ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-01-31(Sat)

 きょうは渋谷へ行き、フレデリック・ワイズマン監督の作品を二本観るつもり。わずか道路ひとつ隔てたぐらいの位置の映画館で、監督の約五十年前のデビュー作と昨年製作の最新作とを連続して観ることが出来るというのも不思議な気がする。

 しごとは休みにしてあるので、いつもだったらまだしごとをやっている時間に家を出て、若い整理番号でチケットを買い、ゆっくりと昼食をとりたいところ。それと、同じ渋谷にある小山登美夫ギャラリーではリチャード・タトルの版画展もやっているので、そちらも観たい。

 ローカル線の車窓からは、昨日の雪が融けずに残っている、まだまっ白な田んぼの風景が拡がって見えていて、こういう風景が見られるのはちょっと心が安らぐ気がする。
 きょうは四時間以上も映画を観ることになるので、電車の中では寝ておいた方がいいかと思ったのだけれども、本を読んでいてもちっとも眠くならず、けっきょく渋谷にそのまま着いてしまった。時計はまだ十一時前。

 まずは渋谷駅の東側に行き、ヒカリエの上にある小山登美夫ギャラリーへ行く。このあたりの道筋はごちゃごちゃしていてほんとうにわかりにくいし、工事中ということはあるにしても、「美観」というにはほど遠い。渋谷という街はJR駅を中心にして東西南北に分断されている感覚がある。この「ヒカリエ」という建物が出来たせい?
 とにかくは八階のギャラリーへ行き、展覧会を観る。アンチームな、こころがおだやかにされる作品が並んでいた。

 展覧会を観たあとはこんどは駅の西側へ行き、まずは先に行くシネマヴェーラ渋谷という映画館へ行き、12時40分からの上映のチケットを買う。まだ開場まで一時間以上時間があり、そのあいだに昼食をとるのにもちょうどいいだろう。次に道路を隔てたBunkamura へ行き、14時35分の回の座席を確保する。もうかなり満席に近くなっているということで、前の方しか席は残っていませんといわれる。前から四番目の列で空席があったのでそこにする。

 映画が始まるまでは昼食。きのうこの日記のむかしの記述を読んでいて、渋谷には「上海食堂」という安い中華の店があることがわかったので、その店を探してみる。もちろんその店についての記憶が残っているわけではない。
 ざっと探してみたけれども見つからず、ちょうど中華の安そうな店があったので「ここでいいか」と飛び込むと、そこがまさに「上海食堂」だった。ひとりがけのカウンター席がメインの店で、メニューは500円のランチから。わたしはまた(例によって)「上海風焼きそば」を注文する。いちおう納得の味。

 食事を終えてちょうど映画館の開場の時間も近づいていて、映画館へ向かう。こちらの映画館も満員のようで、そうか、きょうは土曜日だったのだ。
 こちらの作品は一時間半ぐらいだったのだけれども、実は観ているあいだに猛烈な眠気におそわれてしまった。なんとか起きていようとがんばったのだけれども、いくつかのシーンでこっくりといってしまった。どのくらい寝てしまったのかはわからないけれども、映画のポイントはそんなに観過ごしてしまってはいないと思う。しかし、こうなると心配なのが次に観る作品のことで、そちらは三時間の長丁場。とにかくがんばらなくてはならないと、さいしょの映画の終わったあとに外で缶コーヒーを飲み、気を引き締めて映画館に入った。

 さっきの映画館はいかにも映画好きと見える男性客中心だったけれども、こちらの方はわたしより年配と思われるご婦人方の客、それも友達と来られているのか、ふたり以上でいらっしてるお客さんが目立つ。いかにも「文化映画」を観に来ました、という客層といえばいいのか、「それはちょっと裏切られてしまうんじゃないかな」と思ったんだけれども、予想どおりというか、わたしのとなりのふたり連れのおばさんたち、映画が始まって一時間ぐらいのところで何やらひそひそ話をされ、そこで退場されてしまわれた。心配していたわたしの眠気の方だけれども、こちらはちっとも眠くなることもなく、全篇を楽しめた。知ってる絵がいろいろと、次々に登場してくれたおかげかな。

 映画が終わってちょうど六時。まっすぐ帰ってもいいのだけれども、やっぱりまた「ひとり日高屋」をやりたくなってしまい、近場の日高屋に行ってしまい、いつものメニューを注文してしまう。日高屋はどこにでもあるし、当然ながらどこもまるでメニューはいっしょ(味もいっしょ)だから、とってもコンビニエンス。

 あとはまっすぐ帰宅するのだけれども、この夜はすぐに席にすわることが出来た。週末は通勤客がいないので、この時間帯はずいぶんと空いているようだ。
 自宅駅に着いて九時半ぐらい。「サカリノさん」なのにひとりでお留守番をしてくれたニェネントへのねぎらいで、スーパーに寄って値引きされている刺身を買ってあげる。ニェネントの好きな(とわたしが勝手に思っている)カツオはもうなくって、びんちょうまぐろのパックぐらいしか残っていなかった。あとは酢ダコのパックも半額になっていたので、ちょうどタコの本も読んでいることだしと思って、残酷にも酢ダコパックも買ってしまった。
 帰宅して、ひょっとしたらニェネントの発情期ももうおさまっているかしらんと思ったのだけれども、やはりまだ継続中のようだった。「留守番ありがとうね」とびんちょうまぐろをあげて、わたしはもう着替えをして寝た。

[]「リチャード・タトル 版画展」@渋谷Hikarie・8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Gallery 「リチャード・タトル 版画展」@渋谷Hikarie・8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Galleryを含むブックマーク

 リチャード・タトルの名は記憶しているし、過去に彼の作品を観たことはあるはずなのだが、その作品の記憶はなく、はたして彼がどのような作品を制作しているのか、まるで記憶に残っていない。そういうリチャード・タトルの、この展覧会は版画作品を集めたもの。大きな作品はない。

 まずは「紙」という素材の特性、肌ざわりというようなものを強く感じさせられる作品群で、特にギャラリーに入ってすぐに展示されていた、紙自体を漉いて製作された作品をみて、わたし自身もかつてこうやって自分で紙を漉いて作品をつくっていたことを思い出し、何となく作者に親しみを感じてしまう。
 そのほかの作品でも、着彩に使われた画料というものの特性にも興味を持たされるし、たいていの作品の施されたエンボス効果というものがまた、素材の性質をよく伝えるものだったと思う。また、着彩の上から貼られたガーゼ状の白い布の効果というものも興味深く、それはまさに色彩の上に「ヴェール」をかぶせるようなものではあるし、その「ヴェール」への微細な着色がなされた作品の、繊細な美しさも記憶に残るものだった。とにかくは心がおだやかにされる作品群に、使い古された言い方だけれども、この都会の喧噪をしばし忘れることが出来た思いがした。

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[]「チチカット・フォーリーズ」(1967) フレデリック・ワイズマン:編集・監督 「チチカット・フォーリーズ」(1967)   フレデリック・ワイズマン:編集・監督を含むブックマーク

 まずは弁護士としてのキャリアを持っていたというワイズマン監督の、監督デビュー作。精神異常犯罪者を収容したウォーターブリッジ矯正院を取材したドキュメンタリーで、この作品からすでに、その映像内容を説明するようなことはいっさいやっていない。それでいて(それだからこそ)、その取材した施設のありようが観るものの目の前に迫ってくる印象になる。撮影した素材をいかに編集して組み立て、一編のトータルな作品に仕上げるのか、ここにこそワイズマン監督の異能が発揮される。

 冒頭はいきなり、思いっきり素人っぽいレビュー舞台の様子が映されて、その舞台のバックの暗幕に「Titicut Follies」と書かれているのが読める。これはその施設の慰労会か何かで、その慰労会が「Titicut Follies」と呼ばれているのだろう。そのタイトルがそのまま、この映画のタイトルにされているわけだ。
 ‥‥さっき「素人っぽい」と書いたけれども、これは「素人」というよりも、そのあまりの「やる気のなさ」という状態が特筆ものだろう。舞台に並んだ四人の男たちはまるで無表情にコミカルな歌を歌い、やる気無さげにステップを踏み、持っているバトンを振る。このレビュー舞台はもういちどラストで繰り返され、さらに「うっへぇ〜」というような舞台の様子も描かれることになる。この作品のインパクトの多くは、この前後をはさみこむ舞台映像に依っているのではないかと思う。

 さて、さっきの舞台の出演者たちは、実は収容された精神異常犯罪者によるものだとわかってくるのがそれ以降の展開。そして、そのような収容された犯罪者のありさまに驚かされる以上に、看守らによる彼らへのあまりに非人間的な扱いに驚かされることになる。冒頭の幼児レイプ(?)犯の告白する近親相姦にはさすがに「ぞわっ」とさせられてしまうけれども、それ以降、全裸にされて収監され、看守の言いなりにさせられる収容者の姿にもショックを受ける。収容者の返答が悪いと執拗に大声での返答を求める看守、食事を拒絶する収容者の鼻からチューブを差し込み、そこに水分などを流し込む行為(この時の収容者の目に流れる涙が忘れられない)にはあきれ果ててしまう。撮影されていることがわかっていても、いつものルーティンとしての人権無視行為に疑問も持っていないのだろう。ある面ではそれがこの作品の撮影された1960年代のアメリカの姿というわけで、長くこの作品の上映が認められず、認められたあとにも「この矯正院の待遇はその後改善された」というコメントの挿入を求められたという。

 アメリカは、このウォーターブリッジ矯正院を捉えたドキュメントの中に「アメリカ」の恥を見て、そのことを外に知らしめることに抵抗したのだろう。ここにアメリカの姿があったのだ。


 

[]「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014) フレデリック・ワイズマン:編集・監督 「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014)   フレデリック・ワイズマン:編集・監督を含むブックマーク

 そのフレデリック・ワイズマン監督の、昨年製作された最新作。いつもあれこれの組織/施設のあり方をさまざまな視点から捉える監督は、今回はイギリスのナショナル・ギャラリーという施設を対象にした作品をつくった。つまりは国立の美術館である。

 わたしはイギリスに行ったことはないので、このナショナル・ギャラリーがどのような所にあって、どのような作品を所蔵しているのかはまるで知らない。この作品を観た限りでは、そのコレクションのほとんどは絵画作品のようで、彫刻作品というものはこの映画では紹介されることはなかった。

 映画はまずは所蔵されているさまざまな作品のショットから始まり、そのギャラリーの裏側から表側から、いろんなアプローチでギャラリーの目指すものがあらわにされて行く。そんな中で何度も繰り返されるのが、ギャラリー内での観客を対象にした学芸員によるトークで、たいていがひとつの作品の持つ魅力というものを観客に伝えるものであり、ここでは映画の観客であるわたしもまた、学芸員のトークによってその作品の魅力を感じ取ることになる。もちろんカメラはその作品をなめるように撮ってもくれるだろう。

 そして、ギャラリーのそれ以外の対外的な活動も示されて行く。盲目の人たちに対して、エンボス加工した印刷素材を使って、ピサロの一点収束による作品を例に、絵画の持つ魅力を(もしくは、視覚とはどういうものか、ということだろうか)説明したりもするし、モデルを使ったクロッキー教室を実施している様も紹介される。つまりは絵画作品製作の実地を観客にも、ということなんだろう。

 展示の裏方さんたちの作業の紹介も興味深いのだけれども、ここで紹介された「額縁づくり」での木の削り出しだとか金箔貼りとかいう作業、「さすが英国人」というと差別になってしまうけれども、かなり荒っぽい印象を受けてしまう。だって、日本だったらそういう職人さんだけを相手にして見事なドキュメンタリーがつくれてしまうような、つまりは「職人技」を感じ取れるものだと思うんだけれども、そういう感じではないのね。額縁の木を彫って行く作業は「乱雑じゃないの?」って思ってしまうし、金箔の扱いもけっこう雑。こういうの、なんか自分のそういう感想を考えても面白いところがある。

 そしてわたしがいちばん感銘を受けたのが、X線による絵画修復計画の過程で、レンブラントの作品の下から別の絵が浮かび上がって来たという場面。その大きなX線による画像を縦に持っているときにはわたしはまるで気付かなかったのだけれども、その画像を横にしたとたんに、別の肖像画がはっきりと浮かび上がってくる。この瞬間に、わたしは思わず「あっ!」と声をあげてしまった。

 なんだかあれこれと箇条書きになってしまうのだけれども、それからスタッフによる「経営会議」のような場。マラソン大会のゴールにギャラリー前の広場(トラファルガー広場なんだね)が選ばれ、そのときにギャラリーの壁面に映像が投射されるということを認めるかどうなのか、という論議。そのことがギャラリーの宣伝になるのかどうか、そのときに入場が制限されるのはまずいのではないかとか。そして、助成金がカットされることへの論議。観客数の増加は見込めるのか。

 ラストには英国ロイヤルバレエ団のダンサーによる、美しいデュオがギャラリー内で繰り拡げられる。わたしはそのちょっと前に少しだけ映し出されるブロンツィーノの「愛のアレゴリー」の美しい「青」に魅了され、もっともっとこの作品を見せて欲しくなってしまった。

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 やはりものすごく多角的に美術館というものの魅力を、その収蔵作品の魅力とともに伝えてくれるすばらしい作品で、それはまた観てみたくなってしまう作品だし、DVDとかでリリースされたなら買ってしまいたくもなるのだった。とにかくはもういちどは映画館で観たい。

[]二〇一五年一月のおさらい 二〇一五年一月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●Nibroll「リアルリアリティ」矢内原美邦:振付・演出 @三軒茶屋・シアタートラム

ちょっとおまけ:
●「さすらい姉妹 寄せ場路上巡業2014→2015 ――運がよけりゃ この世はきっとパラダイス」@上野恩賜公園・科学博物館前広場

映画:
●「超能力研究部の3人」山下敦弘:監督
●「アルファヴィル」(1965) ジャン=リュック・ゴダール:監督
●「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン:原作・脚本 デヴィッド・フィンチャー:監督
●「チチカット・フォーリーズ」(1967) フレデリック・ワイズマン:編集・監督
●「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」フレデリック・ワイズマン:編集・監督

美術:
●「リチャード・タトル 版画展」@渋谷Hikarie・8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Gallery

読書:
●「嫌な物語」(Disturbing Fiction)
●金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 2 「猫、そのほかの動物」金井美恵子:著
●「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン:著
●「動物好きに捧げる殺人読本」パトリシア・ハイスミス:著 大村美根子・榊優子・中村凪子・吉野美恵子:訳
●「太陽・惑星」上田岳弘:著

DVD/ヴィデオ:
●「バグダッドの盗賊」(1940) ルドウィッヒ・ベルガー、マイケル・パウエル:監督
●「勝手にしやがれ」(1960) ジャン=リュック・ゴダール:監督
●「女は女である」(1961) ジャン=リュック・ゴダール:監督
●「かたつむり」(1965) ルネ・ラルー:監督
●「ミツバチのささやき」(1973) ヴィクトル・エリセ:監督
●「ファンタスティック・プラネット」(1973) ローラン・トポール/ルネ・ラルー:脚本 ルネ・ラルー:監督
●「ヴィンセント」(1982) ティム・バートン:監督
●「ボーイ・ミーツ・ガール」(1983) レオス・カラックス:監督
●「ホーンティング」(1999) シャーリー・ジャクソン:原作 ヤン・デ・ボン:監督
●「僕らのミライへ逆回転」(2008) ミシェル・ゴンドリー:監督
●「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「ソーシャル・ネットワーク」(2010) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「灼熱の魂」(2010) ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督
●「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013) マーティン・スコセッシ:監督
●「鴛鴦歌合戦」(1939) 宮川一夫:撮影 マキノ正博:監督
●「ゴジラの逆襲」(1955) 円谷英二:特技監督 小田基義:監督
●「太陽を盗んだ男」(1979) 長谷川和彦:監督
●「ツィゴイネルワイゼン」(1980) 田中陽造:脚本 鈴木清順:監督
●「天空の城ラピュタ」(1986) 宮崎駿:監督
●「もののけ姫」(1997) 宮崎駿:脚本・監督
●「もらとりあむタマ子」(2013) 山下敦弘:監督


 

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■ 2015-01-30(Fri)

 天気予報ではきょうは雪。それなりの積雪もあるだろうといっている。いつものように五時近くに出勤するとき、たしかに少し雪が降り始めていた。まだ降り始めで、雪が積もっているなどというのではない。しかし、しごとが終わって帰宅する頃にはかなりの雪になってしまっていて、民家の屋根や公園の地面などもうっすらと白くなり始めている。

 帰宅するとニェネントがお出迎えしてくれて、その様子がいつもの平常時のニェネントのようにみえ、もういいかげんに発情期も終わる頃だろうと思ったのだけれども、残念ながらきょうもまだ「サカリノさん」なニェネントだった。

 昼前に窓から外をみるともう雪も本降りで、さすがにアスファルトの道路までは積雪していないけれども、あたりはかなりまっ白になってしまっていた。

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 部屋にいても足元から冷えてくる感じで、食卓の上においてあるコップの中のお茶だとか、自然に凍り付いてしまうのではないかと思ってしまうぐらいに寒い。もう一歩も外には出たくないのだけれども、こうやって部屋の中にいても嫌になる。借りているタコの本を読み進め、午後からはやはり図書館から借りている「ソーシャル・ネットワーク」を観、まずいちど観たあとにデヴィッド・フィンチャー監督のオーディオ・コメンタリーでもういちど観て、そのあとは今度は脚本家と出演者らでのコメンタリーをまたまた観てしまう。

 そのあとは起きていると寒いので早々とベッドにもぐり込むのだけれども、耳にはニェネントがあちこちの部屋中をさまよってなき声をあげているのが聴こえてくる。いつもはほとんどなき声をあげることもなく、物静かなネコではあるのだけれども、こうやって発情期のときには近所から苦情が来るんじゃないかと思ってしまうほどに騒々しい。今はこの住まいの一階にはわたししか住んでいないのがラッキーに思える。

 「もう眠ろう」と枕元のあかりを消してからしばらくすると、ニェネントがベッドの上に駆け上がってきて、わたしの足元で丸くなって眠りはじめる。ようやくあたりは静かになり、わたしのまぶたも重たくなってくる。


 

[]「ソーシャル・ネットワーク」(2010) デヴィッド・フィンチャー:監督 「ソーシャル・ネットワーク」(2010)   デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 ちょうど、まさにほぼ四年前にこの映画は映画館で観ていて、そのことはこの日記を検索するとわかる。そして二年前にまた、DVDだかWOWOWだかでもういちど観ている。もちろん今のわたしにはそういう記憶はまるで残っていないので、まさに「初めて」観る気分ではあるのだけれども、今そうやって四年前の日記を読み返すと、今回観た感想とそのときの感想とがほぼイコールである。そんなところでやはり「わたしはわたし」なのだなあ、などと自己同一性みたいなものを確認出来た気分になる。

 二年前の日記ではわたしはこの作品を「市民ケーン」と比較していたりするけれども、今のわたしにはその「市民ケーン」の記憶が抜け落ちてしまっているので、読むと現在のわたしを情けなく感じてしまう。
 映画の感想などというよりも自己確認みたいなことを書いてしまったけれども、やはりデヴィッド・フィンチャー監督はいい。このスピード感、テンポ、好きである。

 あとで観た(聴いた)出演者によるコメンタリーで、マーク・ザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグが、マークのことを「<女の人を描いてくれ>と言われたダ・ヴィンチが、モナリザを描いてしまったようなものだ」と言っていた。<才能>ということで、そういうこともあっただろうけれども、わたしはやはり今では、これは<器>の問題でもあると思った。別に自分をなぞらえるわけではないけれども、こういうことはちょっと前にこの日記に書いてしまっている。「まさに今、自分の世界を拡げられるチャンスが目の前にあらわれている」ということが見える人間と、それとつまりは「スモール・サークル・オブ・フレンズ」でなれ合うことで終わってしまう人間との「差」であろう。それが<器>の差。誇大妄想狂的にいえば、わたしは、ちょっとばかしはマーク・ザッカーバーグのみた世界に近いものをのぞき込んだことがある人間だと思っている。そしてそこで、そういうものをのぞき込めない人たちのこともまた、わかったところがある。

 ラストでマークは、けんか別れしたエリカ(ルーニー・マーラ)をFacebook で検索してみつけ、そこで「友達リクエスト」を送信する。以前に観たときにはわたしはまだFacebook をやっていなかったので、このあたりの機微がわからなかったのだけれども、今ならよくわかる。その「友達リクエストを送信する」ボタンをマークがクリックすると同時に、ビートルズの「Baby,You're A Rich Man」のイントロが流れる。ここでわたしの目は涙があふれてしまった。


 

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■ 2015-01-29(Thu)

 憶えておきたい夢をみて目が覚め、その夢の内容を反芻して記憶にとどめるようにして、「これだけはっきり憶えていれば忘れることもないだろう」と思うのだけれども、やはり時間が経つときれいに忘れてしまう。「夢」というものが本来そういうものなのか、わたしの記憶力の側に問題があるのか。どうもやはりわたしの記憶力が低下しているのではないかと思う。「ああ、わたしの記憶力はもうだめだ」と思っていればいいわけもなく、これをなんとか回復させるようにしたい。どういうことをやればいいんだろうか。

 ニェネントはきょうも発情期が続いていて、いつもわたしのそばに寄り添ってきて、「かまってよ」みたいになくのである。背中のブラッシングがいいみたいで、おとなしくされるがままになっている。しっぽの付け根のところを上からトン、トンと叩いてやると、後ろ足で足踏みしながらヒイヒイとなく。しっぽの付け根を両側から指でつまんでやって、マッサージみたいにゴリゴリしてやると、なき声が吠え声のようになる。これをやりすぎると「シャー!」と怒って振り返り、わたしの手を噛もうとする。

 きょうは昼寝をしないようにがんばった。ベッドに横になって本を読むとそのまま寝てしまうのでそういうことはよして、本を読むにしても座って読む。午後からミシェル・ゴンドリー監督の「ウィ・アンド・アイ」という作品を観はじめたのだけれども、先日観た「僕らのミライへ逆回転」と同じように画面が汚くって、つまりは手持ちカメラひとつでこの作品をつくっているみたい。わたしが観たい映画というのはそういうのではなく、ちゃんと撮影も照明もセッティングされてつくられた映画。しばらく我慢して観ていたけれども、途中でそれ以上観続けることが出来なくなってやめてしまった。わたしには、このミシェル・ゴンドリー監督というのはダメなのかもしれない。まだ二、三本録画してある作品はあるのだけれども。

 結局「ゴジラの逆襲」などを観て楽しんで、夕食にまた中華丼をつくって食べ過ぎて、おなかが苦しいままベッドに入って本を読む。読んでいるタコの本は何もかも面白いというわけでもないのだけれども、読み進めるペースは早く保てる。この本だけでは生物学的なタコの特性はわからないところもあるので、次にはそういうことのわかる本を借りてみたくなった。


 

[]「ゴジラの逆襲」(1955) 円谷英二:特技監督 小田基義:監督 「ゴジラの逆襲」(1955)   円谷英二:特技監督 小田基義:監督を含むブックマーク

 昔観た記憶は残っているのだけれども、監督が本多猪四郎ではないことは知らなかった。音楽も伊福部昭ではない。

 第一作「ゴジラ」の大ヒットを受けて、急遽製作された作品だったということで、撮影日数もそんなには取れなかったらしい。監督が代わったのもそのあたりに理由があるらしく、やはり第一作に比べてしまうとあれこれともの足りないところは感じてしまう。しかし、ここでまずは初めての怪獣対怪獣というバトルが繰り拡げられるわけで、ここでの宿敵のアンギラスとの戦い、両者の動きがかなりスピーディーで、これはこれでとても見ごたえがある。あとで読んだのだが、ほんとうはこのシーンはスローモーション撮りするつもりだったのが、間違えてコマ落としで撮ってしまったらしい。それを円谷英二氏が面白がって気に入って、そのまま活かしたものらしい。

 ストーリー的には第一作が東京がゴジラに襲われたから今回は大阪というわけで、たしか次の「キングコング対ゴジラ」が名古屋が舞台だったと思うから、ゴジラの諸国漫遊モードが始まったというわけだろうか。ただ、前作の「水爆の災厄」としてのゴジラ、という側面は消え、まるで台風が本土上陸を狙うような、その進路予測の描写もあって、自然災害のメタファーという側面が強くなっている。ここでの灯火管制という描写はちょっと面白く、ここで脱走した囚人らの奪った車の石油タンクへの事故で灯火管制が破られ、ゴジラを呼び寄せてしまうというあたりがドラマ的にはいちばん面白い。囚人らは人のいない地下鉄に逃げるけれども、ゴジラの上陸で構内に水があふれ込み、囚人らも流されてしまう。この場面の特撮は迫力があり、今でも通用する出来映えだと思った。

 漁業会社のパイロットらで進行するメインのストーリーはどうでもいいものだけれども、ここで終盤にはゴジラに襲われて墜落死してしまう千秋実の、その前のあからさまな死亡フラグの立て方がお見事、だっただろうか。しかしこのラストの航空自衛隊機での攻撃シーン、やはりちょっと冗長という気はしてしまう。もっと別な形で、さいごのゴジラの見せ場をつくって欲しかった気がしないでもない。


 

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■ 2015-01-28(Wed)

 ニェネントはきょうもサカリノさん(発情期)まっさいちゅう。しごとは非番で休みにしてあるのだけれども、きょうはとなり駅の市民病院へ行かなくてはならない。受付開始が朝の八時で、なるべく早く行った方が待ち時間が短くなるわけだから、八時前に家を出る。それでも診察が始まるのは九時からだから、最低一時間は待たなくてはならない。図書館から借りて時々読んでいた本を持って行き、待ち時間のあいだになんとか読み終えた。

 診察の順番がまわってきて、診察自体はあっという間に終わってしまう。「まっすぐに歩くことが出来るか」とか「片足で立つことが出来るか」とかのチェックがなされるのだけれども、これは服用している薬、テグレトールの副作用が出ていないかどうかのチェックだということ。とかく副作用の多い薬なのである。そのあたりの副作用はわたしには出ていない。

 十時には帰宅することが出来、すぐに図書館に本の返却に行き、こんどはタコについての本を借りてきた。書棚をみて、この次はクモについての本を借りようかとか考える。DVDでようやく、デヴィッド・フィンチャー監督の「ソーシャル・ネットワーク」を借りることも出来た。これも観るのが楽しみ。

 帰宅して昼食はノーマルな焼きそばですませ、それからまたまた長い昼寝をしてしまう。こういうスタイルがすっかりクセになってしまった感じで、どこかで正常にもどさなくてはいけないと思う。もう外も暗くなって目が覚めてからご飯を炊き、遅い晩ご飯をとる。きょうは目玉焼きと基本はレンジでつくるポテトフライですませる。ポテトフライはなかなかにおいしい。

 食後はベッドにもぐり込み、借りてきたタコの本を読み進める。読んでいた「自負と偏見」はしばらくお休み。ベッドで寝ているとニェネントもベッドに飛び乗って来るのだけれども、ベッドの上の毛布にかじりつき、前足を毛布に押し付けて、ゴロゴロとのどを鳴らし始める。どうも「おしゃぶり」をしているという感じではあって、それはお母さんのミイのおっぱいを吸っていた頃の思い出なのかもしれないし、そういう延長では、ニェネントにはわたしの存在は「お母さん」に等しいものとして映っているのかもしれない。そういう意識が、発情期になると表面に出てくるのだろうか。ニェネントがのどを鳴らす「ゴロゴロ」という声を聴いていると、こちらの気もちもなだめられるような気がする。


 

[]「太陽・惑星」上田岳弘:著 「太陽・惑星」上田岳弘:著を含むブックマーク

 三島由紀夫賞や芥川賞の候補になった作品。どうやらぶっ飛んだ内容で評判もいいようなので楽しみにして読んだのだけれども、そこまで面白いか?というのが正直な感想。とにかくわたしの感想では底が浅いというか、文章が浅薄であると思う。「惑星」の方には「最終結論」だとか「最強人間」などという存在が登場するわけだけれども、わたしはそういう言葉の選び方が苦手。プロットとしても、単に著者が読者の予想を先回りしてぶっ飛んだ方向へ持って行っているだけという印象で、その内容にセンス・オブ・ワンダーが感じられることがない。「実はこのときこの登場人物はもうひとりの登場人物とニアミスしていたのだ」(という文章はないけれども、そういうニュアンス)など、でっち上げでいくらでも書くことは出来ると思うよ。

 こういうプロットを支えられるのは、並ならぬ理論武装による虚構の構築あってこそではないかと思うのだけれども、登場人物らの会話にそのような理論武装は読み取れない。つまりそこでわたしは、これは浅薄ではないかと感じるしかない。一般の評判はいいようで、単にわたしがSFとかを読みなれていないせいなのかとも思うのだけれども、簡単に書くと「何が面白いのかさっぱりわからない」ということになる。



 

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■ 2015-01-27(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 きょうは旧友のFさんと、門前仲町の「魚三酒場」で飲む予定。「門前仲町で飲みたい」というのはFさんのリクエストだったのだけれども、それでわたしがネットで検索するとこの「魚三酒場」がトップに出て来るわけである。とても有名な居酒屋なようだけれども、わたしもFさんもまるで知らなかった。ネットでみると四時の開店の前に店の前には行列が出来ているそうで、「それは大変」と、とにかくは四時十分前に門前仲町の駅で待ち合わせることにした。
 この「四時十分前に門前仲町」というのは、わたしにはなかなかに面倒なところがあって、一時間に一本しか走らない地元ローカル線を使うと、どうしても十二時の電車に乗らないときびしい。途中で時間をつぶすことになるとはいえ、四時間近い道のりである。まあ新宿あたりで本屋にでも立ち寄って時間をつぶせばいいことと、早めの昼食を蕎麦でかんたんにすませ、十二時の電車に乗る。
 今朝は雨も降っていたのだけれども、昼にはもう晴れはじめていて、きょうは気温が高い。テレビでも三月並みの暖かさになるといっている。わたしもオーバーをちょっと春向けのものにして、あまり厚着はしないで家を出たのだけれども、それでも家を出ると下手をすると汗ばんでしまうような陽気。こういう日は日が暮れるととたんに寒くなったりするから、気をつけないといけない。

 まずはターミナル駅での乗り換えがスムースに行かないわけで、ここでいちど駅を出て時間をつぶす。前から思っているのだけれども、ターミナル駅での乗り換えをスムースにするためのダイヤを、ちゃんと組み直してほしいものである。去年の三月のダイヤ改悪がむごすぎるのだ。
 四十分という待ち時間を駅ビルの本屋をみたりしてすごし、一時ぐらいの湘南新宿ラインで新宿へ向かう。これで新宿に着くのが二時十五分。ここでも一時間ぐらいは時間をつぶさなければならない。いちど山手線で上野の方までまわって、そこから地下鉄の大江戸線で門前仲町へ行ってもいいのだけれども、やはり新宿で紀伊国屋に寄って、立ち読みをして時間をつぶす方を選んだ。それでちょっと早めに門前仲町へ行って、店の位置などを先にたしかめておこうと。

 そのように行動して、四時半ちょっと過ぎに門前仲町に到着した。駅から出て「魚三酒場」のある方向に進むと、もうすでにそのあたりに人の列が出来ている。たしかにそこに「魚三酒場」はあった。六階建てぐらいのビルで、その一階から四階までが居酒屋。大きい。開店を待っている人たちは三、四十人はいそうだけれども、まだまだ余裕はあるだろう。
 待ち合わせの駅の改札に戻ると、程なくしてFさんも到着。「ほら、もうこんなに人が並んでるよ」と案内するとFさんもおどろく。それでもFさんが「あたりをぶらついてみようよ」というので、わたしも「まあ簡単には満員になって入れなくなることもあるまい」と、あたりを歩いてみることにした。

 門前仲町には、深川不動尊と富岡八幡宮という大きな神社仏閣が隣接して軒を並べている。この日のわたしたちは富岡八幡宮の境内へ行ってみることにした。もう一月も末で、境内は節分の準備に入っているみたいだった。奥の方に「横綱力士碑」というのが設置されているようなので、そちらへ行ってみる。
 たしかに「横綱」らしい、勇壮な石碑である。ここには初代の横綱から現代の白鵬、日馬富士、そして鶴竜までの横綱の名が刻まれている。まだまだこれからの横綱の名を刻むスペースはいっぱい残されていて、これはこの二十一世紀中は大丈夫そう。脇には「超五十連勝力士碑」という石碑も建てられていて、わたしなどが知っているところでは双葉山の69連勝、千代の富士の53連勝などの文字が刻まれている。江戸時代の力士と昭和の力士の名とが並んで刻まれているところに、相撲というものの歴史を感じてしまいますね。そう、この富岡八幡宮というのは相撲発祥の地、なわけでしょうか。

 もう店も開店しているからと、「魚三酒場」に戻って暖簾をくぐってみると、すでに一階の店内はほぼ満席。入り口近くの席しか空いてなくってそこは落ち着かない感じなので、「二階にしよう」と階段を上る。こちらも同じく満席で、かろうじて二つ並んだ空き席を見つけて座る。すべての席が「カウンター席」という感じである。「何にしますか」と問われて、Fさんが「チューハイを!」とか言うと、「チューハイはありません」という返答なのだけれども、そのときにお客さんがいっせいにこちらに注目するような感じで、「ふふ、チューハイなんか注文してやがんの‥‥」という常連客らの声が聞こえてくる気がする。
 Fさんとふたりで焼酎のボトルを注文して(ふたりなら飲めるだろう)、あとはあれこれのメニューから注文。壁一面に貼り出されたメニューはほぼすべて海産物で、たしかに激安、そしてやはりおいしい。
 三人以上のお客さんは基本は三階から上に行かれるようで、一階と二階とはわたしたちのような二人連れ、そしてひとりで飲みに来ている方ばかりである。まだ普通の人はしごとをしている時間ではあるから、お客さんの平均年齢は高い。ひょっとしたらわたしたちの存在は平均年齢を引き下げているのでは?と思えるぐらい。90パーセント以上が男性客だけれども、わたしたちの席から見える奥の席に、若い女性のふたり連れが座ってらっして、目の清涼剤というか、とても目を惹いた。

 わたしたちのとなりの席の方々が日本人人質の話題を繰り拡げられていて、「呑み屋でそういうのはなあ」と思っていたのだが、一方の方は先に席を立って帰られてしまった。それでわたしがトイレに立っていたそのあいだに、Fさんが残られたもうひとりの方と話しはじめていた。もう七十代になられるというその方はこの店のことなどにも詳しく、いろいろと話を伺うことが出来た。さらに話が発展するとやはり独特の方というのか、一家言をお持ちの方。この店ではやはり顔の広い方のようで、帰られる方、来られる方の多くがこの方にあいさつをされて行く。わたしらも次に来たときにこの方を見かけたらあいさつしなければならないわけだ。なぜか名刺などいただいてしまい、その肩書きには「江戸城再建を目指す会」などという文字列が。‥‥よくわからない方ではあった。

 七時をすぎたあたりで焼酎のボトルも空になり、わたしたちも出ることにした。お勘定はひとり二千円にもならない激安。ここならひとりで飲むことも気にならないし、またひとりで来てもいいなと思った。
 近くのドトールに寄ってコーヒーを飲んで酔いをさまし、Fさんとお別れして帰路に着いた。Fさんは「今までで最高の居酒屋だった」という感想。「次は中央線沿線で飲みたい」というリクエストも。わたしにとっても、実に楽しい居酒屋ではあった。ちょっと酔ってしまい、あしたはしごとも休みにしておいてよかったと思った。

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■ 2015-01-26(Mon)

 ニェネントはこのごろ珍しくニャンニャンとないてばかりいるのだけれども、どうやら、久しぶりの発情期みたいである。ずいぶんと久しぶりのことに思えて、この日記で「発情期」と検索してみると、どうやら去年の五月以来のことみたいだ。「そうか、発情期か」と思ってニェネントをみるとこれはまさしく発情期で、先日からわたしの顔を見上げてなき続けていたのは、つまりは「なんとかしてよっ」ということだったわけだ。長いこと発情期とは無縁にやって来ていたから、すっかりそういう生理現象があることを忘れてしまっていた。部屋の中を右往左往して、にゃあにゃあとないている姿はなんともつらそうに思える。前の発情期は四、五日は続いたようだけれども、今回はいつまで続くんだろうか。

 きょうは先週予約をすっぽかしてしまった心療内科と、内科医とのふたつの病院に通う。どちらも一時間ぐらい待たされてしまい、待ち時間は持って行ったオースティンの「自負と偏見」の文庫本を読んでつぶした。一時間プラス一時間で二時間、けっこう読み進められそうなものだけれども、読んでいる先から読んでいた展開を忘れてしまい、同じページを何度も繰り返して読んだりして、あんまり先に進めなかった。やっぱり記憶力というものがヤバいことになってしまっているのだろうか。

 病院のあとは自宅で映画を観、あしたはまた出かける予定もあるので夕食をとってから早めに寝ようとしたのだけれども、きのうあまりに睡眠をとりすぎたせいだろう。まるで眠れない。また読みさしの「自負と偏見」のページを繰り始める。ここでようやくエリザベスとダーシーとのツンデレ対決が盛り上がるし、引き立て役のコリンズも登場してきておバカ全開、俄然面白くなってしまう。それでも「もういいかげん寝よう」とあかりを消して目を閉じてみる。しかしずっとベッドの中で目を閉じていても眠れず、いろいろな想念が頭の中でリピートされるばかり。どうやらこのまま朝を迎えそうだ。


 

[]「ホーンティング」(1999) シャーリー・ジャクソン:原作 ヤン・デ・ボン:監督 「ホーンティング」(1999)   シャーリー・ジャクソン:原作 ヤン・デ・ボン:監督を含むブックマーク

 そういえばかつて、こういう映画があったなあと録画しておいたもの。たしか原作がシャーリ・ジャクソンの「山荘奇譚」だったはずで、この原作本も探せばうちの本棚のどこかにあるのではないだろうか。

 カメラが空撮で屋敷に向かう車を追う導入部などいい感じで、細かいカットを積み重ねて行く演出も気に入ったのだけれども、このヤン・デ・ボンという監督さんは、もともとが撮影監督をやられていた人物だということ。

 しかしながらこの作品、だんだんと妙な方向にシフトし始めてしまう。CGを駆使して屋敷の造形をつくり上げ、また、早い段階からゴーストの姿も登場させるわけだけれども、それに合わせて人物の描写がフラットになって行く。あまりにひんぱんにゴーストが姿を見せるのでちっとも怖くなく、ほとんどテーマパークアトラクション。登場人物はどんどんと添えもの扱いになっていくし、ラストなどはただ騒々しいだけで終わってしまう印象。

 だいたいがこのCG製作の「お化け屋敷」の統一性のなさがまさに見世物小屋的で、過去の歴史上の建築、彫刻、装飾様式のごった煮。エジプト彫刻のようなものもチラリと姿を見せるかと思えばギリシア彫刻を模したのが置いてあるし、ゴシック調、アールヌーヴォー調と、何でもあり。まあこの屋敷をつくった人物の趣味がこんなものだったのだということも出来るだろうけれども、プロダクション・デザイナーの歴史認識の低さが想起させられてしまうのはマイナスだろう。登場人物にひと言、「ひどい趣味の悪い屋敷だなあ」と言わせればいいのだ。特に屋内庭園の泉に置かれた彫刻の俗悪さは特筆ものだけれども、これはCGデザイナーの能力のせい。屋敷に飾られた肖像画もひどいものだったが、こればっかりはCGにまかせるわけにはいかないものね。
 このあたり、特に近年、映画というものがCGを使えば容易に現実にはないものをつくり出せてしまう、ということの弊害ではないだろうか。プロダクション・デザイナーの役割は重要だと思う。



 

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■ 2015-01-25(Sun)

 出かける予定のある日の翌日はたいてい、しごとは休みを申請しているので、きょうは休み。朝もゆっくりと眠るつもりだった。ところが早朝の四時半にケータイの着信音で目が覚めた。最初はアラームだと思ったのだけれども、きょうはしごとが休みのはずなのでアラームの設定をしているはずはない。ということは誰かがコールしてきたわけかと、起き出してケータイを手に取って電話に出ようとする。それが同時に着信音も鳴り止んでしまった。発信側は非通知設定になっていて、いったい誰からかかってきたのかはわからない。しかし日曜日の朝の四時半のコールというのは異常ではないのか。わたしのケータイの番号を知っている人はほんとうに限られているし、じっさいに急用なのだったらまたかけ直してくるだろうと思ったが、そのあとは音沙汰がなかった。せっかくの休みにこんなに早くに起き出したくはなかったので、もういちど布団にもぐり込んで寝た。次に起きたのは七時過ぎ。どうやら寝ているときに夢をみていた記憶があるのだけれども、もう今ではすっかり思い出せなくなってしまった。

 起き出してみると、きのうの疲れでも残っているのか、それとも早朝にいちど叩き起こされたせいか、何もやる気のしない気分。朝食を取ってテレビをつけてみるとイスラム国による日本人人質の話題をやっていて、このこともまた気分を滅入らせる。気を滅入らせながらもテレビを見つづけ、昼食の時間になってしまう。昼食は焼きそばですませ、なんとなく眠くなってまたベッドに入り、昼寝モードになってしまう。

 きょうの昼寝は長く続き、午後一時から六時過ぎまで約五時間。起き出してまたテレビをつけると、「モヤモヤさまぁ〜ず」では三軒茶屋から下北沢のルートを歩いていた。まさにきのうわたしが歩いたルートなので、しばらくは見続けてしまった。たいていはわたしの知らないスポットだったけれども、ただ一ヶ所、下北沢でよく行ったラーメン屋「珉亭」が紹介されていた。この店の「江戸っ子ラーメン」はよく食べたものだった。この店ののれんには「世界で三番目に美味い」と書かれているのだけれども、つなり世界一は「おふくろの味」、二番目は「おやじのスネの味」なのだということだった。なるほど。

 もう夕食の準備もめんどうで、八時ごろにスーパーに行き、半額に値引きされた弁当を買ってすませる。きのうお留守番をやってくれたニェネントへのねぎらいもあるので、やはり半額になっていたカツオのたたきの小さなパックも買い、これは半分はニェネントにあげた。ニェネント大喜び。

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 昼寝をいっぱいしてしまったの夜は眠れないだろうかと思ったのだけれども、九時ごろにベッドにもぐり込んでいたらそのまま眠ってしまった。きょうは約十五時間は眠った。短い短編アニメを一本観た。


 

[]「かたつむり」(1965) ルネ・ラルー:監督 「かたつむり」(1965)   ルネ・ラルー:監督を含むブックマーク

 おととい観た「ファンタスティック・プラネット」のルネ・ラルー監督の短編。おそらくは日本でさいしょに「ファンタスティック・プラネット」が公開されたとき、併映されていたんじゃないかと思う。この巨大なかたつむりの登場するアニメは観た記憶がある。

 しかし、これを今日観るまでは、この「巨大なかたつむり」というイメージは、かつてわたしがパトリシア・ハイスミスの短編小説を読んだ印象から勝手に練り上げたものだと思っていた。どうもわたしはきっと同じ時期にそのハイスミスの短編を読み、このアニメを観ていたのではないだろうか。それはそれで面白い事柄ではあるけれども。

 ‥‥農夫のおじさんが育てる野菜がどうしてもしなびてしまい、発育してくれない。農夫のおじさんは野菜を育てるためにいろいろと奇妙な試みを繰り返すのだけれども、ついにはおじさんの涙こそが野菜を大きく育てることを発見する! 「大きく」どころか、実に巨大な野菜に生育するのである。ところが、野菜のついでにというか、巨大な巨大なかたつむりも大量に発生してしまう。そんなかたつむりが襲うのは農村ではなく都市。都市のいろんな風俗がかたつむりに攻撃されるのがおかしい。ちょっとした「ブラック・ユーモア」というか、批評精神の旺盛な、少し不気味なテイストは、やはり「ファンタスティック・プラネット」を想起させられはしないだろうか。


 

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■ 2015-01-24(Sat)

 今朝はしごとなのだけれども、しごとが終わって帰宅したらすぐに朝食をすませ、東京へ出かける予定。それが今朝から、なんだかニェネントがわたしにからみついてくる。「さあ、出かける準備!」と着替えをしていてもわたしのそばでわたしを見上げているし、朝食のトーストをほおばっていても、わたしのわきでわたしを見上げて「にゃあにゃあ」とないている。どうもなんだか今日はわたしが出かけてしまうのを感知していて、「ねえねえ、行かないでよ!」って訴えかけている感じがする。そういう感覚は敏感だろうから、やはりわたしが出かけるつもりなのがわかってるんだろう。これまでのツンデレから、突然のデレデレぶり! 当惑してしまうし、やっぱりお留守番を頼むのにちょっと躊躇してもしまう。なんとか卵の黄身を皿に出してあげてごまかして、そこにニェネントがかぶりついている隙に外に出た。ちょっと罪悪感。

 出発したのは十時半で、三軒茶屋への到着は十二時四十五分ぐらい。劇場の開場は一時半なので、ちょっと昼食をとるにはちょうどいい時間ではある。前に三軒茶屋に来たときに見つけた、ちょっとひなびた中華の店に行き、五目焼きそばを注文して食べる。ライスもおみそ汁もついていてお得。みそ汁がとてもおいしかったし、焼きそばもいい味。食事を終えて会場のシアタートラムへ行くと、開場まぎわのちょうどいい時間。整理番号はそんなに若い番号ではないのだけれども、前の方のけっこういい席に座ることが出来た。

 ちょっと着重ねしすぎて来ていささか暑いので、オーバーとかをロッカーに預けておこうと外に出ようとして、ちょうど入ってくるEさんと出くわして、あいさつした。Eさんとは去年池袋の東京芸術劇場に「小指の思い出」を観に行ったときにお会いしてあいさつして以来。お会い出来て、ちょっとうれしかった。会場をみわたしてみたけれども、ほかにわたしの知っているようなお客さんの顔は見あたらなかった。

 むずかしい舞台の感想は下に書くけれども、終演時でまだ三時をちょっとまわったところ。飲みに行くには早すぎる時間ですね。ロビーでまたEさんとお話をして、「きょうはこれからどうするの」と聞かれて、予定もないけれどもと答えると、「じゃあお茶でも」ということになった。Eさんは夜には横浜に移動してNoism の公演を観るということ。それまでにはまだけっこう時間もあるし、ゆっくりお茶の時間も取れそうで、わたしにはありがたい。

 会場のシアタートラムから道路をはさんだ向かいにある喫茶店に入り、こうやってEさんと二人で話をするのはずいぶんと久しぶりのことだと思うし(実はいつ以来なのか記憶はない)、あれこれの話題はつきない。Eさんはわたしの記憶が消えていることをご存じなかったのでそのあたりの説明をするけれども、いろいろと顔の広いEさんは交通事故で記憶障害をおこされたディジュリドゥ奏者のGOMA さんをご存知で、その記憶障害の症状が似ているのではと話される。わたしも人からGOMA さんのことは聴いていて、ある種の症状はまるで同じだと思っていたわけで、説明がしやすくなる。
 喫煙の出来る喫茶店だったのだけれども、Eさんの喫われていたたばこの匂いに店の方が反応して、「匂いが強いですねえ」と、つまりは「やめて下さい」というメッセージ。「何を喫ってるの」とたばこのパッケージをのぞいてみるとGaram だった。無理もないというか、以前「G」のBさんと話していて、喫煙の出来る店でもジタンだとかガラムはNGだったりすると聞いていたのがここで現実になったのだった。

 アルコールが入った会話ではなかったけれども、とっても楽しい時間をすごすことが出来た。考えてみたら今年になってはじめて、知人とちゃんと会話を交わしたことになるのだろうか。Eさん、ありがとうございました。またお会いしたいものですね。

 Eさんとお別れして四時ちょっとすぎ。わたしは茶沢通りを歩いて下北沢に行き、また「G」で軽く飲むつもり。「G」に到着すると、現在開催中の写真展関係の人たちがかなりいらっしゃって、ちょっとした喧噪。この写真展にはわたしの古い知人のFさんも作品を出されているので、それを拝見したりする。芳名帳に名を書こうとすると、そこに書かれていた方の中に、わたしがFacebook で「友達」登録している方のお名前も見かけた。出来ればごあいさつしてみたいと思ったのだけれども、単にFacebook 上での知り合いなので、いったいどの方なのかお顔がわからない。しょうがないのでそういうことはあきらめた。

 しかし、考えてみれば今日観たNibroll の方々にしても、EさんにしてもFさんにしても、みんなわたしのFacebook 友達というわけで、きょうはそういうFacebook な日、だったのかもしれない。

 「G」のあとはまた下北沢の駅の方に出て、「ひとり日高屋」をやってしまう。クセになりそう、というか、もうすでにクセになってしまっているようだ。


 

[]Nibroll「リアルリアリティ」矢内原美邦:振付・演出 @三軒茶屋・シアタートラム Nibroll「リアルリアリティ」矢内原美邦:振付・演出 @三軒茶屋・シアタートラムを含むブックマーク

 矢内原さんの作品は去年の「桜の園」があまりにインパクト大の傑作だったので、今回も期待してしまった。

 いちおう、「桜の園」は演劇というカテゴリーの中での作品だったのだけれども、今回はダンスというカテゴリーでの作品。それが、幕を開けてみるとこちらの方がよほど演劇っぽい幕開き。衝撃的な「首吊り」の映像に重ねて、「わたしには物語がない」などのネガティブなナレーションがかぶさって来る。ここに基本は四人のダンサーたちが舞台上で「ゆるい」と思えるパフォーマンスを繰り拡げて行く。「桜の園」での、疾走するスピード感はここにはない。わたしは「ダンス・カンパニー」と銘打ったこのNibroll での公演にこそ、そんな疾走感を受けとめられると思っていたところもあり、ちょっと期待を裏切られた感じはあった。

 舞台の裏には高く机などが積み重ねられていて、終盤にそこに矢内原さんがよじ昇り、机の上のものなどをどんどんと下に落下させて行く。このイメージは好きなのだけれども、それが舞台上の四人のダンサーの動きとどう絡むのか、わたしにはよくわからない。そのうちに上からさまざまな黒い布、どうやら衣服らしいものが降って落ちて来るのだけれども、このあたりもよくわからない。

 映像と音とはかなりに刺激的で、かつてのDumb Type 的なものを思い浮かべてはしまうのだけれども、ダンサーたちの「ゆるさ」との絡みが、どうもよく了解出来ない。正直、不満の残る舞台だったことはたしか。


 

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■ 2015-01-23(Fri)

 ニェネントはいつも、朝の食事の時間になってわたしがキッチンに立つと「食事の時間だ」とわかって、わたしのそばに飛んできてわたしの顔を見上げて、ニャンニャンとなく。「早くご飯をちょうだい」というわけで、あまりなくことのないおとなしいニェネントがニャンニャンなくのは、たいていはこの食事の時間だけのことだった。それがきょうは、電気ストーブのそばで丸くなって暖をとっているときでも、わたしの顔を見上げてニャンニャンとなく。何かわたしにやってほしい「おねだり」であることは間違いないのだけれども、食事はさっき出してあげたばかりだし、珍しいこともあるなと思いながら、何をして欲しいんだろうと考える。
 ‥‥わからないんだけれども、その状況ではどうも、「わたしのことかまってよ」ということだろうし、それはつまりは「だっこしてよ」ということなんだろうかと解釈する。だっこされるのが好きでないはずだったニェネントも、このごろはわたしがしょっちゅう抱き上げてやってるので、そういうスキンシップが気に入ってしまうようになったのか、クセになったのか。それでだっこしてやると、ニェネントはたしかにおとなしくだっこされたままになっている。「へえ〜、ツンデレちゃんもずいぶんと変わったもんだねえ」と、からかってやりたくもなる。うれしい変化といえばいいのか。

 あしたは三軒茶屋に出て、Nibroll の新作を観る予定にしている。今年初めての観劇で、ちょっと楽しみにしている。それできょうは英気を養うというのか、ほとんど何もしないでぼんやりと過ごしてしまった。映画を観に行こうかという気もちもあったのだけれども、連続して出かけると疲れがたまるだろうと、その計画はやめることにした。どうも年寄りくさい。午後からはまた昼寝をしてしまうし、だらけた一日という感覚。夜になって、そろそろ心療内科に通院する頃ではなかったかと診察カードをチェックしてみると、その通院予約日が今日になっていた。まだもう少し薬が残っているので、もうちょっと先だろうと思い込んでいた。どっちにせよ来週には行かなくてはならない。残っている薬をチェックしてみると、市民病院で処方してもらっている薬も残り少なく、こんどの水曜日には行かなくてはならない。

 きょうはニコニコ動画で見つけた、なつかしい映画「ファンタスティック・プラネット」を観て、そのあとはティム・バートンのデビュー短編「ヴィンセント」を観たりする。


 

[]「ファンタスティック・プラネット」(1973) ローラン・トポール/ルネ・ラルー:脚本 ルネ・ラルー:監督 「ファンタスティック・プラネット」(1973)   ローラン・トポール/ルネ・ラルー:脚本 ルネ・ラルー:監督を含むブックマーク

 この作品が製作されたのは1973年と古いのだけれども、この日本で最初に公開されたのは1985年になってからのことらしい。おそらくわたしはそのときにこの作品を観ているんだと思うが、それなりに何となく、記憶に残っているところもあった。日本のタイトルは「ファンタスティック・プラネット」だけれども、フランスの原題は「野生の(野蛮な)惑星」。「ファンタスティック・プラネット」というタイトルは内容にマッチしているわけではないけれども、観客を呼び寄せるキャッチーさは持ち合わせていると思う。

 脚本にはローラン・トポールの名前も併記されているけれども、イラストレイターとしても著名な彼のイラストの方こそが、この作品に影響を与えているように思えたりする。そう、このアニメーション映画、従来のセル画によるものではなく、紙に色鉛筆で描かれた原画を切り抜き、ちょっとずつ移動/入れ替えしながら撮影したものだということ。セル画によるものの数倍の手間がかかったものと想像されるけれども、そのことでより絵画性の強い画面になっていると感ぜられ、ストーリー展開とは無関係に登場する畸想の動物/植物らの、そのキャラクターのユニークさを際立たせる結果にもなっていると思う。

 ストーリー的にも、たしかにトポール的なブラック・ユーモアが盛り込まれているところはあって、星を支配する巨大な(というか、オム族が小さ過ぎる?)ドラーグ族にほとんどゴキブリのように扱われるところの、わたしたち人間に似たオム族らが主役。人間こそが万物の長という思考に「ノン!」を叩き付ける。そこでドラーグ族の知恵を身につけたテールという主人公の知識から、オム族らは「野生の惑星」へと移住して、平和な暮らしを実現することになる。

 やっぱりこの作品の魅力はその造形。まずはドラーグ族の造形こそがこの作品のイメージを決定づけていることだろうし、先に書いたようなあれこれの奇怪な動物や植物がそれを補強する。この魅力なくしてはこの作品がここまでにカルト的な人気を博することはなかっただろう(内容がつまらないなどというつもりはないのだけれども)。

 そう、ドラーグ族の知識と教育方式はわたしたち人類(西欧文化)のそれを想像させられるわけでもあって、その知識が別の種族の反逆の契機になるというのは、当時の西欧世界と、いわゆる「第三世界」との対立とのアイロニーでもあるんだろう。そういう時代の作品ではある。


 

[]「ヴィンセント」(1982) ティム・バートン:監督 「ヴィンセント」(1982)   ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 ティム・バートン24歳(?)のときの、デビュー作がこれ。どうやらティム・バートン自身の精神的な自伝要素も詰め込まれているらしい。モノクロの、基本はパペット・アニメーション。

 わたしがこういう「怪奇・幻想」世界に没頭したのはもっともっと成人に近づいてからのことだから、この作品のように「病的」に妄想に浸ることもなかったけれども、「妄想」とはどのようなモノなのか、というのをすっごくヴィジュアルに(さまざまな技法で)提示されていて、「なるほど、これは<アート>」、と納得した。ティム・バートンという人の原点を垣間みる思いだったけれども、このあとにいろいろと妥協されるようになってしまうわけだなあ。とりあえずは彼の新作の「ビッグ・アイズ」を観てみようか。



 

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■ 2015-01-22(Thu)

 実はきょうのこの日記で、連続して二千日この日記を書き続けていることになるらしい。もちろん何日も放置しておいて、あとになってまとめて書いたりはしょっちゅうやっているのだけれども、記述としてはきっちり毎日続いている。いったいいつからこの日記が継続しているのかというと、いちおう2009年の8月2日の短い記述から始まっているわけで、そのことについては自分で意識していることがある。それはつまりはニェネントのお母さんネコのミイと出会った日からということで(正確には8月3日がミイとの出会い)、わたしにとって、ミイとの出会いは当時から特別な出来事ではあったわけである。それから五年と五ヶ月が過ぎ、そのあいだにミイは死んでしまい、それでもニェネントをわたしのもとに残してくれたわけである。やはりミイとの出会いは決定的な出来事だったと、今でも思う。これからも、ミイのことを忘れることはない。

 きのうはこの地でもお昼近くに少し雪が舞っていた。それからは部屋に引きこもり、雪がどうなったのかわからなかったけれども、夜になって出かけてみると雨になっていた。冷たい雨。その雨はきょうになってもぽつぽつと降り続いている。傘がひつようなほどには降っていないけれども、外の世界は寒いというよりも冷たい。部屋の中の温度もかなり低く、電気ストーブがかかせない。ひょっとしたらこの時期が一年でいちばん寒い時期なのかもしれないと思うけれども、これからもっともっと寒い時期がやって来るのかもしれない。

 イスラム国が日本人の人質をとって二億ドルを要求している事件、彼らが日本政府だけではなく日本国民にも呼びかけていることにずっと引っかかっていて、なんとはなしに「うつ」な気分におちいってしまっている。ここに来て安倍政権を批判することはかんたんだけれども、それでは違うだろう、人命を救うことにはならないではないかと思うのである。ネット上では現在日本が行なっている中東地域への人道支援を凍結させるようにとの署名活動も行われているけれども、それはつまりは対外的に危険なことには足を踏み入れないという鎖国主義に結びつきそうだし、中東地域への人道支援は間違っていないと思う。
 きょうになってイスラム国とのパイプを持つという人物がスピーチを行ない、「難民支援・人道支援を行なうという条件をつけて、イスラム国の支配下でも人道支援を行なっている団体を支援したらどうか」というようなことを述べておられた。人質の命を救い、さらに多くの人々の命を救うということではこのスピーチに納得してしまう。あしたにもこの事件の結果は出るかもしれない。最悪の結果にならないよう、祈る気もちではある。

 きょうはゴダールの「勝手にしやがれ」をパソコンで観て、読んでいたハイスミスの「動物好きに捧げる殺人読本」を読み終えた。本棚を探るとやはりオースティンの「高慢と偏見」(阿部知二訳の河出文庫版)を持っていたので、次にはこれを読もう。


 

[]「勝手にしやがれ」(1960) ジャン=リュック・ゴダール:監督 「勝手にしやがれ」(1960)   ジャン=リュック・ゴダール:監督を含むブックマーク

 先日観た「アルファヴィル」に比べるとちょっとわたしの記憶もあやふやで、憶えていない人物の登場、憶えていないストーリー展開なども多かった。「そうか、メルヴィルが登場して来るんだったか」とか、ジーン・セバーグのラストのセリフとか、観ていると思い出しても来るのだけれども。

 「ジャンプ・カット」の始祖などといわれることの多い作品だけれども、有名な警官射殺後のベルモンドの疾走シーンへのジャンプなどは、その後の映画でよくこういう演出は見られるので、そんなに唐突な感覚は受けなくなった。しかし、ベルモンドとセバーグが部屋でいっしょにいるシーンとかで、セリフは連続しているのに絵の方はまるで連続していないような演出には、今観てもちょっとびっくりしてしまう。街中でのドキュメント風の撮影では行き交う人たちがカメラの方を振り返ってみたりしているけれども、そういうこともおかまいなしにやってしまってるあたり、まさに「そういう映画なのだ」と納得せざるを得ない。どこまでも「つくりごと」でやっていくのではなく、隙間から「現実」がどんどん滑り込んでくる。

 一人の男の破滅(死)までを追うというプロットはたしかに存在するのだけれども、物語的に収束させようとするのではなく、逆にそのプロットを映画を撮って行くことの中でどこか拡散させようというような意志を感じる作品。そのことが「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる由縁でもあるだろうし、まさにゴダールという希有な映画監督の(長篇映画としての)出発点になったわけだろう。


 

[]「動物好きに捧げる殺人読本」パトリシア・ハイスミス:著 大村美根子・榊優子・中村凪子・吉野美恵子:訳 「動物好きに捧げる殺人読本」パトリシア・ハイスミス:著 大村美根子・榊優子・中村凪子・吉野美恵子:訳を含むブックマーク

 ハイスミスの1975年出版の短編集で、この手もとにある文庫本は1986年の発行。きっと今では絶版になってしまっていると思う。収録されている13篇の短編はすべて動物が主人公で、たいていは(一編の例外を除いて)その動物が人間を殺害する。登場する動物はゴキブリから象まで、種々様々である。基本は飼い主に虐げられた動物の復讐という形式が多いのだけれども、そうじゃない展開のものに秀作がある。以下、メモ程度に感想を。

●「サーカス・ガールのさよなら公演」中村凪子:訳
 主人公はサーカスで芸をする象。前の調教師はやさしい男だったけれども、新しい調教師は主人公の象に愛情を示さずに厳しくあたる。ついにキレた象は調教師を蹴り殺し、檻の外に出たところを射殺される。象の最後に見た幻影は、やさしかった前の調教師の姿。‥‥象の視点からの描写が悲しい一編。冒頭から泣けてしまう。

●「駱駝の復讐」中村凪子:訳
 駱駝が主人公で、今の飼い主は無理な仕事をやらせ、駱駝レースでも苛酷なコース取りをさせる。レースで敗北した駱駝は売り払われるが、新しい飼い主はやさしい人物だった。あるときに前の飼い主と再会した駱駝は、怒りに駆られてその男を殺してしまうが、周りの人たちはそんな駱駝を賞賛するのだった。‥‥さっきの象の話とは逆のシチュエーションというか。

●「バブシーと老犬バロン」中村凪子:訳
 主人公は老犬。前の象の話のヴァリエーションっぽい。やさしかった昔の飼い主はどうやら死んでしまったようで、新しく病気持ちの老人(?)が犬を管理するが、まったく犬の欲求を理解しない。犬はときどき訪れてくる女性が大好きで、その女性も犬を引き取りたいようなのだが、管理人はイエスといわない。犬は管理人が発作を起こしたとき、その治療器を壊して死に至らしめる。犬が願っていた女性との生活が現実になるというハッピーエンド。あくまでも犬の視点からの描写で、登場人物らの関係は憶測するしかないあたりが面白い。

●「最大の獲物」吉野美恵子:訳
 金持ちの女性が飼っているネコが主人公のようだが、ろくでもないボーイフレンドはそのネコを嫌っている。ボーイフレンドは女性の貴金属を盗もうともしているようだ。ネコは結果としてボーイフレンドを階段から落下させて死へと至らしめ、飼い主の女性はどうやらボーイフレンドの素性を知ってネコに感謝するようだ。

●「松露(トリュフ)狩りシーズンの終わりに」吉野美恵子:訳
 ちょっと暴力的な、でっかい豚が主人公。飼い主は主人公の豚を松露穫りに使うのだけれども、豚としてはその松露をろくに食べられないで取り上げられてしまうのが不満。でっかい豚は怖い。

●「ヴェニスでいちばん勇敢な鼠(ねずみ)」中村凪子:訳
 ヴェニスの運河沿いにはいっぱい鼠がいるのだけれども、主人公の鼠は運河沿いに住む家族の少年たちに足を切断され、片目をつぶされる。それでも鼠のボス的に成長した主人公は、結果として自分の足を切って眼をつぶした家族の赤ん坊に噛み付いて、復讐してしまうことになる。でっかい鼠は怖い。

●「機関車馬」榊優子:訳
 これは面白い。まずは自宅と土地を売り払いたいと考えている男が、そのことに反対する祖母を殺してしまってもいいと考え、馬の引く馬車でピクニックに出かけ、そこで犯行に及ぼうと画策している。主人公はその馬なのだけれども、自分になついた仔猫を男が殺してしまったことを恨みに思っているようだ。当日になって、男と祖母らを乗せた馬車は狭い橋を渡ろうとして往生する。結果として馬は男を殺してしまうのだが、祖母は男が自分を殺そうと画策していたことをわかっており、馬に感謝する。

●「総決算の日」榊優子:訳
 この短編集でいちばん気に入った作品。ここでは人間の視点から書かれている。ちょっと先の「機関車馬」のヴァリエーション的なところはあるが、経営する養鶏場を合理的にオートメーション化しようとする男がいるのだが、養鶏場の鶏たちは嘴が尖り、飛ぶことも歩くことも不自由に畸形化し始めている。ここでも男は不注意から猫を死なせてしまうのだけれども、そのことから結果として鶏らに襲われて命を失う。これらを見ている主人公は、その死んだ男の妻に惹かれているわけではある。

●「ゴキブリ紳士の手記」中村凪子:訳
 ここでは誰も死にはしないのだけれども、つまりはゴキブリがどのように繁殖して行くのか、どのように死と隣り合わせの生を生きているのかということが、ゴキブリの視点から語られる。

●「空巣狙いの猿」吉野美恵子:訳
 このあたりからは、基本は人間の視点からの物語展開。ここでは猿を空巣狙いの鍵開けに利用しようとする女性が、その猿からこっぴどい復讐を受けるわけである。

●「ハムスター対ウェブスター」大村美根子:訳
 これも好きな作品。田舎暮らしを始め、つがいのハムスターを買ってもらった少年の視点から語られる、ハムスター繁殖の記録というか。少年はハムスターを愛しているわけで、その存在を守りたいと思っているけれども、そのために家族が犠牲になってしまう。ちょっと歪んだ認識で、主人公の少年は自分が成長したのだと思ってしまう。先日読んだハイスミスの「すっぽん」を、ちょっと思い出す。

●「鼬(いたち)のハリー」大村美根子:訳
 ミステリーとしてはこれがいちばんミステリーらしい作品かな。やはり語り手は15歳の少年で、このあたりの「まだ大人になりきっていない」語り手というのが、ハイスミスの話術なんだろうか。いたちが家族の使用人を殺してしまうのだけれども、その死体を隠蔽するのはこの少年なのである。

●「山羊(やぎ)の遊覧車」中村凪子:訳
 ここでまた、視点は動物の側に移ってしまう。山羊の語る状況はまったく不明瞭で、「おそらくは‥‥」という推測でしか語れない。ヴァリエーションとしてはこの短編集の最初の方の作品に似て、虐待された動物がその虐待主に復讐し、やさしい飼い主を見つけ出すようだ。どうもハイスミスという人、人間よりも動物の方をこそ愛しているようで、やはりわたしとしてもそういうところに共感してしまうのかな?


 

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■ 2015-01-21(Wed)

 ニェネントを抱き寄せて、手でその顔を前から後ろにきゅーっとしぼるようにすると、毛のふくらみが消えてとっても貧相な顔になる。ネコいじめなのだけれども、このときのニェネントの顔が、きのうの夢で出て来たウサギの顔なのだと思い当たった。あのウサギはニェネントだったのだ。ニェネントはウサギに化けて、わたしの夢の中で何をいおうとしていたんだろうか。

 このところたいていの夜、寝る前にニェネントと遊ぶ。ずっと続いているニェネントとの遊び。はたしてニェネントは面白がっているのか、わたしのことをどんなふうに思っているのかはわからないけれども、わたしには楽しい夜の日課になっている。
 ネコというヤツの本質は「ツンデレ」なわけで、ニェネントというネコはその度合いが強い。抱かれるのは嫌がるのだけれども、わたしがベッドで横になってしばらくすると、ニェネントもベッドの上に飛び乗ってきて、わたしの足元で丸くなって眠りはじめる。いつも朝目覚めると、いつもニェネントはわたしの足元で丸くなって眠っている。わたしのそばがいいのである。だったらもっとわたしに抱かれるのをうれしがればいいのに、まるで素直ではない。

 今日の食事はまた白菜とかを使っての「五目焼きそば」と「中華丼もどき」。焼きそばかご飯かがかわるだけでつくり方は同じなのだけれども、ずっとつくり続けてきて、このあたりでほぼレシピとしては完成した感じではある。決め技は、さいごにちょっと入れる豆板醤だろうか。とにかく安上がりメニューということでもトップクラスで、ぜったいに一食百円はかかっていないと思う。わたしの朝食がまた五十円ぐらいですませているわけだから、いつもの朝食にこのメニューでやっていけば、多く見積もっても一日二百五十円。これを一ヶ月続けると七千五百円ですんでしまう計算になる。貧乏人には力強い献立ではないだろうか。レシピを書いてみようか。

<材料>・白菜:1/8株ぐらい
    ・ニンジン:ほんの少々(色どりで欠かせない)
    ・タマネギ:1/8ぐらい
    ・豚バラ肉:ほんの少々
    ・ほうれん草とか(あればチンゲン菜がいいのかな?)
    ・ブロッコリーとか
    ・かまぼことか
    ・その他余ってる食材、どれも少しでいい。
    ・片栗粉:小さじ一杯
    ・オイスターソース:大さじ一杯
    ・醤油:大さじ一杯プラスいくらか
    ・豆板醤:ちょろっと

 片栗粉とオイスターソース、醤油とは150ccの水でといて置く。タマネギとニンジンをフライパンで炒め、しばらく炒めてから肉を入れる。そのあとにほうれん草やブロッコリーその他を入れ、さいごに白菜をいっしょにして炒め、ここで料理酒をぶち込んでフライパンにふたをする。
 1分ほどで片栗粉とかをといたのをぶち込んで熱し、とろみがついたら豆板醤をまぜて完成。これを焼きそば麺にかけるか、ご飯にかけるか、好きにすればいい。おいしいよ。

 きょうはきのう途中で観るのをやめていた「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の残りを観て、そのあとはパソコンでゴダールの「勝手にしやがれ」を、また途中まで観た。


 

[]「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013) マーティン・スコセッシ:監督 「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013)   マーティン・スコセッシ:監督を含むブックマーク

 まあ何ともお下劣な映画なことよ、というか、ぜったいにデートには使えない映画だろう(たとえいっしょに観る彼女がディカプリオのファンだったとしても)。ディカプリオを含めて(?)画面にはとんでもないブ男ばかりが登場してくるわけだし、とにかくは絵を観て「カッコいいなあ」などと思えるところはどこにもないだろう(女性陣には魅力的なところもあるかな?)。とにかくはセックスとドラッグと、そして集団催眠的に社員を引っぱって行く会社のお仕事。実在する人物の自伝をもとに製作されたこの映画、どうやら登場人物は実名で出て来るようで、ロッキー青木の「ベニハナ」なんていう懐かしい名前も聞くことが出来る(今の若い観客は知らないだろうな)。

 しっかしながらこの演出のスピーディーさ、というか、観るものをグングンと引っぱって行く感覚には魅せられてしまうのはたしかなことで、そのあたりにやはりマーティン・スコセッシの才気走った演出手腕というものを堪能させられることはたしかだろう。ものすごいエネルギーだな、ということは無理矢理でも納得させられてしまう感じ。しかしながら、主人公は大した障害もなく成功して成り上がってしまうようで、そのあたりで、敵を倒しながら成り上がって行くようなギャングムーヴィーの爽快さ(?)を感じることは出来ないか。

 音楽がやはりスコセッシ映画らしく楽しめるわけで、音楽監督はやはりロビー・ロバートソン。どうやらElmore James などの古いブルーズがいろいろと使われていたようだけれども、そのあたりはわたしの耳ではちょっとわからなかった。わかったのはCannonball Adderley の「Mercy, Mercy, Mercy」のサビのところが複数回使われていたのとか、Devo の「Uncontrollable Urge」の、あのイントロのシャウトのところ。そしてKraus Nomi のアレンジで有名な、Henry Purcell の「King Arthur」オリジナルのオペラからの抜粋などなど。それですべてが終わってのエンドロールのところのメロディ、聴いたことがある曲だと思っていたら、これは「Cast Your Fate to the Wind」で、わたしなどはヒットしたSounds Orchestral のヴァージョンが記憶にあるのだけれども、ここでの演奏はAllen Toussaint によるものだった。



 

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■ 2015-01-20(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 夢を見た。多くの部分は忘れてしまったが、夢の中で二本足で歩く極端に痩せたウサギが出て来た。そのウサギは両手に袋に入ったパスタを抱えていた。パスタの袋の丈とウサギの身長とは同じぐらいだった。痩せた顔の大きな眼を見開いて、おびえたような表情でわたしを見つめていた。ちゃんとストーリーのある夢だったはずで、夜中にいちど目覚めたときにはけっこう記憶していたのだけれども、また眠ってしまうとたいていは忘れてしまう。そんなに非現実的な夢でもなく、そのウサギの登場だけがまるで「不思議の国のアリス」みたいだったわけだ。

 きょうはしごとも休みで、きのうかなり遅くまで起きていたので、朝は九時ごろまでたっぷり寝た。九時を過ぎるとそろそろニェネントが「わたしのご飯はまだ?」と心配し始める時間だと思うから、ちょうどいいところで目覚めたのかもしれない。「あ、もう九時だ」と、まずはニェネントのご飯を出してあげる。ニェネントのご飯は毎日、ネコ缶を半分とカリカリ(ドライフード)を小皿に普通盛り。まずネコ缶はいつも出されるとすぐに食べてしまい、カリカリは日によっては半分ぐらい、翌日まで食べ残していることがある。きょうはカリカリが少し残されていた。水も飲めるようにいっしょに置いてあるのだけれども、これはなかなか減らない。

 九時まで寝ていたので、いつもしごとに出ている時とまるで同じスケジュールになってしまう。午前中はこの日記を書き、Facebook やTwitter を閲覧し、気になったことをググってみたりしていると昼になってしまう。このごろはネット上にアップされている映画を探しては見つけて、それで喜んだりばかりしているのだけれども、きょうは「ファンタスティック・プラネット」がアップされているのを見つけた。それではとブラザーズ・クエイの作品を探してみると、「Stille Nacht V」という知らない作品がアップされているのを見つけた。わたしが持っている「Phantom Museums」という二枚組DVDにも収録されていない作品で、Sparklehorse というバンドのミュージック・クリップでもある。犬と少女の人形とが登場し、やはり他のStille Nacht のシリーズのようにエロティック。というか、ほとんどポルノではないのか。ちょっと驚いた。

 午後からは録画してあるマーティン・スコセッシ監督の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を観始めるのだけれども、一時間ぐらい観たところでなんだか疲れを感じてしまい、「きょうも昼寝をするか」と、ベッドに横になった。きょうの昼寝は二時間ほど。ちょっとばかり本も読み進んだけれども、今読んでいる本はパトリシア・ハイスミスの「動物好きに捧げる殺人読本」という、今はとうに絶版になっている短編集の文庫本。飼い主に虐げられる動物がその飼い主に復讐する話が多いのだけれども、「総決算の日」という短編はそういうところからちょっと離れて、かなりの傑作だと思った。やはりハイスミスはいい。本棚をチェックすると、今読みたいと思っていた「殺人者の烙印」も「変身の恐怖」も処分しないで残っていた。次にどちらかを読み始めようと思う。

 昼寝のあと目が覚めてテレビをつけると、日本人ジャーナリストがイスラム国の人質にされ、日本に身代金を要求する映像が流されていた。日本政府に要求を出すと同時に、日本国民にも「おまえらはどう行動するのだ?」という問いかけがなされている。個人としてはテロ組織であるイスラム国の言うことなど無視してもいいのだけれども、やはり人命のかかっていることでもあり、「こういうとき、わたしはどのように考え、どのように行動すればいいのか?」と、考え込んでしまった。

 

 

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■ 2015-01-19(Mon)

 ようやくあしたはしごとも休みになるので、きょうは映画でも観に行こうと考える。観たい映画はあれこれとあって、「どれにしようか」と迷う。「百円の恋」と「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」、それに「ゴーン・ガール」のどれかにしたい。しかし「百円の恋」は要するに安藤サクラを見るための映画だろうし、安藤サクラは好きなんだけれども、「また別の機会にしてもいい」と、この映画を観に行こうかと思うたびに考えてしまう。けっきょく行かないままになる可能性もある。フレドリック・ワイズマンの「ナショナル・ギャラリー」はぜったいに観たいのだけれども、「ゴーン・ガール」ももういちど観たい。どっちにしようか迷っていたら、「ゴーン・ガール」は今週いっぱいで上映が終わってしまうようなので、きょうは「ゴーン・ガール」に行くことにした。昼から出発して、三時ごろ上映の回を観て、終映が六時ごろ。それから下北沢にまわって、今年はじめて「G」に行くというコース取りもいいだろう。またはまた「ひとり日高屋」というのもやってみたい。

 昼に家を出ると新宿に着くのは二時ちょっと過ぎ。まずは映画館へ行って座席を予約しておく。今回も通路際の好みの席をゲット出来た。そのあとはちょっと遅い昼食で、そんなに時間に余裕もないので、このあたりで知っている中華の店では近い方の店に行く。「上海焼きそば」を注文するのだが、そう、この店の上海焼きそばの味はちょっとイマイチだったのだ(安いんだけれども)。今度この店に来るときには「上海焼きそば」ではなくって「五目焼きそば」にしてみよう。

 ゆっくりと食事をして映画館へ行くとちょうどいい時間で、あれこれの予告を観てから本編開始。二回目の鑑賞になるのだけれども、思いのほか楽しめた。というか、最初に観た時よりも面白く感じたような。今日この映画を選んだのは正解だった、という気分になる。

 映画が終わって外に出るとあたりはもう暗くなっていて、じゃあ「G」へ行ってみようと、小田急線で東北沢まで。「G」は駅としては下北沢よりも東北沢の方がずっと近いし、小田急線の下北沢の駅は地下深くにもぐっているので、階段を上がるのに骨がおれる。

 「G」に到着。今日のスタッフはBさんで、わたしが着いたしばらくあとから、今日からこの店でバイトを始めるという人もやって来て、何となくあわただしい感じ。今「G」でやっている写真展にはわたしの知人も参加しておられるのだけれども、前期、後期と別れた展示の中で、今展示されている前期の中にはその知人の作品は見あたらなかった。

 だいぶ遅れてオーナーのCさんと、それとDさんとがやって来る。この日は健康診断を受けに行っていたらしい。わたしなどは勤め先でそういうことはやってくれるけれども、個人経営の人などはそのあたりは自分で手配してやらなくてはならないし、スルーしようと思えばいくらでもスルー出来てしまうだろう。そういうことをきちんと実行するのは大事なことだと思う。

 それでやっぱり「ひとり日高屋」をやりたくなってしまい、ちょっと早めに「G」を退出し、下北沢駅の近くの日高屋へ行く。なんだかすっかり「ひとり日高屋」が習慣になってしまいそうだけれども、今日も熱燗とイカ揚げ、ポテトフライと餃子を注文する。これだけ食べるとちょうど夕食分に相当するというか、けっこう満腹にはなるし、ちょっとアルコールが入って「飲んだ(吞んだ)」という気分になれるのがいい。ひとりで飲むこともまるで気にならないし、これで会計は千円でおつりが来るわけでもあるし、どうもやっぱり、これからも「ひとり日高屋」は続きそうだ。

 

 

[]「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン:原作・脚本 デヴィッド・フィンチャー:監督 「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン:原作・脚本 デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 二回目の鑑賞。だいたいのことは一回目の鑑賞で気付いてもいたのだけれども、そういうことをきちんと意識出来たということでも、同じ映画を二回観ることの利点はあるだろうし、デヴィッド・フィンチャーの作品にはそういう魅力もあるわけだろう。

 とにかくはまず、この一本の作品の中に、いろいろなトーンの演出が詰め込まれているという魅力がある。
 まずは導入部でのエイミー(ロザムンド・パイク)がいなくなったニック(ベン・アフレック)周辺の動きの描写があり、それと並行してのエイミーの日記からの過去の描写がある。ニックの描写ではフィンチャー監督らしい細かいカット割りが見られるのだけれども、エイミー側での描写、特にその冒頭の、エイミーがニックと知り合う(初デート)のシーンでの演出が、ゆったりとしたコマ割りになっているというか、この作品全体の中でも特徴的な演出になっている。
 この交互に続くニック側の描写とエイミーの日記からの描写は、まずはエイミーの失踪は彼女の仕組んだものであったという展開から、ガラリとモードが変わる。エイミーのナレーションの口調も展開に従って変化して行くのだけれども、ここからは俄然シニカルなものに移行してしまうし、エイミーの視点はそれまでの(ニセ)日記からの描写を否定するようなものになってしまう。
 この変化はニックの側の描写にも起こるわけだけれども、それはエイミー捜索の集会の場での、隣人(エイミーの友人というつもりでいる)の「エイミーは妊娠していた」という発言から劇的に変化する。わたしの感覚ではこの「劇的な」変化こそがこの映画の大きな見どころで、ここでのカメラの動きだとかにも瞠目せざるを得ない。直前のクレーン撮影など含めて、このあたりの演出の見事さというのはほんとうにすばらしい。

 このあとにもまた、演出の切り替えというのは続出する。エイミーの側では「予定外のアクシデント」から路線変更を余儀なくされ、バカな男を巻き込んで行くことになるし、ニックの側では弁護士を雇って戦略を練り直すという展開もあるし、ついには収監されてしまうことにもなる。エイミーの路線変更からの「惨劇」もまたこの作品のハイライトではあるだろうけれども、やはりこの、この作品唯一の「殺人」シーンの演出は凄まじいものがある。このあたりにやはり、デヴィッド・フィンチャー監督の持ち味を感じてしまう。
 そして終盤に、ついに姿をあらわしたエイミーとニックとの再会という、ほとんどブラックジョークのような展開が待っている。もう、笑いますよね、というシーンの続出。しかしながらも、エイミーとニックとの会話から浮かび上がる二人の未来にはゾッとしてもしまうことになる。‥‥ラスト近くの、さいごのエイミーからニックへのプレゼント、最初に観たときにはわからなかったけれども、アレって、妊娠チェックの器具でしょうね。つまりエイミーは「陽性」だったと。

 この作品の撮影はこのところのフィンチャー作品でのパートナー、ジェフ・クローネンウェスという人だけれども、この撮影もまたみごとなもので、横移動、縦移動、そしてズーム、クレーン撮影など多彩な技術をみせてくれる。終盤のエイミーとニックの対峙する場面での、エイミーの髪の乱れを印象的に捉えたシーンも記憶に残る。

 ‥‥ラストのエイミーのショットは、実は冒頭のショットと同じだった。とにかくは仕掛けだらけの作品だなあという印象で、またもういちど観てもいいなあと思ってしまう。やはりデヴィッド・フィンチャーはすばらしいのだが、彼の次回作はなんと、パトリシア・ハイスミスの「見知らぬ乗客」の映画化、つまりはヒッチコックのリメイクになるのではないかということ。

 ところでパトリシア・ハイスミスに関しては、「殺人者の烙印(慈悲の猶予)」もまた、ここに来て映画化の動きがあるらしい。ハイスミスのファンとしてはうれしいところではあるし、やはり、これからはハイスミス作品の再読に時間を割きたいと思うのだった。



 

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■ 2015-01-18(Sun)

 きのう古い資料をいろいろと再発見して、少しだけ読んだりして考えることもあれこれとあった。わたしからcrosstalk への参加者へあてて出した通信物のコピーなどが皆残っているのだけれども、そのなかに不快な思いをさせられた参加者のことなども書いてある。「以後は出入り禁止」などとわたしは書いているのだが、あの人物はその後どうなったのか、検索してみてもまったくヒットして来なかった。つまりはダメなヤツはやはりダメ、ということではあるのだけれども、そういう人物を選んでしまったわたしがいちばん情けないともいえる。

 あの頃のわたしのイヴェントへの参加者は何十人もいるわけだけれども、今もなお第一線で活躍されている人が多いのが何よりもうれしい。そのジャンルをリードするような活動をされている方もけっこういる。ここでは「わたしが選んだことのある人たちだから」と、自分のプロデュース能力を自賛したい気分にもなる。プロデュース能力などというと大げさかもしれないけれども、みさだめる眼力は持っているということかも。

 それ以前からの、わたしの美術学校の学生時代からの知人友人たち、もうまったく没交渉になってしまっているけれども、ググってみると引っかかってくる人物もいる。学生当時の仲間たちといまだに活動を続けられているようだが、つまりは「スモール・サークル・オブ・フレンズ」たちというのか、外の社会への影響力などはまったくない、こういってよければ趣味的なものに終わっているようだ。

 わたしがcrosstalk を始める前には、きのう書いたように関西の嶋本昭三さん率いるArt Unidentified との交流があったわけだけれども、その時にこの東京近郊で仲間のように行動を共にした人たちもいた。そういう人たちとも交流は絶えてしまったけれども、こちらの人たちも小さなサークル内での活動に終始されているようだ。なんだか、彼らもあの時期にはせっかく大きくなれるチャンスでもあっただろうに、もったいないことだなあと思ったりする。

 わたしは美術作家としてはまるで才能のない人間だろうけれども、何というのか、(自分でいうのもアレだけれども)器が大きいところはあるんじゃないかと思う。crosstalk が続けられなくなってしまったあとも、けっこう交流関係を拡げて行くことが出来た。もちろんそのこともcrosstalk というイヴェントを主宰していたという経歴が助けにはなっている。二十年前のあの時期、よくもまあ個人でそんなイヴェントをやってみようと考え、それを実行したものだと思うし、そのイヴェントはわたしが想像していたよりも遥かにみのり豊かなものになってくれた。自賛したくなるところではある。

 今は残念ながらこうやって東京から離れて、人々との交流もあまりなくなってしまったし、何よりも「側頭葉てんかん」というものを患い、多くの記憶をなくしてしまった。

 まずはきのう見つけた当時の資料などを整理して、あの頃の記憶をまた甦らせるような行為がまたひつようなのではないだろうか。それをやるのが、この2015年という年なのかもしれない。

 きょうは昨夜いちど字幕なしで観た「ミツバチのささやき」を、ニコニコ動画上の字幕付きのもので再見した。ニコニコ動画をもういちど検索してみると、ヴィクトル・エリセ監督のものでは「エル・スール」もアップされていたし、ゴダールの「勝手にしやがれ」も「気狂いピエロ」も見つけることが出来た。またうれしさで有頂天になりそう。

 

 

[]「ミツバチのささやき」(1973) ヴィクトル・エリセ:監督 「ミツバチのささやき」(1973)   ヴィクトル・エリセ:監督を含むブックマーク

 この作品を初めて劇場で観たのは80年代のことだと思うから、あらためてこの作品が製作されたのが1973年だったということを知ると、ずいぶんと古い作品だったのだなあと思ってしまう。でもまだ、主演のアナ・トレントは今、ようやく五十代に突入したところだ。

 きのう字幕なしで観た映像はスタンダードサイズだったのだけれども、きょう観たのは上下がトリムされたヴィスタサイズになっていた。もちろん、トリムされていない方がいいに決まっている。
 とにかくはセリフもそれほど多くはない作品だったから、姉妹が映画「フランケンシュタイン」を観ての会話さえわかれば、だいたいのところはわかってしまう作品だった。もちろん、お母さんが書く手紙の内容や、お父さんのノートの内容などはそれなりの意味は持つのだけれども。

 わたしがこの作品で記憶していたのは、姉妹がマント姿で駆けていく後ろ姿や、姉妹で線路に耳をあてている場面、そしてアナが夜の幻想の中で見るフランケンシュタインなどだったけれども、姉妹がマント姿で走って行くシーン、最初の方にちょっとあるだけだった。どうもわたしは姉妹が二人で納屋(精霊の隠れ処)へと下りて行く場面と混同していたようだ。

 しかしまあ美しい作品で、線路のシーン、姉妹が納屋へ行くシーン、そしてラストの「わたしはアナ」とアナが夜の暗闇(もしくは月の光)に語りかけ、眼を閉じるシーンなど、観ていても涙がこぼれて来てしまう。きのう観た「灼熱の魂」とは対照的に、この作品は映像の力で物語を引っぱって行く。もしくは、「物語」が大事なのではない。そういう映画。わたしはこのような作品こそを愛したい。しかしラストの、外から射す青白い月の光の、なんという美しさだったろう。

 しかし、アナは普通の女の子に戻れるのだろうか‥‥。映画ではそこまではわからない。この答えのなさがまた恐ろしさとなって、この映画の魅力になっているのだろうか。

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■ 2015-01-17(Sat)

 阪神淡路大震災から、きょうで二十年になる。わたしはあの日どうしていたのか記憶にはないのだけれども、あの頃は都美術館での「Art Unidentified(AU)」にかなりどっぷり関わっていた時期で、そのAUを主宰される西宮の嶋本昭三さんとの交流も盛んだった。そういうことから震災の後しばらくしてから現地を訪れ、ボランティアとしてお手伝い出来ることもほとんどなかったのだけれども、現地の方々の無事を確認して来た経験がある。あのとき、AUのスタッフの方から、「何も手伝わなくてもいいですから、このありさまをしっかりと見て行って下さい」といわれたことはよく記憶している。そういう次第でそのとき撮って来た写真がたくさんあるはずで、きょうは押し入れの中に積まれている昔の資料をちょっと開けてみたりした。これはわたしがイヴェント「crosstalk」を主宰していた頃のいろんな資料が残してあるはずで、ペットボトルの入っていたちょっと小さめの段ボール箱で7〜8箱は取ってある。いつかは整理しなければならないと考えてはいたのだけれども、押し入れの奥に入り込んでしまっているともう引っぱり出すのもめんどうで、ずっとそのままにしてあった。
 そういう資料を開けてみたわけだけれども、「開けてビックリ!」というか、そうか、こういうものを保存してあったわけかと、ちょっとばかり驚いてしまった。つまり、イヴェント開催にあたって、参加者とやり取りした手紙やファックス類が細かく保存されているのがひとつ。そして、同じ時期にわたしが興味を持ったり観たりしたイヴェントや展覧会、映画などのチラシがいっぱい保存されている。これが基本。それ以外にもいろいろなものが保存されている。名刺をファイルするファイルブックにあふれた名刺の山、そして仕事上で必要だったUNIX やCシェルなどのオペレーションを細かく写したノート、などなど。全部の段ボール箱を開けてみることはしなかったけれども、だいたい見た感じではその震災の写真を保存したアルバムは見当たらなかった。しかし、まだブログを始める前の、手書きでの日記が見つかったのはうれしかった。読めばきっといろいろなことを思い出してくるだろう。

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 とにかくはそんな資料の山の一角をそうやって崩してしまうと、めっちゃ部屋の中がちらかってしまう。この資料をまた元通りにしまってしまうと、またいつまでもしまいっぱなしになってしまうようだし、なんとか整理したいものである。

 きょうは図書館から借りているDVD、もう返却期限を過ぎてしまっているのをようやっと観た。そのあとは「ミツバチのささやき」を字幕なしで観たのだけれども、観終わったあとにあらすじなどを確認しようと検索してみると、何のことはない、ニコニコ動画上に日本語字幕付きのものがすぐに見つかってしまった。妙にややっこしい検索の仕方をしていたので引っかかって来なかったんだろう。検索はまずはシンプルに行なうべし、ということだろう。そういうわけで、あしたにでもその日本語字幕付きでもういちど観て、それから感想を書こうと思う。ただ、きょう字幕なしで観ていても、何というか、流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。やはりすばらしい傑作。

 

 

[]「灼熱の魂」(2010) ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督 「灼熱の魂」(2010)   ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督を含むブックマーク

 去年の暮れに観た「複製された男」を撮ったドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の、2010年の作品。カナダの映画だけれども、主題はレバノンの内戦に翻弄された女性を母に持つ娘と息子が、その母の遺言からレバノンの地で自分たちの兄、そして父を捜すというストーリー。娘も息子も「育ての父」が実の父と信じていたし、兄がいるなどという話は聞いたこともなかった。そうしてようやく「真実」にたどり着いてみると‥‥。というようなお話。映画のオリジナル脚本ではなく、レバノン出身の作家による戯曲からの翻案らしい。

 たしかに強烈な話で、観ていても「この展開、ウソだろう!」みたいに驚いてしまうのだけれども、映像もまたその物語を支える「強さ」は持っているだろう。しかし、この「強さ」はつまりはどこまでも物語を支える強さであって、映像としては自立しないものではないのか。このあたりのことは「複製された男」でも感じたことだけれども、すべては物語に回収させられるために観せられる映像、という感想を持ってしまうわけで、このあたり、わたしが「映画」というものに期待するものとは違うのである。

 映画というものが物語的に回収されることのみを目的にするのならば、この映画はたいへんにすばらしい映画といってしまっていいんだろうと思う。しかし、映画というものはそれだけのものではないはずであって、脱線してしまうけれども、そのことはこのあとに観た「ミツバチのささやき」という傑作に比してみれば、わたしにはよくわかることである。もちろんわたしが映画に求めるものは「ミツバチのささやき」の中には満載されているのだが、この「灼熱の魂」にはほとんど見つからない。まだ、ハリウッドの娯楽映画の中の方が、そのような映画的歓びをあじあわせてくれる作品が多いような気がしてしまう。このタイプの映画監督は苦手である。



 

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■ 2015-01-16(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 きのうはゴダールの「女は女である」をYouTube で字幕なしで観てしまったのだけれども、あらためて検索してみるとさらにいろいろな映画がフルで観ることが出来るのがわかった。字幕がなくても、過去に観たことのある作品で印象に残っているならば、観ていれば思い出す部分もあるだろう。それで、今もういちど観てみたい映画を、いろんな方法で検索してみた。
 わたしが過去に観た映画で、今もういちど観てみたい映画を三本あげるとするならば、ウィリアム・クラインの「ポリー・マグー お前は誰だ」、グラウベル・ローシャの「アントニオ・ダス・モルテス」、そしてヴィクトル・エリセの「ミツバチのささやき」の三本になるだろうか。このうち、「アントニオ・ダス・モルテス」はYouTube で字幕なしのものがアップされているのをすでに見つけてあるので、そのうちに観ようと思っている。それで今日は「ポリー・マグー お前は誰だ」と「ミツバチのささやき」とをしつっこく検索してみたのだけれども、原題などで検索してみた結果、両方とも見つけることが出来た。かなりうれしいことである。さっそくあしたにでも、どれか一本観てみようと思う。

 図書館から借りているDVDの返却期限が過ぎているし、カフカの「城」もあまり読まないままになっている。DVDはあしたあさってにでも観ることにするけれども、「城」はとにかくはこのあたりでいちど休止したい思い。どうも主人公のKの人間関係の力学にのみ視点を置いたような言動にうんざりするところもあるし、そのあたりは「審判」でも「アメリカ(失踪者)」でも繰り返し読んで来た気もする。主人公が城に永久にたどり着けないこともわかっているし、「なんだかなあ」という気分で、もっと元気なときに再チャレンジしたい。
 とにかくはこの「城」を読めばカフカの小説作品は全部読むことになるけれども、わたしのお気に入りは短編だと「判決」、長篇なら「アメリカ」ということになるかな。「アメリカ」はけっこう気に入っていて、もういちど読み返したいところである。短編はけっこうまた忘れてしまっているものが多い。やはり記憶力が低下している。

 きょうは昼から、録画してあった藤田貴大演出の「小指の思い出」の舞台を観始めたのだけれども、すぐに眠くなってしまい、「もう昼寝してしまおう」という気分でベッドに入った。けっこう長い昼寝になり、目覚めたのは七時ごろになってしまった。また自己流中華丼で夕食にして、「小指の思い出」に再トライする。
 この舞台は去年の十月にじっさいに観ているのだけれども、そのときに「これは夢の遊眠社のオリジナルを観ていないとわからないんじゃないか」と思ってもいたわけで、その後ニコニコ動画でその「夢の遊眠社」のものを観ることが出来、これで藤田貴大演出の方も見方が変わるかもしれないと録画してあったもの。‥‥しかし、やはり「夢の遊眠社」版を観たあとでも、この舞台演出には疑問が残る。それはけっきょく、去年じっさいに舞台を観たときの感想と同じものになってしまう。まずは舞台上の人物の動きとセリフとがまるで噛み合ないという印象があり、あとは決定的にオリジナル版にあった(満載されていた)ユーモア感覚がなくなってしまっているということ。観ていてもまるで面白くなく、途中で早送りしたりする。一気にラストまで持って行って観るのだけれども、この藤田貴大演出版のラストはやっぱり、さいしょに持った感想通りに、「凡庸」だとしか言いようがないのではないのか。「なんだ、やっぱりもういちど観るほどの価値はなかったか」と観るのをやめ、データを消去した。

 昼寝をいっぱいしたのでなかなかに寝つけなかったけれども、ニェネントと遊んだりしながらいつか眠ってしまったようだ。



 

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■ 2015-01-15(Thu)

 きょうからは五日間連続のしごとで、年末から休み慣れしてしまったわたしにはちょっとつらいところ。わたしの場合、しごとがつらいというよりも、朝の五時に出勤しなければならないというのがいちばんつらいこと。その出勤のためには四時に起きるようにしていて、それが眠くて起きられないとか、寒くて布団から出られないとかいうのではなく、前の日にあまり夜更かしが出来ないというのがいや。しごと自体は九時には終わってしまうので、それから出かけたりすることにあまり不自由はないのだけれども、「あしたはしごとがあるから」と考えると、あまり遅くまで外で遊び回る気になれない。だからたいてい、出かける日が前もってわかっていれば、その出かける翌日にしごとの休みを申請しておいたりする。でもこういうのも固定観念で、しごとの前の日にたとえ終電とかで帰宅したとしても、四時間ぐらいは寝ることが出来るわけだし、寝不足分はしごとのあとに帰宅してから昼寝などして補えばいいわけだろう。これからはもっと、あまり休みのことを気にしないで遊びまくろうか。

 きょうは昼前から雨が降り出し、そのあとは一日雨になってしまったけれども、雪になるようなことはなかった。きょうはあたりのスーパーやドラッグストアでセールの重なる日になってしまい、買っておきたいものもいろいろとあったので、近所の二件のスーパー、二件のドラッグストアのすべてでお買い物をしてしまった。生のイカのパックが安かったので買ってしまったけれども、はたして調理する気があるんだか、よくわからない。また冷凍庫のスペースをふさぐだけになるのだろうか。タマネギがもうあまりないと思って六個も買って帰ったのだけれども、冷蔵庫をみるとまだ四個ぐらい残っていた。これからはタマネギをいっぱい使わなければいけない。

 昼食はたらこスパゲッティーにして、夕食は自己流のいつもの中華丼。あちこちに買い物に行ったせいか、ヴィデオとか観る時間はなくなってしまう。なんとか、YouTube でこのあいだ見つけてあったゴダールの「女は女である」を観る。字幕はスペイン語(?)と英語。どうも英語字幕だと字幕ばっかり読んでしまって、画面そのものを観るのがおろそかになってしまう気がする。英語がすらすら読めるというわけでもなく、やはりわからないところはわからないままなんだけれども、観終わったあとにネットで検索すると、この映画のあらすじをずいぶんと仔細に書いてあるところを見つけて、おかげでずいぶんと助かった。でもそのうち、字幕なしの映画にトライしてみよう。

 

 

[]「女は女である」(1961) ジャン=リュック・ゴダール:監督 「女は女である」(1961)   ジャン=リュック・ゴダール:監督を含むブックマーク

 ゴダールが「アンナ・カリーナ、大好き!」というアツアツの時期に撮られた作品で、彼の長篇第三作。出演はアンナ・カリーナとジャン=クロード・ブリアリ、そしてジャン=ポール・ベルモンド。

 もともとは、クロード・シャブロルの「いとこ同志」に出演していたジュヌヴィエーヴ・クリュニーという女優さんが、ゴダールと交わした会話の内容を原案にして、ゴダールが脚本を書いたものらしいけれども、そんなどうこうというプロットでもなく、いってみれば単純なたわいのない映画である。そんなプロットから、ゴダールはハリウッドのミュージカル映画への賛美を隠さずに模倣する。音楽の担当はミシェル・ルグランで、美術はこのあとに「シェルブールの雨傘」を担当するベルナール・エヴァンという人。この人は「いとこ同志」やトリュフォーの「大人は判ってくれない」、そしてアラン・レネの「去年マリエンバートで」などの美術も担当されているということ。ちょっとそういうところから、彼の担当した映画を観直してみたい気分にもなる。

 この作品のゴダールは「茶目っ気たっぷり」といえばいいのか、「才気走った」といえばいいのか、あれこれと脱線したことをやってみせてくれる。めまぐるしいカット割りがあるかと思うとかなりの長回しがあったりするし(カメラはやはりラウール・クタール)、そのなかでいかにもゴダールらしい演出も垣間見せてくれたりもする。たとえば画面に字幕を挿入してみたりすることは、ある意味でゴダールのトレードマークのような演出なのかも知れない。

 わたしはずいぶんと昔にいちど映画館でこの作品は観ているはずだけれども、先日観た「アルファヴィル」ほどにはいろいろと記憶しているわけではなかった。ただ、ジャン=クロード・ブリアリが部屋の中で自転車を乗り回すシーン、それとブリアリとカリーナとが「r」の発音を競い合うシーンなどは記憶があったけれども。

 これは美術のベルナール・エヴァンの功績なのかも知れないけれども、部屋の白い壁や白いシーツ、それがアンナ・カリーナの着ている赤や青の服装の、その色彩の美しさを際立たせている印象。

 ほんとうは、ゴダールのこの時期の作品では「女と男のいる舗道」が観たいのだけれども、これはなかなか観るチャンスがなさそうだ。直に新作3D映画「さらば、愛の言葉よ」の公開が始まってしまう。



 

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■ 2015-01-14(Wed)

 オーディオ装置が壊れたという続きで、「CDを聴こうと思えばパソコンに突っ込んでもパソコンで聴けるわけだ」と今さらながらに思い、一枚差し入れてみた。するとiTunes が自然と起動され(うちのパソコンはMac)、それがしばらく読み込みに時間がかかっているなと思っていたら、CDのタイトルから全曲目まですべてリストされたので、ちょっとおどろいてしまった。まさかそういうテキストデータがCDの中に収まっているとも思えないし、つまりはパソコンが、あらゆるCDのデータから差し込んだCDに合致するものをリストしている、ということなんだろう。いったい世界中でどのくらいの数のCDがリリースされているのか知らないけれども、「こりゃすっごいや」と、驚愕。
 しかしノートパソコンのスピーカーでは音に満足も出来ないわけで、やはりイヤフォンジャックが使えなくなっている不具合を修理して、外付けのスピーカーで聴いてみたくなる。そのうちにアップルストアに行って修理にどのくらいかかるか聴いてみよう。いちど書いたことだけれども、以前ネットでこの件を質問したところ、それはCPUの不具合の可能性があり、修理には十万ぐらいかかるという回答を受け取ったことがある。冗談ではない。十万あれば新しいiBook が買えるではないか。そんなのをわざわざ修理に出すわけがない。わたしの考えではイヤフォンジャックの部分だけのたんじゅんな故障だと考えるのだが。

 図書館から借りているカフカの「城」、読むのがすっかりストップしてしまった。もう貸し出し期間中に読了するのは無理な話だろう。どうもこう、読んでいても主人公のKの性格の悪さというか、力関係だけを優先させるようなねじくれた論理の展開、そして女性に手が早いところとか、今までに読んだ「失踪者」(わたしの読んだ版では「アメリカ」)や「審判」と同じように思ってしまうし、Kが永久に城にたどり着けないのはわかってるし、どうも食指が伸びないというか。まあそれなりに「ああでもない、こうでもない」というのが今後もあれこれありそうで、いちおう全部読んでしまいたいとは思っているのだけれども、一回ブレイクを入れますか。
 この「城」を読めば、カフカの小説作品はすべて読んだことになると思うけれども、例によって記憶に残っていないものが多い。多すぎる。やはり記憶力は決定的に退化していると思えるけれども、そんな中でカフカの作品で印象に残っているのは、短編で「判決」、そして長篇では「失踪者(アメリカ)」ということになるだろうか。

 きょうは昼食にはそばを食べ、夕食はカレーにして、ようやくカレーが全部なくなった。あしたからはまた中華丼と行きますか。

 昼に録画してあったカラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」を観て、そのあとにこれも録画してあったNHK-BSの「壇蜜 ネパール 死とエロスの旅」というのを観た。実は檀蜜という人にはちょっと興味があって、この人の芸名の「壇」というのはお仏壇の「壇」で、彼女はエンバーミング(遺体衛生保全)の資格をを持っている。彼女独特のキャラクターはこのあたりからも来ているようで、単に頭の回転が速いというのでなく、基礎がしっかりしている印象(エンバーミングには話し言葉のコミュニケーション能力も問われる)。

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 そんな彼女が、ネパールの十一日間の旅に出る。まずは首都のカトマンズからこのドキュメンタリーは始まるのだけれども、とにかくはよけいな先入観を持たずに、眼の前のことを素直にレポートする檀蜜嬢がいい。わたしなどはネパールなどというとすぐに「神秘の国」みたいに思ってしまうのだけれども、いい目線の映像も相まって、とても明晰な世界としてわたしの眼に映る。
 中盤からは「死」と真正面から向き合うような展開で、死者の火葬の様子、鶏など動物の生贄を捧げる場面(ちょっとショッキング!)なども紹介されるし、後半には死に行く人の臨終の様子も見せてくれる。「エロス」もちゃんと忘れてはいなくって、男女の性愛の様子を彫った石彫(カミナリ避け、なのだそうだが)の紹介、そして、座位で身体を重ねた男女の巨大な仏像。これは快楽のみを求めるのは違うということをあらわしているそうな。ひとつのことに夢中になってしまうと、その周りのことが見えなくなってしまうと。ネパールを「他者を受け入れ、他の宗教も受け入れ、そして死をも受け入れる寛容さ」とし、「死者のために祈ることが自然に世界平和を祈ることとイコールになる」というナレーションが、とても印象に残った。フランスでのテロも、この方向で考えていってもらいたいと願わずにはいられない。図らずもタイムリーな鑑賞になってしまった。

 


 

[]「ボーイ・ミーツ・ガール」(1983) レオス・カラックス:監督 「ボーイ・ミーツ・ガール」(1983)   レオス・カラックス:監督を含むブックマーク

 レオス・カラックス、23歳での監督デビュー作。どちらにせよ記憶に残っていないんだけれども、この作品は初めて観ることになると思う。「汚れた血」とか「ポンヌフ」、「ホーリー・モーターズ」は観ているけれども、基本は何ひとつ記憶に残ってはいなくって、ただずっとレオス・カラックスの作品に出演しているドニ・ラヴァンのヴィジュアル的な記憶は残っている。‥‥こういってはアレだけれども、「異相」の人である。レオス・カラックス監督と同年代のようで、この「ボーイ・ミーツ・ガール」のときはまだ二十歳を出たばかりの頃なんだろう。だから、というとアレだけれども、青年らしい可愛らしさは感じられる。それでも時々、「やっぱり変な顔〜」とか思ってしまうことは書かない方がいいのかな。

 タイトルとは裏腹に、しょっぱなから「うまく行かない男女」ばかりが連続して登場する。そこで男の子のドニ・ラヴァンと、女の子のミレーユ・ペリエとがニアミスし、あるパーティーの場でふたりはようやく遭遇する。それでもこのふたりに共通するのは「絶望感」だけという感じで、恋人同士になれるような雰囲気はまるでない。けっきょくはラストの(強引な)悲劇へと進んで行く。

 ずっと冒頭からドニ・ラヴァンの着ているジャケットのチェック柄は彼を棄てた女性の落としたスカーフの柄でもあり、また、ミレーユ・ペリエのはいているスラックスの柄でもある。こういうあたりはモノクロの画面で効果的だろうし、とにかくは夜のドニ・ラヴァンの部屋を捉えた映像がとっても美しい。撮影はジャン=イヴ・エスコフィエという人で、この人はレオス・カラックス作品のみならず、のちにハーモニー・コリンの「ガンモ」などの撮影も担当されているようだけれども、2003年に亡くなられているらしい。そう、気付かなかったけれども、この作品は全篇が夜ばかりで進行する。

 この作品があらわれたときに「ゴダールの再来」などともてはやされたらしいけれども、たしかにそういう才気のにおい立つような作品だろう。ただ、あれこれの過去の作品からの引用がどうのこうのともいわれているようだけれども、そのあたりはどうなんだろう。たしかに終盤にヒロインがハサミを手にして切り裂くまねをする場面が「気狂いピエロ」からの引用であるとか、ドニ・ラヴァンの持っているスノーグローブがつまりは「市民ケーン」ではないかとかあるらしいし、この二つはわたしにも思い当たったけれども、ほかにもあれこれとあるらしい。しかし、それがだからどうだというのか。単にスノッブな観客を喜ばせるだけではないのか。つまり、ショットとしての引用ではあるけれども、そのことがプロットにからんで来るというわけでもなく、そういう引用がなくってもこの映画は成り立ってしまうではないか。「引用」というなら、いい例が思いつかなくってそんなに好きな映画ではないけれども、去年の暮れに観た「複製された男」の中での「タクシードライバー」の引用の方をずっと評価してしまうな。

 ただ、やっぱり作り手の若さを感じされられる、みずみずしい作品であることはたしかで、魅力を感じてはしまうわけである。まだ「汚れた血」も「ポンヌフの恋人」も録画してあるので、早く観てみたい。



 

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■ 2015-01-13(Tue)

 ついに、オーディオ装置が完全に壊れてしまった。もうすでにチューナーとしての役目しか果たせなくなっていたのだけれども、ついに電源をオンしても自然に一分ほどで電源が落ちてしまうようになった。自然にそうなったのではなく、またわたしが「何とかならないだろうか?」と分解解体をしてみた結果なのだけれども、どちらにせよCDも聴けない状態だったのだから、いっそこうなってしまった方があきらめもつく。
 どうも、分解してみた感じでも、カセットの磁気ヘッドの部分を固定していたバネがはずれてしまっているようで、これが本来どのように固定されていたのかが見当もつかないわけで、とにかくその故障が全体の負荷になってしまっていたのではないのかと想像できる。思い切ってカセット部分の接続を外してみたのだけれども、それがよくなかったのか、電源の不良になってしまったわけ。

 さて、そうなると部屋にいっぱいあるCDやMDをどうするのか。No Music, No Life ではないのか。って、ここのところほとんどCDなんか聴いていないのだけれども。すぐに考えられるのは新しいオーディオコンポを買うことで、Amazon で検索するとそのわたしの持っているオーディオと同じメーカーの、ほぼ同型の物が見つかった。MDが聴けるのはどうやら現在ではこの機種しか存在しないようで、じっさいにはすでに製造は中止になっているらしいものの中古品。これが二万二千円する。まあ比較的安い買い物だとはいえるだろうけれども、今のわたしには一万円以上の買い物はキツいのもたしか。しかもユーザーレビューを読むとCDの読み込みに不具合が発生するという情報もあり、それはわたしの持っているコンポでも同じような不具合は発生したことがあるので、商品が新品ではないということを合わせて、買うことが心配になってしまうのも確か。

 まあ、CDは聴こうと思えばパソコンでもDVDプレイヤーでも聴けるわけだから、そっちにまかせてもいい。あとはチューナーがなくなるという問題と、MDが聴けなくなるという問題。チューナーに関してはFMを聴きたくなるのは毎週土曜日の午前中だけのことなので、それはもうあきらめてしまっても仕方がないし、MDの再生装置そのものがすべて製造中止になってしまっている今、MDのこともすっぱりあきらめてしまう方がいいのだろう。しかしそうすると、昔アナログ盤からダビングした音源(もちろんすでに廃盤になってしまっているし、CD化されていないものばかり)が二度と聴けなくなってしまうわけか。がっくり。‥‥どこか、MDからCDへのダビングのサーヴィスをやってくれるところはないものかしらん。

 ‥‥そういうこともあって、きょうもきのうの続きで、まるで行動する意欲がわかない。ほんとうはあしたはまたしごとが休みなので、映画でも観に出かけてもいいのだけれども、動こうという気になれない。部屋で映画を観る気にもなれず、本を読んでいてもすぐに集中出来なくなってしまう。いい状態ではない。「もう寝てしまおう」と、午後からはまた昼寝モードに突入。暗くなるまで寝てしまった。

 晩ご飯にはまだカレーが残っているのだけれども、きょうの午前中に白菜を買って来てあるので、久々に中華丼をつくってみる。肉は冷凍庫にレバーがかなり残っていたので、「どんなものだろう」と、レバーを使ってみた。解凍して水洗いしてから調理したのだけれども、水洗いしたときに味が抜けてしまったようで、まるで味がしなかった。それにもう少し「具」をいろいろ入れるべきだったろうし、失敗。

 そのあとは図書館から借りているピーター・バラカンの「ラジオのこちら側で」を読み、昼寝のおかげで目も冴えていたので、読み終えてしまった。本の中にちょうど、FM放送のインターネットでのストリーム配信のことが紹介されていた。検索してみるとすぐに見つかり、つまりはチューナーがなくてもFMが聴けることがわかった。収穫である。ついでに普段聴くことのないiTunes を起動させ、オールディーズを聴きながらそのまま寝てしまった。

 


 

[]「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン:著 「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン:著を含むブックマーク

 ピーター・バラカン氏のことを知ったのは、その昔のテレビ番組「ポッパーズMTV」によってのことだった。同じ時期に小林克也氏が司会する「ベストヒットUSA」という番組があり、洋楽のプロモーションヴィデオが活気を持ちはじめた時期だったけれども、ヒット曲中心の「ベストヒットUSA」に比べ、「ポッパーズMTV」で取り上げられるアーティストはわたし好みのオルタナティヴなアーティストが多かった。それでわたしは「ピーター・バラカンとは趣味が合う」と思ったものだったし(わたしと彼とは学年でいえば同じ学年であった)、それ以降も何かと彼の番組(例えば「CBSドキュメント」など)には注目していた。現在形でいえば、そのオーディオコンポがおかしくなってしまうまではずっと、土曜の朝のFM「ウイークエンド・サンシャイン」を聴き続けていたし(ちょうどしごとに出ていて聴けないので、MDに留守録していた)、リクエストを出して取り上げていただいたことも二回ほどある。

 そういうバラカン氏の、ラジオとの、というか音楽との関わりを綴られたのがこの本。日本国内で「外人」であるという苦労は多かったことだろうと思うけれども、この本を読んだ感じでは、「外人」であるということを利点として、けっこう順調な道を歩まれて来られたような印象も受ける。そんな中で彼のフェイヴァリット音楽のことがかなりのスペースで書かれているのだけれども、わたしが思っていた以上に、いわゆるワールド・ミュージックに傾倒されていることがわかり、そのことは彼の番組の愛聴者としてはちょっと意外だった。というか、わたしの耳はそういう彼の本来の嗜好の部分には耳をふさいでいたのかもしれない。「ワールド・ミュージック、そういうのがあるんだよね」というぐらいの気もちで、あまり夢中になっては聴いていなかったわたしである。

 この本は後半になって「ラジオ」というものについて、まさに「ラジオの向こう側」からのオピニオンが強く全面に押し出されてくる。インターネット全盛の時代でのラジオの役割、世界の中での現在の日本のあり方の問題点(音楽著作権の問題など)が書かれる。ちょっと面白いことが書かれていたので、引用しておきます。

 マス・メディアの受け手自身が成熟するのには、時間がかかるということでしょう。資本主義の社会では当たり前の事実ですが、視聴者、つまり消費者がお金を出さなければ、受けられるサービスの選択肢が増えないことに、まだ気付いていない人が多いようです。

 ‥‥これはたしかに当然のことではあるだろうけれども、どうもこのあたりの論旨、この本を上梓するための方便のように読んでしまうわたしはおかしいだろうか?
 インターネットが普及し続ける現在、受け手であるわたしなど(つまりは消費者)は、お金を出さないでもどんどん受けられるサービスの選択肢は増えていると思うし、このあたりのわたしのモチベーションは「いかに金を出さないで選択肢を拡張出来るか」ということにほかならない。たとえばCDを買わないでも、YouTube で検索すればたいていの楽曲は見つかるし、フル・アルバムで聴けるケースにもあふれている。このことは映画を観ようと思っても同じことがいえる(違法アップロードのものを観てしまうこともあるだろうけれども)。ラジオだってチューナーがなくっても聴けることがさっきわかったばかりである。わたしは貧乏人だということもあるけれども、繰り返すけれども「いかに金を出さないで選択肢を拡張出来るか」ということこそ、わたしの至上命題ではある。間違っているだろうか。

 巻末に掲載された、「ピーター・バラカンが選ぶ 時代を動かしたプロテスト・ソング50曲(2005年)」のリストは興味深く見た。いくつかの曲をYouTube で聴いてみたりした。



 

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■ 2015-01-12(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 連休の二日目。最近はそんなにハードなスケジュールは組んでいないつもりなのだけれども、きょうはなんだか疲れが出てしまったというか、ぐったりとしている。部屋で録画していた映画を観ていても眠くなってしまい、また長い昼寝をしてしまう。こういうクセはなんとかしたいものだと思う。

 それでもきのう観たゴダールはやはりインパクトがあり、昨夜寝る時だとかきょうの昼だとか、あれこれと考えてしまったりする。それで夜になってきのう観たワンシーンでもまた観たくなり、YouTube で検索してみたりすると、「女は女である」がフルでアップされているのを見つけたりして、英語字幕がついていることもあり、途中まで観てしまった。全部観てしまってもよかったんだけれども、それにはちょっと夜も遅くなり、また眠くなってしまったのだった。あした、あらためて観なおしてみたいと思っている。

 寝る前はベッドの中でピーター・バラカンの「ラジオのこちら側で」からを読み進める。もっとわたしの音楽の趣味とかさなる人かと思っていたのだけれども、そういうわけでもないみたいだった。

 ネットをみていると、先日のフランスでのテロの話題があちこちであがっている。標的にされた出版社の風刺漫画も見たのだけれども、正直なところを書けば、わたしには気もち悪いものだった。好きではない。でもでもそれでも、今回のテロの標的にされた理由は宗教的なものなわけだろう。「あんたがたの絵はグロテスクだから抹殺してやる」なんて理由があるわけがない。でも、たとえば国家体制であるとか、宗教であるとか、個人のアイデンティティーを抑圧してくるモノというのはあるわけで、そういう存在への批判、諷刺が出来ない社会というものを、健全な社会ということは出来ないだろう。

 ちょうどこの日本でも、年末のサザンオールスターズのライヴに関して、また彼らの紅白でのパフォーマンスに関しての批判が相次いでいるようで、そういう抗議デモ(?)も行なわれたらしい。さっきその写真を見たのだけれども、参加者は「反日ヘイトを反省せよ」と書かれたカードを持っていたりする。
 これはまるっきし見当はずれなのであって、もしも自分が自分の生まれて育った国を愛するのなら、その国を恐ろしい方向へ導こうとするような権力には「ノー!」ということこそが、こういってよければ愛国なんだと思う。
 「ヘイト」というのは、そういう権力や体制、宗教などではなく、ある国籍を持つ種族や民族、人種を攻撃するものであり、その属性を有しているというだけで批判してしまう状態であり、つまりはアパルトヘイトであり、アンティセミティズム(反ユダヤ主義)である。そのことと体制批判とをいっしょくたに出来るなどということは、あり得ない。この「反日ヘイト」という原理と、フランスでのテロには通底するところがあるだろう。

 わたしたちが思う以上に、このテロからヨーロッパの人々が受けたショックは大きいらしい。それはこの日のパリでの集会にもあらわれているだろうけれども、ヨーロッパ諸国というのは過去(有史以来の長い期間)にキリスト教の原理のもとに抑圧され、実に多くの人命も失われて来たわけで、その犠牲の上にこんにちの民主主義を築いて来た由来があるのだから、ここでふたたび宗教による処刑、もしくはジェノサイドが行なわれたということへの恐れは大きいだろう。このあたり、わたしのような日本人には読み取り切れないところもあると思う。しかしながらそのことがイスラム教というものへの否定へと到るのではなく、とにかくは(理想論として)共存出来る道をみつけてほしいものである。それはわたしの能力ではたどり着けない地点ではあるけれども。



 

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■ 2015-01-11(Sun)

 きょうとあしたは連休。それできょうは渋谷のイメージフォーラムへ、ゴダールの「アルファヴィル」を観に行くことにした。きょうは一般にも日曜日の休日なので映画館も混んでいるだろうし、映画の上映は二時からだけれども、ちょっと早く出て先に映画館で席を確保するか整理番号をゲットして、それからゆっくりと昼食をとろうと計画する。

 十時半の電車で家を出て、車中ではカフカの「城」を読むのだけれども、やはり途中で眠くなってしまい、車中で三十分ぐらいは寝ていたと思う。昨夜もたっぷり寝ているので寝不足ということはないと思うのだけれども、映画を観る前に寝ておくのもいいだろう。

 渋谷に到着して映画館を目指すのだけれども、かなり迷ってしまった。前にイメージフォーラムに来たのがほぼ半年前のことで、そのときはワン・ビンの「収容病棟」を観たのだったけれども、つまりは半年も経つとわたしの記憶というのはまだまだ曖昧なものだということだろうか。「収容病棟」はけっこう記憶に残っているけれども。

 途中ですっかり映画館への道がわからなくなり、ケータイで住所を調べ、ようやく映画館へ到着。整理番号のついたチケットを入手する。まだ映画の開映まで一時間以上あるのだけれども、整理番号は36番と、けっこう入場者は多くなりそう。やはり早めに来ておいてよかった。しかしこの映画館、シニア料金が1200円と、ロードショー映画館よりも高いではないか。一般料金が1500円なのに、あまり差がない(ふつう、一般料金は1800円でシニアは1100円)。

 チケットを手に入れたので、あとはゆっくりと食事をすればいい。ちょうど来た道に中華の店はあったのだけれども、あまり目立たないひなびた店づくりだったので、もうちょっと「やってます」という自己主張をしている店を探したくなる。少しあたりを歩いてみたのだけれどもそういう店は見つからず、けっきょくはその中華の店に入り、五目焼きそばを注文した。
 ‥‥この店の「五目焼きそば」は最悪、だった。まずは「五目」入ってない。ほとんどがキャベツだけで、申し訳程度にニンジン、そして時々肉のかけらが入っているだけ。これをつまりはオイスターソースで炒めただけのもので、これはキッチンの余り物だけで簡単に出来るメニューで、原価は何十円というものだろうし、とにかくこんな味付けの料理を店で食べさせられるのははじめて。わたしだって自宅でこんなメニューはつくらない。これはこれまでに食べたあれこれの料理の中でも最悪の一品だったかもしれない。
 食べ終わったあとも口の中にキャベツの芯とオイスターソースがいっしょになったような変な味がひろがり、口直しが欲しくなる。普段は食べ終わったあとに店の人に「ごちそうさま」とはいうのだけれども、今日はとてもそんな言葉を口にする気にはならず、無言で勘定をすませて外に出た。

 ちょうど映画館の開場時間も近いので映画館へ行くと、外に開場待ちの人たちがあふれていた。思ったよりも若い人が多く、名画座で懐かしの名画が再上映されるという空気ではない。そう、ゴダールはもうじきに新作(3Dなのだ)も公開されるわけだし。

 開場されて、通路際のそれなりにわたし好みの席に座ることが出来、ゆったりと鑑賞。ところが、あれだけ睡眠をとっていたというのに、観ている途中でまぶたが重たくなって来てしまうのである。こういうのがゴダール映画の持つ魔力だろうか。必死に眠気をこらえ、なんとか睡眠に取り憑かれることはなく観終わったと思う。

 終映時で四時。これから下北沢に行って「G」を訪問することも考えたし、時間的にもちょうどいいのだけれども、なんだかそれよりも先日からはまっている「日高屋でのひとり飲み」をまたやってみたくって、駅への道をちょっと変えると日高屋もあったので、やっぱり立ち寄ってしまう。先日と同じに熱燗とイカ揚げ、それとポテトフライを頼み、きょうはそれプラス餃子(3個バージョン)を注文する。はっきりいって餃子はあまりおいしくないのだけれども、イカ揚げとポテトフライはナイス。アルコールの量も(味はともかくとして)ちょうどいいし、夕食の代わりになるぐらいに満腹にもなる。今年はこれからも「ひとり日高屋」にはまるのではないだろうか。寂しいなあ。

 休日でそんなに混んではいない電車で帰路に着き、八時前には帰宅した。やはりもう晩ご飯を食べようという腹具合でもなく、今日観た「アルファヴィル」の内容を反芻しながらネットを閲覧したりして、やはり「アルファヴィル」の影響なのか、なかなかに眠る気になれなかった。観て良かった。


 

[]「アルファヴィル」(1965) ジャン=リュック・ゴダール:監督 「アルファヴィル」(1965)   ジャン=リュック・ゴダール:監督を含むブックマーク

 この作品、日本での最初の公開は1970年のことだというけれども、おそらくは日劇文化での公開を、わたしは体験している。多分、高校を卒業してすぐの時期なんだろう。で、まずはそれ以来の再見だろうと思うのだけれども、想像以上にいろんなショットを記憶していたのにおどろいた(ちなみに、わたしのゴダール初体験は1968年公開の「男性・女性」。ものすごく影響を受けた作品だった)。
 あの側頭葉てんかんのせいで近年の記憶はずいぶんと失せてしまっていて、例えば先日録画で観た「ゼロ・グラビティ」なんか、その録画を観ていても、ホンの一年前にこの作品を映画館で観ていたことなどこれっぽっちも思い出せなかったというのに、45年も前のことをかなりしっかりと記憶しているわけだ。面白がっている場合ではないけれども、やはり興味深いことだとは思う。

 さて、この「アルファヴィル」、ある面では(ゴダールには珍しく)はっきりしたストーリーがあり、そのストーリーは「単純」ということも出来るだろう。しかしその背面では、ゴダールのアンナ・カリーナへの想いの秘められた作品だったわけだ、という感想も生まれてくる。ラストについに「あなたを・愛して・います」とアンナ・カリーナにいわせるのはゴダールの愛だろうし、さらにそのずっと前に、ホテルで殴り倒されたレミー・コーション(エディ・コンスタンティーヌ)を見て涙を流すアンナがいる。ここにすでに、アンナ・カリーナの愛が描かれている。わたしの心は、このシーンとラストシーンとのあいだで、行ったり来たりを繰り返してしまうのである。

 今回は観ていても、映画技法的な冒険もたくさん盛り込まれた作品だということがはっきりとわかった。特に冒頭の、レミー・コーションがホテルに到着してからエレヴェーターに乗り、部屋までたどり着くところまでが長回しのワンカットで撮られているわけだけれども、この、エレヴェーターのところでの処理がわからない。ガラス張りのエレヴェーターだったということを活かしての撮影とはわかるのだけれども、どうやったらカメラはレミーの横から、半身を捉えたまま上昇出来るんだろう。横にもうひとつエレヴェーターがあって連動させたのだろうか。

 ゴダールは当時、「好きな監督を三人あげて下さい」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ!」と答えたという伝説も残っているのだけれども、おそらくはこの「アルファヴィル」なんか、いろいろなところにそういう溝口監督の影響を読み取りやすいところもあるのではないだろうか。

 とにかくは思っていた以上にインスパイアされた作品で、観に来てよかったと思う。観たあと帰宅してからも、けっこうこの作品のことを考えていたものだ。そう、アンナ・カリーナの、逆光で撮られた美しいポートレイトがわたしの記憶に残っていたのだけれども、それはこの作品の中でのショットだった。

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■ 2015-01-10(Sat)

 ニェネントはわたしに抱かれるのをいやがる。抱き上げてしばらくはおとなしくしていないこともないけれども、そのうちにもがいて逃げようとする。よそのネコはよく飼い主のひざに乗って来たりするようだし、肩にのぼったりしているところもよく見る。そういうのに比べると、ニェネントにはわたしとのスキンシップというものがあまりない。しかしそれでも、わたしがベッドで寝るときにはニェネントもベッドに飛び乗って来て、自分もわたしの足元のあたりで丸くなって寝るわけではあるし、わたしが室内で歩いているとわたしのうしろにかくれていて、不意にうしろから足元に駆けてきてわたしをびっくりさせて遊んだりもする。わたしが(ちょうど今のように)和室のパソコンに向かっているときには、わたしのすぐそばでしゃがんでいるし、リヴィングでテレビを見ているときには、わたしの足元のところに来ている。けっこうわたしのそばに居るのが好きなようだ。

 そばには居たいけれどもスキンシップは嫌うという、ちょっとしたツンデレぶりなんだけれども、これはニェネントが生まれたときにその世話をお母さんネコのミイにまかせ、わたしはミイの育児のじゃまをしないように、出来るだけ仔ネコたち(さいしょは五匹いた)に触れないようにしていたせいだろう。あのころにもっともっと仔ネコにかまってやっていれば、もっとわたしにベタベタのニェネントになっていたのではないのかと思う。しかし、今のようなツンデレのニェネントも、そこにこそ彼女のキャラクターもあるようで、そんな彼女が好きではある。

 きょうはしごとのあとに内科医へ通院する。このところ一日に三度計っている血圧が以前より高くなっている。それで先日薬を替えたばかりなのだけれども、それでもまだ高めの日がある。医師は寒さのせいかもしれないといい、もう少し様子をみましょうということ。

 昼食にはきょねんの夏から残っているそばをいちどに二人前つくって食べた。さすがに二人前は量が多いけど、たまに食べるかけそばはけっこういい味。
 昼からは昨夜録画をしておいた「太陽を盗んだ男」を観る。「追悼・菅原文太」として放映されたもので、観終わったら録画を消去しようと思っていたのだけれども、あまりに面白く、観終わったあとにまた観たくなってしまったので、消去するのはやめた。
 夕食はまたまたカレーで、いいかげんに早く、また手製中華丼をやってみたくなってしまう。しかしカレーはまだ二食分ぐらい残っている。

 渋谷で「華氏451」と「アルファヴィル」が上映されているのを観に行きたいのだけれども、その映画館のサイトをみると、どうも「二本立て興行」というのではなく、それぞれ別料金入れ替え制というような雰囲気になっている。しかしこの二本を紹介するページではどう見ても二本立てでしょうが、という雰囲気。わからないので映画館にちょくせつ電話してみたのだけれども、やはり「別料金入れ替え制」だということがわかった。わずか十秒の電話。
 それならば二本とも観る余裕もないので、「アルファヴィル」だけを観よう、ということにして、あした出かけることにした。


 

[]「太陽を盗んだ男」(1979) 長谷川和彦:監督 「太陽を盗んだ男」(1979)   長谷川和彦:監督を含むブックマーク

 ようやく初見。‥‥日本にこんなにエネルギーにあふれ、しかも遊び心満載の映画が存在していたことに驚き。しかもそのエネルギーと遊び心が見事に調和しているというか、ただただ見入ってしまった。しかも国会前の撮影だとか、実際のメーデーのデモでの撮影など、よくそんなところで撮影が出来たものだ、やはりこの頃は規制も緩かったのだろうか、などと思いながら観ていたのだけれども、あとで調べるとやっぱりこれはゲリラ的に撮られたもので、なんと「逮捕され要員」も用意されていたらしい。その要員の中には、助監督でクレジットされている相米慎二も含まれていたらしい。

 原発製造の過程をじっくり見せるプロットも活きていて、完成してのボブ・マーレイにはわたしも踊りたくなりそう。あとはカルメン・マキの「私は風」の一節がなつかしく、「この曲は何だったか? たしかカルメン・マキだったな」とか思い出されるのだった。

 被曝しているジュリー(沢田研二)に池上季実子が「生き続けてね」と語るシーンからも、3.11以後のわたしたちへのメッセージも読み取れると思ったのだが、ここまでの展開がかなりリアルな描写だったのに対し、以降の「ジュリー対菅原文太」のシークエンス、俄然ファンタジー調になるというか、それまでに比べると「ありえない」展開にはなるのだけれども、これがまた「生き続けろ」というメッセージに呼応した映画的な表現ではないのかと思うのだった。

 長谷川和彦監督というのは映画以外での武勇伝のようなことばかり聞いていて、監督作品というのは観るのは初めて。「圧倒的」だなあと思い、彼のことを調べてみたりもしたのだけれども、何と、彼の監督作品というのは「青春の殺人者」とこの「太陽を盗んだ男」の二本だけ、だったのだ。「だった」というか、まだこれから新作を撮られてもいいんじゃないのかな。そういう「事件」が、あってもいいじゃないか。とにかくは、「傑作」だった。また観てみたい。



 

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■ 2015-01-09(Fri)

 しごとは休みだけれども、目覚めたのは七時ごろのことで、それほどに朝寝をしたわけでもない。もっとたっぷりと朝寝をしてみたいものである。

 きのう出かけてそれなりに買い物をしたこともあり、また財布の中身が乏しくなって来た。どう考えてもこのごろは浪費気味で、通帳をみても去年の十月以降は急速に貯金が目減りしているのがわかる。それは週に二回も東京などへ出かけていればあたりまえのことだし、ましてや以前ならば出来るだけやらないようにしていた外食もどんどん行っているし、居酒屋までひとりででも行ったりする始末だ。おまけにこのところは喫煙量も増えてしまっている。
 「貯金」などといってもほんとうにタカが知れた額だし、このペースで支出を続けていれば、夏を迎えるまえに「スカンピン」になってしまうだろう。少しは出かけるのを控えるようにしなければならない。「身の程を知れ」ということ。

 きょうは特に買い物の必要なものもないし、いちにちじゅう、部屋から一歩も外に出ないで過ごした。パソコンにかじりついて、パソコン上で映画を二本観た。プチ引きこもり。こういう生活をしていれば浪費の心配はないだろう。しかし、あした出勤するとあさってとしあさっては連休の予定だし、その次の日に出勤したらまた翌日は非番の休みになっている。こういうときはお出かけしたくなるものである。ゴダールの「アルファヴィル」が再映されているのを観たいし、「百円の恋」も観ておきたい。こうやって、考えたことはみんなご破算になっていく。

 夕方になってテレビをみていると、ニェネントがテレビ台の上に駆け上り、しきりに画面にちょっかいをかけ始めた。むかしは時々こういうことをやっていたけれども、最近ではめずらしいこと。つまりは天気予報の番組で、予報官の持っている先の丸くなった棒、それを予報官が振り動かすのを追いかけているわけで、「二次元ねこじゃらし」なのである。まだニェネントにも子どもっぽいところが残っているというのか、それともネコというものはどんなに成長してもこういうものには反応してしまうのか。どっちだろう。

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[]「天空の城ラピュタ」(1986) 宮崎駿:監督 「天空の城ラピュタ」(1986)   宮崎駿:監督を含むブックマーク

 宮崎駿の作品で明確な冒険譚というのでは、この「ラピュタ」がピカイチだろう。ドーラ一家の挿話などで珍しく笑えるシーンもあるし、何といっても宮崎駿作品では唯一無比の悪役、ムスカという強力なキャラクターも登場するわけだし、登場人物らが脇役にいたるまで皆けっこう魅力的。おばちゃん海賊のドーラなんか、最高だと思う。

 ストーリー展開もとにかく魅力的だし、映像的にも興味深い構図とかをいろいろ取り入れていて、そういう面でも飽きさせられない。宮崎駿の作品でこの「ラピュタ」がいちばん好きという声も多いようだけれども、わたしもその仲間に入れてもらいたい。

 この「ラピュタ」を含め、「ナウシカ」や「もののけ姫」を実写化リメイクしようとする動きがあるらしいけれども(つまりはハリウッドでだろう)、やはり観ていて「実写版で観てみたい」と思うということでもこの「ラピュタ」こそ、という気になるし、今のハリウッドの技術ならこのあたりはけっこう早いうちに実写化出来そうに思う。というか、「ナウシカ」や「もののけ姫」の独自の世界観というのは、リメイクということが難しそうに思えたりする。ちなみに、アメリカでの吹き替え版、シータをやっているのはアンナ・パキンで、ムスカはマーク・ハミルだったということ。

 ‥‥園丁ロボットに、泣かされてしまう(今思い出しても泣けてしまう)。


 

[]「もらとりあむタマ子」(2013) 山下敦弘:監督 「もらとりあむタマ子」(2013)   山下敦弘:監督を含むブックマーク

 きのう「超能力研究部の3人」を観て、「そもそも山下敦弘ってどんな作品を撮ってたんだっけ」とあれこれ検索していたら、中国のサイトでこの作品を見つけてしまい、尺も長くはなかったのでそのまま全部観てしまった。

 男やもめの父親が一人で切り盛りする山梨のスポーツ店に帰って来た娘(前田敦子)が主人公のタマ子で、彼女の、とにかくはてれてれとした行動を中心に、ほとんどが父と娘みたいな、秋・冬・春・夏の一年を追う、そういう展開。って、二十一世紀版、だるい小津安二郎?みたいな、というか。
 住まいになっているスポーツ店と、店とつながっている居間、キッチンというのがほとんどの舞台で、ここの撮影がすばらしくいい。チェックしてみるとこの前半の秋と冬のパートの撮影は芦澤明子で、これで思い出してみればきのう観た「超能力研究部の3人」でのスタジオのリハの部分の撮影は、やはり芦澤明子さんによるものと特定出来る。特に食卓を離れたところから固定して撮っていたカメラがゆっくりと前へ移動し、食卓にかぶさっていくショットの見事さ。

 そういう、とにかくは食事のシーンが山ほど挿入されていて、食卓は何度も何度も写され、つくられた惣菜は真上からのショットで撮影される。そういうところから生まれる生活のリズムのようなもの、リズムというにはあまりにぐうたらしたヒロイン像に、いつしか惹き込まれていく次第。その父親とのやり取りだけでなく、中盤からは近所の写真館の息子の中学一年生と、なんとなく奇妙な交流を持ってしまったりもするし、終盤では父の再婚話の相手の女性を探りにいったりもするヒロイン。

 自宅で観ていてもさいしょからクスクスと笑いながら観ているわけで、そのうちに爆笑!ということが何度も起きる。まあ微妙な笑いだけに、映画館で観たりして、客の中でわたしひとりだけが大笑いしてしまうような展開にならないでよかったというか。

 とにかくはきのうの「超能力研究部」ときょうの「もらとりあむ」で確認出来たのは、撮影の芦澤明子さんという方の技倆のすばらしさということ。山下敦弘監督については、まだまだネット上で彼の作品を観ることが出来るようなので、とにかくはもっと観てみたくなったということ。


 

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■ 2015-01-08(Thu)

 きょうは新年初めて映画館へ行く。映画館は自宅からのローカル線の終点駅にあるシネコンなので、時間も交通費もあまりかからない。上映開始は四時半からだけれども、家を出るのは四時でかまわないのだ。なんて近いんだろう。映画が終わるのが六時四十分らしいけれども、それから駅周辺で買い物をして帰っても、たいして遅くなるわけでもないだろう。どうせあしたはしごとも非番の休みだし、あまり遅くならないように帰る時間を気にしながら行動しなくていいのはうれしい。

 午前中はいつものようにこの日記を書いたり、ネットをあちこちみてまわったりしてすごし、昼食はきのうつくったカレー。午後からも時間があるので、録画した映画を一本観る時間も取れた。

 四時に近くなって家を出て、予定通りに四時半の回の映画を観る。ここの映画館にはときどき訪れているのだけれども、いつも客の数は圧倒的に少ない。わたしが客の少ない作品を選んでいるということもあるだろうけれども、きょうも館内に入るとさいしょは観客はわたしひとりきりだった。以前観客がわたしひとりということもあったので、「久しぶりに映画館独占かな」と思っていたのだけれども、開映間際に別の客が入ってこられ、独占の夢は断たれてしまった。

 映画が終わって、買い物に出発する。この駅の周辺には地元にないタイプの店がいろいろある。駅には駅ビルが併設されていてちょっと大きめの書店もあるし、こだわらなければ都心で買い物しなくてもここで充分に用は足りてしまうかもしれない。「ドン・キホーテ」もあるので、ここはときどきチェックして買い物をすることがある。駅の反対側には酒類の量販店「やまや」があり、この店には酒のほかにもあれこれと激安の食料品などが売られているので、たまにはチェックしてみたい店。ここで紅茶のパックの大きな箱がどこよりも安く売っているのはわかっているので、紅茶はいつもこの店で買う。紅茶のストックがもうなくなるので、きょうはこの店に寄って紅茶を買うのは予定していたこと。

 駅から少しだけ歩き、客もまばらなその店内に入り、紅茶を探す。前に来た時から店内の配置を変えてしまったようで、探すのにしばらくかかってしまう。ついでに店内の棚をみて歩くのだけれども、このところの調味料の必需品、オイスターソースの大きな瓶がものすごく安い価格で売られているのを見つけた。量的に比べてみて、自宅近くのドラッグストアで買うよりも十分の一ぐらいの価格になるのではないだろうか。あまりに安いので「ヒドい味」なんじゃないかとか心配になってしまうのだけれども、とにかくは買ってみることにした。

 あと、去年に東京に行ったときにその部屋に泊めて下さったAさんへのお礼のことをずっと考えていて、やはりアルコールがいいだろうとは思っていたのを、この店で買うことにした。Aさんには何がいいのかよくわからないのだけれども、パッケージのカッコいいウィスキーを選んでみた。価格はその去年のお礼としては安すぎる気もするのだけれども、わたしにはそういうことの適切な選択というものがよくわからない。とにかくは選んだウィスキーをカウンターで包装してもらった。

 そのウィスキーと紅茶パック、それとオイスターソースとで手荷物がいっぱいになってしまったので、さっさと帰宅することにする。駅に行き電車に乗り、ちょうど八時には帰宅出来た。

 カレーのつくり置きはあるのだけれども、米をこれから炊かなければならないのがめんどうで、ちょうどスーパーで弁当類が半額になっている時間だろうと思い、スーパーに行くことにした。
 行ってみるとすでにほとんどの弁当類は売り切れてしまっていて、かろうじて中華弁当がひとつ残っていたのを買う。あと、にぎり寿司のパックも買ってしまった。帰宅して寿司を食べ、ネタのひとつをニェネントにあげたりする。ひとつだけでごめん。あとは弁当を食べ、テレビなどをだらだらと見てしまい、いつもよりも遅い時間にベッドに入った。あしたは休みなので朝寝が出来る。


 

[]「バグダッドの盗賊」(1940) ルドウィッヒ・ベルガー、マイケル・パウエル:監督 「バグダッドの盗賊」(1940)   ルドウィッヒ・ベルガー、マイケル・パウエル:監督を含むブックマーク

 実はこの作品、小さいころにテレビで観て、けっこうよく記憶している。おそらくは小学校の高学年のころに観たのだと思う。この作品を観るのはそれ以来のことになるのだけれども、実はカラー作品だったということにびっくりしてしまった。つまり昔観たときは当然モノクロのテレビによってのことで、映像としても全部モノクロでの記憶になってしまっていた。

 この作品にはサブーという名のインド系の少年が出演しているのだけれども、その「サブー」という名も、彼の顔もかなりはっきりと記憶に残っていた。この映画の中で「船乗りになりたいのだけど‥‥」という歌も唄うのだけれども、そのメロディもわたしは記憶していた。
 サブーはこの作品のほかにも「ジャングル・ブック」という作品で狼少年を演じていたはずで、その「ジャングル・ブック」も、何かの機会に観たことがあったような気もする。

 この「バグダッドの盗賊」も「ジャングル・ブック」も、イギリスのプロデューサー(監督でもあった)、アレクサンダー・コルダの手によるもの。アレクサンダー・コルダはあの「第三の男」のプロデューサーでもあったということ。監督のマイケル・パウエルはわたしもその名は知っている。「赤い靴」や「黒水仙」などを撮った名監督である。

 この作品、「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」からの自由な翻案になるオリジナル・ストーリーのようだけれども、悪役のジャファー、ランプの精(この作品では「ランプ」ではないのだが)のジニーなど、アラビアンナイトではおなじみのキャラクターも登場する。まあ、恋あり冒険あり活劇ありの、楽しい作品なのではある。

 まずはいろいろの特殊撮影が見どころのひとつなんだけれども、これがハリーハウゼンばりのコマ撮り撮影ではなく、すべてが実物をもとにした合成画面で処理しているのが面白い。サブーがジニーの助けを借りて「世界の屋根」の寺院にある仏像の額にある「千里眼の石」を盗むシーンがひとつのクライマックスなんだけれども、その巨大な仏像の内部にはこれまた巨大な蜘蛛が巣を張っていたりする。これらすべて実写でこなしているというのは、かなりの大きさのセットを組んでいるわけだろう。ジニーの足がサブーを踏みつぶそうとするシーンもあるけれども、その巨大な足も現物をつくっているようだ。

 さて、観ていて思うのは、とにかくは何という的確なコマ割り、カット割りなんだろうということで、「こういうシーンの展開はこういうシーンに引き継がれるはずだ」ということがみごとに実践されている感じがする。つまりはストーリーテリングのみごとさでもあるし、その顔が写されるだけでその人物の役柄までわかってしまうようなキャスティングもすばらしい。とにかく冒頭に、海に浮かぶ船からその船上の男の顔へとカットは進行していくのだけれども、その男の顔を見ると、何の説明もなくっても「こいつは悪いヤツだ」とわかってしまう。楽しい。

 ジニーはサブーの三つの願いを叶えてやると自由になり、大声で笑いながら「自由だ! 自由だ!」と叫びながら飛び去って行く。このジニーのキャラクターが好きだ。


 

[]「超能力研究部の3人」山下敦弘:監督 「超能力研究部の3人」山下敦弘:監督を含むブックマーク

 「乃木坂46」というアイドルグループについてまるで知ることもなく、山下敦弘監督の作品についても何一つ思い出せるわけでもなく、ただ「わたしは山下敦弘監督の作品はけっこう観ていて、好きな監督の一人のはずだ」というだけで観に来た作品。

 「超能力研究部の3人」という映画と、その映画撮影現場のドキュメンタリーとを合体させた作品というわけだけれども、けっこう早い段階でそのドキュメンタリーが「フェイク」だということはバレバレ。もちろん、そのことはわかるように撮っているわけである。

 冒頭からしばらくはかなり面白くって、たとえばひとつのシーンでも、暗幕とむき出しのベニヤを張られただけのスタジオに小道具を置いてのリハーサル、それと撮影現場でのテイクとを連続してみせたりするあたりや、そのキャストとスタッフとのやり取りから、映画というものの「虚構性」みたいなものが見えてくる思いがする。その「虚構性」はもちろんフェイクドキュメンタリーの部分に引き継がれるのだろうけれども、たとえば「乃木坂46」の事務所の人間によるチェックとスタッフの方針との対立など、あまりにステレオタイプというか、「そんなクサいことで見せるのか」と、ちょっとばかし鼻白んでしまうのだった。というか、このあたりは「乃木坂46」のファンのためへのサーヴィスなんだろうな。

 ただ、ラストの、枯れ草の中に横たわる主演の三人を真上から捉えたショットからのエンディングには、「いい映画を観た」という気もちにさせられる、何らかの高揚感があったのはたしかなことで、このあたりが山下敦弘監督の力量なんだろう。

 撮影スタッフに芦澤明子さんの名前が読み取れ、わたしはこの人の撮影(主に黒沢清作品で)に惚れていた記憶があるのだけれども、ラストのクレジットではスタジオ部分での撮影だったということで、ああ、それならあの印象的なショットが芦澤明子さんだったんじゃないかな、などと思ったりした。

 不満足だった点もあるけれども、「映画とは」という問いかけを読み取ってもいい作品ではなかっただろうか。関係ないけれども、その「乃木坂46」の撮影現場に貼り付いている事務所の女性スタッフのいちいちの反応が面白くって、笑わせていただいた。特に「傘」。


 

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■ 2015-01-07(Wed)

 自宅の本棚にいったいどんな本が眠っているのか、そのあたりの記憶もまるで失せてしまっている。特に文庫本は棚の前後二段に収納していたりして、背後にある本は外からは目に触れないし、のぞいてみると「こんな本も持っていたのか」と、びっくりすることもある。「持っている」イコール「すべて読んでいる」ということではないにしても、多くの本をいちど読んだことがあると考えてもいいんだろう。それらの記憶はすべて消えてしまったわけだ。まあそのことをいつまでもぐつぐつと悔やんでいてもしょうがないのだけれども、まずは「もういちど読み直そう」という努力もひつようだろう。図書館から借りてばかりだと、いつまでもこれらの本を読み出すことができない。

 例えば先日観た「ツィゴイネルワイゼン」の原案のひとつになっているはずの内田百里痢嵬重咫廚覆鼻読んでみようと先日図書館で探したりしたのだけれども、ちゃんと持っている文庫本の中に収録されていたりする。無駄なことはやらないようにしなければならないし、いずれマジメに、書棚の整理をしなくてはいけない。そうそう、わけがわからなくなっているというのでは、CDについても同じこと。このあたりも目を通しておかなくっては。

 きょうは午前中からパソコンで「もののけ姫」を観たりして、考えてみたら順番としては先に「天空の城ラピュタ」を観ておきたかったなどと思ったりしたのだが、まあ宮崎駿のアニメはネットでいつでも好きなときに観ることができるし、「ラピュタ」はまた今度にしよう。

 午後からきのう借りたカフカの「城」を読み進めようと、ベッドに入ってページをくくりはじめたのだけれども、ベッドに入るということは眠る体制万全ということで、すぐに眠くなって寝てしまう。それで目覚めたらもう七時に近い時刻。こういうパターンが多すぎる気がする。

 夕食には保温してあるご飯はあるので、あとはおかずをどうにかするだけ。先日カレーをつくったばかりなのだけれども、冷蔵庫の中身の整理もかねて、またカレーをつくることにした。今度はルーをひと箱全部使い、八皿分。これでもう当分はカレー三昧になるのだけれども、いざつくったカレーを食べてみると、なんだか先日ハマっていた中華丼とかを、またつくって食べたくなってしまうのだった。安上がりという点でも、おそらくは中華丼の方がずっと安くつくことだろう。このところ出費が増えてしまっているし、このカレーがなくなったら次はしばらく中華丼ですませるようにしようか。

 昼寝をたっぷりしたものでふだんなら寝る時間でもまるで眠くならず、テレビをみたりするのだけれども、この夜は新たに発表された谷崎潤一郎と松子夫人との書簡に関する番組をやっていて、戦中の「細雪」執筆の背後に迫るような内容。ちょっと惹き込まれて見てしまい、「細雪」が読みたくなってしまった。たしか過去にいちど読んでいるはずだけれども。

 そのあとは「城」を多少読み進め、「ラジオのこちら側で」も読み進めた。


 

[]「もののけ姫」(1997) 宮崎駿:脚本・監督 「もののけ姫」(1997)   宮崎駿:脚本・監督を含むブックマーク

 登場人物の構成にはどこか「ナウシカ」に通じるようなところもあり、そのメッセージもまた「ナウシカ」に共通するものがあるだろう。人間世界と自然世界(森)との対立に和解はあるのかという問いに、この作品は明快な答えを提出しているわけではないし、「ナウシカ」のように、ちょっとしたハッピーエンディングで終わるという雰囲気でもない。このあたり、「ナウシカ」でも答えは出されはしないのだけれども、答えへのヒントというものはまだ感じ取れた気がする。そういうところで、この「もののけ姫」にはちょっとしたペシミズムを感じ取ってしまう。

 劇中に「ジコ坊」という打算づくめのような人物が登場し、ラストでは「バカには勝てん」などというセリフを吐くわけだけれども、わたしの考えでは、世界の和解のためにはこのような策略家の存在を認めないこと、というあたりに落ち着くのだけれども、どうなんだろうか。

 エボシ御前という、「ナウシカ」でいえばちょうどクシャナ殿下に相当するような人物が登場し、その声を田中裕子が担当している。しかし戦闘場面での田中裕子の声はかなり迫力不足の感をまぬがれず、ここはクシャナ殿下の声の方に軍配が上がる気がした。



 

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■ 2015-01-06(Tue)

 きょうは図書館へ行き、借りていた本とDVDを返却。次に何を借りようかと、館内をぶらぶらとする。DVDはデヴィッド・フィンチャー監督作品でもうひとつ残っている「ソーシャル・ネットワーク」を借りたいのだけれども、これがいつも貸出中になっている。それで、先日(去年)映画館で観た「複製された男」を撮ったドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の、「灼熱の魂」というのを借りてみた。どんな映画なのか、まるで知らない。本は、新書ぐらいの本が読みやすいな、などと思って新書の棚をみていると、ピーター・バラカン氏の「ラジオのこちら側で」というのが目にとまったので、これを借りることにした。二年前の本みたい。

 あとはやはり何か小説を読みたいと思うのだけれども、読みたい本はあれこれとあって、何にしたらいいかわからない。ちょうど先日、「『世界文学ベスト100冊』は、どの1冊から読み始めればいいか」というサイトを読んだばかりだったので、その記事で印象に残っている「高慢と偏見」でも読もうか、という気分にもなってしまう。読んだサイトでは五種類の翻訳のかんたんな読み比べも載っていて、「そうか、五種類も出ているのか」と思ったものだけれども、今の気分で考えてみて、老若男女だいたい誰でもが楽しめて、しかもそれなりに読みごたえのある小説ということではやはり、この「高慢と偏見」がトップクラスなんじゃないだろうか。わたしも昔読んでいるはずで、何だっけ、この小説の有名な書き出し、「独身で金持ちならば、あとはもう嫁さんを待っているだけというのが、世間一般の真理ではないだろうか」も、このように記憶していたりするのである(うろ憶えだけど、だいたい合ってるんじゃない?)。「じゃあそれを借りようか」とも思ったんだけれども、読んだサイトの中で誰の翻訳がいちばんなのかとか、とんと忘れてしまっているし、何といっても自宅に帰ればこの本は持っているかもしれないのだ(「エマ」はまちがいなく持っている)。そういうわけで、借りるにしても次回にしよう、ということにした。やはり考えれば今はカフカを通読しているさいちゅうなわけで、小説で残っている「城」こそを借りることにした。はたして、貸出期間の二週間で読み切れるだろうか?

 今年になってまだ映画館で映画を観ていないのだけれども、観たいのは「百円の恋」とか「超能力研究部の3人」とかの邦画。あと、「ゴーン・ガール」ももういちど観てみたいし、「華氏451」と「アルファヴィル」の二本立てというのもある。来月になるとフレデリック・ワイズマンの特集上映も始まってしまう。また連日のように東京へ行って映画を観てばかり、ということになりそう。きょうはフレデリック・ワイズマン特集上映の上映スケジュールをみて、どれとどれを観ようかとか計画を練ったりする。上映時間六時間の問題作「臨死」は二回上映されるけれども、どちらも終映時にはもう帰って来れなくなってるので断念、だな。

 午後は去年録画してあったミシェル・ゴンドリーの作品を観て過ごし、ちょっと遅くなった夕食はカレーの残り。テレビをみているとタモリの「ブラタモリ」がはじまったところだったけれども、みていると寝不足になると思ってあきらめ、ベッドに入る。


 

[]「僕らのミライへ逆回転」(2008) ミシェル・ゴンドリー:監督 「僕らのミライへ逆回転」(2008)   ミシェル・ゴンドリー:監督を含むブックマーク

 すっごい「おとなり」感の強い映画というか、「ホラ、映画なんて誰でもちゃっちゃっちゃってつくれちゃいますよ」てな展開から、観ていて「じゃあオレ(あたし)もつくってみよう」という人が出て来れば楽しい。

 しかし、その作品中での手づくり映画のチープさに合わせるためなのか、照明とかものすごくラフな感じで、絵がきたなく感じてしまう。それに、わたしにはリメイクされるハリウッド映画自体の記憶があんまり残っていないので、観ていても「え? 何のこと?」みたいな感覚になってしまう(「2001年宇宙の旅」だけはわかった)。そして何よりも、わたしはジャック・ブラックが大っ嫌いだったのだ(ゴメンなさい!)。それなもんでよけいに画面はきたなく見えてしまう。ただ、ラストにみんなでつくったファッツ・ウォーラーの伝記映画、これはなんだか面白そうだった。

 ミシェル・ゴンドリーという監督さんのことは、この一作ではわからない。まだいくつか録画してあるので、もう少し観てみよう。

 

 

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■ 2015-01-05(Mon)

 ケータイに仕込まれているアラームなどなくっても、目覚めなければならないと認識している時間には自然に目が覚めるものである。今朝もしごとがあるわけだからと思っていて、アラームをセットしてある四時よりも少し早い時間に目が覚めてしまう。起き出して「さあ、そろそろアラームが鳴る時間だ」と思って待ち構えたのだけれども、そのアラームがいっこうに鳴らない。「おかしいなあ」とチェックしてみると、きょうはセットされていないのだった。「どういうことだろう」と非番の休日などを書き込んであるカレンダーを見てみると、この日は非番の休みということになっていた。自分の感覚では正月は元旦から五日まではしごとで、六日にようやく休みになるという気持ちだったのだけれども、「五日まではしごと」ではなく、「五日は休み」ということだったみたいだ。「な〜んだ」と思ってまたベッドにもぐり込んでひと眠りするのだけれども、きょうが休みなのだったらきのうはそのつもりで行動しておけばよかったわけである。わたしのしごとは早朝だけなので、その当日よりも休みの前日の方が過ごし方がちがってくる。つまり、のんびりと出来るわけである。それがせっかくの休みの前日に「あしたもしごとだから」という気もちでいたということは、休日を一日損したような気分になってしまう。

 いちおう、とにかくは七時ごろまではベッドで寝て、ゆっくりと起き出して朝食をとり、ニェネントにもごはんを出してあげる。もう「カツオ」はありませんよ。
 時間があるので、昼食には久々にカレーをつくってみた。冷蔵庫にはタマネギもジャガイモもニンジンもたくさんあるし、冷凍庫にも肉はいっぱいある。まだ二、三回は連続してカレーだとかシチューをつくれる材料が揃っている。きょうはルーのパックの半分の四皿分をつくってみたのだけれども、気温も低いんだし、いちどに八皿分つくっておいてもちっともかまわないのだった。

 午後からはちょっと買い物に出て、年賀ハガキも買って、何通か返事を書いたりした。図書館から借りているDVDがあした返却日なので、そのあとはそのDVD、「ベンジャミン・バトン」を観る。特典で監督のデヴィッド・フィンチャーのコメンタリーもついていたので、いちど観終わったあとにまた最初っから、そのコメンタリーを聴きながら観てしまう。観終わると九時を過ぎていた。もう寝なくっちゃ。


 

[]「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008) デヴィッド・フィンチャー:監督 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008)   デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 老人のような姿で生まれて実の父親に棄てられたベンジャミン(ブラッド・ピット)は養老院で育てられ、生育して行くにつれて若くなっていく。ある意味で人とは逆のような人生を歩み、さいごには赤子の姿で息絶える。若き日(といっても見かけは50代とか60代なんだけれども)には世界も広く見て、それなりにアバンチュール(死語?)も楽しみ(相手はティルダ・スウィントン!)、生涯をかけて愛する人(ケイト・ブランシェット)にもめぐり会う。二人のあいだには子どもも生まれるのだけれども、ベンジャミンは彼女や子どもといっしょに老いていくことはできないからと、出奔することになる。

 ある意味で悔恨のない人生をおくるベンジャミンだけれども、自分の周囲にはたくさんの悔恨を目にしていく。ティルダ・スウィントンは若い頃の夢(ドーヴァー海峡を泳いで横断すること)を果たせなかったことを悔やんでいるし、ケイト・ブランシェットは交通事故でダンサーとしての可能性豊かだった将来をあきらめねばならなかった。

 その一方で、養老院で亡くなっていく老人たちは皆、おだやかな最期をむかえるようにみえる。ベンジャミンはそれらの多くの死の目撃者になるのだけれども、つまりは彼にだけはそのような、老いて死んでいくという道は待っていない。

 観始めるときにはあまりにアンリアルなストーリーではないかと思ったのだけれども、そのブラッド・ピットとケイト・ブランシェットとの愛の交歓の、限られた時だけを同じ年代の男女として共有出来る(いっしょに老いていくことが出来ない)という認識が、彼らの交流にあまりにせつない影を投げかけるだろうか。

 もうほとんど三時間に迫ろうという長い作品で、この長さはどうにかならなかったものかと思ったりするのだけれども、ある人物の一生を追った作品として、これだけの厚み(長さ)が必要だったろうということ、観終わってみれば納得する。フィンチャー作品はこれまで(といってもこの一ヶ月ほど)ミステリーっぽい作品ばかりを観て来たわけで、このような、ある面で文芸大作というようなものははじめて観る。それはそれで重厚に撮られてはいるのだけれども、「こんな生涯だった」という、俯瞰的な視点になってしまっているようにも感じられてしまうのは確かなこと。その俯瞰的な視点と、メインのブラッド・ピットとケイト・ブランシェットとの愛情の描写とのバランスは、はたしてこれでよかったのだろうか。演出的にカッコいいところはあちこちにあったけれども。

 フィンチャー監督のコメンタリーを聴いていると(いや、じっさいには聴いていたのではなくて字幕を読んでいたわけだけれども)、もはやこの作品、実写はあくまでも素材で、その素材を加工しまくっての「ぬり絵」ではないのかとか、けっきょくは「アニメーション」ではないのかとか、もうどうにでも加工してしまえるわけだなあと、驚いてしまうわけである。これがハリウッド、というわけだろうけれども、これからこのような路線の映画というのはどこまで行ってしまうんだろうか。


 

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■ 2015-01-04(Sun)

 きのう買った「カツオのたたき」を、今朝もニェネントに出してあげる。ニェネントは喜んでかぶりつき、あっという間に食べてしまう。大きなブロックなのでわたしにも食べ切れない。昼も夕方もニェネントの食事になることだろう。

 昼になって冷蔵庫を開け、ニェネントにカツオを出してあげようとすると、冷蔵庫を開けた音を聞きつけたニェネントが飛んでくる。そのときに、「ゴロゴロ」とのどをならすのと、「ニャン!」となくのとがいっしょになって、「グフニャン!」みたいな奇怪な声になってしまう。わたしも笑ってしまった。「そこまでもカツオが好きなのか」という感じだけれども、もちろんそもそもはわたしが「カツオのたたき」が好物なわけだし、ほかの魚類をあれこれとあげて比較しているわけでもないから、「ニェネントはカツオがいちばん好き」というのは飼い主のわたしの思い込みでしかないだろう。
 先日読んだ金井美恵子のエッセイでは、金井家の愛猫のトラーはエビが大好きだったらしい。金井家はわたしんとこよりもずっと裕福なわけだし、あれこれあれこれとトラーにあげてみて、あげくにエビがいちばん好きみたいだと結論づけたのかもしれない。
 そういうところではかなわないけれども、わたしも二、三種類の刺身はニェネントにあげた経験はある。その結果でも、やっぱりカツオがいちばん気に入っているようには感じたものだった。いまのニェネントの常食も、カリカリ(ネコの固形食)はカツオ味だし、三種類交替で出してあげるネコ缶も、すべてカツオが基本である。以前買っていたカリカリはミックス味だったのだけれども、食べ残すことが多くなり、「それではいっそ」と、ミックスではなくカツオだけのものに買い替えたら、とたんにいっぱい食べるようになった。ぜったい、ニェネントはカツオが好きなのである。

 夕食にまたニェネントにカツオをあげ、わたしも少しおすそわけしてもらって、ようやっとカツオは全部なくなった。ニェネントに「おいしかったかい???」と抱き上げると、いつものようにはいやがって逃げ出そうとはしなかったので、ちょっと写真を撮ってあげた。ふふ、映画女優のような美猫ポートレイトになったんじゃないかな。ちょっとばかし自賛。いよ!ニェネント、色っぽいよ!

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 きょうは元旦に「時代劇専門チャンネル」で放映されていた「鴛鴦(おしどり)歌合戦」という映画を録画してあったので、それを観た。どんな映画だかまるで知らなかったのだけれども、これも先日読んだ金井美恵子の映画エッセイに出て来た映画だったので、興味本位で観てみたもの。‥‥これが、実に楽しい作品だった。お正月らしくって、よかった。


 

[]「鴛鴦歌合戦」(1939) 宮川一夫:撮影 マキノ正博:監督 「鴛鴦歌合戦」(1939)   宮川一夫:撮影 マキノ正博:監督を含むブックマーク

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 面白い! ストーリーなど書いても仕方がないのだが、長屋暮らしの浪人(片岡千恵蔵)に複数の女性(町娘というのだな)が恋いこがれ、はたして男は誰を選ぶのかという、メインのはずのストーリーはいつしかサブに追いやられた感があり、それよりも同じ長屋に住む骨董狂の傘貼り職人(志村喬)〜彼はさいごに片岡千恵蔵が選ぶお春(市川春代)の父親〜に、やはり骨董狂いのバカ殿様(ディック・ミネ)とその家来たち、彼らにいかさま骨董を売りつける骨董屋らの絡む話の方がメインっぽく進行する。というか、歌、歌、歌の連続なのだけれども、殿様の家来らが奏でる和楽器の音がオーケストラにすげ変わり、なんともスウィングする和製オペレッタにはなってしまうのである。

 こんなどうでもいいお話(脚本もマキノ正博)、それでも観ていて飽きさせないマキノ正博(雅弘)の演出。登場人物を日傘造りの職人としての傘を上手に使った演出はアレかい、「シェルブールの雨傘」を先取りしちゃってるんでないの? それでやはりなお、冒頭のシーンから宮川一夫の撮影手腕に見惚れてしまうわけでもある。この移動撮影のスムースさ、見事というほかはない。

 わたしは戦後のディック・ミネの容貌というのはどことなく記憶に残っているのだけれども、「はたしてこの映画、いったいどこにディック・ミネが出てるのよ?」と気になったのだけれどもわからない。そのうちにきっと別格で登場して来て、彼の大ヒット曲「ダイナ」とかを歌い出すんじゃないだろうかと、思っているうちに映画は終わってしまった。って、調べてみると、あの「バカ殿様」を演じていた人物こそが、ディック・ミネだったのだった。‥‥って、アレが、天下のプレイボーイの若き日、ですか。しかし、「ディック」とはものすごい芸名をつけたものだと思う。アメリカ人もビックリ!ですね。

 出演者ではやはり、あの志村喬が、この頃からその後とまるで変わらない容貌で出て来られたことに驚いたりするけれど、それ以上に彼があまりに歌がうまいのにはもっと驚いてしまう。この映画の主役の片岡千恵蔵の出番があまりない(病み上がりだったらしい)だけに、ほとんど彼こそが主役のように印象に残ってしまう。

 あとはやっぱり女優さんたち。まさに「町娘」と呼ぶにふさわしい三人の女優さんたちが競い合うのだけれども、やっぱり、さいごに知恵蔵と添い遂げることになるお春役の市川春代という女優さんの可憐さ。その顔の、卵形というか、これは「うりざね顔」というのでしょうか、もうこれからは、時代劇の「町娘」というのには、この女優さんの顔を思い出さずにはいられないでしょう。しかしこの映画の撮影直前に彼女は長女を出産されたばかりだったということ。

 ‥‥あれこれと書きたくなってしまう、ほんとうにお正月にふさわしい快作。観ることができてよかった! とにかくは1939年という戦争へと向かう危機的な状況の中で、このような作品の製作がまたひとつの抵抗でもあり得たのではないのかと、勝手に思い込みたくもなってしまう。娯楽作品ではあるけれども、パワーに満ちあふれている。このようなパワーをいま現在のわたしも体感したいと思ったりしたのだけれども、そうかそうか、きのう観た「さすらい姉妹」の路上劇というものも、まさにこういった表現の引き継ぎ行為なわけだなと、納得した。ここに「文化」の伝承というものがあるのだろうか。生きる意味を考えてもしまうではないか。


 

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■ 2015-01-03(Sat)

 きょうは新年初のお出かけ。またまた上野へ出て、午後から予定されている「さすらい姉妹」の路上劇を観るつもり。「さすらい姉妹」というのは水族館劇場の別動部隊というか、水族館劇場の役者さんたちが十年ほど前からやっている路上劇で、もともとは山谷での新年の炊き出しに合わせるように始まったものではないのかと思う。その本家の水族館劇場、今年からは長期休眠に入ってしまうのだというニュースも読んだ。拠点地が確保出来ず、主宰者の桃山さんも入院したらしい。中心になる役者さんたちの年齢を考えても、もう再開はなかなか難しいのかもしれない。ずっと愛好してきた劇団だったし、残念。とにかくは新しい年はその「さすらい姉妹」からスタート。これを初詣のつもりで出かけよう。

 きのうのようにしごとを早退して、早めに家を出ようと考えていたのだけれども、きょうは意外に本来のしごと以外のしごとがたくさんあり、定時までびっしりのしごとだった。帰宅して急いで朝食をとり、ニェネントの食事を出してあげて着替え、バタバタと家を出る。きょうも晴天だけれども、やはり空気は冷たい。行きの電車の中ではまたたっぷり眠ってしまった。

 上野に十二時前に到着し、路上劇のスタートは一時だからゆっくりと昼食がとれる。前に上野に来たときに寄った中華の店に行き、また上海焼きそばを注文する。とにかくはボリュームたっぷり。食事を終えて、まだ時間もたっぷりあるので、アメ横界隈をしばらく歩いてみたりする。正月らしく、たくさんの人出で賑わっている。聞いた話ではアメ横で売られている魚などは冷凍されていた品で、何年も前のものである可能性があるということ。まあ安くておいしければいいのだが、産地直送と冷凍品ではやはり味は違いそうだ。

 時間近くになり、予定地の上野公園、科学博物館の前に行ってみると、広場に暗幕の張ってあるところがあり、そばにキャストスタッフの方々の姿も見えた。暗幕の前には青いビニールシートが敷かれていて、そこが客席になるらしい。暗幕の向こう側ではちょうど山谷の方々による炊き出しが行なわれているところで、お正月らしく餅つきなどもやられていた。そちらの垂れ幕には「ビンボー人を追い出す東京オリンピック反対!」だの「スカイツリー周辺再開発反対!」などと書かれていた。

 その炊き出しが終わった頃、「さすらい姉妹」の方もスタート。炊き出しに参加されていた方々も観客に加わって、にぎやかなイヴェントになった。わたしは最前列に陣取って座って観ていたけれども、観客の熱気なのか、あんまり寒くはなかった。ただ、手だけがやたら冷たくはなったけれども。

 約一時間ほどの劇が終わり、その場でちょっとした打ち上げが行なわれたようだったけれども、わたしは目の前にある科学博物館に行くことにした。ちょうど現在は「ヒカリ展」という特別展が開催中のようだったけれども、常設展を観るだけで閉館時刻になりそうに思えたので、常設展のみのチケットを買う。案内を見ると化石の展示を含めたいくつかの展示が閉鎖中のようで、ちょっとがっかりしたのだけれども、とにかくは入場。
 まずは、たくさんの動物たちの剥製が乱立しているコーナー。わたしは剥製というのがあんまり見たくないので、足早に通り過ぎる。天文学のコーナーでの望遠鏡などのメカを楽しみ、生物の進化の展示の中にバージェス頁岩化石も展示されているのを喜ぶ。アノマロカリスの触手部の化石もあったけど、しかしこういうバージェス動物群というもの、どれもとっても小さいわけだ。
 順路の確認もしないままにうろつき回ってしまったけれども、メカニックなものの展示と生物学的なものの展示を楽しんだ。館内には外国からのお客さんも多く見られたけれども、ほとんどの展示には日本語のパネル説明があるだけ。ちょっと不親切?とは思ったけれども、あれに外国語の表記を付けたりしたら、巨大なパネルになってしまいそうだ。

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 とにかくは閉館時間ぎりぎりまで見て歩いて、それでもちゃんと見てないセクションがいっぱい残った。ちゃんと見ようと思えば開館時から閉館時までばっちり滞在しなければならないと思う。

 さて、この時間で帰宅すれば自宅でゆっくりと晩ご飯をとれるのだけれども、やはりちょっと外で飲んでから帰りたくなるわけで、この日はもう高くつく「ひとり居酒屋」はやめて、安上がりな「ひとり日高屋」を実行。この店はよけいなことを考えないで好きなように飲めるからいい。この日は熱燗と「イカ揚げ」、それに「ポテトフライ」とで800円。これでちゃんとした「焼とり」があればいいんだけれども。

 熱燗一本でちょっとイイ気持ちで帰路に着き、電車の中で金井美恵子の猫エッセイ読了。ラストのトラーのご臨終の下りを読んでいて、電車の中なのにポロポロ泣いてしまった。

 自宅駅に着いてまだ八時ぐらい。帰宅する前にちょっと南のスーパーまで寄ってみると、にぎり寿司のパックは安くなっていたのと、「カツオのたたき」のけっこう大きなブロックが半額になっていたのとを買う。わたしもニェネントも食べ切れないくらいの大きなブロックである。帰宅したあと、わたしは寿司を食べ、ニェネントにはカツオ。お正月である。


 

[]「さすらい姉妹 寄せ場路上巡業2014→2015 ――運がよけりゃ この世はきっとパラダイス」@上野恩賜公園・科学博物館前広場 「さすらい姉妹 寄せ場路上巡業2014→2015 ――運がよけりゃ この世はきっとパラダイス」@上野恩賜公園・科学博物館前広場を含むブックマーク

 江戸の貧乏長屋の住民たちの繰り広げる人情物語。あれこれというものでもないだろう。ただ、その場の空気を楽しめばいい。

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[]金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 2 「猫、そのほかの動物」金井美恵子:著 金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 2 「猫、そのほかの動物」金井美恵子:著を含むブックマーク

 前半は単行本となった「遊侠一匹 迷い猫あずかってます」の再録。それから「タマや」「永遠の恋人」「兎」の三つの短編小説が掲載され、後半はいろいろな動物を主題としたエッセイ、という構成。

 とにかくはあの金井美恵子をして、「遊侠一匹 〜」などというくだけた書名の本を書かせてしまうのだから、ネコの力というものには偉大なものがある。というか、いちどネコの魔力に屈してしまうと、ただただその存在を賛美し、そのかわいらしさにひれ伏すだけなのだろうか。わたしだって、ニェネントのことを「バカネコ」とは思ったりして書くことはあっても、そのニェネントへの最大限の尊敬心はスポイル出来ないのである。

 金井美恵子の愛読者として、彼女の飼っていたトラーは身近な存在でもあったわけだけれども、そのトラーも七年前に亡くなられてしまわれていたわけだ。

 掲載されていた三本の短編、そのうちの「タマや」はかなり昔に読んでいたようで、登場するネコが「ネエ、ネエ、あたしって死ぬんじゃないかしら?」となくように聞こえるというくだり、しっかりと記憶に残っていた。

 このエッセイ集でちょっと登場する「クマのプーさん」についてちょっと書いておきたいけれども、この石井桃子訳の岩波版はわたしにも小学生のときの愛読書だったわけで、つまり「トラー」というのもその「クマのプーさん」に登場するキャラクターだということはすぐにわかるのだけれども、先日書店に行ったとき、その「クマのプーさん」の新訳という本が平積みにしてあった。訳したのは昔ニュースショーなどのキャスターをやっていた某作家の娘なのだけれども、その翻訳書のタイトルはただ「ウィニー・ザ・プー」となっていた。残念ながら本を手に取って開いたりはしなかったので、その「トラー」がどのように訳されているのかわからないのだけれども、おそらくは原書通りに「ティガー」とかになってるんだろう。しかし「ウィニー・ザ・プー」では翻訳の放棄ではないだろうかね。石井桃子に失礼ではないのか。‥‥などとは思ったものだった。


 

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■ 2015-01-02(Fri)

 きのうの元旦、東京では雪が降ったらしい。こちらの方ではどうだったのか、わたしはしごとから帰宅したあとは一歩も外に出なかったので、そのあたりのことはわからない。 

 とにかくは新年二日目。きょうもしごとだったのだけれども、やはり早々とやることがなくなってしまい、年休を使って二時間早退した。ちょうど日が昇ってくる時間だったし、日の昇るのが筑波山のあたりだったので、「初日の出」ではないのだけれども、日の出を見てみようという気になった。このあたりでは駅の歩道橋にあがるか、五行川の流れる図書館のあたりまで行かないと筑波山を見ることは出来ないので、図書館の方に歩いてみる。歩いている途中で、もう日は山のふもとから昇り切ってしまっているのがわかったけれども、とにかくは川のほとりまで行き、写真を撮ってみた。初日の出ではない。

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 帰宅してまた何をするわけでもなく時間をつぶし、昼近くになって「ツィゴイネルワイゼン」の残りを観始め、ようやく観終えることができた。足掛け三日、というか年をまたいでの鑑賞になった。この映画に似合った見方だったかもしれない。

 午後からは録画してあった古い映画「鴛鴦歌合戦」などというのを観始めたのだけれども、じきに眠くなってしまい、ベッドに行ってすぐに寝てしまった。目が覚めるとやはり、もう外は暗くなっていて、それから何かをやろうという気分にもなれずに、ちょっと本を読んだりしてからまた寝てしまう。あしたは出かける予定もあるから、たくさん寝ておいてもいいだろう。


 

[]「ツィゴイネルワイゼン」(1980) 田中陽造:脚本 鈴木清順:監督 「ツィゴイネルワイゼン」(1980)   田中陽造:脚本 鈴木清順:監督を含むブックマーク

 かなり偏愛した作品で、古くに観ているのである程度のことは記憶にあるのだけれども、やはりたいていのところは記憶が抜け落ちてしまっている。観ていれば、「ああ、こういうシーンはあった!」などと思い出せるところはあるのだけれども。そう、ちなみにこの鈴木清順監督のほかの作品、「陽炎座」や「夢二」、「ピストルオペラ」や「オペレッタ狸御殿」などは、何ひとつ記憶に残っていないようである。そういうところでの、久しぶりの再見の感想。

 このところ「ファイト・クラブ」や「複製された男」などの二重人格モノを観ているので、この「ツィゴイネルワイゼン」もまた、観始めてすぐに、「これって、二重人格なんじゃないのか?」って思ってしまう。つまり、中砂(原田芳雄)は、主人公の青地(藤田敏八)の分身なのだろうと。青地のかなりスクエアな処世術から溢れ出てしまうヒップな部分が、中砂という人格を持ってあらわれてくる。実は中砂などという人物は存在せず、中砂の行動は青地のそれである可能性がある。さらに、芸者の小稲(大谷直子)と中砂の妻になる園(二役)もまた同一人物で、園にはどこか青地の妻の周子(大楠道代)のすがたが投影されているようでもある。つまり芸者の小稲を囲って、のちに二号さんのようにするのが青地の行動で、そのことを中砂という分身にまかせてしまっている。ひょっとしたら、冒頭に中砂が女性を溺れ死にさせたというのもまた、青地のしわざなのかもしれない。
 そう考えると中砂の死というのも実にわかりやすくなるわけで、その死の前に中砂が妙な格好で縄で縛られているところなど、まさに青地がもう中砂の存在を認めなくなり、まずはその行動を制限し、ついには抹殺してしまう。そういうことだろう。青地が中砂の存在を消したということは、囲っていた小稲を棄てるということでもあり、そのことが終盤の小稲の奇怪な行動にあわられているのかもしれない。

 しかしこの終盤はまさに「怪談」的な展開をみせる演出で、青地宅に何度もすがたを見せる小稲はどう見ても亡霊であり、その娘の豊子もまた生きているのか死んでいるのかよくわからないのだけれども、ここで、青地こそが死んでいるのだとその豊子に指摘される。どういうことだろう。中砂が死んだとき、つまりは中砂の存在の理由(レゾン・デートルということばを思い出した)であった青地もまた、死せる存在になっていたということだろうか。

 ‥‥思うところあって、あくまでも物語的にこの作品を回収してみようとしてみたのだけれども、つまりはこの作品、あまりに物語的な回収から距離を置いたところで評価され過ぎている気がするからである。ふだんは映画というものを「物語」としてしか観ない人たちが、なぜかこの作品に限っては「ストーリーはわからないけれども、この映像美!」などという評価の仕方をする。いや、やはり一面で映画というものは物語的な側面も持つべきなのであって、「わからないけれども」ということでは批評の放棄になる。いちどはこの作品をちゃんと解釈すること。そのことをもっとつきつめてやってみたいわけである。

 脚本は田中陽造。内田百里涼司圓らヒントを得ての脚本ということだけれども、彼のオリジナルと考えていいだろう。奥深い、すばらしい脚本だと思う。その脚本を、いかにも鈴木清順らしく、ある意味でぶっ飛んだ演出で仕上げた鈴木清順監督、やはり見事なものだと思う。

 先日読んだ金井美恵子の映画エッセイで、この作品での藤田敏八をほめあげていたと記憶するけれども、そう、たしかに、この作品の基調をなし、これだけの傑作に落ち着かせたのは、やはり藤田敏八の存在によってのことではないのかと思ったりする。エキセントリック(原田芳雄)の対極としてのオーセンティックを、みごとに体現してみせてくれる。ラストの鎌倉八幡宮のあの太鼓橋を、ひょいとばかりに軽く跳躍して見せてくれるあたり、ちょっとしびれてしまうわけである。


 

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■ 2015-01-01(Thu)

 まずは、新年あけましておめでとうございます。

 新しい年が、皆さまにもわたしにも健康で幸福を感じられる一年になりますように。

 ニェネントも、そう申しております。

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 いよいよ2015年がはじまる。とにかくはもう、2014年ではない。いつかあとで思い出すとき、2014年はまとめてしまえば「酷い年だった」ということしか出来ないだろう。そういうのではなく、この2015年はあとで「いい年だった」と思い出せるようにしたい。これがわたしの「新年の抱負」である。

 きょうはいきなり元旦からのしごと。しかししごと量はまるで少なく、あまった時間を休憩室でもてあましてしまう。しばらくはこんな感じが続くのだろうけれども、しごとが一段落したあとは有給を使って帰宅する方が良さそう。去年とかもそうやっている。

 仕事を終えて帰宅したあとはこの日記を書いたり、Facebook やTwitter を閲覧したりして過ごし、ニェネントにカツオの刺身をあげ、「今年もよろしくね」とあいさつする。昼食はまたまた中華丼。かんたんでおいしいし、もう当分はこればっかりでもいい。

 午後はきのう観ていた「ツィゴイネルワイゼン」の続きを観ていたのだけれども、うとうとと眠くなってしまい、ベッドにもぐり込んでの昼寝になってしまう。続きはまたあしたにしよう。

 目覚めるともう外は暗くなっていて、ちょっと寝過ぎてしまった感覚。夕食はきのうの「すき焼き鍋」の残りですませ、まるでお正月らしくはない。お正月らしいテレビを観たいと思ってスイッチを入れてみても、知らない芸人ばかりの出ているバラエティ番組ばかりで、まるでおもしろくない。こういうときにこそ「ひかりTV」にたよってみようと番組表を眺めてみると、「ナショナルジオグラフィック」のチャンネルが楽しそうなので、チャンネルを合わせてみる。ティラノザウルスについての番組。ちゃんと観ていたわけではないけれども、楽しい番組だっただろう。これからは、地デジの番組がつまらなければ「ナショジオ」(と略すらしい)を観るといいかな、などと思ったりする。

 夜は昼寝したせいでなかなか眠れず、けっきょく読んでいた「嫌な物語」というアンソロジーの文庫を読み終えたりした。新年の元旦から「嫌な物語」かよ、って感じ。


 

[]「嫌な物語」(Disturbing Fiction) 「嫌な物語」(Disturbing Fiction)を含むブックマーク

 「ゴーン・ガール」の原作を読んで「イヤミス」(つまり、イヤな読後感のミステリー)という言葉を知り、そのあたりで検索して引っかかって来たのがこの短編集アンソロジー。好きなハイスミスとシャーリー・ジャクソンとが収録されていたこともあり、その他の作品も面白そうなので買った本。全体の印象としては満足出来た本。またハイスミスを連続して読みたくなったし(彼女のたいていの翻訳書は持っている)、うちにあるシャーリー・ジャクソンも引っぱり出してみよう。

●「崖っぷち」アガサ・クリスティー 中村妙子:訳
 アガサ・クリスティーのような推理小説を読みたいとは思わないけれども、この作品は女性の心理の絡みを描いた作品。風景描写は好きだけれども、やはりこの人、「理詰め」なんだなあ、という印象にはなる。

●「すっぽん」パトリシア・ハイスミス 小倉多加志:訳
 この短編はうちにある「11の物語」に収録されていたけれども、もちろん記憶に残ってはいない。この、子供視点で「母親がイヤで仕方がない」というのは、大人視点になれば「女性がイヤで仕方がない」という、ハイスミスお得意のミソジニーへと転換するのだろうか。「すっぽん」という、無感情でグロテスクな動物がキーになっているあたりがハイスミスのテイスト。やはりハイスミスはいい。

●「フェリシテ」モーリス・ルヴェル 田中早苗:訳
 二十世紀初頭に人気のあった、リラダンなどにも通じるらしいフランスの怪奇小説作家。この翻訳者の田中早苗はルヴェルに心酔し、1928年に彼の短編集を翻訳して上梓している。この短編でも彼のテイストは何となくわかるので、今でも文庫で出ているその短編集を読んでみたい気にもさせられる。

●「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ」ジョー・R・ランズデール 高山真由美:訳
 読後感としてはコレがいちばんイヤ。アメリカ南部という風土に合わせて、伏線も効いていると思う。たしかに先日観た「ナイト・オブ・ザ・リヴィング・デッド」に通じるものもあるだろうか。絶望的。

●「くじ」シャーリイ・ジャクスン 深町眞理子:訳
 シャーリー・ジャクソンは好きな作家のはず(記憶に残っていないけれども)。わたしには「たたり」の作家かな。この「くじ」は有名な作品らしいけれども、この作品を表題にした短編集は現在は絶版。‥‥これは何だろう。「平等」という民主主義へのアイロニー、なんだろうか。実はわたしにはピンと来なかった。

●「シーズンの始まり」ウラジーミル・ソローキン 亀山郁夫:訳
 ソローキンの、名前は聞いたことがある気がする。この作品は、ソヴィエト時代の故国のあり方へのアイロニーなんだろうか。

●「判決 ある物語」フランツ・カフカ 酒寄進一:訳
 これは読んでいて記憶に生々しいところもあるけれども、カフカの短編ではわたしはこれがいちばん好き。とにかく、この物語が主人公の妄想なのか、それともその父親の幻想なのか、読み終わってもまったくわからない。ただ残るのは主人公と父親との確執のみ、というか。ただ、この翻訳はよろしくない。

●「赤」リチャード・クリスチャン・マシスン 高木史緒:訳
 これもかなりイヤだけれども、「書かない」ということで成立している作品として、記憶に残しておくことにする。

●「言えないわけ」ローレンス・ブロック 田口俊樹:訳
 「八百万の死にざま」の作者だということ。タイトルは聞いたことがある。この作品もハードボイルドな「イヤさ」加減。

●「善人はそういない」フラナリー・オコナー 佐々田雅子:訳
 フラナリー・オコナーの名は知っている。彼女もまたアメリカ南部の出身で、先に読んだ「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ」に近いテイストを感じてしまう。しかし、ここには「ではどこに救いはあるのか」という視点がある。少なくともこの作品の中には「救い」はないのだけれども、作品から外に出れば、読者はそれを見出せるのかもしれない。だから、この作品はただ「嫌」というものでもないと感じられる。いい作品だと思った。

●「うしろをみるな」フレドリック・ブラウン 夏来健次:訳
 フレドリック・ブラウンは、わたしが中学生のころに好きだった作家。その「機知」こそに面白みがあるのだけれども、今になるとこのあたりにはあまり動かされない。彼には「スポンサーから一言」とか、ショートショートでまだ楽しめる作品があると思う。


 

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