ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-04-30(Thu)

 読んだ先から忘れて行くのではどうしようもない。昨日いちど読み終えた「日本の反知性主義」を、またゆっくりと読み返しはじめる。少しメモもとりながら読み進めるのがいいだろう。まずは内田樹の「反知性主義者たちの肖像」。この小論文の小見出しは以下の通り。

●「知性的」と「反知性的」を分かつもの
●知性とは集団的な現象である
●理想主義が最悪の反知性主義を生むとき
●陰謀史観はなぜ繰り返し現れるか
●人類史上最悪の「反知性主義」事例
●先駆的直感には時間が関与する
●「社会的あるいは公共的」であることの条件
●反知性主義を決定づける「無時間性」
●「未来を持たない」ことを代償として
●「隠された真実」の発見
●反知性主義者のほんとうの敵
デマゴーグは反復を厭わない
●政治にマーケットは存在しない
●「国民」という想像の共同体
●反知性主義の本質

 この論文集の編者である内田樹氏の文章だけれども、どうも論点があっちへ行ったりこっちへ来たりして、要点のわかりにくい論文。

 ‥‥まず、<「知性的」と「反知性的」を分かつもの>については、ロラン・バルトが述べたという、<無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった常態>という論旨から、そのような<無知>であるものを「反知性的」ととらえることで間違いはなさそうだ。どうも内田樹氏の論旨には飛躍があってわかりにくい。まあこのあたり、膨大な知識を持ちながらも<飽和>しない人もいるだろうし、大した知識量の持ち主でなくっても<飽和>してしまう人もいるわけだ。アティテュードの問題。
 次の<知性とは集団的な現象である>というのがどうもわからない。そのまま書き写しておけば、

 知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考慮できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼のいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人だったと判定される。

 どうもこのあたり、「その人の発言やふるまい」が表面に出るようなものでなければならない、ということか。言い換えれば「社会的」存在でなければならない、と。内田氏はこのあたりのことについて、あとの方で「対面的状況でなら身体反応を通じて感知可能である」と書く。‥‥わたしにはそれがわからない。まるで占い師ではないのか。

 とにかく、それが次の<理想主義が最悪の反知性主義を生むとき>では、先に書かれた「知性」と「反知性」との差異があいまいになってしまう気がする。内田氏は「反知性主義者」についてこう書く。

 彼らは世界のなりたちを理解したいという強い知的情熱に駆られており、しばしば特定の分野について驚くほど専門的な知識や情報を有している。また、世界をよりよきものにしようという理想主義においてもしばしば人に後れをとることはない(と口では言う)。

 ‥‥これでは、この文の先頭に書かれた<「知性的」と「反知性的」を分かつもの>という視点はまるで無効になってしまうのではないのか? ここで書かれている「反知性主義者」は、先に書かれた「飽和状態」から<無知>であるところの「反知性」とは相容れない、ふつうに知性的な存在としか認識できないのではないのか。ここで内田氏は<理想主義が最悪の反知性主義を生むとき>の例として「反ユダヤ主義者」のことを書くのだが。
 ここからしばらく、<陰謀史観はなぜ繰り返し現れるか>、<人類史上最悪の「反知性主義」事例>は飛ばすけれども、<人類史上最悪の「反知性主義」事例>のラストに内田氏はこう書く。

 私たちの知性はどこかで時間を少しだけ「フライング」することができる。知性が発動するというのはそういうときである。まだわからないはずのことが先駆的・直感的にわかる。私はそれが知性の発動の本質的様態だろうと思う。

 ‥‥まるで「知的」作業ではないのではないか。まずだいいちに、この「私」という存在、自分が「知性的」であるのか、それとも実は「反知性的」常態に囚われているのか、どうやって知ることができるのだろうか? ここまでの段階ではまるでわからない。そして、時間を「フライング」するとは?

 なんだか途中でいやになってしまったけれども、とにかくは内田氏はそのさいごの<反知性主義の本質>でこう書く。

 私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。
 反知性主義者たちもまたシンプルな法則によって万象を説明し、世界を一望のうちに俯瞰したいという知的渇望に駆り立たてられている。それがついに反知性主義に堕すのは、彼らがいまの自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」に導くために何をすべきかを問わないからである。「ここではない場所」「いまではない時間」という言葉を知らないからである。

 ‥‥何も教わりませんでした。

 つまらないことに時間をとってしまった。とにかくは今日もまだニェネントは「サカリノさん」の発情期がつづいている。明日は東京へ出て神保町シアターでやっている「洲崎パラダイス 赤信号」を観たいのだけれども、なんだかこんなニェネントをひとりでお留守番させるのもかわいそうな気もする。
 「洲崎パラダイス 赤信号」といっしょに同じ名画座で「浮雲」も上映していて、そっちも観たいと思っていて、その動画が中国のサイトにアップされているのをみつけたこと、観ようとすると途中でフリーズしてしまうことなど先に書いたけれども、夜になってまたこのサイトをみてみると、ちゃんと観られるようになっていた。そのうちにゆっくりと観てみよう。今日は、録画してあった二つの映画を観た。



 

[]「恋愛睡眠のすすめ」(2006) ミシェル・ゴンドリー:脚本・監督 「恋愛睡眠のすすめ」(2006)   ミシェル・ゴンドリー:脚本・監督を含むブックマーク

 

 やっぱりわたしにはミシェル・ゴンドリーという監督は合わない。冒頭から「いったいなぜに<手持ちカメラ>?」と思ってしまうし、やっぱりこの人の作品の画面はごちゃごちゃして汚い、という印象になる。

 この作品でのストップモーションアニメとかは面白くもあり、こういうところで昨年の現代美術館での展覧会に結びつくのだな、とは思ったけれども、なんだかストーリーになじめないというか、どちらかというと観つづけるのが苦痛。それに主人公の会社での同僚というのがとてつもなく下品で、容貌とかもイヤでイヤで、この監督の前に観た作品「僕らのミライへ逆回転」のジャック・ブラックを思い出させられるし、ずっと監督の妄想につきあわされるのもイヤで、じつのところ、途中から早送りで観てしまった。申し訳ない。



 

[]「世代」(1955) ボフダン・チェシコ:原作・脚本 アンジェイ・ワイダ:監督 「世代」(1955)   ボフダン・チェシコ:原作・脚本 アンジェイ・ワイダ:監督を含むブックマーク

 アンジェイ・ワイダの監督第一作。まずは冒頭からのカメラの、クレーンを使った長い長い移動撮影にすぐに引き込まれ、監督のこの作品にかける意欲を強く感じ取った。

 映画はナチスドイツ支配下のポーランドで、主人公スタッフが戦士としても人間としても成長して行くさまを描いたもの。
 ナチスへの抵抗運動はソヴィエトの支援を受ける「地下戦線」と、独自の路線をとる「抵抗戦線」とに分裂しているようで、主人公は通っていたカトリック学校で女性闘士のドロータのアジ演説を聴き、彼女らの組織に加わることになる。主人公の勤める木工所にはソヴィエト・ロシアからの地下組織も存在し、彼らは木工所に武器を隠し持っているわけで、主人公はそこからうまく銃を盗み出す。
 ユダヤ人居住地<ゲットー>で反乱が蜂起し、主人公らは反乱支援のために武器を持ってゲットーへと向かう。彼らは仲間のひとりを失うけれども、なんとか帰還することができた。主人公はドロータにも戦士として評価され、恋人としての未来も開けるのだが、ふたりで過ごした夜が明けて、ドロータはナチスに連行されて行く。主人公のスタッフはドロータから聞いていた次の使命を果たすべく、新しい仲間の集合を待ちながらも涙をこぼしている‥‥。

 ゲットーでの闘争を支援に向かって死んだ男は、自らを「コミュニスト」と語っていたけれども、当初は隠居した父の面倒をみなければならないからと闘争に加わることを渋っていた存在。彼がドイツ軍にらせん階段を上に上にと追いつめられ、ついにはその最上階から下に身を投げるシーンには惹かれた。
 主人公はコミュニストというわけではなく、むしろカトリックにこそ近しい立場の男ではあったようである。また、彼が勤める職場でのソヴィエトと結びついた組織には、どことなく「無為」な空気を感じさせられる。主人公が参加するドロータらの組織は、おそらくはソヴィエト・ロシアとは無関係に抵抗運動を繰り拡げているのだろうか。

 「戦士」となり、「男」となった主人公がそのラストで、同時にその「喪失」に涙するシーン、そして次の抵抗闘争へと向かおうとする群像の映像はやはり、美しい。



 

[]二〇一五年四月のおさらい 二〇一五年四月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●白井剛●ダンス朗読パフォーマンス「2015 カフカの旅/春」白井剛:出演 スカンク:音響 @浅草橋・パラボリカ・ビス
●ローザス「ドラミング」スティーヴ・ライヒ:音楽 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル:振付 @池袋・東京芸術劇場プレイハウス

映画:
●「神々のたそがれ」アレクセイ・ゲルマン:監督
●「処女の泉」(1960) スヴェン・ニクヴィスト:撮影 イングマール・ベルイマン:監督
●「野いちご」(1957) イングマール・ベルイマン:監督
●「6才のボクが、大人になるまで。」リチャード・リンクレイター:脚本・監督
●「インヒアレント・ヴァイス」ポール・トーマス・アンダーソン:製作・脚本・監督
●「ギリシャに消えた嘘」パトリシア・ハイスミス:原作 ホセイン・アミニ:脚本・監督
●「マップ・トゥ・ザ・スターズ」デヴィッド・クローネンバーグ:製作・脚本・監督
●「アンダー・ザ・スキン 種の補食」ジョナサン・グレイザー:監督

美術:
●「Hardness and Elasticity /硬性、弾性」ビョーン・スタンペス/ ボー・アンダーソン/ ソフィ・ヴェイリッヒ/ 塩崎由美子 @浅草橋・マキイマサルファインアーツ
●名和晃平「FORCE」@谷中・SCAI THE BATHHOUSE

読書:
●「電車道」磯崎憲一郎:著
●「変身の恐怖」パトリシア・ハイスミス:著 吉田健一:訳
●「殺人者の烙印」パトリシア・ハイスミス:著 深町眞理子:訳
●「日本の反知性主義」内田樹:編

DVD/ヴィデオ:
●「ジャンヌ・ダーク」(1948) ヴィクター・フレミング:監督
●「サンセット大通り」(1950) ビリー・ワイルダー:監督
●「世代」(1955) ボフダン・チェシコ:原作・脚本 アンジェイ・ワイダ:監督
●「ロング・グッドバイ」(1973) レイモンド・チャンドラー:原作 ヴィルモス・スィグモンド:撮影 ロバート・アルトマン:監督
●「カサノバ」(1976) フェデリコ・フェリーニ:脚本・監督
●「インドへの道」(1984) E・M・フォースター:原作 デヴィッド・リーン:脚本・監督・編集
●「フルメタル・ジャケット」(1987) スタンリー・キューブリック:監督
●「羊たちの沈黙」(1991) トマス・ハリス:原作 ジョナサン・デミ:監督
●「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」(1993) ティム・バートン:原作・製作 ヘンリー・セリック:監督
●「シックス・センス」(1999) M・ナイト・シャマラン:脚本・監督
●「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008) トーマス・アルフレッドソン:監督
●「恋愛睡眠のすすめ」(2006) ミシェル・ゴンドリー:脚本・監督
●「プリズナーズ」(2013) ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督
●「御用金」(1969) 五社英雄:監督
●「原子力戦争 Lost Love」(1978) 黒木和雄:監督


 

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■ 2015-04-29(Wed)

 いろいろと経済的に苦しくなっているのだけれども、あれこれと計算すると、とにかくはやっていけそうではある。七月になるとわずかながら賞与も支給されるので、そのあとはずいぶん楽になるだろう。とにかくは五月の末までがとりあえずの「勝負!」になるけれども、あんまり「倹約、倹約」と気をもまなくてもだいじょうぶだろうか。それでも、五月からは金銭出納簿、つまりは「家計簿」をつけてみようか、などと思ってはいる。家計簿をつけると無駄遣いが減り、とにかくは倹約モードにはなる。

 今日も晴天で気温は上がりそうで、しごとから帰ったあとはまずは洗濯。そのあと、昨日買ったネコ缶を、ニェネントに出してみた。プルオープンにはなっていない缶を缶切りであけると、なんとなく「なま」っぽい感じで、見た感じは「え、腐ってるんじゃないの?」みたいではある。これはきっとやっぱり、ニェネントには「ネコまたぎ」なんじゃないのかなー、などと思いながらニェネントの皿に出してあげる。ところがニェネント、ひとくち食べると、皿の上のそのネコご飯を皿から引きずり出そうとする。この動作は刺身などをあげたときによくやる動作で、つまりは「おいしい」ということではないのかと、わたしは思っているのだけれども、おいしいのか? とにかくは出してあげた分をぜんぶ食べ、そのあとはなんと皿をなめはじめた。そんなこと、今までのネコ缶ではやったことなかったのに。‥‥つまり、どうやらニェネントはこのあたらしいネコ缶を大いに気に入ったようなのだ。そういうことなら、またホームセンターへ行って大量に買って来よう。しかし、今日だけの「気まぐれ」でなければいいけれども。
 それでもニェネントの「サカリノさん」発情期はまだつづいていて、今日もわたしのことをネコの毛だらけにしてしまう。早く平常なニェネントにもどってほしい。

 このところ食事(軽食)の新メニューが出来て、つまり食パンに「とろけるチーズ」を乗せてトーストし、先日例のドラッグストアで買ったピザソースとタバスコをかけたもの。軽食というにはボリュームもあって、今日の昼食はこれですませた。なかなかにおいしい。

 ほとんど読み終えかけていた「日本の反知性主義」をいちど読み終えたのだけれども振り返って感想を書こうとすると、もうかなり内容を忘れてしまっていることに気づいた。やはりわたしの「記憶力」はヤバいことになっているのかもしれない。とにかくはまだ借りていられるので、もういちど読むことにする。ヴィデオは五社英雄監督の「御用金」を観た。



 

[]「御用金」(1969) 五社英雄:監督 「御用金」(1969)   五社英雄:監督を含むブックマーク

 

 五社監督のけっこう初期の作品のようで、冒頭のクレジットの監督の名の脇には(フジテレビ)という文字も書かれている。まだフジテレビに所属して映画をつくっていた頃の作品。

 冒頭の、村の「神隠し」、カラスの乱れ飛ぶシーンでの執拗なカラスのアップとかの映像や、かなり執念深い演出にまずはおどろかされることになり、そのあとも「雪」を効果的に使った演出を堪能させられる。主演は仲代達矢で、彼に敵対する家老が丹波哲郎。特に仲代達矢の浪人としての風貌などはリアルなのだけれども(妻役の司葉子もリアルな造形)、やはり丹波哲郎というのはいつもアレだし、冒頭に登場する浅丘ルリ子はどこかバタ臭い容貌ではあり、とても江戸時代のリアルなドラマとは思えないところがある。さらに幕府の隠密役で登場する中村錦之助というのもまた、どこかリアルさからかけ離れたところにいる感じでもあり、そういうトータルな奇妙にバタ臭くもマンガチックな世界は、後のマカロニウェスタンの世界を彷彿とさせられるものである。中盤、そしてラストのそれぞれ趣向を変えた殺陣にも見惚れてしまう。

 あとで読むと本来は中村錦之助の役は三船敏郎ということで製作も進んでいたようで、中村錦之助はどちらかというとピンチヒッター。やはり海外での人気が高い作品のようで、ハリウッドでリメイクもされているらしい。



 

[]「日本の反知性主義」内田樹:編 「日本の反知性主義」内田樹:編を含むブックマーク

 「反知性主義」とはどういうことなのか、わたしにはちゃんと認識出来ていないところもあって、そのあたりのことを明確にしたいこともあって読み始めた本。いちど読了したけれども、もういちど読もうと思っている。とりあえずは一読での感想を書いておく。内容(目次)は以下の通り。

 ●反知性主義者たちの肖像  内田樹
 ●反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴  白井聡
 ●「反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと  高橋源一郎
 ●どんな兵器よりも破壊的なもの  赤坂真理
 ●戦後70年の自虐と自慢  平川克美
 ●いま日本で進行している階級的分断について 小田嶋隆
 ●身体を通した直感知を  名越康文×内田樹
 ●体験的「反知性主義」論  想田和弘
 ●科学の進歩にともなう「反知性主義」  仲野徹
 ●「摩擦」の意味――知性的であるということについて  鷲田清一

 出版社の宣伝文句、<政治家たちの暴走・暴言から、メディアの迷走まで、日本の言論状況、民主主義の危機を憂う、気鋭の論客たちによるラディカルな分析>から、そういう情況論的な書物だと思っていたのだけれども、じっさいのところ、それぞれの個人の中にある「反知性主義」をこそ俎上にあげるような論文が並んでいた。特に、ドキュメンタリー作家の想田和弘氏の<体験的「反知性主義」論>を興味深く読んだ。

 つまり、この本で問題にされているのは、愚かなスピーチを繰り返す政権の座に居座っている人物らや、ヘイトスピーチを声高に叫ぶ連中のことではなく、逆に知的なことがらに情熱をかたむけるような人々の内面にある「反知性主義」のことであるケースが多い(執筆者がおおぜいいるので、その論文の数だけ論点も異なるのだけれども)。それはつまり想田和弘氏のいう「予定調和」をめざす精神であり、内田樹氏の引用するロラン・バルトのいう「知識の飽和」という認識でもあり、つまりは「短絡的思考」から生まれるもの、ということだろうか。

 このあたりはわたしの勝手な読み方だけれども、もしもこの書物に<日本の言論状況、民主主義の危機を憂う>という精神があるとすれば、それは安倍内閣に「ノン!」の声をあげ、ヘイトスピーチに心を痛める側にも(側にこそ)、それらを告発するときに「反知性主義」が忍び寄ってくる、ということでもある。わたしはたしかに、そういう例を挙げるにはいとまがないな、とは感じたりもする。

 つまり、安倍晋三のいうことやることはすべて承認出来ないに決まっているから(それはその通りなのだけれども)、条件反射的に安倍晋三批判へと動く精神、また、ただヘイトスピーチ集団を「バカ」と決めつけるときなどに、「反知性主義」が忍び寄ってくるのではないだろうか。「そんなことはわかりきっている」というところから思考を彼らの「否定」へと短絡させれば、つまりは否定する側の知性の回路も「短絡」が常態になってしまう。

 想田和弘氏は自分のドキュメンタリーを撮るとき、先入観を抱くような前ぶりはすべて排除して撮影/製作にのぞむ。そこから彼のドキュメンタリー作品(彼のいう「観察映画」)は生まれる。そこにこそ、彼の「知性」は十二分に発揮されるだろう。

 「反」知性ではなく、じぶんの中の知性をどうやったら十二分に活動させ、発展させられるだろうか? わたしには、そういうことを考えさせられる書物だった。

 (さいごにこそっと書いておくけれども、「批評家」というのは、「知性」を発揮するからこそ「批評家」として認知されるのである。自称「批評家」であることに実体を持たせたいのなら、まずは「反知性」的な存在であることをやめるべきだろう。そうでなければ、批評される方もたまったものではないだろう。と、ある人物を思い浮かべながら書いている。)



 

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■ 2015-04-28(Tue)

 このところ数日、春というよりはもう「初夏」というような、気温の高い日がつづいている。昼間は部屋にいても暑いぐらいなのでTシャツ一枚ですごしたりするのだけれども、そうするとちょっと日が陰ると涼しくなりすぎて、くしゃみが出たりする。こういう時に風邪をひきやすいのかもしれない。
 まだしごとに出ているときはそこまでの暑さは感じなくて、そういう意味ではちょうどいい快適な気候。しごとを終えて帰宅して、そのあとに外に出るのはまだあまり暑くならない午前中にすませてしまうようにしているのだけれども、そんな時間でももうかなり「気温が上がってるなあ」と感じる。

 今日はホームセンターまで行き、ニェネントのネコ缶を買うことにしている。行ってみるとたしかにいつも買うネコ缶は売っているのだけれども、いつも買っていたドラッグストアに比べると一割以上は高い値段。「ちょっと高いなあ」と思いながら、他のネコ缶をみていると、三分の二ぐらいの値段のネコ缶がおいてある。「このネコ缶をニェネントが食べてくれると経済的に助かるなあ。でも銘柄を変えると食べてくれない可能性もあるしなあ」などと考えるのだが、まずは過去の体験から、少なくとも「ゼリー仕立て」でないとニェネントは食べてくれない。ゼリー仕立てでなければものすごく安いネコ缶もあるのだけれども、そういうのはダメなのである。その安いネコ缶を手に取ってたしかめてみると、「ゼリー仕立て」の文字は書かれていた。いちおう、まずは一パック(四缶)だけ買ってみて、ニェネントのお気に召すかどうかみてみようと考える。食べてくれるようならこれからはこのネコ缶にすることにして、次回はいっぱい買い込んでこよう。ダメだったら、これまでのネコ缶を買うしかないだろう。

 そのニェネントは今日もまだ「サカリノさん」。夜中に吠えながら部屋中を歩き回ったりするし、前のように寝るときにわたしのふとんの上にあがってくることもない。昼間、わたしがパソコンに向かっているときやテレビをみているときは、わたしの足元で丸くなっている。背中をブラッシングしたりしてあげるとヒイヒイと喜ぶのだけれども、今は換毛の季節でもあるので、ブラッシングするとものすごい量の毛が抜けてくる。

 先日「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を観たものだから、今日はやはりハリウッドものの「サンセット大通り」をみた。



 

[]「サンセット大通り」(1950) ビリー・ワイルダー:監督 「サンセット大通り」(1950)   ビリー・ワイルダー:監督を含むブックマーク

 

 もちろん昔観ていて、だいたいの概略は記憶にあったけれども、それでもやはり「はじめて観る映画」の気分。

 冒頭で、男が豪邸のプールに浮かんで死んでいる。ナレーションが「なぜこの男は死んだのか?」ということを、過去にさかのぼって語りはじめるわけだけれども、このナレーションはその「死んだ男」によるもの。つまりそれは「亡霊の声」といってもいいのだけれども、この映画はその「語り部の亡霊」ではない、まさに「生きる亡霊」の姿をこそ描いている。それが、ハリウッドの黎明期(サイレント映画の時代)の大スターだった女優、過去の栄光の中にのみ生きている女優のノーマ・デズモンド。

 彼女はそのサンセット大通りにある外見は荒れ果てた豪邸にこもり、外の世界からはすっぱり断絶された世界に生きている。彼女の意識では彼女は今でも人気の高い「大女優」なわけで、スクリーンへのカムバックを夢見、自分が主役となる映画のプロットを書きつづけている。そこでその膨大なプロットを脚本へとリライトするために、売れない脚本家でもあった殺された男が雇われるわけではある。

 男はこの時間の凍結したような屋敷から「現実」へと逃亡しようとし、そのことが彼の命取りにはなるのだけれども、いったいなぜ、このような外の現実世界から断絶した空間が存続したのかというと、ここに女優の召使いの、マックスという男の存在の意味がある。彼は表面的な立場こそ「召使い」ではあるけれども、彼こそが屋敷の「時間」を牛耳って演出している。マックスは元映画監督でノーマの映画を撮っていて、しかもノーマのさいしょの夫だったという(ノーマはその後二回結婚していると語られる)。

 ノーマはマックスの演出した「虚構」の世界に生かされており、それは「狂気」の世界でもある。その「虚構」であり「狂気」である世界を、現実を遮蔽して演出している存在こそがマックスという男。屋敷の空間、そして時間を維持させているのは、マックスなのである。その屋敷の空間と時間に迷い込んできたのが、殺されたジョーという男なわけだけれども、ノーマはそのジョーという存在に溺れ、彼を屋敷に囲おうとする。

 さて、果たして、陰の演出者であるマックスにとって、このジョーという男の屋敷への闖入はどういう意味を持ったのだろうか。屋敷の主人はあくまでもノーマであり、マックスもノーマの意向にしたがうわけだけれども、ジョーの存在は屋敷の「虚構」を崩壊させるおそれがあるだろう。いつも無表情を通すマックスの所作から彼の内面はうかがい知れないけれども、「これですべては崩壊する」という意識はあったのではないのか。もう「虚構」は維持しきれない。マックスが演出し、空間を支配した「狂気」は、現実にノーマを浸食してしまうわけである。

 終盤のノーマによる犯罪は、マックスの力があればいくらでも隠蔽して「完全犯罪」に終わらせることもでき、それまでの「虚構」をそれ以降もずっと維持して行こうとすることも可能ではあるだろう。それをせずにマックスが通報してしまうのは、「この<場>こそをクライマックスにして、すべてを終わらせよう」という意志のあらわれなのではないのか。だからこそそのラストでマックスはカメラや照明に指示を出し、すべての「監督」として「アクション!」と叫ぶのだろう。

 ノーマの悲劇をメインに観るのではなく、ノーマの存在を演出したマックスという男にこそ注目してみると、これが単に「狂気」の物語ではない、まさに「ハリウッドで映画を撮る」という物語であることがみえてくる。



 

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■ 2015-04-27(Mon)

 部屋にいるとついつい酒を買ってきて飲んでしまうのだけれども、先月などは焼酎ばかりを飲んでいたら胃の調子がとても悪くなった。おそらくは焼酎のせいだと推測がつき、やめなければいけないと思ってはいたのだけれども、今月はそれを日本酒に代えただけでまだ飲みつづけていた。胃薬を飲んだりもして胃の具合はずいぶんと良くなったのだけれども、このごろは日本酒にも飽きてしまった。それで、先日からは安いスコッチ・ウィスキーを飲みはじめた。味は悪くないけれども、いいかげん飲酒という悪癖もストップしなければいけない。部屋で飲んでいても月に一万ぐらいの酒代をかけてしまうわけだし。
 前にある程度酒をやめるのにアイスコーヒーのパックなどが役に立ったりもしたのだけれども、このアイスコーヒーのパックがメーカーによってずいぶんと味に差があることがわかった。いや、前からわかっていたのかもしれないけれども、忘れていたのだろう。S社のパックは苦いだけで、これをおいしいと感じるのはむずかしいのだけれども、U社のパックはコクがあっておいしい。このコーヒーを飲んでいれば酒に頼らずにすむだろうか。

 部屋にいてもうひとつやることといえば、ネットの閲覧なわけだけれども、Facebook にしてもTwitter にしても、少し飽いてきた感もある。なんだか自分が「他人のバカな発言」ばかりに反応しているようで、精神衛生上よくない。そういう、わたしが「この人はバカな発言ばかりだなあ」と思う人物へのフォローはやめているのだけれども、やめていても、「あの人物はその後どんなバカな発言をしているのだろう」と知りたくなり、読んでしまうのである。つまらない。

 昨日借りた「日本の反知性主義」はけっこう読み進んだ。あした、あさってにも読了出来そうである。正直書いて、期待していた内容ではなかったところもある。わたしが考えた「反知性主義」との差異、でもあるだろうし、執筆された方々(この本は複数のエッセイが掲載されている)のそれぞれのあいだでも「反知性主義」ということの捉え方がちがう。あまり参考にならないパートもあるし、論点の捉え切れないパートもある。読み終わったら考えてみよう。

 昨日の選挙でわたしが投票した候補者(現職)が落選していた。まず無難に当選するだろうと思っていたので、ちょっとショックだった。



 

[]「ロング・グッドバイ」(1973) レイモンド・チャンドラー:原作 ヴィルモス・スィグモンド:撮影 ロバート・アルトマン:監督 「ロング・グッドバイ」(1973)   レイモンド・チャンドラー:原作 ヴィルモス・スィグモンド:撮影 ロバート・アルトマン:監督を含むブックマーク

 

 「インヒアレント・ヴァイス」のジャズ版というか、ピンチョンもポール・トーマス・アンダーソンも、この「ロング・グッドバイ」は参考にしているところが大きんじゃなかっただろうか。主人公のエリオット・グールドはあちらのホアキン・フェニックスのマリワナの向こうを張って、ほんとうにいつもいつも煙草をくわえているし、さまざまなわけのわからない人物が入り乱れて、「いったいどこへ脱線して行くのか」と思わせられる展開も同じというか。

 とにかくは冒頭のネコの名演技(?)に目を惹かれ、それからはイヌ、イヌ、イヌ‥‥。LAの雰囲気もバッチリなんだけれども、この作品では撮影のヴィルモス・スィグモンドの手柄がずいぶんと大きいだろう。カメラが移動しながら屋上のテラスから建物の下へと視線を回してみせたり、人物をズームで寄っていきながらそのまままた引きはじめるとか、とにかくは撮影監督として会心の出来だったんじゃないだろうか。観ていても、そのあたりにこそまずは楽しませてもらうことになる。

 ラストで並木道の中ですれちがう男と女って、これは「第三の男」なんじゃないのかな? ここでは男女が逆になっていて、それでこそ「ハードボイルド」ではあるのだよ、という感じ。



 

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■ 2015-04-26(Sun)

 今日は日曜日で、市議会選の投票日。投票所の市役所は図書館に近いので、投票をしてから図書館へ寄り、予約してあった「日本の反知性主義」を受け取ってくる。読んでいたハイスミスの「殺人者の烙印」も読み終わったので、まずは「日本の反知性主義」を読み、次のハイスミスは「ふくろうの叫び」にしようかと思っている。しかしそうするとカントの「純粋理性批判」はまたまた先送りされてしまうことになり、もういいかげんに内容もほとんど忘れてしまっている。どうも部屋にいると集中して読書出来ないので、図書館に本を持って行って、図書館で読み進めた方がいいのではないだろうか。その方が毎日の生活にも区切りができ、いい時間の過ごし方ができるようになるんじゃないだろうか。

 ニェネントはやっぱり「発情期」の「サカリノさん」で、部屋中を吠えながら彷徨するようになった。寝ているとき以外はわたしの足元近くにうずくまり、ちょっと手をニェネントの近くにやったりすると甘噛みしてきたり、ペロッとなめたりしてくる。

 そろそろニェネント用のキャットフードがなくなるのだけれども、ネコ缶はこんど閉店になるドラッグストアがいちばん安かった。それも売り切れてしまっていて、別にちがう銘柄でもニェネントは食べてくれるような気もするんだけれども、いや、やっぱりいつものネコ缶でなければダメなんだろうな、とも考える。その銘柄を売っているのがわかっているホームセンターの方に、そのうち買いに行かなくてはいけない。ドライフードの方ももうすぐなくなる。



 

[]「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008) トーマス・アルフレッドソン:監督 「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008)   トーマス・アルフレッドソン:監督を含むブックマーク

 

 以前観たけれども、記憶に残っていなかった作品。冬のスウェーデンの寒々とした感じが全篇を覆う作品で、その中で登場人物たちの孤独感が引き立つ。映画としてはテンションの高いシーンがずっと連続することで、逆に全体が平板になってしまった印象がある。あれこれの事象(事件)を盛り込みすぎた感じ。



 

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■ 2015-04-25(Sat)

 夢。母と弟とわたしとの三人で買い物に出かける予定。わたしは皆での買い物のあとにコロッケ屋か何かにひとりで買い物に行くつもりなのだけれども、弟がいつまでも風呂に入っていて、皆での出発が遅れる。わたしはイライラしている。
 ようやく皆で出かけると雨が降っている。今日は町内のどこかで相撲大会があることを思い出すのだけれども、この町内には相撲の出来そうなスポットは二ヶ所ある。一方には土俵はあるのだけれども、屋根がないところなのでこの天気では無理だろうか。もう一方は相撲大会をやるにはちょっと面白みに欠ける。しかし、土俵のあるスポットの前に行ってみると、ないと思っていた屋根がちゃんと設置されていて、そのあたりで横綱(白鵬?)とすれちがったりする。
 歩いていると二階建ての倉庫のような家の前を通り、そこの家の人は留守にしているようなのだけれども、わたしはその家が<◯◯さん>の家だとわかる。ずいぶんとこの地域にも慣れたなあと思っているわたし。
 わたしはひとりになって買い物に出る。バスか電車から降りてその店に向かうと、わたしとほぼ同時に(ちょっとわたしの方が早かった)店に飛び込んでくる男がいる。どうやら店は洋品店か古着屋のようで、わたしは男と同時に黒色のパーカーをつかみ、引っぱりあいになってしまう。短髪の、わたしの嫌いなタイプの男性で、「あなたは何歳なのか」と聴くと「32歳」と答える。「そのくらいの年齢のヤツが分別をなくしやすいのだ」とわたしは考える。そういう風に男に云ったかもしれない。
 とにかくはわたしが手にしたパーカーを奪い、着てみようとすると、それはいつのまにか銀色のスウェット・パンツになっている。わたしの趣味ではないのだけれども、もう引けない感じになっているので試着してみる。「Frank Zappa」のロゴが入っているのだが、はいてみるとそのロゴは消えてしまっている。やはりコレはわたしの趣味ではないと思うのであった。

 今日は映画を観に出かけた翌日だし、やはりほとんど何もしないで過ぎ去ってしまった一日になってしまった。来週は可能ならばお茶の水に「洲崎パラダイス 赤信号」をやっているのを観に行きたい、という目論みもあるのだけれども、その映画館では同時に成瀬巳喜男の「浮雲」も上映している。名画座だけれども各回入れ替え制なので、ほんとうは「洲崎パラダイス」と「浮雲」の両方を観たいのだけれども、そこはなるべく倹約したい。ネットで検索するとさすがに「洲崎パラダイス」は見つからないけれども、「浮雲」は中国のサイトにアップされているのを見つけた。ところがコレを観ようとすると、パソコンが重たいというか、途中でストップしてしまう。何度もトライしているうちに、まったく観られなくなってしまった。
 おそらくはパソコンをもっと身軽にすれば観ることもできると思い、あれこれと試みてみるのだけれども、やはりダメだった。くやしい。

 ニェネントは、やたらわたしにまとわりついてくる。「おかしいな、そういうパーソナリティーではないはずなのに」と思っていると、つまりはまた発情期になってしまったようである。わたしに背中を差し出し、「なんとかしてよ!」と、わたしにうったえてくるのである。それで背中をブラッシングしてやったり、指で掻いてやったりすると「ヒイヒイ」と声をあげている。ついでに、下毛がわんさかと抜けてくる。

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 読みさしの「殺人者の烙印」、残りも少なかったので今日読み終えた。そうそう、このところ市立図書館にインターネットからアクセスするようになり、先日はネット上から貸し出し中だった「日本の反知性主義」という本を予約したのだけれども、今日になって「取り置きしてある」とのメールがあった。明日、市議会選挙の投票のついでに受け取ってこよう。



 

[]「殺人者の烙印」パトリシア・ハイスミス:著 深町眞理子:訳 「殺人者の烙印」パトリシア・ハイスミス:著 深町眞理子:訳を含むブックマーク

 

 ハイスミスの1965年の作品で、原題は「A Suspension of Mercy」。いちどは「慈悲の猶予」というタイトルで刊行されたものが、「それでは誤解を招く」という翻訳者の意向で、このタイトルで文庫として再刊されたもの。

 主人公は実績のない作家で、イギリスの地方に妻と住んでいる。ロンドンにいるパートナーに自作をアレンジ(脚本化)してもらって映画化/テレビ化への売り込みをはかっているし、自作の小説の売り込みも独自にやっている。妻は絵を描いているが、プロというわけではない。妻とは決定的な不仲というわけでもないのだが、互いの独立心を尊重した上で、お互いに「合わない」と思ったときには短期間の別居を実行したりする。その場合は妻が外に出て行くことになる。主人公は妻がいなくなると、自作のプロットづくりとして「自分が妻を殺したとしたら」などと想像し、そのように行動したりする。
 その妻の不在が一ヶ月を越えたとき、「ひょっとしたらあの夫が妻を殺害し、絨毯にくるんで森に埋めたのでは?」との疑念が拡がる。じっさいに主人公は「妻を殺した」と想定して、妻の死骸をくるんだつもりの絨毯を埋めるという行動を取っているわけだ。
 主人公は自分がそんな疑惑の的となり、警察までが捜査を始めて新聞ネタにもなっているとき、妻の行き先を想定してその地で妻が偽名で男と同居していることを突きとめるのだけれども、そのことを警察に告げることはしない。主人公への疑惑はつのる一方なのに‥‥。

 主人公はいつでも、「ちがうんだ。妻はどこそこにちゃんと生きているのだ」といえるのに、そういう行動を取らないでいる。そのために追いつめられてしまうようではあるのだけれども、これがとても面白い展開へと移行して行く。先日読んだ「殺意の迷宮」でも、登場人物は誰もが(というか、「どちらも」、か)完全に「潔白」というわけではない、という視点があるようで、そういうところにパトリシア・ハイスミスの作品の面白さもあるわけだけれども、この作品でもラストでは主人公は「潔白」ではない、というあたりに、圧倒的な面白さがある。

 とにかくはストーリーも後半になると、あの「ゴーン・ガール」を思い浮かべざるを得ない展開にはなる。もちろんシチュエーションはまるでちがうのだけれども、構図としては共通するところがある。ひょっとしたら「ゴーン・ガール」はこの作品を参考にもしているのではないかと思ってしまう。

 前回の「変身の恐怖」でも、登場人物の意識下の(ヒップとスクエアの)対立関係の面白さ、というのがあったのだけれども、この作品でも、「態度」の問題として旧的な世界の人物の意識を俎上に乗せているところがある。そこに、「虚構」ということが浮かび上がってくる。

(‥‥)リリバンクス夫人が亡くなった。この自分がその原因になったと思うと、慙愧の念に堪えない。態度が彼女を殺したのだ。彼女自身の態度が。彼女はおれがアリシアを殺したと思い、そのため、自分まで殺そうとして家にはいってきたと思いこんだ。この態度をひきおこしたのは、おれ自身の態度だ。どちらもまったく虚構でありながら、深刻で、かつ非常になまなましい効果がある。スニーザム夫人もまた、ひとつの態度を持っている。疑惑という態度を。彼女が因習にとらわれていることも、やはり態度だ――偶像崇拝や、異教の神をあがめることと同様に、偽りの(あるいは真実の)態度。それでも彼女の態度は、法と秩序と家族の連帯を維持するのに役立つ態度だから、それらはこの社会に是認されている。宗教もやはり態度であることはいうまでもない。これらのものを信念といい、真実といい、信仰というよりも、態度と呼ぶほうがあるかに事の本質がはっきりする。この世はすべて態度によって左右され、態度はまた幻想と呼んでさしつかえない。

 この視点に、ハイスミスという作家の魅力がある。



 

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■ 2015-04-24(Fri)

 高田馬場の早稲田松竹でやっている「マップ・トゥ・ザ・スターズ」と「アンダー・ザ・スキン 種の補食」の二本立てを観に行くことを計画していて、財政難ではあるけれどもやっぱり出かけることにした。とにかくウンと早くに出発して、できるだけ早く帰ってくるという計画を立て、しごとを終えて帰宅してからできるだけ早く出発すると12時20分からの「マップ・トゥ・ザ・スターズ」の上映に間に合うし、そうすれば「アンダー・ザ・スキン」を観終わってすぐに帰路に着けば7時ごろには帰ってこられるのではないのか。それなら夕食も部屋でゆっくりと取ることもできるだろう。

 しごとが終わって帰宅したらすぐに朝食がとれるように準備しておいて、ニェネントのごはんをあげて着替えをして出発。9時40分の電車で東京に向かい、11時半に高田馬場に到着。またまたまたまた日高屋で昼食。今日は先日の「和風つけ麺」ではない、中華の「冷やし麺」にしてみる。あれこれの具が付いていて、ヴォリュームはある。ハムは見たからに安物だけれども、それなりに「冷やし中華」の味はするし、とにかくは安いからいいかと。

 エコノミーな食事を終えて映画館へ行くと、ほとんど待つこともなくさいしょの上映が終わり、ちょうどいいタイミングだった。
 二本の映画を連続して観て、「なるほど、共通点は<Burning Body>か!」などと合点して映画館を出る。まだまだ外は明るく、やはり計画どおりに7時ごろには帰宅できそう。
 電車の中ではハイスミスの「殺人者の烙印」を読み進め、もうちょっとで読了。なんだか「ゴーン・ガール」の裏返しみたいな展開の作品ではある。面白い。

 帰宅して、つくり置きのカレーを温めて夕食にする。カレーはたくさんつくっておけばしばらくはあとの手間がかからないで食事ができるので、便利である。
 さあ、世間では明日からはゴールデン・ウィークが始まる。わたしのしごとはそういう世間のカレンダーとは異なるスケジュールなのだけれども、5月の5日から7日まではとりあえずは三連休。出かける用事もないし、お金もない。ここは図書館にでも通って、カントを集中して読む期間にしようかしら。



 

[]「マップ・トゥ・ザ・スターズ」デヴィッド・クローネンバーグ:製作・脚本・監督 「マップ・トゥ・ザ・スターズ」デヴィッド・クローネンバーグ:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 

 まったく内容を知らないで観る映画で、わたしは「スターズ」とかの単語も出てくるし、「アンダー・ザ・スキン」との併映でもあるし、てっきりSF作品だと思ってしまっていた。‥‥ちがうじゃん。まさに「ハリウッド・スター」の「スターズ」という意味だった。

 これは面白い。ハリウッドの百何年の歴史が亡霊化し、現在のハリウッドを浸食するような、これは「地政学」というか、「地霊学」とでも呼びたくなるような作品。そこに現在のハリウッドがいかに「生き残ろう」としているか、皮肉を込めた視線で描いている。まさに「非ハリウッド」監督のクローネンバーグならではの痛快さがある。いろいろな小道具をうまく物語の中に活かすセンスが好き。もういちど観たい作品。



 

[]「アンダー・ザ・スキン 種の補食」ジョナサン・グレイザー:監督 「アンダー・ザ・スキン 種の補食」ジョナサン・グレイザー:監督を含むブックマーク

 二度目の鑑賞。冒頭の映像、そしてリゲッティを意識したような音楽からも、「2001年宇宙の旅」を思い浮かべてしまう。そういう意味ではこれは逆転した「スター・チャイルド」のストーリーというか、その生成ではなく、壊れて行くさまをこそ捉えた作品ではないのかと思ってしまう。

 捕食者であるスカーレット・ヨハンソンは、象皮症の男を知ることでその「人」の「容貌」/「セックス・アピール」ということを意識するようになり、その後の男との性交渉で「なに、これ!?」みたいなことから崩壊して行くようではあるけれども、その前に市中で彷徨中に転倒するあたりからも、すでに壊れはじめていたという観方もできるのだろうか。また、象皮症の男に彼女が何を見たのかということもよくわからないわけで、そのあとの性交渉での彼女の狼狽ぶりもまた、その理由はよくわからないわけではある。しかしとにかくは彼女は「この容貌をした<わたし>とはどんな存在?」という疑念に囚われたことはまちがいはない。

 補食の「罠」であった存在が、自らがなぜ「罠」として機能しているのかと自問する。そのことから「わたしとは何?」という根本疑念に囚われ、自己放棄して行く。彼女は男に火をつけられなくとも、すでに崩壊への道を選んでもいるのだけれども、彼女の真の内面は黒い煙と共に空に昇って行き、わたしなどの知るところにはなり得ない。しかし観ているわたしは、そのことを想像したいと欲している。想像力を喚起する、優れた作品だと思う。



 

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■ 2015-04-23(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 またパソコンにへばりついてあれこれみていると、秋のバットシェバ舞踊団の公演、そしてマリー・シュイナールの公演の詳細がわかったりした。バットシェバ舞踏団は10月4日の公演一回だけ、横浜の神奈川県民ホールにてで、マリー・シュイナールは10月24日と25日にやはり横浜の神奈川芸術劇場にて。マリー・シュイナールの公演はきのうYouTube の動画を貼り付けた「Body Remix & Les Variations Goldberg」ではなく、「春の祭典」と「アンリ・ミショーのムーブマン」とのようだ。「Body Remix & Les Variations Goldberg」こそが観たかったけれども、まあいいや。

 注文してあった「純粋理性批判」の中巻、下巻が届き、これで下巻の事項索引をみながら読み進められるだろうか。読んでいても、その箇所その箇所で書かれていることは理解出来ないこともないのだけれども、「はたしてこの事項は前にはどのように説明されていたのだったろう?」と、わからなくなってしまっているのが障害。やはり記憶力が退化しているのだろうか。

 なんと、インターネットのプロバイダーからの一年分の請求が届き、月にすれば千円ぐらいのものなのに、一年分合算されるから一万二千円とかを超えてしまう(あたりまえ)。つい先日この部屋の賃貸の契約更改で四万円ちょっと支払い、それにプラスして今月の引き落としではいつもの月よりも一万五千円多く引き落とされる。つまり、いちどに七万近くの予定外の支出があったわけで、これはあまりに痛手である。プロバイダーの料金がいつもこの時期に請求のくることはまるで記憶から抜け落ちていたし、二年ごとの賃貸契約更改をこれまでどのようにやりすごしていたのかもまるで記憶にない。そういう記憶が残っていればもうちょっと倹約もしていたかもしれないのに‥‥。
 とにかくはこれでもうギリギリの生活が余儀なくされるというか、あんまり遊び回っているわけにもいかない。そして、また二年後にはこうやって七万の支出があることも覚悟しておかなければならない。考えてみたら一年前のこの時期にはまだ二十万ぐらいの蓄えがあったのだけれども、それが一気にほとんどゼロになってしまうわけだ。あまりに遊び呆けすぎてしまったか。

 ‥‥などと書きながらも、明日はまた映画を観に出かけたいと考えているわたし。



 

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■ 2015-04-22(Wed)

 というわけで、今日は朝早くに家を出て、映画を二本ハシゴする。予定では八時半に家を出てまずは渋谷で「インヒアレント・ヴァイス」を観て、すぐに有楽町に移動して「ギリシャに消えた嘘」を観るつもり。朝早くに出るので、八時前には帰ってこられるんじゃないかと思う。

 今日は朝から青空が拡がる気もちのいい天候で、気分もウキウキしてしまう。映画を観るのが楽しみになるような。
 予定通りに八時四十五分の電車に乗り、車中ではまた睡眠に努める。東京に近くなると、けっこう車内も混み合っている印象で、まだ通勤通学の時間帯なのだろうかと思ってしまう。もう十時も過ぎているのだけれども。
 渋谷に到着して、まずは映画館へ行ってチケットを買って席を決め、まだまだ開映まで時間があるので、例によって日高屋でちょっと早い昼食にする。今日は「和風つけ麺」というのにトライしてみるけれども、まあこの価格ならこんなもんでしょう、という感じだろうか。

 映画館に戻り、まずは「インヒアレント・ヴァイス」を鑑賞。まだ公開が始まって間もないし、東京あたりではこの館でしか上映されていないこともあるのだろうけれども、客の入りもいい感じ。いいところでゲラゲラ笑う、いいお客さんたちだった。ただ、二時間半になる上映時間のさいごの方で、あまりに館内があたたかいものでついつい眠くなり、ちょっとばかし見落としてしまったところもあったかな。ま、もういちど観てもいい映画ではある。というかもういちど観たい。

 映画終映後、さっさかとメトロで銀座へ移動し、ちょうど開場された映画館にすべり込む。こちらの映画館も半分ぐらいの入りだろうか。こちらはつまりは百分の尺におさまる作品だったので、眠くなることもなく見ることができた。

 映画が終わってすぐに帰宅。今は上野東京ラインがあるので、つまりは東京駅で乗り換えることになる。まだラッシュアワー前だったし、うまくすわることもでき、帰りの車中ではずっとハイスミスの「殺人者の烙印」を読んだ。七時半に帰宅して、夕食はカレーではなくお好み焼きですませた。



 

[]「インヒアレント・ヴァイス」ポール・トーマス・アンダーソン:製作・脚本・監督 「インヒアレント・ヴァイス」ポール・トーマス・アンダーソン:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 

 音楽スコアがいい。Radiohead のジョニー・グリーンウッドによるものだということ。ただ、冒頭に流れる曲がCAN によるものだとはわからなかった(あんまりCAN は聴き込んでいないから)。まさに原作通りの展開で始まるのだけれども、つまりはそのト書きの部分を登場人物のソルティレージュのナレーションで処理しているわけで、彼女の声がまた甘ったるくてセクシーで、作品のムードづくりのキーにもなっていたと思う。とてもいい。

 序盤からずっと、きちんと原作通りに進行することにびっくりもしてしまうのだけれども(もちろん、大幅に省略されたシーンもあるわけだが)、この脚本も監督のポール・トーマス・アンダーソンによるもの。ではこのまま進行して原作終盤の混沌とした展開はどう処理するんだろうと思っていたら、そこはそこ、ちゃんと「愛だろ!愛」みたいな映画的終幕にアレンジはされていたけれども、原作がアレだけに、「原作と違うじゃないか!」という気にはならなかっただろうか。で、こういう風に原作をイメージ化していただくと、「あの原作のあのシーンはこういう感じだったのか」ということにもなり、このイメージに合わせてまた原作を読みたくもなってしまうのだった。ただ、さすがに1970年のLAの風景の再現はむずかしかったのだろうということで、風景描写は最低限にとどめられていた印象ではあり、そういう時代を感じさせる映像ではなかったかもしれない。

 そういう映像としては、主人公のドクがシャスタと再会して長い会話(シャスタの独白だったっけ?)からセックスへといたる長い長廻しのシーンが印象的だった(こんなシーンは原作にはないのだけれども)。
 原作とくらべてばかりというのがわたしの悪いクセだけれども、原作で気に入っていた、山のように出て来る当時の音楽群をどのように使うのかということにも興味があったのだけれども、そのあたりはあっさりと打ち捨ててしまっていた印象(いちいち権利を取るのが煩雑でもあっただろうし)。かわりに原作にはなかった曲がかなり使われている。例の日本のお好み焼き屋のシーンでは坂本九の「スキヤキ」が流されたり、ニール・ヤングやミニー・リパートンなども。

 もういちど、観てみたい。



 

[]「ギリシャに消えた嘘」パトリシア・ハイスミス:原作 ホセイン・アミニ:脚本・監督 「ギリシャに消えた嘘」パトリシア・ハイスミス:原作 ホセイン・アミニ:脚本・監督を含むブックマーク

 これまた、原作を読んでの映画鑑賞。監督のホセイン・アミニという人物のことは知らないが(この作品が初監督作品らしい)、「ドライブ」という映画の脚本を書いていた人らしく、その「ドライブ」という作品、やたら評判がいいので、機会があったら観てみたい。

 原作には読んでいてちょっと不自然なところもあったので、そのあたりはきっと映画では変えてくるだろうとは思っていたけれど、やはりラストなどはかなり変えてあった。ひょっとしたら作品の時間枠として100分とかいう設定があったのかもしれないけれども、終盤にちょっとエピソード/説明が不足していたようなところもあり、もうひとつ、あのままではライダル(オスカー・アイザック)がコレット(キルスティン・ダンスト)を殺害したのではないかという疑いを晴らすことができず、ラストのチェスター(ヴィゴ・モーテンセン)の告白でようやく疑いを晴らせたということ、ライダルがすべてにおいてまったく潔白ではなかったことなどが消えてしまったのが残念。ただ、逃走する二人を追う捜査陣が二組あり、それがラストに交差するというあたりのつくりは面白かったし、ちらっと映されるクレタ島の遺跡の壁画のショットを三人の登場人物に重ねるあたり、効果的だったと思う。

 60年代のギリシャの街角などの描写、ラストのイスタンブール(原作にはない)の描写など、雰囲気は満点だった。



 

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■ 2015-04-21(Tue)

 先日観た「ローザス」の舞台にはやはり強い感銘を受けたのだけれども、ネットを閲覧していると、この秋にはオハッド・ナハリンのバットシェバ舞踊団も来日するみたい。さらにいろいろとみていると、神奈川芸術劇場には「デボラ・コルカー・カンパニー」というブラジルのカンパニーの来日公演も行われるようで、その告知のページをよく読むと、「カンパニー マリー・シュイナール」とのセット券などということも書いてあり、つまりはマリー・シュイナールも秋に来日するみたいである。

 わたしはもう、記憶を失ったせいで、「マリー・シュイナール」という名前しかおぼえていないわけで、はたして彼女のカンパニーがどんなダンスを繰り拡げておられたのか、まったく思い出すことができない。それでもこの日記を検索してみると、2006年と2010年との来日公演とを両方観に行っているみたいである。書いてあることを読んでも「へぇ〜!」って思うだけで、まるで思い出せることもない。しかし、YouTube で検索してみるとずいぶんと映像がひっかかってくる。「なにこれ!」って感じである。驚愕。
 短いのではこの映像が強烈、だった。

   Weirdest Video You Will EVER See

 これは、「Body Remix & Les Variations Goldberg」という作品からの抜粋のようだけれども、ほぼ全篇収録されたものもYouTube で観ることができる。とにかくはバレエのテクニックをこんな風に使ってしまうのか、滑稽ではあるけれども、夢中にさせられるものがある。この作品で来日してくれるといいのだが。

 観たい映画もあれこれとたまっていて、ほんとうは明日がしごとが休みなので、今日どれかを観てくるのがゆっくり休めていいとも思うのだけれども、今観たいと思っている「ギリシャに消えた嘘」と「インヒアレント・ヴァイス」とを一日に両方観てしまえば、交通費の節約にもなるではないかと考え、明日の早い時間に出発して二本の映画をハシゴして、早めに帰ってこようかと計画を立てた。あと、名画座でやっている「アンダー・ザ・スキン」と「マップ・トゥ・ザ・スターズ」の二本立てを、金曜日あたりに観に行けばいいのではないかと。ブレッソン監督の「やさしい女」も観たいし、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」というのも気になるところ。とにかくはまずは明日二本の映画を観てからか。



 

[]「ジャンヌ・ダーク」(1948) ヴィクター・フレミング:監督 「ジャンヌ・ダーク」(1948)   ヴィクター・フレミング:監督を含むブックマーク

 

 マクスウェル・アンダーソンという人の書いた舞台の戯曲からの映画化らしく、舞台にはこの映画の主演のイングリット・バーグマンもやはり主演していたらしい。このマクスウェル・アンダーソンという人はハリウッドではなかなかの人だったようで、時代モノのコスチューム・プレイから、「キー・ラーゴ」のような現代モノまで幅広く手がけていたみたいである。

 この「ジャンヌ・ダーク」もやはり、いかにも舞台モノらしくも、序盤の仮王宮でのやりとり、そして終盤の異端審問などの場面などに観るものを引き込ませる力があるように思う。わたしはそんなにジャンヌ・ダルクの生涯に詳しいわけもなく、この映画を観たあとにWikipedia などでにわか勉強してみたのだけれども、そういうところで読み取れるポイントになる要点はちゃんと、劇的にこの作品にも取り込まれているわけだった。

 ただ、やはり「映画的な見せ場」ということではオルレアンでの戦いの場になるはずではあろうけれども、そのあたりの予算が取れなかったのか、引きの画面、全体を見渡すような鳥瞰画面がないわけで、どうしてもセットでの近接撮影だけ、というせせっこましさを感じてしまうのはたしか。

 監督のヴィクター・フレミングの起用は、「風と共に去りぬ」とかの雄大な絵づくりを期待されてのことだったのだろうけれども、先に書いたような舞台的な見せ場での手腕はあっただろうけれども、そういう戦闘場面では残念なことであったというしかない。

 ジャンヌ・ダルクの生涯と功績を手っ取り早く知るにはいい映画で、これを観てからカール・ドライヤーの「裁かれるジャンヌ」だとか、ブレッソンの「ジャンヌ・ダルク裁判」とかに進むといいのかもしれない。

 そう、わたしが観たのは145分のヴァージョンだったけれども、廉価版DVDなどでは100分のヴァージョンも出回っているらしい。145分のものが100分に切られるというのは、いくら何でも乱暴なのではないのか。



 

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■ 2015-04-20(Mon)

 一昨日観た名和晃平氏の展覧会のことだけれども、ちょっと思ったことを今書いておく。つまりああいう作品はどうがんばっても個人レベルではつくれないわけで、かつては「発注芸術」などと呼称されたような作品もあったけれども、「プロダクション」っぽいというか、製作会議みたいなことを経て製作されるようなものだろう。アーティストを目指す人間がいきなりああいう作品をつくり出すことはまずできない。今回の展覧会でいえば樹脂に関しての専門家であるとか、それをシャワーとして循環させる専門家の力がひつようなのではないだろうか。いくら個人としてそのあたりのことがすべてわかっていたとしても、それを作品化するには人の力を借りなければできないだろう。
 つまり、美術作品の製作というのは「個人的な営み」ではないのかという前提が壊されるわけで、そんなことは今さらあらためていい出すようなことでもないのだけれども、やはり今回の展覧会のようなものを観ると、これからアーティストを目指す人間があのような作品にインスパイアされて「自分もあのようなコンセプトの作品をつくりたい」と思っても、まるでとっかかりがないのではないのか。

 音楽(特にポピュラー・ミュージック)の世界でも、個人がスタジオでは実現不可能な音世界を、プロのアーティストはレコーディング・エンジニアと共にさまざまな機器を使って、ひとつのプロダクションとしてつくり出せるわけだけれども、ここにはそういうレコード会社との契約というような、アマチュアから昇って行ける「階段」があるだろう。しかし美術の世界にはそういう明確なプロフェッショナルの規定があいまいというか、レコード会社のスカウトのように向こうからこっちを探してくれるということにはならないだろう。そうすると美術作家の方でそういう道を探らなければならないわけだ。そういうことができるかどうか、そのあたりが分岐点にもなるだろうし、また、美術作家を取り巻く世界にそのようなものを取り込む余裕もなければならない。

 近年の現代美術は「これ!」というムーブメントもなく、つまりは「最尖端」の喪失みたいな状況にあると思う。それぞれの作家がアトリエにこもり、個々にパーソナルな世界を繰り拡げているだけ、そういう作家のまわりに村のような集落がそれぞれにできているだけではないだろうか。「これからは現代美術の最前線は公募展のなかに移行するかもしれない」といった人がいたけれども、こういう事態からでは、その言にも一理あるようにも思えてくる。それでもいいといえばいいのだろうけれども、「尖端」があるとすればどのような形で? そういう答えのひとつが、一昨日観た名和晃平氏の展覧会にあるように思えた。

 今日はまた閉店するドラッグストアへ行き、残っている缶詰だとか調味料などをそれなりに買い込んできてしまった。いま大きな災害に見舞われてもサバイバルできそうだし、これからしばらくは食費がずいぶんと浮くのではないだろうか。昼食にはスパゲッティをつくり、これはパスタもスパゲッティ用のソースだとか調味料もいっぱい買い込んであるので、しばらくは昼食はスパゲッティ三昧と行きたい。夕食には久しぶりにカレーライスをつくった。オイスターソースや中華料理用の調味料も入れ、おいしい味に仕上がったと思う。



 

[]「プリズナーズ」(2013) ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督 「プリズナーズ」(2013)   ドゥニ・ヴィルヌーヴ:監督を含むブックマーク

 

 このドゥニ・ヴィルヌーヴという監督の作品は「灼熱の魂」と「複製された男」とを観ているけれども、どちらもわたしには気に入らない作品だった。ただプロットを追うことに一所懸命な演出という感じで、監督みずからがその映画の中に没入しているという印象を受けないのであった。いつもプロットの意外性のみで観客に迫ろうとしているように感じられる。だから、この「プリズナーズ」も、「どうせダメかもね」というつもりで観はじめた。

 冒頭からしばらくは「これはデヴィッド・フィンチャーあたりが撮りそうな雰囲気だな」とか思って、ちょっとワクワクしながら観ていたのだけれども、だんだんに演出の上で何かが足りないという感覚になってくる。そして、不必要な何かか過剰なのではないかとも思うようになる。そう、やはり観客を巻き込んでしまうような異様な空気が足りないのだし、それがただ見た目の異様さだけになってしまっている。つまり、演出の方向がどこか違っている。ここはやはりプロットに頼ろうとする姿勢ゆえなのか。

 しかし、観ているうちに、「あれれ?」という感覚になってしまう。って、この映画って、あの「羊たちの沈黙」の翻案ではないですか。まずは異様な連続する事件があり、捜査する人物がいる。そして捜されるべき犯人がいるというのが普通の構造だけれども、この捜査に第三者が絡んでくるという構造。「羊たちの沈黙」では犯人を探る道を知っているレクター博士という存在があって、そこに彼の存在自体が謎のようなところもあり、その謎を解き明かすことが犯人への道となる。この「プリズナーズ」では行方不明になった娘の父親が異常な行動を取り、そのことが捜査の障害にはなるのだけれども、けっきょくはそれゆえに犯人への道が見出されることになる。まあ違うといえば違うのだけれども、この「三角関係」構図は同じ。しかも、さいしょは無関係と思われた廃屋/隠された部屋で見つかった死体が、実は真実へとつながるものであったという構図も同じ。そういうのでは廃屋、地下室、隠された部屋、異様なオブセッション、解かなければならない「謎」など、あまりにふたつの作品で重なるところが多い。

 「なんだ」と思ってちょっと鼻白んでみていたら、このラストの展開の演出がまるで「羊たちの沈黙」の模倣になっていたのには恐れ入ってしまった。つまり、まずはノックする捜査側のショットにつづいてノックされる室内側のショットになる演出があるのだけれども、ここはあまりにあからさまに同じ。そのあとの銃撃も同じようなものだし、ちょっと「恥知らず」ではないのかと思ってしまう。ついでに書いておけば、このラストでの犯人は迫力不足というか、すべての幕引きにこれではあまりに情けない。役者の演技力もあるのかもしれないけれども、脚本、そして演出の責任はあるだろう。

 あまりに「羊たちの沈黙」を意識した脚本も情けないが、そのことを承知して「羊たちの沈黙」を模倣してしまった演出はもっと情けないだろう。やっぱりこの監督はわたしにはダメだ。



 

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■ 2015-04-19(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 昨日上野駅で始発電車を待つあいだ、本屋でしばらく立ち読みして時間つぶししていたのだけれども、読みさしの岩波文庫版の「純粋理性批判」、下巻の末尾にはたっぷりと「事項索引」のページがとられているのがわかった。これがあれば「この言葉、どんな意味合いで使われていたんだっけ?」とか前のページをくくってみなくてもすむわけだし、それならば早いとこ全巻買い揃えて読んだ方がいいではないかということになる(普段ならいつもそうやっているのだけれども)。今日になってAmazon で検索すると、中巻も下巻も中古なら1円で出ているわけで、送料はかかるけれどもちゃんと買うのの1/3とか1/4ぐらいの値段で買える。さっそく注文してしまった。って、上巻だってこうやってAmazon で買えばよかったのだけれども、あのときは「衝動買い」だったからなあ。

 別に昨日出かけて疲れたというのではないけれども、しごとも非番で休みだし、朝から何もする気がしない。見もしないのにテレビをつけっぱなしにして、パソコンにかじりついているような一日。午後からはテレビをつけたまま昼寝してしまうし、けっきょく一歩も外に出ない一日になってしまった。昼寝から目覚めてからは録画してあった「あまちゃん」の一週間分をまとめて見たりして、やはり今やっている「まれ」などよりは全然面白いし、このところ「まれ」がどんなにつまらなくなってしまったかもよくわかった気がする。

 火曜日に飲みに行こうと約束していたFさんから連絡があって、「どうも調子が悪いから」と、予定は先延ばしすることになった。ちょっと心配だけど、電話の声は元気そうだったからだいじょうぶかな。しかし、そうすると火曜日以降の予定もちょっと練り直さなければいけないだろうか。「観に行けないかな」と思っていた映画にも行けるかもしれない。

 夜は例の閉店するドラッグストアで買ったオイルサーディンの缶詰をちょっと調理して、かんたんなおかずにして夕食にする。あとはもうずっとつけっぱなしのテレビでニュースを見て、そのあとは「モヤモヤさまぁ〜ず」を見たりして、つまりはこのところのダラダラとした一日と同じである。



 

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■ 2015-04-18(Sat)

 楽しみにしていたローザスの「ドラミング」公演日。空も晴天で快適な気候。公演は午後二時からとちょっと早い時間だけれども、指定席券を持っているから、開演ギリギリの時間でもだいじょうぶともいえる。それでも十一時の電車で出発し、一時前には池袋に到着する。まずは腹ごしらえというわけで、つまりはまた日高屋へ。とにかくこのところはわたしは日高屋のヘビーユーザーである。今日はレバニラ炒め定食にして、まあそこそこおいしかったけれども、正直、この味でこの値段なら日高屋にこだわる意味はあまりないか。

 ゆっくり食事を終えて喫煙所で一服して、目の前にある会場の東京芸術劇場へ行くとちょうど開場時間。入り口付近に今では東京芸術劇場のスタッフであられるGさんがいらっしゃったのであいさつするけれども、そのほかに知っている方の顔は見あたらなくって、ちょっと寂しい。

 舞台はやはりすばらしいもので、終わったあとにこの感激を誰かとわかちあいたい、誰かと飲みに行けたりしたら楽しいのだがと思うのだけれども、そうはいかない。それではと今日の第二案、そのまま日暮里へ移動して、谷中のSCAI THE BATHHOUSE で開催中の名和晃平展を観に行くことにする。
 ギャラリーに到着してみると、土曜日の午後で天候もいいこともあり、谷中をそぞろ歩きをされている観光客の方々でギャラリーはいっぱいだった。みんなケータイで写真撮ったりされていたけれど、そういう観光客の方々にはこの展覧会はどういう風に眼に映るのだろう。わたしはそういう人たちに否定的な気分はない。「谷中にはむかし銭湯だった現代美術の画廊があってね」という認識でいいではないですか。

 谷中まで来たのならば、そのまま上野へ行った方が帰りの電車の便もいいし、あのガード下のタバコ屋の看板犬のジェシカちゃんにも会いたくなり、上野まで歩く。なんだか、好きなコに会いに行くような感覚。
 今日もジェシカちゃんはとってもかわいかった。わたしにとって、この地上でいっちばん可愛らしい犬というのは、このジェシカちゃんだと思う。コーギー犬は皆かわいいけれども、ジェシカちゃんのコロッとした感じが最高。

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 思いを寄せるワンちゃんにも会えたので、あとは帰るだけ。それともこっちで夕食して行くか。それで今日のローザスの舞台の楽しさをかみしめるためにも、わたしにはいちばん気のおけないスポットの「日高屋」(またかよ!)で、いつもの日本酒にイカ揚げ、ポテトフライ、そして餃子という布陣。とにかく、ちょっと飲むにはこのスポットが落ち着けるし、安上がりではある。

 上野東京ラインの開通で、今では本数の減ってしまった上野始発の宇都宮線でゆっくりと座って帰路に着き、またまた北のスーパーに立ち寄って、百円になっていた「つけ麺」と、半額の「炙り鯖」とを買って帰る。お留守番ありがとうのニェネントに炙り鯖をあげるのだけれども、これがちっとも食べようとしない。ニェネントはやはり鯖とかは好きじゃないのかと自分で全部食べちゃおうとしたら、わたしが食べているのをみたニェネントが欲しがってちょっかいを出してくる。「なんだよ」とあらためて鯖をあげてみると、ガツガツと食べるのであった。

 ずっと一人だったけれども、楽しい一日だった。



 

[]ローザス「ドラミング」スティーヴ・ライヒ:音楽 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル:振付 @池袋・東京芸術劇場プレイハウス ローザス「ドラミング」スティーヴ・ライヒ:音楽 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル:振付 @池袋・東京芸術劇場プレイハウスを含むブックマーク

 

 ローザスの前回(2010年)の来日を観た記憶も記録もないのだけれども、10年前の来日公演は観に行っているようだ(このあたりから、わたしの記憶はまるで残ってはいないのだが)。しかし、「ドラミング」は「ローザス・ダンス・ローザス」などといっしょにヴィデオで観た記憶があり、意外とこの記憶は今でも鮮明に残っている。「ローザス・ダンス・ローザス」でのダンサーたちの吐息音、衣服のすれる音なども印象的だったけれども、この「ドラミング」では舞台を走り回り跳躍するダンサーたちの姿こそが印象的だった。特にそのファースト・シーンとエンディングははっきりおぼえていて、実は今回の公演でもそのあたりをリアルに体験したいという気もちも強かった。わたしの席は予約開始時にがんばって予約したので前から5番目。もうダンサーたちはすぐ目の前にいる感じだけれども、逆に劇場内に入るときに見えた床に白く描かれていた図形、これはまるで見えなくなってしまった。あれは何を意味していたのだろう。

 開演前から舞台の袖でダンサーたちがたむろして客席を見たりしていたけれども、もうそこから舞台は始まっていたというようでもあり、彼ら、彼女らのリラックスした姿が、その後の緊張した空間を引き立ててもいたと思う。そしてそのファースト・シーン。さいしょのパーカッションの音と同時に女性ダンサーが飛び出してきてジャンプする。完璧なタイミング。もうここでわたしはちょっと涙目になってしまった。‥‥二人、三人と舞台のダンサーの数が増えて行き、振付けもそのライヒの曲のように複雑になって行く。しかしそのダンスは決してアクロバティックなものではなく、手を上げ足を振り上げ、跳躍して舞台を走るという動きが基本。舞台を歩いて横断し、ただ舞台上でたたずむような場面も多い。後半でこそ男性ダンサーが女性をリフトすることもあるけれども、コンタクトも基本はほとんどない。しかしその動きは舞台上のあちらこちらでシンクロしても行き、そういった動き、その交差の仕方が独特の舞台空間をつくり上げている。あれだけの距離をとりながら、ダンサーたちはどうやってタイミングをはかっているのだろう。アイコンタクトはとっているようではあり、そのこともちょっとした魅力ではある。音楽とシンクロする場面もあるのだが、ライヒの音楽のポリリズムを、身体で舞台上に拡張しているようではある。そのあたりの見事さにずっと見惚れてしまっていた。どことなく、「重力」とか「慣性」とかのことを考えながら観てもいた。

 12人すべてのダンサーが舞台上で歩いて交差するシーンなどもあるのだけれども、観ていて、渋谷のスクランブル交差点であらゆる方向からの歩行者がぶつかり合いもせずにすれ違って行く情景とか思い浮かべたりもした。そう、外国人にはあの歩行者の動きは「驚異」なのだそうだ。渋谷の連中はみんなローザス!?

 エンディングはわかっていたけれども、やっぱりそれをやられて舞台がハッと暗転すると、「終わった」という充足感に包まれてしまう。これも(ある意味、何度も再演された舞台だからこそ)見事なエンディングだと思う。この日が最終公演で、そのこともあってか、カーテンコールは4回、鳴り止まなかった。また来日してほしい。



 

[]名和晃平「FORCE」@谷中・SCAI THE BATHHOUSE 名和晃平「FORCE」@谷中・SCAI THE BATHHOUSEを含むブックマーク

 プリズムシート、発泡ポリウレタン、ガラスビーズなど、名和晃平はこれまでも素材特性を最大限に引き出し、研ぎ澄ませた表層のテクスチャと希薄化するオブジェの実体を対比することで、デジタル社会における存在のリアリティーを問うてきました。最先端の3Dテクノロジーを駆使した制作プロセスや素材への化学的なアプローチは、ものの表層における視覚的な情報量を増幅し、鑑賞者それぞれの知覚体験によって成り立つ現代彫刻の新たな可能性を示しています。リアルとバーチャルの境界へ迫るこうした探求は、現代における多様な物質性とその知覚について、私たちの意識を視触覚的に刷新する試みであると言えるのではないでしょうか。

「Force」と題された本展は、質的に計算された液体と重力の関係性によって展開されます。インスタレーション作品《Force》(2015年)では、黒いオイルの筋が雨のように天地垂直に流れ、床面に溜まって黒い池を形成します。動粘度を調整されたシリコーンオイルは、液状化した彫刻のように固体と液体の特性を曖昧にしながら、一定方向に高速で流れ続けます。綿密な構成意図にしたがって成り立つ空間彫刻は、時間・空間・物質のはざまに鑑賞者の視点が置かれ、アクチュアルな 瞬間 の連続のなかに私たちがいる現実を直感させられます。名和はこれまでも湧き上がる気泡(“LIQUID” 2003年〜)や際限なく生成し続ける泡沫(《Foam》2013年)など、原初的な現象を現代の化学素材で再生してきました。ホワイトキューブに流れ続ける線状の黒いオイルはこうした試みを継承しながら、熱可塑性の素材で造形する"GLUE" (2000年〜)、液体のもつ特性と重力で描いた"Direction"や"Moment"に繋がる新たな彫刻のコンセプトを指し示しています。

垂直に張ったキャンバスの上端から顔料を滴らせてできる平面作品"Direction"は、2011年から続く作品シリーズ。バイナリーコードのようなモノクロームの反復は、顔料がひとつの方向に向かう運動の痕跡であり、強いコントラストをもつ自律的な階調を刻んでいます。 "Moment"(2014年〜)では、精密にチューニングした顔料が入ったタンクの振り子装置によって、ノズルから出たインクの軌跡が円心運動の錯綜を描きます。ある点からある点へ顔料が移動するときに曲線や渦線がうまれ、タンク内の空気圧、ノズルの太さなど物理的な条件によって多様に変化します。作品制作は徹底した素材のコントロールと運動計算によって統制されている一方で、瞬間的に画布を動かし介入を加えることで局所的なカオスと変調を生んでいます。重力の影響で円心の運動(力のモーメント)が弱まると、線は点に近づき支点の中心へと収縮します。このような作用は、空間に垂直に立とうとする私たちの身体が、常に感じ続けている力(Force)でもあるのです。

 記録。



 

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■ 2015-04-17(Fri)

 きのう映画を観に出かけたので、今日は家での休息日。

 このあたりでは桜の花もすっかり散ってしまったけれども、きのう行った駅の周辺には桜の花がいっぱい咲いて、まだ散らずにいた。きのうの駅の周辺とこのあたりとでそんなに気候が違うはずもなく、これはその地域の桜の木の「季節感」の違いなんだろうか。低機能なわたしのケータイのカメラでは夜景はきれいに撮れないけれども、こんな感じ。

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 今日もきのうのように晴天で、暖かい天候だった。昼寝もしないで午後からは録画した映画を観たりして、なかなかに好調である。夕方から空は曇りはじめ、テレビをみていると関東では竜巻注意報が出されたりしていた。日が暮れてから買い物に出ると、ちょっとばかり雨も降り始めてもいて、ときどき空が雷で明るくなり、遠くに雷鳴も聞こえていた。

 帰宅して「今夜はまたお好み焼きにしよう」と準備していると、とつぜんに真っ暗になった。停電。雨もそれほど降っていないし、雷が近いという感じでもなかったのでびっくりした。というよりも、「停電」という事態があの大震災のとき以来のことだと思う。すぐに復旧するだろうと思ったのであまりあわてることもなかったけれども、この「暗闇」というのは面白い。市街地に生活していると、めったなことで体験できることでもない。災害に付随した停電ならばもっとあせるだろうけれど、ちょっとその暗闇を楽しむつもりになった。
 一分も経たずに停電は復帰したけれども、いちど停電が起きるといろんな電気製品の初期設定がリセットされる可能性があり、ざっとチェックしてみる。やはりLAN のハブからの接続が途絶えてしまっていて、このあたりのことをわたしはよくわかっていないので、復帰にしばらくかかってしまった。

 



 

[]「カサノバ」(1976) フェデリコ・フェリーニ:脚本・監督 「カサノバ」(1976)   フェデリコ・フェリーニ:脚本・監督を含むブックマーク

 

 フェリーニの作品では「サテリコン」は大好きではあるけれど、その「サテリコン」以降の作品が、わたしにはどうもピンと来ないのである。どうも「サテリコン」以降、映画の虚構性への指向が過剰になりすぎている気がするし、その世界観もあまり好みではない。この「カサノバ」もまた、カサノバの回想録から自由に翻案/演出したという意味で、ペトロニウスの「サチュリコン」を基にした「サテリコン」につづくもの、という印象はあるのだけれども、「サテリコン」にあった現代に通底するような視点が抜け、グロテスクさもひかえ目になってしまったような。

 「海」を黒いヴィニールでやってのけるあたりはすばらしいんだけれども、後半にはセットがあまりに平板で、撮影がその平板さを際立たせるような印象にもなり、これは「サテリコン」のときから撮影監督が代わったのだろうかと思ったのだけど、調べると同じジュゼッペ・ロトゥンノという撮影監督で、この人は「サテリコン」以降のフェリーニの作品のほとんどで撮影を担当されているようだ。でははたして、「サテリコン」での撮影の仕事はどうだったのか、もういちど観てみなくってはならないだろう(フェリーニ後期の<衰退>は、この人のせいかもしれないではないか!)。



 

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■ 2015-04-16(Thu)

 18日は楽しみにしているRosas の「Drumming」公演があり、何となく体調をその日に合わせて持って行こうという気もちもあるのだけれども、観ておきたい映画も複数本あり、今日あたりどれか観ておかないと、あとのスケジュールがきつくなりそう。
 わたしとしては先日原作を読み終えた「ギリシャに消えた嘘」を今日あたり観ておきたいと思ったのだけれども、考えてみると、その映画を上映している有楽町地域には来週になってFさんと飲むときに行くことになるし、夕方からの「飲みイヴェント」の前に映画を観ておけばちょうどいいではないかと思い当たった。だから「ギリシャに消えた嘘」を観るのは来週にして、観たい「インヒアレント・ヴァイス」もこの週末からの公開だから、今日はまだやっていない。そうすると自然、もう一本観るつもりでいた「6才のボクが、大人になるまで。」を今日観ておくのがいいだろう、ということになる。この映画はウチからのローカル線のターミナル駅にあるシネコンでやっているので、行くのにもじかんがかからなくってかんたんである。今日は三時ごろからの上映があるので、それに合わせて行くことにした。

 さすがに出かける予定を立てると「昼寝」をするわけもなく、出発するまでは何となくパソコンに向かってじかんをつぶす。そう、来月で閉店するドラッグストアで今日はサービスデーなので、いろいろと買い込みに出かけたりもする。目あてのネコ缶などは補充されていなくって、おそらくはもう、閉店まであたらしく商品を棚に補充したりはしないみたいである。店内をみているといろんなものがとにかくバカ安になっていて、ピザソースだとか缶詰だとか、保存の効くものをあれこれと買い込んでしまった。おそらくは閉店まぎわになるともう「投げ売り」状態にもなるんじゃないだろうか。

 二時の電車で出発。ちょっとあたりの店をのぞいたりしながら、開映時間近くに映画館へ行く。またまた、観客はわたしひとりだけである。この映画館ではいつものことで、普通だったらとても維持して行けないだろうと思うのだけれども、つまりはこの映画館のオーナーはきっとこの駅ビルのオーナーでもあるんだろうと想像する。いつも上映される作品ラインアップにも思い入れが感じられるし、そのあたりは採算を度外視してやっているのだろうな。
 このまま「わたしの映画館」状態で観られるのかと思っていたら、開映まぢかにもうひとりお客さんがいらっしゃってしまった。こういうのもなんだか、この映画館ではいつものことのような気がする。たしか以前一度だけ、観客はわたしひとりということもあったような。

 ちょっと長い映画で、映画が終わって六時すぎ。駅の反対側にある酒の量販店へ行き、「何かびっくりするぐらい安いものはないか」と店内をみてまわったけれども、そういうものは今回はみつからなかった。
 帰路の電車に乗り、そろそろ安くなりはじめているだろう弁当を目あてで南のスーパーに行ってみたけれども、まだ時間的に割引率が低いというか、せいぜい二割引ぐらい。買うのはやめて閉店するのではないドラッグストアへ行き、安売りの鍋焼きうどんを買い、これで夕食にした。まあ汁をつくる手間ははぶけるけれども、これならうどん玉を買ってつくった方が安上がりであった。こういうところで無駄遣いをしている。



 

[]「6才のボクが、大人になるまで。」リチャード・リンクレイター:脚本・監督 「6才のボクが、大人になるまで。」リチャード・リンクレイター:脚本・監督を含むブックマーク

 

 主演の男の子が6才のときから、18才までをリアルに撮り上げた、足かけ12年かけて製作された作品。男の子とそのお姉ちゃん(監督の娘さんらしい)、そしてお母さんのパトリシア・アークエット、お父さんのイーサン・ホークの四人が、その12年間につきあっている。

 特にドラマチックな出来事をことさらに描くのではなく、ただ男の子が成長して行く時間の流れをこそ主題にしているようで、その時の流れに身をまかせてスクリーンを観ているというのは、それなりに快感ではあった。わたし的には冒頭の、お姉さんの歌って踊るブリトニー・スピアーズがお気に入り。お父さんが男の子にプレゼントするビートルズの「Black Album」は、あんまり聴きたくないな。

 「(大切にしたいと思う)瞬間というのは、いつでもあるのだ」というラストのことばはいい。



 

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■ 2015-04-15(Wed)

 ニェネントの背中をブラッシングしてやると、おどろくほどに毛が抜けてくる。手の指でスクラッチしてやるとそれ以上に、ほんとうにわさわさと抜けてくるものでビックリしてしまう。ネコには換毛の季節で、つまりは「春」になったということ。油断していると部屋中がニェネントの毛だらけになってしまうし、衣服にもいっぱい毛がついてしまう。

 うちの南にあったドラッグストアのうち、東側のあたらしい方の店が閉店するようだ。いつ行っても店内は閑散としていたし、閉店も時間のもんだいかとは思っていたのだけれども、チェーン店でもあるので意外といつまでも営業をつづけるのかもという気もしていた。やっぱりダメだったか。モノによってはこのあたりでいちばん安い価格のものも置かれていたし、その安さにも飛び抜けていたところがあっただけに、残念なことではある。まずはニェネントのネコ缶はいつもこのドラッグストアで買っていたことの影響が大きいか。今日は割引デーでもあったので、目についた安い商品をまとめ買いしてしまった。ニェネントのネコ缶が売り切れていたのが残念。

 不動産屋での契約更改もすませ、一気に金がなくなった。これから観に行く予定の舞台公演ふたつはもうチケットを買ってあるので、とりあえずその分は心配することはないのだけれども、観に行きたい映画が三、四本あるし、来週にはFさんと飲みに行く約束もある。それに観たい舞台はこれからもいろいろと出てくるのである。やはり外食を減らすようにこころがけ、いくら値引きされているからといってスーパーの弁当も買わないようにしないといけないだろう。

 今日もやはり昼寝をしてしまい、夕方から録画してあった「フルメタル・ジャケット」を観た。観終わった時間がちょうどスーパーでの値引きのはじまる時間だったので、さっき「やってはいけない」と思ったばかりなのに、弁当を買いに行ってしまった。このところ「カツ丼」を食べたくて仕方がなかったので、「カツ重」弁当を買った。おいしかったけれども。



 

[]「フルメタル・ジャケット」(1987) スタンリー・キューブリック:監督 「フルメタル・ジャケット」(1987)   スタンリー・キューブリック:監督を含むブックマーク

 

 「基礎訓練」パートと、「実戦」パートの二部構成。「基礎訓練」はまさにワイズマンの「基礎訓練」から多くを参考にしているのがわかる。展開も劇構成ではなく、私情をほとんどはさませないで説明もなく描写して行くドキュメント・タッチ。ただ、この展開のなかで「実戦」パートへと引き継がれる人物像は描かれる。

 この「基礎訓練」パートのエンディングがあまりにショッキングなわけだけれども、ここでのヴィンセント・ドノフリオの「やあ、ジョーカー」のセリフとその表情は、あの「シャイニング」のジャック・ニコルソンに匹敵するものだと思う。ここでは場所が白いタイル貼りのトイレということで、鮮血の色彩が余計に鮮明に眼に写ることになる。

 「実戦」パートはいくつかの(具体的には四曲の)既成ヒット曲が印象的に使用されている。まずはNancy Sinatra の「These Boots Are Made For Walking」からこのパートが始まるのだけれども、この曲の流れている部分、ずっと曲に合わせた演出になっていると思う。ヴェトナムのコールガールの容姿とこの曲とが、見事にマッチする。二曲目はDixie Cups の「Chapel of Love」で、実戦中に流される三曲目はSam The Sham & The Pharaohs の「Wooly Bully」。この曲あたりはもうナンセンス・ソングでもあるし、ある意味で戦闘のナンセンスさを際立たせるか、もしくは戦闘中の兵士の脳内状態でもあるのだろう。そのことは次の曲、Trashmen の「Surfin' Bird」でまさに最高潮に達する。このあたりの選曲は大好き(それでエンド・クレジットのRolling Stones の「Paint It Black!」というのもまたハマりすぎ!)。

 この「実戦」パートは一般に「基礎訓練」パートにくらべてイマイチ、という評判なのだけれども、ここでのドリー撮影だとか、炎の色を感じさせる照明だとか、トータルに見るところは多い。

 そうそう、先日観たクリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」とも比較させたいところがあれこれとあるわけで、もういちど「アメリカン・スナイパー」を観てそのあたりのことを考えてみたいものである(イーストウッド監督はまちがいなくこの「フルメタル・ジャケット」を観て、あれこれと影響を受けているだろう)。



 

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■ 2015-04-14(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今日も夢をみたのだけれども、目覚めたときに「お正月」というメモだけを書いてまた寝てしまった。あとで目覚めてそのメモ書きをみても、その夢のことは何ひとつ思い出せなかった。何となく、このところ家族の夢ばかりみていたのが、打って変わって近年の友人の出てくる夢だったように思うのだけれども。やはりこれからは枕元にちゃんとノートを置いておいて、夢をおぼえているうちにできるだけ克明に書いておきたい気がする。「夢」の世界に、前よりもずっと惹かれるものを感じる。

 不動産屋からこの部屋の賃貸契約の更改の知らせがきていて、今月中にはやってしまわないとならない。家賃一ヶ月分とその他もろもろの支出になり、このところずんずんと貯金を切り崩すような生活をしつづけていることもあり、その分を支払うと一気に貯金が減少してしまう。ちょっと大きな支出があればかんたんに「預金ゼロ」ということにもなりそうだ。また支出を抑えて、つまりはあまり遠出をしないような生活パターンに戻さなければならないかと思う。

 今日もまた昼寝で時間をつぶしてしまう。夕方からは録画した「あまちゃん」の再放送を一週間分観た。今げんざいは「まれ」という朝ドラを放送中なのだけれども、このところあんまり面白くなくなってしまった。どうしても「あまちゃん」と比べてしまうからいけないのだけれども、やはり「あまちゃん」での能年玲奈の、ちょっと前かがみに首を突き出したような歩き方がいいし、彼女の「積極的」というのではない、まわりに引きずられて動いて行くようなところが面白い。どうもこういうドラマで主人公が積極的に動くと、どこか「うそっぽく」感じてしまうところがある。

 カントを少しづつ読み進めるけれども、「謎を解いて行く」面白さのようなものがある。自分の「意識」と照合させてみて、「そう、その通りなのだろう」と納得できるということが、読み進める牽引力になっているようでもある。まあ、「今まで読んだところを説明してみろ」と問われても困ってしまうのだけれども。



 

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■ 2015-04-13(Mon)

 しごとは非番で休みということもあり、いちど目覚めて朝食をとったあとに「もうちょっと寝ておこう」とまたふとんにもぐり込んだ。次に目覚めると十時半で、起き出して少し本を読み、パソコンを閲覧して昼食にした。昨日買ってあったイカ天を蕎麦にのせて食べた。おいしかった。テレビをみているとまた眠くなり、またふとんにもぐって昼寝した。目覚めるともう六時近くになっていて、やはり昨日買ってあった「炙り鯖」とかで夕食にした。ニェネントにも鯖をわけてあげる。あとは本を読み、「変身の恐怖」を読み終わった。そのあとはカントを再開するのだが、わからないというのではないのだけれども、記憶しておかなくてはならないキーワード、その意味合い、ニュアンスなどの記憶を呼び戻すのがたいへんで、やはりこれはメモをとりながら読み進めないといけないかなあと思ったりする。カントを読んでいるとまた眠くなり、もうさっさと寝てしまうことにした。今日は十八時間近く寝たことになる。

 たくさん寝たうちのどこかで夢をみた。夢の中でわたしは母といっしょに暮らしているようで、母に「たばこを買ってくる」と家を出ようとする。すると母がわたしを呼びとめ、「出かけるならついでに、このあたりの墓地は一平方メートルでいくらぐらいするものなのか、聞いてきてほしい」という。それを聴いたわたしは、「ああ、やはり弟はもうダメなんだろうなあ」と思うのである。どうやらわたしと母との家に弟もいっしょに暮らしているようなのだけれども、何かの重病で寝たきりになっているようなのである。



 

[]「変身の恐怖」パトリシア・ハイスミス:著 吉田健一:訳 「変身の恐怖」パトリシア・ハイスミス:著 吉田健一:訳を含むブックマーク

 

 ハイスミスについてはあらためてここでは書かないけれども、この本を翻訳しているのは吉田健一である。わたしなどは彼の名を聞くとイヴリン・ウォーの名を思い出してしまうけれども、この人は先入観に囚われずに、自分が面白いと思った本を翻訳することが多いようで、彼の翻訳書はとにかく多岐にわたっている。そういう趣味的な部分が実際の書物の刊行につながるというあたりに、吉田健一という人の立ち位置も理解できるようにも思う。ある意味、彼に翻訳された書物というのは幸福だということもできるだろうか。
 そんな彼がハイスミスのようなミステリー作家の作品を翻訳しているというのも面白いのだけれども、この「変身の恐怖」を読むと、吉田健一氏がこの本のどのようなところに興味を持たれたのか、わかるような気もする。

 この「変身の恐怖」、これはハイスミスとしても意欲作というか、ミステリーの体裁にずれ込みそうでそちらへ流れない、とても面白いテイストの作品に仕上がっている。
 「事件」と呼べることは、たしかに起こったようではある。遠くチュニジアの地にきている主人公は、夜中にホテルの部屋に侵入しようとする人の気配を感じ、そのドアめがけてタイプライターを投げつける。おそらくその一撃は侵入者にみごとに命中したようで、大きな叫び声が起きる。主人公は相手に致死傷を与えたのではないかと感じるのだけれども、すぐにドアのあたりからその人物の気配は消され、翌朝ホテルの人間は「そのようなことは知らない」という。しかし、すぐそばに宿泊している主人公と現地で知り合ったアメリカ人は叫び声を聞いており、主人公が現地人を殺害したのではないかと疑っている。というか、そのことで主人公に「事実を認めろ」と迫るのである。
 もうひとり、現地で知り合ったデンマーク人は「そんなこと、このチュニジアではどうということでもない。誰もあなたのことを責めはしない、早く忘れてしまえ」という。主人公もそのような考えに同調しているのだけれども、そこに主人公が結婚を考えている女性が現地にやってくる。彼女は疑念を持つアメリカ人の話を聞き、心がぐらつくわけである。

 これは「犯行を隠せるのか」とか、そういう話ではない。最初から「隠されている」のである。死体も出てこないし、捜査する警察も出てこない。しかもその「事件」自体がこの小説の主要テーマではなく、そのようなことをきっかけとして、主人公がいかに自分の周囲の世界を認識して行くか、そういうことこそが主題となっている印象がある。そういう意味ではこの小説は「純文学」に近しいもので、そのあたりで吉田健一氏がこの小説に興味を持ったであろうことが想像できる。

 この小説が刊行されたのは1969年で、サブカルチャーやヒッピー文化が台頭し、世界の価値観が問い直された時代だったろうと思う。ハイスミスはその時点でアメリカには住んでいなかっただろうけれども、そういう世界的な潮流はこの小説にも大いに取り込まれていると思う。主人公はニューヨークで暮らす小説家という設定で、彼がチュニジアで出会うアメリカ人は、主人公いうところの「OWL=Our Way of Life」を広めることに専心する、保守でスクエアな人物であり、この小説の中では笑いものにもされているのだけれども、主人公は多大なる迷惑もこうむるわけである。もうひとり知り合うデンマーク人は絵描きで同性愛者で、そういった世間の拘束から自由な人間、いってみればヒップな存在として描かれている。このふたりの間に、主人公、そして主人公の恋人が投げ出されるのである。いったいなぜ主人公らがそうしてチュニジアに行くことになったのかという設定も非常に面白いもので、この物語に奥行きを与えている。

 この小説の原題は「The Tremor of Forgery」というもので、これは作中で主人公が書いている進行形の小説のタイトルではあるけれども、このタイトルが小説の内容をあらわしているとはいいがたいところがある。そこで吉田健一氏は「変身の恐怖」という邦題をつけられるわけだけれども、これも一読するとその内容にそぐわないのではないか、という気がしてしまう。しかし、次の一節を読むと、何とはなしに、吉田氏の意図するところもわかるような気がするのである。これは「こころ」というものが変容して行く、その恐ろしさを描いた小説なのかもしれない。とにかくはパトリシア・ハイスミスの、この作品は傑作であるとはいえると思う。

‥‥彼はテュニジアに何カ月かいる間に自分の性格や自分を支えていた各種の原則が崩れるか消えてなくなったのではないかという恐ろしい感じがした。彼は何であるのか。おそらくある幾つかの原則に基いて行動する人間で、その幾つかのものが彼の性格をなしていたが、今彼は必死になって探しても彼が生きて行く上での指針になるそういう原則を一つも思い浮かべることができなかった。



 

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■ 2015-04-12(Sun)

 朝起きてニュースをみていると、山手線の架線柱が線路側に倒れ、山手線や京浜東北線が不通になっているということだった。復旧にけっこう時間がかかるらしい。まさか「テロ」ではないだろうが、まだ日曜だったからよかったものの、これが平日だったら通勤ラッシュと重なって大変なことになっていたことだろう。今日はわたしも東京に出て浅草橋へ行くつもりだったので、山手線を使うような経路は避けなければいけないと考える。まあ単純にいつもの湘南新宿ラインで新宿に出て、総武線に乗り換えればいいだけのはなし。特に出発時間を早くしたりするひつようもなさそうだ。今日はその浅草橋のギャラリーで知人のグループ展も開催されているし、同じ浅草橋の反対側でのダンス公演も観に行く予定。同じ駅で同時にふたつのイヴェントを体験できるというのもうれしいところ。

 予定通りに十時半の電車で家を出て、十二時半ぐらいに浅草橋へ。たしかに山手線は動いていないようで、乗り換えた新宿駅でそちらのホームには人がいなかった。そのかわり、わたしの乗ってきた湘南新宿ラインや埼京線のホームには人があふれていた。いつもこのホームから乗ってくる人はあまりいないので、やはり珍しく感じられる。

 やはりこの日も昼食には日高屋へ寄り、今回は「中華丼」にトライしてみる。あんまり美味なわけでもなく、この浅草橋周辺には安い食堂、ファストフード店が軒を連ねてもいたので、別の店をトライしてみればよかった。

 まずは駅のすぐ南側にあるギャラリーの方に足を運んでみるけれども、まだ早い時間でもあり、知人の作家さんはいらっしゃらなかった。展示を拝見して、まだ時間もちょっとあるので、あたりをゆっくりと歩いてみる。人形店の多い浅草橋、ひなまつりのとうに終わったあとは、もう五月人形の季節。通りにはどこにもこいのぼりが下げられているのが目につく。

 ダンス公演の会場であるパラボリカ・ビスへ行き、ダンスの始まるまでギャラリーに展示されているシュヴァンクマイエルの作品などを観る。シュヴァンクマイエルの作品群にこころを奪われる。パラボリカ・ビスを主宰されているDさんにお会いして、ちょっと話をしているうちに開演時間になる。

 終演後はちょっと外でDさんなどと立ち話をし、時間はまだ五時前なので、新宿から下北沢に廻って「G」へ行ってみようかという気分になる。
 電車に乗って新宿に出ると、もう山手線も動き始めているようだったけれども、大幅に遅れていて本数も少ないみたい。このときにはホームに人があふれていた。わたしは小田急に乗り換えて下北沢に。

 下北沢では古本屋に立ち寄ったりして、カントの続きだとか、読みたいと思っているドゥルーズのカフカ論などがあれば買おうと思っていたのだけれども、それは見つからなかった。そのあと、時間つぶしにCDショップに寄って棚をみて歩く。けっこうマイナーなんじゃないのと思うようなアーティストにもアーティスト名の書かれた区切りがあるのに、Fairport Convention とかの区切りがないことに悲しくなったりする。みて歩いていると、エディット・ピアフの十枚組みCD、新品が823円とかで置かれていたので、ついつい買ってしまった。CDを買うのなんて何年ぶりのことになるだろうか。

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 「G」へ行き、いらっしゃった店主のEさんにピアフを1枚かけていただく。う〜ん、あんまりピンとこないなあ。「愛の讃歌」はいいけれども。わたしが行ったときにかかっていたのはJohn Fahey のLPだったようで、聞いてみるとアントニオーニの映画の音楽を担当したものだという。「砂丘」だった。「砂丘」というとPink Floyd と思ってしまうが、Pink Floyd だけではないのである。
 あとでこられた遅番の店員さんが越路吹雪のベスト盤をかけられ、またまた「愛の讃歌」を聴いてしまったりした。いつものラム酒を二杯飲んで店を出た。

 帰路の電車の中では「変身の恐怖」を読み、あともうちょっと。自宅駅に降りて十時を過ぎた時間で、この時間にスーパーに行くと安いだろうと思って、北のスーパーへ行ってみる。
 思っていた通りで、まずは「炙り鯖」というのが400円のが100円。ハムカツ200円が60円、イカの天ぷらふたつで250円が100円など、半額以下、三分の一の価格になっている。鯖はニェネントとわたし用、ハムカツはわたしの今晩のおかず。明日の昼食はイカ天でそばにしよう。

 


 

[]「Hardness and Elasticity /硬性、弾性」ビョーン・スタンペス/ ボー・アンダーソン/ ソフィ・ヴェイリッヒ/ 塩崎由美子 @浅草橋・マキイマサルファインアーツ 「Hardness and Elasticity /硬性、弾性」ビョーン・スタンペス/ ボー・アンダーソン/ ソフィ・ヴェイリッヒ/ 塩崎由美子 @浅草橋・マキイマサルファインアーツを含むブックマーク

この展覧会タイトルは物理的な意味合いだけではなく、ビョーン・スタンペス、ボー・アンダーソン、ソフィ・ヴェイリッヒ、塩崎由美子による作品の抽象的な意味合いとしても捉えて頂きたい。

アーティストの共通点は、暗黙と明白さの関係性と振動です。

事実の硬さ。

夢の弾力性。

 記録。


 

[]白井剛●ダンス朗読パフォーマンス「2015 カフカの旅/春」白井剛:出演 スカンク:音響 @浅草橋・パラボリカ・ビス 白井剛●ダンス朗読パフォーマンス「2015 カフカの旅/春」白井剛:出演 スカンク:音響 @浅草橋・パラボリカ・ビスを含むブックマーク

 

 カフカの短編から「穴巣」、「プリマ・ドンナ・ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」、そして掌編をはさんで「学会への報告」との朗読、&ダンス。すべてが<動物>が主人公という短編からの選択、というあたりが面白い。

 「穴巣」は先に録音してあった音源にエフェクトをかけ、まさに舞台上に巣穴を構築して行くような進行になる。「歌姫ヨゼフィーネ」などは本を片手にして、じっさいに朗読になる。「カルピス」を取り出してのブレイク(?)をはさんで、諳んじられた「学会への報告」で、ダンス力が全開モードになる。主人公が知性を持ったサルなので、音楽が「ツァラトゥストゥラはかく語りき」なのはあまりにベタな感じはしてしまったけれども、「ダンス」というよりもパフォーマンスじみたこの公演は、わたしのお気に入りではあった。



 

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■ 2015-04-11(Sat)

 今日も夢をみた。前の妻が出てきて、どうやらデートの約束をする。わたしがずいぶんと昔に描いた絵が二、三枚あって、それを見た前妻はそのうちの一枚を気に入る。デッサンに着彩された木炭紙大の作品で、どこかのバーか居酒屋の中のような情景が描かれている。前妻はデートにこの店に行ってみたらいいのではないかというが、わたしはいい雰囲気の店ではないからやめた方がいいという。娘も出てきて、オフィスか教室の中のようなところで机をはさんで話をしているけれども、わたしがふと窓の外をみると、雲の形がまるで百合の花のように見えるところがある。娘に「見てごらん」というのだけれども、そのときにはもう花の形はくずれてしまっていた。そんな夢。

 このところパソコンの調子が悪いというか、いろいろなサイトを閲覧するのがスムースに行かない。Twitter には写真がアップ出来なくなっているし、まるでフリーズしたように先に進まないサイトもある。どういうところからこういう現象になるのかわからないけれども、いろいろと調べて、今使っているブラウザのSafari をやめて、Firefox をダウンロードして使ってみることにした。さいしょは使い方にとまどったけれども、Safari のときの不具合はどこにもない。すべてがサクサクと進行し、快適である。おかげでずっとパソコンにへばりついてしまう一日になってしまったような。

 今日も午後から昼寝をして、もうすっかり「午睡」として習慣になってしまった気がする。カントを読むのはしばらく休止状態で、今はハイスミスの「変身の恐怖」をちょっとずつ。夕食後は、今日から現代美術館ではじまった「山口小夜子展」に合わせて、彼女の出演した「原子力戦争」を観た。ベッドシーンがあるのにおどろいたけれども。
 わたしは山口小夜子さんが亡くなられる前の年ぐらいに、他の方々にまぜていただいて、彼女といっしょの席で飲んだことがある。生涯でいちばんまばゆい時間だっただろうか。同席した皆と駅で別れて、わたしだけが先に逆方向の電車に乗る時、山口小夜子さんはホームでぴょんぴょん跳ねてわたしを見送って下さったのをよ〜く憶えている。今さらながら、追悼。



 

[]「原子力戦争 Lost Love」(1978) 黒木和雄:監督 「原子力戦争 Lost Love」(1978)   黒木和雄:監督を含むブックマーク

 

 原作は田原総一朗のノンフィクションだったらしく、そこからミステリーを紡ぎ上げてドラマにしたのがこの作品。

 ある女のヒモだった男(原田芳雄)が、その女が故郷の福島で心中死したと聞き、彼女が自分との関係を差し置いて心中などするはずがないと福島にやって来て、彼なりに真相を探ろうとする。それを知った福島で冷や飯を食わされている新聞記者(佐藤慶)が「たしかにウラがある」と特ダネのチャンスを狙う。ヒモの男は女の心中相手として死んだ男の妻(山口小夜子)と会い、死んだ男が原発の技師で、発生した原発事故を公にしようとしていたらしいことを知る。新聞記者とデータをやりとりし、新聞記者はほぼ事件の全貌を知るが、上からの圧力で握りつぶされ、彼自身も保身の道を選ぶ。直情型のヒモの男はそのまま直進し、消されてしまう。死んだ男の妻もまた、権力と寄り添うことを選ぶ(ように見える)。

 現在進行形の告発ドラマにする意図もあったようで、そのあたりは新聞記者と原発関係者との対話の中に色濃くあらわれている。原発関係者は「チャイナ・アクシデント(と、この映画ではいわれているけれども)なんて、東京で一軒の家が火事になり、それが東京都全体に燃え拡がるぐらいにありえないことですよ」と語る。しかし、この映画から33年後、その「チャイナ・アクシデント」は現実のものになってしまった。この映画で描かれた隠蔽体質は、今現在の日本でもまるで変わるものではない。いやむしろ、さらに徹底して国家ぐるみで隠蔽されようとしているのではないのか。

 映画として、原田芳雄の直情ぶりがこの作品の本来のテーマとはちがうものになっているようでもあり、いささか分裂しているという印象はぬぐえない。ただ、そこに橋をわたすのが妖艶な山口小夜子のひとすじなわでいかない行動ではあると思うのだけれども、彼女を「ファム・ファタール」と描くこともまた、この映画の中では浮いている印象になる。「山口小夜子=ファム・ファタール」映画、ちゃんとしたのがあればよかった!



 

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■ 2015-04-10(Fri)

 夜中に夢をみて目を覚ました。夢の中でわたしは居酒屋にひとりで居て、ノートパソコンを開いて過去のわたしの開催したイベントの画像を編集している。居酒屋の席の配置は学校の教室のようで、わたしの廻りにはおそらくは美術作家と思われる若い男性が三人ほどで飲んでいるのだけれども、わたしはそのうちのひとりのことは雑誌などで知っていると思う。その三人もわたしの開いているノートパソコンの画像に気付いているはずだけれども、ずっと知らんぷりして無視している。
 そのうちにどういうきっかけからか、わたしはその三人としゃべるようになっていて、別の女性も加わってにぎやかになっている。わたしはさっきの男性三人の名まえを教えてもらう。たしかに名の知られた美術作家の名だった。しかし時計が九時だか十一時だかになっていて、わたしは「もう帰らなければ、電車に間に合わない」と告げる。だれか女の子が「電車に間に合わないとどうなるの?」と聞いてくるのだが、つまりはこのあたりに泊まらなくてはならなくなるとわたしは答える。
 カウンターで勘定を払って出ようとするのだけれども、カウンターの人はわたしが新たに注文したものと誤解したようで、コーヒーカップに氷とミルクティーの入れられたものをわたしに差し出す。その代金を払って、ミルクティーを一気に飲み干し、残った人たちに払ってもらおうと、財布から二千円出して彼らに渡す。もう財布のなかにはあと二千円ほどしか残っていない。店を出るときにその店内に「美術手帖」か何か美術雑誌が置いてあり、その目次をめくってみると、今いっしょだった男性の名まえが載っていた。

 駅に行き、電車に乗るのだが、最初に乗った電車からすぐに乗り換えないといけない。電車が走っているのはとても都会とは思えない木々のうっそうとした地域で、線路際にいろんな店が並んでいるようだ。
 乗り換え駅に着き、乗っていた電車を降りるのだけれども、その乗り換える先の駅がどこにあるのかわからない。降りた駅のあたりを右往左往しながら、「乗り換え案内とか地図とかを掲示しておけばいいのに」と思っている。それがいつの間にか電車に乗ってしまっているのだけれども、それは今乗って来た電車路線を逆方向に戻る電車だった。「これではもう家に帰れないな」と考え、宿泊のためにどこかで口座から現金を引き下ろさなければならないだろうと、漠然と思っている。
 次の駅で電車を降り、元の駅の方へ戻ろうと思うのだけれども、電車を降りても改札らしいものが見あたらないので、そのまんま抜け出てしまう。

 歩いても、駅らしいものは見つからない。さっきの路線は「東武線」と書いてあったようだ。観光地のみやげ店のような店の並んだ中を歩き、川幅1メートルほどの小さな川を飛び越えようとして失敗し、片足を川に突っ込んでしまう。「だれにも見られていなければいいのだけど」と思っている。
 トンネルのようなところを歩いていると、後ろからグレーの駅員のような服装をした男に引っぱられる。「さっき改札を無視して抜けて来たからだな」と観念し、その男のいうことを聞いて「悪かったです」といいながらついて行く。その先に二人の男が路上で待っているのだけれども、二人とも上半身裸である。どうやら酔っているようだ。中年の小太りの男がわたしにからんでくる。わたしを連れてきた男が「これは一万は払ってもらわないとな」などといっている。わたしはたちの悪いゴロツキにつかまってしまったようだ。

 ‥‥このあたりで目が覚めたわけだ。すぐにメモを取ったので、思いのほかはっきりと内容を記憶している。面白いのでダラダラと書いてみた。

 今日も冬のように寒い一日になっていて、午前中こそ晴れていたけれども、午後には曇ってしまい、そのあとは雨が降り出したようだ。さすがに昨日一昨日とつづけて出かけたので、今日は一日家でゴロゴロしていた。午後からはまた昼寝をしたけれども、そのあとは夜になってHDD整理を目指して、録画されている映画を一本観た。



 

[]「羊たちの沈黙」(1991) トマス・ハリス:原作 ジョナサン・デミ:監督 「羊たちの沈黙」(1991)   トマス・ハリス:原作 ジョナサン・デミ:監督を含むブックマーク

 

 もちろん過去に観ているのだけれども、例によってこれっぽっちも記憶に残っていなかった。しかしこの映画は観ていると「そう、こういう人物が出て来るのだった」とかいうことは、いくらか思い出すことが出来た。ストーリーの方はまるで思い出せず、「羊たちの沈黙」というタイトルはどういうことなのかも、まるで思い出せなかった。つまり、視覚的な記憶というのはいくらか呼び戻すことも出来るということだと思う。原作も読んでいるのだけれども、思い出せることはなかった。ストーリー、プロット的なものは忘却から救い出すことは出来ないもののようだ。

 しかしやはり、とても面白い映画で、わくわくしながら一気に観てしまった。ストーリー的に「連続猟奇殺人」の捜査と、主人公のFBI訓練生のクラリスと牢獄にいるサイコパス精神科医レクターとの対話とがかみ合って進行して行くのが興味深くも面白いわけだけれども、捜査という面でいうとレクターがどうもさいしょっからその猟奇殺人の犯人を知っていたらしいというのは、話がうますぎるところはある。それでも押し切ってしまうのはやはり、クラリスとレクターとの対話というのが秀逸で、これがすべてを牽引して行く面白さだろうか。
 特に三度目の対話だっただろうか、レクターがクラリスの少女期のトラウマを聴き出し、そのことがこの「羊たちの沈黙」というタイトルにもなるのだけれども、その場面での演出が力強い。とにかくは顔面のアップの切り返しだけで見せて行き、特にレクターの顔は切り返しごとにアップにされて行く。

 映画全体としても、クラリスにせよレクターにせよ登場のたびに顔のアップにはなっていたわけで、そのあたりの一貫性がこの「力強さ」になったのだろう。撮影は先日観た「シックス・センス」と同じくタク・フジモトが担当しているけれども、わたしはこの「羊たちの沈黙」での仕事の方がよりよく感じられる。ここでは照明もまた効果的な仕事をしてもいるわけである。トータルに、とても良く出来た映画だという感想になる。

 監督のジョナサン・デミの手腕も賞賛されなければならないだろうけれども、わたしが彼の作品で記憶にあるのはTalking Heads のライヴのドキュメント、「ストップ・メイキング・センス」だなあ。VHSも持っている。こんどまた観てみよう。



 

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■ 2015-04-09(Thu)

 まずは内科医へ通院の日。空は晴れているけれども、四月の気候ではない。内科医へ行く橋を渡るときに遠くに筑波山の全貌がみることが出来るのだけれども、この日の筑波山は積雪で白くまだらにみえていた。このような筑波山の姿をみれるのは年に一、二回しかなかったと思うけれども、今はもう四月である。一方で桜の花が散りはじめていて、一方で遠くの山には積雪の気配。

 さて今日はどうしようか。観たい映画があれこれとあって、スケジュール的にもたいへんなことになってる。高田馬場の早稲田松竹では明日までベルイマン作品の二本立てをやっていて、その「処女の泉」も「野いちご」も古典的名作といわれている作品だし、ベルイマン作品をあまりちゃんと観ていないこともあって、やはりいちど映画館のスクリーンできちんと観ておきたいとは思う。どうもこのところ出不精というか、家でのんびりしていたいという気分が強いのだけれども、内科医から帰宅して、てきぱきと準備すればそのベルイマン二本立てに早い回で行けそうだった。早く行って早く帰ってこられる。ちょっとがんばって出かけてみようと、あたふたと準備をして出かけた。

 電車の中では「変身の恐怖」を読み、いい時間に高田馬場に着いた。またまた昼食を日高屋でやって、今日は「生姜焼き定食」。まあまあの味だった。食事を終えて映画館に行くとちょうどいい時間で、いい席に座ることも出来た。そして今日は眠くなることもなく、ばっちりと二本の映画を鑑賞した。すばらしいではないですか!

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 帰りがけに、カウンターで売っていたパンフレットをみると、この二本の作品のシナリオに加えて、「第七の封印」のシナリオも再録されていたので、迷わずに買ってしまった。じつはYouTube で、この「第七の封印」は字幕なしで全篇観ることが出来るのはわかっている。このシナリオと合わせて観ればいいではないか。

 映画を観終えて、もう今日は寄り道はしないでまっすぐ帰宅することにして、電車の中ではまた「変身の恐怖」。半分とちょっとまで読み進んだ。なぜこれを翻訳した吉田健一氏がこの邦題を原題から離れた「変身の恐怖」としたか、わかった気がした。

 自宅駅に着いてまだ七時ぐらい。家で何か夕食をつくってもいいのだけれども、ここはまたスーパーで安くなっているだろう弁当を買うことにする。狙っていた海鮮丼はまだ値引きされていなかったけれども、ニェネント用に「かつおのたたき」を買い、わたし用には弁当のほかに焼きとりのパックをおまけで買った。このごろ居酒屋で焼きとりを、ということをやっていないので、そういうことをやってみたくなった。



 

[]「処女の泉」(1960) スヴェン・ニクヴィスト:撮影 イングマール・ベルイマン:監督 「処女の泉」(1960)   スヴェン・ニクヴィスト:撮影 イングマール・ベルイマン:監督を含むブックマーク

 

 イングマール・ベルイマン監督作品というのはどこか鬱陶しい感じがしていて、今までほとんど観ていなかったのだけれど。

 この「処女の泉」は若い女の子がレイプされて‥‥みたいな概略は知っていて、観ていてもつまりはその親による復讐譚なのかと思っていたのだけれども、ラストの3分ほどの展開にノックアウトされてしまった。「神よ!なぜ黙って見ておられたのですか!」という悲痛な叫びに、ある意味での「奇蹟」がそれに答える。「なんだ、宗教映画か!」というのを超えた強烈さがそこにあった。演出の見事さだろう。

 まるで「風の谷のナウシカ」に出て来るような中世のスウェーデンの村落の暮らしの描写と、それをとらえるカメラの素晴らしさ。演出上でのいろいろな伏線というか、ストーリーを牽引する演出の力強さがほんとうに見事。まずは冒頭の、インゲリという召使い女がかまどの火をおこし、天窓を開けるまでのワンショットが強烈で、こういうところでのスヴェン・ニクヴィストという撮影監督の手腕を感じる。



 

[]「野いちご」(1957) イングマール・ベルイマン:監督 「野いちご」(1957)   イングマール・ベルイマン:監督を含むブックマーク

 老境に達した医師が、その叙勲の日の朝にみた夢からこの作品は始まる。シュルレアリスム的な叙述にも監督の多才さを感じるけれども、ここから主人公の医師の叙勲式典への旅が過去への旅ともなり、その回想が現在とも重なっていく。いや、現在が回想へとつながっていく。このあたりでもやはりベルイマン監督の演出の手腕に感じ入ってしまい、この作品を撮ったときに監督はまだ四十ぐらいだったというのにもおどろく。回想、そして夢のヴァリエーションが現実とクロスして、ひとつの人生を肯定してみせてくれる。映画というものの魔力を感じさせられることになる。



 

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■ 2015-04-08(Wed)

 今日と明日のしごとは非番で休み。天気予報でもいっていたのだけれども、今日は冬に逆戻り。冷たい雨になるということだったけれども、8時過ぎに窓の外をみると雪になっていた。やはり窓の外をながめるニェネントも、「ニャンてこった〜!」っておどろいてる。

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 こんな天気なのだったらやはり、どうやら雨とぬかるみだらけらしい映画「神々のたそがれ」を観るのにちょうどいいだろうと、お昼に家を出る。もうほとんど雨もやんでいて、傘を置いて行ってもいいぐらいだったけれども、この時期の天気はどう変化するかわからないので、やはり傘を持って出る。

 映画は三時間の長篇なので途中で眠ってしまわないか心配なんだけれども、昨日は十時間以上寝ているわけだし、行きの電車の中でもかなり眠ったので大丈夫ではないかと思う。

 上映一時間ぐらい前に渋谷に到着し、まずは映画館へ行ってチケット〜整理券を買っておく。今朝は東京でも雪になっていたらしいけれども、この時間は雨で、それももうほとんど降っていない。しかし寒い。こういう時こそ食事で暖まろうと、また日高屋へ行き、担々麺を食べる。日高屋の担々麺はかなり辛くって、それなりにおいしいと思う。とにかくは担々麺で汗をかく。

 早くに到着したので時間を持て余してしまうかと思ったのだけれども、意外と食事を終えてちょうどいい時間だった。この作品、けっこう客が入って満員の日が続いたらしいけれども、今日はこんな天候だし、客席は半分ぐらいの入りだっただろうか。
 眠くなることはないだろうと読んではいたのだけれども、そこは映画の魔力。というか、満腹になったのも良くなかったのか、始まって三十分ぐらいのところから猛烈に眠くなってしまい、ところどころ意識が遠のくことを繰り返してしまった。まあストーリーもないような作品だったようだから、オープニングとエンディングをしっかり観ていたからいいとするか。

 夜の食事はじつは昨日スーパーで弁当を買って置いてあるので、帰宅してレンジでその弁当を温めて食べる。寒いので先日片づけたばかりの電気ストーブをまた引っぱり出そうかと思ったけれど、とにかくは早く寝ることにした。「純粋理性批判」はお休みで、途中で放り出してあったハイスミスの「変身の恐怖」を読み進めた。


 

[]「神々のたそがれ」アレクセイ・ゲルマン:監督 「神々のたそがれ」アレクセイ・ゲルマン:監督を含むブックマーク

 

 いきなり人間の尻が突き出されて糞をひり、それをすくい取ったヤツが顔にその糞をなすりつける。「ゲゲゲ!」というオープニングで、とにかくは舞台は地球ではないらしい。地球よりも八百年ぐらい遅れた文化の星に、地球人が来ていると。地球でいえばルネサンスの時代になるのだけれども、この星では逆に「知」というものが排斥、攻撃されている。雨が降り、土はぬかるんでいる。ぐちゃぐちゃのげろげろ。展開もぐちゃぐちゃのげろげろで、とにかくはわたしのまぶたも頻繁に重たくもなってしまったので「こんなだった」ということも出来ないのだけれども、冒頭の雰囲気はその雨のせいもあって、まるであの「七人の侍」のセットのようである。

 この「七人の侍」ではないか?というのはそんなに的外れではないようで、ラストには日本の甲冑のようなもので武装した人物も出て来るし、土まんじゅうに刀をさして墓にするというシーンとそっくりなシーンもあらわれる。そうすると(勝手な解釈だけれども)ぐちゃぐちゃの状態の星が地球人の助けを求め、あれこれとぐちゃぐちゃあって、途中あらわれる「僧兵」との闘いになる。「勝ったのはオレたちではない、この星のヤツらだ!」とでもいったところだろうか。

 その展開でも「知」が排斥されるけれども、映画としてもこれは「反知性主義」とでもいうか、ぐたぐたの状況だけをどこまでも提示しつづける作品なのではないのか。とにかくは眠ってしまったので「もういちど観ようか」という気分もないわけではないのだけれども、「もうツーマッチ」という感想もある。一年ぐらいしてどこかでやっていれば、また観てもいいかと。


 

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■ 2015-04-07(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今日は朝のしごとのあと東京に出て、何か映画を観るつもりだったけれども、どうも胃の具合が思わしくなく、出かけるのはやめることにした。おそらくはこのところ自宅で飲みつづけている安い焼酎(宝焼酎ではない)のせいではないかと思うのだけれども、本当は家でじっとしているよりも外に出て動いていた方が胃の具合を気にせずにはすごせる。しごとをしていてもあまり気にならないのだけれども、帰宅して部屋ですわりこんでしまうと、とたんに調子が悪いのを自覚することになる。あまり具合が悪いので、このまま胃ガンとか何かになってしまうのではないかとか思ってしまう。たまりかねてドラッグストアに行き、(いちばん安い)胃薬を買って服用してみた。うん、ちょっと楽になったようである。

 そうやって身体の具合が思わしくないと、つまりは何もやる気がなくなってしまい、ゴロゴロと一日をすごしてしまうことになる。午後からはまた昼寝モードなのだけれども、寝るときにニェネントをふとんに引きずり込み、わたしのそばに寝かしつけるようにした。
 しばらく眠り込んで目が覚めると、ニェネントはわたしが引きずり込んだ時と同じにわたしの目の前で、ふとんの中で眠っていた。これがけっこううれしくって、こういうのがネコといっしょに暮らすよろこびなのかな、などと思ったりもした。

 起き出して、朝に録画しておいたはずの「あまちゃん」を見ようとしたら、なぜだか録画されていなかった。予約し忘れていたのだろうか? けっきょく今日はHDDの中身の整理は出来なかった。

 夜はふとんの中で「純粋理性批判」を読み進める。本来だったら机に向かって、ノートなりメモをとりながら読み進めるのがいいのだろうけれども、読んでいる「緒言」の部分はあまりもんだいもなくスラスラと読めた。途中で眠ったりしながら、夜中にはついに本文(「先験的原理論」)に突入したのだけれども、急にいろいろな用語が飛び出して来て、「ついに来たか!」という感覚でもある。それでも読んでいてわからないというわけではなく、ただ、次に読み継ぐときにキチンと記憶出来ているかどうかということがポイントだと思う。そういう意味では、たしかにノートをとりながら読み進めた方がいいのだろう。

 明日と明後日は連休なので、ここはかならず映画を観に出かけたいと思う。



 

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■ 2015-04-06(Mon)

 今日はしごとも休みだが、一日家で過ごすことにしている。午前中は晴れて暖かい陽気だったけれども、午後からは曇って来た。ちょっと買い物に出ただけで、ずっと部屋にこもって過ごした。ニェネントは寝てばかりいるけれども、無理に起こしていっしょに遊んだ、もしくはわたしがニェネントで遊んだりした。

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 おととしの朝ドラマ「あまちゃん」がBSで再放送が始まり、ついつい見てしまった。やっぱりなつかしくも面白く、これからは録画してでもずっと見続けようかと思う。その「あまちゃん」に反してげんざい放映中の「まれ」は、元気のよかった子役が出なくなってトーン・ダウンの感。ちょっとがっくり。

 遅々として進行しない「純粋理性批判」だけれども、ようやっと「序」の部分は読み終えた。つまりあれだな、これから「純粋概念」としての「形而上学」を説くぞ、覚悟してかかれ、ということでいいか。

 満杯になっているHDDに空きをつくるため、今日は二本の映画を観た。おかげで昼寝もせずに過ごせたので、やはり明日は何か映画を観に行きたい。


 

[]「インドへの道」(1984) E・M・フォースター:原作 デヴィッド・リーン:脚本・監督・編集 「インドへの道」(1984)   E・M・フォースター:原作 デヴィッド・リーン:脚本・監督・編集を含むブックマーク

 

 デヴィッド・リーン監督の遺作。もちろんあまり記憶に残ってはいないのだけれども、以前観たときにはそれなりに気に入っていた記憶はある。

 文化的背景の異なる異邦を訪れた若い女性が、その異邦での異なる文化にふれて自己を見直すことにもなり、訪れた洞窟の暗闇の中で混乱する。ここに当時のインドの反英感情が乗っかって来てしまい、法廷沙汰になってしまう。

 まず、その主人公の「内面」というものがあり、その混乱をどう描くかというのがポイントになると思うのだけれども、デヴィッド・リーン監督は、あくまでも客観的に描く道を選んでいる。たしかにその選択は理解出来るし、クライマックスの洞窟での彼女の体験を「主観描写」にしてしまうと、たいていは安っぽい演出に堕してしまいそうには思う。力のある監督ならそれなりの演出も見出せるだろうし、デヴィッド・リーン監督にそういう力がないとは思わないのだけれども。しかし、けっきょくこの場面を客観描写にしてヒロインの内面を観客の想像にゆだねることで、映画作品としては平板になってしまったような感想を持たないわけではない。

 「混乱」。このことをどう描くか。どうも観終わっても、いったいこの作品でデヴィッド・リーン監督が何を描きたかったのか、いまいちわからない。映画自体がインド文化と西欧文化との狭間で混乱している、そのことをそのまま描いているようにも思えてしまう。勝手なことを書けばこれはちょっと映画化にはむずかしい原作か。同じようなことを書くが、監督がこの作品の映画化に挑んだ意図がよくわからない。

 主人公の、インド人にいわせれば「美人でもなく胸もない」、という女性をジュディ・デイヴィスが演じている。彼女の存在感がこの作品を成り立たせているところもある好演だけれども、共演するペギー・アシュクロフトがあまりにすばらしい演技をみせるので、ちょっと割りを食ってしまっているか。


 

[]「シックス・センス」(1999) M・ナイト・シャマラン:脚本・監督 「シックス・センス」(1999)   M・ナイト・シャマラン:脚本・監督を含むブックマーク

 これも記憶から消えてしまっている作品。アッとおどろくどんでん返しがあるということだったけれども、主人公の児童心理学者(ブルース・ウィリス)が向き合う少年(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の抱えている問題がいったい何なのか、ずっと引きずって明かされないままに進み、ようやっと映画も半ばがすぎてから「ボクには死者が見える」と明かしたしゅんかん、何が「どんでん返し」で用意されているのかわかってしまった。その「前置き部分」が長いか。この映画の本来の面白さは、その「告白」以降にどっと押し寄せる。

 不自然な照明ワークとかあんまり上手ではない長回しのワンシーンワンカットとか、この監督がヒッチコック路線を目指していることはよくわかる。それでも決定的にこの作品を救うのは、ラストでの車中での母子の対話で、ここでの母親役、トニ・コレットの演技がとにかくすばらしい。そう、わたしはこのトニ・コレットという女優さんがひいきで、この作品でもこのラストの演技に惚れ込んでいたことを思い出してしまった。
 車の中で泣き崩れるというのでは、この映画のトニ・コレット、そして「ゲロッパ!」で千疋屋のメロンで号泣してしまうタクシー運転手の寺島しのぶを思い出してしまうわたし(笑)。しかし、「ゲロッパ!」のことはほとんど憶えていないので、もう一度観てみたいわたしである。



 

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■ 2015-04-05(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 夢でわたしは映画の撮影に立ち会っているか、その現場を見学しているらしい。撮影されている現場の中でビートルズの曲がレコードか何かで流されるのだけれども、その曲はオフィシャルにはリリースされていない曲だった。わたしはスタッフか出演者かにその曲について「珍しいものですね」とか何とか聞いている。夢としてはそのくらいの記憶しかない。

 今日は小雨だけれどもしとしとと雨の降る天気。せっかくこの町では「さくらまつり」も開催されるようなのだけれども、残念なことだろう。桜の花はおそらくはこの日が満開。

 明日はしごとも非番で休みなので、映画でも観に行きたいところだったけれども、あさって出勤すればそのあと二日間の連休になっているので、あさって以降に出かけることにしようと思う。観たい映画はそれなりにあって、まずはアレクセイ・ゲルマン監督の遺作という「神々のたそがれ」を観たいけれども、これは三時間の大作で、しかもどっと疲れの出そうな作品でもある。あさってかその次の日あたりに余裕を持って観に行こうかと思う。あと、近郊のターミナル駅の映画館で「6才のボクが、大人になるまで」をやっているのも観に行きたい。ついでに近所で買い物もしたいところ。どこかの名画座ではベルイマンの二本立て上映もやっている。「野いちご」と「処女の泉」、だっただろうか。ブレッソンの「やさしい女」の再公開も、「恐怖分子」の再公開もはじまってる。しかし、自宅のHDDも「はやく中身を消化してくれ」と待っている。

 例によって今日も昼寝をたっぷりして、どうもこのごろ「生きている」実感に乏しいというか。「純粋理性批判」もなかなか「序」から先へ進まない。ということで、あんまり書くこともない。



 

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■ 2015-04-04(Sat)

 朝起きたら下痢っぽかった。ついつい、昨日の不快だった店に何か盛られたのでは?などと考えてしまったりする。こんな下痢はしばらくやったことはないし。とにかく、今日はしごとは休みの申請をしておいてよかった。

 FMでピータ・バラカン氏の「ウィークエンド・サンシャイン」を聴くと、この7日はビリー・ホリデイの生誕百年にあたる日らしく、そんなビリー・ホリデイの特集企画だった。朝っぱらからビリー・ホリデイというのも「何だかなあ」という感じもあるのだけれども、久しぶりに聴く彼女の歌声はやっぱり極上に素晴らしいもので、ついつい聴き惚れてしまうのだった。やっぱりわたしはビリーの曲で「この一曲」を選ぶならば「The Man I Love」だなあ。かつて付き合っていた女性が、「この曲で唄われる<男>なんて、永久に彼女の前にはあらわれっこないような唄い方」といっていたのを思い出すけれども、その通りだと思う。ビリーの人生を象徴しているようなところもある歌唱。この朝もこの曲はかかったけれども、どっぷり、である。

 「ウィークエンド・サンシャイン」のあとは、昨日観ながら寝てしまった「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」をちゃんと観て、図書館へ返却に行く。外は花曇りで、夜には雨になるかもという。この夜は「皆既月蝕」で、桜の花と赤い月とを楽しめる夜になってもよかったのだけれども、残念なことである。

 とにかくは「純粋理性批判」を読み始めたので浮気するのはよして、図書館では何も借りないで帰宅する。読んでいてわからないわけではないのだけれども、どうしても本を拡げると眠くなってしまい、今日も午後からは長い昼寝。このことは昨日想定していたことでもあるから、あきらめて昼寝をたっぷりと。

 夜はまたまた「お好み焼き」で食事をすませ、YouTube での皆既月蝕の生中継をたっぷりみてしまう。ついついコメントを連続して書き込んだりもして、見知らぬ人物らとチャット状態にもなる。<何やってるんだろうね>という感覚で月蝕も終わり、十時になってようやく床についた。


 

[]「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」(1993) ティム・バートン:原作・製作 ヘンリー・セリック:監督 「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」(1993)   ティム・バートン:原作・製作 ヘンリー・セリック:監督を含むブックマーク

 

 VHSは持っているし、そのVHSの特典でついていた登場キャラクターのフィギュアも持っているのだけれども、DVDの方が画質がいいのかな?と、借りて来たもの。とにかくはストーリーも何も忘れてしまっているわけではある。

 おそらくは登場キャラの造形もティム・バートンによるものだろうけれども、この作品がそういう方面での彼の最高傑作だということも出来ると思う。ホラー的なキャラクターをみごとに昇華して、それぞれに親しみを持たせることに成功している。「ハロウィーン」というホリブルなポイントが、「クリスマス」という夢を浸食するというテーマがとにかくは面白い。結果として、クリスマスの夢は「ナイトメアー」へと変換されそうになる。たしかに双方とも子ども世界の「お楽しみ」年中行事であり、その「お楽しみ」の持つ意味合いを越境させる。「夢」から「悪夢」へ。



 

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■ 2015-04-03(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 今晩は高田馬場へ行き、AさんBさん、そしてCさんとわたしとの四人で飲むことになっている。わたしが先日Facebook 上に笠井叡氏の公演について批判的なことを書いたところ、読んだAさんが同調して下さり、いっしょに飲みましょうということになったもの。この四人のメンバー、去年の秋に森下でBさんとCさんとが対談されたのをわたしが聴きに行ったとき、対談後にそのあたりに飲みに行ったのと同じメンバー。ちなみに、AさんはBさんのマネージャーであられる。Bさんは舞踏家、Cさんは音楽家/批評家であらせられる。楽しみな飲み会ではある。

 集合は六時なので、その前に新宿あたりで映画でも観ようかとも思ったのだけれども、時間的にちょうどいい上演時間の作品もなく、飲み会だけに行けばいいと、それまでは自宅でのんびりすることにした。三時に出発すればいいので、午後からは図書館から借りたDVD、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」を観れば時間的にちょうどいいと観始めたのだけれども、途中でまぶたが重くなり、うとうととしながら観ている。
 ハッと気がつくとやはり眠ってしまっていて、ちょうどモニターにはエンドクレジットが流れているところだった。あわてて起き出して、出発の準備をする。「これでは行きの電車の中では爆睡だな」と思いながら出発したけれども、先に眠っていたせいか、車中ではぱっちり眼がさえていた。

 いちど新宿まで出て高田馬場へ引き返し、改札口で待っていて下さったAさんと無事に遭遇。どうやらAさんの予約して下さっていた店へ案内される。しばらくしてCさんが来られ、ほどなくBさんも来られて全員集合。
 店は「居酒屋」と呼ぶよりは日本料理屋という感じでもあり、いかにも高くつきそうでもある。わたしの選択肢ではぜったいに入ってこない店だけれども、どうもAさんの方でごちそうして下さるようでもあり、ありがたくいただくことにする。Aさんはしごとがら、こういう店の知識もあれこれとお持ちなのだろう。日本酒のメニューの豊富な店でもあり、聞いたことのない銘柄の名前がずらりと並んでもいる。

 四人での会話は楽しいものだったけれども、いろいろな部分でついて行くにはわたしの記憶が抜け落ちてしまっている部分もあり、ちょっと無念な感覚も味わってしまった。次々とオーダーされてテーブルに出されてくる料理類はさすがにおいしくもあるのだけれども、店員のお兄さんの異様な無愛想さが気にはなるところではあった。
 どうやら九時までの予約だったようで、「次の客が待っているから」と店を出されるのだけれども、勘定をすませたあと、AさんとBさんとは店の人間に「ここは日本酒の店なので、(日本酒を注文しないあなた方は)もう来ないで下さい!」などといわれてしまったらしい。‥‥なんということ! Bさんは日本酒は苦手ではあるけれども、わたしとCさんとはそれなりに日本酒を頼んでいるし、あれだけ料理類を注文していてそんなことをいわれるのか。店員の異様な無愛想さの理由もわかったけれども、つまりは「料理などはどうでもいい」店なのか。まあわたしもちょっとだけ、AさんとBさんが日本酒を注文しないのが不快なのかな、とは思ったけれども、そのことを客にぶっつけるわけだ。「居酒屋」ノリで飲んではいけない店だったようだ。やっぱり「高級店」は苦手だな。

 もう一軒行こうか、という話でもあったのだけれども、これでBさんがキレてしまい、そのまま散会ということになった。わたしも、流れで「この夜は東京に泊まらなければいけないか」と思っていたので、帰れることになったのは正直いって「助かった」というところでもあったかな。まあ、Cさんが「次の店にも」と誘ってくれたのはうれしかったけれども。

 ローカル線には終電になる時間だったけれども、その終電には余裕を持って帰路に着くことが出来た。ニェネントの出迎えを受け、すぐにふとんにもぐり込んで寝た。

 


 

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■ 2015-04-02(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 新年度になって、わたしの職場でも、トップの部長が交替した。前の部長は温和な人のいい方で、しごとの上でもこちらのやりたいようにやらせてくれていたのだけれども、新しい部長は赴任されて来る前から「小うるさい、細かい人物」といううわさが伝わって来ていた。きのうからその新しい部長は来ていたのだけれども、わたしはきのうは休みだったのでどんな様子だったのか知らない。

 今日しごとをしていると、その新しい部長らしき人物がわたしのそばに来て、まずは「あなたはなぜユニフォームを着用していないのか」と聞いてきた。わたしはユニフォームなど支給されてはいない。「支給されてませんから」と答えると、次に「私物のバッグを身につけてしごとされてるけれど、そういうことは本来禁止されているのはご存知ですか」と来た。「わたしは医師に水分をしっかり補給するようにいわれていて、このバッグの中身はペットボトルです」と答える。それでも執拗に、「別のところに置いてしごとをするとか出来ないのか」みたいにいつまでもネチネチ聞いてくる。

 わたしはもう、世の中でこういうタイプのヤツが大っきらいなわけなのが、ついにわたしのしごと場にあらわれ、わたしの上司になってしまったわけだ。最悪である。いつまでもネチネチとうるさいので、「いいですよ、そうやってあなたがどこまでもダメといわれるのなら、しごとを辞めてもいいですから」などと答えてしまう。彼はそのあともなんだかグチグチいっていたけれども、「あなたの名前は?」という質問を最後に行ってしまった。ブラックリストに登録かな。

 しごとのことなどココに書きたくはないし、今までもそういうことを書いた記憶はないけれども、この新しい部長の存在はわたしの日常をもかき乱しそうだ。おそらくは部長はこれからもあれこれとグチグチいってくることだろうから、気の短いわたしはきっとどこかでキレてしまうだろう。

 せっかく居心地のいい職場で、おかげで楽してこうやって生活出来ていることに感謝するのだけれども、最悪、彼とぶっつかって「もう辞めてやる!」と飛び出してしまうのがわたしの性格でもあるだろう。しかも、わたしにはそういう人物を挑発してみたいという悪いクセもあるので、始末が悪い。この生活は守りたいのだけれども、「規律」を押し付ける人物にしたがうつもりは毛頭ない。どうなってしまうだろう。

 つまらないことを書いてしまったけれども、わたしはわたしのペースを守らなくては。
 カントの「純粋理性批判」を開いて、ちょっと読み始めてみた。まだ序文のところだから怖くはない(笑)。



 

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■ 2015-04-01(Wed)

 四月になった。つい先日までストーブなしでは部屋で過ごせなかったのが、今では快適な室温になっているし、ちょっと厚着をして買い物に出たりすると「もうちょっと薄着で良かったのに」などと思ってしまう。このあたり一帯の桜もずいぶんと花を咲かせ、もう六、七分の開花というところだろうか。

 今日はしごとも休みで、市民病院への診察の日。今日は今までよりもひと電車早く出て、八時から受付が始まるのよりもちょっと早く病院に着いた。もうおおぜいの人が受付の開始を待って、椅子に順番に座っている。わたしは脳神経外科では六番目ということだったけれども、九時にじっさいに診察が始まってみると、もっと早い順番だったようだ。八時から九時に診察の始まるまでのあいだは、持って来た磯崎憲一郎の「電車道」を読み進め、あともうちょっと。九時ちょっと過ぎにわたしの番がまわってきて、いつものようにあっという間に診察は終わってしまう。だいたいはかんたんな問診と、服用しているテグレトールという薬の副作用が出ていないかどうかという検査。いつものように結果オーライである。

 帰りはこのまま東京に行って映画でも観ようかとか考えたりもしたけれども、今日は月の最初の日で「映画の日」で、割引料金になるので混み合いそうな気がして、まっすぐ帰宅することにした。

 これは帰りに駅のそばでみつけた、名を知らない植物。これは木の実なのか、それともこの状態が「花」なのか、花が散ったあとなのか。不思議なかたちだと思った。

       f:id:crosstalk:20150401093901j:image:w260

 帰宅してからはスパゲッティーで昼食にし、本を読みながらまた昼寝モードになってしまった。夕方に起き出して、夕食は買ってあった餃子でかんたんにすませる。「電車道」があともう少しだったので、がんばって読了し、早めに床についてしまった。



 

[]「電車道」磯崎憲一郎:著 「電車道」磯崎憲一郎:著を含むブックマーク

 磯崎憲一郎氏の作品は好きだったはずで、この自宅にも二冊ぐらい彼の小説がある。しかし、例によってそれがいったいどのような小説で、どのようにわたしがそれを気に入っていたのか、まるでわからなかった。しかし、この日記で彼の名を検索してみると、わたしはどうやら彼の全著作を読んでいるのではないだろうか? 彼の作品の特徴としても、「前ぶれもなくとうとつにコロコロと視点が変化する」などということが書いてあり、たしかにそのことはこの「電車道」にもいえることなのかもしれない。

 明治後期から昭和まで、この小説は東京近郊で私鉄を開業させた男と、その沿線で私立学校を開校させた男とのふたつの話が軸になって展開する。そして昭和から現代へは私鉄開業者の娘である女優の話へと移行する。

 読んでいると、ここで描かれた「私鉄」とは小田急線のことではないかと思い、舞台になる土地も多摩丘陵のどこかではないかと思うのだけれども、どうも読んでいるとモデルになっているのは「成城学園前」ではないのかとも思うようになる。しかしそうするといろんなことがつじつまが合わなくなるようでもあり、特に誰がモデルであるとか、どこがモデルの地だとか、そういうものでもなさそうな気にもなる。それでも終盤の主役の女優が出演する特撮映画「巨大蛭」のモデルはやっぱり「マタンゴ」としか考えられないし、何というのか、そういう「現実」の世界との浸食関係をこそ楽しむ、という読み方もあるように思った。

 現代からさかのぼること百年の、この東京近郊の発展史はもちろん、現実の東京都市圏の拡張されて行くさまに対応しているのだけれども、だからこの小説が都会の近代を描いた歴史小説かというとそういうものでもないだろう。しかし、登場人物の内面に踏み込むことのない描写、絡み合うようで絡み合わない主要登場人物ふたりの物語をどう読めばいいのか、なっかなかにむっつかしいところがある。

 短い挿話に面白さを感じる部分はあるとはいえ、トータルにこの小説を楽しめたかどうかと問われれば、「そこまでには楽しんでいない」と答えるしかないだろうか。記憶から失せてしまった彼のほかの作品を読んでみないと、判断を下せないところもある。



 

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