ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-08-31(Mon)

 昨日のことだけれども、国会前に行く前に渋谷の駅で一旦下車し、ハチ公のそばでちょっと一服したのだけれども、そのハチ公の足元に一匹のネコがうずくまっているのだった。どうしてこんなところにネコがいるのかわからないが、皆写真を撮っている。わたしもネコが好きなのでつい写真を撮ったのだけれども、このネコの出現、わたしは知らなかったのだけれども「猫おじさん」という厄介な人物のしわざだということ。何でも銀座や池袋の盛り場の目立つところにネコを連れ出して置いておき、人々が集まるさまを後ろからながめてほくそ笑んでいるそうな。注目を集めたいという心理があるのだろうけれども、ちょっと屈折している。しかし、つまりはネコらが望まないところに放置するということで「動物虐待」の疑いもあるのだが、現状では取り締まることは出来ないのだそうである。あちこち連れ回されるネコの身になってみれば、残酷なことではあるだろう。

       f:id:crosstalk:20150830122753j:image:w280

 今日になってFacebook の方で知人から連絡をいただき、昨日のテレビでの集会の報道でわたしの姿が映されていたらしい。送られて来た画像でそのニュースがどこの局のものかわかったし、YouTube で検索してみたら、たしかにわたしの姿が確認出来た。一秒にも満たない時間だけれども、昨日例の鉄柵を退けて「決壊」させた直後の映像のようで、他のところで鉄柵が退けられている様子も映されている。たしかにあのとき近くにカメラを持った人物がいたなと思い出した。なんというか、照れくさいものである。

 今日はやはり昨日の疲れというか、何もしない一日になってしまった。Twitter などで昨日の集会のあれこれのことを読むのだが、集会参加者の数が主催者発表で十二万人、警察の発表で三万人と、その数の差が話題になっている。集会などの運動に懐疑的な、主に保守の連中は「三万こそ正しいだろう」ということから論をはじめる。しかし、じっさいに現場にいた人間の実感として、今までの国会前での集会との比較からしても、三万などということはあり得ない数字であろう。わたしが居た二時ぐらいまでの時間で五万は下らなかったろうと思えるし、十二万という数字を疑う根拠はない。60年安保のときには、当時の首相岸信介は混乱の責任を取って退陣したわけだけれども、今回は60年安保を上回る人々が集結したのではないのか。まず安倍晋三には退陣していただいて、安保法案は廃案。そういうことにならないと。

 ずっと「オン・ザ・ロード」を読んでいるのだけれども、青山南氏による訳文に不満があるのではなく、「これ、原文ではどういう表現になっているんだろう?」という興味が湧き(それだけ翻訳がいいということでもあるかもしれない)、原書を読んでみたいという気もちも高ぶって来たりする。何となく、わたしぐらいの英語力でもかなり読めるのではないだろうかと思うし、英語力アップの機会にもなるのではないかということである。Amazon で検索してもペーパーバック版だからそんなに高くはないし、大きな書店なら洋書コーナーに常時在庫してあるに違いない。いちど現物を手に取って読んでみて、イケそうだったら買ってしまおうかと思うのである。




 

[]二〇一五年八月のおさらい 二〇一五年八月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
鉄割アルバトロスケット「HODOCHICCHI」戌井昭人:戯作 牛嶋みさを:演出 @下北沢 ザ・スズナリ
●SePT独舞vol.22 黒沢美香ソロダンス特集「この島でうまれたひと」黒沢美香:演出・振付 @三軒茶屋・シアタートラム

展覧会:
●「生命大躍進 脊椎動物のたどった道」@上野・国立科学博物館

映画:
●「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」スチュアート・マードック:監督
●「スリ」(1959) ロベール・ブレッソン:脚本・監督
●「ラルジャン」(1983) レフ・トルストイ:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督
●「やさしい女」(1969) ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督

読書:
●「一冊でわかる 動物の権利」デヴィッド・ドゥグラツィア:著 戸田清:訳
●「仮面の商人」アンリ・トロワイヤ:著 小笠原豊樹:訳

DVD/ヴィデオ:
●「来るべき世界」(1936) H・G・ウェルズ:原作・脚本 ウィリアム・キャメロン・メンジース:監督
●「第3逃亡者」(1937) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「唇からナイフ」(1966) ジョセフ・ロージー:監督
●「冒険者たち」(1967) ジョゼ・ジョバンニ:原作・脚本 ロベール・アンリコ:脚本・監督
●「ガルシアの首」(1974) サム・ペキンパー:脚本・監督
●「愛のメモリー」(1976) ヴィルモス・スィグモンド:撮影 ブライアン・デ・パルマ:監督
●「地獄の黙示録」(1979) ヴィットリオ・ストラーロ:撮影 フランシス・フォード・コッポラ:監督
●「ロング・ライダーズ」(1980) ライ・クーダー:音楽 ウォルター・ヒル:監督
●「スタンド・バイ・ミー」(1986) ロブ・ライナー:監督
●「ニキータ」(1990) リュック・ベッソン:監督
●「パーフェクト・ワールド」(1993) クリント・イーストウッド:監督
●「L.A.コンフィデンシャル」(1993) ジェイムズ・エルロイ:原作 カーティス・ハンソン:監督
●「レオン(完全版)」(1994) リュック・ベッソン:監督
●「エンド・オブ・バイオレンス」(1997) ヴィム・ヴェンダース:監督
●「アザーズ」(2001) アレハンドロ・アメナーバル:監督
●「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007) ポール・トーマス・アンダーソン:監督
●「ジェシー・ジェームズの暗殺」(2007) アンドリュー・ドミニク:監督
●「アルマジロ」(2010) ヤヌス・メッツ:監督
●「虎の尾を踏む男達」(1945) 黒澤明:脚本・監督
●「蜘蛛巣城」(1957) 黒澤明:監督
●「ぼんち」(1960) 山崎豊子:原作 市川崑:監督
●「用心棒」(1961) 黒澤明:脚本・監督
●「どですかでん」(1970) 黒澤明:監督
●「一条さゆり 濡れた欲情」(1973) 神代辰巳:監督
●「恋人たちは濡れた」(1973) 神代辰巳:監督・脚本
●「八甲田山」(1977) 新田次郎:原作 森谷司郎:監督
●「乱」(1985) 黒澤明:監督
●「リンダ リンダ リンダ」(2007) 山下敦弘:監督



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150831

■ 2015-08-30(Sun)

 今日は三軒茶屋のシアタートラムで黒沢美香さんのマチネ舞台を観るのだけれども、その前に国会議事堂前での「安保法案抗議 国会10万人・全国100万人大行動」に、ちょっとの時間でも参加するつもりでいる。国会前の集会は一時からということだから、しごとのあと朝食をすませ、十時半の電車に乗れば間に合うだろう。永田町駅か桜田門駅を使うことにして、渋谷からメトロに乗り換え、昼食は乗り換える前に渋谷でとることにすれば、一時ちょっと過ぎには国会前に着けるだろう。空は曇っていて雨が降りそうだけれども、なんとか降らないで保ってくれることを願う。

 予定通りの電車に乗り、車中ではいつものように睡眠。渋谷駅に十二時ちょっと回ったところで到着し、また日高屋で昼食。ここでかた焼きそばを注文したのだけれども、その店ではかた焼きそばは取り扱っていなかった。店舗によって、メニューに若干のちがいがあるのだな。しょうがないのでまた和風つけ麺にした。

 半蔵門線に乗り、永田町方面に向かう。すぐに座ることができたのだけれども、わたしの両隣の方はわたしと同年輩ぐらいの男性で、おふたりとも本を拡げて読んでおられる。ちらっとみて、わたしの右の方の読まれている本は「従軍慰安婦」について書かれた本のようだ。一方、右の方の読まれている本はマルクスのこと。どうやらおふた方とも、わたしと同じく国会前の集会に参加される方なのではないだろうか。

 永田町駅に着き、基本として集会に参加される方はここで下車することになる。わたしのとなりの「従軍慰安婦」の本を読まれていた方はやはりここで下車されたが、マルクスの本を読まれていた方は下車されず、どうやら集会に参加される方ではなかったようだ。
 かなりの数の方々といっしょにわたしもここで下車し、国会議事堂方面の出口へ向かうのだが、ここで通路はさらに地下にもぐり、いちど有楽町線のホームを進んで行くことになる。それだったらそのまま有楽町線に乗り、次の「桜田門駅」で下車することも出来るし、じっさい、桜田門駅で降りた方が国会議事堂には近いはずである。そういうわけで有楽町線に乗り、桜田門駅で下車する。ここで下車される集会参加者もおおぜいいらっしゃる。
 階段を上がって改札を抜けると、右側に長い列が出来ていた。ひょっとしたら簡単に地上に出ることが出来ないのか?と思ったのだが、これはトイレの行列で、よくみると皆さん女性なのであった。‥‥たしかに、集会にまぎれてしまうとそこはもう、「トイレのない世界」なのだ。

 例によって地上への出口の一方は警備の警官によって封鎖されているのだが、それほどに混み合っていない構内から地上への道はスムース。地上に出ると、目の前に議事堂がデン!と姿を見せていてわかりやすい。

 こちらも例によって議事堂前へ行く道は警備の警官が立ちふさがり、簡単にはたどり着けないことになっている。わたしは警官の指示を無視して先へ。本当に大勢の人が歩道にあふれていて、「これは車道占拠することが出来そうだな」と思う。すでに正門前近くでは車道に出ている人もいるようだけど、警官らはあくまで参加者を歩道に押しとどめようと。おかげで歩道はすれ違うのもむずかしいぐらいの状態。あとからあとから参加者の方々がやって来るし、もう車道へ人々があふれ出すのは時間の問題と思える。集会参加者に比べて警備の警官の数は少なく、わたしは警官のスキをみて鉄柵を乗り越えて車道へ出てしまいました。まだ車道にはほとんど人がいなくって気持ちいい!

 奥の正門前の方には人が集まっているようなので、そっちへ移動。もう皆がシュプレヒコールを唱和している。しかし南側の信号のところは鉄柵で封鎖され、その歩道側に押し込められた参加者の方々は後ろから押されているようで、今にも車道にあふれ出そうとしている。ところが警備の警官が鉄柵を押し、必死になって参加者が車道に出るのを押しとどめている。

 どうせ時間の問題でそんなバリケードは崩壊するのは目に見えているけれども、前からも後ろからも押されている鉄柵付近の人たちは苦しそう。いちばん前の女性は鉄柵の間に足を突っ込んでしまっているのだけれども、警官はその鉄柵を押して位置をずらそうとしている。そのままでは足を取られた女性は転倒しそうで、あれだけの人に押されたならケガしそう。

 わたしは警官のところへ後ろから行って、「そんなに押さえたらケガ人が出るだろうに!」と止めようとしたけれども、わたしの後ろから別の警官がわたしの肩をつかんで移動させようとする。「もうこれ以上鉄柵で閉じ込めるのは無理だからやめなさい!」といって、鉄柵に手をかける。わたしの他にも車道側から鉄柵を外そうとする人たちがいて、歩道側からの圧力もあり、鉄柵はみごとに外され、歩道の人たちは車道に出ることが出来ました。皆で拍手でしたね。

       f:id:crosstalk:20150830133819j:image

       f:id:crosstalk:20150830133831j:image

 そのあとは連鎖反応で、あちこちで鉄柵が排除され、封鎖は完全に決壊。いつの間にか車道は人に埋め尽くされてしまいましたね。

  f:id:crosstalk:20150830134115j:image

  f:id:crosstalk:20150830134834j:image

  f:id:crosstalk:20150830134900j:image

 もう二時になり、わたしは国会前を去らなければならないけれど、いずれ車道は占拠されただろうとはいえ、その「決壊」のちょっとした「手助け」が出来たようで、いい気分でメトロの駅に向かいます。

 そのあとは三軒茶屋へ移動してシアタートラムへ行き黒沢美香さんのダンス。終演時で四時半ぐらいだけれども、外に出るとちょっと雨模様になっていた。まだ国会前で集会が続いていたとしても、来る前の様子ではこれから行っても周辺にたどり着くのがやっとだろうし、「もういいや」ということで行くのはやめる。雨も小降りだったのでそのまま下北沢まで歩き、「G」へ行ってみる。カウンター席にAさんがいらっして、ネコの話など。集会に行っていた話をすると、同じカウンター席の奥に座っていらした年配の方も集会に参加されていたとのこと。新聞の「号外」が配布されたそうで、参加者は十二万人だったと。すごいな。カウンターのBさんがピーター・ポール&マリーの反戦歌をかけてくれる。

 早めに「G」を出て、下北沢駅のそばの日高屋に寄り、いつもの晩酌コースをやってから帰路に着いた。自宅駅に着いたのは九時ごろだったのでスーパーにまわってみて、ニェネントのおみやげもあってめばちまぐろの刺身を買ったり、自分用には助六寿司、タコの刺身(これはニェネントには無理)など。帰宅してニェネントにまぐろを切ってあげ、自分はタコの刺身で遅い夜食。あちこち移動していそがしい一日だったか。




 

[]SePT独舞vol.22 黒沢美香ソロダンス特集「この島でうまれたひと」黒沢美香:演出・振付 @三軒茶屋・シアタートラム SePT独舞vol.22 黒沢美香ソロダンス特集「この島でうまれたひと」黒沢美香:演出・振付 @三軒茶屋・シアタートラムを含むブックマーク

  ◆「Wave」(初演1985年)
  ◆「6:30 AM」-第二のバリエーションより-2015 ver.(初演1985年)
  ◆「この島でうまれたひと」(初演)

 黒沢美香さんのダンスというのも、何度も観ているつもりでもやはり「これ」という特徴を思い出せない。そういう意味では1985年初演という「Wave」と「6:30 AM」とを観ることが出来たというのは、うれしい企画だった。特に彼女のダンスの原点をみせてくれるような「Wave」からは眼が離せなかった。立ち位置から数歩前に踏み出し、またバックするという単純な行為の反復が膨らんでいく過程。

 「6:30 AM」「この島でうまれたひと」はその「Wave」からの発展という面も読み取れるのだけれども、その延長として観ることはむずかしい。「ショー」ではあるのだけれども、すべての感情移入を排したようなその振付けに、まぶたが重くなってしまうこともあった。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150830

■ 2015-08-29(Sat)

 このところ、NHKのBSでかつての朝ドラ「あまちゃん」が再放送されているのをずっと観ている。いちおう毎朝放映されているのだけれども、土曜日には一週間分まとめて放映されるので、それを録画して観ている。かつて放映されていたときもちゃんとだいたい毎日観ていたのだけれども、これも記憶が失せてしまっているので、そういうのでは新鮮な気もちで観ることができている。ひとつには今放映されている「まれ」という朝ドラがあまりにもつまらないせいでもあるのだけれども、こうやって「あまちゃん」を連続して観ていると、その差は歴然としていると思う。今日の昼は「まれ」の方をつい観てしまったのだけれども、あいかわらず中学生でも書けそうな脚本にうんざりし、演出もひどいもんだと、不愉快になってしまうのである。
 もう九月も近いので、「あまちゃん」もあと一ヶ月ぐらいのものなのだけれども、今現在の展開はアキがアイドルになれるかどうかという「山場」であり、そこにアキの母春子のアイドルとしての挫折(同時に友だちのユイの挫折)、祖母の夏が地元でのアイドルだったという過去も重ね合わせられ、特にこのところは目の離せない展開になっている。
 この「あまちゃん」などの朝ドラ、無理して再放送に頼らずとも、ネット上にアップロードされているので、見逃してしまえばネットで観ればいいわけだし、アップロードされたものには英語字幕がついているのも楽しいのだ。「あまちゃん」の再放送が終了してしまったら、そのあとはネットで「カーネーション」を観ようと計画している(実は五話ぐらいはすでに観てしまったのだが)。

 今日はその「あまちゃん」の録画日だったのだけれども、その前に録画した映画を観ていたら終わらずに「あまちゃん」録画時間にかかってしまい、今日の「あまちゃん」の最初の三話はキャンセル。このキャンセルした分はネットで観ることにした。

 ニェネントだが、今日はネコ缶を食べ残していた。「えぇ! 好物じゃなかったのか!」と、ちょっと驚いたのだけれども、どうも古いネコ缶を混ぜ入れる比率が大きすぎたみたいだ。試しに新しいネコ缶だけを皿に取ってあげると、やはりあっという間にぜんぶ食べてしまう。安心したけれども、古いネコ缶の使い方には要注意だ。まだ六缶ぐらい残ってるし、開けないで捨てるという選択はしない。
 そのニェネント、夜にわたしが寝ているときに、わたしの足元に上がって来ていっしょに寝るようになった。ふと目覚めて足を動かすともふもふのやわらかい物体に足が当たるので、「え???」と思ってしまう。こういうこと、しばらくなかったことだけれども、気候が涼しくなったせいなのか、それともわたしがおいしいネコ缶を出してあげているからなついてくれているのか、どっちだかわからない。




 

[]「ロング・ライダーズ」(1980) ライ・クーダー:音楽 ウォルター・ヒル:監督 「ロング・ライダーズ」(1980)   ライ・クーダー:音楽 ウォルター・ヒル:監督を含むブックマーク

 これは好きな映画だった。音楽がライ・クーダーだし、登場するアウトローたちのグレーのロングコートの記憶はあるし、何よりもガラス窓を馬で突き破るすばらしいシーンがあったはずである。もちろんストーリーは記憶していないのだが。

 史実をもとにした作品で、何組もの実在した兄弟ギャングが登場するのだが、その兄弟の役をじっさいの兄弟の役者たちが演じているのがひとつの特色。メイン・アクトのフランクと時ジェシーのジェームズ兄弟にはステイシーとジェームズのキーチ兄弟、ヤンガー兄弟にはキャラダインの三兄弟などが出演している。キーチ兄弟は製作にも脚本にも関わっていたようである。

 銀行強盗を繰り返す一団が、ピンカートン探偵社のメンバーと報復合戦を繰り返すというのが基本の展開だが、追求を逃れていた一団が再結集して選んだ襲撃先はミネソタ州。ところが近代化され強盗対策も施された設備に一団はなす術もなく、這々の体で逃亡するわけである。この町中で追いつめられて逃げるシーンで、例のガラス窓を乗馬のままぶち破って逃走するシーンがスローモーションで描かれている。
 ラストは、逮捕されずに逃亡を続けているジェームズ兄弟のところにピンカートン社と結託しているフォード兄弟が現れ、隙をみてジェシーを後ろから射殺するわけである。

 登場人物は典型的な西部劇のアウトロータイプであり、前半はそんな西部劇の展開をなぞっているようにみえるのだが、後半のそのミネソタ州の銀行襲撃では、もう環境は「西部劇」のものではない。力づくで金を奪うアウトローのやり方はここでは通用せず、壮絶な銃撃戦のあげくに逃走する。ここには「西部劇」の時代の終焉という色彩が強く、ラストまで、そういうアウトローへの挽歌であるとともに、「西部劇」そのものへの挽歌という感覚になる。

 まるでペキンパー映画のように、銃撃戦シーンなどでスローモーションの多用される作品だが、やっぱり例のガラスを割って突破するシーンがあまりにすばらしい。普通録画した作品は再生させて観たあとは消去してしまうのだけれども、この作品は消去出来ないな。




 

[]「ジェシー・ジェームズの暗殺」(2007) アンドリュー・ドミニク:監督 「ジェシー・ジェームズの暗殺」(2007)   アンドリュー・ドミニク:監督を含むブックマーク

 その「ロング・ライダーズ」でも描かれたジェシー・ジェームズの最期を、1983年に発表された小説「The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford」を基にして映画化した作品。原作自体が史実の綿密な調査の上に書かれているようで、この映画化作品もナレーターの語りをかぶせて、史実であることを強調するような演出になっているだろうか。

 タイトルにもあるように、この作品は晩年のジェシー・ジェームズ(ブラッド・ピット)と、彼を暗殺したロバート・フォード(ケイシー・アフレック)を中心に見据え、彼ら二人の人物像をスクリーン上に創造しようという試みとみえる。ジェシーの気まぐれな、発作のような狂気を抱えた人物像、そんなジェシーにあこがれ、彼を抹殺することで自己を救済しようとするかのようなロバートの人物像とが描かれるわけだが、この並列がうまく行っているかどうかは微妙なところと感じた。
 しかし、このじっくりと煮詰めるような演出は何だろう。テレンス・マリックばりの演出ということもいわれているようだが、わたしはそのテレンス・マリックの映画を記憶していないから。ちょっと前半は人物関係がわかりづらくって、観ていて登場人物がいったい何のことをいっているのかわからなかったりしてしまう。
 それでもこの作品が俄然面白くなるのはやはりロバートによるジェシーの暗殺の前後、そして何よりもその後の彼の死までのロバートの生涯の描写だろうか。ここでも、社会というものが変遷して、素朴なカントリーライフからジャーナリズムの登場、そして「劇場型社会」の登場というバックグラウンドが、しっかりと提示される。その中でこの、「Coward」と呼ばれたロバート・フォードという人物の生こそがくっきりと浮かび上がって来る。この終盤部はほんとうに面白い。酒場で弾き語りでジェシー・ジェームズの歌を唄う男役で、ニック・ケイヴが登場する。





 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150829

■ 2015-08-28(Fri)

 しごとの上のことで上司、今の部長にかみついている。正確にいうと「しごとの上のこと」ではなく、しごとのことではないことを強制されている、ということを問題にするわけで、これは詳細は書かないのだけれども、まあ想像していただくしかない。
 今日、しごとを終えたあとでその部長と一対一での対決(?)。まあぜったいに非は部長の側にあるのだから、それをどのように認めるか、またはシラを切り通すのか、そのあたりも見どころだったわけだけれども、けっこうあっさりと向こうの方が退却してみせた。「溜飲を下げた」というほどでもないけれども、自分の思うように社員をいつも従わせることは出来ないと悟ったことだろう。まあどっちにせよ、わたしは今の部長のような人物が大っ嫌いなのである。戦時中の翼賛体制だとか今の北朝鮮みたいな全体主義が好きそうな人物。いやだいやだ。

 明後日の日曜日に、国会前で安保法案に反対する大集会が開かれる。10万人の集結が目標らしい。わたしも行きたいのだが、その日は三時から三軒茶屋のシアター・トラムでの黒沢美香公演のチケットを買ってある。集会には行けないだろうか。でも集会は午後一時から始まるようなので、短い滞在になるだろうけれども、三軒茶屋へ行く前に国会前に行けばいいのではないかと考える。それで、時間が許せば三軒茶屋の公演が終わってからまた国会前に行ってもいい。いそがしい一日になりそうだな。




 

[]「L.A.コンフィデンシャル」(1993) ジェイムズ・エルロイ:原作 カーティス・ハンソン:監督 「L.A.コンフィデンシャル」(1993)   ジェイムズ・エルロイ:原作 カーティス・ハンソン:監督を含むブックマーク

 この作品も公開当時に観ている。それだけでなく、原作の「LA四部作」も読んでいるわけなのだが、やはり例によって記憶していない。観ていると何か思い出すだろうか。‥‥性格、指向性のまるで違う警察官三人が、ひとつの事件を解明するためにそれぞれの思惑から協力することになるのだけれども、事件の背後には大きな陰謀が存在していた、みたいな。

 これは、観ているうちに思い出すところが多かった。まずは登場人物の名前をけっこう記憶していたし、例えばケヴィン・スペイシーは途中で射殺されてしまうはずとか、「この場面でガイ・ピアースは酒をぶっかけられるはず」だとかいうこと。それで思い出すのは、わたしはこの作品を誰か女性といっしょに観たのではなかったかということで、わたしの記憶ではそれは前の妻ということになるのだが、この作品の公開された年は妻とはとうの昔に別れているわけだ。さらに、いっしょに観た女性はこの作品に出演しているキム・ベイシンガーの容姿に惚れ込んで、スケッチブックに彼女の似姿を描いた絵を見せられた記憶まであるのだが。いったいこの記憶は真実なのか、真実ならば記憶の中のその女性は誰なのか。気になってしまう。

 映画のこと。これってつまりは、そうやってキム・ベイシンガーも登場するし、「フィルム・ノワール」の体裁をとっていると思う。ラストの壮大な銃撃戦はもうフィルム・ノワールの域を通り越して「西部劇」っぽくもあるのだけれども、そうやって過去のアメリカ映画の遺産を継いでいるように思えるあたり、とても好きな映画である。
 もう原作のことは映画以上に忘れてしまっているけれども、この映画は原作からの大幅な脚色があり、いろいろと省略、改変が行なわれてもいるらしい。わたしも観ていて「ロロ・トマシ」のことは思い出したのだが、これは原作ではこの映画のような形では出てこなかったのではないかと思う。
 観ていて、ラストにラッセル・クロウは死んでしまったのかと思ったのだけれども、ああやってキム・ベイシンガーとロサンゼルスを出て行くわけか。好きな映画である。




 

[]「用心棒」(1961) 黒澤明:脚本・監督 「用心棒」(1961)   黒澤明:脚本・監督を含むブックマーク

 こちらの映画を観るのは、わたしは初めてになるのだろうか。観ていて思い出すのは「荒野の用心棒」のことで、そこまでに「荒野の用心棒」がこの「用心棒」をコピーしていたということだろう。しかしこの作品は面白い。けっこうリアルな殺陣もあるけれども、やはり主人公の用心棒の、どこか飄々とした造形がいいし、そんな主人公もいちどはボコボコにされてしまうというのも斬新。その飄々とした主人公に対し、どこかニヒルな仲代達矢がカッコいいか。冒頭に犬が人の手首をくわえて駈けて来るなんてこれまで観た黒澤監督の映画っぽくないし、その手首がまたリアルなのである。しかしこの作品、ちょっとばかし音楽がうるさいか?





 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150828

■ 2015-08-27(Thu)

 今日はしごとは非番で休み。昨夜遅く寝た分ちょっと朝寝をしてしまい、けっきょく昨日はまた睡眠過多になってしまったようだ。ということは、今日は眠れないことになるのだろうか。足の筋肉痛はまだ続いていて、ベッドから起き上がるときに痛む。

 外をみると雨は降っていないけれども、暗い雲が空をおおっている。気温も上がっていないようで、昨日ほどではないけれども涼しい。
 ネコというのはやはり暑さにも弱いのか、こうやって涼しくなってくるとニェネントの動きが活発になったようだ。これは食事が改善(?)されてたくさん食べるようになったからかもしれないけれども、ついこのあいだまではベッドの下にもぐり込んで出てこなかったのが、あちこちと動き回っている。わたしが外出から戻ると、ちゃんとドアのところまで来て出迎えてくれる。夜にはほんとに久しぶりにわたしの指先にからんで遊んだりもする。

 テレビ放映された映画などを録画しているハードディスクドライヴが満杯状態になっていて、新しく何かを録画しようとすると何かを消去しなければならない。ほんとうは「もういちど観たいから消したくないな」と思うことが多いのだけれども、いやいや、いちど観た映画をまたもういちど観返すなどということは、よほどのことがない限りはやらないのだ。いさぎよく消してしまうことにする(ほんとうはDVDレコーダーを持っているのだからコピーして保存すればいいのだけれども、コピーする時間がない)。

 夕食は昨日つくったホワイトシチュー。レンジであたためたつもりがあまりあたたまってなく、中の方は冷たいままなのをそのまま食べた。もちろんあまりおいしくはない。夜はやはり眠れなくて、いつまでもパソコンにへばりついていた。




 

[]「来るべき世界」(1936) H・G・ウェルズ:原作・脚本 ウィリアム・キャメロン・メンジース:監督 「来るべき世界」(1936)   H・G・ウェルズ:原作・脚本 ウィリアム・キャメロン・メンジース:監督を含むブックマーク

 1940年から2036年までの約百年間、架空の町「エブリタウン」という町と世界との変遷を追う近未来SF。H・G・ウェルズの原作を、当人が映画化に当たって脚本を書いている。具体的な国名こそ出てこないけれども、1940年の「戦争」で攻め込んでくる国はドイツ、「エブリタウン」はイギリスの町と想像できるだろう。

 30年にも及ぶ長い戦争はようやく終結するけれども、文明は破壊され、「彷徨病」という疫病が流行するようになる。その「彷徨病」の流行を抑えた権力者が国と町を支配するようになるが、彼はいってみれば全体主義者で、世界を統制して自らの支配下に置こうとする。そのためには「飛行機」を復活させて飛行隊をつくりたいのだが、満足な飛行機もガソリンも残っていない。そんなところに一機の飛行機が飛来してくる。支配者はその飛行機の操縦者に飛行隊再編への協力を要請するが拒否され、操縦者を拉致監禁する。
 しかし、飛行機の研究をしていた科学者が飛来した飛行機で町を脱出、バラスという近代科学の都市へ到達する。バラスからの飛行隊によりエブリタウンは征服されて支配者は消え、エブリタウンは近代科学都市に変貌する。

 科学の発展した近未来、人々は人類を月へと運ぶ「空中砲」を開発し、最初の搭乗者を月へ送り込もうとする。搭乗者が帰還出来るかどうかは不明である。エブリタウンでは空中砲に反対する人々が勢力を増し、空中砲の開発に反対するのだが、空中砲はついに発射されるのである。

 ‥‥1936年に製作されたということを考えると、みごとな未来予測ではないかと感嘆するヴィジュアル。特に地下都市のありさまなど、新宿の地下街とか比べてみたくもなる。ここで空中砲開発に反対する人々、そのリーダーはかつて世界統制を目指した全体主義者の子孫なのだけれども、作者の意図はどうあれども、限りない科学の発展に疑問を呈する視点として興味深いものを感じた。
 叙事形式で人間ドラマというものはあまり描かれない作品だけれども、その各々のセットデザイン、描写など、的確なものとして印象に残る作品だった。手塚治虫の名作「来るべき世界」はこの映画からインスパイアされたもの、らしい。




 

[]「パーフェクト・ワールド」(1993) クリント・イーストウッド:監督 「パーフェクト・ワールド」(1993)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 イーストウッド監督が、独自の「シネアスト」としてその名をあげ始めた時期の作品で、たしかに、単純に娯楽映画では終わらない奥深さを兼ね備えた作品という印象。ここでの主演はケヴィン・コスナーで、脱獄して少年を人質に取り、その少年と逃避行を続ける。少年はいつしかケヴィン・コスナーの中に「父」のイメージをみつけ、慕うようになる。しかし彼を追う警察署長のクリント・イーストウッドらの包囲網は狭まっていく。

 やはり「子役には勝てない」というか、もう中盤以降、この少年の泣きそうな表情をみるだけで、こちらは涙目になってしまうのである。設定がハロウィーンの翌日で、少年が母親に禁止されているハロウィーンの仮装、キャスパーのお面と白い衣裳をずっと着ているのも泣ける。彼らを追う立場のクリント・イーストウッド、そして同行している犯罪心理学者のローラ・ダーンの出番が弱いのではと思って観ていたら、ラストにしっかりと存在を主張する。ローラ・ダーンのひざ蹴りが最高である。

 どこへ行っても出てくるトウモロコシ畑がまずは印象的で、その茎から垂れ下がった緑の葉っぱが眼に焼き付く。そしてラストの野原。ケヴィン・コスナーを真上から捉えたショットは冒頭にも登場するけれども、そこで彼のとなりに転がるキャスパーのお面、そして風に舞うドル紙幣のイメージは強烈である。





 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150827

■ 2015-08-26(Wed)

 このところのサイクルで行くと、昨日が「眠れない日」だったので今日は「睡眠過剰の日」になるのだろう。しかし今日は市民病院へ診察に行く日であり、つまり、「どうせ電車に乗るのだからそのまま上京して映画でも観たいものだ」という日になる。それが昨日の寝不足でスクリーンを前にしてこっくりこっくりやってしまうのではつまらない。ちょうど今、勤め先では年に一度の健康診断を実施している最中で、昨日から明日までの三日間、好きな日に診断を受ければいいことになっている。わたしは明日にでも診断を受けようと考えていたのだけれども、今日の午後に受けてしまってもいい。市民病院での診察にどのくらいかかるかによって、その先の行動を決めようかと思う。

 このところは市民病院に行く日はしごとも休みにしてあるのだけれども、今日は出勤日。病院には午前中に行かなければならないし、電車の時間もあるので急がなければいけない。しごとを終えて帰宅してから大急ぎで朝食をとり、ニェネントのご飯を出してあげて出かける。今日は雨模様で涼しく、もう夏も終わりだなと思う。

 市民病院では一時間ほど待たされたのだけれども、持参した本を読んでいて眠くなってしまい、うつらうつらしてしまった。こんな状態だと映画を観に行ってもやっぱり熟睡してしまうんじゃないだろうか。
 診察、会計を終えると、自宅駅への電車の時間が迫っていた。これはもう今日はこのまま帰宅して、午後から健康診断を受けた方がいいみたいだ。そのまま駅に急ぎ、自宅へと戻るのだった。
 帰宅するともうお昼に近い時間で、待っていたニェネントにお昼ご飯を盛ってあげ、わたしはお好み焼きで昼食にした。

 一時に近くなり、健康診断へ行く。受付にはけっこう受診される社員の方が並んでいて、ちょっと時間をずらせた方が良かったかと思ったりする。診断は胸部のX線撮影から心電図検査、血液検査、身長体重の測定から視力聴力の検査と、基本のところは網羅されている。わたしは今回はちょっと体重が増加していた。視力は0.3と0.4。聴力に異常はない。まあ普段内科医にかかっているので、あまり心配するような材料もない。

 健康診断は一時間ちょっとで終了し、帰宅する。映画を一本観て、夕食にはホワイトシチューをつくってみた。また煮込みすぎてしまい、ちょっと鍋を焦がしたようだ。味も煮詰めすぎの味。食事を終え、早くに寝てしまうとまた24時間サイクルが狂ってしまうので起きていようと思い、眠気をがまんして十時ごろまでは起きていた。




 

[]「虎の尾を踏む男達」(1945) 黒澤明:脚本・監督 「虎の尾を踏む男達」(1945)   黒澤明:脚本・監督を含むブックマーク

 黒澤監督の作品だけれども、どんな内容なのかまるで知らない。冒頭の字幕でこれがつまりは「安宅の関越え」の話であることを知る。同じく字幕で製作年度が1945年9月と出ていて、つまり戦争終結直後に撮られた作品のようだ。ひょっとしたら戦時中から企画されていた作品なのかもしれない。

 観終えたあとに調べたのだが、やはり戦争末期に企画された作品で、「映像、内容ともに簡単な作品を撮ろう」ということで撮られたらしい。ただ、撮り終えた戦後になって日本の検閲官のせいでこの作品は封印され、1952年まで公開されなかったということ。

 原典は歌舞伎の「勧進帳」なわけだけれども、そこに脚色を加え、歌舞伎には登場しない狂言回しとして、強力役で榎本健一が出演、また、能でいえば謡曲の部分を服部正の合唱曲で置き換えていて、それがこの作品の特色になっている。
 この榎本健一、いささかなりとうるさすぎる印象もあるのだけれども、弁慶役の大河内傳次郎のずっしりと重量感のある演技との良い対比になっている。また、その大河内傳次郎と関所役人の富樫を演じる藤田進との問答もまた見どころ。この、機知で難関を乗り切るというのは、のちの「隠し砦の三悪人」で繰り返されるモティーフとなるだろう。

 ラストの、「置いてけぼり」をくらった榎本健一がひとりで野原で踊るシーンのワンカット、途中から彼はシルエットになるのだけれども、とにかく映像として見事なシーンだと思った。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150826

■ 2015-08-25(Tue)

 昨日はあの激労のせいもあって早くに就寝。またたっぷり寝てしまった。今朝起きるとやはり昨日のそのハードワークのせいで、足が筋肉痛。特に座っていて立ち上がるときにふくらはぎが痛み、この痛みはちょっと長引きそうだと思うのである。

 明日はしごとは非番で休みだと思っていたのは勘違いで、休みは明後日だった。足の筋肉痛もあるし、今日は家でおとなしくすることにした。
 ところがわたしがおとなしくしているのに反して、ニェネントは元気いっぱいに部屋中をかけずり回ったりしている。どうも単にネコ缶がおいしくなったというせいだけではなく、ネコというものはやっぱり夏の暑さには弱いもののようだ。それがこのところ涼しくなったので、活発に動き回るようになったのだろう。みていると「フニャッ!」みたいななきごえをあげて、それを合図に部屋中を疾走し始める。部屋の端まで行くと急ブレーキをかけ、向きを変えてまた疾走。時に50センチぐらいはジャンプしながら走っていく。すごいすごい。

 わたしは夕食の準備もする気になれず、インスタントのつけ麺とかですませてしまう。このところは一日おきにガン寝したり眠れなかったりの繰り返しなのだけれども、昨日たっぷり寝ているので、つまり今日は「眠れない日」。寝られないので遅い時間にとっちらかっているCDをあれこれみていると、こんなCDがあったのか、などと意表をつかれるものが出て来たりする。そう、わたしは十年ほど前に経済が困窮したとき、たいていのCDはコピーをとって売り払ってしまったので、今手もとにあるのはそういうコピーCDで、つまりはジャケットなしのむき出し状態でのストックである。だからほとんど聴かないうちにコピーだけして売ってしまったCDもあれこれとあり、アーティスト名を読んでもピンと来ないものも多い。で、これはコピー盤のせいなのか、ノートパソコンに放り込んでもiTunes が起動もせずに挿入口から放り出されてしまうCDも多い。
 今は持っているCDプレーヤーもこわれてしまって聴けないのでiTunes に頼ってしまうのだけれども、iTunes がダメなのならやはりあたらしくCDプレーヤーを買うべきなのかもしれない(DVDプレーヤーで聴くという手もありだろうけれども)。




 

[]「ガルシアの首」(1974) サム・ペキンパー:脚本・監督 「ガルシアの首」(1974)   サム・ペキンパー:脚本・監督を含むブックマーク

 これは好きだった作品のはず。ラストシーンはぼんやりと憶えている。主演はウォーレン・オーツで、わたしはこの役者さんのやさぐれた感じが大好きで、この作品ではそのあたりをたっぷりと堪能できる。しかも単にやさぐれているのではなく、「義憤」というものを持ちながら、哀愁を漂わせるのである。

 ウォーレン・オーツ演じるベニーは、誰かがガルシアという男の首を求めていて、それを持って来たものには一万ドル支払うというのを聞き、さらに彼女のエリータからそのガルシアはつい先日交通事故で死んでしまったことも聞き、「これは濡れ手に泡」ではないかと思うわけである。観光客相手のバーでの客接待にも飽き飽きしていたし、同じバーで歌手をやっているエリータと新しい生活を始めたいと、二人でピクニック気分で「ガルシアの首」目当ての旅に出る。ガルシアの墓を見つけてその首を取ろうとするのだが、彼らを追って「ガルシアの首」をかすめ取ろうとするヤツらに首を奪われ、エリータは殺されてしまう。ここからはもう、ベニーの復讐劇である。首を取り戻すためにあれこれのヤツらを撃ち殺しながら、そもそもの「ガルシアの首」を欲しがっていたメキシコの地主の親分みたいな男のところまでたどり着き、首を渡す。賞金は実は百万ドルで、「これを持って消えろ」といわれるのだが、「この首のために何人死んだと思っているのだ」と、地主を撃ち殺し、懸賞金とガルシアの首を奪い取って逃走しようとする。

 ベニーはガルシアの首を手に入れてからは車の助手席に首を置き、その首に語りかけながら旅を続ける。腐敗しはじめた首にはハエがたかり、それ以上の腐敗を避けるためにドライアイス漬けにして運んだりする。

 ベニーが予想した「濡れ手に泡」はとんでもない展開をみせたわけで、エリータも死ぬし、死ぬ必要もないヤツらも死んでいった。そもそもがガルシアの死を望んだ地主にこそ咎があるのではないのか。地主の娘を孕ませたせいでガルシアの首が望まれたのだが、地主はその娘の意志を無視している。さいごにベニーが地主に銃の照準を合わせたとき、ベニーは娘の顔をみるのだが、娘は「いいわ」と首を縦に振る。

 銃撃シーンはペキンパーの例によってスローモーションが多用され、暴力性が強調されるのだが、リアリティというものは重視されているわけではない。地主の家でベニーひとりであれだけ殺戮出来るなんて、非現実だろうし。

 しかし、「首」を旅の友に選ぶベニー、まさに「Death is my eternal friend」というところだろうか。映画は、こちらに向けられた銃口のアップで終わることになる。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150825

■ 2015-08-24(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 書き忘れていたが、昨日は帰りに新宿に回って紀伊国屋に立ち寄り、DVD売り場をみていたらヒッチコックの「めまい」が千円で売られていたので、買ってしまった。今わたしがいちばん観たいと思っている映画がこの「めまい」だろうか。もちろん過去に観ている作品なのだけれども、これっぽっちも記憶していないのが情けない。先日観たデ・パルマの「愛のメモリー」にせよ、去年のフィンチャーの「ゴーン・ガール」にせよ、この「めまい」との比較で書かれた論考をいろいろと見かけた。ヒッチコックの最高傑作という声もあるし、テレビで放映されるのを待っているのではなく、早い機会に観ておきたいのである。

 それでまた、昨日の夜はあまり眠れなかった。どうも体内の時間サイクルがちょっと狂っている印象がある。

 今日は仕事先で、超過勤務をやってくれとの連絡を受けている。いつもの九時までのしごとのあとに十時半からまたしごとに出て、昼の休憩を入れてそのしごとが終わるまでやってくれということ。「まあ、ちょっと稼いでおくか」という気もちで引き受ける。

 九時にしごとを終えて帰宅し、朝食をとってまた職場に戻る。その職場から車で某所に移動し、まずはそこで荷物を車に運ぶ仕事。荷物はけっこうな重さがあるし、しかもその荷物を二階からエレヴェーターなしに、階段で運ぶのである。相当なハードワークで、足元がふらふらしてあぶない。二十往復ぐらいはしただろうか。汗まみれにはなるし、腕も足もガタガタ。おそらく明日からも筋肉痛に襲われることだろう。
 とりあえず十二時にこちらでのしごとを終えて一度帰宅。かんたんな昼食をとって、また出社する。午後からはいつもの仕事場に移動して、そこに運び込まれた午前中の荷物をいつものようにさばくしごと。こちらは午前中の仕事にくらべればずっとずっと楽である。このしごとは四時にようやく終わった。

 帰宅してからちょっと買い物に出て、そのあとは疲労でもう何もやる気がしない。夕食はお好み焼きをつくってかんたんにすませ、朝寝ていない分、早くに寝てしまった。

 明後日はしごとは非番で休みだし、明日どこかに出かけてもいいと思っていたのだけれども、この疲れ具合では家で休んでいた方がいいだろう。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150824

■ 2015-08-23(Sun)

 けっきょく昨日の六時ごろから朝の八時までたっぷり寝て、つまりは十四時間寝たことになる。

 今日で「やさしい女」の上映は終わるので、がんばって観に行った。上映は十一時、一時、三時の三回あるのだけれども、真ん中の回が空いているような気がして、ちょっと早めに家を出て一時の回を観ることにした。

 電車の中では、今朝あれだけ寝ていたというのにまた眠くなり、たっぷり寝てしまった。よくこれだけ寝られるものだと、自分でもあきれてしまう。なんとか乗換駅で寝過ごさないようにがんばって、一昨日と同じルートで飯田橋に到着。一時の回の開演二十分ぐらい前。上映会場へ行ってチケットを手に入れるけど、整理番号は5番だった。空いていてよかった。

 電車の中で眠くなったので、上映中も眠くなってしまうのではないか、ましてブレッソンの映画だし、と心配したのだが、やっぱり眠くなってしまい、何度か寝落ちしそうになってしまった。こういう眠りそうになったとき、「おっといけない!」と思って、つい意識ではリモコンで映画を巻き戻ししようと思ってしまう。自宅で観ているんじゃないよと気づいて笑いたくなる。

 映画が終わってまだ二時半ぐらい。駅のそばの「日高屋」へ行き、今日は「しょうが焼き定食」を注文。ちょっと期待していた味とは違う。そこがまた日高屋の由縁ではあるのだが。

 まっすぐ帰ろうか、それとも下北沢に寄り道して「G」にでも行ってみようかと、ちょっと迷ったのだけれども、よけいな無駄遣いはやめてまっすぐ帰宅することにした。

 まだまだ明るいうちに帰宅し、おるすばんのニェネントにネコ缶を出してあげ、自分の夕食もトーストでかんたんにすませた。
 映画を観ていて眠くなったりしたので、夜は普通に眠ることが出来るだろうと思ったのだけれども、そうではなくて眼が冴えてまるで眠れない状態。またパソコンのへばりついていると、いよいよ眠れなくなるのだった。




 

[]「やさしい女」(1969) ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督 「やさしい女」(1969)   ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督を含むブックマーク

 冒頭の「ドアを開ける」、「ベランダでテーブルが倒れる」、「白いスカーフが空をゆっくりと舞う」という短いショットの連続、それと近づいてくる救急車のサイレンという展開に、いっぺんに心奪われてしまった。このあたり、「ラルジャン」での数少ない短いショットの積み重ねで主人公の「怒り」を表現したショットを思い起こさせられるところがあり、このような短いショットのジャンプ気味の積み重ねにブレッソンの演出の特徴があるのかと思った。ほかの作品を観ていないのでわからないが、「ラルジャン」とこの「やさしい女」に関してはそういうことがいえると思う。この「やさしい女」では、その冒頭のショットはラスト近くにもう一度映されるのだった。ブレッソンもやはりその描写(演出)に賭けるところがあったのだろう。

 客の少女を見初めて結婚する質屋の店主、その夫婦のこころのすれ違いが肥大していく悲劇を描いた作品だけれども、「音」、きっと音というものが重要な作品だったのだと思う。もう一度そのあたりを確認したい。そして、一度だけ映される、あのドミニク・サンダの顔の超クローズ・アップが、あの作品の中で異質だったこと。その意味を探りたい。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150823

■ 2015-08-22(Sat)

 けっきょく昨夜はなかなか眠りにつくことが出来ず、電気を消した部屋の中、ベッドの上でじっとしていたりしたのだけれども、一時間も眠っていただろうか。場合によっては今日も上京して、ブレッソンのもう一本「やさしい女」を観てもいいと思っていたのだけれども、これだけ寝不足だとぜったいに映画を観ていても寝てしまうことだろう。今日たっぷり寝ておいて、明日「やさしい女」を観に行くことにしよう。

 このところ出かけることが多くなったので、電車の中での読書がはかどる。やはり読書は電車の中に限る気がするのだが、「それでよし」とするわけにはいかない。なんとか家にいても読書がはかどるようにしないといけないと思う。いったいなぜ家にいて本が読めないかというと、まず第一のじゃまものはパソコンだろう。特にこのごろはTwitter ばかり閲覧するようになり、この日記を書くのも遅れてしまっている次第である。Twitter をやってもけっきょくは自分の思考能力が衰退していることを改めて認識するばかりで、それほどにプラスになっているとも思えない。何らかの有益な情報を得るにしても、そのために費やす時間が多すぎるだろう。もうちょっと考えないといけないだろう。

 それで今読んでいるのはケルアックの「オン・ザ・ロード」なのだけれども、だいたい三分の一ほど進んだだろうか。美しい文章は魅力的だけれども、登場人物の行動はかなりバカっぽくって、付き合っていられない感じである。




 

[]「冒険者たち」(1967) ジョゼ・ジョバンニ:原作・脚本 ロベール・アンリコ:脚本・監督 「冒険者たち」(1967)   ジョゼ・ジョバンニ:原作・脚本 ロベール・アンリコ:脚本・監督を含むブックマーク

 これは何となく記憶に残っている作品。記憶に残っているというのは、逆に観た時期がずっと古くなるからだろう。映画館で観た記憶も甦って来るから、おそらくはまだわたしが二十歳にもならない頃、いや、高校生の頃にでも観た映画なのだろう。

 男性二人に女性一人という典型的な組み合わせがちょっとしたロマンスを想像させられるのだけれども、この映画はそのあたりはうまく背景におさめ、「ここではないどこか」へのあこがれを具象化するような、まさにタイトル通りの冒険物語になっている。まずはその「ここではないどこか」へと向かわせる原動力となる、三人三様の挫折を描く演出がいい。映像は流れるように進行していくけれども、全体にけっこう時間的には縮めて描写しているわけで、そのあたりが効果的。「挫折」のあと、つかの間の幸福感に包まれた船上のひとときがあり、その幸福はある男の闖入から壊されてしまうことになる。

 この「ある男」(セルジュ・レジアニ)のこと、わたしはもっと悪意を持った男だったように記憶していたのだけれども、今回観ると彼はそのさいごまで、彼なりに誠実な男だったようだ。しかし「三人組」の構図が壊れるとき、その「夢」も壊れてしまうわけで、たとえ彼が三人を「夢」に一歩近づける存在だったとしても、壊してしまったことに変わりはないだろう。

 ラストの「要塞島」のことはよく記憶していたけれども、そこの博物館のレティシアの甥の少年のことはまるで忘れていた。しかし、観ているうちにその少年の行動を思い出したりもしてくるのだった。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150822

■ 2015-08-21(Fri)

 いろいろ考えて、今日は飯田橋へ行って、アンスティチュ・フランセ東京のエスパス・イマージュで上映されるロベール・ブレッソンの作品を観ることにした。ブレッソンの作品「スリ」、「ラルジャン」、そして「やさしい女」の三本が、今日から日曜日まで上映される。「スリ」と「ラルジャン」は今日と明日それぞれ一回だけの上映で、「やさしい女」は日曜日まで九回上映される。とりあえず全作品観たいのだけれども、今日か明日にまとめて三本一気に観てしまうか、それとも二回(もしくは三回?)に分けて観るか、ちょっと考えたのだけれども、やはり一気に三本観るのはつらいだろうということになり、「ラルジャン」を明日観ようとすると、しごとのあとのスケジュールがあわただしくなる。それで、今日「スリ」と「ラルジャン」を観ることにした。午後七時開映の「ラルジャン」を観終わると帰宅するのは最終電車になってしまうだろうけれども、しかたがない。本来ならばその「ラルジャン」の終映後にブレッソンの映画についてのトークがあるのだけれども、やはり聴かないで帰ろうと思う。

 五時開映の「スリ」を観るためには、自宅は二時に出れば充分間に合うだろう。空は今日も曇っていて、ひょっとしたら雨に見舞われることもあるかもしれない。このところは雨が降るごとに涼しくなる感覚なので、あまりに大降りにならなければ、雨もまたいいだろう。

 今日は遅くなるだろうからニェネントにネコ缶をたくさん出してあげて、「留守番よろしくね」と家を出る。電車の中では「オン・ザ・ロード」を読むつもりだけれども、やはり車中では眠ってしまう。行きの車中で寝るのはもう、条件反射のようにクセになってしまっている。予定通りに四時ちょっと過ぎに上映会場に着き、チケットを購入。開映まで時間があるので近所のコンビニへ行き、眠気覚ましのブラックコーヒーと肉まんとを買い、会場の喫煙所で肉まんを食べる。

 「スリ」の上映は客の入りも座席の半分ぐらいだったけれども、「ラルジャン」のときにはほぼ満席になった。やはりトークがあるからか、または勤め帰りの方々には七時開映がちょうどいいからなのか。とにかくブレッソンの映画はそんなに長くはないので、七時開映でも充分に終電に間に合う。映画が終わって外に出ると、ちょっと雨が降ったあとがあった。

 予定通り終電で帰宅して、時間は十一時半。晩ご飯をちゃんと食べていないけれども、これから本格的な料理などやってられないのでトーストですませる。パソコンをつけていろいろチェックしていたらなんだか眠れなくなってしまい、パソコンに向かってずっと起きてしまっていた。




 

[]「スリ」(1959) ロベール・ブレッソン:脚本・監督 「スリ」(1959)   ロベール・ブレッソン:脚本・監督を含むブックマーク

 ブレッソンの作品ではかなり一般にも知られた作品だろうか。やはりパリのメトロ車中の撮影の見事さもあるし、当然、あの「スリ」のシーンの細かいカット割りのすばらしさに見入ってしまうことにもなる。あとで知ったのだが、この作品にはドストエフスキーの「罪と罰」の影響が伺えるそうな。たしかに「赦し」ということが重要なテーマであることは感じた。

 そして、映画の内容はさておいても、いちばん眼を奪われるのはジャンヌ役のマリカ・グリーンのあまりの美しさだろう。わたしにとって、フィルムに記録された女性のなかでもっとも美しいと思える女性ではないだろうか。彼女が登場するたびに、字幕を追うのも忘れて眼を奪われてしまう。もちろんブレッソン映画だから彼女もプロの俳優ではなかったのだけれども、彼女はその後そのまま映画界にとどまったらしい。ルネ・クレマンの「雨の訪問者」などにも出演しているようだけど、あの「エマニュエル夫人」にも出演されているのである。彼女目当てで観てみる?




 

[]「ラルジャン」(1983) レフ・トルストイ:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督 「ラルジャン」(1983)   レフ・トルストイ:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督を含むブックマーク

 主人公のイヴォンが最初に「怒り」を見せるシーン。相手の胸ぐらをつかみ、押し離して開かれたイヴォンの手のひらのショット、そして倒されたテーブル。これらの短いショットの連続が強烈な印象を残す。そして、この映画には多くの「扉」が映される。店舗や民家の押し降ろして開かれるドアノブや、留置所や刑務所の横に開く格子扉。それらの扉が開かれるたびに、主人公は悲劇の中へと突き進んで行く。終盤には、小さな橋が主人公の最後に渡るべき関門として用意されていた。

 そうしてラストの「犬」の恐ろしさ。階段に横たわる死体を犬が乗り越えるだけの短いショットに、ゾワッとしてしまう。

 そのようにブレッソンの演出の特徴は、相反するような短いイメージのショットをつなげることで、観るものに強烈な印象を残すことにあるのではないだろうか。やはりこの「ラルジャン」は傑作だと思う。いや、先の「スリ」だって傑作であることに変わりはない。どちらの作品もまた観たい。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150821

■ 2015-08-20(Thu)

 ニェネントがわたしのそばにすり寄って来ることが多くなった。もちろんネコ缶を替えたことの影響、余波からのことではないかと思うのだけれども、かわいいので時々抱き上げて鼻のあたまをなめてやったりして、スキンシップをはかったりするのである。なんだか、そういうことをやっても、以前ほどには嫌がらないように思えてしまうのだが。

 やはり昨日の外出の疲れが出たのか、ぐったりしてしまった一日。パソコンの前にすわってTwitter とかをいつまでも閲覧していたりしても、何も考えているわけではない。記憶を失って以来、「思考」ということも出来なくなってしまっているのではないかと心配する。前にも書いたかもしれないけれども、そもそも「思考」というのは過去の思考の記憶をたどり、その過去の思考を源として今の視点から発展させる、というものなのではないかと思う。その「過去の思考」というのが思索の中で浮かんで来ないのだから、つまり発展させるそもそもの「基礎」が見失われている、ということではないだろうか。それはいってみればわたしの場合、「思考の不可能性」ということになるのではないのか。もっと平易ないい方をすれば、つまりはわたしは「バカ」なのであろう。これはもうどうしようもないこととして受け容れなければならない。同時に、やはりなんとかその地平から脱却することを目指したいとはいつもいつも思っている。

 果たして、わたしにはどのようにして「思考」が可能なのだろうか。その方策とはどのようなものだろうか。どちらにせよ、もうわたしの精神面での「成長」という道は閉ざされてしまったと考えるしかないのだから、そこで「生きがい」をどこに見つけるか、ということにもなる。そうしなければわたしの場合、生きている意味はまったくなくなってしまうのだ。




 

[]「恋人たちは濡れた」(1973) 神代辰巳:監督・脚本 「恋人たちは濡れた」(1973)   神代辰巳:監督・脚本を含むブックマーク

 不思議な味わいの作品。オールロケ(勝浦が舞台)で長廻しが多用されていて、どこかドキュメンタリーというか即興演出っぽい空気がただよう。

 過去を捨てた(過去に犯罪を犯した?)男が、彼の故郷らしい町に戻って来て、映画館でフィルム運びの仕事をしている。映画館の主人は外で遊んでばかりいるようで、映画館の切符売りなどは奥さんがやっている。欲求不満の奥さんは主人公を誘う。主人公は海岸でカップルの情事を覗き見するのだが、結果としてそのふたりと奇妙な関係を持つようになる。

 唐突とも思えるラストとか、どこかアントニオーニの作品を思い出させられるようでもあるけれども、わたしにはそういうアントニオーニの作品の記憶も失せているので、しかとはわからない。「さすらいの二人」や「砂丘」、あたりのタイトルは頭に浮かぶのだが。

 撮影は姫田真佐久氏なのだが、わたしはこの姫田氏の息子さんという人物を知っていた。ダンサーだかパフォーマーだかのグループと行動されていて、わたしもそのグループと接点を持ったのだったけれども、あのグループは珍しいぐらいに誰も、何の成果も産み出さないままに消えてしまった(ということを書いておきたくなった)。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150820

■ 2015-08-19(Wed)

 昨日予定を立てたように、今日は上野へ行って科学博物館の「生命大躍進」展を観る。なるべく早い時間に行き、早くに帰って来ようかと考えて、十時前の電車で出かけることにした。車中ではいつものようにほとんど寝て過ごした。

 上野到着は十一時ちょっと過ぎで、まずは早めの昼食を、いつもの日高屋で、今日は「和風つけ麺」ですませる。食事のあと上野公園へ向かい、科学博物館に入場したのはちょうど十二時頃だった。この時間帯ならばさほど混み合ってもいないだろうと思ったのだけれども、これが思いのほか混んでいた。

 いちおう展示の順に、だいたいのキャプションもていねいに読んで展示を観ていくと、けっこう時間がかかってしまうし、立ちっぱなしというのもやはり疲れる。最後の方の「人類の誕生」みたいなコーナーはちょっと駆け足になったけれども、それでも展示全体を観るのに二時間以上かかってしまった。展示の最後にはこの特別展のためのミュージアム・ショップがある。カタログを買おうかと思ったけれど、どうせ買っても読まないで放置してしまうのはわかっているから、買わないですませた。アノマロカリスなどのぬいぐるみも売られているのだけれども、ウミサソリの実物大(2.2メートル)ぬいぐるみが32万円とかで売られていて、「誰が買うのよ?」などと思ってしまう。

 まだ時間も早いので常設展示もちょっと観ておきたくなり、喫煙所にすわって一服してから再度展示に挑戦。「生命大躍進」展を補完するような展示も多く、出来るだけそういう展示を中心に、ちょっと駆け足で観てまわった。
 館内には外国人のお客さんの姿も多く見かけるのだけれども、展示物のキャプションの外国語表示はほとんどその名称だけに限られているようで、これで見る人には何か伝わるのだろうかと思ったりする。まあキャプションもすべて外国語表示も並列させたらたいへんなことになってしまうだろうけれども。
 しかし、常設展示にはいろんな動物の剥製が展示されているのだけれども、どうしても「あれって、つまりはお隣の上野動物園で死んじゃった動物を剥製にしたんだろうな」と考えてしまうのである。骨格標本だって同じだけれども。

 外に出るともう時間は三時半。つまり、三時間半の鑑賞。さすがに疲れました。もう今日は早くにまっすぐ帰宅することにして、上野駅から上野東京ラインに乗って家に向かった。持参していた本「仮面の商人」も読み終わった。

 まだ明るいうちに帰宅し、昨日買ってあったかき揚げ天ぷらで天ぷらそばをつくり、かんたんな夕食にした。ニェネントはやはり出してあったご飯をきれいに食べてしまっていたので、また出してあげる。すぐに飛びついてくるニェネントである。




 

[]「生命大躍進 脊椎動物のたどった道」@上野・国立科学博物館 「生命大躍進 脊椎動物のたどった道」@上野・国立科学博物館を含むブックマーク

プロローグ 生命誕生
第1章 カンブリア大爆発
第2章 海から陸へ
第3章 哺乳類の出現と多様化
第4章 人類への道
エピローグ 受け継がれたDNA

 カンブリア紀のバージェス頁岩動物群の紹介から始まる展示は、つまりは一気に六億年の歳月を俯瞰することになるわけで、それほどに広々とした会場でもない中での展示に六億年を突っ込むのはムリがあるだろうと思うのだが、やはり力の入った展示は「カンブリア大爆発」と「人類への道」の章、だろうか。特に、先に書いたようにカンブリア紀のバージェス頁岩動物群の紹介は見ごたえがあるもので、ほとんどの化石が「実物」であるというのがうれしい(まあ、「レプリカ」であってもわたしなどには見分けがつくものでもないだろうが)。しかしお目当てのバージェス頁岩化石群、美しい黒灰色の頁岩の中に埋め込まれたカンブリア紀の小動物、その黒いシルエットに眼が惹きつけられ、その底知れない神秘に時を忘れた。生物学のことなどわからなくても、そこにまぎれもない「美」があると思った。

 あと、恐竜時代のCG映像でティラノザウルスが全身灰色の羽毛に被われ、その羽毛が頭頂部だけ赤い色だったというのは、今の研究ではそういうことなんだろうけれども(まあトサカの「赤」は創作だろうけれども)、やっぱり違和感を拭えないものである。

 この特別展は十月の初めまで開催されているようなので、時間が取れたらまた観てみたいと思うのであった。




 

[]「仮面の商人」アンリ・トロワイヤ:著 小笠原豊樹:訳 「仮面の商人」アンリ・トロワイヤ:著 小笠原豊樹:訳を含むブックマーク

 千九百三十年代。同時代的にはまったく評価されなかった文学者が自殺するまでの一人称記述が第一章。そして第二章では時代は現代(千九百九十年代)になり、作家はその死後に圧倒的な評価を受けることになり、その生涯は謎につつまれている。そこにその作家の遠縁に当たる男が作家の伝記を書くことを決意し、第一章に登場したその当事者や子息らにインタヴューする。彼らが語るその作家像はすべて、第一章で作家自身の眼で語られた内容とは大きな違いで、語り手の自尊心や虚栄心などが事実をゆがませている。第三章。そんな虚偽だけで成り立ったような伝記を男は書き上げ、ゲラ刷りも上がるだろうという時期になって、男はある「手紙」を発見する。さて、男のとった行動とは‥‥。

 作者のアンリ・トロワイヤ自身が多くの伝記を執筆しているわけで、わたしもその中のどれかは読んでいた気がする。そんなトロワイヤ自身の、資料調べとかの体験がこの作品に結実しているのだろうか。とにかくは皮肉の効いたエンターテインメントとして極上の面白さ。そしてやはり(故)小笠原豊樹氏の翻訳の安定度、というのか、とにかくすばらしい訳文ではありました。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150819

■ 2015-08-18(Tue)

 明日はしごとは休みなので、今日は多少遅くまで外で遊んで来てもかまわない。そう考えて、午後から東京に映画を観に行くことにした。明日は上野に出て「生命大躍進」展を観ることにしようか。今観たい映画は「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」というベル・アンド・セバスチャン絡みの映画か、それとも「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」というビーチ・ボーイズ絡みの映画のどちらか。どちらも音楽絡みの映画なのだけれども、今日もまたいつ雨が降り出すかわからないところがあるので、映画館が駅に近い方の映画を選んで、「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」を観ることにした。この映画、ベル・アンド・セバスチャンのメンバーが監督しているということ以外、まったく何も知らないで観ることになる。上映時間を調べると三時四十分からの回がちょうど良さそう。ならば一時ごろに自宅を出ればいい。映画が終わってそのまま直帰すれば九時ぐらいまでには帰って来れるだろうし、ちょっと寄り道して帰ってもいい。

 今日も朝からいっぱい食べているニェネントに、わたしが留守のあいだのご飯を出しておいてあげてから出発。自分の昼食はあちらでとればいい。映画館のある新宿には三時前に到着し、まずは映画館へ行ってチケットを買い、座席を確保する。平日でまだ開映まで一時間ほどあるのに、意外に座席は埋まっていた。思ったよりヒットしている映画なのだろうか。

 チケットを買ったあとはちょっと遅い昼食。またまたいつものように日高屋へ行き、今日は「かた焼きそば」を注文してみた。うん、安いだけあって見かけもちょっとワイルドだが、味は悪くなかった。これからときどき、この「かた焼きそば」にしてもいい。

 食事を終えて近くの喫煙所で一服すると、もう開映時間が近づいている。映画館へ戻り、席にすわって開映を待つ。この映画館は予告のあとに「NO MORE! 映画泥棒」などというのをやらないのがいい。

 映画の感想は下に書くけれども、好きなタイプの映画だったのでよかった。終映時で五時半ぐらいで、まだまだ外は明るい。またこれから「G」へ行ってみようかと思ったのだけれども、この時期は夏休みで営業していない可能性があるのに気づいた。ケータイに「G」の電話が登録してあったので電話してみたが、やっぱり誰も出ない。夏休みだ。それならもうまっすぐ帰宅しようと、駅へと向かった。

 予想どおり自宅駅には九時前に到着。北のスーパーの方に回ってお弁当を買って帰り、ちゃっちゃっとお弁当を食べてベッドにもぐり込んだ。そう、ニェネントはやっぱり、お留守番用のご飯はきれいに全部食べてしまっていた。




 

[]「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」スチュアート・マードック:監督 「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」スチュアート・マードック:監督を含むブックマーク

 ストーリー展開でみせる映画というよりは、ベル・アンド・セバスチャンの新しいプロジェクトとして音楽プラス映像で出してみた、という感じの作品。もともとベル・アンド・セバスチャンの音楽が好きだったわたしが音の面で気に入らないはずもないが、映像もけっこう気に入った。ただ、せっかくグラスゴーでロケしてるんだからもうちょっとグラスゴーの景色を見たかった気はするし、まあしろうとっぽい映像といえばしろうとっぽいところもあるわけだ。

 映画はいきなり、ラジオのDJがしゃべっているという設定のモノローグで、ニック・ドレイクの話から始まったりする。いわく「彼は早死にしたから神秘化されてみられるけれども、彼が生きていてその新作についてラジオでしゃべったりしたらどうだろう?」みたいな。‥‥こういう、いかにもベルセバ好みっぽい音楽ネタは随所にはさみ込まれる。

 特にわたしが気に入ったのは、ヒロインのイヴが野外にポータブル・プレーヤーを持ち出してシングル盤をかけるシーンで、そのシングルはレフト・バンクの「Pretty Ballerina」なのだった。残念ながらその「Pretty Ballerina」が流れるわけではなかったけれども、その邦題「夢みるバレリーナ」というのがちゃんと字幕で出たあたり、ていねいな仕事だと感心したり。しかし今あらためてその「Pretty Ballerina」を聴いてみると、たしかにベル・アンド・セバスチャンっぽいところがあるのだった。監督をしたスチュアート・マードックは実際にこの曲がフェイヴァリットなんだろう。

 おかしいのは映画の中でバンドメンバーを募集したら大勢押し掛けて来るシーンで、その最後にギターケースとバスケットを持って、ピンクと白のチェックの服にエプロン姿の女性が駈けて来るんだけど、それって『サウンド・オブ・ミュージック』じゃん、と思ってしまったのだけれども、ラストの「Cast」のクレジットで、「Julie Andrews」という役名が出て来て、ああ、やっぱりあのシーンのアレじゃあないかと、ちょっと笑ってしまった。

 映画は女の子ふたりにひとりの男の子、という三人の組み合わせが面白いんだけど、この三人が音楽に合わせて踊るシーンで、ちょっとゴダールの『はなればなれに』を思い出させられるシーンもあった。ヒロインの子はときどきアンナ・カリーナに似てたし。もちろん、ミュージカル仕立てのこの作品、過去のいろいろな映画へのパスティーシュが含まれていることだろう。わたしがわからないだけだ。

 帰宅して調べてみると、監督のスチュアート・マードックは2009年にまさに「God Help The Girl」というアルバムをリリースしていて、そこでは曲ごとに異なる女性ヴォーカルがフィーチャーされていたらしい。つまりそのいちどアルバムとしてリリースされた企画がふくらんで、こうやって一本の映画として日の目をみたということだろうか。一般に一本の映画としてどのくらい一般観客に訴えるものがあるのか、わたしにはよくわからないところがあるけれども、ベル・アンド・セバスチャンのアルバムをずっと聴いていけば、その延長でこの映画もまた観てみたくなる、そういう映画であることは間違いないし、ベル・アンド・セバスチャンのファンであればきっと好きになる映画では?と思うのである。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150818

■ 2015-08-17(Mon)

 また何かと読書に身が入らない感じになってしまっていて、家にいてもほとんど本を開いてみることもないのだけれども、今日は月曜日でしごともヒマなので職場に読みさしの本を(こっそり)持ち込み、しごとの片づいたあとはずっと読んでいた。
 このところ、夕方からとか雨になることが多いが、今日は朝からけっこう雨模様になっている。雨が降るごとに涼しくなって来るようで、喜ばしいといえば喜ばしいかもしれない。

 ニェネントが新しいネコ缶を気に入ってくれたので、今日はホームセンターのそばのドラッグストアまで、そのネコ缶のまとめ買いに行く。どこの店でも売っている知名度の高いネコ缶なのだけれども、そのホームセンターのそばのドラッグストアが、格段と安い値で売っているわけである(九月中旬までの限定価格)。そして月曜日はそのドラッグストアはちょっと安売り。三缶ずつまとめられているのを六パック買ったけれども、また来週も同じ分量ぐらい買っておこうかと思う。

 明後日はしごとは非番で休みなので、明日あたり映画を観に行くか「生命大躍進」展を観に行くかしてみたいと思う。




 

[]「アルマジロ」(2010) ヤヌス・メッツ:監督 「アルマジロ」(2010)   ヤヌス・メッツ:監督を含むブックマーク

 デンマーク製のドキュメンタリーで、日本では2013年にアップリンクの配給で一般上映されていたらしいけれど、アップリンクのHPで、期日を限って無料放映されていたものを観た。観終わるとこれが「安保法案」「集団的自衛権」の問題に絡んでの無料放映だったことがわかる。

 アフガンでの「国際治安支援部隊(ISAF)」活動に参加したデンマークの若者たち。ただのパトロールのつもりでも現地の人の畑を荒らして迷惑がられる。何も起こらないパトロールの単調な毎日から、一転してタリバンとの戦闘になるとテンションが上がり過ぎ、平常心を失って行く兵士たち。そのさまを捉えるカメラには、モラルから外れて残虐さを丸出しにする「危険な」青年らの姿がある。その戦闘のシーンは、それら兵士のヘルメットに取り付けたカメラで撮られているらしいけれども、やはり実際の戦闘の迫力というのは恐ろしい。

 「平和」名目での治安支援などといっても、自分たちも死に直面するし敵を殺害しもする。そのときの若者たちの内面をのぞき込む記録はやはり怖い。「集団的自衛権」で派兵される自衛隊員もこうなるのか。




 

[]「リンダ リンダ リンダ」(2007) 山下敦弘:監督 「リンダ リンダ リンダ」(2007)   山下敦弘:監督を含むブックマーク

 長廻しだとか、真上から見下ろしたショットとか、山下敦弘監督がその演出テクニックのいろいろな面をみせてくれる映像が楽しい。高校生活をリアルに描くのではなく、映画的にフィクショナルな要素をうまく取り込んだ作品だと思う。そのフィクショナルな部分の活かし方がうまい。

 高校生らが主役のドラマというと「桐島、部活やめるってよ」を思い浮かべてしまうのだけれども、冒頭のシーンが映画部の撮影風景だというあたりとか、校内の空間の活かし方とかに、やはりそれなりの影響はあるのではないかと思った。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150817

■ 2015-08-16(Sun)

 14日夜のNHK出演で、安倍首相は原発事故への対策、避難経路、避難場所、避難バスなどのことはしっかり対策を立てていると言っていたけれども、原発事故は避難出来ればいいってもんじゃないってことを、今の福島をみてもこの人はわからないのだろうか。川内原発はぜったい止めなければいけないと思う。

 ニェネントは相変わらず、ご飯をいっぱい食べてくれている。うれしいことであるが、わたしの方はあんまり食欲もなく、「ご飯? 面倒だなあ」という感じの毎日なのである。しかし、今日はこのあいだ買って冷凍で保存してあるステーキ肉(安かった)を調理して(調理といってもフライパンでガーッと熱を通すだけだが)、夕食は<何年ぶりかの>ステーキ、ということになってしまった。すでに香辛料などは加味されていたようで、ほんとうに焼いただけでおいしいステーキになった。食欲も出て、今日は高カロリー、高タンパクの一日になっただろうか。

 一般の「お盆休み」も終わったようなので、そろそろ「生命大躍進」展とか観に行きたいし、観たい映画もたまって来た。この週末にはロベール・ブレッソンの作品が何本か上映されるのを観に行こうと思っているけれども、その前に何か映画を観に行ったりしてみたい。



 

[]「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007) ポール・トーマス・アンダーソン:監督 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007)   ポール・トーマス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 原作はアプトン・シンクレアの「石油!」というものらしいけれども、そこから大幅に脚色した映画らしい。ダニエル・デイ=ルイスの演じるダニエルという男の、石油採掘に賭ける一代記なのだが、単純に「サクセス・ストーリー」などといえるものではなく、ある面では「復讐譚」という色彩も持っているだろう。「石油採掘」と「新興宗教」とに被いつくされていく、二十世紀初頭のアメリカの<地方>の肖像、ということも出来るのかもしれない。だからダニエルという人物は非常に象徴的な人物なわけで、それはアメリカの「近代化」ということを象徴するのだろうか。そこに「There will be blood」(いずれ血を見るぜ)といってるわけだから、そこにアメリカの何かが語られているということだろうか。
 実際に映画のラストには<血>が流され、ダニエルはたしか「I've finished」(だろうか?)というわけである。しかし彼がアメリカの何かを象徴しているのであれば、ここで終わってはいないストーリーが、映画の終わったあとも脈々とつづいているのではないだろうか。

 撮影はロバート・エルスウィットという人で、長廻しも多用していい仕事をみせてくれている。音楽はレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドで、どこだったか、風景だけを映していたシーンで、彼の音楽のとっても印象的に響いた場面があった。




 

[]「八甲田山」(1977) 新田次郎:原作 森谷司郎:監督 「八甲田山」(1977)   新田次郎:原作 森谷司郎:監督を含むブックマーク

 明治三十四年に実際に起きた、弘前第三十一連隊の八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした作品。史実にかなりのフィクションも織り交ぜての映画化。撮影は木村大作で、実際の吹雪の中での撮影は強烈な印象を残すのだけれども、白い雪とのコントラストで俳優らの顔は黒く映り、いったい誰が誰なのか判然としないということはある。

 遭難した兵士の夢想する、春ののどかな風景などもインサートされるのだけれども、映画の中でそういうことの効果はまるで活きていない感じがする。ただただ雪の中で登場人物たちが頭から雪にまみれ、ほとんどSF映画の登場人物のようにみえてしまうところにこそ、この作品のインパクトがあり、そういう意味では、もっと感傷を排してドキュメンタリータッチで撮った方がよかっただろうにと思う。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150816

■ 2015-08-15(Sat)

 ネコ缶が変わって、ニェネントの様子が一変してしまった。今までのようにベッドの下にこもりっきりではなく、かなりの頻度でわたしの周囲でゴロゴロしているようになった。朝のご飯のときはやっぱり大喜びのようで、わたしが皿にネコ缶をとっているあいだも、「早くしてよ!」とばかりにわたしの足もとで行ったり来たりしている。「さあ、出来たよ!」と皿をニェネントの目の前に下ろしてあげようとすると、なんとわたしのスネをなめて来たりするのである。「こんどのネコ缶とってもおいしいんだから、早くちょうだいよ!」っていっているみたい。とにかくは突然にかわいい飼い猫に変身してしまったようで、それはうれしいことである。

 




 

[]「地獄の黙示録」(1979) ヴィットリオ・ストラーロ:撮影 フランシス・フォード・コッポラ:監督 「地獄の黙示録」(1979)   ヴィットリオ・ストラーロ:撮影 フランシス・フォード・コッポラ:監督を含むブックマーク

 この録画は、2001年の「特別完全版」の放映によるものではないようで、二時間半ほどの尺のもの。今では「特別完全版」こそが決定版という認識もされていることだろうから、この放映はちょっと残念ではある。とにかくやはり、わたしにこの映画の記憶が残っているわけではないのだし。

 ホテルの部屋で錯乱するウィラード大尉(マーティン・シーン)のシークエンスからはじまるこの作品は、その冒頭のウィラードの錯乱をまた具現化するような「混乱(?)」の中に終わるのだが、終盤のカーツ大佐(マーロン・ブランド)の「王国」へたどり着くまでの路程の描写は、戦争の狂気を描いて本当にすばらしい。まずはキルゴア中佐(ロバート・デュヴァル)の「Charlie don't surf!」の名セリフに至る狂気(ここでの「ワルキューレの騎行!」)があり、川を上って行く哨戒艇の乗組員の狂気がつづく。幕間狂言的なプレイメイトらのライヴショーもいい(ここで司会をしてるのはビル・グラハムだね)。

 そしてたどり着いたカーツの王国の世界の異様さ、カーツ本人の「謎」。カーツに幻惑された報道写真家(デニス・ホッパー)がウィラードにカーツのことを語るが、実際に現れるカーツの存在は、そんな予備知識など吹っ飛ばしてしまう。なぜかウィラードに殺されることを受諾するかのようなカーツの最後の言葉は「恐怖」、というものだった。

 ある意味で「娯楽戦争映画」として映像としても強烈な味わいを残す(撮影はヴィットリオ・ストラーロで、とにかくはすばらしい撮影である)前半が、この終盤では晦渋な哲学的空気の闇の中に沈むようである。このあたり、ヨーロッパの監督ならばこのような演出をもうちょっとうまく出来そうなものだけれども、そりゃあ「ゴッドファーザー」は傑作だとはいっても、やはりここでコッポラは「娯楽映画」の監督であることから抜けられなかった、ということではないだろうか。




 

[]「一条さゆり 濡れた欲情」(1973) 神代辰巳:監督 「一条さゆり 濡れた欲情」(1973)   神代辰巳:監督を含むブックマーク

 神代辰巳監督の映画の記憶はまるでない。この作品は彼の日活ロマンポルノ時代の作品で、彼の存在が最初に注目された作品だろうか。実在の一条さゆりというストリッパーが、公然わいせつ罪で起訴されているというさなかに、その一条さゆり本人の出演で撮られた作品で、そのあたりのリアルな世界とのリンクの仕方がまずは面白い。

 映画では、その一条さゆりにあこがれているといいながら対抗意識を燃やすストリッパー(伊佐山ひろ子)を主役に、彼女の「生」のあふれるようなバイタリティーを、演出自体のバイタリティーで描いていって爽快な作品。面白かった。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150815

■ 2015-08-14(Fri)

 ニェネントは新しいネコ缶を気に入ったようでうれしいのだけれども、実は古い(ニェネントにはおいしくない)ネコ缶がまだ六缶は残っている。これを出してもニェネントは食べないし、捨ててしまうのもちょっともったいない、というか面倒でもある。それで、この古いネコ缶と新しいネコ缶とをまぜあわせてニェネントに出してみることにした。比率は1:1ぐらい。どうだろう。食べてくれるだろうか。

 朝、しごとから帰ってきてからまず、わたしはパソコンの前にすわって、しばらくパソコンを閲覧するわけだけれども、そのあいだニェネントはわたしのうしろで横になっている。わたしが「そろそろ朝食にしようか」と立ち上がると、その姿をみてニェネントは「ニャッ!」となき、わたしより先にキッチンへ早足で移動するのである。「やあ、朝ご飯だね!」とでもいっているみたいである。それで、その新しいのと古いネコ缶をまぜたご飯を皿に盛ってあげる。
 ‥‥どうやら古いネコ缶がまじっていても大丈夫なようで、ニェネントは一心に皿にへばりついてご飯を食べている。‥‥全部食べてしまった。これなら一安心。古いネコ缶がなくなるまでは、このメニューで行くことにしよう。

 昼間に映画を一本観て、夕方テレビを見ていたら、安倍首相の「戦後70年談話」発表の生中継がはじまった。わたしはこれは終戦の日の明日やるものだと思っていたので、ちょっとおどろいた。
 とにかくはまどろっこしい朗読で、何を言いたいんだかよくわからない内容ではあった。しかし、どうやらまずは「日露戦争」での勝利をたたえ、「日露戦争」とは「反植民地支配」の戦いの勝利としてアジア、アフリカの人々を勇気づけたというようなことを言っている。そしてまた、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも言う。これはもう、日本は戦争責任を「謝罪」することはないのだ、と言っているのだろう。まずこれらのことを、わたしは「そうではないだろう」と思っている。このことは今は細かくは書かないけれども、そして安倍氏はやはりここでも「積極的平和主義」という言葉を使用している。彼が言う「積極的平和主義」とは、つまりは集団的自衛権の行使による、海外への派兵も辞さないという方策のことであって、現在の憲法第九条で示される「平和」とは対極の位置にあるものであろう。だからこそ安倍内閣は現行憲法を変更し、憲法九条を廃棄しようとするわけだろう。

 九時になってNHKのニュースに安倍氏自らが生出演し、その「戦後70年談話」の説明をやっていた。NHKのアナウンサーがその内容に関して質問をし、それに安倍氏が答えるという形式もあったが、アナウンサーの質問は安倍氏の論説の補強のためのものでしかなく、本来の「質問」「追求」からは程遠い姿勢だった。これが今のNHKの姿ではあるだろう。また、この11日に再稼働した川内原発にからんで原発問題にふれ、「原発を再稼働しなければ電気料金が値上げされることになる」などと言う。ふざけた論説である。

 安倍のおかげで、不快な気分で終わる一日になってしまった。



 

[]「レオン(完全版)」(1994) リュック・ベッソン:監督 「レオン(完全版)」(1994)   リュック・ベッソン:監督を含むブックマーク

 演出法としてはどこか「ニキータ」を引き継いだところも感じられ、やっぱり「室内」ということにどこかこだわっているのかと思ってしまう。マチルダの造形は興味深いところもあるし、そこからのレオンの性格づけも面白い。

 わたしは仲介役のダニー・アイエロが、レオンを陥れた黒幕というか、レオンの稼ぎを横取りしようとしている悪玉だと思ったので、ラストで成敗されるものとばかり思って観ていた。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150814

■ 2015-08-13(Thu)

 というわけでまだ日付けは12日なのだけれども、スズナリを出て「G」へ。店に入ると店内はいつもより薄暗く、カウンター席に三人ほどのお客さんが並んでいる。カウンターの中にいるのはどうもギタリストのFさんのようだ。「いらっしゃい」の声に迎えられて奥の席へ行くと、カウンターのお客さんのひとりが「久しぶりです」と声をかけて来られた。みるとやはりギタリストのGさんだった。たしかにGさんにお会いするのはほんとうに久しぶりのことで、Gさんもなんだかすっかり髪が白くなってしまわれている。「ほんと、久しぶりです」とあいさつする。「今日はどちらへ?」と聴かれたので鉄割のことなど話してみるが、ご存知ではなかったようである。

 さて、カウンターの中ではFさんが、タブレットのようなディスプレイで「能」の舞台の映像をご覧になっている。これが「カッコいいんだよな〜」とか「面白いな〜」とか、もう客席にいてもその「能」の映像を見なければしょうがない、という空気である。何となく店全体が「能の鑑賞会」という雰囲気になっている。舞台はどうやら有名な「舟弁慶」らしい。Fさんの解説を聴きながら観ているとたしかに面白いようでもあり、ま、こういうこともあるだろうとあきらめる。
 しかし、とりあえずその舞台映像が終わったので、「次はロックのライヴを観ようよー」とリクエストしたのだが、Fさんに「ダメ!」と一蹴され、彼はまたオープニングからもういちど観始めるのである。しょうがないから酒を飲む。
 水曜日のメニューはいつもとは違って、ビールにワイン、日本酒、そして焼酎とソフトドリンクぐらいしかない。そのコピー用紙に手書きされたメニューに、「しょうちゅう(大)200円 しょうちゅう(中)250円」とあるのを不思議に思い、Fさんに「なんで大よりも中の方が高いの?」と聞いてみると、これが(大)ではなく、(下)なのだということ。たしかに書きようによっては「大」と「下」という字は似通って見えるか。しかしでは(上)はないのかというと、ここはそんな高級な店ではないのである(この水曜日以外はずいぶんとグルメな店なんだが)。

 Gさんを含めお客さんたちも帰りはじめ、時計を見るともう十二時になるところ。わたしも店を出ることにして、この夜は近郊のカプセルホテル「M」に宿泊しようかと考える。明日の朝は帰宅する前に上野へ行き、科学博物館で「生命大躍進」を観ようかと。

 「M」へ行く。すっごく久しぶりのカプセルホテル。普段はこんな遅くまで起きていることもないし、適度にアルコールも入っていることだし、すぐに眠りについたようである。
 フッと目が覚めてケータイで時間を確認すると、もう八時半になっていた。なんだか寝過ごしてしまったような感覚だったけれども、普通に八時間睡眠をとっただけ。起きて着替えをして、食堂でかんたんな朝食を食べてさっさと外に出た。ちょっと雨が降っている。

 小田急線、山手線を乗り継いで上野へ出た。雨もすっかりやんでいる。予定していたように「生命大躍進」を観るつもりだったのだけれども、駅から上野公園へ降りてくる家族連れの数がハンパではない。それが科学博物館へと向かう道にもおおぜい歩いて行くのが見える。‥‥そうか、今日はもう一般には「お盆休み」なのだった。それは家族連れが多いわけだ。わたしは人ごみは苦手だし、小さいお子様たちが走り回るようなところも好きではない。やはり「生命大躍進」を観るのはまた別の機会にゆずるとして、お留守番してもらっているニェネントのことも心配だし、今日はこのまままっすぐに帰宅することにした。

 上野駅から上野東京ラインに乗って帰路に着く。家に帰ったのは十二時半ぐらい。ニェネントは相変わらず出迎えに出て来てくれない。「なんだ」という感じであるけれども、「さあ、ニェネントく〜ん、お留守番ありがとう。ご飯をあげますからね〜」とニェネントの食事の準備をしていると、やっぱりのこのこと出てくるのである。また新しいネコ缶を出してあげるとすぐにかぶりつき、すぐに全部食べてしまった。やっぱり新しいネコ缶は相当においしいようである。

 わたしも適当に昼食をとり、映画を一本観て、そしてパソコンにかじりついているうちに夜になってしまう。夕食はスーパーで弁当を買ってきてすませた。
 またタバコをカートンで買ったり、カプセルホテルに宿泊したりで、ずいぶんと支出の多い今回の上京ではあった。



 

[]「愛のメモリー」(1976) ヴィルモス・スィグモンド:撮影 ブライアン・デ・パルマ:監督 「愛のメモリー」(1976)   ヴィルモス・スィグモンド:撮影 ブライアン・デ・パルマ:監督を含むブックマーク

 原題は「Obsession」。脚本はポール・シュレイダーで音楽はバーナード・ハーマン。ヒッチコックの「めまい」の影響の強い作品ということだけれども、とにかくわたしはその「めまい」のことをこれっぽっちも憶えてはいないのだから、この映画を観る楽しみの半分は奪われてしまっているようなものであろう。

 主人公はクリフ・ロバートソンで、その運命を左右する女性をジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが演じている。主人公の同僚がジョン・リスゴーで、とにかく最初っから、このジョン・リスゴーがあやしいんじゃないかという空気。妻を誘拐されたクリフ・ロバートソンが身代金を犯人に受け渡す方法はちょっと「天国と地獄」の影響があるのかもしれない。

 映画は中盤まではまさに主人公の「Obsession」の具現化として進行していくようだけれども、これが残り三十分あたりから、とんでもない展開をみせることになる。バーナード・ハーマンの音楽も暴走気味だし、あまりの成り行きにあっけにとられてしまう。

 実はこの作品、わたしはずいぶんと昔に観たことがあり、ほんのちょっとだけ記憶に残っているところがある。それが映画のラストシーンで、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドの「パパ、お金を持ってきてくれたのね!」というセリフと、ヴィルモス・スィグモンドのぐるぐる回るカメラと。しかしそのことがストーリーの中でどのように収まるのかはわからなかったし、回るカメラもここまでぐるぐると回りつづけるとは思いもよらなかった。この強烈さ! ここにこそこの映画の価値があるのではないだろうか。またゆっくりと、ヒッチコックの「めまい」を観たあとにでも観てみたい。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150813

■ 2015-08-12(Wed)

 今夜は、「鉄割アルバトロスケット」の公演をEさんと観る。Eさんの都合で今日のソワレ公演の観劇にしたけれど、開演が十九時半と遅いので(いや、ソワレ公演はこれぐらいが普通)、おそらく終演時にはもう帰って来れなくなっているだろう。そういうわけで久々に東京で宿泊することを考えての行動になる。
 ちょっと早くに家を出れば、池袋の新文芸坐で今日までやっているジャック・ドワイヨンの「ラブバトル」とエドワード・ヤンの「恐怖分子」の二本を観ることができるわけで、「観たい」という気もちもあったのだけれども、夜は東京に宿泊の長丁場と考えると、やはり出かけるのはパスして、ギリギリの時間まで家でのんびりすることになる。

 さて、今夜帰宅しないとなるとニェネントのことが気にかかるのだけれども、この頃はあまりわたしの前に姿を見せないわけだし、食事も食べないで残してしまうことが多い。明日の朝も食事を出してあげられないこともあるし、この盛夏の中、ずっとあんまり食べないでいるのも心配である。それで考えて、前に買ってあった別種類のネコ缶を今日出してあげて、ニェネントの取っ付き方をみてみようと。おそらくは新しいネコ缶の方がおいしそうではあるし(ちょっとだけ高いのよ)、ニェネントが気に入るようだったら明日の分も含めてちょっとたくさん皿に盛っておいてあげようと。
 まずはテストと、朝食の時に新しいネコ缶を出してあげてみた。もちろん朝食の時だけはニェネントも皿のそばにやって来ておねだりをする。それでもこの頃は「おねだり」をするだけで、食事を出してあげてもちょっとかじっただけでいつものベッドの下に行ってしまっていた。さあ、今日の新しい食事はどうだろう?とニェネントの皿に出してあげると、もう期待通りに食いつき方がちがう。あっという間に、きれいに全部食べてしまったではないか。やっぱりネコ缶でもお気に入りの味はあるわけだ。あたりまえのことだけれども、ニェネントが新しいネコ缶を気に入ってくれたのはとってもうれしいことである。

 ごろごろしているうちに出発する時間になり、ニェネントにまたネコ缶を出してあげる。「いっぺんに全部食べちゃわないで、これは明日の分でもあるんだからね」と思うのだが、気配を感じたニェネントがすぐに出て来て、これまたあっという間に食べてしまった。まあこの暑い盛りに長いこと食べものを出しっぱなしにしておくと傷んでしまうだろうから、これでいいのかもしれない。

 二時の電車で出発。やはり外は暑く、やって来た電車の冷房の効いた車両に乗るとホッとする。Eさんとは五時に下北沢待ち合わせなので、一時間ぐらいは余裕がある。渋谷駅で下車してまたタバコをカートンで買い、東急の中の丸善/ジュンク堂書店へ行く。ここも涼しくていい。そう、今日は読んでいた「オン・ザ・ロード」を家に置き忘れて来たので、読む本がない。これは寂しいので何か買っておこう。前に見つけて気になっていたアンリ・トロワイヤの「仮面の商人」を探したらすぐに見つかって、価格も高くなかったのでこの本を買うことに決めた。アンリ・トロワイヤがどんな作家なのかわかってないのだけれども、たしか昔に澁澤龍彦が彼の短編を翻訳紹介していたんじゃないかと思う。

 東急を出るともう待ち合わせの時間ギリギリになりそうなので、あわてて井の頭線に乗る。同時にEさんから「もう下北沢に着いている」とのメールが入った。五時ちょうどに下北沢に到着し、Eさんとも遭遇。いっしょに下北沢ではいつも行くカフェで夕食をとる。
 今夜の公演の受付開始は六時半で、受付順の入場になるわけだから、ちょっと早めに会場のスズナリに行ってみる。まだ誰もいない。そのあたりにたむろしていても、なかなかに人は集まって来ない。六時半になって受付がはじまっても、せいぜい十人ぐらいの人しかいない。ひょっとしたら今日の公演はガラガラの入りではないのか、などと思ってしまったりするが、開演は七時半なのだから、そんなに早く来る人もそれほどまでにはいないということだろう。

 七時に開場して一番に入場したわたしたちは、いちばん好みの席をゲットする。いつものカラフルな座布団の席の上に、チラシなどといっしょに、新聞紙の袋に入れられたおせんべいが置いてある。前の方の席の脇には、ちゃぶ台のような小さなテーブルも置いてある。「あの席で観るのもいいな」などと考える。
 開演まで間があるので、わたしはいちど外出し、近くのコンビニでビールなどを買って来るのだった。鉄割の公演は飲食自由だし。

 開場した時にはガラガラだった会場も、開演時間が近くなると満員になってしまった。さあ開演。

 万が一早くに舞台がはねたなら、大急ぎで電車に乗ってギリギリ帰宅できるかもとは思っていたけれど、やはり終演時にはもう十時に近くなっていた。もう東京で夜を明かすしかない。早く帰るというEさんと劇場を出たところで別れ、わたしは久々に近くの「G」へ行ってみようかと考えるのだった。本来「G」は水曜は定休日なのだけれども、いつものメンツではなくして、居酒屋モードで店をやっているはずである。

 以下、まだ日付けは変わっていないのだけれども、ちょっと長くなってくたびれたので、残りのことは明日の日記に書きましょう。
 これは今日のチケットと、おせんべいを入れてくれてた新聞紙の袋。新聞は去年の11月28日のもので、亡くなられた高倉健氏を偲ぶ記事が載っていた。

    f:id:crosstalk:20150815100739j:image:w340



 

[]鉄割アルバトロスケット「HODOCHICCHI」戌井昭人:戯作 牛嶋みさを:演出 @下北沢 ザ・スズナリ 鉄割アルバトロスケット「HODOCHICCHI」戌井昭人:戯作 牛嶋みさを:演出 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

   本日の演目です

◎  オープニング
1  はちどり三びき
2  はらへりまんそん
3  現代現代
4  エセセレブと役者崩れ
5  音楽家大集合
6  シューマイベイベー
7  オマール海老シューマイ
8  壷に入った蜜
9  なすびなーす
10 糞空間プロデューサー
11 星野源九郎狐
12 なんとなく生きていては
13 チェ畜生
14 俺の家族しらないか?
15 ミニタンス
16 玄界灘でとれるっしょ
17 カルメン(Wキャスト)

   休憩

18 アムステルダム新地
19 なかなか日本旅行
20 はちどりの最後イエメン
21 LSD
22 やますき体操
23 火消しの訓練学校
24 ズバッと本質
25 夏の鍋パーチー
26 エロガッパ
27 鬼の又三郎
28 蒲田へ飲みに行く
29 かき氷の熊
30 めんたいこ
31 ハト
32 レディオマラリア
33 ぐいぐい
34 張り込み
35 Rosa & Nori
36 馬鹿舞伎
37 おしまい

 記憶の助けになるかと、演目を全部書いてみたのだけれども、悲しいことに、もう今ではこれらの演目の内容のほとんどを思い出すことが出来ない。なんとなく憶えているのは「はちどり三びき」「なすびなーす」「俺の家族しらないか?」「カルメン(Wキャスト)」「アムステルダム新地」「火消しの訓練学校」「馬鹿舞伎」ぐらいのもの? ちょっとこの記憶力の衰退は問題であろうか。

 今回は全体の出演者もおおぜいいて、バックミュージシャンのようなかたちで結構知られたミュージシャンの方も出演されていたようである。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150812

■ 2015-08-11(Tue)

 ほんとうは休みのはずなのにしごとに出るというのは、どうもやる気にならない。ところがやはり「出勤してくれ」といわれるほどにはいそがしく、とても「いいかげん」になどやってられないのだった。おかげですっかりへばってしまって帰宅。もう何もやる気がしなくなってしまうのだった。
 こういうところが早朝のしごとの欠点というか、朝の疲労度がその日一日の行動に影響してしまう。せっかく朝の九時にはしごとが終わってしまうというのに、そのことがプラスには働かなくなってしまう。

 この頃は、しごとを終えて帰宅してもニェネントの出迎えがない。以前はかならず、ドアを開けるとその内側でニェネントが右往左往していたというのに、今日などはわたしが帰宅してもニェネントはベッドの下から出てこようともしない。薄情なネコである。それでもいちおう、わたしがキッチンでごそごそやっていると「食事をちょうだいね」とそばに寄ってくるのがニェネントである。ほんとうに食欲でしか動かない、薄情なネコである。

 昼ごろから、録画してあった「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」というのを観始めたのだけれども、なんだか全篇均質にもったいぶっているというか、大げさな演出がつづくというか、観ていると疲れが増大して来てしまう。もういいや、と思って途中から早送りで映像だけ見ておしまい。撮影はヴィットリオ・ストラーロだったんだけどねー。
 ただ、作品の中にベアトリーチェ・チェンチが登場して来て、チェンチ一族の物語については記憶から飛んでしまっていたので、これをもういちど簡単に調べて納得した。じっさいにカラヴァッジョはベアトリーチェ・チェンチの処刑を見ていたのだろうか。時代的にはまさに「同時代」なのだけれども。

 夕方になって、停止されていた川内原発が再稼働されたというニュースがあった。いくら盛夏で電力需要は高いとはいっても、このところ電力不足という話はまるで聞かない。あえて原発を動かす必然はないはずなのだが。原発推進派は「地球温暖化」を回避するために原発を、というが、原発のリスクというものは地球温暖化に比べられるものではない。地球の破滅をももたらすものだというのに。2011年3月のことを忘れようとする人たち。

 夕食は昨日の「レバーの煮物」の残ったのですませた。冷蔵庫に保存してあった冷たいままでも、とてもおいしい。あとは冷奴とか。



 

[]「ニキータ」(1990) リュック・ベッソン:監督 「ニキータ」(1990)   リュック・ベッソン:監督を含むブックマーク

 ふうん、こういう映画だったのか。いちど観ているはずだけれども、やはり完全に記憶から消えている。もっとノワールなタッチの映画だと想像していたけれど、どこか「生きる」ということを希求して、「幸せ」を求めるような映画だった。

 リュック・ベッソンという監督はもっと乱暴な映画のつくり方をする人だと思っていたのだけれども、思っていたよりも繊細な映画づくりだった。「室内」、「室内」というヴァリエーションが「外に出られない」ヒロインの心情を映しているようだったが、それだけに短いヴェニスの「外の」情景をもうちょっと活かしてもよかった気がする。ヒロインの姿のない幕切れがどうか、ということはあると思うけれども、後ろ姿ぐらいは写してもよかった気がする。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150811

■ 2015-08-10(Mon)

 少し涼しくなった八月も中旬。明日はしごとも非番の休みのはずだからのんびりできると思っていたら、午後になって電話がかかってきて、明日の人員が足りないので出勤してくれといわれた。断ろうかと思ったのだけれども、13日さえ休めれば構わないと思って承諾した。ほんとうは明日は早朝から映画を観に行こうかと思っていたのだけれども、これで取りやめ。ちょっと残念である。

 ニェネントは相変わらず、よそのネコみたいにわたしに近づこうとしない。朝のごはんをあげるときだけはわたしにつきまとうのだけれども、あとはベッドの下に籠りっきりでめったにそこから出てこない。ひょっとしたら身体の具合が悪いんじゃないかと心配になってしまうほどだけれども、そういうわけでもないみたいだ。
 夕方になって、そのニェネントが珍しくわたしのそばに寄ってきて、わたしが手を伸ばしても逃げようとしない。「それでは」とニェネントをつかまえて組み伏せ、「キミはこのごろちっとも、わたしの飼いネコらしいふるまいを見せていないじゃないか! 毎日キミが飢えないで食べものにありつけるのは誰のおかげですか! もうちょっと、わたしの飼いネコらしくわたしに甘ったれなさい!」と、しばらく説教してやった。組み伏されたニェネントは「ふにゃ〜」と情けない声を出すのだが、これでまたわたしを避けるようになって、まるで逆効果になるかもしれない。

 このところ夏バテ気味というか、食欲もあまりないのだが、今夜は何か食がすすむものをつくってみようと思い、冷凍庫にはレバーがあるので使ってみたくなる。普通なら「レバニラ炒め」とかが定番だけれども、このところはスーパーへ行っても野菜類はかなり高くって、へたするとレバーそのものよりもニラの方が高価である。「レバーだけでつくれる料理はないものか」と調べると、「鶏レバーの煮物」というのがおいしそうなので、これをつくることにした。
 基本的にレシピ通りにうまく事はすすんだのだけど、さいごに煮詰めるところでちょっと鍋から目を離したあいだに、みごとに焦げついてしまった。レバー自体に被害はさほどなかったけれども、とにかく鍋の内側が真っ黒になってしまった。失敗。‥‥しかし、レバーの煮物自体の料理は成功で、とってもおいしい一品になった。味が濃いので食もすすむ。これはまたトライしてみよう。次回は鍋を焦がさないように。



 

[]「ぼんち」(1960) 山崎豊子:原作 市川崑:監督 「ぼんち」(1960)   山崎豊子:原作 市川崑:監督を含むブックマーク

 大阪の足袋問屋の話。しばらくは養子で迎えた「旦那」がおもてに立っていたけど、とにかくは「女系」の一族。その一人息子の喜久治(市川雷蔵)が後を継ぎ、嫁(中村玉緒)を迎えるのだけれども、とにかくはこの祖母(毛利菊枝)と母(山田五十鈴)との権力は絶大で、嫁いびりみたいにして嫁を追い出してしまう。これで、というわけではないけれど、喜久治の女遊びがはじまる。それが若尾文子だとか京マチ子だとか草笛光子、越路吹雪と、そうそうたる顔ぶれ。祖母も母も「しきたり」さえ踏み外さなければと、そんな女性たちにお給金(というのか?)を払っている。

 空襲で大阪は焦土と化し、喜久治の店も蔵以外は燃えてしまう。そこへ祖母も母も、女たちも皆が集まってくる。喜久治はなんとか持ち出した金を女たちに等分して渡し、長野の寺に疎開させ、祖母はそこで死んでしまう(自殺?)。
 戦争が終わり、喜久治は長野の寺へ女たちの様子を見に行くけれど、女たちが仲良く風呂に入っているのを覗き見すると、「オレの女道楽もこれでおしまいだ」と、そのまま引き返すのである。

 とにかくはこの、祖母と母との強力なタッグこそはこの映画の見どころかとは思うのだけれども、そこに対峙してぬらりくらりと追及をかわす喜久治の姿が面白い。これは関西弁ならではのやりとりの面白さだろう。

 演出はそこはやはり市川崑で、撮影の宮川一夫とともにモダニズムを追求する。奇抜な構図や意表をつく演出があちこちに垣間みられるのだが、そういう演出をわたしはそんなに気に入っているわけではない。ただ、若尾文子は、やはり美しいのであった。



 

[]「第3逃亡者」(1937) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「第3逃亡者」(1937)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 ある男が殺人の現場に居合わせたために犯人と疑われ、無実を証明するために逃亡する。それを警察署長の娘がいきがかりで助けることになるのだが、というお話。その逃亡する男が無罪を証明するために探すもの、そんなもの発見しても無罪の証明になんかならないじゃないか、などと思いながら観るのだけれども、いろいろとユーモラスなエピソードを交えながら、とにかくはその証拠の品を探す道中はつづくのである。男と署長の娘、そしてその愛犬にプラスして途中から、木賃宿に宿泊していたおじさんも仲間に加わる。

 実は「犯人はコイツ」というのは映画の冒頭で観客に知らされているわけだけれども、はたしてその犯人はどこに潜んでいるのか。これをヒッチコックは大仰なクレーン撮影で観客に示してくれるのだけれども、これはやっぱりすごい技。ホテルのフロントの俯瞰画面から、カメラが移動してダンスフロアの俯瞰へ、そしてバックバンドの演奏する姿に近づいて行き、そのうちのひとりに焦点をあて、そのままクロースアップして行く。ここで冒頭のちょっとした描写が活きてくるのね。

 原題は「Young and Innocent」なんだけれども、主人公の青年の見かけはとても「Young and Innocent」には見えないな。署長の娘にこそ、このタイトルはふさわしい気がした。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150810

■ 2015-08-09(Sun)

 朝起きると、昨日までの暑さが消えていて、どこか涼しい風が吹き込んでくるようではあった。もう八月も中旬になる。暑さも峠を越したということだろうか。喜ばしいことである。

 しかし日が天中にかかるとやはり暑いことは暑いのであって、部屋にいても汗をかき、また去年のようにあせもが出来そうになる。冷水シャワーを浴びて、濡らしてよく絞ったタオルであせもになりそうなところをよく拭くと、それまでのかゆみも治まる。しかしまた時間が経つとかゆみが拡がってくる。

 今日は長崎に原爆が落とされてから七十年。先日の広島のときは別のことに気を取られていたのだが、今日はテレビで長崎の平和祈念式典の中継を見、原爆の投下された11時2分にはわたしも黙祷をした。
 長崎市長のスピーチ、そして被爆者代表の谷口さんのスピーチには平和を希求する気もちがあふれ、聴いていても心を動かされた。お二人とも安保法案への疑念を表明され、聴衆の大きな拍手で迎えられていた。そのあとに安倍首相が登壇したのだが、中継のマイクには野次か罵倒の声がしっかり拾われていた。首相のスピーチはおざなりで、心に響くものなわけもなく、スピーチを終わっての拍手もみじかかったと思う。



 

[]「アザーズ」(2001) アレハンドロ・アメナーバル:監督 「アザーズ」(2001)   アレハンドロ・アメナーバル:監督を含むブックマーク

 なんとなく、ラストシーンだけは憶えていた作品。ものすごく端正な演出で、主演のニコール・キッドマンの表情、立ち姿などすべてが、きっちりと絵になっている。基本のストーリーは記憶に残っていなかったのだが、物語が進行するに連れて「こういうことかもしれないな」と予測させて行き、その予測がちょっとずつ真相からずれているだろう、というあたりの展開が面白い。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150809

■ 2015-08-08(Sat)

 今日は暗くなった七時ごろから、花火の打ち上げられる音が部屋に響いてきた。たしか図書館のそばの川の、そのまた東を流れている川の河川敷で行なわれる花火大会だ。去年もやはりこうやって花火の音が聞こえてきて、翌日になって勤め先の人に、会場はウチからそんなに離れていないところなのだという話を聞いた。まさかウチの窓からは見えないけれど、ちょっと外に出れば打ち上げられる花火が見えるのかもしれない。そう思って、外に出てみた。日が暮れた今の時間はかなり涼しくなっていて、歩いていても気もちがいい。

 ちょっと歩くと、東側の民家の間から、花火が丸く散っていくのが見えた。しばらくして「ドーン」という音が響いた。このあたりからは民家の屋根と同じぐらいの高さにしか見えないから、ちょっと位置を変えると屋根の影で見えなくなってしまう。でも、少し北に歩くとその東側は大きな空き地になっていて、そこからは花火を隠す建物もなく、きれいに見えるのだった。近くの米屋の店先で、その店のご主人さんらしい方が椅子にすわって、花火を見ていた。見る場所としてはその米屋のそばの自販機のところが最適の場所のようで、その自販機の傍らに立って、しばらく花火の上がるのを見ていた。
 自宅のそばで見る花火というのもいいもので、花火大会の会場付近で見るのとはちがう、哀切な気分に囚われてしまう気になる。

 帰宅してもしばらくは花火の音がつづき、ニェネントも気になるのか、ベッドの下から這い出てきていたりする。花火の音は八時半をすぎても聞こえてきて、おそらくは花火大会は九時までつづくのだろう。花火の音を聞きながら、ベッドに横になった。



 

[]「どですかでん」(1970) 黒澤明:監督 「どですかでん」(1970)   黒澤明:監督を含むブックマーク

 これも黒澤監督の古い作品「どん底」につながる作品かと思って観始めたのだけれども、いやいやどうして、奇妙なおかしさにあふれた作品で、黒澤明という人の、映画人としての幅の広さを感じることになった。

 この作品が黒澤監督初のカラー作品ということだが、そういう「色」で見せる演出というものも面白いし、今思い出してもおかしくて笑いそうになってしまうシーンは多い。まあ笑えない挿話、観ていてつらい挿話もいろいろあるのだけれども、人のおおらかさ、そのイノセンスとともに、罪深さということもまた考えさせられてしまうことになる。

 この作品は、それまでの黒澤監督作品とくらべて、異例の「大コケ」だったらしい。高度経済成長の時代に底辺を生きる人々にスポットをあてた作品であったこと、三船敏郎が出演していないこと、黒澤監督のハリウッド進出が成功しなかったことが報道されたあとの作品であることなど、マイナス要因はあっただろうし、このオムニバス形式の作品は、先に書いたように単に表層の「ヒューマニズム」というものを越えたところがあり、そのあたりで一般の理解が得られなかったということもあるだろう。わたしは大好きだが。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150808

■ 2015-08-07(Fri)

 同じことを毎日書くようだけれども、今日もまた暑い。これで八月になってから連日「猛暑日」がつづいているのではないだろうか。よくないのは食欲が落ちていることで、食べたいと思うものがない。というよりも調理するのがめんどうだ、という方があたっているのだろうか。もうしばらく白米を炊いてないし、インスタントの食品ですませてしまうことが多い。これでは本当に夏バテしてしまう。ただ、買ってきたビールを飲みながら冷奴とかを食べるのはおいしい。

 今日もまた昼寝をしてしまうのだが、目覚めた夕方ごろからは外で雷鳴が鳴り響いていて、雨の降る音も聞こえる。窓をちょっと開けると、かなり涼しい空気が部屋に入ってくる。
 雨がやんだころに買い物に外に出た。空を見上げると、このあたり一帯の上空に大きな黒い雲が拡がっている。西の空は晴れていて、もう日の暮れようとする光を浴びて、雲の縁が黄色く染まっている。南の方はまだ真っ黒い雲の下で、ときどき稲妻が光っているのがみえた。東の空には雲はなく、もう青い夜の色を映している。いい光景だと思い、しばらく空を見上げていた。



 

[]「スタンド・バイ・ミー」(1986) ロブ・ライナー:監督 「スタンド・バイ・ミー」(1986)   ロブ・ライナー:監督を含むブックマーク

 自分たちだけの意志で動けるようになったガキンチョたちの秘密の旅(トリップ)、というだけで、たしかにどこかワクワクしてしまう。わたしのことを思い出せば、そういう仲間はいなかったけれども、わたしの家の裏には鬱蒼と木におおわれた小さな山(正確には「丘」?)があり、その山の中をひとりで探検してまわった思い出がある。
 この少年たちは行方不明になっている少年の「死体」がある、ということでその死体を探しに行くのだけれども、わたしも中学生になって東京に出て来たあと、新聞で家から近い場所で殺人事件が起きたというのを読み、放課後にその殺人現場と思われるところへ行ってみたことがある。わたしが行った場所には何もなかったのだけれども、ただ、そばの側溝の中に血の塊のようなものが落ちているのをみて、「あれは殺された人の血ではないのか」と思い込んでいたことがあった。今考えればあれは魚肉の塊か何かで、わたしが行った場所はその殺人とはまったく無関係の場所だったのではないかと思う。なんか、そんな昔のことを思い出してしまうような映画、だった。

 露骨なぐらいに冒険に出る四人の少年の性格を描き分け、そのあたりが「いかにも」という感じはするし、「いい話、いい話」という作り手の思惑がウザいようでもあるのだが、「目的に向かって先へ、先へ」と前進して行く感覚の演出が好きな映画。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150807

■ 2015-08-06(Thu)

 実はまだ5日のつづきなのだけれども、とにかくはローカル線の終電車で帰宅し、いろいろと今日のことを思い返したりする。

 はたして今日、どんな方がお別れ会に出席されていただろうかと、Twitter で「室伏鴻」で検索をかけてみたのだが、そうするとこれは間違いなく、先ほどの女性の方がわたしとの出会いのことを書かれているのを発見してしまった。

 「偶然の出会いに感謝」と結ばれたツィートに、こちらも感謝したい気持ちになる。Twitter 上で、「それはわたしです」とよっぽど名乗り出ようかと思ったのだけれども、とにかくわたしはTwitter の方では「分裂症」みたいにあちこと話題が飛んでいるし、どんな問題に対しても深い考察ができているわけでもない。そんな姿をさらして「わたしです」などというのはみっともなくって、出来たものではないだろう。やっぱり名乗り出たりするのはやめようと思うのだが、しかしそうすると、わたしの方だけが彼女のことを知っている(HNも実名を使われているようだ)ことがフェアではないようにも思えてしまう。

 今日6日になって、そんなこんなのことをFacebook の方に「こんな出会いがあった」と書いてみた。夕方になって、近所に住むDさんからのコメントの書き込みがあった。そこにはまたDさん個人のことばかりが書かれていて、また太田省吾のクラスで戯曲の書き方を指導してもらったら、その作品を野田秀樹と唐十郎に盗作されたという「妄想」が書かれている。わたしのタイムラインにはまるで関係ないことだし、逆にわたしのタイムラインを否定するようなコメントになっていることに彼は気づいていない。しめくくりも、「またその女性に会えるといいですね(笑」となっていて、その(笑)がわたしへの嘲笑と読めることに彼は気づいていない。「いいかげんにしてくれ」と思ってそのコメントを削除し、彼にメッセージを送った。「<盗作された>という主張は人のタイムラインへのコメントではなく、自分のタイムラインに書いてくれ」と伝えたのだが、すぐに返事が来て、「自分のタイムラインにも書いている」という。まったくわたしのいうことが伝わっていない。わたしは無関係なコメントはよしてくれといっているのに。‥‥以前からこの人物には同じようなことから不快な思いをしているし、それはわたしひとりが感じていることではないことを知っている。「もうこれまで」と思って、彼のことをFacebook の「友達」から削除した。これでこれから先、彼の存在に悩まされずにすむだろう。



 

[]「蜘蛛巣城」(1957) 黒澤明:監督 「蜘蛛巣城」(1957)   黒澤明:監督を含むブックマーク

 「影武者」、「乱」と黒澤明の後期の時代劇を観て、「つまりは没落する城主を描いたものか」と思ったら、黒澤監督は「影武者」や「乱」よりもはるかに昔にこの「蜘蛛巣城」でやはり城主の没落を撮っているのに気づき、その「蜘蛛巣城」を観てみた。

 観た結果からいえば、やはり同工異曲というか、「同じやん!」ではあるし、ストーリーの骨子だけではなくロケーション地の類似もあるし、演出それ自体でもこの「蜘蛛巣城」から「影武者」、「乱」に引き継がれている面があまりに大きいと感じる。そして何よりも、黒澤明監督の映画として、わたしには感銘の度合いが少ない、ということもこの三作に共通する。つまりこの三作は「権力の奪い合い」の物語であり、権力者の非人間性、愚かさこそがテーマであるようなところがあり、これ以外の黒澤作品の、ヒューマニズムだとか人間ドラマとして見せる要素に欠けている(「影武者」には違う視点もあるのだが)。また、妙に「能」の様式を取り入れているあたり、これが決して成功しているわけでもないと思えるところもある。

 先に書いたように「影武者」はちょっと視点も違うのだけれども、この「蜘蛛巣城」から「乱」を考えると、これはもうほとんどリメイクである。
 いったいなぜ、黒澤監督はいちど「蜘蛛巣城」で描いた世界を後年また取り上げようとしたのか。黒澤監督はもっともっと、異なる視点から世界を捉える演出が期待されてよかったのではないだろうか。しかしそう考えても、「乱」以降の黒澤監督の作品を観る気にはならないし、決してそれらの作品が世間的に評価されているわけでもない。ということはもう、監督は「影武者」か「乱」のあたりで枯渇してしまっていたのではないだろうか。

 順番としてこの「蜘蛛巣城」をさいごに観てしまったので、「同じ演出ではないか」と思ってもちょっとわたしの感じ方はちがっていることだろう。ちゃんと製作順に「蜘蛛巣城」を先に観ていれば、もっともっとこの作品を楽しめたかもしれない。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150806

■ 2015-08-05(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 今日は室伏さんの「お別れ会」に行く。会が始まるのは十八時からなので、その前に映画なり観てから行けばいいのではないのかと考える。しかし今日も外は「炎天」という感じで、外に出ようという勇気がわかない。出かける時間はどんどん遅くなり、映画はどれも間に合わなくなる。それならば上野で科学博物館の「生命大躍進」を観ようかとも考えたのだが、これもぐずぐずしているうちに間に合わなくなってしまい、結局、家を出たのは三時になってしまった。

 一日に一箱は吸うタバコがもうあんまり残っていないので、上野で下車してガード下のタバコ屋で買うことにする。この店は確実に「West」のレッドを置いてくれているのだが、このところこの店の「看板犬」のジェシカの姿を見かけないのが淋しい。元気にしているのだろうか。

 上野広小路から銀座線で青山一丁目で下車し、会場の草月ホールへ歩く。途中の交差点のあたりで、向こうでわたしに手を振っている人がいる。ああ、Aさんだ。お会いするのはものすごく久しぶりになる。彼女は友だちと待ち合わせてるというので、ちょっとあいさつしてホールへ向かう。わたしの前を歩いている人も、同じ目的地へ向かっているようだ。「この人のあとについて行けば迷わないぞ」とか思うが、目的地は思ったより近かった。

 会場に足を踏み入れ、まずは会費を払うのだけれども、そのときに自分の名前、住所、室伏さんとの間柄などをカードに書くことになる。わたしはあんまり考えないで室伏さんとの間柄を「友人」とか書いてしまったが、ずいぶんと図々しいことを書いてしまったと、カードを係の人に渡したあとに後悔する。黒い表紙の、いかにも室伏さんらしい冊子をいただいた。室伏さんのノートからの抜粋、いろいろな方からの追悼の言葉、室伏さんの自筆年譜などが掲載されている。貴重な資料だと思う。
 ホールに入ろうとするところでBさんとお会いした。Bさんは首くくりパフォーマンスのCさんとおはなしされていた。Cさんがわたしのことを記憶されているかどうかわからないけれど、「お久しぶりです」とあいさつする。

 ホールに入ってしばらくして「お別れ会」がはじまり、まずは室伏さんの振付けによるパフォーマンスがあり、そのあとは生前の室伏さんの映像が流される。麿赤児氏や石井達三氏などが室伏さんにまつわるトークをされ、マネージャーの渡辺さんが室伏さんの最期の様子を涙ながらにを語られた。さいごに皆が壇上にあがって献花。わたしも「室伏さん、ありがとう」と花を捧げさせていただいた。

    f:id:crosstalk:20150808105425p:image:w360

 ロビーに出てまたあれこれの方とおはなしをするが、もう時間も八時半になるのでそろそろおいとますることにした。

 帰りは銀座線で渋谷に出て、いちど恵比寿まで逆戻りしてから湘南新宿ラインに乗る。その方が座れる確率が高いのだ。それで座っていると、わたしの前に立たれている女性がドゥルーズの本を読んでいるのが気になってしまう。そのうちにわたしのとなりの席が空いて、その女性がそこに座られるのだが。
 わたしは今日いただいた室伏さん追悼の冊子を読みはじめたのだけれども、その年譜のところを開いているとき、さっきのとなりに座られた女性が、「それって、室伏鴻さんの本なんですか?」と話しかけて来られた。ちょっと驚いたけれども、さすがにドゥルーズを読んでおられるとそのあたりにまで興味をお持ちなのかと、さっき室伏さんのお別れ会があったことを伝え、その方との会話がはじまった。
 その女性、大学で演劇を学ばれているそうで、太田省吾の演劇を研究されているという。ARICA の公演もご覧になったことがあるということで、すいぶんと親近感を持ってしまった。わたしは室伏さんが舞踏家には珍しく思索タイプの方だったこと、冊子に載せられているようにノートも遺されているのでそのうちに出版されるのではないかみたいなことを語る。彼女は目下<建築>と<身体>のことなどを考えておられるという。わたしなどでは歯が立たないような方かもしれない。彼女の下車する駅が近づき、その駅に着くまで室伏さんの冊子を彼女に渡して自由に読んでもらった。彼女の名まえもお聴きせずにお別れしたけれど、それでよかったと思う。それでも、またどこかで偶然彼女に会うことができればいいと思う。しかし、不思議な、そしてうれしい偶然の出会いだった。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150805

■ 2015-08-04(Tue)

 この六月にメキシコで急逝された室伏鴻氏の、明日は「お別れ会」が開かれる。わたしは室伏さんには「きみは大丈夫だ。もっと自信を持って生きていいんだよ。」というメッセージをいただいたつもりでいるので、その感謝の気持ちを伝えるためにも、明日の「お別れ会」には是非出席したいと思っている。おそらく出席すればまた、久しぶりにお会いする人たちと顔を合わせることにもなるだろう。

 今日も暑い。午後からスーパーにビールを買いに行き、帰ってからはまた冷奴でビールを飲む。なぜか急に持っているDVDの「唇からナイフ」を観たくなり、もう一本ビールを開けて飲みながら観る。この暑さにぴったりの映画だったかもしれない。



 

[]「唇からナイフ」(1966) ジョセフ・ロージー:監督 「唇からナイフ」(1966)   ジョセフ・ロージー:監督を含むブックマーク

 この映画は中学生か高校生の頃、日本で最初に封切られたときに映画館で観たのだと思う。上野あたりで観たのではなかったかな? その頃は主演のモニカ・ヴィッティのことも共演のテレンス・スタンプもダーク・ボガードも知らなかったし、もちろん監督のジョセフ・ロージーのことも知りはしなかった。おそらくは007みたいなスパイ映画の女性版みたいな、配給会社の読みのとおりの期待で観に行ったものだと思う。けっこう映画の中にポップなアートっぽい意匠(オップ・アートとか懐かしい言葉を思い出す)がふんだんに取り込まれていて、音楽もポップだし、この時代の空気を感じ取ることができるだろうか。

 まあストーリーなんかどうでもいいみたいなところもあって、その展開にはどことなく「モンティ・パイソン」の登場を予感させるアホらしさもいっぱい。作品全体をひっぱるコンセプトもないというか、おもちゃ箱をひっくり返したような感覚こそがこの作品の面白さなのかもしれない。しかしこの脱力感はハンパではない。

 意外とスキだらけのモニカ・ヴィッティはやっぱり魅力的なんだけれども、この作品のあとわたしは、「情事」とかアントニオーニの映画で思いっきりアンニュイな彼女の姿をみて、面食らうことになるのだな。あと好きなのがこの作品のダーク・ボガードで、ロブスターをゆでるときに耳を塞いで「この悲鳴が!」とかいうのがいい。彼もこの作品のあとは渋い作品でわたしの前に現れることになる。そのことはテレンス・スタンプにしても同じことだ。

 アラブの富豪が騎馬の集団でモニカ・ヴィッティを救出に馳せ参じ、馬の上で「モデスティ・ブレ〜〜〜〜〜〜ズ!」って叫ぶとこが最高だし、モニカ・ヴィッティの眼をアップして行くラストも奇怪。どうしようもないけれど、好きな作品である。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150804

■ 2015-08-03(Mon)

 これだけ暑いと外に出るのがいやになる。特に今日のようにしごとも非番で休みだったりすると、一日中部屋にこもりっきりになってしまう。この頃はタバコもカートン単位でまとめ買いしてあるし、食べるものさえ冷蔵庫の中のものですまそうとしてしまうと、外に出る用はなくなってしまう。

 昨日のことだけれども、インターFMで「BARAKANBEAT」を聴いていると、トラッドのインストゥルメンタル曲がかかった。演っているのはEire Japan というユニットらしく、その名まえからも国内のユニットなのかと思ったのだけれども、フィドルとギター、それとこれはどう聴いてもイーリアン・パイプの音である。日本にこれだけ達者なイーリアン・パイプのプレイヤーがいたなんて信じられない!などと思っていると、バラカン氏の解説でパディ・キーナンという名まえが聴き取れた。Paddy Keenan だろう。「聴いたことのある名まえだな」と思って検索かけてみると、彼はBothy Band のメンバーで、まさにイーリアン・パイプのプレイヤーだった。わたしの記憶力もまんざらでもないなと思ったのだが、Bothy Band はわたしの大好きなアイリッシュのトラッドのバンドで、わたしはたいていの彼らのアルバムを所有していたわけだった。しかし、なぜそんな彼がEire Japan などという名まえのユニットに参加しているのか調べてみたら、この十月に「PETER BARAKAN'S LIVE MAGIC」というライヴがあり、そこにこのEire Japan 出演するらしいということはわかった。そしてそのメンバーはPaddy Keenan のイーリアン・パイプ、Frankie Gavin のフィドル、それと日本人のギタリストからなるらしい。Frankie Gavin はDe Dannan のメンバーだったそうだから、ちょっとしたスーパーグループである。わたしは残念ながらDe Dannan はあんまり聴き込んではいないのだが。

 で、この日オンエアされた楽曲(Reel)も素晴らしかったし、いちどイーリアン・パイプの生演奏というのも体験したいものだし、その「PETER BARAKAN'S LIVE MAGIC」というライヴについて調べてみた。するとこの十月の二十四日にそのEire Japan も出演するのだが、その日にはトータル十組ものアーティストが出演する。開演は午後一時からだけれども、夜まで続くライヴだとしてもそれぞれのアーティストの出演時間は一時間弱のものだろう。しかもしかも、チケット代が一万二千円もする! これではとてもじゃないが行けるものではない。残念なことである。あとはEire Japan 単独での公演が組まれることを期待するしかない。

 今日はヴィデオを一本観た。



 

[]「エンド・オブ・バイオレンス」(1997) ヴィム・ヴェンダース:監督 「エンド・オブ・バイオレンス」(1997)   ヴィム・ヴェンダース:監督を含むブックマーク

 映画製作のプロデューサーがこの作品の主役であり、ビル・プルマンが演じている。つまり「映画を撮る」ということを撮った、「メタ映画」という側面こそが重要そうな作品ではある。そこに「暴力」という、アメリカ映画(ハリウッド映画)にはおなじみのテーマが取り込まれているだろうか。

 ヴェンダースはなぜかこの作品にくっきりとしたストーリーを付与していて、そのために、そのストーリーを追いすぎるとヴェンダースの描こうとしたことを見逃してしまう危惧があるように思えた。表面的に観てしまったのでは観過ごしてしまう何か。その「何か」を探るため、近いうちにもう一度観てみようと思う。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150803

■ 2015-08-02(Sun)

 買い物などで外を歩いているときは、頭の中をいろいろな想念がめぐっている。しかし、こうやって部屋ですわっているときには、頭の中が空っぽになってしまったみたいに何も考えていないようだし、外を歩いていたときのいろいろな想念もどこかへ消えてしまって、思い出すこともできない。ひょっとしたら、頭の働きというのは、足の動きと連動しているんじゃないかしらん。

 部屋にいてもとにかく暑いのだが、ビールを買ってきて冷奴を食べながら飲むと、これがやはりとっても美味しかった。あまりビールを飲むという習慣はなかったのだが、「夏はビール」というのは本当だなと思った。

 ニェネントはとにかく一日のほとんどの時間をベッドの下で過ごしていて、その姿さえめったなことでは見られなくなっている。夜になってわたしがベッドに上がって寝ようとすると、そこでようやくベッドの下から這い出てきて、それまでわたしが座っていたあたりでごろりと横になる。わたしと「交替」なのである。こういうときにニェネントをつかまえようとしても、わたしが近づいただけで逃げて行ってしまう。あまりになついて来ないので、ちょっとばかり悲しくなってしまうこの頃である。



 

[]「乱」(1985) 黒澤明:監督 「乱」(1985)   黒澤明:監督を含むブックマーク

 簡単に書くと、面白くない。まずは冒頭のシーンの色彩のケバさ、色感の悪さでうんざりもするのだけれども、このあたり衣裳のワダ・エミのやりたいようにやらせているだけという印象もあるし、役者として登場する二人、まだ野村武司と名乗っていた野村萬斎も、そしてピーターも、その演出には疑問を感じてしまう。

 観ていて印象に残るのは原田美枝子演じる「楓の方」の悪女ぶりだけれども、それほどに深く掘り下げられた悪女ぶりというのでもない。こういう「没落する城主」というテーマは前作の「影武者」に続くものだし、演出面で似通って感じるところも多い。そもそもがこういうテーマ、「マクベス」の翻案の「蜘蛛巣城」でやられたものではないのか。こんどその「蜘蛛巣城」を観てみよう。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150802

■ 2015-08-01(Sat)

 今日から八月で、このところは連日のようにいわゆる「真夏日」がつづいている。部屋にいてもついついエアコンに涼を求めてしまうのだけれども、そのエアコンを使っているのを忘れて電子レンジを使い、ブレーカーが落ちてしまうというのは毎年夏にやる年中行事なのだが、今年もついに今日やってしまった。

 今日は昨日のお出かけのせいで寝てばかりの一日になった。非生産的な日がつづくというのか、このところは「思考」ということをどのように進めればいいのかもわからなくなっている気がする。このところFacebook に書き込むことがなくなり、その分Twitter にへばりついていることが多いのだけれども、読んでいるばかりではなく自分でもツィートしてみたいと思っても、何を書けばいいのか思い浮かばないわけである。

 とりあえず、残り少なくなっていた「動物の権利」を読み終えた。



 

[]「一冊でわかる 動物の権利」デヴィッド・ドゥグラツィア:著 戸田清:訳 「一冊でわかる 動物の権利」デヴィッド・ドゥグラツィア:著 戸田清:訳を含むブックマーク

 目次

1 序 論
2 動物の道徳的地位
3 動物とはどんな存在か
4 苦しみ、監禁、死による危害
5 肉 食
6 ペット飼育と動物園
7 動物を用いた研究

 読み始めはずいぶんと読みあぐねてしまった本だったけれども、第3章までは哲学的な考察がつづき、そのあたりの訳文がこなれていないせいで読み進められなかったのだとわかった。あとはかなりすんなりと読み進めることが出来た。

 しかしこの著者のスタンスはかなりラディカルなもので、第5章以降、「肉食」、「ペット飼育」、「動物園」、「動物実験」のいずれにも反対する立場なのである。「動物園」「動物実験」に反対なのはわたしだって同じだが、「肉食」を否定されたのは困った。しかし、ここで書かれているように、「肉食」をストップすればより多くの穀物がわたしたちの食物として供給されるというのであれば、わたしとて考えざるを得ないところではあるし、じっさいに屠殺されても食卓に上がらず、または食卓に上がっても食べられることなく廃棄される「肉」の量がハンパではないことなど、考えなくてはならない。
 「ペット飼育」に関してはペットの「自由」という観点からの否定論と読んだけれども、わたしの家がそうであるような、ネコの飼育、特に野良ネコになってしまうことからの救済としての飼育というのはどうなんだろう。わたしの場合、ニェネントを飼うことに100パーセントの正当性があると考えているのだが。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20150801
   3223309