ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2015-10-31(Sat)

 まだまだ喉の痛みは続いている。もう下手したら一ヶ月ぐらい続いてるんじゃないだろうか。最初のうちは咳が出るのが主だったけれど、今は咳は以前ほどではない。たまに咳が出ると痰がからまってくるのは以前とちがう。もう快方に向かっていると思いたいが、耳鼻咽喉科で処方された薬もなくなったので、まだまだいつまでも続くようならばまた病院へ行かなくてはならないだろうか。喉をみれば喫煙がバレちゃうだろうから、行きたくはないな。

 リヴィングの本棚に並んでいる本を眺めてみると、たいていは一度読んでいるはずの本なのだけれども、その内容を記憶している本はない。記憶の消滅ということでは、映画に関してよりも本に関しての方が度合いが大きいようだ。若い頃に読んだ本にしても、誰でも知っているような基本の名作にしても、記憶を失う去年の六月以前までに読んだ本はことごとく、すべて記憶から消えてしまっているようである。情けないといえばこれ以上情けないこともない。

 そんなことを考えると、わたしはいちど死んでしまった人間なのだと思うことが、いちばん合理的な解決になると思った。なんで今まで気がつかなかったんだろう。わたしは、去年の六月にいちど死んでいるのだ。それがつまりは精神面でのこと、内面の「生」が死んだということで、それなのになぜか肉体は生き残ってしまった。そしてその肉体を生かすための日常の習慣だけは肉体といっしょに生き残っている。それだけのことなのだ。わたしはいちど死んでいる。そうしてこうやってふたたび生きようとするならばどう生きればいいのか。そのことを考えればいいのだと思う。過去の自分は「死んだもの」として葬り去る覚悟を持ち、これからの生は(たとえどんなにそれが短くても)「新しい生」として、過去を振り切って生きるべきなのだろう。しかし、わたしの生きる空間は「過去」に縛られている。本棚をみてよくわかったのだが、そこには「過去のわたしが読んだ本」が「まだ読まれていない本」として並んでいる。そこにあるのが「過去の生」の残骸なのか、「新しい生」を開く書物なのか、混然としてしまっている。わたしの生は、「死んだ過去」と「新しい生」とがあまりに混在しすぎていて、自分はその中で迷宮に迷うように進む道を見極められないでいるのだ。

 つまり、見極めるべき道とは、「死んだ過去」に囚われることなく、「新しい生」をこそ目指すべきなのではないだろうか。「わたしは死んだ人間なのだ」ときちんと認識し続けることで、その「新しい生」への道が拓かれるのではないのか。いつまでも「消えた過去」のことに執着しても仕方がないことはわかっているはずではないか。きっとわたしが思い悩むのは、その「新しい生」の時間があまりに限られて感じられることだろう。「やり直す」という考えでは、ぜったいに「時間」は足りはしない。「やり直す」という考えは棄てるべきなのだろう。そう思う。(こんなこと考えてたらすぐに死んじゃったりしてね)

 それで、南のスーパーのモヤシの値段が19円から29円に値上げされた。一気に50パーセント以上の値上げとは暴挙ではないかと思う。まだ北のスーパーでは19円(たまに特売日には9円)なので、これからモヤシはかならず北のスーパーで買うようにする。
 でも、その南のスーパーでこのあいだキャベツが安かったので、一個丸ごと買ってある。今日はそのキャベツを使って、冷凍庫の豚肉を解凍してキャベツと豚肉の炒め物をつくった。いかにも独身男性の台所、という味に仕上がって、「まあこんなもんだろう」という夕食になった。まだまだキャベツはいっぱいある。またお好み焼きでも続けようかと思う。

 

 

[]「渇き」(2009) パク・チャヌク:監督 「渇き」(2009)   パク・チャヌク:監督を含むブックマーク

 監督のパク・チャヌクという人、「オールド・ボーイ」という作品の評価が高いようだけれども、チャンスがあれば観てみたい。この「渇き」という作品、ヴァンパイアものの一種だと思うけれども、Wikipedia でみると、ゾラの「テレーズ・ラカン」にインスパイアされて製作されて作品と出ている。もちろんわたしは「テレーズ・ラカン」のことはわからないので、どうしてもヴァンパイアとの関連で観てしまう。主人公が聖職者であって、そういうクリスチャンらしい概念がいろいろと出てくるあたりに「テレーズ・ラカン」の影響があるのだろうか。

 聖職者としての生き方に悩んでいた主人公は、自己犠牲の発露として、とある治療法のないウィルスの生体実験に自分の身を提供する。感染して発病すれば助かることはないのだけれども、彼は感染しても死ぬことなかった。ただ、彼は日の光を避け、人の血を吸って生きる吸血鬼となっていた。生還した主人公は「救済主」のごとくもてはやされるが、その陰で病院で患者に輸血される血を飲み、自殺した人の血を飲んで生き存えるのである。
 そんな主人公の前に<運命の女>があらわれる。身寄りのない生まれの彼女は洋服店の女主人に拾われ、その息子の妻になっている。息子は知能障害があるようで、性的にも不能である。彼女にとってその日々は地獄のような生活なのである。ある縁でその女と知り合った主人公は、その女の境遇に同情し、同時に彼女に惹かれて行く。結局は関係を結んでしまう女に対し、主人公は自分の吸血鬼としての秘密を語るのだが、共謀して彼女の夫を湖で溺死させることになる。
 その後のふたりの前に、死んだ夫の亡霊があらわれるようになる。主人公は混乱し、女に暴力を振るうことにもなるのだが、女はそんな主人公をののしり、主人公は勢い余って女を絞殺してしまう。我に帰った主人公は自分の行為を悔い、女を生き返らせるために自分の血を彼女に与える。それは、彼女もまた「吸血鬼」としてよみがえることであった。

 序盤の女性の住む家、洋服店の二階のキッチン兼居間の、そのあまりに雑然とした様子が、それ以外の場面での室内描写などとの対比が強烈で、記憶に焼きつくのだが、そういうあれこれの美術は全体に印象に残るものだったし、映像としてもハッとするようなショットも多かった。演出の「笑っちゃっていいのかどうなのか」というようなテイストも面白く、異色のヴァンパイアもの、という印象は強く残った。

 映画として「血」の描写も多いのだけれども、おぼろげに記憶にあるフランス映画「ガーゴイル」という作品、その「血」とエロスの描写など、やはり「ガーゴイル」も男と女の物語ではあったし、たしかあちらもヴァンパイアもの、だったのではなかったかしらん。類似を感じるのである。「ガーゴイル」も、チャンスがあれば観てみたい作品だ。


 

[]「南京の日本軍 南京大虐殺とその背景」藤原彰:著 「南京の日本軍 南京大虐殺とその背景」藤原彰:著を含むブックマーク

 百ページちょっとの小冊子で、「南京大虐殺」の基本的に認識すべき点をまとめたもの。大きく二部に分かれた本書、前半は事実関係の確認であり、後半は事件の背景となる要因を日本軍軍隊の本質的な特徴から捉えたもの。

 ある意味で、わたしなどが「南京大虐殺」としてイメージするものがそのまま書かれていたという感じで、それは基本図書として当然のことだろうし、この小冊子にそれ以上のことを求めても仕方がないのだけれども、やはり「もっと、もっとちゃんと知りたい、知っておきたい」ということにはなる。正直、ちょっともの足りなかった思いはある。



 

[]二〇一五年十月のおさらい 二〇一五年十月のおさらいを含むブックマーク

舞台:

●バットシェバ舞踊団「DECA DANCE - デカダンス」オハッド・ナハリン:振付 @横浜・神奈川県民ホール 大ホール
●川村美紀子 新作ダンス「まぼろしの夜明け」川村美紀子:振付 @三軒茶屋・シアタートラム
●水族館劇場「運がよけりゃ」@太子堂八幡神社境内
●sample:16「離陸」松井周:作・演出 伊藤キム、稲継美保、松井周:出演 @早稲田小劇場どらま館
●カンパニー マリー・シュイナール「春の祭典|アンリ・ミショーのムーヴマン」 マリー・シュイナール:振付・芸術監督 @横浜・神奈川芸術劇場

映画:

●「岸辺の旅」湯本香樹実:原作 芦澤明子:撮影 大友良英:音楽 黒沢清:脚本・監督
●「復讐 運命の訪問者」(1997) 高橋洋:脚本 黒沢清:監督
●「復讐 消えない傷痕」(1997) 黒沢清:脚本・監督
●「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(1985) 万田邦敏:共同脚本 黒沢清:脚本・監督
●「廃校綺談(「学校の怪談f」より)」(1997) 黒沢清:監督
●「木霊(「学校の怪談G」より)」(1998) 高橋洋:脚本 黒沢清:監督
●「花子さん(「学校の怪談 春の物の怪スペシャル」より)」(2001) 黒沢清:監督
●「炎628」(1985) エレム・クリモフ:監督
●「ファニーゲーム」(1997) ミヒャエル・ハネケ:脚本・監督

美術・映像・展示:

●「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」@早稲田大学演劇博物館
●カントールと演劇の二十世紀 作品上映+展示「死の教室」タデウシュ・カントル:作・演出 @池袋・東京芸術劇場 シアターイースト
●カントールと演劇の二十世紀 作品上映+展示「愛と死の機械」タデウシュ・カントル:作・演出 @池袋・東京芸術劇場 シアターイースト
●「根源的暴力」鴻池朋子展 @横浜・神奈川県民ホールギャラリー

読書:

●「血と暴力の国」コーマック・マッカーシー:著 黒原俊行:訳
●「マンハッタンのKUROSAWA 英語の字幕版はありますか?」平野共余子:著
●「ボヴァリー夫人 ―地方風俗―」ギュスターヴ・フローベール:著 伊吹武彦:訳 
●「天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲」平野共余子:著
●「南京の日本軍 南京大虐殺とその背景」藤原彰:著 

DVD/ヴィデオ:

●「上海から来た女」(1947) オーソン・ウェルズ:製作・脚本・監督
●「マダムと泥棒」(1955) アレクサンダー・マッケンドリック:監督
●「荒野の用心棒」(1964) エンニオ・モリコーネ:音楽 セルジオ・レオーネ:監督
●「夕陽のガンマン」(1965) エンニオ・モリコーネ:音楽 セルジオ・レオーネ:監督
●「パットン大戦車軍団」(1970) フランシス・フォード・コッポラ:脚本 フランクリン・J・シャフナー:監督
●「「ジャッカルの日」(1973) フレデリック・フォーサイス:原作 フレッド・ジンネマン:監督
●「カイロの紫のバラ」(1985) ゴードン・ウィリス:撮影 ウッディ・アレン:脚本・監督
●「ビートルジュース」(1988) ティム・バートン:監督
●「恋する惑星」(1994) クリストファー・ドイル:撮影 ウォン・カーウァイ:脚本・監督
●「パニック・ルーム」(2002) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006) M・ナイト・シャマラン:製作・脚本・監督
●「渇き」(2009) パク・チャヌク:監督●
「おとなのけんか」(2011) ロマン・ポランスキー:監督
●「斬る」(1962) 新藤兼人:脚本 三隅研次:監督
●「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971) 新藤兼人:脚本 岡本喜八:監督
●「赫い髪の女」(1979) 中上健次:原作 神代辰巳:監督
●「転校生」(1982) 大林宣彦:監督
●「ひめゆりの塔」(1995) 神山征二郎:監督
●「回路」(2000) 黒沢清:脚本・監督
●「アカルイミライ」(2003) 黒沢清:脚本・編集・監督
●「贖罪 第1話 フランス人形」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督
●「贖罪 第2話 PTA臨時総会」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督
●「贖罪 第3話 くまの兄妹」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督
●「贖罪 第4話 とつきとおか」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督
●「贖罪 最終話 償い」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督

 

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■ 2015-10-30(Fri)

 今日は内科医へ二週間に一度の通院。なんと今週はこれで病院通いは三度目になる。もう「若さ」とかいうのとは程遠いところに来てしまってる、ということなのかな。それで今日は珍しく内科医が混んでいて、一時間ぐらい待たされてしまった。ちょうどいい読書時間になったわけだが。そう、今読んでいるのは「南京大虐殺」についての小冊子。
 帰りに図書館に寄り、ちょっと先に「テンペスト」と題されたダンス公演(?)を観る予定があるので、そのシェイクスピアの「テンペスト」を借りて来た。この図書館のシェイクスピアの在庫、世界文学全集収録のものをのぞけば、白水社の一作品ごとになっている薄いシェイクスピア全集になるのだけれども、さすがにシェイクスピアになると読む人が多いのだろう、どれもかなりボロボロになってしまっている。「読まれている」というのでは図書館の本の中でもトップクラスなんじゃないのかな(わからないけれども)。あと並んでいる背表紙をみて「読まれてるな」と思うのはドストエフスキー全集とか。しかし先日借りたフローベール全集なんか、きれいなものだった。

 咳は少しおさまってきた感覚だけれども、喉の痛みというのは前より強くなってきたようでもある。咳をすると痰が出るようになったのは、そろそろ治癒されてきたということだろうか。けっきょくタバコは喫い続けているわけだが。

 このところの昼食には、安く売られるようになっていたインスタントの冷し中華のたぐいばっかり食べている。とにかくまとめ買いしてしまっているので、当分は冷し中華がつづくだろう。寒い季節になるときびしいので、早く全部食べてしまいたいし。

 そう、また払い忘れていた先月の健康保険料をこのあいだ払ったのだけれども、すぐに今月分を払う期日がせまっている。経済的にきびしいところである。十一月にはあれこれの公演を観に出かける予定もあるわけで、たいていのチケットはすでに買ってあるとはいっても、その都度交通費その他もろもろがかかるわけだし。やはり余計な出費は控えるように努力しなくっては。

 

 

[]「パニック・ルーム」(2002) デヴィッド・フィンチャー:監督 「パニック・ルーム」(2002)   デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 わたしのお気に入り、デヴィッド・フィンチャー監督の作品。昨日観た「おとなのけんか」では青筋立ててどなっていたジョディ・フォスターが、こちらではカッコいい役で主演。その娘役では今をときめくクリステン・ステュワートのまだまだ少女時代の姿が。

 さて、「パニック・ルーム」といっても、部屋がパニックになるという意味ではなく(ストーリー展開はそういう感じ無きにしもあらず、だけれども)、家があれこれとパニック状態になったときに逃げ込む避難所としての完全な密室のこと。舞台がやたら大きな屋敷だから、こういう設備もあるわけだろう。
 その「やたら大きな屋敷」に、ジョディ・フォスターとクリステン・ステュワートの母娘が引っ越してくるのだけれども、その引っ越したばかりの夜、三人組がそのパニック・ルームの床下に隠されているらしい大金を目当てに、まだ空き家だと思って侵入してくる。母娘は侵入者があることを知ってすぐにパニック・ルームに逃げ込むわけで、三人組としては母娘にパニック・ルームから出てもらわないと計画が遂行できないからややっこしいことになる。パニック・ルームの中の電話は、転居が予定より早かったのでまだつながっていない。母の携帯電話はパニック・ルームに逃げ込むときに寝室に置いてきてしまった。しかも娘は血糖値が低くなるとヤバい病気をかかえている。母は意を決してまずは携帯電話を取ってくるけれど、パニック・ルームの中はやはり携帯は利用できない。娘の血糖値がだんだんに下がってきて生命の危険にさらされるようになり、母は注射器セットを取りにふたたび外に出る。ところがその間に三人組がパニック・ルームに入り込み、立場は逆になってしまうし、侵入犯三人は仲間割れする空気である。さてさて‥‥。

 やっぱりストーリー展開が面白くって、画面に見入ってしまう一作。特に導入部での床を這うようなカメラの動きがカッコよくって、これは英語でいうと「Sneaking」なカメラ、という感覚だろうか。それとそこにクリステン・ステュワートがキック・ボードを蹴りながら部屋に入ってくるわけで、そのカメラの動きと合わせて、わたしはキューブリックの「シャイニング」を思い浮かべてしまった。考えてみると「閉ざされた家」という設定とか、「シャイニング」で追いつめられる母と息子だとか、基本の登場人物の少なさとか、じっさいにフィンチャー監督は「シャイニング」を意識してるんじゃないだろうかと思った。「シャイニング」で実の主人公があのホテルの建物だったように、この「パニック・ルーム」においても、主人公は「パニック・ルーム」それ自体ではあるのかもしれない。
 犯人のひとり、フォレスト・ウィテカーの「根は善人」ぶりが印象的なだけに、ラストシーンの「つむじ風」の無情さが沁みた。


 

[]「斬る」(1962) 新藤兼人:脚本 三隅研次:監督 「斬る」(1962)   新藤兼人:脚本 三隅研次:監督を含むブックマーク

 主演は市川雷蔵。またもや「剣の達人」であり、その使う剣が「邪剣」であるとなると、どうしても「大菩薩峠」の机竜之介を思い浮かべてしまうし、じっさいにそういうニヒリズムの端緒はみられるのだけれども、意外とすんなりと幕府大目付の男に仕えることになり、彼に殉じることになる。

 原作は柴田錬三郎だそうで、脚色したのは新藤兼人。実はこの主人公、出生の秘密を抱えており、当人には知らせずに実の父母から離れて育てられている。実はほんとうの母(藤村志保が演じてる)は江戸屋敷の侍女で、家老の命をうけて殿の愛妾を刺殺したのである。捕えられた彼女はわけあって処刑に送られる途中に天地茂に救出され、一年間を隠れて彼と暮らし、市川雷蔵を産むのである。子を産んだところで彼女はふたたび捕えられ、天地茂の手によって処刑されるのである。
 その後、別の武士に息子として引き取られた市川雷蔵は、実は血のつながっていない「妹」と仲良く成長するのだが、その妹を嫁に所望してこれをしりぞけられた父子によって、育ての父とその妹を斬殺されてしまう。市川雷蔵はその仇をとるのだが、そのときに自分の出生の秘密を知る。
 脱藩して浪人として生きる雷蔵は、さらにあるところで自分を犠牲にして雷蔵を救う女性に出会い、深く心を打たれるのである。こうして彼は死せる三人の女性に自分の運命を感じて生きることになる。

 映画の冒頭は、藤村志保が城中にて妾を短刀で刺殺するシーン。これをさまざまなアングル、構図で印象的な見せ方をするわけで、以後も凝った構図の演出が散見され、三隅研次監督の映像美を堪能できる。

 市川雷蔵の生き方をしばる三人の女性との因縁は、つまりは彼が生涯に女性を愛することが出来なかった、ということと表裏になっているわけで、そのあたりにこの男のニヒリズムを感じることにもなるのだけれども、意外とすんなりと彼なりの「生きる理由」を見つけるようではある。そのあたり、尺の短さ(70分)ということもあるけれども、観ていてちょっと「あっけない」という気分になってしまったのはたしかである。



 

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■ 2015-10-29(Thu)

 まだ寝ていて突然に咳き込んでしまうこともあるし、多少の喉の痛みもあるようだ。いったいいつまで続くのか。これでは耳鼻咽喉科で処方された薬も全部飲んでなくなってしまうし、そうしたらまた耳鼻咽喉科に行かなければならないのだろうか。 

 今日からまたしごと。朝起きて出勤で外に出てみると、アスファルトが雨で黒く光っているのがみえた。今は雨は降っていないようだけれども、ずいぶんと久しぶりの雨だったように思う。そういえば昨夜映画館から外に出たとき、ポツポツとしずくが降って来ているような気がしていたのだった。

 今日は一日の時間の使い方を考えてみた。わたしは通常は朝の五時から九時まで外で働いていて、そのあとが自由な時間。だいたい朝四時に起きることを考えると、夜も八時に眠りにつかないと八時間睡眠にならないから、基本そのように考えると朝の九時から夜の八時まで、十一時間がわたしのフリータイムという勘定になる。そのうち食事の準備、食事に合計で二時間はみておいた方がいいだろう。残りは九時間。それで録画した映画とかを一本観るとすると二時間。二本観れば四時間になる。これで残った時間からちょっとだけ読書に割いて、その残りはみんなパソコンに向かって過ごしているだけ、パソコンに四時間は向き合っているような感じだろうか。これが現状だと思う。
 問題は読書時間で、もっともっと増やして、少なくとも一日二時間は読書にあてたいという気もちはある。映画は一本ならば二時間、二本ならば四時間として、四時間映画を観たならば読書は二時間、二時間が映画ならば読書は四時間、というのがわたしの理想である。それでもパソコンと向き合う時間は三時間あるではないか。なんとかこういう感じのスケジュールでやって行きたいものだと思うのだが、どうしても家にいては読書がはかどらない。これがとにかく「課題」ではある。

 それで今日は映画を二本観てしまった。「おとなのけんか」は図書館から借りているDVDで、実は一昨日いちど観ているのだけれども、面白かったので今日は日本語吹き替えで観てみた。
 夕食はレバニラ炒めにしようと思っていたのだが、一昨日のレバニラ炒めに鶏レバーを使ったのが失敗だったような気がして、解凍して冷蔵庫に移してある鶏レバーのパック半分を使って、前につくってなかなかの味だった鶏レバーの甘辛煮をつくることにした。残っているニラともやしは明日、豚レバーを使ってのレバニラ炒めにしてみようと思う。
 ちゃっちゃっとつくった鶏レバーの甘辛煮はやはりけっこうおいしくて、満足して寝るのであった。

 

 

[]「おとなのけんか」(2011) ロマン・ポランスキー:監督 「おとなのけんか」(2011)   ロマン・ポランスキー:監督を含むブックマーク

 観ればわかるけれども元は舞台劇で、登場人物は基本四人だけ。場所もニューヨークのマンションの中だけでの展開(オープニングとエンディングはちがうけれども)。

 ジョディ・フォスターとジョン・C・ライリー夫婦(ロングストリート夫妻)の子どもがケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ夫婦(カウワン夫妻)の子どもとけんかをして、前歯を折るケガをしてしまう。それでロングストリート夫妻がカウワン夫妻を自宅に招き、友好的に子どものけんかを解決しようとするのだけれども、これが終いにはどなり合いの修羅場になってしまうという喜劇。はたしてどこでどう、お互いの友好的な気もちがずれてしまったのか。

 原因はいろいろあるんだけれども、いつの間にか険悪な雰囲気になってしまうあたりの展開がすっごく面白い。険悪になったあとも、四人のそれぞれが攻撃の矢面に立たされることになったり、夫同士、妻同士が意気投合してしまったりもする。
 いちばん相性が良くなさそうなのが正義感の強い理想主義者のジョディ・フォスターと、あまりに現実的な考えを持つ弁護士のクリストフ・ヴァルツのふたりあたり、という感じで、ジョディ・フォスターの理想主義をクリストフ・ヴァルツがけちょんけちょんにけなし、ジョディ・フォスターが「理想主義のどこが悪いのよ!」てな感じで青筋立てて怒りまくるのなんか、とにかく笑ってしまう。そのクリストフ・ヴァルツはしょっちゅうケータイで事務所(?)と仕事関係のやりとりをしまくっていて、これが夫婦同士のこじれる原因というところもある。「じゃあこれでさようなら」という機会は何度もあるのだけれども、そのたびにカウワン夫妻は帰るきっかけを失ってしまう。

 まあそれぞれが「熱演」という感じなんだけれども、やはりわたしには切れまくるジョディ・フォスターと、斜めに構えてのんしゃらんとしたクリストフ・ヴァルツとの対比が面白かった(やっぱりこの「けんか」でいちばん深手を負うのはジョディ・フォスターだろうな)。ケイト・ウィンスレットはそれこそ場をとっちらかしてしまうし、常識人っぽくふるまおうとするジョン・C・ライリーもどこか脱線している。
 しかし、観ていても、ロングストリート夫妻の居間のテーブルにフランシス・ベーコンやココシュカの画集が置いてあるのなんか、「ああ、見せびらかしてるな」と、そのスノッブぶりは冷笑してやりたい気分ではあったけど。

 元がヒットした舞台劇らしく、笑わせるセリフのやり取りは満載。それに、部屋のあちこちから画面を切り取るポランスキーの演出、部屋全体を組み上げた美術など、やはり映画としてすばらしいものでもあった。


 

[]「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006) M・ナイト・シャマラン:製作・脚本・監督 「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006)   M・ナイト・シャマラン:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 わたしの記憶にあるのは「シックス・センス」しかないのだけれども、シャマラン監督というのはどうもいろいろとクセがあるようで、ネットをみているとあれこれといわれているようではある。もうちょっと彼の作品を観てみようと思って、この「レディ・イン・ザ・ウォーター」を観てみた(七年ほど前にシャマラン監督の作品をまとめて観ているようで、その中にこの「レディ・イン・ザ・ウォーター」もあったようだけれども、例によってこれっぽっちも憶えていなかった)。

 正直、こんなつまらない映画ははじめて観たような気になった。じっさい公開時には酷評され、製作費も回収できないほどに不入りだったらしいが、無理もないと思う。
 この作品はシャマラン監督が自ら製作を手がけ、脚本も監督も自分でやってのけているわけで(おまけにある意味図々しい役で出演もしている)、つまり何から何まで自分のやりたいようにやってのけた、壮大な「個人映画」ということだろう。それで観ていて思うのは、この人の映画づくりのセンスのなさというか、「映画」というものを知らないんじゃないかと思ってしまうのである。そのいい例が、この作品で撮影にあのクリストファー・ドイルが起用されているということと、その結果である。
 クリストファー・ドイルといえば、ウォン・カーウァイ監督の作品での即興的な手持ちカメラでの魅力的な映像が頭に浮かぶのだけれども、この「レディ・イン・ザ・ウォーター」では、そのクリストファー・ドイルの魅力をすべて封殺してしまっている。これはシャマラン監督がクリストファー・ドイルというカメラマンのことをまるで理解していないせいと思うしかないのである。それはつまり、「映画」への理解が欠けているということにもなるのではないのか。じっさい、この作品、ストーリーのことは抜かして考えても、映画としても魅力に乏しいのである。そしてこの身勝手なストーリー展開。何をか言わんや、である。まだ書くことはあるかもしれないが、以上にしておく。


 

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■ 2015-10-28(Wed)

 今日が四連休の最終日。今日は天気も良くって気温もちょうどすごしやすい。お出かけにもってこいの日のようだ。午前中にとなり駅の市民病院へ診察に行かなければならない。そのついでに診察が終わったあとにそのまま東京に出て、映画でも観てこようという計画を立て、ちょうど今「キネカ大森」という映画館でミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」を上映しているのを知り、うまく診察と会計が早く終わればこの映画を観に行くことにする。併映は「炎628」という旧ソヴィエトの映画で、この映画についての予備知識はほとんどない。

 映画を観に行くには十時半ぐらいまでに病院を出られればいいのだけれども、今日は八時に病院に着いたし、いつもほどに混んでいなかったし、いままででいちばん早く、十時前には会計も終わらせることが出来た。
 電車の時間まであいだがあるので、先日調べて気になっていた、この駅の近くにある中古電気製品の店に行ってみた。大きな店で、別のコーナーは古着屋になっていて男性ものもずいぶん置いてある。以前うちの近くにあった古着屋ほどに安くはないけれども、いろいろと置いてあるようで、こんどちゃんとチェックしてみたいと思った。電気製品の方ではパソコンとかデジカメをみてみたけれども、やはり新品同様のものはそれなりの価格がついている。「ジャンク品」と書かれたものは相当に安いのだが、やはり買うにはちょっと勇気がいるだろうか。デジカメのジャンク品が実際に使えるものなら、買ってみてもいいのだが。あまり時間もなかったし、そこまでに「買いたい」というものがあってみていたわけではないけれど、古着屋とあわせて、近いうちにまた来てみたいと思った。

 駅へ引き返して電車に乗る。湘南新宿ラインで大崎まで行き、山手線に乗り換えて品川から京浜東北線で大森まで。大森駅というところははじめて来ることになるのだろうか。到着してまだ一時にもだいぶ間があり、一時半開映の映画を観る前に食事をして、ちょうどいい段取りになりそう。駅から外に出て、駅前のロータリーを抜けるとすぐに映画館のある建物もみつかり、そのそばには日高屋があったので、今日もまた日高屋で昼食。今日はまた担々麺。

 食事を終えて時間もちょうどいいようで、そばのその映画館のある商業ビルに入り、エレヴェーターで映画館の五階へ。行ってみるとこの映画館、やはり商業ビルの五階にある地元のターミナル駅にある映画館ととても似た感じの受付、そしてロビーの雰囲気だった。ただ地元の映画館は四つのスクリーンがあったけれどこちらは二つ。ロビーも雰囲気は近いといってもずっと狭い。こちらは映画ファンへのサーヴィスたっぷりの「名画座」という感じで、ロビーにはキネマ旬報のバックナンバーや映画関係の書籍などが棚に置かれていて、壁には映画関係者、映画俳優などのサイン色紙がずらりと飾られていた。
 すぐに前の回の上映が終わり、入れ替えの時間になる。映写室に入るとさすがにこちらは地元の映画館のように古びたものではないモダンな造りで、椅子の間隔もたっぷりととってあって観やすい環境になっているようだ。
 睡眠はたっぷりとっていたはずなのに、最初の「炎628」の途中でちょっと寝落ちしてしまった。椅子のすわり心地が良すぎたせいかもしれない。

 二本の映画を観て時間は六時ちょっと過ぎ。帰りは品川に出てそこから上野東京ラインで帰った。平日のラッシュアワーに重なってしまい、電車はちょっと混んでいたけれども、新橋駅からはすわることができた。
 帰宅してちょうど九時。買ってあったキムチとか適当なもので遅い晩ご飯をすませ、お留守番のニェネントにもご飯を出してあげてから寝た。今日もタバコを喫ってしまった。

 

 

[]「炎628」(1985) エレム・クリモフ:監督 「炎628」(1985)   エレム・クリモフ:監督を含むブックマーク

 1943年の白ロシア、ドイツ軍占領下にあるベラルーシのとある集落に住む少年フリョーラは、土の下から銃をみつけて掘り出し、パルチザンの戦士になろうと家を出る。フリョーラの母親は必死に引き止めようとするのだが。
 パルチザンに加入したあと、フリョーラはまだ子供だということで戦場へ連れて行かれずに残されることになる。そこにグラーシャという少女があらわれ、フリョーラとグラーシャはふたりで追いかけっこをして戯れ合う(というよりも、グラーシャがフリョーラを挑発しているようなのだが)。フリョーラはグラーシャを連れて実家に帰ってみるのだけれども、まだ暖かい食事のあとが残されているのに、母親も双子の妹も姿がみえない。フリョーラは外に飛び出し、グラーシャもあとを追うのだけれども、振り向いたグラーシャは家屋の裏に集落の住民全員が殺されて積み重なっているのを見る。
 パニックに襲われたふたりは必死に沼を渡り、フリョーラは別のパルチザンに拾われる(グラーシャがどうなったのか、わたしが眠ってしまって見落としたのか、その後はわからない)。フリョーラはパルチザンの同志と、部隊のための食糧を探しに出るのだけれども、同行した男たちは地雷にやられたり、機関銃掃射で撃ち殺されたりして、フリョーラはひとり生き残って荒れ地をさまよい、とある村にたどり着く。
 ところがその村にナチス親衛隊の特別行動隊「アインザッツグルッペン」が来襲して来る。村人を広場に集め、納屋の中に押し込めた上、手榴弾をそこに投げ込み、機関銃を乱射してその上に火を放つ。ナチスの連中は大笑いをしてこのさまを見ており、あげくは生き残ったフリョーラの頭に銃を突きつけ、そのまわりを囲んで記念撮影をする。
 ナチスの連中は村を去り、取り残されたフリョーラは呆然と歩くのだが、その先ではさきほどのナチスの連中がパルチザンの攻撃によって敗退、その多くが死に、残ったものは捕虜になっていた。ナチスの隊長は「命令されてやっただけだ」と命乞いするが、別の指揮官は開き直り、「貴様らの民族に未来はない」と語る。水たまりに捨てられたヒトラーの肖像写真にフリョーラは銃を向けて引き金を引き、そこにナチスドイツの興隆を伝えるニュース映像が逆回しで流され、時代をさかのぼる映像はヒトラーの幼年時代の写真でストップする。

 邦題の「炎628」の628とは、この映画のように村人を虐殺されて焼き払われた村落の、実際の数だという。すべて主人公のフリョーラの視点から描かれるこの作品、まずは「虐殺」を正面から見つめるその残虐さに目をそむけたくなるのだが、実際にこれらの出来事をすべて見届けて来た主人公フリョーラは、ラストではその顔に老人のような皺が刻まれているのである。
 この、まさに非人間的な行為をこそ、一度は再現してフィルムに留めておこうとする意志が、このような目をそむけたくなる描写を徹底させたわけだろう。ナチスとはなんと非道なことをやったことかとあらためて認識せざるを得ないのだけれども、このような行為を行なったのはナチスだけではない。この映画に描かれた1943年に先立って1937年、わたしの住むこの日本の、当時の日本軍は中国の南京でこれと同じようなこと、いや、もっともっと残忍なことをやっているのである。そのことを忘れてはいけない。特にこの今、「南京大虐殺はなかった」との言説が国内でまかり通ろうとしている。

 もし仮に、現在の中国がこの「炎628」のように南京大虐殺をリアルに映像化してみせたとしたら、日本人はどのような反応を示すだろうか。そう、ドイツの人たちはこの「炎628」をどのようにみただろうか。もちろん、ナチスの歴史を繰り返してはならないという視点から、謙虚にこの作品をみることが出来ただろうと想像する。おそらくは628という数字も根拠のあるものとして、「でたらめだ」などという声は上がらないのだろう。しかし日本では、そもそも「南京大虐殺はなかった」という声が上がっている。
 この映画を観て、これをナチスドイツの残虐行為として認識するならば、この映画で描かれたのと同じようなこと、いや、もっと酷いことを日本軍がやっていたと認識すべきだろう。そしてそのあとも、ヴェトナムではアメリカ軍がソンミ村で同じことをやっている。戦争とはいつもこのような狂気を呼び起こすものなのだろうか。「人を殺す」ということが「仕事」になってしまうのが「戦争」ということだろうか。そこに狂気の要因はいくらでもあることだろう。この映画のようなことが二度と起きないように願うことは、もう戦争などというものを廃棄しなければならないと願うことであるだろう。


 

[]「ファニーゲーム」(1997) ミヒャエル・ハネケ:脚本・監督 「ファニーゲーム」(1997)   ミヒャエル・ハネケ:脚本・監督を含むブックマーク

 ミヒャエル・ハネケ監督の作品には惹かれるところがあって、それはいちばん最初に観た彼の作品「セブンス・コンティネント」によるところが大きかったと思う。今でも「セブンス・コンティネント」のストーリーの概略は記憶しているけれども、わたしはそこに「残虐なアート」とでもいうようなものを読み取っていたのだと思う。あとで観た「ベニーズ・ビデオ」という作品も似たようなものだっただろうか。
 しかし、それ以降、それ以外のハネケ監督の作品がどういうものだったのか、例によって記憶から消えてしまっていて、この「ファニーゲーム」もまるで思い出すことができないのだった。それが今回この映画館で上映されているのを知り、「ぜひもう一度観てみたい」という気もちで足を運んで来たもの。

 湖畔の別荘でヴァカンスを過ごしに、夫婦と男の子の家族三人がやって来る。そこにふたりの青年が来て家族を監禁し、いたぶり責めていくという酷い映画。音楽がジョン・ゾーンの「Naked City」で、全篇で使われているわけではないけれども、この音楽の狂気が映像として延々と繰り拡げられる感覚。あんまりに理不尽な展開に、観ていて「もうやめてくれ」という感覚に何度も囚われてしまった。不愉快ではある。とにかくは暴力をふるうふたり、特に「デブ」と呼ばれる方の青年が気もち悪くて、生理的に受け付けられないという感じがする。
 この残酷劇をリードするのはもうひとりの短髪の青年のようで、この青年は早い段階でカメラ目線でウィンクしてみせたり、「ここで終わると映画の尺に足りない」とかいうセリフも語ったりもするわけで、「これが映画という虚構なのだ」ということを観客に伝える役でもあるようだ。極めつけは終盤に奥さんが反撃して銃を奪い、デブの青年を撃ってしまう場面で、主役(?)の青年はあわてて「リモコンはどこだ」と部屋を探し、見つけたリモコンで「映画」を巻き戻ししてみせるシーン。観ている方では奥さんの反撃にそれまでのうっぷんを晴らす気分になるのだけれども、「そうはいかないよ」とばかりに、また観るものを奈落の底に突き落とすわけである。
 しかしこの虚構性をあらわにするこの演出、それ自体がこの救いのない映画の「救い」になっているのだという逆説は成り立つだろう。また、そこには「映画」という表現への批評的視点があるともいえるだろうか。「観客であるあなたは、あたかもリアルにこの物語を体験しているかのように感情の起伏を感じているのだろうが、これはただの映画なのだ。あなたのその感情移入とは何なのか?」と問いかけているようでもあり、虚構性をあらわすメタ構造演出は、「そんなに感情的になることはないのだ。これは映画なのだから」とでもいっているようでもある。「物語として楽しめばいいのだ」と。
 わたしはそこに、「映画」とは何なのか、という観客への問いかけさえ感じてしまうわけではある。
 ま、そんなことはいっても不愉快なことは不愉快なわけで、「これは映画なのだ」といわれて「それでは」と愉快になれるわけでもないのだが、とにかくは人間の感情の「暗黒面」を表面化させ、監督はその感情を冷静に見つめてみたらどうだろう、といっているようでもある。


 

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■ 2015-10-27(Tue)

 四連休ももう明日までになってしまった。大森の映画館でミヒャエル・ハネケの「ファニーゲーム」をやっていて、ハネケの初期の作品もまた観てみたいものだと思い、今日か明日には行きたいと思う。明日は市民病院に通院する日なので、診察が終わってから観に行くというスケジュールがいいだろうと思い、今日は家でゴロゴロすることにした。

 喉の薬とかを含めて何種類もの薬を飲んで、それでもまだなかなか咳はおさまらないし、少し痛みもある。タバコをやめればいいのだけれども、残っているタバコをときどき喫ってしまう。それでも普段の三分の一ぐらいしか喫っていないだろうか。ま、たとえ一日に一本でも喫ってるようではお話にならないわけで、完全禁煙ということにならなければ。

 午後から近くのドラッグストアに行ったのだが、賞味期限の近づいた特売コーナーに、25センチ角ぐらいのかなり大きな缶に入った贈答品のおせんべいが、四百円ぐらいで売っていた。半額などというものではない価格破壊だと思うのだが、おせんべいが食べたいというよりも、容器の缶の方があとで使い道がいろいろあるように思って、とにかくは買って帰った。
 帰宅してさっそく缶を開けて食べたけど、さすがにおいしいせんべいだった。ちょっとわたしには塩分過多ではあるけれど、いちどに食べきれるものではないからしばらくはおせんべい三昧になる。

 夕食は何にしようかと冷蔵庫や冷凍庫をチェックすると、冷凍されたレバーが思っていたよりもたくさん眠っていた。ではレバニラ炒めにでもしようと、線路を越えたスーパーでニラともやしを買ってきた。ついでにキムチも買っておく。
 帰宅してクックパッドのレシピを見ながらレバニラ炒めをつくってみたけれども、どこでどう加減をまちがえたのか、あんまりおいしい出来上がりにはならなかった。まだニラももやしも半分残っているので明日か明後日には再トライするので、そのときは別のレシピでつくってみようか。

 

 

[]「夕陽のガンマン」(1965) エンニオ・モリコーネ:音楽 セルジオ・レオーネ:監督 「夕陽のガンマン」(1965)   エンニオ・モリコーネ:音楽 セルジオ・レオーネ:監督を含むブックマーク

 前の「荒野の用心棒」につづく、セルジオ・レオーネによるマカロニ・ウェスタン。「荒野の用心棒」のクリント・イーストウッドとジャン・マリア・ヴォロンテに加えて、この作品ではリー・ヴァン・クリーフも登場。物語は悪漢グループと彼らを追う賞金稼ぎたちの話になり、悪漢グループのリーダーは「荒野の用心棒」でのイメージを引き継ぐジャン・マリア・ヴォロンテで、彼の懸賞金を目当てに、クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフというふたりの賞金稼ぎが協力しながら、また相手を出し抜きながら悪漢グループに近づくのである。

 「荒野の用心棒」につづいて、セルジオ・レオーネのねちっこい演出を楽しめるし、基本的な展開は「荒野の用心棒」にならっているようではある。ラストには一方にとって、単に賞金目当てではない「復讐」だった、ということが明らかになってストーリーに起伏を持たせる。しかし、そのための小道具となる懐中時計を使った「果たし合い」が何度か描写されるのだけれども、懐中時計のオルゴール音楽が終わったら撃つ、というのが、音楽の終わりというのをどこで認識するのかと思ってしまうと、ねちっこいというよりもまどろっこしい思いをしてしまったのはたしか。

 主要登場人物の顔のどアップのカットを多用して、これはやはり劇画っぽい演出というのか、全体に劇画のコマ割りのような絵が多い。時代的に日本の劇画が海外に紹介されるようになるのはもっとあとのことになると思うのだけれども、ここは逆に、日本の劇画がこれらマカロニ・ウェスタンの描写の影響を受けたと考えるのが自然なのかもしれない。


 

[]「天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲」平野共余子:著 「天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲」平野共余子:著を含むブックマーク

 この本が刊行されたとき、それなりに話題になったことはそれなりに記憶している。先日この著者による「マンハッタンのKUROSAWA」を読んで、しっかりした著者の視点と要領のいい切り口に感心し、図書館にこの本があったことを思い出して借りていたもの。この本が日本で刊行されたのは1998年のことだけれども、もともとは著者の博士論文として英語で書かれ、のちに1992年になって一般書籍として、さらに1994年にはペーパーバック版としても出版されたそうなので、アメリカでも相当に評判になったものと思う。

 タイトルの「天皇と接吻」というのは、まさにGHQによる日本映画検閲(正確にいうとGHQが検閲したのではなく、別に検閲機関CIEとCCDというものが設けられた)が問題としたふたつの映画のテーマのこと。
 まず「天皇」についてはGHQの政策によってこれを戦犯として描くことはタブーとされ、このために「日本の悲劇」というドキュメンタリー(監督は亀山文男)が上映禁止とされることになる。
 つぎの「接吻」というのは、戦後日本の民主化のために推奨された表現で、つまりは映画の中に接吻シーンを入れることが推奨され、当時は「接吻映画」と呼ばれてしまう映画群もあったという。

 まず読んでみて興味深いのは、戦前戦中にも国内での映画検閲というものはあったわけで、ここでは「反皇室」、そして共産主義や左翼などの「危険思想」を描くことが禁止され、滅私奉公して国家に尽くす国民の姿や思想を映画で描くことが求められていたわけなのだが、これが敗戦によって、占領軍によるそれまでと正反対といってもいい新しい検閲制度が始まるということ。ここでは短期間に新しい検閲制度に対応する日本映画製作陣の身替わりの早さにおどろかされるのだけれども、それでもやはりとまどいはあるわけである。そしてさらに面白いのは、当初は占領軍の方針として民主主義のモデル的な表現を求めていたものが、東西冷戦や本国での赤狩りなどの影響で、揺り戻し的な思想的チェックがはじまってしまうことなのだが、その当初の検閲を担当していた人物というのが、ほとんど共産主義者ていっていいほどにラディカルに民主主義を推し進めようとしていたわけで、戦中〜戦後の最初の段階の検閲〜次の段階の検閲と、その振幅の大きさというのはただものではない。

 読んでいてもそれぞれ引き合いに出される映画を観ているわけでも記憶しているわけでもないのだけれども、やはりこの本、映画資料ということを越えてGHQ占領時七年間の日本文化史として一級の参考書であって、ページをくくって読み進めるごとに、興味深い記述にブチ当たる感じである。とにかくは面白い本で、刊行当時話題になったというのも当然のことだろうと思う。


 

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■ 2015-10-26(Mon)

 水曜日までしごとは休みなので、しばらくはのんびり。せっかく休みなんだから何か時間を有意義に使いたいのだが、「今日は休みだったからいい時間の使い方ができた」とか思えないうちにすぐに九時とかになってしまい、「しごとに出ていたのと同じになってしまったな」と思ってしまう。まあ「休み」というのはそれこそお休みすることに意義があるのだと思えば、こんなものでいいのかもしれない。

 今日は朝からいい天気のようで、昨日よりもずっと気温も高いようだ。 

 咳がいつまでもつづき、喉の痛みも感じるようになったので、ついに耳鼻咽喉科へ行くことにした。病院は線路を越えて駅の反対側、駅からすぐのところにあり、ウチからも歩いて十分もかからない距離である。コンクリート打ちっぱなしのような壁の、ちょっとモダンな建物の二階がその病院。外にある階段を上がったドアのところに灰皿が設置されていて、「耳鼻咽喉科なのに、タバコを喫うことはかまわないのか」などと思ってしまう。
 ドアを開けて受付で初診の処置をして、ソファー椅子で順番を待つ。わたしより先には二人の先客。順番がきて名前を呼ばれ、診察室に入る。なんだか書類やモニターが雑然と積み上げられているような印象で、その奥に白衣でマスクをした担当医がすわっておられる。雰囲気としてはマッド・サイエンティストみたいだな、なんて思ってしまう。いちおう問診があるのだけれども、医師はなんだかぼそぼそとしゃべる方で、ちょっと何をいってるのか聴き取りにくいし、わたしの返答へのリアクションも、どことなくシニカルな感じがする。
 とにかくは鼻の穴からファイバーを通して喉の状態を診て、記録してモニターに写した映像で説明して下さるのだけれども、どこがどう悪いのかとか、よくわからないのですね。そんなに腫れて炎症を起こしているのでもないようで、とりあえずは薬を処方しておきましょうという感じ。それで受付でもらったのが飲み薬が四種類にトローチ錠とうがい薬とをそれぞれ五日分。今すでに飲み薬は七種類飲んでいるのが、これで一気に十一種類になってしまった。「薬漬け」というのはこういう状態をいうのではないかと思う。

 会計も初診料を入れて三千円を超してしまい、二千円ぐらいで収まればと思っていただけに、ちょっとショックだった。とにかくはタバコを喫っていいような状態ではないから、これを機会に禁煙になだれ込んでしまえば三千円など安いものだと思う。まだ一箱は残っているので、これを全部喫ってしまえばそれでおしまいにしたい。しかし、咳が出て喉が痛いというのにタバコを喫ってしまうというのは、かなりあきれた行為ではあるだろう。

 今日の夕食には、冷凍庫の奥でいつから転がっていたのだかわからない鮭の切身を焼いておかずにした。ちゃんと味がして(あたりまえ)意外とおいしくて、冷凍というのは強力なものだと思う(わたしは食パンはすべて冷凍して補存している)。


 

[]「パットン大戦車軍団」(1970) フランシス・フォード・コッポラ:脚本 フランクリン・J・シャフナー:監督 「パットン大戦車軍団」(1970)   フランシス・フォード・コッポラ:脚本 フランクリン・J・シャフナー:監督を含むブックマーク

 冒頭の、巨大な星条旗をバックにしてのパットン(ジョージ・C・スコット)の好戦的スピーチが幕開きとしてインパクト大で、全体にこういう引きの画面も多いこともあって、なんだかキューブリックの作品を観ているような気分になるときもある。テーマも「戦場におけるパットンという人物の生きざま」というところに絞り切っているところもあり、そういうところでは見ごたえのある作品。脚本執筆にはフランシス・フォード・コッポラも加わっている。

 とにかくはパットンという人物、歴史を常に引用しながらも、戦場では戦局を無視しても先陣を奪おうとする。それは功名心というよりも、自分の役割とはそういう風に運命づけられているのだという思い込みからきているように思える。率いる兵士らにとんでもない無理強いをし、おそらくはそのために無駄に兵士を死に至らしめていたのではないかと思うのだが、「戦局の展開を早めたからこそ無駄な犠牲を防いだのだ」と強弁する。
 ストーリーのメインは、パットンが野戦病院に収容されていた精神を病んだ兵士を「腰抜け」とののしり殴打し、そのことが問題となって軍団の指揮の任を解かれる事件あたりにあるだろう。このあたり、日本の軍隊であればこんな上官はあたりまえの存在でもあっただろうし、こういうことが大きな問題になってしまうアメリカの軍隊、人権ということの考え方が日本とはまるでちがうのだと痛切に感じさせられる。

 この作品の製作されたのが1970年と、まさにアメリカはヴェトナム戦争の泥沼にどっぷり浸かっている時代。反戦運動も高まりを見せていた時代につくられたこの作品にも、どこかに反戦のメッセージをこめたものがあったのだろうかと思って観てもいたのだけれども、映画はどこまでもこの「戦争バカ」とも呼びたくなるようなアナクロで破天荒なパットンという人物を描くことに専念し、そこに余計なメッセージが込められているようには思えない。ただ、同時に1970年という時代にはヒッピー文化も隆盛を極めていたわけだろうけれども、この映画でのパットンの語り口、そのしゃべる言葉の野卑さ加減というのは字幕でなくてもわかるわけで、そういう言葉がわたしにはそういうヒッピーの言葉遣いに重なるような思いで観ていた。まあ野卑な言葉というのは特にヒッピーとかに限らずも、どの時代にもあったものだろうけれども、ヒッピーの台頭によってそういう語り口というのはメジャーなものになっていたのではないか、そんな気がする。そういうところで、1970年当時の観客は映画の中でパットンのしゃべくるヒッピーみたいな言葉遣いに歓声をおくったりしていなかったのだろうか。ま、このあたりはわたしがアメリカ文化というものを知らない上で勝手に想像しているだけのことではあるが。

 そういう、パットンという人物を描いた映画としてはたしかに見ごたえがあるのだけれども、戦闘シーンは平板というのではないにしても羅列的になってしまっている気がした。少なくともこの映画には「北アフリカ」「シチリア島」「ノルマンディー」「バルジの戦い」と描かれていると思うのだけれども、映画の進行とともにだんだんにメリハリがなくなってしまったように感じられた。戦車や飛行機など、多くの「本物」の使われたロケーションは見ごたえがあるはずのものなのに、この点は残念だったと思う。


 

[]「ボヴァリー夫人 ―地方風俗―」ギュスターヴ・フローベール:著 伊吹武彦:訳  「ボヴァリー夫人 ―地方風俗―」ギュスターヴ・フローベール:著 伊吹武彦:訳 を含むブックマーク

 まさに「世界文学の名作」と呼ばれる作品を、はじめて読んだ。いわゆる「写実主義」の典型的作品というか、さまざまな視点からものごとを精緻に描いた小説として、読んでいても「小説とはまさにこういう作品のことをいうのではないか」と思ってしまうところがある。それはやはり、計算された「文体」によるところのものだろうか。わたしは伊吹武彦氏の訳で読んだわけだけれども、比較はしていないけれどもこの訳文も見事だと思う。

 こういう視点の取り方、描写の仕方を読むと、まさにこの原作の通りに忠実に映画化できそうな気がしてしまうところもあり、そういう意味で「視覚的」な文体でもあるのかもしれない。Wikipedia をみると、この小説を映画化した監督はジャン・ルノワール、ヴィンセント・ミネリ、クロード・シャブロル、アレクサンドル・ソクーロフなどがいるようだ。

 田舎の現実の生活に飽いて都会の華やかな生活にあこがれ、まずは見え透いた男の口車に乗せられて浮気をしてしまうエマ(ボヴァリー夫人)だけれども、男は深入りを恐れて逃げてしまう。次に若いレオンという男との情事に夢中になり、金に糸目をつけない乱脈な生活から借金はふくらむ一方になる。夫のシャルルはいってみれば凡庸な男で、エマのことを愛して疑ったりは決してしない。けっきょく、借金の返済ができなくなったエマは自ら命を絶ってしまう。エマの死後にシャルルはエマが愛人と交わしたおびただしい手紙を発見するが、そのことでエマへの愛情が薄れるわけでもない。シャルルもまた、エマを想いながら庭で突然死してしまう。

 「姦通小説」などというものがあるかどうかは知らないけれども、とにかくはそのようなものの典型を描いたような作品ではある。読者はこの小説から教訓を得るというよりも、ただひたすら、「読む」ということを楽しむというたぐいの作品ではあるだろう。おそらくはそのために、この作品は発表当時に風紀紊乱の罪で起訴されたりもしている。
 わたしが読んだのはフローベールの全集によってで、この巻末にはその裁判記録も掲載されている。それも読んだのだけれども、面白いのは、この作品を告発した検事の「論告」が実にち密にこの作品を読まれてのものという印象で、それ自体が魅力的なこの書の解説になっているようなところがある。

 この作品は十九世紀中期のフランスの地方の様子を、創作された人々を通してその精神とともに記録したものとして読まれるものだろう。つまらない感想だが、やはり「名作」といわれる作品とは面白いものである。読書を楽しませていただいた。


 

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■ 2015-10-25(Sun)

 今日は横浜。今月のあたまにもバットシェバ舞踊団を観に神奈川県民ホールへ行ったけれども、今日もまた神奈川県民ホールのギャラリーへ行き、そのあとはすぐそばの神奈川芸術劇場へ行く。さすがにもう、このあたりへ行く道筋はすっかり頭に入っている。
 神奈川県民ホールギャラリーでは鴻池朋子の展覧会を観るので、そのあとの予定まである程度の時間的余裕をみておかないといけない。家を十時半に出れば一時ごろには関内駅に到着出来るだろうから、それから食事をして展覧会を観ても、三時開演の舞台には間に合うだろうという計算をする。今日はしごとも休みなので朝もゆっくりできる。空は晴れていて、いい気候の一日になりそうだ。ちょっと薄着かな?というくらいの軽装で家を出た。

 電車の中ではまたたっぷり寝て、横浜で根岸線に乗り換えて関内の駅で降りると、もう一時をとうに過ぎていた。それで山下公園の方に歩いているとすぐに一時半。ちょっと考えていたのより遅い時間になっている。昼食をとったりしているともう二時に近い。あまりゆっくり展覧会を観ている時間はとれないことになる。ヴィデオ映像とかがあると困るな、などと考える。

 鴻池朋子展の会場は神奈川県民ホールの下の方にあり、その受付はなんとなくうら寂しい雰囲気。客の数も少ないようで、ちょっとうらぶれた気分になるのは確かなこと。入場料を払って会場に足を踏み入れても、とにかく客の姿があまりない。おそらくは部屋ごとに椅子にすわっている係員の方が人数が多いんじゃないだろうか。
 とにかくは、作品展数はあまり多くはなかったので短い時間でも観ることができたのはよかった。それでも、もっとじっくり観たかった気分もある。危惧していた映像もあったし、語り部が語る物語を聴かせる部屋もあり、そのあたりは何となく「こんなものだろう」と了解してあまり観たり聴いたりしないでスルーしてしまった。

 神奈川芸術劇場の方のマリー・シュイナールの開演時間がせまってきたので、そちらに足を運ぶ。エントランスのところでDさんと鉢合わせしてあいさつする。Dさんはこのあいだお会いしたBさんと親しいので、「このあいだBさんとお会いしましたよ」と話したのだけれども、ちょうど去年にやはりDさんとお会いしたときにもそのあとにBさんと会うことになっていて、「これからBさんと会うんですよ」というような話をしたのを思い出した。DさんにはBさんの話ばっかりしてるようで、ちょっと変だと思った。
 ホールに入って指定席にすわってみると、ちょうど舞台の端から端までが視界いっぱいに入ってくる感じで、まさに「ちょうどいい」席、という感じだった。今回の公演は第一部が「春の祭典」で35分。20分の休憩をはさんでの第二部が「アンリ・ミショーのムーヴマン」で、こちらも35分。35分というのは集中力を維持出来るちょうどいい時間だな、などと思う。
 第一部が終わって、ホールから出て物販コーナーへ行ってみた。DVDでも置いていないかと思ったのだけれども、それはなかった。あとで知ったのだけれども、「春の祭典」のDVDはさいしょ売っていたらしいのだけれども、昨日の初日の休憩時間にあっという間に全部売れてしまったらしい。何度も観返したい舞台だと思ったから、売れてしまうのも無理はないと思った。他に「bODY rEMIX」のTシャツなどが置いてあり、やはり「bODY rEMIX」は代表作のひとつなのだな、と思った。ちょっと欲しかったけれども。

 第二部も終わり、外に出ようとしたときに、かつてお目にかかったことがあるのではないかという方の姿が目に入った。「どなただったかな」と思いながら外に出たけど、そこでその方に声をかけられ、やはり過去にお会いしていた方だとわかった。ちょっとお話しして、名刺をいただいてお別れした。過去にどのようないきさつでお会いしたのか、どのような交流があったのか、やはり思い出せないのだけれども、声をかけていただいたのはありがたいことだと思った。

 外に出るとまだ五時前なのでずいぶんと明るく、ゆっくりと石川町駅の方へ歩いて帰ることにした。こちらの道はまるでわからないのだけれども、しばらく歩いていると中華街の中に入ってしまい、大ぜいの人が行き来している中に飲み込まれてしまった。さすがに日曜日。
 吹き付ける風がちょっと冷たく感じられ、やはりこの時期は日が暮れると気温も下がるし、まだ風邪が治りきっていないのに薄着しすぎたな、などと反省する。歩いていると自然に石川町駅への看板が目につき、そちらに歩くとすぐに駅に出た。時間があるので近くにあった日高屋にまた入って、からだをあたためようと久しぶりに熱燗などをたのんで軽く晩酌、ということをやってみた。千円かからないのだから安い晩酌である。

 石川町から横浜へ出て、そこからは乗り換えなしに地元のターミナル駅まで直行。湘南新宿ラインでも上野東京ラインでもどちらでも地元へ行けるのだけれども、今日乗ったのは上野東京ラインの方だった。

 帰宅してもまだ九時前で、明日もしごとは休みだし、ゆっくりとそこからオムライスとかをまたつくって、遅い晩ご飯にした。
 今日観た美術展と舞台と、どちらも刺激的で強い印象を受けるものだった。しばらくはそんなことにあれこれと思いを馳せ、いい気分でこの日を終えた。


 

[]「根源的暴力」鴻池朋子展 @横浜・神奈川県民ホールギャラリー 「根源的暴力」鴻池朋子展 @横浜・神奈川県民ホールギャラリーを含むブックマーク

 鴻池朋子さんの名前は、2009年の彼女の展覧会「インタートラヴェラー 神話と遊ぶ人」を観て記憶に焼き付き、こうやって記憶を失っても忘れてはいない。そしてこの「根源的暴力」展は、彼女の「インタートラヴェラー 神話と遊ぶ人」以来、6年ぶりの個展ということらしい。その6年のあいだに東北の震災と原発事故があり、日本はおおきく変わってしまった。鴻池朋子は震災をきっかけに自分の創作技術を全部リセットし、東北を旅して民俗学的なアプローチを行ない、ここで「インタートラヴェラー」のときとはまるで異なる作品世界をみせてくれた。

 「作品をつくるということは(自然に背く行為であり)『根源的暴力』です」と彼女自身が書くことばからのタイトルだけれども、実際に今回の作品の多くは大きな牛革をつなぎ合わせて描かれているし、大量の鳥の翼、動物の毛皮を使った作品もある。ショッキングというか。それはある面で「アーティストとして生きること」を根源から問い直すような試みなのだと思う。たしかにアーティストとしての「技術」をまず捨ててかかったような陶芸作品に驚くところはあったけれども、トータルに人の生き方をそのまま、丸ごと提示したような展覧会で、観終わると鴻池さんの意志というものはしっかりと伝わる。ラディカルな展覧会だと思う。平面、立体、インスタレーション、小屋の中で語りを聴かせるコーナーなど、展示も多彩である。彼女の前回からのモティーフである「目の大きな子どもの巨大な頭部」とか、いろんな虫や動物の描かれたドローイングとかをみると、やはり前回の「インタートラヴェラー」展から連続しているところもあると、ちょっと一息つくところもあったわけではある。おそらく展示のメインは、幅20メートルを超えるという、つなぎ合わせた牛革に描かれた巨大な作品。彼女らしい虫や動物、魚などが(人の)内臓などとともにコラージュされて描かれた作品。「鑑賞する」というより、ひとつの「問い」を突きつけられるような作品でもあった。

 わたしはもっと観られるべき展覧会だと思っているが、わたしが観に行ったのは会期二日目の日曜の午後だったというのに、あまりに、あまりに観客が少なかった。なんだか自分のことのように悲しくなってしまった。


 

[]カンパニー マリー・シュイナール「春の祭典|アンリ・ミショーのムーヴマン」 マリー・シュイナール:振付・芸術監督 @横浜・神奈川芸術劇場 カンパニー マリー・シュイナール「春の祭典|アンリ・ミショーのムーヴマン」 マリー・シュイナール:振付・芸術監督 @横浜・神奈川芸術劇場を含むブックマーク

 こちらも、鴻池朋子さんの展覧会のように6年ぶりになる来日。6年前の演目は「オルフェウス&エウリディケ」という作品だったようだけれども、その前の2006年の来日のときには今回の「春の祭典」もやっている。ただ、わたしの過去の日記を読むと、今回の公演とそのときの公演では若干の異同があるみたいである。

 *「春の祭典」

 ストラヴィンスキーの「春の祭典」は全曲で35分で、つまりはその全曲を使った公演。有名な曲だけにわかりやすいというか。まずは暗い舞台の中央に上方から丸くスポットを浴びた女性ダンサーのソロのパートがしばらく続く。このあたりの曲の構成に合わせた振付けが面白く、特に「春のきざし」の部分でのリズムの取り方、アクセントの入れ方は楽しかった。その後ステージ上にあるスポット地点に各ダンサーが入れ替わり立ち替わり、短いダンスを見せては去って行く。このあたりも原曲の構成にどのように絡んでいるのか興味深くもあり、たしかにDVDなどで何度も観返してみたくなるものではある。

 途中に例のチラシにも使われている黄色い突起をからだの周囲につけたダンサーのソロ、そして美しいデュオもあり、このあたりで西欧文化から離れた、アジアかアフリカの部族による「儀式」ということが感じられるようである。この突起物はそれぞれのダンサーが持ってあらわれる場面もあり、角のようにも見せるし、また、ペニスのように股間にあてがって見せるシーンもあり、より西欧文化圏からの距離を感じさせられると思った。

 ダンサーたちの動きははげしく、また通常考えられるムーヴマンから離れて「歪み」のようなものも強く感じさせられるのだけれども、このあたり、例えば日本の暗黒舞踏の原理に似たものを感じ、「これは舞踏を高速化したものなのではないのか」などという感想も生まれてしまう。

 やはり、もういちどじっくりと観たい舞台だと思う。

 *「アンリ・ミショーのムーヴマン」

 舞台後方のホリゾントに、ミショーによるインクのシミのようなドローイングが映し出され、その形状をダンサーが模倣してみせて行く。ワークショップの課題にでもなりそうな題目を力技で作品に昇華した印象で、シュイナールの振付家としての力量を堪能させられる作品。この舞台ではシュイナールお得意の小道具はいっさい使われていない。

 さいしょのうちはひとりずつのダンサーが演じて行くのだけれども、ドローイングが複雑になるに連れて複数のダンサーが組になって演じて行くことになる。時にその動きはユーモラスで笑いを誘う。
 スクリーンに何も映されない時間があり、このときに女性ダンサーが身を隠すように舞台のリノリウムをめくってその下にもぐり、そこで大声をあげはじめる。これはどうやらミショーのテキストで、入場時にその和訳が配布されていたものにちがいない。あとで読むとこの舞台の内容に深く関わっているようなテキストなのだが、そのときにはまるでわかるものではない。
 ミショーのテキストはもういちど、最後にストロボの点滅する中でダンサーがソロ・ダンスをみせるシーンでもナレーションとして読み上げられていて、ここでも、そのダンスを観ながらテキストの内容を同時に把握出来ないことにくやしい思いをする。「字幕でも付ければ」とも思ったけれども、そうすると舞台のダンスから目が離れてしまうだろう。ここでもテキストの内容は舞台と深く関わっていて、ネイティヴにフランス語を解する人がうらやましくなった。長いのだけれどもその和訳をここに書き写しておきたい。

私がつくり出したこれらの記号(シーニュ)が何であるのか、
自分ではあまりわからない。
その数が増すほど、
私の存在もさらに増した。
もっと数多く欲しくなった。
つくり出しながら、私はまったく別の存在になっていた。
自分の体を占領していった‥‥‥。頭からちょっと離れたところにしばしば私の体はあるのだ。
自分の体を現在に集中させ、
刺激質の、一触即発の状態に保っていた。
私と一心同体になった、早駆けする馬の状態に置いていた。
私は運動(ムーヴマン)に取り憑かれ、
相当な速度で、リズムを伴って私のもとに現れるこれらのかたち(フォルム)のために、完全に張りつめていた。

私の記号の後を追って
私の例にならって、自分の存在のありようと必要に応じて、自らも同じことをしようと思うものは、
といって私はひどく間違っているのかもしれないのだが、
祭り騒ぎへと、
活動のまだ知られざる中断へと、
清浄へと、
開かれた新たな生へと、
安らぎをもたらす、思いもかけないエクリチュールへと、そこでは人が言葉、
言葉、
他者の言葉から離れて、
自らを表現できるような、そんな場へと
向かうことになろう。

アンリ・ミショー 1951 (藤井慎太郎:訳)


 

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■ 2015-10-24(Sat)

 興味ぶかい夢をみていて夜中に目覚め、「面白い夢だった」と思ったのだが、もう一度寝て、朝になったら夢をみたということしか憶えていなかった。いつものことである。

 今日は晴天で気温も高いようだ。今日しごとに出ると明日からは四連休になっているのでうれしい。とりあえず予定は明日横浜にマリー・シュイナールを観に行くのと、水曜日に市民病院へ行くことだけ。あとは月曜日にちょっと観に行きたい美術展があるし、映画もなにか観てみたい。たしかどこかでミヒャエル・ハネケの「ファニー・ゲーム」をやっているはずなので、観に行くのだったらこれがいいかな。

 昼に、一昨日注文して代金を支払った集英社の世界文学、ドイツの巻がもう到着した。ずいぶんと早いのでちょっとびっくり。まるで聖書のような薄い紙を使っていて、そこまでに分厚い本ではないけれども1200ページもある。読むのに一生かかりそうだ。ペラペラとめくってみて、さいしょにカフカの短編がずらっと網羅されているのだけれども、その訳文がちょっと気に入ってしまった。城山良彦という人の訳で、この人にはカフカに関する著作もあるようだ。もういちどカフカも読み直してみたい。この巻は「ドイツ」の巻のはずなんだけれども、ポーランドやチェコの作家が収録されているのはまだわかるとしても、モラヴィアやパヴェーゼも収録されているのがおもしろいところ。さて、いつ読み始められるだろうか。

 昼食はかんたんに麻婆豆腐をつくって、これは二食分あるので夕食のおかずにもするつもり。
 食事のあとに図書館へ出かけ、観てしまった「贖罪」の後篇を返却し、まだ読み終えないで一昨日返却した「ボヴァリー夫人」と「天皇と接吻」をまた借りた。DVDでポランスキーの「おとなのけんか」も借りた。

 外はけっこう気温が高く、帰宅しても午後の日射しの差し込む部屋は暑いぐらいで、半袖のTシャツに着替えてちょうどいい感じだった。こんなことをやって風邪をこじらせなければいいのだが、まだ咳はとまらない。もう二週間以上つづいているわけで、やはり来週には耳鼻咽喉科へ行ってみた方がいいだろうと思う。
 突然に石橋義正という映像作家のことを思い出し、彼がつくっていたテレビ番組「バミリオン・プレジャー・ナイト」がYouTube で今でも観ることができるのがわかり、その中の「フーコン・ファミリー」に夢中になってしまった。夕方からは録画した映画「ビートルジュース」を観て、そのあとに昨日録画した「パットン大戦車軍団」をちょっと観始めたのだけれども、途中から食事とかしてしまうとつづきを観るのもめんどうになり(おもしろくなかったわけではないが)、そのままパソコンをあれこれいじってから寝てしまった。


 

[]「ビートルジュース」(1988) ティム・バートン:監督 「ビートルジュース」(1988)   ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 そうか、あの「バナナ・ボート」のあて振りのある映画はこの「ビートルジュース」だったのか。やっぱりこのシーン、あまりに面白いので巻き戻して笑いながら二度見してしまった。

 ティム・バートンとしてはごく初期の作品で、まだ時代的にもSFXなどに古さを感じてしまうところはあるが、繰り出される小ネタというか、妙なキャラクターの乱出は楽しい。ティム・バートンお得意のジオラマも登場してきて、ストーリー展開の大事なポイントになってる。それでストーリー的には飛躍もはなはだしいというか、回収されないまま進行していくことが多いのだけれども、観終わってみると、その飛躍、破綻こそがこの作品の魅力なのではないかと思うようになった。何もかも合理的に解決のつくハリウッド的なストーリーテリングからの距離の魅力。ある意味で、その未完成さみたいなところがおもしろくもある。

 ウィノナ・ライダーは夫婦のあいだの子ではなく、いつも喪服を着て死人のようなメイクをしている。その家族が引っ越した先に死者であるアレック・ボールドウィンとジーナ・デイヴィスが住んでいるわけで、ウィノナ・ライダーはその死者の夫婦の方に親和性を感じている。それで突然にラストではそんな死者夫婦とウィノナ・ライダー家族とが仲良く共存している絵になる。なんだかこの作品、いわゆる「家族」というものを虚構としているようで、そんな構成にアレック・ボールドウィンとジーナ・デイヴィスが死者であるということがさらに虚構性を支えているみたいにみえる。
 実は観ていて、先に観ていた「フーコン・ファミリー」のことを思い出していて、どこか似ているような気がしてしまった。「フーコン・ファミリー」はつまりマネキンが生きているように「絵に描いたような」家族を構成しているわけで、そういうところがこの「ビートルジュース」のラストの、奇妙な、それでも調和した家族を思い出させられるのかもしれない。たしかに、アレック・ボールドウィンとジーナ・デイヴィスとは、「フーコン・ファミリー」のパパとママみたいなところがないだろうか。


 

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■ 2015-10-23(Fri)

 昨日今日と曇天で、気温もそんなに上がっていないんじゃないかと思う。もう十一月も近いわけだし、あっという間に冬になってしまうんだろうな。
 そういう天候のせいかも知れないけれども、今日はまた鼻水が出て風邪っぽい。咳も相変わらずつづいていて、もうずいぶん長いことになるだろう。これから先もあんまり咳がつづくようだと、耳鼻咽喉科の病院へ行った方がいいのかもしれない。

 図書館の返却日になったので借りていた本もいちど全部返すことにして、ついでにスーパーに買い物に行こうと、そのついでにたまってしまったペットボトルをリサイクルボックスに突っ込んでこようと、本とDVDと空のペットボトルを持って出かけた。まずはスーパーの脇のペットボトルのリサイクルボックスのところに行くとなんだかそのリサイクルボックスが不調のようで、先に人が修理を待っていた。先にスーパーに買い物に入り、半額になっていたステーキ肉と鶏肉、鶏レバーとを買った。今夜はステーキにしよう。
 外に出ると、リサイクルボックスに「故障中」の貼り紙がしてあった。まさか持って帰るのもめんどうなので、近くのゴミ箱の「ペットボトル」投入口に捨てて来た。あそこに捨てれば同時にリサイクルになることだろう。リサイクルボックスを使えばポイントがたまることになっているけれども、千個リサイクルに出してやっと百円なのだから、そのリサイクルボックスを使う労力と割りに合うものでもないだろう。結果としてリサイクルされればいいのである。

 次に図書館に行き、まずは返却してからDVDの「贖罪」の後篇を借りた。これを今日中に観てから明日返却し、ついでにまだ読み終えていなかったのに今日返却した本をもういちど借りてこようという、めんどうくさい試みである。

 帰宅してDVDを観終えて、録画してある映画を観始めたら、途中で録画予約の時間になってしまって中断。つづきは明日以降になる。

 夕食は買ってきたステーキ肉でステーキ。オリーブ油をいっぱい使って、うまい具合の「レア」に焼き上げたけれども、考えてみたらステーキソースの準備をしていなかった。「そのまんま食べてもきっとおいしいものだろう」と食べ、それなりに食べられたけれどもやはりステーキソースは欲しかった。ステーキ肉はもう一枚残っているので、次にステーキやるときにはステーキソースもちゃんと準備しよう。しかし今日は肉をたくさん食べたので気分がいい。「動物愛護」などといっているくせに、悪いヤツである。


 

[]「贖罪 最終話 償い」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督 「贖罪 最終話 償い」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 最後は小泉今日子が主人公で、つまりは「事件」はいちおう解決する。DVDの前篇のパッケージの「出演者」欄に、「この人、出演してなかったじゃない!」という俳優の名まえが書かれていたので、彼の演じる人物が「犯人」であることはわかっていた。まあ、わかっていたから「ネタバレ」とかいうものではないのだけれども。

 はっきりいって、事件の真相は普通に「大人たち」のおはなしで、その動機などに異様なこともないわけで、これまでの「少女の成長」と事件とがからんだ「歪み」というものはない。それは「偶然」としてもありえないだろう、というような展開もあって、「謎解き」としての興味はあまり満足させられるものではなかった、というのが正直なところ。

 しかし演出面ではやはりさすがに黒沢清の演出で、いろいろと堪能させられた。
 ここでもまた、外の風景が異様に走るドライヴ中の車内からの映像があり、なんだか黒沢清の映画で登場人物が車に乗ると、もう異次元に連れて行かれる思いになる。今回は小泉今日子の部屋などでの異様に彩度を抑えた映像が目を惹き、それがほとんどモノクロの映像のようなんだけれども、たいていはそのモノクロっぽい画面の中に、どこか一ヶ所、鮮やかな色彩のものが写り込んでいるのが興味深い。なぜか工事中で工事現場のような警察署内の光景も不思議だ。そしてそういうモノクロっぽい画面との対比のような、林の中の新緑の濃い光景。ラストの霧の中に迷う小泉今日子。

 特典にメイキング映像がついているのがうれしく、「なるほど、そうやって撮影しているのか」と、興味深く観たが、例の「走る車」の撮影シーンの映像もあった。出演者らへのインタビューも収録されていて、黒沢監督の俳優への演技指導について知るところもあった。

 どの作品がすごい、と比べてみてもしょうがなく、それぞれにすばらしい作品だったし、トータルに「償い」について問いかける作品としての面白さもあった。


 

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■ 2015-10-22(Thu)

 「回路」に北村明子さんが出演されていたことを思い出し、どこのシーンだったかもういちど探してみようと思ったのだけれども、録画したものは消してしまっていたし、YouTube にアップされているのをみつけて探したけれど、見つからなかった。どんなシーンだったかは憶えているのだけれども、それがどこだったのか、もういちど観ないとわからないだろう。

 先日のカントル体験から来ることだろうけれども、突然にポーランドの小説などに興味を持ってしまい、ゴンブローヴィッチやブルーノ・シュルツなんかを読みたくなってしまった。Amazon でみてみると、集英社の世界文学シリーズのドイツの巻にどちらも収録されているのがわかったし、その巻には他にカフカやムジール、モラヴィアやパヴェーゼも収録されていて、中古で800円と格安なので買ってしまうことにした。ブルーノ・シュルツはその本には「肉桂色の店」しか収録されていないのだけれども、図書館に「全集」が置いてあるので、そのほかの作品を読みたいときにはそっちを読めばいいだろう。

 「善は急げ」という感じでさっそく注文して、支払い番号も送られて来たので、タバコを買いに行く(すっかり「禁煙」のことは忘れてしまっている)ついでに、踏切の向こうのコンビニへ払いに行った。
 店のドアをくぐって中に入ると、わたしの顔を見た(若くてかわいい)店員さんが何も聞かずにスッとタバコの棚のところへ行き、いつもわたしが買う銘柄のタバコを取って来てくれたので、ちょっとニコッとしてしまった。まああまり買う人の多くない銘柄だから、それをいつも買うわたしのことを記憶していたのか、わたしがイイ男だからか。こういうところから妄想が始まるわけだろうと思うのだった。
 Amazon の注文の支払いもしようとしたのだけれども、どうやらわたしが支払い番号を書き写し損ねているようで、入力出来なかった。「もういちど調べて来ます」と帰って来たけれど、マイナスポイントである。帰宅して調べたら、やはり書き写し間違いがあった。

 夕飯だけれども、先日炊いたご飯がなんだかイヤな匂いがするようで、きっと炊飯器の釜を洗ってさいごにスポンジで拭いたとき、そのスポンジにしみていた汚水がそのまま釜に残ってしまったのではないかと思う。とにかくその匂いのせいでおいしくはないので、今日はオムライスをつくってみた。炒めてしまえば匂いも消えるだろうと思ったのだが、うまく消えてくれた。思ったよりかんたんに出来るので、これからときどきオムライスとかチキンライスとかにするといいだろう。まだご飯はあと一食分残っているので、明日はチキンライスにしようかと思う。


 

[]「荒野の用心棒」(1964) エンニオ・モリコーネ:音楽 セルジオ・レオーネ:監督 「荒野の用心棒」(1964)   エンニオ・モリコーネ:音楽 セルジオ・レオーネ:監督を含むブックマーク

 けっこう大昔に観た記憶というのは残っているもので、さいしょに酒場のオヤジの顔をみただけで、「このオヤジは終盤に捕まってボコボコにされるはず」とか思い出してしまうのだ。イーストウッドがポンチョの下に鉄板を隠して防弾チョッキにするというのも憶えてた。ところが、つい二ヶ月ほど前に観た肝心の「用心棒」のことが、あまりに忘れていることが多すぎる。ある意味で「ほとんど憶えていない」というありさまで、やはり今のわたしの記憶力というのは相当にヤバいことになっているのを再認識。

 しかし、いくら忘れているといっても、黒澤明監督の演出の基調ぐらいは記憶にあるわけで、このセルジオ・レオーネの演出を比べてみると、やはりセルジオ・レオーネはねちっこいというか、こちらがカラーだということを差し引いて考えてみても残虐味は強いだろう。しかしそのこともまたこのリメイク作(といっていいだろう)の強みというか、乱暴な演出を越えてこの映画の魅力をつくる大きな要素になっている気もする。

 けっこう長廻しっぽいワンシーンワンカットも多いし、映像的な工夫は多く、イーストウッドがさいしょに四人(だったか?)のならず者を撃つシーンの、イーストウッドの腰と彼が構える銃ごしにして、対面で倒れるならず者を撮るショットなど、たしかにカッコいいのである。


 

[]「マダムと泥棒」(1955) アレクサンダー・マッケンドリック:監督 「マダムと泥棒」(1955)   アレクサンダー・マッケンドリック:監督を含むブックマーク

 これはまったく知らない映画だったけれども、ちょっと興味を持って録画してあったもの。コーエン兄弟が撮った「レディ・キラーズ」という作品はこの映画のリメイクらしい(この映画の原題も「The Ladykillers」)。

 ちょっとボケてるんじゃないの?と思ってしまう人のいいおばあちゃんが自宅を間貸しするんだけど、そこにすぐそばの駅から現金強奪をたくらむ五人組が「音楽の練習場所」という名目で部屋を借りる。現金強奪はうまく行くんだけれども、けっきょく強奪はおばあちゃんの知るところとなり、五人組はなんとかおばあちゃんをいいくるめようとするわけだ。

 このおばあちゃん役の人、まったく演技なんかしてなくって「地」でやってるんじゃないかと思わせるところがあってすっごくいい。それがブイブイ演技をかます五人とかみ合うようなかみ合ないような、という経過がほんとうに楽しくなる作品だった。
 五人組を演じているのは首領格のアレック・ギネス、そしてピーター・セラーズにハーバート・ロムとかのわたしの知っている名前もあるのだけれども、アレック・ギネスもピーター・セラーズもこのときは若すぎて、自分の記憶の彼らの容貌とほとんど一致しない。アレック・ギネスなんか、「これがアレック・ギネス」といわれてもわからないな。ただ、ハーバート・ロムだけは「この顔は‥‥」と思いあたった唯一の人。

 演出は前半はどこかタルくって、ちょっと観ていてさほどに面白みも感じられないのだけれども、やはり脚本が面白いんだろう。うまく細工すれば、舞台劇としてものすごく面白いものがつくれそうだと思った。


 

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■ 2015-10-21(Wed)

 結局やはり、昨日の午後二時ぐらいからときどきは目覚めながらも、今朝の七時まで寝てしまった。やはり十五、六時間ぐらい寝てしまったようだ。しばらく以前にもこのくらい寝てしまったことがあり、そのとき翌日はほんとうに気分さわやかだったものだけれども、今日はそれほどさわやかな気分というわけでもない。どうも咳がなかなかに抜けず、今でも特に横になっているとはげしく咳き込んでしまうというのも、「さわやか」な気分から遠ざかっている原因だろう。

 昨日「禁煙しよう」と思ったわけだったが、のどの具合が悪いのだからほんとうに禁煙するべきなのに、やはりくじけてしまって昼ごろにコンビニでタバコを買ってしまった。
 「禁煙」とはちがって「節酒」の方はうまく行っていて、まるでアルコールを摂取しないで過ごす日もよくある。先月、近所のドラッグストアで日本酒(「月桂冠」)の一升瓶を半額で売っていたのを買ったのだが、それがまだ残っている。ひとつにはあんまり美味ではないということもあるわけだけど、今日は同じドラッグストアで「南州翁」という純米酒がやはり半額で置いてあり、ちょっとおいしそうだったし安いわけだから買って帰った。封を切って少し飲んでみたら、前の日本酒など問題にならないおいしさだった。ときどき、ちびちびとなめてみようと思うし、ドラッグストアにもう一瓶置いてあったのも買ってしまってもいいと思っている。
 タバコも、こうやって酒をたしなむように量を減らして「節煙」するようにすればいいのだけれども、これがなかなかにできないのはどうしたことだろう。

 昨日は本を読もうとしてそのまま寝てしまったわけで、やはり図書館から借りている本は読み終えることが出来なくなりそうだ。いつもより長く三週間も貸出期間があったのに、情けないことだと思う。寝転がって本を読むという習慣が良くないのだろう。ちゃんと机に向かってすわって、本を拡げて読むようにしないといけない。わかっているのだけれども、パソコンに向かうように本に向かえないというのはどういうことだろう。どこかで「本を読む」ということへの意識を変えなくてはいけないと思う。

 同じく図書館から借りているDVD、「贖罪」の第2巻を午後から観た。そのあとは「回路」を観て、今日は黒沢清デーになってしまった。


 

[]「贖罪 第3話 くまの兄妹」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督 「贖罪 第3話 くまの兄妹」(2012)   湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 この回は安藤サクラ主演。その兄役に加瀬亮。安藤サクラは事件の日に小泉今日子の家に知らせに行く役だった子で、取り乱した小泉今日子に突き飛ばされて転び、鼻血で服を汚してしまう。その服はプレゼントされたもので、母から「そんなきらびやかな服はあんたに似合わない」といわれていた服。母は常に「あんたは表に出るような子ではない」といい続けているわけで、安藤サクラも自分のことを「くま」なのだと思うようになる。

 東京に出ていた兄がとつぜんに結婚し、新妻とその連れ子(事件の時の安藤サクラらぐらいの年齢)を連れてもどってきて、廃倉庫のようなところを自宅兼仕事場にしてネットショッピングの仕事を始める。安藤サクラもそこに同居するようになるが、兄の振舞いを見ているうち、兄の結婚の目的は連れ子の方にあるのではないかと思い始める。
 ついには安藤サクラは兄を絞殺し、留置所から小泉今日子への面会を求め、「少女を守ったことでつぐないを果たした」という。しかし小泉今日子はそれは贖罪ではなく、家族や兄へのコンプレックスから逃れただけではないかという。安藤サクラは自分は「くま」なのだし、死刑になるべきだといい、小泉今日子に「死刑嘆願書」に署名してくれという。

 肩までかかる長髪と、グレーのジャージ姿の安藤サクラの、その円錐形とでもいうようなシルエットが目に焼き付き、まさにタイトルの「くま」を思い起こさせられる。「うちは貧しいから」と自虐的に語る安藤サクラの母だけれども、家はこぎれいで貧しさは感じられない。しかし、これは焦点距離の短いレンズでの撮影なのか、その手持ちカメラでの室内撮影は広さを感じさせない。一方、兄の加瀬亮の仕事場である廃工場のようなスペースはまさに黒沢清のお得意の「場」であって、その中での加瀬亮の所作などの不気味さも合わせて、独壇場ともいえるような演出をみせてくれる。


 

[]「贖罪 第4話 とつきとおか」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督 「贖罪 第4話 とつきとおか」(2012)   湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 主人公は池脇千鶴。彼女は事件のときに交番へ駆け込んで警官に知らせる役だったけれども、それ以降警察官にあこがれるようになってしまう。小泉今日子に「贖罪を」と責められたあとも、「そんなこと関係ない。みんな勝手に生きればいい」といっている。

 十五年後に彼女は自ら経営するフラワーショップを開店する。彼女の姉(伊藤歩)が警察官と結婚したことで池脇千鶴は姉の夫と関係を持ち、その子種を宿すことになる。警察官へのあこがれと、幼い頃から病弱だった姉に自分の夢を奪われたことへの復讐でもある。とにかく彼女は小泉今日子の呪縛からは自由に生きたようではあるし、この連作の他の挿話のようにラストに「犯罪」が起きるのだけれども、この回ではその犯罪は露見しないだろう。

 この挿話では姉役で出演した伊藤歩が印象的で、池脇千鶴との演技対決という感じではあった。


 

[]「回路」(2000) 黒沢清:脚本・監督 「回路」(2000)   黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 大規模な世界滅亡という展開と、古典的なゴーストストーリーとをどのように接合するかという課題があったのだろうけれども、ゴーストをインターネット空間から溢れ出る存在としたことで、非常に新しい形のホラー映画を産み出しただろう。ゾンビ映画の展開に似てもいるけれども、溢れてくるゾンビという存在は見えなくて、ただ世界が荒廃して行くだけ。「見えない世界」から溢れ出す死者(ゾンビ)たちによって、「(人が)見えなくなる(つまり実はゾンビ化している)」という恐怖こそが、この映画だろうか。「赤いテープで閉鎖された<開かずの間>」へ入ることで感染する、というのも「ゾンビ映画」的なルールだろうか。
 しかしたしかに、ゾンビの集団から決定的に逃れるには、船での航海というのは有効だろう。

 全体の構成は先日観たテレビ版の「花子さん」と同じようなところもあり、あのラストで夜の街に出てしまった「花子さん」のその後の物語、みたいでもある。「恐怖」というのは外側からやって来るのではなく、自分の内側から崩壊する恐怖なのだ、というようなことでもあるんだろうか。
 黒沢監督作品にはめずらしくもCG合成の画面で大々的に世界の崩壊のカタストロフを描いているのだけれども、日本映画としては例外的に(などと書くと「そんなに観ていないくせに」といわれそうだけれども)成功している絵造りだと思う。

 そう、ゴーストの動きがどこか「舞踏」というか「ダンス」っぽくみえるところがあったのだが、ラストの出演者のクレジットをみていると「北村明子」の名前があったので、やはりわたしがそう思った部分のゴーストが北村さんだったのだろう。こういうことは記憶を失うまえにはきちんと認識していたことのはずなのに。


 

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■ 2015-10-20(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 買い置きのタバコのストックがなくなってしまった。今は東京に出たときにカートン買いする習慣ではあり、買い置きもなくなってきていたので、ほんとうは一昨日池袋に出た際にいっしょに買ってこようと思っていたのだけれども、BさんCさんにお会いして飲んで帰ったりしたもので、タバコは買わずに帰ってきたもの。
 もともと、カートン買いするようになってからいかにタバコ代が高くつくものか実感するようになったことだし、先月の健康保険料の支払いも忘れていたこともあるし、いろんな公演のチケットを買いまくったあとだし、経済的には楽ではないこともあり、いっそ禁煙してしまおうかという気もちではある。「禁煙」ということは実行した方がいいことはわかり切ったことではあるし、先も書いたようにカートン買いするようになってその弊害はさらに意識するようになった。それでは禁煙してみようと、今日は午前中にみんな喫ってしまったあと、タバコなしに過ごした。意気地がないので「最後の一本」のつもりで一本だけ喫わずにパッケージに残してあるけれど、今の気もちではもう禁煙してしまおうというつもりではある。タバコなしで過ごせるよう、スーパーで飴を買って来たりしたが、果たして禁煙出来るだろうか。

 明日はしごとも休みなのでちょっとリラックスした気分もあり、二時ごろからベッドで本を読んだりしていて、そのまま眠ってしまうのだった。夜になって目覚めて夕食をかんたんにセットして食べて、そのあともまた寝てしまった。二時間置きぐらいに目覚めるのだけれども、「いいや」とそのまままた寝てしまう。前にも一日に十六時間ぐらい寝た日があったけれども、今日もそういう一日になりそうだ。


 

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■ 2015-10-19(Mon)

 昨日出かける前に、テレビで「ニキ・ド・サンファル展」の紹介をやっていたのを観たことを書くのを忘れていた。カントルにしてもそうだけれども、こういう「攻撃型」のアーティストというか、アートというものを「武器」として捉えていたような作家の活動に惹かれる。たしかに過去において、アートが武器たり得る時代があったのだと思うし、アートには潜在的にそういう力があるはずである。で、果たして今はどうなのか? 政治が反動的になればなるほど、武器としてのアートの力はあらわになるのではないだろうか? ニキの作品はおおらかにみえても、それでも力強く<敵>に狙いを定めていた。「ニキ・ド・サンファル展」、十二月半ばまでなのか。ぼやっとしていたら会期終了してしまう。やはり観に行きたい展覧会だ。

 和室の蛍光灯が点滅するようになり、先日はトイレの電球も切れてしまった。今日は買いに行かなければと、午後から西の方にある家電量販店へ行ってみた。この店のあたりまで足を運ぶのはほんとうに久しぶりのことで、もう四年ぐらいは来てないんじゃないだろうか。その家電量販店の向かいに中古電気製品の店があり、過去にはけっこう愛用していたものだった。いちばんの買い物はリヴィングにある液晶モニターで、これは安くていい買い物だった。今日もついでに店を覗いてみて、どんなものがどんな値段で置いてあるのかチェックしてみたいと。

 その家電量販店へは歩いて二十分ほどだろうか。このあたりではめずらしく大きな建物の店舗をみつけ、その向かいにあるはずの中古電気製品店を目で探したけれど、みつからない。その店があったはずの場所は、ドラッグストアになってしまっていた。ちょっと残念。これでこの町でわたしが楽しみにしていた店、東にあった古着の店、そしてこの中古電気製品店と、どっちもなくなってしまったわけだ。仕方がない。

 家電量販店で予定通りに蛍光灯とLED球とを買ったけれど、やはりうちのあたりで買うよりは安く買うことが出来たのでOK。ついでに店の中をちょっと見て歩き、欲しいものがどのくらいの値段なのかチェックする。欲しいものといえば今は炊飯器かな。これは五千円ぐらいで買えるようだ。デジタルカメラもみてみたけれど、これは安いものでも一万円ぐらいになるわけだ。

 帰宅して夕食はプレーンオムレツとソーセージとかいうかなり手抜きの簡素な食事にして、録画してあった「ジャッカルの日」を観た。


 

[]「ジャッカルの日」(1973) フレデリック・フォーサイス:原作 フレッド・ジンネマン:監督 「ジャッカルの日」(1973)   フレデリック・フォーサイス:原作 フレッド・ジンネマン:監督を含むブックマーク

 1960年代、フランスのド・ゴール大統領を狙う雇われ狙撃者と、彼を追う警察の動きとをクールなドキュメンタリータッチで描いた作品。冒頭からド・ゴールがなぜ狙われるのかという歴史的背景、先行する現実の暗殺未遂事件などが描かれて、この作品にリアリティを加えている。こういうところから、観ている方としてはこの作品が実話から脚色されたもの、という視点を知らず知らずにとってしまうようなところがある。

 実在した右翼組織のOASが起死回生の手段としてイギリスから一匹狼の狙撃者(優れたスパイでもあるだろう)、コードネーム「ジャッカル」という男を呼び寄せ、映画はその男の計画遂行の一部始終を追うことになる。彼のち密な計画、旅券や住民証の偽造、狙撃用の組み立て式ライフルの発注など、リアルなスパイ映画を観る面白さがあるし、フランス警察がOASの動きから彼らの計画を知り、担当に老練なルベル警視をあてて彼に全権を与えるあたりの、ジャッカルの行動との対比もスリリングである。

 冒頭から始終時計が画面にアップになり、この暗殺計画が「時」との戦いであることも示されるのだけれども、このあたりは正直な感想としては「そこまでに時計の針との勝負、という展開になるのは中盤のごく一部の展開ではないのか」という感想もある。
 しかし、クライマックスのパリ解放記念式典当日のドキュメンタリー的な演出はやはり見ごたえがあり、ラストまでぐいぐい惹き付けられてしまう。

 ジャッカルは自分が捜査の対象になることを常に想定し、ホテルの宿泊者リストに掲載されないために「男爵夫人」を誘惑したり、サウナへ行ってゲイの男のアパートに泊めてもらったりもする。ここで男爵夫人を演じているのがデルフィーヌ・セイリグで、その立ち居振る舞いだけで、さすがに「男爵夫人」と思わせる演技が優雅だし、やはり美しい(ジャッカルに殺されてしまうのは残念で、この罪のためだけでもジャッカルは「死刑」!)。

 中盤からの視点の絞り込み方が明解で、あくまでジャッカルの視点とルベル警視との視点から、必要最小限の説明で進行していくのが、この作品の演出の見どころだっただろうか。娯楽作品としてとても楽しめる作品でもあった。


 

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■ 2015-10-18(Sun)

 今日は、タデウシュ・カントルの舞台の記録映像を観に池袋へ行く。今年はカントルの生誕百年にあたるそうで、その記念イヴェント。わたしも偶然に夏ぐらいに「そういえばカントルっていたよね」なんて思い出してYouTube でカントル関係の画像を検索したりしていたのだった。
 今日の上映会の開映は十三時半なので、昨日とまるで同じ電車を使って東京へ。開映時間よりはだいぶ早く到着するだろうけれども、同じ会場でカントルのドローイングや写真などが展示されているそうなので、先にそちらを観ることができるといい。

 昨日と同じく十二時ちょっと過ぎに池袋到着。今日はもう日高屋で昼食にするのはやめて、ちょうどいつもより五十円値引きしている松屋で牛丼を食べることにする。駅を出て「松屋はどこにあるだろう」とあたりを見回すとすぐに見つかるのが松屋のいいところ。直行して牛丼の並を注文した。‥‥まずい。おかしい。以前はよく松屋で牛丼を食べてそれなりに気に入っていたはずなのに、この牛丼はちっともおいしくない。今はチルド牛肉を使った「プレミアム牛丼」として以前よりグレードアップしているはずなのに、肉はさほどおいしくないし、ついてくる「黒胡麻焙煎七味」というのも売りだったはずだけど、これが香りがとんでしまっているようでまるで七味になっていない。わたしが入った店だけの問題なのかもしれないけれども、がっかりしてしまった。先日渋谷で食べた「すき屋」の牛丼の方が、ずっとずっとおいしかったと思うけど。

 会場の東京芸術劇場へ行くと、開場は三十分前の十三時からということで、十分ぐらい早かった。ロビーにすわって開場を待ち、開場と同時にホールに入る。普段だったら舞台裏になる外のスペースにカントルのドローイングなど展示されているので、それを観ようと出てみると、ちょうど知人のBさんが入場されてくるところだったのであいさつをする。お会いするのはほとんど一年ぶりになるだろうか(日記を検索すると、まさに去年の十月以来だった)。Cさんとごいっしょで、あいさつをされたけれど、そのときはCさんとお会いしていたことを思い出せなくて、初対面かと思ってしまった。あとになってお話しする機会もあって、前にもお会いしたことがあるのをおぼろげながらに思い出せた。

 日曜の昼ということもあってか座席はほぼ満員になり、やはりこういう古典的な名作への需要というか、「観たい」という人は多いのだなと思う。
 わたしは今日上映された作品を含め、それ以外のカントルの舞台映像もYouTube でも観られるものと思っていて、「死の教室」だけは字幕付きで観ておきたかったというのがあったのだけれども、さてその希望はかなえられたのかどうか。

 終映後はBさんとCさんといっしょに、劇場の近くの飲み屋で飲むことになった。わたしは池袋の飲み屋というのは知らないし、知っていたとしても記憶から抜け落ちているのだけれども、劇場からも駅からも近い庶民的な店というので、今日行った店はちょっと気に入ってしまった。安いし。
 それでまず、「いったいなぜ、今回のイヴェントのタイトルにポーランド語での発音に近い<カントル>という表記を取らず、<カントール>という表記を選んだのか」というのがわたしにはちょっと解せなかったのだけれども、いろいろな事情に詳しいBさんの話で「そういうことだったのか」と了解した。奇妙な話だった。

 わたしたちの囲んだテーブルのとなりのテーブルに三人のグループがすわっていたのだけれども、その中の男性の着ているTシャツの袖に「I♡尖閣」と書かれていて、どうやら右翼らしかった。「右翼」というほどに筋金入りでなくても、シンパではあるのだろう。「ネトウヨ」とか。わたしたちはSEALDs のデモの話などしていたけれど、彼らはどう感じてたんだろう。
 それでそのグループが帰ったあと、こんどは反対側のテーブルを占めた四人組が、「遼東半島」だとか中国の過去の歴史なんかを語り始め、これまた右翼っぽい展開である。よく理由もわからずに、こういうのはやはり「池袋」という土地ならではのことではないかと思ったりした。

 飲み始めたのが午後四時ぐらいと早かったので、三時間飲んでもまだ七時。このくらいの展開がわたしにとっては理想的でもあり、BさんCさんとお別れして帰路に着いた。一杯飲んで帰宅してもまだ十時前で、ゆっくりすることが出来た。BさんCさんとの会話も楽しく、考えてみたら人といっしょに飲むというのもずいぶんと久しぶりのことだった。やはり人といろいろと語りながら飲むのは楽しいということを再確認した。


 

[]カントールと演劇の二十世紀 作品上映+展示「死の教室」タデウシュ・カントル:作・演出 @池袋・東京芸術劇場 シアターイースト カントールと演劇の二十世紀 作品上映+展示「死の教室」タデウシュ・カントル:作・演出 @池袋・東京芸術劇場 シアターイーストを含むブックマーク

 「死の教室」の初演は1975年だと思うけれど、それから何度も再演され続けた舞台の記録映像を編集してみせるもの。わたしはとにかく、この「死の教室」のオープニングから終幕までを時系列に添って見せてくれればそれでよかったのだけれども、この日上映された映像、あるていど時系列には添っているようでも、終幕部分ははっきりしないし、同じ場面のリピートもかなりあって、これがじっさいにひとつの公演の中でそのようなリピートがあるのか、編集によってリピートされているのか、まるでわからない。つまり、「死の教室」という舞台の雰囲気はわかるのだけれども、「共体験」というものからは程遠い気がしてしまう。

 途中に演劇評論家の鴻良英氏によってカントルの演出ノートらしきものが読み上げられる場面も挿入され、よけいにこの記録映像とは何なのか、わからなくなってしまう。
 観て取れたところからいえば、今までイメージしていた「死の教室」という舞台のイメージから乖離するものではないが、「そういう場面もあったのか」というシーンが多かったのも確かなこと。今日の映像のように、複数の記録映像を編集して並列させて見せるのも面白い試みだとは思うけれども、いってみればそれは「死の教室」全体の流れをよく知った上級者が楽しむもの、というか、とにかくは「ひとつの舞台作品」としての「死の教室」を、まずは全体として体験したかったというのが「入門者」としての本音ではある。このあたり、YouTube でそのような映像を探してみたいと思う。


 

[]カントールと演劇の二十世紀 作品上映+展示「愛と死の機械」タデウシュ・カントル:作・演出 @池袋・東京芸術劇場 シアターイースト カントールと演劇の二十世紀 作品上映+展示「愛と死の機械」タデウシュ・カントル:作・演出 @池袋・東京芸術劇場 シアターイーストを含むブックマーク

 こちらには先ほどの「死の教室」のような問題はなく、ひとつの公演の記録をじっくりと観ることができるのだけれども、残念ながら一公演全体を記録したものではなく、断片としての舞台イメージを記録したもの、という感覚ではあった。ただ、まるで初めて観る作品だったせいもあるのか、「死の教室」よりも興味深く、集中して観ることはできた。

 ここにもやはり「死の教室」のように滑稽で見世物小屋的な世界が拡がっていくのだけれども、円形のステージを中央メインにすえながら、そのバックステージのような舞台裏側までいろいろなものがごちゃごちゃに置かれているのが目に入り、そういう景色とセンター舞台とのうらぶれたような関係性が面白い。いわゆる「舞台」というものから逸脱して、物置小屋かなにかで、カントルというおかしなおじさんが自作の妙な機械を動かしているのを観るような感覚。
 その人体を模したような<機械>のチープさ、中央ステージの背後で規則的に動いている骸骨のようなロボットのような<機械>もまたある面でとてもチープなのだが、これがまさにカントルの美術作品ではあるだろう。そんな<美術作品>をバックに、舞台前面で黒い布に包まれた人体をカントルが開いてみせようとするとき、まさにひとつの物語がはじまるようであり、そこにこそカントルの<舞台>というものが存在するのだろうと思った。

 

 そういう意味でカントルの作品は彼が「美術作家」である、という側面を忘れては語れないところがあり、ロビーで展示されていたカントルのドローイングの展示はうれしいものであった。本来は美術館とかでしっかりとした「美術展」として紹介されなければならない作家なのではないだろうか。


 

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■ 2015-10-17(Sat)

 今日は久々に「演劇」鑑賞。場所は早稲田大学のそばにある「早稲田小劇場どらま館」で、最近復活したスポットらしい。もちろん行くのははじめてなので念入りに地図などを頭に入れ、高田馬場駅からそれなりに歩くようなのでちょっと早くに家を出た。時間がうまく合わずに東京に着くのは開演よりずいぶんと早くなる。しかしこの時間より遅くなるとつまりは一時間あとになるので、道に迷うと間に合わなくなるおそれがある。それで早くに出ていちど池袋で下車し、昼食をとってから高田馬場へ行くことにした。

 車中ではもちろん熟睡し、池袋に着いたのは十二時ちょっと過ぎ。またまた日高屋へ行き、「ここの日高屋には<かた焼きそば>があるといいな」と思ったのだけれどもメニューになく、仕方なくとんこつチャーシューメンをたのんだが、これはあまりおいしいものではなかった。まだ普段たのむ担々麺の方がよかったと思う。

 食事を終えてすぐに高田馬場に移動し、早稲田の方へ歩く。今日も天気はよく、暑くも寒くもない快適な気候。散歩するにはもってこいの日和である。時間があまるようなら道筋にきっとあるだろう古本屋を覗いてみてもいいだろうと思っていたのだけれども、なかなかに目的地にたどり着けず、途中で「ひょっとしたら道を間違えたのかも」とか思ったり、ちょっとあせってしまった。
 ようやく目的地の早稲田小劇場に到着したのはほとんど開場時間で、時間はたっぷり取ってあったつもりがギリギリになってしまった。わたしは整理番号もずいぶんと後の方だったけれども、うまい具合に前の方の壁際の席にすわれた。壁際だからというハンデはそんなにないだろう。
 この劇場は七十人ぐらいで満員になるような小さな劇場で、ちなみにわたしの整理番号(入場順)は63番。入る順からいってもいい席だったような気がする。けっきょく開演時には当日券の客などを臨時の席に入れ、超満員状態になった。十四時開演。

 なかなかに刺激的な舞台がはねて外に出ると当然まだ明るい。ここで「そうだ、ここは早稲田なんだから、大学構内の演劇博物館でダンス関係の展示をやっているはずだと思い出し、バッグの中を探ってみるとそのチラシが見つかった。今日は十七時までの開館だけれども、まだ時間はあるので行ってみることにした。早稲田の演劇博物館に行くのもこれがはじめてのこと。迷路のような構内でちょっと迷いそうになるけれども、なんとかたどり着くことができた。
 う〜ん、展示としては疑問の残るもので、当然全部の作品を観たわけではないけれども、作品として気に入ったものもあった。
 この「Who Dance?」の展示は二階スペースで、一階では「映画女優 京マチ子展」というのも開催されていたので、そっちもちょっと覗いてみた。京マチ子の出演した映画のポスター、台本、スチル写真などの展示が主で、ほかに彼女の叙勲した勲章、毎日映画コンクール女優賞のトロフィー、ベネチア映画祭のトロフィーのレプリカなどが展示されていた。展示されていたポスターに「総理大臣と女カメラマン 彼女の特ダネ」というのがあって、書かれた宣伝文句が面白かったし、若尾文子も共演しているようなので「どんな映画だろうか」と気になってしまった(これは帰宅して検索してみたのだけれども、ポスター画像も映画内容もまるでアップされていないのだった)。

 だいたい観終わったところでちょうど十七時の閉館のチャイムが鳴り、外へ出た。帰り道はときどき道路沿いの古本屋に寄ってみたりしたのだけれども、ある古本屋の文庫コーナーに「哀犬倶楽部 LIFE WITH WOMAN DOG」という箱入りの豆本(文庫本サイズ)をみつけた。「どんなんだろう」と箱を開けるとこんなんだった。これは会田誠の「いぬ」の原形だろうか。室井亜砂二さんという方の作品で、この方は「SMセレクト」などにイラストを描かれていた方らしい。ちょっと欲しかったけれども、自制して買わないで帰って来た。帰りの電車の中では、「ボヴァリー夫人」の巻末の裁判記録のところを読み終えた。


 

[]sample:16「離陸」松井周:作・演出 伊藤キム、稲継美保、松井周:出演 @早稲田小劇場どらま館 sample:16「離陸」松井周:作・演出 伊藤キム、稲継美保、松井周:出演 @早稲田小劇場どらま館を含むブックマーク

 夏目漱石の「行人」からインスパイアされたという、登場人物三人だけの舞台。伊藤キムはなじみの方だし、松井周はこの劇団「サンプル」の主宰者。稲継美保という人も矢内原美邦の作品に出演されていた方らしく、わたしもひょっとしたら観たことがある方なのかもしれない。

兄夫婦と弟は同じ家に住んでいる。
妻への不信感から兄は弟に「妻と二人きりで一泊してきてほしい」と願い出る。
そして、その間に起きたことを逐一報告するようにと。

 つまり、ちょっと歪んだ三角関係なのだけれども、登場人物それぞれがやはりちょっと歪みを持っているようで、その関係性がずれていきながら、官能性を感じさせるように変化していくようでもある。
 舞台に置かれた横長のテーブルは単にテーブルではなく副舞台でもあり、空間を越える演劇装置でもある。テーブルの上に穴があいているようで、テーブル下からも上部へ通じている。伊藤キムが梨の実をテーブルに叩き付け、その梨の汁のしずくを稲継美保にたらすシーンにエロスを感じてしまうし、やはりラストに絡み合って「離陸」する三人の高揚。
 「現代口語演劇」というところからスタートしながらも、いわゆる「リアリティ」などというものを越えた観念性を持つ舞台だとも思った。役者それぞれの「力」というものがあっただろう。

 さすが「現代口語演劇」ということもあって、わたしにはセリフが聴き取れないところが多々あったのが残念。もういちど観たい作品だけれども、明日でおしまい。また再演される機会があるといい。


 

[]「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」@早稲田大学演劇博物館 「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」@早稲田大学演劇博物館を含むブックマーク

 二部屋か三部屋かある展示室には壁にモニターがかけられ、ヘッドフォンがひとつずつぶら下げられている。つまりひとつの映像作品を観るのはひとりに限定されるといえる(音のことを気にしなければ人がヘッドフォンを使っていても映像を観ることはできる)。流れている映像もインタラクティヴというのではなく、頭から終わりまでただ繰り返して流されているだけ。五分ぐらいの映像もあれば、八十分とか百二十分の映像も流されている。これを頭から終いまで立ちっぱなしで観るというのは、ちょっとした苦行だろう。こういう展示形態については賛成出来るものではないというのが正直なところ(ウィリアム・フォーサイス×日本女子体育大学の作品はインタラクティヴなものだったようだけれども、どうも使い方がわからなかったというか)。

 例外的に田中泯の映像だけは壁面に投射された大映像で音声もスピーカーから。その前には複数の(十脚以上の)椅子が用意されていて、つまりもう、田中泯というのは国民的舞踏家(舞踏家と呼ぶと田中泯さんは不満らしいので「国民的ダンサー」)ということになったのだろうか。朝ドラに出演されてからテレビのインタヴュー番組に出演される機会も多くなられているようだし。

 まあつまりはわたしもちゃんと展示を観たというわけではないわけで、室伏鴻さんの映像とかを観始めても、尺が八十分とかいうのであればすぐに挫折してしまったりするわけだ。短い作品で印象に残ったのは、ボリス・シャルマックの「子供」という作品の抜粋。

 コンテンポラリー・ダンスというものの衰退がこの場にも蔓延しているような雰囲気で、悲しくなってしまう展示だったというのがわたしの感想ではある。


 

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■ 2015-10-16(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 今日は曇り空で、内科医に通う日。病院へ行く途中で雨がポツポツと降って来た。病院で「お変わりありませんか」と聞かれ、「ちょっと風邪気味です」と答えると、主治医の先生は引き出しからマスクを取り出されて着用された。そりゃあ患者からいちいち風邪を感染していたらたまったもんじゃないですからね。わたしの場合ちょっと咳が出るだけで、熱もないのでそんなに大事だとは思っていなかったので、「薬を処方しましょうか?」と聞かれても考えて「う〜ん、いいです」と答えたのだけど、けっきょくは三日分の風邪薬と咳止めを処方してもらった。これで普段の医療費からせいぜい百円ちょっとよけいに取られただけだから、普段から医者にかかっているというのも便利なものだと思ったりする。

 病院を出ると、傘が欲しいぐらいの雨になっていた。図書館に借りていた「贖罪」第1巻のDVDを返却するのに持って来ているので図書館に寄って返却し、次の第2巻を借りた。ついでに来月末にはイヨネスコを観るので何か読んでおこうかと検索してみたら、「ちくま文学の森」シリーズの「ことばの国」の巻に「授業」が収録されていたのでこれも借りることにした。今借りている「ボヴァリー夫人」と「天皇と接吻」、「ボヴァリー夫人」は読み終えるだろうけれども、「天皇と接吻」はまだ半分ぐらいしか読んでいない。読み終えるだろうか?

 図書館を出ると雨は小やみになっていて助かった。帰宅してから、先月の健康保険料を払い忘れていることに思い当たった。どうしても、健康保険料というヤツはいっつも払うのを忘れてしまう。先に一年分の払い込み用紙が送られてくるというのがよろしくない。その月の分がその都度送られてくるのならば、「払わなくっちゃ」と自然に計画立てられるのだけれども、毎月思い出せというのはわたしにはつらい。スケジュール帳をもっとうまく使いこなさないといけないのだけれども、書き込んでしまうと忘れてしまう、忘れてしまえばいい、というのがわたしのスケジュール帳なのだ。

 夜、外では雨の降っている音がする。トイレに入ろうとして電気のスイッチを入れたら、「パチッ」と音がしてトイレの電球が切れた。和室の蛍光灯も寿命が来ているし、これでトイレの電球も買わなければならない。明日明後日は出かける予定もあるので、買うのは月曜日より先のことになるだろう。

 今日は録画した映画をちょっと観始めたのだけれども、すぐに眠くなってしまい、明日は観劇の予定もあるので眠いのなら無理して起きていないで早く寝てしまおうと、映画を観るのはやめて寝ることにした。


 

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■ 2015-10-15(Thu)

 和室の蛍光灯の一つが寿命で点滅するようになり、買い替えなければいけないのだけれどもめんどうでそのままにしてある。五月に閉店したドラッグストアで蛍光灯が安く売っていたのをなぜか記憶していて、今近郊で買おうとするとそのときの価格より倍になるわけで、「もっと安く売っている店があるはず」と、考えてしまうのである。ここからずっと西の方に行くと家電量販店の支店もあって、そこまで行けば安く買えるのではないかと考えている。あっちの方にもほんとうにしばらく足を運んでいないけれども、ハード関係の中古店もあってその店も覗いてみたい気もちがあるし、近々行ってみようと思っている。歩いて二十分ぐらいのものではないのか。

 昨日観た「贖罪」が面白かったので、昼からもういちど見直してやはり面白いものだと思い、残りの2巻、3巻を早く観たくなる。図書館は視聴覚関係のものの貸し出しは一度に一点に限定されているので、観たらすぐに返却に行って次を借りてくる、というのを繰り返すことになるか。「贖罪」のあとは先日「ひめゆりの塔」を観た補完、という感じで「激動の昭和史 沖縄決戦」というのを観た。


 

[]「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971) 新藤兼人:脚本 岡本喜八:監督 「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971)   新藤兼人:脚本 岡本喜八:監督を含むブックマーク

 これは先日観た「ひめゆりの塔」と同じく東宝の製作・配給になる作品だけれども、時代のさかのぼるこの「激動の昭和史 沖縄決戦」の方が断然すばらしい作品に仕上がっている。岡本喜八の演出手腕もあるけれども、新藤兼人の脚本と演出とのマッチングがすばらしい。

 いわゆる史実をもとにした「戦記映画」というジャンルになるのだろうけれども、戦いを指揮した高官たちだけの視点ではなく、狂言回しのような形で床屋役で出演する田中邦衛の存在がとてもいい。

 前半はいわば大本営の「本土決戦」計画の犠牲にされ主力軍を本土に引き上げさせられる沖縄司令部の苦慮がメインに描かれ、「どのようにアメリカ軍を迎え撃つか」というさまざまな計画が出される。また、民間人の疎開がいかに思惑通りに行かなかったかなども示される。後半についにアメリカ軍が上陸してくるのだが、日本軍は迎撃をしない。アメリカ軍に「日本軍は大バカか巧妙な策略家のどちらかだ」といわれもするのだが、映画を観た印象では「大バカ」の方が正しい認識ではないかと思えてしまう。つまりは「一日でも長い持久戦」を目指すわけで、大本営からは飛行機さえも送られてこない以上、敗北することはわかりきっているわけである。その敗北を一日でも遅らせる戦いが「沖縄戦」だったわけである。今の常識で考えればさっさと降伏してしまえばいいのだが、「降伏」の二文字は旧日本軍の語彙には存在しない。このあたりの沖縄司令部の動きはイーストウッドの「硫黄島からの手紙」を思い出すものだけれども、沖縄には多くの住民が居たわけである。その住民を巻き込んで皆が続々と死んで行く地獄絵がさいごまで続く。撃ち殺され焼き殺され、手榴弾で自決する。

 「ひめゆり部隊」についても当然描かれるけれども、その野戦病院での治療の様子(足をのこぎりで切断するような描写)や、自決のために青酸カリを皆に配るシーンなど、短い描写でも先日の「ひめゆりの塔」を凌駕する印象。ほぼ全滅した第三外科の状況も描かれるが、ここでもやはり「毒ガス」が使われたという描写になっていた。

 ラストに流される出演者の名をみると酒井和歌子や大谷直子も出演していたようだけれども、わたしは観ていて全然わからなかった。どうやら酒井和歌子は「ひめゆりの塔」で後藤久美子が演じた人物で、大谷直子は軍人を批判する地元の女性役だったらしい。そう、この作品にはさすがに新藤兼人というか、ちらっちらっと軍隊を批判するメッセージが出て来たりするわけである。

 日本の戦記モノ映画を観た記憶というのもないのだけれども、反戦のメッセージを込めながら「沖縄戦」総体を描いたものとして、これはやはり秀作というべきだろう。


 

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■ 2015-10-14(Wed)

 今日もいい天気。ニェネントはわたしが起きているときはたいていベッドの上、わたしが寝ていたところで丸くなって寝ている。わたしがベッドで寝るときはそれまでわたしが坐っていたクッションの上に移動して、そこで丸くなっている。外は気もちがいいのに、外に出ないのはちょっとかわいそうな気もする。午後からテレビをみているとそばにニェネントが寄って来たので、手を伸ばしてニェネントをかまう。鼻先を指でちょん、ちょんとやると甘噛みしてきたり、前足をわたしの指に引っかけてきたり、いつまでもわたしと遊ぶのである。こういうことはめったにやってくれないので、珍しいことだと思う。

 わたしはときどきニェネントを後ろから両手で抱き上げてそのままぶらんぶらんさせ、思いっきり高く持ち上げて「高い〜、高い」って何度もやって遊ぶ。ニェネントはにゃあにゃあないて、これは嫌がっているのかどうかというところだけれども、必死で逃げようとするわけではない。何度か「高い〜、高い」をやったあとは、ベッドの上に着地出来るように高く放り上げてやる。ネコだから着地はみごとなものである。着地したあとも逃げようとしたりせず、機嫌を損ねたふうでもないので、それなりにこの遊びが気に入ってるんじゃないかと、飼い主としては勝手なことを思っている。

 この週末にやはり「サンプル」の舞台を観に行くことにして、ネットで予約した。支払いはいつものセブンイレブンではなく、初めて体験するローソンでの支払い。このあたりには去年までローソンは一軒もなかったのだけれども、ちょうど一年前ぐらいに駅の北の方、美術館の裏のあたりに開店した店がある。もう美術館のあたりには用もないので長いこと歩いたこともないのだけれども、今日は久しぶりにそっちの方へ歩いて行くことになった。午後の日射しはちょっと強く、汗ばむほどではないとはいえ暖かい陽気である。
 今まで歩いたことのない裏の道を歩いてみたりしたけれども、やはり駅の北側にはこの町の歴史を感じさせる古い建物がけっこう残っているし、ゆるい坂道があるのも町の風景に変化をつけていて、歩いていても気もちがいい。

 帰宅してからは図書館から借りているDVDで黒沢清監督「贖罪」の第一巻を観る。三年ほど前にWOWOWで放映された連続ドラマで、わたしも放映されたときに録画して観ているのだけれども、もちろん記憶から落ちてしまった。何も憶えていないので、新鮮な気もちで観ることが出来る。夕食は昨日つくったカレーである。


 

[]「贖罪 第1話 フランス人形」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督 「贖罪 第1話 フランス人形」(2012)   湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 全五話の連続ドラマの第一話。ドラマ全体を支配する「十五年前の事件」を描くイントロダクションがあり、以降のドラマよりちょっと長いようだ。
 小学四年の娘を学校内で殺害された娘エミリの母である小泉今日子が、その事件の起きる直前までエミリといっしょにいて犯人を見たはずの学友四人に「犯人を見つけるか<購い>をするかせよ。あなた方のことは一分一秒たりと忘れない」と告げることから、その四人それぞれの十五年後のそれぞれの<購い>、そして小泉今日子との関わりが描かれるようだ。

 この第一話の主人公は蒼井優。彼女は精神的にも身体的にも「女性」として成熟することを拒否する、というあたりで小泉今日子の呪縛の下にあるといえるのだろう。そんな彼女の前にただ女性に<人形>としての存在だけを求める男、森山未來があらわれて結婚までするのだが‥‥。

 この回で特徴的なのは、「硬質」とも思える冷たい白系統の色彩に包まれた画面。どの部屋の壁も白色だし、色彩があるものも基本は淡い色彩でしかない。これが終盤で蒼井優は黒系統のドレスを着ることになるのだが、それは彼女が<変化>したことの証しでもある。
 その白系統の色彩を支える照明もみごとな仕事をしていて、ただそういう画面を観ているだけでこの異様な男女の物語にリアリティを感じてしまう気がする。
 蒼井優が森山未來の車に同乗するシーンがあるのだけれども、このシーンも不思議なシーンだ。車の外には具象的な風景の類いは何も映っていなくって、ただ草色のような背景色が流れて行くだけ。まるで「CURE」のあのバスのシーンのように、そこが異次元であるかのように思えてしまう。蒼井優と森山未來とがさいしょにレストランで会食するシーンも、そのレストランの外から撮られた映像の、手前のガラスには外の風景が思いっきり写りこんでいる。彼と彼女のいる世界がいかに世界から遊離している世界であるかを示すかのようである。
 そして、ラスト近くで寝室でフランス人形の格好をさせられた蒼井優を上から照らす白色のスポットライト。ほとんどホラー映画のような照明ではあるし、ある意味ではこの展開は「ホラー」といえるのかもしれない。


 

[]「贖罪 第2話 PTA臨時総会」(2012) 湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督 「贖罪 第2話 PTA臨時総会」(2012)   湊かなえ:原作 芹澤明子:撮影 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 第二話の主人公は小池栄子。彼女は子どもたちを過去のエミリのような目に遭わせないために(そのことに彼女自身は無自覚かもしれないが)、教師になっている。プールでの授業のときに暴漢が乱入して来て、教師のひとりを傷つける。小池栄子は鍛えた剣道の腕を活かして暴漢を打ち据え、いちどはその行為を賞賛されるものの、じきにその声は「あれは過剰防衛ではないか」との声に変わって行き、彼女はPTA臨時総会で自分の立場を弁明すると語る。その総会のことを小泉今日子にも連絡し、そこで自分の<償い>について語ることになるから聞きに来てくれと手紙に書く。
 彼女は総会で、自分の行為は「子どもたちを守る」というよりも、自分を突き動かしたのは過去の出来事の<償い>のためだったと語る。
 その総会での「告白」のとき、会場の体育館の背後の白い壁には木漏れ日のようなゆらめく光と影が映されている。

 小池栄子の周囲の人々は、<正義>について歪んだ考えを持っているようにみえる。小池栄子にしても、自分の行為は<正義>からのものではなかったと語ることになるが、学校の教頭にしろ、さいしょは小池栄子の味方のようにふるまいラストで彼女を裏切る同僚教師にしても、そして父兄らにしても、<正義>というものを何か別の事象を擁護するために利用するように思える。このあたりに関していえば、わたしは<正義>ということを信じてはいないので、<正義>という原理で動こうとする存在はこのように「ぶれる」のだと思う。この書き方ではちょっと書き足りないけれども、いろいろと考えさせられる内容ではあった。

 この回では、そのプールに暴漢が侵入してくるシーンでのカメラが印象に残る。あいだにプルーをはさみ、その対岸での小池栄子と暴漢との「戦い」を、ロングでおさめて追って行く。

 次の回を観るのが楽しみになってしまった。


 

[]「上海から来た女」(1947) オーソン・ウェルズ:製作・脚本・監督 「上海から来た女」(1947)   オーソン・ウェルズ:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 オーソン・ウェルズと、当時実際に彼の妻だったリタ・ヘイワースの主演。巻き込まれ型のノワールというか、ニューヨークでリタ・ヘイワースと知り合った船乗りの主人公は、その誘いに乗ってメキシコからサンフランシスコへの航海に同行し、リタ・ヘイワースの夫やその顧問弁護士らのかける罠にはまり、殺人のぬれぎぬを着ることになる。

 オリジナルから一時間ぐらいカットされてしまった作品ということで、特に序盤の展開がズルズルって感じで困ってしまう。どう考えても「そんなの罠だろう」というところに自分から首を突っ込んで行く主人公が理解出来ないというか、主人公がどういう風にリタ・ヘイワースに惹かれているのかよくわからない。描写が足りないのは確かだと思うし、ラストに突入する前には「これはこういう展開になるな」と読めてしまうところがある。まあ読めてしまっても楽しめればいいわけで、そういう意味ではとにかく、うんと楽しめた。

 そのラストの緊迫感はハンパではないというか、裁判所から逃げ出した主人公はまずはチャイナタウンの京劇を上演している劇場に逃げ込むのだけれども、ここでの京劇を演じる役者たちの「目」の描写がすばらしい。編集のみごとさ、でもあるのだが、このあとに主人公は営業していない遊園地へと逃げ込む。ここでのシュルレアリスティックな描写はまさにオーソン・ウェルズの真骨頂で、特に鏡の間での銃撃戦、横にずらりと並んだ鏡に写る男たちと、銃撃で割れ落ちる鏡。みごとなものである。

 それともう一ヶ所、オーソン・ウェルズとリタ・ヘイワースとが水族館で逢うシーンの、水槽で泳ぐ魚たちの手前でシルエットであらわされる二人の映像もまた、すばらしいものだった。


 

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■ 2015-10-13(Tue)

 シアタートラムで分厚いチラシの束を受け取り、大半はゴミ箱行きになるのだけれども持ち帰ってチェックした。いくつか興味深い公演もあって、スケジュールと照らし合わせて予約してしまったり。

 興味を持った公演のひとつに「ウースター・グループ」という劇団の「初期シェーカー聖歌:レコード・アルバムの上演」というものがある。ウースター・グループとはキャリア40年のニューヨークを本拠地とする前衛劇団(「前衛劇団」という呼称もナニだけれども)だそうで、「テクノロジーを縦横に用いた重層的な演出、その情報量とスピード感で設立40年にして現代演劇の最先端を走る」と紹介されている。今回が初来日で、コーエン兄弟のスクリーンでおなじみのフランシス・マクドーマンドも舞台に上がるようである。チケット代もこれは海外からの招聘としては驚くほど安く、年末の予定もまだ埋まっているわけではないので行ってみることにした。
 それで、ネットから指示に従って予約して行ったのだが、これがPeatix という方式での予約で、つまりチケットを買う側には負担金がかからないのだけれども、入場時にチケットの代わりにスマホでQRコードを提示しなければならない。スマホがなければそのQRコードをプリントアウトしたものを持参するらしいのだが、わたしはスマホもプリンターも持っていないので、これでは入場出来ないことになる。これからPeatix という方式でのチケット予約は多くなるのかもしれないけれども、わたしなどには要注意だ。
 とにかく、いちど予約してしまってからスマホかプリンターが必要だとわかったので、双方を持っていなければどうすればいいのか、主催者に問い合わせてみた。
 不思議なもので、こうやって余計な手間をかけているとそれだけその公演が楽しみになってしまい、期待感が高まってしまうのである。ただ、予約がうまく行かないということでは消耗してしまう。

 今日は朝から秋らしい晴天で、気分のいい一日になってもいいのだけれども、そういう消耗もあって、午後からはまたベッドでゴロゴロしてしまった。本を拾い読みし、眠くなったらそのまま寝てしまう。しゃんと起きるともう夕方になっている。夕食にまたカレーをつくり、録画した映画「ひめゆりの塔」を観た。


 

[]「ひめゆりの塔」(1995) 神山征二郎:監督 「ひめゆりの塔」(1995)   神山征二郎:監督を含むブックマーク

 以前観た「マームとジプシー」の「cocoon」が「ひめゆり学徒隊」の生徒たちを扱った作品だったということで、この「ひめゆりの塔」とテーマがかぶる。じっさい、こうやって録画してから観たこの作品、「cocoon」の放映と対になっての放映だったわけではある。

 この1995年製作の「ひめゆりの塔」は「実在の人々をモデルにし各エピソードにも慎重に検証を重ねたうえで再現した」(Wikipedia による)ものらしい。しかしこの作品、各々の登場人物の内面にはそれほどに踏み込んで行くわけではなく、彼女たちが「迫り来る<死>」を前にしてどのように感じていたのか、感情移入して読み取れるものではないと思う。そのあたりで舞台の「cocoon」の掘り下げにははるか及ばないだろう。永島敏行演じる教師が生徒たちの生き残ることを願うというのがこの映画の基調となる視点で、迫真の戦闘シーン(といっても、学徒隊や日本軍が一方的に攻撃を受けるだけなのだが)を描くことがこの映画の「豪華さ」ということになるだろうか。アメリカ軍兵士の顔はいっさい写されることはなく、ただ攻撃を受けて敗走し、そして死んで行く学徒隊や日本軍。

 この作品では、当時もっとも被害を受けた(ほぼ全滅する)第三外科壕の学徒隊について、「毒ガス弾」による攻撃と描いているが、Wikipedia によればアメリカ軍は「毒ガス弾」は使っていないらしい。逆に、そうするとこの第三外科壕で繰り拡げられた惨状はもっともっと苛酷な、残酷なものであったことだろう。

 「cocoon」の方も録画してあるので、近々観直してみたいと思っている。


 

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■ 2015-10-12(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 昨日シアタートラムでお会いしたAさんと終演後にちょっと立ち話をして、今上演されている「サンプル」の舞台に伊藤キムが出演されているとかいうことで、ちょっと観に行きたくなってしまった。それでわたしは「サンプル」はまだ観たことがないよな、などと思ってこの日記を検索すると、ちゃんと八年前に観ているのであった。やはり記憶が失せていることは無念である。無念としかいいようがない。その「サンプル」の舞台を観るとしたら今週末ぐらいかと思うのだけれども、今週末は池袋でのカントルの舞台作品の上映があるのも行きたいと思っている。ちょっと忙しい感じはするけれども、そのあとは来週末のマリー・シュイナールの予定が入っているだけで、その前後は特に予定もない。ちょっと無理をしてもいいかと思うようになった。

 しかし昨日はやはり二時間近く立ちっぱなしで舞台を観たり、祭りの人ごみの中を歩き回ったりしたせいか、その疲れが今日になって出て来たような感覚。本を読んでそのまま寝てしまってもいいつもりでベッドに横になる。読んでいるのは「天皇と接吻」と「ボヴァリー夫人」と。

 「天皇と接吻」は終戦直後のGHQ統治下の日本で、特に映画の世界でどのようなGHQの検閲が行なわれたかについてなのだが、まずは日本を占領下においたGHQは日本を民主主義のモデルケースにしつらえようとし、憲法第九条を含む新憲法を制定させるわけだけれども、そのあとにはもう東西の冷戦や朝鮮戦争がせまっているし、アメリカでは共産主義へのパージ運動も始まるし、その「日本を民主主義のモデルケースに」という設定自体がアメリカの首を絞めることになったわけだという。また、戦後の映画に対する検閲の理不尽さというものにもあきれてしまうものがあり、そこは何というのか、「日本という国のやるせなさ」みたいな感覚を持ってしまう。特にこのところの日本の急激な右旋回、この占領下の時代と重ねて考えると興味深いところもある。

 「ボヴァリー夫人」は本編の方はちょっとお休みして、巻末に収録されている「裁判記録」を先に読んでみる。「論告」「口頭弁論」そして「判決」と掲載されていて、それなりの長さがあるのだけれども、やはりまずは読み始めた「論告」があまりに面白いのである。「よくぞそこまで読み込まれました」という感じで、この検事さんはなんというすばらしい読者であることかと感嘆してしまうのである。結果としてこの裁判のおかげで「ボヴァリー夫人」はベストセラーになってしまったらしいから、この検事は実はフローベールの味方だったのではないかと思えるぐらいである。


 

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■ 2015-10-11(Sun)

 朝から雨が降っている。今日は夕刻から野外公演を観る予定もあるので雨は困るけど、予報では午後には雨は止むようなことをいっているので一安心。さいしょに観るシアタートラムの川村美紀子の公演は午後三時からなので、正午ぐらいに家を出ればいいだろう。昼食は三軒茶屋でとることになるけれど、やはり日高屋だろうか。

 昼ごろには雨もほとんどあがり、傘を持たずに家を出た。電車の中ではやはり睡眠。自分でもどうして上りの電車の中ではかならず眠ってしまうのか、理由がわからない。睡眠は足りているはずなのに、ぜったいに眠ってしまう。ほんとうは電車の中で眠ってしまうのはちょっとだらしない気がして、そういうことはあまりやりたくないのだけれども。

 ちょうど二時ぐらいに渋谷に到着し、三軒茶屋に出ようとしたのだけれども、まちがえて井の頭線の改札の方へ行ってしまう。いつも同じまちがいをしていて、これで三回目ぐらいのことになるんじゃないだろうか。下北沢方面に出るのなら井の頭線で、三軒茶屋は田園都市線なのだ。

 とにかくは三軒茶屋に到着し、やはり日高屋で昼食にする。食べ終えて会場のシアタートラムに到着すると、まだ開場されていなかった。ロビーに人があふれていて、その中にAさんの姿もあったのであいさつする。
 公演の内容については先にTwitter などである程度知っていたので心構えもしていたのだけれども、その心構えのせいか、思っていたよりは楽しめる公演ではあった。終演で四時半ぐらい。外に出るとちょうど神輿がかつがれているさいちゅうで、祭り囃子の音も聞こえてくるのだった。わたしはこれからその祭りの本拠地、太子堂の八幡神社へ行くわけである。

 八幡神社で水族館劇場の野外芝居がはじまるのは五時半からなので、少し時間がある。三軒茶屋周辺をぶらついて、祭りの屋台の出ている道をゆっくりと神社の方へ向かった。芝居の行なわれる神社の境内にはちょうどブルーシートが敷かれたところのようで、芝居目当ての観客が座り始めたところだった。ついついわたしもいちばん前の席に座ってしまったが、これはやはり役者さんがあまりに目前に迫ってくる位置で、少々辛かった。

 芝居はちょうど一時間ほどの上演で、すっかり暗くなった境内を抜けて駅へ向かおうとしたのだけれども、これから神社へ向かう人の数も多く、途中でまた神輿かつぎに遭遇したりして、大通りに出るまでが一苦労だった。地元ではなくてこんなところで祭りを体験。いろいろな屋台が出ていて、中には「いまどきこんな屋台が?」というようなレトロな出店もあり、祭りの雰囲気というものはなかなかに変わって行かないものだと思った。


 

[]川村美紀子 新作ダンス「まぼろしの夜明け」川村美紀子:振付 @三軒茶屋・シアタートラム 川村美紀子 新作ダンス「まぼろしの夜明け」川村美紀子:振付 @三軒茶屋・シアタートラムを含むブックマーク

 川村美紀子という人のダンスをじっさいに観たことはないけれども、YouTube にアップされている動画で彼女のダンスを観る限りでは、なんというのか、古い言い方だけれども「ダンス原理主義」みたいなことばを思い出したりする。で、今回のこの公演のチラシには「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」「限界まで踊ってみたい」などと書かれてもいる。

 この「まぼろしの夜明け」、その内容を説明するのはある意味かんたんなことで、さいしょ白い薄布を被って横たわっていた六人のダンサーが、上演時間の八十分という時間をかけてゆっくりとゆっくりと立ち上がるというわけである。チラシに書かれていた「限界まで踊ってみたい」ということばを、そういう「ダンス原理主義」的な立場から身体的にも精神的にも「反転」させれば、こういう舞台になることは不思議ではない。

 開場時間となって会場に足を踏み入れると、中央に一メートルちょっとぐらいの高さに組まれた四メートル四方ぐらいの舞台があり、その上に六人のダンサーが横たわっている。観客はその周囲で「立ち見」することになる。冒頭の数分は舞台上は白色光で照らされてミラーボールが回転し、その舞台の下に仕込まれた照明によって観客の方が照らされる感じで、この部分は人体を使ったインスタレーションっぽくもあり、導入部としてはけっこう気に入ってしまった。

 ただそのあと、テクノっぽい音楽やニュース音声の反復、照明の細工などがあるのだけれども、この部分がどうにも工夫がない感じがして、「もう少し見せ方がありそうなものだ」などと思う。または、「そんな小細工などしないで身体だけを見せればいいじゃないか」とも思うのだけれども、でもそれではこの舞台は「舞踏」になってしまう。特に中間にフラッシュライトが点滅するシーンがあり、これ以降変化がみられるのではないかと期待もしたのだけれども、けっきょく前半とおなじことが繰り返される印象だった。

 まあわたしなどはそういうインスタレーションを観るような興味で、ダンサーの動きがほとんど感知されないまま進行する前半の方がよほど興味深く観ることができただろうか。しかしやはり、こういう試みをするのであれば、自らの「ダンス原理主義」をどう始末するのか、ということが問われることになるのではないかと思った。


 

[]水族館劇場「運がよけりゃ」@太子堂八幡神社境内 水族館劇場「運がよけりゃ」@太子堂八幡神社境内を含むブックマーク

 この正月に上野公園で観たときには「さすらい姉妹」名義での公演だったけれども、今回は同じ内容でほぼ同じ出演者でも「水族館劇場」名義。こんど新加入された新人女優さんのお披露目舞台でもあって、その若さで水族館劇場の平均年齢も一気に下がったことと思う。かなりお美しい女優さんで、わたしとしてはかつての葉月螢の再来のような役者さんになってほしいと思うわけだし、この日の役どころ、その容姿からは毒婦役もこなせそうな雰囲気ではあった。

 とにかくは来年は再始動するらしい水族館劇場、どのような規模の舞台になるのか不明だけれども、やはりこれまでのように大がかりな「水」を使ったスペクタクル・ショーを期待したい。


 

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■ 2015-10-10(Sat)

 明日は三軒茶屋に、川村美紀子というダンサーの作品を観に行く。川村美紀子という人は去年の「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」で「次代を担う振付家賞」と「オーディエンス賞」とをダブル受賞された方らしい。つまりはコンテンポラリー・ダンス界の新星というところで、わたしもこのところはコンテンポラリー・ダンスの新しい動向に疎くなっているので、「少しはそのあたりで新しい体験を」という気もちでチケットを買ったもの。もう公演は昨日から始まっていて、そのレヴューというか感想がTwitter などにも上がって来ているのだけれども、それを読むと「そういう公演なのね」と、心構えも決まってくるような感じではある。まあこのあたりはじっさいに観てみないとわかるものではないが。

 それと明日、ちょうど三軒茶屋での公演が終わったあと、開催中の太子堂八幡神社の祭礼に絡んで、八幡神社境内で水族館劇場の面々による「さすらい姉妹」の野外奉納芝居が行われることも知った。演目の「運がよけりゃ」はこの正月に上野公園で観たものだけれども、祭りの場で上演されれば雰囲気も当然ちがうだろうし、今回は新しい女優さんのお披露目でもあるらしい。
 いちどは「長期活動休止」みたいに聞いていた水族館劇場だけれども、どうやら無事に復活、来秋には同じいつもの八幡神社で本公演もあるようである。楽しみなことがひとつ増えた。


 

[]「転校生」(1982) 大林宣彦:監督 「転校生」(1982)   大林宣彦:監督を含むブックマーク

 中学生の男の子と女の子のからだが入れ替わってしまうという有名な作品。尾美としのりと小林聡美のふたりのがんばりが印象に残るけど、やはりなんといっても、小林聡美があまりにすばらしい。

 あとでWikipedia でこの作品のことを調べると、製作はずいぶんと難航したようで、まさにATGの協力を得ての低予算「インディペンデント映画」として製作されたらしい。音楽が「アリもの」の有名クラシック曲ばかりで「どういうこと?」などと思ったのだが、これも予算がなかったために大林監督の実家にあった「クラシック名曲集」のアルバムからそのまま使ったということだった。
 尾道でのロケについても、いわゆる「観光地」ではなく、普通の民家や路地裏のような目立たぬところばかりでのロケだったので、完成後に地元住民の反発もあったということ。まあ今観れば、そういう観光映画にならなかったことはもっけの幸いではあるのだけれども。

 映画として、小ネタエピソードがうまくばらまかれていて楽しいのだけれども、ふたりがフェリーに乗って社員旅行の一行といっしょに旅館に一泊してしまうところ、ここが主人公が中学生であるということを越えて、大人っぽい空気になっていたのがいい。ラストへつながる、いい展開だった。しかし、冒頭の女子更衣室に忍び込んで頭からパンツをかぶる男子生徒は「犯罪」である、というか、ヤリすぎだろう。


 

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■ 2015-10-09(Fri)

 朝の午前四時のアラームが鳴って目覚める。けっきょく昨日から今日にかけては十四時間ぐらいは寝ていたようである。このくらい眠るとだるくなったりもするのだけれども、今回は目覚めた時からしごく快調で、しごとへ出かけるフットワークも軽い。

 実は今日はやっておきたいことがひとつあって、それは近所の労働基準監督署へ行って、勤め先の現状を訴えること。行く前に自分の訴えに妥当性があるかどうか、労働基準法や労働契約法を読んでみたりもしたのだが、どう読んでもわたしの訴えには正当性があると判断した。このことについてはここに具体的にあれこれと書いてしまいたい誘惑に駆られもするし、またそういうことを書かずに説明するのもむずかしいのだけれども、わたしはこれまで自分のしごとについて、勤務先や勤務内容について具体的なことは何一つ書かないように注意を払って来ているわけで、そのことをここで無視してしまおうとは思わない。逆に、今までわたしの勤務先、勤務内容がこの日記からは知られないように注意して来てよかったと思うことにもなる。この日記を道具として告発することはやりたくない。ただわたしがこのような行動をした、行動をしているということだけを書くのが、ここでのこの日記の役割だろう。
 ただ、以前にその勤め先の上司のことをわたしがいかに嫌悪しているかということは書いた記憶もあり、その嫌悪の根幹にはその上司のパワーハラスメント行為があった。わたしは今までに彼ほどに「唾棄すべき」存在というものに出会ったこともなかったし、その彼のパワハラ行為は労働基準法や労働契約法に違反することで成り立っているのだから、告発することに躊躇する気もちはない。彼がわたしたちに課する要求の種類は、わたしたちが勤め先で求められるであろう労働の基本、基準から大きく逸脱し、労働契約を破るものである。この告発が否定される理由はないだろう。

 昼前に、いつも通っている内科医の少し先にある労働基準監督署へ足を運んだ。デスクに向かっている方々に声をかけ、わたしの近くの初老の方がわたしの話を聞いてくれることになり、ひとしきり事情を話した。やはり、上司の行為は労働契約法に違反していて、しかもパワハラにあたるだろうという認定をいただいた。ではそれでどうなるかというと、これまでのことはひとまず現在もなお継続しているわけでもないので、こんどそのようなことが行なわれたらその時に知らせてほしいということだった。労働基準監督署としてはその時点でまず、わたしの勤務先に電話を入れて注意勧告を行うことになるのだ。

 気分的には、せっかくこうやって窓口に足を運んだのだから「いますぐに」という急いた気もあったけれども、それはたしかに「次にじっさいにそのようなことがあったとき」となるのは仕方がないだろう。そして、あの上司はまちがいなくまた同じことを繰り返すだろうし、うまい具合にその時期は近づいている。とにかくは確認事項を頭に入れ、担当者に礼をいって帰宅した。
 まあいろいろと具体的に書いてしまいたいところだけれども、いずれはふたたび労働基準監督署に行くことになる。そしてそのあとどのような展開になることやら、いってしまえば「とっても楽しみ」ではある。ほんとうは左遷でもされてわたしの目の前から消えて行ってほしいのだけれども。異常な権威主義者である上司は、労働基準監督署という「外からの」権威にどのような反応を見せるだろう。もちろん上司の方では労働基準監督署に訴え出たのがわたしだということは容易に判断できるだろう。さて、それでどうするだろうか。

 午後からは録画した映画を二本観た。


 

[]「カイロの紫のバラ」(1985) ゴードン・ウィリス:撮影 ウッディ・アレン:脚本・監督 「カイロの紫のバラ」(1985)   ゴードン・ウィリス:撮影 ウッディ・アレン:脚本・監督を含むブックマーク

 「映画」そのものをテーマに、「映画館で映画を観て一時の夢に浸る」という行為をロマンティックなファンタジーとして描いている。わたしはウッディ・アレンの「インテリ臭さ」が苦手だという記憶があり、彼の作品をあまり観たいとは思わないのだけれども、この作品はキチンと小宇宙をつくっているようで、好きな作品。その「小宇宙」は、まさにこの作品のように、そのラストで、観ている人たちの視線へと重なってしまう。

 この映画の時代設定は1930年代のようで、もちろんまだ映画はモノクロ。そのスクリーンを「銀幕」と呼んだものだけれども、この呼称はモノクロ映画にこそふさわしい。その「銀幕」に、「映画」という「夢」が映し出されるという構造。銀幕こそが夢の世界と此岸の世界との境界というか、夢をつつむ皮膜こそが「銀幕」、といえるのだろうか。そして、その皮膜が破れてしまい、夢の世界が此岸の世界に越境して来たとしたら‥‥。
 おそらくは映画に夢中になるということの一面は、脳内でその皮膜を取り除いて映画の世界を此岸の世界に越境させるということでもあるだろう。そういう映画ファンの夢をある面で過酷な現実を対比させ、映画を観て夢みることを美しいファンタジーに仕上げた作品が、この「カイロの紫のバラ」だと思う。

 銀幕に自分の願望を重ね合わせて夢想するヒロインのミア・ファーローがラストで観るのはアステア&ロジャースの「トップ・ハット」の「Cheek to Cheek」のダンスシーンなんだけれども、ここで銀幕の中で踊るアステアとロジャースはそこで完璧なカップルなのであり、外からの視線は映画それ自体を愛でることになり、それまでの「映画と現実を混同する」ような見方は成立しないとも思える。そういう「トップ・ハット」を夢中になって見つめるミア・ファーロー、「そこにこそ映画がある」と、それまでの夢想をも忘れてしまっているようでもある。「映画」の魅力についての、可愛らしい作品だと思う。


 

[]「恋する惑星」(1994) クリストファー・ドイル:撮影 ウォン・カーウァイ:脚本・監督 「恋する惑星」(1994)   クリストファー・ドイル:撮影 ウォン・カーウァイ:脚本・監督を含むブックマーク

 フェイ・ウォンの魅力と、クリストファー・ドイルのカメラワークとで魅せられる作品だろうか。トニー・レオンもいいのだけれども、この二部構成になっている作品の前半、ブリジット・リンと金城武とでの展開に、どうも魅力を感じることが出来ない。ストーリーとしても中途半端だし、トニー・レオンとフェイ・ウォンとを登場させるための長い長いイントロ、ぐらいの見方しか出来ない。いやもちろん、ここでのクリストファー・ドイルのカメラは、トニー・レオンとフェイ・ウォンとの展開の部分よりも魅力的とはいえるだろうけれども。

 どっちにせよ、ストーリーとかをまじめに追おうとするとはぐらかされてしまうというか、フェイ・ウィンの行動はもう犯罪者としか思えずにあきれてしまったりする。もちろん、そこに映画としての「逸脱」の魅力はあるわけで、そういうことではこの作品は「逸脱」をこそ楽しむ作品ではあるかもしれない。

 香港の下町(?)の屋台風飲食店街の喧噪、色彩がたまらない作品だけれども、やはりどこか気もちの据わりが悪いところがある。高校生の恋愛ゴッコを成年がやっているみたいな。


 

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■ 2015-10-08(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 部屋の中を片づけるわけでもなくあれこれとチェックしていると、そこは記憶が途切れてしまっているゆえに「こんなものを持っていたのか」とおどろくことも多い。そういうので、前からVHSのヴィデオテープがたくさんあることはわかっていたのだけれども、そのテープを手に取って内容を見てみると、もちろんわたしのイヴェントの記録映像のテープもたくさんあるのだけれども、それ以外にいろいろな映画の録画されたテープもたくさんあるのだった。その録画された映画はもちろん記憶から消えてしまっているわけで、タイトルは知っていても「どんな映画だっけ?」というものばかり。しかも、好きで録画しているわけだから、「その映画、観てみたい」というような録画ばかりなのである。例えばゴダールの「男と女のいる舗道」や「カラビニエ」など、すぐにでも観てみたい。ドン・アスカリアンやパラジャーノフの作品もある。
 その他にも、HDDに録画してある映画をDVDに自分でコピーしたディスクもかなりの数見つかった。DVDにコピーしたことは何となく記憶しているのだけれども、その内容は憶えていなかった。これも観てみたいものがいっぱいある。HDDからDVDへのコピーというのは一時期は暇を惜しんでやっていたようだけれども、今ではDVDへの録画の方法自体を思い出せないのが情けない。

 しかし、これだけいろいろな映画のストックが見つかると当然それを観る時間を取りたいのだけれども、今のわたしの日常は「ひかりTV」やWOWOW、NHKのBSなどからHDDに録画した映画を観るのでせいいっぱいなのである。そういう「録画しては再生」して観るという生活には前から疑問もあったわけで、やはりこの際、「ひかりTV」との契約は解除してしまった方がいいのではないかと思うことになる。今はほんとうにその時に観たい映画を観るのではなく、「そういう映画が放映されているのなら観てみよう」というようなモティベーションなわけで、それは普通に過去の記憶がしっかりしていて、いろいろな映画の記憶が残っていてのことならば普通の行為だろうけれども、そういうヴィデオテープやDVDで「まっ先に観たい」映画などが目の前にあるのがわかってしまうと、そちらを優先するべきではないかと思う。それに、ネットには動画配信でいろいろな名作映画が観ることもできるわけで、いつもそういう映画を観ておきたいとは思ってもいたわけだし。

 じっさいに「ひかりTV」との契約では毎月バカにならない金額を支払っているわけで、この支払額は普通にDVDをレンタルするような生活よりも金がかかっていると思う。たしかに「ひかりTV」やWOWOW、NHKのBSなどは「こんな映画が観られるなんて」というようなプログラムもあるのだが、それはやはり「今、この映画が観たい」というのとはちがう気がする。

 今持っているHDDを契約解除したあとも使えるようにするには「ひかりTV」からレンタル扱いになっているチューナーを買い取らなくてはならないだろうけれども、いちどそういうことは思い切ってやってしまった方がいいように思う。今はとにかく「ひかりTV」に縛られすぎている。その契約を解除してようやく、わたしは自由になれるのだ、みたいな。

 さて、このところは一日おきぐらいに東京に出ている感じで、昨日一昨日などは連続して。そんなに疲れたという感覚もないのだけれども、やはり疲れているのか、今日は何もする気にならず、午後からはベッドに寝ころがって、寝てしまってもいいつもりで本を読み始める。思っていた通りにそのまま眠ってしまい、ときどき目覚めはするのだけれども「起きてもしょうがない」と思い、また寝てしまう。夜にかんたんに晩ごはんは食べたけれどもそのまま寝続けてしまい、いつの間にか日付けも変わってしまったようだった。こういう日もあっていいだろう。




 

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■ 2015-10-07(Wed)

 今日もまた、昨日と同じく「黒沢清レトロスペクティヴ」を観に行く。わたしの観る回の開映時刻と終映時刻が昨日とまったく同じで、行動も同じようなものになってしまう。ただ今日は昼食はちゃんと店で食べることにして、今特別価格でやっているすき屋の牛丼を食べた。290円。これですごくおいしかったと思うのだから、わたしも安上がりなものである。
 今日はタバコが残り少なくなって来たので、また一カートン買っておいた。タバコをこうやってまとめ買いすると一気に財布が軽くなり、今まで以上にいかに喫煙が無駄な金の浪費であるかを実感することになる。月に三カートンでは足りず、おそらくは二ヶ月で七カートンは超えるんじゃないだろうか。三ヶ月で十カートン。一カートン三千八百円だから、三万八千円。年間で十五万円を超える金を煙にしてしまっているわけである。こう考えると「タバコなどやめてしまわなければ」と思うのだけれども、わたしの意志は弱く、依存する心は強いのである。

 映画の上映時間が同じだったので帰りの電車もまた昨日と同じになったのだけれども、その車中で昨日わたしの向かいに立っていた方と、また会ってしまった。なんだか通勤しているような気分になってしまった。

 今日の晩ごはんは昨日買ってあった惣菜をおかずにして、手間のかからない食事になった。




 

[]「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(1985) 万田邦敏:共同脚本 黒沢清:脚本・監督 「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(1985)   万田邦敏:共同脚本 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 主演の洞口依子のスクリーン・デビュー作。この時代の黒沢清作品というのははじめて観るけれども、あからさまにゴダール色が鮮明な。大学のキャンパスを舞台にして、学生の持つタテカンの文字を観客にじっくりと読ませたり、ジャンプカットを執拗に行なったり。ラストは「ウイークエンド」の銃撃戦という感じ? 伊丹十三が奇妙な(変態?)教授役で出演し、「<何故?>と問うてはならない」などと申します。どうやらそういう作品らしい。

 洞口依子は「吉岡実」というモトカレ(?)を探しにキャンパスに迷い込むのだけれども、ようやく探し出した吉岡はもう過去の吉岡とは別人のようになってしまっているらしい。いつしか彼女は心理学教授の伊丹十三によって、「極限的恥ずかし変異」の実験の被検体にされてしまい、さらにはキャンパスは銃撃戦のまっただ中に‥‥。

 ストーリーらしきものを書いてはみたけれども、そのような連続したストーリーが確固として存在するわけでもなく、ストーリー展開は常に切断され、異化される。

 美術の助手に塩田明彦の名まえも読み取れ、共同脚本の万田邦敏らと共に、このあたりの人脈が古くから存在したことがわかる。途中でヴィデオ映像が何度か使われるけれども、このヴィデオカメラは当時犬童一心監督から借りたものだそうだ。

 




 

[]「廃校綺談(「学校の怪談f」より)」(1997) 黒沢清:監督 「廃校綺談(「学校の怪談f」より)」(1997)   黒沢清:監督を含むブックマーク

 これ以降の三本は黒沢清がテレビ用に撮った作品で、「ジャパニーズ・ホラー」真っ盛りの頃に「学校の怪談」シリーズで放映されたのが、この作品を含む三本。先に読んだ平野共余子の「マンハッタンのKUROSAWA」によると、この「廃校綺談」はニューヨークのジャパン・ソサエティーでの「日本のホラー」特集で上映されたようである。平野共余子さんによると、彼女が推薦したのは次の「木霊」だったのが、黒沢清監督は「廃校綺談」を自薦されたようである。

 「廃校」といってもすでに廃墟になっているわけでもなく、その年度で廃校になることが決まっている中学校を舞台としたストーリーで、それまで噂になっていた霊が姿をあらわしはじめ、ひとりの男子中学生の視点での怪異現象が描かれる。
 すべてが明るい校舎の中で起こる出来事で、暗闇のないところでどのように「恐怖」をあおることができるのだろう?という興味で観ていたのだが、霊っぽい人物を移動させるときに、歩かせるのではなくして横滑りするようにスムースに移動させることで異物感を際立たせていた。ガラス窓の向こう側にあらわれる少女が血まみれの手形をガラスに残し、さーっと遠ざかって行くシーンあたりに惹かれた。しかしなぜか、階段の上からすべり落ちて来る大きな氷の塊。





 

[]「木霊(「学校の怪談G」より)」(1998) 高橋洋:脚本 黒沢清:監督 「木霊(「学校の怪談G」より)」(1998)   高橋洋:脚本 黒沢清:監督を含むブックマーク

 ここでは舞台は放課後の高校になり、透視能力を持つという少女の、その透視実験を三、四人の生徒で行なおうというもの。一種のかくれんぼみたいなことで、少女が隠れた仲間らがどこに隠れているか、校内の平面図の上で当てて行こうという。透視能力の少女は乗り気ではない。しかしその平面図の上に黒い影があらわれ、隠れている生徒たちを追って移動し、彼らを飲み込んでしまう。教室の中に根をはって、天井まで届く樹木が生えている。

 飲み込まれた生徒は黒い液体となってしまうあたり、「回路」が思い起こされるだろうし、木のイメージは「カリスマ」だろうか。





 

[]「花子さん(「学校の怪談 春の物の怪スペシャル」より)」(2001) 黒沢清:監督 「花子さん(「学校の怪談 春の物の怪スペシャル」より)」(2001)   黒沢清:監督を含むブックマーク

 これは「記憶が残っている」と思いながら観ていた。廃校になった高校が舞台で、登場人物はその高校の卒業生四人。そのうちのひとりがトイレで「トイレの花子さん」を呼び出す儀式を行い、過去に彼ら彼女らがその高校時代にいじめ、その後事故死した「さくら子」を消し去ってほしいと願をかける。忌まわしい思い出から解放されるために。
 しかし、じっさいにあらわれた「花子さん」は、その四人をひとりひとり消滅させて行くのである。赤いドレスで不自然な動きをする「花子さん」は彼らを追いつめて動きをとれなくし、彼らの姿はふっと消えてしまう。
 「花子さん」の姿、その動きがいかにも不気味なのだけれども、その「花子さん」の背後で一瞬だけ顔をみせる「さくら子」の、その笑みを浮かべた顔こそが恐怖を呼び起こすだろうか。ラストには、「花子さん」はネオンの光る夜の街へとゆっくりと進んで行く。

 「恐怖」を呼び起こす、ということではこの作品が最強だろう。それはその恐怖のやってくる根源のところがある程度読み取れるからだろうか。「なぜかわからないけれども<それ>は来る」のではなく、「いじめられた子がその<復讐>の機会を、儀式によって期せずして与えられてしまった」ということである。儀式で「さくら子を消し去ってほしい」と願ったはずなのに、花子さんは儀式を行った側を消し去ることを選択する。それはそれで儀式を行った側からさくら子は消え去るわけだから、問題は「視点をどこに置いているか」ということにすぎない。





 

[]「タイムスリップ(「愛と不思議と恐怖の物語」より)」(2002) 黒沢清:脚本・撮影・編集・監督 「タイムスリップ(「愛と不思議と恐怖の物語」より)」(2002)   黒沢清:脚本・撮影・編集・監督を含むブックマーク

 大杉漣のひとり芝居というか。大杉漣演じる教授が生徒らの前で「タイムスリップ」について説明をする。「えー、今日はタイムスリップについてお話ししたいと思います。時間の流れがあるとき急に逆行し、一瞬にして過去に戻ってしまう現象のことをタイムスリップと言いますが‥‥」と説明を始めるのだけれども、その画面がじっさいにタイムスリップを起こし、大杉漣は同じサイクルを何度も何度も繰り返すことになって行く。これを大杉漣自身が「どうやらタイムスリップが起こっているようだ」と思い始めるようである。‥‥繰り返しのサイクルはどんどん短くなって行き、大杉漣はどんどんと狂って行く。

 途中で「タイムワープ」の話題に切り替えると実際にタイムワープがはじまったり、フクロネズミの話をしたり、結局はタイムスリップしてしまう。このだんだんに狂って行く大杉漣が最高で、映像ならではのパラドックス表現。撮影も編集も黒沢清監督自身の手になるもので、特に編集作業は楽しかったことだろうと思う。

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■ 2015-10-06(Tue)

 今日はまた渋谷で「黒沢清レトロスペクティヴ」を観る。しごとを終えてからゆっくりと出かけるが、時間的に昼食は渋谷で取ることになる。このところ前売チケットを大量に買い込んでしまったこともあって経済的なことを考えてしまい、なるべく安くすませようということで東急の近くのドラッグストアでパンとコーヒーを買ってすませることにする。三百円かからない。

 映画館へ行き、座席にすわってから買ったパンとコーヒーで昼食。今日も平日なので館内は空いている。だいたい午後二時から始まる上映は、二本観て終映時で五時ぐらい。すぐに駅に取って返せばまだラッシュアワーにかからずに、楽ができるのではないかと駅に急ぐ。五時半を過ぎたぐらいの時間に湘南新宿ラインがあり、それに乗れば乗り換えなしにターミナル駅まで行ける。渋谷駅に着いたのが五時二十分ぐらい。しかし渋谷駅の湘南新宿ラインの発着ホームは改札からはるか離れたところにあり、まずは恵比寿方面への山手線ホームを通り、階段を上がってさらに延々と歩かなければならない。ひとつ戻った恵比寿駅で湘南新宿ラインへの乗り換えは隣ホームへ移動するだけで簡単だから、その恵比寿方面への山手線ホームで山手線電車に乗って恵比寿に出て、それで湘南新宿ラインに乗り換える方が早かったりするかもしれない。それに、恵比寿駅から乗ってしまえば、渋谷駅や新宿駅で座席にすわれる可能性も高くなるのである。山手線ホームに上がるとすぐに電車が来たので恵比寿駅まで乗り、すぐに来た湘南新宿ラインに乗り換えた。そして予想通りというか、その恵比寿の駅ですぐにすわることもできた。ラクチンである。ちょっとうれしい。

 ターミナル駅でローカル線に乗り換え、自宅駅に着いたのは七時半。この日は南のスーパーが一割引の日なので行ってみたくなって立ち寄り、半額以下になっているパンやお惣菜を買ってしまった。晩ごはんはそんな献立。食べ切れなかったので明日の朝食や晩ごはんもこれでいける。

 予定では、明日もまた「黒沢清レトロスペクティヴ」を観に出かける。




 

[]「復讐 運命の訪問者」(1997) 高橋洋:脚本 黒沢清:監督 「復讐 運命の訪問者」(1997)   高橋洋:脚本 黒沢清:監督を含むブックマーク

 主演は哀川翔で、先日観た「蛇の道」のちょっとシリアス版(「蛇の道」のコメットさんを思わせるキャラも登場)、という趣を感じてしまう作品。まあ「シリアス」といっても、観ているとやっぱりどこか変でもある。その「変」というのは演出から感じられるものなのだけれども、それがこの作品の「ひっかかり」として記憶されることになる。六平直政が怪演。ネタバレになるけれども、哀川翔以外の登場人物は基本すべて死んでしまうのよ。

 




 

[]「復讐 消えない傷痕」(1997) 黒沢清:脚本・監督 「復讐 消えない傷痕」(1997)   黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 これまた「蜘蛛の瞳」の別ヴァージョン、という感覚もある作品で、復讐を終えた哀川翔のどこか空虚な日常、というか。笑っていいのか。演出もこの作品ではいろいろと試みられているようで、観ていても引きずられる面が多い。哀川翔と友人みたいなヤクザの親分を「勝手にしやがれ!! 黄金計画」に出ていた菅田俊が演じていて、またちがった味わいをみせてくれて楽しめる。あとは哀川翔と同じアパートの服飾学校生と哀川翔との「かわいい」交流。





 

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■ 2015-10-05(Mon)

 昨日観たバットシェバ舞踊団は、はっきり書けばちょっと期待はずれだった。昨日書いたようにわたしの期待感が大きすぎたことも原因かもしれないけれども、高いチケット代だったのに残念なことだった。そうなると今月末のマリー・シュイナールにまた過大な期待をしてしまうことになる。今回の公演は9年前に来日したときにやった「春の祭典」と、今回が日本では初のお披露目になる「アンリ・ミショーのムーヴマン」と。まだあと二十日も先になるのか。

 月末からはフェスティバル/トーキョーというプログラムも始まり、そこからいくつかのチケットを買ってもいるのだけれども、今日あらためてそのプログラムをみていたら、スペインの劇作家・演出家アンジェリカ・リデルという人による「地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)」というのに興味を惹かれ、観てみたくなってしまった。
 作者のアンジェリカ・リデルは次のように語っている。

「老いとは、愛を失うこと。また、将来的に愛される希望も失うことです。さらに老いは、三島由紀夫が言うように、情感が浅くなることも意味します。舞台を介してわたしは、観客と出演者の苦痛を掘り下げ、魂の深奥から、感性を研ぎ澄ます儀式を構築します。つまり演劇とは、疵口から噴き出されてくる、エネルギー解放の儀式なのです。しかし老いは、このような鋭利な情感を無残にも略奪します。ですから老いに美しさなど、微塵もありません」

 わたし自身、「老い」ということを身近に感じるようにもなっているし、情感が浅くなっているのも事実だろう。そういうことをなぐさめるような舞台ではないことは期待できそうだ。わたしはなぐさめられるのではなく、悲しむのではなくして喪失を受け容れたい。そういう舞台なのだろうか。

 先に買ってあるパリ市立劇場の「犀」とまったく同じ日程で、上演時間はこちらの方がずっと長い。ほんとうは23日のマチネ公演に行きたいのだけれども、その日はすでに「犀」のチケットを買ってしまっている。午後六時の開演で二時間四十分の公演というから、帰ってこられないということはない。21日ぐらいのチケットを買うことにしようか。

 わたしはもう本質的には深く絶望していて、その絶望を埋めることはできないと思っている。一昨日書いたように、本を読み、展覧会や舞台や映画を観ても意味のある蓄積などこれから生み出すことは出来はしないだろう。今はニェネントがいるからいっしょに生きる歓びもあるけれども、ニェネントがいなければもっと「絶望」と向き合うことになるだろう。本当はその前に、今のうちにもっともっと、その埋められない「絶望」と向き合うレッスンをしておくべきだろう。生きることを楽しみながらも、「絶望」を大事にしていこうと思う。

 などといいながら、午後からは先週録画してあった「あまちゃん」の最終週、最終回をみて楽しんだりした。いちおう再放送期間中に通して全部みたことになる。やはり楽しい作品ではあったことよ。

 



 

[]「赫い髪の女」(1979) 中上健次:原作 神代辰巳:監督 「赫い髪の女」(1979)   中上健次:原作 神代辰巳:監督を含むブックマーク

 石橋蓮司と宮下順子の共演。脚本は荒井晴彦。宮下順子の「一日中、ずっとしよう‥‥」というセリフにあらわされるように、ただひたすら愛欲に溺れる男女を撮った作品で、映像的に「愛のコリーダ」のような過激さはないけれども、中身はずっと濃いように思える。じっさいのところ、大島渚監督は「愛のコリーダ」を撮るにあたって、神代監督の「四畳半襖の裏張り」を参考にしたと認めているそうである。わたしは「四畳半襖の裏張り」は観ていないけれども、この「赫い髪の女」は「愛のコリーダ」の公開よりもあとに製作されていることを考えると、神代監督は「愛のコリーダ」への返答としてこの作品を撮ったのではないかと想像してしまう。

 物語は工事現場のダンプカー運転手の石橋蓮司が赤い髪の素性の知れない女、宮下順子を部屋に連れ帰り、そのまま同棲してしまうというだけ、みたいな話を中心に、やはりセックスで結び付くだけのような男女がその周囲を固める。
 これは石橋蓮司と宮下順子との関係ではないが、レイプ(輪姦)から始まるような関係も描かれ、そこには石橋蓮司も関わっていた。だいたいこの映画では最初のうちは男性は女性のことを「モノ」としかみていないようなところがあり、冒頭の輪姦シーンなども見ていて気もちのいいものではないのだが、そうやって生まれたカップルでは、あげくに女性の望みを聞いて駆け落ちすることになる。石橋蓮司と宮下順子にしても、だんだんに石橋蓮司の側に女性への情が育ってくるのがわかるようであり、ラストの濡れ場がちょっと切ないものになるわけだ。これはやはり宮下順子と石橋蓮司の演技力によるところも大きいだろう。

 日活ロマンポルノらしく低予算でちゃっちゃっと撮られたような印象を受けるようでもあるけれど、観ているといろんなところに神経が配られているのがわかる気がした。わたしは「愛のコリーダ」よりこの作品の方が好きだ。名作だと思う。





 

[]「マンハッタンのKUROSAWA 英語の字幕版はありますか?」平野共余子:著 「マンハッタンのKUROSAWA 英語の字幕版はありますか?」平野共余子:著を含むブックマーク

 著者はかつて著書「天皇と接吻」で評判になった方で、かつてはニューヨークのジャパン・ソサエティーで日本映画上映プログラムを担当されていた。その著者がジャパン・ソサエティーで関わられた1986年から2004年までの日本映画の特集上映に関するエピソードを、細かい記録と共に楽しく読ませてくれる書物。まずは著者のバランスのとれた視点に感服し、ユーモアにあふれた記述に笑わせていただくことになる。とにかくはニューヨークで日本映画を上映するには英語字幕がついていなければお話にならないわけで、そのあたりからこの書物の副題が来ている。

 著者は裏方としてのプログラム決定、チラシの作成、フィルム調達、実際の映写まで、たいていのことに関わっていらっしゃったわけだし、さらにゲストとして招聘する日本の映画監督はじめ関係者との逸話、マーティン・スコセッシやスーザン・ソンタグらも含むニューヨークの観客たちの話など、映画好きにはたまらない話題が満載の書物である。そのプログラムで上映された作品の簡単な紹介も書かれていて、わたしは特に、存在も知らなかった日本人監督によるドキュメンタリー映画に興味を持ち、機会があれば観てみたいものだとも思ったものだった。

 これは前にも書いたのだけれども、面白かったのは大島渚の「愛のコリーダ」を上映したときのことで、観客は最初から最後まで爆笑に次ぐ爆笑だったということ。なぜ笑うのか。著者はこれを、「ひとつには気恥ずかしいのでつい笑ってしまい、それが伝染する」のだろうと書かれている。著者がユーゴのベオグラード映画祭でこの「愛のコリーダ」を観たときも満員のセルビア人観客は大笑いの連続で、しかも「そうだそうだ」とか、「それは困った」とか合いの手をあちこちに入れるので、それがまた爆笑になったらしい。まあそういう意味ではたしかに「おおらかな映画」だったんだろうと思う。

 他にもニューヨークの困った観客たちのこと、フィルムの送付や受理でのトラブルのことなど、面白い話題があちこちにちりばめられている本である。手もと近くに置いておいて、時々めくってみるのも楽しい本にはなりそうである。全四十五章、各章が短いのもいい。

 




 

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■ 2015-10-04(Sun)

 今日は楽しみにしていたバットシェバ舞踊団の公演。もちろんバットシェバ舞踊団がどういうパフォーマンスを繰り拡げるカンパニーであるのか記憶も定かでないのだけれども、ただ三年前の公演を観て興奮したことは憶えているし、この日記でもそのようなことは書いてあるので、期待はふくらむことになる。

 久しぶりの横浜で、開演は午後四時からだけどちょうどいい電車の便がなく、早めに昼食をすませて十二時の電車で出かけることになる。ちょっと風邪っぽい体調だけれども、多少咳が出る程度。観劇のさいちゅうに咳き込んでしまったりしなければいいと、そのことだけがちょっと心配。天候は快晴で「秋」という感じ。暑くもなく寒くもなく快適である。

 電車の中で昨日借りた「ボヴァリー夫人」を読み始める。フローベール全集の一巻で、翻訳は伊吹武彦。文章は濃厚で美しく、さすがに世界文学の頂点という感じを受けるのだが、ちょっと濃過ぎてサクサクと読み進められるというものではない。もちろんつまらないというのではないが、読んでいてついついまぶたが重くなってしまうのはいつものことである。けっきょく、往路ではほとんど読み進めることもできなかった。

 さて、目的地は神奈川県民ホールなのだけれども、ここへ行くときにはいつも、どの駅で降りればいいのか、そして駅のどちら側に進めばいいのか迷ってしまう。そもそも、横浜界隈で「海」というのはJRとどのような関係の位置にあるのか、まるでわかっていない。それさえわかっていれば、神奈川県民ホールは海に近いところにあるわけだから、海を目指して行けばいいのである。
 関内の駅で降りれば様子はわかるだろうと、だいたいいつも関内の駅で下車することにしているけれども、本当は石川町駅とかの方が近くてわかりやすいのかもしれない。

 とにかくは三時にならないうちに関内駅到着。これならもう一時間出発を遅らせても良かったかと思うのだけれども、駅から県民ホールに歩いているうちに三時は過ぎてしまう。つまり、一時間遅い電車だとやはり開演に間に合わなかっただろう。
 駅を出るとすぐに横浜スタジアムがあり、これがいい目印になる。このスタジアムの脇を進んで行けばいい。それで歩いていて気付いたのだけれども、この横浜の街には「歩行禁煙」のサインが出ていない。さすがに歩きながら喫煙している人は見かけないけれども、道路脇で立ち止まって一服している人の姿はちょくちょく見かけるし、道路に吸い殻が落ちていたりもする。さすがにわたしは吸い殻を捨てたりはしないけれども(携帯灰皿はいつも持っている)、途中でちょっと一服、などということはやってしまうのである。

 時間があるのでゆっくりゆっくり歩いて、県民ホールに到着。まわりをぐるりと一周すると、今月末からこの県民ホールのギャラリーで始まる「鴻池朋子展」の看板が出ていた。赤い色が印象的な、カッコいい看板だと思った。何となく記憶している前回の彼女の大がかりな個展「インタートラヴェラー」がとてもすばらしかったと思うので、今回の個展も楽しみにしている。「インタートラヴェラー」の時からは作風も少し変わっているみたいではあるが。

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 開場時間も近くなったので、ホールのロビーに入ってみる。もう大勢の人がロビーにあふれていて、座る場所も空いていない。当日券を求める人たちの列も長く伸びている。
 ロビーにはいろいろなチラシも置かれているので、「鴻池朋子展」のチラシもどこかにあるだろうと探すのだが、なかなかに見つからない。ギャラリーの方に行ってみてようやく、隅っこの方に隠すように置いてあるのを見つけることが出来た。なんだかわざと人目につかないようにしているみたいで、「どういうつもりなんだろう」と思ってしまった。

 ようやく開場され、しばらくはホールの外で待たされてからようやく会場内へ。わたしの席はかなり前の方。これはダンサーが横いっぱいに拡がってちがう動きを見せたりするシーンもあるので、そういうシーンを全体から楽しむにはもう少し後ろの方が良かったところもあるだろう。

 一時間二十分ほどの舞台も終わり、ホールから出てみるとまだ外は明るい。そのまま直帰することにして、帰りの電車では「ボヴァリー夫人」を四十ページほど読み進めた。

 



 

[]バットシェバ舞踊団「DECA DANCE - デカダンス」オハッド・ナハリン:振付 @横浜・神奈川県民ホール 大ホール バットシェバ舞踊団「DECA DANCE - デカダンス」オハッド・ナハリン:振付 @横浜・神奈川県民ホール 大ホールを含むブックマーク

 この作品で独立したひとつの作品ではなく、これまでのバットシェバ舞踊団の九つの演目からの抜粋というもの。「デカ」は「九」だから、「九つのダンス」という意味合いのタイトルか。

 観客が入場したときから舞台ではひとりの男性ダンサーがスーツ姿で、軽いフットワークでソロを繰り拡げている。もちろん舞台装置も何もなく、まっさらのステージ。ここに左右後方からダンサーがひとりずつあらわれてきて、それぞれがバラバラな感じでほぼ上半身だけのダンスなのだけれども、これがある一瞬から全員がピタリとシンクロする。「さすが!」と思わせられたあとしばらく全員のダンスがつづき、ここで一旦幕が下りる。いわばここまでがイントロ。このあとは例の椅子を使って横いっぱいに拡がってのパフォーマンスになるのだけれども、わたしでも「バットシェバ」といえばこのパフォーマンス(ダンス)を思い浮かべるので、前回観たときにコレをやっていたのを記憶しているのか、一般的に有名なものなのだろう。長々とつづくリフレインと、終盤の展開がカッコいい傑作。

 それぞれの動き、間隔の取り方などはけっこうバラバラだし、ユルいところと精緻なところとを絶妙のバランスで共存させたという印象はある。サッ!とシンクロさせる魅力。イスラエル・ポップスを使ったグルーヴ感、クラシックのエレガントさ、現代音楽っぽいところでの実験的試みとかの配置もあった。途中でダンサーが客席に降りてきてそれぞれが女性観客をピックアップして舞台に上がり、ディーン・マーティンの「Sway」に合わせてそれぞれがデュオで踊るシーン、楽しかった。ここは舞台に上げられた観客の皆さんがステキだった。

 しかしやはりトータルにひとつの作品ではなく、過去の作品からのオムニバスというあたりでの、統一感に欠けたところを感じてしまっただろうか。また、こういうダンスをあまり面白くは思えなくなってしまった自分がいるのだろうか。期待が大きすぎたのかもしれない。ちなみに、前回2012年のさいたま芸術劇場での「SADEH21」の公演、この日記にも感想が書いてあるけれども、わたしは絶賛している。

 




 

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■ 2015-10-03(Sat)

 明日は横浜へ行く予定もあるので今日は休息日。風邪っぽいこともあるので、家でのんびりとゆっくり休む。

 先月の「おさらい」をみると、映画に関しては合計十一回映画館に通い、十三本の映画を観ていることになる。これだけ映画三昧になった月というのもこのところ記憶にないのだけれども、明日以降はダンスを観たり演劇を観たり映画を観たりと、今までよりも過密なスケジュールになるような気がする。そうするとまたいつもの問い、「そんなことをして何になるのか」という言葉を、誰かがわたしに語りかける。ただ、何をしてももう積極的な意味合いも見つけられないから何もしない、という選択肢を選ぼうとは思わない。自分の中に「絶望」が広く巣食っているのはたしかだけれども、もちろん何もしないでいるとただその「絶望」を見つめるだけになってしまう。それはやはり、わたしには耐えられないことだろう。そういう「絶望」を忘れるために本を読み、展覧会や舞台や映画を観る。それで仕方がないじゃないかと思う。そこでできるだけ自分の楽しめる選択肢を選んでいくことしかない。
 以前、記憶の蓄積というものがあったときには、そういういろいろな体験が自分を豊かにしてくれると、たとえそれが幻想であろうとも思い込むことができた。そこには何十年の蓄積があったから、新しい体験はその記憶の蓄積とのインプット/アウトプットによって、より深く楽しむことができたと思う。こういうことは何度も書いている気がするけれども、つまり多くの記憶を失った今、そういうインプット/アウトプットができなくなってしまった。なんとか去年の春以降の記憶は連続して蓄積できるようになっているけれども、本はほとんど読んでいないし、映画もせいぜい百とか二百とかの本数。けっこう観ているじゃないかという意見もあるかもしれないけれども、これでは新しい作品を観るときに参照できる本数ではない。
 これから先の自分の余生というか寿命を考えても、これ以降の体験で何か意味のある蓄積を生み出せるとは思えない。つまり自分はこれから先も限りなく「無」に近い存在であり続けるだろう。そう思ってしまうと、新しい体験など大した意味を持ち得ないだろう。本を読み、展覧会や舞台や映画を観ても、所詮はむなしいことなのだと思う。

 だからそれで、ただその場その場を楽しめさえすればいいではないかということになるのだけれども、わたしの記憶力も低下しているし、この日記の古い記述と今の記述を読み比べればわかるように、思考力自体が大幅に減退しているのもたしかなことだと思う。記憶や思考などを介せば「ほんとうはもっともっと楽しめるはずなのに」ということを思ってしまうと、やはりむなしくなってしまう。ただ、そういうことでも続けていれば時間はつぶせるし、ひょっとしたらせめて思考力ぐらいは盛り返してくることもあるかもしれない。
 何もしないでいれば衰退が続くだけだと思う。それをくい止めるために本を読み、展覧会や舞台や映画を観るのかもしれない。この日記を書くのもまた、そういうことの延長ではある。

 



 

[]「アカルイミライ」(2003) 黒沢清:脚本・編集・監督 「アカルイミライ」(2003)   黒沢清:脚本・編集・監督を含むブックマーク

 アップリンクが政策に絡んだ作品だった。アップリンクは浅井隆さんの会社で、わたしもイヴェントをやっていたときにはいろいろと接点があったようだ(というのも、そのアップリンクの方の名刺が先日いっぱい見つかったし、その中にはおぼろげながら記憶に残っている方の名刺もあった)。浅井さんともどこかでお会いしたことはあったと思う。

 この映画は何ていうんだろう。パンク・スピリッツというものの伝達みたいな主題と考えればいいんだろうか。
 主人公のオダギリ・ジョーは自分の感情を持て余すような存在なんだけれども、浅野忠信が彼に「待て」と「行け」というサインを教える。オダギリ・ジョーが待ち切れなかったとき、浅野忠信が代わりに犯罪を犯し、刑務所で「行け」のサインを残して自死する。オダギリ・ジョーは浅野忠信の父の藤竜也の仕事を手伝い、同居生活をはじめることになる。オダギリ・ジョーは浅野忠信の飼っていたアカクラゲを引き継いで飼育していて、いつかそのクラゲは床下から東京中の川に繁殖するようになる。
 ラストは、いちどオダギリ・ジョーと共に盗みをはたらいた若者の一団が道を歩いて行く長廻し。歩道を空の段ボールを蹴ったりしながらバラバラに歩いていた一団は、いつしか列を組んで車道を歩いている。刺激的なラストシーンだ。

 浅野忠信とオダギリ・ジョーが飼育するアカクラゲは猛毒を持っていて、これはオダギリ・ジョーの持つ、暴力へと結び付く情緒不安定さとリンクしているのだろう。それをパンク・スピリッツと呼び替えてもいいのではないのか。そのスピリッツを制御することで、パワーは若者の一団へと伝染していくのか。

 わたしは「アカルイミライ」というタイトルを、そのラストからも字句通りに受け止めるのだけれども、黒沢清監督が珍しくダイレクトに若い世代に送ったメッセージがこの作品なのではないかと思った。

 あと、映画の後半では、このあいだ観た「岸辺の旅」のように、浅野忠信が「死んだ人」として画面に登場してくる。

 




 

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■ 2015-10-02(Fri)

 今日は新宿へ、黒沢清監督の新作「岸辺の旅」を観に行く。しごとがあるので早い上映回のは観られないし、今日は内科医に行かなければならない。スケジュールを調べて、午後四時ぐらいからの上映回を選んだ。家を出るのは一時で間に合うので昼食も家でとり、ゆっくりとできるスケジュール。

 昨日からの晴天が続いていて、今日も「真夏日」になるようなことを予報でいっていた。午前中は長袖のTシャツ一枚でいたけれども、これでも暑いぐらいだった。ちょっと早めに病院へ行くと診察を待っている人もなく、スムースに診察を受けることができた。
 病院の帰りに図書館に寄り、前の本を返してあたらしく二冊ほど借りた。まず今読んでいる平野共余子の「ハリウッドのKUROSAWA」が面白いので、同じ著者による「天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲」を選んだ。あと、ちょうど今は図書館の長期休館がはさまれるということで貸出期間がいつもより長くなっているというので、何か本格的な小説を読もうと思い、ドストエフスキーにしようかとも思ったのだけれども、フローベルの「ボヴァリー夫人」を選んでみた。それと視聴覚資料もいつもより長く借りれるので、黒沢清の「贖罪」の前篇を選んだ。視聴覚資料はいちどに一作しか借りれないのが悩ましいところ。

 帰宅して冷し中華で昼食にして、出かける準備をする。着ている長袖のTシャツは暑いので半袖のTシャツに着替え、それだけでいいようにも思えるけれども、それでは日が暮れてから寒くなるかもしれないのでシャツを羽織り、借りてきたばかりの「ボヴァリー夫人」を持って家を出た。

 電車の中で「ボヴァリー夫人」を読み始めて、フローベルの筆力というのか、才気走った文章に刺激を受けるのだけれども、すぐに眠くなってしまい、乗換駅に着いてもひとり席にすわって寝続けていた。起きるともう誰も車両にいないのにびっくりして乗り換えし、乗り換えた電車でもまた眠り続けてしまった。とにかく眠くて眠くて、こんな状態で映画館の座席に座ってだいじょうぶだろうかと不安になる。

 新宿に着いてまずは映画館で座席を確保するけれど、平日の昼のせいだろう、とにかくはほとんど席が埋まっていない。まずは映画館を出てコンビニでブラックコーヒーの缶を買い、なんとか眠気を追い払おうとする。

 しかし、開映時間になって映画館の席にすわり、映画を観はじめてみると、最初からその映像に気もちを持って行かれる思いで、心配していた眠気などみじんも起きないでラストまで観続けることができた。よかった。ただ、映画を観ている途中で肌寒い思いがし、ちょっと悪寒までがはじまった。感覚としては風邪のひきはじめの症状である。悪化させないようにしないといけないと考え、帰ったらたまご酒でも飲んでおこうと思う。

 映画が終わって六時をちょっとまわった時間。さすがにこの時間帯になると下りの電車は満員で、また逆方向の電車で今日は大崎まで行き、そこから湘南新宿ラインに乗った。やはり新宿駅で座ることができたけれども、帰宅するのはちょっと遅くなってしまった。

 お留守番のニェネントにごはんを出してあげ、自分の晩ごはんも有り合わせものでかんたんにすませて、考えていたように「たまご酒」をつくって飲んだ。ちょっと咳が出るようだけれども、これ以上悪化しなければいいと思う。

 



 

[]「岸辺の旅」湯本香樹実:原作 芦澤明子:撮影 大友良英:音楽 黒沢清:脚本・監督 「岸辺の旅」湯本香樹実:原作 芦澤明子:撮影 大友良英:音楽 黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 どうも事前に、これは「ラブストーリー」なのだという思い込み、摺り込みがあったので、そういうところではやはり「これまでの黒沢清監督作品と連続してるではないか」と思うことになった。もちろん「ラブストーリー」であることは否定しないけれども、黒沢清監督が突然に、これまでにない演出をどっぷりとみせてくれるというわけでもないと思った。

 とにかく冒頭に、深津絵里がピアノ教師をしているということが示されたあと、彼女がスーパーで「白玉粉」を買い、自宅で白玉粉を水で溶き、お湯を沸かして白玉をつくるという、短いカット割りを観ただけでなんだか泣けてきてしまって、しばらくは涙を拭いながら画面を観続けた。

 映画はプロローグとエピローグにはさまれたきっちりとした三幕構成で、その第三幕の前に短い幕間劇があるという構成だと思った。どの幕も死者と生者との境界のあいまいな世界なのだけれども、小松政夫の出てくる第一幕は、ファンタジーとして特上に美しい。たしかにこれまでの黒沢清作品で、このようなファンタジーはなかったかもしれない。壁にかけられたカレンダーが最初は四月のカレンダーで、次に映るときには五月のカレンダーになっている。深津絵里と浅野忠信の夫妻は、しばらくそこに滞在していたのだろう。時間の止まってしまった世界として、旧式のパソコンがあり、棚にはなつかしいワープロ機「書院」の段ボール箱もみられる。ふいに小松政夫が消えた部屋は廃墟となり、死者との距離が鮮明になるのだが、このあたりはいかにも黒沢清らしいと思うところはあった。とにかくはこの廃墟の美術がすばらしかった。

 次に二人は浅野忠信が手伝っていた大衆食堂へ行く。ここは生きている人たちの世界で、のどかな日常が繰り拡げられるのだけれども、そこに住む人にも死者への記憶というものは残されている。

 深津絵里が浅野忠信の不倫相手の蒼井優と対峙する幕間劇、ここはまさに現実の支配する世界であり、蒼井優はその「現実」の代理人として深津絵里に向かっているようでもある。ただ座って、その顔だけでその場を仕切るような蒼井優がすばらしく、彼女の最後の「それ以上、何を望むんです?」という言葉は、現実世界から深津絵里に突きつけられた強烈な問いかけだと思った。この幕間劇の存在で、映画がグンと奥行きを拡げたような思いがする。

 さいごに二人は山奥の農村に行くのだけれども、ここはまさに生者と死者とが交差するような土地で、あの「回路」のフリップサイドのように思えてしまう。その「死者の世界」との通路の滝も登場するし、「回路」のように生者を連れて行こうとする死者もいる。深津絵里の早くに亡くなった父(これが首藤康之が演じている)と会ったりもする。ここで浅野忠信は村人たちを相手に「光子」の話や「宇宙の誕生」の話を講話している。ここに、この作品での「生者」と「死者」との秘密も含まれて語られているようで、やはり「回路」のことを思い出したりする。

 エピローグで浅野忠信は行ってしまうのだけれども、その二人が横たわる草むらがどこか殺風景で、「こういうところをラストに持ってくるのか」と思ったのだが、カメラが視点を変えると、その二人の前には海があるのだった。カメラは移動して草むらにひとり座る深津絵里をその風景の中に取り込むのだけれども、今思い出したけれども、このシーンは溝口健二の「山椒大夫」のラストシーン、なんじゃないだろうか。

 細かくは書かないけれども、芦澤明子のカメラももちろんすばらしく、そして何より、「フルオーケストラではないか」という大友良英と江藤直子の音楽が意外で、その音楽だけが前面に進み出てくるようなシーンにおどろいたものだった。夜の満月の映像をバックの音楽、この作品のクライマックスではあっただろう。

 まだ書きたいことはあるけれども、どちらにせよもう一度はかならず観に行きたい作品で、書き足りないことはそのときにまた書こうと思う。

 




 

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■ 2015-10-01(Thu)

 もう今日から十月で本格的な秋。朝晩もずいぶんと気温が低くなり、今までのように半袖では寒さを感じるようになった。しかし日が昇ると気温も上がり、こんどは長袖では暑苦しくなってしまう。悩ましい季節だ。ただ昨夜は大きな低気圧が日本を通過したようで、夜半ははげしい雨が降ったようだ。朝になってしごとに出るときも、まだずいぶんと雨が降っていたけれども、しごとが終わったときにはもう晴れてしまっていた。職場に傘を忘れてきてしまった。

 観たいと思っている黒沢清監督の新作「岸辺の旅」は今日から公開が始まるようで、今日は初日の舞台あいさつもあるようだ。ちょっと行きたいけれども混み合うだろうし、明日は金曜日でまだ平日だからそんなに混み合わないだろうと考え、明日行く計画を立てた。

 部屋の中に放り出してある段ボール箱が複数あって、もうその中身など見ないまま放置してあるのだけれども、今日その中のひとつをちょっと掘り返してみると、古い名刺ホルダーが見つかった。ちょうどわたしがイヴェント「crosstalk」をやっていた頃のもので、なんと全部で六百枚ぐらいの名刺が保管されていた。中には仕事関係のものもあるし(まだ仕事をやっていた頃のものだから、「crosstalk」をはじめる前のものだろう)、当時飲み歩いていた飲み屋の名刺なんかもある。だいたい時代順に整理されているようで、見ていくとアーティスト、アーティスト志望の方々の名刺が増えてきて、観客の方々の手書きのカードもずいぶんと並んでいる。チラシを置かせてもらった縁からなのか、ギャラリーや雑誌、メディア関係の方々の名刺も増えてくる。「こんな方ともお会いしていたのか」というような著名な方の名刺もある。しかしもちろん、わたしの記憶がなくなっていることもあり、その大半の方のことはまるで思い出すことができない。今でもなお、その消息が分かる程度の付き合いがある方というのはほんとうに少ない。それでもじっくり見ていくと、「そういう人がいた」と思い出されるような方の名刺もあり、そういう面では記憶の補完には役立つところもあるだろうか。

 しかしこの六百枚の名刺、すべてが表現を志望した方のものではないけれども、多くのアーティスト志望の方々はもう、アーティストにもならずに至ってしまったことだろう。そういうところで、ずいぶんと勝手な考えだけれども、その名刺の束がどこか「夢の残骸」のようにも思えてしまう。まあわたしだって、外の視点からみれば「消えてしまった人」ではあるだろうけれども。

 よく思うのだけれども、わたしはあの当時、着実にステップを上昇していたように思う。それはきっと、自分が固定したグループをつくろうという気もちから遠いところにいたということだと思う。そういう面で、自分のいるところからさらに上があるというのに、そこを目指そうとしない人々にははがゆい思いをしたものだった。わたしにしても途中で投げ出したところはあるけれども、交流関係としては過去とはずいぶんとちがうところまで上昇したように思う。「上昇」というのは、その分野の尖端の部分で活動する人たちと交流できるようになったということではある。それも自分のスタンスの持ちようのおかげだったと思うところはある。

 で、こういうことを考えると、多くの記憶を失った今、そういうこともまた多く失ってしまっていることを悲しく思うしかない。単に記憶を失ってしまった悲しさではない。そういうところで、自分の「絶望」の深さをあらためて思い知ったりもするのである。

 



 

[]「血と暴力の国」コーマック・マッカーシー:著 黒原俊行:訳 「血と暴力の国」コーマック・マッカーシー:著 黒原俊行:訳を含むブックマーク

 先日この原作からの映画化作品「ノーカントリー」を観て、本棚にこの本が保存されていたので読んだのだが、とてもエキサイティングな読書だった。どうしてもその映画と比較して読んでしまうのだが、そういう感想を。

 まずはコーエン兄弟の映画作品が、思った以上にこの原作に忠実に映像化していることで、たとえば道路に鳥がいたとか、鹿の姿が見えたとかいうちょっとした描写までも忠実に映像に入れていたりする。もちろん映画の尺では収まり切らないところもあったようで、ある意味で重要な登場人物とその挿話は、すっかり映画ではカットされてもいるわけだ。この部分、「追われる男」ロスとヒッチハイカーの若い女性との交流とその結末は、原作の主題を拡げかつ深める役割を果たしていたようで、映画でオミットされたのは残念だけれども、たしかに省いてしまうことで「追う男」シガー(この翻訳では「シュガー」)の摂理、約束をこそ強調することになっただろうか。

 この原作、映画と同じように保安官の語りと物語とが並列して描かれるのだけれども、やはりその保安官のこの事件全体との内面的な関わりが、より深く描かれているようだった。保安官とシュガーとの現実での接点というのは、この原作でもまるでないのだけれども、しかし保安官がシュガーの「約束」にほとんど巻き込まれていることは納得せざるを得ない。

 ストーリーラインは単純なもので、とにかくは「追う男」と「追われる男」。一方は追いつめようとし、一方は逃れようと必死になる。保安官は犯罪を防ぐという観点から「追われる男」を救おうとするのだが。

 「追う男」の持つ独特の摂理はほとんど超人的で、彼の考える「約束」を違えるような存在は容赦なく殺害していく。寡黙な男であり、彼の内面はまるで読み取れないといっていいだろう。「幽霊のような存在」と呼ばれるが、わたしは先日観た黒沢清監督の「地獄の警備員」の警備員を思い出した。「それを知るには勇気がいるぞ」というその警備員の富士丸の言葉は、そのままこの作品のシュガーが発しても違和感がない。

 「追う男」以外の登場人物はよく語る。そして、彼ら彼女らは、皆とても知的な会話を繰り拡げ、判断を見せる能力を持っている。そういうところがこの作品を読みがいのある作品にしていることもたしかだと思う。「追われる男」モスも哲学を持っているし、作品全体を横断する保安官の語りは、まるで世界全体を包括するようでもある。

 わたしはどうやらこのコーマック・マッカーシーの作品は他にも読んでいたようだが、もうちょっと読んでみようかと思うようになった。





 

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