ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-02-29(Mon)

 夢。この夢の中でわたしは学生である。その日は授業が早く終わったので、Qさんといっしょに帰ることにした。帰り道にオープンテラスのカフェ/バーのような店があり、そこで一服して行くことにした。店に入ったときには、わたしたちはいつしか三人になっていた。Qさんが「まずはコーヒーを、そのあとにランチ、しばらくしたら生ビールを下さい」と注文をする。わたしは「変な注文の仕方だな」と思うのだけれども、コーヒーを飲んでいて、しばらくしたらカレーライスが出て来た。そのカレーは食べないで、しばらく三人で話をしていたら外の雲行きがあやしくなってきて、雨が降り出した。わたしたちは屋根のない席にいたので避難したけれども、テーブルに残したカレーライスは雨にあたってしまう。
 この店はもう出ることにして、あらためて坂の下の店でビールを飲もうと誰かがいい、勘定を払って店を出ることにする。わたしは食べられなくなったカレーの代金は払わなくてもよかったのではないかと思い、そのように店の人に聞くと、手続きがあってすぐには返金出来ないけれども、返却出来るという。先に行った二人を呼び止め、出してもらった返金のための書類を書く。その書類が思いのほかややっこしくって、書式で指定されたところにゼロを並べて書き込まなければならないのだけれども、店から渡されたボールペンが書きにくいこともあって、まちがえて二回も書き損じてしまう。ほかの二人も同じ書類を書かなければならないというのに、二人ともまるで書類を書き進めていない。わたしは「何やってるんだ」と思う。
 外に出ると、山あいにみえる雲がまるで原爆雲のようにみえるので、二人にそういってみるのだけれども、よくみるとそれは、そんなに離れていないところにある杉のような背の高い木の上の方に雲がかかっていて、それで原子雲のようにみえるのだとわかる。
 坂の下の喫茶店に寄る。内装は白木の板を張りめぐらした、手づくりの感じのこじんまりとした店。店の中にRさんがいる。Rさんに会うのもずいぶんと久しぶりのこと。Rさんは近いうちに公演を予定しているのだが、わたしに「あなたはやっぱりチベットに行くから来られないのかな」という。わたしは公演に行けない方便として「チベットへ行く」などといってあったようなのだけれども、行く気はない。「チベットへは、行かないことになるかもしれない」とRさんにいう。
 店の人が、「外の学生たちがいつもうるさくってね」と話している。窓の外をみると、そこで女子学生たちがリサイクル品などを売っていたようで、その売られていたものが木箱に入れたまま放置されていて、その先の坂道を、制服姿の三人の女子学生がしゃべりながら上がって行くのがみえた。

 「夢」といえば、今読んでいるボルヘスの「異端審問」の中に、「コウルリッジの夢」という文章があった。コールリッジの詩に「クーブラ・カーン」という作品があることは、わたしもそのタイトルだけはぼんやりと記憶していたけれども、コールリッジはその蒙古の皇帝の王宮をうたった詩を夢の中で直感的に知覚し、目覚めるとその詩を書き留めた。夢の中では三百行ほどはあったその詩は、忘却によって五十行ほどを書き写すにとどまったという。このように夢の中で作品の啓示を受けた例として、作曲家タルティーニの「悪魔のトリル」があり、またスティーヴンソンは「ジギル博士とハイド氏」の筋を夢によって教えられたという。ボルヘスはこの話につづけて、皇帝クーブラ・カーン自身も夢の啓示によってその王宮を建設していたのである。夢と夢との感応。このことにわたしが何か付け加えるならば、そのクーブラ・カーンの建てた王宮はコールリッジによって「ザナドゥ」と呼ばれ、これはまさにわたしが昨日観た「市民ケーン」の中で、ケーンが建てる豪邸の名前でもある(もちろん、「ザナドゥ」とは、その後幻想的な楽園の代名詞とされるわけで、オリヴィア・ニュートン=ジョンが出演し、同名の主題歌がヒットした映画のタイトルにもなっていたことを、わたしたちは知っている)。これもまた偶然の一致だろうか。

 さて、昨日はチキンステーキを食べたのだけれども、冷凍庫にはけっこう以前に買って放り込んだままになっている、ステーキ用の牛肉も場所をとっている。今日はこれを食べることにした。昼すぎから外に出して自然解凍させ、フライパンで調理した。ちょっと加熱しすぎてウェルダンになってしまったけれども、かなり以前に買ったままにしてあった肉としては、なかなかにおいしかった。

 映画は、キェシロフスキの「トリコロール」三部作を観た。キェシロフスキについて記憶していることは何もなかったけれども、楽しんで観ることができた。



 

[]「トリコロール/青の愛」(1993) クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督 「トリコロール/青の愛」(1993)   クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督を含むブックマーク

 ジュリエット・ビノシュの主演。彼女は著名な作曲家の妻(彼女にも相当な音楽の素養はあるようだ)だったのだけれども、交通事故でその夫と娘とをなくしてしまう。過去のすべてを整理して、パリ(?)のアパートでひとり、隠遁生活を送ろうとするのだけれども、夫の同僚(ビノシュに想いを寄せている)が未完成の夫の遺作を完成させようとしていることを知る。また、夫には若い愛人があったことも知ることになる。それは、彼女の隠遁指向を変えさせるものだったのだろうか?

 ストーリー展開で納得出来ないところもあるのだけれども、「映画」として、その演出のカッコよさには惹かれるものがある。「青の愛」ということで、青という色をフィーチャーするわけだけれども、それはジュリエット・ビノシュにとっての「癒し」の空間であるだろうプールの「青」で、特に印象に残る。また、ジュリエット・ビノシュの抑えた演技というものも「さすが」という感想を持つ。登場人物も閉鎖的に限定するのではなく、例えばアパートに住む娼婦の話なども加えたのがよかったと思う。印象には残る作品だった。



 

[]「トリコロール/白の愛」(1994) クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督 「トリコロール/白の愛」(1994)   クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督を含むブックマーク

 こんどは「白」。その色彩は、ポーランドの「雪」にあらわされていたのだろうか。ちょっとコミカルな展開とはいえ、ストーリー展開はめっちゃ乱暴だとは思う。その「乱暴」さの中に愛おしい部分もあるのはたしかだけれども、わたしにはわかりかねるものだっただろうか。



 

[]「トリコロール/赤の愛」(1994) クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督 「トリコロール/赤の愛」(1994)   クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督を含むブックマーク

 「赤」。ここはイレーヌ・ジャコブとジャン=ルイ・トランティニアンとでじっくりとみせる一篇。脚本もよくって、過去と未来とがうまく現在の中に取り込まれているし、夜の街が美しく描かれている(舞台はパリではなくて、ジュネーヴらしい)。
 この「トリコロール」三部作は、それぞれが「自由(青)・平等(白)・博愛(赤)」をあらわしているらしいけれども、ま、この作品がこれで「博愛」かどうかというと、やはりそういうことになるのかなあと、三部作ではいちばん納得がいくだろうか(さいごに、それまで遭わなかった二人をああいう「事故」で遭わせるというのもあざとい気もするけれども)。空間の拡げ方もいい。

 しかし、やはりジャン=ルイ・トランティニアンがすばらしい作品でもあって、終盤に彼がいちどだけみせる笑顔が、なんともチャーミングでもあった。「三部作の三本でどれがいちばん好きか」といえば、やっぱりこの「赤の愛」だろうな。バックのヘリコプターの音、嵐の音などのノイズ音が印象に残った。



 

[]二〇一六年二月のおさらい 二〇一六年二月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●TPAMショーケース「アイザック・イマニュエル 風景担体 LANDSCAPE CARRIER」@横浜・BankART Studio NYK
●「15年の実験遍歴 私的な感謝状として」手塚夏子:作・出演 @横浜・STスポット
●<外>の千夜一夜 VOL.2「赤レンガダンスクロッシング」for Ko Murobushi @横浜・赤レンガ倉庫1号館 3Fホール

伝統芸能:
●文楽「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場
●文楽「義経千本桜」道行初音旅 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場

映画:
●「世紀の光」(2006) アピチャッポン・ウィーラセタクン:監督
●「キャロル」パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督

読書:
●「ウィルソン氏の驚異の陳列室」ローレンス・ウェシュラー:著 大神田丈二:訳
●神谷美恵子著作集1「生きがいについて」神谷美恵子:著
●「池上彰の世界の見方 15歳に語る現代世界の最前線」池上彰:著
●「モレルの発明」アドルフォ・ビオイ=カサーレス:著 清水徹+牛島信明:訳

DVD/ヴィデオ:
●「市民ケーン」(1941) オーソン・ウェルズ:製作・脚本・監督・主演
●「ルードウィヒ/神々の黄昏【完全復元版】」(1972) ルキノ・ヴィスコンティ:監督
●「マッドマックス」(1979) ジョージ・ミラー:監督
●「ニックス・ムービー/水上の稲妻」(1980) ヴィム・ヴェンダース、ニコラス・レイ:監督
●「マッドマックス2」(1981) ジョージ・ミラー:監督
●「ファニーとアレクサンデル」(1982) スヴェン・ニクヴィスト:撮影 イングマール・ベルイマン:脚本・監督
●「死への逃避行」(1983) クロード・ミレール:監督
●「マッドマックス/サンダードーム」(1985) ジョージ・ミラー:監督
●「エイリアン2」(1986) ジェームズ・キャメロン:監督
●「悪魔の陽の下に」(1987) ジョルジュ・ベルナノス:原作 モーリス・ピアラ:監督
●「赤い航路」(1992) ロマン・ポランスキー:脚本・監督
●「トリコロール/青の愛」(1993) クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督
●「トリコロール/白の愛」(1994) クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督
●「トリコロール/赤の愛」(1994) クシシュトフ・キェシロフスキ:脚本・監督
●「マグノリア」(1999) ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督
●「トーク・トゥ・ハー」(2002) ペドロ・アルモドゥヴァル:監督
●「アンストッパブル」(2010) トニー・スコット:監督
●「ダーク・シャドウ」(2012) ティム・バートン:監督
●「her/世界でひとつの彼女」(2013) スパイク・ジョーンズ:脚本・監督
●「インターステラー」(2014) クリストファー・ノーラン:脚本・監督
●「唇を閉ざせ」(2014) ハーラン・コーベン:原作 ギヨーム・カネ:監督
●「生きものの記録」(1955) 黒澤明:監督
●「人喰海女」(1958) 小野田嘉幹:監督
●「月曜日のユカ」(1964) 中平康:監督
●「日本侠客伝」(1964) マキノ雅弘:監督
●「細雪」(1983) 谷崎潤一郎:原作 市川崑:監督
●「三里塚に生きる【特別編集版】」(2014) 大津幸四郎・代島治彦:監督

 

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■ 2016-02-28(Sun)

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 誕生日を迎えた。誕生日を迎えて歳を重ねるということは、人は生まれてからずっと直線的に成長して行くという考えをあらわしているというか、そこで誕生日を祝うということになるのだろうか。そういうところではわたしは二年前に精神的な成長に大きなブレイクがあるので、誕生日といっても、フィジカルな意味合いしか持たない。
 まあ誕生日を祝うというのはそういうフィジカルな意味合いでのことかもしれないけれども、じっさいにそういう日を迎えてしまうと、あらためて自分の「状態」について思いめぐらせてしまったりする。けっきょく、今生きている「わたし」というものは、記憶を失う前の「わたし」に向けて、少しでもその地点へ戻ろうともがいている状態、といえるだろう。
 「過去のわたし」はどんな「わたし」だったのか、その「過去のわたし」に戻れなければ、「これからのわたし」というものもありえないのではないのか。そして、その「過去のわたし」を回復しようという試みは、ぜったいに成就され得ないものなのであろう。まだわたしが二十とか三十ぐらいの若さにあるのなら、そこからまた仕切り直して新たなスタートを切ることも可能だろう。それは、その若さであれば、考えられる「未来」という時間は、まだまだ計算出来ないくらいの長さはあるだろうということ。
 しかし、わたしの場合はこれから先の時間はだいたい想像がついてしまうのである。そんな中で、はたして「過去のわたし」の地点に戻ろうとする「もがき」が有効なものなのかどうかもわからないけれども、そういう行為を抜きにしてこれからの時間を生きて行こうとすることは不可能な思いもする。何度も書いているけれども、行為というものには過去へのレファレンスを求める「反省」が付きものだろうと思うからである。「若さ」というものは、そういう「反省」を無視して素っ飛ばせるという「強さ」の、その別の謂いなのかもしれない。わたしにはそれはない。

 しかしそれでも「誕生日」というものがひとつの区切りになることはたしかなことで、それをきっかけにして行動を即すというのもいいものだろうと思ったりする。まあ誕生日を迎えたから歯医者に行ったりということはしないと思うけれども、やはり近々、ネットでみつけた、国分寺にあるてんかん専門のクリニックに行ってみようかとは思っている。

 だから今日は、どこかへ出かけて何かおいしいものを食べたりするのもいいなと思ったりして、ウチのそばの寿司屋でもいいと思ったのだけれども、はじめての寿司屋でカウンター席とかにすわると緊張してしまいそうで、それではちっともおいしく食べられないだろうし、この案はすぐに却下。東京に出て、大きなレストランとか中華料理の店に行ってもいいのだけれども、今日は日曜日だし、混み合っているのもイヤだからと却下。ターミナル駅の映画館のあるビルの、その映画館の階にはちょっと良さげな料理店が並んでいて、あそこなら混み合ってないからいいかなと思ったけれども、先日行ったときにみてみたら、全店閉鎖されてしまっていたのだった。それでは、つまらないけれども、スーパーでちょっと豪華な食材でも買ってクッキングしてみようかとか考える。
 それでけっきょくは、ちっとも豪華でないのだけれども、鶏ムネ肉を買ってきてチキンステーキをつくり、つけあわせにポテトサラダをつくったりした。ポテトサラダをつくるのはきっとはじめてのことだけれども、けっこううまくいって、これからもときどきはつくってみたいものだと思う出来だった。チキンステーキというのは料理の腕とかとは関係のないものだろう。おいしいソースがつくれればいいのだけれども、「こんなものだろう」と、かなりの量を一気に食べた。

 夕方から録画してあった「市民ケーン」を観て、夜には卓球の国際選手権の団体女子のゲームをみた。卓球という競技はスピーディーでわかりやすいし、今回の日本代表の選手らのパーソナリティにも、それぞれに魅力的なところがあると思った。



 

[]「市民ケーン」(1941) オーソン・ウェルズ:製作・脚本・監督・主演 「市民ケーン」(1941)   オーソン・ウェルズ:製作・脚本・監督・主演を含むブックマーク

 音楽がバーナード・ハーマンなんですね。ジョセフ・コットンも出てるし、「あれ? この映画って戦後の作品だったっけ?」とか思ってしまった。調べると、バーナード・ハーマンにとってもジョセフ・コットンにとっても、この「市民ケーン」が、彼らのキャリアの(ほぼ)スタートになっているみたいだった。撮影はグレッグ・トーランドという人で、この方は才能ある撮影監督だったようだけれども、早死にされてしまったようだ。

 とにかく、演出技法としてたしかに卓越した作品で、冒頭の主人公がスノーボールを落としての、そのスノーボールに映る景色だとか、クレーンを使った大胆なショットとか、主人公の演説の場面での移動カメラとか、今でも観ていておどろかされるものがあるし、ここまで才気走った演出というのも、現代の作品ではみられないものだろう。
 この映画の素晴らしさはまずはその演出技法にあるわけで、今のハリウッドというところは過去の名作をリメイクしたがるものだけれども、この作品をリメイクしようとしたら、すべてのショットを模倣しなければ、この作品の良さは再創造(リメイク)できるものではないだろう。つまり、この作品を超えることは出来ない。

 しかしなぜ、この作品のタイトルは「<市民>ケーン」なのか。主人公は世界を思いのままにあやつれるかという大富豪なのだけれども、スキャンダルで政治への野望を絶たれ、どんなに金を使っても愛する女性の心を奪い取ることはできない。ザナドゥと名付けた大邸宅に住み、その生涯は<市民>とはかけ離れたところにあるように思える。でも、そんな主人公にとって、「薔薇のつぼみ」というものにこそ、まだ彼の中に<市民>と同じこころが存在していたということだろうか。

 わたしは多少はセリフの聴き取りも出来るところもあるし、映像で出て来る新聞の見出しの意味もわかる。そういうところからみて、この日観た日本語字幕版の字幕はあまりに省略しすぎていると思った。「こんな字幕で伝わるのかしら?」という感じ。



 

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■ 2016-02-27(Sat)

 また夢をみた。
 町の祭りが終わった。町の皆が祭りにあとにスーパーに押し寄せるので、スーパーの中は空っぽになっている。わたしも行ってみるのだけれども、手製のピザのような、お好み焼きのような作りかけの材料が山のように売れ残っているのがほとんど。大きな器の中に特大のウィンナーにソーセージが残っていたので、それを選んで買う。スーパーの主人はNさんだった。わたしはOさんといっしょにいて、Oさんはわたしの家に泊まることになる。家に戻り、自分の財布から奇妙にたたまれた紙幣を母に返すのだけれども、母にはその折りたたみ方で苦情をいわれる。
 朝になって、わたしはOさんと出発し、その町を走っている路面電車に乗ることになる。わたしは出かける前に小さなバッグに持って行くものを詰める。本が二冊と、その他こまごましたものとか。「持って行くものが多くって」などと、もたつきながらOさんにいいわけじみたことをいっている。
 路面電車の停車場は少し先のところなのだけれども、線路はこちらの方の道路にも引かれていて、緊急のときにはこちらの方まで電車が進入してくることが出来るはずである。道沿いの店の窓からPさんの顔がのぞいていて、Oさんが彼を呼ぶ。わたしはPさんに「ねえ、電車だけど、今日は特別にちょっとこっちの方まで来てもらえないものかな」というのだが、Pさんは「ありえない」という反応。道路はいつの間にかカラフルな出店であふれていた。

 今日もしごとから戻るとニェネントが待ちかまえたように外に飛び出すのだけれども、ニェネントが外に飛び出したとたんにとなりの人が来て、おどろいたニェネントはすぐに部屋の中に飛んで戻ってしまい、ほんとうにつかの間の外出になってしまった。
 わたしのとなりの部屋は、どこかの建設関係(?)の会社が中継基地とか職員の待機場所とかに借りているようで、人の出入りが多い。ぜったいに人慣れしないニェネントにとっては悩ましい隣人である。かわいそうなので午後から外に出してやると、しばらくは一階のエントランスを行き来して、ついには二階への階段を昇って行って、二階のエントランスで探索を始めてしまった。わたしだって二階に昇ることはないので、ニェネントについて行くと不審者になってしまう。それに二階の住民にはちょっと問題もあるので、あまり長居をさせてはいけないと、ニェネントを抱き上げて部屋に戻った。ニェネントを抱き上げるときに、よくニェネントがわたしの手をすり抜けて逃げ出さなかったものだと思うのだけれども(いつもならそうする)、ニェネントにも不安心があったということだろうか。



 

[]「インターステラー」(2014) クリストファー・ノーラン:脚本・監督 「インターステラー」(2014)   クリストファー・ノーラン:脚本・監督を含むブックマーク

 前に映画館で観ていて、そのときにはもう「側頭葉てんかん」を抑える薬を服用しているときで、記憶にもんだいはないはずなのだけれども、この映画のことはほとんどおぼえていない。ただ、それほどに気に入りはしなかった記憶はある。今回観たあとにいろいろと検索してみても、どうやら一般にはかなり絶賛された作品のようだけれども、やはりわたしにはピンと来なかった。

 「映像の美しさ」を誉める人も多いようだけれども、いったいどこが美しい映像だっただろうか。あの旧電電公社のマークみたいなブラックホールあたりの、宇宙空間の美しさということなのだろうか。わたしはそんなにSF映画をたくさん観ているわけではないけれども、それほどのものだろうか。この作品はあの「2001年宇宙の旅」への対抗意識も濃厚だと思うのだけれども、そういう宇宙の映像においても「2001年」には遠く及ばないことはなはだしい、というのがわたしの思いである。それ以外の場面もどれも「洗練」というには程遠いだろう。終盤の「五次元」だか何だかという空間描写も、「そんな程度のものなのか」ぐらいの感想でしかない。

 ではストーリー展開はどうなのか。「今までのSFを超えた、相対性理論と量子論、重力理論を取り入れた画期的な映画」という賛辞も目にしたけれども、基本はそういった事柄もこの映画では「言葉」として観客に伝えられるもので、そういう面がストーリーに活かされたところに目を向けても、「それは空想だろう」という感想ばかりになるし、その他にも「なぜ?」というストーリー展開が多すぎる。
 まず、主人公のクーパー(マシュー・マコノヒー)は本棚の本が落下する現象などからある座標を割り出し、そこに行くと待ちかまえていた人たちに「君しかいない」と「ラザロ計画」というやつのパイロットにされてしまうのだけれども、「ずいぶんといいかげんな<計画>なんだなあ」と思わざるを得ない。クーパーこそがその任務にベストの人選になるのなら、NASAの方から「今、クーパーはどこにいるのか」と必死で探すはずであろう。そんな何年も宇宙飛行士としてのブランクのあるクーパーのような男が、それなりに人材を抱えるはずのNASAのどんなメンバーよりも適任というのがわからない。しかも宇宙船に乗り込むとその後はしっかりとその場を取り仕切るリーダー的な存在になってしまうし、「NASAってずいぶんとアバウトなんだなあ」と思わせられる。
 そしてしかも、いったいクーパーにNASAの座標値を送ったのは誰かというと、未来のクーパー自身が五次元空間から自分にあてて情報を送っているのである。映画はとつぜんに「ドラえもん」とか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」モードになってしまい、観ていてしらけてしまう。だいたいその五次元空間から過去の自分の部屋がそう簡単に見つけ出せるものなのか、そういうところはそうなってしまってるのだから仕方がないという展開だけれども、そんなことが出来るんだったら、NASAに向けて「あの星に行ってはいけない」とか、「あの星を目指せ」とか、もっと重要なデータをダイレクトに<いちばんデータを必要としているところ>へ<最重要の>データを送ればいいではないか。まあこういうことはいっても仕方がないことだけれども。

 演出もグダグダで、とても映画づくりがお上手とはいいがたいところも、観ていて熱中出来ない大きな要素になっているし、やはりどうしても「2001年」と比べてしまうことになる。そういうところでいえば、この「インターステラー」は「理論」は説いているかもしれない。しかし、そこに「哲学」はない、ということになる。それはひとえには「時間」とは何か、ということ。その答え以前に、そういう問いかけ自体が欠如しているということだと思う。先にちょっと書いたように、主人公のクーパーは五次元の世界で過去の自分を見るのだけれども、「それはどういうことなのか」という問いがない。
 別にSFの世界での「タイムマシンのパラドックス」をあえて持ち出そうとは思わないけれども、「五次元の世界では過去も未来もない」と考えられるとして、果たしてこの映画で描かれたような五次元空間というのは成立するであろうか。「描き得ないもの」を描いてしまったというパラドックスはこの映画にはあるだろうけれども、それは「過誤」として解決できるもんだいではあるだろう。このパラドックスを乗り越えるには、「無限」というものを描く必要がないだろうか。ここでいう「無限」とは、「あることを決定する<わたし>」という存在のうしろには「その決定を促す<わたし>」がいて、さらにそのうしろにはまた「その決定を促す<わたし>」がいる、という無限の連鎖があるということでもある(これはホンの一例)。そういう描写は「2001年」には読み取れたのだけれども、この「インターステラー」にはない。単にややっこしい「娯楽作品」でしかなく、わたしには面白がれるような作品ではなかった、ということ。



 

[]「ニックス・ムービー/水上の稲妻」(1980) ヴィム・ヴェンダース、ニコラス・レイ:監督 「ニックス・ムービー/水上の稲妻」(1980)   ヴィム・ヴェンダース、ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 末期肺ガンのニコラス・レイをヴィム・ヴェンダーズが撮り、さらにニコラス・レイが演出するという、二人の監督による合作。「ニックス・ムービー」というのがヴェンダースの撮った部分へのタイトルで、「水上の稲妻」というのがニコラス・レイの部分のタイトルなのだろう。

 まずはニューヨークのニコラスの部屋にヴェンダースが訪れるところから映画は始まり、この部分が二人の監督それぞれが演出したというのがいちばんあらわな部分だろうか。ネットでいろいろとみてみると、ヴェンダースはニコラス・レイの健康状態が予想以上に悪いので、二人での共作をあきらめ、代わりに死期も近いらしいニコラス・レイのドキュメンタリーを撮ることにしたという。それでも映像を観ていると、ドキュメンタリーを装ってはいるけれどもしっかりと演出されているだろうパートと、まさにドキュメンタリーというパートとがだいたいわかるだろう。けっきょくは作品としては死に近づいて行くニコラス・レイをめぐる作品になっていることはたしか。作品の中では、末期ガンで苦しむニコラスを撮りつづけることが彼を苦しめることになっているのでは?とヴェンダースらスタッフが気に病むシーンもある。

 このときヴェンダースはコッポラに招かれて「ハメット」という(今では忘れられた?)作品を撮っているさいちゅうで、コッポラとの高尚に疲れ果てていた時期である(プロデューサーだったコッポラは途中段階の「ハメット」に大いに不満があったらしく、映画づくりは暗礁に乗り上げていた)。この作品の中でも、ニコラスがヴェンダースの新作のことを聞き、「予算は?」という問いに「1000万ドル」と答えたヴェンダースに、「オレならその1パーセントで作品を撮ってみせる」というシーンがある。どうもヴェンダースはその「ハメット」で消耗したおのれを、この作品で救済しようとしたのだろうか。

 作品は、「映画というものが、それに関わる出演者、そしてスタッフら多くの存在によって成り立つもの」ということがよく読み取れると思う。ロニー・ブレイクリーが出てくるのだけれども、彼女はこの時期ヴェンダースの奥さんだったのだな。



 

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■ 2016-02-26(Fri)

 夢。母と弟とわたしは、どこか旅行先から帰ってきたところのようだ。母と弟はわたしのいる隣の部屋で旅行荷物を片づけて、ふたりで食事をしているようだ。わたしの食事のことは何も考えてくれていないようなので、わたしひとりで外に食事に行くことにした。少しは母へのあてつけの気もちもある。時計をみると午後九時半を過ぎていて、もうレストランや食堂も閉まりはじめている時間だと思う。外に出ようとしてケータイなど持って出た方がいいと思い、母のいる部屋へ行って旅行の荷物の中から捜す。バッグの中からまずハンカチが見つかり、次にタバコとライターが見つかった。これらも持って出ようと思う。ケータイも見つけて外に出ようとしたら、靴がなかった。どうやらさっきまで靴を履いていたのが、荷物を捜したときに靴を脱いで、そのままにしてあるのだと思い当たる。部屋に戻ると、思った通りに靴が揃えて脱いであった。
 時間はもう十時になる。以前父と娘とこのくらいの時間に外に食べに出たとき、もう開いている食堂がなくってずいぶんと遠くまで歩いたことを思い出す。今夜もそういう覚悟はしておいた方がいいだろうと考えるのだが、まず最寄の食堂へ行ってみるとまだ営業中だった。けっこうおおぜいの客で混み合っていて、皆色あざやかでおいしそうなご飯を食べている。お客さんは皆、畳敷きの店内で小さな机のような席に正座して、並んで食べている。「どんなメニューがあるんだろう」と、サンプルメニューの置いてあるコーナーへ行ってみるけれど、そのサンプルの置いてある場所のすぐそばは居酒屋で、うす汚れた店内で男たちがおおぜい吞んでいた。
 食堂に戻るとちょうど二人分の席が空いたので、そこにすわろうとして近くにいた店の女の人に「ここ、いいですか?」と聞く。「先に注文をして下さい」といわれ、ちょうどすぐうしろにいた店の男の人が注文を聞いているらしいのでたのもうとすると、ちゃんと二人分のテーブルを埋めるように、二人の客でないとダメだという。ちょっとムカッとして、「だったら二人分払うからいいでしょう?」という。わたしのうしろで男たちがそのやり取りを聞いていて、「この人は二人分払うそうだ」とか、ざわざわと話し合っている。店の男は「しかし‥‥」とかいうので、「二人分払うといってるんだからいいじゃないか」という。ほんとうはもちろん、二人分も払いたくはない。うしろにいる男たちも何かいっている。

 ほかにも奇妙な部屋の中の様子など、あれこれとあった夢だったと思うけれども、もう忘れてしまった。

 一昨日は、いまだ自分の青春時代だけに生きている人の書き込みを読んだりして、自分の過去のことを書くのが少しばかりイヤになってしまったりした。特にわたしの場合、高校生の頃の思い出にはどこか甘酸っぱい感じがして、別に「あの頃がいちばんよかった」などと思うわけもないけれども、やはり書いているとその頃の思い出にひたってしまう。そういう、耽溺に近い状態というのは、げんざいの自分にとってプラスになるようなものでもないと思える。
 近年の純文学の文学賞応募作にはそういういい年をこいたおっさんが応募してきて、その作品の内容が、美化された自分の青春時代の思い出みたいなものが多いらしい。そういうことは過去からずっと継続していることなのか、それとも近年になってそういう傾向が強くなってきているのか。一昨日のおっさんのことを思っても、こういうことは「加齢時の精神の危機状態」なんだろうかと思う。特にわたしの場合は多くの記憶が失せてしまっているので、残されている記憶を美化してしまう傾向もあるかもしれない。わたしも気をつけたい。

 歯痛はだいぶおさまってしまったので、また今回も歯科医には行かないですませてしまうだろう。こんなことをやっているうちに、きっとアゴの骨まで腐食してしまうぞ。



 

[]「赤い航路」(1992) ロマン・ポランスキー:脚本・監督 「赤い航路」(1992)   ロマン・ポランスキー:脚本・監督を含むブックマーク

 ポランスキー監督がエマニュエル・セニエと結婚し、「わたしの妻はこんな妻なんだ」と紹介するような作品というか、エマニュエル・セニエの悪魔的な魅力を前面に押し出した作品(「フランティック」にもエマニュエル・セニエは出演しているけれども、このときはまだ結婚していない)。じっさいにこの映画自体も、登場人物のピーター・コヨーテが「わたしの妻はこんな女なのだ」と、聞き役のヒュー・グラントと観客とに語り聞かせるような内容である。原題は「Bitter Moon」で、ベストセラーになった原作があるらしい。「Bitter Moon」というのが、そういう成句があるのかどうか知らないけれども、「苦い月」というよりは、ここは邦題の「赤い航路」の方がいいような気がする。

 地中海クルージングの客船のなかで、イギリス人夫婦のナイジェル(ヒュー・グラント)とフィオナ(クリスティン・スコット・トーマス)は車いすのオスカー(ピーター・コヨーテ)とその妻のミミ(エマニュエル・セニエ)と会う。ミミに魅せられたナイジェルは誘われるままにオスカーの客室へ行き、オスカーとミミとのなれそめと同居、そしてふたりの激しい性生活の話を聞く。ここはもちろん回想の絵になるのだけれども、もちろん観ている方もオスカーの話を生々しく体験するわけで、ナイジェルと同じように、「そんな話を他人にするなんて異常ではないのか」と思うわけである。しかしミミの誘いもあって、ナイジェルは次の日も、また次の日もオスカーの話を聞きつづけることになり、オスカーがいちどはミミを捨てるいきさつ、オスカーが車いす生活になったわけ、そしてふたりの結婚の話を、(おそらくは)もう夢中になりながら聞く(それは映画を観ている方でも同じだろう)。それで船上のニュー・イヤー・パーティーの夜、ナイジェルはついにミミに接近するのだけれども、しかし、つまりはナイジェルがオスカーの話を聞いていたあいだ、残されていたミミとフィオナはどうしてたか、って話ですね。それでオスカーの悲劇的な行動で幕。

 ミミはこういうおそれがあるというのに、なんでオスカーに拳銃のプレゼントをしていたんだろうか。謎。ナイジェル演じるヒュー・グラントはいかにもコケにされそうな顔してるし、そういうコケにされた哀れな男を好演。この客船はイスタンブールへ行くという設定で、ナイジェルとフィオナの夫婦は結婚七周年を記念して、イスタンブールからインドへ行くつもりだったらしい。そこにつまり「インドへの道」というのがあった(期待していた)わけだろう。インドへ行く前にこんな体験をしてしまったこの夫婦、はたしてこのあとインドへ行くのだろうか。



 

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■ 2016-02-25(Thu)

 今日はしごとは非番で休みだったのに、五時ごろに目が覚めて、「いけない! しごとに行かなくっちゃ」とあわててしまった。アラームが鳴らなかったのでおかしいとは思ったのだけれども、しばらくは今日が非番なのかどうかわからず、勤め先に電話して聞いてみようかとか思ってしまった。これからしばらくは、二日出勤すれば次は休み、というスケジュールが続くことになる。こういうスケジュールはとってもいい。 

 図書館に借りていた本の貸し出し期限になったので返却に行き、こんどはCDを久しぶりに借りてきた。調べたらこの図書館にはシェーンベルクのものがだいたいひととおり揃っているようで、まあシェーンベルクに限らず著名なクラシックの作曲家のものはどれも揃えているのかもしれないけれども、とにかくは最近またシェーンベルクにハマっているわたしにはうれしいことで、とりあえずは小沢征爾指揮の「グレの歌」と、グレン・グールドの「シェーンベルク歌曲集」とを借りた。あと、やはり何か本も借りようかと、先日やはりひっかかったボルヘスの「異端審問」を借りた。

 それで、わたしの持っているCDRの「グレの歌」、指揮者とかが不明だったのだけれども、どうもこの日記を検索してみると、ジュゼッペ・シノーポリの指揮によるものだったらしい。これはAmazon で検索しても出てこないのでとっくに廃盤になってしまっているのだろう。帰宅して小沢征爾の「グレの歌」も聴いて、これはこれでカラフルというか色彩豊かというか、華やかなところはあると思うのだけれども、やはりシノーポリの「重さ」のようなものが感じられない気がした。
 グレン・グールドの「シェーンベルク歌曲集」は、もちろんグレン・グールドが歌っているわけもなく、これはグールドの発案で録音されたもの。グールドもまた、シェーンベルクを愛好した音楽家のひとりだったようである。こちらは聴くとなるとかなり集中して聴くことが要求されるので、まだちゃんと聴いたとはいえない。

 今日は一日歯痛がおさまらず、なんとなく頬が腫れてきているのではないかとも思える。頬にさわるだけでも痛みを感じる。明日になってもっと痛みがはげしくなったりしたら、それは迷わず歯科医に行かなくてはならないだろう。痛みがおさまればきっと行かないだろうけれども。



 

[]「her/世界でひとつの彼女」(2013) スパイク・ジョーンズ:脚本・監督 「her/世界でひとつの彼女」(2013)   スパイク・ジョーンズ:脚本・監督を含むブックマーク

 近未来の「人工知能」をめぐる、人間ドラマSF。妻と別れた主人公の男がホアキン・フェニックスで、その妻の役でルーニー・マーラがちょっと出てくる。ホアキン・フェニックスはコンピューターで提供される人工知能型のガールフレンドと交際することにする。「サマンサ」という名のその人工知能OSは実体はなく、声だけの存在。その「声」をスカーレット・ヨハンソンが演じている。ホアキン・フェニックスは情感を通わせることも出来るサマンサとの交流に夢中になるのだけれども、サマンサは「進化」するOSだったわけである。

 う〜ん、この人工知能型OS、その買い手、もしくは借り手、つまりマスターのためにパーソナライズされることが基本だと思うから、この映画のような結末であれば、ホアキン・フェニックスはそのOSの販売会社(またはレンタル会社)を訴えて賠償責任を求めることが出来るだろうな。ある意味でこれは彼女の「浮気」になるわけだし、つねにマスターのガールフレンドであるべきところの「契約違反」にあたるだろう。ま、OSが「行き過ぎてしまった」という「バグ」ですね。

 舞台はロサンゼルスらしいけれども、近未来という街並み、空間の感じがいい。ホアキン・フェニックスの役柄の男はちょっと能天気な自閉症というところだけれども、彼の「一人芝居」は、その演出もあっていい感じである。そんな彼の一人芝居を支えるのが、声だけの出演のスカーレット・ヨハンソンで、ちょっとハスキーで甘えるような彼女の声は魅力的だし、知性をも感じさせる。



 

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■ 2016-02-24(Wed)

 今日はFacebook 上である方とこっけいなやり取りをした。そのある方が「韓国はファシズム」などと書かれていたのがそもそもの発端で、そういう乱暴なファシズムの定義におどろいたのだけれども、それではと「韓国 ファシズム」と検索すると、いわゆる嫌韓レイシストのネトウヨ諸君の書き込みがたくさんみつかった。嫌韓の一環として、「韓国はファシズム国家」だなどと書かれているみたいだ。そのことをFacebook 上で書くと、その「ある方」からいろいろなコメントがついてきたのである。彼にいわせると日本もファシズムに向かっていて、そうすると韓国のファシズムとぶつかって共倒れになると。「世界史でファシズム国家が並立するのははじめてのことだろう」などといわれるのでまずはあきれてしまって、大戦時のドイツとイタリア(さらにスペインも入れてもいいか)は並立したんじゃなかったのかと思うわけである。さらに、「ネトウヨの連中が韓国がファシズムというのなら、わたしがいうように韓国がファシズムであるということが証明されるのではないか」などと、論理を無視したとんでもないことをいわれる。「それはあなたがネトウヨ的感性を持っているということの証明でしかないでしょう」と書くとどうやら怒られたようで、「わたしは全共闘世代だ。口が裂けてもファシズムの見方はしません」という。彼にいわせるとネトウヨ連中もファシストということになるらしい。「ファシズム」の乱立である。「わたしは全共闘世代のオヤジの自慢話など聞きたくはありません」と書くと、「自慢ではなくて教えてあげてるのだ」と、全共闘の歴史をナルシスティックにノスタルジックに書き連ねる。全共闘運動が日本の戦後の曲がり角だったのだという。それで「ではあなたは原発事故やや安保法案制定の動きに対してどのようなリアクションをおこされているのか、SEALs のことはご存知なのか」と聞くと、「原発にも安保法制にも興味はない。SEALs は僕ら(つまり全共闘なのだろう)と違って英語を使うところが進化していると思う」という。
 今まで生きてきて、人の発言でこんなにまであきれかえったおぼえはない。あまりにスゴかったので、晒すというつもりはないけれど、ここにも書いてしまった。こういう人が生きているというのがおどろきだった。

 今日は虫歯がまた痛んで来た。やはりいいかげん歯科医にかからないといけない頃合いなんだろうか。どうしても、放置出来るだけ放置しておこうと思ってしまうのが虫歯というものではないのか。そういうことするのはわたしだけ?



 

[]「生きものの記録」(1955) 黒澤明:監督 「生きものの記録」(1955)   黒澤明:監督を含むブックマーク

 わたしはこのごろは黒澤明監督の作品を公開順に観ているつもりで、この「生きものの記録」は前に観た「酔いどれ天使」の次ぐらいの作品だろうと勝手に思っていたのだけれども、調べると意外にもこの作品、「七人の侍」と「蜘蛛巣城」とのあいだに撮られた作品なのだった。

 原水爆の恐怖から、家族郎党(妾まで連れて行こうとするんだね)引き連れてブラジルへ移住しようとする家長(三船敏郎)をめぐる物語で、家業も順調にいっている家族らは家長の移住計画に同意するわけもない。逆に家庭裁判所に訴えて家長を禁治産者に申し立てるのである。その家庭裁判所の調停委員(志村喬)は、家長の言動をみているうちに、彼の考えを否定出来なくなっていく。けっきょく家長は禁治産者となり、だんだんに精神の均衡をも失っていく。

 誰もが思う感想だろうけれども、3.11以降になってみれば、この映画にどれだけのリアリティがあることか、おどろかされることになる。ほんとうは今の関東、そして南東北は人が住めるところではなく、そこに住むすべての人々はどこかへ移住することこそが正しい選択なのではないのか。そのことを、原水爆実験の時代に「ここにはもう住めない」とすでに感じ取っていた人の物語であり、そのことにシンパシーをおぼえる人の物語である。

 演出としては意外と長廻しが多く、なんだか撮り急いでいたのではないだろうかという感想にもなる。黒澤監督もまた、世界情勢に切羽詰まったものを感じていたのだろうか。ロングショットかミドルショットがほとんどで、主演の三船敏郎を含め、人物のクロースアップはほんとうにわずかしかない。めずらしく(というか、彼のキャリアでこの作品一本きりだろう)老け役を演じる三船敏郎の、やはり気迫のこもった演技を堪能する。ラストの、精神病棟のスロープ廊下を降りる志村喬と、上ってくる妾の根岸明美との交差のシーンがなぜか心に残る。



 

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■ 2016-02-23(Tue)

 これから十日ほどは家でゆっくり出来るのだろうか。そのあとはまた連日のように出かけなければならないけれども、今はゆっくりと休んでおこう。

 わたしの過去のことをまとめて書いていて、いったいどこまで書いたんだっただろうか。高校進学のあたりまでだったかな。
 けっきょく、国立大学の付属高校の受験は失敗し、教師との約束通りに普通高校へ進学させられた。だいたいわたしは受験勉強なんていうのはまるっきしやらなかったし、落ちたのは当然である。中学時代の中間テストや期末テストはいつもクラスのトップレベルだったけれども、それは単に「一夜漬け」の要領がよかったというだけのことで、そんな、高校受験などという、あまりに予習の範囲の広すぎる受験勉強など、ハナっからやろうとも思っていなかった。
 それで普通高校への受験はちゃんと合格したのだけれども、あとで知ったのではわたしの受験成績はクラスでも最低線レベルだった。ヘタしたらその普通高校にも試験で落ちていたおそれがある。

 けっきょく、高校に進学したあとも、もちろんデザイナーへの夢の実現をめざしていたわけで、クラブは美術部に入った。ま、それで、同じ美術部の、同じクラスの女の子のことが好きになってしまうわけで、その彼女が美大の油絵科をめざしていて、いろいろと彼女と話しているうちに、「ファインアート、現代美術をこそめざさねばならない」と心変わりをしてしまうわけである。高校生なんてそんなものである。
 しかし、おかげでそのあたりの画集や、美術に関しての書籍を読みあさることになり、そういうことがわたしの原点になってしまったのだから、デザイナーをめざしていなくってよかったのかもしれない。

 その頃夢中になったのは当時まだアクチュアルな運動を繰り拡げていたシュルレアリスム関連のこと、そして当時の現代美術のことについてだった。美術手帖を定期購読し、滝口修造や澁澤龍彦の本、そしていろいろな翻訳図書を読んだものだったし、そういう指向性と、観ていた同時代の映画、好きだったロック音楽とがリンクされ、そのとき世界で起きている事象に敏感になって行った。
 時は政治の季節でもあり、ニュースではわたしらと同世代の高校生の運動のことも報道されたと思う。わたしも自然とクラスの中ではリベラルな立場を取るようになり、それでもって「大学進学」ということにも懐疑的になり、受験勉強などやはりまるでやらなかった。でも、それでは高校を卒業したらどうするかというイメージがあるわけでもなく、けっきょくは「芸大に行こうか」ということになり、とても中途半端な立ち位置だった。
 受験勉強はやらなかったけれども、相変わらず中間テストや期末テストの一夜漬け勉強は「お手のもの」で、入学時には最底辺だった成績も、すぐに学年でトップ10に入るくらいになった(テストのあと、そうやって学年でのトップ10は発表されるのだった)。そういう成績から、教師には普通に国立大学に進学出来るといわれていたけれども、わたしにはそんな力はないとわかっていたように思う。

 高校時代のことはいろいろとあるけれども、ざっと概観すればこんなモノだったと思う。

 午後からはまた録画しておいた映画を観たのだけれども、また録画のハードディスクが満杯になってしまっていて、昨日録画しようとした「アラビアのロレンス」は録画に失敗してしまった。またせっせと鑑賞につとめて、観た先から消去していかないと、これから録画したい映画が放映されたとき、録画出来ないということになってしまう。「録画する」ということは「そのうちいつか観る」ということなんだけれども、「そのうちいつか観るから録画しておこう」というやり方には、根本的に間違っているところがあるように思える。



 

[]「マグノリア」(1999) ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督 「マグノリア」(1999)   ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督を含むブックマーク

 三時間を超える長い映画。この映画も過去に観ているはずだけれども、これっぽっちも覚えていない。
 おそらくは十人を超えるぐらいのさまざまな人々が登場していろいろと関係し合い、多彩な人間模様をみせてくれるのだけれども、それぞれの展開に「生きるって‥‥」と思わせられて行く。終盤の展開にちょっと涙ぐんで観ていたら、そこでとつぜんの「異常気象現象」(というのかな?)が起こる。もう、笑ってしまうのである。その「異常気象現象」のとき、それぞれの登場人物はどうしていたのか、そこでのそれぞれの関係、偶然のいたずら、そういうことに思いを馳せるのだけれども、やはりその「異常気象現象」というのは、ひとつの「奇蹟」の具現化なのだろうか。このことによって生き方が変わってしまう人もいるわけだし、ここでいちばんの恩恵を受けるのは「正しいことを成したい」と生きている警官(ジョン・C・ライリー)ではなかっただろうか。まさにこの「奇蹟」によって、彼は「正しいことを成す」機会を得るのである(ま、「奇蹟」がなくっても同じことをしたのかもしれないけれど、まさに「その時」に、「奇蹟」が起こったのである)。

 さまざまな人物の挿話をめまぐるしく編集し、通奏する音楽でつなげていくという演出が斬新で、「観たことのない映画」という感覚を呼び起こされる。「大きな主張」を描くのではなく、まさに「映画的」に、映画として作品を組み立てて行くプロット、演出は、深く印象に残った。先日観た「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」も強い印象を残す映画(演出としてはまだオーソドックスなものだったけれども)だったし、やはりポール・トーマス・アンダーソンという監督はタダモノではない。去年映画館で観たピンチョン原作の「インヒアレント・ヴァイス」をもういちど見直したいし、その前の「ザ・マスター」という作品も観てみたい。



 

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■ 2016-02-22(Mon)

 やはり昨日の帰宅が遅くなったこともあって、今日は一日CDやMDを聴きながら寝てばかりいた。それで、変な夢をみた。

 ネコとイヌとが路上でケンカしている。「何をケンカしているのか」とみてみると、そばにある食事用の白い陶器の器に大きなウンコが乗っかっているのである。どうやら双方がそのウンコを食べようとしてケンカしているみたいだ。わたしは「そんなの食べてはいけません!」と器を取り上げて、近くにあった水槽に器を洗いに行く。水槽は緑色の水藻がいっぱいで、水はとてもきれいである。わたしが持ってきた器は、いつの間にか青く透明で四角いプラスティックのタッパーウェアになっている。もうウンコは乗ってないのだけれども、器の底に汚れがついていて、なかなかきれいにならない。水槽の水を汲むと、その中に小さなザリガニが入っているのがみえた。ハサミのところは赤く、胴体は暗赤色。大きさは二センチぐらいだ。
 わたしはもう一ヶ所、別の水槽に行って器を洗いつづける。やはりなかなか汚れが落ちない。そばにおばさんがいて、わたしにぞうきんを持って来てくれる。水槽のそばに寄ると、清らかな音楽が聴こえて来た。ぞうきんを持って来てくれたおばさんが、「今日のご飯は何がいい?」と聞いてくる。「生姜焼きライスとか?」というので、生姜焼きライスは食べたばかりだったのだけれども、「いいね」と答えた。おばさんは「生姜焼きライスならあの店だね」といい、「そうだ、たしかにあの店だ」と思うのだけれども、その店の名前が思い出せない。

 なんだか「夢判断」の材料になりそうな夢だったな。



 

[]「池上彰の世界の見方 15歳に語る現代世界の最前線」池上彰:著 「池上彰の世界の見方 15歳に語る現代世界の最前線」池上彰:著を含むブックマーク

 こういうことって、わたしはけっこう知らないことが多い。記憶から消えてしまったこともあるだろうし、お勉強である。
 本は六つの章に分かれていて、「地図から見る世界」「お金からみる世界」「宗教からみる世界」、そして「資源からみる世界」「文化からみる世界」「情報からみる世界」と。興味深く読んだのは「お金からみる世界」、「宗教からみる世界」、そして「資源からみる世界」など。「そうか、ニクソン・ショックとはそういうことだったのか」とか、「ユダヤ教とイスラム教とキリスト教とは同じ根っこを持つのか」とか、あらためて知るわけである。わたしも15歳になったつもりで勉強しましたよ。



 

[]「モレルの発明」アドルフォ・ビオイ=カサーレス:著 清水徹+牛島信明:訳 「モレルの発明」アドルフォ・ビオイ=カサーレス:著 清水徹+牛島信明:訳を含むブックマーク

 ボルヘスの序文付き。このボルヘスの序文がくせもので、単にこの小説を賛美するだけではなく、作者のカサーレスと共犯関係にあるのではないかと疑いたくなる。ある意味で読み方を指示するものであり、小説の何かをあらわにし、それでいて何かを隠蔽しているのではないかと、深読みしたくなるのである(ボルヘスのことだから)。たとえばボルヘスは「シェイクスピアやセルバンテスは、若い娘がその美しさをそのまま保ちながら、(変装することによって)男として動きまわるという二律背反的着想を好んで用いたが、そうした効果はもはやわれわれには通用しない」と書くわけだけれども、この「モレルの発明」にはまさに、そういった二律背反的着想が読み取れるのではないか。いや、ボルヘスは「その読み方は正しくない」といっているのだろうか。ミスティフィケーションのためにこのようなことを書いているのかもしれない。わからないのである。

 いつまでもボルヘスの序文で迷っていてもしょうがないのだけれども、ボルヘスはこの「モレルの発明」を「冒険小説」とし、また、「推理小説風のフィクション」と規定しているようだ。たしかにこの本はまずは無人島に流れ着いたひとりの男の語る物語であり、読むものに「それはいったいどういうことなのだろうか」と、答えを求めさせる作品でもある。「発見されて刊行された、見知らぬ男の書いた日記」という体裁をとったこの本には、ところどころ刊行者による註がはさみこまれていて、この日記自体の信憑性も揺らがせる結果になっていて、「では真実は」という答えはさらに見極め難いのである。

 モレルの発明したものとは何か。それは現実と見まがうような(いや、実体があって現実そのものと見分けがつかないらしいのだ)「三次元録画再生装置」なのであり、ある罪から逃れて島にたどり着いた語り手の男は、その島で不定期に(潮の満ち干に関係するらしい)再生を繰り返される映像を見、さいしょはそれを現実と取り違え、その映像の中のフォスティーヌという女性に恋心を抱いてしまうのだ。ようやく映像のからくりを知るに到った男は、自分の姿をもその装置で録画することによって、フォスティーヌと共になることを望むのである。映像の中にはモレル本人も姿をみせていて、どうやらモレルもフォスティーヌに恋をしているようではある。

 誰でもかんたんに推理するのは、「モレル」=「語り手の男」という謎解きだけれども、そんな推理でいいのだろうか。仮にその通りだとしても、「謎」はそれだけにとどまるものではないのではないのか。もっと大きな謎解きが隠されているように思えてならない。ボルヘスの序文がじゃまだなあ。



 

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■ 2016-02-21(Sun)

 今日はまた横浜。この日は亡き室伏鴻さんを偲ぶイヴェントで、このところ横浜では連日このイヴェントをやっているのだけれども、わたしは今日だけしか参加出来ない。今日の開演は三時半なのだけれども、どうやら長丁場のイヴェントになりそうで、終わったあとはゆっくりもしていないで帰って来なければならないだろう。また現地に宿泊してもいいのだけれども、そういうことは「成り行きまかせ」ということにしよう。

 出発は十二時にして、横浜到着は二時半ぐらい。そこから「みなとみらい線」で日本大通り駅へ行く。まだ昼食もとっていないけれども、あまり時間がないのでコンビニでサンドイッチを買って、歩きながら食べたよ。
 「赤レンガ」の位置は、前に歩いていてみえていたのでわかっているのだけれども、これが歩いて行くとたどり着けない。すっごい遠回りしてしまって、ようやく赤レンガのふもとにたどり着く。さらに、会場の三階のホールへの行き方がわからない。建物の中を縦断してしまっていちど外に出て、また中に入ったりする。そんなことをしているうちに開場時間になってしまう。とにかく、後退性健忘症ということになってしまってからはいつも、久しぶりに行く場所ではいつもこういうことばかりやっている。
 なんとか会場のホールにたどり着くとちょうど開場のじかんになったようで、すんなりと中に入ることが出来、けっこう前の方のいい席にすわることが出来た。

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 今日も知り合いの方がたくさんみえていて、だいたいこのところ横浜に来るたびにお会いする方々の顔が多い。いつものようにそういう人たちのことをアルファベットで書いていれば、とっくにZまで行ってしまう感じだけど、やはりいろんな知人にお会いするのは楽しいことだと思う。

 さて、やはり舞台はけっこうな長丁場になり、終演時でもう八時に近い。これからの飲み会に参加しても一時間もいられないだろうし、昼食をサンドイッチだけですませているので空腹だし、とにかくはもう帰ることにして赤レンガをあとにして、帰り道の途中にあった「日高屋」に入って、生ビールと生姜焼き定食とを注文。時間を確認すると、もうローカル線の終電車ギリギリになってしまっていた。

 また「みなとみらい線」で横浜まで出て、上野東京ラインに乗る。日曜日もこの時間になると、横浜からの電車はがら空きだった。
 電車の中ですわってウトウトしていると、途中駅で乗って来た方がわたしの隣にすわられ、そのときにその方の持っていたバッグがわたしの足に当たったのだけれども、その感覚が家で寝ているときにニェネントがわたしの上に乗ってくる感覚と同じだったのでフッとめざめ、「あ!ニェネントが!」なんて思ってしまった。

 十一時十分のローカル線の終電車に乗り、自宅駅には十一時半着。まだ空腹な感じがして、コンビニに立ち寄って「おにぎり弁当」とかいうのを買って帰った。その「おにぎり弁当」をレジに持って行くと、「あたためますか?」とかきかれるので、「おにぎりをあたためて食べるヤツとかいるんだろうか?」とか思ってしまう。断って外に出ると、その弁当を入れたレジ袋の中に割り箸が入れられていたので、「こういうことこそ、<箸はお付けしますか?>とかきいてほしいものだ」と思った。わたしは森林伐採に反対する気もちから、せめて割り箸だけはぜったいにどこででも受け取らないことにしているというのに。

 帰宅すると、もう寝ていたらしいニェネントが、「今ごろ帰って来たのかよ」みたいな感じで奥から出てくる。「食うモンくれよ」という顔してるし、遅いネコ缶の晩ご飯を出してあげ、わたしはおにぎり弁当を食べ、さっさと着替えて寝るのだった。明日はしごとも休みでよかった。



 

[]<外>の千夜一夜 VOL.2「赤レンガダンスクロッシング」for Ko Murobushi @横浜・赤レンガ倉庫1号館 3Fホール <外>の千夜一夜 VOL.2「赤レンガダンスクロッシング」for Ko Murobushi @横浜・赤レンガ倉庫1号館 3Fホールを含むブックマーク

Side A
 空間現代×ucnv
 岡田利規
 core of bells
 捩子ぴじん×安野太郎×志賀理江子

Side B
 山川冬樹×JUBE×大谷能生
 川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミ
 飴屋法水

空間現代×ucnv
 「音」を置いて行く感じの、エッジの効いた音に、ucnv による室伏さんの公演の映像にエフェクトをかけたものが流される。おそらくは映像のせいだろうか、始まって早々にうしろの方の席から子どもの声で「こわい!」という声が聴こえ、空間現代の音の合間で絶妙のタイミングで泣き出されてしまわれた。親は大変だっただろうけれども、これが「グッドタイミング」というものだろうと思った。空間現代はたしか「地点」とのコラボレーションもやられていたバンドだと思うけれども、ソリッドの切り立った音がいい感じ。バンドのメンバーの、いかにも「そこらにいる若者」という風貌が、逆に彼ららしいともいえるんだろうか。

岡田利規
 フライトの最中に聴くクラシック音楽の話から、いろいろと世界を飛び歩く話。バックにはどこか海外の街角の固定されたカメラからの映像。客死された室伏さんへの追悼、なのだろう。特に作為もなく、自然体で淡々と話される姿に岡田さんらしさを見た思いがする。

core of bells
 「観客とともに過ごす時間についての思索」からの作品、ということ。こういうのは「観客をバカにするな!」といえば、「観客をバカにするな!」という反応を引き出したということになるわけだろうから、つまりはどんな反応でも観客は喰われてしまうだけ。そういう仕組みはよろしくないのではないのか。出来るのはせめて反応しない(終わっても拍手もしない)ぐらいのこと。不愉快、だった。

捩子ぴじん×安野太郎×志賀理江子
 ダンスが捩子ぴじんさんで、「ゾンビ音楽」が安野太郎さん、捩子ぴじんさんの衣裳についていた「粉」が志賀理江子さんの担当、ということ。たしか捩子さんは去年の暮れにそういう「ゾンビ何とか」という公演に参加されていたはずで、そこから派生した作品なのか。ミニマルな感じ。

山川冬樹×JUBE×大谷能生
 山川さんのホーメイとパフォーマンスは迫力あったし、大谷能生さんとの音の相性も良かったと思うけれども、JUBEという人の日本語ラップは好きになれない。わたしは日本語ラップというものがダメなのである。

川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミ
 久しぶりで踊られる大橋可也さんを楽しみにしていたパート。室伏さんのおもかげを求めるというのでは、この大橋さんのパフォーマンス(ダンス)がいちばん印象的だった。どこか「やさしさ」を感じさせるたたずまいも心に残った。また大橋さんには踊ってほしいものである。

飴屋法水
 飴屋さんのメキシコシティーの思い出話はどこまでも脱線するようで、昨日はここでかなり時間オーバーされたらしい。やはり飴屋さんは奇妙である。



 

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■ 2016-02-20(Sat)

 MDプレーヤーの次の試練、留守録ということをやってみることにした。以前のMDプレーヤーでもFM放送を録音していたのだけれども、「留守録」ということが出来ず(出来たのかもしれないけれども、やり方がわからなかった?)、ミニディスクの録音時間を4倍にセットして、出かけるときから録音をスタートさせ、それから二時間以上あとに始まる目的の番組まで、丸ごと全部エアチェックしていたものだった。今度のプレーヤーはちゃんと時間を指定して留守録が出来るのである。これがいちばんうれしい機能かもしれない。

 つまりエアチェックしたいのは毎週土曜日、朝の七時二十分から始まる「ウィークエンド サンシャイン」なのだけれども、たいていの土曜日はわたしは朝の五時からしごとなので、ちょくせつ聴くことが出来ないのである。それで今日は録音時間をちゃんと設定して、ミニディスクをセットしてしごとに出、留守録にまかせた。

 もちろんこの留守録機能もちゃんと機能していて、しっかりとエアチェックできていた。あたりまえのことだけれども、まさに番組が始まる時間から録音されていて、満足。
 この日の「ウィークエンド サンシャイン」は先日亡くなられたというDan Hicks の特集で、まあこの番組も長いポピュラー音楽の歴史をたどるようなところもあるし、特にこのところは60年代から70年代に活動をはじめられたミュージシャンの訃報が続くので、そういう追悼特集はこの番組の定番になってしまっている。しかしわたしはDan Hicks というミュージシャンの名前は知っているものの、ちゃんと聴いたこともないし正直あまり興味もない。この日エアチェックを聴いた感じでは聴きごたえのある音をつくっておられたミュージシャンのようだけれども、だから彼の音楽をあらためて聴き直してみようというものでもない。そういう意味ではちょっと残念なエアチェックの第一回(天国のDan Hicks には申し訳ないが)にはなってしまった。

 そういうわけでこのところは音楽三昧の日々になっているのだけれども、このところ聴いたので「やはりいいなあ」と心に残ったのはシェーンベルクの音楽。特に「グレの歌」、その「山鳩の歌」には心を持って行かれてしまった。わたしが聴いたのはCDRにコピーしたもので、ただ盤面には「グレの歌」としか書いていないので、いったい誰の指揮のどこの演奏なのか、メゾ・ソプラノを歌っているのが誰かなど、まったくわからなくなってしまっている。しかしこの演奏、歌唱はすばらしい。
 この「山鳩の歌」だけをピエール・ブーレーズが指揮したものがあったはずと、ストックを掘り返して探して見つけ、これも聴いてみたのだけれども、これがまったく良くない。CDRで聴いた演奏、歌唱の方がだんぜんいいのである。CDRの方の演奏はどこかプログレッシヴ・ロックでも聴いているような気分にさせられるのだけれども、ブーレーズはそういう聴き方が出来ない。どういうことなんだろう。単にブーレーズのものが室内管弦楽版だから、という理由ではないようだ。ブーレーズのシェーンベルクというのは定評があると思っていたのだけれども、どこかロックにも通底する音のように思えるシェーンベルクの、そのロック的な部分を切り捨てるのがブーレーズのように思えるところがある。「春の祭典」はロック的にも聴きごたえがあったと思ったのだが、ブーレーズの「春の祭典」もまた聴き直してみよう。そう、そのブーレーズも、この一月にお亡くなりになられていたのだった。

 今日は午後から一念発起して、五時間を超えるベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」を観た。これが意外にもとても面白かったのである。



 

[]「ファニーとアレクサンデル」(1982) スヴェン・ニクヴィスト:撮影 イングマール・ベルイマン:脚本・監督 「ファニーとアレクサンデル」(1982)   スヴェン・ニクヴィスト:撮影 イングマール・ベルイマン:脚本・監督を含むブックマーク

 ベルイマン64歳のときの作品で、この作品製作後、ベルイマンはいちどは映画監督業から引退されている。この作品で「映画を撮る愉しみを充分に味わい尽くした」ということらしい(その後、二十年も経った2003年に「サラバンド」という作品で監督復帰してるのだけれども)。

 とにかくは五時間を超える作品なわけで、それで「仮面/ペルソナ」みたいなベルイマン調の思弁的、哲学的な作品だったら、観終わるころにはすっかり疲れ切ってしまうではないかと危惧していたのだけれど、これが意外に「娯楽作」というか、すっかり楽しんでしまった。

 作品はプロローグ、エピローグにはさまれて全五部からなる構成で、劇場を経営するエクダール家の主人がオスカル、その妻がエミリーで、タイトル・ロールのファニーとアレクサンデルはそのオスカルとエミリーとの子である。実はファニーのことはほとんど描かれず、実質この作品の主役はアレクサンドルで、彼の九歳の一家一族のクリスマス・パーティーから、十一歳のクリスマスまでの二年間が描かれる。実はアレクサンドルは幽霊を見ることができるという、先日観た「クリムゾン・ピーク」のヒロインのような能力を持っていて、そのことがストーリー展開に大きな意味を持つことになるわけで、「クリムゾン・ピーク」などよりもこちらの方がずっとずっと面白いのである。

 第一部は「エクダール家のクリスマス」で、劇場ともなっているエクダール家を舞台に、エクダール一族の催すクリスマス・パーティーからの群像劇で、登場人物の紹介というところもある。レンガの赤や皆の着る豪華な衣裳の赤、それとクリスマス・ツリーなどの緑、外の雪の白との対比の美しい映像で、スヴェン・ニクヴィストので〜んと構えたカメラもすばらしい。

 第二部は「亡霊」。エクダール家の当主のオスカルが「ハムレット」の舞台稽古の途中で倒れ、オスカルは妻のエミールに劇場を託して死去する。アレクサンドルは父オスカルの亡霊を見る。かなり長い時間をとって挿入される「ハムレット」の稽古の模様が印象に残る。

 そして第三部は「崩壊」。アレクサンデルらの母エミールは劇場から手を引き、ヴェルゲルス主教と再婚する。ファニーとアレクサンデルはエクダールの家を去り、母と共に身ひとつで主教館へ移るのだが、そこは冷たい空気の流れる住まいだった。実は新しい父のヴェルゲルス主教はDVの体現者であり、空想癖もあるアレクサンデルに厳しく体罰でのぞむ。「これは愛情からであって、愛情というのは厳しいものだ。単に優しいのが愛情ではないのだ」と。

 第四部「夏の出来事」。エミリーはヴェルゲルス主教との離婚を望むけれども、法的にはむずかしいようだ。ファニーとアレクサンデルは主教館の屋根裏部屋に閉じ込められる日々。

 第五部は「悪魔たち」。エミリーの訴えに気を病んでいたエミリーの義母のヘレナ(かつては名女優であった)は、過去の愛人イサクに相談し、そのイサクの奇策でまずはファニーとアレクサンデルを主教館から脱出させて自宅にかくまう。そこでアレクサンデルは不思議な住民たちと出会い、未来を予言される。その予言のように主教館は燃え、ヴェルゲルス主教は焼死する。またクリスマスのパーティーが行われ、エミリーは女優として復帰することになる。

 五時間の長さが気にならない面白さ。演劇に携わる一家の人間関係と、アレクサンデルがこうむる物語との調和が素晴らしい。特に第三部から第五部にかけてのアレクサンデルをめぐる物語は、みごとなホラーという感じでもあり、ベルイマンがこういう作品を撮ってしまうということにもおどろいてしまうのだった。もういちど観たい作品だけれども、そんな時間はもう取れないだろうな。



 

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■ 2016-02-19(Fri)

 古いCDを引っぱり出してきて聴くという時間がつづいている。もうたいていのCDはCDRにコピーしたもので、ジャケットもなく、CD保管用のケースにまとめて保存してるので、いったいどこに何があるのかもわからなくなっている。それが何百枚もあるのだから、「聴きたいものを探して聴く」というより、「保存してあるものをチェックして行って、聴きたいと思ったものを聴く」というスタイルである。そこから連鎖反応で「アレが聴きたい」となると、そのCDを必死で探して聴く。「たしか持っているはず」というCDを探してもみつからなかったりもする。CDRという媒体にも問題があって、ちゃんとしたCDの堅牢性がないというか、取り出してみると盤面が腐食していて聴けなくなっているものもある。これはCDRの種類によって堅牢さに差があるようで、しっかりしている種類のものもある。

 とにかく、CD保管用のケースに保管していると、聴いたあとにキチンと元のところに戻すことがおろそかになっているというか、「ここにはこのアーティストのアルバムがまとまっているはず」というところに、あるはずのCDがなかったりするし、いちばん困るのは、組みモノのアルバムがちゃんと全巻揃って保管されていないということ。どこかに行ってしまって行方不明のCDがいろいろある。
 あと、本棚のところにはCDRに焼いたのではない、ちゃんとジャケット付きのCDもまだいっぱい持っているのだけれども、これを聴こうと思ってジャケットを取り出し、開けてみるとCD本体が入っていない。これもけっこうな数あることがわかった。いったいどこへ消えてしまったのか、こんどはそういうCDを本格的に探してみなければいけない。

 来週は久しぶりに出かける予定のない週になりそうだけれども、その次の週、三月のはじめに観たい公演がいっぱい出て来た。まずは石橋義正が川口ゆいというダンサーと組んでの、「MatchAtria」という公演が横浜の赤レンガである。やはりこれは行ってみたいので予約をした。またpeatix でのシステムなので、スマホもプリンターも持っていないわたしは困ってしまうのだけれども、それだからとあきらめるわけにもいかない。チケットを買ってしまえばなんとかなるだろう。
 それから、三月四日には神村恵さんの公演もあるのだった。これも観ないわけにはいかない。そうすると、すでにこの時期は少年王者舘の「思い出し未来」公演の予約をしてあるので、三月四日、五日、六日と、三日間連続しての観劇になってしまう。かなりハードだけれども、仕方のないことだ。

 今日も午後から映画を一本観て、夕食には冷凍してあったマグロの血合い肉を解凍して煮物にしてみた。ちょっと下処理に手を抜いてしまったか、生臭さが残ってしまった。残念。



 

[]「日本侠客伝」(1964) マキノ雅弘:監督 「日本侠客伝」(1964)   マキノ雅弘:監督を含むブックマーク

 高倉健主演の、この後の任侠路線の原点になる作品。主人公は老舗の荷受け業者の小頭(こがしら)で、新興勢力の運送会社の理不尽な勢力拡大にガマンにガマンを重ねるのだけれども、仲間を連続して殺害されもして、ついにラストには単身敵地へ乗り込んで行くのである、と。

 キレの良さという点では「まだまだ」という感じもしてしまう高倉健だけれども、とにかくはここに昭和後期を代表するヒーローが誕生する、そんな瞬間をみることのできる作品。
 この作品では中村錦之助、長門裕之、田村高広らにも「見せ場」をつくってあげなくてはならなかったのか(みんな死んじゃうんだけれども)、その分視点も分散されてしまった恨みはある。女優陣も三田佳子や南田洋子、そして藤純子らも出ていて華を添えるのだけれども、藤純子もまだ堅気の役で、彼女の魅力が出ているわけではない。



 

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■ 2016-02-18(Thu)

 このところはすっかり、先日買ったMDプレーヤーを中心にした生活にシフトしてしまった。今日は昼前に、FM用のアンテナをプレーヤーに接続するためのジョイント部品を探しに、家電量販店まで行ってみる。もしもそういう部品がみつからないようだと先日買った分配器を買い直さなければならず、また無駄遣いをしてしまったということになる。
 店に着いて探してみると、意外とかんたんに求めていた部品が見つかった。290円。この290円はよけいな支出ではあるけれども、これで分配器がムダにならずにすんだわけである。

 この家電量販店のすぐ近くに、ちょっと大きなレンタルDVD&本屋の入った建物があるので、帰りに立ち寄ってみた。かなりの量のDVDやブルーレイが置かれているのだけれども、やはり予想したようにわたしが観たいと思っているような作品はみつからない。主流はもちろんハリウッド映画や日本のマンガを原作としたような映画で、ヨーロッパの映画や日本の古い映画などの姿はみえない。じっくりと棚をみたわけではないから、それは探せば「この映画が観たい!」というようなものもみつかるだろうけれども、ここまで歩いてきて毎週レンタルしようとはあまり思わない。
 それで本屋の方をのぞいてみたのだけれども、この本屋が意外と充実した品揃えなのにびっくりしてしまった。海外文学のコーナーにも新作旧作がいろいろ置かれていて、ピンチョンの「重力の虹」も棚に並んでいる。わたしはまさか、この地元の書店でピンチョンに出会おうとは思ってもみなかった。残念なことに岩波文庫は置いてないのだけれども、文庫コーナーも充実している。これなら欲しい本があるときにはまずこの本屋にきて探してみるのもいいかもしれない。やはり、少しでも地元の発展に貢献したいものである。

 帰宅して、買ってきたジョイント部品と分配器をつかって、テレビに接続されているアンテナ線を分岐させ、一方をプレーヤーに接続した。これでFM放送(とりあえずしっかり聴けるのはNHKだけだけれども)はばっちりである。予約録音機能を使えば、もう長いことちゃんと聴いていない土曜日の「ウィークエンド・サンシャイン」も聴くことが出来るようになる。

 また今日もいろいろと音楽を聴きたいと、たしかどこかに録音済みのミニディスクがしまってあるはずではないかと探してみた。リヴングの隅に積んである段ボール箱を順に開けていくと、下の方の箱の中から大量のミニディスクが出て来た。五十枚もあるだろうか。こんなにたくさんあるとは思っていなかったのでびっくり。ラベルに書き込まれた内容をみると、もう消してしまってもいいようなものもたくさんあるわけで、こんなことなら新しくミニディスクを買う必要もなかったかもしれない。ちゃんとした記憶があればこういうことも覚えていたのだろうけれども、記憶をなくすということはいろいろな不都合の原因になる。

 ひとしきり音楽を楽しんで、夕方から録画してあった映画を一本観た。


 

[]「アンストッパブル」(2010) トニー・スコット:監督 「アンストッパブル」(2010)   トニー・スコット:監督を含むブックマーク

 トニー・スコット監督の作品にはデンゼル・ワシントンが出演しているものが多いらしいのだけれども(五本あるらしい)、この作品もその一本で、この作品はトニー・スコットのさいごの作品でもあるので、デンゼル・ワシントンとのコラボもこれでおしまい。

 じっさいに起きた貨物列車の暴走事故をモデルにしてつくられた作品だそうだけれども、沿線の市民を巻き込んでの大脱線事故になりかねなかった状況を、別の機関車に搭乗していた機関士と車掌のふたりが危機一髪くい止めるというストーリー。
 とにかくはヘリコプターからの空撮を最大限に活かし、線路にもぐって上を通過する列車をとらえた映像も効果的に使いながら、テレビのニュース映像も交えて立体的に、そしてスピーディにみせていく演出がすばらしくって、息をもつかせぬ展開にあっという間の二時間。こういう感じは前に観たアルフォンソ・キュアロン監督の「ゼロ・グラビティ」を思い起こさせられるというか、どこまでも先へ先へとノンストップに進行していくアクションに見惚れてしまう。とても面白い作品だった。



 

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■ 2016-02-17(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 ということで、この夜は横浜駅からそんなに離れていないところにあるインターネットカフェにもぐり込んだ。カプセルホテルよりずっと安上がりだし、いっぱいパソコンを使えたりもするし、寝ようと思えば寝ることも出来る。ずっと以前にこういうインターネットカフェを使ったことはあると思い、この日記で検索してみると、なんと例の「栗東さきら」の問題のとき、大阪の梅田のインターネットカフェからこの日記を書いていたということがわかる。はたしてそれ以来のインターネットカフェになるのか、とにかくは利用の仕方に不安もあったのだけれども、なんとか問題なく個室にもぐり込むことが出来た。目の前には大きなパソコンのディスプレイがあるのだけれども、これがあまりに巨大ディスプレイである。24インチはあるだろう。それが目の前1メートルも離れていないところに「デーン」と置かれている。はたしてパソコンのディスプレイがここまで巨大である必要があるだろうか。とにかく画面がデカいわけだから、ひっきょう画面上の文字なども大きくなる。異様に大きなディスプレイの、異様に大きな文字をみるのは妙な感じである。ま、これでこそ「インターネットカフェ」に来ているんだぞ、という気分になれる(なってしまう)のかもしれない。

 とにかくはしばらくネットなどを検索し、あれこれと読み漁ったりしていたのだけれども、そういうことにもじきにあきてしまう。時計はようやく一時半ぐらいになったところ。電車が動き出すのは四時半ぐらいなので、まだ三時間この個室ですごさなければならないのである。思ったよりも眼が冴えてしまって、まるで眠くないのが不思議といえば不思議なところで、しばらくは持ってきた本を読んだりして時間をつぶす。それも飽いて、リクライニング・チェアの背もたれをかたむけて、体をあずけてしばらく「休息」の体勢をとることにした。まだ時計はようやく二時半。

 ‥‥どうやら少し眠ってしまったようで、時計をみるといつの間にかもう四時をすぎていた。一時間半ぐらい寝ていたようだ。あたりの部屋から人が外に出て行く音が聞こえてきて、みんな始発電車で帰るのだろう。わたしも勘定を払って(これが自動支払いというかちょっとややこしいのだけれども、無事にもんだいなく支払うことが出来た)外に出た。普段でもしごとがあれば目覚めている時間だし、ちっとも眠くないのはありがたい。外はまだ真っ暗。

 横浜駅に着くとちょうど京浜東北線の始発電車の出るところで、うまく飛び乗ることが出来た。上野まで行って、そこから上野始発の宇都宮線の電車に乗る。上野駅で電車が出たときには車内はガラガラなんだけれども、先に行くにしたがってだんだん客の数が増えてくる。こんな早い時間に通勤・通学の人たちがこんなにいるというのが意外である。特にわたしが乗り換えるターミナル駅に近づくにしたがってどんどんと人が増えてきて、もう座れる席もなくなってしまう。時間は七時。ローカル線に乗り換えたのだけれども、このローカル線がこんなに混み合っているのをみるのははじめてのこと。高校生らしい制服の姿が目立つけれども、こんなに早い時間に登校するのだな。部活なんだろうか。

 自宅駅七時四十分到着。ニェネント、今帰ったよ〜。自宅のドアを開けてもニェネントは飛び出してくるわけでもなく、けっこう冷淡である。とにかくは元気そうでホッとして、「おまたせ〜」という感じでごはんを出してあげる。ニェネント、いつものようにがっつく。

 二時間ぐらいしか寝ていないわりには眠くもなく、いろいろとCDを聴いたりしてすごす。買ってきたアンテナ分配器を接続しようと思ったら、嵌合部が合わない。というか、オスとメスではなく、オスとオスとを合わせなければならない状態で、これは購入するときにチェックを怠ってしまった。ちゃんとした分配器を買いなおすしかないだろうか。また余計な金がかかってしまう。オスとオスとを嵌合させる接続部品があればいいのだけれども。明日にでも近くの量販電器店に行ってみようと思う。

 やっぱり眠くないからとずっと起きてるより、ここらでちゃんと睡眠をとっておかないとあとでひびいてくると思い、午後からはベッドに横になって寝ることにした。ニェネントがわたしの寝ているベッドに飛び乗ってきて、わたしの傍らで丸くなっていっしょに寝はじめる。こういうニェネントがいちばん好きである。



 

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■ 2016-02-16(Tue)

 今日はまた横浜へ行く。夜の公演で、十九時半に始まって二時間の上演時間というから、終わってから帰って来ることは出来ない。久しぶりに「泊まりがけ」の覚悟で出かけることにした。開演時間が遅いのでそれまでの時間を何かにつかおうと考えて、もう公開されている「キャロル」を観ることにした。ついでに電器店をのぞいてみて、アンテナの分配器、それに延長ケーブルを買っておきたい。ミニディスクも安く売ってるかどうかチェックしてみたい。
 映画の開演時間で都合のいい映画館をチェックすると渋谷の映画館がちょうどいいようで、映画を観る前に買い物をして、映画のあとには横浜へ移動する前に早めの夕食もすませておけるだろう。

 昼食をちょっと早めにすませて、ニェネントの食事もいつもよりたくさん出しといたげて、「お留守番お願いね!」と家を出る。渋谷には二時ごろに到着し、まず映画館へ行って座席を確保して、電器店へ行ってアンテナ関係の買い物をする。分配器はAmazon でみたよりも多少高い気がしたけれども、かまわずに買ってしまった。でもケーブルはちょっと高い気がしたので、別の店でみてくらべてみることにした。やはりミニディスクは置いていなかった。次に百円ショップへ行って、ミニディスクがないものかと探してみたけれども、ここにもなし。でもこの店でケーブルがずっと安く売られていた(百円ではないけれども)ので、これを買った。やはりいろんな店でくらべてみるのは重要。まだ時間があるので、近くの電器店をまわってみてミニディスクがあるかどうかチェックしたのだけれども、これが駅の近くのカメラ店に80分用のものが350円で売られているのをみつけた。Amazon では一枚400円以上するので、やはり探してみて正解だった。五枚もあればとっかえひっかえして当分は使えるだろうからと、とりあえず五枚購入。

 映画の開演時間が近づいたので映画館へ行き、「キャロル」を観る。とっても情感に沁みる、いい映画だった。
 映画のあとはまた日高屋へ行き、今日は担々麺を注文。ゆっくり食べてからゆっくりと横浜へと向かう。

 会場の受付に行くと、Eさん、Gさん、Hさんなど先日お会いしたようなメンバーがそろわれていて、これで終演後は打ち上げとかに参加させてもらって時間がつぶせるだろうと思う(まさか朝まで飲むというようなことにはならないだろうけれども)。

 終演後、Iさんに「今日はどうするの?」と聞かれ、「もう帰れないからどこかで夜を明かす」と答えると、「じゃあ打ち上げに行こう」と誘われる。Hさん、Jさん、Kさんと四人で先に近くの中華の店に行き、手塚さんやほかのスタッフの人たちの来られる前に飲みはじめる。久しぶりの大ぜいでの飲み会なので、わたしもテンションをキーひとつほど上げて飲んだ。あとからスタッフの人たちらも到着し、十人を越える人たちでの飲み会になった。

 十二時が近くなり、IさんやJさんは東京へ帰るというので、わたしも新宿あたりまで行って、インターネットカフェにでももぐり込んで夜を明かそうかと考えて、いっしょに出ることにした。しかし外に出てみるとすぐにビルの上にインターネットカフェの看板が光っていて、「ここでいいじゃないか」と考えて、皆と別れてそのインターネットカフェに行くことにした。そういうわけでこの夜は、インターネットカフェのせまい部屋で過ごすことになった。



 

[]「キャロル」パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督 「キャロル」パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督を含むブックマーク

 近年のディジタル撮影の輪郭くっきり鮮明で色あざやかな映像ではなく、粒子の粗い、落ち着いた色調の映像になっていたのがまずは良かった。ドラマの舞台になった50年代(正確には1952年から53年にかけての物語)の雰囲気がよく出ていたと思う。登場人物の設定や物語展開も映画で変更されていて、まずは原作の主人公のテレーズ(ルーニー・マーラ)は原作の舞台美術家志望ではなく、写真家志望と変更されている。これもまた、映画として<視覚>を優先するものとして効果的で、特にテレーズが現像室でキャロル(ケイト・ブランシェット)の写真を現像するシーン、その美しさを生み出すことになっている。

 ストーリー展開も原作から変更されている箇所がいろいろとあるのだけれども、冒頭のテレーズとキャロルとの出会いにキャロルに主導権を持たせたというのも、テレーズという人物造形を明解にしていただろうと思う。テレーズの人間としての成長をメインに置いた演出として、その前半でまだ迷いを感じさせるまなざしのテレーズは、中盤で自己の内側をみつめるようなまなざしへと変化し、終盤では自信に満ちた視線をみせるようになる。水滴でくもった車の窓ごしのテレーズの顔が何度も何度もインサートされ、その映像が彼女の内面を映すようで印象に残る。
 こういう、車でなくっても、くもった窓ガラスごしのショットというものも何度も挿入されるのだけれども、いつも曇り空、雪まじりの天候のつづくこの作品の空気感も上手に表現されていただろう。室内では縦の構図の使い方も印象に残ったところ。そしてやはり、「しばらく会わない」と決めたキャロルが車の中から道路を横断するテレーズをみとめ、彼女を目で追って行くシーンはもう名シーンで、ここにキャロルの想いが一気に噴出する感じである。
 エドワード・ホッパー風の構図、画面も散見された作品だけれども、キャロルがカフェでひとりすわっている、この作品では珍しく青の色調で統一された短いショットも美しかった。

 音楽も柔らかく、映画にマッチしたすてきな音楽だったけれども、この50年代の音楽としてはビリー・ホリディの音楽が選ばれていた。もちろんビリー・ホリディはすばらしいのだけれども、わたしはここで(個人的な好みでだけれども)リー・ワイリーを聴きたかったな。「時代的にリー・ワイリーでは無理があったのかな」と思い、帰ってから調べてみたのだけれども、そのリー・ワイリーの「ナイト・イン・マンハッタン」(もちろん、わたしが想定したのはこのアルバムであるけれども)のリリースされたのは1951年のことのようで、1952年のニューヨークのクリスマスシーズンからはじまるこの作品にはぴったりだと思うのだけれども。ちょっと粋すぎるかも、とは思いもするけれども、キャロルの「粋」をあらわすには、やはりリー・ワイリーがよかったように思ってしまうのである。

 しかし、ルーニー・マーラ、ケイト・ブランシェットの好演もあり、期待していた以上にうれしい作品に仕上がっていた。もういちど観に行きたい。



 

[]「15年の実験遍歴 私的な感謝状として」手塚夏子:作・出演 @横浜・STスポット 「15年の実験遍歴 私的な感謝状として」手塚夏子:作・出演 @横浜・STスポットを含むブックマーク

 手塚さんの作品はその初期にはわたしも観ているはずである。当日配布された彼女の活動記録をみると、彼女の活動は二十年前の1996年からはじまっているようだけれども、たしかに彼女が注目されるようになるのは2001年に「私的解剖実験」のシリーズがはじまってからのことだろう。「トヨタ コレオグラフィー アワード」にも出演されているようなので、当然そのあたりはわたしも観ているはず。2003年の黒沢美香さんとの共演「ある天才少女スミレ」もタイトルに記憶はあるし、2007年の門仲天井ホールでの公演を観ていることはこの日記で確認出来た。2009年にも、神村恵さんとの共演を観ているけれども、それ以降は彼女の舞台は観ていない。

 彼女のパフォーマンスがどのようなものだったか、イメージとしては浮かぶのだけれども、じっさいの記憶が残っているわけではない。この日のステージは、ホワイトボードを使いながら自分のやっていたことを説明しながらのパフォーマンス。「私的解剖実験」の歴史ともいえるようなものだった。

 彼女のパフォーマンスは、観て楽しいものではない。時には観つづけることに苦痛をおぼえるようなこともある。しかしその背後にある明確な「原理」を考えると、やはりそれは目が離せないものになる。わたしはカントを読むのを中断しているので、ここでカントの名前を出すのは恥ずかしいことだろうけれども、いってみれば彼女のやっていることはカント流にいえば「実践身体批判」だとか、「実践意識批判」ともいえるような根源的なところでの作業だろうとは思う。そして、今日の舞台でこころに残ったのは、個人の「身体」というものも、社会的なものであるという明確な視点であって、「個」の中に閉じこもったものではないということである。そういう社会的な視点を個の身体に反映させる方法に、凡百のパフォーマンスやダンスにはみられない意識をみてとることが出来たと思った(わたしはその社会的な視点に全面的な賛意を持っているわけではないのだけれども)。



 

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■ 2016-02-15(Mon)

 MDプレーヤーのメーカーに電話で問い合わせて、自動ではなく手作業でラジオの選局をする方法がわかった。たしかにリモコンには「TUNING MODE」というボタンがあって、そこから設定出来るのだけれども、取説には書いていないので、これは聞いてみなければわからないではないか。とにかくはFMも無事に聴けるようになったので、ひと安心ではある。しかし今はテレビに接続しているアンテナをつないで聴ける状態なので、アンテナのケーブルを分岐させてテレビとプレーヤーとそれぞれにつなげるようにしなければならない。「分配器」というヤツと、さらにケーブル線を買い足さなければならない。いろいろとあと処理がたいへんである。

 午後からは、そのMDでエアチェックをするためのMDメディア(つまりミニディスク)を買いに、ホームセンターまで行ってみた。ところが売っていたはずの場所にミニディスクは置いていなかった。もうMD関連のものはメディアを含めて生産中止になっていて、それでもう売られていないのかもしれない。しかし、カセットテープはまだいっぱい売っているのに、なんだかおかしなものだと思う。
 帰宅して、そのあたりのことを調べてみると、たしかに去年あたりから、ミニディスクはたいていの店頭から姿を消してしまったらしい。Amazon では一枚400円ぐらいで売られていて、たしか一枚百円ぐらいのものだったはずなので、「ずいぶんだなあ」と思ってしまう。手元にまだ何枚かあったはずの未使用のミニディスクも見あたらず、いつの間にか使ってしまっていたのだろう。やはり何枚かは買っておかなくてはならないだろうと思うのだけれども、やはりAmazon で売られている価格は高いので二の足を踏んでしまう。ネットで調べると、まだ百円ショップで残っているところもあるかもしれないようなことも書いてある。どちらにせよ明日は出かけるので、ついでにそのあたりを店に行ってたしかめてみたいと思っている。

 とにかくはMDプレーヤーを買ってからは大騒ぎ。ま、こういう生活の変化というのもたまには必要だと思う。Amazon とかをみていて、「ノートパソコンの中古はいくらぐらいするのだろう」とかいうことまで調べてしまう。
 今使っているノートパソコン、普通に使う分には何の問題もないのだけれども、まずはOSが古いので、「Boom」というアプリケーションをインストール出来ない。この「Boom」というのはパソコンの音量や音質を自由に変更出来るイコライザーみたいなもので、とにかくは音量をもっと大きくすることが出来るものが欲しい。これはイヤフォンジャックがこわれていることとも関係していて、イヤフォンジャックがこわれていなければ外付けのスピーカーを使って音量は自由に操作出来るわけで、以前はそうやっていたのだけれども、あるとき突然に音が出なくなった。普通にパソコン本体の音は出ているので、イヤフォンジャックの故障と考えられるのだけれども、このあたりがちゃんとしていれば「Boom」などというアプリケーションに頼らなくてもいいわけではある。
 そう、それから、付いているDVDプレーヤーに、ゴミでも入ってしまったのだろう、去年のあるときから、DVDプレーヤーにメディアを挿入しても、読み取らずに排出してしまうようになってしまってもいる。これも不具合といえば不具合だし、余裕があれば新しいノートパソコン(もちろんMac しか買う気はないし、そうするとどうしても中古で買うことになるのだけれども)が欲しくもなってしまうのである。

 今使っているこのノートパソコンを買ったのはいつごろなのか、この日記で調べると、2013年の8月25日だったということがわかる。どうやら新宿の中古パソコンショップで買ったらしいのだけれども、もうそういう記憶はすべて失せてしまっている。いったいどの店で買ったのかもわからない。だいたい、わたしの認識では、このノートパソコンを買ってからすでにもう五年以上は経っている感覚なのである。まだ二年半も経っていないというのはけっこう意外なことで、やはりもう少し現役で活躍してもらおうかなとは思うのだけれども、同じぐらいの価格のものであれば今でも買えないこともない。買ってしまってもいいのである。どうしようか。

 今日は録画してあった映画を一本観たけれども、「もうこういう作品は観なくてもいいな」と思うような映画を二、三本、録画して観ないままに消してしまったりした。ほんとうは毎日毎日映画ばかり観るような日々より、もっと本を読みたいという気もちの方が強い。出来れば筑摩の世界文学大系を全巻読破するとか、そういうことをやってみたい。



 

[]「悪魔の陽の下に」(1987) ジョルジュ・ベルナノス:原作 モーリス・ピアラ:監督 「悪魔の陽の下に」(1987)   ジョルジュ・ベルナノス:原作 モーリス・ピアラ:監督を含むブックマーク

 原作のジョルジュ・ベルナノスというと、ブレッソン監督の「田舎司祭の日記」、そして「少女ムシェット」の原作者である。そういうところで、どうしてもブレッソンの映画とこの作品を比較してみたくもなってしまうのだけれども、このモーリス・ピアラという監督さん、おそらくはそんなブレッソンの演出を猛烈に意識しておられるのではないかと思う。映画演出ということへの自意識が前面に出た作品だろう。わたしはとても面白くこの作品を観て、観終わったあとも消去するのをためらってしまった。

 人を見つめる、その視線が際立つ演出というのか、長廻しなのだけれども思いもかけないところでカットしてつないでいくような、独特のつくり方だと思った。ある意味で「即物的」というのか、ザクザクと切り進んで行く演出は心に残る。

 主人公はジェラール・ドパルデュー演じるドニサンという司祭で、苦行を行なうほどに自己に厳格なのだけれども、彼は田舎へと歩く道すがら、畑の中のようなところで「悪魔」と出会うのである。まるで田舎の十字路で悪魔と出会ったロバート・ジョンソンである。そこでジェラール・ドパルデューは悪魔と契約するわけもないのだけれども、彼の中には変化があらわれる。そこにサンドリーヌ・ボネールの演じる、ムシェット(「少女ムシェット」と同名)というややっこしい存在が立ちふさがる。いったい彼女は実は「無垢」の象徴なのか、「躓きの石」なのか。ドニサンはそこでじっさいに躓くのだろうか。
 そしてラストにドニサンは「奇蹟」を残し、心的劇労で死んでしまう。強烈な世界である。その強烈な世界を、このモーリス・ピアラという監督はみごとに映像化していると思う。

 人はその激烈な精神によって、ただそれだけで死することもある。まるで「嵐が丘」のキャサリンのように。そういう世界である。



 

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■ 2016-02-14(Sun)

 昨日注文したMDプレーヤーの代替品、今日の午前中にはもう到着した。ずいぶんと早い到着でおどろいたけれども、よろこんでセッティングにとりかかった。こんどはリモコンもちゃんと付いているし、期待していなかった取扱説明書まで付いていたのはうれしかった。残念ながら本体の電源スイッチはこわれているようで、電源のON/OFFはリモコンに頼るしかないようだ。カセットテープの再生チェックはやらなかったけれども、CDもMDも問題なく聴ける。さっそく、昼のあいだずっとCDばかり聴いていた。さいしょに聴いたのはIncredible String Band。あと、Alex Chilton やAnnette Peacock、Carole Laure、Fairport Convention、Steely Dan などなど(かなりデタラメである)。

 ひとしきりCDを楽しんだあと、チューナーのセッティングをしてFMを聴こうとしたのだけれども、これがうまく行かない。つまり、ラジオ局を登録するのだけれども、取説を読んでも登録は自動的に行なわれてしまうようで、ノイズの部分も「放送されている」と認識してしまうのか、あっという間に登録の上限に達してしまい、聴きたい放送局までたどりつくことができない。マニュアルのチューニングが出来ないというのもおかしな話だけれども、取説にもそのあたりのことは書かれていないので、「出来ない」ということなのだろうか。
 これには困ってしまった。ダメなら対策を考えなければと、安い価格のFMチューナーでもあればそれを買って、Audio In のジャックから入力させるしかないだろうか。Amazon でチューナーを調べてみたけれども、単体のFMチューナーというのは本格的なものばかりで、ヘタしたらこのMDプレーヤーよりも高価なものになってしまう。「だったら安いFMラジオでも買いますか」ということは本気で考え、調べたら三千円ぐらいのものがあるようなので、「これを買わなくてはならないだろうか」と思うのである。ま、明日になったらメーカーに「マニュアルでのチューニング」について問い合わせてみよう。もう十年も前の製品で、とっくに製造中止になっている機種だから、問い合わせてもムダだろうか。

 なんだか一日ずっと、あたらしいプレーヤーにかかずらってしまったけれど、夜になって読みさしの神谷美恵子の「生きがいについて」を読み終わった。



 

[]神谷美恵子著作集1「生きがいについて」神谷美恵子:著 神谷美恵子著作集1「生きがいについて」神谷美恵子:著を含むブックマーク

一 生きがいということば
二 生きがいを感じる心
三 生きがいを求める心
四 生きがいの対象
五 生きがいをうばい去るもの
六 生きがい喪失者の心の世界
七 新しい生きがいを求めて
八 新しい生きがいの発見
九 精神的な生きがい
一〇 心の世界の変革
一一 現世へのもどりかた

 著者は「らい」の国立療養所、長島愛生園で精神科医として患者と接した体験から「生きがいとは」という問題に向き合うようになり、この本を書いたということ。

 わたし自身、何度も書いているように「後退性健忘症」から多くの記憶を失い、自分の生きがいがどこにあるのかわからなくなったところもあり、この本から何かを教わるかもしれないという気もちで読み始めた。
 しかし、やはりこの本に書かれているようなことがらはわたしの症例とは距離があるというか、つまりほとんどの「生きがい喪失」というのは「現在、そして未来の喪失」ということであり、わたしのように「過去の喪失」ということから来るようなものは載っていない。「生きがいをうばい去るもの」がちがう、という印象だろうか。

 それでも、「新しい生きがいを求めて」、「新しい生きがいの発見」には教えられること、参考にしたいと思うことが多く書かれていた。そういうことで思うことはいろいろとあるのだけれども、今日は書くのをやめておこう。



 

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■ 2016-02-13(Sat)

 今日は横浜へ行く。これから来週にかけて、横浜通いがれんぞくすることになり、交通費がバカにならない。回数券でも買いたいところである。

 目的の公演は午後四時からで、また電車の到着時間がうまく行かず、十二時にこちらを出て、二時半ぐらいにはに関内駅に到着するようにしないといけないみたいだ。また向こうに到着してから時間をつぶさなくてはならないだろう。もっと、地元のローカル線が三十分に一本とか運行してくれていれば、こういう時間のロスはなくなるのだけれども。

 出発する前に昨日届いたMDプレーヤーの返品登録をして、新しく別の(同じ型の)MDプレーヤーを注文し、支払いも済ませた。月曜日までには新しいプレーヤーが届くことだろう。

 天気予報では今日は暖かくなるそうで、四月から五月にかけての陽気になりそうだという。たしかに外はそんなに寒くなく、ちょっと薄着で出かけることにした。
 関内駅に予定通り二時半に到着し、赤レンガの方向に歩く。ゆっくりと歩いたつもりでも時間があまってしまい、けっきょく、先日やったように近くの日高屋に立ち寄り、この日は生ビールと、それとおつまみに唐揚げを注文して一服した。

 会場はBankART Studio NYK というところで、最近はいつもこのあたりに来たときにその前は通っていたし、この日記を検索しても以前にここに来たことは複数回あるようだけれども、やはりまったく記憶に残っていない。つまりははじめて来るところという感覚。
 中に入り、まだ開場には時間があるようで、あたりをぶらぶらしていると、うしろから来たEさんにあいさつされた。しばらく話をしているとFさんもいらっして、わたしとEさんとが知り合いということにおどろかれていた。このあとも知っている方の顔をたくさんみることになったけれども、今日のこのイヴェントの主催者のGさんとお会いするのは、ほんとうに久しぶりのことになった。いったいいつ以来お会いするのか記憶もない。

 終演後にEさんとやはり客で来ていたHさんと話をしていると、さらにさらに夜の回のお客さんでいろんな方がやって来て、会場のロビー(ちょっとしたカフェ/バースタイルになっている)はほんとうにわたしも知っている方々の顔でいっぱいになってしまった。

しばらく複数の人たちとテーブルを囲んで会話して、夜の回も始まる時間になり、わたしとEさんとHさんとは開場をようやく出て横浜駅まで行き、そこの地下街のそば屋でちょっと飲み、そばを食べてお別れした。わたしは途中までHさんとおなじ方角なので、いっしょの電車で帰ったのだけれども、眠くなったわたしはそのまま車中で寝てしまった。失礼なことをしただろうか。



 

[]TPAMショーケース「アイザック・イマニュエル 風景担体 LANDSCAPE CARRIER」@横浜・BankART Studio NYK TPAMショーケース「アイザック・イマニュエル 風景担体 LANDSCAPE CARRIER」@横浜・BankART Studio NYKを含むブックマーク

跡1:服 × 太陽
 ソロ/アイザック・イマニュエル
 写真・映像/アイザック・イマニュエル
 ―街(台北、花蓮、ソウル、パリ、ベルリン、プラハ、横浜など)で見つけた、遺棄された服を集め、着てみる行為を通して生まれた映像と動作。2006~7 and 2016。

跡2:出現の駅
 ソロ/生実慧
 写真・映像/アイザック・イマニュエル
 ―背中に鏡を取り付けている。JR東海道線沿線で作られた映像と動作。2010。

跡3:安息
 ソロ/福島麻梨奈
 写真・映像(横浜)/アイザック・イマニュエル
 ―福島麻梨奈との共作。サンフランシスコで制作された。2015~16。

跡4:運ぶ人
 ソロ/安藤朋子、+アンサンブル/福島麻梨奈、生実慧、アイザック・イマニュエル
 写真・映像/アイザック・イマニュエル
 山口県の秋吉台国際芸術村で制作された。2014。

 作者のアイザック・イマニュエルという人はサンフランシスコを中心に活動するダンサー、美術作家ということで、「美術作家という立場からどんなパフォーマンスをみせてくれるだろうか」と、楽しみではあった。

 【服 × 太陽】はそのアイザック・イマニュエルのパフォーマンス。そのコンセプトが作品としてどれだけ活かされているか疑問はあるのだけれども、彼の動きはかなりダンスっぽいというか、どこか舞踏を思わせられるところもあった。
 【出現の駅】はいちばん美術作家らしい作品というか、背中に鏡を取り付けて歩く、という行為だけのパフォーマンスと映像。
 【安息】はいかにもダンサーとの共作という感じで、パフォーマーの福島麻梨奈という人はサンフランシスコで活動するダンサーらしい。こういってはアレだけれども、ダンスというものが美術を意識して行なうパフォーマンスの典型のようなところもあり、ちょっとばかし既視感も抱いてしまった。
 【運ぶ人】がやはりこの日のハイライトというか、いちばん力を感じさせられた作品だった。大きな米袋のようなものを背に担いで舞台へ運び、床に落として行く。そうやって床に並べられた七個の袋の占める位置のひとつに、安藤さんが丸くなって横たわる。作業着のようなものを着て、長靴を履いて登場した安藤朋子さんの、パフォーマーとしての実力をみせつけられたような作品。

 わたしが「行為」というものにこだわってみてしまったところもあって、あまりダンス的なものは期待してはいなかったところで、総じて「どっちつかず」というような印象にはなってしまった。



 

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■ 2016-02-12(Fri)

 注文してあったMDプレーヤーが到着した。ずいぶんと早い到着である。中古だけれども、とてもきれいな品なのでうれしくなる。販売店の商品評価も「とても良い」になっていたけれども、そういうことだろうと納得する。ただリモコンが欠品ななっていて、そのことは承知で買ったのだけれども、たとえばDVDプレーヤーなどは基本はリモコンがないとまるで役に立たないわけで、そういう不具合がないか心配になる。買うときに、まだ残っていたメーカーの商品紹介サイトをみて、だいたいのことは本体の操作だけで出来そうなので注文したわけだけれども。
 ところが、いろいろみていくと、肝心のMDへの録音がリモコンがないと不可能のようである。わたしはFM番組をMDに録音することも目当てで買ったので、録音が出来ないというのはこれは不良品である。もっとよく調べてから注文すればよかったと悔やむ。しかも、Amazon をみてみると、先日注文したときにはなかったはずなのに、わたしが買った価格に千円上積みすれば、リモコンがちゃんと付いているものが売られているのである。わずか千円のことであれば迷わずにリモコン付きの方を選んだはずなので、ここでも「注文するのが早すぎた」と悔やむのである。
 しかし、わずか千円の差で不完全なものを買ってしまったというのは悔やみきれず、すぐに今回届いたものは返品し、あらためてリモコンの付いているものを買い直すことに決めた。返品の送料は自己負担になるだろうから残念だけれども、その金額を合わせても、三千円ほどよけいに出せば満足の行くだろう品が手に入るのであれば、ためらわずに決断出来るというものである。ちょっと無駄な金を使ってしまったことになるかもしれないけれども、「不運だった」とあきらめよう。

 そういうわけで、とにかくは届いたプレーヤーをいちどはセッティングして、一年ぶりぐらいにCDを聴いた。音はこの価格ならこんなものだろうけれども、悪くない。というか、むかし持っていたプレーヤーとこの商品はメーカーも同じ、大きさもまるで同じだし、同型の商品と考えることが出来るだろう。だから音も同じようなものである。この品は返品することになるけれども、注文し直した商品もこれと同じものである。充分シュミレートは出来る。壊れていたプレーヤーはようやく捨てることになる。長いあいだご苦労さんでした。

 ニェネントが、このところ食事の時間でもないのにわたしを見上げてニャンニャンとなく。何かを要求しているのだろうけれども、いったい何をしてほしいのだかわからない。「なんですか?」と聞くのだけれども、ニェネントは「ニャ〜ン」としかいわないのでわからない。「わからないよ!」といっても、わたしのそばでニャンニャンなくのである。前はあまりこういうことはやらなかったのだけれども、体の調子が悪いことを訴えているわけではないようだ。何か心境の変化があったのだろうか。とにかくはわたしに何かをしてほしいようである。



 

[]「エイリアン2」(1986) ジェームズ・キャメロン:監督 「エイリアン2」(1986)   ジェームズ・キャメロン:監督を含むブックマーク

 うわ! こういう露骨なまでのマチズモ発露というのは苦手です。ま、あまり語ることのない映画ですね。多分わたしはジェームズ・キャメロンというのは苦手なんだと思う。



 

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■ 2016-02-11(Thu)

 Amazon で、わたしが持っていた(まだ持っているのだけれども、壊れてしまっている)MDプレーヤーとほぼ同型のプレーヤーが中古で出ていたのを、買ってしまった。CDはもちろん聴けるし、カセットテープも聴ける。FMもAMも聴くことが出来るという優れもの。わたしはヴィニール盤からMDに録音したものをいくらか持っているので、これが聴けなくなるのは残念で、やはりプレーヤーを買うとなるとMDも聴けるものをいちばんに探すことになる。現在ではもう、そういうプレーヤーの生産も終了してしまっているようで、MDの時代は終焉を迎えつつある(まだ地元のホームセンターへ行けば媒介としてのMDは売っているのだけれども)。CDもこれまた近年は売れ行きが大幅にダウンしているらしく、今はMP3で音楽を聴く時代になってるのだろうか。でも、逆にヴィニール盤の需要は増加しているらしく、中古ばかりでなく、新譜をヴィニール盤でリリースしたりするアーティストもいるらしい。先日も下北沢のCDショップへ行くとポータブルのレコードプレーヤーが一万円ぐらいで売られていたりして、こんな時代になるのなら少しヴィニール盤も保管しておけばよかったな、などと考えたりもした。
 とにかくはMDプレーヤー、到着が楽しみである。早ければ明日にも届くことだろう。

 今日は図書館へ行き、ビオイ=カサーレスの「モレルの発明」を借りてきた。これはブラザーズ・クエイの「ピアノチューナー・オブ・アースクェイク」の原作というかモトネタになっている作品らしいのだけれども、そもそもわたしは「ピアノチューナー・オブ・アースクェイク」という作品の内容をこれっぽっちも記憶していない。それで近々観直してみようと思っているのだけれども、それにはまず、この「モレルの発明」を読んでおきたいと思ったわけである。先日読んだ「ウィルソン氏の驚異の陳列室」に登場した、「異臭蟻」という不思議な昆虫もまた、その「ピアノチューナー・オブ・アースクェイク」の中で取り上げられているらしく、どうやら「ウィルソン氏の驚異の陳列室」という本もまた、ブラザーズ・クエイの創作の源泉になっていたらしいのである。

 今は、自宅の本棚に並んでいた、神谷美恵子の「生きがいについて」という本を読んでいる。これは以前Book-Off で108円とかで売られていたのを買ったもので、「神谷美恵子が108円というのはいくらなんでもヒドいだろう」という理由だけで買った記憶がある。おそらくはそのタイトルから、そこらに山ほどある人生訓についての本だろう、という判断での値づけになったのではないかと想像する。Book-Off の店員は神谷美恵子など知りもしないのだろう。
 それで、今のわたしは後退性健忘症ということになってしまって、「わたしの生きがいとは?」と考えることにもなるわけで、それでこの本を読むことを選んだわけである。やはり、いろいろと教えられるところの多い読書になりそうである。



 

[]「月曜日のユカ」(1964) 中平康:監督 「月曜日のユカ」(1964)   中平康:監督を含むブックマーク

 手法だけはヌーヴェルヴァーグの真似をしてみました、みたいな作品で、そういうところではうまく演出されているようではあるし、とにかくはヒロインの加賀まりこがあまりにかわいいのはたしかなことである。しかし、この脚本はいただけない。「男をよろこばせることが生きがい」などという、あまりに旧時代的で反動的なストーリー展開。ヌーヴェルヴァーグというのは、その手法だけではなく、その内容においても「ヌーヴェルヴァーグ」だったのであり、このような映画とは真逆のものであったはず。演出手法と、その内容というものは一致していなければ意味がない。そういう意味ではクソのような映画であると思う。



 

[]「人喰海女」(1958) 小野田嘉幹:監督 「人喰海女」(1958)   小野田嘉幹:監督を含むブックマーク

 過去にいちど観ているのだけれども、もちろん記憶から消えてしまっているので、放映されていたのを機会にもういちど観てみた。この小野田嘉幹監督の作品というのは、わたしはその後「女奴隷船」というのも観ているようで、その「女奴隷船」と、この「人喰海女」で出演者が重なるところが多いようである。というか、過去に観た小野田嘉幹監督作品を調べると、だいたい女優陣はいつも同じみたいな。それで悪女はいつも三原葉子で、どっちかというと清純なのが(って、入浴シーンがあったり、セクシーではあるけれども)三ツ矢歌子(この人は後に小野田嘉幹監督の夫人におさまるのである)。グラマーぶりをみせつけるのが万里昌代(この人は後に大映に移籍して「座頭市物語」とかに出演されるのである)なのである。男優陣も、「女奴隷船」の菅原文太のように、後に有名になる俳優が多いのだけれども、この作品では宇津井健に丹波哲郎、それに殿山泰司など。面白いところでは刑事役でちょこっと平田昭彦が出てくるのだけれども、平田昭彦というのはこの小野田嘉幹監督の弟なのだそうである。

 しかし、「女奴隷船」という映画もかなり中途半端な映画だった記憶があるけれども、この「人喰海女」も相当に中途半端な出来で、なんだか「どうやってまとめてラストになだれ込むか」わかっていないままに撮ってしまったようなところがあるんですね。しかし導入部はそんなに悪くない出来で、絵コンテがしっかりしている感じだっただけに、もったいないところは感じてしまう。まあストーリーがめちゃくちゃだということはいえると思うけれども、いろいろと途中で提示されたポイントが、たいていのところは終盤ではどうでもよくなってしまう。殿山泰司の刑事は「もうちょっとこのまま様子をみれば、もっと大物がかかってくるだろう」とかいうのだけれども、おかげで犯罪者になることもなかったはずの丹波哲郎まで犯罪者になって死んでしまう。「犯罪を未然に防ぐ」という鉄則など、どこかに行ってしまいましたね。



 

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■ 2016-02-10(Wed)

 今日は、文楽の公演を観に行く。前にも書いたけれども、この日記にも「文楽を観た」という記述はなく、どうやらさいごに文楽公演を観たのは十年以上前になるようである。それで、この日記の右側のコラムのリストにも「文楽」というカテゴリーはつくっていないので、どうやって書き分けようかと考えてしまう。「演劇」としてしまうには抵抗があるし、もちろん「Performance」でもないだろう。今のカテゴリー分けでは分類は不可能と判断して、新しく「伝統芸能」というカテゴリーをつくることにした。ただ「文楽」でもいいのだけれども、ひょっとしたらこれ以降、文楽以外の伝統芸能を観る機会がないともかぎらない。そういうときにまたカテゴリーをつくろうかと悩むより、いっそここで「伝統芸能」としておこう。そういうことにした。

 開演は五時半と、ちょっと普通の勤め人にはキツいだろうという時間設定になっている。このあたりに、伝統芸能に若い観客がつかないという原因になっているようにも思えるのだけれども、開演時間が早いおかげで終演も早くなり、終電で帰れる時間の早いわたしにとっては、これがとても助かる設定になっている。
 しかし、五時半に半蔵門へ行くとなると、三時の電車で出発するとその開演時間に間に合わないおそれもある。二時の電車に乗ると、早ければ四時ごろには乗り換えの渋谷に着いてしまう。一時間に一本しかないローカル線のことだから仕方がないけれども、二時の電車で出発して渋谷ででも時間をつぶすしかないだろう。

 二時の電車に乗るために外に出ると、晴天で日ざしは暖かそうなんだけれども、吹く風が冷たい。電車に乗ってもあまり暖房も効いていなくて、ちょっと薄着すぎたかなと思う。以前はここのローカル線の暖房は過剰に暖かく、じっとすわっているとお尻が熱くなるほどだったけれども、このところは「暖房は入っているのか」といぶかしく思うぐらいである。「中庸」ということを知らない。

 乗り換えでうまく早い電車に乗れたので、考えていたように四時前に渋谷に到着する。ちょうど使っているパソコンのことで知りたいことがあったので、Apple Store へ行ってみる。ちょっとめんどうな質問で、予約しておいて回答を得る種類の質問だったらしいけれども、わたしが聞いた店の人の対応は模範的だった。さすがにApple である。フリーダイヤルでも問い合わせ出来るとのことで、電話番号を教えていただいた。

 外を歩いたのでからだが冷えてしまい、「なんとか暖めなくっちゃ」と、近くの日高屋へ行って熱燗を注文した。おつまみは唐揚げとギョウザ。これで700円だから、酒の味に期待しなければ安いもんだと思う。
 からだも暖まったところでメトロに乗って半蔵門駅で下車。案内に従って歩いて、ちょうどいい時間に国立劇場に着いた。今日は時間配分がいろいろとうまくいったと思う。やはり客席は年配の方がほとんどで、特に中年ぐらいまでの男性客の姿はまるでみかけなかった。意外に空席も目立つようで、五分の一ぐらいの席が空いていただろうか。わたしの右どなりの席も、連続してふたつ空いていたし。これならば、当日券目当てでふらっと来ても観ることが出来そうだなどと考えた。

 上演は二部構成で、前半が終了すると三十分もの休憩時間があるのだった。多くの人が売店で売っている軽食などを求めて、外のロビーで食べたりしている。もちろん値段は相当に割高なものだけれども、もちろん持ち込みも大丈夫なのだろう。次に来るときにはこの休憩時間をどうするか、用意を考えておこうと思う。

 八時二十分ぐらいには終演だったのだけれども、わたしには惜しいところでローカル線の終電になってしまう。ストレートに帰っても乗り換え駅での待ち合わせ時間が長くなってしまうので、ちょっとのんびりと帰路に着いた。渋谷駅ですぐに湘南新宿ラインに乗るのではなく、いちど大崎駅まで山手線で引き返し、そこから湘南新宿ラインに乗り換えた。駅のホームで時間をつぶすのも寒いので、こうやって電車にたくさん乗っている方がいい。

 帰宅して十一時半。もう夜も遅いので、ドアを開けてもニェネントの出迎えもない。それでも靴を脱いでいると奥からニェネントがのそのそと出てくる。遅いネコ缶の食事を出してあげ、わたしもまだ残っている肉じゃがで遅い食事にした。



 

[]文楽「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 文楽「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場を含むブックマーク

 時代物の名作の、そのクライマックスともいえる段で、能の「船弁慶」の後段からのアレンジもある物語展開。主役は実は壇ノ浦の戦いで死んでいなかった平知盛で、彼はここで渡海屋という廻船業者に扮し、策略をめぐらして九州へ落ちのびようとする源義経に復讐しようとしているわけである。平知盛の扮した渡海屋の女房のおりうは、安徳帝の乳母の典侍局であり、娘のお安というのが実は安徳天皇なのである。そんな知盛の陰謀も実は義経の方は百も承知で、海上で返り討ちしてくれるわけである。そのさまをみた典侍局は自害し、安徳帝はその身を義経が預かることになる。力尽きた知盛は碇を担いで海辺の岩に登り、その碇とともに海に身を投げる。

 太夫と三味線は「口」、「中」、「奥」の三部で交替し、それぞれの持ち味を聴かせる。わたしが十年以上前に観たときから記憶にある名前は、「中」の三味線の野澤錦糸、「奥」の太夫の竹本千歳大夫らの名前であるけれども、それぞれに熱のこもったプレイ(という言い方は浄瑠璃にはそぐわないか)を聴かせてくれた。
 人形遣いでわたしの知っていたのは、その知盛を操った桐竹勘十郎ぐらいのものだったけれども、遠目ではよくわからなかったとはいえ、やはり浄瑠璃人形というものはどこか艶やかでいいものである。メインの人形は三人で動かすという、ある意味でコスト・パフォーマンスのとっても悪い舞台づくりではあるのだけれども、それだけ情感のこもった精緻な表現が可能なのであろう。
 わたしには「浄瑠璃」というもの自体にも惹かれるものがあり、今日も太夫、三味線、そして人形との美しい競演を堪能することが出来た。



 

[]文楽「義経千本桜」道行初音旅 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 文楽「義経千本桜」道行初音旅 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場を含むブックマーク

 こちらは打って変わって「所作」という、つまりは「踊り」ですね。出演は静御前佐藤忠信のふたり。吉野山の満開の桜の前で、華やかにあでやかに舞うダンス・デュオ。この忠信というのは実は狐の化身で、静御前が打つ初音の鼓には、その親の皮が張られているらしい。それでもって忠信に身をやつした子狐が親を懐かしんで出てくるらしいんだけれども、ここでふたりが源平の合戦をしのんで語り、そして踊ることになるわけ。

 実は終盤に静御前の投げる扇を忠信が受け取る(らしい)という、ちょっとした見せ場があるのだけれども、わたしはちょうどその瞬間に目線を手元に落としてしまい、目を上げると観客皆が拍手しているわけで、そういうカッコいい見どころを見落としてしまったわけで、とにかくも残念なことであった。

 この五月には同じ国立劇場で、「文楽鑑賞教室」として「曾根崎心中」が上演されるらしい。わたしは今まで時代ものしか観ていないし、文楽を代表するような傑作が上演されるのであれば、これはもう観るしかない。ぜったいに予約して観に来ようと思う。五月が来るのが楽しみである。



 

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■ 2016-02-09(Tue)

 夢をみた。
 何かの記念日なのだろうか。皆で大きな寮のような建物に来ている。食事の時間になり、皆がいっせいにそれぞれの部屋を飛び出してエレヴァーターに向かう。わたしがエレヴェーターに乗るとあとから乗って来ようとする人物がいたのだが、その男は中学時代の同級生(ちょっと不良だった)ではないかと思う。九階の食堂に着くと、もう先に食事をしている人たちもいる。わたしは空いている席にすわろうとして先にいる向かいの人にあいさつをする。テーブルにはもう食べるものが用意されていて、ひとつはカニを真半分にしたものを入れたスープらしきもので、もうひとつ、わたしのそばに置かれているのは雑炊みたいなものだった。「それは冷たくなってしまうとおいしくないんだよ」と、わたしの前の人がわたしにいう。
 「クリスマスなのに、ツリーとかの飾り付けがないのは寂しいね」と誰かがいう。今日は12月22日で、昨日の21日も何かイヴェントがあったらしい。飾り付けの時間が取れなかったのだろうけれども、上を見上げると天井のところからみすぼらしい正月用の飾り付けがぶら下がっている。誰かが皆にいわれて、そこの責任者のような人物に「クリスマスなのに‥‥」といっている。
 宴会も終わったようで別の場面になり、わたしはひとりで川沿いの渓谷の坂道を歩いて下っている。その道沿いに高層の集合住宅らしい建物があり、道からある二階の部屋の中がみえるのだけれども、それがとあるトラッド関係のレコードのジャケットを模した配置の部屋になっている。「そのレコード、わたしも大好きなんです」とその部屋の住民に話しかければ、友だちになれるだろうかなどと考え、もういちどその部屋の前を通ると、もうドアが閉められていて、部屋の中はみえなくなってしまっていた。
 道をさらに下りていくと、わたしのうしろで道路わきにいる鳥が人のことばをしゃべっている。「やい、このやろう」とか、かなり乱暴なことばをしゃべっている。つかまえようと近づいてみると、思ったよりもかんたんにつかまえることができた。白と灰色の体をした、ネコのような胴体をした鳥。その鳥を胸に抱いて道を行くと、うしろから男が下りてくる。「鳥、鳥、かわいいな」などといっている。追いつかれないように足を速めるけれども、坂道の終わるところで追いつかれてしまう。男だけでなく女もいっしょにいて、男は森で穫ってきたのか、死んだ野鳥を右手にぶら下げていた。男のつかんだ鳥の足のところの白い羽毛に、赤い血がついているのがみえた。そんな夢だった。

 今日はもう一本の「マッドマックス」シリーズを観て、夕食は昨日の肉じゃが。肉じゃがはまだずいぶんと残っているので、当面は肉じゃがばかりになるだろう。



 

[]「マッドマックス/サンダードーム」(1985) ジョージ・ミラー:監督 「マッドマックス/サンダードーム」(1985)   ジョージ・ミラー:監督を含むブックマーク

 第二作の世界観を引き継ぎ、さらにここでは核戦争による世界の破滅以降という設定になっているらしい。ティナ・ターナーが登場し、彼女演じるアウンティが物々交換で成り立つ集落(砦?)「バータータウン」を取り仕切っている。この世界は、「怒りのデス・ロード」でのイモータン・ジョ―の支配する砦を思わせるものがある。しかし、バータータウンのエネルギー源は飼育される豚の糞尿からのメタンガス。前作、もしくは次の「怒りのデス・ロード」とちがって、ガソリンというものはいっさいその姿をあらわさない。主人公のマックスもV8に乗っているのではなく、その冒頭ではアラブの隊商のような格好でラクダで旅をつづけている。
 冒頭でそのラクダを奪われたマックスがたどりつくのがバータータウン。アウンティに見込まれたマックスは、バータータウンの地下世界を支配するマスター・ブラスター(実は小人のマスターと大男のブラスターとのコンビ)を排除したいというアウンティの命令で、闘技場「サンダードーム」でブラスターと戦うのである。マックスは勝利するけれど、実は体が大きいだけの子どもだったブラスターにとどめを刺すのをためらい、アウンティにバータータウンの外の砂漠へ追放される。その砂漠の奥の緑地には約束の地への救済を夢みる子どもたちが住んでいて、マックスはそこの少女に助けられ、待たれていた救済主だと思われてしまう。
 それでマックスらはけっきょくバータータウンへ舞い戻り、生き残った小人のマスターを助け出すことになる。

 カー・チェイスやカー・アクションは終盤にこそ炸裂するけれども、やはりなんだか、車の出てこない前半の展開は「マッドマックス」らしくもないというか、前半のメインに位置づけられる「サンダードーム」での決闘も、そこまで盛り上がるものではない。ただ、ここでその声で群衆を仕切るティナ・ターナーはかなり迫力もあり、このキャスティングにもうなづけるものがある。
 しかしこの世界観はいよいよ「怒りのデス・ロード」への発展を予感させるものになっていて、それは「別の場所には<約束の土地>があるはず」という期待を実現しようとする行動であり(この展開は前作にもあったものだけれども)、それが<砦>を支配するものとの闘争となる、というような構造。その構造の中でマックスは<砦>の支配者に敵対する側に組するわけであるが、これはスクリーンの外の現実世界での「変革」への希求という観客の欲求を投影する、まさに「活劇の原点」として「怒りのデス・ロード」にも引き継がれるものであろう。



 

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■ 2016-02-08(Mon)

 朝、テレビをみていると、認知症の予防や進行抑制に効果のある「音楽療法」というものが紹介されていた。音楽は「記憶の扉をあける鍵」といわれ、過去の記憶を取り戻すとともに脳の活性化を即す効果もあるという。これはわたしの体験というか症例でもたしかなことで、多くの過去の記憶が失われた今でも、音楽に関しての記憶はそれほどまでに消失してはいないし、音楽を通してその音楽を聴いていた頃のことを思い出したりもする。前にもこういうことは考えたのだけれども、おそらくは「記憶」という脳内システムの中で、音楽を記憶する方法、その記憶のストックされる場所というのは、ほかの記憶とは別の方法、別の場所を使っているのではないだろうか。そうやって音楽を聴くことが記憶回復のとっかかりになるばかりでなく、精神が鼓舞されて「幸福感」を得ることも出来るようだ。この療法は科学的に未検証で、医療行為とみなされることもないけれども、明らかに心身の健康の回復、向上に効果があるとされている。
 わたしはこのところ、CDプレーヤー(MDもカセットテープも聴ける)が壊れてしまったままにしてあるので、パソコンのYouTube で以外に音楽を聴くこともなく、せっかく持っているCDもただデッドストックになっているだけである。Amazon で検索すると、今はわたしが持っていたのと同型のCDプレーヤーも一万円ほどで買えるみたいだ。いつまでも音楽のない生活を続けていると、それが常態になってしまう。「No Music, No Life」である。やはりCDプレーヤーを買おうかと思う。

 今日は夕食に、ちょっと力を入れて「肉じゃが」をつくった。力を入れたというより、いろんな調味料を使ったというべきかもしれないけれども、いつものしょう油にみりんや砂糖、料理酒をプラスするだけでなく、めんつゆや鶏ガラスープの素、和風だしの素などを入れた。たしかにいつもの肉じゃがよりおいしく出来たようで、これからはこのレシピで行こうと思う。

 先日、ひかりTVで「マッドマックス」の過去の三作を連続して放映していたのを録画しておいたので、今日はその中の二本を観た。



 

[]「マッドマックス」(1979) ジョージ・ミラー:監督 「マッドマックス」(1979)   ジョージ・ミラー:監督を含むブックマーク

 メル・ギブソン主演のシリーズ第一作。今観ると、第二作以降への布石としての「警官時代のマックス」から始まる作品で、そこからなぜ警官を辞めて「放浪する」マックスになったのか、ということが描かれる。まだ「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ほどではないけれども、いちおう設定は近未来になっているようで、なんとも世界は荒廃している。マックスの相手は暴走族の一団で、けっきょくマックスの妻子がその暴走族に襲われ、マックスはスーパーチャージャー搭載の特別仕様車「V8」を警察から無断で持ち出し、暴走族一味に報復するわけである。

 1979年の作品ということで、カー・アクションとして傑出した作品の評価を受けたらしいけれども、これ以降にCGなどを駆使してさらに映画のアクションシーンは過激化し、バイオレンス度を強めた作品がハリウッドの主流になっていく。今そういう慣らされた目からこの作品を観ると、いささかなりと古さを感じてしまうところはたしかにある。
 ではそういう<古さ>を越えて、この作品の魅力がどこにあるかというと、わたしはそれは「その土地と結びついた主人公の行動」にあるのではないかと思う。これは「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観た記憶もあわせての考えだけれども、ここで主人公はいちど家族とともにリゾート地に移動して、そこで妻子を失ってまた元の土地へ戻ることになる(じつは妻は一命をとりとめているようなのだけれども)。この、「いちどはまた元の土地へ戻る(そのあとは放浪が始まるのか)」というような、その土地との関係、その中にこのストーリーのかなめがあるのではないのか。そう思うのであるが、そのことは次の「マッドマックス2」でも活かされていたようではあった。



 

[]「マッドマックス2」(1981) ジョージ・ミラー:監督 「マッドマックス2」(1981)   ジョージ・ミラー:監督を含むブックマーク

 まだ、さほどにはこの現代の世界とのギャップを感じさせなかった前作「マッドマックス」に比べると、とつぜんに別世界へと移動したかのような感覚になる。前作の続編という設定ではなく、ここではもう妻子を失った復讐譚という展開は失せている。ただ最終戦争のあとの荒廃し切った世界を舞台とし、その荒地をさまようのが主人公なのである。荒地の世界に生きる滅びかけた人々には石油は貴重品である。前作に引きつづいて「V8」を乗り回す主人公の目の前に石油精製をいとなむ集落(基地)があらわれ、その石油の奪い合いの中に主人公が飛び込むことになる。この世界観は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に酷似していて、ここにこそ、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の原点があるという感覚である。

 舞台は石油精製基地の集落であり、その基地で暮らす人々も別の土地での生活を夢みている。このあたりの設定も、いろいろと「マッドマックス 怒りのデス・ロード」と共通するものがあるようだ。外からは基地の石油をねらう一団が攻めて来ていて、別の土地に移るにはその攻撃をかわさなくてはならない。後半の延々とつづくカー・チェイス、カー・アクションのシーンは今観ても鮮烈で、ここにも「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の原点があると思う。とっても面白かった。



 

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■ 2016-02-07(Sun)

 いつも思っていることだけれども、人類の最大の愚行というのは「原子力発電」だと思っている。人間は「原子力」の内包するとてつもない力を制御する力も持っていないくせに、その原子力のとてつもない力でお湯を湧かし、それで発電しているだけなのだ。原子力というものの持つ力の、その1パーセントも活用していないはずである。そして制御出来もしない「核廃棄物」を大量に生み出し、自らの生活圏を危険に晒すのである。さらに、福島原発のような「事故」が起きる。それにもかかわらず、これからも原子力発電を継続しようとする、この「愚かさ」は堪え難い。ぜったいに、原発はすべて停止すべきである。これはわたしのいつもの考えである。いちども書いていないことなので、あらためて書いておく。

 昨夜は終電で帰宅して、寝るのは十二時を過ぎてしまった。それで今日は仕事。いつものように朝の四時には目が覚めるのだけれども、とにかくは頭も体も重く、起き上がろうという気にならない。とても仕事に行く気にもならず、「このままさぼってしまおうか」と、また布団の中にもぐり込む。しかしいちど目覚めてしまうともう眠ることも出来ず、目だけは冴えてしまっている。急な欠勤というのもよろしくはないだろうと、何とか起き出して着替え、いつもの時間に出社した。

 帰宅してからも何もする気がしないで、また布団にもぐり込んで寝てしまう。昼食も食べないでずっと寝つづけ、三時ごろになってようやく起き出して、録画した映画を一本観た。映画を観終わったところでかなり大きな地震があり、ニェネントもおどろいたらしくって、わたしの近くにふっとんで来た。テレビではこのあたりは震度4だったといっていた。

 夕食をつくるのもめんどうで、スーパーで弁当でも買ってきてすませようかと思ったのだけれども、このところずっと浪費モードなので、なんとかお米を炊いて、さばの缶詰でかんたんな夕食をすませた。



 

[]「ダーク・シャドウ」(2012) ティム・バートン:監督 「ダーク・シャドウ」(2012)   ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 もともとは長大なテレビドラマとして人気を博したシリーズのようで、この映画を観ても「もっと長大なストーリーから要約してこのような作品になってしまったのだろう」ということは容易に想像できるものである。それでも主人公らの住むコリンウッドの邸宅の雰囲気など、「ゴシック・ホラー」としての雰囲気はよく出ていて、このあたりはさすがにティム・バートンだなあと感心する。ここに、主人公ヴァンパイアのバーバナス(ジョニー・デップ)が眠りについて目覚めるまでに二百年のギャップがあったというところから、コメディの要素も加わってくるし、さらにこの時代設定が1970年代ということが、観るものの笑いを誘うことにもなる。わたしはこのあたりのカルチャーギャップがとても面白かったし、使われる音楽が当時のヒット曲だったりというあたりも好みのところ。

 あまり怖くないヴァンパイアのジョニー・デップもいい味を出しているし、敵役の魔女(エヴァ・グリーン)もいい。久しぶりにみるミシェル・ファイファーやジャッキー・アール・ヘイリーらもちょっと懐かしかったし、ティム・バートン作品の常連、ヘレナ・ボナム=カーターも楽しませてくれる。そしてクロエ・グレース・モレッツまでも出演しているから豪華だ。
 しかし、冒頭部では「彼女を中心に物語が展開するのか」と思わせられる家庭教師のヴィクトリア(実はバーナバスの永遠の恋人ヴィッキーの生まれ変わり)はほとんど出番もなく進行していくし、かなり唐突に、いつのまにかウェアウルフになってしまっていたというクロエ・グレース・モレッツもいかにも中途半端。さらに、肝心の魔女もずいぶん簡単に退治されてしまうではないか。

 おそらくはオリジナルの「ダーク・シャドウ」を観ていて熟知している観客には、このダイジェスト版的なはしょり方も納得出来るのかもしれないけれども、たしかにそのゴシックな雰囲気は楽しめるとはいえ、わたしなどにはちょっともどかしいところのある作品ではあった。



 

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■ 2016-02-06(Sat)

 中学時代以降洋楽を聴きつづけたおかげで、英語力はずいぶんとついたと思う。学校の英語の授業で覚えるのではなく、ポピュラー音楽をずっと聴いていれば「そういう言い回しをするものだ」ということが自然と身についた。歌詞カードをみながら聴いていれば、ひとつの文章として、素直に記憶されることになるのである。もちろんスラングだらけのポピュラー音楽で覚えるのだから、「そんな汚い英語を使っちゃダメ」みたいなのも、そのまま覚えてしまったりする。しかしヒアリングの方はなかなか進歩しなくって、今でも「L」と「R」はやはりなかなか聞き分けられないし、字幕なしで洋画を観ることなどできない。
 でも、発音の方はそんなに悪くはないと思う。むかし、外国の方に「あんた、発音スゴくいいよ」とほめられたことあるし。ヒアリングはダメでも、しゃべるときには「L」と「R」、「V」と「B」とかの発音は気をつけてるし。そういうので、今はもう英語を使う機会もほとんどないので忘れてしまっているけれども、ひとりでヨーロッパ旅行したこともあるし、当時フィンランドから来日していた男(美術記者だった)にいろんなところを案内し、通訳まがいのことをやってあげていた時期もあった。
 だから、自分の英語の勉強で役に立ったのは学校での授業ではなくって、そういうポピュラー音楽の歌詞によってだった。学校の授業でもっとそういうのをプラクティカルに利用していけば、英語を身近に感じて学習出来るはずだと思うのだけれども(教師によってはそういうこともやっているだろう)。

 去年に引きつづいて、娘が京橋のギャラリーでのグループ展に参加している。今日ならばギャラリーに当番で行っているというので連絡を取り、観に行ってギャラリーを閉めたあとはまた、先月もCさんと行った「K」でちょっと飲むことにした。
 同時に並行して今、その「K」のそばのギャラリーで個展を開催中というDさんから案内状をいただいていたので、そちらにも行ってみることにした。

 二時の電車で上野東京ラインに乗り換え、四時に東京駅に着く。まだ時間があるので、八重洲ブックセンターへ立ち寄ってみる。思ったんだけれども、この東京駅〜八重洲ブックセンター〜京橋の画廊街という位置関係は、先日行った池袋の、池袋駅〜ジュンク堂書店〜あうるすぽっとという位置関係と相似形みたいだ。それで八重洲ブックセンターをジュンク堂書店と取り違えてしまい、「たしかレジはまとめて下の階にあるのではなかったのか」とか思い込んでいた。

 まずはDさんの個展会場へ行くのだけれども、その前に「猫ちゃん通り」へ行ってみる。先日行ってみたときにはネコはまるでいなかったのだけれども、この日は二匹のネコに出会うことが出来た。一匹は前にもいた「チロちゃん」だろう。もう一匹ははじめてみるキジトラ。仲良く食事していた。

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 Dさんの個展はなぜか、案内をいただくといつもそのあたりに行く用事がちょうどあったりして、何度か観に行っている。そもそもが、二年前の下北沢「G」での15周年展に、Dさんもわたしも出品していて、Cさんの紹介で知り合った方である。
 淡い色彩の抽象画と、彼女の撮った写真とが並べられた展示。「空間」というだけでなく、そこに「時間」というものの存在も感じさせられるような作品であり、みていて心が柔らかくなる。
 会場にいらっしゃったDさんと少し話をして、おいとました。

 娘のグループ展。娘がどういう作品を描こうとするのかよくわからないのだけれども、画壇の予備軍のような絵はさっさと卒業して、ほんとうに自分のあらわしたい世界を描いてほしいと思う。三点出品していた作品の中では、藤田嗣治を模して描いた室内画がとてもよかった。
 六時になってギャラリーを閉め、いっしょに「K」に行って飲んだ。映画の話や音楽の話など。



 

[]「ウィルソン氏の驚異の陳列室」ローレンス・ウェシュラー:著 大神田丈二:訳 「ウィルソン氏の驚異の陳列室」ローレンス・ウェシュラー:著 大神田丈二:訳を含むブックマーク

 謎の本である。まず第一部の体裁としては、ロサンジェルス郊外にあるという「ジュラシック・テクノロジー博物館」という私設の博物館、その館長のデイヴィッド・ウィルソン氏の紹介のようなものになっているのだけれども、はたしてその「ジュラシック・テクノロジー博物館」という施設は実在するのか。紹介されているその博物館の展示物は「創作」ではないのか。

 まずはカメルーンの奥地に棲息するという「異臭蟻」と、その蟻に寄生して繁殖する胞子の話が信じ難い。蟻の脳を浸食する「胞子」は、その蟻の頭部に「釘」のような突起を生み出させ、狂った蟻は植物の幹を登ってその上部にしっかりと噛み付いて身を固定させる。そしてまた「胞子」を地上に撒きはじめ、次の蟻に寄生する機会を狙うというのである。
 これは「突拍子もない」という印象で、「そんなことはあり得ないだろう」と、その「異臭蟻」というものをネットで検索してみることになる。おどろくことに「異臭蟻」というのはたしかにアルゼンチンに存在するようだけれども、カメルーンではない。しかも、そのWikipedia の記述には寄生する胞子のことなど何も書かれてはいない。

 このあとも、南アメリカにいるという「マイオーティス・ルーシファーガス」というコウモリの話。このコウモリはなんと、「固形物を貫通することが出来る」とされているらしい。そのコウモリを、「厚さ八インチ、高さ二十フィート、長さ二百フィートの五枚の鉛の仕切り壁からなる罠」で捕獲したというのである。その「永久に硬い鉛の塊の中に幽閉された」マイオーティス・ルーシファーガスが、そのジュラシック・テクノロジー博物館に展示されている?

 そもそもが、その「ジュラシック・テクノロジー博物館」の外観写真が掲載されていない。単に鉛筆画のスケッチが掲載されているだけ。これはもう、「そんな博物館は実在しない」という証拠になるのではないだろうか。
 しかし、英語版Wikipedia にはこの博物館の記載がちゃんと存在し、その外観写真も掲載されている。どうやらこの博物館は「実在」するようである(信じられない!)。

 第一部にはこのほかにも「驚異の展示」がその展示の脈絡もなくつづいているさまが書かれていて、館長のデイヴィッド・ウィルソン氏の経歴が書かれることになる。そして第二部は、歴史の中に登場する、こういったさまざまな「驚異の部屋(ヴンダーカマー)」の紹介、その展示作品、コレクションの紹介がなされる。
 「大航海」の時代、ヨーロッパの人々は新大陸などから持ち帰られた数多くの珍奇なもの(動物、植物などなどには、現地人などの「人間」も含まれただろう)に魅了され、それらを展示してみせる興行が始まったわけで、そこに「見世物小屋」「動物園」「博物館」などの歴史も始まる。ここにクロースアップされるのはそれらのなかの、「博物館」という存在であるだろう。現代の博物館は科学的な裏付けを根底において、ある分野の「体系」をこそみせるものではあるだろうけれども、過去においてはまさに「驚異」という視点から、ランダムに「驚異の部屋(ヴンダーカマー)」というものがつくられた歴史がある。そこに集められた「驚異のもの」はただ観るものに「驚異」の感覚をこそ呼び起こすためにあるわけだっただろう。
 では、科学の発達した現代において、それら科学的視点を見失わずにつくられたというのが、この「ジュラシック・テクノロジー博物館」なのだろうか。

 この書物、その記述自体が「驚異」を呼び起こすものというのか、単に「驚異」を紹介するというものではない。第一部の「ジュラシック・テクノロジー博物館」の紹介ではたしかにその展示物の「謎」を語る形式にはなっていて、第二部ではそういった人の感覚で「驚異」を呼び起こすもの、そういうものの紹介された歴史を語るのだが、その文章はまさに博物館の展示のように屈折している。次にどのようなものが展示されているのか知れずに、「驚異」と言うことのみをキーワードに、謎の博物館の展示室を進んで行く、そういう魅力をそのままに一冊の本にしたようなところがある。そこには「不条理」がそのままに並べられている感覚で、読んでいても頭がクラクラするような気がしてしまう。謎の博物館を、そのまま「謎」として提示したようなこの書物、とにかくは魅力的である。



 

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■ 2016-02-05(Fri)

 さて、わたしの場合、生きている意味とはどういうことなのだろうか? じつはこのことはかなり、わたしの心の中での比重の大きなもんだいではある。過去の記憶の多くを失ってしまった今、わたしのものごとの受け止め方は、かなり普通の人とは異なるものだろうと思う。ごくすっぱりと割り切って書いてしまえば、今のわたしにはさほど生きている意味はない。わたしは発作によって「後退性健忘症」を起こしたとき、いちど死んでしまったのと同じだと思う。わたしはもう死んだ人間ではないのか。

 そう書いても、じつはそんなに暗く絶望しきっているわけでもない。この日記に書いているように毎日録画した映画を観たり、映画館に映画を観に行ったり、劇場に演劇やダンスの公演を観に行きもする。本もそれなりに読んでいる。そしてそれなりにそういう体験を楽しんでいるのもたしかなことではある。
 しかし、自分には今に至る過去の蓄積がほとんどない。そういう個人史がないというか、自分の築き上げた映画の歴史、文学の歴史、舞台の歴史というものが決定的に欠如していると思う。それは(前にも書いたことだけれども)過去とのレファレンスがとれないということで、「いま、ここにあるもの」だけが勝負みたいな世界である。それは、いつ途切れてしまってもいっこうにかまわない世界である。というか、すでにいちど途切れてしまっているのである。そういう、過去との連続性を失うことを「死」ととらえることも出来ないでもないだろう。そういう意味で、わたしはすでにいちど死んでいる人間である。では、いちど死んでいる人間はどう生きればいいのか? いちど死んでいる人間の「生きる意味」とは何なのか? そういうことを考えるのである。

 今あるのは、先に書いたように、「いつ途切れてしまってもいっこうにかまわない」という思いである。つまり、「いつ死んでもかまわない」ということになる。
 生きていくということは、自己の中に何らかの「蓄積」を積み上げていく行為ではないのか。今まで積み上げた蓄積の上に、さらに生きることで得たものを積み上げていく。そうやってだんだんに蓄積されたものが高くなっていく。そのことを「生きがい」というのではないのか。それが「生きがい」なのであれば、わたしには「生きがい」はない。
 まだまだわたしに先の時間が豊富に残されているのであれば、「もういちど積み上げてみよう」ということにはなるだろうし、今のわたしもそういうことをやってはいるわけだろう。しかしそんなこと、タカが知れている。そこらの高校生ぐらいの蓄積しかない人間であるわたしには、そこらの高校生を待つ未来のような時間はない。

 その日その日を楽しんで生きることは出来ると思う。でも、そのことは「生きがいを持って生きる」ということとちがう気がする。そういう意味で、わたしはこの生がいつ中断されても悔いることもないだろう。今はいちど死んだ人間が生きているフリをしている、おまけの「生」なのだと思っている。
 このおまけの「生」、その大きな部分で、ネコのニェネントとともに生きるということをいっているのではないかと思う。ニェネントの「生」を助け、ニェネントの「生」を見守ること、それこそがわたしの「生きがい」ということができるだろうか。

 ニェネントはわたしという存在なくしては生きていけない。とにかくはニェネントがその寿命を全うするまでは、ぜったいにニェネントのそばにいてニェネントを助けること、それがわたしに課せられた使命である。それ以外のことは単に「時間つぶし」ということもできる。



 

[]「三里塚に生きる【特別編集版】」(2014) 大津幸四郎・代島治彦:監督 「三里塚に生きる【特別編集版】」(2014)   大津幸四郎・代島治彦:監督を含むブックマーク

 じっさいには百二十分(映画館上映時の上映時間)とか百六十分(DVD収録時間)とかの長さの作品だったようだけれども、この「チャンネルNECO」での放映時間は百分。
 「三里塚」を撮ったドキュメンタリーというと、わたしなどでも小川プロダクション、小川紳介監督によるものを思い浮かべることも出来、じつはこの「三里塚に生きる」もまた小川プロの作品かと勘違いしていたところもあるのだけれども、小川プロ製作のドキュメンタリーというのは、まるでDVDになっていないようである。
 そういうわけでこの作品、2014年の作品で、三里塚で戦った農民の方々の現在、というような趣の作品ではあった。作品の中でその小川プロによる当時の映像も紹介されるのが貴重なところというか、やはり小川プロの作品を観てみたくなってしまうのである。

 しかしわたし自身がいかに無知であることか。その三里塚闘争のことをあまりにも知らなさすぎた。今に生きる人たち、そして死んでいった人たちの魂が語りかけるようなドキュメンタリーであった。



 

[]「唇を閉ざせ」(2014) ハーラン・コーベン:原作 ギヨーム・カネ:監督 「唇を閉ざせ」(2014)   ハーラン・コーベン:原作 ギヨーム・カネ:監督を含むブックマーク

 原作はアメリカ作家によるミステリー・サスペンス。八年前に妻を殺されたと思っていた主人公の男のところに、「妻は生きているのでは?」というような謎のメールが届き、その八年前の事件の犯人ではないかという男ふたりの埋められた遺体が発見される。謎を追って動き始める主人公だけれども、こんどは彼が当時のことを聞きに訪ねた女性が、その直後に殺害され、主人公はその容疑者として警察に追われることになり、妻の殺害の嫌疑までが主人公に向けられることになる。果たして妻は生きているのか? そして、事件の真相は? という作品。

 とにかくは登場人物が多く、それぞれの思惑もさまざまであり、謎の行動を取る人物らもいるわけで、ちょっとややっこしい印象はあるけれども、観ているとその関係もわかってくるわけで、「なるほどね」と合点することにはなり、けっこう楽しんで観た。わたしなども知っていたり顔に記憶のある俳優らも多く出演していて、フランス映画としてもけっこう力の入った作品なのではないかとも思う。じっさい、フランスのセザール賞では四部門で受賞もしているようである。

 観ていて、こういうのはいかにもハリウッドでも撮りたがりそうな題材だなと思っていたのだけれども、アメリカの作家による原作ということもあり、じっさいに現在ハリウッドでリメイクが進行中のようだ。
 そういうことで、ここでもあんまりネタバレをしないように気をつけた方がいいのだろうけれども、キャスティングでジャン・ロシュフォールやアンドレ・デュソリエなどという大御所が出ていることもあり、さいしょに彼らの顔をみたときに、「これはチョイ役で済むわけがないな」と予想がついてしまうのはたしかなことで、じっさいに事件のカギを握る重要な人物ではあったわけである。

 ただ、演出としては何もかにも追いかけすぎているというか、どうもゴテゴテしてしまっている印象はなきにしもあらずで、もっとスマートにぜい肉をおとし、観せるところはじっくり観せるような演出がいいのではないかと思ったりする。そのあたりのことはハリウッドに期待すべきことだろうか。



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■ 2016-02-04(Thu)

 ニェネントのつかの間の外出はすっかり習慣になり、毎日わたしがしごとから帰宅してドアを開けると、待ちかねていたように「ニャッ!」となき声をあげて外に跳び出してくる。いつもせいぜい一、二分の外出で、人の気配を感じたりすると部屋の中に逃げ込んでしまう。それが今日はそういう邪魔が入らずに、ニェネントの外出時間はちょっと長めになってしまった。いつまでも部屋に戻らないので、いいかげんに連れ帰ろうとニェネントを追うと、わたしの手をすり抜けて逃げてしまう。それで二階への階段を昇って行き、二階の通路でウロウロしはじめてしまった。ニェネントとしては「こんな知らないところがあったのか」みたいな気もちだったかもしれない。わたしもこの建物の二階とか上がったことはないし、ニェネントを追って行った自分自身も闖入者という感じになってしまう。ニェネントはいつまでも戻ろうとしないし、いいかげんに連れ帰らなくてはいけないと、うまいこと追いつめて抱き上げた。するとニェネントは今までにみせたことのない強い調子で「シャーッ!」とうなり、わたしにかみつこうとするのだった。これには、わたしもちょっとおどろいてしまった。

 昨日書いたように、アピチャッポン・ウィーラセタクンの特集上映が明日で終わってしまうので、午後から「世紀の光」を観に出かけた。上映館のイメージフォーラムに行くのがまた久しぶりだったので、またまた道に迷ってしまった。おかげで少し時間に余裕を持って出て、あまった時間で近くの青山ブックセンターへでも行こうと考えていたのが出来なくなってしまった。

 客席はけっこう満員で、上映が終わって出るとき、次の回の上映は全席ソルドアウトだといっていた。

 自宅駅に戻ってまだ九時前。今夜は今ごろは半値とかに値引きされた弁当で晩ご飯にしようとスーパーへ行き、ちらし寿司などを買う。帰宅して食べてみて、買った南のスーパーは寿司類はあまりおいしくないことを思い出したが、もう手遅れであった。ニェネントにまぐろの赤身とかを分けてあげた。このごろのニェネントはわたしが食事をしているとちょっかいを出してきて、「何かちょーだい」みたいにやるのが「困ったな」と思っていたのだけれども、そんな悪いクセを助長するようなことをやってしまったことになる。



 

[]「世紀の光」(2006) アピチャッポン・ウィーラセタクン:監督 「世紀の光」(2006)   アピチャッポン・ウィーラセタクン:監督を含むブックマーク

 冒頭の字幕クレジットをみていると、プロデューサーとしてKeith Griffiths の名前が出てきたのでおどろいてしまった。キース・グリフィス、シュヴァンクマイエルやクエイ兄弟の作品のプロデューサーとして記憶している人である。そういう人物がこんなところでも名前を出しているということに、このアピチャッポン・ウィーラセタクンという人の受け止められ方があらわれているように思う。
 わたしがこのアピチャッポン・ウィーラセタクンのことを知ったのはもうかなり以前のことで、東南アジア地域のダンスなどに精通されているCさんが彼の作品に夢中になっておられ、「ぜひ観るように」と、VHSテープを貸していただいたことにはじまる。そのときお借りしたのは「Blissfully Yours」と「Tropical Malady」の二本だった。まだ「ブンミおじさんの森」の公開される数年前のことだったと思う。残念ながら例によってそのヴィデオの内容はまるで記憶にないのだけれども、Cさんの一押しの映画監督、ということでの記憶は残っていた。
 「ブンミおじさんの森」も観ているはずだけれども、これも記憶に残っていない。いちおう今ハードディスクに録画してあるのでいつでも観ることは出来るのだけれども、ちょっと思うところあって観るのを先延ばししている。そういう意味では、この日観る「世紀の光」でようやく、このアピチャッポン・ウィーラセタクンという作家のことをうかがい知るということになるわけである。

 映画は、緑に生い茂って枝を拡げた樹木のショットから始まる。以後もいろいろな植物が出てくるのだけれども、映画の中でちょっと重要な位置を占める野生の「ラン」、そしてバナナの木など、その他やはり亜熱帯ならではの植物が多い。それでも、どこか空気の感じがこの日本と同じというか、木の幹の色、木の葉の色などが親しく感じられるところがあると思う。
 大きくくくればこの映画、前半と後半と分けることが出来、前半は緑に包まれた田舎の総合病院、後半は地下もある大きな白い壁の都会の総合病院が舞台で、前半と後半で同じ人物が同じような役割で登場し、特にさいしょの女医さんのやっている面接シーンは、同じセリフが繰り返されたりする。強いていえば前半は緑に包まれた至福のひとときという感覚もあり、後半は不穏な地下室の空気感が支配しているような。

 でもこの作品、そういうストーリーで観るものを惹き付けたり、カメラワークや演出の妙で観客を惹き付けるような、つまりは既成の映画作品とはまるでテイストが異なっている。それはこの作品の「映画」としてのあり方がそのまま、観客を惹き付けるようなものであって、その「映画」としてのあり方が「外」に開かれているという印象になる。そういうところでこの作品は「映画」という枠からもはみ出しているように思えるわけで、監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンが美術作家でもあるように、この作品の上映されている映画館という空間が、それまでの既知の映画館という空間から別次元へずれ込んで行く感覚を味わうことになるだろう。
 断片的な数多くのエピソード、そして視覚的ショットはどこまでも「断片」であり、描かれることがら、話されることがらはすべて中途でとぎれてしまい、「あの絵は何だったのか」、「あの話は何だったのか」ということを了解させてくれるわけではない。もちろんそれらが何らかの「象徴」であろうなどという見方も拒まれている感覚で、それはいってみればまさに「生」の断片をふっと覗きこんでしまった感覚に似ているだろうか。そこでは、「解釈」などというものも役に立たないのではないだろうか。それはまるで、天体望遠鏡で深遠な宇宙をのぞきみるような感覚に似ていないだろうか。

 まさに「観る」ことが「体験」であるような、そんな作品だったと思う。すばらしいというのではこんなにすばらしい作品もないだろう。「別格」である。



 

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■ 2016-02-03(Wed)

 このところ、午後のいちばんにはしばらく午睡をするという習慣がすっかり根付いてしまったようで、これが精神衛生的にいいことなのかどうなのか、よくわからない。そういうことはどうでもいいことなのかもしれないけれども、継続して起きて(覚醒して)いることと、途中に睡眠というブレイクを入れるのでは、精神のあり方に差が出てくるはずだと思う。
 いったい、思索というものはどのくらいの時間にわたって、同一の主題をめぐって持続、深化して行くものなのだろうか。これが今げんざいの自分のことをしか基準に出来ないので、一般にどういうものなのかわからないというのが正直なところだけれども、どうも自分の思索行為ということもまた、例の発作以降は萎縮してしまっているのではないかと思う。
 それはこの日記の過去の記述を読めば明白ともいえるわけで、前にも書いていることだとは思うけれども、自分は映画の観方ひとつにしても著しく退行しているというしかないのではないのか。過去には一本の映画を観てももうちょっと豊かな、身のある感想を導き出してもいたのではないかと思うのだけれども、今はほんとうのところは「面白かった」、「つまらなかった」程度の感想しか出てきていないというのが正直なところで、そこを無理してことばを連ねて内容をふくらませるフリをしているにすぎないところがある。
 これは今げんざいの記憶力の退行ともシンクロしていることがらと思えるわけだけれども、自分としてはただこの状態を「情けない」ことだと思うことしか出来ない。そういうことの中に「午睡」ということも位置づけられれば、これもひとつの「退行」を示すものではあるだろうか。そういう危惧は持っている、ということである。

 渋谷でやっているアピチャッポン・ウィーラセタクンの特集上映、まだこの週末も来週もやっているものと思っていたら、この金曜日、つまり明後日で終了してしまうようだ。観たかった短編などはとうとう見逃してしまった。せめて「世紀の光」だけでも、明日にでも観に行きたいと考えている。

 このところ昼食には皿うどんをつくることが多い。これは調味料と皿うどん本体の二食分セットが百円で売られているわけだから、一食五十円プラス野菜その他の具の費用になるか。本体はたいていのインスタントラーメンよりも安いわけで、わたしにはとっても美味な献立ではあるし、このセットをちょっと買い貯めしてしまった。
 今日の夕食はオムライス。ずいぶん昔には得意料理だったはずだけれども、どうも最近つくっても何かひと味足りない感じである。炒めるときにもうひとつ、何か調味料を加えるべきなのだろう。これもうまく出来れば安上がり献立である。



 

[]「ルードウィヒ/神々の黄昏【完全復元版】」(1972) ルキノ・ヴィスコンティ:監督 「ルードウィヒ/神々の黄昏【完全復元版】」(1972)   ルキノ・ヴィスコンティ:監督を含むブックマーク

 特に中盤から後半への、じっくりとカット数の少ない重厚な演出には圧倒されるし、これはじっさいにルートヴィヒの築城した城で撮影したのか、リンダーホーフ城の人工洞窟やノイシュヴァンシュタイン城の寝室、ヘレンキームゼー城の鏡の回廊など、いやもうどれがどれだかわからなくなってしまったけれども、とにかくその豪華絢爛さには頭がクラクラするほどに目を奪われてしまう。そして、やはりそのルートヴィヒを演じたヘルムート・バーガーの演技もまたすばらしいものであろう。「眼福」というにふさわしい映画だったと思う。

 しかし、「ルートヴィヒ」とは誰なのか。
 わたしがこの「ルートヴィヒ2世」のことを知ったのは、高校生の頃、澁澤龍彦の「異端の肖像」に収録されていた「バヴァリアの狂王」という一文によってであったはず。当時は澁澤龍彦の著作に多くを教えられる思いで、彼の著作を読み漁ったものだったけれども、ある程度の年齢になると、彼に教えられるものなど何もないという考えに囚われるようになり、彼の著作はすべて売り払い、「澁澤龍彦」への興味を失ってしまった。
 わたしはその「バヴァリアの狂王」で澁澤がルートヴィヒ2世をどのように紹介したか、もちろん記憶しているわけではない。しかし、彼を「狂王」と呼ぶことに、大きな何かを取りこぼしてしまうのではないのか。このヴィスコンティの(おそらくは残された資料に忠実につくられた)映画を観ても、やはりルートヴィヒを「狂王」と呼ぶことにはためらいを憶える。
 たしかに彼は施政に興味を失い、趣味的な城の建築で国の財政に大きな負担をかけただろう。それゆえに彼を国王の座から追放することが求められただろうし、そのためには彼が精神に異常をきたしていたという診断は、国の求めるところだっただろう。その「診断」にしたがい、ルートヴィヒを「狂王」と呼んでいいものか。

 映画の中でのルートヴィヒのさいごのセリフは、「永遠の謎でありたい 他人にとってだけでなく、この私にとっても」というものだった。このことばを「狂気」によるものとするならば、彼のことを根本的に取りちがえることになるだろう。
 映画でもルートヴィヒの死については自殺とも他殺とも断定をしない描き方ではあるのだが、そもそも彼は拘束されたときにいわゆる狂気のふるまいをみせるわけでもなく、それは一種のあきらめ、諦観のようには思われる。彼自身は自分のことが誰からも理解されないことを認識し、そのことを置き換えて、「永遠の謎」でありたいといったのではないだろうか。

 なるほど彼は国政には関心を持たなかったのかもしれないが、そのことで彼を「無能」と呼ぶことは出来ないだろう。彼はワーグナーを招聘して庇護し、バイロイト祝祭劇場を建てた。ワーグナーという人物にもクセがあったので関係はうまく行かなかったようだけれども、バイエルンを芸術・文化を庇護する国へと高め、文化的繁栄をもたらす可能性もあったのではないのか。
 時代をさかのぼって、十六世紀のルドルフ2世のことを考えるとどうだろうか。このルドルフ2世がルートヴィヒと相似形とみえてくるところがあるのではないだろうか。

 たしかに近代になって、世界はもう王国の時代でもなくなってきた時代に、旧的な国王のイメージで生きようとしたところに、このルートヴィヒの悲劇があったのではないだろうか。彼は過去に、もしくは夢の世界に生きようとし、そのことを王偉を借りて実現しようとした。それはもう十九世紀には不可能事だったということではないのか。

 まだまだこの映画について、そしてルートヴィヒ王について考えることはあるのだけれども、今日はこのあたりで。



 

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■ 2016-02-02(Tue)

 夢。わたしはどこかの部屋でひとりでパソコンに向かい、ソリティアゲームをやっているのだけれども、隣室にいるAさんが、Bさんがそろそろ帰るのだという。どうやらわたしたち三人でいっしょにいたらしいのだけれども、なぜわたしは別の部屋でひとりでいたのだろうか。とにかくは急いでBさんの帰るのを見送ろうと、靴も履かないで外に飛び出す。AさんとBさんは先に外に出ているようだ。
 駅への道は商店街のところで経路が分かれていて、Aさんらがどの経路で駅に向かったのかわからない。あちらこちら歩いてみるけれども出会わないので、部屋に引き返した。しばらくしてAさんが帰ってきて、「なんでBさんはこんな早い時間に帰って行ったんだろう」という。時計をみると、九時四十分ぐらいだった(夜なのに部屋の外は昼間の明るさだったけれども)。Bさんは大河ドラマのファンで、毎回かかさずに観ているのだとAさんに説明するけれども、わたしもあと一時間ぐらいで帰らなければならないだろうと考えている。そういう夢。

 今日は空も晴れたけれども、やはり寒いことに変わりはない。昨日まではずっと風邪の初期症状がつづいていたのだけれども、どうやらようやく風邪も退散してくれたようである。
 このところ浪費モードがつづいていて、やたらにおつまみ系のスナックをたくさん買ってしまうし、出かけると本やDVDを買ってしまったり、財布が軽くなるのが早い。「大きな買い物をしてもいい時期だ」という意識が、わたしにそういう無駄遣いをさせる原因になっているのかもしれないけれども、肝心の大きな買い物をするまえに余計な支出がかさんでしまって、その大きな買い物が出来なくなってしまうこともありえる。
 だいたい、そんなスナックの食べすぎでこのところちょっと肥満してしまったようでもある。こんなことでは、ニェネントのことをどうのこうのということはできない。



 

[]「死への逃避行」(1983) クロード・ミレール:監督 「死への逃避行」(1983)   クロード・ミレール:監督を含むブックマーク

 音楽がカーラ・ブレイで、どうもカーラ・ブレイが映画音楽を担当したのはこの映画一作だけのようだ。それほどに全篇彼女の音楽がフィーチャーされているわけではないけれども、時にジンタ風の彼女のオーケストラの音が聴ける。

 その都度名前も容姿も変えながら男を誘って殺害して行くイザベル・アジャーニを、探偵のミシェル・セローが追うのだけれども、探偵は離婚で別れてしまった娘のことが忘れられず、その娘のイメージをアジャーニの中に求めようとしているようである。探偵という職務はとうに忘れ、彼女の犯罪を隠匿してやったり、彼女と婚約してしまう男を死に至らしめるようなことまでやってしまう。だんだんにアジャーニは追いつめられて行くのだけれども、探偵はさいごにはアジャーニを助けようとするのだろうか。ついにアジャーニと会った探偵はアジャーニの生い立ちを聞くことは出来たけれども、アジャーニを救うことは出来ない。ラストに元妻と共に娘の墓参りをする探偵には死期が迫っていて、ドアを開けて娘の写真の世界へ入って行くことがさいごの望みである。

 一面で、イザベル・アジャーニという女優の魅力に幻惑されるということはどういうことか、というような映画ではあって、髪型も服装もその場ごとに変えて登場するアジャーニの魅力にあらがうことはむずかしい。さいしょに探偵に調査を依頼するのが、けっきょくはアジャーニに殺される男の両親で、これがユゴーという老舗の靴屋を経営しているのだけれども、探偵はモノローグで「文豪と同じ名前だ」という。アジャーニのデビュー作はそんなユゴーの娘を描いた作品であり、その「アデルの恋の物語」のプロデューサーはこの映画の監督のクロード・ミレールだったこと。ちょっとした監督のいたずらではあっただろう。

 探偵の職務を忘れてアジャーニを追って行く探偵の姿に、感情移入もむずかしく感じてしまう導入部ではあるけれども、探偵の、その面影も記憶から消えてしまった娘(すでに死んでしまっている)への妄執をみていれば、彼の行動の原理もみえてくるだろう。また、彼の見据える先にもまた「死」というものがあるのであれば、彼女の中にまた「死」の影をみていたということもあるのかもしれない。

 わざと整合性を崩した作劇にハリウッドの映画などには見られない魅力もあり、映画という表現媒体の幅広さに感じ入る作品でもあった。



 

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■ 2016-02-01(Mon)

 朝から曇り空で、今にも雪が降ってきそうな天候。寒い。今朝のしごとは最悪で、いちばんいっしょに組んでやりたくない人物とふたりっきりで閉じ込められた感じである。感じられる寒さにも拍車がかかるというものである。

 ニェネントだが、みているとまた太ってしまったのではないかと思う。しばらく前に比べて、おなかの垂れ下がり方が大きいようにみえる。このところは食事の量を少し減らして減量させようとしているつもりなのだけれども、まだ食事の量は多すぎるのだろうか。それとも寒さに合わせて下毛の量が増え、太ってみえるようになっただけなのだろうか。
 最近もずっと、ドアを開けると外に飛び出すのが習慣になっているニェネントだけれども、前は外に出るときしっぽを低くして、いつも警戒態勢をみせていたのだけれども、このごろはしっぽを直立させたままで外の空間を行き来するようになった。外の世界と行っても、アパートの共同通路だけのせまい範囲なのだけれども、そのせまい範囲でならもう警戒する必要もなくなったのだろう。

 今日はあまりに寒いので湯豆腐でもやろうと思い、白菜はストックがあるので、近所のドラッグストアで豆腐だけを買ってきた。お手軽に出来て経済的なメニューだし、からだもあたたまるようでいいのだけれども、なんかやっぱり動物性タンパク質をプラスしたくなり、次は鶏肉でも入れてみようと思ったのである。



 

[]「トーク・トゥ・ハー」(2002) ペドロ・アルモドゥヴァル:監督 「トーク・トゥ・ハー」(2002)   ペドロ・アルモドゥヴァル:監督を含むブックマーク

 ピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」の舞台の映像から始まる。映画のラストもやはりピナの舞台からで、この舞台は「Masurca Fogo」というものらしいのだけれども、どうもわたしも観た憶えがある。このバックの、壮大な緑で苔むしたような舞台美術は憶えているのだ。「Masurca Fogo」、しばらくわからなかったけれども、これは「炎のマズルカ」という日本語タイトルで上演されたものだったようだ。この日記で「炎のマズルカ」と検索しても見つからないので、この日記を書きはじめる前に観たものらしい。

 物語は、そのピナの「カフェ・ミュラー」を並んだ席で観る、ふたりの男性観客をめぐって展開される。このファーストシーンで、ふたりの男は見知らぬ同士である。一方の男(ベニグノ)は昏睡状態になった女性ダンサー(アリシア)への献身的な介護をつづけている。彼女の衣服を脱がせて洗ってあげたりもするのだから、「恋人同士だったのだろうか?」と思いながら観ているとそうではなく、ベニグノはアリシアがレッスンを受けていたダンス・スタジオの向かいの家から彼女の姿を盗み見していただけの存在であり、彼女が意識があったときには知り合った仲ではなかったのである。アリシアが交通事故で昏睡状態になったあとに、ベニグノは彼女の介護を献身的に引き受けることになる(ベニグノはその前に母への介護を二十年間もつづけていたらしく、介護士の資格を持っていたようだ)。毎日毎日男はアリシアにいろんなことを話しかけている。ピナの舞台を観ても、アリシアのためにピナからのサインをもらってきて病室に掛けておいたりする。ベニグノは彼女を愛しているといい、自分の思いは彼女に通じていると思っているようである。介護士が介護する相手に愛情を感じている、そういうことはありえることだろう。

 一方の男(マルコ)は旅行ガイドなどのライターをやっているのだが、その恋人の女闘牛士(リディア)は闘牛競技中に牛に襲われて昏睡状態に陥り、リディアはアリシアと同じ病院に収容されることになる。ベニグノはリディアを見舞いに訪れたマルコのことをあの「カフェ・ミュラー」の舞台を観たときにとなりの席にすわっていた男であることを記憶している。そのことからふたりは話を交わすようになり、友情を感じるようになっていく。

 しかし、マルコが旅に出ているあいだに事態は急展開をみせる。リディアは意識を回復しないままに亡くなり、アリシアは昏睡状態のまま妊娠していることが発覚する。つまりベニグノはアリシアをレイプしていたのだ。マルコは収監されていたベニグノに面会に行き、彼の考えを聞く。彼の行為は愛ゆえのことであり、一方的なレイプではないと。マルコはベニグノの住んでいた部屋をベニグノから借りることにし、ベニグノの願いでアリシアとその胎児のその後を調べてベニグノに知らせることにする。

 ‥‥なんだかどこまでもあらすじを書いてしまいそうだけれども、さすがにスペイン映画ながらアカデミー賞でも脚本賞を受賞しただけのことはあって、とにかく興味深い題材とその展開のさせ方であった。
 その主題とまったくちがう読み方をしても、これはひとつの舞台を共有した観客同士が、なぜその舞台を観ることになったのかというその背後とともに、その舞台で共有出来たものは何なのかという話ともとれるのではないだろうか。そしてそのラストで、意識の回復したアリシアはピナ・バウシュの舞台を観に行っているわけだけれども、はたしてそれはベニグノに聞かされた「カフェ・ミュラー」の舞台の感想によって動かされたのではないのか。もちろんダンサーを目指していたアリシアがピナのことを知らないわけもないのだけれども、冒頭の「カフェ・ミュラー」の舞台から、このラストの「炎のマズルカ」をつなぐもの、その中にベニグノとアリシアの物語があり、マルコの物語があることがよくわかる。
 この映画はベニグノの行為について考えさせるというところのものではあるだろうけれども、わたしにはそういうことを越えて、ピナの舞台を通じての人の心の交流というものについて考えさせられるものだった。そういう意味で「新しい物語がはじまる」という予感に満ちたこのラスト、ほんとうに興味深いものだった。



 

[]「細雪」(1983) 谷崎潤一郎:原作 市川崑:監督 「細雪」(1983)   谷崎潤一郎:原作 市川崑:監督を含むブックマーク

 過去に原作は通読しているはずだけれども、例によって記憶には残っていない。この1983年の東宝作品では、長女を岸惠子、次女が佐久間良子、三女吉永小百合、四女古手川祐子が演じているのだけれども、こういっては何だけれども、やはり東宝の映画だと女優陣に見劣りしてしまうというか、それともこの1980年代になると、日本の女優陣もちょっと寂しくなってしまったということなのか。

 わたしはとにかく、せめて長女には山本富士子こそが適役だろうと思っていたのだけれども、じっさいにこの役には山本富士子が想定されていたらしい。調べると、1959年に撮られた島耕二監督による「細雪」というものが存在し、そこでは長女轟由起子、次女京マチ子、三女に山本富士子、四女叶順子という布陣で撮られたものらしく、キャスティングだけみればこちらのキャスティングが最強だろうと思ってしまうのである。まあその島耕二監督による「細雪」は時代設定を原作から戦後に移動させていたり、登場人物の性格を原作から変えてみたり、そういうところではあまり評判はよくないみたいではある。
 「細雪」の映画化にはもう一本、1950年の阿部豊監督版というのがあり、この版が原作にいちばん忠実という評価もあるけれど、どうやら四女の妙子を演じた高峰秀子をクロースアップしたような内容だったらしい。

 そこでこの市川崑監督の「細雪」だけれども、正直わたしはそれほどに好きな作品ではない。まずは描かれた時代の「昭和十三年」という空気が、わたしにはほとんど感じられないままに終わってしまった感じがある。ほとんどが屋内での撮影であることはいいのだけれども、どこかでこの時代を強く感じさせる映像が欲しかったと思う。それはやはり当時の街並の描写があまりに少なかったこと、そういった街並に時代を感じることが出来なかったことにあると思う。すでにそういう大がかりなオープン・セットをつくれるような時代ではなかったのだろうか。
 いちおう、列車の中で、吉永小百合が前の席にすわる軍服の男に目をむけるシーンはあるのだけれども、それが時代の空気を感じさせるというようなものでもなく、そういうのでは大島渚の「愛のコリーダ」の中で、藤竜也が戸外で行進する軍人らとすれちがうシーンの一瞬のインパクトに匹敵するようなものが、この作品には見あたらない。桜の花や夕陽の景色など、ただ表面的に美しい絵だけで取り繕っているだけにみえるのだ。

 「細雪」の原作がはたしてどのようなものだったのか、思い出すこともできないので何ともいえないのだけれども、たしかどこまでも姉妹の交わす大阪弁のやりとりがつづいていくような作品で、ストーリー展開などというものは二の次のような作品ではなかったかと思うのである。つまり、その「文体」こそが大きな意味合いを持つ作品ではあっただろうと思う。そこで、その中の物語的な展開を追うだけでは「細雪」という作品を映像化したことにはならないのではないのか。この映画を観ると、とにかくは三女雪子のお見合いの繰り返しであり、四女妙子の奔放な男性関係であるというポイントばかりがみえてくるのだけれども、小説「細雪」の本質とはそのようなストーリー展開とはちがうところにあるのではないだろうか。そういう意味ではこの原作、朝の連続テレビ小説のように、じっくりと時間をかけて、その日常のさまをフラットに描いて行ってこそ、原作の精神を生かせるのではないだろうか(かつて何度かそういう連続ドラマとしてテレビで放映されたようではあるし、そういうものの中に面白いものもあったかもしれない)。

 そうはいっても、たしかに映画として面白いところもある作品で、岸惠子と佐久間良子との大阪弁でのやり取りなどは、きっと原作の味わいを活かしたものではあるのかもしれない(ただ、あまりにもドラマ的に収まりが良すぎる気がしてしまう)。
 この蒔岡家の分家の女中のお春というのがいつもちょっとドジで面白いのだけれども、これは上原ゆかりが演じていたようである。上原ゆかりといえばかつて、チョコレートのコマーシャルで人気になった子役だったけれども、この映画出演のあと引退してしまったようだ。
 あと、さいしょのクレジットで白石加代子の名前が出ていて、「いつ登場してくるのか」と楽しみにしていたのだけれども、これがもう映画のほぼラストになって酒亭のおかみとしてちょっとだけ出てきて、佐久間良子の夫役の石坂浩二を相手にして、わずかなセリフで場をさらってしまい、さすがだと思わせられてしまった。わたしはこの白石加代子の登場シーンがいちばん好きなのだけれども、このシーン、市川崑の夫人の和田夏十によるもので、このシーンの脚本が彼女の絶筆になってしまったらしい。つまりおそらくは原作にはないものなのだろう。



 

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