ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-09-30(Wed)

 今日も目覚めたときに夢をみていたのを憶えていたけれども、たいした夢ではないから書くこともないだろう。

 今日はしごとも休みで、隣駅の市民病院の診察日。ほんとうは出かけたついでに今日も「黒沢清レトロスペクティヴ」に行って、「勝手にしやがれ!!」シリーズをあと二本観ようとも思っていたのだけれども、今週末から来週にかけてもいろいろと出かけることになるだろうし、それだけ財布も軽くなってしまう。この日記もまた書くのが遅れてきているし、病院の診察が終わったら帰ってこようと思う。
 ほんとうは七時台に家を出れば早く診察が終わって早く帰ってこれるのだけれども、朝のんびりしていたら出そびれてしまい、九時に近い電車になってしまった。病院に着くともうかなりの人が診察を待っていて、わたしの診察予約番号は34番。これは二時間はかかるだろう。「ノーカントリー」を観たもので先日からその原作の「血と暴力の国」を読んでいて、もちろん持参してきている。待っている間にサクサクと読み進めた。
 けっきょく待ち時間は二時間半で、ほとんど昼になってしまった。いつものように診察は一分弱で終わってしまう。読んでいた本はその二時間半で百五十ページぐらい読み進んだ。ちょうど一分に一ページのペースになるのか。わたしにしてはずいぶんと早いペースの読書になるだろう。いつもこのぐらいサクサクと読書ができればいいのだが。

 帰りの電車にちょっと間があるので、駅の近くの古書チェーン店に立ち寄ってみた。どうやらパソコンやデジタル家電の中古品も売るようになったようで、ノートパソコンが一万三千円ぐらいで置かれている。安いけど、わたしはMac でなければ買わない。ただ、デジカメが三千五百円ぐらいで置かれているのが気になって、ちょっと買いたくなってしまった。「そういえばウチからちょっと歩いたところにそういう中古の家電製品を扱っている店があったな」と思い出し、ほんとにデジカメが欲しいならまずその店に行ってみてみよう、という気になった。ウチの液晶テレビもその店で買ったものだけれども、これは近年ではいちばんのいい買い物だった気がする。その店にもしばらく足を運んでいないので、こんどフラッと行ってみようと思う。

 帰宅したらもう昼すぎで、インスタントの冷し中華とかでかんたんに昼食にして、あとは家のそばのコンビニで予約してあったチケットを引き取ってきた。
 このところやたらに前売チケットを買いまくったので、手持ちのチケットはすごい数になってしまった。こんなにたくさんのチケットを手もとに持っているなんて、はじめてのことだと思う。ちょっと記念撮影をした。

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 夕方まで録画した映画を一本観て、きのうの「骨なしフライドチキン」の残りで夕食。あとはベッドに寝転がって「血と暴力の国」を読んだり、「マンハッタンのKUROSAWA」を読んだり。この「マンハッタンのKUROSAWA」もサクサクと読めるので、このところわが読書ライフは快調である。

 




 

[]「時計じかけのオレンジ」(1971) アンソニー・バージェス:原作 スタンリー・キューブリック:脚本・監督 「時計じかけのオレンジ」(1971)   アンソニー・バージェス:原作 スタンリー・キューブリック:脚本・監督を含むブックマーク

 観終わって、感想を書こうとしたらことばが見つからない。映画を観ても最近はこういうことが多いのはやはり、わたしの脳が活動していないということを意味してるんじゃないだろうか。

 無理やりに考えてみて、この作品にはバイオレンスシーンが多いのだけれども、アレックスが元仲間の警官に暴行を受ける箇所以外、「雨に唄えば」を歌いながらということもあるけれども、どこかリアルさを感じないことで救われる思いがした。
 被害に遭う作家の書斎、ネコおばさんの部屋のオブジェなどのなかに「近未来」的な空気もあるのだろうし、それはアレックスの自宅の妙な壁面も、冒頭に出てくるミルクバーのオブジェも同じ。しかし、それらの印象は「近未来」的というよりも、悪趣味に徹しているようにも思えてしまう。そう、この作品は「悪趣味」映画、といってしまってもいいように思える。その「悪趣味」が暴力性を緩和して見せているような気がするわけだ。その「悪趣味」とは、アレックスに矯正治療を受けさせる国家権力の持っているものなのだろう。

 アレックスを演じるマルコム・マクドウェル、作家を演じるパトリック・マギーの「変顔」がすばらしい。





 

[]二〇一五年九月のおさらい 二〇一五年九月のおさらいを含むブックマーク

美術:
●「春画展」@目白台・永青文庫

映画:
●「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」ビル・ポーラッド:監督
●「野火」大岡昇平:原作 塚本晋也:監督(2回鑑賞)
●「クーデター」ジョン・エリック・ドゥードル:監督
●「黒衣の刺客」リー・ビンピン:撮影 ホウ・シャオシェン:監督(2回鑑賞)
●「蛇の道」(1998) 田村正毅:撮影 黒沢清:監督・脚本
●「蜘蛛の瞳」(1998) 黒沢清:監督・脚本
●「キングスマン」マシュー・ヴォーン:監督
●「ピクニック」(1936) ジャン・ルノワール:脚本・監督
●「やさしい女」(1969) ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督
●「地獄の警備員」(1992) 黒沢清:脚本・監督
●「トウキョウソナタ」(2008) 芦澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督
●「勝手にしやがれ!! 強奪計画」(1995) 黒沢清:脚本・監督
●「勝手にしやがれ!! 黄金計画」(1996) 黒沢清:脚本・監督

読書:
●「野火」大岡昇平:著
●「オン・ザ・ロード」ジャック・ケルアック:著 青山南:訳
●「少女」アンヌ・ヴィアゼムスキー:著 國分俊宏:訳
●「匿名芸術家」青木淳悟:著
●「私のいない高校」青木淳悟:著

DVD/ヴィデオ:
●「魔人ドラキュラ」(1931) ブラム・ストーカー:原作 トッド・ブラウニング:監督
●「めまい」(1958) ボワロー=ナルスジャック:原作 アルフレッド・ヒッチコック:脚本・監督
●「お熱いのがお好き」(1959) ビリー・ワイルダー:脚本・監督
●「山猫」(1963) ジュゼッペ・ランペドゥーサ:原作 ルキノ・ヴィスコンティ:脚本・監督
●「時計じかけのオレンジ」(1971) アンソニー・バージェス:原作 スタンリー・キューブリック:脚本・監督
●「終電車」(1980) フランソワ・トリュフォー:脚本・監督
●「アイズ ワイド シャット」(1999) アルトゥール・シュニッツラー:原作 スタンリー・キューブリック:脚本・監督
●「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」(2000) E・エリアス・マーヒッジ:監督
●「未来世紀ブラジル」(2000) テリー・ギリアム:監督
●「ホワット・ライズ・ビニース」(2000) ロバート・ゼメキス:監督
●「ハンニバル」(2001) トマス・ハリス:原作 リドリー・スコット:監督
●「プライドと偏見」(2005) ジェーン・オースティン:原作 ジョー・ライト:監督
●「父親たちの星条旗」(2006) クリント・イーストウッド:監督
●「硫黄島からの手紙」(2006) クリント・イーストウッド:監督
●「ノーカントリー」(2007) コーマック・マッカーシー:原作 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン:脚本・監督
●「キック・アス」(2010) マシュー・ヴォーン:監督
●「裏切りのサーカス」(2011) ジョン・ル・カレ:原作 トーマス・アルフレッドソン:監督
●「炎上」(1958) 三島由紀夫:原作 宮川一夫:撮影 市川崑:監督
●「大菩薩峠」(1960) 中里介山:原作 三隅研次:監督
●「大菩薩峠 竜神の巻」(1960) 中里介山:原作 三隅研次:監督
●「大菩薩峠 完結篇」(1961) 中里介山:原作 森一生:監督
●「櫻の園」(1990) 中原俊:監督
●「百万円と苦虫女」(2008) タナダユキ:脚本・監督
●「海を感じる時」(2014) 中沢けい:原作 荒井晴彦:脚本 安藤尋:監督



 

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■ 2015-09-29(Tue)

 今日はまた「黒沢清レトロスペクティヴ」に行く。三回目。まだあと二、三回は通いたい特集上映ではある。

 朝はしごとがあったので、しごとを終えてちょっと買い物に出てから出かける。昨日考えたように「これからは外食など倹約しなければいけない」ということで、渋谷に到着してからドラッグストアに立ち寄ってドリンクとパンを買う。味気ない昼食だけど三百円かからないんだから。

 上映館に到着するとすぐに前回の上映が終わり、予想したようにまるで混み合ってはいない。ゆっくりと自分の好みの席を選び、買ってきたパンで昼食にする。

 今日観たのは黒沢清のVシネ「勝手にしやがれ!!」シリーズ全六本からの二本で、これは前に持っていたHDDに全作録画してあって、だいたいは観ているわけなんだけれども、それが最も記憶の消えてしまった時期に観ていることもあって、まったく記憶していない始末である。明日ももう二本上映されるので、また明日も観に来ようかと考えているのだが。

 二本観終わってちょうど午後五時ぐらいで、うまく行けば先週帰りに乗った電車と同じのに乗れるのだけれども、時間的にぎりぎり無理のようなのでゆっくりと駅に向かい、いちど恵比寿の駅まで引き返して湘南新宿ラインを待った。これがうまく功を奏したというか、うまい具合に恵比寿の駅で降りる人と入れ替わりに、すぐに座ることができた。乗っている距離が長いので、やはり早くから座れるとありがたい老人。

 帰宅してからの晩ごはん、おかずは朝買っておいた骨なしフライドチキン。ニェネントが寄って来るけれどもあげない。




 

[]「勝手にしやがれ!! 強奪計画」(1995) 黒沢清:脚本・監督 「勝手にしやがれ!! 強奪計画」(1995)   黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 冒頭からいきなり谷中風景で、「この場所知ってる」って感じなのだが、そのあとも夕焼けだんだんでのロケも出てくるし、懐かしい感覚にとらわれながら観る。

 基本は哀川翔と前田耕陽の「何でも屋」コンビ(非合法スレスレのことだってやるわけだ)がトラブルに巻き込まれるコメディーのシリーズで、このコンビに本来の「仕事」を提供/依頼するクライアントが、バーのマスターの大杉漣とそこのママさん(?)の洞口依子。この四人は全シリーズに出演しているらしい。

 さて、この作品はシリーズ第一作らしいけれども、意外と純情でウブだった哀川翔が、保育園の保母さんの七瀬なつみにコロンとイカレてしまう。ところが彼女は夜になるとキャバレーのホステスをやっていたと。それは病気の父の治療費を捻出するためなのだけれども、哀川翔と前田耕陽も彼女の手助けをすることにする。そこにその彼女の父を誤診してしまった「不幸の元凶」の元医師(菅田俊)もあらわれ、やはり治療費を手助けしようとするけれどもドジばっかり。しかも七瀬なつみは意外と天然でさらに借金をつくってしまうし。洞口依子からヤクの運び屋の仕事を紹介してもらったコンビは七瀬なつみにも手伝ってもらうが、やはりここでも七瀬なつみがやらかしてしまい、元締めの男(國村隼)との闘いになってしまう。さてさて‥‥。

 野外ロケでのカメラの動きも快調だし、やはりクライマックスは古い倉庫の中になるのがいかにも黒沢清。七瀬なつみと國村隼が楽しかった。





 

[]「勝手にしやがれ!! 黄金計画」(1996) 黒沢清:脚本・監督 「勝手にしやがれ!! 黄金計画」(1996)   黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 これも登場する女の子がちょっと天然、ということで先の「強奪計画」にかぶるところがあるのだけれども、ここでのヒロインは藤谷美紀。

 洞口依子からある老人(天本英世)を捜して欲しいと依頼を受けたコンビは、老人ホームにいた老人をすぐに見つけ出すのだけれども、逃げようとした老人は頓死。ふたりは老人の遺品のポンコツのワーゲンを引き取り、事務所(?)へ戻って来る。そこへ遺品を返せという老人の孫娘(藤谷美紀)がやって来るのだが、彼女はやはりトラブルメーカーだったのだ。
 しかし、どうやら老人は十年前に五千万円強奪したグループの一員らしく、老人の残したその五千万円の隠し場所の地図を藤谷美紀が持っていると。ここに強奪犯のふたりもやって来るし、やたら拳銃をぶっ放す刑事もからんで来てしまう。

 天然の藤谷美紀も楽しいし、強奪犯のひとりは諏訪太郎。拳銃をぶっ放しまわる刑事の壊れっぷりがいいのだけれども、これは大鷹明良という役者さんで、どうも元流山児★事務所の役者さんのようだ。





 

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■ 2015-09-28(Mon)

 夜中に目が覚めた。夢をみていた。忘れないうちに書き留めた。わたしはイヴェントの準備のミーティングをやっている。夢はミーティングが終わったあとに荷物を運び入れているところみたいだが、事務所の引っ越しのような感じ。L字型のスペースの奥が大人数のグループ。巻いてある紙(トレーシングペーパーの方眼紙)の置き場所をどこにするか話し合う。終わったあと、周辺を皆で歩く。中古の靴屋に安いブーツがあるが、サイズが合うかどうかわからない。ほかの参加者(わたしが現実には知らない人)がブーツを買う。一万円でおつりが来る。陸橋から下を観ていると、もう大人数のグループが路上でパフォーマンスの練習をはじめている。わたしは女性の参加者(この女性はミシェルだと思う。彼女はどうしているんだろう)とみている。傘を靴の店に忘れて来たので取りに戻ろうとすると、彼女も「いっしょに行く」という。ブーツを売っていた店はいつも宣伝放送のうるさい店じゃないかというが、それはとなりの姉妹店かもしれないと話す。その店名は「むげん堂」というものだっただろうか。黄色い看板がかかっている。憶えているのはそのくらいだろうか。

 先月から今月はじめにかけて関東は雨ばかりで、水害まで発生したので「野菜の値段にはね返ってくるだろうな」と思っていたのだけれども、あんのじょう、わたしの目についたところではレタスの価格が高騰している。このごろはスーパーで一玉三百円近い価格になっていたりするし、しかも並んでいるのは皆小ぶりで、その葉もなんとなくシナッとしていて買う気が起きない。
 わたしのこのごろの経験で知ったのではレタスには二種類あって、いつまでも葉がシャキッと新鮮に保たれているタイプと、外側からどんどん萎れてしまってまるで保存がきかないタイプとがある。以前、レタスを買ったらその芯のところにつまようじを数本刺しこんでおけば、いつまでもシャキッと鮮度を保てるのだということがネットに書いてあり、それを読んで百円ショップでつまようじを買ってきて、それからいつもそのようにやっているのだけれども、ダメなものはダメ、なのである。シャキッとしているのは別につまようじなど刺さなくても長持ちしそうだし。それでつまり、今スーパーに並んでいるレタスは皆、高い上にダメなタイプだと思う。
 しかし、これは仕入れどころがちがうのか、近くのドラッグストアにはいいレタスが並んでいる。このドラッグストアは野菜の価格はいつでも変動させずに売っていて、レタスは一個百九十円ぐらいというのはずっと変わらない。普段はこの価格は高いのでそのドラッグストアでレタスを買ったりはしないのだけれども、今は逆にスーパーより安い価格になってしまったし、シャキッと長持ちするものだから、このごろはそのドラッグストアで買うようにしている。レタスはわたしの朝食には欠かせないのだ。

 昨日まで舞台関係のチケットを買いまくってしまったので、ちょっとこれからは倹約しなくてはいけないと考える。いちばん倹約できるのは「禁煙」なのだけれども、これは今まで何度もトライして挫折してきているので、あまり希望的観測を持つことはできないな。でもまずは本数を減らすこととか考えないといけないだろう。実はタバコの銘柄を替えてから、吸う本数がかなり増えてしまっている。
 あとは「食費」の倹約だけれども、もともとこの点ではかなり倹約生活を送っているので、これ以上あまり倹約できるポイントもないだろうか。とにかくは無駄にスナック菓子などを買ってしまわないようにしよう。そう、アルコールを買わなくなったのはポイントだと思う。

 そういうわけで、今日の晩ごはんは残り最後のカレーライス。カレーはルーをまだまだたくさん買いだめしてあるので、かなり節約献立ではある。これからも月に二回ぐらいカレーにしてもいいんじゃないだろうか。考えてみて、カレーをつくるのに必要な野菜は多く見積もっても百五十円ぐらい。これに肉が二百円ぐらいか。一回カレーをつくると五、六日はカレーライスばかりになるので、一回の食費は六十円ぐらいのものか。これプラス白米。月に二回カレーにするということは月の半分はカレーライスということになる。
 しかし連続してカレーというのもいい加減に飽きるので、明日は別の献立を考えよう。

 昨夜は「中秋の名月」だったのだけれども、今夜は「スーパームーン」というものだという。月がいちばん大きく見え、いちばん明るい夜なのだそうだ。こういうのはほんとうに街灯とかのないところで見てこそ実感できるのだろうけれども、うちの周辺にはネオンこそないものの、街灯が並んでいて明るすぎる。図書館のある川沿いのあたりに行けば風情もあるだろうが、わざわざ暗くなってからそんなところまで出かけるようなことはしない。

 今日の昼間は「大菩薩峠」の連作三本をまとめて観た。




 

[]「大菩薩峠」(1960) 中里介山:原作 三隅研次:監督 「大菩薩峠」(1960)   中里介山:原作 三隅研次:監督を含むブックマーク

 中里介山の原作はもちろんもちろん読んだことはないが、とにかく長大な作品だという認識ぐらいはある。しかしWikipedia でみると、日本の時代小説では山岡荘八の「徳川家康」の方が長い小説らしい。ついでにWikipedia には「世界でいちばん長い小説」としてヘンリー・ダーガーの「非現実の王国で」が挙げられている。そりゃあそうだろうけれども、そもそも「非現実の王国で」は活字化されていないだろうし、その全篇を読み通した人は世界中でどのくらいの人数を数えるのだろうか。一桁ぐらいしかいないんじゃないかと思ったりするし、全篇読み通すのにどのくらい時間がかかるのだろうか。

 さて、その中里介山の「大菩薩峠」、原作は作者の死によって未完になっているらしい。それを映画化するというのは、どういうエンディングにしているのだろうか。「大菩薩峠」は過去に何度も映画化されているようで、戦前の稲垣浩監督で大河内伝次郎主演のものを筆頭に、1953年の渡辺邦雄監督・片岡千恵蔵主演の三部作、1957年の内田吐夢監督・同じく片岡千恵蔵主演の三部作、1966年の岡本喜八監督・仲代達矢主演版などがあるようだ。

 今日観た「大菩薩峠」も三部作で、監督は二作目までがこの三隅研次で、脚本は通して衣笠貞之助、主演は市川雷蔵である。主な共演者は中村玉緒、本郷功次郎、山本富士子、見明凡太朗など。

 この第一作で注目されるのは、中村玉緒の妖しさではないだろうか。市川雷蔵演じる机竜之介の「狂気」の生まれるところの宿命の女でもあり、その死後も、いや、その死によって彼を支配してしまうのがお浜という女性で、彼女が机竜之介を挑発するシーンなど、ちょっと鳥肌モノでもあるではないか。

 映画が始まったときからすでに机竜之介は「邪剣」に憑かれていて、理由もなく通りかかる人を切り捨てる辻斬りにも手を染めているのだが、彼の精神を決定づけるのはやはり「お浜」であり、虚無的な放浪の中にも、残してきたお浜の子の郁太郎のことを気にかけるのである(このあたりはこの第一話では描かれないが)。

 この三作を通じてそのセット美術がすばらしいのだけれども、この第一話では室内のふすま絵、屏風絵などの斬新さに目を奪われることしばし、ではある。竜之介がお浜を手にかける林のセットもみごとだし、終盤の遊郭の造形もすばらしい。この時代の邦画の映画製作体制の充実ぶりというものは驚異的でもある。ちなみにこの作品は大映作品で、撮影は今井ひろしという人、美術は内藤昭という人である。





 

[]「大菩薩峠 竜神の巻」(1960) 中里介山:原作 三隅研次:監督 「大菩薩峠 竜神の巻」(1960)   中里介山:原作 三隅研次:監督を含むブックマーク

 この第二作も撮影は今井ひろし、美術は内藤昭。撮影としてはこの第二作がいちばん冴えているというか、目をみはるショットが多かった気がする。また、終盤の火事のシーンの迫力もまた特筆もので、いったいどうやって撮影したのだろうと感心してしまう。

 第一話の後半で「お浜」に生き写しの女性として登場した、同じく中村玉緒の演じる「お豊」がこの第二話では竜之介をサポートすることになるが、竜之介のニヒリズムは徹底している。ただ、息子の郁太郎への執心だけは口にすることがあり、そこに彼にまだ人らしい心の残っていることも垣間みられる。





 

[]「大菩薩峠 完結篇」(1961) 中里介山:原作 森一生:監督 「大菩薩峠 完結篇」(1961)   中里介山:原作 森一生:監督を含むブックマーク

 ここでなぜか監督は森一生に交替。撮影は本多省三、美術は西岡善信に、それぞれ交替している。ちょっとばかりテイストに変化が見られ、「くつろぐ机竜之介」みたいな姿がみられるけれども、やはり観る方は「竜之介にはニヒルを徹底させて欲しかった」と、思わないでもない。

 中村玉緒の演じる「お豊」は早くに自害して果てるのだが、またもや「お浜」に生き写しの「お銀」役で中村玉緒の登場。この三部作、まさに市川雷蔵と中村玉緒の作品といった趣になっているし、わたしは彼女の出演作品をそれほどに知らないけれど、この三部作は彼女の代表作といっていいのではないだろうか。

 この「完結篇」で何といってもスゴいのは、終盤〜ラストの迫力満点の大洪水で、オープンセットのようでもあるし、スタジオのようでもある。どちらにせよ、いったいどうやってこれだけの「水」を現出させ、コントロールしたのか。すっごい技術陣によるすばらしい成果だと思う。





 

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■ 2015-09-27(Sun)

 書き忘れていたことだけれども、木曜日に高田馬場に映画を観に行ったとき、映画館への道沿いにあったオープンテラスのカフェの、道に向かった席にBさんと思われる方が座ってノートパソコンに向かっていらっしゃる姿をみかけた。以前Bさんのナビで皆で飲み会を催したときも場所は高田馬場だったし、たぶんBさんは高田馬場近郊にお住まいなのだろう。わたしは「ずいぶんとBさんに似ている方がいるなあ」と思って通り過ぎたのだけれども、「やはり今のはBさんにちがいない」と思って、わざわざ引き返してそのカフェの前まで行ってみた。「きっとBさんだ」と思ったのだけれども、なぜか声をかけないで道を戻ってしまった。声をかければよかったのにと思うのだけれども、そういうところは臆病になってしまっている自分がいるようだ。

 昨日までに予約したチケットのうち、先行割引で買ったチケットの支払い/受取りが今日までなので、コンビニで代金を支払って受け取って来た。さらに今日は先行割引が終わって「ブルーシート」のチケットも一般発売されたので、発売開始の十時すぐにアクセスしてなんとかゲットした。やはり一時間ぐらいで椅子席は完売したみたいだ。あと、川村美紀子の公演のチケットも予約して、これでこの三日間に買ったチケットは六枚。金額も二万円を軽くオーバー。たいした預金額もない貯金通帳の残額がまたゼロに近づいて行く。

 このところの一日の過ごし方は、だいたい午前中はツイッターとかFacebook などネットを閲覧して過ぎてしまい、午後になってから興が乗ればこの日記を書き、そのあとは録画した映画を観るともう外は暗くなり、晩ごはんを食べてそれで一日は終わってしまう。この日記を書くのもまた遅れ気味になってしまっていたけれども、今日明日と二日分ずつでも書ければ追いつけそうだ。やはり日にちが経ってしまうとわたしの記憶力ではいろんなことが忘れられて行くし、ほんとうにナマのビビッドな記述というものができなくなってしまう。その日の分の日記をその日に書いてしまうのは無理にしても、少なくとも前日の分まではその日に書いてしまいたい。

 今日は「中秋の名月」になることは知っていたけれども、朝からぽつぽつと雨が降っていて、これでは月はみられないだろうなと思っていたのだけれども、夜になってツイッターをみているとみんな「月がきれい」とか、写真入りで書いている。「どうなんだろう」と外に出てみたら、ちょうど東の空のちょっと視線を上げたところに、まぶしいぐらいの満月の姿を見ることができた。そんな満月を想いながら先日買った日本酒をちょっと飲み、そのあとはまだまだ残っているカレーライスで晩ごはん。まだカレーはもう一日分残っている。




 

[]「ノーカントリー」(2007) コーマック・マッカーシー:原作 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン:脚本・監督 「ノーカントリー」(2007)   コーマック・マッカーシー:原作 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン:脚本・監督を含むブックマーク

 この作品の記憶ももちろんないのだけれども、なんとなく、コーエン兄弟の作品の中では異質の作品で、わたし好みではなかったような記憶がうっすらと残っていた。
 ‥‥なぜそんなこと思ってたんだろう。これってすばらしい作品じゃないか。観ていて、この妙チキリンなモンスターみたいなハビエル・バルデムのヴィジュアルのことはいくらか思い出すことができた。

 原題は「No Country for Old Men」で、これをただ「ノーカントリー」としてしまう邦題はいささか乱暴で、これでは意味は通じないと思うが。
 このタイトルは事件を追跡する保安官(トミー・リー・ジョーンズ)の、暴力のはびこる世界への感慨みたいなものから来ていると思うのだが、映画の中でたしかに保安官はあとから事件を確認して行くばかりで、じっさいに事件を解決するわけでも何でもないし、彼が救おうとした「追われる男」モス(ジョシュ・ブローリン)の妻(ケリー・マクドナルド)のことも、どうやら救うことは出来なかったようである(このあたりの描写はないが、助かったと考えることは出来ないだろう)。

 「追われる男」は麻薬取引がこじれた現場から多額の現金を持ち逃げしているから追われる理由はあるのだけれども、「追う男」アントン・シガー(ハビエル・バルデム)の執拗さと残虐さは強烈で、ちょうど先日観た黒沢清監督の「地獄の警備員」の富士丸の相似形のようにも思えてしまう。
 この「追う男」もまた奇妙な「哲学」のようなものを持っていて、その哲学を曲げるようなことなく、ためらうことなしに人を殺しつづけて行くのである。「追われる男」モスもかなり頭の回転の効く人物で、先を読みながら逃げるために必要で的確な行動を取り続けるのだが、「追う男」は彼の思惑などお見通しなのである。

 やはりこの「追う男」アントン・シガーの造形が卓越していて、この作品を単なるクライム・サスペンスではなく「ホラー」により近しいものとして位置づけさせているのではないだろうか。「地獄の警備員」の富士丸の造形から引き続いてこの造形を考えると興味深く、やはり「ノスフェラトゥ」的なところから、「ドラキュラ」とかいろいろのホラー映画の主人公をも思い浮かべてしまう。

 実は観終わったあとで調べたら、この映画の原作はコーマック・マッカーシーの「血と暴力の国」なのだということがわかり、「その本なら持っているはず」と本棚を調べたら、ちゃんと出てきたのであった。おそらくわたしは公開された映画を観てからこの原作本を買ったのではないかと思うのだが、もちろんそのあたりの記憶は残っていないのでわからない。原作本を読んでの感想も記憶にないわけだが、この映画、かなり面白かったのでこの原作も近々読んでみようと思う。




 

[]「私のいない高校」青木淳悟:著 「私のいない高校」青木淳悟:著を含むブックマーク

 以前に読んでその感想を2011年07月22日の日記に書いているのだけれども、今回も感想としてはそのときと同じようなことになる。しかし今のわたしにこの四年前の文章に匹敵するものを書けるだろうか。やはり現在の状況を情けなく思ってしまうのである。





 

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■ 2015-09-26(Sat)

 なんだか昨日はいきおいでフェスティバル/トーキョーのチケットをあれこれ買ってしまったけれども、やはりSPACの「真夏の夜の夢」は「いまさら観なくてもいいや」と、チケット買わないことにした。そのかわり、気になっていたパリ市立劇場の「犀」と、もうチケットを売っていたピーター・ブルックの「Battlefield」とはやはり観ておきたくて、予約してしまった。どちらももうあまり空席もなかったのだけど、なぜか比較的前の方の真ん中寄り、つまりなかなかに良い席が残っていたと思う。しかしこの二つの公演でチケット代は一万三千円。きびしい。しかもまだ明日になれば割引期間に買えなかった「ブルーシート」の一般発売も始まるし、再来週行なわれる川村美紀子という人のダンス公演も観てみたいと思っている。来月期のわたしのしごとのシフトがまだわからないので、わかったらそれに合わせてチケットを買おうかと思っている。とにかくこれから先、十二月までは舞台観劇がつづきそうである。今は「黒沢清レトロスペクティブ」をあれこれと観ておきたいと思っているし、そのあと十一月になるとワン・ビン監督の作品のほとんどが再映されるイヴェントもある。ちょっとした「非常事態」ではある。
 そうだ、年末には維新派の松本雄吉さん演出の寺山修司「レミング」の舞台もある。チケットは十月に発売とのこと。これも是非観ておきたいが、著名な役者も出演するメジャーな舞台で、それだけにチケット代も高いのである。

 しかし、舞台作品を観てもわたしには過去の記憶もなく、つまり自分の中で参照するレファレンスがない。それはほんとうに舞台を楽しむことからは距離があるだろうと思っていたばかりなのに、やはりたとえその人の名前しか思い出せないにしても、興味のある人の舞台情報が目の前に出てくると「観たい」と思ってしまうのだから、そこは観ないでいて「観ておけばよかったな」とあとになって思うより、観ておいた方が自己の充足につながることだろう。思ったのだけれども、もう今のわたしは「自己満足」でいいのである。当たり前のことかもしれないけれども、まずはそのときそのときに「自己充足」を目指して行動するしかない。「わたしの過去はどこへ消えた」などといつまでも嘆いていても始まらない。ようやく、ポジティヴな考えを持てるようになったかな。




 

[]「櫻の園」(1990) 中原俊:監督 「櫻の園」(1990)   中原俊:監督を含むブックマーク

 冒頭からクレーンを使ったワンシーンワンカットとか、いろいろとやっている作品なのだけれども、「は? それが何か?」みたいな感想になってしまうのはどうしてなのか。役者たちの大半がオーディションで選ばれた職業俳優ではないとはいえ、そういうことを演出としてクリア出来ていないのではないだろうか。そういう映像的な試みもつまりは「小手先の演出」と思えてしまう。
 いえるのは、この作品には「間」がない。まるでいつも誰かがしゃべっていなければ成立しないみたいに、絶え間なくせりふが続く(いちおう後半にはちょっとした「間」はあるけれども)。それで役者に演技力があるわけではないから、印象はずいぶんと平板なものになってしまう。「読み合わせ」にちょっと演技がついただけ(まあ「立っているだけ」というのも多いが)みたいな。

 もちろん、脚本にはいいところもあって、群像の中から「百合」的なものがスッと前面に出てくるあたりは見ごたえがあるのはたしか。しかし、この演出では‥‥。

 この作品はこの年の日本映画のベストワンとかに選出されていたらしいが、わたしにはわからない。とにかくはこのところ観て来た映画の中では「最低」といってもいい作品だった。





 

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■ 2015-09-25(Fri)

 今日もまた、連続して映画を観に出かける。今日は「黒沢清レトロスペクティヴ」の二回目で、「地獄の警備員」と「トウキョウソナタ」の二本。「地獄の警備員」は黒沢清ホラーの原点として前から観たかった作品だし、「トウキョウソナタ」は思い出してみたらラストシーンぐらいしか記憶に残っていなかったので、このカップリングの日を選んだ。しごとも休みなので出来るだけ早くに出かけ、その分早く帰って来たいと計画し、七時半ごろに家を出ることにする。あいにくと雨がぽつぽつと降っていて、予報ではもっと本格的な雨になるような。

 連日のお出かけで出費もたいへんなので、今日は少しでも倹約モードで行こうと、昨日考えたようにスーパーで買ったパン(レーズンのたくさん入ったレーズンパン)を昼食用に持って行く。

 八時前のローカル線は通学の高校生らで混んでいる。これがターミナル駅で湘南新宿ラインに乗り換えるとずいぶんと空いているのだが、東京に近づくにつれて混み合って来て、赤羽のあたりでは満員になってしまった。もう時間は十時ぐらいだけれども、まだ通勤の人がいるということなんだろうか。

 時間がまだ早いし、持ち込みの「私のいない高校」の読書も興に乗ってきていたので、いちど大崎の駅まで乗り越してそこからUターンして渋谷駅へ。駅前の喫煙所で一服してから映画館へ。ちょうどいい時間であるが、やはり平日の朝とあって、客の数はそんなに多くはない。まずは「地獄の警備員」から上映が始まり、終わったところで昼食にちょうどいい時間。持って来たレーズンパン(けっこう大きい)を無糖紅茶で流し込み、お手軽な昼食は休憩時間中にすませる。次の「トウキョウソナタ」が終わってもまだ午後三時前。外に出るとかなりの雨になっていた。昨日と同じような服装で外出してきたのだけれども、今日はそんな格好ではちょっと肌寒さを感じる。もう本格的な秋だなと思うのだった。

 寄り道をせずにまっすぐ家に帰ることにして、電車の乗り継ぎもうまい具合に行って、午後五時半には帰宅。空はまだうすぼんやりと明るい。ごはん(こないだ買った新米)を炊いて、またカレーライスの夕食。新米は水加減がむずかしく、ちょっとやわらかすぎ。

 ネットをみていると、フェスティバル/トーキョーの先行割引チケットが昨日から売り出されている。行きたいと思っていたプログラムもあったので、いろいろと内容をみて考える。まずは飴屋法水の「ブルーシート」はかならず観たいので、チケット購入に進んでみるのだが、みごとにソールドアウトになっていた。まあこれは「割引チケット」の売り切れ、ということだろうから、明後日の一般発売日になれば買えることだろう(割引価格ではないが)。それと岡田利規(チェルフィッチュ名義ではない)の「God Bress Baseball」を買おうとすると、もう最終日の分しか残っていなかった。「いいや」と、とにかくは購入。あといろいろとみて、「アジアシリーズ vol.2 ミャンマー特集」というのがチケットも安くって面白そうなので、これも買う。それと、SPACの「真夏の夜の夢」とかも買ってしまった。
 今日は買わなかったけれども、来日する「パリ市立劇場」によるイヨネスコの「犀」というものも、この際ぜひ観ておきたくなった。ピーター・ブルックの「Battlefield」もチケットがもう売られている。こっちも観たい。などと考えているととんでもない出費になってしまうようで、恐ろしくなってしまう。




 

[]「地獄の警備員」(1992) 黒沢清:脚本・監督 「地獄の警備員」(1992)   黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 前から観たかった一作。期待に違わぬ面白さだった。

 急成長している商社に新設された絵画取引の「12課」に、ヒロイン(久野真紀子)が入社してくるのだが、同時に新しい警備員の富士丸(松重豊)も。12課はほとんど窓際部署で、大杉漣の課長もほとんどセクハラオヤジだし、とにかくは美術に関する知識の持ち合わせもない。
 富士丸が来て以来、会社には不可解な出来事も起こるようになり、ヒロインも資料室に閉じ込められ、そこにイヤリングの片方を落としてしまう。そのイヤリングを拾うのが富士丸で、彼はヒロインの入社時に提出した顔写真も所持しているのである。富士丸は彼女に運命的な結び付きを感じているらしい。
 12課の全員が残業になった日に惨事が始まる。課長からひとりひとりと富士丸の犠牲になって行き、ヒロインも追いつめられて行き、人事課の課長の部屋へと逃れるのだが‥‥。

 じっさいに身長が190センチ近いという長身を活かし、暗く荒廃したビルの中の人間離れした存在という設定が活きる。これはムルナウの「ノスフェラトゥ」と「フランケンシュタイン」とを合わせたような造形ではないかと思ったのだが、前半はただ「正体のわからない殺人鬼」という描写なのが、終盤にはヒロインの「どうしてこんなことをするの」という問いかけに、「知りたいか‥‥それを知るには勇気がいるぞ」と答えるのである。わけのわからない、ということを越えての「挑戦状」のようなことばである。

 もちろんこの映画での富士丸は人の外からあらわれる「恐怖」で、そういう面では旧的な既存のホラー作品を踏襲してもいるわけだけれども、この次に黒沢監督が撮る「CURE」では、恐怖というものは人の内側を覗き込むようなものとしてあらわされ、それは「回路」にも引き継がれる。しかしその「内側からの恐怖」という端緒が、この「地獄の警備員」でも「それを知るには勇気がいるぞ」ということばにあわらされているのではないだろうか。そこにやはり黒沢監督の撮るホラー作品の独自性があるのだと思い、そのことはこの「地獄の警備員」からも感じ取ることは出来るのである。

 わたしの好きな俳優の諏訪太郎さんが12課の一員として登場し、終盤には大活躍をされたのがうれしい。彼がこんなに活躍される作品ってそんなにないんじゃないだろうか。あと、ラストにちょっとだけ洞口依子が登場し、この頃の黒沢作品にはかならずみたいに彼女が出てくるのを思い出したりした。





 

[]「トウキョウソナタ」(2008) 芦澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督 「トウキョウソナタ」(2008)   芦澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 脚本は黒沢監督とマックス・マニックス、それと田中幸子との三人の共同になるもの。現在の東京で暮らす家族の断面として興味深いドラマであり、特に夫(香川照之)と長男、次男のドラマなどはいかにも現代的だと思わせられるのだけれども、その中ではかなり異質な妻(小泉今日子)のドラマにこそ、わたしは惹かれてしまうところがあった(やはりあとで調べると、この部分の脚本は黒沢監督によるものらしい)。

 ここに登場する強盗(役所広司)はつまりはマクガフィンなのだが、やはり強盗ではなく役所広司であり、彼が登場することでこの映画が黒沢作品であることを主張しているようにも思ってしまう。他の三人のドラマがリアルといえばリアルなのに比べて、この妻のドラマは、ここだけがファンタジーである。そもそもの役所広司の所作がコミカルであることもあるが、「強盗」という存在の恐怖感からまるで無縁な、ある意味ではおマヌケな強盗ではある。しかし彼は触媒として小泉今日子に何を見せるのだろうか。「自分はひとりしかいません。信じられるのはそれだけじゃないですか」と役所広司に語る小泉今日子は、海で何を見たのだろうか。ひとり波打ち際で涙する小泉今日子をみて、「上手い役者さんだなあ」と思った。





 

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■ 2015-09-24(Thu)

 今日はしごとも休みで、高田馬場の早稲田名画座へジャン・ルノワールの「ピクニック」とブレッソンの「やさしい女」の二本立てを観に行く。「やさしい女」は二回目になる。早朝から行って、早めに帰って来たかったのだけれども、冷蔵庫の玉子の在庫がなくなっていて、今日は北のスーパーの玉子の安売りの日なので、スーパーが開くのを待って、玉子を買ってから出かける。「安売り」といっても五十円ぐらいのもので、そのくらいの無駄遣いはしょっちゅうやっているわけだけれども、なぜかスーパーでの買い物となると一円でも安く買おうとするからおかしなものだと思う。それに、あとで考えたら早くに出かけて早くに帰って来て、それからでも買い物に行けばいいのだった。とにかくは「ピクニック」は一時間弱、「やさしい女」は一時間半の作品なのだから、十時から観始めても十二時半ぐらいに観終え、まっすぐに帰宅すれば三時ぐらいには家に着く計算になるのだから。

 とにかくは十四時二十五分の「ピクニック」から観ることにして、家を出るのは十一時。高田馬場に着いてから昼食をとることにした。昼食はまた日高屋で、今日は担々麺にした。もうそういう季節だけれども、まだちょっと担々麺などを食べるには暑い気候だろうか。

 映画館は平日の昼なのであまり混み合ってはいない。「やさしい女」を観終わって、午後五時ちょっと前という感じ。すぐに駅へ向かい、山手線で池袋に出ると、ちょうど湘南新宿ラインの快速電車に間に合った。電車の中では青木淳悟の「私のいない高校」を読む。

 自宅駅に着いて午後七時半ぐらい。南のスーパーに立ち寄って、値引きされて半額以下になっているパン(袋に三個ぐらい入ってる)を買って帰った。これは明日の朝食にして、残ったら明日も出かける予定なので昼食用に持って行こうかと。帰宅してニェネントにごはんを出してあげ、わたしは昨日つくったカレーをあたためての晩ごはん。かんたんである。




 

[]「ピクニック」(1936) ジャン・ルノワール:脚本・監督 「ピクニック」(1936)   ジャン・ルノワール:脚本・監督を含むブックマーク

 ジャン・ルノワールの作品を観るのは、これが初めてになる。この作品は完成を待つ前にドイツ軍によって破棄されたと思われていたのが、保存されていたオリジナルネガをもとに編集作業を進め、1946年にパリで公開されたとのこと。もっと長い作品の断片であるとも考えられるけれども、これはこれで完璧に完結している。

 郊外に馬車でピクニックに出かけて来たパリの家族。金物商の夫と妻、義母と娘アンリエットとその未来の婿アナトールとである。レストランを見つけた一行は、そばの草上、サクランボの木の陰で昼食をとることにする。そばには川が流れていて、ボート遊びをしていた二人の青年(アンリとルドルフ)が一行に注目する。アンリはアンリエットとボートに乗り、ルドルフはアンリエットの母と。
 ‥‥数年が経って、アンリエットはアナトールと結婚している。ある日アンリがあの川へ行くと、そこにはアンリエットとアナトールの姿があり、アナトールは居眠りしている。アンリとアンリエットのめぐり合い‥‥。

 美しいシーンがいっぱいある。いや、全篇ただ美しいといってしまっていいのではないか。アンリエットと母が夢中になるブランコ。サクランボの木の下の木漏れ日。たゆたうボートを浮かべる水面のゆらめき。短いストーリーも、その映画の中では「過去」になってしまった美しい時を愛おしむようである。愛すべき人々と愛すべき自然。これはこの地球という惑星の美しさなのかもしれない。ああ、もうわたしはこの作品のことを忘れてしまいそうだ。もういちど観たい。

 この作品、スタッフやキャストも豪華である。脚本の原案はモーパッサンの作品からとったようで、ジャック・プレヴェールが台詞の執筆に協力をしている。音楽はジョセフ・コズマだし、助監督に名を連ねているのはジャック・ベッケル、アンリ・カルティエ=ブレッソン、そしてルキノ・ビスコンティ。撮影はクロード・ルノワール。そしてアンリエットを演じているのは当時ジョルジュ・バタイユ夫人だったシルヴィア・バタイユということである。




 

[]「やさしい女」(1969) ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督 「やさしい女」(1969)   ドストエフスキー:原作 ロベール・ブレッソン:脚本・監督を含むブックマーク

 二度目の鑑賞。先日アンヌ・ヴィアゼムスキーの「少女」を読んだので、この「やさしい女」の撮影もまた、「バルタザールどこへ行く」のギスラン・クロケであることを認識出来た。

 さて、今回思ったこと。このヒロインと夫において、ほとんど肉体的な接触が描かれないこと。しかし彼女らが結婚して肉体関係を持つことは、ヒロインが裸身にバスタオルを巻いて部屋を横断し、そのバスタオルを脱いで後ろ姿の裸体をみせることであらわされる。そして映画館ではヒロインの隣に座った男からヒロインを守るため、夫は席を交換してあげる。これがこの二人の当初の関係として提示され、その関係はだんだんにこわれて行く。

 夫は自殺した妻とのことを、横たわる妻の遺体のわきで話し続ける。その物語が映像としてこの映画となるわけで、つまり冒頭でヒロインはいきなり自殺するわけだから、この映画はすべて「過去形」なのだ、ということ。また、すべてが夫の目を通して見られた妻のことである。夫は過去を振り返って、自己弁護をしているのだろうか? いや、自分がどこで誤ったのかを語るのだろうか。わからないことがたくさんある。





 

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■ 2015-09-23(Wed)

 このところアルコール摂取、つまり酒を飲むことが少なくなった。日本酒の2リットルのパックを三、四日で空にしていたのがウソのよう。今も安いベルギー・ビールの買い置きは冷蔵庫にあるのだけれども、飲むにしても「ビールがあるから飲んでおこうか」みたいな感じで、飲みたいから飲むというのではないし、味も今では美味しいと思うわけでもない。しばらく前までは日本酒の四合瓶を買ってちびちび飲んでいたのだけれども、あまり美味しく感じなくなり、自然と買わなくなってしまった。いいことではないかと思うのだけれども、おいしい酒であまり高くなければ買っておいて、ちょっとずつ飲んでもいいとは思っている。
 今日近くのドラッグストアへ行くと、見切り品コーナーに知らない日本酒の四合瓶が半額で置かれていた。元値がけっこうな価格なので、「これは美味しいかもしれない」と買って帰った。まだ封を切っていないけれども、楽しみではある。

 図書館から借りている「新釈漢文体系」の「唐代伝奇」の巻、収録されている「黒衣の刺客」の原作「聶隠娘」を読んだ。十ページにも満たないほどの短い作品だったけれども、その半ばほどのところでヒロインは鏡磨きの男と結婚するわけで、どうやら映画で描かれているのはそのあたりまでの数ページの展開を膨らませたものだということがわかった。

 今は寝る前に先日買った「マンハッタンのKUROSAWA」という本を読んでいる。面白いのでけっこう読み進み、寝る前に読む本としては珍しく早いペースで読んでいる。テーマを決めて特集上映を組むときのあれこれの苦労話、日本映画に対するアメリカの観客の反応など興味深くもあるし、この著者の立ち位置がすばらしくバランスが取れたものだと感じる。しかし読んでいると今ではほとんど忘れられてしまっているようなドキュメンタリー映画の話がいろいろ出て来て、「そのドキュメンタリー映画、ものすごく面白そうなんだけど」と思っても、おそらくはもう観ることはできないのだろうか。それともわたしが知らないというだけの話なのか。
 そんな中で、関口典子という監督さんの作品、「戦場の女たち」という作品のことが気にかかった。ニューギニアの村の、日本軍が侵略して来たときの話を現地の人たちに聴いたことからつくられた作品で、こういう記述がある。「最初は現地の人と食料を腰巻布などと交換していた日本兵は、だんだん戦局が悪くなるにつれて略奪に代わり、女性をレイプするようになり、ここにいる息子は実は日本兵との間の子なのだとカメラの前で涙ながらに村の女性が告白するショッキングな話が続く。」「関口さんはさらに日本へ赴き、ニューギニア戦線に参加した元日本兵の人たちの証言もカメラに収めているが、彼らはすべてを否定するばかりか、現地の女性に対する差別感に満ちた発言を平気で照れ笑いしながらするのである。」‥‥読んでショックだった。この映画には「日本軍はアジアのどこへ行ってもまず慰安所を立て、それに朝鮮の女性たちが『積荷』として軍用船で運ばれた」というような説明(シーン)もあるようだ。
 調べたら、この「戦場の女たち」という作品はDVDがリリースされているようだ。高くてわたしにはちょっと買えないけれども、観てみたいものである。

 明日、明後日と東京に映画を観に行くつもりなので、帰宅してからかんたんに食事ができるように、またカレーをつくることにした。実はカレールーの買い置きがたくさんあって、もう消費期限が迫っているものもあるのである。せいいっぱいカレーをつくって食べようと。
 今回もウェイパーにオイスターソースなどで隠し味をつけ、満足のいく味になったかな。




 

[]「炎上」(1958) 三島由紀夫:原作 宮川一夫:撮影 市川崑:監督 「炎上」(1958)   三島由紀夫:原作 宮川一夫:撮影 市川崑:監督を含むブックマーク

 金閣寺を放火した男の心情を描く、三島由紀夫の原作を市川崑が映画化したもの。主演は市川雷蔵で、暗く内にこもった情念のにじみ出す演技がすばらしく、また、彼の情念を加速させるような仲代達矢の存在がいい。撮影の宮川一夫もまた、こういう和風建築を舞台にすると一段と腕が冴えるようで、見事だと思う。夜空に燃え上がる寺の炎、その火の粉の舞うさまが美しい。




 

[]「裏切りのサーカス」(2011) ジョン・ル・カレ:原作 トーマス・アルフレッドソン:監督 「裏切りのサーカス」(2011)   ジョン・ル・カレ:原作 トーマス・アルフレッドソン:監督を含むブックマーク

 原作はジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」。彼の「寒い国から帰ってきたスパイ」は読んでいるはずだが、もちろん記憶にはない。そもそもこの映画もわたしは一度観ているようだ。監督は「ぼくのエリ 200歳の少女」を撮った監督で、ここでもいい仕上がりの作品になっている。才能のある監督だと思う。撮影もやはり「ぼくのエリ」を撮ったホイテ・ヴァン・ホイテマという人で、移動撮影やゆっくりとしたズームイン、ズームアウトなどで見事な絵をみせてくれている。

 キャストも豪華で、主役のスマイリーにゲイリー・オールドマン、スパイ組織サーカスの前のトップにジョン・ハート、他にこのあいだ観た「キングスマン」に出演していたコリン・ファースとマーク・ストロング、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のトム・ハーディなどなど。

 ストーリー展開はややっこしいところもあるのだけれども、今回はわたしの頭は冴えていたのだろう。「ここのコレはさっきのアレにつながるのだな」とか、「ここは過去、ここは現在」とか、ちゃんと理解しながら観てた。そうするとやはりこれは面白い展開の作品で、息を吞みながら、「そうか、そういうことだったのか!」などと思いながら観るのであった。ただ、キャスティングからも、二重スパイの「もぐら」は誰なのか、だいたいわかってしまうということはある。

 じっくりと間を取った演出、画面構成に気をつかった演出は小気味良く、こういうところが先日観た「キングスマン」にはなかったところだよな、などとは思うのであった。




 

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■ 2015-09-22(Tue)

 世間では「シルバーウイーク」とかいって、五連休とか拡張すれば九連休とかのまっさいちゅうだけれども、わたしは今日もふつうにしごと。明日もしごとなのだが、そのあとは木曜金曜と連休になる。今日と明日は家でゆっくり休んで、木曜日にまた映画を観に行く計画。名画座でやっているジャン・ルノワールの「ピクニック」と、ブレッソンの「やさしい女」の二本立てを観ようと。予定ではその次の金曜日にも「黒沢清レトロスペクティヴ」を観に行こうかと思っている。

 自分の中では「安保法案」が採択可決されてちょっと落ち込む気分もあるのだけれども、先日観た「春画展」のおかげで明るい気分を維持出来ている気もする。「春画なんて観てれば飽きる」みたいな意見もみたけれども、それは見てるところがちがうのであろう。秘部ばかり観ていても飽きるのは当たり前で、そうじゃなく、「春画」を通じて絵師たちが何を表現しようとしたのか、それは時代や土地によってどのように変化がみられるか、というあたりから興味を持てば、こんなに面白い展覧会はなかったと思えるのである。やはりまた観に行きたい。

 昼ごはんの準備をしようとしていたら、ニェネントがキッチンに来て「にやぁお」となく。「なんだよお」と問うと、また「にやぁお」となく。そんなことを繰り返す。おそらくは自分もごはんが食べたいということで、たしかにニェネントの二つの皿の一方は空っぽになっている。もう一方のカリカリを盛ってある皿にはまだカリカリは残っているので、「まだこっちは残ってるじゃん」としゃがんで示してやるのだけれども、ニェネントはわたしに寄ってきてわたしの手をペロペロなめたりするのである。そういうどこかのウチの飼いネコみたいなことはやらないネコだと思っていたので意外だし、やはりかわいいのである。リクエストに答えて、ネコ缶を出してあげた。‥‥あっという間に食べてしまった。

 昼からは映画を観始めたら眠くなってしまい、「では昼寝」と、ベッドに上がって寝ることにした。それで目が覚めたらあたりは薄暗く、時計をみたら六時十分前だった。ここでわたしはちょっと錯乱してこれは朝の六時だと思い込んでしまい、それだったらしごとへ行かなければいけない時間から一時間も寝過ごしてしまっていることになる。「一時間遅刻だけれどもこれから急いで行かなければならない」とあわてて起き、今が夕方の六時だと気がつくまでにしばらくかかってしまった。今の時期はちょうど昼と夜の時間が同じで、六時ごろの暗さが朝も夕方も同じぐらいなのだろう。

 今日は娘の誕生日なのだけれども、何も連絡せずにすぎてしまった。「おめでとう」ぐらい、メールすればいいのに。




 

[]「匿名芸術家」青木淳悟:著 「匿名芸術家」青木淳悟:著を含むブックマーク

 併録された彼のデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」を巻き込んでさらに大きな「入れ子」を創作し、不思議不可解な、フィクショナルなリアリティを創出した感覚。「フィクショナルなリアリティ」って言い方はおかしいかもしれないけど、この作品にはしっくり来る。

 ここでは「四十日と四十夜のメルヘン」の作者を「田中南」というペンネームの女性とし、「四十日と四十夜のメルヘン」創作過程や彼女の日常生活などを書き、「四十日と四十夜のメルヘン」で書かれていることを補完するような感覚。その中に印象派の画家たちのエピソードが書き加えられ、タイトルの「匿名芸術家」を「匿名」の部分と「芸術家」の部分と分けて捉えるべきなのか、などと思った。

 書かれていることはあちこちに飛躍しているのだけれども、「四十日と四十夜のメルヘン」と合わせての統一感も感じてしまうのはどこから来るのだろうか。とにかくは面白く読めた作品で、やはりわたしは青木淳悟のファンなのであろう。




 

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■ 2015-09-21(Mon)

 計画どおり、今日は映画を二本観る。予定ではまずは近くのターミナル駅の映画館でやっている「キングスマン」を観て、そのあと東京へ出てまた「黒衣の刺客」を観るつもり。「キングスマン」は朝の十時二十分からの上映なのでちょっと早くに家を出なくてはならないが、「黒衣の刺客」を観終わっても午後五時ぐらいのものだろうから、あまり遅くならないうちに帰って来れるだろう。

 まずは自宅駅を九時四十分に出る電車でターミナル駅に行き、駅のそばのビルの七階のシネコンへ行くのだが、この駅のそばのビル、中の店舗がほぼすべて閉鎖されている。一階と地下にあったドン・キホーテも閉店してしまっていて、この店を利用することの多かったわたしとしてはショックである。このビルでまだオープンしているのは五階から上の100円ショップ、そしてレストラン街と映画館ぐらいのものである。書店もCD・DVDの店もみんな閉店。ビルを改築するのだろうか。

 これはあとで調べてわかったのだが、このビルを仕切っていたスーパーマーケットチェーン店(関西に本拠がある)がこの八月末をもって撤退し、テナント店もすべて閉店。あとを市に譲渡(無償譲渡)したということらしい。市はこのビルの再生に向けて取り組むとのこと。
 これで思い浮かぶのはウチの駅のすぐ北にあるビルのことで、このビルもかつては商業ビルとしていろんな店舗が入っていたのだけれども、先と同じように仕切っていた会社が撤退し、あとを市に譲渡したわけだった。しばらくは三階には100円ショップが残り、地下にはボウリング場(!)が残っていたのだけれども、けっきょくビル全体を市が市役所の分室として使うことになり、せっかくの駅前好条件の建物は商業ビルではなくなってしまったわけである。これは「この市もだんだん寂れていくなあ」という印象を強めることになっただろうか。ちょっと残念なことだった。
 このターミナル駅には新幹線もストップするし、ウチの街のように寂れていくなどということもないはずで、この駅ビルも早々に再開してくれるといいのだが。

 しかし、ビルのほとんどのテナントが撤退して、映画館の方は大丈夫なんだろうかと心配になるけれども、おそらくこの映画館はビルのオーナーか何かが所有、経営しているのではないかと思えるところがある。そうでなければ、現状の客の少なさで経営が成り立っているはずがない。上映する作品も「これは経営者の趣味だな」と思える作品が多いし(とにかく韓国映画は多い)、閉鎖されるということはないと思っている。まあ、同じフロアのレストラン街は厳しいだろうけれども。

 ということで今はシルバーウイークの連休でもあり、その映画館での「キングスマン」、ここで体験したことのないくらいの客の多さ、だった(といっても十数人ぐらいのものでしかないが)。

 先に調べておいたところでは、ここで「キングスマン」を観終えて新宿に移動すれば、午後三時からの「黒衣の刺客」に余裕で間に合うことになる。ただ食事をとる時間はとれないだろうから、先にコンビニでサンドイッチを買い、駅のコンコースで食べる。

 さて、新宿に到着し、上映されているシネコンにまっすぐに向かい、席を確保しておこうとしたのだけれども、受付で「もう席は二席しか残っていませんが」と、スクリーン最前列の左隅の席を示された。ちょっと「どうしようか」迷ったけれども、まだいちばん隅の席ではないし(左から三番目とか四番目ぐらいが空いていた)、とにかくは観ることにした。開映まで少し時間があるので向かいの紀伊国屋書店に寄り、DVD売場などのぞいてみたりする。ヒッチコックのDVD、十枚組で二千円ぐらいのとか、あまりに安いので「買ってもいいな」と思ったりする。一枚二百円弱なら、画質が酷くてもいい。

 開映時間が近づき映写室へ行く。先日この「黒衣の刺客」を観たのは渋谷の映画館だったが、こちら新宿の方がスクリーンは大きいだろうか。わたしの席がスクリーン間際だから大きく見えるのか。やはり画面の右上が視界から遠いし、歪んで見えもするし、万全の視聴環境とはいえない。まあ気に入っている作品だから、もういちど観てもいいと思っている。

 帰りは偶然、一昨日と同じ電車での帰路になってしまった。まだ早い時間のせいか、休日というせいなのか、すぐに座ることができたのも一昨日と同じ。帰宅してネットをつけると、ちょうどFMでプログレ音楽を延々と聴くような番組をやっているようで、そっちを起動させて聴く。夜食はスパゲッティーで、ちょっとミートソースに凝ってみようと思っていたのだけれども、その番組を聴いていたので、出来合いのミートソースを温めただけにした。

 




 

[]「キングスマン」マシュー・ヴォーン:監督 「キングスマン」マシュー・ヴォーン:監督を含むブックマーク

 監督のマシュー・ヴォーンという人は、先日観た「キック・アス」を監督した人。「キック・アス」は出演したクロエ・グレース・モレッツの魅力もあって楽しく観たのだけれども、この作品はイギリスの秘密スパイ組織の活躍を描くアクションもので、コリン・ファースやマイケル・ケイン(座ってるだけだけれども)らが出演。

 そのスパイ組織が「キングスマン」という仕立て屋を隠れ蓑に活動してるんだけれども、コリン・ファースらメンバーはアッパー・クラスの出自であるという紳士的な立ち居振舞なのだけれども、新しくメンバーになろうとする青年はモロにワーキング・クラス。メインストーリーのスパイ戦の背後には、彼がワーキング・クラスから成り上がっていくのを描く演出がある。

 基本はジェームズ・ボンド映画やその他、先行するエンターテインメントのスパイ映画へのオマージュで成り立つ作品といえるだろう。近年のボンド映画(つまりダニエル・クレイグのボンド)があまりにシリアス路線をとっていることへの反発だろうか、かつてのスパイ映画が持っていたユーモア感覚を取り戻そうとする演出、あれこれの小道具に凝った演出は楽しい。細部にあれこれと「隠しネタ」みたいなものもあるみたいだし、ラストには完全にリアリズムから離れてしまうのも笑ってしまう。

 しかし、演出はどこか大味で、いくらエンターテインメント映画といっても、絵に深みがない。映画館の大画面で観るよりは家庭のモニターで観て、影に隠された「隠しネタ」を探してみて楽しんで下さい、というようなゲーム感覚の作品ではないだろうか。




 

[]「黒衣の刺客」リー・ビンピン:撮影 ホウ・シャオシェン:監督 「黒衣の刺客」リー・ビンピン:撮影 ホウ・シャオシェン:監督を含むブックマーク

 二回目の鑑賞。前回は室内の背後で揺らめく布ばかりに目がいっていたのだけれども、それは背後だけでなく、登場人物の前面にもひんぱんに粗い目の布がかぶさって来て、やはり風にゆらめいているわけである。

 映画が始まってからしばらくはモノクロ映像なのだけれども、その幕開けの二匹のロバを観るだけで、「この作品は傑作にちがいない」と思わせるものがある。終盤にヒロインが「導士」と中国の山水画的な険しい山の頂で会うシーンがあるけれど、時間の経過とともにその背後に白い雲が流れてきて、ついには彼女らの背後はまっ白に雲におおわれてしまうシーンなど、雲の動きまで演出したのだろうかなどと思ってしまうのである。

 この日本での上映には鏡磨(妻夫木聡)の日本に残した妻が雅楽を舞うシーンなどが「日本ヴァージョン」として追加されているということだが、映画トータルでみれば、やはりこれらのシーンは不要だったと思う。

 映画のエンドロールに流れる楽曲がまるでハイランド・パイプのような音を聴かせ、「こういう音をやるバンドがスコットランドかアイルランドにあったはず」などと思わせられ、この曲をYouTube で発見して、何度も聴き返すのだった。

      D




 

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■ 2015-09-20(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 昨日「春画展」を観に行って、会場の永青文庫の近くの古本屋で二冊ほど本を買った。一冊は「映画の授業 映画美学校の教室から」という本で、映画の脚本や演出、撮影のことなどを現場の人たちが講義したものの記録。脚本は塩田明彦、演出は黒沢清、撮影はたむらまさき氏らが語っておられる。映画を観るときの参考になれば、という気もちで買ったもの。もう一冊は「マンハッタンのKUROSAWA 英語の字幕版ありますか?」という本で、これは「天皇と接吻」という著作が評判になった平野共余子という方の著作で、彼女がニューヨークのジャパン・ソサエティで1986年から2004年まで、数多く行なってきた日本映画の特集上映の記録とエピソード集。ペラペラと立ち読みして、各章が短いし面白い話題も多いので、すぐに読めそうに思って買ってしまった。ちょっと読んで面白かったエピソードは、ニューヨークで「愛のコリーダ」を上映したとき、観客が最初からずっと爆笑し続けていたということ。著者はこれを「気恥ずかしいのでつい笑ってしまい、それが伝染する」のだろうと書かれている。でも考えてみると「愛のコリーダ」は日本の春画浮世絵に強く影響を受けてつくられた作品であるわけで、この笑いというのは、ひょっとしたらわたしなどが昨日「春画展」を観て感じた、「笑ってしまうぐらいにおかしい」という感覚と重なるのではないかと思った。

 明日はまた映画を観に行こうかと計画していて、ひとつは「黒衣の刺客」をもういちど観たいのと、それと「キック・アス」の監督の新作「キングスマン」というのが観てみたいと思うのである。明日はしごとも休みなので、楽に二本観て来れるだろうと思う。「黒沢清レトロスペクティヴ」の方も観に行きたい作品はあるのだけれども、今週末まではお休みしていてもいいだろうと思っている。

 図書館から借りている青木淳悟の「匿名芸術家」、併録されている彼のデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」までいちおう読み終えたのだけれども、「匿名芸術家」に書かれていることは「四十日と四十夜のメルヘン」に深く関わっているので、また「匿名芸術家」を最初っから読み始めた。やはり今のわたしには青木淳悟という作家がいちばん魅力的に思える。これを読み終えたら「私のいない高校」を読む。この作品の内容は記憶から消えたけれども、とにかくは面白く読んだ記憶は残っている。

 このところ録画した映画を観ていないので、HDDがまた満杯になってしまった。やはりもう「ひかりTV」との契約は打ち切って、いつまでも映画を観ることに追いかけられるような生活から脱するべきではないかと思う。映画を観るにしてももっと選んで、DVDを買ってでもいいから古典の名作をたくさん観たいと思う。

 




 

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■ 2015-09-19(Sat)

 今日から、永青文庫というところで待望の「春画展」が始まる。今の社会情勢だといろいろと横ヤリが入ったりしそうだし、じっさいに多くの美術館などはこの企画を実現することに二の足を踏んだわけだ。早々に「展覧会中止」とかなってしまわないとも限らない。まあ永青文庫というスポットはそういう横ヤリをはね飛ばす背景は持っているようだけれども、とにかくは早いうちに観ておこうと、初日の今日、観に行くことにした。

 まずはちょっとでも安くあげようと、新宿のチケットショップに寄り、ぐるっと廻ってみていちばん安かった店、1280円でチケットを買う(開場窓口で買えば1500円)。そしてここで書いておけば、実はちょっとしたハプニングがあって、4000円という臨時収入を得てしまった。あんまり誉められた行動ではない(犯罪ではないが)ので詳しくは書けないけれども、ここまででだいたいの想像はつくのではないだろうか。
 おそらくは初めて乗る「副都心線」というメトロに乗り、雑司ヶ谷で下車する。この駅から会場の永青文庫までは徒歩15分ぐらいということだけれども、感覚としてはいつまで歩いても到着しない。遠い。空は快晴でちょっと暑いぐらいの天候。ようやく会場に近いはずの「和敬塾」の入り口が見えるのだが、わたしは過去にこの「和敬塾」と何らかの縁があったような気がするのだけれども、それが何だったんだろうか? 思い出すことができない。

 ようやく会場の永青文庫への路地をみつけたようで、向こうから、もう観終わった人だろうか、幾人もの人がこちらに歩いてくる。これらの人たちが皆「春画展」を訪れた人たちだとすると、かなり会場は混み合っているように思える。

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 やはりその道の先に、目的の永青文庫があった。予想どおりかなり混んでいるけれども、先月の上野の「生命大躍進」展ぐらいのものか、むしろあのときよりは展示はみやすいような気もする。

 ゆっくりと展示作品を一点一点ていねいに観て、なんだかおおらかな気分になれた気がする。昨日安保法案が採決されて落ち込んでいた気分も持ち直した気がする。仕切り直しだよ!という感じ。別棟の「物販コーナー」へ行ってみると、まずはあまりに分厚い「図録」に驚かされてしまう。厚みが6〜7センチはあるようで、背表紙を貼るとどうせシワになってしまうと考えたのだろう、背表紙は造本のままむき出しになっている。そのことがデザインのアクセントになっていて、ちょっとユニークである。これが一部4000円と、普通に考えると高いし、普段のわたしならとても買わないだろう。しかしこの4000円という金額が今日の臨時収入、不労所得の4000円とピタリいっしょなわけで、これはもう「この図録を買え」と誰かがプレゼントしてくれた4000円なのだと考えるしかないではないか。‥‥買ってしまったのだが、透明ビニール袋に入れられたというのはどうなのか。バッグには大きすぎて入らず、その透明ビニール袋の図録をぶら下げて持ち帰ったのだけれども、ちょっと周囲の目を気にしてしまうではないか。色付きの袋にしてくれればいいのに。




 

[]「春画展」@目白台・永青文庫 「春画展」@目白台・永青文庫を含むブックマーク

 「春画」という興味にとどまらず、日本絵画の人体表現の歴史を、中世(鎌倉時代)から近代(江戸時代)までを俯瞰出来るような内容で、わたしなどはまずそのことに興味を持つのだった。まあ正直、鎌倉の頃の肉筆画などをみると人体は「マグロ状態」というか、ただ横になっているだけ、股を開いているだけみたいな描写なのだけれども、これが江戸の浮世絵になると、人物にどのようなポーズをつけるかということでずいぶんと変化が見られる。それも四十八手とかアクロバティックな方向に走るのではなく、基本は「正常位」をとる中での工夫、みたいなことになる。このあたりで、「リアリズム」という足かせのある西欧絵画を越えている印象にもなる。

 それと、数は少ないけれども上方の絵師の作品も展示されていて、江戸の絵師との表現の差異というものもみることが出来る。わたしは18世紀末の上方の絵師の作品「耽溺図断簡」という作品に見入ってしまったけれども、この作品、ハンス・ベルメールをも思わせる現代性を持っていたと思うし、わたしなどはむしろベルメールなど軽く凌駕してるのではないかとさえ思った。わたしの一番のお気に入りがこの作品である。

 そしてやはり全体を観ていえるのは「日本人のおおらかさ」とでもいうようなもので、ここに西欧のポルノグラフィー(あまり観たことはないが)との大きな違いがあるように思えた。実際に当時でもこのような春画は「笑い絵」とも呼ばれていたようで、淫靡に隠し持つようなものでもなく、皆でいっしょに見て笑っていたようでもある。じっさい、この展覧会でも観客の表情がにこやかである。女性の友達同志ふたりとかで観に来ているようなお客さんも多く、ふたりで作品を観ながら感想を語り合っていたりする。ポルノでは望めないところだろうか。もちろん、女性のひとりのお客さんもずいぶんと多い。

 有名な作品、美しい作品などもずらりと並べられたこのような展覧会、これから先二度と開催される機会はないのではないかな。そう、会期中に展示替えが三回行われるようで、つまりすべての作品を鑑賞しようと思ったら、都合四回通わないといけないことになる。そりゃあ大変だなあとは思うけれども、もう一度は来てみたい展覧会ではある。




 

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■ 2015-09-18(Fri)

 今日は内科医に通院する。ついでにすっぽかしてしまっていたメンタル・クリニックの方にも行っておかないと、薬も切れてしまうし、次の通院日がネックになって外出できなくなってしまうことになるかもしれない。こういうことはまとめてやっておいた方がいい。

 まずは内科医へ行くが、今週末からシルバーウイークというやつに突入するので、ロビーは診察待ちの人で混み合っている。めずらしく診察の番がまわってくるまで一時間ぐらい待たされ、おかげで持参した本をけっこう読み進めることができた。帰りに図書館に寄り、今読んでいる青木淳悟の「匿名芸術家」の貸し出しを延長してもらい、その青木淳悟の「私のいない高校」も借りた。「匿名芸術家」がやはり面白いわけで、現代日本の作家では青木淳悟がいちばん気に入っていると、たいしていろんな本を読んでもいないのにいってしまいたくなるのである。あと、先日観た「黒衣の刺客」の原作というか元ネタというか、唐代の伝奇小説集でその「聶隠娘」の収録されているのも借りて来た。唐代伝奇小説というものは前から興味があったので、ちゃんと読めるといいのだが。

 いちど帰宅して、昼食がめんどうなので前に買ってあったタイのインスタント麺、「YumYum」のグリーンカレー味、というのをつくって食べた。ものっすごく辛い。こんなのを好んで食べてるなんて、タイの人たちはすごいなあと思った。

 午後からはメンタル・クリニック。こちらも待ち合いの椅子が満席なほどに混み合っていて、読書がはかどった。診察で思いがけずに血液検査で採血され、先月会社の健康診断で採血されたばかりなのにな、などと思うし、国会で安保法案が採決されようとしているときに、わたしは採血かよ、などとつまらないことを考える。

 その国会の方は、今日はNHKは中継を行なっていない。まったく政府寄りの報道姿勢を露骨に示すようになったNHKの、今日もまた「国民の知る権利」を無視する姿勢を見せているわけだ。どうやら野党はフィリバスター戦術というやつや牛歩戦術で採決を阻んでいるらしかったが、夜になってついに、かなり混乱した中で法案は採決され、つまり安保法案は成立してしまった。




 

[]「未来世紀ブラジル」(2000) テリー・ギリアム:監督 「未来世紀ブラジル」(2000)   テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 いつ、どこの世界かわからない管理社会の中で「夢」を追う青年の物語というか。その社会は徹底した管理社会なのだけれども、管理がうまくいっているとはいいがたいところがある。情報管理局に勤める主人公は自分の夢に現れる女性が現実に存在することを知り、彼女の情報を得るためにコネを使って情報剥奪局に転任するのだけれども、そこで情報を得ようとすれば右往左往させられ、ほとんどカフカの世界が繰り拡げられる。

 なんとか彼女と出会い、夢が実現したかと思うのだが、実は彼は彼女とともに当局に逮捕されており、映像として描かれたハッピーエンドは、主人公が脳への拷問(?)によって生み出した幻想であったと。

 強烈な映像とともにディストピア的管理社会を描いた作品として心に残るものであるけれども、この主人公の夢想はどうも、童貞男の妄想と思えてしまうところがある。仮にここで登場する社会がこのような管理社会でなかったとしても、そもそもの主人公の行動は常識を逸脱したところがあるわけで、「ちょっとそれはマズいんじゃないか」と思ってしまうのである。まあ後半はその反社会性に「反管理社会」という看板が付け加えられて正当化されるところもあるのだけれども。それで彼女が主人公を気に入ってラブラブになってしまうというのもずいぶんと都合がよく思えるのだけれども、これはラストのアンチ・クライマックス感を増すためには仕方ないだろう。




 

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■ 2015-09-17(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 いちど「家でゆっくりする」と決めてしまうとその気分は連続するようで、今日もまた出かけないことに決めた。観てみたい映画はいろいろあるわけだし、気もちの上では「出かけたいな」とは思っているのだが、今日は北のスーパーで玉子の特売日だったり、南のスーパーは一割引の日だったりして、そっちを優先して考えている自分がいる。

 けっきょく、出かけないと読書もはかどらないし、そういう意味で怠惰な日常になってしまう。録画した映画を観て何かをやった気分にはなるのだけれども、膨大な記憶が消えてしまった今、ちょこちょこと映画を観て何になるのかと考えるとまた憂鬱な気分になる。まあそう考え始めると本を読んでもしょうがないし、極端なことをいえば生きている意味などなくなってしまう。このことはわたしにはそんなに極端な考えではなくて、ちょっと論理的に考えていけば容易にたどり着く結論ではある。そしてその結論をくつがえすことはむずかしかったりする。まあだからといって「死」を選ぶというわけではないのだが。

 そういうことで思うのは、知人との関係の取り難さということもある。どうもわたしは発作をさいごに起こした去年の六月まで、おそらくはさかのぼって一年ほどはひんぱんに発作を起こしていた気配があるのだが、そのあいだ、精神的にも混乱していてかなりの鬱状態だったことはこの日記を読み返してもわかる。その精神状態は他人に向けられてもいたようで、そいういことで人に不愉快な思いをさせてしまったのではないかと想像がつく。そして、そういうことをいったい誰に対してやっていたのか、不明なわけである。

 それなりに親密であったはずと思っていた方にお会いして、そっけない態度を示された(とわたしが感じる)ようなときは、きっとわたしはそういう失礼なことをその方にやってしまっていたのではないかと思う。で、そう思っても、謝罪の仕方がわからないし、そういうことを話す機会もないわけだから、つまりはそれっきり、ということになってしまうだろう。

 わたしは知人とどの程度までに親密だったのかがまるでわからなくなっている。単に顔を見知っているだけなのか、それとも飲み会の席などでもっと親密に交流していたのか不明である。このことはじっさいにその方と顔を合わせたとき、どのようにすればいいのかわからないわけである。相手の方から親密にしてくれればわかるし、そういうことを基本に考えればいいのかもしれないけれども、こちらから言葉をかけなければいけないようなシチュエーションのときもあるし、そういうときに「この人とはそこまで親密ではないはず」と言葉をかけないでいてしまうと「礼を逸する」行為と受け止められるだろう。そういうことは現実にやってしまっている可能性がある。ところが逆に「この人とは親しかったのではないか」と声をかけてみると、実はそんなに親しい方ではなかったのがわかったこともある。これはこれで気まずい。

 今わたしはFacebook の上でいろいろな知人と「友達」でいるのだけれども、そういう方との親密度もじっさいのところわからない方が多い。某ダンスカンパニーのAさんの場合は、Facebook でわたしのことを映画館のロビーで見かけたと書いて下さり、どうやらその位には認知していただいているわけだと了解出来たわけで、こういうことがあると助かるけれども、外でいきなりAさんとお会いしても、きっとわたしは無視するような態度をとっていたことだろう。それは失礼なことであったろう。とにかく、記憶を失ったことで人との交流もむずかしくなってしまった。

 今日はテレビは朝から国会中継をやっているのだけれども、野党の抵抗で審議が進まずに休憩ばかりである。それで夕方から「未来世紀ブラジル」を観ようと思って途中まで観たのだが、少し眠くなってしまい、映画を観るのはやめて意識的に昼寝した。
 暗くなる頃に目覚めてテレビをつけると、どうやら安保法案の審議が採決されてしまったようである。時間の問題ではないかという気もちはあったけど、もういよいよである。




 

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■ 2015-09-16(Wed)

 実は今日も「黒沢清レトロスペクティヴ」に行こうかと思ってはいたのだけれども、さすがにこのところの連続した上京に疲れたというか、洗濯物もたまっているし、ゆっくり風呂にも入りたいし、この日記もまた書くのが遅れて来たし、無理なことは無理と、今日は家でゆっくりすることにした。

 あまり天気がいいわけでもなく、「洗濯日和」とはいいがたいけれども、まずは洗濯。そしてネットを閲覧して日記を書いたり、買い物に行ったり。

 午後になって、ふと思い当たってスケジュール帳をみてみると、今日は市民病院へ行くはずの日だった。すっかり忘れていたし、さらにスケジュール帳を見返すと先週のメンタル・クリニックへの通院もまたすっぽかしていた。記憶力の低下がこういうところにも出て来ているのか、そうだとすると深刻だと思う。とにかくスケジュール帳を普段から見返さなければダメだと思う。
 しかし、病院をすっぽかして心配なのは手持ちの投薬の在庫というか、今週末からは秋の連休が始まってしまうので、来週も病院には行けない。再来週まで薬が持つか、ということなのだが、今まで飲み忘れたりしてだんだんに手持ち分がたまってきているわけで、数えてみたらどちらの病院の分もぎりぎり、ピタリの数が残っていたのでとりあえずは安堵。

 「安全保障法案」の参議院での採択がギリギリのところに来ていて、今日も国会前にはおおぜいの人々が集結しているようだ。皆傘をさしたりレインコートを着用していたり、あちらでは雨なのかと外を見たら、このあたりでも雨だった。集会に対する警官の警備は日ごとに過剰になって来ているようで、Twitter でもそのことが問題にされている。わたしが行った十四日よりもさらに厳重な警備になっているらしい。

 午後から映画を一本観て、残りわずかだったアンヌ・ヴィアゼムスキーの「少女」を読み終えた。




 

[]「ホワット・ライズ・ビニース」(2000) ロバート・ゼメキス:監督 「ホワット・ライズ・ビニース」(2000)   ロバート・ゼメキス:監督を含むブックマーク

 前に観た青山真治監督の「レイクサイド・マーダーケース」は、この作品へのパスティーシュを含んでいたはずで、そのあたりが気になっていて観てみた作品。この作品も観るのがはじめてというわけではなく、過去に観たときの感想がこの日記にも書かれている。今読んでみると、やはり記憶をなくす前は一本の映画でずいぶんと長い文章を書いていたわけだなあと、感心するのではなく、今の自分にはそういう引き出しは持ち合わせがなくなってしまっているわけで、そのことで絶望的な気分にはなってしまう。

 今回観て思ったのは、ところどころはさみ込まれるワンシーンワンショットの長廻しがうまいなあ、とかいうこと。最初は幽霊の存在にただおののいていたミシェル・ファイファーがだんだんにその幽霊が伝えようとしていることを知ろうとし、夫のハリソン・フォードに疑念を抱くようになるという過程の演出も、ヒッチコックとかのアメリカ映画のスリラーの定番をうまく消化している感じがする。

 ラストの「ネックレス」が、「レイクサイド・マーダーケース」での「ライター」であることに笑ってしまった。




 

[]「少女」アンヌ・ヴィアゼムスキー:著 國分俊宏:訳 「少女」アンヌ・ヴィアゼムスキー:著 國分俊宏:訳を含むブックマーク

 あとがきを読むと、訳者はこの作品のことを「小説」と書いているのだが、読んでいたときの感覚では、アンヌ・ヴィアゼムスキーがロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」の主役に抜擢され、その作品を撮り上げるまでのあいだに「少女」から成長して行くという、当時を振り返った自伝的回想録のように読めてしまう。

 まあ読んでいれば「これをすべて<実際にあったこと>と思ってしまうのは間違いだろう」とは思うのだけれども、やはりこの作品に登場するロベール・ブレッソンの姿にはショックを受けてしまう。アンヌ・ヴィアゼムスキーがわざわざブレッソンを誹謗するために虚偽を書いたとも思えないし、「小説的効果」としてここまで創作してしまうとしたらモラルを逸脱していることになるだろう。つまり、ここに書かれている(アンヌ・ヴィアゼムスキーの眼を通してみられた)ブレッソン像に虚偽はないと考えるしかない。そうするとブレッソンという人物は、いい方は悪いけれども、ロリコンでセクハラのヤバいオヤジということになるだろう。撮影現場でも撮影期間中ヴィアゼムスキーと同じ家で生活することをなかば強制し、毎夜のように彼女にキスをせまるなど、これは犯罪行為ではないか。もちろん、この本にはブレッソンの現場での演出方法が仔細に語られてもいて、そういう興味を満たすこともできるわけだが、ヴィアゼムスキーへの接近は「映画監督」という特権的地位を利用しての無理強いといわれても仕方ないだろうし、また、洗脳行為でもあるだろう。じっさいに撮影のギスラン・クロケらスタッフの面々も彼女のことを心配してもいたわけである。

 しかし、才能ある人間とは困ったもので、そのようなむちゃくちゃな接近をしていながらも、ヴィアゼムスキーにはしっかりと「洗脳」ではない影響を与えてしまうわけである。このことはヴィアゼムスキーの才能、強さでもあったのだろうけれども、ロベール・ブレッソンという才能の、そのあり方をしっかりと受け止めるわけである。そこにはその前の撮影期間中に共演の男の子を相手に処女を捨てているということも大いに関連するわけで、そのあたりでたしかに「小説的」な作品ということは出来るんだろうか。

 しかし、ここで描かれたブレッソンを彼の実像にきわめて近いものとしていえば、彼は「スリ」のときにはマリカ・グリーンに、「やさしい女」のときにはドミニク・サンダに、同じように迫っていたのだろうか?




 

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■ 2015-09-15(Tue)

 今日はしごとも休みなので、早朝から渋谷へ映画を観に出かける。まずは「黒沢清レトロスペクティヴ」から「蛇の道」と「蜘蛛の瞳」の二本を十一時から続けて観て、そのあとは遅い昼食にしたあとに、楽しみにしているホウ・シャオシェン監督の新作「黒衣の刺客」を観ようという計画。昨日国会前の反安全保障法案の集会に参加したばかりで、ちょっとハードスケジュール。考えている計画では、明日も「黒沢清レトロスペクティヴ」の二本を観たいというのがあるのだけれども、ちょっとそこまで連続するのは無理があるだろう。明日は自宅で休もうか。

 とにかくは朝の八時ぐらいの電車で東京方面に向かう。通勤客が多いのかと思っていたけれども、この時間はもう通勤時間帯も過ぎたぐらいになるようで、電車も思ったほどに混み合ってはおらず、いつものように座っての、「移動読書室」または「睡眠電車」、ということにはなった。

 渋谷駅にはちょうど十時ぐらいに到着。まずは宮益坂の方の映画館で夕方の「黒衣の刺客」のチケットを買い、席を決めておく。もちろん望み通りの席を確保したが、映画館でチケットを求める人がわたしの他にもおおぜい並んでいて、ちょっとびっくりした。これは朝一番の上映回に並んでいる人のようで、やはり封切られてまだ日が浅いし、この作品の上映館も少ないようなので混み合うのだろうか。しかし並んでいる方にけっこう年配の方が多い(というか、ほとんどの人がわたしよりも年配と思われるような方だった)のは意外だった。この映画館はたいていは邦画のアニメとかを上映している館で、今も「黒衣の刺客」の他にティーンズ向け(?)のアニメが上映されている。まさか並んでいる年配の方たちがそんなアニメを観るわけないよな、などと考えて、ちょっとおかしくなった。わたしもこの映画館に来るのははじめてのこと。

 チケットを買ったら駅の反対側、東急本店の方の映画館へ行き、もう開場されている「黒沢清レトロスペクティヴ」映写室の座席にすわる。こちらもだんだんに観客が増えてきて、上映が始まる頃には座席の半分ぐらいは埋まっていただろうか。

 ここで二本の作品をつづけて観て、終映時で十四時ぐらい。「黒衣の刺客」は十六時ぐらいからだから、ゆっくりと食事をしてもまだ時間があまる。東急本店の書店に立ち寄って、本棚をみていればすぐに時間も過ぎていくだろう。
 まずは昼食。今日はいいかげんに日高屋はやめて、映画館の近くにあった台湾料理の店で、ランチの「あんかけ焼きそば」を食べた。うん、やっぱり日高屋じゃない店はおいしいぞ。それにエレヴェーターで上がったところの店なので、静かで落ち着いた雰囲気がいい。ランチタイムももうおしまいに近いので、客もほとんどいなかったし。食事のあとは考えていたように書店に立ち寄り、あれこれと見てまわっているうちに次の映画の時間が近づいてきた。

 さて、その「黒衣の刺客」の映画館へ行ってみると、意外なほどに客が少ない。おそらくは二十人ぐらいの数だったのではないだろうか。朝は「混み合ってるのでは」と思っていたのに、みごとにその予想は外れてしまった。しかし、まだ上映が始まったばかりでこんな客の入りでは、早々に上映打ち切りになってしまったりしないだろうか。わたしはこの作品はよほど気に入らないようなことがない限り、複数回観ようと思っているので、早くに上映が終わってしまうようだとショックを受ける。そんなことにならないよう、とにかく一ヶ月ぐらいは上映が続いてほしいのである。




 

[]「蛇の道」(1998) 田村正毅:撮影 黒沢清:監督・脚本 「蛇の道」(1998)   田村正毅:撮影 黒沢清:監督・脚本を含むブックマーク

 黒沢清監督の、いわゆる「復讐シリーズ」の一本で、次の「蜘蛛の瞳」と対になっている。この「蛇の道」は、共同脚本に「リング」の高橋洋の名前もあるのだが、だからといってこの作品がホラー的な展開を見せるわけではない(この作品は「リング」と同じ年の作品)。

 主人公は哀川翔の演じる新島という男で、普段は塾の講師として、わけのわからない数式のようなものを受講生に教えている。そんな彼が、香川照之演じる宮下という男の、幼い娘を陵辱され殺害されたことへの復讐の手助けをするのである。どうやら犯人は鬼畜ヴィデオを製作する一団の一員らしい。そんな「こいつが犯人」と目星を付けたヤツを新島と宮下とで拉致して来て、廃倉庫に監禁して真相を語らせようとする。「オレじゃない。あいつだ!」ということで、また別の男を拉致監禁することを繰り返す。で、果たしてなぜ新島は宮下を手伝っているのか、ということが謎なわけだけれども、これはラストで明らかにされる。

 冒頭、車の新島と宮下がおそらくは都内の坂道を走っている、その車の向かう道が映されるのだけれども、わたし、この坂道に見覚えがあるような気がする。これは杉並のどこかなんじゃないだろうか。やはり田村正毅の撮影の魅力というものもあり、廃倉庫などの場所設定(ロケハン)も、いかにも黒沢監督らしく見惚れてしまう。

 ミステリーorサスペンスとして、恐がっていいのか笑っていいのかわからないという、黒沢監督らしい展開になったりもするし、新島が塾で教える謎の数式、まちがえると「それでは時間が逆になってしまう」という数式の意味は何なのか。どこかこの映画そのものに関わっているようで気になる。

 しかし、観終わってまだわずかな時間しか経っていないというのに、もうわたしの中でこの作品の記憶がおぼろげになってしまっている。もういちど見直したい作品である。





 

[]「蜘蛛の瞳」(1998) 黒沢清:監督・脚本 「蜘蛛の瞳」(1998)   黒沢清:監督・脚本を含むブックマーク

 先の「蛇の道」で復讐を果たし終えた哀川翔、という感覚で、シチュエーションは異なる別の物語がはじまる。主人公の名前は新島で同じだが、妻がいて普通に家庭生活をおくっている。その冒頭の復讐を終えたあと、かつての同級生だったという岩松という男(ダンカン)と出会い、請われて彼の会社に転職することにする。ただハンコを押し続けるだけの仕事に飽いて、「もうやめたい」と伝えると、本来の仕事はこれではないのだという。つまり、請負殺人を行なう会社だったと。会社の外にはその指示を出す人物やリーダーが存在し、これがまたわけのわからない存在ではある。

 ダラダラした日常に連続する、淡々とした殺人。こちらも、笑っていいのか畏れればいいのか、いかにも黒沢清らしい作品。ラストの方での突然の幼女の映像は、まさに「ホラー」として怖かったが。この作品もやはりもういちど観たい。

 そう、瀬々敬久監督の「雷魚」に主演していた佐倉萌が出演していて、「どこかで観たことのある人だ」と思っていたのだが、クレジットをみて思い出した。こういう固有名詞レベルでの記憶というのはしっかりしている。




 

[]「黒衣の刺客」リー・ビンピン:撮影 ホウ・シャオシェン:監督 「黒衣の刺客」リー・ビンピン:撮影 ホウ・シャオシェン:監督を含むブックマーク

 公開を楽しみにしていた作品。まずは音(音楽)の構成が最高だった。前半はずっと音楽なしで、だんだんにビートを刻む音が聴こえるようになり、メロディがかぶさって来てラストにまさに「全開」! 途中には雅楽も舞踏曲もはさみ込んで、ヴァリエーションも加えながらも極上の統一感。

 原作は唐代の伝奇小説らしいのだけれども、この映画はストーリーを説明して語るようなものではない。しかし、刺客に狙われるのがチャン・チェンなのだけれども、彼は一方でストーリーの要を語る語り部のような役も果たしていただろうか。

 映画の構成こそを優先し、飛躍を見せながらも、独特の主人公らの造形をみせてくれるのも見事。登場人物らの相関関係を考えても、これを「女性映画」という言い方も出来るのではないだろうか。

 吹き通しの部屋の奥で布がカーテンのように風に揺らぐのが見え、そこで「トウキョウソナタ」を思い出してしまったりする。「風」だとか、「雲」、そんな空気のようなものがうまく表現されていた。映像と音とがトータルに、「映画」としか呼ぶことが出来ない世界を構築していたと思う。ちょっと二本の映画を観たあとだったし、やはり寝落ちしそうにはなってしまた。早い機会にもう一度かならず観に行く。





 

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■ 2015-09-14(Mon)

 今日はあれこれと買い物に出かけなければならない。米がもうなくなってきているし、朝食のトーストにはさむハムもない。月曜日で東のドラッグストアでは3パーセント引きで、まだ明日まで、ネコ缶のそもそもの値段が特価に設定されている。もう少しネコ缶を買いだめしておこうとも思う。

 さて、今日はまた国会前での集会が呼びかけられているので、また参加してみようかという気になっている。前回のように車道を占拠出来れば気もちいいし、やはり「One of them」ではありたい。
 集会は十八時半からということで、いろいろとスケジュールを考えてみたのだけれども、昨日原作を読み終えた「野火」をもういちど、十五時の回で観て、そのあとちょっとゆっくりと国会前に移動するのでいいのではないだろうか。

 なんとか買い物を午前中ですませて、十二時の電車で家を出る。電車の中では図書館から借りているアンヌ・ヴィアゼムスキーの「少女」を読み始める。渋谷で下車して映画館へ行き、チケットを購入してから遅い昼食をとる。例によって日高屋で、今日は「イカ揚げ」に「餃子三個」、それにライスという独自のオーダー。イカ揚げとライスの相性がイマイチかな。

 映画を観終わってまだ十七時にもなっていない。それでも現地に行けば何か起こっているかもしれないと、ゆっくりと国会前に向かった。
 前回のように桜田門駅で下車し、外に出ようとするとやはり出口のひとつが警官によって封鎖されているのだが、わたしの前を歩く人が警官に何か話しかけ、その封鎖された出口へと上がって行った。たしかにまだ人で溢れているわけでもないから封鎖している意味はない。わたしも前の人につづいてその出口から上に向かうのだった。途中でその前を歩いていた人がわたしに気づき、話しかけてこられる。出口の封鎖の話とかから、「どちらからいらっしゃたのですか?」と聞かれ、「遠いんですよ、茨城からです」と答えると、「水害の方は大丈夫なんですか?」と聞かれた。このところは、茨城というと水害被災地というイメージなのかもしれないな。

 まだ開始の十八時半までには一時間はあるのだけれども、やはりもう、ずいぶんおおぜいの方々が集まっていらっしゃる。歩いて行くと、暗くなってから使うペンライトが配られているのをいただいてしまった。みんなに配っていたけれども、すごい出費だろうにと心配になってしまう。
 わたしは「今のうちに奥のメインステージ(?)のあたりに行っておこう」と、先へ先へと進んでみた。やはり議事堂が近くなるにつれて人数も多くなり、正門前の交差点のあたりはすでに人がぎっしり。立ち止まれるスペースもなく、わたしは議事堂正面の道からステージを越えて右側へ移動した(これがあとで考えると失敗)。

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 十八時も過ぎてあたりはさらに人が増え、騒然として来る。今日は警備がいちだんと強化されていて、これは八月三十日に封鎖が崩壊して、車道に人があふれ込んでしまったことを「敗北」と捉え、その轍を踏まないことを目標としているのだろう。現場の警官らも、「鉄柵を死守すること!」とか厳命されてるんじゃないだろうか。しかしその分歩道の中は人であふれ、人が先に進むことも困難になっている。

 時間になり、民主党の岡田代表からスピーチがはじまる。わたしもペンライトを手に持ってエールをおくることにする。ただわたしの位置からは、背伸びをしてやっとスピーチする人の頭の後ろが見えるだけで、ちょっと面白くない。大江健三郎氏などもスピーチをされていたが、やはりこういうシチュエーションでスピーチがいちばんうまいのは共産党の志位委員長だな。

 もうわたしも身動き出来ない状態で、もし仮に今日も車道が開放されたとしても、わたしがいる位置からその車道に出ることはぜったいにムリだろう。集会が終わるまで滞在するつもりもなかったし、苦労して進める方に進み、近くのメトロの駅を目指したのだが、その途中のアナウンスで「車道に出られた方は‥‥」などといっている。おそらく今日も参加者はけっきょく鉄柵を突破して、車道に躍り出たのだろう。そっちの方にいなかったのが残念。

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 なんとかメトロの永田町駅に着き、渋谷駅経由で帰る。帰宅して昨日のカレーで食事をすませた。「帰ればつくりおきのカレーが待っていてくれる幸せ」、なんて。




 

[]「野火」大岡昇平:原作 塚本晋也:監督 「野火」大岡昇平:原作 塚本晋也:監督を含むブックマーク

 二回目の鑑賞。昨日まで原作を読んでいて「映画は原作とまるでちがうな」などという印象があったのだけれども、こうやって観直してみると、実のところ原作を忠実になぞった作品になっていた。ここでまた自分の記憶力の悪さを情けなく思う。というか、基本は何も観ていなかったのと同じである。ちょっと重症である。ただ、前回の印象としての「音のインパクト」というのはたしかにあって、そのあたり大音響で「体験」してみたい映画ではある。

 原作を読んだあと、原作の思弁的な部分をどのように処理するか、ということがひとつ課題となる気はするのだが、そのあたり中盤まではナレーションを挿入するわけでもなく、短いイメージショットだけで処理したのはよかったと思う。また、終盤の思索についてはこれを「炎」の幻視で代弁させたのだろうと納得した。それはそれでよし、だと思うが、影のように付き添う妻らしい女性のイメージがちょっとした「謎」として残っただろうか。




 

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■ 2015-09-13(Sun)

 昨日新宿西口のタバコ屋にタバコを買いに行ったとき、近所のチケットショップを覗いてみた。先月同じようにこの界隈のチケットショップをみていたら、もうじき始まる永青文庫での「春画展」のチケットがたしか400円という安値で売っていたので、それをもういちど見つけて買おうと思ったのである。ところが、全部の店をみてまわっても、もう400円などという価格で売っている店はない。せいぜい前売券の価格からちょっと安くなっている程度である。やはり、みて「安い!」と思ったらその場で買っておかなくてはダメである。残念なことをした。

 昨日は映画を一本観たのだけれども、これからは観たい映画が目白押しである。どのようにスケジュールを組めばいいのか迷ってしまう。特に「黒沢清レトロスペクティヴ」の特集上映は、基本的に一日に二本ずつの上映で、その二本の組み合わせは二、三日の日をおいて二回上映されることになるのだけれども、どのように観る作品、観る日にちを決めればいいのか、ほんとうに迷ってしまうことになる。まあ基本、土曜日曜は混み合うだろうから避けるようにするのだが。

 今日もその「黒沢清レトロスペクティヴ」を観に行ってもいいのだが、やはり日曜日だからやめておく。明日また何か映画を観に行く予定もあるので、今日は休息日ということにしようと思う。

 盛夏が過ぎて、スーパーではインスタントの「冷し中華」などが半額ぐらいの値段で売られるようになった。倹約にはもってこいなのでわたしもそういうのを買い込んで、このところの昼食は冷し中華とか冷やしラーメンとかばかりである。
 そして、夕食にはカレーをつくった。今回は豚肉を使ってのポークカレー。ウェイパーやオイスターソース、ケチャップなどを隠し味に入れてみて、なかなかにおいしいカレーになったと思う。ということで、これからはしばらくカレーライスがつづくことになるだろう。




 

[]「硫黄島からの手紙」(2006) クリント・イーストウッド:監督 「硫黄島からの手紙」(2006)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 一昨日観た「父親たちの星条旗」と対になって二部作となった作品。「父親たちの星条旗」の硫黄島戦闘シーンがすべてアメリカ側からの視点で描かれていたのに対して、こちらは基本すべて日本側の視点。「父親たちの星条旗」で描かれたシーンの裏側はこういうことだったのか、という描写もあるけれども、二部作ということを気にせず、これで独立した作品とみるべき作品だろう。

 本土でパン屋を営んでいて、妻を残して徴兵されて来た西郷という男(二宮和也)、そして日本軍の指揮をとった栗林中将(渡辺謙)、憲兵隊をクビになった清水という男(加瀬亮)らをメインに、彼らの硫黄島配属前の回想をまじえて描くのだが、戦争というものの無慈悲さ、愚かさというものを、客観描写に徹した中でここまで浮き彫りにした作品というのもわたしは知らない(戦争映画というものの記憶もあまりないのだが)。そのことが日本軍の愚かさとしてだけではなく、捕虜として投降した清水らの無惨な運命を通して、戦争そのものの愚かさとして示し、そんな中にヒューマニストとして描かれる栗林中将を配置する構成がいい。

 演出も撮影も、わたしには「父親たちの星条旗」よりもこの「硫黄島からの手紙」の方が好きなところがある。




 

[]「野火」大岡昇平:著 「野火」大岡昇平:著を含むブックマーク

 わたしはこの作品のことを、作者の大岡昇平が実際に体験したことを書き綴った作品ではないかと思い込んでいたのだけれども、それは「レイテ戦記」や「俘虜記」において結実しているわけで、この「野火」を同じように考えるわけにはいかないことは、読んでいて気がついた。さらに、これを「戦争の悲惨さ」を描いた、反戦の意志に貫かれた作品のつもりで読むと、肩すかしを食らってしまう。これは「漂流譚」というか、極限状態におかれたときの「自我」のありようを追求した作品なのだと思う。そういう極限状態で、「私」はいったい何を思うのか。それは意外にも過去の女性たちのことであったり、そして、大岡昇平の場合、宗教のことであったりする。

 ここでは「追想」ということもひとつのテーマになっているというか、特にこの終盤、フィリピンから生還して精神病院に入所しているという主人公の、その思索の過程というものは一筋縄ではいかず、ここにこの作品が単に「体験記」というものを超えた作品として残る所存があるのではないかと思う。





 

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■ 2015-09-12(Sat)

 このところ愛好しているタバコの「West」がなくなったので、買いに行かなければいけない。近郊には売っている店がないので、買うには東京に出なければならない。ただタバコを買うためにだけ上京するというのはバカげているので、ついでに映画でも観て来ようと思うのだが、この考え方は本末転倒というか、おかしなものだと自分でもわかっている。しかしこれからもこういう考え方にしたがって、タバコが切れたら上京してついでに何か観て来るというスケジューリングになることだろう。

 それで何の映画を観ようかと考えるのだが、今日からは渋谷で「黒沢清レトロスペクティヴ」という特集上映が始まっている。この特集上映には何度か通うつもりだけれども、今日は土曜日だし、初日で黒沢清監督のトークもあるということで、きっと混み合うこと必至だろう。無理して行ってもいいのだけれども、また別の日にしようかと思う。それでもうひとつ、やはり今日から公開のホウ・シャオシェン監督の久々の新作「黒衣の刺客」の方を観ようかと考えるのである。もちろんわたしの中に、ホウ・シャオシェン監督作品の記憶はそのタイトルしか残っていないのだけれども、好きな監督であったことは間違いない。監督といつも組んでいるリー・ピンビンという撮影監督の映像が、いつも美しかったという記憶はある。また観たいと思うわけである。

 先日の鬼怒川の氾濫を呼んだ大雨も上がり、昨日今日と晴天が続いている。「お出かけ日和」ではあるだろう。
 駅に着いてみると、先日の水害地域を走っている常総鉄道ホームへの階段に、「当分の間、全線で運転を見合わせます」との掲示が出ていた。常総線を通勤通学に利用している人もおおぜいいることだろうし、大変なことになってしまっているなと思う。

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 電車に乗り、その氾濫した鬼怒川の上流を行く。このあたりでも住宅が浸水し、常総市での堤防決壊の前にはこちらの方がトップニュースだった。見てみるとたしかに河川敷にも水が溢れていた痕跡がわかるのだが、今はもう水量も減っているようだ。しかし、この川幅は平時の三、四倍はあるように感じる。

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 ちょっと暑いぐらいの天候のもと、新宿に到着。まずは西口のタバコ屋へ行く。「West のレッドを1カートン下さい」というと、「あら、今日はもうないのよ。さっき、『あるだけくれ』って、ひとりで6カートン買って行った人がいるのよー」という話。やはりわたしのように「West」にハマっている人がいるわけだ、とは思うけれども、ひとりで6カートン買い占めはスゴいなと思う。ニコチン中毒かよ。
 しょうがないので、東口のタバコ屋にもあるはずなのでそちらへ移動。1カートン所望したらやはりカートン置きがなくなってるという。「あるだけ下さい」と、その西口で買い占めた先客と同じようなことをいうと、ちょうど1カートン分、10箱はあったのだった。この日の新宿での「West」の売り上げはちょっとしたものになったことだと思う。

 さて、それでは映画を観ようと、「黒衣の刺客」を上映しているシネコンへ行ってみたのだけれども、これがもうチケットが売り切れていた。なんということだろう。新宿に着いたらまずまっ先に映画館へ直行すべきだったのに、今日はタバコを買うことに重点を置きすぎて忘れてしまっていた。まあ、仮にチケット買えてても隅っこの方の席だったろうけれども。仕方がない。これはもう土日は避けて平日に観た方がいいな。

 「どうしよう」と考えて、地元のターミナル駅の小さなシネコンでやっている映画で「クーデター」というのと、やはり今日から公開の「キングスマン」というのとが気にかかっていたので、このどちらかを観ることにして、電車に乗って引き返した。つまりけっきょくは、今日の新宿詣はタバコを買うという用事をすませるだけで終わってしまった。ものすごく高くついたタバコ代である。電車の中では持って来た「野火」を読み進め、まあこれは冷房付き移動読書室で本を読みましたと、そういう電車往復の旅ということにしよう。

 ターミナル駅に着き、「クーデター」の方を観ることにした。改札を出てそのシネコンのある商業ビルに入ると、なんと、上の方の階のレストランとシネコン以外、すべての店舗がこの九月から休業していて、どうやら大がかりな改装が行なわれているさいちゅうらしい。ちょっとびっくりしてしまった。

 さて、いつも観客の少ないこのシネコンだが、今日も「クーデター」の観客はわたしの他はひとりだけ。今日もまた貸し切りには出来なかったのは残念である。いつもおしいところで他の客が来て、二人とかになってしまう。映画のことをちょっと書けば、もうちょっと音量を上げてやって欲しかったな。客が少ないんだから今度リクエストしてみようかな。

 映画が終わってローカル線で自宅駅に着き、またスーパーでお弁当でも買って帰ろうかとも思ったのだけれども、今日は交通費でえらい無駄遣いをしているので自粛。まっすぐ家に帰ることにした。
 駅から家への道では左右から虫の合奏がステレオ状態で聴くことが出来、歩くに連れて音もその位相を変え、また新しい虫の音が加わって来たりするのが楽しい。少なくとも五種類の虫の音が聴かれたと思う。

 帰宅して、買ってあった豆腐で冷奴、それとサンマの味付けの缶詰とで夕食にする。サンマの缶詰を食べているとニェネントが近くに寄って来て、缶をじっと見ている。やはり缶詰でも魚の匂いがするのだろう。わたしが食べているうちは遠巻きにしていたのが、食べ終わったとたんに寄ってきて、缶の中に顔を突っ込んで残った汁をなめ始める。「それは味付けが濃いからネコにはよくないんだけどな」と思うけれども、「ま、たまのことだからいいか」と黙認。ベッドで読みさしの「野火」をほとんど読み終えた。




 

[]「クーデター」ジョン・エリック・ドゥードル:監督 「クーデター」ジョン・エリック・ドゥードル:監督を含むブックマーク

 予備知識はほとんどなし。原題は「No Escape」で、東南アジアのある国に妻と娘二人を連れて赴任して来た男(オーウェン・ウィルソン)が、到着早々に政府転覆の事態に遭遇する。政府を倒した連中は西欧による(水道事業における)搾取を問題にしており、標的は滞在する外国人すべて。ホテルに滞在していた客も次々に殺され、家族は残った者たちと屋上へと避難する。ところが屋上も飛来したヘリコプターの標的にされてしまう。絶体絶命である。そんなとき家族を救おうとしたのが、到着の際に知り合ったちょっと謎の男。これがピアース・ブロスナンが演じていて、彼がちょっとやさぐれたジェームズ・ボンドにみえてしまうのは承知のキャスティング、演出だろう。彼は「自分たちの存在が彼らをこの行動に追い立てた」というようなことをいう。

 ノンストップの逃走劇で、息をつく間もなく次の危機が襲いかかって来る。集団で外国人を探しまわるその国の男たちはエイリアンのよう、というよりは意志を持ってスピーディーに動き回り、武器を所持したゾンビのようにみえる。前半のスローモーションの多用がちょっと興をそぐところもあるし、演出としてそこまで見どころのある作品というわけでもないのだが、とにかく最後まで恐がらせていただいた。東南アジアの夜の光景はちょっと魅力的だった。娯楽作として楽しめた一作である。

 この作品はタイで撮影されているようだが、ラストのクレジットをみていると、主要スタッフ以外のスタッフにはタイ人の名前がずらりと並んでいた。「現地調達の精神」ということかもしれないけれども、少なくともこの映画のように「映画で地元を搾取した」ということにはなっていないようだ。




 

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■ 2015-09-11(Fri)

 今日は朝から晴れてはいたのだけれども、日射しがまぶしいぐらいの晴天になったので、久しぶりに布団を干した。

 昨日の常総市の堤防決壊の惨状が、まだ気もちの中で生々しいのだけれども、今日しごとから戻ってテレビをつけると、昨日の映像のリプレイのような映像が映されていた。テロップを読んだりコメントを聞いたりしていると、これは昨日の映像ではなく、今現在の宮城県なのだという。昨日と相似形の惨事がまた起きてしまったことにおどろく。相手は溢れ来る大量の水なのだから、「ここもあぶない」ということで急きょ対策を取ろうとしても間に合わないわけだろう。

 今日は九月十一日で、あのワールド・トレード・センターの崩壊した同時多発テロの起きた日。わたしはあの事件のとき、何をしていたんだろう。まだ東京に居たはずの頃だけど、やはり記憶は消えてしまっている。いったいどれだけ広範囲に記憶が消えているのか、どこまでが病気のせいで消えた記憶なのか、そうでなければ経年のせいで記憶が劣化しただけなのか、まるでわからない。

 このごろは思い出すとWikipedia で、その日に生まれた人をチェックするようなことをやっている。そういう風にして日頃思い出すこともない人名にふれると、そのことに付随して思い出されることがある。主に音楽関係のことが多いのだけれども、「そういう人物がいた」と思い出し、同時にその人の業績などを思い出すというのは、わたしにはささやかな楽しみである。それで今日は古楽の演奏家(ハープシコード)、指揮者であるクリストファー・ホグウッドの誕生日ということで、わたしも過去にはちょっとだけ古楽をかじり聴いたことがあることを思い出した。これはイギリスのトラディショナル・フォークを愛好した延長みたいなところがあるのだけれども、17世紀とか18世紀の音楽というものはそれ以降の「いわゆる」クラシック音楽とは触感がちがう。

 そう、Harmonia Mundi という古楽を多く扱うレーベルがあって、そこからリリースされるものの「音」が好きだった。
 特に、ルネ・ヤーコプスというカウンターテナーの歌手がボーイソプラノと組んで録音した、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」は、大の愛好盤だった。気分によってはこの盤こそがわたしの生涯ベストワンと思えるほどに愛好していたこと、たった今思い出したのだ。もちろんこの曲は敬虔な宗教曲なのだけれども、ペルゴレージというの作品が一種の官能性をたたえてもいるわけだし、この盤でのカウンターテナーとボーイソプラノとのデュオというのが、どこか倒錯した美しさを感じさせるのである。
 このCD、今でも売られているのか、いったいいくらぐらいなのか、ちょっと調べてみてビックリ! もう廃盤になっているようで、その中古品はAmazon で15000円の値がついている。それはわたしの持っているあらゆるCDのなかでいちばんの値打ちものだなと、CDラックで探してみた。ちょっとジャケットなどボロボロになってるし、盤面に大きなキズこそないものの、そんな売り物にはならないだろう。今日は久しぶりにこのCDを聴き、「天に昇る」心地を味わった。

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 映画「野火」をもういちど観に行こうとは思っているのだけれども、その前にイーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を観ておこうかと思い、その二部作の「父親たちの星条旗」を観たけれど、「硫黄島からの手紙」の方を観る時間は取れなかった。今日の夕食は、昨日つくってあったレバニラ炒めの残りですませた。




 

[]「父親たちの星条旗」(2006) クリント・イーストウッド:監督 「父親たちの星条旗」(2006)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 時間軸の移動が面白い作品。虚飾を排して「本当の戦場とはこういうものだった」ということを、兵士の視点からみせて行き、「英雄」をつくりだそうとする当時のアメリカ本土の意識をみせる。つまり、「本当の戦場には<英雄>はいなかった」ということを描いた作品だろうか。

 有名な、硫黄島の星条旗を摺鉢山の山頂に打ち立てる兵士らの写真をめぐる物語。実は写真に撮られたのは二回目に旗を立てたときのものであり、その被写体となった兵士の名前も間違えて伝えられた。被写体の六人の兵士のうち三人は硫黄島で戦死し、残るドクとレイニーとアイラの三人は本国へ帰還して「英雄」と迎えられる。彼らは戦時国債を売るキャンペーンに利用され、アイラは精神的に崩壊しても行く。レイニーは戦後、キャンペーンのときのコネを活かしてキャリアアップを図ろうとするけれど、忘れ去るのも早い彼らはレイニーを無視する。ドクは硫黄島で戦友を失った悪夢に晩年まで苦しめられることになる。こういうことはすべて、一種のPTSDにも匹敵するものだろう。

 「自分は英雄などではない、ただ事実に誠実でありたい」と生きるようなアイラ、その戦後の歩みを追う展開は観ていてもつらい。彼は先住民族の血をひいてもいることから、人種差別の仕打ちをも各所で体験しなければならなかった。

 「あなた方は硫黄島の星条旗を立てようとする六人の兵士の写真を見て、彼らを英雄視するだろう。しかし、ほんとうに彼らは英雄なのか? 戦場における英雄とは?」と、観るものに強く問いかける作品だと思った。




 

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■ 2015-09-10(Thu)

 朝起きてテレビをつけてみるといきなり、このわたしの住んでいる地(駅でいえば二つ離れているが)の中継映像。鬼怒川の水位が上昇して危険になっていると。三時頃の録画映像では雨が激しく降り、雷が光っている様子が映されていた。そんな大変なことになっているのかと窓の外をみてみると、たしかに雨は降っているけれどもそこまで激しい雨ではない。ニュースでひんぱんにこの地の市名が繰り返され、こんなことってはじめてだなあと思ったりする。中継されていた場所は、いつもわたしがローカル線で通過するところでもある。いかにも地方らしい、コンクリート防壁のない緑の河原の美しいスポットだったのに。

 このあたりは二十年とか前に小貝川という川が決壊して、ここから東の方で大規模な浸水があったということは聞いている。今回の雨量からいえばまた危険かと思うのだが、いちど堤防決壊を起こした場所は治水工事も念入りに行なわれたことだろうから、大丈夫だろうとは思う。ただ、天気予報ではこのあたりから北の栃木県にかけて、夜中まで雨が降り続けるようなことをいっていて、そうすると明日以降が危ない、ということになる。

 しごとに出て仕事場に行く途中で川をひとつ越えて行くのだが、たしかに水位は高くなっているけれども、見た感じは「危険」というものでもないだろうと思う。
 仕事場に着いて中に入ると、奥の方に大きな水たまりが出来ていた。しごとをする場所から外れていたのでよかったが、こういう事態もここで働きはじめてからはじめてのことだ。

 帰宅して、「今日はもう一歩も外に出ない方がいいかも」と思いながら、映画を一本観る。昼になって、ニュースをみて心配してくれた知人や娘からメールをもらった。ニュースでここの地名がクローズアップされているせいだろう。どうやら、早朝のニュースで「危険」といわれていた地域で住宅が浸水しているらしいのだ。

 午後からは雨もほとんどあがって、テレビの予報でも雨はもうあまり降らないだろうという。「では買い物に出て、ついでに川の様子を見て来ようか」などと危険なことを考え、ケータイを持って出かけてみた。
 川に着いてみると、たしかに水かさはかなり増していて、橋脚のところでは激しい濁流になっている。いつもより1メートル以上は水位が高いだろう。2メートルぐらい高いかもしれない。

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 帰宅してテレビをみると、鬼怒川のここからずっと南の下流の方、常総市の石下のあたりで堤防が決壊し、広範囲に田畑や住宅が浸水しているということ。画面には濁った茶色の水の流れに人家がさらされ、壊れた家の姿もみえる。屋根の上やベランダで救出を待っている人の姿があちこちにみえ、救出のためのヘリコプターが飛んでいる。「たいへんなことになったものだ」とテレビに目が釘付けになり、ヘリコプターが被災者を救出するドラマチックな光景に見入ってしまった。家の中ではなく、電柱のたもとで足を濁流に浸しながら、電柱につかまって救出を待っている人もいる。屋根の上で救出を待っていた二人はそれぞれが犬を抱いていて、その犬といっしょに救出されるのだった。そして、救出されるまでその二人が屋根に上がっていた家屋は、そのあと二十分ほどで濁流に流されてしまった。「ドラマだなあ」とか思いながら、いつまでもテレビの報道を見つづけた。心がぞわぞわして落ち着かない。ここからそんなに離れていない場所で、その決壊した川はこの地も流れているわけで、よけいに身近に感じてしまうのだろう。遅くまで報道をみて、他のことはまるで手につかないまま眠りについた。




 

[]「魔人ドラキュラ」(1931) ブラム・ストーカー:原作 トッド・ブラウニング:監督 「魔人ドラキュラ」(1931)   ブラム・ストーカー:原作 トッド・ブラウニング:監督を含むブックマーク

 ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」ではなく、原作者の認可をもらった最初のドラキュラ映画で、ドラキュラを演じているのはベラ・ルゴシ。

 実はこの映画に先行して舞台作品があったそうで、この映画の演出もその舞台版に多くを負っているとのこと。じっさい、観ていても「これは舞台作品みたいだな」とは幾度も感じていたわけだし、役者の演技も大仰すぎるところもある。クライマックスのひとつ、ドラキュラに杭でとどめをさすシーンも、棺の外から写すだけでちょっともの足りない。しかし、ベラ・ルゴシの演技はたしかに大仰ではあるけれども、その眼力というものは「さすが」というべきか。鏡を払い落とすシーンの演技も決まっていてカッコよかった。あと、レンフィールドを演じる役者の狂気のまなざしも強烈で、このあたりはさすがに「フリークス」の監督、というところだった。全体に「眼の力」というものを感じる作品だったかな。




 

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■ 2015-09-09(Wed)

 Twitter をやっているといろんな人のいろんなツイートを読むことが出来る。そうすると、そこに出てくる「ことば」を頼りに、過去のことがいろいろ思い出されることがある。記憶のあまり消えていない音楽に関することが多いのだけれども、やはりこういう体験はうれしいことである。今日も、昔聴いていた音楽、アーティストのことをいくつか思い出すことが出来た。

 なんだか面白い夢をみて夜中に目覚め、その夢を反芻して「こんな夢なら忘れることはないだろう」ともういちど寝たのだが、それで目覚めたらもう、そうやって夢をみたことは憶えているのだけれども、その夢のことそのものは、すっかり忘れてしまっているのだった。

 台風18号は名古屋のあたりに上陸し、そのまま本州を縦断して日本海に抜けるようだ。関東地方からは距離があるからあまり影響はないだろうと思っていたのだけれども、予報をみるとこのあたりは今夜までずっと雨ということで、それも激しく降ることもあるということ。その「激しい雨」に、今朝遭遇した。しごとをしているさいちゅうのことだったけれども、ものすごい雨の音にすべての音がかき消され、しごとの上で聞き分ける必要のある音が聞こえずに困ってしまうぐらいになった。外の様子は知らなかったが、その時間に車を運転していた人の話では、雨のために前がまるで見えなくなってしまったということ。時間にして十五分ぐらいのものだっただろうか。でもそのあとは雨もそこまで激しくはならず、昼ごろには買い物に出たりした。

 おかげですっかり涼しくなってしまい、もう十月ぐらいになった感覚になる。北のスーパーに行く道にあるヤマボウシの木にはその実がいっぱい実っていて、地面にもたくさん落ちている。去年はこんなにたくさんの実はつかなかった記憶がある。でも、こうやってヤマボウシの実がつくと、次は柿の季節になるわけだ。スーパーには栗の実もいっぱい売られている。秋。

 今日は寝る前に、読みさしの「野火」をちょっと読み進めることが出来た。読み進めたといっても、この長くはない小説の、ようやく半分まで読んだだけ。でも、読んでいていろいろな想念がわたしの頭に浮かんでくる。映画とはずいぶんと異なる印象を受け、あの映画版の「野火」のことを合わせて考えると、とても興味深いことになる。やはり映画はもういちど観に行こう。あと、「野火」を観る前にイーストウッドの「硫黄島からの手紙」も観ておきたい気がある。




 

[]「海を感じる時」(2014) 中沢けい:原作 荒井晴彦:脚本 安藤尋:監督 「海を感じる時」(2014)   中沢けい:原作 荒井晴彦:脚本 安藤尋:監督を含むブックマーク

 安藤尋という監督は、「blue」がとにかく印象に残っている。すばらしい作品だった。その安藤尋の監督作品ということで、劇場公開のときも観に行きたかったのだけれども、機会を逃していたのがこの作品。

 やはり、この監督は「静寂さ」を描くのがうまいと思う。そして光の捉え方が見事だ。ワンシーンワンショットといえる長廻しのショットも多いのだけれども、その使い方にも惹かれる。特にこの作品では植物園のシーンでの、進んで来る男女をその前方から捉えて進むショットがとっても気に入った。

 ただ、ストーリーは脚本が荒井晴彦ということもあって、ちょっとエグいというか、あまりにあからさまな、と感じるところもある。まあ荒井晴彦という人の脚本を他に具体的に記憶しているわけではないけれども、印象としてはそういうエグさ、あからさま、という印象は残っている。主題としては「愛情(というかセックス)において男は求めるけれども、女は与える、これはどういうことか」ということをどこまでも解明しようとする作品とも思える。観ていても「セックス」ということの精神性を考えてしまい、ちょっと切なくなった。

 ロケ地が千葉の勝浦ということで、先日観た神代辰巳監督の「恋人たちは濡れた」と同じだな、などと思ってしまった。製作側はそのことは意識していたのだろうかな?




 

[]「キック・アス」(2010) マシュー・ヴォーン:監督 「キック・アス」(2010)   マシュー・ヴォーン:監督を含むブックマーク

 コミックのスーパーヒーロにあこがれた冴えない男子が、本当にヒーローみたいなコスチュームを着込んでヒーローになっちゃおうというようなお話で、原作もまたコミック。監督のマシュー・ヴォーンはガイ・リッチーの作品のプロデュースをしていた人物で、「レイヤーケーキ」からは監督をやるようになっているらしい。って、ガイ・リッチーの作品も「レイヤーケーキ」も記憶に残っていない。それでも、軽快なテンポの楽しい作品を演出していた人たちではないかとは認識している。

 それでこの作品もまさに軽快なテンポでグングン見せてくれる。何よりも主人公の「キック・アス」よりも、もっと本気で犯罪組織を壊滅しようとするビッグ・ダディ(ニコラス・ケイジ)とまだ幼い少女のヒット・ガール(クロエ・グレース・モレッツ)、特にヒット・ガールこそがカッコいいのである。まずはその最初の登場シーンが圧倒的だし、次に登場するときにはエンニオ・モリコーネの「夕陽のガンマン」のテーマ曲が流されたりする。そう、音楽を含めていろいろな映画作品へのパスティーシュはいっぱい含まれているようで、わたしにはわかるものもあるし、もちろんわからないものがいっぱいあったことだろう。

 いってみればクロエ・グレース・モレッツの魅力(というにはあまりに幼いが)に尽きるという作品で、彼女のアクションシーンだけ、あとでもういちど観直したくなるのであった。





 

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■ 2015-09-08(Tue)

 今日もやはり雨っぽい天気。台風も関西の方に近づいていて、その影響も出てくるかもしれない。今日はしごとは休みだけれども、こんな天気だし、どこにも出かけないでゴロゴロしていよう、ということにした。

 そうやってゴロゴロしているとまたいろんなことを考えてしまうのだけれども、つまりはそれは「記憶を大幅に失ってしまった今、どういうつもりで生き続ければいいのか」という問題のヴァリエーションばかりなのである。そう、もしかしたら生きる楽しみとは、何らかのきっかけで過去の記憶を呼び起こし、その記憶の奥にあった「楽しさ」を追体験することかもしれない。ふつう、わたしぐらいの年齢になればそういう過去の蓄積はかなりのものになっているはずで、その蓄積こそがこれから先の生きていくことの起動力になるのではないか、とさえ思えるのである。そうだとすると、今のわたしには生きていく力の源(みなもと)が失せていることになる。そしてじっさいに、どのようなことを考えてもそのような結論に近づくばかりなのである。

 例えば映画を観ればその映画の中に「その場その場の楽しみ」というものはあるのだけれども、過去に観た映画とのリンク、という作業から生まれるであろう「楽しみ」は奪われている。映画というものはまだ、基本はその一本一本の作品の中で充足して楽しめる部分はあるだろうけれども、演劇やダンスになると、前にも何度も書いたが、その作家の過去の作品とのレファレンスを探る作業が必要になることが多い。また、現代演劇の潮流、ダンスの世界での潮流というものも理解していないと楽しめない、理解出来ないということもある。「その作品自体を観て楽しむ」ことがむずかしい世界、かもしれない。そうすると、そういう表現を観るということが空しくも感じられることになり、無理をして理解出来ないものを高い金を払って観ることもないじゃないか、ということにもなる。

 では、わたしにとって「楽しみ」とは何なのか、いや、言い換えてもっと拡げていえば、「生きがい」とは何なのかということである。わたしは生きがいを見失っているのではないだろうか。そのことで苦しんでいる。こんなことで苦しむことになるとは思ってもみなかったけれども、答えをみつけたいのである。

 先日買ったDVDの「めまい」をついに観て、そのあとは夕ご飯。おかずに、以前つくってみた「鶏レバーの煮物」に再度挑戦してみた。前回は鍋を焦がしてしまったのだけれども、今回はそういう事故は起こさなかった。味が濃いので少量でご飯がたくさん食べられる。半分残ったので、また明日もこのおかずになる。




 

[]「めまい」(1958) ボワロー=ナルスジャック:原作 アルフレッド・ヒッチコック:脚本・監督 「めまい」(1958)   ボワロー=ナルスジャック:原作 アルフレッド・ヒッチコック:脚本・監督を含むブックマーク

 観てない作品のはずはないのだけれども、例によってすっかり記憶から消えている作品。おかげで最初のトリックがバラされるところでは(わたしは素直なので)「えええ〜!」って、すっかりおどろいてしまった。ではラストはどうなるのかと考えて観ていたけど、影の真犯人もまた罰せられなければならないだろうし、鐘楼の上までまた上がっていってしまうわけだし、こういう結末になるだろうことはだいたい読んで取れたかな。しかし愛した人を二度にわたって失うことになる主人公、高所恐怖症を克服出来たとしても立ち直ることは出来るんだろうか。まったく余韻も残さずにスパッと終わらせる演出もトラウマになる。

 しかしとにかくも「傑作」であることはまちがいなく、「とんでもない傑作」ともいってしまいたくなるほど。「めまい」をあらわす、下を覗き込む恐怖を描くカメラももちろんすばらしいし、キム・ノヴァクの登場シーンも魅惑的。そして抱き合ったジェームズ・スチュアートとキム・ノヴァクのまわりをカメラが廻り、バックの映像が変化するショットなど、「これぞ映画の魅力」といいたくなる。その他のさりげないショットにもすばらしいシーンが多く、金門橋の下のシーンとか、好きだなあ。

 あとは全篇のほとんどをおおいつくすバーナード・ハーマンの音楽もまた特筆もので、この「過剰さ」もまたこの作品の魅力を引き立てていると思う。特にこれまたジェームズ・スチュアートとキム・ノヴァクとが波打ち際の波濤をバックに抱き合うシーンの音楽など、ある意味発狂しそうになりますよ。

 そしてやはり、幾重にも張り巡らされた主人公の「妄執」を際立たせるストーリーの妙。これは簡単には分析出来ないのだが、とにかく観るものを引きつけずにはおかないものがある。例えば主人公がいちどは婚約したことがあり、今でも奇妙な関係を続けるミッジという女性の存在。決して主人公に対して的確な対応をして主人公を助けているとはいいがたい存在ではあるし、作品の中でも彼女は主人公の「母親役」というように語るシーンがあるけれども、それだけではすまない「謎」が、彼女の存在のうちにはあると思う。例えば、彼女の職業が「女性用下着デザイナー」なのはなぜか、とか。とにかく彼女の存在、とにかくは主人公の何らかの「コンプレックス」に関係しているように思えてしまう。

 おそらくは何度観ても飽きない作品でもあるだろうし、観るたびに新しく発見することもあるだろう。Wikipedia によれば、2012年の英国映画協会が発表した「世界の批評家が選ぶ偉大な映画」の第1位にも選ばれているらしい。それだけの作品だろうということ、納得する。




 

[]「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」(2000) E・エリアス・マーヒッジ:監督 「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」(2000)   E・エリアス・マーヒッジ:監督を含むブックマーク

 実は9月6日が、ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」でノスフェラトゥを演じたマックス・シュレックの生誕日だった。それで、そのマックス・シュレックを主人公にしたこの作品を観てみた。マックス・シュレックを演じるのはウィレム・デフォーで、ムルナウはジョン・マルコヴィッチ。観始めるとその冒頭のシーンから「吸血鬼ノスフェラトゥ」を忠実に再現しているので、期待が膨らんだ。

 しかし、観続けているうちに、期待は失望へと変わっていった。まずは演出が納得が行かない。意味の分からないカット割りはあるし、複数の人物の全体を演出し切れていない印象もある。終盤にノスフェラトゥ役のシュレックが「鏡に映っていない」と、主演女優が騒ぎ出すシーンがあるのだが、その場面でのシュレック(ウィレム・デフォー)の右往左往ぶりは滑稽ですらあり、ちょっとあきれてしまうのだった。

 そして、ウィレム・デフォーのオリジナル「吸血鬼ノスフェラトゥ」に似せたメイク、まったくオリジナルとは異なるものという印象。まあこのことは仕方がないのかもしれないのだけれども、許せないのはそのラストにノスフェラトゥが朝日を浴びて消滅する、オリジナルでは有名なシーン。これを、冒頭ではあれだけオリジナルに忠実な絵をつくっていたというのに、まるでオリジナルと違うポーズをとらせているわけである。オリジナルのポーズが無理なわけもなく、あの美しささえ思わせるシーンを再現しようとしないのは、いったいどういう了見なんだと怒りたくなってしまうのである。

 まあ、時にはこういう映画にも出くわしてしまうものである。





 

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■ 2015-09-07(Mon)

 今日は月曜日でしごとは二人だけで担当の日だったのだが、その相棒が休んでしまった。つまりわたしひとりということになり、いくら月曜日は仕事量が少ないとはいっても荷が重い。そこは上司と相談し、今日は別の仕事場に移動せずに上司もあとで手伝ってくれることになった。まあ忙しくて大変なのはさいしょの一時間半ぐらいのもので、月曜はそこをなんとか乗り切ればあとは楽なのである。普段やり馴れないしごとも無事にクリア出来たし、おまけに上司の手伝いもあったので後半はやることがなくなり、普段よりも楽な一日になってしまった。休憩を三十分ももらったのでいちどこっそりと帰宅して(何といっても近いからね)、読み始めていた「野火」の文庫本を持って行き、その休憩時間に読み進めたりした。ラッキーだった、というべきか。

 家で、別に掃除をするというわけでもなくあれこれとひっくり返していたら、本やCD、そしてDVDで、予想もしないいろいろなものを持っていることがわかった。CDはオリジナルからコピーしたもので、オリジナルは基本は売却してしまっている。売却する前にコピーした記憶はあるのでそれなりに持っていることはわかっていたが、あらためてみてみると、「そんなものがあったのか」という予想外のものも多数所有していた。DVDもやはりVHSからコピーしたものなのだけれども、これはここまでにコピーしていたことは記憶していなかった。パラジャーノフの「ざくろの色」その他の作品、吉田喜重の「秋津温泉」、ゴダールの「カラビニエ」や「男と女のいる舗道」とか、観てみたい作品がいっぱい。

 今わたしが毎日のように映画を観ているのは、「ひかりTV」との契約で受信しているものをいちどHDDに録画したものなわけだけれども、この「ひかりTV」を受信するのに毎月それなりの金額を支払っている。WOWOWやNHK―BSも追加契約しているのでその金額はさらに、それなりのものになっている。これはひょっとしたら、いろんなDVDをレンタル屋で借りる方が安上がりなぐらいの金額になっているかもしれない。
 今はそんなHDDに録画した映画を毎日消化するのにせいいっぱいで、こうやってコピーしたDVDが多数みつかっても、それを観る時間がはたして取れるのか、ということがある。DVD以外にも、まだまだVHSテープもたくさんたくさん残っているし、そちらにも「こんなものが!」というようなものが混じっていることはまちがいない。

 そこで考えるのだが、もう「ひかりTV」の受信契約はストップして、手持ちのDVDやVHSテープを消化することにつとめた方がいいのではないだろうか。もしもこうやって映画を観つづけていることが、「わたしの中で失われたもの」を求めてのことだったとしたら、持っているDVDやVHSテープを観ることの方がずっと、そういう目的には適っているのではないだろうか。「ひかりTV」をストップすれば、その分の経済的な負担も減る。考えてみたい問題だと思う。

 夕食はずっと、先日つくったビーフシチューがつづいていた。いいかげん飽きてしまっていたけれども、今日ようやくすべて食べてしまった。そのうちカレーをまた、という計画もあるのだけれども、ビーフシチューのすぐあとがまたカレーライスというのも、ちょっとうんざりする展開だろうか。冷凍庫にはレバー肉がかなりストックされているし、このあたりでレバー肉を使った料理に取り組みたい。レバニラ炒めもいいけれども、先日やった鶏レバーの煮物もおいしかった。




 

[]「山猫」(1963) ジュゼッペ・ランペドゥーサ:原作 ルキノ・ヴィスコンティ:脚本・監督 「山猫」(1963)   ジュゼッペ・ランペドゥーサ:原作 ルキノ・ヴィスコンティ:脚本・監督を含むブックマーク

 三時間を越す大作。過去にもこの作品を観たことはないはずである。わたしが過去に観たのは「地獄に堕ちた勇者ども」以降(高校生のときに「異邦人」も観てるけれども)の後期作品ばかりで、なんというのか、生真面目で重厚な作品をつくる作家という印象がある。

 この「山猫」はそんな彼の後期の「生真面目で重厚な作品」へと至る、過度期的な作品なのではないかという印象で、主演はハリウッド・スターのバート・ランカスターだし(彼を単に「ハリウッド・スター」といってしまうのはいけないかもしれないけれども)、共演もアラン・ドロンにクラウディア・カルディナーレと、これを「娯楽大作」といってしまってもいいような気にさせられてしまう。実際にこの演出には思いがけずに「軽い」側面もあり、ひんぱんに「笑い」を誘われるような演出はあるし、終盤の大「舞踏会」にしても、まずはとにかくハリウッド映画みたいな豪華絢爛ぶりではないかと、おどろく次第ではある。

 しかしながらこの作品の主題は、十九世紀イタリアの時代の転換期(国家としてのイタリアの統一)を背景に、バート・ランカスターの視点から貴族階級の立ち位置を示すものであり、ハリウッド映画的なスペクタクルやロマンとは距離を置くものである。「貴族階級の立ち位置を示す」ということで単にその「没落」を描くのではないというあたりがこの作品のいいところで、政界への進出を薦められるバート・ランカスターはその申し出を「わたしは消え行くのみだ」という感じで辞退するのだが、彼の甥のアラン・ドロンは選挙に立候補することを決意している。アラン・ドロンはここでは政治にも目覚めた愛国者として描かれているが、その新しい時代に、貴族は政治の世界でその再興に望みを託すのだろうか。

 Wikipedia によるとその舞踏会のシーン、人工の光源を排して自然光のみで撮影されたとしているが、観ているとここではろうそくの光のみが光源のようではあるのだけれども、とてもその自然光(ろうそくの光)のみで撮影されたものとは思えない。何かの間違いではないだろうか。




 

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■ 2015-09-06(Sun)

 日曜日でしごとも休み。外は今日も曇天で、昨日は晴れていたので昨日のうちに洗濯とかしておけばよかったと思う。このところしばらく、以前のようにアルコールに浸るような日常から逃れて、一日にせいぜい缶ビール一本ぐらいという生活になっている。時にはまったく飲まない休肝日もあって、健康にはたいへんよろしい。

 ニェネントも寝てばかりいるけれど、今では以前のようにベッドの下にもぐり込んだりせず、いつもわたしの目のとどくところでゴロッと横になっている。それでときどき寝ているニェネントを抱き上げ、そのままその体を振り上げて「高い高〜い」とやってやる。ニェネントはフニャフニャとないて、抱いているわたしの手を噛もうとすろうようだけれども、嫌がって必死でもがくようなこともないので、案外この遊びが気に入っているのかもしれないと、飼い主が勝手に思っている。

 しかし、ネコというものは、なつくと人のひざに乗ってきたり、作業している手もとにちょっかい出してじゃまをしたり、中には人の肩にのぼったりするのがいるようなのだけれども、ニェネントにはそういうところがないのがちょっとつまらない。ほとんど生まれた時からずっといっしょに暮らしているのに、どうしてどこか距離があるんだろうな。母親ミイの教育なんだろうかと思ったりする。そうだ、作業している手もとにちょっかいを出すというのは、単にわたしがそういう手作業をやらないだけの話で、以前ちょっとそういうことやったときにはニェネントもすごく興味を示して、そばに来てじっと見ていて、たしかちょっかい出そうとして来たような記憶がある。

 今日はようやく「オン・ザ・ロード」を読み終えたので、これからは読書生活をもっと充実させるようにがんばらなくてはいけない。このところの一日の生活スケジュール、午前中はネットを閲覧したりこの日記を書いたりで昼になり、午後に一、二本の映画を観て終わってしまうのだけれども、これを午前中を読書の時間にするとか、午後の半分は読書とか、変更することを考えた方がいいと思う。




 

[]「お熱いのがお好き」(1959) ビリー・ワイルダー:脚本・監督 「お熱いのがお好き」(1959)   ビリー・ワイルダー:脚本・監督を含むブックマーク

 もちろん有名なラスト、「Nobody's Perfect!」は憶えているのだけれども、トニー・カーティスとジャック・レモンはなぜ女装して逃げるハメになっていたのかとか、ジャック・レモンはなぜジョー・ブラウンと知り合ったのかとか、つまりは例によって何も憶えてはいないのである。

 この作品、トニー・カーティスが変装に変装を重ねて繰り返すあたりの「ウソ」を、同じく女装して大富豪に見初められたジャック・レモンのカップルの「発展」と交差させるあたりの面白さ、なのだろうか。しかしマリリン・モンローをだますトニー・カーティスの「ウソ」というのは見ていて「どうよ」と思ってしまうような、あまり合点の行くウソではなく、それはやっぱり「だます」という表現にしかならないのだけれども、ラストでは不合理にも、そのウソをすべて納得した上で、マリリン・モンローはトニー・カーティスのところへ走っちゃうわけである。ここはやはり観ていても「飛躍あるな」と思ってしまうのだけれども、それがとにかくはマリリン・モンローなのだから許しちゃう、と。




 

[]「オン・ザ・ロード」ジャック・ケルアック:著 青山南:訳 「オン・ザ・ロード」ジャック・ケルアック:著 青山南:訳を含むブックマーク

 語り手のサルが、基本は知り合ったディーン・モリアーティと共にニューヨークからデンヴァー、サンフランシスコへ、そしてまたサンフランシスコからニューヨークへの旅を重ね、その最後にはメキシコへ行くという、似合わない言葉でいえば「道中記」。

 エネルギーにあふれた表現力豊かな文章は、やはりこの青山南氏の翻訳によって力強く伝わって来る思いがする。そしてこのエネルギー、同行するディーン・モリアーティの破天荒な言動に触発されたものでもあるだろう。わたしはこんな人物と一時間といっしょに居られないかもしれないが。

 そんなディーンの言葉や、彼らがジャズなどの音楽を聴きにいったときのその「音」の言葉による表現など、じっさいの英語ではどういうことになっているのかという興味もわいてしまい、原書を買ってしまったことは前に書いた通り。

 しかし「ビート・ジェネレーション」という言葉だけれども、この「ビート」というのがドラッグの世界の隠語だということで、意味としては「だまされる」とか「ふんだくられる」とかいう意味でもあるらしい。わたしらはこの言葉をポジティヴな意味で使っているのだが、もともとが「打ち負かされた」とか「意気消沈した」など、過去分詞の「Beaten」の形容詞表現の意味に近いようなのだ。まあそこにいろいろな意味を盛り込めるからこそ、ケルアックの選んだ言葉ではあるのだろう。





 

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■ 2015-09-05(Sat)

 いつも自宅で映画を観て、「この映画は以前観たことがあるのだが」とか思っていても基本はこれっぽっちも記憶しているわけでもない。ただ、先日観た「L.A.コンフィデンシャル」のように、断片的に記憶しているような状態というのは面白い。どういう回路で記憶されたものが記憶に残るのか、とにかくは「読書」というものの記憶は全滅だと思うので、視覚的なものでなければ記憶に残っているというようなことはない。(このことは何度も書いているだろうけれども)音楽はかなり記憶しているということはあるのだが、では聴覚回路は記憶に残っているかというと、そういうわけでもないようだ。

 十代の頃から映画を観はじめて、少なく見積もっても年間に五十本は観ていると計算すれば、二千本ぐらいの映画は観ている勘定になるわけなのだけれども、その蓄積がほとんどすべて消えてしまっているということには絶望するしかない。今のわたしが記憶している映画というのは、基本は発作を抑えられるようになった去年の夏以降に観た、百本ぐらいの映画でしかなく、それはもう高校生にも負ける蓄積でしかない。今こうやって毎日のように映画を観つづけていても、とうてい過去の記憶に追いつけるわけもなく、「いったい何のために観ているのだ」という思いに囚われたりもする。

 これは演劇やダンスなどの舞台になるともっと深刻で、過去のレファレンスがあってこそ了解出来ることというのは、舞台表現を鑑賞する基本ではないだろうか。そのことは、つまりは舞台を観ても「ほんとうには楽しめない」ということにもなる。もちろん、その舞台そのものを観て楽しめること、そういうこともあるわけだけれども、「この舞台のいったい何が楽しいのか」と考えると、その劇団なりダンサーなりの「過去」を了解していないとわからないところがある。

 いや、誰だってその劇団なりダンサーに<最初に遭遇する>とき、というのはあるわけで、観客すべてがその表現者のことを了解しているわけではないのは当然のことなのだが、わたしの場合、周囲にいる人たちにそういう「表現者」自身や「批評家」が多いこともあり、舞台を観たあとの感想をそういう人たちのあいだで語ることは出来ないと思ってしまうだろうか。

 つまりわたしは、そういう人たちのあいだで常に、「実は病気で記憶を失くしてしまって‥‥」といいわけをしながらでなければ前のような交流をつづけられないわけで、もしもそれ以降も交流がつづくにしても、わたしのことは「過去を知らない」特別な存在でありつづけることになるだろうか。そういうのを負担に感じることはたしかで、それは昔の交友関係の中に昔と同じようには入っていけないということである。

 この頃は、そういう交友というのはすべて断念してしまった方がいいのではないかと思うようになっている。




 

[]「ハンニバル」(2001) トマス・ハリス:原作 リドリー・スコット:監督 「ハンニバル」(2001)   トマス・ハリス:原作 リドリー・スコット:監督を含むブックマーク

 リドリー・スコットという人はそれほど大それた監督というわけでもなく、どこにも「観るべきもの」など持ち合わせていないのではないかという思いは残っているのだけれども、こういう映画を観るとやはり、その通りなのだろうと思ってしまう。ただハリウッドらしい映像の組み立てとストーリーテリングを繰り返すだけなのではないのか。

 この作品はもちろん「羊たちの沈黙」の続篇で、どうやらわたしはこの原作も読んでいるはずである。そしてどうやらこの映画、原作の映画化としてはそのラストにかなりの改変が行なわれているらしい。そのことは今回観終わったあとに知ったのだが、つまりは表面的にストーリーをなぞるだけで、原作の精神は活かされていないということだろう。観ていても、「羊たちの沈黙」にあったクラリスの内面、レクター博士はなぜそんなクラリスに惹かれているのか、というあたりがまるで描かれていない。だから単なるサスペンス映画で終わってしまっているし、レクターのクラリスへの執着が回転木馬からのクラリスの髪へのタッチであらわされる、というあたりはあまりに凡庸すぎるだろう。忘れてしまっていい作品。




 

[]「プライドと偏見」(2005) ジェーン・オースティン:原作 ジョー・ライト:監督 「プライドと偏見」(2005)   ジェーン・オースティン:原作 ジョー・ライト:監督を含むブックマーク

 「高慢と偏見」は前に図書館からBBC製作のテレビドラマ版を観ていて、それがある程度の尺を使って原作のテイストをかなり再現していたので、この作品はどうなんだろうという興味があった。

 観終わった感じでは、やはり二時間の作品では原作の展開そのまま忠実にというわけにもいかないようで、展開が早すぎる気もしたし、コリンズ牧師のこっけいさなど、ちょっと短く納めすぎという気もした。このあたり、コリンズのファン(?)としては残念なことであるし、そのコリンズの「こっけいさ」も、BBC版とは異なる演出ではあった。しかし、冒頭にカメラがベネット家の中に入って行き、そこに映る五人姉妹の、そのいっしゅんの様子だけで彼女たちの性格を描き出していたのは「うまい」と思った。「窓」からの描写なども効果的で、室内のドラマの演出は見どころがあった。

 主演はキーラ・ナイトレイで、この人はそうセクシーというわけでもないし、こういう「文芸ドラマ」と相性がいいことをみせてくれたと思う。姉のジェーン役が「ゴーン・ガール」のロザムンド・パイクというのも面白く、このジェーン、実はネコを被っているんじゃないかと思ってしまう。四女のキティを演っているのがキャリー・マリガンという女優で、この人は最近人気があるらしいが、わたしはこの人のことはほとんど見ていなかったな。あと、ダーシー役の男優が誰か他の俳優にそっくりだと思うのだけれども、それが誰なのか、どうしても思い出せない。





 

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■ 2015-09-04(Fri)

 二週間に一度の内科医への通院日。いつも通りに血圧を測って聴診器診察で五分もかからない。「(状態は)いいですね」ということで、四種類の薬をもらって帰る。
 今日は帰りに道すがらの図書館に寄り、本を何冊か借りた。一冊は借りることを前から決めてあったのだけれども、先日ブレッソンの映画をつづけて観たこともあって、そのブレッソンの「バルタザールどこへ行く」でデビューしたアンヌ・ヴィアゼムスキーの書いた「少女」という本。「バルタザールどこへ行く」の撮影時のことが書かれているらしい。あとは館内をみていたら青木淳悟の新刊(といっても出たのは六月だけれども)「匿名芸術家」があったので、これも借りる。読んでいる「オン・ザ・ロード」ももうすぐ読み終えるので、がんばれば二冊ぐらい読めるだろうと思ったのだけれども、「それならばついでに」と、大岡昇平の「野火」の文庫本もいっしょに借りることにした。どれもかなり強く「読んでおきたい」と思う本なので、これをきっかけにして読書時間をもっと増やせるといいのだけれども。

 今日は基本は曇天で、夕方雨が降ったとしてもそれほどの雨ではなかっただろうと思うのだけれども、東京の方では場所によっては激しい風雨で、竜巻らしいものが発生したようだという報道もあった。とにかくこのところ、東京もこのあたりも日照時間がとても少ない。こういうのって、そのうちに野菜の価格が上がったりとかするわけだろうか。




 

[]「百万円と苦虫女」(2008) タナダユキ:脚本・監督 「百万円と苦虫女」(2008)   タナダユキ:脚本・監督を含むブックマーク

 ひょんなことから前科持ちになってしまった主人公(蒼井優)が、転居しながらあちこちの地ではたらき、百万円貯めるごとにまた転居するという、ちょっとひねった(おそらくはひと夏の)ロード・ムーヴィー。さいしょは「海の家」で、次は山あいの村で桃の収穫を手伝う。さいごは地方都市のホームセンターでアルバイト。

 桃の収穫を手伝っていて、その村の振興対策に「桃娘」にされそうになるあたり、「あまちゃん」を思い起こさせられるところもある(こっちの方が古いけれども)。そこで「わたしは前科持ちだから!」と突っぱねるあたりの屈折した爽快さがこの作品の持ち味。さいごの地方都市ではアルバイトの先輩(森山未來)とイイ関係になるのだけれども、ここでは先輩の方がちょっと屈折しているわけで、このあたりはほろ苦い感じ、だろうか。

 タナダユキの演出というのは安定していて、わたしはかなり好きな映像作家である。ワンシーンワンショットの撮影も目立つけれども、効果的に使われている印象があるし、手持ちカメラもまたいい味を出していたと思う。蒼井優もいい。




 

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■ 2015-09-03(Thu)

 一昨日の話になるけれども、出勤すると同僚に「土曜日か日曜日に東京へ行ったんですか?」と聞かれた。どういうことかと思ったら、例のわたしが映っているテレビニュースのことを、別の社員から聞いたのだという。それは安保法案の集会だというと「どっち?賛成派?反対派?」って聞かれて、どっちらけてしまった。

 昨日つくった麻婆豆腐の残りを今日の夕食にしたのだが、こういうインスタントの麻婆豆腐というのは、つくって時間をおくと徹底的に風味が落ちてしまうものなのだなあと。保存のしかたがわるいとは思えないし、いい教訓になった。

 昨日「On The Road」の原書を買ったので、読みさしの文庫本は早く読み終わらなくてはならない。しかしこのところずっと、長いこと自宅での読書がはかどらないというか、ほとんど出来なくなっている。本を読むのは電車の中、というのが基本になってしまって久しい。こういうことではじっくりと思想書のたぐいは読めないし、買ったカントの「純粋理性批判」は放置したままになってしまっている。

 病いで記憶をなくしてから、特に読書の記憶というのがいちばんのダメージを受けているようで、今までに読んだ本、発作以前のもので記憶しているものは「皆無」といっていいと思う。これがどれだけ情けないことかと考えると絶望的な気分になる。何十年もの蓄積が消え、これからどのようにして生きていけばいいのかを考えると、肯定的な結論を出すことはむずかしい。映画にしてもそうだけれども、「これからまたやり直せばいい」などとはとても思えないし、他の人とのコミュニケーションだって出来ない。「生きている甲斐などない」と考えてしまうのだが、とにかくは今のわたしにはニェネントがいる。ニェネントが生きている限り、わたしはニェネントの生命を支えなくてはならない。わたしがいなければニェネントは生き続けることは出来ないのだから。それだけを支えに生きるしかない。今のわたしなら、ニェネントが死ねばすぐにそのあとを追うことはたしかだと思うのだが、そうではない「生きがい」というものが見つかればそれに越したことはない。これは普通の人の考える「生きがい」よりもずっと切実で重たいものでなくてはならないが。




 

[]「終電車」(1980) フランソワ・トリュフォー:脚本・監督 「終電車」(1980)   フランソワ・トリュフォー:脚本・監督を含むブックマーク

 トリュフォーの映画はそもそもからしてあまり観たことがない。この「終電車」はトリュフォーの作品で一番ヒットした作品らしく、たしかに深く掘り下げられたエンターテインメント作品として楽しめる。

 一種のバックステージもので、ヴィシー政権下のフランスで劇場を経営することになる女性演劇人(カトリーヌ・ドヌーヴ)を主人公に、ナチスに抵抗する演劇人のストーリーをメインにした人間ドラマが繰り拡げられる。

 この、基本ほとんどをセット撮影された演出がやはり秀逸で、セットであることが作品そのものの設定と合致して活かされている。特にラストの場面はそのことが最大限に利用され、観ている方もだまされてしまうことにはなる。

 登場人物にはそれぞれ実在するモデルがあるらしいけれども、物語そのものはフィクション。当時の時代空気をそういう実在の人物の逸話から活かしながら、素晴らしいストーリーを紡ぎ出しているとは思う。ただ、けっきょくはエンターテインメント性優先というのか、「面白がらせること」をこそ優先している感じで、そのことがいけないというのはおかしいのだけれども、そこに観ていて足をとられる(といういい方でいいのか?)ところがある、というのはたしかではないだろうか。




 

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■ 2015-09-02(Wed)

 そういうことで、今日は渋谷に映画を二本観に行く。さいしょの「ラブ&マーシー」は九時半開映なので、間に合うように行くにはなんと、自宅を六時半ぐらいに出なくてはならないことがわかる。その「ラブ&マーシー」は十一時半ぐらいに終映なので、それから昼食をとって一時から「野火」を観る、というスケジュール。「野火」が終わっても三時前だから、ちょっとぶらぶらして帰路に着いても、七時前には帰宅出来るのではないかと。

 アラームは五時にセットして、それから朝食をとってちょっとパソコンを閲覧していると、すぐに出発の時間になる。やはり電車の中では眠気から熟睡し、こんなことでは映画を観ていても寝てしまうのではないかと心配する。

 渋谷に着いたのは九時ちょっと前で、映画館へ直行してチケットを買う。もう開場までわずかな時間なのでその場で開場を待つ。さすがに朝早い回というせいか、観客は二十人もいなかったのではないだろうか。

 やはり懐かしい音楽のからむ映画は、そういう知っている音楽を聴いているだけでも楽しめる。映画が終わって満足して外に出るが、けっこう日射しも強くて気温も高いようだ。そのまま渋谷駅の反対側に向かい、またタバコ屋でいつものタバコを一カートン買い、映画館へ行く。チケットを買って外に出て、近くの日高屋で昼食にする。かた焼きそばが食べたかったのだけれども、この店にもメニューにかた焼きそばはなかった。しょうがないのでまた和風つけ麺。もういつもいつも日高屋で食事するのではなく、もっと他の店にも行くべきだろうに。

 開場時間が近づいて映画館へ戻り、今日二本目の映画。やはり眠気に襲われ、何度かついついまぶたが重くなり、「いけない!」と姿勢を正すのだけれども、トータルには「一本の映画をちゃんと観た」という意識にはなれないところがある。いい映画だと思ったので、もういちど観に来ようか。

 映画が終わってもまだ三時前。映画館のそばの東急本店に行き、中の「ジュンク堂」で「On The Road」を探してみることにする。この本屋の中は広いフロアに木製の書棚がきれいに並んでいて、歩いていても気もちがいい。ただ、探す本のジャンルがどこにあるのか、いつも迷ってしまうのである。この日もやはり洋書売り場を探すのに手間取ってしまったのだけれども、歩いていて何となく、ふっと振り向くとそこに洋書が並んでいた。あそこで振り向くことがなければもっと迷っていたことだろう。棚をゆっくりみていくと、目当ての「On The Road」のペンギン・クラシックス版がみつかった。値段もAmazon で買うのと変わらない値段だったし、予想したように文章も読めないこともなさそうだし、買ってしまうことにした。まだ読み終えていない翻訳本を早く読み終えなくっちゃ。

 あとはまっすぐ帰宅して、家に着いたのは七時前。昨日買ってあった木綿豆腐を使って麻婆豆腐をつくって夕食にして、寝不足をおぎなうために早くに寝た。




 

[]「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」ビル・ポーラッド:監督 「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」ビル・ポーラッド:監督を含むブックマーク

 ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの伝記映画で、主に60年代の「ペット・サウンズ」レコーディングの時期のストーリーと、80年代に妻のメリンダと出会い、医師のユージン・ランディの呪縛から逃れるストーリーとが交互に描かれる。原題には「The True Story of Brian Wilson」とあり、その後夫婦になっているメリンダとブライアンの協力のもとに製作された作品らしい。まあそういう意味では「True」といえるのか、当事者のバイアスがかかっていないことはないだろうと思うのだけれども、医師ユージン・ランディの精神的拘束がどのようなものであったのか、今まで具体的に知ることもなかったので、「当事者は当時をこうみている」という意味で貴重な認識にはなっただろうか。

 60年代のブライアンは「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」に出演していたポール・ダノが演じ、80年代はジョン・キューザックが演じている。ポール・ダノはブライアンにほんとうに似ているのだけれども、ジョン・キューザックが似ているとは思えないのは確か。しかしそんなことが気になるわけではない。60年代と80年代で演者を代えている意味は、充分に伝わって来る。

 作品全体として、60年代に見失ってしまった精神を、二十年以上の時を経てふたたび見出すというような展開といえるだろうか。とにかく、そのラストにビーチ・ボーイズの「素敵じゃないか」が流されるとき、「夢が実現されたのだ」というような感動につつまれる。これはただ音楽を聴くのではなく、その歌詞の内容が字幕で示されるという、(英語をそんなには聴き取れない、歌詞を追いながら聴くわけではないわたしなどにとって)映画ならではの効果ではあったと思う。

 わたしが楽しんだのはやはり、ある程度聞き知ってはいた「ペット・サウンズ」レコーディング時のエピソードがあれこれ映像化されていたあたりではあるし、ちょうど彼らの日本公演前後からはじまるこの作品、わたしがビーチ・ボーイズなど洋楽を聴きはじめた時期とも重なるので、「そうそう、日本公演にブライアン・ウィルソンは来なくって、代わりにブルース・ジョンストンが来たのだった」とか思い出すし、ヴァン・ダイク・パークスがちょこっと顔を出すのにも、ビーチ・ボーイズ(ブライアン・ウィルソン)と彼とのつながりを思い出させられるのだった。

 この作品の音楽はデヴィッド・フィンチャーの作品などを手がけるアッティカス・ロスが担当しているのだけれども、ビーチ・ボーイズの音ともマッチしたいい音楽を聴かせてくれた。また、ラストのクレジットでビーチ・ボーイズの曲タイトルがずらっと表記されるのだけれども、その表記が三度ぐらい繰り返され、その中にはアッティカス・ロスの名前のもとに表記される部分もあったように思う(あまりにスクロールが早いので確認出来なかったけれども)。これって、そのビーチ・ボーイズの音源にアッティカス・ロスも手を加えているということだったのだろうか? ラストにはそのブライアン・ウィルソンのライヴの弾き語りの映像も映されていた。




 

[]「野火」大岡昇平:原作 塚本晋也:監督 「野火」大岡昇平:原作 塚本晋也:監督を含むブックマーク

 そらなりの「印象」は書こうと思えば書けるのだけれども、やはり何度か「寝落ち」したこともあり、どこかトータルにとらえることが出来きれない。もういちど観るつもりなので、ちゃんとした感想はそのときに書きたいと思う。ただ、映像だけでなく音のインパクトの強い作品でもあった。





 

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■ 2015-09-01(Tue)

 2020年に予定されている東京オリンピックのロゴ(エンブレム)が盗作ではないのかと、このところずっと騒がれていて、そのデザイナーの他の作品にも多数の疑惑が発覚している。わたしは発表された時からこのエンブレムにはいいイメージを持っていないし、盗作という疑いにも道理があると思っている。まずはベルギーの劇場のロゴに似ている、そっくりだという声があり、ベルギーの劇場のロゴのデザイナーは「法的処置をとるだろう」という強硬姿勢を崩していない。そのベルギーの劇場のロゴは劇場名の頭文字「L」をデザインしたもので、一見してもそのコンセプトは明瞭だと思う。しかし、問題の五輪エンブレムは本来「T」の文字をデザインしたといっているのに、その右下には「T」の文字には不要のはずの、「L」の文字にはある「横線」に相当する矩形がある。このために「T」と読むよりは「L」と読んだ方がしっくりするし、つまりはベルギー劇場のロゴに相似形なのである。この件に関して五輪エンブレムのデザイナーは、図形の基礎比率が違うから盗作ではないのは明瞭だといっているようだが、「これをまねてみよう」とその基本図形を同じくすれば、比率さえ違っていれば「盗作」にならないというのだろうか。

 この問題、先週になって「実は当初のデザインは別の形の原案があり、これが他に類似するデザインが先行して存在していたので、修整したのちに発表したのだ」ということが発表された。そうすると最初っからベルギー劇場のロゴをコピーしようとしていたのではないことになるが、今度はその原案がまたまた、某デザイナーのタイポグラフィーの盗用ではないかという声が上がった。これ、見たところ実にそっくりである。どうも単純な図形というものは同じようなデザインを産んでしまうものかもしれないけれども、問題の五輪エンブレムのデザイナーは二、三年前に、その某デザイナーの国内でのタイポグラフィー展を見ていることがはっきりしている。当人は「記憶していない」といっているらしいが、そのコメントは誰も信用しないだろう。

 問題はこの五輪エンブレム以外にも、このデザイナー(デザイン事務所)による作品での「パクリ疑惑」というものが、次から次へと出てくることであり、このデザイナーへの信用はがた落ちの状態になっている。そしてその一部、トートバッグのデザインに関してはトレースコピーを認めてしまっている。そして決定打になったのが先週末におおやけにされた「五輪エンブレムの活用例」の写真で、ここにそのデザイナーはコピーライト表示のある第三者の写真を勝手に流用し、ごていねいにもコピーライト表示を消して使用していたのである。もうモラルの崩壊といえる。

 さてこの「五輪エンブレム」問題、今日の昼になって急展開をみせ、五輪組織委員会はこの五輪エンブレムを使わないという決定を下したのである。どうも邪推するに、五輪エンブレム以外のところでそのデザイナー(デザイン事務所)に対する疑惑が拡がっていたおり、五輪組織委員会としても好都合に五輪エンブレムに関係するところでの著作権侵害行為が明らかになったわけで、「盗作」「盗作じゃない」といい合っていても結論の出ないところに、明らかにそのオリジナリティーに傷のつく行為があらわになり、組織委員会は「この機会を逃すな」とばかりに事を決定したのではないかと思う。

 わたしが今回の問題で考えるのは、日本のデザイン界の質の低下ということだろうか。いわれているように、裏側で電通だろうが博報堂だろうがが日本のデザイン界を仕切っていたってかまわないのだけれども、そのことに似合うだけのパワーのある作品を産み出せないのが情けない。わたしはもともと今回の五輪エンブレムのコンセプトに疑問がいろいろあるし、この疑惑のデザイナー(デザイン事務所)の作品を通してみて、「これがわたしのデザインだ」というオリジナリティーをうかがうことが出来ないのだ。作品ごとにその質感が異なっているし、共通する要素が何もないと感じる。
 この五輪エンブレムについては、わたしはこの黒い色が気に入らない。デザイナーは「すべての色が重なると<黒>になる」とそのポジティヴィティを語っているけれども、やはり「黒」は「黒」。それは汚濁の色であり、暗黒である。そこにポジティヴなイメージを付与するのはむずかしいのではないか。どうも、とってつけたようなコンセプト説明なのである。とにかくはこれから新しい五輪エンブレムが選出されるわけだから、今回の轍を踏まぬよう、すっきりと選出してもらいたいものである。

 この今回不使用が決まった五輪エンブレム、もう忘れられてしまうことだろうから、ここに記録として貼り付けておこう。

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 さて、明日はしごとも休みなので、今日にでも映画でも観に行こうという気になった。観たいのは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを描いた「ラブ&マーシー」という作品なのだけれども、調べてみたらもう今はモーニングショーの一回のみの上映になっている。開映は九時半。これではよほど早朝に出なければ間に合わないので、もちろん今日行くのは無理である。ここは行くのは明日にして、朝早くに出発することにした。映画が終わるのは午前中だから、そのあとにもう一本、評判になっている塚本晋也監督の「野火」も観てみたい。二本観ても明るいうちに帰宅出来るだろう。




 

[]「アイズ ワイド シャット」(1999) アルトゥール・シュニッツラー:原作 スタンリー・キューブリック:脚本・監督 「アイズ ワイド シャット」(1999)   アルトゥール・シュニッツラー:原作 スタンリー・キューブリック:脚本・監督を含むブックマーク

 キューブリック監督の遺作。ここでもステデイカムを多用した、動き回るカメラが魅力的で、特に前半のパーティーでニコール・キッドマンがダンスをしながら相手の男に口説かれるシーンの、ぐるぐる廻り続けるカメラが印象に残る。

 物語は、そのパーティーのあとに妻の浮気願望(?)を聞かされた夫が妄想の世界に足をすくわれ、ニューヨークの夜の隠されたセックスの世界に深入りしていくというもの。おそらくは生命の危機にも見舞われながらかろうじて帰宅した夫は妻にすべてを話し、つまりは和解するわけである。

 面白いのだけれども、どうも観ていて夫役のトム・クルーズはどこまでもトム・クルーズ本人、妻のニコール・キッドマンはニコール・キッドマンにしか見えないというあたりが困ったところで、ここはある意味でミスキャストというか、それともキューブリックはそのことを見透かして、観客に挑戦しているのかもしれないとも思う。

 そう、リーリー・ソビエスキーという役者がいたことを思い出させられた作品でもあって、この作品のときにはまだ15〜6歳だったようだ。彼女の出たほかの映画も観てみたい。




 

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