ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-03-31(Tue)

 おととい、ついつい「よし、読んでやろう」と気合いを入れて、カントの「純粋理性批判」の上巻を買ってしまったのだけれども、「あれ? Amazon で中古を買えばずいぶんと安くすんだのでない?」と気付き、調べてみたら案の定で、300円ちょっとで買えたのだった。別に美本でなくてはならないなんてこだわりはこれっぽっちもないし、6〜700円損してしまった。やはり衝動買いはよくないということか。とにかくはキチンと読むこと。

 もうこのところはすっかり「昼寝」の習慣が根付いてしまって、昼間に映画などまるで観なくなってしまった。どこかでこの流れを変えてしまわないと、「何もしない一日」ばかりが連続する感覚になる。しかし3日には飲みに行くので、その翌日はきっとダウンしていることだろう。リセットするのはそのあとのことになるだろうか。



 

[]二〇一五年三月のおさらい 二〇一五年三月のおさらいを含むブックマーク

舞台:

●龍昇企画+温泉ドラゴン 共同企画公演「カム伝」天野天街:作・演出 @上野ストアハウス
●KAAT×地点「三人姉妹」アントン・チェーホフ:原作 三浦基:演出 @横浜・神奈川芸術劇場
●大橋可也&ダンサーズ THE WORLD SEASON 2「へヴィメタル」大橋可也:構成・演出・振付 長島確:ドラマトゥルク @東陽町・江東区文化センターホール
●笠井叡◯新作「今晩は荒れ模様」笠井叡:構成・演出・振付 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター
●北村明子ソロ公演「route 1 永遠と1秒の間」北村明子:振付・演出・出演 @青山・Tokyo Salon

映画:

●「アメリカン・スナイパー」クリント・イーストウッド:監督
●「フォックスキャッチャー」ベネット・ミラー:監督
●「ハデウェイヒ」(2009) ブリュノ・デュモン:脚本・監督
●「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール:監督

美術:

●北島敬三写真展「ヘンリー・ダーガーの部屋」@新宿・エプソンイメージングギャラリー エプサイト ギャラリー
● 今津景「Broken Image」@白金・山本現代

読書:

●「黒い天使の目の前で」 パトリシア・ハイスミス:著 米山菖子:訳
●「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著 栩木玲子+佐藤良明:訳
●「三人姉妹」アントン・チェーホフ:作 小田島雄志:訳
●「殺意の迷宮」パトリシア・ハイスミス:著 榊優子:訳

DVD/ヴィデオ:

●「黒水仙」(1947) ジャック・カーディフ:撮影 マイケル・パウエル、
●「バットマン」(1989) ティム・バートン:監督
●「バットマン リターンズ」(1992) ティム・バートン:監督
●「ブラック・ダリア」(2006) ジェイムズ・エルロイ:原作 ブライアン・デ・パルマ:監督
●「アベンジャーズ」(2012) ジョス・ウィードン:監督
●「昭和残侠伝 死んで貰います」(1970) マキノ雅弘:監督
●「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008) 若松孝二:監督
●「演劇1」(2012) 想田和弘:監督・撮影・編集・製作
●「演劇2」(2012) 想田和弘:監督・撮影・編集・製作
●劇団、本谷有希子「ぬるい毒」(2013) 本谷有希子:原作 吉田大八:脚本・演出
●地点「ファッツァー」(2013) ベルトルト・ブレヒト:原作 三浦基:演出


 

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■ 2015-03-30(Mon)

 このところ、しごとがずいぶんとヒマである。特に日曜日と月曜日ははなはだしくヒマである。年度末になって少しはしごと量も増えてくるかと思っていたのだけれども、今日は今まででも記憶にないぐらいのしごとの少なさ。楽なのはいいのだけれども、何もやらない時間があまりに長くて、もてあましてしまう。このところは(ほんとうはいけないのだけれども)文庫本を持ち込んで読んだりしていたけれども、今日は同僚と世間話とかであれこれとすごしてしまった。こういう日もあっていい。

 しかしおとといの「今晩は荒れ模様」のことが不快で、思い出すたびに「荒れ模様」になってしまうのだけれども、その総括者であられる笠井叡氏のインタヴューがネットに掲載されていて、それを読んでなんだか「アホらしく」なってしまう。あまりにもお粗末な論理展開で、突っ込みどころ満載。この公演に関しては、参加していらっしゃるダンサーの多くがFacebook 上でわたしの「友達」登録もされているし、Facebook では「いいね!」のやりとりとかで懇意にしていただいている方もいる。それだけに批判めいたことを書くことはためらわれていたのだけれども、笠井氏のインタヴューのばかばかしさもあって、最低限の批判はFacebook に掲載した。するとしばらくして、以前HさんやIさんらといちど酒の席を囲んだことのあるJさんからメッセージをいただき、Jさんもあの公演には同じ感想を持たれていたとのこと。わたし以上にまわりの「絶賛」の空気を体験され、ちょっと鬱屈されていたらしい。
 つまりはそういうわけでJさんとメッセージで意気投合してしまい、「また近いうちに是非いっしょに飲みましょう!」ということになった。わたしはそういう下準備はおまかせっきりなのだけれども、しばらくして、前回とおなじくHさんとIさん、Jさんとそしてわたしという布陣で近々に集合することになった。またHさんとIさんといっしょに飲めるのはうれしいし、Jさんとはこの公演のことで盛り上がりそうだ。その夜はきっと「荒れ模様」になることだろう。楽しみ楽しみ。


 

[]「殺意の迷宮」パトリシア・ハイスミス:著 榊優子:訳 「殺意の迷宮」パトリシア・ハイスミス:著 榊優子:訳を含むブックマーク

 パトリシア・ハイスミスの1964年の作品。ハイスミスの「太陽がいっぱい」が映画化されて評判を取ったのが1960年のことだから、ハイスミスもきっとそのルネ・クレマンの映画は観ていたことだろう。この「殺意の迷宮」に地中海沿岸が舞台に選ばれているのも、基本は男ふたりに女ひとりでの展開という構造も、どこか「太陽がいっぱい」を思わせるところがある。どこか、「第二の<太陽がいっぱい>」みたいな意識はあったんじゃないだろうか?

 書いたように登場人物は主に三人。ライダルという二十代の男性と、四十代になる詐欺師のチェスター、そしてその若い妻のコレットと。基本はライダルという男が、チェスターがふいに犯してしまった刑事殺害の現場に居合わせ、その隠匿に手を貸してしまうということから始まり、チェスターの逃亡の手助けもする。
 ライダルの行動は不可解といえば不可解で、このあともライダルは合理的な説明のつかない行動を取り続けていると思う。そのことについての理由づけは、彼の中ではどうも「あとづけ」のようなところがあって、あとでそのことを合理化して考える。この造形がいかにもハイスミスらしくって、いわゆる推理ミステリーからはみ出していると思う。
 これに対してのチェスターの行動はある意味で「当然」というところもあり、わかりやすい。このふたりの対比こそがこの作品の読みどころであって、ラストへの伏線になる。つまり、ラストにはライダルこそがチェスターの行為に驚かされることになるのである。解説にも書いてあるが、このラストはヒューマニスティックでもあり、ある面では(世間一般の倫理から外れることの多い)ハイスミスの作品らしくないともいえる。いやあ、わたしはちょっと感動してしまって、涙を流しそうになってしまった。これもひとつの「嘘」なわけで、この映画化が「ギリシャに消えた嘘」ということであれば、いい邦題ではないかということにもなる。

 ひとつ難点をあげるなら、終盤にチェスターが逮捕されてしまう経緯は少し不自然で、「なんだ、チェスターは泥酔しなければ逃げおおせられたのではないか」と思ってしまう。ここは普通に、アメリカへ逃走しようとしたけれども空港かどこかの警戒網にはまって捕まってしまう、というのでいいのではないかと。

 四月にはこの原作から映画化された「ギリシャに消えた嘘」が公開される。チェスターにヴィゴ・モーテンセン、コレットはキルスティン・ダンスト、そしてライダルには去年観た「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」の主演のオスカー・アイザックという出演陣。監督のことは知らないけれども、面白そうである。どのように原作をアレンジし、どのように原作のテイストを活かすのか。まちがいなく観に行く。



 

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■ 2015-03-29(Sun)

 今日もまたダンスを観に東京へ行く。北村明子さんのソロ公演で、ある面では昨日の「今晩は荒れ模様」に出演された6人のダンサーに勝るとも劣らない実力の方ではあるので、昨日の「疑問」を吹き飛ばして下さるようなパフォーマンスを期待している。
 公演の行なわれる場所は劇場ではなく、青山の「Tokyo Salon KYOZON」というスポット。もちろんわたしは行ったことはないのだけれども、その地下にあるというスポットの1階は「LAS CHICAS」というカフェ・バー。それならわたしも知っている。ちょうど二十年前、その青山界隈を中心として「Morphe」というアートイヴェントが開催され、わたしも「crosstalk」としてその末端に参加させていただいたわけである。そのとき、イヴェントのスポットのひとつとしてその「LAS CHICAS」の場が使われていた。その頃のわたしのイメージでは「アート系」の外国人が大勢出入りしているスポット、という印象ではあった。なつかしい場所である。その「LAS CHICAS」から、当時の記憶もまた少し甦る思いもした。このところ、そうやって失われたと思っていた自分の記憶が補完されるような体験が多い気がする。‥‥やはり、部屋にこもっていてはこういう体験はかなわない。外に出てこその「成果」ではあるだろう。うれしい成果である。

 公演は午後一時半の開場なので、十時半の電車で出発する。おそらくは渋谷に十二時半ぐらいに到着するので、食事をしてから現地へ行けばいいだろう。‥‥ところが、家を出てから気付いたのだけれども、ケータイ(PHS)を持って出るのを忘れてしまった。いつもケータイを時計代わりにしているので、不便するかもしれない。帰るときに「乗り換え案内」で電車の乗り継ぎもチェック出来なくなるけれども、「まあなんとかなるだろう」と、そのまま電車に乗って出発した。今日は昨日よりもさらに暖かくなるようなので、完全に「春」の装い、という感じ。眼もずいぶんと平常に戻っているようなので、もう眼帯をつけるのはやめた。

 渋谷駅のハチ公前広場の桜はほぼ満開。空は曇っていて、こういうのを「花曇り」というのだろう。まったく寒さも感じられず、快適な陽気ではある。道を宮益坂の方にとり、またまた日高屋で昼食。今日は担々麺にして、頭から汗をかいた。先日食べた「肉そば」はイマイチだったけれども、日高屋の担々麺は悪くないと思う。

 食事を終えてもまだ一時ぐらいで、三十分は時間をつぶさなければならない。歩いていればなんとかなるだろうと、青山の方へ歩く。ちょうど現地の近くでファーマーズ・マーケットが開かれていたので、のんびりと見てまわるけれども、時計がないので、いったいどのくらい時間が経ったのかわからない。とにかくは現地へ足を向けて、店の中に設置された時計を覗き見したりしていく。「だいたい時間だな」という頃合いに公演場所に到着すると、演出の都合で開場も開演も二時になったということ。ということはまた二時ぴったりに戻ってこなければならない。‥‥ちょっと困ったね。

 なんとかかんとか三十分時間をつぶして、どうやら二時ぴったりぐらいに公演場所に戻ることが出来た。やはりケータイを置き忘れて来たのは失敗だった。苦労しましたよ。

 くつろげる、疲労を感じない会場内でゆったりとした気分で北村さんのパフォーマンスを楽しめた。まさに昨日の不快感を癒してもらえるような一時間だった。この日この公演を観に来れて、ほんとうによかった。

 終演時でどうやらまだ三時ぐらい。もう帰ることにするけれども、帰路にある青山ブックセンターに立ち寄って、「何か買ってもいいな」という気分で棚を見てまわる。今の気分は前に書いたようにカントの「純粋理性批判」を読み始めてもいいな、という気分なのだけれども、買うのなら読みやすいという「光文社古典新訳文庫」がいいかなと漠然と思っていたのだけれども、その文庫は置いてなかった。いちおう岩波文庫版は置いてあったので、ちょっと立ち読みしてみると、まだ「序文」のところだけれども、「これなら読めるかもしれないな」という気分になってしまい、買ってしまった。さてさて、どうなることやら。

 書店を出ると、かなりの雨になっていた。傘がないとちょっと困ってしまう雨量。わたしのバッグにはとっても小さな、ボロボロの折り畳み傘がしまってあるので、取り出して拡げてみる。これがうまく拡がらなくて、実のところ骨が折れる一歩手前の状態になってしまったのがわかった。なんとか差すことは出来たのだけれども、おそらくはもうこれでおしまいだろう。

 湘南新宿ラインに乗って帰路に着き、ターミナル駅でいちど下車する。こっちの方では雨は降っていなかった。近くの「ドン・キホーテ」に行ってみて、予想した通りに安い小型の折り畳み傘があったのを買って帰った。晩ご飯はお好み焼きにした。


 

[]北村明子ソロ公演「route 1 永遠と1秒の間」北村明子:振付・演出・出演 @青山・Tokyo Salon KYOZON 北村明子ソロ公演「route 1 永遠と1秒の間」北村明子:振付・演出・出演 @青山・Tokyo Salon KYOZONを含むブックマーク

 北村明子さんのダンスというものの、記憶は残っていない。しかし「観ていない」ということはないはず。おそらくはかつての「レニ・バッソ」の舞台とかは観ていたのではないだろうか。

 近年インドネシアとの交流を深められている北村さんの、そのインドネシアでの記憶を語られながらの舞台。その記憶を、ことばと共に身体で回収するような試みだったでしょうか。そこに、その「場」での映像も取り込まれながら、そのスポットでの「時間」もまた組み込まれて行く。北村さんのしなやかで繊細な身体の動きとともに、アンチームな空間での「時」への追憶を楽しみました。観客皆に配られたインドネシアのココナッツビスケットの味覚が、またその「場」での共体験を観客に誘うものだったでしょう。いい「時間」体験であり、素敵な公演ではありました。もっと書きたいことはありますが、あまり時間が取れません。



 

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■ 2015-03-28(Sat)

 おとといは大橋可也さんのダンス公演を観たし、今日も明日もそういう「ダンス」を観に行く。ちょっとした「ダンス・ウィーク」。今日は三軒茶屋の世田パブでの「今晩は荒れ模様」。ある意味豪華なダンサーたちの顔見せでもあり、わたしには久々の笠井叡氏のダンスでもある。昼の公演をチョイスしたので、開演は午後三時。十一時に家を出て、あっちで(また日高屋で)昼食をとり、ついでに先日予約した五月の山海塾の公演のチケットも入手してくるつもり。

 今日も快晴で、暖かくなるとの予報。もう電車内での暖房も切られ、快適な車中ではある。外からの暖かさでやはり眠気におそわれ、またまた車中では寝てしまう。一時半ごろに三軒茶屋に着き、まずは日高屋で昼食。この日はちょっと飲むときのメニューからアルコールを自粛して、イカ揚げにポテトフライ、餃子という布陣。それにプラスして半チャーハンを頼んだ。う〜ん、この店のチャーハンはやっぱりポロポロしてばかりでおいしくはない。普通のライスでよかったか。ちょっと残念。

 世田パブに入るまえに、同じビルの5階にあるチケットセンターへ行き、山海塾の公演のチケットを引き取ってくる。これは予約したあとになって「再演」だと知り、その初演時の反応などを読んでいると、あまり前の方よりも全体を見渡せるうしろの方がよかったりする、などという意見も多かったので、ずいぶんと前の方の席を予約できていたのをキャンセルし、うしろの方の席に変えてもらった。はたして席を変えた結果はどう出るか。

 シアターの方へ移動し、開演を待つ。客席にはほとんど知人の顔も見えない。誰か知人がいれば終演後にお茶でもともくろんでいたのだけれども、そのもくろみも消えたので、終演後は観たかった展覧会を観に行くことに決めた。

 ‥‥開演、そして終演。正直、かなり不満足な公演ではあった。その理由は下に。

 終演後は東急東横線から日比谷線と乗り継ぎ、広尾駅へ移動する。この広尾駅から十分ぐらい歩いたところに、目的の「山本現代」というギャラリーがある。「山本現代」の名は知っていたけれども、訪れるのはこの日がはじめてのこと。天現寺橋から道を東にとり、小さな橋を渡って川沿いに行くと、住宅地の中にそのギャラリーのビルがある。「山本現代」は3階にあるのだけれども、1階から4階までそれぞれギャラリーが入っていて、その2階が「arataniurano」だった。「arataniurano」といえば、わたしが谷中に住んでいた頃によく行った「SCAI THE BATHHOUSE」にいらっしゃったGさんが立ち上げられたギャラリー。よく「SCAI THE BATHHOUSE」ではGさんとお話しして、ギャラリー以外でお会いしたことはなかったけれども、けっこう親しくなったお方。その彼女の「arataniurano」のことは知っていたけれども、ギャラリーを訪れたことはなかったし、どこにあるのかも知らなかった。そうか、ここにあったのか。

 「山本現代」の展示を観たあと、「Gさんにお会いできるだろうか」と、2階の「arataniurano」へ立ち寄ってみた。ちょっと展示を観て、「やはりGさんとお会いすることは出来ないか」と思っていると、ギャラリーの方から「奥のオフィスの方にも作品がありますから」といわれ、そちらに入ってみると、そのGさんがデスクでパソコンに向かわれていた。「あ、Gさんだ」とわたしが声に出すと、Gさんもすぐにわたしのことをわかってくれた。「久しぶりですねぇ〜」と、しばらく会話して、しっかり記憶に残っているGさんのとびっきりの笑顔に接することも出来、うれしくなってしまった。
 これで場所もわかったことだし、これからもこのスポットには来てみようと思う。

 ギャラリーから外に出るともう薄暗くなっていた。川沿いに咲いた桜の下を、「ちょっとだけ夜桜気分」と、いい気持ちで歩いて駅に向かった。
 自宅駅に到着したのが夜の九時。これからお好み焼きでもつくってもいいのだけれども、なんだかスーパーの海鮮丼とかが食べたくなり、今なら半額だからと、南のスーパーに寄ってみた。ぎりぎりセーフ、というか、その海鮮丼はまさにラストの一個だけが残っていた。プラスしてお稲荷さんのパックも買って、両方で三百円ぐらい。このくらいの無駄遣いなら許されようか。

 ニェネントのお出迎えを受けて帰宅。食卓に海鮮丼を置くと、やはり匂いでわかるのだろう、ニェネントが寄って来て鼻をすり寄せてくる。「はいはい、わけてあげますよー」とパックを開けて、まぐろとかをわけてあげた。


 

[]笠井叡◯新作「今晩は荒れ模様」笠井叡:構成・演出・振付 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター 笠井叡◯新作「今晩は荒れ模様」笠井叡:構成・演出・振付 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

 出演者(出演順):笠井叡・黒田育世・寺田みさこ・上村なおか・森下真樹・白河直子・山田せつ子

 かなり大きな疑問を感じた舞台だった。ある意味で「腹立たしい」という感覚ですらある。近年で(記憶はないけれども)いちばんがっくり来た舞台だったか。そのことを書いておく。

 まずは御大の笠井叡氏が舞台袖の客席から舞台に上がって来られ、しゃべりながら踊り始められる。「そうそう、この<しゃべりながらの踊り>に笠井叡氏の舞踏があったのだな」と、もうずいぶんと過去の笠井氏の舞台を思い出したりもするのだけれども、どこか、緊張感がない。かつての舞台では氏の語りにものすごく緊張を持たされて舞台を見上げていたものだけれども、そういうものではない。氏の踊り〜パフォーマンスがまた、まるで刺激的ではないユルい動き。ここでまずは「あれれ?」と思わせられたのはたしかなこと。
 そして各々のダンサーのソロ、もしくはデュオへと移行して行くのだけれども、ここで笠井氏はどのように「構成・演出・振付」をされているのか。それがわからない。ここはもうこの舞台は「ショーケース」なのだと割り切って観るしかないような。以下、そのような感想で。

●最初に登場されるのは黒田育代さん。力強い、「男前だなあ」と感じさせられるようなソロで、このあたりでは笠井氏のサジェストもいろいろあったのだろうと想像も出来、その成果もあったように思った。
●次は寺田みさ子さんで、わたしはこの日のステージでは彼女のパートにいちばん惚れ込んでしまった。もうわたしの中では彼女の過去の舞台の記憶も消えてしまっているのだけれども、これだけしなやかで、色香を感じさせるパフォーマンスをされる方を、わたしは知らない。彼女のパートの後半にはまた黒田育代さんも登場され、これがまたみごとなデュオを展開して下さることになる。全体をみると、この舞台全体でいちばん存在感があったのは黒田さんということにもなるだろうか。
●そして、上村なおかさんと森下真樹さんとのデュオ。こういうコンセプトは森下さんのものだろうか。ちょっとSFめいた奇怪な衣裳でのユーモアを含んだデュオの、二人の息もぴったりで、楽しませてもらった。
●白河直子さんのソロ。ここでわたしの疑問が全開になってしまったのだけれども、いったい笠井叡氏はどういうつもりでこのパートを設定されたのか。これは単に「H・アール・カオス」のプロモーション舞台ではないのか。衣裳にしても振付にしても、その演出にしても、どこで笠井氏はこの舞台に彼女を必要としたのか。全体の構成の中で、このパートはどのような意味を持つのか、わたしにはさっぱりわからない。
●ラストはかわいそうな山田せつ子さん。彼女はまさに笠井氏の愛弟子ということで、ここでの振付などに笠井氏はかなり口をはさまれたことだろうし、その後半では笠井氏も加わってのデュオになる。‥‥しかし、この振付はあきらかに失敗作である。山田せつ子さんはもっともっとエモーショナルな、魅力的なダンスを踊れる方なはずである。この振付けはあんまりにもかわいそう。

 この舞台、とにかくは「笠井叡◯新作」というふれこみではあるのだけれども、終わってみれば「いったいどこが?!」という感覚でしかない。「構成・演出・振付」ということで何をされていたのか。トータルな舞台として、この「今晩は荒れ模様」にはいったい何があるのか? これら六人の女性ダンサーのダンスに通底したものは何なのか? これは単なるショーケースの舞台ではないのか?

 笠井氏はその「御挨拶」で、次のように書かれている。

戦争とは、過去の男性文化の最も醜悪な遺物です。
これを乗り越え、歴史に新しい地平を拓くのは、
すべての文化、民族をつなぐことの出来る女性の生命的な力であると、私は確信しています。
すでに、戦争の時代は終わっています。
今、人は歴史が耐え得る限りのものを、
日々の生活の中に向かって、投げ返しています。
人と人との間に、生命のさざ波が立ちます。
だから、ダンサーが踊る真新しい緑の野では、
昨晩も今晩も明晩も…荒れ模様。

 ‥‥冗談??? ああ、こういう認識ならこういう舞台にもなるかもしれない。幻滅してしまいますね。

 こういう疑問を象徴する出来事としてひとつ書いておきたいけれども、開演してから一時間も過ぎているというのに、複数の観客が客席に誘導されて来られた。「どういうこと?」と思ったのだけれども、つまりはこれらの観客は、単に後半になって舞台に上がられるダンサーだけが目当てでいらっしゃっているわけだと気がついた。具体的に書いてしまえば、それらの観客が目当てだったのは白河直子さんでしかなっかたであろう。それらの彼女のファンにとって、ほかの出演ダンサーのことなどどうでもいいのであって、ただ白河直子さんのステージさえ観られればいい、そういうことなんだろう。そしてなんとも悲しいのは、この舞台がそのような観客の要求から逸れるようなものではなかったということだろう。つまり、わたしが観たいところだけ観ればそれで事足りるというのが、この「今晩は荒れ模様」、なのであろう。まさに「予定調和」の夜。何が「荒れ模様」なものか。もう笠井叡氏も「老害」でしかないのかもしれない。おそらく今後彼の舞台を観ることはないだろうし、彼への「畏敬」の念も消え失せてしまった。


 

[]今津景「Broken Image」@白金・山本現代 今津景「Broken Image」@白金・山本現代を含むブックマーク

 いちどCGとして取り込んだ過去の美術作品をコンピューター上で編集し、その画像をずらして行く。そのずらした画像を、キャンバス上に油彩として手仕事で再現するという連作。

 イメージの解体ということが手作業でなされるさまが興味深く、デジタルとアナログのせめぎ合いのような作品に魅力を感じた。

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■ 2015-03-27(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 このところ急に暖かくなり、東京の方ではもう桜の花が開花し始めているらしい。このあたりでも開花のせまった桜の枝が赤っぽく見えるようになったけれども、まだ開花にはもう二、三日かかりそうだ。

 あしたあさってとまた上京する予定なので、今日はゆっくり休息日などと理由をつけて、またダラケてしまう一日。本も読まず、ヴィデオも観ない。ちょっとYouTube を検索して好きな音楽を聴いていたぐらいのもの。

 ニェネントは和室の窓際で丸くなり、暖かい陽射しを浴びて寝てばかりいる。
 ニェネントはときにベッドの下とかにもぐり込んでいて、いったいどこにいるのだかわからないときがしばしばある。特に買い物などから帰宅しても「お出迎え」してくれないことがあり、そういうときに部屋の中を見渡してみてもどこにもその姿がみえなかったりする。‥‥そういうときにニェネントを呼び出すのはかんたんなことで、キッチンに行って固形ネコご飯の袋をガサガサやったり、冷蔵庫をバタバタ開けてみたりすると、たちどころにキッチンに飛び出して来て、「ごはんをくれるのかな?」とネコ皿のあたりでウロウロし始めるのである。

 わたしの昼食は焼きそば、夕食にはお好み焼きですませるのだけれども、今夜のお好み焼きはちょっとイマイチの味だった。ネギを入れすぎただろうか?



 

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■ 2015-03-26(Thu)

 今日はちょっと「やる気」になったような一日。

 しごとのあと、午前中は線路の向こうの内科医へ行き、その足で図書館へ寄る。読めるかどうかわからないけれども、磯崎憲一郎の新刊「電車道」を借りた。あとはキネマ旬報の3月下旬号と、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」のDVDとをいっしょに借りた。「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」はVHSで所有しているのだけれども、それはDVDの方が絵はきれいだろう。図書館からの帰りはスーパーへ行き、今日が特売日のたまごを買う。

 午後からのとにかくのメインは、東陽町というところでの大橋可也&ダンサーズの「ヘヴィメタル」と題された公演なのだけれども、その公演は夜の七時からなので、その前に白金のギャラリー「山本現代」へ寄って、今開催中の展示を観てみたい気もちもある。そうすると家を一時ごろには出た方がいいのだけれども、やはりここで「やる気のなさ」が再発し、「いけないならいけないでいい」という気分でだらだらしてしまう。まだまだ「やる気」ではない。

 つまりけっきょくはメインの「ヘヴィメタル」公演だけ行くことにして、三時の電車で出発する。これで上野に五時ごろに到着し、先にゆっくりと夕食を取ってから東陽町というところへ移動しようという目論み。

 予定通りに五時ちょっと前に上野に到着し、「それではまた日高屋へ」ということになってしまい、アメ横通りの方に足を向ける。
 このアメ横通りのガード下にはタバコ屋があり、そこにちょっとかわいいコーギー犬がいる。正月にそのコーギー犬の存在を知ってから、上野に行くたびに立ち寄ってみるのだけれども、このところそのコーギーに出会うことは出来なかった。だけど、この日はいましたね。久しぶりのコーギーちゃん! 背中の<マルボロ>ゼッケンが、さすがに「看板娘」。(帰宅して調べたら、このコーギーちゃんは「ジェシカ」という名まえの女の子らしい。)

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 わたしは犬も好きだけれども、このところはコーギー犬の可愛さにノックアウトされている。そんなコーギー犬の中でも、ここのタバコ屋にいるコーギーはトップクラスの可愛らしさだと思う。コーギーともいっしょに暮らしてみたいものだと思ったりする。散歩につれて外に出たりすることを夢想する。

 ジェシカちゃんとの面会のあとは日高屋で夕食。今日は担々麺。汗をかいてしまった。
 食事のあとはメトロを乗り継いで「東陽町」へ。もうすっかり外は暗くなっている。目的の江東区文化センターはすぐにみつかるけれども、大きな建物で、いったいどこが会場になっていて、どこが入り口なのか、ちょっと迷ってしまった。

 開演は七時で、上演時間は一時間半ぐらいということなので、終演後はあんまりのんびりもしていられない。どんなにがんばっても終電にはなってしまうだろうけれども、へたをするとその終電を逃してしまうことにもなりかねない。そういうことで、終演後は急いで帰路に着く。上野駅で惜しいところで電車一本乗り損ねてしまったけれども、調べてみたら、その電車に乗れていれば、ローカル線で終電よりも一本早い電車に乗れていたみたい。これは一時間近い差になるから大きいのだけれども、がんばってもっとダッシュしていればよかったかな。

 帰宅して、明日はしごともあるのですぐに寝た。


 

[]大橋可也&ダンサーズ THE WORLD SEASON 2「へヴィメタル」大橋可也:構成・演出・振付 長島確:ドラマトゥルク @東陽町・江東区文化センターホール 大橋可也&ダンサーズ THE WORLD SEASON 2「へヴィメタル」大橋可也:構成・演出・振付 長島確:ドラマトゥルク @東陽町・江東区文化センターホールを含むブックマーク

 コンセプトは「土地の記憶を吸うプロジェクト」ということ。

 わたしの勝手な印象では、「踊られるダンス」というよりも「演じられるダンス」と目に写り、そのあたりを興味深く観た。白井剛さんが大きくフィーチャーされていて、彼の中での「演じる」と「踊る」という行為のせめぎ合いのようなものを自分で勝手に解釈し、ゾクゾクしながら観ていた。

 ステージでの映像との絡み合いに、ずっと以前に観た(というか、わたしのイヴェントに出演していただいたときの)大橋可也さんのパフォーマンスの記憶がよみがえり、逆に「記憶を取り戻す」ような体験でもあった。

 江東区民ホールのゆったりとした空間もあって、刺激的ながらもその中に身をひたすことが快感であるような、いい時間を体験することが出来た。


 

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■ 2015-03-25(Wed)

 昨夜はこのところいつものように何をやる気にもならず、夕食には南のスーパーでお弁当を買ってすませた。いっしょに「かつおの刺身」のちょっと大きなブロックが半額になっていたのを買い、昨日はニェネントにもちょっと分けてあげた。まだまだずいぶん残っているので、今日はニェネントにもごちそうになるだろう。

 あさってはまた東京に出てダンスの公演を観るつもりだし、土曜日も日曜日もやはりダンス公演の観劇予定がつまっていて、ちょっとハードスケジュールではある。他にも観たい映画が二、三本あるし、四月の上旬まではびっしりの予定になるかもしれない。中旬になればDさんと飲む予定もこのあたりに入れて、ゴールデンウィークの頃にはようやくヒマになるだろう。
 あれこれとネットで情報を仕入れていると、五月の下旬には「山海塾」の新作公演があることもわかったので、これはしばらくお会いしていないFさんを誘って行くことにしたらどうだろうと思い、Fさんに連絡を取ってみた。久しぶりにFさんといろいろとメールでやり取りをして楽しかったし、五月末での承諾ももらった。

 昼食は焼きそばですませ、夕食には昨日買ったかつおの刺身。ここは海鮮丼にすることにして、タレをつくってあたためたパックのご飯にぶっかける。それほどに美味ではなかったけれども、ニェネントにあげる分が少なくなってしまった。まあこのところニェネントも肥満気味で、「メタボネコ」状態になりつつあるので、あんまりたくさん食べさせることもないだろう。

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 実は眼を隠すために、黒のアイパッチをネットで注文してあって、昨日の早い時点で「発送が完了した」とのメールも受け取っているのだけれども、今日は届かなかった。おそらくは明日には届くのだろうけれども、外出に間に合うだろうか。せっかく買ったんだから、そりゃあ使ってみたいものである。

 昨日観た「演劇1」のつづき、「演劇2」を観た。


 

[]「演劇2」(2012) 想田和弘:監督・撮影・編集・製作 「演劇2」(2012)  想田和弘:監督・撮影・編集・製作を含むブックマーク

 昨日の「演劇1」ではまだまだ「青年団」こそが被写体、というスタンスもあったのだけれども、この「演劇2」ではどう見ても平田オリザ氏こそが主役。つまりは彼がその演劇活動をどのように継続されているのか、そのあたりへの視点が如実になる。

 まずは地方への演劇祭への参加、そしてワークショップ、講演などの活動を平田氏に焦点を当てて紹介する。それは活動の地平を拡げることでもあり、予算を得ることへもつながるわけである。地方での演劇祭の合間には民主党の前原氏などとも会われるわけだけれども、そう、平田氏は民主党の内閣官房参与という立場にもあられたわけだ。

 講演では社会の中でのアート、ひいては演劇の存在の必要性を説き、彼の著書の「芸術立国論」へと展開されて行く。「1」で示された「劇団」という形体が、はたしてこの社会の中でどのように存続するのかを問われるような内容にもなっている。

 後半では海外の演劇人との共作、そして今も継続している彼の新機軸、ロボット演劇への取り組みが紹介もされる。ラストは、ついつい居眠りされる平田氏かな。

 ドキュメンタリー映画として観て、場所が変わるたびに挿入される風景や街並みなどの「捨てショット」がけっこういい感じだし、そういう中でたまに登場するネコちゃんの存在がうれしい。ある場面を追いながら、フッと音声が消えて行ったり、次の場面の音声がかぶってくるのとかも印象に残った。

 「1」と「2」を合わせて約6時間、面白かったけれども、わたしもがんばりました。わたしとしてはやはり、「劇団」というもののあり方の描かれた「1」の方により興味を持たされただろうか。



 

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■ 2015-03-24(Tue)

 ‥‥思い出して、書いておきたくなったこと。

 わたしがイヴェントをやっていた頃、たいていのシュヴァンクマイエルの映像の日本での版権を持っていらっしゃるEさん(例によって、その月に出てくる順番でAからふっているので、その方のイニシャルではありません)という方と知り合い、「こりゃあ自分のイヴェントで上映させてもらえるかも」とお願いし、みごとにシュヴァンクマイエルの短編のいくつかを上映できることになった。

 同時にそのEさんにも来ていただいて、会場でシュヴァンクマイエルの作品についてなど、トークをやっていただくつもりで話をすすめた。話はまとまったと思っていたのだけれども、直前になって、そのEさんが(こちらへの連絡もなく)こちらのトーク予定の日の同じ時間に別のところで講演される予定なのを知った。こちらはもうチラシにも告知してあるというのに。Eさんに電話して「どういうこと?」と聞くと、わたしの口調が詰問口調であったこともあって、彼は「わたしは最初からあなたの話には乗り気ではなかった」などといわれるのであった。ちょっとあきれてしまったのだけれども、話は取り返しのつかないところに行ってしまった。

 映像を借りることは出来たけれども、当日は「予定されたトークはEさんの都合で中止になりました」と告知した。何人かのお客さんから「中止なんですか?」と聞かれ、期待されていたお客さんもいたことをあらためて知った。

 講演料などの話を持ち出せなかったこちら側の問題もあっただろうけれども、それ以来、「こっちが頭を下げてまでお願いするようなことはやめにしよう」と思うようになったし、その経験が「権威など相手にしない方がいい」という意識を「確信」に変えてくれたことはたしかである。別にEさんへのうらみはない。(Eさんはその後しばらくして、不慮の事故でお亡くなりになられたそうである。)でも、今のわたしは権威にへつらわないでいる自信はある。まあEさんのことを「権威」と呼んでしまうのは乱暴かもしれないけれども。

 眼の状態は少し良くなったようだけれども、逆に血のたまっているところが目立つようにもなったようでもあり、やっぱり外に出るには眼帯は欠かせないという感じ。例えば映画や舞台など、その場が暗転してしまえば眼帯を外してしまっていいのだけれども、ギャラリーなどではそういうわけにもいかないんだろうか。気にしなければいいのだともいえるけれども、今の状態のこの眼を人が見たら、「ドキッ」とされてしまうのではないだろうか。

 今日は以前録画してあった想田和弘監督のドキュメンタリー(監督いうところの「観察映画」)、「演劇1」を観た。これは「演劇2」に続いていて、それぞれがほぼ3時間の長さがある。なかなかしんどいことになるかなと思っていたけれども、案外とすんなりと時間は過ぎて行った。明日は「演劇2」だ。


 

[]「演劇1」(2012) 想田和弘:監督・撮影・編集・製作 「演劇1」(2012)  想田和弘:監督・撮影・編集・製作を含むブックマーク

 平田オリザ氏と青年団の活動を追った、実に長大なドキュメントのパート1。ナレーションもBGMもない作品からはやはりフレデリック・ワイズマンの作品のことを想起させられ、そういう意味ではこの作品はまさに「演劇」というタイトルなわけだ。

 この作品から浮かび上がってみえてくるのはひとつの「装置」としての劇団の姿だと思うのだけれども、やはりここでは具体的には「青年団」という固有名詞を持つ劇団のあり方だろう。拠点の駒場アゴラ劇場周辺の風景をとらえた、いかにもワイズマン的な「捨てショット」から、それなりに場所を変えながら展開して行くのだけれども、そこでの稽古の様子、平田氏の演出はもちろんのこと、経理にも目を通し、劇団員への叱責も行なう平田氏の姿に、むしろこの作品で描かれているのは「演劇」というよりは「平田オリザ」という個人なのではないのか、という思いにとらわれる。そのことが、ひょっとしたらこの作品の欠点なのかもしれない。

 実はわたしは青年団という劇団の向かう方向への興味はほぼ失せてしまっているのだけれども、執拗なリハ、地方公演への搬入と仕込みの流れをみていると、それなりに「何かをつくる」という情熱の中に取り込まれ、熱い思いがこみ上げてきてしまうのである。

 このパート1のラストは、志賀廣太郎さんへのシークレット・バースデイ・セレブレーション。カメラも加担して志賀さんをびっくりさせるのだけれども、わたしも志賀さんのファンではあるので、観ながら「おめでとう!」って感じだった。
 しかし、御大の志賀さんもチラシの折り込みをやったり、仕込み/セット設営を手伝ったりされるのね。



 

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■ 2015-03-23(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 やはりわたしの記憶力は相当に衰えていて、ちょっと前に観た映画のことをまるで思い出せなかったりする。そのことをまた「前頭葉てんかん」の発作と結びつけると怖いのだけれども、日常の記憶で途切れていたということはなかったようには思う。ただ、こうやって一人暮らしをしているとそういう状態のこともわからない。二年前なども「どうも記憶力が低下している」と思っていたらどうやら「前頭葉てんかん」の発作のせいだったようだし、その頃でも生活上で記憶の断絶という意識はなかった。そういう意味では現在の状態というのは「要注意」なのかもしれない。こんど市民病院へ行ったら相談してみよう。

 記憶力でなくっても思考能力自体がこのところ低下しているのも確かなようで、そういうことはこの日記を書いているとよくわかる。たとえばきのう書いた「バットマン リターンズ」の感想など、観ているときにはあれこれと考えていたのだけれども、そのことを文章でまとめようとすると言葉が出てこないというか、まるで平凡なことしか書けない。「もっといろいろ考えていたのに」と思っても、そのことを頭から導き出してまとめられない。このことも「前頭葉てんかん」に関連しているのだろうか。

 今日は心療内科の医院に行ったので、そのことをちょっと話してみたのだけれども、担当医は言葉を濁して笑っているだけ、みたいな。とにかく、もっともっと、この頭にはフル稼働していただきたいものである。

 今日もまたダラダラとした一日。その「生活の怠惰」と、「頭脳の不活発さ」とがリンクしているようでもあり、まずは「生活の怠惰」をこそ是正していけば、おのずからアタマも働き始めるのかもしれない。このところしごともわたしのシフトとしては「飛び石連休」で、今日が休みで明日は出勤、そしてあさってはまた休みだったりする。そういう「休み」をなんとかフル活用して、生活の活性化を図ってみたいところではある。



 

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■ 2015-03-22(Sun)

 一月に門前仲町で飲んで以来のDさんと、「こんどは中央線沿線で飲みましょう」と約束していて、「中央線沿線には各駅にいろいろと居酒屋もありそうだけれども、よくわからないな」とFacebook で友だちらに問い合わせたら、「やっぱり吉祥寺の<いせや>でしょう」みたいな返事が来た。「いせや」ならわたしも知ってるし、焼鳥をどっさり食べたいところもある。しかし、このあいだAさんに案内してもらった京橋の「駒忠」も気に入っていたので、Dさんに「とりあえずは中央線沿線なら<いせや>。でも、先日京橋で見つけた居酒屋も良かったよ」とメールした。Dさんから返事があり、京橋の店に興味があるとのこと。行くのは四月になるだろうけれども、だいたいの話がまとまった。楽しみではある。

 読んでいるパトリシア・ハイスミスの「殺意の迷宮」、ようやく1/3ぐらい読み進んだ。ペースは遅い。四月にはこの小説を原作にした「ギリシャに消えた嘘」という映画の公開が始まってしまう。公開までには読み終えて観に行きたいのだけれども。映画ではヴィゴ・モーテンセンとキルスティン・ダンストが夫妻役で出演しているらしいけれども、原作の感じにマッチしていると思った。けっこう原作に忠実に映画化されている予感がする。これも楽しみである。

 今日もまた、ダラダラとした一日になった。もうすっかり「昼寝」をするという習慣が定着してしまった感じもあり、その分夜は起きていられるのだけれども、起きているからといって何かをやるわけでもない。もうちょっとアルコールの摂取をひかえることは大事なことではないだろうか。


 

[]「バットマン リターンズ」(1992) ティム・バートン:監督 「バットマン リターンズ」(1992)  ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 畸形の悪玉「ペンギン」にダニー・デヴィート、「悪」というよりはどこかニュートラルな「キャットウーマン」にミシェル・ファイファーという布陣がバットマンに対する。しかしペンギンにせよキャットウーマンにせよ、監督からの視線はシンパシーにあふれているようでもあり、そこで「ほんとうの悪」としてクリストファー・ウォーケンという存在も登場するけれども、「善」が「悪」を倒すというルーチンからはなれて、「バットマンという存在もまた<陰>を背負っているではないか」という視点が、いかにもティム・バートンらしい。

 ペンギンもまたその生に悲劇を背負っていて、キャットウーマンは「Hello There」が「Hell Here」になってしまうところで生きている(実はいちどならず死んでいる)。これらの「悪役」がゴッサムシティのクリスマスを舞台に暗躍しまくる、という展開からも、ティム・バートンの嗜好が読み取れる気がする。とても面白い。



 

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■ 2015-03-21(Sat)

 どうもダラダラとした日がつづくのだけれども、今日もまた昼寝をし、とても活動的とはいえない一日になった。

 昨日スーパーでトマトを買ったので、毎朝のトーストサンドにはトマトもはさむ。レタス+卵+ハム、そしてトマトになり、やはりトマトがはさまるとおいしさが格段とアップする。昼食にはひき肉を入れた味噌ラーメン、夕食はキャベツと長ネギとのお好み焼き。お好み焼きもまた格別においしく、寝るときに「今日のお好み焼きはおいしかったなあ」などと思い返すのだけれども、きっとやることのなくなった老人というのはこういうことばかりに執着するのだろうと思う。そういう意味では危険。

 ネットをあれこれと検索していて、岡上淑子という、50年代に活動したフォトコラージュの作家を知った。活動期間は6年間と短かったけれども、そのあいだに瀧口修造氏にも知り合い、北園克衛氏の推薦で北園氏の編集する雑誌に小文を掲載されたりする。その活動のスタート時点ではシュルレアリスムもマックス・エルンストも知らないでやっていたそうな。いちおう90年代の末期には再評価の動きも起きたようなのだけれども、その彼女の日本では初になる(実はすでに海外では刊行されている!)作品集が、この月末に発売されるようである。

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 わたしはまるで彼女のことを知ることもなかったのだけれども、その作品はどれも凛として蠱惑的。彼女の経歴も面白いし、しばらくは見入ってしまった。近年になって彼女はまた作品制作を再会されてもいるようだし、よく見るとここに挙げた作品は金井美恵子の本の表紙にもなっていたもので、わたしにも見覚えのあるものだった。このあたり、彼女の再評価による選択でもあったのだろう。
 別に見つけた彼女のインタヴュー(長いのでまだ全部は読んでいない)によると、寺山修司からも彼の詩に彼女の挿画を添えて出版しないか、という話もあったようだ。これはなんと、滝口修造が「ちょっと君には合わない」ということで、「(それだったら)ぼくが書きますから」ということで、滝口修造の詩と彼女のコラージュとで一緒に出しましょう、という流れになったそうな。けっきょく(滝口修造氏は遅筆ではあられるし)その話は実現しなかったけれども、寺山氏が書かれて彼女が挿画を担当したというのは、新聞紙上でいちどだけ実現したそうである。

 彼女の名前は憶えておこうと思う。

岡上淑子オーラル・ヒストリー 2013年3月8日


 

[]「バットマン」(1989) ティム・バートン:監督 「バットマン」(1989)  ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 これもまた、コミックのスーパーヒーローものの映画化。舞台となる「ゴッサム・シティ」の造形にこそ、ティム・バートンも力を注いだようにも見受けられる。そしてダークな色彩の衣裳に包まれたバットマンよりも、原色ギラギラの「ジョーカー」の存在。ここでのジャック・ニコルソンの怪演には目を見張るものがあるし、対照的に寡黙で渋い役どころのマイケル・キートンも引き立つことになる。
 その「悪玉」「善玉」双方からアプローチされるのがキム・ベイシンガーだけれども、そのクシャクシャっとした髪とともに、やっぱり魅力的な女優さん。ここでは「キングコング」のフェイ・レイみたいに叫び声ばかりをあげている。この「叫び声」が音響的な処理だというあたりも、演出の方策なのだろう。



 

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■ 2015-03-20(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 眼帯着用二日目。もちろん眼帯をしているのはしごとのときや買い物に行くときだけで、部屋にいるときには外している。眼科医からもらった目薬を一日に五回さし、何もやる気がしない。

 きのうの娘からの連絡はつまり、父が離れた地で一人暮らしをしているのは心配だから、娘の住んでいる近くに越して来ないかという内容だったのだけれども、わたしには今の生活はとてもコンビニエンスなもので、これが他のところで同じようにいくとはとても思えない。いっしょに暮らしているニェネントのこともあるし、今住んでいる部屋は一人暮らしとしては広すぎるぐらいだけれども、部屋飼いされているニェネントにはうれしい環境だろう。これがもっと狭い部屋に移動するというのも、ニェネントにはかわいそうだ。
 しかし娘の申し出というのは無視していいものでもなく思え、そういう心遣いをうれしくも感じる。少なくともこうやってしごともあるあいだはこの地で生活させてもらって、そこからまた考えるのではどうだろう。とにかく今は判断保留か。

 そんな娘からの連絡のせいだろうが、元妻と娘の出て来る夢をみた。やはり何かを待つ夢。娘は幼い姿になり、無邪気になっていた。

 前にも書いてちょっと考えているのだけれども、今の読書が一段落したらカントの「純粋理性批判」に挑戦してみようかしらん。おそらくそこで語られる「認識」の問題などは、今のわたしにはちょっと切実な問題にもなっている。ロジカルなものをどこまで理解できるかという自己診断にもなるのではないだろうか。

 夕方からテレビで何となく相撲をつけていて、全勝の白鵬と二敗の照ノ富士との取り組みを見た。力のこもる勝負だったけれども、照ノ富士の圧勝だったといっていいだろう。白鵬の優勝を阻んだ。ちょっと興奮した。

 夕食にはてきとうに野菜を炒めておかずにしたけれども、食べたあとも空腹な感じで、缶詰を開けて追加で食べてしまった。久しぶりの大食い。



 

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■ 2015-03-19(Thu)

 もちろん眼の状態は改善されない。しごとには昨日買った眼帯をして出勤するのだが、「どうしたんですか?」と聞かれてもちょっと答えにくい。「いや、充血してしまって」ということで。帰宅して眼帯を外し、鏡をみても、昔のドラキュラ映画のクリストファー・リーみたいである。というか、黒目の周囲はほんとうに真っ赤っ赤で、もっとすごいことになっている。

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 しかし今月いっぱいは戻らないということで、この月末にはまたいろいろと出かける予定も出来ていて、そういうところにも眼帯をつけて行きたいのだけれども、この普通の白い眼帯ではなくって、「ツインピークス」のログレディみたいな黒のアイパッチとかしたらどうだろうか、とか考えるのだった。そう思い出すといろいろと調べてしまうのだけれども、なかなかに自分が考えているようなアイパッチが見つからない。「黒執事」のコスプレ用みたいな、パーティーグッズとして売られているのとか、そうでなければデザインとしてはちょっとダサいのではないのか、というようなものとに二分されるというか。
 でも、そういうのを着装して外に出かけて、「アレってコスプレじゃないか」と思われるよりは、デザインはダサくてもまさに眼に疾患があって使用しているのだと思われた方がいいのではないか。ちょっと高いけれども、そっちの方を買ってみようかな。

 今日は昼間は先日観ていた「アベンジャーズ」のつづきを観て、そのあとは今日本で開催されているカーリングの世界選手権の中継を見た。日本はもうギリギリのところで、この昼のゲームで敗北すると決勝トーナメントへの進出の道は絶たれてしまう。見ていても敗北ムード濃厚な展開になり、「ああ、ダメか」と思いながらゲームの終わるまで見た。残念だった。

 夕食のあとに、その日本チームがドイツを相手にした予選最終戦をまた見てしまう。‥‥このゲームはナイスな展開。予選は一日に2ゲームというハードスケジュールの中、日本は6勝5敗とちょっと勝ち越してのオーラス、だった。あと一ゲーム勝てていたらと思うところもあるけれども、仕方がない。


 

[]「アベンジャーズ」(2012) ジョス・ウィードン:監督 「アベンジャーズ」(2012)  ジョス・ウィードン:監督を含むブックマーク

 マーベル・コミックのスーパーヒーローたちが一堂に会して、世界滅亡の危機を救うというお話。
 ‥‥わたしはマーベル・コミックというものにまるで思い入れもないし、まずはそういうヒーローたちがいきなりに「こいつらは強いんだ」という前提のもとに登場してくる展開になじめない。それにわたし的にはスカーレット・ヨハンソンとロバート・ダウニー・Jr以外の出演者に魅力を感じられなかったし、特に敵であるロキとかいうキャラがどうしてもクラウス・ノミにみえてしまって、ドラマとして画面に見惚れるということができない。脚本もただマンガチックなおざなりな「決めことば」を連続させているだけみたいに思えるし、やっぱり「ドラマ」の欠如。

 映画としてこのような製作指針が好きだという人がいっぱいいることはわかるのだけれども、わたしは基本、スカーレット・ヨハンソンの登場シーンにしか興味が持てなかった。ハリー・ディーン・スタントンがちょっとだけ出てきて、このシーンは好き。



 

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■ 2015-03-18(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 右眼の充血が心配で、もちろん朝目覚めても状態は好転していない。ネットで調べると冷やすのがいいようなことを書いてあったので、氷をタオルにくるんで眼に当てたりする。とにかくは目薬を買って自己流の治療をやってもいいのだけれども、やはりそういう自己判断は危険だろうし、しごとのあとに眼科医に行くことにした。

 眼科医もまた、ウチから歩いて5、6分のところにある。何もかもコンビニエンスなことだと思う。これでこのあたりの病院は耳鼻科と肛門科(笑)以外はすべて通ったことになるか。
 わたしが行ったときには誰も順番を待っていなくって、すぐに診察してもらえた。町の眼科医としてはちょっと大きな規模で、看護の方もかなりの人数がいて、スムースにてきぱきと診察してもらう印象。主治医の方はかなりのご年配で、「ああ、こういうのはねえ」という余裕の診断。どうやら冷やすのは逆効果だったようで、「出来れば蒸しタオルとかで温めるようにして下さい」ということだった。「今月いっぱいは正常に戻りませんね」といわれ、ちょっとばかりショック。二種類の目薬を処方され、初診料を加えてもそんなに治療費はかからなかった。予想では「最低二千円はかかるな」と思っていたのだけれども、千五百円ちょっとで済んだ。自己流に目薬を買ってもそれなりの金額はかかったろうし、何よりも適切な処理ということは出来なかっただろう。そう考えるととっても安くすんだ通院だった。これで「明日からはしごとに出るにも眼帯をして行こう」と考え、帰りにドラッグストアに寄って眼帯を買った。とにかく早く正常に戻ってほしいものである。

 帰宅してからは眼のことも気にかかるし、とにかくは目薬をさして眼をとじて安静にして、というのはつまりは「昼寝」の体勢でもあって、そのまま眠り込んでしまった。

 夜になって、娘から電話をもらった。娘がわたしのことを気にかけていてくれることのわかる内容で、うれしくなる電話だった。



 

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■ 2015-03-17(Tue)

 今日もまたお出かけ。目的は京橋で開催されているAさんの参加されているグループ展を拝見して、もくろみとしてはそのあとに、Aさんとどこか居酒屋で飲みたいということ。そうするとギャラリーに行くのは夕方でかまわなく、その前の時間があいているわけで、せっかく上京するのだからまた映画でも観ておこうと考え、そろそろ3D上映の終わってしまうゴダールの「さらば、愛の言葉よ」を新宿でもういちど観ておくことにした。

 映画はだいたい三時からの上映なので、十二時に出発すれば間に合う。昼食もちょっと早めに自宅ですませてから出かけられるので、経済的ではある。

 昨日買ったかつおのたたきをおかずにして簡単な昼食にし、ニェネントにもかつおをたっぷり出してあげる。まだまだいっぱい残ってるよ。

 天気予報で今日は四月中旬の陽気になるだろうといっていて、たしかにもう部屋にいても寒さなどまるで感じない。出かけるのにもちょっと薄着でいいだろう。
 予定通り十二時の電車に乗り、ターミナル駅での湘南新宿ラインへの乗り換えもスムースにいって、予定よりも早く新宿に到着した。まずは映画館へ行って席を確保して、開場までの時間つぶしに紀伊國屋へ行く。読んでみたいような本があればまずは地元の図書館で探すようにして、たいていは買うことはない。ただ、そのうちにカントの「純粋理性批判」は読んでみようかという漠然とした計画はある。まだまだ自宅には読みたい本があれこれ順番を待っているので、かなり先のことになるだろうけれども。

 開場の時間になって映画館へ行く。先にこの「さらば、愛の言葉よ」を観たのは銀座の映画館で、そちらの上映は終了してこの新宿での公開。ある意味で「二番館」といえばいいのかと思うのだけれども、映写室としてはこの新宿の方が銀座でより大きい。妙なものだなあと思う。

 二回目の鑑賞はさいしょの時よりもずっと楽しめたし、「これは傑作では」とも思うようになった。ソフト化されたら買ってもいいぐらいなんだけれども、はたしてこの作品、DVDとかブルーレイになったとき、どういう風にするんだろう。ぜんぶ2Dになってしまうのか、メガネをつけて3D版としてリリースするのか。3D仕様になっていないモニターでは観られなかったりするのだろうか。

 終映時で四時半近い時間。あとは京橋へまわってAさんの参加する展覧会をみて、おそらくはそこでお会いするAさんと飲みに行ければいい。ちょっとのんびりと東京駅から京橋へと歩き、先日来たときに立ち寄った「猫ちゃん通り」にまた行ってみる。今日もまた、先日と同じように「チロちゃん」一匹だけが道路で丸くなっていた。

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 Aさんの作品は先日の上野での「人人展」につづいて拝見することになる。今回の「座の会」というグループ展、基本は日本画と漆の作家さんの集まりで、先日の「人人展」の「何でもあり」なカオスのような展示に比べ、ぐっと落ち着いている印象。そんな中では、Aさんの作品は周囲よりも「跳ねている」印象もある。

 ギャラリーにいらっしゃったAさんとも無事にお会い出来、ギャラリーが閉まってから飲みに行くことになる。「いいところがありますか」と聞くと、もう京橋といえば「ここ」ですよ、という居酒屋、「駒忠」という店があるとのこと。ギャラリーからも離れていないその居酒屋へ案内していただき、席に着く。たしかに価格も安く、メニューもとっても豊富。それでいて落ち着きもあり、いい居酒屋だと思う。京橋あたりのギャラリスト、出品されている作家さんたち御用達の店か。

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 いろいろとAさんとの会話も盛り上がり、楽しい夜になった。「上野東京ライン」のおかげで帰宅も楽になり、いつもよりちょっと遅くまで飲んで、終電で帰宅した。ニェネントに「お留守番ありがとう」と、またかつお攻め。

 そう、Aさんに「右目が真っ赤ですよ、どこかにぶっつけた?」と聞かれ、そういう憶えもないし、別に痛みも感じていなかったので気付かなかったのだけれども、鏡で見るとほんとうに白目の部分が真っ赤になっていて、それはとても寝不足とかで充血した赤さではなく、出血したという赤さなのだった。あまり人前にさらせるようなものではない感じで、明日は眼帯でもして出勤しようかと思うし、やはり眼科医に行った方がいいようにも思うのだった。


 

[]「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール:監督 「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール:監督を含むブックマーク

 もういちど観て来た。やっぱりわたしは頭が不自由だから、どんな映画でも二回は観ないとわからない。演劇を観ても本を読んでもそうなんだろうけれども、こちらは「再見」「再読」ということはなかなかに困難。そういう面では映画というのはけっこう気軽に再見できるのがうれしい。

 ゴダールという人は、「あのね、聴きたいことがひとつあるんですけど」「いや、今はひとつの質問に答える時間がない」「じゃあ、ふたつ聴きます」というような冗談めいたロジック(?)でどんどん進めて行く。このロジックをとらえるとわかりやすくなる思いがする。

 この「さらば、愛の言葉よ」で、行動が一貫してるのは犬のロクシーだけ、といってもいいだろうし、ロクシーの行動を追って行くとゴダールのメッセージも多少は理解できるのかもしれない。

 日本でのタイトルは「さらば、愛の言葉よ」だけれども、原題は単に「さらば、言葉よ」なのであって、そこでロクシーの存在こそが活きてくる。ロクシーの彷徨を追い、ラストにはロクシーの鳴き声と赤ん坊の泣き声が聴こえてくれば、それはまさに「さらば、言葉よ」なのだなあとわかる。

 言葉に「さらば」をして、そして残るのはやはり映像だろうか。この映画の映像についてはやっぱり耽溺しなければならない。わたしは、ラスト近くの水面に映る木立と水底とが示される、2Dと3Dの映像の交錯に惹かれる。

 でも、やっぱりロクシー。もう一回観てもいいな。



 

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■ 2015-03-16(Mon)

 先日Steely Dan に関連する夢をみたけれども、こんどはSteeleye Span。あまりよく憶えていないけれども、わたしはあるアナログ盤のジャケットを見ている。それは現実には存在しない盤なのだけれども、わたしはとてもきれいだと思いながら見ている。そこでわたしは他の誰かと、イギリスのオーセンティックなトラッド系のシンガー/バンドのプロモ映像を見ている場面になる。セピア色の映像の女性シンガーの顔のアップになり、わたしはそれがやはりトラッド系のシンガーなのだと思うのだけれども、目覚めてみるとそのシンガーは実在する誰にも似ていなかった。強いて挙げればBjork に似てもいただろうか。しかし夢の中でのわたしはなぜかSteeleye Span を思い浮かべている。

 今日は横浜へ「地点」による「三人姉妹」を観に行く。「上野東京ライン」を使っての初めての横浜。ターミナル駅からまるで乗り換えなくていいのは便利だし、乗車時間は二時間ぐらいにもなるので、車中でゆっくり眠っていることも出来る。

 十一時に地元を出る電車に乗り、ターミナル駅からは十一時半の上野東京ラインに乗る。横浜到着は一時半で、そこから「みなとみらい線」で日本大通り駅まで。開場は二時半からなので、それまでに昼食を取っておこうと、またまた日高屋に行こうとするのだけれども、これが見つからない。会場の神奈川芸術劇場の裏側あたりをウロウロしてしまうのだけれども、ちょっと歩くともう海が見える場所になるのだな。ここは山下公園。「海」というのを目にするのがいったいいつ以来になるのか、記憶も消えているので、自分の中ではほとんど「はじめての海」みたいな感覚でもある。

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 目当ての「日高屋」がみつからないままに時も過ぎて行くので、「ここは節約モードで行こう」と、近隣のコンビニでパンとカフェラテを買い、山下公園のベンチで簡易昼食。さすがにハトたちがおこぼれ目当てで寄って来るけれども、恐れていたカモメの来襲はなかった。

 食べ終えて劇場へ行くともう開場されて整理番号順での入場が始まっていた。わたしのチケットの整理番号は14番と早い番号だったし、今日こそは土曜日の轍を踏まないように、「ここならば」という良席を選んで座った。

 会場には、近年「演劇」に入れ込んでいらっしゃる某映画監督氏も来ておられた。こういうことを書くとアレだけれども、このところテレビなどで拝見する氏はいつも帽子をかぶっておられるわけで、「やはり毛髪が後退されたのだろうな」と想像していた。今日も入場されるときにはトレードマークのようなあの帽子をかぶっておられたけれども、開演前にわたしがトイレに立って戻ってきたとき、帽子をぬがれた氏のうしろ姿をみることが出来、わたしの推測が正しかったことがわかったよ。こんなこと書かなきゃいいのに。

 開演した舞台は始終ドキドキしっぱなしのような、刺激的な舞台ではあった。感想は下に。
 終演後に外に出ると、思いがけずに思いっきりの雨だった。天気予報をチェックしてなかったのでおどろいてしまったけれども、この季節はすぐに雨になってしまう。いちおうバッグの中に小さな折り畳み傘を入れてあるので、その小さな傘を差しながら関内駅まで歩いた。関内駅から横浜駅まで乗り、そこでまた上野東京ラインに乗り換えれば一直線である。楽勝で座席に座ることも出来たし、快適である。

 自宅駅に着くとこちらでは雨ではなかったけれども、そろそろ降り始めるかな、というような小雨がパラパラと落ちていた。ちょっとスーパーに寄り、今夜はお弁当は買わなかったけれども、巨大な「かつおのたたき」が半額になっていて300円ぐらい。このところニェネントにおみやげを買ってあげていないので、これをニェネントへのおみやげ兼自分のおかずにすることにした。大きなかたまりなので、三日ぐらい持つんじゃないだろうか。鮮度が落ちたら火を通してたべてもいいだろう。

 帰宅してさっそくその「かつおのたたき」で夕食にして、ニェネントにもあげる。ニェネント喜ぶ。


 

[]KAAT×地点「三人姉妹」アントン・チェーホフ:原作 三浦基:演出 @横浜・神奈川芸術劇場 KAAT×地点「三人姉妹」アントン・チェーホフ:原作 三浦基:演出 @横浜・神奈川芸術劇場を含むブックマーク

 とりあえずメモ書き(まだ感想がまとまっていない)。

 まずは透明アクリル板で仕切られた、移動する「室内/室外」に魅せられる。そのアクリル板にまぶされた白い粉に、出演者の手の「痕跡」が残され、それが登場人物の執念(原作ではモスクワへの夢)を思わせられる。

 本来は動きの少ない、「静かな演劇」と呼ばれる戯曲なのだけれども、なんと!ここでは出演者らは冒頭からくんずほぐれつ、まるでレスリング競技である。木々が天井から下に逆に生え、役者は床を這いずり回る。

 戯曲は換骨奪胎され、オリジナルの順序から離れてカットアップ/マッシュアップされる。そのなかで特に、「二百年、三百年後の人たちはどのようになっているか」についてのセリフがかなり反復される(これは原作でもそうなのだが)。

 舞台には風景は見えず、舞台美術が何かを象徴しているわけではないだろう。きっと、登場人物こそが風景であり、そこに運動がある。

 ちょうどしばらく前に、録画してあった同じ「地点」によるブレヒト劇「ファッツァー」を観たばかりだったので、このような舞台になることは予測がついていたのだけれども、この「三人姉妹」の方がはるかに興味深くも面白かった。とにかくはもうちょっと考えてみよう。‥‥いろいろと反芻され、寝付きが悪くなりそうだな。



 

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■ 2015-03-15(Sun)

 明日は横浜へ出かけ、「地点」による「三人姉妹」の舞台を観る予定。それでさて、「上野東京ライン」も開通してみると、はたして従来の「湘南新宿ライン」で行けばいいのか、同じく横浜も経由する「上野東京ライン」を使えばいいのか迷ってしまうのだけれども、時刻表をみると単純に「上野東京ライン」の方がターミナル駅からの乗り換えが都合がいいので、「上野東京ライン」の使用が決定。予習のつもりで読んでいた原作本も読み終えたし、あとは本番を待つだけ。

 午後からは録画してある映画を消化しなくっちゃと、「アベンジャーズ」なんていうのを観始めたのだけれども、わたしはそもそもマーベル・コミックにまったく思い入れはないし、それに敵キャラのロキというのが何だか強そうじゃないし、途中で観あぐねてしまった。スカーレット・ヨハンソンはいいのだけれども、残りはまた後日。

 それでやっぱりつまりは映画の途中で眠くなってしまい、いつものように昼寝をした。目が覚めるともう暗くなっていて、また野菜と肉を炒めてあんかけにして夕食にして、あとは次の予習、パトリシア・ハイスミスの「殺意の迷宮」をちょっとだけ読んだ。


 

[]「三人姉妹」アントン・チェーホフ:作 小田島雄志:訳 「三人姉妹」アントン・チェーホフ:作 小田島雄志:訳を含むブックマーク

 全四幕。読んでいてけっこう滑稽なシーンも多く、これは徹底して「喜劇」として演出することも出来るだろうと思う。劇の中で始終聴こえてくる音楽が印象的で、舞台化したときにこういうことは演出の妙にもなるのだろうと思う。

 三姉妹と兄のアンドレーはモスクワから遠く離れた田舎町で、いつかモスクワに戻れることを願っているけれども、劇が進行していくにつれてその意志は薄くなっていく。特にアンドレーは婚約〜結婚することになる俗物のナターシャの影響もあってか、どんどんとつまらない男になって行く。おそらくはこの戯曲であつかわれているのは四年ぐらいのあいだのことではないかと思うのだけれども、そのあいだに三姉妹もまた変化して行く。

 劇中で何度も、「哲学」ということで、「二百年後の、そして三百年後の人たちはどのように暮らしているのだろうか?それは幸せなのだろうか?」と問いかけられる。末娘のイリーナは「働くこと」にこそ幸せがあるという。

 この戯曲が書かれたのがちょうど千九百年。それだけ、新しい世紀だとか未来に関しての意識がチェーホフにも強かったのだろうと思う。じっさいにこの時期にチェーホフはモスクワから遠く離れた僻地で病気療養をしていたらしく、この三姉妹のモスクワへの憧憬はチェーホフもまた共有していたものではあったのだろう。その憧憬が、幕を重ねるごとに変形して行き、ラストにはほとんど希薄になってしまう。イリーナの「希望」もまたそのラストで消えてしまい、彼女を待ち受ける未来もまた「絶望」に近いものになって行くのだろう。

 ラストの長女のオーリガの独白。これがチェーホフのいう「哲学」なのだろうか。

もう少ししたら、私たちにもわかるような気がするわ、なぜ生きているのか、なんのために苦しむのか‥‥それがわかったら、それがわかったら!



 

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■ 2015-03-14(Sat)

 夢。わたしはSteely Dan のライヴに来ている。どうやら野外コンサートで、会場には日がさんさんと照っている。野外ライヴだけれども座席がちゃんとあって、わたしの席はいちばん左隅の前から二番目。わたしのすぐ目の前にはステージの裾がつづいているのだけれども、そのステージのそばに、不思議な形に折りたたまれたお札のようなものが落ちているのが目にはいる。拾って拡げてみると、やはりそれは一万円札だった。あたりにはほかにも丸められたり折りたたまれたりした、同じようなものが落ちている。拾い集めて数えてみると、ぜんぶで2万8千円分のお札だった。「ラッキー!」と思ってふところにしまうのだけれども、あとからそのお札の落ちていたあたりに男がやって来て、足元をあれこれと何か探している様子。「ああ、彼が落としたのかもしれないな」と思うのだけれども、わたしはもうネコババしてしまうつもり。もうちょっと夢のつづきがあって目覚めたのだけれども、その2万8千円が惜しくって、「ああ、目覚めなければよかった!」と思ってしまった。

 今日は演劇鑑賞。意外とこの日記で検索してみると今年初めての演劇体験のようである(正月に「さすらい姉妹」の野外劇は観ているけれども)。場所は上野で、ここに劇場があるなどということは知らなかったけれども、「上野ストアハウス」という名称なので、江古田のストアハウスとはつながりがあるのかもしれない。作、演出が少年王者舘の天野天街氏で、その少年王者舘から中村榮美子さんや夕沈さんも客演、そして音楽(生演奏)が坂本弘道氏というわけなのでチケットを買った。かなり少年王者舘の公演とかぶるものだと思うのだけれども、少年王者舘からの案内は来なかった。去年観た「寝覚町の旦那のオモチャ」はtsumazuki no ishi との合同公演で、戯曲としては天野氏の作ではなかったわけだから、天野氏の作・演出の舞台というのは、今回は少年王者舘の公演ではないとはいえ、ずいぶんと久しぶりのことに思える。そこに坂本弘道氏の音もからむのだから、いちだんと楽しみな舞台ではある。

 舞台は午後三時開演なので、自宅は十一時に出ればいい。ローカル線に乗って乗り換え駅に着いて、そう、今日から「上野東京ライン」というのが開業され、ダイヤが変更になるのを思い出した。窓口に行って新しい時刻表をもらい、みてみると今までよりもこの駅での待ち時間は少なくなったようではある。これからは上野の先、東京などへも乗り換えなしに行ける。ただ、新宿方面へ出るのは今までと変わらないようで、相変わらず駅での待ち時間は長い。この件はあれこれと苦情をいったのになあ。

 とにかくはその「上野東京ライン」に乗って上野へ行く。別に車両がピカピカのおニューなわけでもなく、いつもと同じ気分。上野駅に着いてもまだ一時ぐらいだった。二時間もあるじかんをどうやってつぶそうか。
 まずは場所を確かめに歩いてみて、すぐに見つけることができた。上野駅から歩いて十分もかからない。そのあとは昼食をとることにして、駅の方に引き返してまたまた「日高屋」へ行き、きょうは「担々麺」を食べる。これはけっこう辛くっておいしい。
 食事を終えてもまだ一時間ぐらいの時間があり、あたりを歩いてみる。このあたりを歩いてみるのは初めてのことだと思うけれども、けっこう古い家屋が並んでいて、いかにも下町という風情。空襲の被害に遭わなかった地域なんだろうか。銭湯なんかもある。

 歩いているうちに開場時間が近づいてきたので、劇場に取って返す。ちょうど受付の始まったところで、わたしは五番目の入場。いくらでも良席を選べるのだけれども、選んだ席はそれほどの良席というわけにはならなかった。う〜ん、いちばん前の席の方がいいのかもしれないけれども、いちばん前はいろいろと被害を被りそうで敬遠したくなってしまうのだね。

 そう、開演までのロビーでほんとうに久々に坂本さんと顔を合わせ、ちょっとあいさつをした。その坂本さん、出ずっぱりでの大活躍の舞台だった。

 終演時でまだ五時前。もうさっさと帰ろうと、上野駅へ向かう。その「上野東京ライン」の開通で、上野始発の電車が少なくなり、つまりは座るのに苦労してしまうかなと思ったけれども、ちょうどいい時間に上野始発の電車があり、ゆっくりと座って帰ることができた。

 帰宅時で七時半ぐらい。炊いてあったごはんで白菜を炒めて夕食にして、無駄遣いしないですんだかな。ほんとうは明日も出かける予定もあったけれども、それはやめておいて、家でゆっくりしようと思うのだった。


 

[]龍昇企画+温泉ドラゴン 共同企画公演「カム伝」天野天街:作・演出 @上野ストアハウス 龍昇企画+温泉ドラゴン 共同企画公演「カム伝」天野天街:作・演出 @上野ストアハウスを含むブックマーク

 けっこう直前になってネットで知った公演。「少年王者舘」関係の案内だったらウチに郵送があるはずだけれども、この公演の案内は来なかった。送ってくれればいいのに。

 わたしにとって天野天街氏の作・演出という作品を観るのはずいぶんと久しぶりで、そのあいだに記憶があやうくなるようなこともあったので、よけいにずいぶんと昔のことに思えてしまい、その記憶もおぼろげになってしまっている。

 今回は少年王者舘からは中村榮美子さんと夕沈さんとが客演し、天野天街演出との親和性をみせてくれたり、少年王者舘ではおなじみの夕沈ダンスをみせてくれたりもしたのだけれども、わたしはその他の役者さんのことは基本はわからない。「男臭い」というか、そういうあたりでこの舞台は「少年王者舘」ではないのだということではあるのだろう。それでも観ていて思い出した天野天街氏の演出の特色、前の役者のセリフの語尾をしりとりのように引き継ぐセリフの応酬、ことば遊び、そして執拗な反復などを楽しむことが出来たけれども、思い出してみるとあまりに既視感ただよう演出だったようには思ってしまう。物語は「河童の三平」であって、それがなぜ「カム伝」というタイトルなのか、なぜ中村榮美子の役名がその「カム」なのかとか、よくわからないところもあるけれども。

 生演奏で坂本弘道氏のチェロが絡む構成はこの舞台の特色の一つで、堪能させていただいた。特にラストのダンスでの音楽は素晴らしかった。



 

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■ 2015-03-13(Fri)

 昨日下北沢の中古レコード店で気になってしまった「ピーターと狼」だけれども、YouTube で検索すると、アルバムごとフルでアップされているのを見つけた。買ったりしなくってよかったわけだ。

 しかしこのところやはり無駄遣いのし過ぎにはなっていて、もともとたいした額ではない貯金がどんどん目減りしているようである。たしか四月末にはこの部屋の契約更新もあるはずで、また余計な支出になってしまうわけだし、このままではすぐに「貯金ゼロ」などということにもなりかねない。自炊をしないで安いからといって値引きされた弁当を買ったり、外食ばかりをする癖を止めなければいけないだろう。

 それでも明日は上野へ出ての観劇予定が入っているし、月曜日にもやはり横浜で観劇。火曜日にはまたAさんの参加されているグループ展が京橋で開催されているのを観に行く予定。ちょっとハードではある。ほんとうはこの他にも観たい舞台はあるのだけれども、「やっぱり自粛しておこう」みたいな空気ではある。池袋では「珍しいキノコ舞踊団」の公演も始まっているのだけれども、わたしはどうも「珍しいキノコ舞踊団」のダンスの根底にある「ダンスを踊る幸福感」みたいなものが苦手なところもあり、やっぱりパスしようという気分ではある。どうなんだろうか? 三月の下旬にはまだチケットを買っていない「大橋可也&ダンサーズ」の公演もあるのだけれども、これはけっきょくギリギリになってチケットを買って観に行くことになるんだろうか。とにかく、あまり外食とかに金をかけることを控えて、無駄な支出をしないようにしなければいけない。

 そういうことで今日は久々に米を炊き、「さんまのみりん干し」を焼いてローコストな夕食にした。


 

[]「ブラック・ダリア」(2006) ジェイムズ・エルロイ:原作 ブライアン・デ・パルマ:監督 「ブラック・ダリア」(2006)   ジェイムズ・エルロイ:原作 ブライアン・デ・パルマ:監督を含むブックマーク

 冒頭のカメラの流れとかを観ていて、なんだかデヴィッド・フィンチャーっぽいな、などと思ってしまったわけだけれども、あとで調べると、実はこの作品は元々はフィンチャーが監督するはずの企画だったらしい。そういうあたりで、まずはプロダクションはフィンチャー演出を念頭に動いていたという可能性もある。
 そう観て行くとたしかに、あれこれの場面がいかにもフィンチャーが演出しそうな設定では展開して行くのだけれども、それをデ・パルマ監督が消化出来ないままに撮ってしまったのではないのか、という疑念を払うことは出来ない。けっこうギリギリの時点での監督交替だったのではないのか?

 というか、この作品の根底にはフィンチャー監督の「ゾディアック」と同じものがあって、つまりは「猟奇殺人事件」に魅了されてしまう捜査員という物語ではあるのだけれども、この「ブラック・ダリア」はその魅了がうまく描写されてはいないし、おそらくはジェイムズ・エルロイの原作に内包されていたのであろう「ややっこしさ」が、どこまでもすっきりしないままに提示されてしまっている。かんたんにいえば、「これはどういうことなのか」という謎をあとになって「あれはこういうことだったのだ」という演出の連続なのだけれども、それがまるで「ああそうなのか」とはならずに、「えええ、それってどういうこと?」にしかならない印象。では二回観ればそのあたりは面白く観れるのかといえば、そういう演出でもないだろう。デ・パルマとしてはおそらくは最大級の失敗作で、フィンチャー監督はこれを観て、「オレならそうはやらない」と、この轍を踏まないようにもしたのではないだろうか。



 

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■ 2015-03-12(Thu)

 前から観に行きたいと思っていた写真展「ヘンリー・ダーガーの部屋」、とうとう今日が最終日になってしまっているので、「やはり行っておかないとなあ」と思い、(慣用句だけれども)重い腰を持ち上げて、出かけることにした。やはりそこは腰が重いので、昼食(おそば)もウチで食べてから、一時の電車でのんびりと出発する。それでもターミナル駅でがんばって乗り換えを急いで、新宿駅には二時四十五分ごろに到着した。展示されているギャラリーは西新宿の駅からそんなに離れていないところのはずで、「西新宿って歩いた記憶が残っていないなあ」などと思いながらギャラリーを探す。歩きながら、時間もちょうど三時に近くなっていたこともあって、「今日は展示の最終日だから、ギャラリーは三時で閉めてしまうということもあり得るよな」などと思ったりする。
 けっこう最短経路でギャラリーを発見してその近くまで行ってみると、「はい、お客さまのお考えになった通りなのでございます」とばかりに、「最終日15:00まで」の文字が目に入ってくる。時間はまさにちょうど15時。「あ、ダメかなあ」と思ったのだけれども、ギャラリー内での観客のひとりひとりがヘッドホンとメガネ装着でヘンリー・ダーガーの生涯の解説を観るコーナーに列が出来ていて、ギャラリーは3時を過ぎてもオープンしていた。ラッキーだった。おそらくはわたしがいちばん最後の観客だった、だろうか。

 皆はそのヘッドホンとメガネのコーナーに列をつくっているので、ギャラリー内には人がいない。ゆっくりと、時空を超えるような静かな空間を堪能することが出来た。

 ギャラリーのあとは、「せっかく出て来たのだから」と下北沢に移動して、このところご無沙汰している「G」へ行ってみようと。まだまだ時間は早いので、「G」へ行く前にまたまた下北沢の日高屋へ寄り道する。生ビールといつものメニューとでのんびりとすごし、持って来た「三人姉妹」を読み進めたりする。
 五時近くになって日高屋を出て、「G」に行く前に中古レコード店などに寄ってみたりする。アナログ盤コーナーをみていると、ロック版(かなりプログレっぽい)「ピーターと狼」などというものが置かれていて、Viv Stanshall だとかKeith Tippett、Julie Tippett などという顔ぶれが参加している。「そういえばVivian Stanshall っていたなあ」とか思い出して、価格も安いので欲しくなってしまうのだけれど、もちろんわたしはもうレコード・プレーヤーなど持っていないのであきらめる。

 それで「G」。今日は昼番のCさんひとりの店で、ネコを飼っていらっしゃるCさんとネコの話で盛り上がったり、いろいろと会話を楽しんだ。
 ちょっと早めに七時前に店を出て、九時には帰宅出来た。天候もおだやかな日だったし、いい一日だったと思う。出かけて来てよかった。

       f:id:crosstalk:20150312171708j:image:w260



 

[]北島敬三写真展「ヘンリー・ダーガーの部屋」@新宿・エプソンイメージングギャラリー エプサイト ギャラリー 北島敬三写真展「ヘンリー・ダーガーの部屋」@新宿・エプソンイメージングギャラリー エプサイト ギャラリーを含むブックマーク

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 展示された写真の点数は少ないのだけれども、こじんまりとしたギャラリーの黒い壁面に並べられたダーガーの部屋の写真から、まさにその場がダーガーの「非現実の王国」への入り口ではないのかと思わせられる、「神秘」をたたえた空間になっていた。その室内写真の採光というのか、光の定着のさせ方が見事な写真群だった。

 もちろん、ダーガーの作品こそがひとつの「ひとのいとなみ」としての驚異なのだけれども、それらの作品を生み出したこの空間から、ヘンリー・ダーガーの「孤独」が浮かび上がってくる思いがした。無理をしても観に来てよかったと思った。



 

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■ 2015-03-11(Wed)

 昨日三月十日は東京大空襲から七十年の日だった。八月六日、八月九日と共に「忘れてはいけない日」だったけれども、今日三月十一日は、「忘れられない日」。

 四年前、わたしの住む地域は「震度6強」だった。瞬間の停電につづいての長い揺れで本棚が棚ごと移動し、壁にピシッとひびが入った。「外に出た方がいいか」と玄関ドアに移動した時、その玄関ドア周辺の壁にも亀裂が入った。「ああ、ダメかもな」と思った。

 停電こそはつづかなかったけれども、水道の断水は三、四日つづいた。この地を通るJRもしばらくは不通になり、出かけるのには早くに動き始めた私鉄線を利用した。スーパーの棚から商品が消えてしまった。ある程度食品の備蓄をしてあったわたしは困ることはなかったけれども、それからはそういうことを見越して常に買いだめしておくようにした。断水に備えて風呂の水を流さないで、次に風呂を使う時まで取っておくようになったのもこの時からだった。

 しばらく経った3月31日のこのブログには、こう書いてある。

 おそらく、日本という国は変わってしまうだろうと思う。それはまず個々の生活が3.11以前と以降ではとうぜん、あたりまえのように変わってしまうことからも来るわけだ。都知事の花見けん制発言からも読み取れるのだけれども、これが二十一世紀型の全体主義国家(都知事の発言は笑っちゃうぐらい旧的な、翼賛体制的なものではあるけれども)への道をひらくものだという危険性については、警戒しなくてはいけないと思う。報道全体をみても、いわゆるマッチポンプというのか、初期報道でまずは火をあおっておいて、あとになって知らん顔をして人々の行動を非難するパターンもでき上がりつつある。もちろん、統制を強化するためではあるだろう。さらに、統制されたコマーシャルで「いま、わたしたちに出来ること」などと誘導され、ほんとうはもっとダイレクトな被災地への支援への道がみえなくなっている。もし、ほんとうに何かやりたいのならば、生きているインターネット回路が目の前にある。じぶんのやりたいこと、できることをキーワードとして、検索してみるといい。報道されてなどいないニーズにあふれていることがわかると思う。ほんとうの危機は、震災でも放射線でもないかたちでやってくるようだ。だからわたしは、いまマイノリティとして生きる方策をさぐりたい。それはおそらく、もっともっと「絶望」と「虚無」をみつめることだと思う。もう、「アカルイミライ」などないと思えと。

 ‥‥なんだか、イヤな形で的中してしまっているようではある。ラストのわたしの決意は、今でも活かさなくてはいけないと思っている。忘れてはいけない。その後わたしにはもっと「絶望」と「虚無」をみつめる理由も出来てしまっている。

 今日は朝からまずは内科医へ行き、その足で図書館、そして市役所とハシゴした。すべて近接した場所ではあったし、みんなスムースにことが運んで、所要時間は一時間ほどのことだった。
 図書館では来週早々に観に行く「地点」の「三人姉妹」の予習のつもりで原作を借り、ついでに「無脊髄動物の驚異」という本も借りた。
 市役所に寄った際に、げんざい撮影中の「十字架」という映画が、ほとんどがこの市内でのロケによるものなのだということを知った。そう知ってみると、なんだか観たくなってしまうのだった。

 午前中にいろいろと動き回ったので、昨日までの無為な生活からもこれで脱却出来るかと思ったのだけれども、やっぱり二時間ほど昼寝をしてしまった。それでもそれ以上は眠りつづけないようにして、あとは録画してあった映画を二本観た。夕食にはほんとうに久しぶりに「お好み焼き」をつくってみた。キャベツとネギ、そして玉子だけの具だったけれども、なかなかにおいしかった。これからまた時々つくってみようと思う。


 

[]「昭和残侠伝 死んで貰います」(1970) マキノ雅弘:監督 「昭和残侠伝 死んで貰います」(1970)   マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 高倉健追悼特集でオンエアされた一本。これもシリーズもので、その中ではこの第七作「死んで貰います」の人気が高いのだということ。
 この作品もまた、わたしの感想では先に観た「緋牡丹博徒 花札勝負」と同じように、「絵コンテ」をきっちりと造形化したものという印象が強いけれども、「捨てショット」というのか、物語の流れとはからまない、情景だけのショットが活かされていた気がする。

 任侠映画としてはやはりラストの大立ち回りこそに迫力を感じる(障子に血飛沫が飛び、その障子を破って人が倒れ込んでくるのがカッコいい)し、そこに到る「がまん」がそのことを盛り上げているのだろう。藤純子も「緋牡丹博徒」とはまったく異なる芸者役で登場し、高倉健を助けるのは池部良。ラストの高い位置からの、健さんがお縄をちょうだいして連行されて行くシーンがいい。

 わたしとしては、「緋牡丹博徒 花札勝負」の方が好きだったかも。


 

[]「黒水仙」(1947) ジャック・カーディフ:撮影 マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー:脚本・監督 「黒水仙」(1947)   ジャック・カーディフ:撮影 マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー:脚本・監督を含むブックマーク

 脚本も監督もマイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーとが共同であたっているけれども、原作の小説はあるみたいである。

 冒頭の室内シーンの、外からの光の効果が「おお!フェルメール!」みたいな感じで惚れ込んでしまう。なんでも全篇がセット撮影らしいけれども、この照明の仕事はすごいなあと感心してしまう。テクニカラーの色彩美を引き出したジャック・カーディフの撮影もすばらしいし、カラーであることを活かした演出(登場人物の衣服の色など)も、美術の仕事の巧みさもまた活きている。

 デボラ・カーという役者さんは好きなのだけれども、その美しさを最大限に引き出したのもこの「黒水仙」なのだと思う。とにかく、この尼僧姿がほんとうによく似合う女優さんで、この作品の成功の大きな要因の一つにもなっていることと思う。そう、彼女は「The English Rose」と呼ばれたのだった。

 異境での「信仰の危機」とでも呼べる内容の作品だと思うけれども、そのことがどこまでも女性の視点から描かれる。彼女たちがヒマラヤの奥地の崖っぷちにつくろうとする女子修道院の、その建物の前歴が「ハーレム」であったということが、彼女たちの困難を暗示する。困ったことにこの地には唯一のイギリス人男性(デヴィッド・ファーラー)がいるわけで、わたしの目にはアンソニー・クインがちょっと細身になったぐらいにしか見えないのだけれども、まあアンソニー・クインという人もあれでセックス・アピール度の高い俳優さんだったらしいから、ここで尼僧たちの「躓きの石」にはなってしまうわけだろう。それでその男はそういうことを自分でどう思っているのかわからない。その特権的な立場を利用して尼さんを誘惑することも出来そうだけれども、あっちが勝手に堕ちてしまうのをただ眺めているだけのようでもある。それはそれで罪深いのではないかと思うのだが、その石につまずいてしまうのがシスター・ルース(キャスリーン・バイロン)で、この役者さんのことはまるで知らないのだけれど、この人の三白眼というのがすっごく怖い。終盤にはほとんどホラー映画だろうが!という展開にもなってしまう。「もうわたしは尼僧ではない!」と唇に紅をさし、赤いドレスに着替えてデボラ・カーの前に登場するシーンはほんとうにすごい!

 ラストに、デボラ・カーはある意味では挫折して山から降りて行こうとし、そこにデヴィッド・ファーラーがやって来てなんだかんだというのだけれども、わたしだったら、この自分のセックス・アピールに無自覚な男に、「あんたのせいだよ、バカ!」と、横っ面を引っぱたいてやりたいところではある。



 

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■ 2015-03-10(Tue)

 今日はしごとは非番だし、明日出勤すればあさってもまた非番の休み。そういうわけで今日か明日には出かけたい気もちだったのだけれども‥‥。

 展覧会で観たいのが二つほどある。ひとつは今津景という新進作家の個展で、こちらはまだ今月いっぱい開催されているのだけれども、もうひとつ観たい「ヘンリー・ダーガーの部屋」の写真展は十二日でおしまいになる。こちらは是非とも会期中に観ておきたい。しかし今日は風が強いという予報もあるし、やっぱり気分がだらだらしてしまって出かける気がしない。けっきょく今日も午後から昼寝をしてしまい、ほんとうに「昼寝」というのが習慣化してしまったようだ。それならそれで夜遅くまで起きて何かしら出来ればいいのだけれども、けっきょく夕食のあとはもう何をする気にもならずにまた寝てしまうのである。

 昼寝のあとは食事の準備も嫌になって、弁当を買いに行くというのも習慣になってしまったというか、この習慣は良くない。今日は南のスーパーへ行き、中華弁当を買う。

 食事のあとは何とかがんばって、借りっ放しで延滞している「LAヴァイス」を無理してでも読み終えた。明日は図書館の先の内科医にも通院するし、図書館の向かいの市役所ですませないといけない用事もある。図書館にも寄って、一気に用事を片づけてしまおう。それで、「お出かけ」気分にでも切り替えられるといい。


 

[]「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著 栩木玲子+佐藤良明:訳 「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著 栩木玲子+佐藤良明:訳を含むブックマーク

 とにかくやったら登場人物が多く、読んでいても「アレ? コレってどういう人物だっけ???」とわからなくなってしまうことしばし。

 舞台は1970年春のロサンゼルス。主人公のドックはドラッグまみれのヒッピー探偵なわけで、この本は当時のヒッピー文化への言及にあふれている。しかしここで語られるヒッピー文化は、その一年前に行なわれたウッドストック・フェスティヴァルからの夢と幻想にまみれたものではなく、その暗黒面をあらわすチャーリー・マンソンをメインとするものではある。その周辺を当時のサブカルチャーが乱舞するこの小説、ストーリーラインよりもそのマンダラ模様をこそ描写したかったように読める。

 この原作はその原題通りの「インヒアレント・ヴァイス」として、国内でもこの四月から公開される。監督はポール・トーマス・アンダーソン。一時はこの翻訳通りに「LAヴァイス」の邦題での公開の予定だったようだけれども、いつの間にか「インヒアレント・ヴァイス」になってしまった。その「Inharent Vice」というのは保険用語で、船舶などにあるもともとの固有の瑕(きず)のことをいうらしい。小説のラストで、主人公のドックはロサンゼルスを太平洋へ繰り出す船に見立ててこのことばを口にする。

 原作には当時のポップ音楽やもうちょっとアングラ的な音楽が山のように登場し、その頃の音楽にどっぷりだったわたしにはまるでそのあたりの注釈もいらなかったわけではあるけれども、はたして映画ではどの程度にそれらの音楽が活かされるのか、というのがわたしの期待するところではある。そうそう、小説の中にはHerb Alpert (& Tijuana Brass) がOhio Express の「Yummy,Yummy,Yummy」をカヴァーしたものがカー・ラジオから流れ出し、主人公らが思わずラジオのヴォリュームをしぼるという場面があって、わたしは「え? Herb Alpert がそんなのやってるのかいな?」とYouTube で検索してみたりしたのだけれども、どうやらコレはピンチョンの「創作」らしい。

 実はわたしはこの本は二年ほど前にいちど読んでいるわけだけれども、例によってこれっぽっちも記憶していたわけではない。その感想をこの日記にも書いているわけだけれども、今ではここまでにち密な感想を書ける「脳」をわたしは持ち合わせていない。悲しいことである。その過去の感想は下の所に。

    「LAヴァイス」トマス・ピンチョン:著

 さて、早く公開が始まらないものか、今から楽しみである。


 

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■ 2015-03-09(Mon)

 今日も、だめな一日。午前中はまたパソコンにへばりついていて、やはり午後からは寝てしまう。目覚めるともう五時に近い。夕食はちゃんとつくろうと思っていたのだけれども、その気分も失せてしまい、また値引きされるぐらいの時間をみはからって、線路の向こうのスーパーへ出かける。外に出てみると思いのほか強い雨が降っていて、「こんな雨なら東京とかに出かけなくてよかった」などと弁明めいたことを思ったりする。

 今夜は「まぐろのぶつ切り」の600円近くするのが200円に値引きされていて、「これはニェネントが喜ぶだろう」とカートに入れる。もちろんわたしだって食べるつもりである。あとは「唐揚げ弁当」が300円になっているのを買うけれども、値引きされていてうれしい、というのではなく、自炊すればこんな浪費はしなくってすむのに、という後悔の念もある。

 帰宅して温めた弁当を食べはじめるとやっぱりニェネントが寄ってきて、わたしが食べるのをじっとみている。「ニェネントくん、きょうはあなたを喜ばせるものがありますよ!」とまぐろのパックを開け、ニェネントの目の前にまぐろをおいてあげる。もちろんニェネントは喜んで食べる。「まだまだあるよ」と、ニェネントが食べ終わるごとに新しくまぐろを出してあげる。その合間にわたしもちょうだいする。それはわたしの方がたくさん食べるのだけれども、ニェネントにもパックの1/3ぐらいはあげたんじゃないだろうか。200円は安かったなあ。

 食事を終えてもう寝ることにして、今夜はあと少しになった「LAヴァイス」ではなく、ずっと読みさしになっていたパトリシア・ハイスミスの短編集を読み終えた。読んでいると居間の方でニェネントがニャンニャンないている声が響いてくる。ずいぶんとにぎやかで、ひょっとしたらまた「発情期」になってしまったのかもしれないと思いながら、いつの間にかわたしは寝てしまった。

 夢をみて目が覚めて、時計をみるとまだ十一時ごろだった。そのときにはとても気になる夢だと思ったのだけれども、この日記を書いている今ではもう、まるで思い出せなくなってしまった。それですぐにまた眠ってしまい、今日は十二時間以上の睡眠になっただろうか。


 

[]「黒い天使の目の前で」 パトリシア・ハイスミス:著 米山菖子:訳 「黒い天使の目の前で」 パトリシア・ハイスミス:著 米山菖子:訳を含むブックマーク

 この文庫本も、かつてハイスミスがちょっとブームになったときに刊行されたもので、奥付をみると1992年の刊。もちろん今では絶版になっているようだ。もともとの原著の刊行は1981年らしく、ハイスミスとしては比較的後期の作品になるのだろうか。

 ここに収録された全十一編の作品、たいていは殺人事件などというセンセーショナルなことが起こるというわけでもなく、ましてや犯罪すらも構成しないであろうような事象を集めた作品が多い。登場人物の内面の変化だけを追うような、ほとんど「純文学」に近接しているような作品もある。

 たいていの作品の登場人物は中流以上、どちらかといえば富裕層ともいえるあたりもこの短編集の特徴で、そんなリッチな生活のなかで人とのリレーションシップが希薄になる、もしくは狂ってくるさまこそが主題になっているような作品が多かった。やはりハイスミスには「毒」がある。

●「猫が引きずりこんだもの」
 ある家族の飼っているネコが、なんと分断された人の手のひらをくわえてくる。常識で考えればすぐに警察に通報するだろうけれども、この家族は「そのことも考えたけれども」と即座に通報はしない。それで家長が独自に聞き取り調査みたいなことをやって、加害者も被害者もはっきりする。ネタバレしておけば、「あいつなら殺されても仕方がない」と、事件をにぎりつぶすわけだ。はたしてその行為は是認されるのかな。

●「仲間外れ」
 ニューヨークのセレブな友人たちの集まりで、その中のひとりの行動が周囲には面白くない。周囲の連中は「ちょっといやがらせをしてやろう」みたいな行動に出る。そしてその結果は‥‥。この後味の悪さがまたハイスミスである。

●「かご編みの恐怖」
 面白い作品。主人公は海岸から古いかごを拾ってきて修繕するのだけれども、それをあんまりにも「ピタッ」と修繕できてしまうことで、自己の内面で何かの「ずれ」を認識してしまう。

●「黒い天使の目の前で」
 「オレオレ詐欺」にちょっと似た事件の話というか、主人公は母親を老人養護施設に入れたまま、十年近くも会いに行っていない。毎年相当額の施設費用を知人を介して払い込んでいたのだけれども、あるときにその施設へ行き、とうの昔に母は死去していることを知る。つまり、知人がその施設費用を詐欺していたのだ。真相がバレて、その知人は自殺する。

●「わたしはおまえの人生を軽蔑する」
 主人公は大学を中退して、音楽仲間と同居する自堕落な生活をおくっている。金が必要で父の所へせびりにいくけれども、父はつまりは主人公の生活を嫌悪している。主人公は父を仲間とのパーティーに招待するけれども、関係はむしろ悪化する。

●「エンマC号の夢」
 沿岸漁業の漁船が、沖に流されてしまった若い女性を救助する。そのことで乗組員は舞い上がってしまい、乗組員の死まで招いてしまう。主人公は大学生でアルバイトで漁船に乗り込んでいるのだけれども、自分が女性の第一発見者であることにも運命的なものを感じ、彼女に自作の詩をプレゼントする。しかし船は港に帰港し、女の子はパトカーで運び去られる。

●「うちにいる老人たち」
 主人公夫妻は子供がいないこともあって、自宅に養護施設から老人を引き取って同居しようと考える。施設で「この人たちなら」という老人夫妻を選ぶのだけれども、いざ同居を始めるとあれこれの要求はされるしテレビの音は一日中うるさいし、あれこれのサポートもしてあげなくてはならないことにいささかうんざりしてしまう。甘いね、甘いんだよ、という一篇。ラストはやっぱりハイスミス流のブラックさ。

●「ローマにいる時は」
 主人公の女性は「覗き魔」に悩まされているのだけれども、その「覗き魔」の素性を知った気になって、ちょっと彼を助けてあげよう、同時にどうせ浮気している夫を痛い目に会わせてやろうと、夫の誘拐計画をその「覗き魔」にそそのかす。これも「甘いね、甘いんだよ!」という一篇で、「覗き魔」はもっと悪人であり、夫はもっとしたたかであったと。

●「どうにでもなれ!」
 二人の恋人のいるリッチな男が、「はたしてどっちの女性と結婚しようか」ということになって、最悪の選択をしてしまう。でも、この気もちはわからないでもない。

●「凧」
 背景をしっかり書き込んだファンタジー、といえるのだろうか。ファンタジーは現実に浸食され、主人公の男の子は墜落する。

●「黒い家」
 いわくのある、丘の上の廃墟の屋敷。主人公はその廃墟を探検してそのことを地元のバーで自慢するのだけれども、その「いわく」というものはバーにいる地元民の過去、でもあったということ。主人公は撲殺されてしまう。「いわく」を読むものに想像させるにとどめての展開が面白い。



 

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■ 2015-03-08(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 二日連続して終電での帰宅となって、しかも連日、朝の五時からしごとが始まるということになると、さすがに睡眠不足になるというか、疲労がたまってしまう。今日はしごと量が少ないわりに人員が多かったので楽だったけれども、それで拘束時間が変わるのではないので、体調が回復するわけでもない。

 読んでいる「LAヴァイス」も残り少なくはなっているのだけれども、昨日はほとんど読めなかったし、今日もそういう「読書」という気分ではない。またまた例によって午後からは「昼寝」モードになってしまい、暗くなるまで寝てしまった。目が覚めると、足元のふとんの上でニェネントが丸くなっていた。「こっちへおいで」とわたしの胸もとのふとんの中に引っぱり込むと、「ゴロゴロ」とのどを鳴らしておとなしくしている。ほんとうはふとんの中が好きなんだろうか。わたしと並んで寝るのがいいのだろうか。自分ではそうやってふとんの中にもぐり込めないので、わたしがやってあげるのがうれしいのだろうか。

     f:id:crosstalk:20150303180719j:image:w280

 起き出して、ピーター・バラカン氏がDJをやる「Barakan Beat」をパソコンで聴きながら、テレビでは「モヤモヤさまぁーず2」を見る。もちろん「どっちつかず」になってしまい、どちらにも集中することは出来ない。まずは「Barakan Beat」を挫折し、「モヤモヤさまぁーず」だって、ちゃんと見たわけではない。
 もう夕食をつくるという気分でもなく、八時をすぎてから線路の向こうのスーパーに弁当を買いに行った。ボイルしたイカがまるごとで百円というのを買い、わかめご飯の弁当とちらし寿司パックとを買う。そんなにいっぱいは食べられないので、イカは半分だけ食べ、ちらし寿司といっしょにあしたに残しておく。
 わかめご飯の弁当とイカを食べていると、またニェネントが寄ってきて、すぐそばでじっと見ている。今日はニェネントの食べられるようなものはないな。



 

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■ 2015-03-07(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日は上野へ行く。都美術館で開催されている「人人展」に、知人のAさんとBさんとが出品されている。Aさんとはこのところよくお会いしているけれども、Bさんとは久しくご無沙汰しているというか、もしも今日お会いできれば十五、六年ぶり、いや、もっとのことになるだろうか。

 このところ天候の良くない日がつづき、今日も、今にも雨が降ってきそうな空模様。雨は降らない方に賭けて、傘は持って出ないことにする(きっと夜は飲むことになるだろうし)。
 いつもの「焼きそば」で昼食をすませ、一時の電車で家を出る。上野に着いた時にはちょっとばかし雨が降っていて、「やっぱりダメだったか」と、がっかりする。どうもこのところ、上野に出て来ると雨に見舞われてばかりな気がする。とにかくは久しぶりの東京都美術館、のつもりなのだけれども、わたしは去年の「人人展」もきっと観に来ているはずではある。ただ、その記憶はこれっぽっちも残っていない。昨日の映画と同じである。

 Aさんから招待状をいただいているので展覧会場へ直行する。参加していらっしゃる作家は三十人以上いらっしゃると思うけれども、それぞれの作家が個性豊かというか、ひとつの展覧会としての通底した「指向性」というものがあるわけでもないような。‥‥でも、そういう通底した「指向性」の欠如というのは、今現在の「現代美術」だとか「アート」とかいう事象すべてにいえることだろうし、そういうことで、つい先日、あの「美術出版社」が多額の負債を抱え込んだあげくに民事再生法の適用を申請したことにもつながっていることではないのか、などとわたしは考えてしまうのである。そういう意味でも、この展覧会はまさに「今」なのではないのか、などという感想も持ってしまう。

 しばらく作品を観ていて、まずはAさんと出くわしてあいさつし、Bさんも会場にいるはずだということ。時間には余裕があるので、休憩室に行って一休みする。ここの休憩室からはちょっとだけ上野動物園の中がみえるのだけれども、おそらく目の前に見える檻は「かわうそ」か「ビーバー」の檻なんだろう。檻の内部はほとんどが水槽になっている。みていると、そのかわうそだかビーバーが水槽を泳いでいるのがみえたりする。
 Aさんからケータイに着信があり、Bさんがみえられたので、そちらに行きますよ、ということ。しばらくしてその休憩室のところにBさんがいらっしゃった。‥‥まったく以前と変わらない笑顔に接して、こちらも笑顔になってしまう。久しぶりに観るBさんの作品もとっても良かったので、とにかくはうれしい再会。しばらくあれこれと話をする。

 「人人展」は同時に湯島のギャラリーでも同じ参加メンバーでの小品展をやっていて、AさんもBさんもこのあとはそちらにまわられるというし、わたしもゆっくりとそちらに移動することにした。雨もあがっているし、時間もたっぷりとあるので、御徒町の方から散歩するような気もちで歩いて行き、その小品展の会場に到着。こちらに展示されている作品も興味深かったし、特にAさんとBさんの作品が良かった。
 ギャラリーには参加された作家の方々がおおぜいいらっしゃって、わたしの居場所もない感じなのだけれども、しばらくしてAさんもBさんもやって来られ、このあとの飲み会にいっしょに行きましょうということになった。

 メトロの湯島の駅の近くに「赤提灯」という居酒屋があり、皆さん展覧会のあとはそこで、というふうに決まっているみたい。AさんとBさんを含む十人ちょっとのメンバーで、そこへ行くのにまぜていただいた。
 座敷席の広い、安いメニューの多彩な居酒屋で、わたしもこういうおおぜいで飲むという機会もほんとうに久しぶりなので、楽しませてもらった。たんじゅんに、世界は広いなあという感想を持ってしまう。今日も終電での帰宅になった。



 

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■ 2015-03-06(Fri)

 三月になって、いろいろと予定が埋まってきた。明日は上野で開催中の展覧会にAさんとBさんが出品しているのを観に行くし、ネットをあれこれと検索していると、来週には龍昇企画という名まえだけは知っていた劇団の新作公演があり、その脚本も演出も少年王者舘の天野天街氏がやっていることを知り、やはり行きたくなってしまう。しばらく天野天街氏の作品を観る機会もないだろうから、やはり観に行くことにした。Facebook 上では北村明子さんのソロ公演が三月末に行なわれることも知り、前回の公演を行けなかったこともあって、こちらもチケットを買うことにした。

 それで今日は、カイエ・デュ・シネマ週間in東京でのブリュノ・デュモン監督作品の連続上映として、「ハデウェイヒ」という作品が上映される。このイヴェントでの先日の「プティ・カンカン」上映を見逃してくやしい思いをしたわけで、時間的にはけっこう厳しいスケジュールになるけれども、やはり観ておきたい、観ておかないと後悔するだろうなあと思い、行くような予定で動くことにする。

 しかしながら、おとといやはり映画を観に上京したばかりだし、明日もまた東京に出かけなければならないので、気もちとしては「家でのんびりしていたい」という感じで、つまりは腰が重たくなる。
 映画の上映は七時からなので、三時に家を出てもゆうゆう間に合う。それで余計に部屋でのんびりしてしまうことになり、なかなかに気合いを入れられない。そこをなんとか気分を入れ替えて、三時の電車で東京へ向かった。
 上映会場は飯田橋にあるアンスティチュ・フランセという所なので、池袋でJRを降りて地下鉄で飯田橋へ行く。意外と池袋から飯田橋というのは近いのだ。早めに着いたので、またまた「日高屋」へ入り、早めの夕食をすませておく。ほんとうにこのところは日高屋のヘビーユーザーである。今日はハイボール、プラスいつものイカ揚げ、ポテトフライ、餃子というメンツ。「軽め」に行こうと思うときに前にたのんでいたレモンサワーはまるで水みたいなものだったので、今回はハイボールにトライ。こっちはいくらかはマシだった。‥‥そりゃあ熱燗とかでいけば「飲んだ」という感覚にはなれるのだけれども、それではアルコールがまわって眠くなってしまいそう。それでこういう選択になる。

 そんな食事を終えて会場へ。とにかくは開場時間ピタリぐらいに会場に着き、それで案内がいっさい出ていないのでとまどってしまったのだけれども、職員の方に聞いて会場は二階だとわかる。ここって、過去に来たことがあったんだろうか? 思い出せない。

 上映が始まる頃で、観客は二十人弱ぐらいだっただろうか。ブリュノ・デュモンの人気ってやはりそのくらいのものなんだろうか。今夜上映される「ハデウェイヒ」はもちろん劇場公開されてはいないけれども、四、五年前の同じ「カイエ・デュ・シネマ週間」で上映されたことはあったみたいだ。それで気になって、この日記を書いている今になってこの日記を検索してみると、なんとなんと、わたしはちゃんと過去にこの作品を観ているのではないか。しかもその時にはブリュノ・デュモン監督のティーチ・インも行なわれていた模様。

 あらためて、失われた自分の記憶というものにショックを感じてしまった。

 上映が終わり、ローカル線の終電で帰宅。寝るまえにまたネットをチェックして、Facebook でまたまた知っている人物のあきれた発言を目にする。この人物には以前からあきれていたわけなので、このあたりが潮時かもしれないと思った。「わたしはお前をバカだと思っている」と、ちゃんといっておいた方が(わたしの精神衛生上にも)いいんだろう。そのようなことをやっておいて、就寝した。


 

[]「ハデウェイヒ」(2009) ブリュノ・デュモン:脚本・監督 「ハデウェイヒ」(2009)   ブリュノ・デュモン:脚本・監督を含むブックマーク

 前回に観たときの感想は以下の通り。

ハデウェイヒ

 この2010年公開時での「リアリティ」は皆無、といわれたこの作品が、今2015年になって、あんまりなリアリティを発揮してしまっている現実。そういうところではこの作品が今の現実を予見したとも?

 同じ人間が観るのだから、たいていの感想はその過去の日記に書いたのと同じだったりもするのだけれども、あらためて「演じるもの」の力、というものに感じ入ってしまった。
 デュモン監督はプロの俳優は使わず、この作品でも皆アマチュアの人たちが演じている。そういうところでも、この作品のヒロインのセリーヌを演じる女性の素晴らしさ、そしてラストに思いっきり「場」を変えてしまう男性の「顔」、とかに圧倒されてしまうわけではある。

 こういうあたりはやはり素人の役者を使うロベール・ブレッソン監督のことを思い浮かべてしまうし、その硬質な映像からも同じような感想を抱くことにもなる。

 やはりブリュノ・デュモン監督は現代の傑出した映像作家のひとりであることを確信したし、あらためてこの「ハデウェイヒ」を含めて、ほとんどの彼の作品が一般公開されていないことに憤りをおぼえてしまう。

 そう、この作品で強烈な印象を残す男性、ダヴィッドを演じた人物は、ブリュノ・デュモン監督の2011年の作品、「アウトサイド・サタン」にも主演されていたらしい。しかもその後、彼はまだ若くして亡くなられてしまわれたらしい。その「アウトサイド・サタン」、どこかで「もっともブリュノ・デュモン監督らしい作品」という評も読んだ。「プティ・カンカン」はまた観ることが出来るのがわかったけれども、今ではこの「アウトサイド・サタン」をこそ、観逃してしまったことが悔やまれてならない。


 

■ 2015-03-05(Thu)

 きのう観た二本の映画がどちらも重たくって、昨夜は帰宅しても寝付きが悪かったのだけれども、それよりもやはりFacebook でわたしの知っている人が愚劣なブログへリンクされたTLに「いいね!」していたことがショックで、そのことの方が寝付きの悪い原因になったのかもしれない。
 「ネトウヨ」などといわれるように、ネットなんて普通にみていけば、ほんとうにあきれてしまうような投稿にあふれている。検索サイトのトップページに掲載される最新ニュースへのリンクにしても、わたしの感覚では「この国はどうしてしまったんだろう!」というような記事に誘導されることが多い。今回の川崎の中学生殺人事件にしてもそうなのだけれども、タイトルをみれば「またそんなことを書いているか!」と想像できる記事がほとんどである。そういう記事が「世論」などというものを形成しなければいい。ただそういうことは願うので、知っている人がそういう意見に同調してしまうのをみるのは悲しい。

 進歩的にみせかけているヤツでも「お里が知れている」というようなことを書くヤツもいるわけで、そういうので記憶に残っているのは、やはりFacebook 上でリベラルぶったヤツが「これからは報道をみるのも戦いだ」みたいなことを書いていて、その輩もわたしはFacebook で「友達」登録してあったのでその発言(コメント)を目にしたわけだけれども、書くのもバカバカしいけれども、テレビなどの報道を見ていて、そのことに対して批判的な気分があったとしても、そのことを「戦いだ」などといえるわけがない。わたしなどはテレビの報道を見ながら、「このば〜か!」とか思ってしまえばそれですんでしまうわけだし、「こういう動きがある」と報道されれば賛同するとかいうこともある。しかし、「戦い」というのはそんな次元にあるものではない。あたりまえのことである。今書いていても「ばかばかしい」と思ってしまうのだけれども、そういう文言を、カッコつけていかにも自分が闘争しているかみたいにアピールするヤツは最悪である。わたしはそのときもその人物との「友達」リンクを直ちに切ってしまった。

 もちろん、部屋に閉じこもっていても、「闘い」というものはあり得る。それは自分との「闘い」でしかないだろう。僭越ながら、わたしがそのことをやっているつもりでいるからこそ、「報道をみるのも戦いだ」などという人物に「憎しみ」に近い感情をおぼえてしまうんだろうか。

 今日はそういう意味では「自分との闘い」でもある映画、「2001年宇宙の旅」を実に久しぶりに観た。記憶が失せているので、「なんとなく」しかおぼえていない映画。わたしにはコンピューター「HAL」の反乱と、木星での「スターチャイルド」の誕生、ぐらいしか記憶に残っていなかったのね。


 

[]「2001年宇宙の旅」(1968) スタンリー・キューブリック:監督 「2001年宇宙の旅」(1968)   スタンリー・キューブリック:監督を含むブックマーク

 キューブリック監督の「意欲」を、強烈に感じる演出だった。とにかくは「映像」でこそ牽引して行こうという意志があり、音楽はすべて既成の曲のパワーにまかせる。「ツアラトゥストゥラ」の効果はあまりにも絶大だったし、わたし的にはリゲティの「レクイエム」こそが強烈ではあった。

 セリフなどで進行していく「ドラマ」は極端に抑えられ、とにかくは映像の力でみせていく演出。思ったのだけれども、この作品でいちばんセリフの多かったのはコンピューターのHALなのではないか。すべての登場人物が感情を表に出すこともない中で、人間ではないHALだけが感情的なコトバを吐露するというのも面白い。

 今観ても「映像」のクオリティは驚くほどに高く、これ以降2〜30年につくられたSF大作の映像が今では古くさく感じてしまうのに比しても、これはやはりすばらしいことだと思う。キューブリックはこの作品の上映に関しても当時で最高のクオリティを求めたわけで、そこでの選択肢が「シネラマ」上映という方式だったようだ。このあたり、日本での最初の公開も、おそらくは当時日本でいちばん大きなスクリーンを持っていたはずの「テアトル東京」でのことだった記憶がある。
 これは今の技術であればおそらくは「3D」を目指されたのではないかと思うし、観ていても「これを3Dで観ることができたらどんなに強烈なことだろう」と思う。特に、木星へ突入するあの「トリップ」を映像が3Dだったらどんなだろうと思うと、想像しただけで目まいを起こしてしまいそうである。
 別に3D映画というものを理想視しているわけではないけれども、やはりインパクトは感じてしまうわけではある。モノラル音源を疑似ステレオに変換する技術があるなら、通常映画作品を処理して疑似3D映画にとかできないんだろうか。う〜ん、やっぱり「疑似」では観に行かないかな。

 そう、ディスカバリー号の先端は球体になっていることはわかり切ったことだったけれども、スペースポッドもやはりほとんど球体のデザインで、このあたり、木星の形態、そしてラストに産まれるスターチャイルドを包む球体とも重なることに気づいた。あとは観ていてもやはり、「ゼロ・グラビティ」がこの作品の影響を強く受けていることが、あらためてしっかりと読み取れた。



 

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■ 2015-03-04(Wed)

 しごとは非番で休みで、電車に乗って市民病院に月に一度の診察を受けに行く。きのう映画を観に出かけようと思っていたのを実行しなかったし、週末にはまた別の用事で忙しくなるので、診察が終わったあとはそのまま東京に出てみようと思う。

 朝、家を出る頃にはまだ雨がちょっと降っていたけれども、天気予報ではその雨も早くにあがり、気温の高い日になるという。だから天気予報を信用して傘を持たず、ジャケットだけの軽装で出かけた。たしかに病院のあるとなり駅に着いたときには雨もすっかりあがっていた。
 診察の順番を待つあいだは持参した「LAヴァイス」を読み進め、待ち時間も長かったのでけっこう読書もはかどった。ようやく順番のまわってきた診察は瞬時に終わり、薬の処方箋をもらって病院を出る。東京への電車の中でも読書にはげみ、ようやっと本全体の半分を越えた。こういう感じで、読み始めれば一日に百ページは進められそうなので、あと二日も読む機会があれば読了出来る気もする。ただ、この本はやたらに登場人物が多いので、読んでいてしょっちゅう「あれ、この人物はどういうヤツだっけ?」となってしまい、前のページをくくってみたりしてしまう。映画の方もそのあたりわかりにくい映画になるんではないかと危惧。

 十二時ちょっと過ぎに新宿に到着し、映画館に直行して十二時五十分からの「アメリカン・スナイパー」のチケットを求める。もう開映時刻も迫っているので前の方の席しか残っていないといわれるけれども、一ヶ所だけ、ちょっと後ろでいちばん端っこの席が残っていたので、もちろんその席にする。いっしょに四時半からの「フォックスキャッチャー」のチケットも買っておく。もちろんこちらは好きな席を選び放題。「アメリカン・スナイパー」の終映が三時ぐらいになるだろうから、「フォックスキャッチャー」の開映までのあいだに遅い昼食、もしくは早い夕食をとればいい。
 まだ開場までにちょっと時間があるので、いちど映画館を出てタバコを買いに行き、紀伊国屋書店の中をちょっとだけぶらついてみる。磯崎憲一郎の新刊が出ているのをみつけた。きっと地元の図書館で買ってくれていることだろう。外はたしかに暖かく、薄手のセーターとジャケット一枚でちょうどいい陽気だった。

 映画館に戻り、まずは「アメリカン・スナイパー」を観て、そのあとはまた日高屋へ行く。ほんとにこのごろは日高屋ばっかりだ。肉そばというのを注文して食べるけれども、まあそんなにめっちゃおいしいというものでもないか。まずいわけでもないけれども、やはり日高屋はわたし指定のセット、イカ揚げにポテトフライ、そして餃子という組み合わせがいい。
 食べ終わるとちょうど次の映画の開場の時間で、映画館に引き返して館内に入り、映画を楽しむ。今日観た映画は、どっちもコワい映画だった。

 映画が終わって七時で、あしたはしごともあることだし、まっすぐに帰宅することにする。日が暮れてもあまり寒さは感じない。たしかにもう四月ぐらいの陽気に感じられる。
 帰路の車中でも読書、と行きたいところだったけれども、立っているときにはそれなにり読めたのだけれども、座席に座ってしまうと眠くなってしまい、読書どころではなくなってしまった。

 帰宅してだいたい九時。あまり空腹を感じることもなく、そのまま寝てしまってもよかったのだけれども、ネットをチェックしているとFacebook でわたしが知らないわけでもない(「友達」登録してある)知人が、先日の川崎での中学生殺人事件に関しての想像もできない記述のあるブログ紹介記事に「いいね!」しているのをみてしまい、それでその愚劣なブログまで読んでしまい、強い怒りを感じてしまった。まずはその知人との「友達」リンクを切り、怒りにまかせて長い書き込みをしてしまった。そのことに答えてくれた人がいたので、あれこれとコメントのやりとりをしばらく続け、就寝するのはもう十二時近くになってしまった。
 きょう観た映画の影響もあり、自分の知っている人がそういう愚劣な意見に同意していた、ということが許せない気もちからなかなか抜けられない。これでもFacebook の「友達」は選んでいるつもりなのに、裏切られた思い。


 

[]「アメリカン・スナイパー」クリント・イーストウッド:監督 「アメリカン・スナイパー」クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 ものすごく面白かった「ジャージー・ボーイズ」に続いてのC・イーストウッド監督の新作で、イラク戦争に狙撃兵として四度従軍したクリス・カイルの自伝を基にした作品。
 まずは音楽満載だった前作「ジャージー・ボーイズ」に比して、この作品ではほとんど音楽というものを使っていない。そういう既成の音楽ではなく、現場の音というものこそを優先した絵づくりになっているのが印象的なのだけれども、わずかに使われていた音楽はクレジットで確認しても三曲だけ。ひとつはクリント・イーストウッドの作曲と記載されていた(と思う)、主人公の奥さんのタヤのための「Taya's Theme」で、おそらくはこの曲だけがこの映画のためのオリジナル曲だろう。あとはその主人公らの結婚式で流されているVan Morrison の「Someone Like You」がまずは耳につき、これはわたしの耳にもオリジナルがわかるわけで、「え? Van Morrison を使うんだ?」という、ちょっとした驚き。
 そしてもう一曲、ラストの葬儀の場面で流されるトランペットの音が印象的な曲があり、これは音の感じからもアメリカの葬儀ではポピュラーに使われる曲なんだろうかと思っていたのだけれども、これがそうではなく、クレジットで確認したところではEnnio Morricone の「The Funeral」という(おそらくは既成の)曲だった。

 ここでも「え? エンニオ・モリコーネだったのか!」というちょっとした驚きがあるのだけれども、そこで考えて行くとつまりは、エンニオ・モリコーネはマカロニ・ウェスタンの音楽を多数書いており、不明だけれどもこの「The Funeral」もまた何らかのマカロニ・ウェスタンで使われた音楽だったらしい。‥‥ということはつまり、この映画の演出と合わせて考えても、イーストウッドはここで形を変えた「ウェスタン」をつくっているのではないのか、ということになる。まさに銃一丁で敵に対峙する主人公の姿は新しい「ウェスタン」の形なのだろうし、シリアのメダリストの狙撃手ムスタファとの宿敵関係もまた、典型的なウェスタンなのだろうか。そうして観て行けば、主人公がそのタトゥーによって敵の標的にされるのもまたウェスタンの「お尋ね者」という図式によるものだろうし、そのムスタファをついに倒す銃弾の「ベタ」ともいえる演出も、いかにもウェスタン映画、それもマカロニ・ウェスタン的なものといえるわけだろう。露骨なほどの「死亡フラッグ」の立て方にしても、そう考えて観て行けば納得出来るところが大きい。つまりこの「戦争映画」、イーストウッドとして21世紀型の「マカロニ・ウェスタン」という演出メソッドで撮られたものなのだろう。つまりは軍隊と軍隊との衝突として描くのではなく、その軍隊を背後から守るという、ほとんど「さすらいのガンマン」のような存在こそが主人公なのである。そこに後半の「帰還兵の悲劇」というテーマもまた生きてくる。

 それゆえにこそ、戦場シーンの主人公をめぐる演出にはイーストウッドらしい力強さがあふれている。特徴的なのはサウンドトラックとして音楽を使わない分、音響を誇張して描いていることで、映画館内に響きわたる轟音を体験したいがためにも、もういちど映画館に足を運びたくもなってしまう。特に大砂塵の中を脱出する場面での「音」は記憶に残る。

 もちろん「軍隊」としてのアメリカ軍も描かれているわけだけれども、こういう部分は観ていてどうしてもキューブリックの「フルメタル・ジャケット」を思い出してしまう。「フルメタル・ジャケット」という映画をどこからどこまでしっかり記憶しているわけではないけれども、例えばここで戦場となるイラクの市街が、「フルメタル・ジャケット」でのあんまりヴェトナムらしくもないヴェトナム市街の光景をあまりにも彷彿とさせられるわけで、その先のアメリカ国内での「訓練」も含めて、ここでイーストウッド監督はまちがいなく「フルメタル・ジャケット」を意識して演出していると思った。

 この映画で主人公が最初に狙撃する「標的」とは、まずは「子供」であり、次に「女性」であったということが、「ガンマン」であった主人公にとってはあまりに悲しくも空しいことであり、この作品全体をつらぬく「空しさ」の背景になっていると思った。


 

[]「フォックスキャッチャー」ベネット・ミラー:監督 「フォックスキャッチャー」ベネット・ミラー:監督を含むブックマーク

 実際に金メダルレスラーの兄弟とそのコーチとの間に起きた殺人事件が主題だということぐらいの知識で、ほとんどそれ以上の予備知識を持たずに観た作品。出演する俳優のこともまるで知らないし、ベネット・ミラー監督の作品は過去に「カポーティ」を観ているけれども、その映画のことはなにひとつ記憶に残っていない。

 おそらくは事実関係をかなり忠実に映画化したのだろうけれども、主な登場人物の内面に決して踏み込むことなく、それでも何か不穏なことが徐々に進行して行く様子を、距離を置いた冷徹な描写でみせて行く作品。その冷徹さ、対象登場人物との距離感がこの作品を見ごたえのあるミステリーに仕上げていると思う。

 「フォックスキャッチャー」というのは財閥の主である富豪が私費で結成したレスリング・チームの名称なのだけれども、本来はその富豪の母も愛好する競走馬チームの名称だった。母は馬に比してレスリングは下品だと息子の行為(レスリング・チームの結成)を快くは思っていない。富豪は、どこかで馬のようにレスラーを手なづけたかったのだろう。馬はどんなに手なづけても自分に賛辞のことばを返してはくれないけれども、人ならばそれが期待できる、そういう歪んだ心理はわかる。ある面で「すべては金を出せば解決できる」という意識も垣間見えるのだけれども、この作品が観るものに「おそろしさ」を感じさせるのは、そういう表面的なわかりやすい心理だけによるものではなく、もっともっと屈折している。その「屈折」をこそ映像化した演出はみごとだと思う。特に、その富豪のデュポン(スティーヴ・カレルという役者〜本来はコメディアン的な役柄が多いらしい〜が演じている)の、少し上に構えた無表情な顔を捉えたショット、まったく何を考えているのかわからないような顔が何度も映されるのだけれども、この効果が大きい。

 まずはロス五輪での金メダリスト兄弟の弟がその富豪の誘いに応じて、「フォックスキャッチャー」の主力選手として参加する。未婚であった弟は、経済的な心配からも逃れてレスリングに専念できるデュポンのレスリングチームに惹かれるわけだけれども、兄にはすでに家族もあり、弟のようには動かない。しかしデュポンはチームのまとめ役として有能な兄を必要と感じ、財力にまかせて家族ごとチームに呼び込む。
 デュポンへの「賛辞」を求められる弟はその要求に従おうとするけれども、兄は「そんなことは出来ない」とつっぱねる。映画ではこのあたりにラストの惨劇の原因をみようともしているようだ。

 富豪であるデュポンは、(ひとつにはその財力ゆえに)「他者」との関係性を正常に築くことが出来なかったようだ。映画で見せられる彼の無表情な顔とは、そんな「他者」との関係をこそ如実に示すものだろうか。そこに、「レスリング」という、まさに肌と肌とを接触させることで成立するゲームが介在しているということにこそ、ある種の「薄気味悪さ」をも感じさせられる。この作品にどこか「ホラー」っぽさを感じ取ってしまうのも、そういうシチュエーションゆえのことではないだろうか。

 映画館でラストに登場人物が銃を取り出す場面で、わたしの近くの客が「あっ!」と大きな声をあげた。たしかにショッキングな展開だった。そうか、この瞬間に向けてそれまでのドラマが展開していたのかと了解した瞬間に、やはりわたしの背筋にも冷たいものが流れる思いがした。
 デュポンの母親を演じているのは、これはヴァネッサ・レッドグレイヴなのではないだろうかと観ていたけれども、さいごのクレジットでそのことが確認できた。先に観た「アメリカン・スナイパー」とちょっと似た役どころでシエナ・ミラーも出演していたが、わたしには「なんだかどこか雰囲気が似ているな」ぐらいのことで、終わるまで気がつかなかった。



 

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■ 2015-03-03(Tue)

 「ひかりTV」などで放映される映画などを録画しているHDDが、満杯になっている。そもそもが録画してしまえばそのことで安心し、観ないでそのまま放置してしまうことで前に持っていたHDDが壊れてしまい、すべて録画してあった映画などが観られなくなってしまったわけではある。それ以降は録画したものは出来るだけ早い機会に観てしまい、消去してしまおうとしているのだけれども、外出したりして録画が観られなかったり、一日に複数本録画したりしてしまうととても追いつくものでもなく、こうやってまたHDDが満杯になってしまう。「コレが観たい!」という欲求をもっと抑えた方がいいんだろうかね。

 このところ悩まされていた胃炎の方もなんとか治癒の方向に向かっていて、まだ多少気になることはあるけれども、普段の生活リズムを取り戻せるようになった。それであしたはしごとも非番なので今日は映画でも観に行こうかと思ったのだけれども、けっきょくはダラダラしてしまって行かないで終わってしまった。今夜の天気もあまり良くはないみたいだし、あしたはとなり駅の市民病院へ早い時間に行くつもりでいるので、そのついでに東京に出て観たい映画を観ればいいという気分。

 何がきっかけになったのかわからないけれども、このところは「アタマ」の調子が良好というか、ダラダラしつつもあれこれと思索を拡げることが出来るような気分ではいる。この調子でやって行きたい。


 

[]「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008) 若松孝二:監督 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008)   若松孝二:監督を含むブックマーク

 映像としての基本はあまり観るところもなく、テレビなどでやっている「再現ドラマ」の域を越えてはいないように思うしかない。ここでは照明がベタすぎるのだろうか。意外と照明というしごとは難しいものなのだろう。ただ、吹雪の中での行軍(?)のシーンや、終盤の「山荘」にこもってからの映像には力があったと思う。

 しかし、いくら「再現ドラマ」とはいっても、若松孝二氏の訴えたいところはあるわけで、そのあたりはちゃんと受け止められるような作劇だっただろう。

 個人的な記憶で書けば、実は「あさま山荘」へ機動隊の突入した2月28日は、わたしの二十歳の誕生日だった。あの日のテレビの実況中継はまさに記録的な視聴率をはじき出したわけでもあって、わたしのバカなオヤジも、「ほら、おまえの誕生日をこうやって日本中で祝ってるぞ」とあのときに言ったことを、今でも記憶している。思い出しても救いようのないバカな男だった。

 その「あさま山荘」の攻防戦では新左翼シンパの人たちからのシンパシーがけっこう寄せられ、わたしなどもそういう一人だったのだけれども、あさま山荘陥落後に待っていたのは壮絶な「リンチ殺人」の報道の連続、だった。このときに、たいていの「新左翼シンパ」の人たちも連合赤軍を忌まわしいものと思うようになり、新左翼運動は壊滅して行く。

 この「実録」は時系列にしたがって、まずは60年代の反安保闘争から「三派全学連」、そして「赤軍派」、「京浜安保共闘」の隆盛を追って行く。それから彼らの山岳キャンプへの逃走、軍事訓練の中から「自己批判〜総括」という「死」の行進へとなって行く。このあたりはとにかくはものすごくつらい描写で、観ていても何度か早送りしてしまいたくなってしまった。

 観ていれば、「いったいなぜ、あそこで<こんなのは革命運動ではない>と言えなかったのか!」などと思ってもしまうのだけれども、それは出来ないのだ。‥‥例えば戦時中の翼賛体制に対して、「この戦争はまちがっている!」などということは決して声に出せなかったように、この集団の中で、「これはちがう!」ということは言えなかったのだ。それが、それこそがわたしたち日本人の精神構造なのだろうか。

 ちょうど今は朝のテレビ小説「マッサン」が戦時中の時代にさしかかっていて、ドラマの登場人物はアリバイのように「この戦争はまちがっている」というし、これは前回のテレビ小説「花子とアン」でも同じような展開だった。そうじゃない。翼賛体制というのはそういうことがいえないからこそ「翼賛体制」というのだし、このときの連合赤軍もまた、そのような「翼賛体制」に陥っていたわけだろう。

 このときの赤軍を、例えば「森恒夫が悪い」とか「永田洋子が悪い」とかいうのは簡単だけれども、そうではない。そのときに行動を共にしたメンバーひとりひとりの中に、それぞれが「内なる森恒夫」、「内なる永田洋子」を住まわせているのだ。‥‥そんなことをいっているわたしにしても、状況が変われば、もっこりとわたしの中の「森恒夫」を成長させることにもなるのだ。この若松孝二氏の長大な作品は、そのことをこそ、観るものに「Watch Out!」と呼びかけているのだ。



 

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■ 2015-03-02(Mon)

 今朝見た夢には、母が出て来た。夢の中では夜で、わたしは狭い部屋に母といる。外に出て空の一方を見上げると、そこには美しい虹がかかっている。その虹の円弧に並行して、地平線のあたりにはまた別の虹がかかっているのが見える。美しい虹だと思って母を呼び、いっしょに空を見る。それで虹のかかっている空と反対側の空を見ると、そちらでは雲の切れ間から満月が光っているのが見えた。そちらも例えようもなく美しい月だった。
 たとえ夢の中とはいえ、そういう美しい光景を母といっしょに見ることができたのは、目覚めてからもうれしかった。わたしは父のことは憎しみを憶えるほどに嫌っているけれども、母はやはり優しくて美しい母である。またもういちど、母に会うことが出来るといいと思う。‥‥そのうちに会えるのか。

 今日もまただらだらと過ごした一日で、午後からはたっぷりと昼寝をしてしまう。きのうも昼寝をして十時間ぐらいは寝ているし、今日だってこのままだと十二時間睡眠という感じになりそうである。また夜には弁当を買ってすませるのだけれども、今夜は北のスーパーに行ってみた。こっちのスーパーは「ちらし寿司」系統が美味なので、ちょうど半額になっていたのを買って帰り、あとは「タコのぶつ切り」のパックも安くなっていたのを買う。タコを食べているとまたニェネントが寄ってきて、「あんたが何か食べてるんならあたいにも分けてちょうだいよ」という感じでウロウロしているので、「じゃあコレ食べてみる?」とタコを分けてあげると、ちゃんとペロリと食べてしまったのでちょっとおどろいてしまった。ネコにはあげてはいけない食べものがいろいろとあるのだけれども、まさかネコにタコをあげてはいけないということはないだろうな?とハラハラドキドキしてしまう。

 今日はきのうの続きのヴィデオで、「地点」 の公演の映像を観た。もうじき、その「地点」の「三人姉妹」の舞台をじっさいに観に行く。


 

[]地点「ファッツァー」(2013) ベルトルト・ブレヒト:原作 三浦基:演出 地点「ファッツァー」(2013)   ベルトルト・ブレヒト:原作 三浦基:演出を含むブックマーク

 そもそもが、このブレヒトの原作の「ファッツァー」というもの自体が未翻訳ということで、その戯曲を「カットアップ」という手法で舞台化しているわけだから、観ている方には何の典拠もなく、どう解釈したらいいのかわからなくなるのではないのか。‥‥そこにこそ、この舞台に三浦基氏の賭ける野心のようなものも感じ取ってしまう。

 「空間現代」というユニットが音を担当していて、その「隙間」に演劇的な空間/時間が拡がるような感覚。‥‥つまり、この一時間ちょっとの上演時間のなかに、「演劇とは何か」という問いがいっぱい詰め込まれているという印象になる。ここでもきのう観た「ぬるい毒」のように複数のカメラからの編集作業がなされてはいるのだけれども、観ていてもそういう「編集」というものにまるで意味がないではないかと思わされてしまう。ここ、ここにこそ演劇というものが立脚する地点があるのではないのか、そういう感想を抱いてしまう。

 終演後にナビゲーターの青山真治氏と三浦基氏との対話(出演されていた安部聡子さんも同席されていたのだけれども)があり、演劇における「リアリティ」ということについて三浦氏は「リアリティということではさいしょっから演劇は映画にかなわないわけだから」というようなことをおっしゃっていた。そう、演劇という世界にわたしなどが求めるのも、映画的な「リアリティ」から距離をおいた、一種「虚構」といってもいい空間/時間を求めているわけだと思い当たることになる。もちろん映画においてもゴダールなどのように独自の空間/時間を追い求められる作家もいるわけだけれども、こういうところでの、いってしまえば「ニセ」の世界から醸し出される(また別の)「リアリティ」こそが、わたしなどが演劇に求めるものではあるのだろう。

 そういう意味では役者さんたちの「演技」を含めて、たいへんに刺激的な舞台ではあり、「わかる/わからない」ということを越えた魅力にあふれたものだったとは思う(「わかる/わからない」ということでいえば、わたしは「わからなかった」わけだけれども)。やはり観ていても安部聡子さんはちょっとばかし「抜きん出た」役者さんでもあり、観ていても、わからないとはいいながらも強い感銘を受けたものである。



 

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■ 2015-03-01(Sun)

 もう今日からは三月。気候もずいぶんとあたたかくなってきたように思う。もう「春」はすぐそこに。
 今日はしごとも非番の休みなわけだけれども、まだまだRichard Thompson の余韻に浸っているというか、ぼんやりとした日をおくるばかり。読書もまるではかどってなくて、図書館から借りている「LAヴァイス」は、とても返却期限までに読み終えることは出来ないだろう。

 その「LAヴァイス」の映画化、「インヒアレント・ヴァイス」も四月から公開されることになるし、アレクセイ・ゲルマンの遺作「神々のたそがれ」も三月末には公開になる。先日観たゴダールの3D映画ももういちど観たいし、チケットを買ってある舞台もそろそろあれこれと始まってくる。春らしく、だんだんに忙しくなってきそう。今公開されている映画ではC・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」やベネット・ミラー監督の「フォックスキャッチャー」も観ておきたいので、これはあしたかあさってにでも出かけて、消化しておきたい気もちはある。

 先日、ブリュノ・デュモン監督の「プティ・カンカン」を見逃してくやしく思い、そのときにカイエ・デュ・シネマ(アンスティチュ・フランセ東京)にメールで問い合わせ、「当面再公開の予定はない」との返事をもらってさらに落ち込んでいたのだけれども、今日になってそのアンスティチュ・フランセの横浜の方で、五月になっていちどだけ「プティ・カンカン」が公開されることがわかった。時間的にも充分に日帰りが可能な上映時間だし、つまりは大喜びするのだが、しかしなんで先日メールで問い合わせたときに、同じ「アンスティチュ・フランセ」でありながらそういう近い将来のスケジュールがわからなかったんだろうと、ちょっとばかし訝しく思ったりもしてしまうのである。
 とにかくは「プティ・カンカン」を観ることは出来る。うれしい。

 このところスーパーでお弁当を買ってすませてばかりで、まるで「自炊」というものをやっていないといえるのだけれども、今日も昼食はインスタントの担々麺、夕食にようやく「あんかけ焼きそば」風なものをつくってみて、自炊の感を取り戻そうとする。

 昼間に、ずいぶん昔に録画してあった演劇舞台の映像をみた。


 

[]劇団、本谷有希子「ぬるい毒」(2013) 本谷有希子:原作 吉田大八:脚本・演出 劇団、本谷有希子「ぬるい毒」(2013)   本谷有希子:原作 吉田大八:脚本・演出を含むブックマーク

 冒頭に青山真治をナビゲーターとして、演出の吉田大八と原作の本谷有希子との鼎談。‥‥そうか、演出の吉田大八は「桐島、部活やめるってよ」や「紙の月」の監督で、この作品と同じく本谷有希子の原作で「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」も映画化しているのか。

 ちょっと話はかわるけれども、先日なじみのスポットで飲んでいたとき、となりで飲んでいた二人が、「テレビで放映される演劇の舞台の映像は視点が限られていてつまらない」などと語り始めた。わたしは「え〜、最近では数台のカメラを持ち込んでまるで映画みたいな編集もされてるわけなのに、観てないんだな」と思ったわけではある。それで今日、こうやってNHKによって収録された演劇の舞台を観るわけだけれども、やっぱり何台ものカメラを駆使して、クローズアップを含めていかにも「映画的」な編集がなされている。‥‥それで、これはちょっと逆に困ってしまう、という体験なのである。

 ‥‥この演出のひとつのポイントは、どれだけ既成の演劇から距離を取れるかということではあるだろうし、原作にしても、冒頭の本谷有希子氏の話では「これは舞台化、映像化などは出来ないだろう」という意識で書かれたものだということでもある。この「ぬるい毒」の舞台は観客にどのようなものを見せようとしたのか、じっさいの観客はこうやってテレビ放映された映像と同じ感覚で観ていたのか、ということは問いたい。
 つまり、これだけギミックな編集をほどこしてしまったのであれば、じっさいの舞台よりもこの編集された「舞台映像」の方こそが「完成型」ということになってしまうのではないのか。では、リアルな舞台とはいったい何だったのか? と問いたいのである。
 ‥‥そのことはこの舞台でのいかにも「字幕」的なテキストの使い方(プロジェクターでのテキストの映写)ともからんでくるだろうし、主演女優の夏菜さんのその演技の質にもからんでくると思う。
 この映像で観る限り、主演女優はその顔の表情の細かい変化にこそ演技の主点を置いているようにみえるのだけれども、そういう演技というのは映画的なクローズアップにこそ適用されるべき演技であって、引いた視点しか取り得ない観客の多い「劇場」という場で、そのような演技に力を注ぐというのは違うのではないだろうか。
 もちろん、舞台においても顔の表情というものが無視されていいものではないのだけれども、この映像で観るかぎり、夏菜さんの微細な表情の演技は、劇場空間のすべての席から了解出来るようなものではないと思う。そういう、劇場空間の中で「前の方の席で役者の表情が観られなければ了解できないものがある」というヒエラルキーづくりは、やはり演劇としてはやってはならないことではないだろうか。こういうことをやりたいのなら「映像ドラマ」プラス「字幕の挿入」という実験をやればいいのであって、テレビ局がそういう実験的な試みに乗ってくれないから閾(しきい)の低い劇場公演でやってみました、というのは卑怯である。わたしはそう思う。

 そういうことがらを了解しないで観てしまったわけだから、この劇の感想を語ることは無意味になってしまうだろう。とにかく、演劇というものはこういうものではなく、このような試みが演劇の分野の拡張につながるとは、わたしにはとても思えないのである。



 

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