ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-06-30(Tue)

 先週、ターミナル駅のシネコンで上映している「マッドマックス」を観に行きたいと思っていたけど行かないで、それで変な昼寝をしたせいで風邪をひいたわけだけれども、もう風邪もだいぶ良くなったし、ネットで読めるこの映画の評判もすごくいいみたいなので、明日にでもあらためて観に行こうかと思っている。同じ映画館でデンマーク製の西部劇「悪党に粛清を」というのをやっていて、これも面白そうなのでこちらも観てみたい。明日両方の映画を観てみようか。

 今朝(昨深夜)にも夢をみていたのだが、もうほとんど記憶していない。

 今日はしごとは非番の休みだった。この頃、風邪のせいもあって、非番の日や休んだ日には朝から晩まで一歩も部屋から外に出ないことがよくあるけれども、今日もまるで外に出ないで一日が終わってしまった。

 

 

[]「ミルク」(2008) ガス・ヴァン・サント:監督 「ミルク」(2008)   ガス・ヴァン・サント:監督を含むブックマーク

 ニューヨークでひっそりゲイであることを隠して生きていた男がサンフランシスコに移り住み、ゲイであることを公表してゲイの権利を要求する市民運動をはじめ、サンフランシスコの市会議員にまでなった男、その暗殺されるまでの最後の八年間を、ヌーヴェルヴァーグを思わせる演出で描いた作品。

 とにかくは市民運動の市街での熱狂的な盛り上がりの演出が印象的で、これはじっさいに市街で当時の運動のさまを再現したのだろうか、日本でもげんざい安保法案に反対する市民運動が盛り上がっている時期でもあり、観ていても熱くなる。先日にはついに全米で同性婚が合法化されたけれども、その礎をつくったのがこのハーヴィー・ミルクだっただろう。

 この作品を観る限り、彼が市庁舎内で暗殺された理由は、彼がゲイの活動家だったからというわけではないようだ。そのことがまた悲しい。



 

[]二〇一五年六月のおさらい 二〇一五年六月のおさらいを含むブックマーク

美術:
●「岡上淑子『はるかな旅』作品集出版記念展」@恵比寿・LIBRAIRIE6 / シス書店

映画:
●「乾いた花」(1964) 篠田正浩:監督

読書:
●「見知らぬ乗客」パトリシア・ハイスミス:著 青田勝:訳
●「動物園というメディア」渡辺守雄ほか:著

DVD/ヴィデオ:
●「嘆きの天使」(1930) ジョセフ・フォン・スタンバーグ:監督
●「カサブランカ」(1942) マイケル・カーティス:監督
●「見知らぬ乗客」(1951) パトリシア・ハイスミス:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「捜索者」(1956) ジョン・フォード:監督
●「アパートの鍵貸します」(1960) ビリー・ワイルダー:監督
●「フェリーニのローマ」(1972) フェデリコ・フェリーニ:監督
●「ジャガーノート」(1974) リチャード・レスター:監督
●「まわり道」(1975) ロビー・ミュラー:撮影 ヴィム・ヴェンダーズ:監督
●「燃える昆虫軍団」(1975) ウィリアム・キャッスル:製作・脚本 ヤノット・シュワルツ:監督
●「バグダッド・カフェ」(1987) パーシー・アドロン:監督
●「エレファント」(2003) ガス・ヴァン・サント:監督
●「世界で一番パパが好き!」(2004) ヴィルモス・ジグモンド:撮影 ケヴィン・スミス:脚本・監督
●「ブラック・スネーク・モーン」(2006) クレイグ・ブリュワー:監督
●「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」(2007) ティム・バートン:監督
●「パレルモ・シューティング」(2008) ヴィム・ヴェンダース:監督
●「ミルク」(2008) ガス・ヴァン・サント:監督
●「9 〜9番目の奇妙な人形〜」(2009) ティム・バートン:製作 シェーン・アッカー:監督
●「シネマ・ゴダール」(2009) シェーン・オサリバン:監督
●「ルート・アイリッシュ」(2010) ケン・ローチ:監督
●「GODZILLA ゴジラ」(2014) ギャレス・エドワーズ:監督
●「河内山宗春」(1936) 山中貞雄:監督
●「白痴」(1951) フョードル・ドストエフスキー:原作 黒澤明:監督
●「歌行燈」(1960) 泉鏡花:原作 衣笠貞之助:監督
●「天国と地獄」(1963) 黒澤明:監督
●「大殺陣 雄呂血」(1966) 田中徳三:監督
●「エロス+虐殺(ロング・バージョン)」(1970) 吉田喜重:監督
●「ゴジラvsビオランテ」(1989) 川北紘一:特撮監督 大森一樹:監督
●「レイクサイド マーダーケース」(2005) 東野圭吾:原作 青山真治:監督


 

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■ 2015-06-29(Mon)

 夜中に夢をみて目覚め、夢の内容を思い出せる限りメモしてまた寝たのだけれども、朝起きてそのメモを読んでも思い出せるところは少ないし、意味が分からない所だらけである。いちおう、そのメモを補足しながら写しておく。

 わたしたちの街の地勢を探るような旅行。M氏、E氏、そして娘のY。
 旅行を終えて帰路に着くのだが、わたしの住んでいる部屋は地域的に根津とか千駄木に近いようだ(ただし、見える風景はまるでちがう)。Yは自分の家に「近い」というが、Yの住んでいるのは赤坂の方のようである。

 M氏の娘がわたしを待っているが、わたしは無視してFMでビートルズを聴いている。

 わたしはどこかの二階にいるのだが、階下の道路で何か騒ぎが起きる。下を見るとわたしの黒い財布が落ちている。
 財布はわたしの手に戻り、M氏の娘は近くの人が送って行く。十二時を過ぎていた。

 Yに財布の中身をみせる。誰かの声が「あいつは金がないはずなのによくこれだけ貯めたものだ」といっている。財布の中には千円札が三枚あった。

 M氏は何をやっているのか。

 今日は四日ぶりにしごとに出た。買っておいたマスクを着用。しごと量は少なくて助かったけれども、やはり帰宅してからはダラダラとしてしまう。まずは食欲がなく、朝食はまた(食べたくないけれど)無理してジャムを塗ったトーストを食べておしまい。ニェネントへの食事を出してあげるのもおっくうになってしまう。
 午前中に無理して買い物に出かけ、野菜ジュースや牛乳などを買って帰る。

 昼食はスパゲッティで、レトルトパックのパスタソースを半分使う。
 おとといもやしを買ってあるので、夕食に使ってしまわなければとクックパッドで検索し、もやしとハムだけでつくるかんたんな一品をやってみた。これがまったくおいしくない。クックパッドはこんなのばかりだ。

 

 

[]「パレルモ・シューティング」(2008) ヴィム・ヴェンダース:監督 「パレルモ・シューティング」(2008)   ヴィム・ヴェンダース:監督を含むブックマーク

 映像はたしかに美しいのだけれども、この「いい気になっている」としか思えない主人公のカメラマンに感情移入することがむずかしい。観ていてコイツは「欲望」のデヴィッド・ヘミングスだろうが、みたいなことばかり思ってしまう。
 まさに現実の世界に、「虚構」としか思えない世界(人物)が割り込んできてしまうこと、そこでリアリティというものは壊れてしまっていると思うのだけれども、つまりはそれこそが「死」というものの姿、ということだろうか。



 

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■ 2015-06-28(Sun)

 ニェネントが運動会をやっている。和室の机の上にあるニェネントのお立ち台、使っていないパソコンの上に駆け上がり、飛び降りて玄関の方からリヴィングへ走って行く。リヴィングを駆け抜けて和室へ戻って来て、わたしが寝ているベッドの下あたりからまたパソコンの上に駆け上がる。これでわが家の中を一周することになるけれども、これを三回ぐらい繰り返す。おそらくわたしが一日中ベッドに寝ていてわたしの存在が邪魔にならないから、思う存分に暴れ回ってる(?)のだろう。そんなに狭い部屋ではないし、ニェネントにもいい運動になるんだろうけど、ふだんは見せない「野生」の生きざまを見せてくれるみたいだし、ちょっと頼もしく思ってしまう。

 今日もしごとは休みを取っていて、朝はテレビで女子ワールドカップの準々決勝、日本対カナダ戦を見る。0ー0で迎えた後半40分ぐらいに日本が怒濤の攻めを見せ、見ていてすっきりさせられる1点をもぎ取って準決勝に進出した。
 それで風邪もすっきりすればいいのだけれども、多少具合は良くなったとはいえやはり食欲もまるでなく、薬のせいもあってこの日は寝てばかりの一日になった。

 図書館から借りていた「動物園というメディア」をようやく読み終えた。感想を書こうとしたらほとんど内容を憶えていないのに愕然とした。

 


 

[]「動物園というメディア」渡辺守雄ほか:著 「動物園というメディア」渡辺守雄ほか:著を含むブックマーク

第一章:メディアとしての動物園 ーー動物園の政治象徴学 渡辺守雄
第二章:動物の深淵、人間の孤独 西村清和
第三章:愛玩と所有 ーー動物を愛するということの逆説 浅見克彦
第四章:動物園における展示のあり方 正田陽一
第五章:欧米の動物園の源流 池上俊一
第六章:日本の動物園の歴史 日橋一昭
第七章:日本人の動物館を探る 中村禎里
第八章:曖昧な日本の動物園 山本茂行
第九章:地域社会のメディアとしての動物園へ 山本茂行
第十章:都市的情報装置としての動物園 柏木博



 

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■ 2015-06-27(Sat)

 熱こそはないものの具合が良くはならない。とにかくは食欲もなく、特に朝は食べる気がしない。なんとかトーストにジャムを塗ってかんたんな朝食にする。やはりここは病院に行っておこうと、午前中に内科医に行く。三種類の薬を処方してもらった。

 この日は図書館のリサイクルデー(古い雑誌や書籍を領賦する日)でもあり、診察を終えたときがだいたい図書館の開館時間だったので、図書館に寄り道して領賦される本などを見てみる。すでにこの催しを目当ての人がおおぜい来ていて、文庫の棚などは隅まで見ることも出来ない状態。雑誌で「現代思想」を三冊(「Google の思想」「反原発の思想」「東日本大震災」)選び、書籍ではまず金井美恵子の「柔らかい土をふんで、」が大収穫。タブッキの「インド夜想曲」(昔読んでいる?)、川端康成の「乙女の港」、S・J・グールドの「人間の測りまちがい」、柄谷行人と岩井克人の対談「終わりなき世界」と、文庫の「ポップ・ヴォイス」という本などを譲り受けて帰宅。

 歩いたりしているとちょっとフラフラするぐらいで、鼻水とかあまり気にならないのだけれども、帰宅して横になるととたんにドッと鼻水の洪水になる。しかし、処方された薬を服用すると、さすがというか、即に効き目があらわれるような感じも受ける。

 明日は朝に女子ワールドカップの準々決勝戦があるので観たい。ちょうど普段ならしごとに出ている時間なのだが、風邪でもあるので、午後に勤め先に電話して明日も休むことを伝えた。半分ズル休みっぽいけど、服用する薬の副作用でフラついたりするおそれがあるとのことで、車の運転や機械の操作などは控えておいた方がいいらしいので、これは休みにする正当な理由になるだろう。

 何とか午後から映画を一本観たけれども、「そこまで」という感じで、夕食も目玉焼きですませてしまう。今日はほとんどニェネントのことをかまってあげることも出来ず、放ったらかしになってしまった。




 

[]「ルート・アイリッシュ」(2010) ケン・ローチ:監督 「ルート・アイリッシュ」(2010)   ケン・ローチ:監督を含むブックマーク

 中東での民間軍事ビジネスに関わった男たち(民間兵)をめぐるミステリー・サスペンス。主人公は幼なじみの友人を民間兵として中東イラクに誘うのだけれども、友人はバグダッド近郊でテロの襲撃を受けて死亡する。死んだ友人の残した携帯電話を入手した主人公は、友人の死の裏に「陰謀」があるのではと、ひとりで調査をはじめる。

 こんなことで金儲けしている奴らがいるということにもおどろくのだけれども、映画の背後には「人の命の重さとは何か?」という問いかけが、常に通奏低音のように響いている。意味のない死の連鎖に主人公もまた足を踏み込んでしまう悲劇。戦争のない世界を希求する。




 

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■ 2015-06-26(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 熱はないのだけれども、鼻水と咳がひどい。とてもしごとに出るなど出来ないので欠勤し、ほとんど一日中寝てばかり。

 この日記で調べると、風邪をひいたのは去年の一月以来のことのようだ。その去年の一月もこれほどまでに悪質な風邪でもなかったような。明日は横浜にダンス公演を予約してあるのだけれども、今の状態ではとても行けないだろう。勤め先にも、早めに「明日も休む」と連絡を入れておいた。明後日も休むことになるかもしれない。

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■ 2015-06-25(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 今日は昼から「マッドマックス」を観に行ってもいいなと思っていたのだけれども、けっきょく行かないで、昼から寝てしまった。そのときの寝方が良くなかったようで、目覚めてから鼻水が止まらなくなった。熱を測ってもまだ平熱なので、直すなら今のうちと思い、風呂に入り、風呂を出てからたまご酒をつくって飲んだ。

 なるべく寝ることにつとめ、さっさとふとんにもぐり込んで眠るようにした。やっぱり昼寝などしないで映画を観に行けばこんなことにはならなかったと思う。無念である。

 



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■ 2015-06-24(Wed)

 夢をみたのだけれども、忘れてしまった。

 近所の映画館で「マッドマックス」が公開されていることを知り、「観に行ってもいいかな」と思うようになった。あまり書くこともない。

 


 

[]「エロス+虐殺(ロング・バージョン)」(1970) 吉田喜重:監督 「エロス+虐殺(ロング・バージョン)」(1970)   吉田喜重:監督を含むブックマーク

 そう、この一柳慧による主題曲が蠱惑的だったのだな。

 公開当時におそらくは日劇文化で観ているのだけれども、こういう十〜二十歳代に観た映画というのはそれなりに記憶している、というのがこのところわかったことで、この映画に関してもかなり記憶していた。ロング・バージョンになって追加されたシーンもだいたいわかる気がする。

 しっかし、この気取った演出はどうなんだろう。出演する役者が岡田茉莉子以外は皆「文学座」の俳優ということもあるのだけれども、やはり自己主張過多な演劇的な演出。そこに長谷川元吉の撮影による構図に凝った絵がまた自己主張する。想像力による歴史の読み替えなどといっても、そこから何かが生まれるのか、そういう成果があるのか、わたしにはわからない。吉田喜重の作品ならむしろ、このあとの「煉獄エロイカ」のラストの「Dead End」にこそインパクトがあったのではないのか。「煉獄エロイカ」をもういちど観てみたい。



 

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■ 2015-06-23(Tue)

 昨日買った「まぐろの血合い肉」を使って、煮付けをつくってみた。レシピはクックパッドで調べた。なかなかにおいしかったのだけれども、調理するあいだにキッチンに生臭さが拡がり、臭いが消えなくなった。冷蔵庫も開けると臭いし、困ったことになってしまった。

 


 

[]「シネマ・ゴダール」(2009) シェーン・オサリバン:監督 「シネマ・ゴダール」(2009)   シェーン・オサリバン:監督を含むブックマーク

 「勝手にしやがれ」から「気狂いピエロ」までの初期ゴダール作品の革新性を、マイク・リー監督やアンナ・カリーナのインタビューを交えながら伝える。25分。とにかくは、このドキュメント製作時のアンナ・カリーナの姿をみることが出来るのが貴重だろうか。



 

[]「アパートの鍵貸します」(1960) ビリー・ワイルダー:監督 「アパートの鍵貸します」(1960)   ビリー・ワイルダー:監督を含むブックマーク

 オープニングの出演者などのクレジットを見落としていたのだけれども、ジャック・レモンの上司のデスクが映った瞬間に、「フレッド・マクマレイだ!」と思い出せた。こういう断片的な記憶は何の役にも立たないのだけれども、記憶の不可思議さみたいなことを実感する。先日観た「ジャガーノート」でも、こういう感覚は味わったものだった。

 映画は、ライトなコメディとして描いてはいるのだけれども、その内実はドロドロで、登場する男どもはみんなまともな恋愛をしていないわけで、主人公のジャック・レモンにしてもそんな「不潔な」恋愛を手助けして出世しようとすることにおいて同罪というか、「おまえにマトモな恋愛なんか出来るわけがないではないか」と思わされる。観ていてあんまり愉快な作品ではなかった。



 

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■ 2015-06-22(Mon)

 ニェネントのことで忘れていたこと。三、四日前に洗濯をしていたときのことだけれども、洗濯しているときはベランダの窓も開けてわたしはベランダに立つ。たいていニェネントが「何やってるのかな」みたいに、わたしのことを覗きに窓のそばに寄って来る。いつもは外に出て行かないようにそこで窓を締めてしまうのだけれども、その日はニェネントがベランダに出てしまった。わたしも窓を締めたりということをしなかったわけで、それはなんだか「ニェネントがベランダに出てしまっても遠くへは行かない」という気がしていたからで、じっさいにニェネントが窓から出て来てしまっても、わたしはさほどにあわてなかった。ニェネントはたたたっとベランダを駆けて、となりの部屋との境のところまで行ってしまう。「境を越えてとなりの部屋のベランダに行ってしまうとやっかいだな」とは思ったけれども、わたしはニェネントの行動をしばらくは静かに見守っていた。
 ニェネントはベランダの奥でちょっとのあいだじっとしていたけれども、すぐに戻って来て、室内へ入って行った。「やっぱり平気だったな」という感じ。わたしにも、ニェネントのそのときそのときの気もちが多少はわかるようになったのかもしれない。そういうわけで、ニェネントのすごい久しぶりの「外出時間」は、一分にも満たないものだった。

 おととい買ったまぐろはいわゆる「血合い肉」という部分をたくさん含んだブロックで、おそらくは500グラム以上あったけれども200円ぐらい。とにかく触るだけで生臭さが手にうつる感じで、キッチンも臭くなってしまう。今日はニェネントも食べられるように、スライスして調味料を使わずにフライパンで炒めてみた。ニェネントに出してあげたらそれなりに食べてくれた。わたしも食べてみたけれども、けっして不味くはないけれど、味付けしてないので味が薄すぎる。まだ半分以上残っていて冷凍してあるけれども、明日は煮付けか何かにしてみよう。

 


 

[]「GODZILLA ゴジラ」(2014) ギャレス・エドワーズ:監督 「GODZILLA ゴジラ」(2014)   ギャレス・エドワーズ:監督を含むブックマーク

 去年映画館で観た映画だけれども、ストーリーのほとんどを忘れてしまっていたことがちょっとショックだった。まだ、この映画を映画館で観たことは記憶していたのだから、「側頭葉てんかん」のためなどではないだろう。しかし、この記憶力の減退はひどすぎる。

 あらためてこの映画だけれども、ストーリーの展開がいささか乱暴で、そういうところも記憶が消えてしまった原因にはなっていたかもしれない。ゴジラがムートーのオスを倒すのもなんだか「いつの間にか」という感じで、わたしも「あれ?いつの間にかいなくなってる」などとは思ってしまった。

 ムートーの造形はちょっと不自然だけれども、ゴジラはいい顔をしている。続編もつくられるようなので、期待してしまうのは仕方がない。



 

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■ 2015-06-21(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 過去のこの日記を読むと、どうやら昨日か今日がニェネントの誕生日になるらしい。当時毎日のようにウチにやって来ていたニェネントのお母さんのミイだけれども、19日に来たときにわたしの部屋をチェックするようなそぶりをみせて出て行き、20日と21日はやって来なかった。それが22日にウチにやって来てみると、からだもほっそりして、お尻のあたりの毛がごっそり抜け落ちていたわけだ。「ああ、出産したんだな」と思っていたら、翌23日になって、産まれたばかりの仔ネコをくわえたミイがウチにやってきて、ベッドの下のスペースに運び込んだ。ミイは5回外と往復して、5匹の仔ネコを運び込んできた。その中の1匹が、ニェネントだ。
 ニェネントの産まれた日の可能性としては、19日の夜から22日の朝までが考えられるのだけれども、20日か21日のどちらかだろうと思う。こうやって書いていると20日の方がそれらしく思えたりもするけれど、どうなんだろう。20日に仔ネコが産まれて、そのあとミイは食事もしないで仔ネコのめんどうをみつづけ、ようやく落ち着いた22日になってわが家に引っ越して来た、と考えるのがいいような気がする。

 お母さんのミイはもう死んでしまったし(死ぬときにはわたしの部屋にやって来て、わたしの部屋で息を引き取った)、ミイに連れ出されて野良ネコになってしまった4匹のネコたちも、みんなもう生きていることはないだろう。そう思うと、ニェネントのことがよけいに愛おしくもなる。

    f:id:crosstalk:20150621135811j:image:w360

 とにかくはそんなニェネントの5歳のお祝いを今日やった。今まで病気らしい病気もせず、元気に育ってくれました(ちょっとバカネコだけれども)。これからもいっしょに暮らして行きましょう! わたしも健康に気をつけるから、お互い長生きしましょう! というメッセージをこめて、好物のかつおのたたき、この頃になって好物だとわかったチーズ、それから山ほど買った加熱用のまぐろの肉を焼いたのを皿に並べ、誕生祝いしてあげた。
 やはりかつおのたたきをまっ先に全部食べ、まぐろの肉も少し食べた。とにかくはお皿に山盛りに出してあげたから、いちどには食べきれないだろう。しかし、わたしがちょくせつあげるチーズはよく食べるのに、お皿に出してあげるとあまり食べないのはどうしたことだろうかと思う。夜に皿をみるとまぐろもずいぶん食べていたし、チーズもいくらか食べたようだった。まぐろが二切れぐらい、それとチーズがふたかけぐらい残っていた。

 


 

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■ 2015-06-20(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日は午後から、早稲田で行なわれる「海・イルカ・人」という団体主催による「マスコミが報道しなかったイルカ問題の真実」というシンポジウムを聴講しに行く。先月のWAZA によるJAZA への勧告以来、このイルカ問題を含めた動物福祉への興味が増し、先日も図書館から「動物園というメディア」などという本まで借りてきてしまった。今日のシンポジウムも得るところがあるのではないかと楽しみにしている。

 シンポジウムは以下のような内容。

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緊急報告:

「マスコミが報道しなかったイルカ問題の真実!!!」
ーーーー追い込み猟と日本動物園水族館協会の決断ーーーー

日時:2015年6月20日(土)14:00〜17:00 *受付開始13:30

会場:早稲田大学西早稲田キャンパス62号館 1階 大会議室
    (東京都新宿区大久保3-4-1 )

参加費: 無料 (簡単なアンケートにご協力下さい。)

参加方法: 席に限りがあるため、事前予約が必要です。

予約先: この投稿の後にイベント案内を出しますので、そちらからお申し込みください。

主催:「海・イルカ・人」

共催:「エルザ自然保護の会」・「全国動物ネットワーク」・「PEACE」・「ヘルプアニマルズ」・「オルカ工房」・「サークリット」

第1部: 
・イルカ捕獲問題の経緯説明

第2部
・パネルディスカッション:
テーマ(仮題)「水族館のイルカ-----何が問題か?」

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 十一時の電車で出発し、一時ごろに高田馬場に到着。また日高屋で「和風つけ麺」を大盛りで注文するけれども、あまりに大盛り過ぎて、ちょっともてあましてしまった。

 会場の早稲田大学へ時間前に到着し、かなり前の方の席に着席する。会場全体を見渡す余裕もなかったけれども、おそらくは三十人前後の参加ではなかったかと思う。その半数は取材、もしくは関係者だっただろうか。そんなものだろう。

 かんたんに聴いた内容を記録しておくと、まず第1部の「イルカ捕獲問題の経緯説明」では、今回のWAZA によるJAZA への勧告はとつぜんに降って湧いたような話ではなく、JAZA もこのような危機感は持っていたという話があり、さらにWAZA とJAZA とのコミュニケーションがうまくとれていなかったという話も。

 第2部パネルディスカッションではわたしも「水族館のイルカに自閉症児が癒され、心を開くというような事例も聞いたことがある。わたしは水族館でのイルカショーなどに反対する人間だが、このような<イルカセラピー>めいた話にどう反論すればいいのか」と質問した。まずさいしょの回答は「癒すはずのイルカの側の問題は無視された<お手軽セラピー>だし、水族館にいるイルカは本来のイルカではないのだ」という、ある程度予想された回答ではあったけれども、別の回答で、これらのセラピー効果は別にイルカだから効果があるのではなく、犬でもネコでも同じようなセラピー効果があるのだ」という話を聞くことができた。あとのことはだいたいわたしも知っていたことだし、ここで書きはじめても長くなるのでやめておく。ただ、ひんぱんに太地町へ行かれているという「FJ(イニシャルだけにしておく)」の方の話で、太地町でプラカードなどを持っているとシー・シェパードの人間と間違えられ、「シー・シェパードですね!がんばって!」といわれた、という話をされていたのが印象に残った。このことはちゃんと質問すればよかったのだけれども、ほんとうに「がんばって!」といわれたのか、そういった人は太地町の住民だったのかどうか、気になるところである。

 予定の五時を過ぎても延長でシンポジウムが続いたので、わたしは早めに帰りたくもあったので中座させてもらった。そのまままっすぐに自宅駅に戻り、南のスーパーに寄って自分用のお弁当、それとニェネント用に魚を買ったのだけれども、ニェネント用の魚は「加熱用」の、まぐろの大きな「肉塊」といえるような代物で、パックにはどす黒い血がたまっていて、店のケースから取り出しただけで手に生臭い匂いが移ってしまった。海の生き物に関するシンポジウムの帰りにこういうものを買うというのもいかがなものだろう、などと思うのだった。



 

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■ 2015-06-19(Fri)

 朝目覚めても、室伏鴻さんがお亡くなりになられたことが思い出され、気持ちが重い。信じられない気分。わたしがさいしょに読んだEさんの書き込みも「Dear Friends, Mr. Ko Muroshushi Dies at Mexico.」というものだったので、「ひょっとしたらKo Muroshushi という人が別にいらっしゃったのではないのか」などと思ってしまった。Facebook でわたしの「友達」登録している方々に舞踏の方も多いので、Facebook は室伏さんを追悼する書き込みで埋まっている。

 そんな室伏さん追悼の記事から、写真を一枚いただいた。

  f:id:crosstalk:20150621150831p:image

 明日はまた上京する予定で、昨日はニェネントへのおみやげを買って帰るのを忘れたし、ニェネントの五歳の誕生日も近いので、明日は忘れずにニェネントへ何か買って帰ろうと思う。

 録画した映画を二本観て、昨日借りた「動物園というメディア」という本を少しだけ読んだ。



 

[]「カサブランカ」(1942) マイケル・カーティス:監督 「カサブランカ」(1942)   マイケル・カーティス:監督を含むブックマーク

 さすがにこの映画のことはだいたい記憶していると思っていたけれども、終盤にどういう展開になってハンフリー・ボガードは残ることになるのか、よく憶えてはいなかった。
 製作されたのがアメリカが大戦に参戦した1941年末直後とあって、実のところ銃後からのレジスタンス支援という作品になっている。ただ、設定はわかるのだけれども、ラブストーリーとしてはいささか乱暴な気がしないでもない展開。いつも涙目のイングリット・バーグマンは美しいし、決めゼリフを次々に繰り出すボガードもかっこいいけれど。

 「Here's looking at you, kid.」というセリフが「君の瞳に乾杯」になってしまったことが、フランキー・ヴァリの「Can't Take My Eyes Off You」の邦題が「君の瞳に恋してる」とされたことの遠因なのかな、などと思ってしまった。

 そういえば、昨日観た「捜索者」で、ジョン・ウェインが何度も「That'll be the day.」といっていて、それが「馬鹿いうな」というような字幕になっていた。「そうなったらお楽しみだ (が, そんなことは 起こるまい)」というような意味らしい。これもちょっとした名セリフというか、このセリフからバディ・ホリーは「That'll Be The Day」をつくったらしい。



 

[]「天国と地獄」(1963) 黒澤明:監督 「天国と地獄」(1963)   黒澤明:監督を含むブックマーク

 身代金誘拐を題材にした作品で、エド・マクベインの「キングの身代金」を下敷きにして黒澤明らが脚本を書いたらしい。二時間二十分をかけ、細部にこだわったリアルなサスペンスに仕上がっている。犯行の手口などあまりにリアルすぎて、公開直後にじっさいに誘拐事件が多発してしまったらしい。

 まず前半の一時間は権藤(三船敏郎)の家だけを舞台に、犯行の勃発、警察の到着、犯人からの要求という情況が描かれる。ほとんどが権藤家のリヴィングでの展開で、ここで情況を立体的に浮かび上がらせる撮影、演出がすばらしい。観ていてC・イーストウッドの近作「ジャージー・ボーイズ」の印象的なクリストファー・ウォーケン宅での展開を思い出したけれども、イーストウッドがこの「天国と地獄」を参考にしたことは充分に考えられる気がする。犯人から身代金受け渡しを指示されるこの前半の締めはかなりの長廻し。

 後半はまずはその身代金受け渡し。前半の長い閉鎖された室内シーンから解放されるように、急行列車が走って行く。ここでも車内の空間は狭く閉鎖されているのだけれども、前半は「外から見られている」空間だったけれども、ここではその空間から「外を見なければならない」という展開。この転換が観るものを引っぱって行く気がする。

 次は捜査会議で、丁寧に時間をかけて警察の推理と捜査方針とが示される。普通に撮ればいちばん編集して短くしたくなるところだろうけれども、あらゆる方面から捜査にあたる、それが警察の仕事なのだと納得させられる部分もあるだろう。

 捜査が進んで犯人も特定されるのだけれども、ここで担当刑事(仲代達矢)はかんたんに犯人を捕らえることを避ける。「このまま犯人を逮捕しても、せいぜい懲役十五年だ。犯人は極刑に処せられるべきだ」と、つまりは犯人を泳がせるわけだけれども、このことで人が一人殺されるのだから、本来ならば糾弾されてしかるべき方針だろう。ここは徹底して殺される女性の人格を描かず、ほとんど「モノ」として扱うことで、捜査の非人間性から目をそらさせている。

 身代金を支払った権藤氏がそのことで会社での地位を失い、放逐される展開にもなるのだけれども、彼の高潔さは捜査陣をも感銘させ、世論の支持も集める。ここで彼の在籍した会社の人間の非人間性が描写されもする。この映画の製作された1963年、日本が高度成長へと向かう時期の、「とにかく成長すればいい」というテーゼへの批判も含まれた展開ではあり、その成長の影にこの誘拐犯(山崎努)のような存在が産み落とされるのではないかという、当時の日本の「負」の部分をも見つめた社会派ドラマとしても見ごたえのある作品だった。

 ラストは拘置所で三船敏郎と面会する山崎努の絶叫で終わるのだけれども、本来は面会を終えた三船敏郎と待っていた仲代達矢とが拘置所の廊下で別れるシーンで終わる予定だったらしい。YouTube にあるこの作品の予告編で、その使われなかったラストシーンをみることが出来るようだ。




 

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■ 2015-06-18(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 午前中は内科医の診察日。先日の血液検査の結果が気になるのだけれども、酒はこのところずっと、せいぜい一日に一合ぐらいしか飲んでいないので、よっぽど蓄積してなければ大丈夫だろうと思う。というか、それでも蓄積していたら相当にヤバいだろう。
 予想どおりに数値的にまるでもんだいはなかったのだけれども、タンパクが足りていないとはいわれた。たしか前回も同じようなことをいわれた。もっと肉とか魚を食べるとか、納豆食べるとかしなければ。

 内科医の帰りに図書館に寄り、借りていた本を返却した。今回はまるで読めないままの返却。もう借りるのはやめておこうと思ったのだけれども、つい動物の本が読みたくなり、「ネコの行動学」という本と、「動物園というメディア」という本とを借りた。そのあとはスーパーに寄り、玉子と、ものすごく安く売っていたフライパンとを買ってしまった。今あるフライパンは安物で、底がデコボコになってしまっている。買い替えようとは思っていた。

 それで今日は、Cさんと京橋で吞む予定の日である。なぜ京橋かというと、ほんとうは中央線沿線でいいスポットを探そうということだったのだけれども、ちょうどその時期にわたしはDさんと京橋で吞んでいて、そのときの居酒屋がいい感じだったということをCさんに話したところ、「それではその店にしようか」ということになったもの。調べたところ、その店は四時からやっているようなので、「では四時半に京橋駅で待ち合わせしましょう」ということになる。

 それならば、わたしは二時にこちらを出発すれば間に合うことになる。上野東京ラインを使えば、四時にも京橋に行けそうなので、それなら上野で乗り換えるときにタバコ屋に寄って、例の「West」をカートン買いしてもいいなと思う。先日湯島でみつけたタバコ屋は「West」の全種類を置いてあるようだったので、思いのほか味が良かったメンソールを買ってもいいと思う。

 二時の出発なら、昼食も自宅ですませてから出かけられるのでいい。予定通りに出発し、四時ちょっと前に上野駅に到着した。湯島のタバコ屋に寄り道しても充分京橋の待ち合わせ時間には間に合うと思ったので、湯島方面に歩いてみる。ところがそのタバコ屋が見つからず、ちょっとウロウロしているうちに出発しなければ間に合わない時間になってしまった。あきらめて引き返すけれども、タバコは買っておきたくていつものアメ横のガード下のタバコ屋まで行き、「West Red」を一カートン買った。これで京橋に着くのは十分ぐらい遅れることになりそうなので、Cさんにメールを入れる。歩いているとけっこう強い雨が降り始めて、あわてて地下に降りた。

 京橋駅に着くと、もちろんCさんはすでにわたしを待っていて、いっしょに目的の居酒屋へ向かうのだけれども、こんどはその居酒屋への道がわからなくなって迷ってしまった。今日は迷ってばかりいる。ケータイで調べてなんとか居酒屋に到着。もう五時に近くなっていた。

 Cさんと吞むといつもCさんは焼酎のボトルを注文するので、「わたしはそんなに吞めないけどな」などと思ってしまうのだけれども、けっきょくいつも二人で一本空けてしまうのである。二人でちょうど半分ずつぐらい吞んでいると思うけど、このあたりがわたしのリミットだろう。Cさんは強い。まあとにかく、この店はそんなに高くはなくっておつまみもバラエティに富んでいるのでわたし的には満足。いろいろと話もはずんで、ボトルを空け終えた頃にはもう八時に近くなっていた。このあたりでお開きにして、Cさんはメトロで帰り、わたしは東京駅まで歩く。

 十時ごろに帰宅して、ネットをあちこちみていると、twitter でEさんが「Fさんが亡くなられた」と書いておられた。「Fさん」などと今さら書いてもしようがない。舞踏家の室伏鴻さんである。室伏さんとはこの四月にそのEさんらといっしょに、高田馬場で吞んだばかりである。まあ「ばかり」というほど最近のことではないけれども、Facebook 上ではつい最近まで室伏さんの元気なお姿を拝見していた。室伏さんはブラジルでの公演、ワークショップを終え、ベルリンへ移動する途中のトランジットのメキシコ空港で急死されたらしい。ちょっとショックで、寝られなくなってしまった。

 わたしは記憶をなくしているので、近年室伏さんとどのくらいの交友があったのかよくわからないのだけれども、去年の九月に森下スタジオでの室伏さんのトークを聴きに行ったとき、室伏さんはわたしの顔をみて「よお!」とあいさつして下さった。あのときも森下で皆で吞んだのだったけれども、わたしの中での室伏さんの記憶はその去年の九月、そして四月のことしか残っていないのがくやしくて悲しい。とにかくは素敵な方だったとだけ書いておく。追悼。



 

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■ 2015-06-17(Wed)

 このあたりもすでに梅雨入りしているのだけれども、それほどに「雨に見舞われた」ということがない。もう二ヶ月以上、「傘」というものをさした憶えがない。今日は曇天で、今にも雨になりそうな天候だけれども、わたしは部屋にこもっているから関係ない。
 明日は内科医への通院日で、先日の血液検査の結果もわかる。一時期飲みすぎだったアルコールも、このところずっと量をセーブしているのでおそらく問題はないだろう。今自宅で飲む酒は「吉乃川」に限定し、これはさいしょの一口が美味なわけで、それ以上あまり連続して飲もうとは思わない。一日に飲む酒の量は今は一合にもならないんじゃないだろうか。
 内科医へ行くので、図書館に借りていた本も返す日になる。けっきょく吉田健一は五十ページほどしか読めなかった。情けないことである。

 やはりニェネントは発情期に突入したようだ。わたしのそばに座り込んで、にゃあにゃあとないている。空きペットボトルでしっぽの付け根のあたりをペン、ペンと打ってやると、姿勢を低くしてうなっている。いつまでこれをつづけても満足ということもないみたいだけれども、「ペンペン」をやめるとその腰のあたりがむずがゆいのか、もんどりうって背中の面を床にこすりつけ、ごろごろと転がりはじめる。なめる程度ではおさまりがつかないのだろう。
 今日はニェネントのためもあって、チーズと「かつおのたたき」を買って来た。もうすぐニェネントも五歳の誕生日で、そのときはそのときでお祝いをしてあげたい。ニェネントがチーズを好きなのは新しい発見で、これはスライスチーズではダメなのであって、ちゃんとした方形のブロックのかけらをあげると、すぐに平らげてしまう。そしてやはり好物は「かつお」で、先日の「さば」とは食べ方、食のすすみ方がちがう。



 

[]「捜索者」(1956) ジョン・フォード:監督 「捜索者」(1956)   ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 過去の記憶が消えているので、ジョン・フォードの映画というものがどういうものなのか、まるで見当もつかない。この「捜索者」、彼の十八番の「西部劇」でもって、評判もいい作品のようなので、ジョン・フォード入門には最適かもしれない。そう、この原題は「The Searchers」で、60年代イギリスのバンドのサーチャーズはこの映画タイトルからバンド名を決めたという豆知識は残っている。

 南北戦争終結から三年、男(ジョン・ウェイン)が故郷の兄の家に戻ってくるのだけれども、その兄夫婦と長女、長男とはコマンチ族の襲撃で殺される。連れ去られた次女を救出すべく、男は長い捜索の旅に出る。

 この作品の製作された1956年という時代、西部劇ではやはり先住民は「インディアン」と呼ばれ、単純に「悪役」とされていたのだろうか。それにしてもこの主人公の「インディアン」への憎しみの強さは尋常でないものがあり、ここにはたんじゅんに白人=「善」、先住民=「悪」という割り切り方は出来ないものがある。捜索の途中で出会うバッファローの群れに「ヤツらの食糧をなくしてやる」とむやみに発砲するなど、異様ですらある。このあたり、映画では描かれなかった、語られなかった主人公の空白の時間、たとえばいったい南北戦争のあとの三年間はどうしていたのか、などということも語られず、彼の先住民への憎しみの理由も語られないままである。それだけにいっそう、主人公の執念のみが画面から際立ち、今の時代にこの映画を観ればその「アンチ・ヒーロー」ぶりが強烈でもある。映画の冒頭とラストにはこの主人公が親族の家庭にとけこめない「孤独」さも描かれ、この作品に娯楽西部劇を超えた人間ドラマを感じさせられる。

 舞台となったアメリカ西部の「モニュメント・バレー」での撮影も印象に残るし、このイントロのシーン、暗い室内から方形に眺められる外の風景に、やってくる主人公の姿がみとめられるのが、エンディングのシーンでは同じように暗い室内から、去って行く主人公の姿が映される。男の孤独の浮かび上がる演出だと感じた。



 

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■ 2015-06-16(Tue)

 ニェネントが何となく様子がおかしい。わたしにまとわりついてくる気配があり、これはひょっとしたらまた「発情期」なのかもしれない。周期的にも前回の発情期から六、七週間経っているので、やはり発情期がやってきたと考えるのが妥当だろう。

 この木曜日にはCさんと会って吞む予定なので連絡を取り、待ち合わせ場所や時間などを決めた。今回は京橋で吞む。

 このところ、いよいよもって停滞した日々をおくるようになっている。いちおう連日、録画してある映画を観たりはしているのだけれども、本を読んだりということがまるで出来ない。出かけて電車の中とかではいくらか本も読めるのだけれども、自宅ではまるでダメ。この日記を読むと過去には精力的に読んでいた時期もあって、環境のせいにはできない。どのようなこころがまえで読むか、そういうことだろうか。そういうことで、この日記に書くこともあまりない。



 

[]「世界で一番パパが好き!」(2004) ヴィルモス・ジグモンド:撮影 ケヴィン・スミス:脚本・監督 「世界で一番パパが好き!」(2004)   ヴィルモス・ジグモンド:撮影 ケヴィン・スミス:脚本・監督を含むブックマーク

 原題は「Jersey Girl」で、この原題のままだったらC・イーストウッドの「ジャージー・ボーイズ」との二本立て興行も見込めただろうに。だけど、映画を観ると「Jersey Girl」というタイトルがこの作品にマッチしているようには思えない。ラストにはトム・ウェイツの「ジャージー・ガール」(歌っているのはブルース・スプリングスティーン)も流れるのだけれども、これまた映画とは完全にミスマッチに思えてしまう。日本の配給会社が「ジャージー・ガール」というタイトルをとらなかったのはわかる気がするけれども、では「世界で一番パパが好き!」という邦題がいいかというと、これもまた微妙なところはある。

 ニューヨークの音楽業界でやり手の宣伝マンとしてブイブイいわせていたオリー(ベン・アフレック)だけれども、妻が出産の際に急死してしまい、残された娘はニュージャージーの父(娘からみれば祖父)のところに預けてニューヨークで仕事をつづけようとする。しかし仕事をやっている父もヤモメで、いつもいつも娘の面倒をみてあげられるわけではない。仕方なしにオリーはゆりかごに娘を入れてニューヨークに連れて行くのだけれども、そこで取り返しのつかないヘマ(大失言)をやってしまい、職を失ってしまう。それから七年が経ち、父と祖父とで娘ガーティの世話をするニュージャージーでの生活は順調なのだが、オリーはニューヨークの業界へカムバックしたいと思いつづけている。そんなとき、娘の学芸会の日とだいじなニューヨークでの面接の日が重なってしまう。オリーはニュージャージーでのいままでの生活と、ニューヨークでのセレブな生活とどちらを選ぶのか?

 設定がなんだかNHKの朝ドラマみたい(田舎と都会の対比とか「あまちゃん」みたいな)感じもして、エピソードもいろいろあるんで、一本の映画でまとめるよりも連続ドラマにした方がおもしろそうな気もしてしまう。脚本も監督のケヴィン・スミスなんだけれども、どうも演出で「どう? いいお話を書いたでしょ?」みたいな自負を感じてしまう。ケヴィン・スミスの、「ジェイとサイレント・ボブ」のシリーズを観たくなってしまったけれども。

 撮影はなぜかあの名手ヴィルモス・ジグモンド(偶然にも今日が彼の誕生日だった)で、冒頭の教室のシーンの光の捉え方とかすばらしいし、流れるようなカメラの動きにも魅せられてしまう。あと、学芸会のシーンできのう観た「スウィーニー・トッド」の一場面が上演されるのだけれども、歌はこっちの出演者たちの方がずっと「お上手」だった。特にリヴ・タイラーとか。



 

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■ 2015-06-15(Mon)

 昨日の集会に関しての書き込みをいろいろ読んでいて、次のようなコメントをみつけた。わたしがまったく知らない人でもなく、国会包囲の集会の方に参加された方らしいのだが。

全学連の連中は、真面目なのですが、まだまだ認識と学習と馬鹿さが足りません。これは、彼らと話して感じたことです。成長するには時間がかかるのでしょう。戦争法案が成立し徴兵制がしかれたときに、彼らの真価が問われるのでしょう。生意気な事を書いてしまいました。

 ‥‥「生意気」なのではなく、「莫迦」だと思う。「馬鹿」ではなく、「莫迦」の字がふさわしい。まずは「全学連の連中」などと書かれているが、調べると全学連の国会包囲行動は今日六月十五日のことで、どうも昨十四日に彼らが行動していたとは思いにくい。もし仮に彼らがじっさいに十四日に国会包囲行動に参加していて、このコメントを書かれた方がそんな彼らと対話されていたとしても、「戦争法案が成立し徴兵制がしかれたときに、彼らの真価が問われるのでしょう。」と書くのは、とんでもないことではないでしょうか。昨日の集会に参加した方々は「戦争法案が成立しないように」、「徴兵制がしかれないように」行動しているのですから、こんな「仮定」を書くという神経を疑うしかありません。「どうせ施行されちゃうさ」と思いながら行動してるのかな。そして、「まだまだ認識と学習と馬鹿さが足りません」と書く真意もわかりませんね。これは「キミたち若いモンは」と難癖をふっかけるオヤジではないのか。まずは「戦争法案が成立しないように」、「徴兵制がしかれないように」行動することが大事でしょうが。それを「戦争法案が成立し徴兵制がしかれたときに」などと仮定する人間こそが「認識と学習と馬鹿さが足りません」ということになるのではないでしょうか。これは「老害」ですね。こういう人物の仲間にはなりたくありません。

 なんだかな、と思ったことを書いてしまった。



 

[]「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」(2007) ティム・バートン:監督 「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」(2007)   ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 これ、ミュージカルなんですね。しかもこの映画化の前にブロードウェイでヒットした作品らしく、ティム・バートンの作品としてはちょっと異質。本編が始まっても、街の遠景からズーン!と高速でズームして行くカメラとか、この時期のティム・バートンの演出との共通点もあるのだけれども、どことなく筆のタッチを残したような美術は、これまでとどこか違う感じがする。これは美術監督(プロダクション・デザイナー)をあのダンテ・フェレッティがやっているため、のようである。このあたり、そもそもが舞台作品であったオリジナルを、「映画として移植した」という空気を濃厚にさせるためなのかもしれない。「これは舞台とは違うのだ」という意識は、ミュージカルっぽい歌唱力のある俳優を使わないで製作していることにもあらわれているのかもしれない。じっさいに観ると、その歌唱経験のない俳優らの歌に多少の違和感も感じ、歌の魅力を感じ取れるわけでもなかったのだけれども、たしかに舞台版のミュージカルを映像化しただけではないという印象は受けた。ただ、脚本はミュージカルにそってやっているようで、舞台となるロンドンの街から離れることもないわけだった。このあたりも「映画こそ」という改変をやっていても面白かったのではないかと思うのだけれども。

 このあたりの作品がティム・バートンのターニング・ポイントになったのか、この次の作品が「アリス・イン・ワンダーランド」だったりもするわけだ。



 

[]「河内山宗春」(1936) 山中貞雄:監督 「河内山宗春」(1936)   山中貞雄:監督を含むブックマーク

 山中貞雄監督の現存するわずか三本の作品のうちの一本。「河内山宗春」といえば、記憶の抜け落ちているわたしなどでも「とんだところへ北村大膳」の名セリフを記憶してもいるわけだけれども、これは講談「天保六花撰」からの記憶というか、その「天保六花撰」をもとに映画化された篠田正浩監督の「無頼漢」によるものではないか。たしか、その「無頼漢」では河内山宗春を丹波哲郎が演じていたのではないかと思う。

 この山中貞雄監督版の「河内山宗春」はかなりオリジナルなストーリーになっているらしいのだけれども、「とんだところへ北村大膳」というセリフは憶えていても、たしか御数寄屋坊主という設定だったはずの「天保六花撰」/「無頼漢」のストーリーを記憶しているわけでもなく、いったいどこまで「天保六花撰」(さらにいえば、ここから河竹黙阿弥が歌舞伎として脚色した「天衣紛上野初花−河内山−」というものもあるのだが)の設定を活かしているのか、まるで活かしてないのか、わたしにはわからないのである。ただ、この作品には当時まだ新人売り出し中の原節子(十六歳!)が重要な「お浪」役で出演していて、この人物はこの山中貞雄版のオリジナル登場人物らしい。

 山中貞雄監督の作品を記憶しているわけではないけれども、「人情紙風船」はちょっと記憶に残っていて、「人というものはフッと死んでしまったりするものだな」などと思い、それこそ「人の世のはかなさ」を感じたものだった。そういう「はかなさ」というものはこの「河内山宗春」のラストにもあふれていて、河内山宗春と金子市之丞のふたりが、お波を守るために斬られて死んで行くシーンに、あわれさを感じ取ってしまう。またこのラストシーンは江戸の町の下水というか溝を縦において奥行きを持たせた描写で、見ごたえもあるシーンだった。



 

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■ 2015-06-14(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 というわけで、今日は国会議事堂周辺での国会包囲行動というのに参加するつもりで、十一時の電車で出発した。国会へ行くにはメトロを使ったいろんな行き方があるようで、池袋からも新宿からも、上野からも東京駅からもどこからでも行ける。時間の関係で上野まわりの路線を選択し、上野駅で下車したあとはまた日高屋で食事する。今日はトンコツチャーシューメンというやつを食べてみたけれども、まあまあの味。上野に来たのだからガード下のタバコ屋に行って、例の「West」を探してみようと考える。
 日曜のアメ横やガード下周辺は人でごった返していて、歩道に席を張り出させた焼き鳥屋や居酒屋なども、まだ一時だというのにたいていはすでに満員。歩いていてすごいエネルギーというのかバイタリティーというのか、とにかくは熱気を感じる。ここはアジアだ。
 タバコ屋の看板犬のジェシカちゃんはまだ時間も早いのでいなかったけれども、ここで聞いてみるとちゃんと「West」を在庫していて、それではと10mg のを二箱買った。味がOKならば次に1カートン買ってもいい。

 メトロの日比谷線で移動して霞ヶ関で下車。もう時間は二時を少しすぎていて、外に出るとすでに始まっている演説の声が聴こえてくる。その音をたよりに、国会正門の方に歩いてみる。すでにおおぜいの人たちが集まっていて、手に手に「9条壊すな!」とか「戦争させない」などと書かれたプラカードを持っている。集まっている人たちのほとんどが、どうみてもわたしより年配の方々だというのはちょっと残念で、もっと若い人たちが集結すればいいのにとも思う。でも今日は夕方から渋谷でもデモ行進が予定されていて、そっちは若い人たちに呼びかけられているので、渋谷の方は若い人たちであふれるかもしれない。時間的にはこの国会前の集会が終わってから渋谷に移動して参加することは充分に可能だから、ここに集まった人たちでもそう行動する人たちがおおぜいいることだろう。わたしは渋谷の方はちょっと遠慮しておくわ。

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 わたしがこういった集会に顔を出すのはずいぶんと久しぶりのことで、前回もやはりこの国会前で、「脱原発」集会だった。三年前のこと。あのときは集会も大いに盛り上がり、ついには正門前の車道にまで集会参加者があふれ出すのを警備が止めることが出来ず、ちょっとした「解放区」のようになったわけで、あのときわたしも開放感、高揚感を味わった記憶は残っている。今日もそういうことが起こればいいのだけれども、年配の方々が多いから無理かな。警備の連中は例によって「ここは歩道ですから立ち止まらないで下さい」と繰り返している。
 歩いているとふいにわたしの名を呼ばれた。わたしの向かいから、三脚とカメラを持たれたBさんが、その友人と歩いてくるところだった。Bさんはすでに次回の映画作品の準備に入られているので、ひょっとしたらこの集会での映像も新作映画の中に活かされるのかもしれない。ちょっとだけBさんらに同行し、話をして、わたしは演説の聴ける場所に移動した。
 共産党の志位委員長ら、数名のスピーチがあり、その合間に参加者でのシュプレヒコール。わたしはあまり動き回らなかったので全体の参加者の数はわからないけれども、正門前周辺で二、三千人はいただろうか。「脱原発」集会のときとあまり変わらない数だと思う。しばらくスピーチを聴き、集会が終了するとメトロも劇混みになるかもしれないので、ちょっと早めに国会前をあとにした。

 帰りは千代田線を利用して、湯島から上野まで歩くことにした。歩いていると途中にまたタバコ屋があり、寄ってみるとここにも「West」が、しかも全種類ストックしてあるようで、前回買って気に入っているメンソールのものを買ったつもりで三箱買ったのだけれども、よく見るとメンソールではないふつうのものだった。しかしこの湯島のタバコ屋にはおそらくメンソールのものも置いてあるはずなので、次回上京したときにはまちがえずに買ってみようと思う。

 夕食は昨日つくった子持ちカレイの煮付けが残っているので、帰宅してから食べればいいのだけれども、やはりまた「晩酌」をやりたくなり、昼に寄ったのとは別の日高屋でいつもの晩酌セット(ポテトフライは頼まず)。電車で帰路に着き、自宅駅に着いても外はまだほの明るかった。西の空の夕焼けがきれいだった。

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 帰宅して、出来損ないのカレイの煮付けでちゃっちゃっと夕食。いけない。ニェネントへのおみやげを忘れた。
 ネットであれこれ見てみると、やはり渋谷のデモ行進は盛り上がっているみたいだ。ネットでの情報では国会周辺で二万五千人、渋谷のデモに六千人集まったという報道があったようだ。テレビをつけてみていて、NHKは七時や八時のニュースでもこの件は報道せず、ようやく九時のニュースで報道したけれども、国会周辺の集会の参加者数は報道せず、渋谷のデモに関しても、その前に世田谷で開かれたシンポジウムに参加した千三百人がそのまま渋谷のデモになだれこんだという報道で、それでは参加者は千三百人と誤解されるだろう。やはりNHKの報道はおかしなことになっていると思った。



 

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■ 2015-06-13(Sat)

 明日は国会議事堂包囲の集会に出かけるつもりでいるけれども、来週の土曜日には「マスコミが報道しなかったイルカ問題の真実」と題されたシンポジウムが開催されるそうで、このところずっと海洋生物への興味が強くなっているわたしとしても、やはり参加出席したくなってしまった。

 こういう興味は、先にカブトガニに関する本を読んだあたりから始まったのか、それからタコという動物への興味、イルカ問題への関心とつながってきているのか。潜在的にイルカ問題についての意見は持っていたところに、世界動物園水族館協会(WAZA)の勧告もあったわけで、そのことについての周囲の無理解にもおどろいたし、よけいにこの問題への興味はつのっていた。

 この動画は、プエルトリコの深海6000m で名も無き新種の不思議な生き物たちが大量発見されたということを伝えるもの。海の底は美しく、神秘に満ちている。

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 今日の夕食に、子持ちカレイの煮付けをつくってみた。クックパッドでレシピを検索して、その通りにつくったつもりだけれども、ちょっと油断したあいだに煮汁が煮詰まってしまった。食べられないことはない出来ではあるけれども、失敗といえば失敗。たまごのところは結構おいしいけれども。



 

[]「ジャガーノート」(1974) リチャード・レスター:監督 「ジャガーノート」(1974)   リチャード・レスター:監督を含むブックマーク

 もう40年も前の映画なのか。主演の爆弾処理班のリーダーはリチャード・ハリスで、デヴィッド・マッカラムがその相棒というか部下。オマー・シャリフが爆弾の仕掛けられた客船の船長。アンソニー・ホプキンズやイアン・ホルムなど、のちの映画で活躍するようになる人たちも出演している。サスペンス映画でおなじみの「起爆装置から伸びる赤いコードと青いコード、どちらを切ればセーフ?」という、ギャグにまでなるような古典的命題は、実はこの映画でもって最初に設定されたものだという。

 当然SFXなど活用できない時代に、じっさいの客船の映像などをフルに使い、ドキュメントタッチで進行する演出が小気味いい。爆弾を処理しようとする船上の様子と、ロンドン警視庁での犯人捜査とが対比され、複雑な構造の爆弾の解体作業の描写とともにサスペンス感はたっぷり。このあたり、爆弾の構造が時代からしてもアナログで、そういうこともサスペンスを盛り立てる要素になっているだろう。

 わたしはこの映画はずいぶんと昔に観た記憶があり、いろいろな場面で「これ、記憶にある」という感覚だったし、観ていて、「こいつが犯人だ」ということまで憶えていた。近年観た映画の記憶などまるごと全部消えてしまっているけれども、このくらい古いと憶えているわけだ。



 

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■ 2015-06-12(Fri)

 一昨日買ったさばはさすがにもう生で食べるのもヤバそうなので、昼食に網の上で焼いて食べた。ニェネントも焼けば食べるだろうかとあげてみた。さいしょのひとかけは食べたけど、そのあとにあげようとしても、クンクン匂いをかいでそっぽを向いてしまう。やはりニェネントは「さば」はそんなに好きではないと認定だけど、ニェネントもあと十日ほどで五歳になる。ニェネントのいちばん好きなもので祝ってあげたいけれども、やっぱり「かつお」なんだろうな。今調べたら、ネコはチーズもかなり好きらしい。それなら試しにあげてみよう。

 ネットをみていると、明後日の日曜日の昼、国会周辺で戦争法案に反対する集会が行われるとのこと。二時に始まって三時半には終了するようで、それならわたしも楽に参加できる。しばらくそういうデモだとかに参加していないし、このあたりでいちど意思表示をしたいな。現場の様子も見ておきたいし。
 その日は夕方に渋谷でもデモ行進が行なわれるようなのだけれども、そっちはなんだか若者向けみたいなので、オジさんとしては遠慮しておこうかと思う次第である。

 ようやくつくり置きのカレーがなくなって、こんどは買い置きの冷凍子持ちカレイを使ってカレイの煮付けをつくろうという計画があるのだけれども、今日それをやってしまうと、おそらくはいちにちでは食べ切れなくて明日もまた同じおかずになるだろう。そうすると、その集会に参加しようと考える明後日には帰宅してから何かつくらなくっちゃいけない日になるのでめんどう。今日は何か別のおかずにして、明日カレイの煮付けをつくれば明後日の夕食が楽になるではないかという計画にする。それで今日は冷凍のほうれん草とソーセージを使ってオムレツをつくってみた。ちょっと味が薄かっただろうか。



 

[]「大殺陣 雄呂血」(1966) 田中徳三:監督 「大殺陣 雄呂血」(1966)   田中徳三:監督を含むブックマーク

 かつて阪東妻三郎主演のサイレント映画「雄呂血」(1925)があり、1964年には集団時代劇「大殺陣」というのがあったらしい。ただこの二作をつなげただけというタイトルには、どこか投げやりな気分を感じてしまうのだけれども、それだけ大々的な立ち回りをみせ、とにかく斬って斬って斬りまくるのだよという作品。これがラストの十分以上にわたる、一人対二百人の「大殺陣」。この部分はほとんど「振付け」といっていいぐらいにさまざまな殺陣が用意されているが、特に複数の捕方との合戦が、「刀対刀」ではない殺陣として面白く観ることができた。

 ストーリーをかいつまんで書くのはむずかしいのだけれども、身替わりとして、他藩の侍を後ろから斬り殺したという藩の汚名を着て逃亡した主人公(市川雷蔵)が、上司(というのか)の「一年のうちに何とかするから」という言葉で一年後に藩へ戻ると、その上司は急逝しており、その事情を知る藩の者も主人公を「犯人」として追うのである。主人公はふたたび浪人として逃亡の旅に出る。主人公の婚約者(八千草薫)は真相を知っており、主人公のあとを追う。つまりはそれからいろいろな事件があるのだが、ラストには主人公の藩の者、そして他藩の者、それに捕方との三隊に囲まれるのであると。

 主人公は「人など信じられない」とニヒルに傾く心と、「それでも人を信じたい」という心とのあいだで揺れ動き、逃亡中のあれこれの挿話になるのだけれども、尺が短い(九十分弱)わりにそういう挿話が多く、けっきょくそれらの挿話が寸詰まりになっている印象にもなる。冒頭のカット割りが小気味良く展開していた印象なだけに、ちょっと残念な気がした。藤岡琢也も登場するのだけれども、彼の行動の不可解なところも気になった。

 ラストにはすべての追っ手を斬り倒し、婚約者と向き合った主人公のロングショットでエンドマーク。試写を観た配給会社の大映の社長は、「このあとふたりは死にに行くわけだな」といったらしい。そういう観方もおもしろいな、などと思ってしまった。



 

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■ 2015-06-11(Thu)

 昨日眠りについたのはかなり遅くなってしまい、今朝はいつも通りに午前四時には起きてしごとに出ているので、睡眠時間はかなり少なくなってしまった。しごとを終えて帰宅したあと、「きっと昼寝してしまうんだろうな」と思っていたのだけれども、意外とずっと起きたままだった。昼寝というのはどうしても「Wasting Time」という感覚を抱いてしまうので、こうやって「寝てしまうと思っていたのに寝なかった」というのはとてもプラスな、ポジティヴな感覚になってしまう。単純なものである。

 先月買って気に入ってしまった「West」というドイツのタバコが気に入ってしまって、昨日上京したついでにあちこちのタバコ屋に聞いてみたのだけれども、けっこうどこのタバコ屋にも置かれていない。そうなるとよけいに欲しくなってしまうのだけれども、恵比寿に行ったときにあったタバコ屋で、8mg のものなら置かれているのを見つけて2パック買って来た。帰宅してあれこれ調べてみると、都内のいろいろなタバコ専門店のリストがあったのだけれども、その中でも「West」が置いてあると書かれているのは、昨日の恵比寿のタバコ屋だけみたいだ。偶然にせよ、うまいことブチ当たったものだと思う。こんどは1カートンとか「まとめ買い」しに行こうか。

 今日は西と南のスーパーが「10パーセント引き」の日なので、西のスーパーに買い物に出た。ほんとうはニンジンが安ければ買いたかったのだけれども、このところニンジンやジャガイモ、そしてタマネギなどの基本の野菜があまり安くない。ニンジンもやはり50円以上するものだから買うのはやめた。そのかわりというのではないけれども、アボカドが安かったのを二個買った。アボカドはおいしい。

 昨日病院に行ったり上京したりするので口座から現金を引き出したのだけれども、今日になると引き出したばかりなのにずいぶんと目減りしていた。ちょっと浪費しすぎただろうかと思う。

 ところで、やっぱりニェネントは「さば」はそれほど好きではないようで、今日も出してあげたのだけれども一切れしか食べないで、あとは放置。わたしはまだ残っていたカレーをぜんぶ平らげて、ようやくカレーから解放された。「さばの炙り」はまだ残っていて、いいかげん傷んでしまうので、明日には焼いてしまって食べようかと思う。

 せっかく昨日は「オン・ザ・ロード」をちょっと読み進んだのだけれども、今日はまるっきし読めなかった。自宅でどうやったら読書がはかどるか、もっと真剣に考えないといけないと思う。



 

[]「嘆きの天使」(1930) ジョセフ・フォン・スタンバーグ:監督 「嘆きの天使」(1930)   ジョセフ・フォン・スタンバーグ:監督を含むブックマーク

 バックステージもの、というわけでもないだろうけど、舞台裏がドラマのメインとして進行する。鏡のたくさんある楽屋の情景、主人公の運命を見つめるかのような、悲しい表情の道化師の姿が印象に残る(主人公はラストにはその道化師になるのだけれども)。

 主人公のラート教授(エミール・ヤニングス)は生徒らに「バカ」呼ばわりされるクソマジメな人物で、おそらくは恋愛経験もなさそうで、つまりは童貞なのではないだろうか。そんな教授が、生徒らが持っていた絵はがきから人気踊り子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)のことを知り、彼女の出演するキャバレー「嘆きの天使」に入りびたる生徒らをこらしめるため、キャバレーのドアをくぐる。生徒らが楽屋から逃げたため、教授も楽屋へと行くのだけれども、そこで教授はローラに歓待される。そしてつまりは教授こそがローラの魅力のとりこになり、「ほかの下品な客からローラを守るために」教授職を投げ打って、ローラたちの巡業に同行するのである。
 それから五年が経ち、一座はかつてラートが教授をつとめていた町へと戻ってくる。座長はラートに道化をやらせれば彼を知る客が喜ぶと踏み、彼に道化師をやらせようとする。同時にローラはどうやら他の男とねんごろになる気配である。ラートは絶望して舞台から抜け出して、かつて彼が教鞭をとった教室へとふらふらと戻って行くのである。

 ラストは「ああ、教職に就いていたままだったなら、どんなによかったことだろう!」という空気なのだけれども、少なくともラートは「恋」というものを知り、おまけに五年間もまるでヒモのようにローラに食べさせてもらっていたらしい。そしてたしかにラストではローラに振られて絶望したのだろうが、「絶望」というものを知るということも、人間には大事なことではないだろうか。ラートはそのことを「成長」とは捉えないだろうけれども、わたしの考えではラートはずっと「成長」しているはず。
 「恋」の経験もなく、ただ生徒らにバカ呼ばわりされて生きて行くのと、いちどは好きな人といっしょにいる歓びをあじわい、あげくに捨てられて絶望を知るのと、どちらが人間として充実した生だろうか。もちろん「絶望」はつらい、この上もなくつらいことではあるし、絶望のあまり「死」へと至るということもあるだろう(映画の結末は死を暗示しているだろう)。しかしそれでも、わたしはそのような生き方にこそ「豊かさ」があるように思えてならない。「無知」のままに生きるのは、「罪悪」でもある。

 映画とは関係ないかもしれないけれども、わたしはそんなことを思いながらこの映画を観ていた。



 

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■ 2015-06-10(Wed)

 今日は市民病院へ通院の日なので、ついでに上京して映画でも観たいものだと考える。ちょうど阿佐ヶ谷の「ラピュタ阿佐ヶ谷」で、「風のように 映画俳優・池部良」と題された特集上映が行なわれていて、その中で「乾いた花」という作品が、今日の二時五十分から上映されている。「乾いた花」はずいぶんと以前に観た記憶があり、ちょっと感銘を受けていたはずであり、記憶の補完のためにも観ておきたい作品。時間的にも病院のあとに出かけてちょうどいい感じなので、この映画を観ることに決める。あと、映画の終わったあとはまた恵比寿に出かけて、先月観た岡上淑子の展覧会をもういちど観ておきたい気もちもある。おそらく時間的に問題はないだろう。明日もしごとではあるのに帰宅時間はちょっと遅くなるだろうけれども、かまわないだろう。

 九時に近い電車で出発し、病院ではやはり一時間ちょっと待たされる。今日は読書用にケルアックの「オン・ザ・ロード」を持参。ほんとうは吉田健一を読み継ぎたかったけど、本があまりに分厚いので外で拡げて読むのはむずかしい。
 それなりに読み進んだところでようやく順番がまわってきて、いつものようにかんたんな検査でおしまい。そう、実は今朝、昨日観た映画が何だったのかすぐには思い出せなかったりしたので、そういう記憶力の不安を医師に尋ねてみた。医師には「では、昨日の夕食には何を食べましたか?」と聴かれ、それは「カレーライスです」と即答できる。「思い出せるのなら問題ないですね」ということで、「昨日の夕食の献立を思い出せないのは<もの忘れ>、昨日、夕食をとったことを憶えていないのが<認知症>。」なのだということだった。

 病院を出て、ちょうどすぐにやってきた電車で東京へ。電車の中ではまた睡眠につとめ、一時半ぐらいには阿佐ヶ谷に到着した。まずは映画館へ行ってチケットを購入しておき、阿佐ヶ谷にもあった「日高屋」で遅い昼食。今日は「和風つけ麺」にした。この、「エサ」のようなメニューが、今日のわたしの味覚にはぴったりだったのです。
 さすが阿佐ヶ谷らしく、サンダル履きの近所のおじさんらしき人がやって来られ、店員と親しげに会話している。「今は吞まないよ」とかいっていて、しょっちゅういらっしゃっている常連のお客さんなのだろう。

 食事を終えると映画館の開場時間にちょうどよくなって、映画館に直行する。‥‥この「ラピュタ阿佐ヶ谷」は過去にもきっと来ていると思うのだけれども、五十人ぐらいで満員になる小さな映画館だった。それでも思いのほかスクリーンは大きくって、そのスクリーンの感じとか、むかしの日劇文化とかの映画館を思い出したりした。ちょっと記憶がさかのぼりすぎ。

 映画が終わって恵比寿に移動し、ギャラリーに着いたのは五時ぐらい。外はまだまだたっぷりと明るい。岡上淑子さんの作品を観てまわるのだけれども、前回の記憶がやはりかなり抜け落ちていて、記憶にない作品が並んでいた。「しょうがないな」と思いながら、こんどはしっかりと記憶に焼き付けるように観て歩いた。

 ギャラリーを出て、ここでもまた「日高屋」へ。こんどは「晩酌タイム」である。席に着いて生ビールとかを注文し、ポケットからケータイを出してみるとメールの着信があった。先日山海塾をいっしょに観たAさんからで、なんと、今日「シス書店」へ行っていたのだと。あの日山海塾を観たあと、お茶をしながらわたしはAさんに岡上淑子の展覧会のことを話し、案内状もあげていたのだった。まさか本当にギャラリーに足を運んでくれるとも思っていなかったところもあって、しかも今日ニアミスしたことでもあり、とってもうれしくなってしまって返信し、しばらく日高屋の店内でメールのやりとりをした。Aさんはけっきょく岡上淑子の作品集も買ったのだという。そこまで気に入ってもらえると、紹介した方もうれしくなるではないか。

 帰りの電車では「オン・ザ・ロード」を読み進め、今日いちにちで百ページぐらい読めた。
 家の炊いたご飯はぜんぶ食べてしまっていたので、帰宅する前に北のスーパーに寄って半額の弁当を買う。ニェネントにも何か買ってあげようと、「さばの炙り」を買って帰った。ニェネントはやっぱり「かつお」にくらべると「さば」はイマイチなのか、出して上げてもすぐに食べようとはしない。放っておいたらいつの間にか食べてしまっていたけれども。



 

[]「乾いた花」(1964) 篠田正浩:監督 「乾いた花」(1964)   篠田正浩:監督を含むブックマーク

 音楽が武満徹と高橋悠治との共同で、これは「共作」したのか、それぞれの作品を別々に使ったのかよくわからない。音楽の使われているシーンはあまりないので、「共作」なのかもしれない。原作はあらあら、石原慎太郎ではないですか。まあいいですけれども。

 わたしはどうも篠田正浩の作品というのは苦手のようで、この日記をみても、いいのは「心中天網島」とこの「乾いた花」ぐらい、みたいに書いている。おそらくわたしはずいぶん昔に、やはり何かの特集上映か何かでこの「乾いた花」を観ているのだと思う。観ていて思い出したのは、竹脇無我が新人歌手の役でちょっとだけ出てくるのだけれども、前に観たときにその登場シーンで観客が笑っていたこと。つまりその頃に竹脇無我はかなり人気の絶頂期にあったようで、そんな竹脇無我が若い姿でチョイ役で登場することに観客は苦笑していたのだと思う。

 映画は池部良の演じる出所してきたヤクザと、彼が賭場で知り合う謎の女「冴子」、加賀まりことの物語。お互いにその内面に「虚無」を抱え、その「虚無」を共鳴させて行く。これはある意味で「プラトニック・ラブ」のような側面を持っている。しかし加賀まりこの抱え持つ「虚無」はどこか制御の効かないところがあり、次第にその行為をエスカレートさせて行く。おそらくは麻薬にも手を出してしまっている加賀まりこにブレーキをかけるため、または彼女を振り向かせるため、池部良はヤクザの抗争の中で相手組長を刺殺する役を引き受け、その「殺し」の現場を加賀まりこに見せるのである。
 池部良は刑務所に入るが、そこで加賀まりこが死んだことを聴かされ、謎だった加賀まりこの正体もわかったのだと聴く(観客も池部良も彼女の正体を聴くことはない)。刑務所の暗がりの中に池部良の声が響く。「冴子が死んだ今も、オレは冴子に飢(かつ)える」と。

 パーセルの「ディドのラメント」の響く名曲喫茶(おそらくは「王城」)の上の階で、階段をうまく使った印象的な「殺し」の場面が繰り拡げられる。高倉健や菅原文太とはまた違う、池部良による、「虚無」を見せるヤクザ像というのもまた魅力的ではあった。

 そう、ロビーにこの作品の公開当時のポスターが展示してあったのだけれども、そこには「18才未満の方はご覧になれません!(成人向)」と書いてある。セックスシーンもないのになぜ?と思ったら、あまりに「反社会的」な内容だったからなのだそうだ。また、公開前には配給会社(松竹だな)から「難解」とされ、八ヶ月間もお蔵入りしていたらしい。いったいどこが「難解」なのか、わたしには全然わからないけれども。

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[]「岡上淑子『はるかな旅』作品集出版記念展」@恵比寿・LIBRAIRIE6 / シス書店 「岡上淑子『はるかな旅』作品集出版記念展」@恵比寿・LIBRAIRIE6 / シス書店を含むブックマーク

 二回目の鑑賞。前に書いたのと同じようなことを書くけれども、彼女の作品は、主に国内に駐留していたアメリカ兵の残したファッション雑誌が素材に選ばれているらしく、おそらくは作者自身がじっさいに実物を目にしたわけでもないだろうそれらのファッションの写真は、彼女にはその存在だけで「幻視」を誘うものだったのではなかっただろうか。そこに、彼女の作品の夢見るような「超現実性」のルーツもあるように思った。作品集も買いたかったけれども、それはまた別の機会をねらいましょう。

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■ 2015-06-09(Tue)

 そうそう、昨日観た「燃える昆虫軍団」という映画で、じっさいにネコが殺され、その死骸に惨いことされる映像があって、観ている方としては「顔面蒼白」であった。ときどき古い映画では「これって、じっさいに動物殺してるよな」という映像がまぎれ込んでいたりして、「だったらてめえ、登場人物をじっさいに殺してみろよ!」とか思ったりするのだった。
 人間が動物を殺すのは人間もその中に含まれる(というか、人間はその頂点に立つのだけれども)「食物連鎖」というものの中においてだけ、動物を捕らえるのはその種の保存のために人力で繁殖の手助けをするためだけにとどめるべきである。何度も書いているけれども、繁殖させる気もなく、そのような力もなく、例えばイルカを漁師と水族館のあいだで売買するとか、そういうことは即やめるべきである。‥‥ちょっと、映画の話から飛躍したかな。

 今日の昼食はまたトマトとレタスの冷製パスタ。午後からは映画を二本観て、夕食はカレーの残り。カレーはまだ残ってる。

 少しは読書とか集中できるといいのだけれども、相変わらず集中して読むことが出来ないでいる。こういう状態がいいとは思っていないのだが。



 

[]「ブラック・スネーク・モーン」(2006) クレイグ・ブリュワー:監督 「ブラック・スネーク・モーン」(2006)   クレイグ・ブリュワー:監督を含むブックマーク

 いきなりSun House がステージで「ブルーズとは‥‥」みたいに語る映像から始まり、この作品のタイトルもまたブルースの知られた曲のタイトルなところから、そういった「ブルーズの魂」のようなものを基調においた作品なのだろうと想像できる。じっさい、一方の主人公であるラザルス(サミュエル・L・ジャクソン)はかつてブルーズ・ミュージシャンとしてステージに立っていた男で、今は敬虔なキリスト教信者であるという設定。だいたいからして名まえが「ラザルス」なのだから、もうどうしようもない。そしてもう一方の主人公のレイ(クリスティーナ・リッチ)はつまりは性依存症で、恋人が兵役について別離してしまったために、そのタガが外れてしまう。ラザルスはそんな彼女にひょんなことから出会い、なんとか彼女を癒してやろうとする。

 とにかくは「直球勝負」の脚本、演出で、「どうだ!こういう主題だ!」というモード全開。まあ「ブルーズ」の空気というか南部の空気をかもし出すためか、色彩の彩度を強調してギラギラした感覚を出しているのは感じ良かったし、嵐の夜にタイトルの「ブラック・スネーク・モーン」をサミュエル・L・ジャクソンが唄い、クリスティーナ・リッチがそれに耳を傾けるシーン、過剰な演出ではあるけれども、クライマックスとして納得できるものだった。しかしそれでもやっぱり、このラストは安直すぎるのではないのかという疑問は残ってしまう。まあ「直球勝負」なのだから仕方がないか。



 

[]「レイクサイド マーダーケース」(2005) 東野圭吾:原作 青山真治:監督 「レイクサイド マーダーケース」(2005)   東野圭吾:原作 青山真治:監督を含むブックマーク

 主な舞台になるのは湖畔に建てられた白木造りの別荘で、これがまるで演劇の舞台のように見えてしまうのだけれども、じっさいにこのドラマのシチュエーションはかなり演劇的なものだと思った。それを、あれこれのカメラワークで乗り切る演出というか。

 三人の子供たちとひとりの塾講師が、子供たちの両親とともに名門中学入学試験のシュミレーションの合宿を行なっている。そこにひとりの女性があらわれるのだけれども、彼女は殺されてしまう。その犯人は誰なのか、真実を知らないのは親のひとりの役所広司だけで、観客の視点もまた彼の視点になるので、じっさいに何が起きたのかはずっとわからない。役所広司は殺された女性と愛人関係にあり、そのことで嫉妬した妻(薬師丸ひろ子)によって殺害されたのだと説明されるのだけれども、役所広司は「そうではない」と推理する。そうすると犯人は塾講師(豊川悦司)か?となるのだけれども、皆の語る「真相」は二転、三転していき、思いもかけない可能性が残ることになる。

 親のひとり、柄本明のリードによって、「この情況を隠しおおせば将来は安泰なのだ」と隠蔽工作は進行して行く。このあたりの柄本明の「怪演」というものが、実に気味が悪い。ラストは「ひょっとしたら、そうはうまくも行かないかもね」というゲロゲロなショットで終わるのだけれども、このショット、笑うところではないのだろうけれども、観ていたわたしはつい、声をあげて笑ってしまった。



 

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■ 2015-06-08(Mon)

 ニェネントが妙にわたしに甘えてくる。基本的にニェネントがわたしに意思表示するのは、「ごはんちょうだいよー!」というときにわたしの顔をみて「にゃー」となくのと、「いじくりまわすのやめてよね!」というときの「シャーッ!」ぐらいのもの。それがときどき、わたしの足とか手とかをなめてくることがあるんだけれども、今日はそういう「なめ攻撃」全開。きっと甘えてるんだと思うけれども、ご飯をあげたあとだったりすると「ご飯をありがとうね」という意思表示のように思えて、ちょっとうれしくなるわけである。今日はご飯のあと以外にも、わたしがニェネントのそばにいるとなめてきたりして、なんとなく「いつもありがとうね」といわれてるような気になってしまい、ニェネントのことをもっともっとかわいがってあげたくなってしまうのである。 今日はしごとは非番で休みなのだけれども、八時ぐらいまで寝てしまったので、しごとに出たのとあまり変わらない一日になってしまう。午前中は日記を書くことで終わってしまう。
 昼食はお好み焼きにして、テレビをみていると「スタジオパークからこんにちは」とかいう番組にりょうがゲストで出ていたので、ついつい全部みてしまった。番組中で塚本晋也監督からりょうへのメッセージが読まれると、アップで映されていた彼女の顔の、その眼がみるみるうちに潤んでいくのがわかった。美しかった。

 今日は月曜日で、おととい行ってみたドラッグストアに「月曜日は3パーセント値引き」と貼られていたので、「何かないだろうか」と、今日も行ってみた。今日はウチから歩いてかかる時間をちゃんと計ってみたのだけれども、ぴったり十分の距離だった。往復二十分。これで向かいの公園の中とかを散策したりすれば、ちょうどいい「散歩」になりそうである。そう思って、公園の中もちょっと歩いてみた。
 池には噴水が設えられていて、池の中央にはあづま屋があり、池からは外に向けて細い渓流のような流れもつくられている。池の周辺は芝生。ホームセンターの側から公園に入って、池に添って歩いてその渓流を越えるとゆるい高台になっていて、大きな木が何本か植わっている。その先は児童公園になっていて、子供たちが遊んでいた。いい感じである。

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 公園を出たあとに寄ってみたドラッグストアには、それほどに食指の伸びるようなものは置かれていないみたいだったけれども、バナナはどこのスーパーよりもここが安い。缶詰も若干安いだろうか。あと、台所用品や日用品などもホームセンターより安いようだ。今日はバナナと缶詰をいくつか、それと安かった「いかの姿あげ」(好物)を買って帰った。

 帰宅して映画を観て、そのあとはまたカレーで夕食。夜は珍しくTwitter なんかに入れ込んでしまって、寝る時間になってしまう。またあまり読書も出来ないままに寝てしまった。



 

[]「燃える昆虫軍団」(1975) ウィリアム・キャッスル:製作・脚本 ヤノット・シュワルツ:監督 「燃える昆虫軍団」(1975)   ウィリアム・キャッスル:製作・脚本 ヤノット・シュワルツ:監督を含むブックマーク

 製作のウィリアム・キャッスルという人は、ロジャー・コーマンと並び称される「B級映画の帝王」なのだそうである。まるで知らなかった。まあ、彼の場合は映画に合わせて映画館の床を水に浸らせたり、客席に電流を流すなどという、映画からはなれたギミックなことをやっていたらしく、そういうわけで彼の映画というのは日本で未公開のものが多いみたい(ビッグな例外もあるけれども、そのことはあとで)。ただ、ヒッチコックはこのウィリアム・キャッスルやロジャー・コーマンによる50年代のB級映画の経済的成功に興味を持ち、あの「サイコ」をつくることにしたらしいのだけれども。

 この「燃える昆虫軍団」はキャッスルの最晩年の作品で、いちおう存在するらしい原作小説をもとに、キャッスル自らがもうひとりと脚本を共作している。原題は「Bug」。

 舞台はカリフォルニアのどこかの町らしく、この町で直下型の地震が起き、深い深い亀裂が地面に出来てしまう。その亀裂の深い底から、本来は地底に住んでいた昆虫が地上に上がってきてしまうのである。この昆虫は撮影にじっさいの昆虫を使っていて、前半とそれが進化したという設定の後半とでは異なる昆虫を使っているようだけれども、後半のそれはまさに「マダガスカルゴキブリ」である。おそらく前半のものもゴキブリの一種なのだろうが、この映画ではまさに「新種」として登場する。
 で、このゴキブリ、自分の腹の部分にライターのような<発火装置>を持っているのである。なぜそんなものを持っているかというと、獲物を燃やし、その炭化したものを食物にするのである。そして深い地中から急に地上に出てきたために潜水病のようなものにかかっていて、繁殖も移動も出来ないらしい。しかし、人の乗る車にへばり着いたりして、町中に拡がってしまう。家は燃えるし車は爆発する。人間も犠牲になるわけである。
 ここに生物学の教師がいるわけで、その妻は例のゴキブリのせいで死んでしまい、彼はゴキブリへの復讐のつもりで、ひとり家に閉じこもって彼らの研究を続ける。ここからはその教師の研究とその成果ばかりが描かれて、「あれだけパニックになった町の方はどうなっちゃったの?」とか気になるのだけれども、そこはどうやら虫に繁殖力がないせいで、虫はぜんぶ死んでしまうんだろう。とにかくは町のことはわからない。
 教師の周辺の虫もどんどん死んでいくのだけれども、教師はまだ生きている一匹を捕え、普通のゴキブリといっしょにして繁殖させる。その繁殖したゴキブリは<新種>で、どうやら知能を持っているらしいと。って、いくら種族的には近しい虫でも別種でしょ? 両者を交配させて繁殖させるなんて出来るのかいな? それよりも何よりも、妻の死の恨みを晴らすはずだった生物教師、いったいなぜ虫を繁殖させるのか? わからないことだらけである。原題のようにバグだらけの映画みたいだ。

 しかししかし、この映画の撮影はすばらしい。オープニングのクレーン撮影で地平から町の全貌が見えてくる場面から「あれ? けっこう見ごたえありそうじゃん」と思わせられるし、そのあともずっと、カメラに関しては絶賛していいだろう仕事ぶり。カメラ移動のセンスもいいし、後半の生物教師の研究の描写もいい。いったい今、何を見せるのか、というポイントをきっちりと押さえ、それ以上に「これは<映画>である」という魅力を感じさせられる。
 この撮影監督はマイケル・ヒューゴという人物で、調べるとやはり「幸せはパリで」とか「マニトウ」、「ワイオミング」など、メジャーな映画の撮影も担当されていた。後年はテレビ用映画の撮影が多くなるようだけれども、「どうでもいい人」ではないようには思う。

 あと、音楽のことも書いておいた方がいいだろうか。昆虫が登場するシーンでの、キリキリという電子音をフィーチャーしたエレクトリック・ミュージックは印象に残る。音楽担当はチャールズ・フォックスという人で、「バーバレラ」、「さよならコロンバス」、「真夜中のパーティー」など、かなり有名な作品の音楽も担当されている。

 こういうあたり、このウィリアム・キャッスルという製作者、インデペンデントに徹したロジャー・コーマンの製作姿勢とは異なるものが感じられるのだけれども、じっさいに彼の製作した作品の中にはオーソン・ウェルズの「上海から来た女」もあるし、なんといっても、あの「ローズマリーの赤ちゃん」こそ、このウィリアム・キャッスルの製作になる映画なのである。

 今まで、このウィリアム・キャッスルという人物のことはまったく知らないでいたけれども、今日は勉強になった。



 

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■ 2015-06-07(Sun)

 「厳選辛口 吉乃川」が旨い。まあ、ある程度の金を払えば、酒というものはいくらでも美味しいものがあるだろうけれども、そんな高い価格でなく「旨い」と思わせられるということで、この「吉乃川」が気に入っている。以前のように一日に三合も四合も吞むようなこともしなくなったし、「ちょっと一杯」という感覚で吞む、特にそのひとくちめがおいしい。けっきょくもう、紙パックの安い酒など身体が受け付けないというか、「とてもこんなものは吞めない」という感覚になるのだけれども、安い酒だとついがぶがぶ吞んでしまうところもあり、けっきょくはこれで経済的なのではないかと思う。きのうはあたらしくみつけた西にあるドラッグストアに、その「吉乃川」が置いてあるのをみつけたので、「どこに行ったら買えるだろう」という心配からも解放された。

 予定外に玉子がなくなってしまったので、ニェネントのキャットフードを買うついでに北のスーパーに買いに行った。玉子の安売りは木曜日で、この日曜日も多少は安いとはいっても、木曜日よりは40円ほどは高い。しかたがない。
 ニェネント用の固形キャットフードは、このスーパーとホームセンターとは同じ価格なので、ポイントがつく分スーパーで買う方がいい。しかしこのところ、ニェネントの食がすすんでいるというのか、固形キャットフードもなくなるのが早い気がする。

 店内をぐるっと歩いて棚を見ていると、酒売り場の棚に新しい商品があれこれと並んでいて、その中に例の「厳選辛口 吉乃川」が置かれていた。価格は昨日買ったドラッグストアとまるで同じだった。なんだ。それならこれからはこの北のスーパーで買えばいい。あまりに近距離で手軽に買えてしまうので、買いすぎ=飲みすぎ、ということにならなければいいのだけれども。

 今日は午前中は録画した「あまちゃん」の再放送をみて、昼からは映画を二本観た。夕食はおとといつくったカレー。まだ半分以上残っているので、当分はカレーばかりになりそうである。
 夜はちょっとは本でも読もうと思っていたのだけれども、すぐに眠くなってしまった。



 

[]「まわり道」(1975) ロビー・ミュラー:撮影 ヴィム・ヴェンダーズ:監督 「まわり道」(1975)   ロビー・ミュラー:撮影 ヴィム・ヴェンダーズ:監督を含むブックマーク

 ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」を原案として、現代のドイツで「作家」になろうと、その修業のために旅に出るヴィルヘルムの物語。主人公は<冒険と取材を兼ね>ドイツを横断する旅を実行するのだけれども、その「旅」とは彼自身の「内面」への旅の形象化であって、じっさいには彼は自分の部屋から一歩も動いていないのではないのかという「疑い」を禁じ得ない。しかし、どらまの「旅」は続く。

 冒頭の、自転車での海岸や夜の街の彷徨、そして「列車での旅」という演出、映像がとってもいい。その列車で主人公はまさに非現実的な「ありえない」出会いを経て、<歌手>だという老人、その老人の連れの、<芸人>というしゃべらない少女、そして向かいの列車に乗っていた<女優>、食堂で知り合った青年(詩を書く)という四人の旅の同行者を得、ある孤独な富豪(実業家)の屋敷に宿泊したりする。彼は「孤独とは演劇的な状況だ」と語り、<不安>を克服するための「ドイツでの孤独」の話もする。実業家は自殺し、主人公は皆と別れる。山に登った主人公は「僕は無意識な<まわり道>ばかりしているようだ」という。

 ‥‥「人の夢の話ほど退屈なものはない(わたしも夢の話を書いてはいるけれども)」。めんどくさい純文学小説を読むような、面白くはないけれどもどこか心にひっかかるような映画。撮影のロビー・ミュラーという人の名まえは憶えていた。ヴェンダーズの作品をずっと撮りつづけた人だ。たしかにこの映画でも、その撮影の印象は残る。散歩する山道、緑の光に包まれた地下鉄のホーム‥‥。
 冒頭で主人公はTroggs のレコードをかけていて、レコード棚のいちばん手前にはKinks のファーストのジャケットも見える。このあたりに、ロック好きのヴェンダーズの面目もある感じ。



 

[]「エレファント」(2003) ガス・ヴァン・サント:監督 「エレファント」(2003)   ガス・ヴァン・サント:監督を含むブックマーク

 コロンバイン高校での乱射事件に材をとった、意欲的な方法で製作された作品。高校に通う複数の生徒らのそれぞれの視点から、時間軸も重複させながら<惨劇>への経過を追ってみせる。そこにはいわゆる「ドラマ」の展開はないといってよく、登場人物ごとのきれぎれの情景がつづいて行きながら、ドキュメンタリー風に校舎の中でそれぞれの<日常>が交差して行く。この基本的に<校舎の中>と限定された空間設定での<日常>というのが活きていて、登場人物ごとのエピソードが連続していなくても、「それが<学校>なのだ」と、観る方にも意識されることになる。

 いつもカメラはワンシーンワンカットのように、校内を歩いて行く少年少女らを、たいていはその後ろに付き添って、彼ら彼女らの「うしろあたま」を、ずっと追って行く。それは知らずに<運命>に向かって行く姿として、観るものの心に残るだろうか。

 乱射犯の少年のひとりは実行のために学校へ出かける前に、自宅で「エリーゼのために」を弾く。この「優しい曲」を弾く、「キスをしたことがない」という繊細そうな少年が、そのすぐあとに残虐な乱射事件を起こすという<対比>こそが恐ろしい。

 そんな若さゆえの優しさ、繊細さ、そして残虐さなどが、静かに、静かにこの地上で繰り拡げられて行く。恐ろしい映画ではあるけれども、観たあとの印象に絶望感はない気がした。とにかくはこの演出手法には感服。



 

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■ 2015-06-06(Sat)

 今日みた夢。居酒屋のようなところの入り口の席に知り合い(誰だかわからない)と座っていたら、女性がふたりやって来てそばに座った。「いっしょに飲もうか?」と誘いをかけると、OKのようだ。すると入り口からわたしの彼女がひとりで入って来るのが目にはいる。低い声であいさつをされ、わたしは「そういえば、前に彼女といっしょにこの店に来たことがあるから、それで来たんだな」などと思う。「それにしても彼女は低い声だな」とも思っている。そんな夢。

 南のドラッグストアが閉店して、ちょっとがっかりしているのだけれども、先日職場でそういう話をしていると、「たしかにこのあたりはドラッグストアがいっぱいあるから」という流れから、わたしの知らないドラッグストアがけっこうウチの近くにあるようなことを聞いていた。そのドラッグストアがどこにあるのか、わからないでいたのだけれども、昨日ひょんなことから、ネットの上でその「ウチの近くの」ドラッグストアの場所をみつけてしまった。どうやらホームセンターの少し先、前に行った胃腸科の病院や眼科医のもうちょっと西側にあるようで、ウチから歩いて十分もかからないところにある。ちょうどニェネントのネコ砂も買わなければならなかったし、今日はホームセンターに行きがてら、その店にも行ってみようと思った。

 ホームセンターのある十字路から南に折れ、ホームセンターを通り過ぎると、ホームセンターの裏は大きな公園になっていた。たしかにこの公園は知らないわけではなかった気がするけれども、こんなに大きな公園だったとは記憶から抜けていた。緑が豊かで起伏があり、中央にはあづま屋があり、その手前には小さな池もある。あづま屋の向こう側は平坦な遊び場になっていてすべり台などの遊具が設えてあり、けっこうたくさんの子供たちが遊んでいる。「この町にもこんなにたくさん子供がいるんだなあ」なんて思ったり。

 その公園の遊び場になっている部分の、道路をはさんだ反対側に、めざすドラッグストアがちゃんとあった。けっこう大きい。店内に入って棚を見て歩くと、食料品などもかなり置いてあるし、しかも価格もかなり安い。ものによっては近郊でいちばん安い価格設定になっている商品もあるようで、これでは撤退したドラッグストアは負けるよな、などと思ってしまう。
 とりあえずは、お気に入りの日本酒「厳選辛口 吉乃川」が置いてあったので喜んで買った。近所にこの酒を置いてあるところがなくなったので、「どこで買おうか」と考えていたところだったし、悩み解消である。価格も前のドラッグストアよりも50円ぐらい安いではないか。とにかく、そのうちにゆっくりと買い物に来ようと思う。



 

[]「歌行燈」(1960) 泉鏡花:原作 衣笠貞之助:監督 「歌行燈」(1960)   泉鏡花:原作 衣笠貞之助:監督を含むブックマーク

 「歌行燈」は1943年に成瀬巳喜男監督、花柳章太郎と山田五十鈴の共演によっても映画化されているらしいけれども、こちらは市川雷蔵と山本富士子共演の大映作品。成瀬巳喜男監督版が「芸道を極める」というところに主題を置いたのに対し、この衣笠貞之助版はふたりの男女のラブストーリーに重点を置いた演出だ、みたいなことがどこかに書かれていた。成瀬巳喜男版はYouTube で観ることが出来るみたいなので、そのうちに観比べてみたい。

 で、この衣笠貞之助版の感想。とにかくは撮影をきっちりと様式化し、パースペクティヴの効いた構図の中で近景に樹木や障子などを置き、その奥で登場人物のドラマが繰り拡げられる。これはひょっとしたら、主題となった「能」の舞台構成を念頭においてのことなのかも知れない。また、セット美術もまたすばらしいものがあり、旧家の室内の清潔さ、料亭の席の空間、そして木賃宿のうらぶれた雰囲気などみごとなのだけれども、ちょっとした街角、庭などの造りにも感嘆させられ、的確な照明と共に、当時の日本映画の底力を思い知らされる。特に再会した市川雷蔵と山本富士子が芸の特訓をする早朝の森の中の情景、そこにその最後の朝に市川雷蔵が姿を見せないという展開があるのだけれども、そのシーンでのライティング、スモーク、構図などでかもし出される幻想的な雰囲気はほんとうにすばらしいもので、ぐっと膝を乗り出して見入ってしまった。いいものを観た。



 

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■ 2015-06-05(Fri)

 心配していた地震は起こらなかった。しかしこのところ日本中の火山活動は活発になっているし、震度5にもなる地震もたびたび起きている。用心しておきたいと思うのだけれども、ではどう用心すればいいのか。非常食をすぐに持ち出せるようにまとめておくとか、棚からものが落ちないようにするとか、そういうことだろうか。でもこの住まいが住めなくなったとして、たとえそれでもニェネントが助かっていたとしても、ニェネントの世話をしてあげられる場所がなくなってしまったりしたら絶望的である。想像することもできない。

 夕食にカレーをつくった。ずっと取ってあって賞味期限が来てしまった「ジャワカレー」のプライムというルーを使い、味覇(ウェイパァー)やオイスターソースを入れて、史上最強の味をめざしてみた。はたして味覇やオイスターソースの効果があったかどうかはわからないけれども、たしかに本格的なおいしいカレーができた。食がすすむ。これから当分、夕食はカレーライスになる。

 きのう図書館から借りた日本文学全集の吉田健一の巻の「文学の楽しみ」、なんだか落語を聴くような面白さがあり、やはりちょっとつづけて読んでみようという気になってしまった。例えば、これは書き出しの部分。

 これからしばらく文学について何かと書かなければならない。その実物はともかく、文学という言葉は今日よく行き渡っているようで、文学と言えば相手は何か解(わか)った風な表情になる。これは外国では余りないことらしいから、そのことから直(す)ぐに、日本人というものはとやりたくなる所であるが、考えて見ると、日本も戦前まではこんなことはなかった。その頃はむしろ、文学をやるなどと子供が言えば、親が泣いたり、怒ったりし始めるのが常識で、そういうひどいことにならなくても、そうどこへ行っても文学、文学ではなかったのに対して、文学の方はいいものが沢山あったという感じがする。

 ここは「大学の文学科の文学」というタイトルの章になっていて、ちょうど世間では今、大学の文系の学部が廃止されるなどということで騒いでいるわけで、そのこととかさねて読んでも面白い章だし、ここでの「文学」を「映画」とおきかえて読んでみても面白そうである。そういうことで、またカントはお休みだな。

 先日ハイスミスの「見知らぬ乗客」を読み終えたので、今日は録画してあったヒッチコックの映画で「見知らぬ乗客」を観た。



 

[]「見知らぬ乗客」(1951) パトリシア・ハイスミス:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督 「見知らぬ乗客」(1951)   パトリシア・ハイスミス:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 

 主人公のガイ・ヘインズがテニス・プレイヤーになっていること以外は、原作とだいたい同じ設定、同じ筋書きの前半の展開。ミリアムの殺しの場面もまるで原作通りに<遊園地>が舞台にされ、原作でも印象的だったその描写がうまく視覚化されていた。ヒッチコックはこの<遊園地>がお気に召したようで、ラストにもういちどこの場所が登場してくる。

 ここで小道具として<ライター>と<メガネ>というのが重要な役目を帯びることになり、このあたりは映画の方のオリジナル。原作ではライターの代わりに主人公が列車で忘れるのはプラトンの本なのだけれども、ここでそれをライターにしたことがとても効果的というか、後半の原作から離れた展開でのメインの小道具になる。
 メガネは、ミリアムがかけていたという設定で、ブルーノがミリアムを絞殺するときに地面に落ち、そのレンズに殺人の風景が歪んで映るのを観客は見ることになるし、原作にはいなかったアンの妹のバーバラがメガネをかけていることから、ブルーノが殺人を思い出して錯乱する原因となったりする。ここで原作にもあったブルーノの気絶などもすんなりと、原作通りに見せることができたわけだし、ブルーノの不安定さをすんなりと表現できていたと思う。

 ガイがブルーノの父を殺害を承諾するあたり、「原作と同じなんだな」と思っていると、それ以降から、原作とは異なる方向に映画はシフトして行く。このあたり、原作を読んでいるととてもスリリングなんだけれども、この映画の脚本は、そういう原作との分岐点を意識していたわけだろうか。これ以降の展開で、さいしょのライターこそが運命をにぎることになる。

 ブルーノの次の行動を予知したガイはその行動をくい止めようとするのだけれども、テニス・プレイヤーであるガイには当日試合が組まれている。ここでサッサと勝ってしまわないとブルーノにやられてしまうという意識と、側溝の格子からライターを落としてしまうブルーノ、勝負をあせるガイとライターを必死で拾おうとするブルーノとの対比が緊張感を増す。テニスの試合の演出、編集はほんとうに見事。そう、ガイがテニス・プレイヤーであることから来るサスペンスとしては、とっても有名なシーン(観客皆が球を追って首を左右に振るなか、ブルーノだけがじっと正面を見ている)もあるわけで、原作の建築設計技師では、視覚的な面白みなど生みだせないわけだ。こういうところもさすがにヒッチコック。

 ラストにはもういちど遊園地に戻り、ある意味で時間を巻き戻すようなシークエンスになる。ここも演出としてうまいのだけれども、原作では主人公の精神が徐々に破壊されていく恐怖があるのだけれども、こちらの主人公は回転木馬の破壊によって救われることになる。とにかくは「何かが」壊れる、という大団円の構成はみごとだと思った。

 この映画でブルーノを演じたロバート・ウォーカーという俳優、実生活でも精神が不安定で飲酒癖のあった人物らしく、この映画の撮影前には前妻ジェニファー・ジョーンズとの離婚騒動などで精神的に追いつめられ、精神疾患で入院していた過去もあったらしい。まさにブルーノという人物を思わせられるところもあり、同時にガイの病理をも引き継いでいたような存在だったのか。この映画のクランクアップ後、飲酒が原因の興奮状態で鎮静剤を投与され、そのアレルギー作用で、32才の若さで急逝されたということ。

 ちなみにこの「見知らぬ乗客」、あのデヴィッド・フィンチャーが次回作としてリメイクする予定だという。主演は「ゴーン・ガール」でタッグを組んだベン・アフレックで、<自家用小型機が故障して、居合わせた富豪の持つ自家用機に同乗させてもらう映画俳優>という設定らしい。なんか、また原作とは遠いところに行ってしまいそうではある。



 

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■ 2015-06-04(Thu)

 仕事場で、アリのお引っ越しに遭遇した。アリの引っ越しなどというのをみるのも、ずいぶんと久しぶりのことに思える。アリたちが長い行列をつくって進んで行く。なかには自分の体ほどもある卵をかかえているものもいるのだが、見ていると古代エジプトのピラミッド建設を思い浮かべてしまう。

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 しごとの帰りに空を見上げると、一直線に伸びた雲や、細く直角にクロスしたような雲が目にはいり、ひょっとしたらこういう雲のことを<地震雲>というのではないかと思ったりして、ちょっと写真に撮ってみた。これはもうちょっとあとの時間になってTwitter の上で、あちらこちらで地震雲のようなものがみえると騒ぎになっていた。そうやってあらためて人の撮った写真をみてみてもそれほどに<地震雲>っぽくもみえず、そんな眼でわたしの撮った写真をみると、これもやっぱり<地震雲>らしくもみえない。だいいち、地震雲だったりしたらイヤだ。とにかくは気もちだけは引きしめておくことにした。

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 いちど帰宅して、今日は内科医への通院の日。今日も血液検査の採血をされ、いつもより高めの会計。帰りに図書館へ寄り、河出書房の「日本文学全集」の新刊、吉田健一の巻が新刊コーナーに置かれていたのを、ついつい借りてしまった。これでまた読書計画が狂ってしまうだろう。

 しごとは七月には繁忙期に入るので、短期のアルバイトの人たちが入ってくるのだけれども、その人たちとの事前ミーティングみたいなことで、今日は昼からまた会社に呼び出された。今度四月からわたしたちの上司(部長)になった人物はやたらにミーティングを開く。大半はつまらない内容のミーティングで、今日のミーティングにしても、この日にやる意味がわからない。前の部長はわたしたちが多忙のときには率先して手伝ってくれたものだったが、今度のはまったくそういうことはやらない。ただミーティングだけである。面倒なだけである。

 遅くなった昼食は久々にスパゲッティをつくってみたけれども、先日閉店したドラッグストアで買ってあったしょう油ベースのパスタソースを使って、トマトとレタスをそえて冷製のスパゲッティにしてみた。そのパスタソースは塩気が強いこともあって今までちょっと使いあぐねていたのだけれども、今日は塩味も薄まっておいしいパスタになった。これからは暑くもなるので、この冷製パスタはときどきつくってみようと思う。

 録画の映画は「バグダッド・カフェ」を観て、夜はちょっと借りてきた吉田健一の、冒頭の「文学の楽しみ」を読み始めた。これが書き出しからめっちゃ楽しくって、読んでいても「ふふふ」と笑みがもれてしまいそう。これは例えば映画でいえば「シネフィル批判」みたいにも読める書き出しで、そういう読み方でどこまで行けるか、とにかくは読んでみようという気になるのである。もちろん、吉田健一氏の素敵な文体によるところも大きいのだけれども。



 

[]「バグダッド・カフェ」(1987) パーシー・アドロン:監督 「バグダッド・カフェ」(1987)   パーシー・アドロン:監督を含むブックマーク

 

 黄色いフィルターを画面の半分だけにかませたり、黄緑色を画面いっぱいにあふれさせたり、独特の色づかいを感じさせられ、「砂漠の中のオアシス」というイメージが立ち上がる気がする。特に前半の妙にてれ〜っと、うだ〜っとした雰囲気こそがわたしはけっこうお気に入りで、そこから後半の繁盛へのステップアップというのは何となく「文明化」みたいな空気もある。そういうところで、終盤に出て行ってしまうタトゥー師のデビー(彼女の愛読書は「ベニスに死す」だった)の気もちがわかる気がする。

 ラストのセリフはちょっとばかし意味深で、主人公のヤスミンと店主のブレンダとの結びつきが、もっともっと深いところにあることを暗示しているような。



 

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■ 2015-06-03(Wed)

 西日本では早くも梅雨入りしたらしい。今日はこのあたりでも久しぶりに雨が降っていたようだ。<ようだ>というのは、しごとも非番で休みで、朝からずっと、一歩も外に出なかったから外の様子はわからないということ。ちょっと窓の外をのぞいてみたときには雨模様だったと思う。

 これは昨日のことだけれども、この日記の上で五月一ヶ月間の「おさらい」をつくってみたら、月のはじめに観た「サスペリア・テルザ」という映画のことが、ちっとも思い出せなくなっていた。あまりに短期間に忘却の彼方に消えてしまってる感じで、ひょっとしたらまだ知らないうちに「側頭葉てんかん」の発作を起こしているのではないかと、心配になってしまった。調べたら<ニコニコ動画>にこの作品(の前半だけ)がアップされていたので、ちょっと見なおしてみて、だいたい思い出すことも出来たので、「発作」の件は心配しなくても大丈夫かもしれない。しかし、記憶力は悪くなりすぎ。もともとあまり熱心に観たわけではないドキュメンタリーの「日本国憲法」も、まるっきし記憶から脱落してしまっている。思考力も退行しているのはまちがいないし、自分でも情けないことだと思うしかない。<絶望>はしない。それが今の<わたし>なのだ。そこで生きて行くしかない。その中で出来るだけ記憶を保ち、思考しなければいけない。プラスになるかどうかわからないけれども、録画した映画などを観終わったあとに、もういちどその映画をあたまから早送りで観返してみたりすることにした。ちょっとはちがうかもしれないが、本の場合はこういう作業は出来ないな。

 昼食にクックパッドでレシピを調べて<塩焼きそば>をつくってみた。ちょっと塩気が多すぎたけれども、おいしいのが出来た。これからときどきつくってみようと思う。夕食はキャベツともやしと肉を炒めたもの。これもクックパッドでレシピを調べたのだけれども、あまりおいしくはなかった。クックパッドのレシピには「どうなのか」と思うようなものも多い。

 今日は書いたようにしごとも休みだったので、録画した映画を三本も観た。



 

[]「ゴジラvsビオランテ」(1989) 川北紘一:特撮監督 大森一樹:監督 「ゴジラvsビオランテ」(1989)   川北紘一:特撮監督 大森一樹:監督を含むブックマーク

 

 昨日、放送中のをチラチラと観ていたのだけれども、いちおう録画しておいたので、午前中に通して観た。

 この作品は一時期すっかりお子様向けになってしまったゴジラ映画からの原点復帰を目指して、1984年に公開された「ゴジラ」に続いて製作された、より<リアル>な、<悪>としてのゴジラの登場するゴジラ映画。しかし、旧シリーズで量産された「対・他の強敵怪獣」というモードはここでもう復活。ではその対戦相手の怪獣にどのようなリアリティを持たせるか、ということも課題になるのだけれども、この作ではゴジラの体の破片から採集された「ゴジラ細胞」と、いろいろと前作からのいわくのあるらしいバラの花とが合体した怪獣「ビオランテ」ということになる。ちょっとこれはこれで突拍子もないのだけれども、そこは怪獣の造形でもって「リアルさ」を持たせようとしているようである。

 この「ゴジラ細胞」のほかにも、ゴジラに対抗する武器として「抗核エネルギーバクテリア」というものも登場し、さながらバイオテクノロジー全開のストーリー展開になっている。このあたり、なんだかSTAP細胞のこととか思い起こさせられたりもする。

 そして、ここでは自衛隊の武装というのもなかなかに強烈なものがあり、こんな映画を今の時期につくったりしたら、そりゃあ「集団的自衛権」とか「戦争法案」とかの絡みで、わたしたちゃあだまっていませんよ、ってことにもなりそうである。その自衛隊を指揮する高嶋政伸のいかにも軍人的な紋切り型のセリフ廻しとかにしても、もうちょっと演出のしようがあるのではないのかと思ってしまったりする。

 高橋幸治が「ゴジラ」第一作の平田昭彦に相当する役どころで登場していて、つまりは「抗核エネルギーバクテリア」とは「オキシジェン・デストロイヤー」みたいなものなんだけれども、「あんたがどうしてそこできいたような口をきくのかね」という具合に最前線にしゃしゃり出てきて、しかも貫禄がない。

 終盤にその「抗核エネルギーバクテリア」の効き目で海岸に倒れ込んでしまうゴジラは、そのラストに「いや〜、まいったまいった」とばかりに起き上がって海に消えていくのだけれども、このあたりは去年のハリウッド版「ゴジラ」に流用されたラストかな?なんて思った。



 

[]「白痴」(1951) フョードル・ドストエフスキー:原作 黒澤明:監督 「白痴」(1951)   フョードル・ドストエフスキー:原作 黒澤明:監督を含むブックマーク

 二時間五十分もあるので観るのをためらったけれども、実はほんとうは四時間を超える作品だったそうな。それを製作会社の松竹がズタズタに短縮してしまっての二時間五十分。どうしてこの作品が松竹で製作されたのかわからないけれども、いつもの東宝で撮っていればここまで惨いことにもならなかったのではないだろうか。

 冒頭からストーリーが字幕で説明されたりナレーションが入ったり、不自然なことこの上ないのだけれども、本題に入ってしまえばやはり演出の力に引き込まれてしまう作品。中心になる登場人物は森雅之に三船敏郎、原節子と久我美子の四人にしぼられるかと思うのだけれども、後半(第二部)になってからのこの四人の絡みはただごとではない。ある意味で、「火花散る対決」というのはこういうのをいうのかもしれない。特に三船敏郎の住む、洋館のような蔵のような建物でのシーンが、いろいろとものすごいことになっている。
 まずはそこで三船敏郎と森雅之との対話があるのだけれども、このシーンでの照明がすごい。そして、やはりこの作品で眼をみはらされてしまうのが、原節子の<怪演>、といえばいいんだろうか。わたしなどは、原節子といえば小津安二郎の作品での「そうでございますわ」などとしゃべっている<お嬢さま>っぽい役柄しか知らなかったのだけれども、ここでは始終黒いケープをまとってさながら魔女のように場に君臨し、あるときは(後ろ姿だけれども)狂ったような高笑いをきかせ、あるときは眼をカッと見開いて場を支配しようとするのである。この<凄み>にはやはり圧倒させられる。
 久我美子の、その若さゆえの気まぐれ、意地悪さもまた強烈なものがあり、この作品のひとつのみどころとして、そんな久我美子と原節子との<対決>というものがあるだろう。
 また、森雅之の<善>、<無垢>と、三船敏郎のある意味で汚れてしまった魂との対峙というものも見ごたえがあり、このあたり、さいしょにふたりが出会うのが列車の中だったということもあり、先日読んでいたハイスミスの「見知らぬ乗客」の、ヘインズとブルーノーのことをいやおうもなく思い浮かべてしまった。

 やはり、その作品の1/3をカットされてしまってもなお、この時代の黒澤明という映像作家の強烈さを感じ取らされる一篇ではあったと思う。ある意味、傑作。



 

[]「9 〜9番目の奇妙な人形〜」(2009) ティム・バートン:製作 シェーン・アッカー:監督 「9 〜9番目の奇妙な人形〜」(2009)   ティム・バートン:製作 シェーン・アッカー:監督を含むブックマーク

 ティム・バートンの絡んだアニメーション映画はたいてい観ていると思っていたけれども、この作品ははじめて観た。今まで観たアニメ作品でのヘンリー・セリックとかの監督ではなく、シェーン・アッカーという人の監督作品。たしかにキャラクターのデザインに今までのティム・バートンの作品に共通するところもあるけれども、全体の世界観はまるでちがうもの。

 人類が最終戦争でマシーン(人工知能ロボット)の使用によって滅んでしまったあと、そのマシーンをつくり出した科学者がさいごにつくり出した九体の人形(これも人工知能ロボットだけれども、実はちょっと違う)たちが、よみがえらせてしまった凶暴なマシーンを退治する冒険譚。アニメーションならではの派手なアクションシーンの連続するなかで、九体の人形の個性を際立たせるあたりの演出がいい。

 ストーリーの飛躍もあるし、説明描写も長いのだけれども、作者が未来に託した希望とでもいうものを感じさせられる。じっさいにある科学者などは<人工知能>が発達するならば、その<人工知能>こそが人類を滅ぼすことになると予言してもいる。そういう予言に合致するストーリーから、「救われなければならないのは何か」という問いかける結末は美しいと感じた。捨てがたい一品。



 

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■ 2015-06-02(Tue)

 夢。わたしには彼女がいる。前妻。その親がわたしのデッサンをみたいという。わたしが受験用に描いた石膏デッサンをみせるつもりでいると、それ以前に描いたもの、水彩で着彩してあるようなものをみたがり、そういうデッサンを持って庭を走って行く。その庭はわたしの家族が転居してきたばかりの家の庭で、木造の塀で囲まれた中庭になっている。娘はこの新しい家を気に入っている。中庭には井戸があるのだけれども、その井戸の上には白い大理石の彫像のようなものが置かれていて、井戸として使えなくなっている。‥‥ちょっとエグいところのある夢だった。書けるのはこのくらい。

 先日WOWOW で放映されたFrank Zappa の「Does Humor Belong in Music?」を観てみたのだけれども、この映像は過去にVHS でリリースされてわたしも持っていたもので、つまりわたしも観ていたものだった。タイトルをみたときに「知ってる映像かも」とは思ったのだけれども、この時期のZappa はこの同じタイトルのもとで多くのライヴをこなしているので、「別物?」と期待していたものだった。
 書いておけば、わたしはMothers 以降のZappa の音楽にはほとんど興味がなくて、このライヴ映像も面白いと思った記憶はない。

 夜にはやはりWOWOW で「ゴジラVSビオランテ」が放映されていたのを、ちょっとだけ観る。これは大森一樹が監督した一編で、映画館まで観に行ったものである。ビオランテの造形がよかった記憶があったのだけれども、あらためて観てみると「自衛隊大活躍」な作品ではあった。



 

[]「見知らぬ乗客」パトリシア・ハイスミス:著 青田勝:訳 「見知らぬ乗客」パトリシア・ハイスミス:著 青田勝:訳を含むブックマーク

 

 パトリシア・ハイスミスのデビュー作。いわゆる「交換殺人」が題材とされた作品だけれども、作者の興味は「謎解き」などというところにはない。意図しない、理由のない殺人へと追い込まれ、そのことへの自責の念に責め苛まれつづけることになる主人公の、そのち密で重厚な心理描写こそがメインの小説である。ハイスミスはこの作品を<ミステリー>として書いたつもりはなく、普通に文学作品として書いたのが、出版社によってミステリー作品のレッテルを貼られて宣伝されてしまったといっているらしいけれども、たしかに今までに読んだどの作品よりもこの作品の心理描写の密度は濃いように思えてしまい、これは普通にミステリー小説として読めるテリトリーを越えている感じはする。
 おかげでハイスミスはその後のキャリアを「純文学」としてでなく、「心理ミステリー」と呼べるような、彼女独特のタッチの作品の執筆にシフトしていくことになるんだろうけれども、そういう彼女独自のタッチの作品を多数読めるようになったのだから、喜ぶべきことなのか。

 主人公は新進の建築設計士のガイ・ヘインズ。彼は別居中の妻ミリアムとの離婚訴訟中で、そのためにメトカーフという故郷の町へ向かうために列車に乗っている。車中でチャールス・ブルーノーという青年が彼に近づいてきて、ヘインズは一等車の彼の席に招かれて向かい合って酒を飲み、雑談をする。ブルーノーの家庭は裕福らしいけれども、ブルーノーに自由に金を使わせないその父への嫌悪を語る。ヘインズもつられて妻とのトラブルを話してしまうのだが、ブルーノーは「オレがあんたの妻を殺してやるから、あんたはオレの父を殺さないか。ちょくせつの犯人には動機がないんだから、完全犯罪に持ち込めるぞ」という。もちろんヘインズは取り合わないのだけれども、数日後、ミリアムの居所をつきとめたブルーノーは、ミリアムを遊園地の池の中の島で絞殺してしまう。そしてヘインズに「次はあんたがやる番だ」と迫ってくる。ヘインズにはアンという恋人がいて、いずれは結婚するつもりなのだが、ブルーノーはアンにもコンタクトをとってくる。

 読んでいればブルーノーという男はアルコールに溺れ気味の、精神不安定な男であることはわかるのだが、そのずけずけと行動してくるところの「実行力」には富んでいる。というか、動かない方がいいところでも動いてしまうというか。一方のヘインズは逆に内省型というか、考え込みすぎてしまう性格が読み取れる。このふたりの対比がとても興味深いのだが、そのふたりのあいだに、アンという世間のノーマルさを体現するような人物が存在するのが面白い。

 わたしはヒッチコックによって映画化された作品の方の記憶もないし(後半のストーリーはまるで違うらしいけれども)、追いつめられたヘインズが殺人を犯す前に事件は解決するものと思い込んでいたのだけれども、小説の中程でヘインズがブルーノーの父を殺してしまうのには驚いた。そんなことが出来る人物とは思えなかったのだが、そこまでに彼はブルーノーに追いつめられるし、そういう「弱さ」は持っている人物だったのだ。
 このあとはもう、どちらもお互いにコンタクトを取らずに別々にやっていけば、完全犯罪はじっさいに成立していたのかもしれないのに、ブルーノーはヘインズに執着してしまう。ブルーノーの中でヘインズはヒーローになり、彼とずっと親しくしていたいというように、ひんぱんにヘインズやアンのところに姿をあらわすことになる。そしてそのことがヘインズの心理を追いつめていくことになる。

 ヒッチコックの作品も録画してあるので、近いうちに観てみるつもりだけれども、この作品、重厚な心理描写の楽しめる傑作で、わたしの中でもハイスミス作品のトップクラスに面白い作品となった。

 そう、ハイスミスの作品にはただ一作、「Carol」という本邦未紹介の(翻訳の出ていない)作品があるのだけれども、その「Carol」、どうやらトッド・ヘインズの監督、ケイト・ブランシェットとミア・ワシコウスカの共演で映画化される(された)ようで、これはそのスタッフ、キャストの知名度から日本でも公開されるだろうし、そうなると原作も刊行される可能性が高い(某翻訳家がすでに翻訳されていて、あとは出版社を探すだけになっているらしい)。それでふたたびハイスミスのブームが起こって、品切れ絶版になっていた彼女の作品が再刊されたりしないだろうか。映画も観たいし、そのあたりにも期待したい。



 

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■ 2015-06-01(Mon)

 六月になってしまった。ちょうど去年の六月に側頭葉てんかんの発作がひんぱんになり、ようやく「側頭葉てんかん」という病名も特定できたわけだけれども、発作のためにそれ以前の記憶の多くを失ってしまった。特に近年の記憶こそが消失してしまっている感覚で、この二、三年に観た映画や舞台、読んだ本の記憶は基本的に失せてしまった。

 側頭葉てんかんの発作を抑える投薬を服用し始め、その後発作は起きていないと思うのだけれども、記憶力、思考力は退行している。例えばきのう、この日記に五月の「おさらい」リストをつくったりしたのだけれども、その中でどうしてもその内容を思い出せなくなっている映画もある。その前の月に読んだ本のことも、あまり思い出せなくなっている。ひょっとしたら知らないうちにまた発作を起こしているのでは?ということも考えてしまう。ある意味で「再起不能」なのではないのだろうか。いやなこと(事実)である。

 いつも読みさしで中断してしまうカントの「純粋理性批判」はちゃんと読みすすめたいと思っていて、そのことに関して、この日記を「読書メモ」のように活用して読み進めてみようかという考えもある。読書ペースは落ちるだろうけれども、自分のなかで、「メモをとりながら読み進めるべきだ」という意識はある。
 考えてみたらそういうことは過去にやっているわけで、「失われた時を求めて」とロレンス・ダレルの「アレキサンドリア四重奏」で試みている。そして、どちらも途中で挫折して放り投げてしまっている。はたしてそういう前歴がありながら、またそういうことを始めてしまってどうなるだろうか。やらないよりはやった方がいいだろうか。



 

[]「フェリーニのローマ」(1972) フェデリコ・フェリーニ:監督 「フェリーニのローマ」(1972)   フェデリコ・フェリーニ:監督を含むブックマーク

 

 フェリーニの作品としては1969年の「サテリコン」、1970年の「道化師」に続いてのもの。わたし的にはフェリーニは「サテリコン」までで充分という思いもあるのだけれども、それはそれ以降の作品があまりに表象的に終わりすぎている気がするからではある(ただ、もちろん彼のすべての作品を観ているわけではないし、記憶から抜け落ちてしまった作品もある)。

 この「ローマ」は、まずはフェリーニの記憶の中の「ローマ」の再構築であり、そしてフェイク・ドキュメントでもある。そこに浮かび上がってくるローマの姿は、やはり「虚構」と呼ぶのが適切ではないかと思ってしまう。あくまでも「私的」なローマの姿。

 記憶と追想とは虚構としてその姿をあらわし、そしてその姿はあくまで表象にすぎない。
 地下鉄工事で出現した過去の遺跡のフレスコ画は、それまで密閉されていたものが大気に触れたため、その図象はみる間に消えて行く。その描写はまさに、消えていく記憶の具象化のように見えてしまう。

 この「ローマ」のあとに、フェリーニはトニーノ・グエッラとの脚本で「アマルコルド」を撮る。もう記憶にない「アマルコルド」を、もういちど観てみたい。



 

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