレンチ:著 安藤由紀子:訳
●「カブトガニの不思議 ―『生きている化石』は警告する―」関口晃一:著
●金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 4 「映画、柔らかい肌。映画にさわる」金井美恵子:著

DVD/ヴィデオ:
●「ナイト・タイド」(1961) カーティス・ハリントン:監督
●「鳥」(1963) ダフネ・デュ・モーリア:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968) ジョージ・A・ロメロ:監督
●「惑星ソラリス」(1972) アンドレイ・タルコフスキー:監督
●「タクシードライバー」(1976) ポール・シュレイダー:脚本 マーティン・スコセッシ:監督
●「ゾンビ 米国公開版」(1978) ジョージ・A・ロメロ:監督
●「ノスタルジア」(1983) アンドレイ・タルコフスキー:監督
●「セブン」(1995) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「ファイト・クラブ」(1999) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「スラムドッグ$ミリオネア」(2008) ダニー・ボイル:監督
●「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009) スティーグ・ラーソン:原作 ニールス・アルデン・オプレヴ:監督
●「インセプション」(2010) クリストファー・ノーラン:脚本・監督
●「コーマン帝国」(2011) アレックス・ステイプルトン:監督
●「ゼロ・グラビティ」(2013) アルフォンソ・キュアロン:監督
●「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(2013) ブリュノ・デュモン:監督
●「LUCY/ルーシー」(2014) リュック・ベッソン:監督
●「鬼龍院花子の生涯」(1982) 宮尾登美子:原作 五社英雄:監督
●「風の谷のナウシカ」(1984) 宮崎駿:原作・監督
●「リング」(1998) 鈴木光司:原作 高橋洋:脚本 中田秀夫:監督
●「桐島、部活やめるってよ」(2012) 吉田大八:監督
●東京芸術劇場×明洞芸術劇場 国際共同制作「半神」 萩尾望都:原作・脚本 野田秀樹:脚本・演出 


[]二〇一四年のおさらい 二〇一四年のおさらいを含むブックマーク

 とりあえず、数だけをまとめて。

舞台(演劇もダンスも入れて):25
映画(旧作も含めて、映画館で観たもの):34
美術展:11
読書:31
DVD/ヴィデオなど:172

‥‥数だけを書いても、記憶に残っていないものが多いので意味がないと思うけれども。


 

 

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■ 2014-12-30(Tue)

 今年さいごのお出かけ、銀座へ3D版の「天才スピヴェット」を観に行く。やはり年の終わりは楽しく、ハッピーな気分になりたい。そんな映画であることを期待する。

 十一時の電車に乗って、車中ではまた金井美恵子の猫エッセイを読んでいたのだけれども、ふと目を上げると、電車はちょうど鬼怒川を越えるところだった。これが神秘的な光景で、ちょうど照っている陽に照らされてだろう、地面の土からけむりのように白いもやが舞い上がっているのが見える。川面も遠くの方はそんなもやでけむって霞んでいて、あたり一面がきのう観ていた映画「ノスタルジア」の中の光景のようにみえる。‥‥この美しい景色を観ることが出来たことを感謝して、ずっと忘れないようにしたいと思った。ずっと本に夢中にならずに、いいタイミングで視線を上にあげることが出来た。こういうのを「運」ともいうのだろう。

 きょうの映画館は銀座なので、上野の方へ出てから有楽町まで行く。銀座四丁目のすぐそばにそういう映画館があることはまるで知らなかったけれども、とにかくは先に映画館へ行って指定席券を買っておく。
 映画の開映までまだ一時間以上あるし、ちょうど昼どきでもあるので、のんびりと歩いてまた中華料理店を探す。どこといってあてはなかったのだけれども、とりあえず東銀座の方へ行くと、うまい具合に中華料理の店が見つかった。ドアをくぐり、またまた五目焼きそばをたのむ。自分でもよく飽きないものだと思うが、この店の五目焼きそばもおいしかった。銀座方面に来たときには食事はこの店にしようか。

 ゆっくりと食事を終えて、ゆっくりと映画館へ戻ると、ちょうど開場したところだった。建物も古い感じの映画館(シネコン)で、それなりに古い映画館なんだろうか。わたしははじめて来たような気がするのだけれども、わたしの記憶というものはいちばんあてにならない。
 もう公開が始まって一ヶ月以上経つ作品だけれども、それなりに混み合っていた。年末だからかな。あれこれと予告を観たのだけれども、あと一ヶ月ほどで公開が始まるゴダールの新作(これも3D)や、ヴァチカン美術館に取材したドキュメンタリー(これまた3D)などに興味を持った。ゴダールの作品は以前から知ってはいたし、観るつもりもあるけれど、ヴァチカン美術館の映画も観てみたくなった。ちょうど同じ頃にはフレデリック・ワイズマンの「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」というのもまた、公開されるんじゃないだろうか。これからは映画館で美術館巡りの旅をするのか。

 さて、映画本編の方は思っていた通り、いや、思っていた以上に楽しい作品だったけれども、感想は下に。あとはまっすぐ帰ってもいいのだけれども、なんだかこの年の「飲み納め」みたいな感じで、ひとりで飲んで帰ってもいいじゃないかという気分でもあり、先週「デ・クーニング展」を観にこのあたりに出て来たとき、探しても見つからなかった居酒屋もきょうは見つかったので、そこに寄ってみることにした。

 その先週上野でひとりで飲んだ居酒屋もそうなんだけれども、この日の居酒屋も、酒は旨いのだけれども、食べるものがあまりないというのが困ってしまう。今日の店は「〆さば」こそあるものの、その他に「これ」というものがない。こういうところでは、酒にこだわらなければ普通の居酒屋の方がずっといい。ま、飲むことをまずは優先して、あまり食べてばかりしないように、ということではこういう店もいいのだけれども。どっちにしても、結論としては「ひとり居酒屋」というのは最高の無駄遣いだと思う。もうやめておこうと思う。

 適当なところで切り上げて帰路に着いたので、あんまり遅くならない時間に帰宅出来た。おなかが空いているのでトーストを焼いて、ハムをのせて食べたりする。今年もあとはあした一日だけだ。

 これは、夕方の有楽町のイルミネーションから。

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[]「天才スピヴェット」ジャン=ピエール・ジュネ:監督 「天才スピヴェット」ジャン=ピエール・ジュネ:監督を含むブックマーク

 ジャン=ピエール・ジュネの監督作品だといっても、彼の作品が記憶に残っているわけではない。彼のフィルモグラフィーをみると、なんとなく記憶では「ロスト・チルドレン」のことをわたしは気に入っていたような気もするのだが、それでこれっぽっちでもその映画のことを思い出せるわけでもない。ただ、なんとはなしに、茶目っ気いっぱいの映像をみせてくれた監督さんだったという気がして、そんな監督が3D作品を撮ったのならば楽しいに決まっているだろうと、期待して観に来たわけではある。

 今年の「ゴジラ」とか、過去にハリウッド製の3D映画は観たことはあるのだけれども、やっぱりジュネの映画はそういう、「迫力」を売りにするのとは違っていた。いってみれば「飛び出す絵本」の楽しさ。主人公のイメージしたことが宙に浮かび、それが飛び出して見えるのが楽しいし、カウボーイなお父さんの部屋の動物の剥製は立体でせまってくるし、昆虫学者のお母さん(ヘレナ・ボナム=カーター)の昆虫標本がまさに立体で見えるのなんか、ちょっと虫好きのわたしにはたまらない!

 物語も何というのか、一筋縄ではいかない家族再生の物語に大陸横断の旅。これらの主役を十歳の男の子がやってのけちゃって、危なっかしくも頼もしいというのか。

 観ていて、「あれ? この人ってジュディ・デイヴィスじゃないの?」って思ったらやっぱりその通りで、ものすごく久しぶりに彼女のことを観る感じだけれども、やっぱり何というのか彼女らしい役柄で、ちょっと苦い笑いを提供していただきました。

 

 

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■ 2014-12-29(Mon)

 やはりおとといは、六本木のイヴェントには行かないで正解だっただろう。Facebook に当日の写真などがアップされているのだけれども、つまりは知人らの馴れ合いによるふやけた舞台で、観る価値などなかっただろうと推測できる。そういうものを観なくてよかったと考えよう。ただ、東中野の方はどうだったのか、これはわからない。とにかくは体調不良だったとして忘れよう。

 きょうしごとに出れば、年内のしごとはおしまい。またあしたとあさっては連休になる。きょうまた東京に行って何か映画を観てもいいのだけれども、とにかくきょうはまた朝から冷たい雨で(きのうの段階では関東の平野部でも雪になるという天気予報だった)、とても外出する気になどなれない。あしたはこの雨もやむようなので、今年さいごの映画鑑賞とでもいきたいところ。

 昼食はまた焼きそばにして、夕食はきのうの残りのすき焼きもどき。またパソコンにしがみついて、ネットで映画を二本観てしまった。こうやってネットでばかり映画を観ているならば、ひかりTVとの契約なんていよいよ無意味になってしまう。WOWOWだけは契約を続けておきたいけれども。


 

[]「セブン」(1995) デヴィッド・フィンチャー:監督 「セブン」(1995)   デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 デヴィッド・フィンチャーの全作品はあらためて観ておきたいものだけれども、この「セブン」はやはり基本。彼の出発点といっていいんだろう。もちろんむかし一度観ているわけで(この日記を検索すると、映画館で一度観て、そのあと昨年もヴィデオで観ているようだ)、ラスト(そのやり切れなさ)もだいたいは記憶に残っている。

 とにかくはこの完成度の高さには驚くべきものがあるというか、あと味の悪さからあんまり万人向けではないところはあるのだろうけれども、それこそ「カルト」に語り継がれる作品ではないだろうか。

 勝手な記憶ではもっともっとギミックな演出だったように思っていたのだけれども、それはタイトル部のカイル・クーパーのデザインの印象だったわけで、本編の演出は思っていたよりもずっとオーソドックスなものだった。それにしてもカイル・クーパーのデザインに関しては当時かなりハマったわけで、生き物のように引き攣り震える文字群や、ラストの上から下に降りてくる文字列など、かなり衝撃を受けたものだったわけで、その印象が「セブン」という作品の印象にまで影響を与えていたわけ。そういう演出のギミックさ、ということでは、先日観た「ファイト・クラブ」にこそ、そういう演出が観られることだろう。「ゲーム」や「パニック・ルーム」も観てみたいものだけれども。

 ただやはり、この作品の圧倒的な「暗さ」、そして「湿気」。映像的なインパクトはやはり相当なものであり、これ以降この作品を模倣した「現場風景」なるものはあれこれ見出せるようになる。わたしもこの日記に、園子温の「恋の罪」についてそのような感想を書いている。

 さて、作品のストーリーについて、普通に考えればこの終末、刑事ミルズ(ブラッド・ピット)がまんまとシリアル・キラー(ケヴィン・スペイシー)の罠にはまってしまい、その七つの罪を罰するというシリアル・キラーのプロットに加担してしまうと捉えられるわけだけれども、ネット上では「そうとも言い切れないのではないのか」というような意見も述べられている。ミルズの同僚の、定年を間近にした刑事サマセット(モーガン・フリーマン)のラストの言葉(<ヘミングウエイの言葉「この世は素晴らしい、戦う価値がある」、わたしはその後半には同意する>と語る)など、たしかに「シリアル・キラーにいいように仕切られてしまった」というようなものではない。表面的にはどうみてもシリアル・キラーの意図は実現されているようにみえるだけに、たしかにどこか謎の残るラストではある。そういうふうに考えていくと、実はもっともっと不気味な真相を想像してしまったりもするわけでもある。

 前にも書いたことだけれども、シリアル・キラーの残した手記や彼の室内など、やはりあのヘンリー・ダーガーをモデルにしているものだとは思う。

 

 

[]「ノスタルジア」(1983) アンドレイ・タルコフスキー:監督 「ノスタルジア」(1983)   アンドレイ・タルコフスキー:監督を含むブックマーク

 きょうはタルコフスキーの命日でもあったということで、「セブン」を観たあとにこの「ノスタルジア」も観た。

 とにかくは静かに、じりじりと寄って行き、また引いて行く(ラストシーンの衝撃)カメラの動きに圧倒させられるわけで、この「静けさ」に支配された美しさに見惚れてしまう。

 タルコフスキー自身はこの作品をイタリアで撮り終えた翌年、じっさいに故国を棄てて亡命しているわけだから、この作品に注いだ情熱にはリアルなものがあったことなんだろう。もうすでに彼はこの作品で亡命者の視点を取っていて、イタリアから故国の風景を追憶する。
 とにかくはこの作品、個人の内的体験をどのように映画の中で普遍化することが出来るだろうかという、その徹底した試みに打たれるものがある。単に故国へのノスタルジアだけではなく、「世界の救済」という意志もまた込められているわけで、このあたりに次作(遺作)「サクリファイス」へと引き継がれるものを読み取ることが出来るんだろう。

 作品の中程で、主人公に付き添う通訳の女性が主人公の意識にいらだち、彼のもとを去ってしまうというシーンがあるけれど、このあたりってタルコフスキーの実体験からの作劇じゃないのかと思ったりする。これは卑俗な言い方だけれども、「モテる男」こそが女性にぶつけられるような問題、というような感覚を受けてしまう。写真で見るタルコフスキーはたしかに美男子でもあるし、こんなことがじっさいにあったんじゃないだろうか。

 この作品はやはり過去に観たことがあったわけで、ラストに主人公がろうそくの火を消さずにプールを横切るところ、そしてあのイタリアの風景と故郷の風景との合体まで、記憶には残っていた。まだまだ、この作品から読み取り切れないことがらは多い。



 

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■ 2014-12-28(Sun)

 きょうもまたしごとは非番の休み。それで家で何をやったかというと、まずは洗濯をやろうとしたのだけれども、これはベランダの水道が凍り付いてしまっていて洗濯不能。しばらく置いて、お昼に近くなってから氷も溶け、ようやく洗濯も出来た。その他は午前中はただひたすら、ネット上で観ることの出来る映画をチェックし続けるのだった。例えば先日観た「LUCY/ルーシー」なんか、まだ公開されて半年も経っていなくて、DVDも発売前。こういうのがネットで観ることが出来るというのは違法アップロードによるものだろうし、おそらくはすぐに消去されてしまうのだと思う。仮にこれをダウンロードしたりすれば、映画館で本編がはじまる前にやっている「ストップ!映画泥棒」でいってる犯罪行為になるのだろうけれども、わたしはただ観るだけだから、そういうのを観ることが出来た恩恵(???)に感謝するだけ(倫理的に問題あるだろうか)。だから、どんな映画をネットで観ることが出来るのか、チェックしてみたくはなるのである。そういうのできのうは「ツィゴイネルワイゼン」を観ることが出来るのに驚喜したわけだけれども、きょうもいろいろと発見をした。

 昼食には「あんかけ」ではなく、オーソドックスな焼きそばをつくってみた。

 午後になってからはまず「鳥」を観る。これはネットで観たのだけれども、冒頭にBSの「プレミアムシネマ」のオープニング映像が入っている。BS放映分からのアップロードだから、やはりこれはマズいだろうにと思う。そのうちに消されてしまうことだろう。

 そのあとはちゃんと「ひかりTV」から録画した「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を観る。先に観た「鳥」と思いもよらずに共通するところもあって、このところはこういう偶然がよく続く気がしてしまう。

 夕食の時間になり、冷凍庫に牛肉が思いのほか大量にストックされていたこともあって、白菜ときのう買ってあった豆腐とネギとを合わせて、スキヤキ風鍋料理をつくってみた。つくりはじめてすぐに、買ってあった豆腐が「絹ごし」だったことに気づき、「これはヤバいかなあ」とは思ったのだけれども、かまわずにつくってしまった。まあ豆腐はさわるとすぐにぐちゃぐちゃになってしまうのだけれども、おいしい鍋には仕上がったと思う。まだ白菜も牛肉もネギもいっぱいあるので、こんどは木綿豆腐をちゃんと買って、もういちどこのメニューに挑戦してみよう。


 

[]「鳥」(1963) ダフネ・デュ・モーリア:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督 「鳥」(1963)   ダフネ・デュ・モーリア:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 冒頭からいちおうは「鳥」の話は出て来るのだけれども、どこかコメディタッチの恋愛モノに発展しそうな雲行きで、これがこのあとにパニック映画の傑作になって行くとはとても思えなかったりする。ここでやっぱり、ヒロインのティッピ・ヘドレンのコケティッシュな魅力にカクンといかれてしまうわけだけれども(この人のおでこの感じ、そのカーブがいい)、まずはこの冒頭シーンでの黒い装いがとっても魅力的。これはオープニングのタイトルからも、あのイーディス・ヘッドによるものだということはわかっている。ちょうど先日読んだ金井美恵子の映画エッセイで、いかにイーディス・ヘッドという人の衣裳デザインが卓越していたかを読んだばかりだった。オードリー・ヘプバーンのスクリーン上の魅力のいくばくかは、このイーディス・ヘッドの衣裳によるところが大きかったということだし、今調べると、ヒッチコックは「裏窓」以降のほとんどの作品で彼女に衣裳デザインをまかせているそうである。
 この「鳥」の冒頭のティッピ・ヘドレンの黒い衣裳、どうも「ティファニーで朝食を」でのオードリー・ヘプバーンの衣裳を思い出させるところがあるように思えるのだけれども、まずはティッピ・ヘドレンという女優さんもやはり魅力的なところがあるわけで、この作品の冒頭の雰囲気を決定している感じ。
 この導入部、今調べてしまったところによると、スクリューボール・コメディの手法を取り入れているということらしい。なるほど。そういうの、なんとなく記憶に残っているような気もする。「ヒズ・ガール・フライデー」とか「赤ちゃん教育」とか?

 これで舞台はカリフォルニア郊外のボデガ・ベイというところに移動して、少しずつ、少しずつ、鳥の攻撃があらわになってくる。ヒロインのティッピ・ヘドレンはこれ以降、ロスで知り合った男(ロッド・テイラー〜なんか、みた感じはあんまり魅力的でもないのだけれども〜)とその家族、そして小学校の教師(スザンヌ・プレシェット)らの世界に入り込んで行くわけ。そのことと鳥の攻撃がシンクロするようでもあり、土地の人からは「あなたがこの土地に来たせいだ」などともいわれる。ロッド・テイラーの家は母のジェシカ・タンディ(「ドライビングmissデイジー」、なんだね)とロッドの妹の(かなり歳が離れている)ヴェロニカ・カートライト(「エイリアン」に出演していた!)とがいるけれど、その父親は近年亡くなってしまわれたようで、室内にその父の肖像画が掛けられているのが印象に残るし、この「父の不在」ということが、この映画の主題にどこか影を落としているのではないのかと思いたくもなる。

 そうすると、この「鳥」という存在、その攻撃というのが、何らかの象徴なのだろうかと考えたくもなるのだけれども、おそらくはそうではなく、背後のそういうドラマと鳥の存在とを並列させたことに、この作品の「巧さ」というものがあるんだろう。
 ティッピ・ヘドレンが「キャシー(ヴェロニカ・カートライトの名前)へ」と封せんに書く手もとのアップからカメラが引き、同じショットの中でティッピ・ヘドレンのミドルショットまで後退するカメラワーク(この作品の撮影はロバート・バークスという人)もみごとだし、後半の緊張したシーンで挿入される、人物を下からあおるように撮るショットもまた、危機感を高める。しかしまあ、どうやってこれだけの鳥を集め、どうやって撮影したんだろうかと不思議に思うような撮影。今だったら全部CG処理とかでやってしまうんだろうけれども、それにしてもこの完成度の高さには驚かされてしまう。製作から50年以上経った今でも、まさに「今」の映画として通用するだろう。やっぱりヒッチコックという監督はすごい。

 

 

[]「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968) ジョージ・A・ロメロ:監督 「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968)   ジョージ・A・ロメロ:監督を含むブックマーク

 ほんとうはちょっと馬鹿にした気分もあって、笑い飛ばしてやろうという気もちで観はじめたのだけれども‥‥。

 冒頭からしばらくの「ドラマ」はたしかにけっこう情けない演出で、「こんなもんだろう」と思いながら観続ける。
 作品のほとんどは一軒の家の中で進行し、外の世界のことは登場人物のセリフとテレビのニュースで知らされるわけで、「ほら! 映画で物語ることを放棄してるじゃん!」とか思いそうになったのだけれども、そのことで家の中の人間関係とか外の世界への認識が変化して行くのが、だんだんに面白くなってくる。このあたり、「外からの攻撃を避けて家に閉じ込められた人々」というシチュエーションが、さっき観た「鳥」と共通しているではないか。とにかくこの作品の場合、外にいる「ゾンビ」が怖いというよりも、屋内の六人だか七人の「危機」に対処する方策の衝突、そのことをじっくりと描いていることが素晴らしい。ちょっとした演劇の舞台みたいな。

 衝撃はやはりこのラスト。何とも気分の悪くなる幕切れで、わたしはちょうど今、文庫本の「嫌な話」というアンソロジーを読んでいるのだが、その中のとびきりデスペレートな一篇を読み終えたばかりということもあって、ほんっとうに「イヤ〜な気分」に浸ることが出来た。この年末も押し詰まった時期に、こんな絶望的な気分におとしめられるというのも、わたしのこの2014年という年にふさわしいことなのかもしれない。

 この作品が「ゾンビ映画」の基本、とされることに納得した。まさに「基本」だと思う。


 

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■ 2014-12-27(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 きょうは行く予定のイヴェントが二つあるのだけれども、どうも行きたくない。ひとつは六本木で四時からスタートし、もうひとつは東中野で七時半のスタート。六本木の方を観て、東中野へ行かなければならない時間になれば抜け出せば、両方観た気分にはなれるかもしれない。しかし六本木のイヴェントには久しぶりに会うことになる知人が出ているとはいえ、まったく会いたくはない人物も参加しているわけで、その人物に顔を合わせたくない。もうひとつの東中野のイヴェントも久しぶりに会う知人が出演しているのだけれども、スタート時間が遅いので、ぜんぶ観ていると帰って来れなくなってしまう可能性がある。どうしようかと迷っているうちに時計はどんどん進み、午後になってしまう。「もう六本木に行くのはやめた!」と決めてふとんにもぐり込み、しばらく昼寝になってしまった。目が覚めると出かければ東中野に間に合う時間だったので、ちょっと無理をして出かけることにした。

 時間はもう五時に近く、外は暗くなっている。こんな時間に東京方面に出かけるという記憶もなく、暗くなったホームで東京方面への電車を待つということが奇妙に思えたりした。電車の中では金井美恵子のネコのエッセイを読み進め、七時前に新宿に着く。乗り換えて東中野へ移動するのだけれども、やはり行くのがいやになってしまうし、どう考えてもイヴェントの終了時には帰宅出来なくなるのもわかったので、とにかくはイヴェント会場まで行ってキャンセルを伝えて来ようという気もちになる。

 おそらくは初めて歩く東中野の街、そのイヴェント会場への道は商店などもほとんどなく、暗い道が寂しく感じられる。「早くキャンセルして、駅の反対側にはあれこれと飲食店もあったようだから、あちらに移動して夕食を食べて帰ろう」という気分になる。

 とにかくは目論み通りに開場に到着して「キャンセル」を伝え、また駅の方へと移動して、夕食の食べられるような店を探した。どうやらこの夜はあちこちで「忘年会」が行なわれているようで、そういう人たちであふれている店も多い。入ってみたい中華料理の店をみつけたのだけれども、店の中ではやはり忘年会の真っ最中で、空いている席はなかった。
 その並びに「つけ麺」の店があったので、とにかくはその店に入ったのだけれども、その店の「つけ麺」というものは、決しておいしいものではなかった。ちょっとがっかりして帰路に着き、帰りの電車でも金井美恵子を読み継ぐ。

 そう、きょうはYouTube に「ツィゴイネルワイゼン」がアップされていることを発見したので、あしたにでも観てみようかと思う。


 

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■ 2014-12-26(Fri)

 このところ、夢をよくみる。けっこういつも同じシチュエーションの夢が多い気がするのだけれども、とにかくは勤め人としてのわたしがいて、その同僚として知人があれこれと登場する。いつもわたしは路地のようなところにはいりこみ、どこかで時間的な制約を気にしているようでもある。考えてみたら、そんなわたしの夢の中に女性はまるで登場してこない気がする。「解脱」したのだろうかね。

 きょうもしごとはちょっとハードだったけれども、これであしたとあさっては連休になる。まだ劇場で観ておきたい映画があれこれとあるし、あしたは知人友人らの出演する舞台があるので、これは行かないわけにもいかないだろう。ほんとうは会いたくない人物も参加していていやなのだけれども。

 しごとを終えて帰宅して、ニェネントにご飯を出してあげて自分も朝食をとり、落ち着いてから近所の内科医へ行く。いつもどおりの診察。帰りに道すがらの図書館へ寄って借りていた本とDVDを返却し、新しく借りてくる。今回はまた金井美恵子のエッセイから猫についてのものと、キネマ旬報の「ゴーン・ガール」の特集号、そしてDVDはデヴィッド・フィンチャーの「ベンジャミン・バトン」と。「ベンジャミン・バトン」は過去に観ているはずだけれども、これっぽっちも記憶に残っていない。

 そのままホームセンターへの道をとり、ネコのトイレ砂、換気扇のフィルターなどを買って帰る。ほんとうはもう年末でもあるし、「大掃除」とかいうものもやらなくっちゃいけないのだけれども。

 帰宅してからはまたパソコンに向かってばかりで、なんとか昼には昼食をつくって食べる。昼食はキャベツと豚肉、それにもやしを炒めたものに、ちょっとだけ豆板醤を和えてみたもの。辛くっておいしい。

 午後からもまたパソコン。これはもうちょっと考えないと、無意味にパソコンの前に貼り付いてしまっているばかりではないのか。とにかくは夕方からは貼り付くのをパソコンからテレビに変え、録画してあったスウェーデン版の「ドラゴン・タトゥーの女」を観る。これは録画のときに失敗してしまっていて、「ミレニアム」のシリーズは三部作、という頭があったので、それぞれが前篇/後篇に別れているのを失念し、さいしょの「ドラゴン・タトゥーの女」の前篇と後篇、それと第二作の前篇「だけ」を録画してしまった。残りのシリーズ全篇をみようと思っていたのに、残念だった。


 

[]「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009) スティーグ・ラーソン:原作 ニールス・アルデン・オプレヴ:監督 「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009)   スティーグ・ラーソン:原作 ニールス・アルデン・オプレヴ:監督を含むブックマーク

 この作品で、リスベットを演じたノオミ・ラパスが有名になったわけだ。観ていてどうしてもデヴィッド・フィンチャー版と比較することは避けられない。たしかにフィンチャー版でのルーニー・マーラもかわいらしいけれども、このふてぶてしいノオミ・ラパスもいい。

 ストーリー展開はもちろん同じだし、作品を支配する北欧の寒々とした風景も(同じロケ地を使ってる?)同じなんだけれども、このスウェーデン版の方が描写では残虐度が強いようでもあり、フィンチャーの方が「ソフト」ということにちょっと面食らってしまうわけでもある。尺としても三時間を越えるこのスウェーデン版の方にこそ描かれている事柄も多いのだけれども、リスベットと後見人とのエピソードでは、フィンチャー版の方に追加されていることもある。リズム感だとか、そういうところではやはりフィンチャーに軍配を上げたくはなるけれども、暗い雰囲気ではほぼ同質の印象を受ける。あとはノオミ・ラパスとルーニー・マーラ、どっちがいいですか?みたいな。わたしはそれぞれ、どっちもいい。

 

 

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■ 2014-12-25(Thu)

 きょうとあしたはしごと。そのあとはまた二日間の連休で、そのあとに一日出勤すればまた連休で、年内のしごとは終わってしまう。あと三日働けばいいのだけれども、四連休のあとの出勤はかったるい。しかもしごと量もまだかなりのもので、定時に終えることが出来なかったりする。疲れた。

 またいつものように、ほとんど何もしないでパソコンの前に座っている一日になってしまった。午後からちょっと買い物に出かけただけ。そう、きょうは南のスーパーが1割引の日で、これからはお正月にかかったりして、しばらくは特売もないのだから、あれこれ買っておけばよかったのだけれども、そういうことは失念していて、あまり買いだめはしなかった。夜になって「もっといろいろ買っておけばよかった」と思ったのだけれども、もう外に出る気もしなかった。

 録画してあったロジャー・コーマンに関するドキュメンタリーを観たあと、パソコンで検索して、またネットで観ることの出来る映画を探したりするのだけれども、今年公開されたばかりの「LUCY/ルーシー」などというのがアップされていて、こんな最新作が観られるなんてウソだろう!という気もちでちょっと観はじめてしまい、せいぜい一時間半の作品だったので、そのまま全部観てしまった。わざわざ映画館で観なくってよかった、というような印象。

 図書館から借りていた金井美恵子の映画エッセイ、600ページを越える分厚い本だというのに、一週間で読み切ってしまった。とにかくはこのところずっと、読書のペースがあまりに遅いことに嫌気がさしていただけに、「なかなかがんばったじゃないか」という感じ。やはり東京などに出かけるとき、電車の中であまり眠ってしまわないで本を読み続けていたことが大きかっただろうか。


 

[]「コーマン帝国」(2011) アレックス・ステイプルトン:監督 「コーマン帝国」(2011)   アレックス・ステイプルトン:監督を含むブックマーク

 「B級映画の帝王」と呼ばれるロジャー・コーマンの偉大な軌跡を、多くの人へのインタヴューを交えて描くドキュメンタリー。アメリカでは「B級映画」というのはどうやら「搾取映画」と呼ぶらしい。この映画の原題も「CORMAN'S WORLD: EXPLOITS OF A HOLLYWOOD REBEL」というものだけれども、ここでのEXPLOITS というのは「偉業」という意味もかけているんだろう。

 彼は映画に「芸術性」など求めたわけではなく、ただ「客の入るテーマ」をみつけること、要領よく低予算、短期日で映画を製作することのみを追い求めるわけだ。こうやって彼の作品を見渡すと、つまりはまさに60年代に若い世代にフィットする作品群をつくりはじめるわけで、そのことが「アメリカン・ニューシネマ」を生み出したことがよくわかる。また、70年代以降、たとえば「ジョーズ(JAWS)」や「スターウォーズ」などのメガヒット作品の原点にもまた、ロジャー・コーマンの低予算作品群があったわけである。

 そんな彼も、いちどは映画で自分の主張を述べようとしたこともあり、それが1962年の「侵入者」(監督もロジャー・コーマン自身)で、彼の唯一の「社会派」作品といわれるもの。おそらくは彼の作品でいちばん評価の高いこの作品、それでも彼には珍しく興行的には大失敗となる。インデペンデント映画製作者としての彼は、きっとこの結果に懲りたわけだろう。それで二度とシリアスな作品はつくろうとしなかった。そのことが「残念」なことなのか、それとも別の面で観衆をリードし続けたことを「善し」と考えるのか。

 ただ、彼はヨーロッパ映画などの海外作品の配給公開にも力を尽くしていたわけで、ベルイマンやフェリーニの作品が彼の会社を介してアメリカで公開されている。コーマン自身はそういうベルイマンやフェリーニ、アントニオーニやクロサワの映画のファンだったらしい。つまりは映画を愛する人で、ただ「儲かるから」という理由だけで映画製作を行なっているわけではないことがわかるだろう。

 このドキュメンタリーからも、彼がアメリカの多くの映画人に愛され続けているのがとても印象的で、それは彼の人がらによるものにプラスして、彼の映画への「愛」によるところこそが大きいのだろう。

 

 

[]「LUCY/ルーシー」(2014) リュック・ベッソン:監督 「LUCY/ルーシー」(2014)   リュック・ベッソン:監督を含むブックマーク

 ‥‥こういう「映画」を目の前にして、いったいどのような反応をすればいいんだろう? 昔よくいわれた「トンデモ映画」のひとつとして、その呆れ返ってしまうディテールのみをちょこっと記憶に残しておけばいいようにも思うし、やはりここでも魅力的なスカーレット・ヨハンソンの(先日観た「アンダー・ザ・スキン」のスクリーンでの魅力には及ばないものの)暴走ぶりを楽しむべきだろうか。

 「通常は10パーセント程度しか機能していない脳が、100パーセントへ向かって覚醒していく」ということなのだけれども、その覚醒率が上昇すると物理的にその個体の外の世界にまで影響を及ぼせるわけだ。けっきょくは毛色の変わった「超能力」モノ以上のものとも思えず、そのあたり、やはり脳の10パーセントぐらいしか機能させないでつくる側にも、脳の10パーセントぐらいしか使わないで観る観客にも、限界があるということだろうか。

 映画作品としては乱暴なもので、とにかくはCGを全面開放させた画面から映画的なものを読み取りなさいといわれても、わたしの脳はそこまでも覚醒されていないことを感じるだけ。


 

[]金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 4 「映画、柔らかい肌。映画にさわる」金井美恵子:著 金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 4 「映画、柔らかい肌。映画にさわる」金井美恵子:著を含むブックマーク

 いままでも、金井美恵子の映画に関するエッセイを読むことは多かったのだけれども、そのクネクネと長ったらしいセンテンスの文体と、かなりに党派的な視点などなどにひっかかることも多かった。それでも彼女の否定するような作品、監督を切り捨てるときの文章の小気味良さはあるし、彼女が取り上げなければわからないような、古典とされる作品の良さを、まずはたとえ文章の上からだけでも読み取れば、その作家なり作品への注目度も変わって来ることを認識出来る。

 このエッセイ集には長いふたつのインタヴューと、その装丁や作品以外では顔を見せることのない姉の金井久美子さんのインタヴューも掲載されていて、彼女たちのシネマニア(シネフィル)ぶりがあらためて再認識させられる。とにかくはほんとうにことばもわからないような幼少期から母に連れられて映画館に通い、その時期の映画の記憶も残っているということには驚かされてしまうわけだけれども、実はわたしでも、四歳のころに両親に連れて行かれて観た映画の、その直接の記憶ではないけれども、スクリーンを観ながら母の発した感想のことばを、今でもなお記憶していたりもする。

 しかし、やはり映画というものを語ること、その感想を書くことにしても、過去の記憶からのレファレンスというものがあってこそのことで、彼女の場合はその膨大なレファレンスから生み出される文章に圧倒されるしかないわけである。

 わたしのことを考えて、たいていの記憶を失ってしまった今、映画について語ること、書くことについて絶望的な気分に陥らざるを得ない。このことは何も映画に限らずも舞台や文学、美術や音楽(このあたりの記憶はかなり残っているのだけれども)について語り、そして書くときにもおなじように感じざるを得ないことではある。個人的なことを書けば、そのことで先日観たある公演に関して、その感想/批評をある雑誌に書いてみないかと誘われたのも、断ってしまったことがある。とても書けはしないのだ。この日記にしても、かなり苦労して書いている。

 金井美恵子の本に戻って、そういう彼女の記述の中で例えばウディ・アレンを否定されたり、チャップリンの「街の灯」以降の作品のあまりのセンチメンタルさに辟易するなどとと書かれるとき、わたしのほのかな記憶の中から圧倒的に同意し、「うん、うん」とうなづいてしまうのである。


 

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■ 2014-12-24(Wed)

 四連休のラストの日。きょうは家でゆっくりしていたい気分もあったのだけれども、電車に乗ってとなり駅の市民病院へ行かなければならない日。また待合室でいっぱい待たされなければならないのである。読みさしの金井美恵子のエッセイ集をバッグに詰め、八時ちょっと前の電車で出かけた。

 この日はもう年末も押し迫っているせいか、それとも世間的にはクリスマスイヴというせいか、待合室はあまり混み合ってはいなかった。待ち時間も一時間ちょっと。思ったよりも早く帰宅することが出来た。

 帰宅してからは図書館から借りている「スラムドッグ$ミリオネア」のDVDを観て、そのあとはパソコンにかじりついて、「いったいどんな映画がネット上で鑑賞することが出来るのか」というのを調べてばかりいた。洋画の基本は日本語字幕などついていないのだけれども、そういうのを観ることでも得るものはあるだろう。思いがけなくも、ヴィクトル・エリセの「マルメロの陽光」などという作品が(どうやら中国経由で)アップされているのを発見したりして、この作品はDVDなどにもなっていない、ある意味でわたしには「幻の作品」という認識もあったので、とにかくは驚いてしまったりした。そのうちにきっと、観てみよう。
 そういう「発見」としては、先日観た「追悼のざわめき」などという作品もまた、「Noisy Requiem」というタイトルでYouTube にアップされていることもわかった。

 夕方からは金井美恵子のエッセイをちょっとばかし読み進め、これならばすべて読み終えて、あさってのDVD返却日にいっしょに返却出来そうな気配がする。

 夕食にはまた「中華丼」。もうすっかりハマってしまった。


 

[]「スラムドッグ$ミリオネア」(2008) ダニー・ボイル:監督 「スラムドッグ$ミリオネア」(2008)   ダニー・ボイル:監督を含むブックマーク

 むかし観た記憶として、ラストに出演者らのボリウッド・ダンスがあったことは憶えていた。そのシーンがとっても楽しかったはずなので、このDVDを借りて来たもの。

 監督はダニー・ボイルで、この人の演出(「トレインスポッティング」など)はなんとなく記憶にある。その記憶通りにギミックな演出なんだけれども、とにかくはこの作品はストーリー展開が面白い。TVの番組収録の現場から主人公のスラム街での生い立ちにフィードバックし、そのクイズ番組の進行と主人公の成長がシンクロする。そのなかで生を賭ける純な愛がドラマチックに成長していくさまも描かれていく。

 ストーリーでいえば、いったい何で主人公が英語ペラペラになったのかがよくわからないところはあるけれど、まあいいや。とにかくはラストは「駅」で、その駅でのダンス。
 このあとにあの「ジャージーボーイズ」を観ちゃったもので、このラストに出演者全員が顔を見せて踊ってくれたら最高なのになあ、などと思ってしまうのだけれども、やはりストーリーの呪縛から解き放たれたかのような、この至福のダンス。素晴らしいものだと思う。

 

 

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■ 2014-12-23(Tue)

 きょうはまた池袋の新文芸坐へ。現在「シネマカーテンコール2014」と題して、今年公開された映画(主にマイナー系)からのセレクション作品が上映されていて、わたしはその中の「アンダー・ザ・スキン」という作品が無性に観たくなったというわけ。いっしょに上映される「複製された男」というのも、なんだか面白そうではある。

 文芸坐でちゃんと座って観ようと思えば、朝いちばんの上映から観れば確実なわけだから、ちょっと早出をする予定。映画を二本観終わってもけっこう早い時間だろうから、そのあとは東京駅にまわって、開催中のウィレム・デ・クーニングの展覧会を観ようかと思う。そのあとはちょっとひとりででも飲んで来てもいいだろう。

 朝は七時半ごろに家を出て、池袋に着いたのが九時四十五分ぐらい。二本の映画を観ると昼食時間をまたいでしまう。映画館へ行く道しなにコンビニに立ち寄って、サンドイッチを買っておく。それで映画館の開場は十時、開演は十時半だから、ちょうどいい時間配分になる。映画館に着くともうすでに開場を待っておられるお客さんもけっこういらっしゃったのだが、わたしはわたし好みの席に座ることが出来た。つまりは通路のすぐ脇の席なんだけれども、この席なら、両側から見知らぬ人にはさまれるという、ちょっとした不快感から逃れることが出来る。こういうコンフォート感が大事。

 先日の五社英雄監督の特集のときにはもう客席のほとんどが年配の男性客だったけれども、きょうは若い男性客も多く、けっこう若い女性の方の姿も目につく。上映がはじまるころにはほぼ満席になった。

 映画の感想は下に書くことにして、二本の映画を観て外に出てもまだ三時前。きょうも晴天で、寒いとはいっても、このあいだの雨の日のような寒さではない。JRの駅に行き、山手線で東京駅に行く。

 次の目的地のブリヂストン美術館は東京駅の八重洲口から近い。おそらくは、この美術館に来るのははじめてのことになるんじゃないだろうか。思ってたよりも小さい美術館という気がした。展覧会の感想なども下に。

 ゆっくりと展覧会を観終わって四時半ぐらいだっただろうか。実はこのあと有楽町の方へ出て、下調べしてあった居酒屋で飲もうという計画がある。
 もう暗くなっている都心の通りは、クリスマスのイルミネーションに埋め尽くされている。日本人のノーベル賞受賞を祝ってか、例の青色LEDによるイルミネーションが目立つ。
 有楽町の駅の近辺に到着したのだけれども、その目星をつけていた居酒屋がどうにも見つからない。それではと上野まで移動して、たまに行ったことのある居酒屋に行くことに方針転換。升酒を飲ませてくれる「たる松」という店である。とにかくは日本酒が旨い。ここでは寒いからといって熱燗などにしてはいけない。冷酒を升で飲む。これでちょっとほっこり出来るのだけれども、きょう飲んでいて思ったのは、この店は料理類が弱いということ。他の店のような多彩なおつまみ類は扱っていない。まあオーソドックスといえばそうなんだけれども、わたしとしては〆さばだとかかつおのたたきなどはぜひ欲しかったところ。

 七時をまわったあたりで店を出て、上野駅始発の宇都宮線で帰宅。あしたはまた休み。わたしの四連休もあしたで終わりだけれども。


 

[]「アンダー・ザ・スキン 種の補食」ジョナサン・グレイザー:監督 「アンダー・ザ・スキン 種の補食」ジョナサン・グレイザー:監督を含むブックマーク

 監督のジョナサン・グレイザーという人、Radiohead やMassive Attack などのプロモーション・ヴィデオで知られた人らしく、十年ほど前に公開された「記憶の棘」などという監督作品があるみたい。

 この作品の舞台はスコットランドのようで、出てくる街並はグラスゴーなのか。その街並や森の木々、そして海岸などの、空撮をまじえての映像が記憶に残ることになる。抑えた深い緑の色調が美しい。

 説明を排した映像から、登場する主役のスカーレット・ヨハンソンが地球人ではないことは推測がつく。というか、外側は地球人の皮膚をかぶって偽装していて、その魅力的な姿で男たちを誘って「補食」している。男の姿をした仲間が彼女とは別行動していて、彼女の活動のサポート(後始末)などをやっている。「補食」シーンの、シンボリックな撮り方がおもしろい。セリフも少なく、バックに流れる音楽がいい。

 そのスカーレット・ヨハンソンが、いつものつもりで象皮症らしい男性を誘うのだけれども、その男性の対応でもって、彼女の中の何かが狂いはじめるわけだ。おそらくはただ「餌食」にしているだけだった人間の、その内面(おそらくはその「性」意識)にはじめて思い到ることになったというか、その行動が狂いはじめてしまう。

 ラスト近く、表皮の人間のマスク(もちろんスカーレット・ヨハンソンの顔)を自らはぎ取り、そのマスクをじっとみつめる異星人の姿、また、そこでのスカーレット・ヨハンソンの表情がとっても素晴らしかった。印象としては「哀しみのエイリアン」とでもいうようなところがあり、ちゃんとした映画のカラーを持っていることに感心したし、つまりは心に残る作品となったわけである。

 

 

[]「複製された男」ジョゼ・サラマーゴ:原作 ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督 「複製された男」ジョゼ・サラマーゴ:原作 ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督を含むブックマーク

 原作のジョゼ・サラマーゴという名前、なんだか聞いたことがあると思ったのだが、ポルトガル出身のノーベル賞作家だった。といってもわたしは読んだことなどないわけだし、ただ「純文学っぽい映画なのか」と思うぐらいである。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はカナダの人で、過去に「灼熱の魂」などという作品があるらしいのだが、この「灼熱の魂」のDVDはわたしの地元の図書館に置いてあるので、こんど借りてみてもいい。

 さて、ちょっと調べてみたところでは、この作品の原作の原題は「The Double」で、映画の原題は「Enemy」ということ。観始めるとしばらくして、主人公(ジェイク・ギレンホール)にまるでそっくりの男が現れ、そこから物語が動きはじめる。

 ‥‥こういう場合、その分身は自分の妄想の産物だということはだいたい決まりきったことである。そうすると、この作品自体が「妄想」を描いた作品だと想像して観て行って、そんなに間違えることもないだろう。自分の目の前に出現する自分にそっくりな男とは、つまりは自分がつくり出した存在であろう。

 ではそこで、この作品はどのようなふくらみ、どのような展開を見せるのか。‥‥このあたりでわたしは大いに不満があるのだけれども、この作品、その「妄想」の謎解きさえすればそれでおしまい、という風情がある。「答えを見つけましょう」というところから外に、作品としての魅力が見つけにくい。

 書いておけば、この作品で描かれていることの中での「リアル」なものとは、つまりは主人公と、ちょっとだけ出てくるその母親(なんと、あのイザベラ・ロッセリーニが演じていた!)だけのことだろう。それ以外、もちろん分身の男もその妻も妄想の産物だろうし、最初から登場する主人公の恋人もまた、彼の最初の妄想の産物ではあっただろう。

 なんかここで自分の読み解き方を書くのもばかばかしい気がしないでもないけれども、「覚え書き」として書いておこうか。

 つまり実際の主人公には奥さんも彼女もいないし、大学教授でもない。何もないアパートで自堕落に一人暮らししているんだろう。まずは彼女がいるという妄想に取り憑かれているんだけれども、母親にあれこれ言われ、「ちゃんとしなくっちゃ」的に大学教授になった妄想。でも遊んでいたいしフラフラしていたいので出て来たのがアンソニー(分身)。それでそんなアンソニーを「しっかりしろ!」と支えるのに妊娠した妻という妄想も(このあたり母親の影響=ラストにつながる)。

 終盤に妄想が肥大してしまってなんとか現実に戻ろうと、まずはアンソニーと愛人を交通事故で消し、じゃあ残った妻も消すわけだろうと思って観ていたから、ラストはあんまり驚かなかった。「そう来たか!」という感じ。蜘蛛はやっぱり「母親」だろうね。これはルイーズ・ブルジョワを参照。

 そう、彼女が「妄想」であるというのは、中程の「タクシードライバー」の引用からもわかる。この引用部分は主人公の「リアル」な体験、なんだろう。


 

[]「ウィレム・デ・クーニング展」@京橋・ブリヂストン美術館 「ウィレム・デ・クーニング展」@京橋・ブリヂストン美術館を含むブックマーク

 デ・クーニングの作品はけっこう好きなので、前から気にかかっていた展覧会。来月の上旬には終了してしまうようなので、行けるときに行っておこうということで。

 先に書いたように、このブリヂストン美術館というのはそんなに大きな美術館ではなく(ネーミングとしては「ギャラリー」の方が適切ではないのか?)、しかも常設展示を含めたその会場内で、「ウィレム・デ・クーニング展」にあてられたのは二つの展示室のみで、作品数としても四十点にもならないのだった。その上に、この展覧会は主に「ジョン・アンド・キミコ・パワーズ・コレクション」からの展示が多く、それはつまりは展示作品のほとんどが1964年から60年代後半の製作になるものにかたよっていることになる。わたしはそういうところでは彼の50年代の作品を観られるものと期待していたので、ちょっと裏切られた気分になってしまった。

 この展覧会の作品ももちろんいいんだけれども、これはある面で彼の評価が定まってからの作品で、わたしとしてはそうではないところの、「これからのし上がってやるぞ!」という気迫があるような、まさに攻撃的な50年代初頭の作品をこそ観たかった気がするのである。サーモンピンクな絵の具を「えいやっ!」とばかりにカンバスに塗りたくり、そこに「女体」の幻影を観させる作品群もまた、観るものの脳を「ぐちゃっ」とやられるようで、爽快ではあるのだが。

 あとはこの美術館の常設展示を観てまわり、けっこう画集などでおなじみの作品が数多く所蔵されていることに驚いたりした。セザンヌの作品がすごい。わたしは例によってエジプト美術への偏愛から、「聖猫」像がたいそう気に入ってしまい、絵はがきも買って帰った。

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■ 2014-12-22(Mon)

 昨夜帰宅して和室の蛍光灯をつけると、なんと部屋の中でコウモリが飛び回り始めた。どういうことなのか、いったいどこから室内に入ったというのだろう。以前にも室内にコウモリが入り込んだことがあるのだが、あれはいつだっただろうとこの日記で「コウモリ」と検索してみると、今年の正月、一月五日のことだとわかった。ほぼ一年をおいてのこと。この時期には外のコウモリが室内に入りたがるのだろうか。わからないけれども、昨夜帰宅して玄関のドアを開けたとき、わたしといっしょに室内に入り込んだのではないだろうか。ほかはすべて閉め切っているので、そうとしか考えられない。

 とにかくはコウモリに出て行ってもらわなければならないので、まずはニェネントが外に出ないようにリヴィングに移し、和室を閉め切ってから窓を大きく開け放った。これで出て行ってくれればいいのに、やはり室内の方が明るくて暖かいからいいのか、蛍光灯のまわりをグルグルと飛び回るばかり。飛んでいるコウモリはかなり大きく感じられ、和室の中はほとんどテーマパークのホラー・アトラクション・スポットみたいになっている。あとはドラキュラの登場を待つだけ、みたいな。

 ほうきを持って来て、飛んでいるコウモリを追い払おうともしたのだけれども、これも空振りばかり。困ってしまう。それでもしばらくするとコウモリも飛び疲れたのか、壁にぴたりととまってしまう。壁にとまったコウモリは飛んでいるときの大きさが嘘のように小振りで、まさに折り畳まれたコウモリ傘というところ。ここでチャンスと思い、空のゴミ箱をコウモリにかぶせ、壁との間にすき間をあけながら雑誌を差し込んで行く。うまい具合にゴミ箱の中に収まってくれたので、これをベランダに持ち出して中身を外にポイした。ようやく、コウモリの呪縛から解放された。疲れた。

 さて、きょうは二日連続遠出のあとの中休みの一日で、四連休の二日目。またあしたは東京へ出る予定なので、ほんとうに「骨休め」という感覚で、ほとんどは何もせずにゴロゴロと。午後からはちょっと買い物に出て、安かったキャベツ丸ごとと白菜丸ごととを買う。考えてみたら、これだけの量のキャベツや白菜をひとりで消費し切るには相当に日にちがかかるだろう。年内は当然として、お正月もずっとキャベツと白菜で、ということになりそうな気配。それできょうの夕食は、またまた白菜を使った中華丼。だんだんに調味料の分量もわかってきて、つくるごとにおいしくなる。

 きのう買った「カブトガニの不思議」、薄い新書判なので、きょうにはもう読み終えてしまった。


 

[]「カブトガニの不思議 ―『生きている化石』は警告する―」関口晃一:著 「カブトガニの不思議 ―『生きている化石』は警告する―」関口晃一:著を含むブックマーク

 「カブトガニ」の文字を読み、ふいに北九州ですごした子供の頃のことを思い出し、この本を買ってしまった。あまりに古い記憶は、わたしの場合ぎゃくに消えることもなく残っている。

 カブトガニは魅力的な生き物だ。四億年前からこの地球上に存在し、今に至るまでほとんどその姿を進化させてはいない。その表側はまさに「カブト」のように、甲羅でしっかりと武装しているように見えるが、これを裏返すとかなりグロテスクで、表の甲羅の部分を取り外してしまえばあの映画「エイリアン」に登場するフェイスハガーを彷彿とさせられるものがある。いや、じっさいにフェイスハガーのデザインにはこのカブトガニの姿が大きく影響していることと思う。とにかく、わたしの中のDNAの持つ記憶があると想像して、その太古の記憶を呼び起こすような生き物ではないだろうか。

 カブトガニは世界に四種類だけが存在し、東〜南アジアに三種類がいて、アメリカの東海岸に「アメリカカブトガニ」一種のみが存在する。どうやらアジアの三種は近年その数が激減しているようだけれども、アメリカカブトガニはまだまだ相当数がいるらしい。日本でもまさに数が激減し、地域的に天然記念物に指定されているということで、おそらくはわたしが幼い頃にカブトガニを見た海岸でも、今ではもう見られなくなっていることと思う。

 カブトガニの数が減った原因はもちろん、人間による海岸の開発によるものだという。カブトガニの産卵に適した入り江が埋め立てられてしまうことがいちばんの原因なのだろう。月の満ち欠けに合わせて、つがいで海岸近くに上がって来て産卵するカブトガニ。なんとなく可愛らしくも思えてしまう。

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 このカブトガニでいちばん驚くのはその血液の性質で、これがある種の菌や毒物に触れると、それが非常に微量であっても、カブトガニの血液は凝固してしまう。この性質を利用して、ヒトの血液やワクチン類、さらには薬剤や医療器具製造時の毒性チェックに使われるということ。ものすごく、人のために役立っているのだ。

 とにかくわたしの中にはカンブリア紀の生き物など、奇妙なものを愛好するところもあるわけで、この実際に今も生き続けているカブトガニに強い興味を持ってしまった。岡山に行くとカブトガニ博物館というものもあるらしい。行ってみたい。

 

 

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■ 2014-12-21(Sun)

 きょうも観劇。下北沢で「鉄割アルバトロスケット」の公演である。もちろんきょうもマチネ公演の観劇で(たいていのソワレ公演だと帰宅出来なくなる)、一時半に受付が始まるので、その前にあちらで昼食をとるとして、こちらは十時半の電車に乗ればいいことになる。しごとも休みなので、朝はかなりゆっくりと出来た。きのうの夜は冷たい雨が降っていて寒かったけれども、きょうはもう雨もあがっている。まだ雲は多いけれども、予報では晴れるといっていた。

 車中では図書館から借りている金井美恵子の映画エッセイ集を読み、読みやすいこともあってけっこう読み進んだ。渋谷まで出て、井の頭線で下北沢に移動。下北沢に出るとき、井の頭線を利用する方が運賃も安いし、下北沢駅で階段をいっぱい昇ったりしないで済むから楽ではある。下北沢に着いて時間はだいたい十二時半。まずは食事と、いつものように中華料理屋を探すのだけれども、つまりけっきょくはスズナリにも近い「雪国園」という中華の店に行くことになる。五目焼きそばを注文。かなりのボリューム。味もいい。これからの下北沢での食事はやっぱりココかな。

 食事を終えて、まだ受付開始には時間があるので、近所の古本屋に寄ってみる。飛び込んだ店の入り口近くの書棚にあった「カブトガニの不思議」という岩波新書が気にかかり、手に取ってめくってみても面白そうなので、値札も安いこともあって買ってしまう。わたしは九州にいた頃に家族で海水浴に行き、その海岸にいたカブトガニに取り憑かれ、家まで持って帰ったことがある。じっさいにカブトガニに触れてさわった体験があるのだ。たしかに不思議な生物。好きである。

 受付時間になったのでスズナリに行き、整理番号7番をゲットする。またあと開場時間まで三十分の時間をつぶさなければならないのだけれども、こんどはすぐそばのDisc Union に入って棚を見て歩く。Monochrome Set のアナログ盤などがあって、安かったので欲しくなったりする。「G」に持って行ってかけてもらえばいいのだけれども。店内にアナログ盤をかけるレコード・プレイヤーが一万円ぐらいで売っていたのがちょっと欲しくなったけど、もうウチにはアナログ盤は皆無になってるんだった。

 スズナリ開場。通路脇のいい席をゲット出来た。わたしのとなりに来たお客さん、さっき「雪国園」で向かいの席にすわっていたカップルだったりした。開演して、楽しい、楽し過ぎる舞台を満喫。

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 終演後、やはりそのスズナリの脇の坂道をのぼって、「G」へ行く。きょうは静かな「G」で、リラックス出来た。やっぱり「G」はこうでなければと思う。そう、さっきの鉄割の舞台でもらったパンフの、「ご協力ありがとう」リストの中に「G」の名も書かれていたことをオーナーのGさんに話すと、「身に憶えがない」みたいな反応。あとからいらっした店のHさんもわからなくって、とにかくは興味を持ってくれて、パンフのコピーなどを取られたりする。鉄割のどなたかか、「G」の客だったりしたのかもしれない。

 「G」を出たあと、またひとりで飲もうかとも思ったけれども、そういうのはあさってに持ち越して、きょうは直帰することにした。帰りの電車でも金井美恵子をかなり読み進んだ。いい「年忘れ」の一日になった、だろうか(まだ今年は十日もあるけれども)


 

[]鉄割アルバトロスケット「鉄割の6」戌井昭人:作 牛嶋みさを:演出 @下北沢・ザ・スズナリ 鉄割アルバトロスケット「鉄割の6」戌井昭人:作 牛嶋みさを:演出 @下北沢・ザ・スズナリを含むブックマーク

 この日記をみると、前に「鉄割」を観たのは去年の一月のことみたいだから、約二年ぶりの観劇。まだ「馬鹿舞伎」はやっているのだろうかとか、キャラクターに変わりはないのだろうかとか、いろいろな憶測をまじえて、楽しみの舞台。

 幕開けから、「舞台幕を固定するフックがない」とか戌井さんが言い出して、けっこうマジに「事故なの?」というのがちゃんと演出で、次の演目につなげるあたりで面白がってしまうわたし。いつものように三十以上の演目で、「まいったなあ〜」とか、「これはイマイチ」みたいな連続。今、そのパンフの「本日の演目」リストを見て、そのうちのいくつかが「どんなんだっけ?」とまるで思い出せないのは、やはりわたしの記憶力はヤバいということなのか。

 いつも危なっかしい中島弟さん、なんだかダイエットしてイケメンに変身していて、ちょっとはマトモになってしまった感じもある(やはり危ういけれども)。「この人、マジに尋常じゃないかも」と怖かった村上さんも、なんだか丸い印象になっていた。でもやさぐれた役はやっぱり彼。東陽片岡さんはやはりマイペースだし、中島兄は骨と皮。今回の女性パートは南米からの女性(ハーフ?)が担当されていた。あまり名前を出したくないけれど、「笑い」ということではセンスの感じられない出演者もいたかもしれないな。

 以前の「馬鹿舞伎」はなくなったけれども、それを引き継ぐ村上さんと中島兄とのパフォーマンスはあって、やはりこのあたりは最高。それと、もう芸を極めた感もある奥村さんの舞台は、この日一番の爆笑だっただろうか。「園まなぶ」、以前もやっていたような気がするけれど、これでフルにリサイタルをやっていただきたい気分。

 ま、いろいろあるけれども、久々の鉄割舞台、とにかくは堪能いたしました。

 

 

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■ 2014-12-20(Sat)

 きょうはしごとのあと横浜へ出かけ、チェルフィッチュの公演「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」を観る。マチネの回は午後二時に開演するので、かなり早めに家を出なければ間に合わない。しごとを終えて帰宅して、あわただしく着替えをして朝食も簡素版にして、ニェネントのごはんを山盛りに出してあげて家を出る。九時三十九分の電車。ターミナル駅で湘南新宿ラインに乗り換えれば、あとは乗り換えなしにまっすぐに横浜まで行ってくれる。横浜からみなとみらい線に乗り換え、元町中華街で下車。時間は十二時半をまわったところ。会場の神奈川芸術劇場には過去に何度も来ているはずだけれども、地形的にまるでわからない。先日の横浜駅周辺でもそうだったけれども、はじめての土地という感覚。とにかくはチラシの地図をたよりに歩く。食事もしておこうと思っていたのだけれども、ちょうどあたりは中華街で、わたしの目指す中華料理店は山ほどある。というか、それ以外の店はないくらいに。
 歩いていた道の左手にまさにその中華街の街並が見えたので、そちらへ道をとり、あんまり豪華ではなさそうな、気楽に入れる店を選んでドアをくぐる。「五目焼きそば」を注文。つまりは「五目あんかけかた焼きそば」だった。時間はたっぷりあるので、ゆっくり食べる。おいしかった。さすがに中華街。
 店を出ると、目的の神奈川芸術劇場は目と鼻の先で、ちょうどあと十分ほどで開場の時間でもあるし、まっすぐに劇場に向かい、ロビーで待つ。
 あまり待つこともなく開場されて、チケットの整理番号中の入場。わたしの番号は百何十番というところだったけれども、劇場内はそんなに混み合っている感じでもなかった。「前の方がいいかな」などと思って、前から二番目の、通路に面した席を選んだ。しばらくして開演時間が近づいてくると、劇場内は満員になった気配。後ろを見渡してみたけれども、この回の観客にわたしの知っている方の姿は見られなかった。

 開演。「ああ、<チェルフィッチュ>タッチの舞台を久々に観たな」という感覚。ラストにはちょっとばかし陰鬱な気分にもさせられて、さすがにチェルフィッチュ。

 終演時でだいたい四時。外は予報どおりに雨が降り始めていた。もうこのまままっすぐ帰宅することにして、帰りはみなとみらい線は使わずに、JRの関内駅まで歩くことにした。そんなに歩くわけでもなく、横浜スタジアムの脇を通り抜けるとすぐに関内駅があった。駅の近くで軽く飲めるところがあったら寄ってもいいかな、などと思ったけれどもそういう店もなく、電車に乗る。横浜駅でそんなに待たずに湘南新宿ラインの快速が来て、すぐに座ることも出来た。電車の中では、きのう図書館で借りた金井美恵子の映画エッセイを読み進める。きょうは電車の中で眠くなることもなく、読書もはかどった。

 自宅駅で降りて午後七時過ぎ。雨は強くなっている。炊いて保温にしてあるご飯はあるので、北のスーパーに寄って惣菜など買い物をして帰ることにした。野菜類はあまり安くなかったので買うのをやめ、けっきょく「おでん」のセットを買って帰った。なんだか、思ったより高くついてしまった。帰宅しておでんをあたためて食事。あとはネットをチェックしたり、読みさしの本を読んだりしてすごした。読んでいた「悪意の森」という本、ようやく読了した。

 あしたもまたお出かけ。早く寝よう。


 

[]チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」岡田利規:作・演出 @横浜・KAAT神奈川芸術劇場 チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」岡田利規:作・演出 @横浜・KAAT神奈川芸術劇場を含むブックマーク

 舞台の奥と上手にはコンビニの(主にドリンク類の)棚が実物大にプリントされた幕。この幕は半透明で、裏側に人がいても微妙にわかるようになっていた。

 ふたりのコンビニ店員が店長のうわさ話をしているところから舞台は始まり、登場人物はこのふたりと店長、それと新入りの女子店員(音楽系の演劇をやっているとか)、毎日アイスクリームを買って行く女性客、いつも何も買わないでコンビニという存在に否定的なことを言い続ける男性客、口のきき方が極めて乱暴なコンビニ本社のスーパーバイザー(SV)の六人だけ。

 チェルフィッチュの舞台らしく、というかさらに誇張するように、出演者たちはダンスのようなラジオ体操のような動きをみせる。「三月の5日間」などの記憶では、そのような動きは現実に若者たちが会話するときの動きを誇張したものと受けとめられた気がするけれども、この舞台の動きのほとんどは、「そんな動き方、いくらなんでも異様ではないか」というものが多い。特に男性店員の二人。店長の動きはどこかロボットめいて見えたりもしたわけだけれども、彼の場合は彼自身がコンビニ本社のロボット的に動く人物という解釈もあるので、そういうことか、という気もしないでもない。

 コンビニをめぐる小話をあれこれと寄せ集めたところもあり、かつて書店で接客アルバイトをしたことがあるわたしにも、「そういうの、あるある!」てな感覚を抱かせられるのだけれども、メインのストーリーとしては、それまで売られていたアイスクリームの販売が突然ストップされ、その後に、タイトルにある「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」という新商品アイスクリームが販売されるようになる。女性客はアイスクリームが買えなくなってがっかりするのだが、新入り女性店員が客に「こんど、新製品が発売されますよ」と教える。期待した女性客がその「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」を買ってみるのだが、どこか風味が変わってしまっているのでがっかりして苦情を言う。女性店員は過剰な期待を持たせた責任を取って仕事を辞めるというわけ。ここに男性客のコンビニ批判や、店長とSVとの本社指令をめぐるやり取りなど。

 いろいろな視点を取れる作品だとは思う。例えば、対照的な仕事への向き合い方をみせるふたりの男性店員の差異に、アルバイトなど非正規な労働に従事する若い観客らは、その労働への立ち向かい方を考えるきっかけにもなるのかもしれない。これに付随して、舞台で描かれた「顧客対応」のことも出てくるだろう。

 いちばんのテーマは、「コンビニエンスストア=コンビニ」というあり方についてだろうけれども、「利便性を売る」店舗という性格を持ちながらも、顧客のニーズを先取りした独自の商品開発によって、「ニーズをつくり出す」という側面も強くなるだろう。わたしがすぐに思いつくのは「コンビニ弁当」とか。ああいうものをなぜコンビニが売るようになったのか、あまり必然性が感じられなかったりもするわけだけれど、今では広く一般的に手軽な食事手段として流通しているわけだろう。おおげさにいえば、「欲望」を与えて求めさせる構造もつくり出しているだろうか。

 わたしはアイスクリームのことは分からないけれども、「スーパープレミアム特盛りWのり弁リッチ」なんていうのがあってもおかしくないと思った。コンビニ弁当というもの、ほとんど食べたことはないが。

 役者さんたちのことをみれば、先に書いたロボットのような動きをみせる店長(ラストシーンがよかった)とか、呆然とした顔のおかしい、「じっさいにこういう人、いるかも」という動きを見せてくれた女性店員を演じた役者さんがよかった。女性店員の役者さん(川崎麻里子)は、「東葛スポーツ」などの舞台に出てらっしゃるような。「東葛スポーツ」は来年一月に公演がある。観に行きたい気もする。

 

 

[]「悪意の森」(上・下)タナ・フレンチ:著 安藤由紀子:訳 「悪意の森」(上・下)タナ・フレンチ:著 安藤由紀子:訳を含むブックマーク

 古本屋で安く売っているのを開いてみて、何となく面白そうなので予備知識ゼロで買ってみた本。

 主人公は殺人課の刑事なのだけれども、ローティーンの頃に友人二人と森の中で遊んでいて行方不明になり、主人公のみが記憶を失った状態で発見されたという過去がある。あとのふたりはその後二十年経てもすべて不明のまま。このあたりのことが先日観た映画「デビルズ・ノット」でも描かれた「ウエスト・メンフィス3」の事件を彷彿とさせられるわけで、著者もこの事件から発想を得ていたことはまちがいないことだと思う。わたしもそういう興味から読み始めたわけだけれども、けっきょくはその二十年前の事件は解決しないままでこの本は終わる。そうではなく、その二十年後に主人公が記憶を喪失した事件の森で少女が惨殺されるわけで、主人公刑事はその事件の捜査を同僚の女性刑事と担当するというのがメインのストーリー。

 かなり字数の多いページで400ページの文庫で上、下巻。読むのに時間がかかったし、「そんなことまで書くのか」というような、主人公の日常の些細なことまで克明に記述される。さいしょのうちはそういう描写から作品に厚みがもたらされるものと思って読んでいたけれども、途中からは「これはいくらなんでも冗長なだけ」と、かなり速読で読み進んだ。じっさい読み終わってみてもそこまで重厚な作品という印象も残らないわけで、ぱっぱか読み飛ばして、終盤の百数十ページだけキチンと読めばいいではないか、という感想にもなる。

 メインの事件だけれども、この犯人像と犯行経緯(?)というのはなかなかに面白く読めた。原題は「In The Wood」なんだけれども、この「悪意の森」という邦題、読み終わってみるとなかなかにフィットする。そういう作品。ちょっとばかり「イヤミス(憶えた言葉をさっそく使ってみた)」なテイストもあるだろうか。その犯人の「悪意」に、わたし好みなところはあった。


 

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■ 2014-12-19(Fri)

 あさってからは四連休ということになった。そのあとも年内は連休が続き、あと三日出勤すれば新年になってしまう。正月の休みはないけれども、たくさん休めるのはやはりうれしい。いちおう四連休の予定はかたまっていて、あしたはしごとのあとに横浜でチェルフィッチュの公演、あさっては下北沢の鉄割アルバトロスケット。22日は休養日で、23日は池袋で映画を観る。24日も休養日。そういう予定。
 基本的にわたしのしごとは早朝なので、出かける予定のある日にしごとが休みになるよりも、その翌日が休みになる方がありがたい。帰宅が遅くなってもゆっくり朝寝が出来るし、最悪外泊も出来るわけだ。そういうところでも、この四連休はありがたいスケジュール。

 きょうはきのうの強い風もおさまり、晴天のおだやかな一日だった。昼前に図書館へ行き、借りていた本とDVDを返却し、新しく借りて来た。本は金井美恵子のエッセイ集の「映画、柔らかい肌。映画にさわる」で、DVDはダニー・ボイルの「スラムドッグ$ミリオネア」。図書館のDVDコーナーがスカスカになっていて、在庫の整理中というような紙が貼ってあった。以前から、ネットで検索すると「貸出可」になっているのに、館でみてみると「貸出中」になっているものがかなりあったけれども、どうやらそういうDVDが棚から消えているようだ。デヴィッド・フィンチャーの「ソーシャル・ネットワーク」や「ベンジャミン・バトン」などもそういう経緯で消えていた。ひょっとしたら現物が失せているのかもしれない。もう観られない可能性もありそう。そうだとすると残念。

 ちょっと久しぶりにニェネントにブラシをかけてあげたら、いっぱい毛が抜けた。なんだかからだもひとまわり大きく太ったようで、冬仕様にモード切り替えしてるんだろうか。

 夕食はまたまた中華丼風の野菜炒めで、きょうは実際にご飯にぶっかけてモロに中華丼仕様にしてみた。かなりおいしい。材料も安上がりだし簡単だし、冬はこのメニューを乱発しようかと思う。


 

[]「タクシードライバー」(1976) ポール・シュレイダー:脚本 マーティン・スコセッシ:監督 「タクシードライバー」(1976)   ポール・シュレイダー:脚本 マーティン・スコセッシ:監督を含むブックマーク

 そうか、こういう映画だったのか。ちょっと、今ならばデヴィッド・フィンチャーなんかが違う掘り下げ方をして描いても違和感がないようなプロット、だろうか。クライマックスの銃撃戦など、かなりフィンチャーの演出を思い出させられたりした。

 冒頭の原色ギラギラの夜のニューヨークの街、そこにかぶさるバーナード・ハーマンの音楽が切ない感覚を増大させ、なんか自分の中のどこかに潜んでいた記憶が呼び起こされる感覚になる。「これは何なんだろう?」と考えたりする。

 前半はロバート・デ・ニーロがシビル・シェパードといい具合に発展して、それが破局に到るわけだけれども、ここのドラマがとてもよくって、後半の狂気に流れて行く。ラストにもういちど、冒頭のシーンと同じく原色の夜の市街が映されるけれど、そうか、これって、自分の中の何かしらの「喪失感」が呼び起こされるわけだ、と了解した。

 わたしは時間の記憶があいまいになってしまっているので、映画の中の暴力描写として、まずはこの「タクシードライバー」があって、それから「ゴッドファーザー」へと受け継がれるような映画史的なことを考えてしまったのだけれども、これが大きな間違いで、「ゴッドファーザー」は1972年。この「タクシードライバー」に四年も先んじていたわけだ。よく、この「タクシードライバー」がいわゆるアメリカン・ニューシネマの終焉の作品といわれるらしいけれども、そう考えると、あまりアメリカン・ニューシネマとしては語られない「フレンチ・コネクション」から「ゴッドファーザー」という暴力描写の系譜があって、そのあたりがこの「タクシードライバー」に、ニューシネマ的に収束されたように思えもする。


 

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■ 2014-12-18(Thu)

 このあいだしごとが休みだった日に、けっこう朝寝をしてしまった。何かに顔をツン、ツンとやられた気配で目が覚めたのだけれども、それはニェネントのしわざだった。時計を見ると九時二十分ぐらい。いつもだいたいこの時間にはニェネントのネコご飯を出してあげる時間なので、「ご飯、まだ〜?」ってな感じで、まだ寝ているわたしを起こしに来たのだろう。おそらくはニェネントにもしっかりとした時間感覚があるのだろうということがわかった。それにしてもニェネントに「起きてよ〜」みたいにやられたのは記憶でははじめてのことなので、なんだかうれしかった。

 きょうも晴天だけれども、外はつめたい風が強く吹いていた。日本の北の方に強い低気圧があり、北日本では猛吹雪になっているらしい。あんまり外に出たくない一日だった。

 ネット配信の映画を探すのにちょっと力を入れてしまい、きょうは「ナイト・タイド」などという映画を発見した。日本語字幕はついていなくて、「自動字幕起こし」という英語字幕。これがものすごくいいかげんな代物で、いくらわたしの英語ヒアリング能力がたいしたことがないといっても、この字幕がメチャクチャだということはわかる。「自動」なのだから致し方ないところか。それでもポイントポイントで正しい字幕を付けてくれたので、観ている分にはけっこうヘルプになったところもある。あまりよくわからないシークエンスもあったけれども、全体としてはちゃんと把握出来ただろう。

 夕食はきのうまでのメニューを活かして、同じようなレシピで中華丼めいたものをつくってみた。もやしを入れてみたのだけれども、もやしの臭みがついてしまって、メニューとしては問題点もあり。まあ経済的でおいしい一品ではあったかな。


 

[]「ナイト・タイド」(1961) カーティス・ハリントン:監督 「ナイト・タイド」(1961)   カーティス・ハリントン:監督を含むブックマーク

 日本では「恐怖の足跡」という作品との2in1でDVDがリリースされていたことがあり、B級ホラーとしては一部でカルトな人気を持つ作品。わたしも過去に観たことはあるはずである。

 主演はデニス・ホッパーで、それまで外の世界を知らずに育って来た経歴から、世界を広く知りたいと思っている。西海岸のひなびた町に着き、そこのジャズ・バーで魅力的な女性と知り合うわけだ。彼女は町のアミューズメント・パークの見世物小屋で「人魚」に扮するという役を請け負っているのだけれども、主人公が彼女のことを知れば知るほど、彼女のまわりには疑惑が渦巻き、本当に彼女は人魚なのではという展開になる。ここでの「人魚」とはセイレーンのことのようで、つまりは男を惑わして破滅させるわけである。じっさいに主人公も彼女と潜水したとき、彼女のせいで危うく命を失いそうになったりもする。このあたりの展開はあれこれとミステリアスで、クライマックスのアミューズメントパークのちょっとした映像を含めて、なかなかに楽しませてくれる。

 で、ラストに真犯人(というのか)が提示され、いちおうは主人公の抱いた疑惑に根拠がなかったことが示されたりもするのだけれども、それでもやはりなお謎は残り、主人公が彼女に魅了され続けるであろうことが、ラストのポーの「アナベル・リー」の詩の引用で暗示される。

 見れば分かるように、高校の映画部でも撮れそうなかなりの低予算作品だけれども、そういう制約の中で健闘の一作。周辺のミステリアスな登場人物などもかなりいい。


 

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■ 2014-12-17(Wed)

 おととい新宿に出て、Disk Union のある通り(何という名称の通りなのか知らない)を歩いていたとき、前から台車に銀色の容器を積んで運んでいる女性が来るのが目にとまった。その銀色の容器はつまりは保冷効果のある容器で、わたしもしごと先で同じようなものを使っている。たいていは食品やドリンクが入れられているのだろうけれども、ついその容器を見つめてしまっていた。すると運んでいた女性がそんなわたしに声をかけてきて、「いかがですか? 北海道からスイーツを売りに来てるんですけれども」という。わたしもつい立ち止まってしまい、女性が容器のふたを開けるのを見つめていた。中にはきれいなケースに詰められた、ホワイトチョコのようなスイーツが並んでいた。「おいしそうだな」とちょっと思って、「いくらぐらいなんですか?」って聞くと、「650円から1000円ぐらいです」という。「ちょっと、高いかなあ」というと、女性は「えへへ」みたいな笑顔を浮かべて、「ダメだったな」という感じでふたを閉めて行ってしまわれた。
 って、650円なら決して高いわけではないし、なんか「買って帰ってもいいんじゃないか」って気分になり、その女の人のあとを追おうかとも思ってしまった。でも、冷蔵してあるスイーツをここで買っても、帰りの電車の中で暖房で暖まってしまい、風味が損なわれてしまうかもしれないな、なんてことも考えてやめた。
 しかしあの女の人、わたしが「ちょっと高いかな」と言ったとき、「でもおいしいですよ」とかなんとか、もう一押ししていればわたしは買ってしまったかもしれないのにな。ほんとうは街頭で販売するのはそもそもの目的ではなく、運搬こそがメイン。それで運搬する途中で売れるようなら売ってもいいという程度のスタンスだったのだろうか。そうとも考えにくいけれども、どっちにしても、買ってもよかったな。

 勤め先で来週からの休日割りが出ていて、とにかくわたしは休みがいっぱい。いつも勤務指定表が出たあとでは年次休暇も取りにくく、せっかく年次休暇を取る権利があるのに行使しないで来たわけだけれども、今回はずっと早くから年次休暇の要望を出しておいたわけで、まずは二十一日から二十四日までが四連休だし、そのあとも来週以降、年内はあと三日出勤だけの出勤で済んでしまう。まあ二十日から二十三日まではお出かけで忙しいけれども、あとはゆっくりと休もう。

 午前中はきのう見つけた中国サイトの「リング」を観て、午後からは図書館から借りているDVDの「インセプション」を観た。どちらももちろん過去に観ているのだけれども、どちらももちろん記憶は残っていない。「インセプション」のラストだけは、ちょっと記憶に残っていた。

 夕食はきのうと同じ献立。このメニューは安上がりでおいしい。オイスターソースのおかげだろうか。


 

[]「リング」(1998) 鈴木光司:原作 高橋洋:脚本 中田秀夫:監督 「リング」(1998)   鈴木光司:原作 高橋洋:脚本 中田秀夫:監督を含むブックマーク

 ちょっと前に観たアメリカ版の「ザ・リング」とほぼ同じものなんだけれども、これをたたき台にしてつくられたアメリカ版の方があれこれとすっきりしているのはたしか。「貞子」の素性、残された映像(つまり「呪いのビデオ」)なども、アメリカ版の方がうまくポイントを盛り込んでいる。それでも基本的なプロットも演出もこのオリジナル版から来ているわけで、もちろんそのことは高く評価されなければならないと思う。「呪いのビデオ」の原型も、これはこれでインパクト充分。中田秀夫監督の演出も、スムーズなものだと思う。

 この作品で「貞子」を演じているのは、演劇実験室万有引力の伊野尾理枝さん。「暗黒舞踏」のエッセンスもしかと取り入れた彼女のパフォーマンスこそ、この作品の最大のパワーではあったわけだろう。伊野尾理枝さんは、今でも「万有引力」の主演女優として活躍されている。来年一月にも「万有引力」の公演はあるんだけれども、いちど観に行ってみようかな?


 

[]「インセプション」(2010) クリストファー・ノーラン:脚本・監督 「インセプション」(2010)   クリストファー・ノーラン:脚本・監督を含むブックマーク

 もちろん過去にこの作品も観ているわけで、この日記で検索するとわたしはあんまり評価していないのね。それも、「夢というものはこんなものではない」という論点全開なんだけれども、なんか当時のわたし、ちょっとひねくれて観ていたというか、こういう夢でいいじゃない、という視点から見直さなければ。

 同じ監督の「インターステラー」を観たあとでのこの作品だけれども、今のわたしには、はるかにはるかにこの「インセプション」の方が上ですね。かなり傑作。映像も「インターステラー」の数十倍美しい。

 偶然にも、ちょうど先日「惑星ソラリス」を観たばかりというところでこの作品を観て、思いっきり「ソラリス」に補足され、また、「ソラリス」解釈を補足するような側面の強い作品ではないですか。「ソラリス」で自分を見失うのは、コピーされた存在である妻のハリーの方だったけれども、この「インセプション」では、迷ってしまうのは夫のコブの方。彼は常に、夢の世界へ行きっきりになる誘惑にさらされているというか、妻のモルは迷うことなく、まるでセイレーンのように彼を彼岸の世界へと誘惑し続ける。

 比べてみると、「ソラリス」の主人公クリスと、この「インセプション」の主人公コブとは、ちょうど正反対の行動を取るように思えるところがある。クリスは自分の記憶の創り出した世界をなんとか拒否し続けようとするけれども、ラストには記憶の世界に生きることこそを選択してしまう。コブへの夢からの誘惑は強く、彼の行動を制御してしまうところが大きいのだけれども、最後にはその誘惑を振り切り、リアルな世界へと復帰したように思える。いや、これはしかとはわからない、というあたりがこの作品のミソというか、みごとなラストシーンの、みごとなラストカット。

 「アリアドネ」などという登場人物に関しての、神話的なプロットへの興味もあるけれども、それは昔の日記に書いているのでもう書かない。ただ、「夢の中の夢」とは、やはりエドガー・アラン・ポーへと発想のみなもとが向かってしまうことは避けられない。

 わたしは、かつての評価は棄てて、この作品は大好きである。「インターステラー」の、何千倍もいいと思う。


 

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■ 2014-12-16(Tue)

 過去の映画作品で、もういちど観てみたい作品がたくさんある。さっきチェックしてみて、少なくともこの日記で「おさらい」という項目を始めた2007年から、この2014年の6月までに観た映画のことは基本的に記憶にない。さかのぼればもっと古く、二十年とか三十年とかさかのぼっての記憶がなくなっていると思われるわけで、基本はどんな映画を観ても「はじめて観る」という感覚になるわけだし、それは読書でも同じこと。本の再読というのもなかなかにめんどうなので、とにかくは映画を観直してみたいという気もちはいっぱいある。

 そうすると過去の名作などを観るのに、またレンタルDVDの店などにお世話になることを考えるのだけれども、自宅近くのそういう店の在庫にはさびしいものがあり、あの店まで歩いて行って利用しようという気分になかなかなれない。契約している「ひかりTV」やWOWOWなどで気を長く待っていれば過去の名作も放映されるのだけれども、なかなかこっちの観たいものと放映スケジュールが一致するわけでもない。

 ちょうど、Facebook での知り合いの方が「灰とダイヤモンド」が観たくて探されたらしいのだけれども、YouTube で「地下水道」の日本語字幕付きのを見つけられて鑑賞されたということが書かれていた。そう。ネットで探してみるとけっこう見つかるものなのである。アニメ関係はかなりたやすく見つけられるし、最近の邦画のラインナップがずらりと並んだサイトもある。しかし、特定の「あの作品が観たい」というのが見つからないということはある。以前「リング」を観たいと思ってかなりしつっこく検索したのだけれども、けっきょく見つからなかった。それできょうは「桐島、部活やめるってよ」というのが観たくなり、これもかなりしつっこく検索してみた。すると、中国語のサイトでひっかかってきたところがあった。開いてみると、中国語の字幕のほかに日本語字幕まで付いている。大ヒット。きょうはこれを観ることにした。

 「そうか、中国のサイトならもっといろいろ見つかりそうだな」と思い、先日見つからないであきらめていた「リング」も、中国でのタイトルを調べてそれで検索をかけてみた。‥‥見つかった。ついでに「灰とダイヤモンド」も全篇アップされているのを見つけたけれども、これは中国語の字幕だけなので、これで観るのはちょっとキツいだろう。とにかくはこれからは、もうちょっとネットでしつっこく検索をかけて映画を探してみようという気になった。

 きょうの夕食はまだまだ白菜がかなり残っているので、先日「あんかけ焼きそば」の具をつくったのと同じ要領で、おかずにしてみた。けっこう美味だった。


 

[]「桐島、部活やめるってよ」(2012) 吉田大八:監督 「桐島、部活やめるってよ」(2012)   吉田大八:監督を含むブックマーク

 学園ドラマ。スクールカーストというものがあるらしいけれども、おそらくはその頂点に居るのだろう桐島という存在、バレー部のキャプテンでおそらくはイケメンなのだろう。その桐島が部活をやめるということになり、学園中に噂が拡がる。桐島は部活をやめるだけでなく、皆の前に姿を見せなくなる。ここでサスペンデッド状態に置かれてしまう人物(運動部の人物たち)がおおぜいいるし、桐島の不在でいろいろな状況も変わってしまう。ただその状況を面白がる人物もある。そういうこととは無関係にマイペースにやっている文化部、この場合映画部や吹奏楽部の連中の存在もある。野球部のキャプテンも無関係にやっている。一日の同じ出来事を何度もリピートしながら、複数の視点から積み上げて行く演出。

 基本的にたいていの連中は、「桐島さえまた現れたならば」と、彼の登場を待ち望んでいて、桐島がいないということだけが語られる。たしかに「ゴドーを待ちながら」なんだろうけれども、その中で、桐島の存在に関係なく、いくつかのドラマが始まりそうには見える。しかし、始まりそうなんだけれども始まらないのがこの作品。

 たとえば屋上から下でいつもバスケをやっている級友をみつめている吹奏楽部の部長。いわゆる「片想い」という状態なのだろうけれども、どう見ても彼女がその先に踏み出しそうにはみえない。バドミントン部の女子(橋本愛)は中学時代に同級生だった映画部部長(神木隆之介)と映画館でニアミスをする。映画部部長がもうちょっとその気になれば、ドラマが始まったことだろう。彼は彼女のことをとても意識しているわけだし。
 桐島の大の親友で、クラブ活動をしていない男子(東出昌大)は、野球部のキャプテンから「次の試合に出ないか」といつも誘われている。桐島の不在や周辺の変化などを見た男子は、おそらくは次の試合に出ようと考えるようになるのだけれども、そんなときにお呼びの声はかからない。その野球部のキャプテンはもう3年。普通はこの映画の時節の秋には引退しているのだけれども、「ドラフトまでは引退しない」と、自分のドラマを貫いているようだ。ちなみに、この時期はたいていの2年生登場人物の進路相談の時期でもある。

 ラストのシーンで、「桐島の姿がみえた」として、ほとんどの登場人物が屋上に集結してしまう。映画部もその屋上で撮影をしていたわけで、ここで神木隆之介は自分たちのドラマを撮り始める一歩を踏み出す。さいごに神木隆之介と東出昌大との印象的な対話があり、神木隆之介にカメラを向けられた東出昌大は、「オレは何でもないから」とカメラを避ける。この、さいごのシーンがとっても良かった。

 吉田大八監督というのは先日観た「紙の月」の監督なのだけれども、「紙の月」で疑問に感じた照明などのことがら、この作品ではまるで感じられなかった。スタッフを見ると照明の担当が代わっているようだったので、そのせいだったのかしらん。


 

nekoneko 2015/01/05 19:20 過去の日記にコメントしてしまうかたちですみませんが(気が付くかな?)
昔の映画やわりとコアなものを探すのだと、ツタヤディスカスがおすすめですよ。ポストに配達してくれるので、レンタル店にいかなくてよくて楽です。たぶんツタヤでレンタルできるすべてのソフトが揃ってます。もちろん、ネットに流れているものと違ってお金はかかりますし、ないラインナップもありますが…(アンジェイ・ワイダとタルコフスキーとか)。
私はかなり活用してます。よかったら見てみてください(もしすでにご存じでしたらすいませんm(_ _)m)

crosstalkcrosstalk 2015/01/05 21:25 nekoさん、丁寧でご親切なコメントありがとうございます。はい、実はツタヤディスカスは過去に愛用しておりました。その、支払いがたしかカードからということで、クレジットカードの更新の出来なくなったわたしには、継続出来なくなってしまってます。残念なことですが‥‥( ꒪⌓꒪)

nekoneko 2015/01/05 23:58 ああー、そうだったんですね。それは残念ですね。
いちおう、今はクレカ以外に、携帯電話代と当時に払うやり方とかもできるみたいですよ。(私はそうしてます)
ブログいつも読ませてもらってます、1日のニェネントちゃんの写真もとてもかわいいですね!

crosstalkcrosstalk 2015/01/06 09:59 ながいこと、「ああ、もうツタヤディスカスは使えないんだ」と思い込んでいるところもありますので、いちど支払い方法など調べてみたいと思います。
このブログは公開にしてあるくせに、読んでいただいているなどと聞くと、「えええ〜っ」とあせってしまったりいたします。ありがとうございます。

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■ 2014-12-15(Mon)

 きょうもまた東京へ出ることにした。きのう観なかった「ゴーン・ガール」を、きょうこそは観るつもり。平日だからいくらかは空いているだろうし、昼の回を観てそのまま帰ってくればいいというつもり。あしたはしごとも休みなのでのんびりして来てもいいのだけれども、きのうおとといでの出費もかさんでいるし、浪費は避けたいところ。などといいながらも、また昼食はあちらで店に入るつもりだから、こういうところでの支出というものがばかにならない。

 きのうと同じ十時半の電車に乗り、新宿に着くのは十二時二十分近くになる。このところよく行く新宿ピカデリーでは「ゴーン・ガール」は十二時四十分からの上映回があるのだけれども、間に合わないことはないと思えても、食事をする時間はまるでない。それで、同じ新宿のバルト9という映画館では一時半からの上映があるので、きょうはそっちで観ることにする。はじめての映画館。

 まず先に映画館に行って座席を決めておくのだけれども、いつものように通路側のはじっこの席にすればいいものを、この映画館はそれでは観にくいような気がしてしまい、まだほとんど埋まっていない座席の、ど真ん中を選んでしまった。このことはあとでちょっと後悔することになる。

 時間はたっぷりあるので、先月Fさんが新宿二丁目で個展をやられたときに案内してもらった中華の店がいいのではないかと、二丁目の方へ足を向ける。先月の記憶もあいまいなので、ちょっと迷ったけれども無事に発見。台湾料理の店だったので、台湾焼きそばというのを注文する。麺がちょっと太くって、味はかなり上海焼きそばに近かったけれども、とにかくこの店はボリューム満点。おなかいっぱいになってしまった。これから新宿での食事はこの店に決めてもいいな。

 食事を終えて一服して、ちょうどいい時間なので映画館へ戻る。館内の様子はいつもの新宿ピカデリーとほとんど同じ。今のシネコンというのはどこもこういう感じなんだろう。けっこう満員で、チケットを買ったときは空席だったわたしの両隣もとうぜん塞がっていた。しかも左側にすわった学生風の男性が、大きなポップコーンとドリンクとをわたしのすぐ脇に置いてあるわけだ。「あらら」という感じ。

 ちょっと席が前の方すぎて、予告を観ているときは画面と字幕を同時に観るのがちょっと困難で「困ったな」と思ったんだけれども、本編はシネスコサイズだったので字幕の位置がずれ上がり、あまり苦にはならなかった。とにかくは映画を充分に楽しめた。

 映画が終わり、満足もしたのできょうは直帰。六時半には帰宅出来た。部屋でしばらくネットを閲覧したりして、スーパーでお弁当が安くなる時間をみはからって買いに出た。きょうは北のスーパーでちらし寿司とか助六寿司、それとうんと安くなっていたかつおのたたきも買い、これはこのごろ留守番ばっかりやらせてしまったニェネントへのお礼も含めて。ニェネント、やはりかつおは大好物みたいです。


 

[]「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン:原作・脚本 デヴィッド・フィンチャー:監督 「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン:原作・脚本 デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 フィンチャー監督は作品を重ねるごとにギミックな演出をそぎ落とし、より洗練されたスマートな演出へと移行して来ているようだ。今回はもうヒッチコックを想起させられるようなソフィスティケイテッドされたミステリー。わたしは先に原作を読んでしまっていたので、急展開するプロットに驚くこともなかったけれども、「ああ、やはり原作のあのシーンはちゃんとやるわけだ」とかいうあたりを楽しめただろうか。そして作品中唯一の殺人シーンの戦慄については、書いておかなくてはならないだろう。ショッキングな凄惨血みどろシーンなのに、どこか美しさを感じてしまうのは、白色を基調に清潔感に包まれたセットのせいだろうか。こういうところにもフィンチャー監督の演出に惚れ込んでしまうわけだ。一ヶ所はさみ込まれた短いフラッシュ、そしてやはり短い暗転もカッコよかった。

 前半のミステリアスな展開から、長めの暗転をはさんで作品の基調はガラリと変わって、後半はシニカルに「それは笑うしかないでしょ」みたいなシーンの連続。このあたりから、主演のロザムンド・パイクという女優さんの演技に引き込まれてしまう。もう、彼女の目の演技を観ているだけで楽しめる感じで、そういうところでもういちどこの映画を観てみたい気がするし、対するベン・アフレックの、「やられちゃった」という感じがまたたまらない。

 音楽(トレント・レズナー)がまた、「ドラゴン・タトゥーの女」に続いてすてきな音を聴かせてくれる。大満足の作品、だった。



 

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■ 2014-12-14(Sun)

 ほんとうは朝八時前に家を出て、新宿で「ゴーン・ガール」の朝の回を観よう、それから荻窪に移動しようと思っていたのだけれども、やっぱり朝寝してしまった。起きようと思えば起きられたけれど、「いいや」と思ってまたふとんにもぐり込んでいた。

 そういうわけで、十時半の電車で新宿に出て、そこから荻窪に乗り換える。きょうの公演は三時からなんだけれども、まだたっぷり時間があるわけで、いちど新宿で下車して書店などを巡ってみたり。昼食を新宿でとってもいいのだけれども、それは荻窪に期待することにした。

 荻窪に移動。もともとあまり来たことのない町なわけだったし、風景の記憶などあるわけもない。きのうのふくとめさんの公演の折り込みチラシに、うまいこときょうの公演のチラシもはさみ込まれていたので、そのチラシの地図をたよりに町を歩く。あまり店も並んでいない、どちらかというと事務所などが並ぶような通りなのだろうか。食事をとるようなところもみつからない。
 目的地のカラス アパラタスという建物もすぐに見つかり、その道の先をみると、おそらくは環七通りなのだろうか、広い道路をはさんだ向かい側に、「中華料理」の看板がみえたので、道路を渡ってその店に入った。また五目あんかけ焼きそばを注文する。オーソドックスな味で、ちょっと量が少ない。おそらくは中国の方らしい、人懐っこい感じの店の方が「味はいかがですか?」などと聞いて来られる。「まずい」などとはいえないでしょうが。店を出るときにも、「お近くにお住まいなのですか?」などと聞かれてしまった。「いえ、遠方から来ているのですが、次に荻窪に来たときにはまた寄らせてもらいます」と答えておいた。

 公演の会場に移動して、開演を待つ。開場されて中に入ったスペースは思いのほかきちんとしたステージで、広さもけっこうある。こういう場所を自分たち専用に持っているなんて、なんかすごいなあ、などと思ったりする。

 一時間ほどの公演が終わり、わたしは初台へと移動して、立島夕子さんの個展「煉獄の花」を観に行く。会場は小さな喫茶店の二階のそんなに広くはないスペース。前にやはり立島さんの個展でここには来ているのだけれども、もちろんその記憶はない。下で靴を脱いで二階に上がると、壁面の作品展示の他に、いちめんにデコレーションのように額装された写真が吊るされている。奥には彼女の古い作品の人形も横たわっている。
 作品を観ていると、すぐに下のカフェにいらっしゃった立島さんも上がってみえられた。

 ある意味で雑然とした空間のようにも捉えられるけれども、その中にすわって作品を観ていると不思議と気分が落ち着いて来る。彼女の描く世界はたしかに苦しみに満ちた「煉獄」の世界なのかもしれないけれども、その奥にはやはり「安らぎ」の世界がしかとある、ということなんだろう。

 ギャラリーを出ると、もうあたりはすっかり暗くなっている。寒さも強く感じられる。このまままっすぐに帰路についてもいいのだけれども、ちょっとアルコールを入れて暖まりたい気分にもなり、安上がりに行こうと、駅への道のそばにあった「日高屋」に入ってみる。「日高屋」というのは普通はお手軽安価なお食事どころなんだけれども、酒やおつまみになる一品料理も多少置いてあるわけだ。それで熱燗の日本酒をたのみ、イカの唐揚げと焼鳥とを注文する。焼鳥は串刺しになっているわけではなく、ちょっと「別物」といわざるを得ないけれど、とにかくはお手軽安価に「ぼっち」で飲むのにはちょうどいい。この酒と二品の注文で770円。安い。

 飲んでいて店の外を見ていると、歩いている人が傘をさしたりしている。雨でも降りはじめたのだろうかと思っていたのだけれども、店を出てみると、たしかに降っている。しかしその降るスピードがゆっくりなようにも感じられ、肩に降って来たものを見てみると、白い氷がしばらく融けないで残るのだった。みぞれ、だろう。ケータイを出してニュースを見てみると、これが東京の「初雪」として観測されたというニュースが出ていた。まだ十二月の中旬での初雪というのも、ずいぶんと早いように思う。それだけこの冬は寒いのか。

 帰路について自宅駅で降りると、駅前にクリスマスのイルミネーションが設えられていた。去年はこんな大がかりなイルミネーションはやっていなかったと思う。どうしたということだろう。でも、せっかくのイルミネーションも、人影のまばらなこの駅の南口では目にとめる人もあまりいないわけだろう。おそらくは客待ちで駅前にたむろしているタクシーの運転手さんが、いちばん見ているだろう。

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[]「ハリー 新作オペラ『ソラリス』へ向けて」佐東利穂子:ダンス @荻窪・カラス アパラタス/B2ホール  「ハリー 新作オペラ『ソラリス』へ向けて」佐東利穂子:ダンス @荻窪・カラス アパラタス/B2ホール を含むブックマーク

 実はまだ、先日観た映画の「惑星ソラリス」の記憶も鮮明でいて、そこでハリーを演じたナタリア・ボンダルチュクという女優さんの印象的な演技がまだ脳裏に焼き付いている。そういう状態でこうやって佐東利穂子さんの「ハリー」を演じるダンスを観て、実は違和感ばかりが先立ってしまっていた。

 クリスという主人公の、十年前に自殺してしまった妻のハリーの「コピー」としてのハリーが映画では登場する。一方で夫のクリスのそばから離れたくないという意志に動かされながら、自分がコピーでしかない存在であることを知り、悩むことになる。あげくは自殺したハリーのように、液体酸素を飲んで凍り付いてしまう。しかし死ぬことは出来ずにまたよみがえるのがハリーという存在。

 これはおそらくは「内面」の問題ではあるだろう。というか、その「外見」と「内面」との相克ともいえるだろうか。そして、「死」の問題。これは、わたしにはきわめて「舞踏」的な表象をイメージしてしまうのだけれども、そこに佐東さんのきわめて「ダンス」的な運動に違和感を憶えたのだろうか。液体酸素を飲んで凍り付き、そこからまた再生してしまうという、映画でもきわめて印象的なシーンも繰り返し演じられるのだけれども、やはり観ていても、これは舞踏的な脈絡の中でこそ活かされるポイントではないかと思うことになる。

 あれこれと考え抜かれての振付けではあることだろうし、そのあたりのことにわたしが思い到らなかったというのがあるだろうけれども、そういうことでは、このような「ダンス」的な公演ということにもまた、距離を置きたくもなってしまったのもたしかなこと。それはある面で、勅使河原三郎氏らの、いわゆる「コンテンポラリー・ダンス」という文脈との距離を感じさせるものでもあった。


 

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■ 2014-12-13(Sat)

 きょうは横浜へ行く。横浜へ行くのはけっこう久しぶりで、今年の大雪の日に道すがら「発作」を起こした例の日以来になると思うのだけれども、わたしの中では横浜へはもう何年も行ったことはないような気がする。もちろん、横浜の風景やいろんなスポットへの道筋などもまるで記憶していない。距離も離れているので、いままでちょっと横浜へ行くことに躊躇する気分もあったのだけれども、きょうは行く。

 あした、ひょっとしたら朝早く家を出て、「ゴーン・ガール」の初回上映を観ようかという気分もあるので、きょうは先に期日前投票しておくことにした。家から歩いて十分もかからない市役所へ足を運び、決めていた候補者、候補政党の名を書いて投票する。せめて小選挙区の方で自民党を追い落とすことが出来ればいいのだけれども。

 投票を終えた足でそのまま駅に向かい、電車に乗る。横浜へ行くといっても、いつも新宿などに出るときに乗る「湘南新宿ライン」にそのまま乗って行けばいいのだから、かんたんといえばかんたんなこと。あとは公演のチラシに載っている地図をたよりにすればいい。

 横浜駅下車。空は快晴で雲一つなく、日なたを歩いていればホカホカと暖かい。公演は二時からで、時間はちょうど一時ぐらいだから、これから昼食をとって会場に行けばちょうどいいだろう。例によって中華の店を探すのだけれども、ちょうどその公演のあるSTスポットの近くに中華料理の店があり、そこで五目あんかけ焼きそばを注文した。細い麺で、おいしかった。

 会場ではCさんにお会いして、「あとでお茶でも」と誘われる。もちろんOKで、ほんとうはアルコールがいいけれども、ちょっと時間が早過ぎるか。会場には他にもDさんやEさんの姿もおみかけしたのだけれども、離れていてあまりごあいさつも出来なかった。

 舞台の感想は下に書くことにして(とてもいい舞台だった)、終演後、Cさんと、Cさんの知り合いのFさんといっしょにお茶をしに行く。これが周辺の(喫煙出来る)カフェはどこも満員で、かなりの時間、あたりをさまよってしまった。
 ようやく空き席のあるカフェを見つけて落ち着く。しばらくして、Cさんのコールでもって福留さんも来られてちょっとのあいだ同席され、舞台の感想などを語ったりする。
 CさんとFさん、そしてわたしとですっかり選挙の話題ばかりでのカフェ・タイム。三人とももう期日前投票を済ませていて、面白いことに三人とも比例代表には同じ党に投票していた。「弱小政党」だというのに。とにかくは自民党が勝ってしまうことは目に見えている現状で、どうすれば反自民票を増やせるのかとか、これからどうするのかというような話題で。

 Fさんはこれから、秋葉原駅前での安倍晋三の街頭演説を「観察」しに行くとのことで、Cさんは別件の打ち合わせ。Fさんと駅でお別れして、わたしはCさんと湘南新宿ラインで新宿へ。わたしはそのまま乗り続けて帰宅してもよかったのだけれども、七時半からは新宿で共産党志位委員長の街頭演説があるというので、それをちょっと見学してみようかという気になってしまう。時間はまだ二時間近くあるので、それまでまた東北沢に移動して、「G」でちょっとだけ飲むことにした。

 この夜の「G」も、先日と同じ方々がカウンターに座っていらっして、やはりちょっとにぎやかすぎてわたしは引く。わたしの知っている「G」ではない。時間も限られているので店を出て、軽く牛丼など食べてから新宿に戻ると、ちょうど志位委員長の演説がはじまったところだった。五つの争点をあげて自民党の政策を批判し、自共対決の意志を明確にされる。終わり近くに「速報」のようなかたちで、維新の党の橋下氏が早々と「自民党にはかなわない」と敗北宣言を出されたことを知らせ、「選挙をなめるな!」と一喝。わたしのいた場所からは全体は見渡せないのでわからないけれども、かなり大勢の人が集まっていらっしゃった。先日共産党への疑問をちょっと書いたけれども、やはり共産党には伸びて欲しいところがある。

 あしたはしごとは休みだけれども、朝早く起きて「ゴーン・ガール」を観に行きたい。そのあとに佐東利穂子さんの公演、そして立島さんの個展と巡りたいのだけれども、ちょっと早起きするのがめんどうな気分で、帰宅したあとはアラームもセットしないで寝た。


 

[]福留麻里「川に教わる」@横浜・STスポット  福留麻里「川に教わる」@横浜・STスポット を含むブックマーク

 会場の中央を縦に横切る、高さ30センチほどで幅が2メートルぐらいの舞台。もちろんこの舞台が「川」に見立てられ、観客はその両側の「岸辺」、様々な高さの場所に座ってみる。

 まずは福留さんが両手にスニーカーはめられて(足は素足)しばらく踊られるのだけれども、靴が手に履かれるというだけで、身体がそこに浮遊する感覚が生まれる。福留さんは川にまつわるような短いフレーズをとぎれとぎれに語られ、フレーズは時に物語の一部のように伸ばされたりもする。わたしはこの前半が好き。

 照明がとても効果的な舞台で、舞台にじかに置かれて舞台を照らし、まさにそこに川の流れを現出させる照明、そして舞台奥の壁面にダンサーの影を投影させる照明など。
 舞台中央の上には裸電球が吊るされているのだけれども、その電球を吊るすのはらせんの曲線を描く針金だろう(白い布で覆われている)。電球が灯されるのはいちどだけ、だったのだけれども、その電球を吊るすらせんの影が反対側の壁面に投射されるとき、ちょうどその下で丸くうずくまっているダンサーの「へその緒」のように見え、そこでダンサーが胎児へと姿を変えられたようにも見えた。そのとき、福留さんの衣装もあって、ついつい先日観た「ゼロ・グラビティ」のサンドラ・ブロックを思い浮かべたりしてしまった。

 彼女のダンスもまた、わたしがついサンドラ・ブロックを思い浮かべたように、意志に満ちた力強いものとして感じ取られた。とてもいい舞台だと思った。


 

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■ 2014-12-12(Fri)

 先日「惑星ソラリス」を観たあと偶然にも、勅使河原三郎のスタジオで、その「ソラリス」のヒロインをテーマにした「ハリー」という作品が、佐東利穂子さんのダンスで開催されていることがわかった。知人のFacebook での書き込みのおかげ。佐東利穂子さんのダンスもまた観たいと思っていたので、さっそく予約した。これであしたは横浜でふくとめまりさんのソロダンスを観て、あさっては映画「ゴーン・ガール」を観るつもりだったところに、あさってにはその「ハリー」とのはしごにしようかということにした。そう、それと立島夕子さんの個展にもお伺いしておかなければ。お出かけばかり。これが来週はまた、横浜でのチェルフィッチュの公演と下北沢での鉄割アルバトロスケットの公演とが続いている。預金がどんどんと減って行くけれども、こうやっていろんなものを観に行ったりすることが、いまのわたしには「リハビリ」という意味合いを持って来る。「脳」のため、である。

 きょうは、先日の東京芸術劇場と明洞芸術劇場の共同制作公演、「半神」がBSで放映されたものを録画したので、それを観た。

 夜、八時近くになって、うちのすぐそばを選挙応援の車が大きな声で一票を求めながら通り過ぎて行った。もうあさってが投票日。あまりいい結果の予測は聞けない。いろいろ調べて、比例代表に投票する政党を考え直して決めた。


 

[]東京芸術劇場×明洞芸術劇場 国際共同制作「半神」 萩尾望都:原作・脚本 野田秀樹:脚本・演出  東京芸術劇場×明洞芸術劇場 国際共同制作「半神」 萩尾望都:原作・脚本 野田秀樹:脚本・演出 を含むブックマーク

 基本的な演出は夢の遊眠社ヴァージョンのものと同じだと思うけれども、つまりは舞台のセッティングと衣装とが違う。今回は舞台中央の奥に「らせん階段」が上に伸びていて、「らせん方程式」という劇中のキーワードとともに、効果的に使われていた。しかしながら、先日夢の遊眠社ヴァージョンをニコニコ動画で観ているというのに、けっこう記憶から抜け落ちているシーンがいろいろとあった。まだまだ自分の脳というものが、正常に働いているのではないのかと、不安になってしまったりもしたのだが。

 ‥‥中途半端な感想だけれども。


 

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■ 2014-12-11(Thu)

 冬も本番に突入したのだろう。きょうも寒い。少し熱めの風呂に入り、身体を湯に浸していると、さいしょはちょっと熱いのだけれども、だんだんに身体の芯から温まって来る。これがやっぱり心地よい。

 木曜日は北のスーパーが玉子の安売り、南のスーパーが全品10パーセント引きの日というわけで、北へ南へといそがしい。先日、西のドラッグストアで割り引いて売っていた日本酒(720ml)を買ってみたらあまりに美味だったので、あまり飲み過ぎないように気をつけながらもハマっている。それでつい、おつまみ類もあれこれと買ってしまったりする。このところは「柿の種」なんかよく買うのだけれども、柿の種は「三幸」のものが圧倒的においしいと思う。ライヴァル社の「亀田」のものはかなり負けている。買うのなら「三幸」のものをと選ぶ。

 昼食にはまた「あんかけ焼きそば」をつくり、この三回目がいちばんうまくいった。夕食にはとにかく白菜がたくさんあるので、Cockpad で調べたお手軽献立をつくってみた。つまり、大量の白菜を豚肉といっしょに炒め、しょうゆとみりんを混ぜたタレに卵黄を入れ、コイツにつけて食べるというもの。‥‥まずくはないけれども、とにかくは貧乏臭い。こんなのを日常に食べるような生活はしたくないと思った。

 選挙のことだけれども、ずっと比例代表区には共産党に投票しようと思っていたのだけれども、ネットの記事で共産党の志位委員長が海外メディアのインタヴューに答えているものを読み、現在の共産党というもののあり方に疑問を持つようになってしまった。
 とにかくは

志位委員長は「共産党」というネームを変更するつもりはなく、やはり社会主義国家の設立を目指すということを語っている。
 このことから、わたしの共産党への疑念が大きくふくらみ始め、ちょっとばかりネットで検索したりして、やはりいつまでも今の共産党を支援しても仕方がないのではないかと思うことになった。
 わたしとしては、現在ではすでに「共産主義」という理念から距離を置き、一般的にいえば「リベラリズム」と」いってしまっていい政策を打ち出す共産党に共感していたわけで、それだったら「負」のイメージの強い「共産党」などというネーミングは棄ててしまえばいいのではないかと思っていたわけだけれども、党としてはそのような指向性はまるで持っていなかったわけだ。しかも、今でもなお民主主義変革を経て「社会主義国家」の建設をこそ目標とするという。
 たしかに「資本主義」という理念は人類終極の到達地などであるわけもなく、資本主義社会以降の新しいヴィジョンを見出そうと、人々は努力している。特に二十一世紀になって以降の世界に、旧的な(ある意味で十九世紀的な)共産主義や社会主義という理念がそのまま通用するわけでもないだろう。このことは中華人民共和国をみてもわかること。そこでいまだに「社会主義国家」を目指す、といってしまうのは、怠惰でもあるだろう。
 また、共産主義者、共産党というものは、自分らに反対するものたちに「反共」というレッテルを貼るのも容易なのではないだろうか。もちろん、「反共」ということばは共産党の存在なくしても自立している言葉ではあるけれども、共産党自身が敵対する勢力を「反共」として排除しやすいのではないか。まあそういう理由で「共産党」の名を名乗り続けるわけでもないだろうけれども、つまりはここにも「怠惰」があるように思ってしまう。
 そして、共産党の組織原則というものは「民主集中制」と呼ばれるものであり、この組織原則、当然ながら共産主義の「独裁制」にもつながるものであり、わたしなどはもっとも承認出来ないところのもの。そして現在の共産党も、この「民主集中制」を棄て切っているわけではないのである。

 ちょっと、とりとめもないことを書いてしまった。もっと考えをまとめなければならないけれども、その前段階としてこういう乱暴なことを書いておいても、わたしのためには役に立つことだろう(ひとさまに読んでいただくようなものではないけれども)。

 きょうは、録画してあった五社英雄監督の「鬼龍院花子の生涯」を観た。


 

[]「鬼龍院花子の生涯」(1982) 宮尾登美子:原作 五社英雄:監督 「鬼龍院花子の生涯」(1982)   宮尾登美子:原作 五社英雄:監督を含むブックマーク

 とにかくはこの「五社英雄カラー」と呼びたくなるような「赤」の色が印象的。これが特に「黒」との対比で美しく画面を染める。すばらしいセット美術と、美しい照明。そして、「肉体の門」や「吉原炎上」でも印象的だった森田富士郎氏のすばらしい撮影。当時の日本映画の底力をみせつけられる思いがする。もう、そういう画面を観ているだけでゾクゾクしてしまうのだ。

 タイトルとは裏腹に、この作品は鬼龍院家の養女である松恵(夏目雅子)の視点から、家長である鬼龍院政五郎(仲代達矢)の生き様を描くもの。どうもしょっぱなから、この仲代達矢と、その妻の歌を演じる岩下志麻の、ほとんどカリカライズされたような演技に「まいったな」という感覚を持ったのだけれども、岩下志麻はその死のシーンで、仲代達矢は終盤に夏目雅子と差しで一献傾けるシーンで、納得させられた。特に仲代達矢のシーンは名演技、といっていいんじゃないのかな。

 労働運動家であった松恵の夫の田辺(山本圭)は、鬼龍院政五郎のことを「きわめて純粋な人」として彼に惚れ込むわけだけれども、そういう気もちはわからないでもない。強いていえば、もうちょっと鬼龍院家の舎弟たちのことを掘り下げて描いても良かったような気もするけれども、まあ尺長のこともあるでしょうから。

 ラスト近くの橋の上での斬り合いシーン、まったくリアリティから飛び抜けた突然の裸電球のイルミネーション(?)にはびっくりさせられ、「こういう離れ業もやってのける監督さんだったわけだ」と、納得した。「吉原炎上」でも、ありえない「裸電球握りつぶし」というのがあったし。あ、どちらも裸電球か。そう考えると五社監督、けっこう裸電球好きなんだな。他のところでも効果的に使ってるし。

 笑うような映画ではないのだけれども、なんというのか、あんまりな展開に、観ていても声を出して笑ってしまうことがしばしばだった。「映画」として、とても好きな映画。やはり、五社英雄監督の作品(特に後期の作品)を、もっともっと観てみたい。


 

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■ 2014-12-10(Wed)

 寒い。寒いのでテレビを観ながらストーブをつけていると、ニェネントがやって来てストーブの真ん前で丸くなり、暖をとり始めた。やっぱりニェネントも寒いんだな。

 テレビを観るといっても、衆議院選挙の直前ということで政見放送ばかりやっている。もうどこの党もいうことはだいたいわかっているので、観る気は起きない。しかし新聞社の投票前の予想では自民党が三百議席以上を獲得する勢いだという報道。どうしてそういうことになってしまうんだろう。わたしが閲覧しているFacebook やTwitter では、まるで自民を応援する声などは聞こえて来ないというのに。ま、それはそういう友達ばかりを選んでいたりフォローしていたりするのだから当然だともいえるけれども、一般に「自民に投票してもいいや」と思うような人たちはネットなど見ないだろうし、テレビの報道もそんなに真剣には見ていないんだろうと推測してしまう。そうするとネット上で「今回自民党に投票すると危険な動きを助長する」とかいくら書き込んでみても、そりゃあ効果もないわけだ。しかも現在の日本の「報道の自由度」は、世界の中で下落を続けている。自民党が議席を増やすということは、いっそう「ほんとうのこと」を知ることも出来なくなっていくことになり、さらに野党には不利になるだろう。また、Facebook などへのわたしどもの書き込みもまた「規制」の対象にされてしまうことにもなりかねないし、日本はどんどんと独裁国家へと近づいていくことになるだろう。危機感が募る。

 昼食にはきのうと同じく「あんかけ焼きそば」にトライ。きょうは水加減もうまくいって、より「あんかけ」らしい仕上がりになった。ほんとうはイカとかチンゲン菜とか入れるとおいしいんだろうな。あしたもまた「あんかけ焼きそば」になるだろう。

 午後から南のドラッグストアへ買い物に行って、思いがけない人に出会ってしまった。わたしがこの地に越して来てさいしょに住んでいた家の、そのとなりに住んでいらっしゃったBさん。わたしの、ほんとうに数少ないこの土地での知り合いのひとり。おそらくは十年に近い時をおいての再会ではないだろうか。ユニークな、面白い人だった。いろいろと近況を語り合ったりして、Bさんが今は失業中だとかいう話なども聞く。この人、むかしも失業中ということが多くなかったっけ? なんだかまたBさんのおうちに遊びに行きたくなったりして、「そのうちに遊びに行くかも」などとあいさつして別れた。

 家にいる時間はほとんどパソコンに向かいっきりで、たまにテレビを見るだけ。それで日記とかを書いたりしていると、あっという間に夕方も近くなってしまった。午後三時。なんだか何もしない一日ではないか、などと思って、その時間から図書館から借りているDVD、「惑星ソラリス」を観始めた。観終えてだいたい六時。もう外は暗くなっている。夕食の時間なので、きょうはたくさんある白菜を四分の一ほど使って、ベーコンと炒めてナンプラーで味付けしただけのシンプルなおかずをつくった。まあまあの味。まだ白菜はたくさんあるので、あしたあたりは鍋にしてみようか。


 

[]「惑星ソラリス」(1972) アンドレイ・タルコフスキー:監督 「惑星ソラリス」(1972)   アンドレイ・タルコフスキー:監督を含むブックマーク

 ‥‥もう、「インターステラー」に対抗してやりたい気分から、こうなったらSF映画の名作ばかり観てやろうかという感じで、この「惑星ソラリス」を観ることにした。もちろん、過去にこの作品を観てはいるのだけれども、やはり記憶はまるで残っていない。残念なことに、タルコフスキー監督の作品で記憶に残っているものがないことが悲しい。あまりに悲しい。ただ「ノスタルジア」のラストをぼんやりと憶えているのと、「アンドレイ・ルブリョフ」のことをちょっとだけでも憶えているといえるのか、それだけ。

 この「惑星ソラリス」、そのストーリーのポイントについては多少の記憶はあった。原作者のスタニスワフ・レムが、あまりに原作から映画が乖離していることに怒った、などということも。

 冒頭の、川面の水の流れから、おだやかな田舎の建物、その土地を散策する主人公の姿など、とにかくは印象的。そうそう、これが「映画」なのだ、という感覚。このシーンがまたラストにつながっていくことになる。

 その地への来客と共に主題が動き始め、主人公はソラリスのステーションに到着し、異様な体験をすることになる。で、ここで描かれているのは、外宇宙への旅とは、つまりは内宇宙への旅でもあるということ。惑星ソラリスの神秘とは、その星を訪れる人々の内面の神秘ということになる。

 主人公は、ソラリスの海が出現させたところの、十年前に自殺した妻のクローンとそこで会うわけだけれども、その妻がクローンであることを認識しながらも、彼女との生活を選ぼうとする。また、その妻の方でも、自分がクローンであることを認識し、自分とは何ものであるのかという疑問にとらわれる。おそらくはクライマックスとも思われる、ステーション内の図書室での会話。ここの映像、演出もまたすばらしいものだけれども、「記憶、追憶とは何か? それは人の生き方にどのような作用をしているのか?」などということを考えてしまう。同じステーション内の先住者は「現れたのが妻で良かったではないか」などというのだが、わたしのことと考えて、このシチュエーションでいったい誰に登場してもらいたいだろうか? などと考えてしまったりもした。

 あまりに美しく、幸福感と悲哀に包まれるようなラストはやっぱり見事。ほんとうに、タルコフスキーのほかの作品のことを思い出せないことが残念だ。

 わたしの中では、「2001年宇宙の旅」≒「惑星ソラリス」>「ゼロ・グラビティ」>>>>>>「インターステラー」、という感じかな。


 

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■ 2014-12-09(Tue)

 あさ起きて、間違えてコップに残っていた日本酒をちょっと飲んでしまった。それが昨夜の酔いを再発させたのか、それから何となくフラフラする感覚になってしまう。これからしごとに出勤するというのにマズいではないか、などと思ったのだけれども、少量だったおかげか、そういう気分も直におさまってくれた。

 実は図書館から大岡昇平全集の、「成城だより」収録の分厚い巻を借りて来ている。もちろん全部読んでしまおうなどとは思っていないのだけれども、しごとのあとに帰宅してからちょこちょこと拾い読みしたりした。そう、日記というものはこういうふうに書かなくてはいけないのだ。というか、そういうことの書ける日常をつくらなくてはいけない、ともいえるだろうか。
 じつはおととい観た「吉原炎上」など、過去に観たときにかなりち密な感想をこの日記に書いているのだけれども、今のわたしにはそういう日記を書く力がないのではないかと危惧する。それできのう観た「紙の月」の感想はちょっとがんばって書いてみたのだけれども、「インターステラー」になると書くことがすぐに尽きてしまった感じ。こういうことはいくら意識的になっても今の自分には困難なのかもしれない。先日、小林嵯峨さんからの申し出を断らざるを得なかったのも、つまりはそういうことになる。「ものの観方、読み方」というものを、根本のところで忘れてしまった、もしくは失ってしまったような気がする。こればっかりは、何とかして取り戻さなければならない。何があっても。

 このところ、外食で「焼きそば」に凝っているので、「自分でつくってやろうか」と、ネットでレシピを探し、焼きそばの麺を買って来て、白菜など有り合わせの野菜などを使って「あんかけ焼きそば」をつくってみた。「あん」に混ぜる水の量が多すぎて「あん」とはいえない状態のものが出来たけれども、それなりにおいしかった。まだ麺がふたつ残っているので、あした、あさってとまたトライしてみようと思う。

 けっこう読み終えるのに時間のかかってしまった「キャプテンサンダーボルト」をようやく読了した。次はBOOK OFF で安値で売っていたミステリー、「悪意の森」というのを読み始める。どうもこのミステリー、先日観た「デビルズ・ノット」のもとになった事件と同じような事件が書かれていて、「デビルズ・ノット」の事件からインスパイアーされたのではないかと想像してしまう。ちょっと長篇で、わざわざ読む価値があるのかどうかはわからない。Amazon のユーザーレビューではものすごい評価が低いけど、ユーザーレビューなどは参考にすることはない。

 昼からは録画してあった映画「ゼロ・グラビティ」を観た。きのう観た「インターステラー」と比べてみたいという気もちから。夕食はまだ残っていたシチューで。ようやっとシチューもなくなった。


 

[]「ゼロ・グラビティ」(2013) アルフォンソ・キュアロン:監督 「ゼロ・グラビティ」(2013)   アルフォンソ・キュアロン:監督を含むブックマーク

 ただひたすら「宇宙からのサヴァイヴァル(帰還)」一点だけの展開で、ほぼすべてのシーンは大気圏外の宇宙。出演はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーのふたりだけ。というか、ほぼサンドラ・ブロックの独演。で、じゃあ彼女が助かるかどうかというサスペンスだけの映画なのかというと、これが実に豊穣な中身を持っていておどろかされてしまうわけだし、やはりとにかくはサスペンスとしての見事な展開に見入ってしまう。

 とにかくは冒頭から、「いったいこれはどうやって撮影しているのか」という、宇宙飛行士の宇宙遊泳のシーンが続くのだけれども、これが自在に動き回るカメラというおどろき以上に、ものすごい長回しなのである。偶然どのくらいの時間の長回しなのか測るようなことをしてしまったのだけれども、これが十二分くらい続いていた。そして、この映像がものすごく美しい。背景に地球の姿が映り込むことで、その地球の美しさによるところもあるけれども、宇宙船も飛行士も、すべてが美しく撮られている印象がある。まずはこのあたりで、きのう観た「インターステラー」には余裕で勝っているだろう。

 そしてそしてこの映画、これもまた「2001年宇宙の旅」からのリファレンスをあれこれと感じ取れてしまう。
 「2001年宇宙の旅」では、大きな宇宙船を「精子」とみなしたような「受精」の旅(木星が卵子?)、という隠喩が感じられたわけだけれども、この「ゼロ・グラビティ」でも、小型宇宙船を「胎内」とする「誕生」の旅、という隠喩があることはまちがいない。宇宙飛行士は「胎児」であり、その胎内である宇宙船とは「へその緒」を思わせるケーブルでつながっているわけであり、まさにそのケーブルこそが、宇宙飛行士の命綱でもある。サンドラ・ブロックが小型宇宙船内に退避して宇宙服を脱ぎ捨て、そこでまさに無重力状態の中で胎児のように身体を丸くするショットもあり、ここのシーンもとても印象的だった。

 サンドラ・ブロックの熱演も特筆もので、もう熟年といっていいだろう彼女の長いキャリアの中で、ここに来て最高の演技を見せてくれたのではないかという気もしてしまう。ほんとうはそんなに意識して観るような役者さんではなかったのだけれども、もうこの作品で彼女を観る目が変わってしまうような気がする。

 この映画、おそらくは過去に観たことがあるんじゃないかとこの日記で検索してみると、なんとなんと、今年の一月に映画館で(おそらくは3Dで)観ていることがわかった。‥‥けっこう、つまりは同じ人間が観て書いているのだから同じようなことを書いていて、そこまではわたしも退化していないように思えて安心した。しかししかし、この映画を映画館で観た記憶などこれっぽっちも残っていなくって、どのシーンでも「観たことあるかも」とひっかかりをおぼえることもなかった。今回こうやって録画で観て、「ああ、この映画、映画館の大きな画面で観たかったなあ」などと思ったものだったけれども、ちゃんとそういうことをやっていたわけだ。あらためて、失せてしまった記憶のことを残念に思うだけ。

 わたしの中では、「2001年宇宙の旅」>「ゼロ・グラビティ」>>>>>「インターステラー」、という感じかな。


 

[]「キャプテンサンダーボルト」阿部和重・伊坂幸太郎:著 「キャプテンサンダーボルト」阿部和重・伊坂幸太郎:著を含むブックマーク

 ようやっと読了。面白かったといえば面白かったのだけれども、わたしはこのあたりのエンターテインメント小説というものは読み慣れていないせいというか、「え、これで終わりなの?」みたいな感覚を持ったことはたしか。

 壮大なスペクタクルという読み取り方は出来るのだけれども、そのキーになるのが「五色沼の水」かよ、というのがどうも、リアリティに欠けるように思えてひっかかる。まあリアリティということはこの作品ではまるで問題にされていないともいえるだろうけれども、どこかで現実にもっとリンクさせ、この現在のリアルさの読み取りに影響を与えるようなキーがあってもいいような気がしてしまう。そういう意味では、いくら戦中の日本軍による生物兵器の開発にその「端」を置いたとしても、それが現在の生物兵器の「起爆剤」みたいな役割を果たすという発想には飛躍がありすぎるのではないだろうか。また、その山中での日本軍の生物兵器開発拠点を、たった二、三人のアメリカ兵が占拠するというのがわからない。

 しかしながら、主人公の相葉と井ノ原というコンビ、これに加えて犬のポンセ、そして桃沢瞳というチームは極めて魅力的で、読んでいても楽しい(ポンセの活躍がいい!)。また、「幻の映画」というあたりの発想は楽しめた。

 とにかく、わたしは伊坂幸太郎氏の作品は何も読んでいないわけだし、この作品でわたしが引いてしまった部分こそが伊坂氏の持ち味なのだとしたら、それはそれで仕方がない。もう伊坂氏の作品は読まないだけの話、なのかもしれない。

 どうもあれこれの映画からの引用もあるらしいのだけれども、記憶の失せているわたしにはまるでわからなかった。ただ、「銀髪の怪人」とは「ターミネーター」なのではないだろうか。わかったのはそのくらい。



 

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■ 2014-12-08(Mon)

 きょうはまた上京して映画を二本観る。新宿でのロードショーで、「紙の月」と「インターステラー」との二本。タイムスケジュールを調べてまずは十一時十五分からの「紙の月」を観て、その終映時間から四十分おいて「インターステラー」がはじまる。「インターステラー」の終わるのは五時ちょっと過ぎになるので、それからちょっと飲みに行ってもいい。ただ、十一時十五分の開映にちょうどいい時間に着く電車がなく、まるできのうと同じ電車で、十時ごろに新宿に到着という選択をする。到着したらすぐに映画館に行って座席を決めておき、開映までは喫茶店ででも時間をつぶせばいい。

 きのうは晴れでそんなに寒さも感じなかったけれども、きょうはきのうよりも寒くなるといっている。特に朝早い時間の駅のホームにじっと立っていると、もう冬なのだということを痛切に感じる。予定どおりに新宿に着き、二本の映画とも同じ位置の、通路ぎわの席を確保する。そのあとは映画館の向かいの道路を渡ったところの「ルノワール」に行き、時間をつぶす。

 まずは「紙の月」を観て、終映後は次の開映まであまり時間がないので、久しぶりに牛丼チェーン店へ行ってさっさと昼食をすませる。

 次の「インターステラー」を観終えて、やはりしばらく行っていない「G」に寄ってみることにして、電車で移動する。しかしながらきょうの「G」、カウンターにあんまり歓迎しない客が来られ、わたしとしてはあまり楽しめない夜にはなってしまった。

 「きょうは失敗だったかな」などと思いながら帰路に着くけれども、そんなに飲んではいないのに電車の中で猛烈に眠くなってしまう。このところこうやって電車に乗ってすわると眠気を催すというクセ、どうにかならないものだろうか。ほんとうは読書とかの時間にあてられるといいと思っているのだけれども。

 帰宅してまだ残っているつくりおきのシチューで遅い食事にして、ベッドにもぐり込んで寝る。やはり二日連続して二本ずつの映画鑑賞、疲れたのだろうか。


 

[]「紙の月」角田光代:原作 吉田大八:監督 「紙の月」角田光代:原作 吉田大八:監督を含むブックマーク

 宮沢りえが勤務先の銀行から大金を横領し、その銀行には「お局さま」的な小林聡美がいるとなると、そりゃあどうしても木皿泉が脚本を書いたあのTVドラマ「すいか」を思い浮かべずにはいられないのだけれども(宮沢りえは小泉今日子に置き換えられるのだけれども)、これがまた、思った以上にその「すいか」とシンクロしているのではないのかと、ある意味爽快なラストを観たあとに思わずにはいられなかった。

 心ならずも犯罪行為に足を突っ込みながら、だんだんに大胆に確信犯的に横領をエスカレートさせて行くヒロインは、それでも徐々に自分の意志を明確にして行くようでもあり、そのことが表情にも自信を与え、美しくさえなって行く。これはたしかに宮沢りえの名演技で、自宅で偽造証書を作成して行く過程の描写なども、彼女の演技とともに印象に残った。しかし「プリントごっこ」とはねえ。

 そして同じ銀行の若い行員を演じる大島優子もまた、小悪魔的なところをかいま見せてヒロインの犯行の後押しはするし結果としてサポートはするし、なのだけれども、このあたりの造形もとてもよかった。それでそこに、監視役のように小林聡美の存在があり、つまりは規律、良識を代表してヒロインの前に姿をあらわす。ラスト近くの宮沢りえと小林聡美との対峙、まさにクライマックスというか、ついつい引き込まれて観てしまった。

 宮沢りえは悪事に手を染め、そのことを充分に自覚して行くのだけれども、同時にどんどんと世界のしがらみから解放されて行く。それが小林聡美との対峙のあとのあまりに見事な疾走シーンで一気にあらわになる。すばらしい疾走シーン。この映画では何ヶ所かスローモーションシーンがあるけれども、この疾走シーンのスローモーションをこそ活かすための前提だったのか、とも思えてしまう。このあたりの演出の手腕に確かなものを感じる。

 ちょこっちょこっっと挟み込まれるユーモアもいい感じで、宮沢りえが顧客の石橋蓮司を契約させるため、シャツの上の方のボタンを外し始めるのには笑ってしまった。読んでいた「キャプテンサンダーボルト」の冒頭のところを思い出す。「ガイノイド脂肪に注目しろ!」というヤツだ。

 ただ、映画としてはいくつかの疑問シーンが無きにしもあらずで、まずは照明。あくまで自然光を活かそうとする姿勢はわかるのだけれども、特に先に書いたラスト近くのヒロインの小林聡美との対峙シーンで、宮沢りえの顔に影がかかってしまっているのは、いくらなんでもマズいんじゃないだろうか。「無神経」とも思えるのだけれども、あまりに無神経なので、逆に何か意図があったのかとも思ってしまう。しかし、どんな意図があっても納得は出来ない気がする。

 もうひとつ。ヒロインが犯罪へと走った自分の世界観を語る、月を指で消す印象的なシーンで、その月の上の方に見える電線にはフォーカスが合っていない。つまり「ボケている」のだけれども、あそこは美意識として、電線にもフォーカスが合ってるべきではないのか。もしくはあんな電線なんか不要ではないのか。

 しかしとにかくは楽しめた作品であることは間違いなく、「すいか」との連想で行けば、宮沢りえはこのあと小林聡美にタイから絵ハガキを送るわけだろうし(逃亡先の山中でツチノコを見つけるかもしれない)、小林聡美はそれまでの解放されていない自分の生き方に疑問を持ち、とにかくは母との同居をやめて三軒茶屋の「ハピネス三茶」に転居するわけだろう。

 そうそう、エンドロールでいきなりVelvet Underground の「Femme Fatale」がかかり、椅子から滑り落ちそうにびっくりした! こんな大きなスペースで、多くの人といっしょにこの曲を聴けるなんて!


 

[]「インターステラー」クリストファー・ノーラン:監督 「インターステラー」クリストファー・ノーラン:監督を含むブックマーク

 ネットなどでものっすごく評判のいい作品だし、ちょっと楽しみにしていた作品だったけれども、軽く「空振り」だったという感覚。

 相対性理論だとか量子力学、ワームホールやブラックホールや五次元など、あれこれのSF的アイテムを活かした脚本からは、「宇宙のことはわからない」という謎を「見事な」謎として提示した「2001年宇宙の旅」を、「謎を説明してみせよう」というようなスタンスで引き継いだところがある。映像的にも「それって<2001年宇宙の旅>じゃん?」というショットが散見されるわけだし、確実にあの作品を意識した上でのものだろう。

 あれこれの布石を先にばらまいておいて、あとで「あの意味はココにあったのだ」という展開はそれほど驚くものでもないし、正直なところ、わたしはこのプロットに感銘を受けるようなところはなかった(ただわたしの頭が悪いというだけのこと?)。どうもこの脚本、あまりに理詰めに攻めても何だからと、ちと唐突に「愛」などと語り出してしまう印象もある。「すべて割り切れてしまって余りなし」という展開の裏に、何らかの隠喩が秘められているというわけでもないと思う。

 そもそもがこの主演のマシュー・マコノヒーという役者、「2001年宇宙の旅」のボーマン役、キア・デュリアに似させているけれども、その200倍ぐらい頭が悪そうに見えてしまうというわたしは、やはり偏見の持ち主なんだろう。それでもやはり、とにかくは「映画的」に感銘を受けることが出来ない。映像が美しいわけでもなく、演出的にそれほどに感心するところもなかった。ただ、その音との相乗効果で、宇宙船のドッキングシーンだけは、やはりハラハラドキドキさせてもらった。わたしは過去のクリストファー・ノーラン監督の作品を記憶しているわけではないけれども、それなりに観てはいるはず。それでやはり、それらの作品を映画演出として感心したことなどなかったはずだろうと思う。

 そうそう、主人公のパートナーのAIのTARS、そのブラックジョークは好きだけれども、あのボディのデザインはやっぱりイヤ。


 

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■ 2014-12-07(Sun)

 きのうの夜、ふとんの中で寝ようとしているとき、ニェネントの歌うような妙ななき声を、かすかに聞いたと思った。不思議だ、まるでニェネントが歌っているみたいだ。しかし、ちょっとすると、そのなき声の聞こえる方とはまるで違うところにニェネントがいるのがわかった。‥‥そうしたらあの声は何だろう?と思い、「ひょっとしたら」と思って起き上がり、そっと窓を開けてベランダを見てみた。‥‥思った通り、ベランダにネコがいた。おそらくは二匹のネコが来ていたんだと思うけれども、そのうちの一匹の姿がわたしの目の前にあり、わたしに気付いたのかゆっくりとベランダから外へ降りて行った。茶色い大きなネコで、前にもこのあたりに来ていた野良ネコだと思う。しっかし大きなネコだ。ネコの姿を見かけるのはうれしい気もするけれども、あんまりこのあたりに来てニェネントを刺激しないでほしい、というのもある。で、そのニェネントだけれども、どうやら外のネコにはまるで無関心のようだ。もうすっかり家ネコになってしまったということなんだろうか。

 きょうは池袋の新文芸座での五社英雄監督特集、「肉体の門」と「吉原炎上」の、その最初の上映から観るつもりなので、家を出るのも早い時間になる。六時にはアラームをセットして目を覚まし、朝食を取ってから七時半には家を出る。きょうは日曜なのでこの時間はそんなに電車も混んではいない。映画の上映開始は十時半なのだけれども、池袋には九時四十五分ぐらいに到着した。すぐに新文芸座に向かうと、映画館のあたりにはおおぜいの人の姿があり、まさかこの人たちが全部映画を観るわけではないだろうと思ったのだが、映画館のあたりにはパチンコ屋が密集しているわけで、皆パチンコ屋が十時に開店するのを待っているわけだった。

 その一階がパチンコ屋になっているビルの三階が新文芸座。エレヴェーターでその三階に上がると、こちらもちょうど開館するところだった。三、四十人の人たちが開館を待って並んでいたけれども、そのほとんどすべてが男性客だった。このあいだの飯田橋のオールナイトとはずいぶんと客層がちがう。やっぱり五社英雄監督というのは男性客を引きつけるのだろうか。女性を主役にした作品が多い監督だと思うし、特にきょうの二本はどちらも女性が主役だというのに。

 わたしのほんとうの目当ては「吉原炎上」の方で、実は過去にこの映画を観て相当に気に入っているはずなのだけれども、例の記憶の消失によって、この映画のことはまるっきし記憶していないのである。そんな残念なことはないので、こうやって観に来たというわけ。期待値は高かったけれども、その期待は裏切られなかった。いや、「肉体の門」もまた、なかなかに面白い作品だった。

 ‥‥二本の映画を観終わってだいたい三時。食事は先に買っておいたパンで館内ですませている。まだ時間も早いので、下北沢まで出向いて「G」でちょっと飲んでもいいと思ったのだけれども、それにも早すぎる時間にも思えて、けっきょくはそのまま家に帰ることにした。

 六時ごろには帰宅して、つくりおきのシチューで夕食にして、あしたはまた早く起きて映画を観に行くつもりなので、早めに床に着くことにした。


 

[]「肉体の門」(1988) 田村泰次郎:原作 五社英雄:監督 「肉体の門」(1988)   田村泰次郎:原作 五社英雄:監督を含むブックマーク

 脚本は笠原和夫で、田村泰次郎の原作からはかなりの脚色があるのではないかと思う。このあたりはよくわからないけれども、わたしは鈴木清順監督の「肉体の門」は観ているはず(もちろんまるで記憶にないわけだけれども)。

 戦後東京の廃墟ビルをねじろにしてグループを組み、将来はその廃墟ビルを「パラダイス」として花咲かせようとする娼婦たちを中心に、その周辺の男たち、ライバルの娼婦グループらをとらえた群像劇。その拠点となる廃墟ビルのセットこそが見事な造形で、1トン爆弾をぶら下げたそのビルが大爆発を起こすラストまで、場を引張って行く。

 挿話的にあれこれと短い物語が語り込まれて行く構成というか、その中でちょっとばかり主題が薄まってしまった印象はあるのだけれども、逆にそういうディテールをこそ楽しむという観方もあるだろうか。そういうところでは米兵への復讐に命を賭ける名取裕子の、銃弾まみれの最期がカッコいいわけだし、渡瀬恒彦と根津甚八との確執も面白い。ストーリーから離れての西川峰子の演技というものに見惚れてしまうところもあるし、そういう意味では主演のかたせ梨乃の芝居が弱いという感想にもなってしまうのかもしれない。

 冒頭とラストに、この作品公開当時の新宿副都心の遠景が映し出され、せいぜい四十年という時をさかのぼれば、そこにはこの終戦直後のアナーキーな東京があったのだということを、観るものにしっかりと思わせるものだったと思う。撮影は森田富士郎。


 

[]「吉原炎上」(1987) 五社英雄:監督 「吉原炎上」(1987)   五社英雄:監督を含むブックマーク

 やはりこれは素晴らしい作品だと思う。

 奇しくも同時に観た「肉体の門」もこの「吉原炎上」も東京の過去の姿を描くものであり、どちらも大爆発/大炎上でラストを迎える。また、「肉体の門」の舞台が三階にも四階にも重なる廃墟ビルだったように、この「吉原炎上」では中梅楼という遊郭の、吹き抜けのある三階建て建物が舞台になる。「吉原炎上」で吉原と外の世界とを境界づける「おはぐろどぶ」もまた、「肉体の門」で似たものが出て来る(そう考えると、その廃墟ビルとその外の世界との境界に浮かぶ舟に住む芦田信介の存在の意味が見えてくる)。そういうところではあとに製作された「肉体の門」に、この「吉原炎上」から引き継がれたものも大きいのではないのかと思ってしまう。「肉体の門」のかたせ梨乃はその廃墟ビルに「パラダイス」を夢見るけれども、「吉原炎上」の名取裕子は、「花魁道中」の実現に夢を賭ける。

 この映画はわたしはきょねんの春に神田の映画館で観ており、そのときの感想もこの日記に書いてあるわけで、いま読み返しても(そのときのことは忘れているとはいえ)それ以上に付け加えることもないように思ったりする。ただ、さいごに根津甚八が「あやとり」をやっていたということが、彼のあり方を象徴していたであろうことは書いておきたい。こちらも撮影は森田富士郎。


 

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■ 2014-12-06(Sat)

 いよいよ、きょうから待望の三連休がはじまる。予定を入れているのはあした日曜日、池袋の新文芸座で開催中の「五社英雄映画祭」から「肉体の門」と「吉原炎上」を観に行くということだけなのだけれども、評判の「インターステラー」も観に行きたいし、ついでにもう一本ぐらいは映画を観たいと思っている。ほんとうはきょう「インターステラー」などを観ておいて、あしたも出かけてあさっては家でゆっくり休みたいところだけれども、あさ起きてゆっくりしていたら、外に出かける気分ではなくなってしまった。それではと計画を立て、あさっては吉田大八監督の「紙の月」を観てから「インターステラー」、という流れにすることにした。

 きょうはきのう買ったロマネスコでシチューでもつくろうと、夕方から仕込みをはじめる。まずはロマネスコを解体して茹でたのだけれども、思いのほか巨大なロマネスコだったというか、こんかいのシチュー用に選り分けてもまだ、ゆうに半分以上の量が残ってしまう。これは冷凍保存出来るようなのでパックして冷凍室に入れてしまう。そのうちにサラダにでもしてしまうか、またシチューをつくるか。

 こんかいのシチュー、ロマネスコをちょっと多めにしたわけで、ほとんどロマネスコシチューと呼ぶにふさわしい。

 きのうのあさ、WOWOWで再放映されたブリュノ・デュモン監督の「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」を録画してあったので、さっそく午前中にこれを観た。


 

[]「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(2013) ブリュノ・デュモン:監督 「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(2013)   ブリュノ・デュモン:監督を含むブックマーク

 色調を抑えた美しい画面と、見事なカメラワークの撮影。屋外の撮影も屋内の撮影もきれいに統一されていて、すばらしいスタッフによるチームワークの成果を感じさせられる。エンドロールの賛美歌以外に音楽は使われていないけれども、外の風景にかぶさって来る小鳥のさえずりが印象に残る。

 映画は1915年、精神病院に収容されて数年が経つカミーユ・クローデルのもとに、弟のポール・クローデルが訪れて来る前後のことだけが、静かに描かれる。

 観ていて、つまりははたしてカミーユは精神病院に収容されて当然なほどに精神を病んでいるのか、ということが気にかかる。冒頭のカミーユの後ろ姿からは判断はつかないのだけれども、観ているわたしは「やはり精神を病んでいるのだろう」と思いながら観ていて、入浴シーンでもそのように感じる。次の食事のシーン以降、「食事に毒を盛られる」という被害妄想こそ示されるけれども、日常のふるまいは健常な人と変わりなく、その病院の修道女らからも信頼されていることもわかる。もちろん彼女は退院を望んでいて、弟のポールの来訪を心待ちにしている。世俗での生活を阻むような異常さは認められない、そう感じられる。

 映画は次に弟のポールに視点を移し、彼の芸術観、宗教観などが示される。ランボーの「地獄の季節」、「イリュミナシオン」によって詩の世界を開示されたと語るポールは、それでもキリスト教信仰にこそ自己を位置づけている。彼の語る「才能のあるものは時に暴走する」ということばが、このあとで重い意味を持って来る。

 ポールの来訪を受けたカミーユは、愛人であったロダンが自分からすべてを奪おうとしたと語る。彼女の作品もアイディアもなにもかも。そこにはたしかに被害妄想は感じられるのだけれども、とにかくは彼女は退院して家族のもとで生活したいとポールに訴える。ポールはあとで院長と散歩をし、その散歩の場で院長もポールに退院を薦める。

 ポールは帰って行き、映画は病院の中庭で陽光を浴び、おだやかな表情を見せるカミーユのクローズアップをとらえる。そこに字幕がかぶさり、カミーユがその後三十年間退院することも出来ずに、そのままその病院で生命を終えたことが示されて映画は終わる。

 わたしはちょうど半年ほど前にワン・ビン監督の「収容病棟」を観ているけれども、そこでも、家族からやっかいもの扱いされた人々が病院に収容されていることが描かれていた。カミーユの場合も同じことだろう。まずカミーユの母が彼女を病院へと送り、弟のポールはカミーユを退院させることも出来るのに、つまりはいつまでもそのようなことは行なわなかった。読んだところでは、彼女の葬儀にもポールは参列しなかったという。

 彼女が生涯幽閉されたままであったこと、これはポールの責任といっていいんだと思う。映画は「はたして彼女はじっさいに幽閉されなければならないほどに精神を病んでいたのか」という状況をたっぷりと描き、そこにポールの思想を対峙させている。いったいなぜ、ランボーの詩に感化されて詩人としてのスタートを切った男が、そのランボーが生きたような放埒な生を肯定出来ず、「才能のあるものは時に暴走する」として否定し去るのか。

 ポール・クローデルはランボーの詩にその生のよりどころを見出していたにもかかわらず、ランボーのスキャンダラスな生き方は肯定出来なかったのだろう。そのことが、姉のカミーユへの対処にあらわれているのではないのか。彼女もまた、ロダンの愛人としてのスキャンダラスな評判というものは拡がっていたはずで(このあたり、もう一本のカミーユの伝記映画「カミーユ・クローデル」には描かれていたのかもしれないが)、その生き方をポールは容認出来なかったのではないのか。「才能のあるものは時に暴走する」というのは、姉に向けられたことばなのではないのか。ポールは、姉の才能ゆえの暴走を止めたかったのだろうか。

 たしかにカミーユの被害妄想は哀しいものではあるけれども、そこまで「やっかいもの」みたいに排除すべきものだろうか。この映画はそのあたりを生々しく描いているように思える。

 ちなみに、ポール・クローデルは、そのカミーユが亡くなったあとになって、ロダン美術館にて彼女の展覧会を開催したのだという。もう暴走する心配がなくなったからこそ、彼女の才能を世に知らしめて良いと考えたのだろうか。もしかしたらポールは、ランボーという存在にしても、すでに彼が詩作を放棄した存在であったからこそ、心酔することも出来たのだろうか。わたしにはこの映画、ポール・クローデルを告発するようなものとして映ったところがある。

 しかしブリュノ・デュモン、やはりすばらしい映画作家であることを再確認した。


 

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■ 2014-12-05(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 きのうはちょっと飲み過ぎた気配もあったのだけれども、四時間の睡眠で目覚めた朝(深夜)は、二日酔いということもなく、さわやかな感覚だった。自分でも回復が早いものだと感心する。しかし、今朝はことのほか寒い。しごとではつめたく冷やされたものばっかり扱うので、手先が寒さでしびれて痛みまで感じてしまう。

 しかし、きょう一日しごとをがんばれば、あしたからはしごとは三連休。この忙しいときにとってもうれしいプレゼントである。特に予約を入れている舞台はないけれども、観たい映画はあれこれとあるので、映画を複数本観てみたい。もうきょうからお出かけしたりしてもいいのだけれども、さすがにきのう飲んだばかりだし、きょうは家で休息していようと。
 いちおう立ててある予定としては、あさっての日曜日に池袋へ行き、開催中の五社英雄監督特集から「肉体の門」と「吉原炎上」の二本立てを観ることは決めてある。あとは「インターステラー」も観たいし、「紙の月」、「天才スピヴェット」とかも観たい。来週になれば「ゴーン・ガール」の上映も始まるし、年末は映画三昧になるのだろうか。とにかくはきょうはお休み。

 それで昼前に北のスーパーに買い物に行くと、ロマネスコなどという珍しい野菜が売りに出されていた。そう、このスーパーでは年に一度ぐらい、このロマネスコを入荷するんだと思う。前にも二度ほど、このスーパーで買ったことがある。
 やはりこのみごとな形態を目にするとどうしても買って帰りたくなってしまい、今回もやはり買うことにした。またホワイトシチューをつくって、その具材にしてみよう。

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 帰宅してそのロマネスコをしつらえて写メールしていると、ニェネントも飛んで来て、その葉っぱのところにかじりついていた。ニェネントもお気に入り。いいネコ草になったというところだろうか。

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 夕食をつくるのがめんどうになり、どうせあしたはしごとも休みだから多少は夜更かししてもかまわないので(といっても、わたしの場合はせいぜい夜の十時ぐらいでも「夜更かし」といってしまうのだけれども)、また南のスーパーでお弁当が半額になる時間まで待って、いつもの中華弁当を買ってすませた。‥‥こういうクセがついてしまうとよくないな、とは思うのだが。

 

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■ 2014-12-04(Thu)

 きょうは新宿でAさんと会って飲む予定。待ち合わせは四時半なのでその前に映画でもと考えていて、ほんとうは「インターステラー」を観ようと思ったのだけれども時間的に塩梅がよろしくなく、それなら「紙の月」にしようと、ほとんどこの計画で行こうとしたのだけれども、ふっと思い出したのが上野の国立博物館での「国宝展」のことで、たしかこの週末で終了してしまうはず。まだきょうは金曜日だからそこまでの混み合い方ではないだろうと思い、急遽上野の方に行くことにした。また上野。そしてまた雨になりそうな予報。

 ちょうど昼ごろに上野に到着し、また上海焼きそばを食べようと、ガード下の小さな中華の店に入り、カウンター席にすわる。上海焼きそばがあることは外に書かれたメニューで確認してあるので、即上海焼きそばを注文したのだが、出来て来た焼きそばを見て、仰天してしまった。わたしなどが食事でつくるような焼きそばの三倍ぐらいの分量がある。山盛り。って、これだけの量を完食してしまったら胃が破裂してしまうのではないかと思ってしまう。本気で、半分ぐらいは残してしまおうかと思ったりする。
 味はたしかに上海焼きそばの味だけれども、ちょっと薄味。麺とかを半分にしてこの味付けならちょうどいいようにも思えるんだけれども、「もう食べられない」などと思いながらも、けっきょくは全部食べてしまった。人間の消化器官というものはスゴいものだ。

 外に出るともう少し雨が降り始めていて、ちょっと重たいおなかを抱えながら上野公園に。あれ? 桜の花が咲いているじゃないかと、近寄ってみると、「ジュウガツザクラ」と書かれたプレートがかかっていた。今ごろ咲くのが常態のサクラなんだろうか。

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 国立博物館にはやはりそれなりにお客さんが並んでいて、入場券を買って中に入ると、会場の平成館の前で「入場待ち」ということで、ちょっとだけ待たされたりした。
 会場内もやっぱり相当に混み合っているけれども、観られなくて困るというほどでもない。ただ、全部の展示をゆっくり観ていると時間が足りなくなってしまう。わたしは「東洋館」の方にも行ってみたいのだから。

 さいごの方はちょっと駆け足で観てまわり、東洋館の方へ移動する。こちらの館は「国宝展」の混み方がウソのように閑散としている。それがこの東洋館のいいところでもあるけれども、ガンダーラ美術などをざあっと観ながら、ひとつの目的であるエジプト美術のコーナーへ。
 わたしはやはりこのあたりの記憶が失せているのだけれども、過去にここのエジプト美術を愛好していた記憶はぼんやりと残っている。ひょっとしたら「ウジャト」のたぐいの展示物があったのかと思っていたけれども、歩いてみて、「そうだ、コレが好きだったのだ」と思い当たる展示物があった。魚神のオクシリンコス像。ここでまた、ちょっと記憶を補完出来た。やはりこの像は好きだし、これを観ることが出来てよかった。

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 あとは地下へ移動してインドのミニュアチュール画の展示を楽しむ。ここもなかなかに良い作品が並んでいる。また時間が取れたらこの東洋館に来てみよう(特別展示のない時がいいな)。大好きなスポットだ。

 新宿での待ち合わせ時間が近づいたので、電車で新宿に移動し、待ち合わせ場所へ行き、無事にAさんと合流出来た。
 きょうはわたしのリクエストで、思い出横丁(ションベン横丁)で飲みたいということで、まずは界隈を一周。まだ五時前の時間なのだけれども、もう客でうまっている店もある。わたしは「T」という店に行ってみたかったので、わがままを通す。この店もすでにかなりの客が席をうめていた。
 わたしはホッピーを注文したのだけれども、この店のホッピーの中身(つまり「焼酎」)の量、今までに飲んだどこの店よりも多い。けっこうグラスの三分の二は焼酎が入っている感じで、いくらおかわりをしてもホッピーの方が減って行かない。ホッピー一本で中身五杯は楽勝という感じである(たいていの店だと三杯でおしまいになる)。Aさんは「ションベン横丁はどこも味はイマイチだよ」といってたけれども、たしかに、この店も鮮度の欲しい刺身類はちょっと鮮度も落ちる感じはしたかな。やきとりは普通においしかった。会計はそれほどに安かったわけでもなく、ちょっとがっくりした。Aさんは「こんどは門前仲町界隈で飲もうよ」というので、次回はそんな感じにしたい。あとで調べると、その門仲には評判の「行列のできる店」があるらしい。

 Aさんと別れ、わたしはけっこう酔いがまわっていてヤバい状態だっただろうか。けっきょくはローカル線の終電でなんとか帰宅。あしたはしごともあるので、ほとんど服を着たまま、即睡眠モードに入ってしまった。


 

[]「日本国宝展」@上野・東京国立博物館 平成館 「日本国宝展」@上野・東京国立博物館 平成館を含むブックマーク

 まずは入場してすぐのところにあった「玉虫厨子」がとてもすばらしく、心に焼き付いた。建築物を模した立体としても魅力的だけれども、側面に描かれた絵の、その黒と朱色の対比、そして美しい曲線のパターンがほんとうによかった。これを観ることが出来ただけでも、この展覧会に来た甲斐があった。

 あとはやはり木彫の仏像などの展示。彫刻というものは、その背中側から観るとまた違った魅力を感じ取ることが出来る。そんな作品が多かった。絵画作品では仁和寺に所蔵されている「孔雀明王像」。これは中国(宋)から伝来した作品だけれども、静かで美しく、そして神々しい作品。

 作品とは関係がないのだけれども、解説のパネルの英訳文などを見ていて、「法華経」というものの英訳が「Lotus Sutra」なのだということを知った。なんか、カッコいい。

 チラシなどで見ていた展示されているはずの作品、けっこうすでに展示が終わってしまっているものがあって、これはちょっと残念だった。


 

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■ 2014-12-03(Wed)

 書こうかどうしようか迷ったんだけれども、先日、小林嵯峨さんといとうまくさんとの公演を観たあと、しばらくしてから小林嵯峨さんからFacebookでメッセージをいただいた。先日の公演について、某雑誌に感想/批評を書いてくれないかというものだった。嵯峨さんから直々のお申し出ということにまたビビってしまうのだけれども、わたしにはそんなに書けることもないし、どうしようかと迷うのだった。五百文字ぐらいの短い感想ならば書けそうだけれども、嵯峨さんは二千文字ぐらいと伝えて来られている。なんとか書けるだろうかと考えてみるのだけれども、やはりどう考えてもこれは無理。せっかくのご依頼を断るというのも申し訳ないという思いでいっぱいになるのだけれども、やはりお断りをする連絡をした。

 感想にせよ批評にせよ、ある程度の過去の記憶からのレファレンスがひつようになるだろうことを前に書いただろうか。先日の嵯峨さんの公演、わたしの目には「舞踏」というものからの距離があるように思えたところがあり、そのあたりに嵯峨さんの舞踏家としての特色もまたあるのだろうかと思ったのだけれども、そのあたりのこと、過去の小林嵯峨さんの公演の記憶がほとんど残っていないので何ともいえない。それでいただいた嵯峨さんからのメッセージには「今回は舞踏という枷を取っ払っていた」ということも書かれていて、今回がちょっと特別なパフォーマンスであったことがわかる。自分の観方はそんなにまちがってはいなかったわけだろうけれども、それを嵯峨さんという舞踏家の「常態」と観てしまうことはまちがい、ということだろう。

 この日記などで「こんな観方しか出来なかった」と書くのは自然なことで、いつもそうやって来ているわけだけれども、やはりそういう感想などを公にすることなど、しなくってよかったと思う。小林嵯峨さん、申し訳ありませんでした。

 きょうは図書館から借りているDVDで、デヴィッド・フィンチャー監督の「ファイト・クラブ」を観た。


 

[]「ファイト・クラブ」(1999) デヴィッド・フィンチャー:監督 「ファイト・クラブ」(1999)   デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 暗いトーンと過激な演出。前半を観ていて、「そうか、フィンチャー監督もその初期にはこのようなギミックな演出からスタートし、そこから現在のスタイリッシュな演出へと移行して行ったのか」などと思っていたけれども、暴力描写とかにはちょっとばかし辟易としながら観ていた。しかしこれが後半に進むにしたがって段々に面白くなり、ラストにも納得した。「セブン」がもういちど観たい!

 描かれるのはアナーキズム的な思想からのテロリズム、そこに個の生の充実感を感じるような男の物語なのだろうかと思っていたのだけれども、これはつまりは「二重人格」ではないのか?と思えるようになり、じっさいにそのような展開になる。しかしそうすると、あの女性(マーラ)とは何ものだったのだろうか。主人公の人格分裂へのきっかけとなる「媒介」的な存在ではあるだろうけれども、もう一歩踏み込んだ存在のようにも思える。



 

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■ 2014-12-02(Tue)

 きのうは寒い一日だったけれども、きょうは空も晴れて、ずっと暖かい。
 さてさて十二月というわけだけれども、今月も舞台を四つほど予約してしまったし、観たい映画も四、五本はある。あさってはAさんと新宿で飲む約束にしているし、こんどの土曜日には池袋で五社英雄監督の作品を二本観るつもり。それで来週には知人の個展にも行く。けっこう忙しい。
 もちろん、その忙しさに比例して財布も軽くなって行く一方なわけだけれども、きょうもなぜだか普通に買い物をしていて、どんどんと財布が軽くなるばかり。自分ではそこまで無駄遣いはしていないつもりなのだけれども、いったいどうしてなのかよくわからない。いつまでもこんな生活様式でやっていくと、すぐに貯金もなくなってしまうだろう。どこかでブレーキをかけ、考え直さなければならないと思う。

 きょうはパソコンの動画配信で「風の谷のナウシカ」を観た。いくつかのセリフは記憶していて、「もうすぐこう言うぞ」とか予測出来る。


 

[]「風の谷のナウシカ」(1984) 宮崎駿:原作・監督 「風の谷のナウシカ」(1984)   宮崎駿:原作・監督を含むブックマーク

 わたしはSFのことなどまるで詳しくはないのだけれども、これはまた豊かな世界観。完成度も高く、現実世界へのメッセージにも力強いものがある。世界中で支持されるわけだろう。SFというジャンルはこういうことを描けるから強いな、などとは思う。で、この世界観をどのように3・11以降の世界に活かして行けるのか、またはまるで活かせないのか?

 原作はもっと長い物語で、もの映画作品はその冒頭のわずかな部分でしかないはず(わたしの部屋にはこの原作マンガが全巻揃っているのだけれども、まだ読み通していない)。

 ただわたしは、「あたしが嘘をついたことがある?」などとシラッと言ってしまう人物というのは、ほんとうは好きではない。そう、アメリカの吹き替え版ではクシャナ殿下をウマ・サーマンがやっていたとのこと。イメージ、ぴったりだと思った。


 

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■ 2014-12-01(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 もうきょうから十二月。寒くなるわけだなあ。きょうも朝から、冷たい雨がポチポチと降っている。しかし例年のように、この十二月一日というのはわたしの職場が一年でいちばん忙しくなる日でもあり、とにかくは息つく暇もないほどに動き回ってると寒さもそんなに感じなかったりする。

 それでちょっと疲れてしまったのか、このところの習慣というか、また昼寝をしてしまうわたし。ベッドに横になって、「キャプテンサンダーボルト」を読むのだと意気込んでも、ほんの五、六ページ読むともう眠くなってしまい、そのまま寝てしまう。それで目が覚めるともう、外は薄暗くなっているわけだ。

 その分遅くまで起きているかというとそういうわけでもなく、やはり夜の八時にはベッドに入ってしまい、そこでまた本を読もうとしてもせいぜい三十分ぐらいで眠ってしまう。

 でもこのごろは、眠る前にニェネントと遊ぶ習慣が出来てしまっている。わたしがベッドに横になって、ニェネントを呼ぶとニェネントはベッドの脇にやって来る。ふとんの下から手を出して、ニェネントの頭とかをなでてやると、ニェネントも前足でわたしの手にちょっかい出して来る。そのうちに、わたしの手に噛み付いて来るわけだ。わたしの手に掛けて来る前足の爪は引っ込めているし、いちおうは甘噛みなんだけれども、それでも「力入れすぎじゃないの?」っていう痛みを感じはする。そのうちにニェネントは「にゃー」とかないて姿勢を低くして、わたしの手、というよりも腕の方に狙いをつけて来る。それで瞬間わたしの腕に飛びついて爪を立てて噛み付いて来て、サッと逃げて行く。このときには完全に爪を立ててわたしの腕に引っ掛けて来るので、たいていは流血の惨事になってしまう。そんな痛い思いをしてもついつい毎晩やってしまうのも、ニェネントくん、あなたがかわいいからですよ!


 

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