ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-02-28(Sat)

 きょうはわたしの◯◯回目の誕生日。そのお祝いはきのうRichard Thompson のライヴに行くことですませているので、きょうは何もしない。というか、きのうのライヴの余韻にずっと浸っていた。それまでのライヴ体験の記憶というものがまったく残っていないせいもあって、「なんとすばらしいライヴだったんだろう」と、感慨にふけりっぱなし。特に「Shoot Out The Light」は圧巻だった、と思う。

 それで思い出すのだけれども、80年代だったか90年代だったかに、ある種のパーソナリティーを指して「ネクラ」ということばが流行していたけれども、この「ネクラ」ということば、わたしのか細い記憶ではもともとは当時のAlternative な音楽のある傾向に対していわれたことばだったように思うのだけれども、どうだっただろう? 別にRichard Thompson の音楽が「ネクラ」と呼ばれていた記憶はないけれども、「Pour Down Like Silver」がリリースされたとき、日本の音楽雑誌のレヴューで「どっぷり暗い」などと評されていたのは憶えている。当時は「ネクラ」などということばはなかったわけだけれども。
 それで80年代になって「Punk」や「New Wave」などと呼ばれる音楽が押し寄せてきたとき、そんな「New Wave」のある種の傾向を「ネクラ」と呼ばなかったのだろうか。著名なところではTelevision やJoy Division、その他にもYoung Marble Giants、Josef K などというバンドもあったし、これがノイズ系になるとみんな「ネクラ」と呼ばれていたようにも思う。

 実はわたしは当時は(今でも)そんな「ネクラ」音楽を愛好していたわけだけれども、そのわたしの中での「ネクラ」のルーツを探ると、どうもRichard Thompson あたりにたどり着いてしまう気がする。先に書いた「Pour Down Like Silver」はほんとうに好きなアルバムだったし、その中に収録された「Night Comes In」という曲なんか、まさに夜の闇の中に沈み込むような楽曲で、この曲ばかりをひゃっぺん返しに聴き続けていたこともある。
 それは例えばTelevision の名曲「Marquee Moon」を聴いたときに感じたものにきわめて近いものでもあり、そんなTelevision のサウンドをNew Wave のひとつの傾向と捉えるなら、そのルーツには(わたしの中では)まちがいなく、Richard Thompson のサウンドが存在すると思う。
 しかし、Television の「Marquee Moon」のリリースは1977年のことであり、「Pour Down Like Silver」が75年リリースという事実と重ねると、ここには「断絶」などというものはないのではないか、という感想になる。

 そういう音世界を繰り拡げるバンドというものも90年代以降は少なくなり、わたしの指向性も変わってきてはいるのだけれども、やはりこの時代の「ネクラ」音楽のどこかにわたしの原点のようなものがあり、そこにRichard Thompson の音楽も位置しているのではないかと思う。そうそう、Television の来日公演も行ったなあ。わたしの行った夜、Tom Verlaine は「Marquee Moon」の出だしをトチってしまったんだったな。あとで同じ公演に行っていたらしい人とそのことで会話したとき、「ああいう難しいところで間違えちゃあいかんのですよ」とおっしゃられていた。「なるほど」と思ったものだった。

 それで今日は誕生日の当日なわけだから、ちょっとはぜいたくしようかなどとは考えたのだけれども、やっぱり昨日すでにぜいたくしてしまっているわけだから、財政緊縮モード。またまた南のスーパーに弁当を買いに行ったのだけれども、あんまり高い弁当だとか寿司セットとかには手が出せなかった。ただ、「ひなまつり」用に売られていたケーキを買って帰って「お祝い」にした。ケーキを買うなんていったいいつ以来になるんだろうか。ローソクを立てたりなどするわけないけれども、「おめでとう」と、「ひとりバースデイ」をやってみた。


 

[]「若草の萌えるころ」(1968) ロベール・アンリコ:監督 「若草の萌えるころ」(1968)   ロベール・アンリコ:監督を含むブックマーク

 「冒険者たち」のロベール・アンリコ監督が、やはり「冒険者たち」に出演していたジョアンナ・シムカスを迎えて撮った青春映画。ロベール・アンリコ監督というのはよっぽどジョアンナ・シムカスが「お気に入り」だったようで、この時期には連続してジョアンナ・シムカス出演の作品を撮っている。しかしそのジョアンナ・シムカスは1969年に撮られた「失われた男」で共演したシドニー・ポワチエと結婚し、映画界から若くして引退してしまう。このあたり少し、彼女がラストにちょっとだけ出演していた「ポリー・マグーお前は誰だ」を思い出してしまったりする。

 ロベール・アンリコ監督というのは当時「映像の詩人」とか呼ばれていたような記憶もあるのだけれども、たしかに「冒険者たち」という作品(けっこう記憶に残っている)は、ストーリー展開を追う演出と叙情性とがうまくミックスされた佳作だったと思う。
 ではこの「若草の萌えるころ」はどうだろう。原題は「ジタ叔母さん」というもので、内戦下のスペインからフランスへ移住してきた家族のひとり娘が主人公。父は政治運動を続ける中で二度と家族のもとへは戻って来ない。ヒロインはジタ叔母さんとのスペインでの思い出を大切にしているのだけれども、そのジタ叔母さんが脳卒中で倒れてしまう。ヒロインは叔母さんの「死」と向き合うことに耐えられず、家を出て夜のパリを彷徨し、いろいろな男に出会うことになる。そこでおそらくは少女から大人へと脱皮する。みたいな。

 「冒険者たち」の映像はたしかに美しかった記憶もあるのだけれども、う〜ん、この作品での夜のパリにはあまり魅力がない。「パリ」というよりも、どこか田舎の町のような感じを受けてしまう。時代的に68年の混沌とした空気はあるのだけれども、「山羊」や「レーシングカー」という「小道具」のせいなのか、そういう「小道具」はおもしろいといえばおもしろいのだけれども、「パリ」らしさからは遠い。
 そういう意味では監督は「パリ」らしさは意識的に避けているようでもあり、すべてがヒロインの幻想とミックスされているのかもしれない。

 しかしこのヒロインは何歳ぐらいという設定なんだろうか。みかけのジョアンナ・シムカスの年齢(この映画の時にすでに25歳になっているみたいだ)から、「この歳になって今ごろこんなことやってるのか」という印象をどうしても抱いてしまうのだけれども、本来17歳か18歳ぐらいの年齢だと思って観れば、けっこう納得もいく。このあたりはジョアンナ・シムカスに入れ込みすぎた監督が悪いのか。

 ラストのヒロインの育った旧家の映像はとてもいいのだけれども、それまでの展開での映像にはそれほどには感心しない。ちょっとがっかりはしてしまった。そう、ネコは殺さないでほしいな(実際に殺していないことを祈る)。


 

[]二〇一五年二月のおさらい 二〇一五年二月のおさらいを含むブックマーク

音楽Live:
●Richard Thompson @六本木 東京ミッドタウン・Billboard LIVE

映画:
●「メイン州ベルファスト」(1999) フレデリック・ワイズマン:編集・監督
●「動物園」(1993) フレデリック・ワイズマン:編集・監督
●「土竜の祭」(2010) 井土紀州:監督
●「キスして。」(2013) ほたる:監督
●「愛して飲んで歌って」アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督
●「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール:監督

読書:
●「タコの才能 いちばん賢い無脊髄動物」キャサリン・ハーモン・カレッジ:著 高瀬素子:訳
●「日本のタコ学」奥谷喬司:編著
●「高慢と偏見」ジェイン・オースティン:著 阿部知二:訳

DVD/ヴィデオ:
●「The Private Life of a Cat」(1947) Alexander Hammid:監督
●「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) レイ・ハリーハウゼン:製作・特撮 ドン・チャフィ:監督
●「ポリー・マグーお前は誰だ」(1966) ウィリアム・クライン:脚本・監督
●「欲望」(1966) ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督
●「若草の萌えるころ」(1968) ロベール・アンリコ:監督
●「天国の門」(1980) マイケル・チミノ:脚本・監督
●「スペースバンパイア」(1985) コリン・ウィルソン:原作 トビー・フーパー:監督
●「高慢と偏見」(1995) ジェイン・オースティン:原作 サイモン・ラングトン:監督
●「ローズ・イン・タイドランド」(2005) テリー・ギリアム:脚本・監督
●「パンズ・ラビリンス」(2006) ギレルモ・デル・トロ:脚本・監督
●「アルゴ」(2012) ベン・アフレック:監督
●「ジャンゴ 繋がれざる者」(2012) クエンティン・タランティーノ:脚本・監督 
●「怪談海女幽霊」(1960) 加戸野五郎:監督
●「網走番外地」(1965) 石井輝男:監督
●「緋牡丹博徒 花札勝負」(1969) 加藤泰:監督


 

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■ 2015-02-27(Fri)

 そういうわけで、今日はRichard Thompson のライヴに行く予定。もう自分でもずいぶんと長いあいだ音楽のライヴというものを体験していない感覚なのだけれども、この日記で検索してみると、一年ちょっと前に下北沢の教会で佳村萠さんらのライヴを体験しているようなのだけれども、わたしにはそのときの記憶はこれっぽっちも残っていないのがいかにも悲しいことである。さらにその前を探ってみると、八年ほど以前に「ブリティッシュ トラッド・フォーク フェスティバル」というのには行っているみたいだけれども、Trader Horne もFrankie Armstrong も記憶に残っていないなあ。Mike Heron だけはほんのちょこっと記憶にあるけれども、それも彼が音に神経質だったことぐらいのもので、その音楽は憶えているわけではない。

 おそらく、Richard Thompson のライヴにはきのう書いたように複数回行っているのだけれども、それも多分、新しくても軽く十年以上は前のことなのではないかと思う。漠然とそのときのライヴの情景を思い出すことも出来るのだけれども、そのときの会場がどこだったのかとか思い出せもしないし、彼のソロ公演だったのかバックバンドがついていたのかも記憶にはない。何となく、アコギ独演だったような気もするのだけれども。

 情報を見ると、今回の彼の公演はドラムとベース付き、彼もテレキャスター弾きまくってくれるらしい。楽しみである。

 さて、19時から始まるライヴに向けて、わたしも体調を万全に整えておかなくてはならないだろう。いったい何時ごろにこちらを出発すればいいのか、それまでどのように部屋で過ごしていればいいのかとか、いろいろと考えてしまうのである。とにかくは場所は六本木だし、何となくセレブ感が漂ってくるようなスポットでのライヴではある。
 まあ明日はわたしがこの世に産まれ落ちてから何十何年目の節目の日でもあり、それは世間的には「誕生日」と呼んで祝うわけだから、それを一日前倒しして今日祝ってしまうと考えれば、「そういうこと(自分で自分を祝うということ)って、この何十年もやってないよね」ということにもなり、この(最悪だった)一年間の厄払いという意味合いでも、今夜ははしゃいでやるのだ。これを英語で「I Want To See The Bright Lights」という。

 三時まで家でのんびりとすごし、そこから出発して、六本木に到着するのが五時半と六時のあいだ、ぐらいになる。車中では「LAヴァイス」を読む。六本木に到着して、またまた「日高屋」へ行き、いつものメニューで腹をふくらませる。‥‥また「日高屋」かよ、というわけで、「六本木感」はゼロ。せっかく「気分」を変えようとしているのに、いつもの貧乏モード。

 日高屋を出てちょうどスタート三十分前ぐらいで、会場の「Billboard LIVE TOKYO」というスポットへ行く。う〜ん、わたしはこのスポットははじめて訪れるのだと思うけれども、心の片隅から、「ココ、前にも来たことあるジャン」という声が聴こえてくる。ひょっとしたら、この前のRichard Thompson のライヴもここで観たんだったかしらん。
 とにかくはスペースとしてはゴージャスなつくりというか、そこいらの(例えば下北沢とかの)ライヴスポットとはつくりが違う感じで、「う〜ん、リッチ!」などと、それこそ「LAヴァイス」の読みすぎみたいな感想も浮かんでくる。指定された席のテーブルの上には「アンケート用紙」も置かれていて、そのアンケート項目にも「本日ご来店いただいた動機をお教え下さい」というのもあり、そこにも「記念日(誕生日、結婚記念日などだから」という選択肢があるわけで、はい、まさにわたしはソレでもありますね(いやもちろん、第一の動機は「出演アーティストが好きだから」ですけど)。

 「ワンドリンク付き」でドリンクを選び、やっぱりここは赤ワイン。ちょっとグラスを傾けているとステージがはじまる。‥‥すばらしい、ほんとうにすばらしいステージだった。感想は下に。

 ステージが終わってだいたい八時半。惜しいところで終電車での帰宅が決定。なんだかライヴの余韻に酔ったまま恵比寿の駅にまわって、湘南新宿ライン経由で帰宅する。多少電車も遅れて、帰宅したのはほとんど真夜中の十二時に近い。あしたはしごともあるのですぐに布団にもぐりこむのだけれども、今夜のステージのことを思い出し、興奮してなかなか寝つけなかった。

 

[]Richard Thompson @六本木 東京ミッドタウン・Billboard LIVE TOKYO Richard Thompson @六本木 東京ミッドタウン・Billboard LIVE TOKYOを含むブックマーク

 Richard Thompson は、1960年代から活動を開始したイギリスのフォーク・ロック・バンド、Fairport Convention の創設メンバーで、バンドでのリード・ギタリストだった。Richard Thompson はFairport Convention での記念碑的な傑作アルバム「Liege & Lief」、「Full House」のあとにグループを脱退、そのあとは当時の妻のLinda Peters(Thompson)とのデュオアルバム(たいていは傑作)をリリースした後に離婚、以降はソロ活動を継続して今日に至っている。Fairport Convention 脱退以降の彼のアルバムは、Richard & Linda Thompson 名義のものを含めて二十枚以上の数を数えるものになる。

 まずは彼のFairport Convention 時代のことを多少は書かなくてはならないだろうけれども、イギリスには「Traditional Folk Song」という伝統がある。‥‥いや、この伝統はイギリスに限らず、それこそ世界中のどこの国にもあったわけではある。「伝承音楽」という世界である。‥‥しかし、この種の「伝統音楽」を現代の文脈でよみがえらせ、とりわけ「ロック」の場で切り拓いたのがどこの誰であるかというと、それはイギリスのFairport Convention であり、それはまさに彼らのサード・アルバム「Liege & Lief」によってみごとに開花したものである、といってしまってもいいのではないだろうか。いやいや、ここで厳密にいうと、彼らのサード・アルバム「Unhalfbricking」に収録された「A Sailor's Life」こそが、そもそもの始まりだったということもいえるのだろう。

 誰もがいうことだけれども、そのときの彼らの音楽には、それまで誰も創出し得なかった伝承音楽の「土の匂い、泥臭さ」というものがたしかに存在した。この伝承の「泥臭さ」というものは後発のSteeleye Span などのバンドに継承され(というかより純化され)、「ブリティッシュ・トラッド」というジャンルをわたしなどのロックファンにも認識させてくれたわけである。そこにはイギリスの古いダンス音楽の要素も感じられるだろうし、「バラッド」と呼ばれる、物語を持った長い歌というものには、アメリカのフォーク・ソングとは異なった伝統を感じさせられるものだった。
 先に書いた「A Sailor's Life」もまたバラッドを基とした長い物語歌だったし、「Liege & Lief」に収録されたやはりバラッド曲の「Matty Groves」がわたしなどの耳にどれだけの衝撃だったか、今でもよく思い出すことが出来る。

 そんな中で、彼、Richard Thompson はその音楽キャリアをスタートさせた。‥‥そのことは、今から彼のキャリアを振り返っても重要なことではないかと、わたしは思っている。彼の音楽の根底には、そういうイギリスの伝承音楽の、「土の匂い、泥臭さ」こそがまずはあるのではないのか。

 当時はそういったFairport Convention などのサウンドを「エレクトリック・トラッド」などと呼称していた時期もあって、そういう呼称が日本独自のものなのか翻訳語だったのかわたしにはわからないのだけれども、今現在のRichard Thompson のサウンドにも、そういう側面は強く感じられるのではないだろうか。特に、今回のライヴのようにエレキギターとリズムセクションという編成になると、そのことを強く感じることになる。

 アコースティックギターでの弾き語りであれば、それはそのままで「伝承音楽」の、つまりはフォークの音世界なわけだけれども、ここにベース、ドラムが加わって、持つギターがエレキになったとき、そこに単純に「フォーク・ロック」と呼べるのではない、Richard Thompson 独自の音世界のルーツがはっきりと感じられるだろうか。もちろん今でも彼がFairport Convention 時代の音に固執して再現しようとしているわけではないのだが、そこに現前しているのはいわゆる「フォーク・ロック」という音ではない、いってみればもっとヘヴィーなものだろうか。

 Fairport Convention を脱退したRichard Thompson は、当時の妻だったLinda Thompson とのデュオアルバムを連続してリリースするようになり、わたしにとってもこの時代の彼の音楽は印象深いものがあった、というか、大好きなものだった。この時代から彼は自作曲のみをレコーディングするようになり、それまでの伝承音楽、トラッド曲などのアレンジ、再演からは距離を置くようになるのだけれども、それでもやはり、どこかにFairport Convention 時代の独自の音づくりの延長をこそ感じさせられる音世界であり、同時代のロックとは一線を画すアルバム群ではなかっただろうか。

 Linda Thompson とのデュオは1982年の「Shoot Out The Light」を最後に解消され、その後は長いソロのキャリアを続けることになる。わたしもその後も彼の新譜をその都度買い求めていたけれども、やはりわたしの中で記憶に残るのはLinda Thompson とのデュオの時代で、その中で愛聴盤を挙げるなら、1974年の「I Want to See the Bright Lights Tonight」、75年の「Pour Down Like Silver」、そして82年の「Shoot Out The Light」の三枚になるだろう。

 ‥‥長々と書いてしまったけれども、このような前提があっての、この日の彼のライヴである。わたしはおそらくは複数回、彼の来日公演を体験しているはずだけれども、この日記で検索しても出て来ないので、それはかなり以前のことだったんだろう。おぼろげな記憶の残っているのは彼の単独公演で、アコギ一本でのパフォーマンスが何となく記憶にある。‥‥どちらにせよわたしの記憶というものはもう失せてしまっているのだから、これからはすべてが新しい体験。そのなかで、Richard Thompson がテレキャスターを手にして、スモールバンド構成でのエレクトリック公演。楽しみである。

 わたしの席はステージの上の階の、まさにステージの真横という位置。そりゃあ最上席というわけではないけれども、ちゃんと座って観られるし、オールスタンディングとかのライヴなんかよりよっぽどいい。Richard Thompson はまたいつものベレー帽姿にジーンズっぽい上下というか、Richard Thompson といえばコレだよね!という姿。こういう彼の姿をみるとホッとしてしまう、というのも不思議ではある。

 やはり、彼のサウンドはエレキがいい。どこか暗く沈積し、翳りのある彼の音楽に、ソリッドなエレキギターの音がマッチしている。というか、だからこそ彼の音楽の魅力を堪能出来る。幕開けからしばらくの曲はわたしの記憶にはない曲だったけれども、そのサウンドを堪能する。そして四曲目にはわたしの好きな「Pour Down Like Silver」から「For Shame of Doing Wrong」という選曲、うれしい。特にこの「Pour Down Like Silver」というアルバムは彼の「暗さ」とでもいうようなものが全開の作品で、どの曲も大好きである。これで「Night Comes In」という曲をやってくれれば最高なんだけれども、この曲をやると長くなってしまうからなあ。
 そして、次の曲が「Shoot Out The Light」だった。まさに今夜のハイライト。名曲である。この曲の歌詞に「Watching the dark」という一節があり、この語句は彼のCDのボックスセットのタイトルにもなっている。ある面で彼の指向をひとことでいいあらわした語句でもあるだろう。この曲にはそれなりのインストゥルメンタルのソロ・パートもあり、そのソリッドな音がわたしの涙を誘う。泣いた。最高だった。

 音楽というのはやはり、独特の表現形態だ。映画を観るのとも演劇の舞台を観るのとも違う。わたしがこの「場」をこそ、会場にいるほかの観客と共有しているという感覚。ミュージシャンがそういう「場」をつくりだせるという魔術。
 わたしには過去の記憶というものはほとんど消えてしまっていることもあり、この「Shoot Out The Light」のライヴの「今、この時」というのは、体験として生涯最高のものだったといってしまってもいい。やはりこの日にこのライヴに来てよかった。

 このあともこの「Shoot Out The Light」のアルバムからは「Did She Jump or Was She Pushed?」と「Wall of Death」とが演奏されるし、ラストのアンコールでは最前列のお客さんのリクエストで、「Pour Down Like Silver」からの名曲「Dimming of the Day」がプレイされた(アコギでの弾き語り)。この曲をリクエストしてくれたお客さんには感謝したいし、何よりもそれを取り上げてくれたRichard Thompson がうれしい。

 予想外に、そういう彼のキャリアからはかなり古い楽曲といってもいいだろう、「Pour Down Like Silver」や「Shoot Out The Light」からの選曲が多かったのが、とにかくはとてもうれしかった。とにかくはわたしの誕生日の前祝いとしてのこのライヴ体験、生涯最高のライヴ体験になったわけである。そういう考えではチケット代なんて安いものであった。ありがとう。Richard Thompson。


 

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■ 2015-02-26(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 もう二月もそろそろ終わりなのだけれども、知人に誰一人会わずに終わりそう。おっと、娘には会っていたけれど、あれは「親族」か。会った時間も短いものだったし。「おひとりさま」な二月になるわけだ。
 郵便受けもこのところチェックしてなかったのだけれども、今日みてみると、Bさんから来週始まる展覧会の案内が来ていた。しばらく見ないで放置してしまっていたかもしれない。すぐにBさんにメールしてみて、行く日の約束も出来た。三月には舞台も今の段階で二つはチケットを買ってあるし、さすがに春ということで、そろそろねぐらから這い出すという感覚だろうか。わたしもあさってには誕生日を迎えてしまうし、あんまりいいことのなかったこの一年にここでもおさらばして、こんどはいいかたちで新しい一年の年齢を重ねたいものだと思う。そういうことではこの年齢のさいごの月を「ひきこもり」ですごしてしまうということにも「興」があるだろう。

 今日もまたダメな一日で、まだちょっと胃の具合もよくない。それでまたまた昼寝をしてしまい、一日を棒に振ってしまう。
 しかし、夕方に起き出してネットをチェックしていて、まさに今、Richard Thompson が来日していて、今日と明日とに東京公演が行われることを知った。
 Richard Thompson はわたしの大好きなミュージシャンで、はっきりと記憶にないけれどもその来日公演も少なくとも二回は行っている。「そりゃあまた行きたいんだけれども、音楽のライヴは夜遅くなって終電に間に合わなくなるから行けないなあ」と思いながらスケジュールをみると、一晩に「ファーストステージ」と「セカンドステージ」の2ステージがあるようで、そのセカンドステージの開演時間からファーストステージの終わる時刻を逆算すると、十分に終電にも間に合うようである。「そういうことなら行ってみたいなあ」と思う。そのライヴ会場のホームページでみると、まだ明日の残席もあるみたいである。
 ただ、チケット代はそれなりにするわけだし、すぐに「よし、行くぞ」とは決断出来ない。どうしよう。明晩ふらりと会場に出かけてみて、まだ空席があれば行ってみることにしようか、などといちどは考えたのだけれども、それでじっさいに行ってみて、チケットがもうソールドアウトだったらけっきょくは「予約しておけばよかった」と悔しい思いをすることになるのは目にみえているわけで、そこで「よし!明日はライヴに行くぞ!」と決め、会場に電話予約をするのだった。

 あさっては自分の誕生日なわけだし、一日早く、自分で自分のお祝いをしてもいいではないか(誰もやってくれないし)。わたしがある意味でいちばん好きな、いちばん聴きたいミュージシャンのRichard Thompson 氏が、こうやってわたしの誕生日直前に、わたしでも行けるようにライヴ公演を行ってくれるというのも、すばらしいことではないか。夕方まではすっかりダメ気分につつまれていたのだけれども、急に大きな「楽しみ」が出来、なんとも元気になってしまった気がする。

 そのRichard Thompson、ライヴならこの曲をやってほしいな、というのがこの曲。わたしも「輝く光」がみたいのである。

  D


 

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■ 2015-02-25(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 今朝も夢をみた。ほとんどのことは今は忘れてしまったけれども、今回の夢もまた、わたしは高校生ぐらいの学生になっていて、学校の教室のようなところが舞台になっていた。そんなにまでわたしは無意識に学生時代に執着しているのだろうか。

 胃痛はずいぶんと収まったけれども、それでもまだ本調子ではなく、胃のあたりからゴロゴロいう音がきこえてくるような感覚。そんな胃の調子のせいというか、今日もまるでやる気のない一日だった。また昼寝をしてしまい、夜はまたスーパーで弁当を買って来て食事にした。おとといとほとんど同じ時間に行ったのだけれども、今日はたいていの弁当はもう売り切れになっていて、食べたかった海鮮丼も買うことは出来なかった。また中華弁当にしたけれども、カツオのたたきが半額になっていて、「またニェネントに買ってあげるかね」と買って帰った。‥‥やはりニェネントはカツオがいちばん好きなようで、食べるスピードがちがう。出してあげた分をあっという間に食べてしまった。

 録画した映画も観ず、本も読まず、まさに「無為」な一日だった。このところクセになってしまった「昼寝」の習慣はほんとうによくない。あさってはしごとも非番なのであしたは映画でも観に行きたい。イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」も公開が始まっているし、「フォックスキャッチャー」という作品も観てみたい。ゴダールの「さらば、愛の言葉よ」も、買ったパンフレットを読んで学習してもういちど観に行きたい。

 二月は舞台関係はやはりこれといったものがなかった感じで、ちょこっと映画を観に行くぐらいで引きこもってしまったけれども、三月になるといそがしくなりそう。

 映画は映画で面白いけれども、やはり演劇などの舞台はまたちがう魅力がある。かんたんにいえば、映画は二次元であり、映像としてはカメラ・アイで入り込めるところは何でもスクリーンに写し出せる。もちろん今は3Dなどという映画もあるけれども、その本質は二次元だろう。「時間」もまた編集ができる。舞台はもちろん立体というか三次元で、それで舞台空間に持ち込めるものでしか表現はできないし、時間的なことはすべてリアルタイムに進行する。
 もうひとつ、映画は同じプリントを繰り返し上映することが出来、ロングランになると二ヶ月とか三ヶ月も上映が続けられる。一方の舞台作品はせいぜい一週間の上演(商業的な舞台ではもっと長い公演期間ああるだろうけれども)。ここで批評の仕方も変わってくるだろう。映画の批評の基本は「ほら、こんな映画なんだから観なよ」という「うながし」ではあるだろうけれども、舞台批評は「こんな舞台だった」という、アーカイヴの性格を最初っから持っている。このことはその批評の性格をおのずから変えてくる。いってみれば映画批評は「現在型」が基本だけれども、舞台批評は「アーカイヴ」。このことはその表現の性質にもまた影響を与えるものだろう。
 もちろん、多くの映画作品が物語的な回収を観客に求めるものであり、逆に舞台作品はその演出手法にこそ注目を集めようとするのではないだろうか。そうでなければ、シェイクスピアやチェーホフをいつまでもいつまでも舞台にのせる意味はないだろう。

 なぜこんなことを書くかというと、「コイツは困ったものだ」というわたしのかつての知人が、このあたりのことに無自覚にTwitter に長々と自説を述べていたからで、その男はつまり、映画にしろ演劇にしろみんな物語的に回収しようとするところがあるのである。そうすると、映画批評と舞台批評との差異がわからなくなる。このあたりのことがわからないのなら少なくとも演劇を観るのはやめてくれた方がいいのだけれども、まあ他人のことだからどうでもいい。
 わたしの場合でいえば、映画であってもその演出的な技能に注目したいところがあり、そこでの舞台との差異はわかっているつもり。
 はて、どうなんだろうか。



 

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■ 2015-02-24(Tue)

 今朝も胃の調子は思わしくなく、今日は内科医へ行く日でもあるので、そちらで相談してみることにした。わたしはまた「胃潰瘍」だとか「胃がん」だとか良くないことばかり考えてしまうのだけれども、先日も胃腸科で診察してもらったばかりだし、あんまり強烈な疾病にかかっているとも思えない。「どういうことなんだろう」とちょっとは不安になっていて内科医のドアをくぐったのだけれども、つまりは「胃炎」ということらしい。納得。「アルコールやたばこは控えて下さい」ということだったが、わたしはこの内科医ではとうの昔に禁煙していることになっている。喫煙がバレないように気を遣ってきていたけれども、意外と医師の方は気に留めてもいないのだろうか。

 図書館から借りている「高慢と偏見」のDVDが観ることが出来ないのがしゃくで、「傷ついたDVDやCDを復帰させるならコレよ」と、歯磨き粉で盤面を磨いてみた。やってみると盤面はいかにも「傷だらけ」になりました、という体裁にはなってしまい、これでは返却時にあれこれ言われそうだなとも思うのだが、ジャケットには「キズあり」というシールも貼られているし、「いや、借りたときからこういう状態でした」ととぼけてみようかと思う。で、それで研磨したDVDをプレーヤーに放り込むと、ほら、観ることが出来るようになったではないか。めでたしめでたし、ではある。午後からはがんばってその「高慢と偏見」を観てすごす。眠かったけれども、なんとかこのところの「昼寝モード」に陥らずに乗り切ることが出来た。こういうことで生活のリズムというのは変わってくるから、こういうのは大事なことである。

 夕食にはレバーと白菜とその他の野菜を炒めて「おかず」にして、そのあとはまたYouTube を閲覧してすごした。今日のメインはKlaus Nomi のライヴ映像。これもきのう書いた「Urgh! a Music War」に含まれていたライヴ映像ではあるけれども、映像がクリアである。ヴィジュアル的にはいろいろと違和感のあるバックバンド、そしてバックダンサーたちだけれども、これはたしかこのライヴのための即席バンド編成ということだったと、何かで聞いた憶えがある。それでも音のクオリティはかなり高くって、「ロックしているクラウス・ノミ」としては最高の映像ではないだろうか。「決め!」のポーズだとか白手袋の「ひらひら」がいい。

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[]「高慢と偏見」(1995) ジェイン・オースティン:原作 サイモン・ラングトン:監督 「高慢と偏見」(1995)   ジェイン・オースティン:原作 サイモン・ラングトン:監督を含むブックマーク

 ディスク1と2を合わせて五時間の大作、これはイギリスのBBC製作のものだけれども、評判は高い。ほとんどが知らない俳優ばかりだけれども、ダーシーを演じているのはコリン・ファース。演出でも「コリン・ファースだよ、コリン・ファース!」みたいなところはあるみたいで、彼の無言のまなざしとかがあれこれと挿入され、ちょっと別格扱い。

 もちろん五時間の尺があれば原作のニュアンスを省略せずにしっかりと描写出来、原作に書かれない映像的な表現も出来ているわけ。ロケーションもいいし、全体に原作よりもちょっと戯画化したようなキャスティングもグッド。原作では放ったらかしされてしまったような三女のメアリーとかも、「こじんまりしたスペースでのダンスの伴奏は彼女がいなくっちゃ」とかいうのがわかるし、ちょっとした発言での彼女の存在感(?)も増す感じ。

 基本的に、原作から忠実に映像化したというのではやはり卓越した作品だろうし、こういってよければ「この小さな世界」での幸福感の追求というものが、これはこれでかなりに普遍的なものではないかと思わせてくれるということで、やはりわたしもこれはいい作品だろうと思うのであった。


 

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■ 2015-02-23(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 昨夜はYouTube に遅くまで入り浸って、あれこれの音楽を聴いたりライヴ映像をみたりしていた。80年代や90年代のライヴをみて聴いていて、あの頃の音楽がいかに多様なものであったことかと、懐かしくも思い出す。じっさいわたしは90年代をすぎるとあまり同時代の音楽を聴かなくなってしまうわけだから、リアルタイムに聴いていたのは90年代でさいごになってしまう。あんなバンドもあった、こんなミュージシャンもいたと、今さらながらに思い出したりもする。
 そんな中で、むかし持っていたミュージック・ヴィデオ「Urgh! a Music War」というライヴ映像集に含まれていたバンドなどを連続して観てみたりする。いろいろと思い出されることも多いのだけれども、「悪趣味変態夫婦バンド」として活躍していた「Cramps」の映像が面白くて、他に彼らの映像を探してみると、まさに「お下劣!」な映像も見つかったりする。わたしはけっこう「悪趣味」というのは好きなので、ロカビリーが基本の彼らの音楽をあえて聴きたいとは思わなくても、彼らのライヴ映像とかは楽しんで観てしまう。だいたいラックス・インテリア(夫でヴォーカル)だとかポイズン・アイヴィー(妻でギター担当)とかいう芸名がファーラウトというか。調べてみると、ラックス・インテリア氏は五、六年前に他界されてしまったらしい。今さらではあるが追悼。

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 それで今朝は夢をみていて、それがわたしが娘にその「Cramps」のライヴ映像をみせようとしているわけである。YouTube みたいで微妙に違う夢の中のサイトではスポーツ中継みたいなのばかりだし、わたしは「Cramps」の名まえを思い出せなくて検索出来ないのだけれども、「Cramps」並にお下劣な画像はいっぱい出て来る。局部を露出させそうなオヤジの写真とかをみて、娘がはしゃいでいる。
 夢というのがじっさいの体験から導き出されるということがよくわかる夢だったけれども、わたしの品格まで疑われそうなお下劣な夢だった。

 目覚めるとなんだか胃の調子が思わしくなく、吐き気に近いものも感じる。悪趣味な夢をみたせいでもないだろうけれども、今日はいちにちずっと胃の調子がかんばしくなかった。下痢こそはしないものの、胃のあたりが重い感覚。それでなんだか何をする気にもならず、午後からはまた横になってそのまま寝てしまった。長い昼寝。目が覚めるともう七時近くになっていて、もちろん夕食をつくる気分にもならず、また南のスーパーに弁当を買いにいってすませることにした。ニェネントにも何か買ってやろうかと思ったけれども、ニェネントは確実にデブネコ化してしまっているのであんまりよけいに食べさせてはよくないだろうとやめておいた。それでも、買ってきた海鮮丼にのっていた刺身を少しわけてあげた。

 とにかくは何もしないで過ぎていった一日だった。



 

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■ 2015-02-22(Sun)

ねこ【猫】(鳴き声に接尾辞「こ」の添った語)①食肉目ねこ科の家畜。エジプト時代から人に飼われ、偶像化され、神聖視された。現在では愛玩用、鼠駆除用などとして広く飼養されているが、イヌと異なり、多くの野性的性質を今なお保有しているので、悪いことのたとえにされ易い。革は三味線の胴張りに用いられる。ペルシャ猫・アンゴラ猫など品種が多く、また毛色により、三毛猫・鳥猫・虎猫・雉猫などに区別される。和名ネコ。古称ねこま。②(猫の皮で張るからいう)三味線の異称。③(三味線を使うからいう)芸妓の異称。④本性を包み柔和らしく見せかけること。知って知らぬふりをすること。また、その人。「―をかぶる」⑤猫火鉢。⑥猫背。⑦猫車。

―に鰹節 好物を近くに置いては油断のならないたとえ。―に小判 何等の感じもないのに例えていう。転じて価値のあるものでも、その持つ人如何によって何の役にもたたない時にいう。―にまたたびお女郎に小判 効果のいちじるしいたとえ。―の手も借りたい 忙しく手不足なのにいう。―も杓子も どんなものも。誰も彼も。

 今日はネコの日なので、まずは古い広辞苑(1955年の第一版)から「猫」の項目を引用しておく。って、意味はないけれども、ネコは悪いことのたとえにされやすいのだね。

 今日のニェネントは、寝てばかりいる。せっかくきのうのカツオを皿に出してあげても食べないでグーグー寝ている。そんなニェネントの寝姿をみて、きのう京橋の猫ちゃん通りで見たチロちゃんがニェネントに比べてあんまりに小さかったし、Facebook とかに知人がアップしているネコの画像に比べてもニェネントがあまりにもどっしりしているわけだし、「ひょっとしたらニェネントってデブネコ?」って思ってしまうわけである。こうやってまどろんでいるニェネントを撮ってみても、とにかくはでかいし、何とも妖怪じみて見えるではないか。そりゃあ「悪いことのたとえ」にしたくもなるだろう。

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 ニェネントのおかあさんネコのミイは、花輪和一の描くところの妖怪ネコの「ミイミイさま」にどこか似ているもので「ミイ」と名付けたのだけれども、このところのニェネントはそんなおかあさんのミイに似て来てると思う。つまり妖怪ネコにみえてきた。まだニェネントのちいさな頃は、おとうさんであるところのラグドール種の特徴をいっぱい引き継いでいたものだけれども、もうこのごろはぜったいに「ラグドール」なんかにみえっこない。やれやれ。‥‥おっと、知らないうちに皿のカツオも食べてしまったようだ。またこれ以上に太ってしまうのか。

 今日はあんまりいい天気でもない。しごとも休みなので、午前中から図書館で借りている「高慢と偏見」のディスク2を観ようと思ったのだけれども、これがDVDプレーヤーからはじかれてしまう。どうやらディスクに傷がつきすぎているみたいだ。パソコンでやってみてもダメ。がっかりである。本でも読みますか、と、ベッドで「LAヴァイス」を読み始めたら、あんのじょうすぐに眠くなって寝てしまった。もうベッドで本を読んではいけない。

 それでも一時間ちょっとで目が覚め、「これ以上寝てはいけない」と起き出して、録画してあった映画を観はじめた。
 夕食にはご飯を炊かなくてはならないのだけれども、それがめんどうで近くのドラッグストアに焼きそば麺を買いに行き、「あんかけ焼きそば」っぽいものをつくってすませた。なかなかにおいしい出来だった。まだ麺は二食分ある。



 

[]「ジャンゴ 繋がれざる者」(2012) クエンティン・タランティーノ:脚本・監督  「ジャンゴ 繋がれざる者」(2012)   クエンティン・タランティーノ:脚本・監督 を含むブックマーク

 なぜこの映画が「面白い」と一般に思われているのか、まるでわからない。きっとわたしがおかしいんだろうけれども、まずは前半で主人公らが「賞金稼ぎ」を続ける場面とか、もうちょっと掘り下げて緊張感をつくってもいいように思った。でもそれでは、ただでさえ長尺のこの作品がたいへんなことになってしまうわけか。

 しかし、ストーリーがメインのキャンディ農園に移ってからがよくわからない。だって、目的がその農場で奴隷にされているジャンゴの妻を買い取ることにあって、カモフラージュにマンディンゴを買うことにするのはいいとしても、その策略がバレてしまってもつまりはキャンディ(ディカプリオ)はそのジャンゴの妻を売ってもいいと思ってるわけだし、契約は成立する。それなのになぜかジャンゴの相棒のドクター・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)はごねてキャンディを射殺してしまうねん。おかげでドクター・シュルツも射殺されてしまうわけだし、大乱射戦になってしまう(まあこういう展開にならなければ映画の見せ場ないわけだけれども)。そのあとのジャンゴの復讐はまさに「ご都合」の脚本だし、いったいこんな脚本がなんでまたアカデミー賞の脚本賞を穫るのか、わたしにはわからない。って、まあアカデミー賞なんてそんなもんだろうけれども。

 B級映画精神というのは嫌いではないのだけれども、そのB級映画精神をどこかで高めようとするようなこの演出、わたしには好きになれない。とにかくはわたしにとってはつまらない映画だった。


 

[]「緋牡丹博徒 花札勝負」(1969) 加藤泰:監督 「緋牡丹博徒 花札勝負」(1969)   加藤泰:監督を含むブックマーク

 何ていえばいいんだろう。「映画」というものをつくろうとする際に、まずは脚本から監督が「絵コンテ」を書き、それにしたがって現場で役者さんたちが演技して、それを撮影監督が絵コンテを構成するようにいろんな角度から撮影する。そのフィルムを編集して一本の映画になるわけでしょう。そういうトータルな作業が、この作品では実にみごとに結集されている感じ。

 わたしは特にこの映画では、「編集」の仕事こそがすっばらしいと思う。つまり、次の場面へ移るタイミングの見事さ。観ていても、そのタイミングの気もちよさに酔ってしまう感覚があり、そこから絵コンテを活かした撮影の技にも見惚れ、音響や美術の仕事ぶりにも大きな感銘を受ける。観ていても元の「絵コンテ」が想像出来てしまうというか、映画というものの楽しさはココにあるのだと思わされてしまう。監督だけの手柄ではない、トータルなスタッフワークの生み出した傑作。とにかくはこの編集の宮本信太郎という人の名前は憶えておきたいと思った。

 俳優さんたちもそれぞれに持ち味を活かして映画を支えていて、とにかくは楽しめる作品だった。少なくとも先に観た「ジャンゴ」よりは、わたしにはこちらの方が数百倍楽しめる作品だった。



 

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■ 2015-02-21(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 娘が絵を描きはじめている。美術大学の通信課程で学んでいるらしいのだけれども、クラスのグループ展が京橋で開催されていることを知らされた。偶然にも、すぐ近くのギャラリーで同じ期間に開催されている展覧会の案内状を二通いただいていたので、今日まとめて観に行く。
 夕方に行ければいいかと思い、ゆっくりと出発するつもりでいたのだけれども、新宿でヘンリー・ダーガーの部屋を撮った写真展が今日からはじまるのを思い出し、そっちにも寄ろうかと思ったのだけれども、もうそんな余裕のある時間ではなくなっていた。場所も離れているので、こちらはまた別の機会にしよう。

 二時の電車で家を出て、やはり電車の中ではぐっすり寝てしまう。おかげで降りるはずの赤羽駅を通過してしまった。しょうがないので次の池袋で下車して、山手線で東京駅まで乗る。京橋なんて、東京駅から歩いてもすぐである。まずは案内状をいただいていた二つの展覧会を拝見させていただく。隣り合ったビルにあるギャラリーで、どちらもすぐに見つかる。どちらも作家の方も在廊されていて、一方ではちょっと作家の方とお話をする。一点気に入った作品があった。写真作品もよかった。もう一方の個展の作家の方、わたしはその方の前の個展を拝見して作家の方と話もしていたようなのだけれども、その記憶も残っていないので作品を観るだけで失礼させていただいた。ファイルにあった過去の作品をみると今回はずいぶんと作風が変わられたという印象。過去の作品は何となく記憶に残っているような気もした。

 娘のグループ展会場への道を歩いていて、「たしかこのあたりにはネコのたくさんいる路地があったはず」と探してみたのだけれども、わからなかった。とにかくはギャラリーへ行く。娘は四点ほど出品していたのだけれども、前にメールで写真をみせてもらっていた作品はけっこう良かった。絵にかける意欲はかなり「本気」らしいけれども、まだまだ難関が待ち構えていると思うぞ。とにかくはわたしも「美術作家」としてやっていたわけで、まだそっちの方を完全にリタイアしたつもりでもないので、アドヴァイスも出来るだろう。今日はちょっと辛口な意見をいってしまったかな。

 ギャラリーを出て五時半ぐらいだっただろうか。もういちどネコの道を探してみたくなり、あたりの路地を探訪してみた。ちょうどわたしが入っていこうとした道の奥の方で、男の人がかがみ込んで何かを見ている様子だった。「あれはきっとネコでも見つけられたんじゃないかな」とその道を進んで行くと、いましたね。ちょっと小柄な黒白ブチのネコ。そのネコのいる場所にネコの置き物があり、そこが「ネコちゃん通り」というのだという掲示があった。そこを訪れるネコたちの写真と名まえとがやはり掲示されていて、今いるネコは「チロちゃん」というのだということがわかった。寒いのか、じっと丸くなったままで動こうとしない。人が近づいてもまるで気にしない様子。その「チロちゃん」の写真を撮った。もう暗くなりかけているので画質がものすごく悪いけれども。

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 置いてあったネコの置き物は実は貯金箱で、そこに来るネコたちの不妊手術のための募金箱なのだとわかった。そういうのにはわたしも弱いので、わずかだけれどもお金を置いて来た。
 もう場所もわかったので、こんど京橋あたりに来たらまた寄ってみよう。暖かくなればまた別のネコの姿も見られるかもしれない。

 さて、時間的にはもう夕食どきでもあるし、あとはもう帰るだけ。ここはまた「ひとり日高屋」をやろうと、八丁堀の日高屋まで歩く。この店の場所は、来るまえにちゃんと調べてあったもの。けっこうわたしもマメだなあと思う。
 目的の店に着き、土曜日のこの時間は店内もそんなに混んでいないので自由に席を選べた。今日は「ちょっと一杯」モードの方で、熱燗とイカ揚げ、ポテトフライと餃子コースで行く。このコースはちょうどおなかもふくらむし、なかなかにお気に入り。

 あとはまた東京駅まで歩いて引き返し、帰路の電車に乗る。車中では持参した「LAヴァイス」を読み始める。せいぜい50ページほど。
 自宅駅に着き、まだまだ食事モードがよみがえり、南のスーパーに安くなった弁当目当てに行ってみる。そう、あしたは2月22日でにゃんにゃんにゃんのネコの日なので、ニェネントへのプレゼントにカツオの刺身も買う。わたしは「カツ丼とあんかけ焼きそば」がセットになった弁当で。

 帰宅して、ニェネントにはカツオ、わたしにはお弁当。あしたはしごとも休みだと思うと、ちょっと夜更かしもしてしまった。



 

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■ 2015-02-20(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 今朝も夢をみて目覚めた。自殺を止める夢。またわたしは高校生ぐらいの年齢になっていて、おそらくは同じクラスメートらしい女性が線路の真ん中に寝そべっているのをみる。注意するが、「休んでるだけだから心配しないで」という返答。しかし電車が近づいてくる灯りが見えるようになり、それでも彼女が逃げようとしないので彼女を線路から引っぱり出す。このところ、同じこの場所では何件か自殺が続いているのだ。彼女が落ち着くのを待って、とにかくは職員室に彼女を連れて行く。職員室にはわたしの高校時代の体育の教師がいる。いきさつを説明していると、別の見知らぬ教師が「なぜ連れてくるのがこんなに遅くなったんだ」とわたしを責める。時計をみても二十分ぐらいしか経っていないし、わたしはその教師を「何を言ってるんだ。まずは彼女を落ち着かせるのが先ではないか」とどなりつける。
 そのあとにも何か展開はあったと思うのだけれども、記憶に残っているのではもうわたしは電車に乗っている。途中でその電車から降りて引き返さなければならなくなる。もしくは、その電車が行きたいところまで行かないことがわかったのかもしれない。いつしか電車はバスに変わってしまっているのだが、とにかくはわたしはバスを降りる。あたりは古い家屋の並んだ高台で、木立のあいだから平野が見渡せる。古い店の並んだ階段道を登って行ったことは覚えているが、あとの記憶はあいまいである。

 どうも、夢ではたいていわたしは高校時代にもどってしまうみたいだ。あの頃が「黄金時代」だったということだろうか。具体的に「楽しかった」と記憶していることなどないのだけれども。それと、進行中のバスから途中下車するという夢も続いている。途中下車を繰り返すというのは、たしかにわたしのやってきたことかもしれない。とにかくは夢を記憶しているということは、その内容にかかわらず爽快なものである。

 きょうも温暖な気候の一日。もうこのまま春になってしまうのだろうか。もういちどぐらい、寒さにふるえるときもありそうだけれども。昼前に東のドラッグストアに買い物に行き、豆腐とキムチを買って帰って昼食のおかずにした。郵便受けをみると、注文してあった「タコの教科書」が届いていた。封を切ってパラパラとめくってみる。各ページの写真がたいていカラーになっていて、見る目を楽しませてくれそう。目次をみると、先日読んだ「タコの才能」とけっこうかぶるような内容ではあるみたいだけれども、読むのは少し先になるだろうか。

 午後からはきのう図書館から借りた「高慢と偏見」のDVDの、まずはディスク1だけでも観ておきたいと観はじめたけれども、またまた途中で眠くなってしまって昼寝。もうあまり昼寝はしたくなかったんだけれども。
 それで二時間ぐらい寝てしまってからふっと目が覚め、「これ以上寝続けるのはよくない」と起き出して、DVDの残りを観る。今日の夕食は白菜ともやしとレバーをオイスターソースで炒めたもの。いつものメニューに片栗粉のとろみをつけないだけ、という感じだけれども、これもけっこうおいしかった。

 「LAヴァイス」を読み始めなくっちゃなあとは思っていたのだけれども、まったく本を開かないままで終わってしまった。あしたはまた東京へ出るので、その電車の中ででも読み始めようか。寝てしまわなければいいのだけれども。



 

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■ 2015-02-19(Thu)

 トマス・ピンチョンの「LAヴァイス」が映画化され、日本でも原題の「インヒアレント・ヴァイス」のタイトルでこの四月に公開されるという。わたしもこの小説は読んでるんじゃないかと思ってこの日記で検索すると、やはり二年ほど前に読んでいる。もちろん今のわたしにその記憶はこれっぽっちも残っていないのだけれども、わたしの書いた当時の感想を読むと、あれこれとひっかかるミュージシャンの名まえが頻出してくるらしい。映画ではそのあたりどうなるのか、そういう音楽まみれの映画だったら楽しいのだが、とにかくはまた原作を読みたくなってしまった。で、四月にはパトリシア・ハイスミスの「殺意の迷宮」の映画化されたものも公開される。この原作も映画が公開されるまでに読んでおきたいし、もう二ヶ月も猶予はないのである。たいへんだ。
 とにかくは借りていた本の返却日でもあるので、午後から地元の図書館へ行き、その「LAヴァイス」を借りてきた。それプラス、読み終えた「高慢と偏見」の映像化されたDVDを借りる。キーラ・ナイトレイの出ている「プライドと偏見」ではなく、BBC製作の二枚組DVDで、ダーシーをコリン・ファースが演じているもの。総計五時間の長尺だけれども、あの原作をきっちり映像化するにはこのくらいの長さはひつようだろう。
 とにかくは「LAヴァイス」を読み始め、「高慢と偏見」を観なくては。このあいだ読み始めたハイスミスの「変身の恐怖」はちょっとおあずけ、ですね。

 きのう、つい先日にブリュノ・デュモンの「プティ・カンカン」が東京でも公開されていたことを知って、見逃したわたしはがっくりしたのだけれども、今日、カイエ・デュ・シネマにメールして、「これから公開の予定はないのか」と、問い合わせてみた。すぐに返事をいただき、「カイエ・デュ・シネマとしてはもう再映の予定はありません」とのこと。どこかが買い付けてくれればロードショー公開もあり得るし、DVD化される可能性もあるということ。つまり、「見込みはない」と考えた方がいいんだろうけれども、あの「Twentynine Palms」が何年も経ってからとつぜん、「欲望の旅」というタイトルでDVD化されたこともあるので、こればっかりは先のことはわからない。「カミーユ・クローデル」だってWOWOWで放映されたりもしたし。

 今日は晴天で暖かい陽射しだったけれども、図書館へ行ったときには頭の上に黒い雲も拡がり、日が照っているのにちょっと雨が降ったりもした。つくってあったシチューを消化してしまったので、また白菜を買ってきて、中華メニューをはじめることにした。小さめの白菜だけれども、いったい幾日ぐらい、何食ぐらい白菜ばかり食べて持たせることができるだろうか。わたしの予想では軽く十食はイケると思うし、おそらくは白菜こそはいちばん経済的な食材なのではないかと思う。おいしい料理もつくれるし、二月は白菜で乗り切ろう。

 このところ東京とかに出かけるのでなければついつい昼寝をしてしまう日が続いてしまったのだけれども、きょうは寝ないようにがんばったわけではないけれども、昼寝をしないで過ごすことができた。やはりそういう生活が本来のものだと思う。


 

[]「怪談海女幽霊」(1960) 加戸野五郎:監督 「怪談海女幽霊」(1960)   加戸野五郎:監督を含むブックマーク

 興味半分でずいぶん以前に録画してあったもの。新東宝映画の作品で、当時あれこれとつくられていた怪談モノと海女モノとをくっつけたもの。一時間に満たない作品ではある。

 その尺の短さゆえか、始まって一分も経たないうちにほんとうに唐突に「幽霊」が登場する。あんまりに唐突なので、怖がっているヒマもない。というか、声を出して笑ってしまう。どうも演出として「幽霊」で怖がらせようというつもりはまるでないようで、どっちかというと、漁村の旧家を舞台に起こった連続殺人事件を解明するミステリーという感じ。そこに、本筋とはほとんど関係なく海女さんたちがいっぱい登場してくる。この時代に「海女モノ」がヒットしたというのも何となくわかる映像というか、白い下着のようなセパレートを身につけただけの海女さんの容姿はやっぱりエロティックなものだし、そんな海女さんが海中にもぐる映像が不必要に長く挿入されているね。これも「お約束」だったという海女さんの取っ組み合いの乱闘シーンというものも、まるでストーリー展開とは無関係におっぱじまったりもする。ふふふ。

 ストーリーにはそれなりに面白いところもあって、興味を持たないわけでもないのだけれども、やはり「幽霊」はすっかり浮いてしまっている。もうちょっと尺を長くして、演出として怖がらせることができたらねえ。舞台となった漁村のロケーションは、とってもよかったですね。



 

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■ 2015-02-18(Wed)

 きのう映画館で予告をあれこれと観たのだけれども、その中にある邦画(タイトルは書かない)があって、観ているとこれが、照明というものがまるで仕事をしていない。室内でのクライマックスじみたシーンでのヒロインの顔が影に沈み、その女優さんの美しさがまるで出ていない結果になっている。撮影がデジタルになって条件が悪くっても撮影出来てしまうものだから、照明はないがしろにされてしまうのだろうか。このごろは邦画を観ていて同じように感じることが多くて、去年観た作品でも、その中で「これはクライマックス」という場面でヒロインの顔に影がかかっていたりした。まさか意図したものとは思えないし、邦画でもむかしの映画や海外の映画にはこんなことは起きていない。そういうことをチェック出来る人がいないのだろうか。黒沢清なんかはそのあたりはものすごくキッチリとやってのけているから、やはりスタッフの「差」なんだろう。美意識を持ち合わせていればクリア出来るはずなのに、映画って、そういうところでもダメになって行くのだと思う。

 映画館に置いてあるチラシにまじって、カイエ・デュ・シネマの、これはチラシというよりも小冊子があって、それを読んでいると、この二月の初めに(ついこの間まで)ブリュノ・デュモンが来日していて、その特集上映が行なわれていたらしい。その中にブリュノ・デュモンの去年の作品、ものすごく観たかったけれどもどうせ日本では公開されないのだろうなと思っていた「プティ・カンカン」がちゃんと日本語字幕付きで公開されていたのを知った。この特集上映は三月にもまた繰り返されるのだけれども、「プティ・カンカン」は二月の一回ぽっきりの公開で終わりのようだ。そんな、せっかく日本語字幕まで付けて、たった一回だけの上映で終わらせていいものだろうか。わたしがブリュノ・デュモンを大好きなのを知って、わざとわたしが気づかないようにこっそりと上映しやがったのだろうか。ものすごくしゃくにさわる。三時間二十分の長篇(ほんとうはTVドラマで、そこからの編集版らしいのだが)なのだけれども、いっそロードショー公開してくれないものだろうか。ブリュノ・デュモンの作品は2006年の「フランドル」を最後に、まともに公開されていないからなあ。とにかくは、せめてわたしのチェック出来るときにもう一度上映していただきたい。

 きのう出かけたものだから、例によって今日は「お疲れモード」。食事はシチューのつくり置きがあるからめんどうはないわけで、やはり昼からは長い昼寝になってしまう。‥‥これはやはり悪癖で、どこかでこういう流れを断ち切らないと、いつもいつも午後の時間は「昼寝」ということになってしまいそう。
 ずっと読んでいた「高慢と偏見」をベッドの中でようやっと読み終わり、さあ、こんどはパトリシア・ハイスミスの「変身の恐怖」だ!


 

[]「高慢と偏見」ジェイン・オースティン:著 阿部知二:訳 「高慢と偏見」ジェイン・オースティン:著 阿部知二:訳を含むブックマーク

 とにかくは面白い。基本は「取り違え、勘違い」というか、その原因は「気取り、見当違い、つまり<高慢と偏見>」にあるところの喜劇っぽい展開なのだけれども、ここで前半〜中盤の主人公エリザベスのタカビーさが「決め」になり、後半のみごとなまでのデレデレぶりが、それこそ古典的な「ツンデレ」の元祖としてエリザベス・ベネットの名を永遠に記憶させることになるだろう。これに対抗するダーシーがまたツンデレで、前半の対決シーンはまさに「あーいえばこーいう」の決闘じみた展開。このあたり、最高である。先に敗北(?)するのはダーシーの方で、「これはもうデレつくしかない」とエリザベスに迫るのだけれども、エリザベスに「ツン!」とやられてしまう。そこで(というわけでもないけれども)陰にまわって善行(?)を積むのだけれども、エリザベスも段々に「あら、あの人って!」となってしまう。この展開、とにかくは面白くって仕方がない。そこにまた個性豊かな脇役陣がみごとな絡み方をしてくるわけで、読みながらもケラケラと笑ってしまう場面多し。

 これはやはり背景が18世紀ののどかなイギリスの田舎だからこその面白さでもあるだろうか。田舎に引っ込んでいる人たちの世間知らずということもあるだろうし、「とにかくはいい(お金持ちの)旦那さんを見つけることこそが女の子の目標!」という目的に向かって、皆がまっしぐらである。「ほかにやることないのかね!」とあきれてしまう。そういうところで主人公の家族は女の子の五人姉妹で、能天気なそのお母さんを含めて、「男!男!」と、その目は血走っているのである。そこで家族でただひとりの男性であるお父さんの「やれやれ」という感じがいかにもおかしくもある。ただひとり、姉妹の真ん中のメアリーだけはそういう渦中に巻き込まれずに音楽の稽古や勉学に励んでいるようだけれども、どうやらそれは器量があんまりよくないせいらしい。かわいそうなメアリーは、けっこう作者からも見捨てられてしまってる。


 

[]「The Private Life of a Cat」(1947) Alexander Hammid:監督 「The Private Life of a Cat」(1947)   Alexander Hammid:監督を含むブックマーク

 ネットでYouTube のページへ行くと、「あなたへのおすすめ」として、そのトップにこの映像が置かれていた。そこには「Private Life of a Cat (1947) Experimental Film About Cats! Alexander Hammid & Maya Deren」と紹介されているわけで、つまりこれはあの傑作「午後の網目」をつくった二人による作品らしい。この作品のことなどまるで知らなかったし、つい先日行なわれた「鏡の中のマヤ・デレン」という上映会でも、この作品は上映されていないようだった。

 とにかくはネコの映画。二十分ぐらいの作品なのですぐに観始めてみたら、監督名としてAlexander Hammid のクレジットは出てくるけれども、Maya Deren の名前はどこにも見られなかった。調べてみると、どうやらプロデューサーとして、Alexander Hammid の名といっしょに彼女の名前も出てくるようだった。この作品の製作された1947年にはまだAlexander Hammid とMaya Deren は夫婦だったわけで、つまりはここで登場するネコは、二人の愛猫だったわけなんだろう。

 さてこの作品。モノクロのサイレントなんだけれども、とにかくは「傑作」である。古今東西にいろんなネコの登場する画像というのはあるだろうし、今現在もYouTube には多数の「かわいいネコ」画像がアップされている。しかし、この「The Private Life of a Cat」は、それらすべてを凌駕するであろう、ネコ映像の大傑作である。これから先も決して、これ以上のネコ映像は出てくるわけがない。これはまさに、「完璧」な作品なのである。

 紹介文には「Experimental Film」などと書いてあるけれども、決してそんな小難しいモノではない。むしろ徹底した「ネコ萌え」フィルム、なのである。「すばらしい!」というと同時に、「なんて可愛いんだろう!」という反応こそも出て来るではないか。

 ストーリーはある。オスのネコ(He)がいて、メスのネコ(She)がいる。二匹がいっしょにいて、仲がよさそうである。メスネコは妊娠して、仔ネコを産んで育てる場所を探す。ちょうどいい段ボール箱をみつけて、そこで五匹の仔ネコを出産し、育て始める。オスネコも仔ネコに対面する。段ボール箱の中では歩き始める練習が出来ないので、一家は暖炉の前の広いスペースに引っ越しする。仔ネコたちはおぼつかない足取りでよちよちと歩き始める。オスネコは仔ネコに高いところに登ることを教えようとしている。仔ネコたちは成長して自分でミルクを飲めるようになり、オスネコとメスネコは最初のシーンのように仲睦まじい様子をみせる。

 おそらくはワン・チャンスしかなかったであろうカメラチャンスをみごとに活かし、しかもそれぞれがすばらしいアングルでの撮影。これはもう、四六時中ネコたちにつきっきりで撮影に夢中になっていたんではないだろうか。これはどんなに撮影技術が発達しても、これ以上の技はできない。感動的な出産シーンから、「お引っ越し」のシーンなど、ぜったいに取り直しは出来ないだろうというショットが連続する。そしてすばらしい編集。ここにまさにネコの「生」というものがくっきりと浮き彫りになる。

 あまりにすばらしいので、わたしは続けて三回も観てしまった。これからもいっぱい観ようと思う。しばらくYouTube 画像をこの日記に貼り付けていなかったのでやり方がよくわからないけれども、この日記のここにも貼り付けておきたいと思う。もしもこの日記を読みに訪れてくる方がいらっしゃれば、そういう方もこの「The Private Life of a Cat」を観て下さればいいと思う。

     D


 

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■ 2015-02-17(Tue)

 今日は映画を二本観るつもり。まずは神田の岩波ホールでアラン・レネの遺作「愛して飲んで歌って」を観て、そのあとに銀座にまわってゴダールの「さらば、愛の言葉よ」を観ようと。「愛して飲んで歌って」は午後二時からの回があり、それが終わるとだいたい四時。そこから銀座にまわると余裕で「さらば、愛の言葉よ」の五時からの回に間に合うだろう。「さらば、愛の言葉よ」は一時間ちょっとなので、そのまま直帰すればけっこう早い時間に帰宅出来る。または、またちょっと飲んでから帰ってもいい。

 十一時の電車で地元を出発すれば、神田には一時半ぐらいには到着出来るだろう。ちょっと昼食をとる時間はないけれども、パンでも食べてしのいで、銀座に移動してから軽く食事をする時間も取れるだろう。そういう目算で駅に行く。

 実はここで思いがけない展開が待っていて、駅のホームで立っていると、あとから来られた方に「失礼ですが‥‥」と、声をかけられた。メガネをかけられた細身のその中年の男性のお顔に、わたしも「このあたりでよく見かける方」という記憶はあったのだけれども、その方はわたしに「水戸芸術館とかに行かれてませんでしたか」と聴いて来られる。それはかつては行ったこともあるスポットだから、「ええ、ずいぶん以前に」とか答えていると、「去年のピーター・ブルックにもいらしてらっしゃいましたね」などといわれる。まさにその通りなのでちょっとおどろいてしまい、その方とのあれこれの会話がはじまった。なんと、わたしも名前は存じ上げている舞踏家のもとで舞踏のワークショップに参加されていて、戯曲の創作もされていらっしゃるらしい。電車の中でもずっと会話を続け、もちろん共通する知人もいるわけだし、あれこれと話題が拡がってしまう。
 まさか、この地でこういう「同好の士」というのか、そういう方とめぐりあうことがあるとは思いもしなかった。メアドを交換して乗り換え駅でお別れしたけれども、はたして、これからどのように発展するでしょうか。ちょっとおどろきの出会いではありました。

 とにかくはわたしはまたその先の電車の中では眠り続け、新宿からメトロで神保町へ。上映される岩波ホールに足を運ぶのはいったいいつ以来になるんだろう。十年ぶり? そんなことはないか。とにかく、この映画館はシニア料金があんまり安くないことがわかった。
 上映までちょっとだけ時間があるので外に出て、コンビニを見つけてパンを買い、ついでにきのう買うことにした「タコの教科書」の代金を支払う。コンビニの角でパンにかじりつく。

 映画館は半分ぐらいの混み方。やっぱり年配のご婦人方のお客さんが多いのが、さすがに「岩波ホール」。映画もまた、そういう年配のご婦人方に喜ばれそうなところもあっただろうか。

 終映後、すぐに銀座に移動。けっこう雨が降り始めている。こちらでまずは席を確保して、三十分ほど時間があるので、また「日高屋」へ行ってしまう。今日は「ニラレバ定食」をいただく。こういうメニューはイマイチですね。日高屋。

 さて、ゴダール。解ったか解らなかったかとかいうことはひとまずはどうでもいいことで、楽しめたか楽しめなかったかということでは間違いなく楽しめた。

 ちょっと一杯、くつろいでから帰ろうかとも思ったけれども、帰宅すればシチューを温めればすぐに食事出来るし、焼酎の買い置きもあるわけだから、ここはまっすぐに帰宅することにした。乗り換え案内では上野からの快速電車に乗れる時間。九時には帰宅することができた。ニェネントのお出迎えを受け、ニェネントも「さらば、愛の言葉よ」のワンちゃんのロクシーみたいに、わたしの道案内をしてくれないかな、などと思ってしまったりする。ニェネントは部屋飼いだからそれはムリ。


 

[]「愛して飲んで歌って」アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督 「愛して飲んで歌って」アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督を含むブックマーク

 アラン・レネがアラン・エイクボーンの原作で撮るのは、「スモーキング/ノースモーキング」(むかし観たけど忘れた)、「六つの心」(DVD、持ってる)に続いてのことになるのだろうか。同時にそのあたりから彼の晩年のコメディー路線も始まっているような。傑作「風にそよぐ草」のようなぶっ飛んだ展開はないけれども、「六つの心」に似たテイストは感じられる作品。

 まるで舞台の書き割りのような四つの家の、その中庭だけでほとんどの劇を進行させ、その舞台の移動にだけは、実際の道路を車で移動するショットがはさみ込まれる。それぞれのお家に移動したんだよ、というのはマンガチックなイラストで示されるし、登場人物のひとりでのアップ画像のバックは手書きのクロスハッチング。「これはコミックなんだよ」という演出なんだろうけれども、それが成功しているのかどうかというと、微妙なところを感じてしまう。
 というのも、このストーリーが読めてしまうところがあって、観ていれば「ああ、きっとこうなるんだな」とわかるわけで、じっさいにそのような展開になってしまう。そのあたり、「え? どうしてそういう展開に?」という「風にそよぐ草」とかの驚愕とは距離がある感じ。ラストの真上からのショットもいいけれども、ここも「六つの心」のラストの「雪」のインパクトは感じられない。

 タイトルの「愛して飲んで歌って」というのは、ヨハン・シュトラウスの「酒、女と歌」から来ているらしく、たしかエンドロールでこの歌も流されるのだけれども、どう見ても「ちょっと、ちがうんじゃないかなあ」と思わざるを得ない。誰も歌は歌わないし、酒を飲むのはサビーヌ・アゼマだけじゃないのか。サビーヌ・アゼマはとってもいいけれども。

 気分としては「ちょっと残念」というところはあって、やはりまだ正式に公開されていない2012年の作品「あなたはまだ何も見ていない」を観てみたい。


 

[]「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール:監督 「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール:監督を含むブックマーク

 もちろんいつものゴダール作品らしくも、字幕と引用とが(このふたつをイコールで結ぶのはおかしいのだけれども)入り乱れた、いちど観ただけではとても咀嚼出来ないような作品。そのあたりを復習してからもういちど観に行きたい映画だけれども、先に観たアラン・レネの作品にはなかった「アッとおどろく」要素に満ちあふれた作品で、とにかくは自分の眼と耳との得た、一時間ちょっとの体験を充分に楽しむことができた。

 あってないような、それでも無視しちゃいかんだろうというようなストーリー展開のことはさておいて(このあたりはもう一回観なくては)、まず第一にこの3D映像の刺激的なこと。そして第二には音質も変えて左右から飛び交う音響のこともあるのだけれども、やはり映像のことはどこまでも書いておきたい。

 とにかくはわたしなどは、3D映像というとそれなりに「ハリウッド大作映画」というか、「ゴジラ」だとか、とにかくは非日常世界が飛び出して見えてすごいねー、というような感覚で観て来たわけだけれども、ここでゴダールがやってることは、ひとつにはまったくの日常世界の映像であって、そこで「ものすごい近景」と「メインの景色」、そして「遠景」のような分け方をして撮っている映像が目立つ。この「ものすごい近景」というのがいっつも登場するようだけれども、これは観ていると奥の景色を見るのをじゃましてるような感覚になって、立体的に見えるものだから、自分の見る位置を変えるとその近景をよけて奥を見ることができるんじゃないかと思ってしまう。それで、この映画の中でも何度か、首を動かして奥を見ようとかしてしまって、「そうか、これは視点が固定されてるんだからムリなんだ」とか気づくことになる。まずはこのことが、体験としてものすごく面白かった。
 それと、頻出する「二重映像」。たとえばガラスに映った室内の映像と、ガラスの外の映像とがどちらも立体で迫ってくる。こういうことをエフェクトの二重映像としてもやっているわけで、観ているこちらの視覚が混乱してしまう。こういう「視覚の混乱」というのはまるで体験したことのないことで、映像として「こういうことも出来る」というか、「こういう体験もある」ということで興味深いことではあった。
 花園などの映像でカラー的にエフェクトをかけての3D映像も頻出するのだけれども、こういうところでも「ありえない世界」というものを現出させる、というか、この世界がまるで異なる異相を見せてくれる感覚を味わうことが出来た。

 映画の中でひんぱんにゴダールの愛犬(?)ロクシーが登場するのだけれども、この映像が(3Dと関係なく)すばらしい。わたしはどこまでも、このロクシーのあとについて行きたくなってしまった。

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 3Dで観れるうちに、またきっと観に行こう。


 

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■ 2015-02-16(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 また変な夢をみた。このところ、みた夢のことをある程度記憶していることが多いので、そういう脳活動がしっかりしてきたのだろうかと思ったりもする。
 今日の夢ではわたしはどこかの大学に編入されるのだけれども、それはそれまでの自分の仕事が評価されてのことらしい。正当に入学試験を受けての入学ではなく途中編入で、年齢的にもわたしは周囲の大学生よりもひとまわりぐらいは上らしい(実年齢で登場してはいない)。周囲はけっこう気さくにわたしを受け入れてくれているし、その大学での授業風景もまたおかしなものだった。授業を終えてわたしはバスで帰ろうとするのだけれども、途中で大学の事務局に連絡しておかなければならなかったのを思い出し、バスを降りて大学の方へと引き返す。その風景も奇怪なものだった。

 今日はしごと。しごと場から空を見上げると、これはうろこ雲というのだろう、薄く層をなした雲がずっと続いていて、それが風でゆっくりと東の方へ動いて行く。その動き方が空全体が移動して行くような感覚で、見方を変えれば、自分の立っている大地の方がゆっくりと移動しているような気分になる。
 しごとを終えて自宅に帰るとき、空に飛行機雲がきれいに線を引いていた。あまりにきれいな線だったので写真に撮っておこうと思い、部屋に戻ってケータイを手にしてまた外に出た。時間的には一分ほどしかかけていないはずなのに、その飛行機雲はもう東に位置をずらし、さっきの鮮やかさは消えそうになっていた。

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 昼食に久々にホワイトシチューをつくった。最初の段階でちょっと小麦粉を炒めすぎてしまったのと、ブロッコリーをゆですぎてしまったのとで、どちらかといえば失敗の味。くやしいので近々再チャレンジしてみたくなる。

 最近タコの本に凝っているのだけれども、Amazon で検索していて「タコの教科書」という本をみつけて、紹介文を読んでいて読みたくなってしまった。地元の図書館のサイトで検索しても所蔵していないようなので、「買ってしまおうか」と、クリックしてしまった。

 あさってはしごとが非番で休みなので、あしたはまた映画を観に行こうかと考える。アラン・レネの遺作の「愛して飲んで歌って」が先週から公開されているのを観たいのと、ゴダールの3D映画「さらば、愛の言葉よ」をいっしょに観ておきたい。スケジュールを考えると楽に二本とも観ることができそう。今日はそれにそなえて、というわけでもないけれども、またまた長い昼寝。こうやってあまりに昼寝が日常化してしまうのはよくないとは思う。夕食は昼つくったシチューですませ、昼寝をしたわりには早く寝つくことができた。


 

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■ 2015-02-15(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 今日は日曜日で、わたしのしごとも非番の休み。やはり二日続けて東京に出て映画を観たりしたので疲れたのだろうか。まるで何もやる気がしない。

 朝ご飯はいつもの通りのトーストサンドで、昼食まではパソコンに向き合って過ごして、ちらちらとつけっぱなしのテレビをみる。昼食はインスタントの担々麺にした。担々麺おいしい。

 そのあとは例によって昼寝。また暗くなるまで寝てしまう。そういえばこの日はカーリングの日本選手権の決勝があるのだと思い出し、「いつまでも寝ていられないし」と起き出してテレビをつける。女子の対戦は前に予選リーグでも放映されたのと同じチームでの対戦。その予選リーグのときには「ナイスショット!」というところでのゲームの決まり方だったけれども、今日の決勝はミスショットで勝敗が決まってしまった感じ。それはやはり、ナイスショットというものをこそ見たい。

 女子のあとは男子の決勝なのだけれども、ここでまた南のスーパーへ安くなった弁当を買いに行く。ところが、ほとんどの弁当はもうすっかり売り切れてしまっていて、売り場の棚はすっからかん。きのうは十時を過ぎた時刻でもけっこうあれこれと売れ残っていたのに、きょうはまだ九時だというのに売り場は空っぽ。土曜日と日曜日との差、ということだろうか。かろうじて残っていた寿司のパック(あまり値引きされていない)と、またニェネント用にカツオの刺身パック(こちらは半額)とを買って帰る。ニェネントは連日の生鮮魚だからそりゃあ喜ぶ。

 買ってきた寿司を食べながらカーリングの続き、男子の決勝をみる。こちらもそれほどにはエキサイティングなゲームでもなかった印象。開催された会場では大雪のために観客を入れず、つまり観客なしでのゲームになったらしいんだけれども、そういうところがゲームにも影響を与えたのではないかと考えるのは、それはうがった見方だろうか。

 昼寝をしたのでけっこう遅くまで起きていたけれども、あしたはしごともあるのであんまりのんびりした気分ではない。「早く寝ておかなければ」という気もちになる。やっぱり、ほんとうに「休みだ〜!」とのんびりするためには、連休をとるのがいちばんだと思う。これからは休みの申請をするのにできるだけ連休を申請しようかと思う。


 

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■ 2015-02-14(Sat)

 きのう終電での帰宅になっての寝不足でしごとに出て、それで今夜もまた東京に映画を観に行く。今日は井土紀州氏の作品を中心に連続上映している「映画一揆外伝」の、「破れかぶれの女たち」と題された二本。井土監督の「土竜の祭」プラス葉月螢改めほたる監督の「キスして。」と。
 わたしは葉月螢さんのファンである。彼女が水族館劇場に出演していた頃からその名まえは印象に残っていたし、その後の映画での活躍ももちろん承知している(全部観ているわけではないけれども)。終映後のトークにも登場されるということで、今日はどうしても来たかった。二日連続することがそんなにハードだと思っているわけでもないけれども、とにかくは映画を観ながら睡魔に襲われてしまうことだけが心配。

 上映は五時から、開場が四時半のはずなので、ギリギリの時間を避けるのならば一時間前に到着していないといけない。上映される場所は人形町なので、上野駅経由で行けば近いのだけれども、三時半に到着したいと考えればこちらは一時に出発すればいいだろう。昼食も自宅ですませてから出発すればいいということで、ゆっくりとしたスケジュールではある。

 今日は豆腐を買ってあったので昼食は冷や奴、それと銀鮭を焼いておかずにしてかんたんにすませ、予定通りに一時の電車で出発する。予定通りに電車の中で眠くなり、上野駅に着くまで爆睡してしまった。駅に着いてもすぐには気づかずに寝つづけていて、ハッと目覚めるともう、電車の客は皆降りてしまったあとだった。メトロの上野駅に乗り換えようと歩いたけれどもすぐには見つからず、どうせ時間があるのだから御徒町の駅まで歩くことにした。お正月にきたとき、途中のアメヤ横丁のガード下にあるタバコ屋にかわいいイヌがいたのを覚えていたので、またあのイヌの姿をみたくなってそのタバコ屋に行ってみたけれども、きょうはあのイヌは留守だった。

 御徒町からメトロで人形町まで乗り、外に出たときはまだ四時になる前。ちょっと時間があるので、夜が遅くなるわけだし、昼食も軽くすませただけだったので、何か食べることにした。それでまた「日高屋」へ行ってしまう。このところ「日高屋」ばっかり。レバニラ炒め定食か担々麺かどちらかにしようと思っていたけれども、ご飯よりは麺の方が食べたくって担々麺にする。けっこうわたし好みの味で、おいしかったのだけれども、辛くって、頭からも汗が流れ落ちてくる。

 ちょうどいい時間になって上映会場へ行く。開場されたばかりで、わたしは二番目ぐらいの入場。チケットを買って、きょうはバレンタインデーとかいうんで小さなチョコレートももらった。前にこの会場にきたときはちょっと後ろの方の席になり、終映後のトークがマイクなしなのであまり聴こえなかったわけだったので、今日はなるだけ前の方の席を選んだ。

 上映は機器のトラブルで特に終盤でちょっと画像が乱れたところもあったけれども、その終盤の部分をあとでもういちど上映したりして、なんとなしに手づくり感のある上映会は終了。わたしも睡魔におそわれることはなく乗り切ることができた。終映後にほたるさんのトークがあったけれども、今までの映画などで感じた「重さ」とはまた別の、屈託のない明るい方だったという印象。

 トークが終わってまだ八時ぐらいと、思っていたよりも早い時間に帰路に着くことが出来た。急いでメトロに乗って上野に出ればけっこう早くに家に帰れそうなので、そのままメトロの駅に急ぐ。上野駅の改札に着くと、ちょうど宇都宮線の快速が出発する時間がせまっていて、うまい具合に乗ることが出来た。車中では「自負と偏見」を読み進めて乗り換え駅に着き、ローカル線の乗り継ぎもそれほど悪くなく、十時ちょっとすぎに自宅駅に着いた。
 この時間ならもちろんスーパーで弁当類が安くなっているわけだし、ニェネントにまた何か買ってあげようと思って南のスーパーへ行ってみる。時間的に弁当類は売り切れている可能性もあったけれども、まだけっこう残っていた。刺身の盛り合わせが半額になっていたのをニェネントとわたし用に買い、あとはまた中華弁当を買って帰った。

 帰宅すると、魚の匂いに反応したニェネントが寄ってくる。盛り合わせにはホタテや甘エビも入っていたけれども、ホタテはよくないだろうとわたしが全部いただく。エビはきっと大丈夫なんだろうけど、ちょっとそのあたりはあいまいなので、これもわたしがもらった。そのかわり、カンパチとかはほとんど全部ニェネントくんにあげる。ニェネント喜ぶ。
 あしたはようやくしごとも休みなので、家でゆっくりと休みたい。


 

[]「土竜の祭」(2010) 井土紀州:監督 「土竜の祭」(2010)   井土紀州:監督を含むブックマーク

 井土紀州監督の作品でも、このあたりになるとわたしはまだ観ていない。井土監督はずっとこのところ、新聞の記事になるような事件から脚色しての犯罪ドラマを製作しているわけだから、この「土竜の祭」にもモデルになった事件があったのだろうか。

 いわゆる「オレオレ詐欺」の一種のような高齢者を相手にした詐欺行為を、ホームヘルパーの同僚の三人の女性があばいていくのだけれども、奇怪な展開にはなってしまう。この三人の女性を、ほたるさん、長宗我部陽子さん、それと阿久沢麗加さんという三人の女優さんが演じ、それぞれの個性を出しながらコミカルな展開をみせてくれる。

 製作は映画美学校ということで、よくわからないけれども、井土監督とその映画美学校の人たちとの共作というか、映画製作を学ぶ過程での作品製作なのかもしれない。脚本にも井土監督のほかに多くの人の名がみられる。作品としてはもちろんデジタル撮影なわけだけれども、室内での撮影で、テーブルを囲む人たちの顔を照らす明かりが上からの室内灯だけのようなところがあり、つまりは人物の顔は影になってしまっている。「この作品は<照明>なしで撮っているのかな?」と思っていたのだけれども、クレジットをみるとちゃんと照明スタッフはいるわけで、正直、こういうところはちゃんとやって欲しいと思ったりはした。


 

[]「キスして。」(2013) ほたる:監督 「キスして。」(2013)   ほたる:監督を含むブックマーク

 ほたるさんの、実体験が元になっている作品だそうで、作品の中のセリフなども実際に語られたものなどがそのまま使われているとか。

 ‥‥若くして結婚したヒロインは十五年をその男と暮らし、そのあとに好きな人が出来、「好きな人ができました。別れてください。」と切り出すことになる。って、コレって、わたしの友人がまるで同じ状態におちいってもいるわけで、わたしにはなんだか平常心で観られないような展開の映画ではある。しかし作品はそういう物語的な展開を追うのではなく、情感を縒り合わせながら情景を並列させて行くような、わたし好みの、極めてセンシティヴな作品に仕上がっていた。
 自分自身がファンであるところのほたるさんの、その第一回監督作品がこのような作品であったことをうれしく思い、これなら早い機会に次の監督作品も期待出来そうだと思うのだった。

 書いておけば、淡緑の林の中のシーンがどれもすばらしい。ほたるさんの白い衣裳がマッチしているし、ラスト近くでの、ほたるさんの分身のような女性によるダンスとの絡みもまたマーヴェラス、だった。
 期待を裏切られなかったというより、期待を上回る作品を観ることができたのをうれしく思う。



 

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■ 2015-02-13(Fri)

 今日はまた渋谷に出かけ、フレデリック・ワイズマンの特集上映を観るつもり。先週、先々週とこの上映会に二回足を運んでいるけれども、今日でこの特集上映も終わり。やはりワイズマンの作品はどれもすばらしいと思い、チラシを見て「あの作品も観たい、この作品も観たい」と迷ってしまう。ほんとうはもっとたくさん観たい気もちもあったんだけれども、けっきょく今日観るつもりの「動物園」を合わせて三本の鑑賞で今回はおしまい。
 その「動物園」の上映は六時半ぐらいからなので、もっと早くに出かければ別の作品を観ることも出来るのだけれども、「動物園」の上映が終わってから帰ると、どうしてもローカル線の終電車になってしまう。あしたはしごともあるし、今日に連続して夜にはまた映画を観る予定がある。あまり今日体力を消耗してしまうと、あした映画を観ながら眠ってしまったりするのが心配。だから今日は出発するまでに時間が取れるので、そのあいだ昼寝をしておこうという計画。

 計画としては三時に出発して渋谷に向かい、それからちょっと早い夕食をとるとちょうど映画の開映時間になるのではないかというわけで、昼食のあと、出発の準備をするために起き出すまでに二時間ほどは昼寝が出来るだろう。

 昼食にはきのう買ってあった「ボイルするめいか」をちゃっちゃっとレンジであぶり、わさび醤油でかんたんなおかずにした。なかなかにおいしくて、胃にももたれない感じがいい。まだ冷凍庫にはイカが放り込まれているので、こういう料理法もありだなと思ったりする。
 昼食のあとは予定通りに昼寝する。アラームを二時半にセットしてベッドにもぐり込むけれども、普段はすぐに昼寝モードになってしまうのにこういうときはなかなかに寝つけなかったりして、二十分ぐらいは「寝なくっちゃ、寝なくっちゃ」とやっていたのではないだろうか。
 それでもいつしか昼寝モードには入ったようで、アラームの音で目が覚める。出発の準備をして、ニェネントにお留守番をたのんで家を出た。

 電車の中ではしばらくうっちゃっておいた「高慢と偏見」を読み進め、きょうはさっき眠っていたばかりなので、電車の中で寝てしまうこともなかった。
 予定通りの時間に渋谷に着き、まずは映画館へ行ってチケットを買っておく。きょうの整理番号は25番。計画通りに先に食事しておこうと考え、なんだかやはりまた日高屋へ行きたくなってしまい、いつもの日高屋へ行きいつものメニューを注文する。きょうは熱燗だとちょっとアルコール濃度が高いかもと、レモンサワーにしておいた。これは正解だっただろう。
 飲んで食べ終わるとちょうど開場の時間が間近で、映画館の方へ行くとぴったりに入場の始まったところだった。座席も思った通りの席を選ぶことが出来、「きょうはずいぶんと計画したスケジュール通りにコトが運ぶものだな」などと思ったりする。「帰りもこういうふうに進行すればいいのに」とは思ったのだけれども、よけいなことは思わなければよかった。

 映画が終わって渋谷駅に到着し、ここまではまったくの計画通りの時間進行。これで湘南新宿ライン直通で乗り換え駅までまっすぐ行けるだろうと思ったのだけれども、これが駅構内の告知でまさにその湘南新宿ラインが遅延しているという知らせ。なんということだろう。あまりに電車が遅れるようだとローカル線への乗り換えがおぼつかなくなってしまうかもしれない(まあそういうときにはローカル線の出発を遅らせてくれるのが普通だけれども)。とにかくは遅れている乗るつもりだった電車を待つよりは、先に出る電車を何でも利用して赤羽なり大宮なりに出た方がいい。そうすれば上野からの宇都宮線に乗り換えることも出来て、電車の遅れ時間を気にせずに乗り換え駅まで行けることもあるだろう。そう思って、とにかくは先にきた埼京線に乗り込む。これが思惑通りに赤羽で上野からの電車に乗り換えることができた。ずっと座れずに立ちっぱなしだったけれどもしかたがない。
 ところが、乗り換え駅に着いてわかったのだけれども、湘南新宿ラインの遅れはせいぜい四、五分のことだったようで、それだったら乗るつもりだった電車を待っていても、ローカル線への乗り継ぎに何の影響もないのだった。ちょっと駅員さんに「どのくらい遅れているのですか?」とか聞いてみればよかったのかもしれない。そうすればゆっくりと座って帰れたかもしれないのに。

 とにかくは無事に帰宅。またおなかがすいてしまい、タマネギと牛肉をちゃっちゃっと炒めて、たまごとか醤油、味醂とかをからめてかんたんな牛丼にして夜食。ベッドで寝ようとするとニェネントがすぐにやって来て、わたしの足元でグルグルとのどをならすのだった。


 

[]「動物園」(1993) フレデリック・ワイズマン:編集・監督 「動物園」(1993)   フレデリック・ワイズマン:編集・監督を含むブックマーク

 上映前に何となく館内を見渡してみると、この回は女性客の姿が目立った。やはり「動物園」という題材がなせることなんだろうか。皆ワイズマン監督についての予備知識は持ってらっしゃるのだろうから、先日別の映画館でのロードショーで観た「ナショナル・ギャラリー」でのような「勘違い」観客はいらっしゃらないだろう。
 作品がはじまってみると、たしかにこの動物園で活躍されているのは女性スタッフの方々で、象の調教からはじまり観客への「解説」役、そしてTV局からのレポーターも獣医さんも、皆女性なわけだった。

 撮影されたのはマイアミのメトロ動物園というところ。かなり敷地面積もゆったりと広い、飼育場所にゆとりのある動物園のようで、マイアミという立地からイメージされるように、多くの水鳥たちが飼育されているみたいだった。作品はライオンの映像からはじまり、あれこれの動物たちの長くはないショットが続く。動物たち、そして動物たちをみる観客。たいていの大人の観客はカメラを持っている。
 長いシーンとしてまずはゾウの調教ショーが始まるけれども、調教師はムチを持っている。そのムチを使うことはないのだけれども、動物への芸の「無理強い」という感じがしないわけではない。園内の動物たちが写され、同じく園内を見てまわっている観客たち、主に子どもたちの映像が同様に写されて行く。大人たちは一様にカメラを持っていて、動物たちを写そうとしている。園内の女性解説員が霊長類についての説明をする。「手話の出来るゴリラ」の話が出るけれども、有名な「ココ」のことだろう。そのココが、ゴリラの子どもに自分で手話を教えるかどうかということが注目されているけれど、まだそこまでは到達していないと。

 そのあとにこの作品のハイライトともいうべき、サイの出産のシークエンス。母体が高齢のために出産に時間がかかり、けっきょくは死産に終わってしまう。なんとか生まれ出た仔サイを蘇生させようとするスタッフたち。このあたり、ごく普通にドキュメンタリーである。しかしけっきょく蘇生が出来ないとわかったあと、スタッフはほかの動物園か研究所へ「仔サイが死産したけれども、標本として欲しい部位はないか」との電話を入れる。現実的である。仔サイは焼却炉の前で解体され、欲しい部位を取り上げた残りは焼却される。

 動物園の動物医は大忙しで、この作品で多くの場面で登場する。ゴリラに全身麻酔をかけて「健康診断」的に心電図をとり、そのあいだに歯石を取ってあげたりするし、イヌ(動物園のイヌではなく、外来だろうか)の去勢手術も行なう。

 動物たちにエサをあげるシーンもあれこれと登場する。ライオンなどは肉のかたまりだけれども、オオトカゲには魚といっしょにヒヨコ丸ごと。ニシキヘビにはスタッフが撲殺したばかりのウサギが与えられる。観ていても「あんな撲殺の仕方はないんじゃないか」という感覚。菜食動物用のエサを調理する調理師の姿も写される。
 動物園の柵を乗り越えて(柵のところの地面を掘って)野犬が侵入し、シカが殺されたり大けがを負ったりする。「野良犬が増えるとこういう結果になる」というニュースを流すべきという意見が出され、男性スタッフらが猟銃を持ち、車でその野犬の退治に出る。退治された野犬は焼却炉に放り込まれる。
 動物園経営の何かの資金調達のためだろうか、パーティーの場面があり、短いながらも経営会議らしい会議の模様も紹介される。

 ワイズマンの作品なわけだから、間違えても動物園のあり方を賛美して楽しい動物映像を見せるようなドキュメンタリーではないのだけれども、動物への残虐さをクローズアップして告発するようなものでもない。それでただ客観的に「動物園での日常」を並べてみせるだけに見えるのだけれども、そこもまた巧みな編集で、動物園という「場」を多角的に映像化しているという印象はある。それと、写される数多くの動物たちなのだけれども、ワイズマンはここで「ただ動物園にいる動物をあれこれ写しておけばいい」というようなことはやらない。いってみれば、それぞれの動物の「ベスト・ショット」を狙って撮っている。例えば池の中を進むゾウを写したカットなど、カメラはわざわざ池の中に入ってから撮っているのに気付いたりする。短いショットなのに、たいへんな労力を払っている。ここに彼の、映像作家としての矜持を感じてしまう。
 そうやって動物たちのショットをずっと、動物番組のようなナレーションなどなしに観ていると、何というのか、自分が動物に同化して行くというのか、動物を擬人化して眺めるのではなく、感情移入するのでもなく、それぞれの「動物そのもの」として見えてくるような気になる。

 映画を観終えて帰宅してニェネントの出迎えを受けたのだけれども、今日はそのニェネントもまた「動物」としてわたしの眼に見え、ニェネントを抱き上げてしげしげと見つめてしまった。今度、動物園に行ってみようかと思った。



 

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■ 2015-02-12(Thu)

 きょうは奇怪な夢をみた。わたしは同僚といっしょに大きな荷物をふたつトラックに積み、その配達に同行するのだけれども、おそらくはその荷物の中には死体が入っているのだ。地面に掘られた、むかしの防空壕のような穴にその荷物を降ろすのだけれども、「これはぜったいに死体が入っているのだから」と、木製の枠の上の蓋を外す。蓋の下にはぴたりとベニヤ板が張ってある。それを剥がせば死体が出て来るのがわかっているのだけれども、わたしはそこで作業をストップしてしまう。場面が変わって、わたしが知人といっしょに迷路のような電車の改札口を抜けようとしている場面になる。ここで目が覚めてしまった。

 きょうはなんだか、何もしないうちに一日が終わってしまったような感覚。ただテレビの画面を見つめ続けていただけなんじゃないのかと思ってしまうのは、それはそれで無為な一日だったといってしまえるんだろう。とにかくは四時間近くかけて「天国の門」という映画を観たのが大きな間違いだった。

 夜になってベッドに入り込むと、いつものようにしばらくしてニェネントもベッドに駆け上がって来て、わたしの足のところで「ゴロゴロ」とのどをならし、その場所で前足を交互に踏ん張っているのが感じられる。前にもこういう光景をみたように、毛布を使って「おしゃぶり」をしているのかもしれない。今はじっさいに「おしゃぶり」をしているのかどうかは確認出来ないけれども、のどをならしているのは確かなので、この状態はニェネントには快楽なのだろう。やっぱり、わたしのことを「おかあさん」みたいなものとして思っているのだろうか。‥‥しかしそこまでにわたしになついているわけでもなく、相変わらずの「ツンデレ」ぶりではあるのだけれども。


 

[]「天国の門」(1980) マイケル・チミノ:脚本・監督 「天国の門」(1980)   マイケル・チミノ:脚本・監督を含むブックマーク

 三時間半のだらだらした作品。観ていてここまでに「うんざり」した作品というのも記憶にない(って、たいていの映画は記憶にないのだけれども)。

 まずはこの撮影がひどい。つまりは「絵ハガキ」的な陳腐な光景を無理してつくっているだけで、例えば室内に貼られたニュースペイパーやポスターの安っぽい効果にうんざりし、イザベル・ユペールのヌードでの水浴シーンに苦笑し、男ふたりが室内で会話しているその窓の向こうの屋外で、誰かが曲芸の練習をしているのが見えるシーンなど、ほとんど観ていて怒りをおぼえるほどである。

 映画としては50年代の西部劇全盛期に描かれた「アメリカン・フロンティア・スピリット」への疑問、もしくは否定という映画だと思うのだが、その描き方は50年代の西部劇的ダイナミズムを、予算を注ぎ込んでスケールアップしようとしているだけではないのか。

 まったく魅力のない主人公を、「こんな大根役者、みたことない」てな感じのクリス・クリストファーソンがやっていて、彼が出てくるたびにもう観るのをやめたくなるし、インテリゲンチャの無力さをあらわしたかったかのようなジョン・ハートの登場もまるで無意味に終わるのだけれども、クリストファー・ウォーケンとイザベル・ユペールの存在が、なんとかかんとか救いになる。それでもやはり、三時間半を無駄にしてしまった。


 

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■ 2015-02-11(Wed)

 側頭葉てんかんの重い発作が起きたのがちょうど一年前のこの時期で、大雪が降っていた。当時のこの日記を読むと「そんなことがあったのか」と、少し記憶がよみがえる気もする。この日記を続けていてよかったと思えるわけだけれども、あのときにわたしは玄関前の雪をかき集めて、室内でニェネントの雪像をつくっていた。思いのほかにいい(完成度の高い)出来で、わたしって、彫刻家になってもよかったんじゃないかとか、妙な妄想もふくらませてしまう。

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 雪という素材は細工がしやすくって、そりゃあ大雪というのはたいへんなことなんだけれども、また雪で何かつくってみたいとか思ってしまう。

 今朝も夢をみた。奇妙なレコードショップのような店で、そこに置かれているレコードの他に、自分が探したいレコードがあれば有料で検索が出来るシステムになっているみたい。わたしはその店に娘といっしょにいて、わたしがあるレコードを検索しようとすると、娘がそのレコードは今ではあれこれ、などと教えてくれる夢。
 現実にわたしの幼児教育というものは成果があったようで、わたしの娘はじっさいに古いロックのことに実に詳しい知識を持っている。こういう夢の光景にもそれなりのリアリティはあるのである。

 きょうはいくらか暖かいみたいで、電気ストーブをつけるとすぐに「暑い」という感じになってしまう。それでもやはり、ストーブなしでいると寒い。わたしもニェネントのように窓際でひなたぼっこをしながら爆睡出来ればいいのにな、とか思う。けっきょくは午後から少し昼寝をするのだけれども、きょうは四時からテレビでカーリングの中継があるので、それは見逃さない。

 きょうもエキサイティングなビッグ・エンドの展開をも堪能させられる、スリリングなゲームだった。わたしはまだまだ見ていても「こう来たらこうするだろう」というゲーム展開を読むこともあまり出来ないのだけれども、解説を聴きながら「ここを狙うのだ」というポイントへのスロー、スウィーピングがうまく行くのか、はたまた失敗するのかという展開を楽しむ。


 

[]「日本のタコ学」奥谷喬司:編著 「日本のタコ学」奥谷喬司:編著を含むブックマーク

 先日読んだタコの本は、タコに関わるいろいろな現場への潜入レポートという趣があったのだけれども、この本は「日本人はタコに対してどのようなアプローチをしているか」というような、各方面からの論文集。いちおう、目次を写しておく。
 第1章 タコという動物--タコQ&A 奥谷喬司
 第2章 ボーン・フリー--タコの子供たち 坂口秀雄
 第3章 海の賢者タコは語る-- 見えてきた自己意識の原型 滋野修一
 第4章 巨大タコの栄華--寒海の主役 佐野稔
 第5章 イイダコの日々 瀬川進
 第6章 日本のイイダコ、フランスデビュー--学名ファンシャオ(飯蛸)のルーツを探る 滝川祐子
 第7章 サンゴ礁にタコを探して 小野奈都美
 第8章 なぜタコは「明石」なのか--系譜と実像 武田雷介
 第9章 日本のタコ図鑑 窪寺恒己

 それぞれに面白い論文集なのだけれども、まずは「海の賢者タコは語る」からの、タコからカントの「純粋理性批判」へと論旨を飛躍させる文が面白く、これを手がかりにカントを読んでみたくなってもしまう、という意味ではステキな論文なのだろう。
 「巨大タコの栄華」では、タコ漁のために編み出された「潮流カレンダー」が現地でいかに愛用されているかという記述から、研究者の研究成果が(誇らしげに)示されるだろう。
 そして、「イイダコ」の学名のネーミングが江戸時代の日本の書物からのものであったろうという研究があり、沖縄のサンゴ礁でのタコ研究、明石でのタコ研究などの文が続く。ベテランの研究者や若い研究者のそれぞれのアプローチの楽しい、バラエティに富んだ書物という感想にはなる。

 タコの本というのは(予想した通りに)あんまり存在しないようで、先日読んだ「タコの才能 いちばん賢い無脊髄動物」という本とこの本と、それ以外では「タコの教科書」という本がAmazon で見つかるぐらいのもの。「タコの教科書」は読んでみたい。


 

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■ 2015-02-10(Tue)

 しばらく前からリヴィングの蛍光灯管の一方の寿命がきていて、いつまでも点滅をくりかえすままなのでもう一方の蛍光灯だけを使っていた。「買わないといけない」と思いながらもそのままにしていたのだけれども、こんどは和室の方の蛍光灯もダメになった。いよいよ買わなければならないとなって、「どこで買えば安いのか」と、スーパーやドラッグストアを見て歩いた。西のドラッグストアでは二管で千円ちょっとで、「そんなものだろうか」と思ったのだけれども、東のドラッグストアを見てみると二管550円と激安だった。きょう10日はそのドラッグストアで5パーセント引きの日だったので、ニェネントのネコ缶のまとめ買いといっしょに買ってきた。やはりいろんな店で価格の比較をしないと、よけいなお金をつかってしまうことになるなあ。

 ニェネントのネコ缶も、そのドラッグストアでいちばん安く売られている。ニェネントが生まれてすぐの時から同じネコ缶を買い続けているのだけれども、さいしょはゼリータイプではいちばん安いから選んでいた。それがいつだったかポンと値上げされ、ネコ缶の中でそんなに安さをいばれるような価格ではなくなった。ゼリータイプでなければもっともっと安いネコ缶はあるのだけれども、そういうのはニェネントには「ネコまたぎ」で、口をつけようとしない。ニェネントが気に入っている銘柄を変えると食べなくなる懸念もあるので、とにかくは同じネコ缶を買い続けている。

 ニェネントの食事はそのネコ缶と「カリカリ」、つまりドライフードとを毎日並べて出してあげている。ネコ缶は一日にひと缶の半分と決めてあるけれども、こっちは出してあげるとニェネントはすぐに、それこそあっという間に食べ終えてしまう。ぜったいにカリカリよりはネコ缶が好き。そりゃあそうだろうと思うけれども、ネコ缶だけにはしないでカリカリも出す。半分のネコ缶で足りなければカリカリを食べてちょうだい、ということだけれども、翌日になってもカリカリの方は食べ残しているということがけっこうある。ほとんど食べた気配のないような日もある。それがぜ〜んぶ食べられていたりすると、つい「よく食べたね〜」と、ほめてあげたくなってしまう。
 このところのニェネントは、とても太ってみえる。防寒のために脂肪をつけているのか、下毛が伸びているのか、とにかく日なたで丸くなって寝ている姿をみると、「おまんじゅう」みたいである。

 BSで高倉健の追悼特集をやっていて、それできのう録画した「網走番外地」を午後から観た。想像していたような映画とはちょっと違っていたけれども、真っ当に面白かった。食事のあとはやはりBSでカーリング日本選手権の中継を見る。きょうは男子予選なのだけれども、やはり男子はパワフルですごい。ぱぁんとストーンを飛ばしてしまい、一瞬にハウスの様相が変わってしまう。ちょっと見とれてしまう。


 

[]「網走番外地」(1965) 石井輝男:監督 「網走番外地」(1965)   石井輝男:監督を含むブックマーク

 健さんの映画というものを、ちゃんと観た記憶がない。「八甲田山」は観ているはずだけれども記憶に残っていないし、やはり健さんといえば侠客モノだろう。それでわたしはこの「網走番外地」もまた、投獄された侠客を主人公とした「ヤクザ路線」のひとつだと思っていた。‥‥たしかに主人公は侠客といえば侠客で、回想シーンに「出入り」もサーヴィス的に挿入されているのだけれども、そういう「ヤクザ映画」というものとはまるで違っていた。

 前半は主人公の生い立ちを回想するシーンをはさみながら、刑務所での脇役たちの存在感こそが際立つような展開。南原宏治や待田京介、田中邦衛らがいい味を出しているし、この前半の〆はやはり何といっても嵐寛寿郎の存在感がたまらない。

 後半は健さんと南原宏治とが手錠でつながれたままで、雪原への脱走劇という展開になり、終盤は丹波哲郎との追走劇。
 これはもうわたしの記憶からはとうに消えてしまっているのだけれども、かつてアメリカに「手錠のままの脱獄」という映画があったはずで、それはたしかトニー・カーティスとシドニー・ポワチエの共演だったのではないかと思う。この「網走番外地」での健さんと南原宏治、おそらくはその「手錠のままの脱獄」をモデルにしての演出だとは思うけれども、実際の苛酷な積雪の中での撮影とか見ごたえがある。ここは「男同士の友情」というものではないけれども、確実に「バディ・ムーヴィー」としての存在感をあらわしていて、これがラストに活かされる。それを「男と男との絆」というなら、それも善し。そのあとのトロッコでの追走シーンもまた迫力があり、全体に石井輝男監督の演出に惚れ込んでしまうところはある。

 有名な主題歌はもちろん健さんが唄っているのだけれども、オープニングタイトル部でワンコーラスしか流れずにいて「あれ?」と思うのだけれども、劇の進行に従って、主人公の追走シーンで次のワンコーラスずつが流されていく。そんな中で健さんが夜の都会をそぞろ歩く、おそらくはゲリラ撮影っぽいシーンが印象に残り、やはりサーヴィスの出入りのシーンの迫力がたまらない。

 想像していた「健さん映画」というものとはちょっと違う作品だったけれども、これがヒットしたというのはわかるし、こういう映画がヒットしたということがまたうれしくも感じられる。石井輝男という監督も、もっと変態じみた作品しか知らなかったわけだけれども、「そうではないところの石井輝男監督」、というのを知ることが出来たのもよかった。



 

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■ 2015-02-09(Mon)

 外は晴れているのだけれども、とにかくは寒い。午前中にいちど買い物に出たけれども、風が冷たくてこごえてしまう。部屋に戻って、和室の電気ストーブの前でノートパソコンに向かい、焼酎を飲む。もうその場から動こうとは思わなくなってしまう。さもなければベッドに行って昼寝をするとか。
 昼食に買ってあった即席麺の担々麺をつくり、ほうれん草を入れて豆板醤をまぜ、ネギをトッピングしてラー油をたらして食べる。からだが暖まるし、この麺はけっこうおいしい。考えてみたら即席麺を調理して食べるのなんて数ヶ月ぶりのことではないかと思う。この即席麺は寒いあいだはストックしておこうかと思う。

 食後はまた昼寝。きょうはあまり長い時間寝ることはしないで、夕方からはパソコンで「欲望」を観た。この字幕はポルトガル語だろうか。とにかくは何の助けにもならない字幕。映画の中の英語を聴き取ろうとするのだけれども、これがほとんど聴き取れなかった。自分がヒアリングがそこまで不得手だとは思わないのだけれども、まるでわからない。音量のもんだいなのかもしれない。

 夕食にはレバーと白菜とをオイスターソースで炒める。これでようやく白菜の在庫がなくなった。白菜は経済的なのでまたしばらくしたら買おうと思うけれども、あまり同じような献立ばかりが続いても飽きてしまう。あしたはホワイトシチューでもやってみようか。

 食事のあとはBSでカーリングの日本選手権を放映していたのを途中から見る。スポーツ競技というものの中では、カーリングだけは飽きないで見ていられる。ちょうど見始めたところでいちどに5点入るビッグ・エンドになってしまい、興奮してしまった。これからしばらくは、このカーリング中継を楽しむことになるかもしれない。


 

[]「欲望」(1966) ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督 「欲望」(1966)   ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督を含むブックマーク

 きのう観た「ポリー・マグーお前は誰だ」と同じく、1966年製作の映画(この「欲望」の公開は翌67年)。「ポリー・マグー」が当時の「モード・イン・パリ」を背景にしているのならば、この「欲望」の背景には「スウィンギング・ロンドン」がある、ということはこの作品の紹介でしょっちゅういわれている。ファッション写真を撮る主人公の姿やモデルたちのファッションにはたしかに時代の空気を感じる。冒頭とラストに登場するヒッピーじみたパントマイム集団の衣裳であるとか、主人公のスタジオに押し掛ける女の子たちの服装などはいかにも60年代っぽいし、ライヴハウスでのヤードバーズの演奏シーンもある。しかしあのパントマイム集団の持つ意味合いは単なる時代の風俗描写を越えてしまっていて、この映画そのものと密接に関係してくるわけでもある。そのことに「スウィンギング・ロンドン」的な雰囲気をうまく利用しているということはいえる。そういうところでは女の子たちも主人公の能天気な享楽性をきわだたせるだけだし、ライヴハウスのシークエンスもまた、その後の主人公の虚無感、喪失感をあらわすのに利用されている。

 主人公のカメラマンの「驕り」は、彼自身が自らを「時代の寵児」と思っているところから来ているのだろう。ファッション写真を撮ることと並行して、浮浪者の中に潜入してルポルタージュ的な写真も撮っているのだけれども、観ていても「オレは何でも撮れる」といい気になっているところが感じられる。しかし、「何でも撮れる」ということが「実は現実を見ていない」ということなのに気付いてはいない。彼が見ているのはどこまでも「虚」の世界であり、それはファッションモデルたちのポーズであっても、浮浪者たちの醜態であっても同じであろう。だから公園のカップルを盗撮し、現像されたフィルムを通じてそこに犯罪の影を見たとしても、彼には「現実」は認識されない。どこまでも、引き延ばされた印画紙からだけの世界。

 しかし、彼は公園でほんとうに「死体」を見たのか。もちろんミステリーとしてみれば、犯罪を犯した連中が彼のスタジオから写真など一切を奪い、公園の死体はあとで始末したと考えるのがノーマルだろう。犯罪現場の写真を撮り、死体を見たはずのカメラマンはその「事件」を誰かに伝えたいのだけれども、一夜明けてしまうとその証拠は何ひとつ残っていない。これが通常のミステリーとしてのストーリーなわけだけれども、主人公のカメラマンの中での変化は、そのようなミステリー的な解釈からははみ出してしまうものだった。ここで彼はそれまでの自分のキャリアからもあって、「虚」と「実」との境界線を踏み越えてしまう。

 前にこの映画を観たときに気付いたことでひとつ今回もちゃんと記憶していたことがあって、それは主人公のカメラマンが「現場」であるところの公園に入って行くとき、そこにゴミを片づけている年配の女性がいるということ。彼女は長い棒のようなものを持っていて、落ちている紙くずだけをその棒に差し取って歩いている。妙にきちんとした服装をしていて、単なる清掃の人には見えないというか、いったいなぜ、わざわざこんな人物が意味もなく登場して来るのかということ。
 ‥‥つまり彼女は劇場の切符もぎりであり、「ここから先は劇公演が始まる劇場なのだ」ということを示しているのだろう。それが、この映画での「公園」という場の持つ意味なのではないのか。たんじゅんに、この「犯罪」〜「殺し」が発生するこの公園を「リアル」な場、と捉えるのではなく、この場こそは「劇場」なのだ、というサイン。主人公はその劇場の、たったひとりの観客として呼び寄せられて行く。
 そうすると、ラストのパントマイム集団もまた別の意味を持って見えてくる。たんじゅんに「街頭劇」というものを越えたところで、「虚」と「実」との狭間を演じているのではないのか。その中に主人公が飲み込まれてしまうのは、いわば当然の成り行きとも考えられる。そして、最後には主人公も消えてしまう。これは(映画なら簡単に出来るではないかというのではなく)映画的なすばらしいトリックだと思う。

 ひとつ。夜明けどきに公園の死体があった場所に再びたたずむ主人公は、死体を見出せずに上を見上げる。カメラはそこに木の枝が風にゆれているのを捉えるけれども、カメラが下に移動すると、その木の枝は主人公の俯瞰する視線のものではなく、横からのものだったことがわかる。このシーンで「はっ」とおどろかされてしまったし、主人公の心的状況をたくみに伝えるショットだったと思う。



 

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■ 2015-02-08(Sun)

 きのう観たワイズマンの「メイン州ベルファスト」のこと、一夜明けた今朝になってより強くインパクトを感じるようでもあり、いろいろと思い出してみてもそのすべてを思い出せるわけでもなく、またもういちど観てみたくなってしまった。ワイズマンの特集上映はこの13日まで続いていて、「メイン州ベルファスト」は12日にも上映されるのだけれども、終映が午後十時を越えてしまうので帰れなくなってしまうから観られない。それでも会期中にもう一本ぐらいは観ておきたい。13日の「動物園」がいいかな。

 それにしてもやはり四時間の作品の鑑賞というのはエネルギーを取られてしまうわけだろう。きょうは朝からぐったりしてしまっていた。テレビを見たりしていて、ほかに何もしないうちに昼になり、昼食にはそばをつくって食べ、そのあとは例によって「お昼寝」モードになってしまった。例によって目がさめるともう外は暗くなっている。

 夕食の時間なのだけれども、何かをつくるという気にもならず、もうちょっと待って七時を過ぎれば南のスーパーで弁当などが半額になるはずなので、その時間になってから買い物に行けばいいと考えた。ひょっとしたらほかにもあれこれと値引きされたものが見つかるだろう。

 スーパーまでは歩いて五分ほどだから気楽なものだけれども、やはり日の暮れた屋外は寒い。スーパーに入ると目論み通りに中華弁当が半額になっていた。このスーパーの中華弁当はとにかく美味いと思う。きょうはいつも買う種類の弁当ではなく、焼きそばとセットになったものを買ってみた。さらに鮮魚コーナーに足を向けると、ちょうど刺身類の価格シールを貼り替えているところで、のぞいてみるとカツオのブロックが半額になっているのをみつけ、「これはニェネントが喜ぶだろう」と買い物かごに入れる。あとはとても安くなっていたバナナを買い、一個25円というジャガイモ(かなり大きい)を四個買った。

 「ニェネント喜べ!カツオだぞ!」と部屋のドアを開けると、ニェネントにはすでにカツオの匂いがわかったのだろうか、わたしに寄ってきてニャンニャンとなく。買い物袋から中身を出すときにも、そばで「早くして!」とばかりにのぞき込んでくる。

 まずはニェネントにカツオをスライスして出してあげると、とにかくはがっつく。出してあげた分はすぐに食べてしまう。「ワシにもカツオは分けてちょうだいな」と自分の分を切り分けて、中華弁当をあたためて自分の食事をする。うん、焼きそばがとてもおいしい。カツオの刺身も美味である。
 ここで、ちょっとしたスキに、ニェネントに食卓の上の皿からカツオをスチールされてしまった。ううむ、食卓の上のモノはひとさまのモノだから手(前足)を出さないようにとしつけてきたつもりだったけれども、やはりカツオの魅力の前にはそんなしつけも無意味になってしまうのか。とにかくやっぱり、ニェネントはカツオこそがいちばんの好物なのだと思う。

 ‥‥いかにニェネントが食卓の上のカツオをスチールしたのか写真に撮っておこうと、ちょっとばかりセッティングして演出したのが下の写真。こんな演出をするとよけいに「しつけ」は無力化してしまうのだが。
 まだカツオは半分ぐらい残っているので、あしたもニェネントには天国だろう。

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 昼寝したのでしばらくは眠れず、YouTube にアップされていた「ポリー・マグーお前は誰だ」を観た。日本語字幕なし。この映画を観ると同じ頃に話題になったアントニオーニの「欲望」も観たくなってしまう。だいたいのストーリーラインはわかっているのだけれども、この「欲望」という映画のシーン、ヴィジュアル的には何一つ記憶に残っていない。さすがにネット上で検索してみても簡単には見つからないのだけれども、なんとか見つけることが出来た。これはあしたにでも観てみようかと思う。


 

[]「ポリー・マグーお前は誰だ」(1966) ウィリアム・クライン:脚本・監督 「ポリー・マグーお前は誰だ」(1966)   ウィリアム・クライン:脚本・監督を含むブックマーク

 字幕なしで観るというのもやはり利点はあるわけで、とにかくは「絵」に集中して観ることができる。そうやってこの作品を観ると、めっちゃ細かいスクラップスティック的なカット割りと、思いのほか「長回し」の撮影とが共存しているのがわかる。どこでもドラマ的な部分はかなりの長回しになっていて、この作品の虚構性を際立たせる効果として、極めて短いカット割りをやっている印象。その長〜短のリズム感こそが、この作品を支えているようにも思えた。それとやはり、当たり前のことではあるけれども、もともとはファッション写真の分野で名を馳せたウィリアム・クラインらしくも、構図や照明の「決め」がすばらしい。そういうところでまずは「プロ」の技としてのファッションの世界の提示というのがあり、その世界を徹底して戯画化する技がある。ある面では「自己戯画化」という側面もあるのだろう。そのことがこの作品のパワーになっているのだろう。

 しかし、この映画に関わった人々の豪華さ。ジャン・ロシュフォールにフィリップ・ノワレ、そしてサミ・フレイらの出演者の顔ぶれもすごいし、ラストにポリー・マグーの「幸運」をかっさらってしまうポリーの隣人は、まだブレイク前のジョアンナ・シムカスが演じている。音楽はミシェル・ルグランだし、エンディングの素敵なイラストはローラン・トポールによるものである。

 ポリー・マグーを演じたドロシー・マッゴーワンは、実際にこの映画の中での通りに、アメリカのケネディ空港でビートルズを迎えるファンらの写真が元で、ファッションモデルにスカウトされたらしい。このあたりも「虚像」と「実像」とが入り乱れるこの作品らしい演出だと思う。「ビートルズ」と「ミニスカート」から始まった「現代」と捉えれば、この作品で展開されたメディアの「虚=実」の関係もまた、極めて現代的な事象ではないのだろうか。極端なことを書けば、「イスラム国」の「処刑脅迫映像」にもまた、「虚=実」というメディアの問題が透けて見えるのではないのか。

 この映画に登場するファッション雑誌のマックスウェル女史の連呼する「Beep! Beep!」というセリフ、これって、わたしは、デヴィッド・ボウイの大ヒット曲「Fashion」に引用されているんじゃないのかと思っている。


 

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■ 2015-02-07(Sat)

 きのう決めたように、きょうは渋谷にまたワイズマンの作品を観に行くつもり。その前にきょうは、四月のローザスの来日公演「ドラミング」のチケットが売り出される日でもある。もう作品が傑作であることはわかっているわけだから、とにかくは良い席を手に入れて良い条件で観てみたい。ネットでのチケット予約開始時間の十時近くなり、劇場サイトにアクセスしてみるのだけれども、すでに「混み合っているのであとでアクセスしてくれ」みたいな表示が出ている。もう一、二度アクセスしてみても同じ状態で、そのうちに十時を過ぎてしまった。‥‥このままいつまでもアクセス出来なくて、そのあいだに良席はソールドアウトになってしまうのかと、ちょっとガックリする。しかし、数度目のアクセスでフッとつながってしまい、「おお!」と喜ぶ。座席を選ぶところまで順調に進むと、わたしの望むところのほぼベストの席が残っていた。もちろんその席を確保して予約完了。なんかちょっとウキウキしてしまった。

 次は外出の準備。いつもはドリンクとして紅茶を持って行くのだけれども、きょうは四時間の映画に挑戦なので、眠気覚ましを期待してブラックコーヒーを持って行くことにした。効果があるだろうか?
 十一時の電車で出発し、車中で眠っておこうとしたのだけれども、あまり眠くならなかった。持参した、借りている「日本のタコ学」をちょっと読み進め、久喜から赤羽あたりまでのあいだ、ちょっと寝た。
 電車がちょっと遅れて、渋谷到着は一時半ぐらい。まずは映画館へ行きチケットを買っておく。整理番号は21番。そのあとはまた上海食堂へ行き、まるで一週間前と同じ行動。きょうは上海焼きそばはやめて五目焼きそばにしてみたけれども、ちょっと味が薄い印象。ま、満腹にはなるし、安いからいいや。食事のあとは三十分ほど時間があまったので、近くのブックオフに行って店内をぐるっとまわってみる。そんなことをやっているうちに開場時間が近づいたので、映画館の方へ。

 開場前の映画館ロビーはそれなりに混み合っていたけれども、先週の「チチカット・フォーリーズ」の時ほどでもないという感じ。やはり四時間の作品だから、そんなに気楽な気持ちでは観られないということだろうか。
 入場が始まり、整理番号で5番ずつに区切って順に入場するのだが、わたしの番号の順が来たときに入ろうとすると、すぐうしろからすごい勢いで割り込むように入場しようとする男がいた。いささかムッとしたのだが、受付の女性に「今は25番までのお客さまの入場です」と後回しにされた。まだあとの番号の持ち主だったらしい。その男のさっきの行為にはちょっと腹が立っていたので、「ハハ!」と笑い声をあげて腹いせしてやった。まあ彼は彼で「これから四時間の映画を観るぞ!」と入れ込んでいたのだろう。入れ込みすぎのフライング。

 先週は左側の席を選んで(そのせいではないと思うけれども)眠くなってしまったので、今回は右側の席を選んだ。考えてみたらわたしはたいていの場合、無意識に右側の席を選んでいることが多い。きょう予約したローザスのチケットでも、選んだのはやはり右側の席だった。きょうこれで四時間の長丁場を眠くならないでやり過ごしたら、これからは意識的に右側の席を選ぶようにしようと思った。

 ‥‥映画が始まり、途中でちょっとだけ眠気におそわれたことはあったものの、四時間を無事に乗り切った。外に出ると弱い雨が降っていてこれは予想外だったけれども、また先週と同じように行動しようと、またまた「ひとり日高屋」をやり、また同じメニューを注文した。ただ、きょうの熱燗は持って来られたときにすでに冷めていたというか、熱燗と呼べるものではなかったのが残念。こういうところが居酒屋ではないゆえの欠点ではあるだろう。

 帰宅する電車の中では眠くなって困ったけれども、なんとか乗り過ごしたりせずに十時四十分ごろに帰宅。こちらは雨は降っていなかったけれども、駅から家への道で、ぱらぱらと少しだけ、雪が降っているような気配はあった。
 部屋に戻って、買ってあった焼酎とかを飲みはじめ、ネットを閲覧したりとかしていたりしたら、いささか飲み過ぎてしまったようだ。「もういいかげんに寝なくては」とベッドにもぐり込むと、そこできょう観た映画がじわりと全身を包み込んでしまうような感覚を味わい、そういう感覚もなかなか体験したことがないところがあり、あらためてきょう観た作品の素晴らしさを体感できた気がした。



 

[]「メイン州ベルファスト」(1999) フレデリック・ワイズマン:編集・監督 「メイン州ベルファスト」(1999)   フレデリック・ワイズマン:編集・監督を含むブックマーク

 メイン州というのはアメリカ東海岸の最北部の州で、ベルファストという町は湾の入り江にある町。このことは観に来る前にネットで調べておいたこと。この作品を紹介する文では、ベルファストの人口は6000人、十七世紀からの古い歴史を持つ町らしく、この作品の中でもれんが造りの古い建物の姿があれこれと映されているのが観られる。とにかくは「都市」ではない地方の町というたたずまいで、これは先に書いておけば、こちらに海こそはないものの、わたしの住んでいる下館の町を想起させられるところがいっぱいあった。

 映画が始まり、まずはおそらくは朝の海の情景の、カット割りの多さに驚かされ、そのカット割りがワイズマンらしい「いろいろな情景を詰め込んでみた」というのではなく、いかにも映画的なカット割りなのにびっくりしてしまう。ある意味で小津の「空ショット」みたいな構成でもって、まずは朝の霧の立ちこめる入り江のショットから、空を飛ぶカモメのショット、そして湾を行き来する船のショットなどを編集しながら、まずはカメラはロブスター漁の漁船へと乗り込んで行く。「この漁船、いったい何を穫っているんだろう?」というのが、「ああそうか、ロブスターを穫っているのか」と進行して行く。このオープニングが何とも映画的にすばらしいもので、やはりワイズマンという人はタダモノではないと、わかり切ったことを今さらながらに納得させられてしまうのである。

 海から戻ったカメラは、今度は道路を追う。おそらくはその道路をつたって、町のあちらこちらへ移動して行く。次に登場するのは女性ソーシャル・ワーカーによる調査の様子だろうか。若い女性にあれこれと質問し、そのことに女性が答えているのだけれども、これがいったいどういう状況のことを語っているのかがよくわからない。断片だけ聴いていると奇妙な状況ではある。同じように、映画では工場でマッシュポテトのようなものをつくっているところが映されるのだけれども、この工場が正確には何をつくっているのか、実のところわたしにはよくわからない。ただテキパキと効率よくモノを仕上げて行く人たちの姿を「ウォッチング」するだけ、みたいなところがある。そのようなかたちで、前半でとにかくはさまざまな町の人々の様子が紹介され、映される。どうやらこの作品の撮影時期はハロウィーン直前だったようで、そのような飾り付けも散見される。

 ちょうど二時間ぐらいのところでいちど上映がストップされて休憩になるのだけれども、そのあとの後半部分で、この作品はがぜん面白くなる。というか、それまでの前半の部分も鮮やかに活かされてくる感覚を受ける。順番は前後するけれども、夜間救急診察の病院の様子、アマチュア演劇の「セールスマンの死」の練習風景、おそらくはオイルサーディンの缶詰製造工場の製造過程の追跡、保険調査員(?)の調査(ここで登場するおじさんの、「一日7〜8箱たばこを喫っていた」発言にびっくり!)、スーパーマーケットの店内(冒頭に登場したロブスターも売られている)、そしてホームセンターのペット売り場、そしてショッキングな、罠にかかったオオカミの射殺場面と、その皮を剥ぐ作業。「Nuts Store」という豆菓子(?)のショップでありながら、その二階にはさまざまな動物(キリンまで!)の剥製を展示するショップ。高校ではハーマン・メルヴィルの作品についての授業が行われていて、メルヴィルを通じてアメリカの理想が教えられるのだけれども、その教室のうしろには西部劇のガンマンの全身ポートレイトが貼られている。教師の背後の黒板のところにも、おそらくはジョン・ウェインではないかというカウボーイハットの男の写真がある。これはよくわからないのだけれども、金融会社から各家庭への勧誘電話みたいな様子も一瞬映される。そして各家庭に郵便物を配達する郵便局員。裁判所の様子も紹介され、これは略式裁判なのだろうか、スピーディーにちゃっちゃっと案件が処理されて行く。基本は罰金刑ばかりだから、「有罪」を認めればその場で罰金の支払いに誘導されて一件落着で、罪状を否認すれば後日裁判が行なわれることになる。

 作品に出て来たシーンの羅列になってしまったけれども、たしかに、これらの描写からひとつの地方の「町」の、全体像とはいわなくても、そこで「生活する」ということはある程度了解出来る気がする。そしてこのベルファストの町を、わたしの住む町へと関連させて捉えることもできる。「社会」とは何なのか。人はどのように「生活」し、どのように「社会」を形成し、どのようにリンクし合うのだろう。あまりにいろいろな示唆に富んだ作品という感じで、この編集作業の見事さに感嘆するだけではなく、そこから読み取るべきメッセージの膨大さにもおののいてしまうところがある。機会があればまた観てみたい作品なのは確かなこと。

 映画は、この町の墓地のショットの積み重ねで終了する。‥‥傑作、である。


 

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■ 2015-02-06(Fri)

 レタスを新鮮に保ち、けっこう長いことシャキシャキにしておくには、芯のところにつまようじを三、四本突き刺しておけばいいというのをちょっと前に読み、わざわざ100円ショップでつまようじを買ってきて試してみていたのだけれども、これがたしかに効果てきめん。期待以上にいつまでもシャキシャキしている。レタスで効果があるのならキャベツや白菜でも効果があるのではないかと思って、同時に白菜でもやってみたのだけれども、こちらはまるで効果がなかった。効果があるのならわざわざレタスだけに絞って紹介しているわけもないわけで、キャベツもきっとダメだろう。
 しかし、つまようじの在庫が出来過ぎ。わたしはほかにつまようじを使うこともないのでレタスにだけ使うとして、いったい何年分ぐらいあるだろう。

 きょうは晴天で、昼間に窓からさしてくる日の光も明るくて暖かい。ニェネントも窓際で丸くなって、ずっと静かに暖をとっている。発情期が終わってほんとうに静かになったニェネントは、ふっと「いったいどこにいるのか」わからなくなったりする。日が暮れて暗くなってから、「ニェネントはどこ?」と見回すと、布団のなかにもぐり込んで寝ていたりする。伸ばした前足の肉球がプリプリ。

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 昼からは、きのう「パンズ・ラビリンス」を観たので、似たようなちょっとダークなファンタジー、「ローズ・イン・タイドランド」をやはりネットで観た。うちのノートパソコンのパフォーマンスが落ちていて、最初のうちはしょっちゅう画像がストップしてしまう。これでは集中して観られない。ポーズをかけてそのままに放置しておけばスムースに行くことがわかり、そうやって一時間ぐらい放置しておいてから観た。この映画は好きだ。

 あしたはまた映画でも観に出かけたいなあと考え、続いているフレデリック・ワイズマン監督の特集のスケジュールをみると、あしたは三時から「メイン州ベルファスト」というのをやる。四時間の作品。対象がひとつの町、ということで興味をそそる。これを観に行くつもりにして、映画の途中で寝てしまわないように、きょうは早く寝ることにした。


 

[]「ローズ・イン・タイドランド」(2005) テリー・ギリアム:脚本・監督 「ローズ・イン・タイドランド」(2005)   テリー・ギリアム:脚本・監督を含むブックマーク

 これも昔観たことのある映画。ヒロインのローズが逆さになって打ち捨てられたバスの中で、両手を上げて叫んでいるシーンが記憶に残っている。覚えているのはそのシーンだけだけれども。

 原題はただ「Tideland」で、これを「Alice in Wonderland」にひっかけて「ローズ・イン・タイドランド」とした邦題のセンスは、とってもいいと思う。ストーリーはもちろん「不思議の国のアリス」ともリンクしているというか、ヒロインのローズは「アリス」の読みすぎ?みたいなところもある。
 ここでも、きのう観た「パンズ・ラビリンス」のように現実は苛酷なわけで、ヒロインはファンタジーの中に逃避していくのだけれども、この作品では「現実」の展開がファンタジー化を即する「奇怪さ」を持っていて、「逃避」ではなく、もっと積極的に現実とリンクしているといった方がいいんだろう。このウィアードでビザールな世界が、わたしは大のお気に入り。けっこういつも傾いでいるカメラも、そんな「歪んだ世界」をあらわすのに効果を出していただろう。

 ラストで、ある意味ではヒロインはそんな世界から救出されるんだろうけれども、その「光る目」の中の狂気はまだ燃え残っている。「魔女」という言葉を思い出してしまうラストには「この先どうなるの」と思わせられる余韻がある。


 

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■ 2015-02-05(Thu)

 今朝も夢をみた。わたしは先日いっしょに酒を飲んだAさんといっしょに、大きな映画館の後ろの方の席で映画を観ようとしている。おそらく上映される映画は「ゴジラ」なのだけれども、客席では高校生ぐらいの若い客らが騒いでいる。彼らがたばこを喫っているのをみて、「映画館は禁煙のはずなのに」とAさんと話したりするのだけれども、誰も注意するわけでもない。まだ上映前で明るい館内の、わたしたちの前の方の床には、踏み消されたたばこの吸い殻が転がっている。「喫ってもいいんならオレも喫いたいな」とか思っているわたし。妙にだだっ広い映画館で、スクリーンの位置も遠い。映画がはじまる前に、レビューショーのようなことがはじまる。

 けっこう今回はこうやって夢の内容をしっかり記憶していた。夢を憶えていられないのはやはり脳の機能が低下したためか」と心配もしていたので、ちょっと安心したところはある。

 きょうは午後から本格的な雪になり、積雪もするだろうという予報で、とても出かける気にはならなくなった。それでも木曜日はあれこれと買い物をすることに決めている日でもあり、午前中に南北のスーパーで買い物をして、南にある衣料店でしごと用の靴とパジャマとを買う。図書館にも行ってタコの本を返却し、あたらしく「日本のタコ学」という本と、みすず書房の分厚い「動物の歴史」という本などを借りてくる。「動物の歴史」は、ネコについての章だけでも読めればいいつもり。

 まだ外は弱いみぞれが降っているぐらいだったけれども、道ばたの草などの色彩があざやかに感じられる。うちのそばの米屋さんの前に、黄色い花が咲こうとしているのが目にとまった。これはきっと福寿草なのだと思う。福寿草というものの、現物を見るのはこれがはじめてのことだろう。春が来るよ!

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 昼ごはんには牛肉とタマネギを炒め、しょうゆとみりんなどを混ぜたつゆに玉子を入れていっしょにして、牛丼もどきにした。玉子がちょっと在庫過剰なのでやったのだけれども、味は悪くはない。
 一日に一本は観ておきたいと思っている映画だけれども、きょうはネットで観ることが出来る「パンズ・ラビリンス」を観た。観終わったあとは借りてきた本を読み始めたのだけれども、案の定ねむくなってしまい、そのまま昼寝に突入した。三時間以上寝てしまって、目覚めるともう外はまっ暗だし、夕食をつくるのもめんどうになってしまった。冷凍庫にあったさんまのみりん干しを焼いて、かんたんにすませた。
 わたしが食事をしているとニェネントがわたしの真ん前に陣取って(その位置に小さなキャットタワーがおいてあるんだけれども)、わたしが食べるのをじっと見ている。このごろはいつもそうなんだけれども、「わたしも食べたいな」という顔をしている。あんまり人間用の味付けがされたもの(特に塩味のもの)はあげない方がいいんだけれども、「みりん干しならちょっとぐらいいいか」と思って、少しちぎってテーブルの脇においてあげた。「ほら、食べていいよ」とテーブルを指先で叩くと近寄ってきて、前足でツン、ツンとタッチしてくる。テーブルの下に獲物を引きずり落とし、かぶりついて食べてしまう。やっぱりネコは魚が好きだなあ。


 

[]「パンズ・ラビリンス」(2006) ギレルモ・デル・トロ:脚本・監督 「パンズ・ラビリンス」(2006)   ギレルモ・デル・トロ:脚本・監督を含むブックマーク

 この日記で検索すると、この映画は映画館で公開された時と、それから去年の三月と、二回観ていることがわかる。いまは基本的にはこの映画のことはまるで記憶していない。

 今回観てもやはり、前に観たときのように「ファミリー・ロマンス」ということに囚われたヒロインのことを思うのだけれども、最終的に生き残るのがゲリラたちであり、家政婦のメルセデスであるというあたりに、「無垢の血を流してはならない」というメッセージを強く感じる。また、ヒロインのオフェリアがメルセデスにだけは「妖精」の話をしていたことからも、オフェリアという存在とメルセデスという存在との対比を思わずにはいられない。もちろんそこに「スペイン内乱」があり、「ファミリー・ロマンス」があり、「不思議の国のアリス」がある。たしかにその一面では「ミツバチのささやき」もあるわけで、すっごいうまい脚本だと思う。

 いちばん好きなショットの映像をコピーしておく。

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■ 2015-02-04(Wed)

 夢をみた。きょうの夢はそれなりに憶えていた。先日の夢には前の妻が出て来たのだけれども、きょうの夢にはまだ五、六歳の頃のわたしの娘が出て来た。わたしといっしょに、ほかにも人もいる部屋の中で変な形のテレビを観ている。どうやらDVDか何かを観ているらしいのだけれども、娘は途中で出かけることになり、わたしに「先に観ちゃったらダメだよ!」といって出ていく。続きもあるんだけれども、そんな夢だった。

 あしたは関東一帯で雪になるということで、どうもあんまり出かけたりしない方がよさそう。特に出かける予定があるわけでもないのだけれども、あしたしごとも非番で休みなので、きょうかあしたは東京に出て映画を観てもいいと思っていた。観たい映画はあれこれとある。あしたが休みなのだからきょう出かければいいのだけれども、なんだかそういう気分にはならない。あしたは図書館にも行きたいし、買い物もしておきたいから、どちらにせよあまり出かけようとは思っていない。日曜日がまたしごとが休みなので、この週末には出かけようと思う。

 「タコの才能」という本を読んで以来、その本に書かれていたパンドラというタコの死を思い出すだけで、ものすごく泣けて来てしまう。特に、「皆に見守られながら、お気に入りのおもちゃを抱いて天寿をまっとうした」という文章がいけない。タコの寿命は短いからパンドラも五歳にすぎなかったのだけれども、その施設でのそれまでのタコの長寿記録だったらしい。そんなタコが、「お気に入りのおもちゃ」を抱いていると想像するととても愛らしいのだけれども、それでももう寿命が来てしまって、そのまま死んでしまう。‥‥思い出すたびに、こんなに涙が出てきていいのだろうかというくらい、ほんとうに目から涙がこぼれ落ちてくる。「これからは嘘泣きしようと思ったら、パンドラのことを思い出せばいくらでも泣ける」と思いもする。しかしわたしは、これからもタコは食べ続けるだろう。それで、居酒屋でタコの刺身などを注文して、ふとパンドラのことを思い出してしまい、泣き出してしまったりするのかもしれない。

 パトリシア・ハイスミスの「殺意の迷宮」が映画化されていて、その作品がこの四月に「ギリシャに消えた嘘」というタイトルで公開されることが決まったらしい。その「殺意の迷宮」をもういちど読み直したくなり、「たしか家にあったはず」と探したのだけれども見つからない。その文庫本はもう絶版になっているのだけれども、映画が公開されるなら復刊されることもあるだろう。しかし、Amazon で中古品が1円で出ていたので、買うなら今のうちかもと、注文してしまった。ハイスミスをいっぱい読みたい(今、「黒い天使の目の前で」というのを少しずつ読んでいる)。

 昼食も夕食も、きのう仕込んでおいたおでんですませた。ダイコンも味がしみておいしい。きょうもいっぱい食べて満腹になった。録画してあった「スペースバンパイア」を観た。


 

[]「スペースバンパイア」(1985) コリン・ウィルソン:原作 トビー・フーパー:監督 「スペースバンパイア」(1985)   コリン・ウィルソン:原作 トビー・フーパー:監督を含むブックマーク

 マチルダ・メイのデビュー作で、たいていのシーンで彼女は全裸なのである。‥‥観終わっても、そのあたりの映像しか記憶にないわたしではある。

 はっきりいって、「何でそうなるの?」というトンデモ感満載の作品で、原作がコリン・ウィルソンで脚本が「エイリアン」のダン・オバノンなのだということが信じられない気がする。悪いけど、そういうドラマ部分でのトビー・フーパーの演出は納得することが出来ないのだが、そこには脚本の乱暴さもそうとうに影響していると思うしかない。「なぜわかった?」「直感さ」という問答があって、そこで大笑いしてしまったのだけれども、この作品はそんな「直感」に支配された展開といえばいいのか、「なぜこの男はどこまでも現場を巡り歩くのか?」「なぜそんな政府の重鎮が危険な現場に無防備に踏み込むのか?」とか、観ていても「?????」の連続。ラストだってわたしは「えっ?」と絶句してしまった。トンデモ映画として、わたし的にこれ以上の作品はない印象。

 トビー・フーパー監督としてはバンパイアに襲われる人間の描写だとか、ゾンビのようになった人間の描写にこそ力を注いだようで、そういうところはさすがに「うへ〜っ!」という感覚はある。終盤のゾンビ人間のあふれるロンドンの街の混沌は凄みがあるのはたしか。

 ラストの音楽がカッコいいと思ったら、この作品の音楽はなんとヘンリー・マンシーニだった。きのう観た「アルゴ探検隊の大冒険」の音楽がバーナード・ハーマンだったみたいな驚き。このあたり、プロデューサーのメナヘム・ゴーランの力、なんだろうか。

 観終わったあとに考えてみたら、これって、去年観たスカーレット・ヨハンソンの「アンダー・ザ・スキン」みたいなもの、というか、「アンダー・ザ・スキン」の元ネタだったのかもしれない。わたしは観た記憶がないのだけれども、「スピーシーズ」という作品にも似たところがあるようだ。


 

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■ 2015-02-03(Tue)

 ニェネントの発情期が、ようやく終了したようである。なんだかこっちまで疲れてしまうこのごろだったけれども、ようやく平常に戻れる。ニェネントも「お疲れさまでした」ということで、ねぎらってあげたいところ(写真はまだ発情期まっさいちゅうの頃)。

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 これは前から思っていたことだけれども、北にあるスーパーの店内BGMの趣味がいいと思う。夏などにはあまりメジャーではない(わたしの聴いたことのない)いい感じのボサノヴァをいつもかけていたし、きょうは誰か(やはりきっとブラック系のシンガー)がカヴァーしたマーヴィン・ゲイの「Mercy,Mercy Me」が流れていた。ちょっとソフトなアレンジだけど、ソウルフルでカッコいい。誰が唄ってるんだろう。それとなく聴いていると、次はスティーヴィー・ワンダーがかかった。これも彼のヒット曲ではないけれども(わたしは知らない曲だった)、やはりとってもいい。わたし的にはこのBGM担当の人、DJが出来るぞ!って感じである。「いいね!」というところで、鮭の切身を買って帰った。
 しかし今日、おもに買い物をしたのは南のスーパーの方で、賞味期限の迫ったおでんの材料があれこれと半額で売っていたもので、ついついつられて「あれもこれも」と買ってしまった。「こうなったら本格的につくるぞ」なんて考えて、カットされた大根なども買ってしまう。おでんセットにすでに大根が入っているものは買うけれども、自分で大根を買っておでんをつくるのは初めてのこと。考えてみたら、そもそもが大根おろしにするとか以外での料理素材として大根などを買うのは初めてのことではないだろうか。大根も経済的な野菜なわけだから、うまくいったら次は別の献立にも大根を買ってみようか。

 昼食はきのうもつくったレバーと白菜の炒め物にして、午後からはきのう「アルゴ」という映画を観たわけだからと、「アルゴ探検隊の大冒険」という映画を観た。レイ・ハリーハウゼンが特殊撮影を担当した映画。
 観始めるとちょっと退屈な映画だったし、眠くもなってしまったので、いちど観るのをよして昼寝をする。二時間ちょっと寝てしまった。昼寝としてはちょうどいいぐらいだろうか。起き出して映画の残りを観て、観ながらおでんの仕込みも進行させた。鍋からあふれるほどのおでんが出来た。夕食にするととってもおいしく、満腹になってしまった。まだまだ残っているし、大根などはあしたになれば味もしみて、もっとおいしくなるんじゃないだろうか。

 夜は寝るまえに「高慢と偏見」をちょっと読み進める。そうそう、「高慢と偏見」といえば、「プライドと偏見」という邦題で、キーラ・ナイトレイがエリザベスを演じた映画があったわけで、先日その映画が観たくってネットで検索してみたのだけれども、さすがに全篇無料で観ることが出来るわけでもなかった。しかし部分的な映像はYouTube にもアップされていた、それをみるとジェインの役で「ゴーン・ガール」のロザムンド・パイクが出演しているのだった。やはり「プライドと偏見」を観てみたくなった。



 

[]「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) レイ・ハリーハウゼン:製作・特撮 ドン・チャフィ:監督 「アルゴ探検隊の大冒険」(1963)   レイ・ハリーハウゼン:製作・特撮 ドン・チャフィ:監督を含むブックマーク

 なんだか邦題はアフリカ奥地か何かを探検する部隊の冒険譚みたいな感じになってるけれども、これはイアソンに率いられたアルゴ船の一行の冒険譚という、れっきとしたギリシア神話である。もちろんイアソンの航海の目的は黄金の羊の毛皮を探して持ち帰ること。その航海のためにヘラクレスら四十人(五十人?)の豪傑らが集められる。もちろん航海は順風満帆に進むわけもないのだが、これは天界でのゼウスとヘラとのゲームの結果でもある。ヘラはイアソンらを助ける道を選び、苦難のときに助言する。アルゴ隊は立ち寄った島で巨大な神像タロースに襲われて結果としてヘラクレスが一行から離脱したり、盲目の予言者フィネウスを悩ませるハーピーを生け捕りにしたりする。イアソンは「動く岩」の狭い海峡で難破した船からメディアを救出して双方恋に落ち、メディアは黄金の羊の毛皮を手に入れる手助けをするわけである。めでたしめでたし。

 まずはどうも全体にこのテクニカラーな色彩、フラットな照明というものが安っぽい感覚で、さらに、現代のアスリートチャンピオン風なアルゴ隊のメンバーの容姿にも、違和感を憶えてしまうことになる。これは「容姿」というよりも、そのあまりに軽いことばづかいから来るのかも知れない。とにかくはイアソンも「ジェイソン」となってしまうと、「13日の金曜日」かよ!って感じ。さらに後半にはメディアが登場してのその踊り、いかにも50年代とか60年代ぐらいのキャバレーのフロアショーみたいな照明や衣裳、メイク、そしてその振り付けなどにもおどろかされてしまうことになる。とにかくは、すっごいB級映画という感が強い。

 しかしながらそういう違和感も、ハリーハウゼンの特撮場面になるとすっかりふっ飛んでしまう。まずは巨大神像タロースの場面から、ハーピーの登場、そしてここは実写での合成なのだけれども、「動く岩」の海峡でアルゴ船を助ける超巨大な海神がまたすごい。さらに黄金の羊の毛皮の手前でイアソンに襲いかかる七頭のヒュドラもいいし、やはり圧巻はそのヒュドラの歯から生え出て来る骸骨剣士で、この実際の人物と絡んだ殺陣は、現在のCG映像での同種のものにも引けを取らないというとほめすぎだろうか。とにかくこのシーンは堪能した。
 また、このあたりの音楽がずいぶんとカッコいいなと思っていたら、この作品の音楽はバーナード・ハーマンによるものだった。彼の経歴を調べてみると、けっこうハリーハウゼンの関わった作品の音楽も手がけているし、この手のファンタジー映画の音楽を担当されているケースも多い。こういうのが好きだったんだろうな。


 

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■ 2015-02-02(Mon)

 イスラム国に人質にされていた後藤さんが殺害されたというニュース。ショックで、何をしたらいいんだかわからない状態が朝から続いた。ある面ではアメリカの9.11、先日のフランスのシャルリー・エブド襲撃テロ事件に匹敵するようなショックというか、今回はわたしなどの日本人が標的にされ、イスラム国は今後も日本人が標的にされるだろうという。やはり安倍政権の右傾化ということが、海外でもこのような反応を生み出したということはいえるのだろう。安倍がまるで9.11 のときのブッシュみたいなコメントを発したことにもうんざりする。

 また夢をみて、またたいていのところは忘れてしまった。以前の妻が登場して来て、彼女は自室のプランターで植物を栽培している。プランターの上に板を置いて、その板にあいた小さな穴から植物が芽を出している。「コレではダメだよ」とわたしは思い、そのように彼女に言っていたと思う。わたしが電車に乗っていたような記憶もあるが、しかとは憶えていない。

 玄関のドアの外でガタガタと音がして、「何だろう」とドアを開けてみると、ちょうどうちのドアの前に、パンの耳の部分とかのかけらがちらばって落ちていた。どういうことだろう。近所の野良ネコがやったのだろうか。でも、ネコがパンをかじったりするものだろうか。とにかくはほうきで掃き捨てたけれども、何とも不可解ではある。
 そのあとに洗濯をしようとしてベランダの窓を開けかけると、ベランダをネコが走って行くのが見えた。「お! 来てるな!」と思って見てみると、となりの部屋のベランダのところで逃げたネコが身づくろいしているのが見えた。しっぽが短い。三毛で、デブで、ブスである。こいつは以前、やはりウチのベランダでほかのネコとなきまくっていたヤツにまちがいない。この寒い季節、寒さをしのいでやっていくのも大変だとは思うけれども、とにかくはこうやってしぶとく「野良」で生き続けていることには感銘を受けないでもない。ちょっと、ベランダにエサを出しておいてあげようかとか考えてしまう。

 ニェネントは、今日もまた「サカリノさん」が続いている。あまりに長いので心配になりはじめた。ニェネントのしっぽの付け根を揉んでやると「フグゥ〜!」とうなる。力を加えると怒ってわたしの手に噛み付こうとする。手を離すと背中がうずくのか、そこらあたりで寝転がって背中をこすりつける。不快そうである。あまりやっちゃいけないことをやってしまったのかな。

 ちょうど過去のイランでのアメリカ大使館人質事件を題材にした映画「アルゴ」が録画してあったので、午後からはこれを観る。そのあとはWOWOWでもって「ゼロ・グラビティ」の3D版での放映というのがあって、いちおうわたしも3Dメガネを持っているものだから、自宅で3D体験が出来るのかしらんと観てみたのだが、単に画面が左右二つに分かれて見えるだけだった。つまりは3D放送に対応した受像機が必要なわけらしい。残念である。

 スーパーに買い物に行くと、豚のレバーが異様に値引きされて売っていて、ついつい買ってしまったのだけれども、冷凍庫にはそんなレバーのストックがかなりたまってしまっている。なんとか消費してしまおうと、「レバー」と「白菜」を使った料理のレシピを検索し、オイスターソースを使ったものが見つかったのでやってみた。これが何というか、激ウマで、ちょっとこれからはこのメニューばっかりやってみようかと思うほど。白菜の安い今ならではの献立ではある。

[]「アルゴ」(2012) ベン・アフレック:監督 「アルゴ」(2012)   ベン・アフレック:監督を含むブックマーク

 イラン革命勃発時にカナダ大使宅に逃げた六人を救出するため、救出のスペシャリストのCIA局員が「映画(「アルゴ」というタイトルのB級SF映画)のロケハンでイランに入国し、そして出国するというストーリーを考え、実行する。そんな奇想天外な着想は実話。しかし「事実に基づいている」とはいうものの、終盤のスリリングな場面はそりゃあ演出だろうと思うしかないところはある。

 やっぱり映画としてはラフなつくりで、たしかにサスペンスはあるけれども、なんともセンチメンタルでお上手ではない演出。とにかくはイラン側の描写があまりに一面的ではあり、こんなことでヒロイックな喜びにひたっていても何の解決にはならないということが、この映画公開のあとに証明されてもいるわけだ。まずはこういう視点を変えなければ、和解はやって来ないだろう。



 

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■ 2015-02-01(Sun)

 ニェネントはまだ発情期が続いている。今回はずいぶんと長引いているなあ。もう一週間以上続いているはずだ。あまり長く続くようだとどこか具合が悪いのかもしれない。動物病院へ連れて行くことも考えておかなくてはならないだろうか。きょうはきのう買ったまぐろの刺身を出してあげ、そんなまぐろを食べているあいだはニェネントも静かだった。

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 きのうは外出していたこともあって、けっこう遅くまで起きていたのだけれども、きょうはしごとがある。さすがに朝の四時にアラームが鳴っても、もう少し寝ていたいという気分にはなってしまう。しごとに出ても九時までがまんすれば部屋に戻れるのだから、それでまだ眠ければそこから寝てしまえばいい、それまでなんとかがんばろうとしごとに出る。
 しごとをしているあいだに眠気も覚めてしまったというか、しごとを終えて帰宅しても眠ろうという気にはならなかった。きのう観た映画のことを考えたり、日記を書いているうちに時間が過ぎて行き、たいして何もやらないうちに日が暮れてしまう。いちど南のスーパーに出かけ、「ゆず」のスピリッツなどというリキュールが安かったのを買って来て飲んだのだけれども、これがあまりに甘すぎる味で、飲んでいると口のまわりが糖分でべたべたになってしまう。今考えると氷とか入れて飲めばよかったんだろうけれども、ちょっと飲みあぐねてしまった。

 寝不足だったわりには、そうやって昼寝もしないで過ごしたのだけれども、さすがに夜はちょっと早めに寝ることになった。

[]「タコの才能 いちばん賢い無脊髄動物」キャサリン・ハーモン・カレッジ:著 高瀬素子:訳 「タコの才能 いちばん賢い無脊髄動物」キャサリン・ハーモン・カレッジ:著 高瀬素子:訳を含むブックマーク

 ほんとうはもうちょっと学術的な書物を期待していたんだけれども、実のところこの本は、タコにまつわるさまざまな仕事をやっていらっしゃるところを訪れての「レポート」という趣の本。著者はタコ漁を営む人たちといっしょに船に乗り、タコ料理の店に行ってその極意を教わる。それからいろいろな部門からタコを研究される方々の研究室や水族館からのレポートなどと続く。タコの保護色を軍事面で利用しようとする研究だとか、あのタコの腕の動きを再現しようとするロボット研究の話など興味深い。しかしやっぱり、わたしなどにいちばん興味深いテーマというのは、この本の表題からも読み取れるタコの知性。もうちょっとこのあたりのことを深く書いてほしかったというところはあるのだけれども、そういうことは専門の学術書にたよった方がいいのかもしれない。

 タコの寿命はそんなに長くはないらしい。せいぜい数年から、短い種類では数ヶ月というのもいるらしいけれども、そんなに寿命が短いのに、知能はとっても高い。世話をする研究者との意思の疎通が出来るらしくって、まずい食事を出されるとあからさまに「これ、まずいんだけど」と意思表示するらしい(そんな食事を出した人に見えるように、相手の顔に目を向けながらその食事を捨ててしまうと)。それに、その皮膚の色や身体の形態をほんとうに瞬時に変化させる保護能力に長けている。これはほかのところで読んだのだけれども、一時間に180回近くもその色や形態を変化させるらしい。YouTube でもそのあたりの映像は確認出来た。すごい。

 タコはその生涯のほとんどを単独で生活し、生涯の終わりに配偶相手を見つけて生殖活動をする。そのあとにオスは衰弱して死んでしまうし、メスもまた産卵した卵を守るだけの生活になり、食物も取らずにやはり死んでしまうということ。なんか寂しい動物なんだなあ。

 水族館などで、それぞれに固有の名前を与えられるのはイルカやクジラ類、そしてタコだけだということだけれども、スミソニアン国立動物園で飼育されていた「パンドラ」というタコはずいぶんと人懐っこかったらしい。エサを食べちゃったら「食べちゃったよ」と意思表示をしたりして、皆に親しまれていたらしい。それが、この本のあとがきを読むと、その動物園のタコでいちばんの長寿ダコとして人気があったそうだけれども、2014年の2月(ちょうど一年前だ)に、お気に入りのおもちゃを抱えながら、皆に見守られながら天寿(五歳だったそうな)をまっとうしたらしい。なんかわたし、ここのところを読んで涙がとまらなくなって困ってしまった。ある研究者などは、研究室のタコが衰弱してくると、その「死」に立ち会うのがしのびなく、海に戻してやるのだという。その気もち、わかる。

 この本にはタコの登場するいろいろな映画(007映画も!)や書物のことも紹介されているし、北斎の「蛸と海女」の春画のことにもふれられていて、「これはタコによる陵辱ではなくって、双方の<合意>ですね」なんてコメントをつけているし、日本ではこの「蛸と海女」のテーマは受け継がれているとして、佐伯俊男や寺岡政美の名前も出て来る。守備範囲が広い。それほどの大書ではなく、もの足りないところはたしかにあるのだけれども、とにかくはタコの「百科全書」的なアプローチではあるだろう。


 

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