ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-03-31(Thu)

 夢。わたしは教室のようなところに、ほかの大勢の人といっしょにいる。また自分が学生である夢なのだろう。昼休みになったので、わたしは外に弁当を買いにいく。さいしょはちょっと離れたところのスーパーまでいこうと思っていたけれども、スーパーでなくてももっと近くの店でも昼は弁当を売っているはずと、そちらにいくことにする。歩いていると知り合いの女性二人と会う。彼女たちは外で食事をするつもりのようだ。
 店の並んでいるのは観光地のようなところで、土産物屋みたいに道路際まで商品を並べた木造の家が並んでいる。そのすぐそばがゆるい渓流のようになっていて、大きな岩のあいだの川縁で行楽を楽しんでいる人たちが見える。そんな中で川瀬を歩いている子ども四人の構図がいいので、持っていたデジカメで撮ろうとするけれども、シャッターチャンスを逃してしまいうまくいかない。
 店の方へいって、弁当を売っている店を探すのだけれども、食パンを並べている店はあるけれどもどこにも弁当は見あたらない。角にある店のおばさんにきくと、十二時になると同時に弁当を店に並べるのだけれども、すぐに売り切れてしまうのだという。
 きれいなカラーの夢だった。

 今日は東京で三時からの北村明子さんの公演にいこうかと思っていて、そのつもりではいたのだけれども、北村さんは振付けだけで出演はしていないみたいだし、予約もしてないしとかいろいろ考えてうだうだして、けっきょく、いきそびれてしまった。これもまた、まだつづいている気配の「カーリングロス」のせいだろうかと思う。今日もまた、YouTube で先日の世界大会の映像をみたりしている。しょうがないね。夜はまた、北のスーパーへ行って値引きされた弁当を買って帰って夕食にした。こういうことをやっているので夢にまでみるのかもしれない。

 そう、どうやらまた、ニェネントは発情期になってしまったみたいだ。発情期間も間隔もみじかいのを繰り返している感じ。

    f:id:crosstalk:20160331101751j:image:w360


 

[]二〇一六年三月のおさらい 二〇一六年三月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●SNACパフォーマンスシリーズ2015 vol.4 「知らせ」神村恵・津田道子:構成・出演 @森下・森下スタジオ Sスタジオ
●少年王者舘 第38回本公演「思い出し未来」天野天街:作・演出 @下北沢 ザ・スズナリ
●「踊りに行くぜ!! 2 vol.6 東京公演」@浅草橋・アサヒ・アート・スクエア
●DA・M 日韓共同創作公演2 「すべては突然やってくる」大橋宏:構成・演出 @横浜・BankART Studio NYK
●ミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」平田オリザ:作 矢内原美邦:演出 @吉祥寺・吉祥寺シアター

映画:
●「黄金のアデーレ 名画の帰還」サイモン・カーティス:監督

読書:
●「異端審問」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 中村健二:訳
●「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳
●「エル・スール」アデライダ・ガルシア=モラレス:著 野谷文昭・熊倉靖子:訳
●「小説の森散策」ウンベルト・エーコ:著 和田忠彦:訳
●「草枕」夏目漱石:著

DVD/ヴィデオ:
●「バルカン超特急」(1938) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「アパッチ砦」(1948) ジョン・フォード:脚本・監督
●「黄色いリボン」(1949) ジョン・フォード:監督
●「レイジング・ケイン」(1992) ブライアン・デ・パルマ:脚本・監督
●「ビッグ・リボウスキ」(1998) ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン:脚本 イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督
●「ヴァージン・スーサイズ」(1999) ソフィア・コッポラ:脚本・監督
●「スナッチ」(2000) ガイ・リッチー:脚本・監督
●「エデンより彼方に」(2002) トッド・ヘインズ:脚本・監督
●「ロスト・イン・トランスレーション」(2003) ソフィア・コッポラ:脚本・監督
●「マリー・アントワネット」(2006) ソフィア・コッポラ:脚本・監督
●「カティンの森」(2007) アンジェイ・ワイダ:監督
●「グラン・トリノ」(2008) クリント・イーストウッド:監督
●「SOMEWHERE」(2010) ソフィア・コッポラ:脚本・監督
●「ブリングリング」(2013) ソフィア・コッポラ:脚本・監督
●「インヒアレント・ヴァイス」(2014) トマス・ピンチョン:原作 ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督
●「フォックスキャッチャー」(2014) ベネット・ミラー:監督
●「6才のボクが、大人になるまで。」(2014) リチャード・リンクレイター:製作・脚本・監督
●「静かなる決闘」(1949) 菊田一夫:原作 黒澤明:脚本・監督
●「女は二度生まれる」(1961) 川島雄三:監督



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160331

■ 2016-03-30(Wed)

 もうすっかり、カーリング女子日本代表というか、ロコソラーレ北見チームのウォッチャーになってしまったこの二、三日。ふだんの日常の過ごし方から大きな変化であり、今まで毎日のように観ていた録画した映画などまるで観なくなってしまった。でも今は「それはそれでいいではないか」という感覚で、あまり無理してまで映画を観ようとも思わない。ただ、食事をちゃんとつくらなくなってしまって、昨日も今日も夕食はスーパーで買ったお弁当ですませてしまった。まあこれはカーリングのせいというよりも成り行きでのことだから、あまり気にしてはいない。そのうちに何かつくるようになるだろう。

 いちおう本はちょっと時間があると横になって拾い読みみたいにしているし、カントの本もそれなりに読み進んだ。それで今日はウンベルト・エーコの「小説の森散策」を読み終わった。



 

[]「小説の森散策」ウンベルト・エーコ:著 和田忠彦:訳 「小説の森散策」ウンベルト・エーコ:著 和田忠彦:訳を含むブックマーク

 いったいどこがエーコの「記号論」的な記述になっているのか、わからないままに読んだけれども、とっても面白い本だった。
 本の読者というものは「経験的読者」、そして「モデル読者」というふうに分けられるものであり、ここではすぐれたモデル読者になることが読書のよろこびであろうとして、すぐれたモデル読者としての小説の読み方が説かれるわけである。読者が「経験的読者」「モデル読者」と分けられるように、作者もまた小説の中で「経験的作者」、「モデル作者」として姿をあらわすことにも注意しなければならない。このことを、ポーの「アーサー・ゴードン・ピムの冒険」の解読によって語り口の重層性を解明し、複雑な時間構成を持ったネルヴァルの「シルヴィー」を素材に、その時間構成の奥にある作者の意図を解明していく。そして「作者はその作品をどのように読んでもらいたがっているのか?」「読者は小説の中の記述をどのように信じるのか?」というような話から、小説というものの構造に迫っていくことにもなる。
 小説というものはノンフィクションではないのだから、「虚構」として書かれているわけだけれども、その虚構性をどのように読めばいいか、という話が後半につづく。ま、冒頭から本というのは一回読んだだけではダメで、複数回読んでその構成の秘密を知ることもできるのだとも書いてあり、そりゃあ長編小説ではきついなあと思ってしまう。
 「なるほど」と思いながら読むところもあるけれど、こういっては何だけれども、わたしなんか無意識にこういう読み方はしてるんじゃないかなとは思う。ただ、講義録としてのユーモアをたたえた文章は楽しいし、読んでいて楽しめる本であったことは確かだ。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160330

■ 2016-03-29(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 カーリングが終わってしまい、やはり「カーリングロス」状態である。昨日の決勝戦のことばかり、というか、今回の世界選手権の日本チームの活躍のことばかり思い出している。報道も加熱していて、昨日はどのニュースでも日本チーム銀メダル獲得のことを伝えていた。昨夜はそんなニュース報道をみたくって遅くまで起きていたりもした。今日はネットでカーリングのニュースばかりをずっと検索しつづける。夕方には早々と日本チームも帰国したようで、そんなニュースも流される。YouTube にはすぐに帰国記者会見がアップされていた。藤澤五月選手は喉を嗄らしていて声も出ない状態だった。試合中いつも笑顔が印象的だったサードの吉田知那美選手、「表彰台に登った三チームのうち、負けて終わったのはわたしたちだけ。悔しい思いをしたのもわたしたちだけ」と語っていたのが心に残った。吉田知那美さんはスピーチがうまい。いや、彼女に限らず、先日の中継でのインタビューでも日本の解説者が「皆、カーリング協会会長のようなことをいいますね」といっていたぐらい、みんなソツのないスピーチをされるのだけれども。
 同じようなことをいっている日本のニュースより、海外のtwitter の書き込みの方が面白いので、ずっとそんなのを検索して読みつづける。海外の観戦者も日本を応援していたのだと読み取れる書き込みが多いのがうれしい。とにかくは日本チームの快進撃はすばらしいものだったし、昨日の決勝戦はまれに見る好ゲームだったと思うから、海外の観客もきっと魅了されたことだろう。「スイスチームは金メダルを奪い取ったが、日本チームはわたしたちの心を奪い取った」という書き込みがよかったな。検索の仕方にもよるだろうけれども、日本チームを応援する書き込みはやはり多かった。日本チームの絶やさぬ、あの笑顔を賞賛するものも多いし、「日本チーム、かわいい」というのも多い。「cute」、「adorable」、「pretty」という単語が並ぶ。24才が三人と22才ひとりのチームだし、大会全体の中でも圧倒的に若いチームだっただろう。このあたりは国内の掲示板でも「なぜ女子カーリングの選手はいつも美人なのか」などと書かれていて、まあ彼女たちが美人かどうかはともかくとして、とにかくはかわいいことは確かだと思う。これは歴代日本女子カーリングチームでもトップクラスだろうな。書き込みに、藤澤選手がミッフィーちゃんに似ているというのがあって、なぜか「たしかに」と思って、笑ってしまった。
 これでカーリング競技が今まで以上に注目されることになり、来年の世界選手権もテレビ中継されるだろうし、2018年のオリンピックでも放送時間枠が拡大されるだろうか。そのときにまた、今回のロコソラーレ北見の四人の姿をみてみたいものだと思う。みごとなウィックをみせてくれる吉田夕梨花選手、すばらしいスウィーピングの鈴木夕湖選手、全体のムードメイカーで、的確なショットということでは一番の吉田知那美選手、そして全体の司令塔であり、「負けない」という気迫を感じさせる藤澤五月選手。この四人は最高である。

 しっかし、ここまでにカーリングに振り回されるとは。いったいいつになったらいつもの平常な生活に戻れるのだろう。自分でも不安になってしまう。いや、それでも読書とかは進めていて、先日亡くなられたウンベルト・エーコの「小説の森散策」を楽しく読みすすめている。もうちょっとで読了。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160329

■ 2016-03-28(Mon)

 このところすっかりカーリング日記になってしまっているけれども、ついにこの日はカーリングの決勝戦である。そしてわたしは、午後二時からは吉祥寺で観劇の予定。カーリングの決勝戦は朝六時に始まるから、どうやら自宅で一部始終を観終えてから吉祥寺に出発することができるだろう。しかし昨夜は終電での帰宅になってしまったし、朝の六時からのゲームを見るとなると睡眠時間が足りなくなるのではないのか。そのことが心配ではある。とにかくはカーリングがみられるよう、昨夜は五時半にアラームをセットしてから寝た。

 五時半起床。テレビの前にすわり、決勝戦をみる。先に決勝進出を決めているスイスチームが後攻で始まる。まずは第2エンドにスイスが1点。これはこわくないというか、日本チームが1点相手に取らせたという感じ。これで後攻は日本になるのである。第3エンドはブランクにしたけれども、第4エンドは逆に1点取らされたという展開。しかし、ここまでの流れは互角ではないだろうか。第5エンドはあやうく2点取られるところだったけれども、なんとかスイス1点に。そして第6エンド、これは日本チームが2点取れるという展開になり、ついにみごとに2点を取って3−2と逆転! この大会スイスとの三度目の対戦で、はじめてスイスにリードしたのである。「このままいけば勝てるのだが」と考えてしまうが、そうはいかない。第7エンド、まんまとスイスチームに3点取られてしまい、2点の差がついてしまう。「ああ、やっぱりここまでか」と思ったのだけれども、やはり好調の日本チームはただ負けていない。ここからがこのゲームの山場である。第8エンド、スイスのスキップのフェルチャーが最終投にミスって、日本に3点のチャンス。藤澤のストーンはスイスのストーンをはじき出してぎりぎりハウスにとどまり、日本もまた3点ゲットである! 6−5。「うわ! 金メダルが取れる!」。これで次の第9エンドをスイスに1点取らせて、さいごの第10エンドで1点取ればいいのである。しかしその第9エンド、スイスのフェルチャーもすごい。ものすごくむずかしいところにストーンをつけて2点で再々逆転。ちょっと「まいったなあ」という感じである。実はここで、「たとえ次の第10エンドで1点取って同点にしても、延長で点を取られて負けになるな」と予想してしまい、「やっぱりダメだったか」っていう感じにはなってしまった。あとから考えると、この第9エンドの最終投がすべてだったなと思う。それで第10エンド。実は、サードまでは「これは日本が2点取れるじゃないか」という展開ではあった。ここで残念なことにスキップの藤澤は2投続けてのミスになってしまった。最終投はとにかくは1点を取りにいったのだけれども、このストーンは無情にもスルー。6−9での敗戦になってしまった。藤澤選手は第9エンドで燃え尽きてしまったという感じだけれども、彼女を責めることは決してできない。ここまで勝ち上がってきたのは彼女の力あってのことだし、ロシアのシドロワだってこういうミスで負けているし、カナダだってそうだった。カーリングというのはこういうミスで勝敗が決してしまうことが多いけど、そういうところばかりをみてはいけない競技だろう。メンタルな要素というのはもっと別のところで働いている。
 ゲームの終わったあと、藤澤選手は号泣していたけれど、わたしも見ていて泣いてしまったよ。表彰式のときには日本選手も笑顔をみせていたけれども、金メダルを取ったスイスの選手たちがトロフィーを囲んで記念撮影しているところを、そばで藤澤選手がひとりたたずんでじっと見ていたのが、すごく印象に残った。とにかく今までの日本チームがなしえなかったメダル獲得、それも銀メダルである。祝福するしかないし、今までカーリングをみてきてよかった、と思える時でもあった。

 さて、わたしは吉祥寺に出発しなければならない。カーリングへの気もちを振り切って電車に乗る。一時前に吉祥寺に着き、またまた日高屋に寄って担々麺で昼食。ケータイでニュースをチェックすると、カーリングのことが大きく取り扱われているみたいだ。ようやっと、ここにきて注目されることになったか。

 しかし、ここに来て寝不足の影響がモロに出てしまったようで、舞台が始まるとすぐに眠気におそわれ、また舞台では複数の役者さんたちが同時に発声していてこれがさらに眠気を加速させ、かなりの時間をうつらうつらしてしまったようだ。あまりロクな感想も書けない。

 終演時間が早かったので、まだあまり暗くならない時間に帰宅することができた。帰宅する前に北のスーパーに寄って、ちょっと値引きされていた弁当を買って帰って夕食にした。

 こうやって、一週間ずっと見つづけてきたカーリングが終わってしまった。しかも思いっきり余韻を残すような終わり方。これは「カーリングロス」症状である。帰宅してからもネットであれこれと今日のゲームのことを検索したりして、いつまでもすごしてしまう。
 きっと、今日の決勝ゲームのみならず、今回の大会全体を通して、日本チームは海外のカーリングファンにアピールできたんじゃないだろうかと思うのだけれども、twitter にはそういう書き込みも多くみられた。「Team Japan,don't cry!You're amazing!」なんていうのもある。そうだそうだ、その通りだ。日本の報道もすごいことになっているようで、こんどは「そこまで加熱しないでくれ」とか思ってしまう。でも、そういうことを考えると、なまじっか金メダルなど取ってすっごいプレッシャーを与えられるよりはよかったかもしれないなどと思ってしまう。しかし、次の世界選手権だとかオリンピックに、今回のロコソラーレ(LS)北見が出場できるとは限らないし、今回の吉田姉妹、鈴木夕湖、そして藤澤五月という布陣がつづくのかどうかもわからない。わたしとしてはまた今回の四人の姿をみてみたいものだけれども。



 

[]ミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」平田オリザ:作 矢内原美邦:演出 @吉祥寺・吉祥寺シアター ミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」平田オリザ:作 矢内原美邦:演出 @吉祥寺・吉祥寺シアターを含むブックマーク

 「東京ノート」ってどんなストーリーだっけ、って思ったら、近未来、ヨーロッパでは戦争が起ってしまっていて、疎開したフェルメールの作品が東京の美術館で展示されているという設定だったのだな。偶然というか合わせたのか、今ちょうど上野ではそのフェルメールの作品の展覧会が開催されているはずだし、この「近未来」の設定には思うところが多い。日本では震災と原発事故が起き、ヨーロッパは同時多発テロの恐怖にさらされている。まさかこんな「近未来」になろうとは、誰しも想像しなかったことだろう。そういう意味でも、今、この「東京ノート」を上演するということの意味を考えさせられてしまう。

 さて、肝心のこの舞台についてだけれども、先に書いたようにわたしは観ている途中でいっぱい寝てしまったので、あんまりちゃんとした感想を書くことができない。床に延々と映されて動いて行く映像が印象に残り、このあたりは一昨日観た平井優子さんの作品での映像を思い浮かべたりした。
 わたしとしては、去年観た同じミクニヤナイハラプロジェクトによる「桜の園」のような、とにかく全力疾走して体力を消耗するような、そういう舞台を想像していたのだけれども、今回は(その、映像との調和を含めて)きっちりとフォーメーションがつくられているような感じではあった。それと、もともと平田オリザの演劇は「現代口語演劇」というわけで、会話の同時進行や客席に背を向けてのセリフなどの要素があったわけだけれども、そのあたりをさらに矢内原さん流に過激にしてみせた、という感覚はある。とにかくはちゃんと眠くないときにもういちど観てみたいんだけれどもね。

 そう、「フェルメール展(正確には「フェルメールとレンブラント展」)」、観に行かなくっちゃ、って思ったら、なんとこの31日でおしまいなのであった。また展覧会を見落としてしまった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160328

■ 2016-03-27(Sun)

 この日は夕方から横浜で行なわれる公演を観る予定。出演されているFさんからご招待をいただいたのだけれども、そんなFさんとお会いできるのもすっごい久しぶりのことになる。同じ茨城県内にお住まいのGさんとFさんご夫妻とお会いしたのはまだわたしが前の住居に住んでいたときだから、六年以上前のことになる。お会いできるのが楽しみである。

 今日の公演の開演は午後五時だから、こちらは午後一時に出発すれば間に合う。そして今日はまたまたカーリング、対ロシアの準決勝が十時から始まる。もちろん録画もするのだけれども、リアルタイムにみることもできる。だいたいカーリングのゲームは三時間ぐらいかかるわけだから、十時から始まるのであれば、出発しなければならないギリギリの時間にゲームが終わるかどうか。微妙なところである。
 しかし、日本の報道でのカーリングの扱いはまだまだ小さい。これでメダルが取れなければまるで注目されないままになってしまうのだろうか。この予選での戦いはほんとうに素晴らしいものだったと思うのだけれども、そういうことを知る人が少ないままになってしまうのは残念だと思う。ぜひともメダルを取ってほしいものである。

 さて、その対ロシア戦は日本が有利な後攻でスタート。カーリングの基本は後攻の方が点を取りやすいわけだから、両チーム力が互角でどこまでも1点ずつ取り合うような展開になれば、後攻でスタートして後攻になるたびに点を取って行けば勝てることになる。このおかげで予選の対韓国戦でも勝つことが出来た。それで今日もそういう展開。第3エンドまではブランクがつづいたけれども、第4エンドで日本が1点先取すれば第5エンドでロシアも1点。第6エンドで日本が2点取ると第7エンドのロシアも2点と、伯仲した展開。第8エンドは順番で(?)日本が1点取り、それでは第9エンドはロシアが1点か、と思ったら、ここでロシアのスキップ(シドロワという、ものっすごく美人のスキップで、そういう人気も高いみたい)のラストストーンがハウスに届かず、日本が1点スティール。これで第10エンドのロシアを1点に抑えれば日本の勝ち。わたしもそろそろ出かけなければならない時間になるのだけれども、なんとここはロシアが2点取って同点になってしまった。しかし、延長のエンドは日本が後攻だから、日本が勝てる可能性はすっごく高い。勝てるだろうと信じて家を出ることにした。

 電車に乗り、横浜に近づいたところでケータイでニュースをみたら、やはり日本が勝っていた。これで金か銀のメダルが確定。明日、スイスを相手に決勝戦。ちょっと電車の中で興奮してしまった。スイスとはこの大会三度目の対戦になるけれど、これまでの二回はいずれも敗れている。でも今は日本も絶好調に思えるし、前のようなことはないと信じている。‥‥しかしわたし、カーリングに夢中だな。

 横浜駅に着き、みなとみらい線に乗り換えて馬車道駅下車。まだ開演まで一時間近くあるし、ちょっと近くの日高屋に立ち寄って、生ビールとおつまみなど注文して時間をつぶす。こんな無駄な時間はつくりたくないのだけれども、ローカル線が一時間一本ペースなのでしかたがない。

 会場に着き、エントランスのドアを開けて入ったところで思いがけずに声をかけられた。Hさんだった。今日は知ってる人とも会わないだろうと思っていたので意外だったけれども、聴いてみるとHさんと今日の公演とは深いつながりがあるのだった。開演前にFさんのご主人のGさんともお会いして、ちょっとあいさつをした。
 公演は二階のスペースで行なわれたのだけれども、このスペースは昔倉庫か何かに使われていた場所のようで、スペースのど真ん中に太い柱が立ち並んでいる。これがじゃまといえばじゃまなのだけれども、一種独特の空間になっていて、それを活かした演出も面白かった。

    f:id:crosstalk:20160327185055j:image:w360

 舞台がはねて、Fさんとお会いしてちょっとだけお話が出来た。このあと一階にあるカフェ/バーのようなスペースで、Hさんとその知人らといっしょになってしばらく酒を飲んで話をした。ここはNPO法人の経営だからバーでもうけようとはしていないので、アルコール類などすごく安い。別の人がホッピーをたのみに行くと、ホッピーの瓶とグラスになみなみと注がれた焼酎とを受け取ってもどって来た。ホッピーを入れるすき間がない。これが350円。しかも、あとでホッピーの中身だけ、つまり焼酎をたのむと、これもグラスいっぱいの焼酎が注がれてきて200円。これが「焼酎」と注文すると、おそらくは同じ分量で350円になってしまうわけで、「ホッピーの中身」という注文にすれば同じものでもメチャ安になってしまうというカラクリ。採算度外視だからこそこういうことになってしまうのだろうけれども、面白い。
 あとでやはり観客でいらっしゃっていたIさんともいろいろ話をして、あまり遅くならないうちに皆とお別れして帰路に着いた。けっきょくはローカル線の終電になってしまったけれども。



 

[]DA・M 日韓共同創作公演2 「すべては突然やってくる」大橋宏:構成・演出 @横浜・BankART Studio NYK DA・M 日韓共同創作公演2 「すべては突然やってくる」大橋宏:構成・演出 @横浜・BankART Studio NYKを含むブックマーク

 日本(6人)と韓国(4人)のパフォーマー、それと上海のパフォーマーを加えた11人による、そうだなあ、時間と空間をめぐる舞台作品。昨日観た山崎広太氏の作品を思い出してしまうところが大きいのだけれども、今日のパフォーマーは皆ダンサーというわけではなく、その身振りはまさに「身振り」であって、そういう「ダンス公演」とはまるで違う。奥行きのある会場を前景、中景、後景のように分けて使っていたのだけれども、それが時間的にも「前景、中景、後景」となるように思え、この作品は時間を一気に横断するような作品なのだと思った。正直、ダンサーとして鍛錬されているわけでもない身体を、長い時間その運動だけでみせられるというのはちょっとツラいところもあったのだけれども、そこに「ことば」がはさみ込まれることで遠近感が出てくるわけだとも思った。いちどだけ、出演者が服を着替えて赤い服になり、ローラーのようなものの上にうつぶせになって這い出てきた場面には目を奪われ、この部分に関しては「傑作」だと思った。

 あとはまた自分の記憶力の悪さをまた嘆くようなことになる、そんな舞台だった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160327

■ 2016-03-26(Sat)

 今日は午後から、浅草でのダンス公演「踊りに行くぜ!!」を観に出かける。会場の吾妻橋を渡ったところにあるアサヒ・アート・スクエアは、今月中に閉鎖されることが決まっているので、わたしがこの建物を訪れるのは今日がさいごになるだろうと思う(建物自体が取り壊しされるようなことはなく、存続するらしいのだけれども)。

 しかし今日もカーリング。見逃せない対スイスのプレーオフがあるわけで、これは録画しなくっても午前中からリアルタイムで中継を見ることになる。
 昨日までの日本チームの快進撃ぶりをネットでチェックしてみたりするのだけれども、この「世界女子カーリング選手権」の公式サイトにもコラムっぽい記事が書かれていて、そこにも「大会の始まる前にいったい誰が日本チームがここまで勝ち上がってくることを予想しただろうか」などと日本チームを賞賛している。昨夜はテレビのニュースでもちょこっと取り上げられていたけれども、なんだか扱いは小さい。日本のニュースサイトでもそこまでに大々的に取り上げられてはいない。すっごいことをやっているのにと思うのだが。ここでこの先ずるずると連敗してしまったりして、けっきょくメダルに手が届かなかったりすれば、そういうニュースでも無視されてしまうのだろうか。昨日の勝ち方は二試合とも強烈だったし、海外の方が日本チームの活躍に注目しているのではないかと思う。

 さて、プレーオフが始まる。第2エンドで日本のスキップ藤澤のストーンがちょっと短くって、スイスに1点スチールされてしまう。それでもそのあとはしっかりついていって、第5エンド終了時で2−3。それで第6エンドは大量失点のピンチだったんだけれども、ここはスイスのスキップがミスって逆に日本が1点スチールし、同点に追いついた。しかし第7エンド、日本には二つのミスが重なり、スイスに3点献上。実質ゲームはここまでで、第9エンドにも日本はミスって2点取られ、4−8でギブアップのコンシード。やっぱりスイスは強い。これでスイスは決勝進出が決定し、日本は明日、やはり明日行なわれるロシアとカナダとのプレーオフのゲーム、その勝ちチームとのセミ・ファイナルを戦うことになった。これに勝つとまたスイスを相手にして決勝戦進出、負けてしまうと3位決定戦に回るのである。

 とにかくは、勝敗のわかったところでわたしは東京へ向けて出発。上野からメトロで浅草に移動し、会場のアサヒ・アート・スクエアへ。エントランスに差しかかったところで、今日の主催者のひとり、Dさんにお会いして、あいさつされた。すっごい久しぶりにお会いするはずで、わたしにはもう記憶が消えてしまっているのだけれども、そうやってごあいさついただけるというのは、そういう親交があったのだろう。なんだか記憶の消えているあいだのわたしというのも、あちこちでいろんな人と親交を結んでいたようである。そういう記憶がないということが、あらためて悲しくはなる。

 今日の「踊りに行くぜ!!」は三組のアーティスト。それぞれに対照的な作品が提示され、思うところはいろいろとあった企画だった。感想は下に。

 アサヒ・アート・スクエアの外に出て、裏側から吾妻橋の方へ向かったところで、カメラを構えておられるEさんにお会いした。Eさんも同じ公演を今観ておられたのだろうか。「もうこの建物のところに来ることもなくなると思うから、写真を撮っている」とおっしゃる。わたしも1枚撮ってみた。ちょっと面白い写真になったと思う。

       f:id:crosstalk:20160326143648j:image:w280

 そのまままっすぐ帰路に着くと、またちょうどターミナル駅のスーパーが値引きする時間にかち合ったので、半額になったお弁当を買って帰り、夕食にした。チキンカツを独特のタレにつけて食べる弁当だったけれども、とってもおいしかった。
 明日は横浜まで行く予定である。明後日は吉祥寺へ行く予定。仕事は明日から三連休にしてあるけれども、なかなかにハードなスケジュール、だろうか。



 

[]「踊りに行くぜ!! 2 vol.6 東京公演」@浅草橋・アサヒ・アート・スクエア 「踊りに行くぜ!! 2 vol.6 東京公演」@浅草橋・アサヒ・アート・スクエアを含むブックマーク

●平井優子「Ghosting―軌跡の庭」
 このダンサーのことは知らない。当日配布された資料を読むとダムタイプの人だということで、それで「なるほど」と思ったものである。とにかくまずは音楽がいい。これはドイツのミュージシャンAntye Greie-Rippatti(AGF)という方によるもので、このあたりさすがにダムタイプの人脈という気がする。そして「映像・サウンドデザイン」として古舘健という方の名前が書かれていたけれども、この方はパフォーマンスグループの「dots」との活動が多いようだ。そしてこの日のパフォーマンスもまた、平井優子、そして中尾舞衣というふたりのダンサーと、この古舘氏の映像(というよりも、「照明」として機能していた部分が大きいと思うのだが)とのコラボレーションとして観ることができた。「光」ではなく、「影」として機能する映像がパフォーマンスと同調し、まさに「軌跡」というにふさわしい、ドラマティックな幻想性とコンテンポラリーな感覚を同居させた、ステキなパフォーマンスだったと思う。

●梅田宏明「Movement Research - Phase」
 梅田宏明氏は振付けに徹し出演せず、四人の女性ダンサーによる演目。「ダンスにおける個と群の境を無くし、一つの統一体としての動きを作り上げる試み」ということで、たしかにそのあたりの成果はみて取れた。しかし、ではこの成果をこれからどのように発展、展開させて行くのかというところでは、今後の作品をみせていただくしかない。ちょっと観ていてさきほどの平井優子作品と対照的な作品と感じるところも多かった(同じモノクロームな世界)けれど、こちらの音楽はあまりに古くさくって負けていた。

●山崎広太「暗黒計画1〜足の甲を乾いている光にさらす〜」
 出演は山崎氏のほかに、笠井瑞丈、武元賀寿子、西村未奈の三人の、ダンサーというか舞踏家。おそらく山崎氏はほかの三人のパフォーマンスについては基本当人たちにまかせているようで、それぞれが考える「舞踏」を、他者と絡むことなく続けられる。そこにマイクを持った山崎氏が暗黒について、そして舞踏について、土方巽について語る。ときに唄い、ときに踊られる。山崎氏によれば、これは「暗黒へのイントロダクション作品」ということ。
 わたしは「舞踏」というものにあまり興味はないし、いっそう、この日踊られていた三人の舞踏家のパフォーマンスにまるで興味を持てないで観ていた。これは困ったことである。それでは山崎氏の語ることばに神経を集中するしかないのだけれども、これも特出するスゴいことを語られているわけでもない(土方氏の寝言の話は面白かったけれども)。そうすると、この舞台のスキゾイド的な空気を感じ取るしかない。そう、キーワードは「スキゾイド」なのだろうと、書いている今、気がついた。とにかくは「バカバカしい!」と切り捨てられるようなものではなかっただろう。もだまだ、これからこの公演のことは考えるべきだろうか。他の人の感想、分析を聞いてみたい。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160326

■ 2016-03-25(Fri)

 しばらく東京とかに出かけていなかったけれども、明日からはまた三日連続して観劇の予定が入っている。予定をうまく組み合わせれば一日にふたつの舞台を観て、三日もつづけて出かけるようなことをしなくてもいいのだけれども、一日ふたつ観るとどうしても終演時の時間が遅くなり、下手をしたら終電に間に合わなくなってしまう。それよりはマチネ公演を観て、できるだけ早い時間に帰って来た方が楽である。そういうわけでの計画。

 朝から雨模様で、かなり寒い一日になった。桜の開花もちょっとお休みだろう。今日も一日、テレビの前で録画したカーリングの中継を2試合つづけて見て、それで終わってしまった。
 今日の予選の相手はまずはスコットランド、そして次はカナダ。どちらか一つでも勝てば、上位四チームによる決勝トーナメントに進めるのではないだろうか。連敗だけはみたくない。そんな気もちで見始めたのだけれども、まずは対スコットランド戦、第1エンドから3点も先取する最高の立ち上がり。第3エンドにも2点、そして第5エンドにはなんと4点。自分たちが有利な後攻のエンドでかならず複数点を取るという素晴らしい展開で、第7エンド終了時でスコットランドはコンシード。見ていても、ものすごく気分のいい勝利だった。このいきおいなら次の対カナダ戦も楽しみになる。
 次は予選リーグ最終戦、地元カナダチームとの対戦。たくさんの観客は皆カナダを応援し、つまりはアウェイである。しかしここでも第1エンドで2点先取の幸先のいいスタート。第2エンドでは後攻カナダのスキップが最終投に失敗してしまい、日本が2点をスチールするという、思ってもみない展開になる。次のカナダの得点を1点に抑え、第4エンドにはしっかりとまた2点を取り、なんと第4エンド終了時で6−1の大差のつく展開。これでは日本は強すぎる。ダメ押しは第6エンドで、相手のミスに乗じて一気に5点を取ってしまい、ここでカナダはコンシード。日本は予選リーグを9勝2敗で終え、同じく9勝2敗のカナダと並んでトップの成績。文句なしの決勝トーナメント進出。このゲーム、現地のファンはいちども歓声を上げることも出来ないままに終わってしまった。かわいそうである。
 しかし、決勝トーナメントも複雑な構成というか、まだメダルが確定したわけではない。まずは明日スイスと対戦し、勝てば次の決勝戦に進出できるけれども、負ければ予選三位と四位チームとの対戦の勝者とまた戦わなければならない。それで勝てば決勝戦で、負けてしまうと三位決定戦ということになり、それに負けてしまうとメダルはなくなってしまう。今までのランクでいえばどのチームも日本よりは格上。なんとかふんばって、また今日のような勝ちゲームを見せてもらいたいものである。



 

[]「エル・スール」アデライダ・ガルシア=モラレス:著 野谷文昭・熊倉靖子:訳 「エル・スール」アデライダ・ガルシア=モラレス:著 野谷文昭・熊倉靖子:訳を含むブックマーク

 ビクトル・エリセ監督により映画化された作品で、作者のアデライダ・ガルシア=モラレスはビクトル・エリセの夫人だということ。わたしは映画の「エル・スール」は大好きな作品だったはずだけれども、その映画のことはもうすっかり忘却の彼方に消えてしまっている。先日「ひかりTV」関係で放映されたのを録画してあるので(「ミツバチのささやき」も録画してある)、それを観る前にこの原作を読んでみようと思ったもの。

 物語は、スペインの片田舎に住む娘がお父さんを追想するという一人称小説で、アドリアナという主人公(語り手)が、作品で「あなた」というふうに呼ぶ(実は自殺してしまっている)お父さんのこと、その自分との関係を語るのである。彼女にとってお父さんはひとつの「謎」なのだけれども、そんなお父さんのことをひとつひとつ、理解して行こうとする。そして作品の後半では「南」の地(エル・スール)へとひとり出かけ、そこでお父さんの秘密を理解することになる。でも彼女はさいごにこう語り、南の地に別れを告げるのである。

あなたの苦しみが初めていくらか分かりかけてはきましたが、でも、それももはや大したことではなかった。というのも、あなたの存在や母さんの存在、私自身の存在、それから、あなたに見捨てられたことでやはり苦しんだ寄る辺のないあの二人の存在、それらの存在と私が和解するには、理解するだけでは不十分だったからです。

 このお父さんは決して「理想的な」お父さんではなく、いろいろな欠点を合わせ持ってはいた人のようだけれども、それでも多くの「謎」を抱え持った人ではあった。振り子を使ってものを探し出すという、魔術師のような一面もあり、その超能力は娘である「私」にも引き継がれていたようである。そのことでこの娘はお父さんの「謎」に迫ろうと考えたのだろうか。
 「肉親」という存在は、そもそもが「謎」をはらんでいるだろう。そういうことを子に詳細に語る親もあるだろうが、この小説の父のようにまるで語らない親もいるだろう。そういう、ごく身近にいた存在の「謎」というものをどうするのか。この非常に内省的な文体の中編は、そのあたりの問題に深く進んで行く。ここで「お父さん」とは何だったのか、と問うことは、「わたしとは誰か」と問うことと重なってくるだろう。「南へ」という主人公のディレクションは、そのまま「内面へ」というディレクションでもあり、そこにこの作品に共感、共鳴しながら読み進める魅力があるということだろう。

 ビクトル・エリセによる映画化作品は、プロデューサーの意向によって、その後半の「南」の部分はカットされてしまったらしい。本来は三時間の作品だったのに、公開されたのは九十分の作品になってしまった。なぜカットされたのか、それが単に「長さ」だけの問題だったとしたらナンセンスだし、もしもその部分である種の欠陥があったせいだとしても、やはり監督の撮った全長版は観てみたいものである。もしかしたら、そういう「完全版」が今後公開される可能性もあるのだろうか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160325

■ 2016-03-24(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 今日は昨日よりもまた暖かくなったようで、春も真っ盛りという感じ。桜のつぼみもふくらんで、もうすぐ花が開きそう。

    f:id:crosstalk:20160324151508j:image:w360

 また今日も、カーリングをみるだけの一日になった。今日は連勝で、勝ち方もいいし、みていても気分が良かった。
 まずは対ドイツ戦。日本が後攻の第2エンドに3点取れるという大チャンスになり、そこで日本は欲張って、外からストーンを押し込んで4点にしてしまった。次の後攻の第4エンド、左右にストーンを散らせてまたビッグチャンスになり、みごとに3点をゲット。これでもう勝負はほぼ決まりで、第6エンドにドイツがさいごのストーンをミスって、日本が1点スチールしたところでドイツはギブアップ(カーリングでは「コンシード」というらしい)。完勝であった。
 次は対アメリカ戦。前半は取れば取り返されるという互角の戦いだったけれども、第6エンドに日本は2点をスチール。このスチールした2点が効いて、7−5で日本の勝利。これで日本はここまで7勝2敗で、決勝トーナメント進出に一歩近づいた。しかし明日は世界ランキング3位のスコットランドと、世界1位の地元カナダが対戦相手。とってもきびしい。順位の下にはロシアがしっかりくっついているし、あとひとつは勝ってほしいところである。

 というわけで、録画したカーリングの試合を二本つづけて観ると、もう夕食の時間になってしまう。はるかむかしに買ってある白菜がいいかげんにしなびているので(しかし、白菜は長持ちするものだなあ)、早く使い切ってしまおうと、今日もまた白菜と鶏肉の水炊きにした。とにかくこのメニューはお手軽で経済的、そしておいしい。まだ白菜はもう一回分ぐらい残っている。

 図書館から借りている「エル・スール」、もうほとんど読み終えているのだけれども、もういちど読み返したい気分なので、もうちょっと。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160324

■ 2016-03-23(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 朝から暖かくて、桜の花の開花も早まりそう。今日は二ヶ月にいちどの市民病院への通院日。しごとのあと早くに病院へ行き、診察が終わったら東京に出て映画でも観ようというこころづもりだったのだけれども、「さあ、病院へ出かけよう」というときになって部屋の鍵がみつからず、電車の時間が過ぎてしまった。次の電車は五十分先だし、これでよほど診察や会計がスムースにいって早く終わらなければ、計画していた映画を観ることはできなくなる。まあ録画してあるカーリングの試合を見たいというのもあるし、今週末はまた連続して出かけなければならないことになってるから、家でゆっくり休んでいてもいい。

 このごろは市民病院も以前のように混み合ってはいなくって、長時間待たされることもなくなっている。うまくいけば映画を観に行けるかというところ。
 待ち合いで本を読みながら順番を待っていたら、ある匂いのようなものに包まれた。はっきりとした匂いがするというのではないけれども、自分の周囲がふわっと、ある空気に囲まれて、外の世界から隔離されてしまったような感覚だった。こういうことは以前にもあったような気がして、その「過去の体験」を思い出そうとする。そうすると、わたしはずっとずっと幼い頃のわたしに戻ってしまい、そのときの体験がよみがえってくる感覚におちいってしまった。ずっとむかし、過去にもわたしはこうやって、病院の待ち合いで診察の順番を待っていた。そのときの待ち合いの雰囲気、空気、気温、ものおとなど、いろいろなものがよみがえってくるような思いがした。
 こういうことはよくいえばプルーストの「マドレーヌ体験」みたいなもの、といえるかもしれないけれども、どうも今考えると、なんだかこれって老化現象じゃないかという気もしてしまう。体験としては興味深いものだったけれども、そんなにロマンティックなものでもないだろうという気分。

 けっきょく、診察も会計もスムースに進んだとはいえ、五分ほど上りの電車には間に合わない時間で、お出かけはあきらめて帰宅することにした。帰宅してからは昼食を簡単にすませ、また録画したカーリングの試合を見る。
 まずは強豪スイスが対戦相手。これはやはり相手に力があり、中盤まではなんとかがんばったけれど、4―7で負けてしまった。次はスウェーデンが相手の第7戦。これは理想的な展開というか、自分たちが後攻のときにはばっちり2点ずつをゲットして、相手の得点は1点におさえる。スチールでの得点も加えて、先のスイス戦敗北のうっぷんを晴らすようなみごとな勝利だった。見ていても気持ちがいい。
 今回の日本代表チーム、わたしが知っている顔もないのだけれども、今までの日本チームでもいちばん安定しているんじゃないだろうか。狙うところにストーンを置いて行く技術はすばらしい。明日、明後日の予選リーグの残り四戦が楽しみである。

 ニェネントはなんだか発情期も終わってしまったみたいで、あんまりすり寄って来て騒いだりしないで、わたしから距離を置いてマイペースにすごしている。近くに来たところをつかまえて、腰のところをペンペンやってみたけれど無反応で、やっpり発情期は終わったようだ。今回は一週間もつづかなかったんじゃないだろうか。もうしばらくはならないでくれると助かるのだが。

 夕食は「何にしようか」と考えて、クックパッドに出ていたある献立の材料が手元にそろっていたので、それをやってみた。結果はやはりおいしいものではなかった。クックパッドのレシピはほんとうに外れが多い。あまりあてにしないようにしよう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160323

■ 2016-03-22(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今日は、昨夜録画した女子カーリング世界大会、日本のゲーム二試合を見つづけて、カーリング三昧の一日になってしまった。これからは当分こういう日がつづきそう。

 最初の試合は対デンマーク戦だったのだけれども、これが日本の投げるストーンはことごとく狙いが外れ、デンマーク側はばっちり決まってしまうという展開で、これは日本の完敗。特にデンマークのさいごのショットは強烈だった。つづけて対韓国戦をみるのだけれども、最初リードされていた展開に追いつき、これから調子が出て来るというところで、録画ミスで途中で録画が途切れてしまった。ものすごいフラストレーション。あのまま行けば日本は逆転勝利出来たはずだと、ネットで結果を調べると、やはり逆転勝利していた。その逆転の場面、勝利の場面をみたかったのに。とりあえずここまで日本チームは4勝1敗で、ロシアと並んで予選リーグトップではある。下馬評以上の力を発揮しているようだ。これからのゲームも楽しみである。

 カーリングは下手すると一ゲーム三時間ぐらいかかってしまうわけで、二ゲームもつづけてみると、それで一日はもう終わってしまう。つい夢中になってみてしまうけど、二ゲーム見終わるともう外は暗くなってしまっている。あわてて夕食の準備、支度をして、かんたんな献立で夕食を終えた。

 外はいい天気で、かなり暖かい。このあたりでは駅の南口から南のスーパーへの一本道が桜並木になっていて、木によってはもう花が咲き始めたみたいだ。この桜並木の道では毎年、桜の満開の時期に合わせた日曜日に「さくらまつり」を開催するのだけれども、今年の「さくらまつり」は四月十日という告知が出ていた。それはいくらなんでも遅すぎるというか、そのときにはもう桜の花はみ〜んな散ってしまっているんじゃないかと思う。心配するわけではないけれども、主催者は気をもんでいることだろう。このところは桜の開花はずっと早くなっているのだから、「さくらまつり」というものももっと早い時期にやってしまった方がいいだろうに、と思う。

 ニェネントはまだ発情期がつづいていて、何とかしてもらおうとわたしにまとわりついている。ふと思って、ニェネントのためにちょっと大きなキャットタワーを買ってあげようかと、Amazon で調べたりして、良さそうなのがずいぶんと値引きされて売られているのをみつけた。とにかくはニェネントが楽しめるようなことのための出費というのはまるでやっていないし、今さらだけれども、ニェネントの遊び道具を買ってあげたくなったのである。まだニェネントの誕生日には三ヶ月もあるけれども、こういうのは「誕生日プレゼント」にするのがいいかな、とも思ったりする。しかしネコは決して自分の誕生日のことなどわからないわけだし、思い立ったらすぐに買ってあげるのがいいだろう。なんだか自分もキャットタワーが楽しみになってしまった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160322

■ 2016-03-21(Mon)

 カーリング女子の、世界大会が始まっている。カーリング競技の観戦は大好きである。日本代表はここまで三連勝らしい。BSでずっと中継するらしいので、これからの分をぜんぶ録画予約を入れた。先日は卓球にちょっと夢中になってしまったものだったけれども、これからしばらくはカーリングに縛られる毎日になりそう。カーリングは面白いのだ。

 ニェネントは、まだ発情期のまっさいちゅう。夜になるとふぎゃあふぎゃあと大きな声でなきながら、部屋の中を徘徊する。ニェネントもつらいのだろう。やはり不妊手術とかしてやった方がよかったのかと、ニェネントの発情期のたびに思う。しかしウチのとなりの部屋は夜は誰もいないので、ニェネントの声で苦情が来ることもない。これがあまり防音されていないアパートのようなところで、周囲にも生活する人が多いような環境だったら、けっこう苦情が来るかもしれない。
 あと、ニェネントはネコだから、毛玉を吐いたりするんだけれども、「毛玉を吐く」などといっても、つまりは嘔吐するわけである。ニェネントの場合はコレが始まると三回は「ゲホッ!ゲホッ!」って繰り返す。わたしが起きているときならばすぐに後始末するけれども、当然わたしが寝ているあいだだとか、外出しているときにやったりもする。そうするとどこにやってくれちゃったのかわからず、突然にそういうゲロに出くわすことになって、おどろくこともある。
 今日はなんと、わたしが起き出したあとの布団の上でまどろんでいたニェネント、とつぜん「ゲホッ!ゲホッ!」とやり出した。わたしもそばにいたので、「うわ、布団の上ではやらないでくれ!」と、とっさにニェネントの顔の下にティッシュを敷いてやる。これはみごとに成功して、ニェネントはティッシュの上に吐いてくれた。それで二回目。また、「ゲホッ!ゲホッ!」がはじまる。これもうまく布団を汚さずにすんだ。三回目、これもニェネントの下にティッシュを置いて、これでだいじょうぶだろうと思ったのだけれども、なんとニェネントはそんなティッシュを避けて、モロに布団の上に吐いてしまった。「なんてことしてくれたんだ」と、ちょっとショックである。

 そういうふうに、このごろは日常の些細なことに振り回されている感じ。あまり「わたしとは」とか考えることもない。ま、考えても否定的でネガティヴな結論しか出ないのはわかっているから、考えないということはいいことかもしれない。こういう状態のことを「ポジティヴ」、というのかもしれない。
 とりあえずボルヘスの「伝奇集」を読み終わったので、手元にあった「人類の知的遺産」シリーズの「カント」の巻を読み始めた。まだカントの思想そのものには触れられず、その生涯とかの部分を読むのだけれども、これがサクサクと読める。「読書って、こんなにサクサクと読み進められるものだったかしら」と、いぶかしく思ったりもしてしまう。こういう文章の連続であれば、一日に一冊とかの読書は可能なことだと思う。そういうことでは面倒な本ばかりを選んでいるのだからしょうがない。

 夕食には一昨日の白菜と鶏肉の水炊きをもういちど。これはお手軽で低予算ですみ、なかなかに満足できる献立だと思う。白菜が安く出回っている季節にはこれがいい。



 

[]「カティンの森」(2007) アンジェイ・ワイダ:監督 「カティンの森」(2007)   アンジェイ・ワイダ:監督を含むブックマーク

 「カティンの森の虐殺」については知らないわけではない。ワイダ監督の父親もまた、この「虐殺」で殺害されたひとりだったという。それだけにワイダ監督の思い入れも強かっただろう。この作品の構想から50年、製作に入ってからも17年の歳月がかかったらしい。音楽はペンデレツキが担当している。

 女性の立場、女性の視点から事件を語ろうとする意図はわかるのだけれども、虐殺されたのは皆男性たち。その、男性と女性らとの「絆」というものの描かれ方が、ちょっと薄かっただろうか。複合的な視点を取ろうとしたこともわかるのだけれども、逆にそのことが多少散漫な印象を与えることにならなかっただろうか。これはおそらくは実際の映像なのだろう、発掘された死体の映像などはショッキングである。そしてラスト、その虐殺の様子を演出した場面も凄まじい。なのだけれども、そういう強烈な映像と、本編のドラマとがうまくつながらなかった思いがする。ソヴィエトが「これはナチス・ドイツのやったことだ」といっていた嘘が露呈して、実はソヴィエトの行為だったと露見するところを、もっとドラマとしてクロースアップしてもよかったのではないかと思う。映画としてはどこか、印象が分裂してしまうところを感じてしまう。



 

[]「レイジング・ケイン」(1992) ブライアン・デ・パルマ:脚本・監督 「レイジング・ケイン」(1992)   ブライアン・デ・パルマ:脚本・監督を含むブックマーク

 多重人格者の犯罪を描いた作品なのだけれども、いっちばん困るのが、この犯人が何をやろうとしていたのかわからない(わかりにくい)ということだろうか。そこで犯人への恐怖感がどこか薄くなり、滑稽さをも感じてしまうことになる。

 とつぜんに観るものをびっくりさせる演出、「何、この長廻し」、「何、このスローモーション」というようなギミックな演出もあるのだけれども、面白かった「愛のメモリー」のようにはプロットが練り込まれてはいない感じがした。

 主演はわたしも好きなジョン・リスゴーなのだけれども、どうもここではどうしても、こういう異常性格者を演じるにはまだまだ力不足だったかな、と思わざるを得ないことになってしまった。残念。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160321

■ 2016-03-20(Sun)

 けっきょくやはり、今日は出かけないで家にこもってしまった。予約してあった公演にはキャンセルのメールを入れた。あとでていねいな返信のメールをいただいて、ちょっと恐縮してしまった。そういう、出かけるはずの予定をキャンセルしたりすると何もやる気が起きない一日になってしまい、ずっとゴロゴロしつづける一日になってしまった。昼寝も二時間以上して、起きたあともテレビで相撲などをぼんやりとみるだけ。夕食にはチャーハンをつくった。

 ニェネントも今日はわたしの気分が伝染して物憂いのか、あまりわたしのそばに寄って来るでもなく、部屋のどこかに行ってしまって姿を見せない。あまり気配がないとどこへ行ったのかと心配になってしまい、あちこちと探してみたりもする。カーテンの陰で丸くなっていた。

 夜はテレビで「新・映像の世紀」というのをみた。21世紀になってからの世界の動きを、YouTube とかの映像投降サイトに寄せられた市井の人々の映像でまとめて行く。わたしは後退性健忘症のせいで、この世紀に入ってからの世界の動きが、実はちゃんとわかっていない。そういうのでは「そういうことだったのか」と、いい勉強になった番組だった。「アラブの春」が成功したチュニジア(ジャスミン革命)などはいいのだが、これがシリアでの民主化運動は泥沼化し、そこから「IS」なども出て来ることになるのか。こういうことをはっきりと理解してはいなかった。
 LGBTということでいじめにあい、自殺してしまった少年(ジェイミー・ロードマイヤー/Jamey Rodemeyer君)が残した、自らを撮った映像がアメリカで大きな影響力を持ったという話も知らなかった。この映像はすべての人がみるべきだろう。LGBTの人たちの人権は、もちろん認めなくてはいけない。彼ら、彼女らを「異常」と排除しようとする人たちは、その考えを改めるべきだ。

D

 ボルヘスの「伝奇集」を、ようやく読み終えた。



 

[]「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳 「伝奇集」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳を含むブックマーク

 第1部 八岐の園(1941年)
●「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」
●「アル・ムターシムを求めて」
●「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」
●「円環の廃墟」
●「バビロンのくじ」
●「ハーバート・クエインの作品の検討」
●「バベルの図書館」
●「八岐の園」
 第2部 工匠集(1944年)
●「記憶の人・フネス」
●「刀の形」
●「裏切り者と英雄のテーマ」
●「死とコンパス」
●「内緒の奇蹟」
●「ユダについての三つの解釈」
●「結末」
●「フェニックス宗」
●「南部」

 第1部と第2部とでは、明確に異なる主題を扱っているという印象はあるけれども、それでもそこに共通して、「無限への恐怖」のようなものを読み取ってしまう。それはどこか、とてつもない「迷宮」に足を踏み込んでしまったような感覚でもある。
 第1部の作品に共通しているのはブッキッシュな世界というか、それも虚構の書物に対しての注釈、というかたちの作品群だろうか。ボルヘス自身、その「プロローグ」で以下のように書いている。

 厖大な本の構成は骨が折れ、かつ、身をけずる濫費である。完全な口述の解説ならば数分ですむ一つのアイディアを、五百ページにわたって発展させてゆくとは! もっとよい手段は、これらの本がすでに存在しているというふりをして、要約(レジュメ)、解説を提供することである。

 じっさいに、このようなメソッドで書かれた作品もいくつかあるのだけれども、そうでないとしても、第1部には「本」をめぐる世界について書かれた作品が多い。短編小説というよりは、エッセイ、小論文というかたちをとりながら、その典拠に架空の書物が使われる。これらは「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、「アル・ムターシムを求めて」、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」、「ハーバート・クエインの作品の検討」などになるだろうが、「バベルの図書館」もそうだろうし、そして「八岐の園」もまた、一面で「本」をめぐる物語ということはできる。
 書かれた世界、想像された世界がつくりだす、現実世界とは異なる小宇宙、そう考えれば「円環の廃墟」にしても「バビロンのくじ」にしても同じグループの作品ということも出来るだろうか。それらの作品はめまいがするような面白さを持っているのだけれども、わたしにはさいごの「八岐の園」が非常に面白かった。
 この、推理小説仕立ての作品というのが、第2部にはがぜん増えてくる。そして、特に「死とコンパス」で提示される「直線の迷路」という命題は、いかにも面白いではないか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160320

■ 2016-03-19(Sat)

 朝は雨。しごとから戻ってドアを開けて、ニェネントがいつものように外に飛び出すのだけれども、今日はあっという間に部屋の中に戻ってしまった。やっぱり雨は好きではないのだ。

 MDプレーヤーが来てからは、土曜日はわたしのしごと中にやっている「ウィークエンド サンシャイン」を留守録しておいて、あとで聴くようにしている。今日は「ウィークエンド サンシャイン」のあと、わたしが帰宅してから放送している「世界の快適音楽セレクション」を聴いていると面白かったので、こちらもつづけて録音しておいて、あとでまた聴けるようにすればよかったと思った。ミシェル・ンデゲオチェロの名前など、懐かしい。来週からは二番組つづけて録音しようか。
 「ウィークエンド サンシャイン」は、先週亡くなられたジョージ・マーティンの小特集。ピーター・セラーズの録音だとか、レノン=マッカートニーのコンビのつくった曲をパローフォン・レーベルのアーティストが吹き込んだものなど、あまり聴けない曲が多くかかった。

 明日は東京へダンス公演を観に行く予約をしてあるのだけれども、午後二時に始まるのに間に合うようにするには相当早くにこっちを出なければならなくって、それが面倒でなんだか行きたくなくなってしまう。まだ肩の痛みもぜんぜん取れなくて、出かけるのがおっくうだということもある。明日になってみて、そのときの調子にまかせるようにしよう。

 夕方になって、食事はどうしようかと考え、白菜がまだいっぱい残っているので、白菜をどっさり使って鍋でもやろうかと思う。クックパッドで白菜を使ったレシピを調べると、どれもいろんな材料が必要だし、面倒そうだ。白菜と鶏肉だけを水炊きして、ポン酢で食べるというのでいいじゃないかと、試しの気分でやってみる。これが予想外においしく、食も進んだ。これからもときどきやってみようと思った。

 夜はボルヘスの「伝奇集」を読み進め、あともうちょっと。



 

[]「女は二度生まれる」(1961) 川島雄三:監督 「女は二度生まれる」(1961)   川島雄三:監督を含むブックマーク

 若尾文子主演で、わたしは若尾文子と川島雄三監督のコンビ作品はいっぱいあるだろうと思っていたのだけれども、それは増村保造監督とのコンビで、川島雄三監督と組んだ作品は三本だけだということ。しかし、この「女は二度生まれる」で、若尾文子は女優として大きく開花したのだということである。

 若尾文子演じる小えんという芸者は、頼りにする建築家のパパさん(山村聰)や遊び人の常連客(山茶花究)、ちょっと気になる寿司屋の板前(フランキー堺)、それにときどきすれ違うだけのステキな学生さん(藤巻潤)とかのいる世界で、のんしゃらんと気ままな毎日をおくっている。でも売春禁止法の実施で芸者置屋が営業停止になり、誘われてバーのホステスに鞍替えする。そこでパパさんに久しぶりに再会する。板前さんは田舎に引っ込んじゃうし、学生さんも卒業してしまうし、小えんちゃんはパパさんのお妾さんになって、けっこう所帯じみたアパート暮らし(パパさんはそこまで裕福ではないのだ)。「おまえも芸を覚えろよ」と、小唄のひとつも習わせてもらったりする。でもあっけらかんとした性格は相変わらずで、映画館で知り合った少年の筆おろしをやってあげたりする。しかしそのことがパパさんにばれて畳に小刀突き立てられて怒られて、お〜、こわっ! それがパパさんは十二指腸潰瘍(わたしもコレはやったな)で入院して、そのままおっ死んでしまう。彼女はおおいに悲しむのだけれども、金がないからまた芸者に逆戻り。そこにかつての「ステキな学生さん」が社会人になって接待の外人とかを連れて来て、小えんちゃんも喜ぶのだけれども、「大事なしごとなので、あの外人と寝てほしい」といわれて幻滅。いやになって(というわけでもないけれども)映画観に行ったら筆おろししてあげた少年と再会して、「いっしょに上高地に山を見に行こう!」と唐突に持ちかけて出かけるのね。それで、上高地への電車の中で、あの板前のお兄さんが奥さんと子どもを連れている姿を見たりする。思うところのあった小えんちゃん、少年にお小遣いとパパさんの形見の腕時計をあげちゃって、「あとはあなたひとりで山を見に行きなさいね」って別れ、ひとり駅の待ち合いに残るのでした。

 いやぁ、軽快なテンポで運ぶ作品なので、ついこちらも軽快にあらすじを書いてしまいました。もっのすご〜く、面白い映画でした! やっぱりこれは演出のテンポもさることながら、いろんな男たちの世界の中を、その対応を変化させながら渡り歩いて行く若尾文子の演技がいいですね。これ、調べてみると、川島監督はこの作品で大映首脳陣を前に「若尾文子を女にしてみせる」と宣言したということ。有言実行ですね。
 その若尾文子だけでなく、彼女の周りを固める俳優陣も皆いい仕事をされていて、特に印象に残るのは、いろんなところに「いやぁ、ちょっと噂をきいてね」って顔を出してくる山茶花究。ベタベタとしっつこいのでもなく、それなりの執着をみせる演技は名人芸ですね。

 あとやはり、この絵コンテをきっちりと絵にしたような、決まった構図の連続する画面の爽快さというか、作品の展開を助ける絵の決まり具合に見とれてもしまう。わたしは特にこのラストの、人のいない上高地への入り口の駅の待ち合いでひとりすわっている若尾文子を、駅の外からのぞくようにとらえたショットが大好きで、観ていても「ああ、このシーンで映画が終わると最高だな」と思って観ていて、じっさいにこのシーンのあとに「終」の文字が出たときには、ちょっとうれしくなってしまった。
 川島雄三監督というと、やはり素晴らしかった「洲崎パラダイス 赤信号」とか、昔観てもう忘れてしまった「幕末太陽傳」とかも傑作だったと思うのだけれども、この「女は二度生まれる」もすごい。彼の作品をもっと見たいと思うけれども、あまり放映される機会もないみたい。二年後の1918年は彼の生誕百年にあたるようだから、きっとどこかで特集上映をやってくれることだろう。それを楽しみに生きて行こうと思う。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160319

■ 2016-03-18(Fri)

 ボルヘスを読んでいるせいか、ちょっとボルヘスっぽい夢をみた。わたしは部屋の天井に横に張られたはしご、つまりうんていのようなものにぶら下がって先に進んでいるのだけれども、うんていはわたしの進む先で複雑に分岐している。それをみながらわたしは、「先に進むには無限に近い解決法があるのだけれども、その中でわたしが選ぶことが出来るのはただひとつあるだけだろう。そして、仮にその選択肢で前進に失敗したとしてもそれは見かけ上のことにすぎず、問題はクリアされたことになるのだ」と考えているのである。そんなにボルヘスっぽいわけでもないか。

 今日も暖かい。ニェネントはいつものように、わたしがしごとから戻ると待ちかまえたように外に飛び出す。みていると、側溝にたまった枯れ葉を食べてしまっているようだ。「汚いもの食べるんじゃないよ」と思うけれども、ああいうものを食べるのも毛玉処理で必要なことなのかもしれない。今日もそうやって枯れ葉をカミカミして、それからすぐに部屋の中に戻ってしまった。このごろはもう、冒険する気もちもあまりなくなったみたいだ。

 わたしは昨日決めたように、午後から映画を観に行く。ローカル線のターミナル駅の、その映画館のあるビルはもう、映画館以外の営業はほとんどやっていない。映画館はビルの七階にあって、かつてはその七階は食堂・レストラン街と映画館のあるフロアだったのだけれども、今は映画館のほかにはレストランが一軒営業しているだけになっている。採算が取れるほど客が入るとも思えないので、そのうちに廃業してしまうのではないかと思う。映画館もとても採算が取れているとは思えないけれども、ここはビルのオーナーが経営してるんだと思うから、ずっと映画館をつづけてくれるだろう。ロードショー作品と並行して、もうロードショーを終えた作品を遅れて上映することも多いのだけれども、その作品の選択がけっこういいので、わたしにはちょっとした「名画座」みたいになっている。今日観た「黄金のアデーレ」も、そういう「名画座」的にチョイスされた一本だろう。

 今日も、客は三、四人しかいなかった。映画の性格からいってもそんなに大入りするような作品でもないだろうけれども、やはり三、四人しか入ってなくってだいじょうぶなんだろうかとは思ってしまう。
 映画が終わって外に出ると、ロビーにこれから公開予定の作品のチラシが置いてあるのだけれども、その中に前に観た「キャロル」のチラシも置かれていた。そのうちにこの映画館でやるのだろう。そうしたらまた観に来てもいいな。

 外に出て、六時ちょっと前。駅ビルの地下のスーパーに寄ってみると、もう惣菜などで三割引きになっているものもあった。何か買って帰ってもいいなと思ったけれども、今日の夕食は家の冷蔵庫にある食材を使い、倹約モードで行くことにした。
 帰宅して、ニェネントのごはんをあげ、わたしは魚肉ソーセージをちゃっちゃっと玉子をからめて炒め、キャベツのサラダとでかんたんな夕食にした。



 

[]「黄金のアデーレ 名画の帰還」サイモン・カーティス:監督 「黄金のアデーレ 名画の帰還」サイモン・カーティス:監督を含むブックマーク

 あのクリムトの名作が、ウィーンの美術館からアメリカ在住の正統な所有者のもとに返還されるまでのドラマで、もちろんまたもや事実を元にしてつくられた映画である。

 わたしなどは、今はクリムトが生まれて活躍したオーストリアで彼の名作が観ることが出来ず、アメリカのギャラリーに展示されているということにちょっとばかし違和感を覚えないでもないのだけれども、その影には戦時中のナチスによる美術品略奪など、いろいろな事情があったわけで、戦争の別の側面をみた思いがする。問題の絵「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」の中でアデーレ嬢が首にしていた豪華なネックレスも、ナチスが没収してナチス高官が愛人に贈るような描写もある。

 そのクリムトの作品の返還に尽力した弁護士がシェーンベルクの孫だということも、興味深いこと。映画の中で一瞬、その弁護士が祖父シェーンベルクのコンサートを聴きに行く場面があり、そこで「浄夜」が演奏されているショットがちょっとだけあり、ちょうど今シェーンベルクにハマっているわたしにはうれしいことだった。

 主演のヘレン・ミレンの、軽いユーモアを交えた演技は軽快で、観ていても彼女へのシンパシーを感じてしまうことになるだろう。

 主人公は問題の作品のモデルのアデーレ嬢を幼少期に知っていたわけで、その時代の華麗なパーティーの様子も<回想シーン>として描かれる。
 時が経ち、ナチスによるオーストリア占領時代。主人公ら一族はユダヤ系だから、当然国外へ逃れようとする(ちなみに、シェーンベルクもこのときにアメリカに亡命しているわけである)。ここで主人公とその夫とがナチスの警備の隙をついて、ケルンから国外へ飛ぶ旅客機へと逃走する場面がとってもサスペンスフルで、この映画のキャパシティを拡げていると思う。見ごたえのある作品ではあった。

 映画の中で、返還を求められた美術館側の関係者が「そんなこと認めたら今度は日本が何かいい出してくるぞ」みたいなことを語るシーンがあっておかしかったのだけれども、いってやれいってやれ、って感じである。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160318

■ 2016-03-17(Thu)

 今日は暖かい。一気に春になったみたいで、昨日のような格好で外を歩くと汗ばんでしまうようだ。桜の花が咲くのも近いだろう。そう、桜といえば、この地域では毎年、「さくらまつり」というのを駅の南口から南のスーパーの前までの場所でやっているのだけれども、今年は四月十日にやるようなことを書いてあった。しかしその時期だと今年は、もう桜は散ってしまっていることになるんじゃないかと思う。もう今は桜の満開は三月の末のことだし、今年はもっと早くなりそう。来年からは開催時期をもっと早くした方がいいと思う。

 午前中に内科医に診察を受けに行き、図書館に寄って市役所にも行き、スーパーにもドラッグストアにも行っておおいそがし。内科医ではこの日は心電図をとった。異常なし。もうおそらく内科医には一生通うことになると思うけれども、循環器系統については常に検査をしているから安心だと思う。消化器系統はだいじょうぶだろうか。
 図書館のそばの川に黒い鳥が来ていて、ときどき羽を拡げていた。シルエットからすると「鵜」ではないかと思うのだけれども、鵜をじっさいに見るのははじめてのことだと思う。

    f:id:crosstalk:20160319115234p:image:w360

 図書館では借りていたCDを返却し、新たにまたシェーンベルクの「モーゼとアロン」、それとペンデレツキの「聖ルカ伝による主イエス・キリストの受難と死」というのとを借りた。ペンデレツキの方は「ドイツ・ハルモニア・ムンディ」からリリースされたもののようで、ハルモニア・ムンディには思いもかけない面白い盤があるので、「どんなだろう」と借りてみたもの。とにかくはこのところクラシックばかり聴いている(といっても現代音楽っぽいのばかりだけれども)。あと、2015年のベストテンの載っているキネマ旬報と、ビクトル・エリセが映画化している小説「エル・スール」とを借りた。その小説「エル・スール」を書いたアデライダ・ガルシア=モラレスという人は、ビクトル・エリセの奥さんなのだそうだ。「エル・スール」は録画してあるので、この原作(短いからすぐに読めるだろう)を読んでから観てみよう。

 スーパーではインスタントラーメンと皿うどんとを買い、ドラッグストアでは食パンを買う。内科医に「塩分を取りすぎないように」といわれているのに、このところの昼食は、いつもそういう塩分の多そうな即席麺みたいなのばっかり。よろしくないと思う。

 しばらく出かけていないし、映画もしばらく映画館で観ていない。明日にでも映画館へ行ってみようかと、今どんな映画をやっているのか、あらためて調べてみたら、近郊の映画館で「黄金のアデーレ 名画の帰還」というのをやっていた。クリムトの絵にまつわるストーリーで、ちょうど借りて来たキネマ旬報でみても、去年のベスト20に入っている作品だ。上映は明日でおしまいのようなので、明日行ってみようかと思う。
 ここしばらくは「録画しておきたい」という映画の放映もないし、「録画するのなら前に録画してある映画を観てしまって消去しなくっちゃ」というしばりから解放される。無理して映画を観なくってもいい。そういうのはやっぱり楽だ。

 この日の夕食で、ようやくビーフシチューが終わりになった。つくったのが12日だったから、六日間毎夕、ビーフシチューの連続だったわけだ。ずっと何もつくらないで楽だったけれども、明日からは何かつくらないといけないな。



 

[]「6才のボクが、大人になるまで。」(2014) リチャード・リンクレイター:製作・脚本・監督 「6才のボクが、大人になるまで。」(2014)   リチャード・リンクレイター:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 去年映画館で観ているけれども、もうすっかり忘れてしまっている作品。なんでそこまで忘れてしまうかなあと、自分の状態がやはり不安になってしまう。こういう、ストーリーでみせるような作品ではないと、記憶に残らないのだろうか。今回こうやって観直しても、すぐにぜ〜んぶ忘れてしまうのだろうか。

 「時間は途切れない 一瞬というのは常に今ある時間のことだ」というのがこの映画のラストの言葉で、それはこの映画のことをもあらわしているので、これは最初から決められていたラストシーンなのだろう。ここでの主人公とその女友達(まだ知り合ったばかりなのだが)との目線のやり取り(まるで交叉しない)がとってもいい。ただ、この言葉というのはつまりは現状肯定で、それは「保守」といってしまっていいのではないかと思う。わたしは、時間というのは切り取ることの出来るものであって、また、切り取らなくってはならないものではないだろうかと思っている。そうでなくては人は先に進めないのではないのか。そういうところでこの映画には疑問がある。

 映画を撮っていて、おそらくは「こういうハードは12年も経てばずいぶんと進化するのだろうな」という思いを持ちながら撮っていたんじゃないかと思う。わたしはゲーム機のことはわからないけれども、古いiMac が登場したときには「そう、そういう時代があったのだ」と思ったりはするのだった。その古いiMac は、今でもわたしの目の前に鎮座しているのだけれども。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160317

■ 2016-03-16(Wed)

 きのうおとといと寒い日だったし、今日も予報では「暖かくなる」といっていたわりには寒い一日になった。今日はしごともまた休みなので、まるで外に出ないで部屋にこもりっきりの一日になってしまった。すわってパソコンをいじっていると、ニェネントがわたしの膝の前に割り込んで来て、わたしを見上げている。目が合うと「なんとかしてよ」となく。それでニェネントの腰のところを手元のスプレー缶でペン、ペンとやってあげる。そうするとニェネントはうずくまって足をモゾモゾさせ、そこから動こうとしない。いつまでやってもキリがないので「もういいだろ」と手を止める。しばらくするとまたわたしを見上げて「またやって」となる。まったくキリがない。

 このところテレビをみるのに変な体勢で横になってみているせいだろうけれども、右肩から首にかけて痛い。肩こりの重症なものという感じだろうか(あんまり肩こりというのになったことがないのでわからないけれども)。前からちょっとした痛みはあったのだけれども、この二、三日、その痛みが強くなった気がする。こういうのも病院で診てもらった方がいいのだろうか。
 でも今日は、そうやって横になってテレビをみていたらニェネントが近寄って来て、自分からわたしの胸の上に上って、そこでじっとしている。これは画期的な出来事で、スキンシップの嫌いなニェネントがそんなことをするなんて、もちろん初めてのことである。そりゃあ発情期でわたしにすり寄っていたいという気もちもあってのことだろうけれども、なんか「飼い猫」みたいだ、などと思って、妙にうれしくなってしまった。

 少しずつ、ボルヘスの「伝奇集」を読んでいる。こんな薄い本、一日で読んでしまうのが普通だろうけれども、読んでいて「あれ? 何のこといってるんだっけ?」とわからなくなることがしょっちゅうあり、またさいしょから読み直す、などということを繰り返している。なんでこんなめんどくさい書き方をするんだろうね。ま、わたしの読解力が落ちているのがいけないのだけれども、前に読んだ「異端審問」の方が面白かったような。
 机の上になぜか、「人類の知的遺産」という全集ものの、「カント」の巻が置いてあって、「カントも以前読み始めて放ったらかしにしたままだなあ」とか思って、ちょっとこういう入門書みたいな本からまたトライしてみようかなどと思うのである。おそらくこの本はずいぶんむかしに百円ぐらいで買ったものだと思う。ペラペラとめくってみると、その前の持ち主が記入したマーカーのチェック線が、百ページぐらいまではところどころ引かれている。でもその先はそういうチェックはまるでされていないから、前の持ち主も百ページぐらいで挫折したというか放棄したのだろう。まあみんなそんなもんなんだなあ。



 

[]「バルカン超特急」(1938) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「バルカン超特急」(1938)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 原題は「The Lady Vanishes」なのに、なんで「バルカン超特急」になってしまうのか。たしかに列車が舞台にはなるけれども、「超特急」というわけでもないだろうに。このタイトルでは映画の内容は想像できないだろう。というか、あらぬ誤解を生みそうだ。この邦題を付けたのは水野晴郎なのだということでもあり、それで「シベリア超特急」シリーズが生まれたのか、とか思ってもよくわからない。

 しかし、この作品はめっぽう面白い。それは何というのか、「すき間だらけの面白さ」とでもいえばいいのか、そういう「すき間」が、映画的魅力になっていると思う。「すき間」といういい方はおかしいかもしれないけれども、ストレートに話が展開しない、脱線だらけであるというのでは、昨日観た「ビッグ・リボウスキ」なんかを思い出してしまうところがある。もちろん「ビッグ・リボウスキ」のようにどこまでも外れっぱなしというのではないけれども、真面目に観ているとはぐらかされてしまうようなところがいっぱいある。
 まず、駅のそばのホテルで、列車が雪崩のために明日まで運行しないということになっての混乱があるけれども、ここで最初に登場するのはふたりのイギリス人男性で、「このふたりが事件に関わっていくのだろうか」とみていると、まったくそういうわけではない(まあ、要所要所で絡んで来る存在ではあるのだけれども)。それで女性客がホテルの部屋で寝ようとすると、上の階で客が騒いでいて眠れない。これもホテルでの点景のひとつみたいな描写なのだけれども、実はこの女性客のアイリスが映画の中心人物で、二階で騒いでいた民族舞踊の研究家のギルバートが、列車の中で彼女を助けることになるのである。これで舞台が列車内に移動してもやはり、イタリアの奇術師を巻き込んでのドタバタ騒ぎが始まってしまったりもする。

 けっきょくつまりは、おそらくは当時のドイツをモデルとしたらしいヨーロッパの架空の国を舞台にして、その国の秘密情報を持ち出そうとするスパイと、それを追って阻止しようとする一団とのやりとりが本筋で、第三者であるアイリスがそれまで隣にいた老婦人がいなくなったことを不審に思うのだけれども、誰もが「そんな婦人はいなかった」という。そのうち幾人かは誘拐の当事者であり、幾人かは買収されている。イギリス人のふたりはただ面倒なので「いなかった」と答えたり。さいしょはアイリスの思い違いだろうと思っていたギルバートもアイリスのいうことを信じるようになり、ふたりでその謎を解いていくのである。
 思いがけなくも銃撃戦までも始まってしまい、そこまでに話をエスカレートさせなくてもいいのじゃないかとも思ったりするし、ラストに唐突にアイリスとギルバートが結ばれてしまうのもよくわからない。考えてみたらスパイ側も追う側もまるで面倒臭いことをやっているようにも思えるのだけれども、とにかくは面白い映画だった。そう、冒頭部はおそらくはジオラマ模型を使って、鉄道線路にかぶさる雪崩の遠景からカメラが移動して町の中に入っていき、ホテルの前にグンとカメラを寄せるのだけれども、ダイナミックなショットに冒頭から引き込まれた。列車と列車のすれ違うところで車両の外で移動しようとする人物の、スリリングなショットもある。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160316

■ 2016-03-15(Tue)

 昨日までダメだった<コピー>、<ペースト>のキーが、今日はちゃんと働く。<0>のキーもちゃんと打てる。どこでどう調子が悪くなって、どこでどう復帰するのかまるでわからないけれども、とにかくはこの<0>のキーと<コピー>、<ペースト>機能とは配線が近接しているのか、いっしょにダメになっていっしょに復帰したりする。それぞれのキーの部分にはどうやら問題はないようで、<0>のキーの部分を解体してしまったのは大きな失敗だったようだ。

 さて、今日はニェネントの様子がまたおかしい。妙にわたしにまとわりついて来るし、ニャンニャンないて部屋中を徘徊する。まさに「発情期」の兆候である。それでそばにいるニェネントの腰のあたりをペン、ペンとやってあげると、これはやっぱり発情期である。なんと、前に発情期が終わってからまだ一週間しか経っていないというのに。やはり春が来たのだなあと実感する。
 そうやって、今日はニェネントがいつにもましてわたしにまとわりついて来る。テレビの前で寝ころがって映画を観ていても、ニェネントもわたしのそばでゴロゴロする。そんなニェネントを抱き上げてわたしの胸の上にのせてやっても、もう逃げて行こうとしなくなった。ニェネントはどちらかといえばスキンシップの嫌いなネコで、ぜったいに人のひざに乗って来たりすることはない。前はこうやって寝ている胸の上にのせてもいやがってすぐに逃げて行っていたものだけれども、今はわたしが両手を離してもわたしの胸の上でじっとしている。ちょっと馴れて来たというか、ニェネントの中で何かが変化して来たのだろうか。
 パソコンに向かっていても、わたしがあぐらをかいた膝のあいだにニェネントが入り込んで来て、わたしの顔を見上げている。もちろん発情期だから、「何とかしてよ」ということである。それでニェネントを抱き上げて膝にのせ、仰向けにしてなでてやる。これはニェネントのお気に召さないようで、後ろ足でわたしの腕を猫キック、「けりけり」して来る。わたしはこの猫キックがかわいくってしょうがないので、無理矢理にもニェネントが猫キックするような体勢に持ち込んでしまう。こういうところでニェネントに嫌われてしまい、せっかくのニェネントの「馴れ」気分をだいなしにしてしまっているのかもしれない。

 今日は心療内科で診察。採血検査。いったい何で心療内科で血液検査が必要なんだろう、内科医でも定期的に血液検査をしているし、その結果を共有できないのだろうかと思ったら、処方された投薬の影響をみるということらしい。病院の診断結果を他の病院に知らせるには診断票を書いてもらう必要もあるだろうし、それは血液検査をやるよりも費用がかかってしまうのかもしれない。この日採血してくれた看護士さんはそのあたり上手なのか、まるで痛みを感じなかった。

 昼食はインスタントのちゃんぽんにして、肉やちくわや白菜、そしてもやしを入れる。ちくわの端切れを「ほら、ニェネント!」と、ニェネントの皿にのせてやると、ニェネントが寄って来てあっという間に食べてしまった。ちくわは好物なんだな。先日魚肉ソーセージをあげたときにはまるで食べなかったけれども、このあたりの好みはわかりにくい。
 夕食はまだまだ残っているビーフシチューで、まだ明日と明後日の分ぐらいはあると思う。



 

[]「エデンより彼方に」(2002) トッド・ヘインズ:脚本・監督 「エデンより彼方に」(2002)   トッド・ヘインズ:脚本・監督を含むブックマーク

 先日観た「キャロル」を監督したトッド・ヘインズの、2002年の作品。彼のオリジナル脚本のようである。「キャロル」と同じく50年代のアメリカを舞台としたドラマだけれども、この作品はダグラス・サーク作品へのオマージュとして、エルマー・バーンスタインによる音楽も含めて、50年代の映画へのパスティーシュになっている。そのあたりは「キャロル」でも感じられたことだけれども、この「エデンより彼方に」では、テクニカラーっぽい色彩やカメラ構図に50年代っぽさが演出されていただろうか。特に夜の青い色、そしてアメリカ映画ではめずらしく感じられる秋の紅葉の色彩が印象に残る。それに、この作品でもやはり「キャロル」のときと同じく、エドワード・ホッパー的な画面が随所につくられていたと思う。撮影は「キャロル」と同じく、エドワード・ラックマン(この人は先日観たソフィア・コッポラのデビュー作「ヴァージン・スーサイズ」の撮影監督でもあった)。
 また、ヒロイン(ジュリアン・ムーア)の夫役のデニス・クエイドの容貌が、むかしわたしなどもテレビで観たホームドラマ「パパ大好き」主演のフレッド・マクマレイを思い出させるところがあり、よけいに50年代色(調べると「パパ大好き」が始まったのは1960年になってのことらしいけれども)を感じさせられる。

 しかし、ストーリー展開はそういう50年代のメロドラマからはなれて、もっと現代的な問題をはらんでいるのではないかと思う。ひとつにはこの夫が実は同性愛者であったという展開で、これはもちろん「キャロル」でも引き継がれていることがらともいえるけれども、けっきょくその夫が愛する相手と共に暮らすようになるような展開は、50年代のハリウッドではタブーではあっただろう。
 そうしてもうひとつ、こちらの方がこの映画の主題といえるのだけれども、ヒロインと庭師の黒人との友情、もしくはロマンスという問題が描かれる。こちらは彼女らの関係が衆目を集めるところとなり、彼女は周囲からダイレクトに批難もされ、けっきょく庭師の男は他の土地へ移転していくのである。このあたりの展開はいかにも50年代アメリカ、という感じではあるけれども、ここまでに時代の空気を批判するような作品は当時はつくり得なかったのではないだろうか。そういう意味で、映画として50年代アメリカの空気感を再現しながらも、当時残っていた社会の中の差別意識を現代の視点から批判する作品ではあるだろう。いやしかし、思い直してみれば、一方でこの同性愛の夫の方は医師にかかる展開はあるとはいえ、そのような社会的差別/制裁を受けないまま、ある意味で幸福な結末を迎えてしまうというのは面白い展開で、ちょっと「キャロル」を先取りしていたように思えてしまう。

 この庭師、知性も教養もたっぷりで、人格的にもすばらしい人間で、しかもイイ男だし、ジュリアン・ムーアでなくっても惹かれてしまうようなところがあり、「それはいくらなんでも出来過ぎではないのか」とも思ってしまうんだけれども、これは一種典型的な状況を描いた映画、とみれば、納得も行くわけである。夫の側の「ハッピーエンド」もまた、典型的な状況ということなのだろう。
 ラストの駅での別れのシーンがいかにも「メロドラマ」という感じで、観ていてちょっとノスタルジックな感覚を覚えてしまった。



 

[]「ビッグ・リボウスキ」(1998) ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン:脚本 イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督 「ビッグ・リボウスキ」(1998)   ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン:脚本 イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン:監督を含むブックマーク

 おっと、この作品にもジュリアン・ムーアが出ていたけれども、こっちはまったく違ってコーエン兄弟お得意の「誘拐」を題材にしたコメディー作品で、ジュリアン・ムーアは奇妙なコスチュームでダンスも披露する。その誘拐の背後にいろんな人物がごちゃごちゃと絡んでいたり、事件を解決しようとする連中(ジェフ・ブリッジス、ジョン・グッドマン、それとおまけにスティーヴ・ブシェミ)がまたズッコケで、事件はよけいにややっこしいものになってしまう。

 コーエン兄弟としては「遊べるだけ遊んでみました」というような作品だと思うけれども、ひとりで観ている分にはあんまり面白いものでもなかったし、「つまらないことやってるな」という印象を受けるところもある。しかしこの映画、おそらくはひとりではなくて複数人でガヤガヤしながら観れば、めっちゃくちゃ笑える作品に変貌するのではないかと思う。何というのか、ストーリー展開とはまるで関係なくして、画面の隅でいろんな人物が思いっきりバカなことをやっているような映画というか。そういうのを指さして、笑いながら観る映画だろう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160315

■ 2016-03-14(Mon)

 今日もしごとは休み。目覚めたら朝の七時半だった。外は雨が降っていて、部屋の中も冷え冷えとしている。一日ずっと寒い日だった。外ではもう桜の木のつぼみが育ち始めていたけれども、この寒さでつぼみも縮み上がってるんじゃないかと思う。朝食を終えて買い物に出ようとしたら、ニェネントもドアのところに来て外に出たがっている様子だった。「外は雨で寒いんだよ」といってドアを開けると、外の様子をみて奥に引っ込んで行ってしまった。やはりネコは寒いのとか雨だとか苦手なんだろう。今日は部屋の中の方が暖かい。

 今週末には東京でダンス公演をみる予約をしてあるけれども、それまでは何も予定はない。しばらく出かけることをしていないし、映画を観に行くとか展覧会を観に行くとかしてみたいとも考えているのだけれども、どうもこの寒さでは出かける気もくじけてしまう。冬のあいだはもっと寒くてもひんぱんに出かけていたものだったのに。
 映画にしても展覧会にしても、今どんなものをやっているのかもよくわからなくなっていて、出かけないとよけいにそういうことに拍車がかかるというか、終わってから「観ておけばよかった」と思うようなものが多い。いちおうネットで検索してみたりはするのだけれども、今はあまり観たい展覧会も映画もみつからない感じでである。展覧会なら「カラヴァッジョ展」はいずれ観ておきたいし、映画なら想田和弘監督の「牡蠣工場」は観たい。「牡蠣工場」は今週中にも観に行きたいとは思うのだけれども。

 ようやく「草枕」も読み終わったので、ボルヘスの「伝奇集」を読み始めた。これは筑摩の世界文学大系のでっかい本なので、バッグに入れて外に持ち出し、電車の中で読み進めるというものでもないだろう。短編集なので、寝る前にベッドの中で一編か二編読み、それでそのまま寝てしまうような読み方になるだろう。
 ベッドの中でそうやって本を読んでいると、ニェネントがベッドに跳び上がって来る。本を読んでいるときにやってくるときもあるし、わたしが本を置いて電気を消し、寝る体勢になってからやってくるときもある。しばらくはわたしのからだの上でうずくまっていてちょっと重たいのだけれども、そのうちにわたしの足の方へ移動して、そこでわたしと並んで寝てしまう。寝る時はいっしょ。やはりニェネントはわたしのことを「家族」と思っているわけだなと、ちょっとうれしくなるときである。



 

[]「スナッチ」(2000) ガイ・リッチー:脚本・監督 「スナッチ」(2000)   ガイ・リッチー:脚本・監督を含むブックマーク

 たたみかけるように展開する、86カラットのダイヤモンド強奪からそのダイヤがあちこちと転々するさまを追いかける作品。十人以上の人物、そして犬が入り乱れ、賭けボクシングの展開をまじえて、物語は錯綜して行く。いってみればクライム・ミステリーなのだろうけれども、まったくシリアスなものではなく、「そんなバカな」という入り組んだホラ話をみせられる思いになる。かなり楽しい作品。ただ、冒頭にズラッと主な登場人物が紹介されるのだけれども、これを頭に入れて先を観るというのはちょっとムリな話で、観ていて「この人物は誰だっけ?」とかいうことになる。まあ観ていればだいたいがいずれわかることになるのだけれども、わたしは観終わったあとにさいしょから早送りで見直して、それでようやく「ああ、この人物はそういうヤツだったのか」と了解した部分もある。

 こういうのは監督が自分で書いた脚本だということが強みというか、監督が「どう演出するか」をイメージしながら脚本を書いているだろうから、そのあたりが活きているわけだろう。短い登場シーンの人物の個性もしっかり描かれているあたりも、作品を生き生きさせていると思った。
 しかし、思い出してみると「女性」というのがほとんど登場しない映画だった。誰か変な女性をひとりでもストーリーに絡ませたら、もっと面白かったような気もするけれどもな。



 

[]「草枕」夏目漱石:著 「草枕」夏目漱石:著を含むブックマーク

 けっこう視覚的イメージの強い作品で、読み始めたときは「これだったら映画化しても面白いんじゃないか」と思いながら読んでいたんだけれども、調べてもこの作品を映画化したものは存在しないようだった。ま、読み進めていけば、主人公の思弁の比重の大きな小説だし、この「絵」だけをつなげていって観客に了解させるのはむずかしいことなのかもしれない。主人公の思弁をすっ飛ばせば「これは<草枕>じゃない!」っていわれるだろうし、モロに監督の手腕がもんだいにされてしまうだろう。

 主人公の絵描き(画工)は、世間から脱出して「非人情」を求めて旅をしている。彼は「しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう」と思っている。その中に巻き込まれるのではなく、どこまでも「観察者」として、人やものごとを観察したいということだろう。つまりそこに「ドラマ」は起らないはずである。映画にはならない所為ではあろうか。しかし、主人公は立ち寄った温泉場の旅館で「那美」という女性と出会い、深く心を動かされることになる。彼が思い浮かべていたジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」のイメージと彼女のイメージが重なる。主人公は彼女を絵に描こうかとも思うのだけれども。

 この「那美」という女性の造形は、かなりぶっ飛んでいる。いちど嫁いだのちに実家の旅館に戻って来ているらしいのだが、その地に伝わる過去の伝説の女性「長良の乙女」(彼女は川に身を投げるのだが)に、那美のことをダブらせて語るものもいる。よけいに「オフィーリア」である。いつも「ほほほほ」と笑いながら主人公の前にあらわれ、遠慮会釈のない対応をする。相応に教養もあり、主人公を煙に巻くようなところがある。けっきょく、主人公は那美に魅せられているようである。

 小説としてはその主人公がラストに、那美が満州へ起つかつての夫を見送るその表情をみて、そこに「憐れ」が一面に浮くのを感じ、彼女の絵を描くのに足りないと思っていたものをそこに見る思いをするのである。しかし、先に書いたように、この作品のほとんどのページは主人公の思弁で占められているわけで、それはつまるところ、ひとつの芸術論であろうか。
 わたしがみたところ、ここでの芸術論は「芸術至上主義」ではないかと思う。たんじゅんにいえば、市井の俗事よりも芸術を優位にみるような考えだろうか。その芸術論と那美という存在とを、その温泉宿をつつむ風景の中でいかに調和させるか、そういう課題を持つ作品ではないのか。

 先日ちょっとグレン・グールドのことを調べていて、Wikipedia で彼の項を読んだところ、グールドはこの「草枕」を、死の床まで愛読しつづけていたらしい。おそらくはこの「草枕」の芸術観、自然観の中に感じ入るところがあったのだろう。

 しかしこの作品、やはり映画化されたものを観てみたいという気をおさえることができない。もちろんそこは大胆な解釈で構わないから、書かれて百年を越すこの作品に、新しい命を吹き込むような試みをみてみたいものである。そして、そういう映画監督が日本に登場することも待望する次第である。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160314

■ 2016-03-13(Sun)

 夜みた夢は、「終電に間に合わなくなりそう」という夢だった。ちゃんとしたメモを取らなかったのでしっかりとは憶えていないけれども、わたしは上野駅から北千住に出るつもりらしく、日暮里から電車を乗り換えて上野に向かうのだけれども、乗り換えなくってもそのまま乗っていれば上野に着いたのにと、乗り換えてから気付く。上野駅に着いてからも行くべきホームの場所が分からず、ビルの中を上がったり下がったりする。なぜかわたしを取り巻く知り合い連中が何人かついて来ていて、わたしをからかう。「どうせ終電を乗り過ごして、飲み明かすことになるんだろう」といっているようで、じっさいにわたしは終電車の乗れず、そんな彼らの期待通りの展開になってしまったようだ。

 三月も中旬になったけれども、また寒さがぶり返して来たようだ。昼前に南のスーパーに買い物に出て、このスーパーは日曜日も十一時までは全品一割引きになる。何かないかとみてまわっていたら、「焼き鯖すし」というのが賞味期限がせまっていて半額になっているのをみつけた。元値は800円とかする代物である。こういう押し寿司系統のものは大好きだし、半額になった上にさらにそこから一割値引きされるんだから、とにかくはお買い得である。今日の昼食はコレにすることにして、買って帰って食べた。なかなかにおいしかった。
 同じく、近くのドラッグストアでは中国産の落花生が半額になっていたので、これも買って食べている。落花生といえば千葉の八街産のものが有名だけれども、これはめっちゃ高いので食べたことはない。中国産のだっておいしいものである。つい、酒も飲んでしまうというものである。しかし、落花生は剥くときに殻が飛び散ってしまうのが困る。

 先日図書館でまたシェーンベルクのCDを借りて聴いている。シノーポリの指揮した「ペレアスとメリザンド」と「浄夜」のカップリングと、ブーレーズの指揮した「ナポレオンへの頌歌」「セレナーデ」の盤と。まだ「ナポレオンへの頌歌」の方はちゃんと聴いていないけれども、「ペレアスとメリザンド」はいい。シノーポリという人の指揮はダイナミックで、しかも繊細さも感じられ、わたしはこの人の指揮が好きである。シェーンベルクを離れて、彼がほかの曲をやっているのも聴いてみたいと思っている。

 夕食は昨日つくったビーフシチュー。まだまだいっぱいあるので、当分はこのビーフシチューがつづくことになるだろう。今日も映画を二本観た。



 

[]「フォックスキャッチャー」(2014) ベネット・ミラー:監督 「フォックスキャッチャー」(2014)   ベネット・ミラー:監督を含むブックマーク

 ちょうど一年前に映画館で観た映画。これは断片的には記憶しているけれども、「どんなんだっけ?」といえば、しかと記憶しているわけでもない映画。兄弟のレスラー(マークとデイヴのシュルツ兄弟)と、その二人を自らのレスリングチームに引き込む富豪(ジョン・デュポン)との一種異様な、どこか不穏な空気のただよう関係を描いたもの。

 視点を弟からとしたのは、その弟の書いた本を原作としているからということもあるだろうけれども、そのことで作品の奥行きが出ている感じがする。この映画の主題は「精神の均衡を失う」ということだと考えてもいいのだろうけれども、それが問題のデュポン氏だけでなく、主人公といっていいだろう弟のマークもそのあたりが危ういわけで、それがデュポン氏が原因とはいえないあたりがこの映画の面白さで、単に「デュポン氏狂っていてこわいね〜」というところではすまされないのがいい。ある面で人の精神の脆さ、人が人に依存する関係性から生まれる危うさみたいなものが感じられるわけで、そういうところではこの映画、人の内面をのぞき込んだホラー映画、ということも出来ると思う。じっくり、じっくりと重厚につくりあげていく作劇も見事なものだと思った。ラストの持って行き方がいい。

 監督のベネット・ミラーはわたしも観ているはずの「カポーティ」の監督でもあった人で、今のわたしは「カポーティ」のことは何ひとつ記憶していないとはいえ、「いい映画だ」と思っていたようである。そのあとの「マネーボール」という作品の評価も高いようで、そっちも観てみたいし、これからも注目していたい監督さんではあると思う。

 しかし、近年のハリウッド映画というのは、一方の娯楽路線では過去に成功した作品のリメイクに終始し、シリアス路線ではこの映画のように(次に観る「ブリングリング」もそうだけれども)「実際にあった事件」に題材をとるケースが多い気がする(イーストウッドなんか特に「実際にあった事件」にこだわっているような)。オリジナルな脚本というものを書けなくなってしまっているのかな。



 

[]「ブリングリング」(2013) ソフィア・コッポラ:脚本・監督 「ブリングリング」(2013)   ソフィア・コッポラ:脚本・監督を含むブックマーク

 ソフィア・コッポラ監督の、昨日観た「SOMEWHERE」につづく五作目。一作ごとにつまんなかったり良かったりするソフィア・コッポラ。順番からすると「つまらない」ことになるわけだけれども、さあどうだろう。

 今回は、ハリウッドのセレブたちの邸宅に忍び込んで、つまりは「空巣」を繰り返したハイスクール生徒たちのお話。背後にハリウッドセレブたちの「虚飾」があるとみれば、前作の「SOMEWHERE」にも連なるところがないとはいえない。そんな高価なファッションブランドに夢中になり、パーティーで浮かれ騒ぐ主人公たちの姿は、どこか「マリー・アントワネット」を思い出さないわけでもない。

 撮影は前作「SOMEWHERE」に引きつづいてハリス・サヴィデスがやっているけれども、この作品が彼の遺作になってしまったらしく、冒頭のクレジットでもこの作品は彼に捧げられていることが書かれていた。テンポのいい、原色ギラギラの展開は「マリー・アントワネット」なんかよりははじけていていいのだけれども、「じゃあこの映画なんなのよ」っていったら、「なんでもない」んじゃないかと。もちろん、映画の中で登場人物が語るように、アメリカ人は「ボニーとクライド」みたいなアウトローに惹かれるというのはあるだろうけれども、この映画の登場人物らは、ある面でみんな「からっぽ」である。反抗する理由などないし、犯罪露見後もいい逃れをし、自己宣伝を忘れない登場人物らには共感できる要素もない。その「からっぽ」さが、前作「SOMEWHERE」の主人公が感じた「からっぽ」さと、重なるわけでもない。ある意味、この映画に出て来る連中は「アホ」である。そういうアホでからっぽの連中をスタイリッシュな映像で描いた作品がこれ。そういうところが「おもしろい」といえば「おもしろい」ところではあるだろう。「空虚」にも、存在理由があるのだろうか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160313

■ 2016-03-12(Sat)

 このところ、一日か二日しごとに出ると次の日は休み、というスケジュールがつづいていて、ひじょうに楽である。いつもこういう感じならばサイコーなんだけれどもと思う。「じゃあ毎日休みがベストではないか」となるけれども、毎日毎日部屋でこもっているよりも、適度に外に出る方が精神衛生上よろしい。しごとの内容なんて楽なものだし、働く(というほどのものではないが)というのがいいアクセントになっている感じ。今日もしごとは休みで、明日出ればまた明後日は休み。その次の日に出ればまた、その次は休みというスケジュールになっている。こういうのがいいな。

 今日は一日まるで部屋から外に出なかったのだけれども、いちどタバコを買いに外に出た。それを待ちかねたように、わたしが外に出かける気配をみせると、ニェネントがドアのところに突進してくる。で、ドアを開けると外に飛び出す。それでこの頃はドアの外の通路のところだけでなく、アパートの前の駐車場のあたりまで飛び出して行くのだけれども、そこまで行くと急ブレーキをかけて駈け戻り、ドアの中に逃げ込んでしまう。「おいおい、どうしたんだよ」って感じである。
 思い出すのは昔、ニェネントもウチのベランダから外の駐車場に出たことがあり、そこでよその野良ネコと遭遇したのだった。それで、相手の野良は自分のなわばりを主張する。そんなことがわからないニェネントとは衝突するわけで、いっしゅん壮絶な闘いになってしまったことがある。わたしはその一部始終をみていたのだけれども、相手はなわばり争いにかけては百戦錬磨の野良、ニェネントは外に同類のネコがいることも知らないでいた温室ネコである。勝敗はもう当然のように決まっていた。逃げ戻ったニェネントは腰のあたりと頬に、相手のツメに負わされた傷がしっかり残っていた。あれはニェネントのトラウマ体験だったかもしれないな。「外の世界は怖い」と。それで、駐車場まで出て行くとその時のトラウマ体験を思い出すのではないだろうか。そして部屋に舞い戻ってしまうとか。

 タバコは禁煙しようと努力したのだけれども、やっぱり吸いつづけている。意志が弱い。でも、タバコの銘柄を変えて、吸う本数は半分ぐらいに減った。それが自慢出来ることではないとは思うけれども、経済的負担はちょっと軽減出来ていることになる。それでもこのところは昨日書いたように酒をのむ習慣を復活させてしまったので、やはり「よけいなことに金をつかっている」わけである。今は新しいカーテンを買いたいし、余裕があれば炊飯器も買いたいのだけれども、なかなかそういうものを買えないままになっている。これでノートパソコンがいよいよダメになってしまったりしたら、かなりたいへんなことになってしまうだろう。

 そういうわけで食費ぐらいは節約しようと、今日は冷凍庫の中の古い牛肉を昼から外に出して自然解凍させ、久々にビーフシチューをつくった。野菜類もシチュールーも買い置きしてあったから、新しく買い足したものはない。苦しくなったらストックを消費する。まあストックを減らせばいずれ買い足すことになるけれども。
 完成したビーフシチューはしょせん市販のシチュールーの味だけれども、これをルーを使わずに赤ワインとか何とか使ってつくるとなると、すっごい経済的負担になってしまうし、これだけの味のものをつくれるかどうかもわからない。おいしくいただくことにする。大量につくったから、四、五日はビーフシチューがつづくだろうか。



 

[]「マリー・アントワネット」(2006) ソフィア・コッポラ:脚本・監督 「マリー・アントワネット」(2006)   ソフィア・コッポラ:脚本・監督を含むブックマーク

 ソフィア・コッポラ特集の三作目。18世紀のフランスの王妃の生涯を(というか、ヴェルサイユ宮殿での彼女の暮らしを)、コッポラらしい現代的な感覚で描いた作品で、マリー・アントワネットはキルスティン・ダンストが演じていて、彼女の中に現代の若い女性にも通じるものをみせている。冒頭のタイトル部からいきなりGang Of Four の「Natural's Not In It」がバックでかかり、文字は黒地に赤文字でパンクっぽいというか、わたしはGang Of Four の大ファンでもあるし、実はこのタイトル部のカッコよさがいちばん好きかもしれない。音楽的にいえば、パーティーの場面でのBOW WOW WOW の「I Want Candy」、それにSiouxsie And The Banshees の「Hong Kong Garden」がかかったあたりがわたしにはうれしい限りで、こういう18世紀の宮廷でのパーティーを現在のユース・カルチャーのパーティーと重ねてみせたところにこそ、コッポラ監督がこの作品でみせたかったところなのだろう。

 わたしはマリー・アントワネットの生涯に明るくはないので、Wikipedia で彼女の項を検索して読んだ限りでは、この映画、そういう彼女の伝記的事実にかなり忠実につくられているという感想を持った。ほぼ全篇じっさいにヴェルサイユ宮殿で撮影したということで(撮影は「ロスト・イン・トランスレーション」につづいてランス・アコード)、そういう「現地・現物」の力というのはあるだろうけれども、どうも観ているとそのヴェルサイユ宮殿の空間を活かし切れてはいないだろうという感想にはなってしまう。どこまでロケハンを行なえたのか、見切り発車はなかったのか。もしも彼女の現代の女性に共通するものを求めるならば、無理して現物のヴェルサイユ宮殿にこだわらなくてもよかったのではないかと思ってしまう。それに、通史的に彼女がフランス革命でヴェルサイユから去るまでを描いたというのも、どこか焦点が定まらない平板な印象になるわけで、「ここまで」といういい切り取り方は出来なかったものだろうか。

 あと、終盤にアントワネットと子どもたちが描かれた肖像画が二枚(一枚では夭折した長男が消されている)、ちょっとだけ写されるのだけれども、あの絵はひどいね。もうちょっとましな仕事をする画家を見つけられなかったものか。



 

[]「SOMEWHERE」(2010) ソフィア・コッポラ:脚本・監督 「SOMEWHERE」(2010)   ソフィア・コッポラ:脚本・監督を含むブックマーク

 ホテル住まいの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)の虚飾の生活と、その娘クレオ(エル・ファニング)とのふれあいで彼が取り戻すものを描いた作品。撮影監督はハリス・サヴィデスという人で、この人はガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」や、デヴィッド・フィンチャー監督の「ゾディアック」なども撮られている方である。

 明確なストーリというものはなく、フィックスされたカメラによる、ワンシーンワンカットに近い長廻しが多用されている。そういう日常の切り取り方の中から、主人公ジョニーの空虚な内面が照射されてくる。この演出がとってもいい。娘は別れた妻のもとにいるのだけれども、彼女の都合でしばらくは娘を預かり、いっしょにイタリアへ行ったりする。サマーキャンプに行くためにジョニーと別れるクレオは、別れ際に将来への不安から涙をみせる。クロエと別れたジョニーは別れた妻に「オレは空っぽだ」と語って泣く。さいごにジョニーはホテルを引き払い、車でどこまでも郊外へ行き、車を捨てて何もない道をひとり歩きはじめる。

 思ったんだけれども、この映画も、「ロスト・イン・トランスレーション」のように、フェリーニの「甘い生活」をひねって裏返しにしてみせたところがあるのではないだろうか。説明的な描写がないところも似ているといえば似ているし、なんといっても、この主人公のジョニーという造形、「甘い生活」のマルチェロにとっても似ている。ジョニーは映画俳優でマルチェロは芸能ゴシップ記者という違いはあるけれども、やっていることは同じである。そして、「甘い生活」では、マルチェロはカフェの少女に自分が忘れていたものを(いっしゅん)思い出させられるのだが(ラストにはそのことも忘れてしまっている)、この「SOMEWHERE」では、「甘い生活」のカフェの少女の役は娘のクロエがやっているのではないだろうか。
 やはり「ロスト・イン・トランスレーション」のように、「甘い生活」と同じく「言葉が通じない」というテーマも出て来るし、イタリアには行くわけだし、ヘリコプターも登場する。「甘い生活」を想起するな、というのが無理ではないだろうか。
 「甘い生活」のマルチェロは、けっきょく自分の空虚さの中に沈み込み、「こうあるはずであった」自分を探すことを忘れてしまうのだけれども、この「SOMEWHERE」のジョニーはしっかりと自分の空虚をみつめ、本来の自分を探すために行動するわけだろう。

 「ヴァージン・スーサイズ」でがっかりさせられ、次の「ロスト・イン・トランスレーション」に感心させられ、そして「マリー・アントワネット」ではまたちょっとがっかりし、この「SOMEWHERE」でまた感心させられてしまった。どうもソフィア・コッポラという監督、一作おきにつまんなかったり面白かったりさせられるようだ。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160312

■ 2016-03-11(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 昨日、今使っているノートパソコンがいささか古くなって来たと書いたのだけれども、今日になってキーボードのキーのひとつが反応しなくなった。「0」のキー。アルファベットのキーほどにはひんぱんに使わないからまだいいのだけれども、やはり不便は不便である。そこで、前にいちどやったようにキーのところを分解して掃除し、また組み立てようとしたのだけれども、分解して掃除して、綿棒とかで押してみてもやはり反応しない。どうも内部で断線してしまっている気配がする。「こりゃダメだ」ととりあえずキーをもとに戻そうとしたけれども、これがどうやってもうまくいかない。仕方がないのでその部分は表のキーを取り外した状態で使うことにした。「0」を入力するには、カナで「ゼロ」と入力して変換させれば対処出来るから、これはこれで何とかなる。
 しかし、使っていると、同時にショートカットの<コピー>も<ペースト>も機能しなくなっているのがわかった。これは以前からときどき調子が悪かったのだけれども、つまりは「コントロール」キー(マックではアップルマークのキー)が効かなくなってしまった。ひょっとしたらこれは、ダメになった「0」のキーの配線とどこかで隣接していて、その部分がまとめて断線したような状態ということなのだろうか。ま、このあたりも画面上部のメニューの「編集」から実行することが出来るから、ちょっと不便をがまんすれば対処は出来る。ひんぱんに使うアルファベットのキーがダメにならなくってよかったとはいえるのだけれども、いよいよボロボロになってきたな。

 今、夏目漱石の「草枕」を読んでいる。読みはじめたときには「こんなの、二時間か三時間もあれば読み終えられるのではないか」と思っていたのだけれども、読みはじめると漢語表現とか多いし、たんじゅんなストーリー展開の小説というものではなく、ちょっとした芸術論のような展開もみせるので、そんなにスイスイと読みすすめられるものでもない。寝る前に読んでいてもすぐに眠くなってしまい、「今日はここまで」と本を閉じ、電気を消して寝てしまうのである。読み終えるのにもうちょっとかかりそうだ。読みたい本はいっぱい目白押しなので、こんな薄い本に時間を取られてしまうのはくやしい。
 次に読みたいのはボルヘスの本。先日読んだ「異端審問」が面白かったのでもっと読んでみたくなったわけだし、ボルヘスの作品はどれも短いので読みやすい気がする。わたしも彼の「伝奇集」と「エル・アレフ」、「ブローディーの報告書」は持っているし、図書館には彼の本がずいぶんと置いてあることもわかった。一時は「ふん、ボルヘスなんて」とか思ってたのだけれども、頭が空っぽになってしまうと、彼の著作のようなものがいい刺激になるみたいである。

 そういうわけで夜の睡眠もこのごろはたっぷり取っているのだけれども、それにプラスして、毎日のように昼寝をしてしまうこのごろ。多少は夜眠る時間は遅くなっているけれども、それでも毎日九時間ぐらいは寝ていると思う。今日もやはりたっぷり昼寝をしてしまい、まるで何もしないで一日が終わってしまった。このごろはまた酒をのむ習慣が復活してしまっていて、そのことが「昼寝の習慣」とかんけいしているのかもしれない。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160311

■ 2016-03-10(Thu)

 ノートパソコンを使っていて、さほどにプリンターが必要だと思ったこともないのだけれども、先日peatix でチケットを購入したとき、スマホがなければチケット代わりのQRコードをプリントアウトしたものが必要になり、「いちおうプリンターというものは持っていた方がいいのだろうか」とか思ったりもした。持っていれば持っているで用途はあるだろう。それで、今いったいプリンターというものはどのくらいの値段がするのだろうと、Amazon で調べてみた。調べる前のわたしの予想では、安いもので八千円から一万円ぐらいではないかと想像したのだけれども、じっさいに調べてみると、最安値のものは三千円ちょっと、なのであった。三千円か。それならほんとうに気軽に買える。ユーザーレビューを読んでも「満足している」というレビューがほとんど。OA機器というか、パソコン周辺機器というものはほんとうに安くなっているのだなあ。

 それで、今すぐにプリンターを買うつもりでもないのだけれども、考えてみたら、仮にそういうプリンターを買ったとしたら、まずはパソコン側にそのプリンターを認識させるために、CDかなにかでデータをインストールしないといけないのではないだろうか。そうすると、今のわたしのノートパソコンの内蔵DVDドライブはCDやDVDを読み込んでくれなくなっているので(つまり壊れているわけだ)、プリンターを接続することはできないんじゃないだろうか。そうすると今度は外付けのDVDドライブというのはいくらぐらいするんだろうかということになり、これを調べてみると三千円でお釣りがくる。安いなあ。

 しかし、そもそもは、使っているこのノートパソコン本体がいささか古くなりすぎているということもあるわけで、そのDVDドライブの不具合、イヤホンジャックの不具合というのはあるし、最近はキーボードにもときどき反応しないキーがあったりする(このごろ、ショートカットの<コピー>や<ペースト>がうまくいかないことが多い)。OSもまだ10.6を使ってるわけだし、そういうのではまずパソコン本体を買い替えたいというのはある。周辺機器がこれだけ安くなってるんだから、本体も二万円ぐらいで買えるといいのに、などと思ったりする(Windows ならそのくらいで買えるのか?)。

 発情期の終わったニェネントは、発情期の疲れからなのか、寝てばかりいる。発情期のときのようにしょっちゅう寄ってこられるのも疲れるけど、勝手に寝てばかりいられるとちょっと寂しい。しかし、夕食のときになると起きてきて、しっかりと食べる。そのあとも、わたしが夕食をとっているのをすぐそばで見守っていて(?)、「隙あらば」ちょっかいを出してこようとする。わたしの皿に、そばからだんだんにニェネントの前足が伸びてくる。しかし今日は簡素にイカ焼きの惣菜なので、これはニェネントが食べるとたいへんなことになる。「あなた、アワビとイカはぜったいにダメですよ! 耳が落ちたり腰抜かしたりするんですよ!」と説教する。しかし、「加熱したイカならだいじょうぶ」と書いてあるサイトもあったけれども、どうなんだろうか。まあ無理してなんでもかんでも食べさせなくてもいいだろう。「人間のものは人間のもの、ネコのものはネコのもの」という一線は守らなくてはいけない。ついつい、刺身とかだと「ほら!あげるよ!」と、自分の食べているものをあげたりするからいけない。

 今、ソフィア・コッポラ監督の作品を連続して放映していて、今日はその二本を観た。


 

[]「ヴァージン・スーサイズ」(1999) ソフィア・コッポラ:脚本・監督 「ヴァージン・スーサイズ」(1999)   ソフィア・コッポラ:脚本・監督を含むブックマーク

 ソフィア・コッポラの監督デビュー作。製作は父のフランシス・フォード・コッポラで、撮影は先日観た「キャロル」の撮影監督でもあったエドワード・ラックマン。このあたりは父コッポラがお膳立てしてあげたのかもしれないけれども、やっぱりソフィア・コッポラ初監督ではそのあたりほとんど活かしきれていないという印象になる。お父さん役のジェームズ・ウッズも、みていても何をやりたいのかまるでわからない。つまり、演出の指示というのはだいじなんだなあと思う。悪いけど、ふだん映画でなにげなく観ているシーンでも、しっかりとした監督の指示で撮られてるわけだと、こういう、そのあたりで失敗している作品をみるとよくわかる気がする。ちょっと「いいな」と思ったのは、閉じ込められた部屋で女の子たちが雑然と寝転んでいる場面、そして、その女の子たちと外の男の子たちが、レコードを使って電話でメッセージを送り合う場面だっただろうか。Todd Rungdren の「Hello, It's Me」が格別に良かった。



 

[]「ロスト・イン・トランスレーション」(2003) ソフィア・コッポラ:脚本・監督 「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)   ソフィア・コッポラ:脚本・監督を含むブックマーク

 何これ。二作目にしてこれだけの大バケというか、「ヴァージン・スーサイズ」のあとで、こんなにもすばらしい作品が出てくるとは思ってもいなかった。ここでの撮影監督はランス・アコードという人で、この人はスパイク・ジョーンズの作品とかを撮っていた人。スパイク・ジョーンズは当時ソフィア・コッポラと結婚していたわけだから、そういう縁でのことなんだろう。テーマに合った「世界の切り取り方」というのか、この撮影の良さが作品の良さを引き出している感じ。それで、ビル・マーレイのいかにも「異郷の地で困り果てています」という表情と、スカーレット・ヨハンソンの「わたしひとり残されて寂しいの」という表情との出会いがいい。
 このふたりが、ホテルの部屋でフェリーニの「甘い生活」のアニタ・エクバークのトレビの泉のシーンをみている場面があるのだけれども、それで考えてみると、「甘い生活」にもLost in Translation というテーマは含まれているわけだし、それをローマという都会での映画スターとその周辺の人々の非日常的な時間ととらえれば、この「ロスト・イン・トランスレーション」は、そんな「甘い生活」をヒントにして、うまい具合に裏返しにしてみせた映画なんじゃないかと思う。ふたりがみていたのが「トレビの泉」のシーンだったというのも、この映画のみごとな説明になっていた感じ。スカーレット・ヨハンソンの、短い無言での京都への一人旅もすっごく効果的で、心にしみるシーンだった。

 あと、わたし的には、カラオケでスカーレット・ヨハンソンがPretenders の「Brass In Pocket」を唄ったシーンが、あまりに可愛くってお気に入り。ピンクのウィグが最高だった。とにかくはすばらしい作品だった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160310

■ 2016-03-09(Wed)

 夜中に目を覚まして「あ、夢をみていた」とその夢のことを思い出すのか、それとも、夢をみたせいで目が覚めるのか、どちらなんだろう。とにかく、そうやって夜中に布団の中で目覚め、みていた夢のことをメモしておこうか、それともめんどうなのでまたこのまま寝てしまおうかと、しばらく考える。「おもしろい夢だったから書き留めておこう」と思えば、無理しても起き出して、みた夢のことをメモしてからまた寝る。この夜もそうやって夢をみて、起きてメモをとった。

 夢の中で、わたしは妻と母といっしょに食事に出ていたようだ。食事を終えたあと、わたしは「コンビニで買い物をしてから帰る」と、二人と別れる。妻がわたしに「紙コップを買って来て」という。コンビニへの道を歩きながら、わたしは「紙コップを買ってどうするつもりなんだろう」と考えている。いつもの紅茶を飲むつもりなのか、それとも、麦茶でも飲むつもりなのかと考えて、ついでに麦茶を買ってもいいと思う。
 歩いている道沿いにコンビニはあるのだけれども、わたしはその先にあるコンビニのあたりの夜の景色が好きなので、そっちまで歩くつもりである。もう時間は十二時に近くなっていて、妻はわたしの帰りが遅いと心配するかもしれない。
 どんどん行くと道は分岐点に差しかかり、その道に交わって小川が流れている。小川に沿って左の道に行けば目指すコンビニがあるはずと、左に折れる。あたりに人家も少なく、いかにも郊外の夜道という感じである。
 道を行くといつの間にか森の中のようなところに入り込み、進む先は赤土の、急な崖の上り坂のようなところになっている。「こんなところではなかったはずなのに」と思いながら崖の途中まで登ってみるけれども、道は消え、どんどんと崖になってしまっていくので、それ以上行くのをあきらめて下に降りる。どうやら先日の雨でこのあたりの地形は変わってしまったのだろうと考える。崖の下からは若い男女が登って来ようとしている。
 さっき来た道へ引き返そうとすると、その道は3メートルぐらいにわたって両側に高さ2メートルはある支柱が立てられ、そこに鉄条網が張り巡らされていた。鉄条網には「行き止まり」と書かれ、ドクロの絵まで描かれている。こんなものはさっき来たときにはなかったはずだけれども、この鉄条網を越えないともと来た道にもどれない。気をつけて支柱によじ登れば、支柱の上を伝って先に行けそうなので、何とか支柱に登ろうとする。
 とっかかりをみつけて支柱の上に登ろうとするけれども、そこにはすでに一人の男がいて、やはり支柱の上に登ろうとしていた。わたしは彼に「ゆするかもしれないけれども、失礼」というと、男は「ゆするって?」と聞く。「こういうこと」と、支柱をゆらしてみせる。
 なんとか、支柱の上をたどって鉄条網を越えることが出来た。もうずいぶんと遅くなってしまったので、妻は家で心配しているだろうと思う。男と二人でその先の道を互いにものもいわずに歩くけれども、そのうちにいつの間にか男は連れの男と二人になっていて、二人で何か話をしている。どうやら野球の話みたいだ。
 小川にかかる小さな橋のところまで来て、男が「じゃあまた会おう」という。「どうやって会えばいい?」と聞くと、「明日の新聞のスポーツ欄の野球記事、神宮球場について書かれていることを読めばわかる」という。いっしゅん、「新聞などとっていない」と思ったけれども、そこで一紙だけ購読していたのを思い出した。それを読めばわかるのだろう。
 男がわたしに手を出してくるので握手して、その男の顔を見ると、それはFさんだった。

 Fさんというのは、わたしがイヴェントをはじめるちょっと前からの知り合いで、短いあいだ彼の住まいに居候させてもらったこともある。もう二十年ぐらい会っていないな。

 ニェネントの発情期は終わり、部屋の中は静かになった。ちょっとホッとしたけれども、この時期は三週間もするとまた次の発情期が来てしまうだろう。この頃はニェネントは外に出してやっても外に長居せず、さっさと部屋に戻ってくるようになった。「もうちょっと外で遊んでもいいんだよ」と思うぐらいである。

    f:id:crosstalk:20160307222304j:image:w360

 明日は図書館に借りている本やDVD、CDを返却する日なので、夕方から借りているDVDの「グラン・トリノ」を観た。



 

[]「グラン・トリノ」(2008) クリント・イーストウッド:監督 「グラン・トリノ」(2008)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 今のところ、この作品がイーストウッド自身がメガホンを取った作品ではさいごの彼の主演作になるらしく、イーストウッドもそのつもりで撮ったらしい。なるほど、彼自身のキャラクターの集大成というか、締めくくりのような作品になってるなと思った。ひとり暮らしの頑固そうな老人が、近年越して来た隣家の住民にだんだんと心を開いて行く。その隣家の住民は東南アジア系の「モン族」の人たちなのである。若い姉とその弟がいて、弟は近所の不良いとこ連中の仲間に誘われている。それでさいしょにイーストウッドの持っているヴィンテージ・カー(といってもいいんだろう)の「グラン・トリノ」を盗めといわれるわけである。彼はかんたんに失敗し、イーストウッドはいってみればそんな彼を「更生」させようとするわけである。

 いかにもイーストウッドらしく、シニカルなセリフがいっぱい飛び出してくるのだけれども、隣家の姉も負けずにシニカルなユーモアで切り返してくるあたりが楽しいし、その隣家のおばあさんとのディスコミュニケーションというか、「言葉が通じない」さまもおかしい。そんな中で、イーストウッドの過去の悔恨、そして過去の誇りなどが観るものに伝わってくることになる。彼自身の「死」も覚悟してのラストの落としまえのつけ方にも、イーストウッド映画らしいカタルシスを感じられるだろうか。

 ほぼ全篇、主人公らの住むローカルな住宅地だけで展開するのだけれども、そんな中でクレーンを多用して撮影してみたり、そういう場所を立体的にみせてくれる演出はさすがだと思った。ラストにはようやく、車(そのグラン・トリノ)でそんなコミュニティの外の世界を走る弟の姿がみられる。「自分の出番はこれで最後、あとは若い世代にバトンタッチして行くのだ」というイーストウッドのメッセージが作劇にも反映された、すばらしい作品だった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160309

■ 2016-03-08(Tue)

 先週ここで、舞踏家の笠井叡氏が舞踊批評家協会賞の授賞を拒否されたということを書いたのだけれども、そのことに関連してFacebook 上で、ある方からその笠井氏の去年の発言が別にあるのを教えてもらった。わたしはこんな文章があることはこれまで知らなかった。古い文章だけれども、以下にリンクを貼っておく。

  笠井叡 独占ロングインタビュー 「今晩は荒れ模様」を前にしてー 今、ダンスをするということ

 非常に長文なので、めんどうで読んでいられないだろうけれども、ただ、ざっと読んでみたところ、この中で「ダンスは戦争を、根源的なところで引き受けなければならない・・・」というところで、笠井氏はやはりとんでもないことをいっておられると思う。しつこいようだけれども、「こういう発言があっていいものか」「なぜこういう発言が問題にされないのか」という気もちも強いので、またちょっと書いておこうと思う。その部分だけのリンクも貼っておく。

  ダンスは戦争を、根源的なところで引き受けなければならない・・・

 この部分を順に読んで行って、いろいろと気になることはあるのだけれども、これはインタビューなので、聞き手の方が仮に「おかしなこといってるな」と思っても、「それはちょっと‥‥」というようなリアクションはされない。とりあえず「はいはい」と同意しているのだと思うけれども、それでまずは、ここのところが気になってしまう。

たとえば、IS(「イスラム国」)の兵士たちが、同じ白い服を着て、
同じ方向に100人並んで歩いている映像が流れたりしますが、
その兵士たちを、マスとして見るのではなく、
一個の兵隊の立ち方、身体の動かし方、
それから死に方を――観察するわけにはいかないので、
もっぱら一つの映像を通して、
人間が死ぬ時の動作はどこからくるのか、イメージするしかない。

その時に、一番私が共通して感じるのは、
全員ISに騙されてきたのではなく、
いわば存在自体が騙されている。
生まれ落ちた時から騙されてしまっていて、
自分が騙されていたことにさえ気が付かない。
簡単に言えば、自分の自我無しで、
自分の自我で出歩くことは断念してしまって、
風が吹いた時にからだが揺れるように動いてしまう。
まさにそういう延長で、
風が吹いたようにピストルの引き金を引いてしまった。
その身体って、なんていったらいいのか、ダンスの対極ですよね。

 ここでいっているのは、ISの兵士というのは皆、ISに騙されてきた以前に、生まれ落ちた時から騙されてしまっているということだけれども、これはずいぶんとイージーな言質ではないだろうか。これではまるでイスラム教徒というものは騙された存在だといっているように思えてしまうわけだし、彼らの兵士としてのあり方をステロタイプとしてみようとしているところもある。いったいなぜ、ISの兵士の側だけを「騙されている」というのか。これはずいぶんと西側キリスト教的イデオロギーにかたまった見方ではないだろうか。そういうのなら、ではイラク戦争とは何だったのか。アメリカはブッシュが「フセインは大量破壊兵器を持っている」という嘘に騙されて軍隊を送り込んだのではなかったのか。
 別に、戦場の兵士一般が「自分の自我がない」というのならそれでもいいが、その例をISの兵士の側からひいて、彼らは「生まれ落ちた時から騙されている」というのは、あまりに狭窄な見方ではないのか。
 それで、「彼らのやっていることをネタに芝居を書いてはいけないです。 あるいは彼らがやっていることを ドキュメンタリーにして売ってもいけないです。」とまでいう。これもまた乱暴な意見というか、それをダンサーはちゃんと引き受けなくてはならないという。そういうことは、例えば「彼らのやっていることをネタに芝居を書く」劇作家だって、「ドキュメンタリーにして」いる映像作家(かな?)だって、ちゃんと彼らなりに引き受けているわけだし、そこでダンサーが至上優位に立てるということにはならないと思う。「戦場の兵士の身体」についてなら、例えばわたしはイーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」を観て多くを学んだと思う。あの映画ではそれこそ、「風が吹けばピストルを発射してしまう、 そういう自動的な身体であったとしても それを起こさせる身体の「根源」まで」描こうとしていたのではないだろうか。一観客からすれば、舞台上で踊るダンサーの身体からよりも、そういった演出された映画(ある面で芝居みたいなもの?)とかドキュメンタリーとかの方で、より深く知ることができると思うが、ちがうだろうか?

 笠井氏は「神智学」の広大な知識もお持ちのはずで、そういうところではわたしなどかないっこないとは思っているのだけれども、このサイトで語られていることにはわたしは多くの疑問を持つ。
 もうひとつ書いておけば、次の第五話「戦争を超えることができるのは、女性の身体・・・」にしてもわからない。彼は次のようにいっている。

兵士を越える力を女性は持っていると思います。
なぜならば第一次世界大戦も第二次世界大戦も、
みんな男性が仕掛けたのであって、女性は仕掛けていないんです。
戦争はやはり男ですよね。なぜ、男が戦争をするのか。
それは女性の本質を知らないからですよ。私の言い方をすれば。

 これはつまり「詭弁」であって、女性が戦争を仕掛けていないのは、つまりは女性は支配者でなかったから、というたんじゅんな理由ゆえであって、そのことで「戦争はやはり男ですよね」といえるものではない。もっと過去をさかのぼって歴史をみれば、女性の支配者が戦争を仕掛けた例はけっこうみつかるし(書いたあとになって、フォークランド紛争のマーガレット・サッチャーのこととか思い出しもしたけれども)、暴政を敷き弾圧を行なうのは女性の方が得意なのではないのかと思ってしまうほどである。このことは近代になって女性の権利が拡張されたことで変わってきたところもあるだろう。しかし、「なぜ、男が戦争をするのか。それは女性の本質を知らないからですよ。」という飛躍には、わたしはついて行けない。

 古い文章をめぐって、今さらながらのことをくどくどと書いてしまったけれども、そういう文章を読んでしまい、そしてその文章の問題点を誰も指摘していないとも思ったので、書いてしまった。前にも書いたことだけれども、まわりが「それ、おかしいですよ」といえないような「大御所」なんて、世の中に必要ないと思っている。逆にそんな大御所を持ち上げる幇間のような評論家が幅を利かせる世界。それが「ダンス界」というものならば、観る必要もないというものだと思う。

 今日は映画を二本観た。



 

[]「黄色いリボン」(1949) ジョン・フォード:監督 「黄色いリボン」(1949)   ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 先日観た「アパッチ砦」につづいての騎兵隊モノ。今回は退役の近づいた騎兵隊長(ジョン・ウェイン)の、さいごの六日間を描いたもの。描かれた時代、時期というのが「アパッチ砦」のモデルになった第七騎兵隊全滅直後の物語で、先住民族(インディアン)との緊張関係が高まっている。「有能な騎兵隊長」とはこういう人物なのだ、というような描き方で、先住民族との戦闘もみごとに(あっさりと)回避してみせたりするし、砦内での隊員たちとの人間味あふれるやりとりも描かれることになる。人間味あふれるユーモアのセンスも盛り込まれ、こういうあたりがジョン・ウェインの味になってもいる感じがする。
 戦闘シーンのまるでない西部劇なんだけれども、冒頭の、あのモニュメント・ヴァレーをバックにして、暴走する幌馬車を追う騎兵隊の兵士の疾走シーンは、やはりジョン・フォードらしくもカッコいい。



 

[]「インヒアレント・ヴァイス」(2014) トマス・ピンチョン:原作 ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督 「インヒアレント・ヴァイス」(2014)   トマス・ピンチョン:原作 ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督を含むブックマーク

 去年映画館で観たし、原作も読んだ作品。今のわたしの衰退した記憶力ではもちろん原作のことなどほとんど憶えていないし、映画のこともだいたい忘れてしまっている。だから、ほぼ「初めて観る」感覚で。しかし今回は監督のポール・トーマス・アンダーソンの旧作、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」と「マグノリア」を観て、その記憶も残っているうちでの鑑賞になる。しかし、この監督は一作ごとに演出スタイルがまるでちがうので、旧作を観たからといって何かがわかってきたりするものでもないみたい。今回こうやって観てみると、ほぼ出ずっぱりの主人公、探偵ドック(ホアキン・フェニックス)を狂言回しにしてあれやこれやの多彩な人物が登場し、70年代ロサンゼルスの空気感を(映像でみせるのではなくて)醸し出しながらも、その背後になにやら、その時代をもコントロールするような得体の知れない「存在」を感じさせる、というような内容だろうか。

 けっこう長廻しが多くって、それがミドルショットからだんだんに、ジリジリと出演者ににじり寄って行くような長廻しが多用されていた印象。そのせいか、コミカルで軽さを感じさせられるような展開でも、どこか重さを感じさせられるような。それで、これはさいしょに映画館で観たときにも感じたことだけれども、全体にフィーチャーされるナレーション、これをソルティレージュという女性を演じるジョアンナ・ニューサムという人がずっとやっているのだけれども、この人の声が舌ったらずのような甘ったるいような、ちょっとセクシーな感じでいいのである。調べたらこのジョアンナ・ニューサムという人、そもそもはミュージシャン(シンガー&ハープ奏者?)なのだそうである。どうりで演技的にはパッとしない印象もあったけれども、この人の「声」に注目したあたり、さすがだと思った。
 あとは、色彩的に淡い緑色の多用というのか、それがドックの室内の赤い椅子の色とかの対比がいい感じだったし、全体にこの淡い緑(タイトルの文字も蛍光の淡い緑色だったか)が印象に残るのだった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160308

■ 2016-03-07(Mon)

 今日は予定をずらした観劇、下北沢に出かけて少年王者舘を観る。マチネ公演で午後二時の開演でちょっと早いのだけれども、この日はしごとも非番で休みなので、朝にあわててばたばたすることもない。ゆっくり準備して、十時半の電車で出かける。これで下北沢に着くのはけっこう一時近くになってしまうだろうから、食事をしてから会場に行けばちょうどいいだろうと思う。今日は残念ながら雨模様の天候だけれども、予報では午後には雨もやむようなことだったので、じゃまになる傘は持って出ない。家から駅までは短い距離だから多少濡れても気にならない。
 電車の中ではやはり寝てしまったのだけれども、いつの間にか電車が遅れてしまっていて、到着が二十分ぐらい遅れた。食事はまた「日高屋」とかでとれば時間もかからないだろうから、十分に間に合うと思う。下北沢の駅を降りるとまだ雨が降っているけれども、雨足は弱くなっていて、傘は差さなくてもだいじょうぶみたいだ。
 「日高屋」へ行き、カタヤキソバを注文したのだけれども、これがまるでおいしくなかった。「こんなにまずかったっけ?」と思うような味で、これなら自宅でつくる皿うどん(ほとんど同じ料理である)の方がずっとおいしい。ちょっとがっかりしてしまった。

 会場のスズナリへ着くと、ちょうど開場を待って整理番号順に並びはじめたところで、チケットを受け取って並ぶ。すぐに開場になり、劇場内に入る。そのときは空席も目立って、やはり平日のマチネだからあまり客も入らないのかと思ったのだけれども、開演時間が近づくにつれて客の数も増え、開演するころにはほぼ満員になってしまった。

 久しぶりの少年王者舘、やはり楽しかった。終演してまだ四時ちょっと前。ロビーで過去の公演のDVDが並んで売られていて、「どうしようか」と迷ったのだけれども、過去の公演というものはどれも記憶から脱落してしまっていることだし、どれか買っておくことにした。どの公演が面白かったかもわからないわけで、ま、少年王者舘の公演はどれも同じようなものと乱暴にいってしまってもいいのだけれども、ここは「夢+夜」のDVDを買った。財布が寒くなる。

 外に出て、近くの古本屋に入っていろいろと棚をみてみるのだけれども、マンディアルグの「大理石」が500円で売られていたのが、ちょっと欲しくなってしまった。箱入りの美本だったし、よほど買おうかと思ったのだけれども、「今からマンディアルグでもないか」とか思ってしまって、買うのはやめてしまった。買っても読まないで放置してしまうなら買わない方がいい。

 帰りの電車の中でボルヘスの「異端審問」を読み終わり、帰宅してかんたんに夕食をすませて、さっさと寝ることにした。ニェネントが静かなので、ひょっとしたら今回の発情期も終わったのかもしれない。



 

[]少年王者舘 第38回本公演「思い出し未来」天野天街:作・演出 @下北沢 ザ・スズナリ 少年王者舘 第38回本公演「思い出し未来」天野天街:作・演出 @下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク

 舞台は昭和を思わせる、古びた工場の中庭のような空間。左右には鉄の階段が二階通路に伸びている。正面にはドア。その二回には障子窓。この空間は舞台転換で一瞬のうちに和室内に変貌するけれども。オープニングは出演者全員(今回は男子4、女子6の計10人)が並んで客席上方を見つめ、セリフを朗誦する王者舘おなじみの演出。みごとな照明の切り替えでカットアップされて行く名人芸をまた楽しめるし、その舞台に同じ舞台の映像を重ねて投射していじっていくという演出も、いつものものだったか。

 物語はほとんど忘れてしまったが(涙)、麦わら帽子にからんで何かを生産しようとしていなくなった父と、その父を待つ子らのストーリーだったかしらん。まるでUFOみたいな麦わら帽子と、そのノスタルジックな設定がやはり王者舘らしいところだろうか。とにかくは過去と未来との時間軸が転倒していく、いつもの王者舘らしい楽しい舞台ではあった。例によって、「しあわせって泣くの?」から始まる、永遠に続くかと思ってしまうリフレインにノックアウトされたりもする。

 今回はあれこれの出演者にも注目し、もう少女だか老婆だかわからなくなってしまったぞ、という夕沈はいつもの夕沈だが、このお父さん役が虎馬鯨という役者さんなのだろうか。少年王者舘の中心メンバーだというのに、今まで気にしたこともなかった。いい役者さんである。池田遼さんのことも今まであまり注目したこともなかったけれども、この方はダンサーでもあられるそうである。雪港さんはやはりかわいいし、今回は水柊という女優さんもなかなかにかわいいではないか、と注目してしまったオヤジなわたしではある。



 

[]「異端審問」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 中村健二:訳 「異端審問」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 中村健二:訳を含むブックマーク

 この本は現在では「続審問」として、岩波文庫から増補改訳版として出ているらしい。40篇近い短いエッセイの集積からなるこの本、それぞれをすぐに読み終わることからもとても読みやすかった。当然、この書物全体を通しての通奏的テーマはあるのだけれども、それはひとつには古今東西の書物を通してあらわれる「綺想」の系譜を読み解くような部分でもあり、ひとつには世界の書物を「ななめ読み」することで見えてくる、この世界の別のあらわれ方を見るような視点、といえばいいのだろうか。さすがに「バベルの図書館」の作者、と思わせられるところもあり、単に「こんな綺想がある」で終わらせない、文学史、哲学史の中で拡がりを持たせるロジックの展開に、「とてもこういう文章は(時に同じ視点を持つと思われる)澁澤龍彦などが書けるものではないな」と思わせられるところがある。それは例えば「カフカとその先駆者たち」などを読めば納得させられるものだと思う。

 さて、本を読んでいると、その読んでいる本の内容と自分の体験が不思議な暗合をみせることがよくある。個人的なことではあるけれども、今回はこの本でそういう暗合が三回も起きてしまったので、記憶のために書いておこうと思う。

 これはいちど書いたことだけれども、読みはじめるときに、まずはO・ウェルズ監督の名作「市民ケーン」を観た。その翌日、この中の「コウルリッジの夢」を読んだ。コールリッジがある夜にみた夢の中で、かつてのモンゴル帝国の帝王フビライ・ハーンに関しての詩を授かり、その詩が「クブラ・カーン」という有名な詩になったという逸話から、ボルヘスはフビライ・ハーン自身も自分のみた夢を再現すべく「ザナドゥ」という華麗で壮大な王宮を建てたという話につなげる。しかし、わたしが観た「市民ケーン」の中で、ケーンが妻のために建てる壮大な邸宅の名が、まさにその「ザナドゥ」なのだった。これがひとつ。

 次は「キーツの小夜鳴鳥」というエッセイを読んだ。もう、ブレイクにとっての「虎」のように、ナイチンゲール(小夜鳴鳥)という鳥のイメージをキーツに結びつけることは避けられない、ということである。これを読み終えたところでちょっと息抜きに、そばにあった漱石の「草枕」をパラパラッとめくってみた。そのときに開いたページには、キーツと同時代人でもあったシェリーの、雲雀の詩が引用されていたのだった。キーツといえば「小夜鳴鳥」であるように、シェリーといえば「雲雀」ではないだろうか。わたしも、二十歳ぐらいの時にいろいろと読んだ記憶は残っているので、キーツの代表作が「Ode To A Nightingale」であり、シェリーの代表作が「To a Skylark」であることは記憶に残っている。この暗合にはちょっと驚いた。

 今日はもう読書も終わりに近づき、さいごの「新時間否認論」を読んだ。時間というものの存在することを否認してみようという論文である。そして今日わたしは、下北沢に少年王者舘の「思い出し未来」という演劇を観に行ったのだった。その内容はまさに、時間の過去と未来とが混在してしまうような、「時間のない」世界を描いたもの、といってもいいような舞台だった(ちょっと観ていて、「これはボルヘスの方にシフトさせて観るしかないな」とは思っていたけれども)。

 一冊の本で世界との暗合を三回も体験させてくれるなんて、さすがにボルヘスだなあと、ちょっと感心してしまう体験だった(ボルヘスには偏見を持っていたけれども、楽しい読書だった)。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160307

■ 2016-03-06(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 また夢をみた。今日の夢では、わたしは高校時代の同級生に久しぶりに再会している。ひょっとしたらそれは同窓会の席なのか、何人かの同級生がわたしの前に並んでいる。まずわたしの前にD君が立っているのだけれども、彼は髪を長く伸ばしていて、耳のあたりでカールしている髪がなんだか目につく。わたしは「ほら、オレだよ!」というのだけれども、D君は認知してくれない。そしてそのとなりにはEさんがいる。Eさんは美人である。わたしが日ごろ「もういちど会いたい」と思っていた人。ここでも「ボクですよ! 卒業してから名まえを変えたのでわからないかもしれないけれども、ボクなんです!」と訴えるけれども、やはりわかってもらえないのである。そんな夢だった。

 このところの夢ではやたらに親が出て来たり、こういう学生時代の知人が出て来たりということばかりなのだけれども、それはつまり、近年の記憶が失せてしまっているせいで、それ以前の、記憶の残ってる時代にまでさかのぼった登場人物になってしまうのだろう。やはり、睡眠時になってみれば覚醒時には消えてしまっていると思える記憶が実は残っているのだ、などということにはならないようだ。つまり、意識的にも無意識的にも、過去の記憶は消失してしまっているということだろう。

 今日は下北沢行きもキャンセルしたし、一日家でのんびり休養に充てることができる。いつものように映画を観ることもせず、ただ何もしないでぼんやりと過ごした。午後からは卓球の女子団体の決勝、日本対中国の試合をみたけれども、やっぱり完敗してしまった。石川選手はちょっと惜しかったけれども、あれで(あと二ポイントで石川選手の勝ち、というところで)勝たせないというのが中国の実力なんだろう。ある意味、強すぎて面白くないともいえる。

 ニェネントはまだ「発情期」継続中で、わたしのそばに寄ってきてはわたしが何かしてくれるのを待っている。それで手近にあるスプレー缶とかで、ニェネントのしっぽの付け根のあたりを上からペン、ペンとやってあげる。ニェネントは足をモゾモゾ動かして、「そう、そう、それがいいのよ〜」って感じでわたしにいつまでもやらせる。「こんなに力を入れて痛くはないんだろうか」と、自分で自分に同じぐらいの力でやってみるんだけれども、これは「ちょっと痛いんじゃないの」というくらいのレベルである。このくらいの刺激がないといけないなんて、ニェネントもさぞやつらいんだろうなあと思ったりするのである。

 夕食のあと、ベッドに入って、図書館から借りているCD、シェーンベルクの「浄夜」と、彼の遺作の弦楽三重奏曲を聴いているうちに、いつの間にか眠ってしまった。昨日今日と、寝てばかりである。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160306

■ 2016-03-05(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日はほんとうは横浜、赤レンガでの石橋義正氏のコンセプトによる「MatchAtria」という公演を観に行くつもりで、実はチケットもすでに買ってあるのだけれども、どうも疲れがたまっているようでもあるし、また明日は下北沢に「少年王者舘」の新作公演も観に行くつもりではあるし、ちょっとハードすぎるとは思っていた。出発しなければもう間に合わないというギリギリの時間まで、「行こうか、行くまいか」と迷ってしまった。いちどは「やはり行こう」と、着替えもして準備したのだけれども、部屋を出ようとしたさいごのさいごになってニェネントの顔をみたら、もう行く気が急に失せてしまい、「や〜めた」ということになった。たしかにチケット代はもったいないのだけれども、じゃあそのチケット代を無駄にしないために出かけるとすると、交通費でチケット代以上の支出をしなければならない。そこまでに高額のチケットでもなかったし、「ちょっと損しちゃったね」で終わらせた方が、今の健康にはいいだろうと思ってしまった。

 行かないなら行かないでそのまま放置しておけばいいのだけれども、こういうイヴェントというのは、予約客が開演時間に来ていないと到着まで待つこともあるし、来ない客を待って開演を遅らせてしまうようなことになると申し訳ない。それに、わたしが行かないのならばそういう連絡をしておけば、キャンセル待ちの人がいれば観ることができるわけだ。そう思って、会場に電話してキャンセルの旨を伝えた。「どうもわざわざ、ご連絡ありがとうございます」と感謝されて、ちょっと気分が良くなった。

 あと、明日の「少年王者舘」の公演も、明後日の昼の回に変更した方がわたしとしては楽である。明日でもいいのだけれども、実は明日は昼からの卓球の女子団体の決勝戦をみたい、という気もちもある。やっぱり明後日に変更しよう。そういうことで、昼食を終えたあと、また電話して明日の分をキャンセルし、明後日のマチネにあらためて予約を入れた。これでとにかく、今日、そして明日とゆっくりと休める。決めてしまうと「いい選択をした」と思えるのだった。

 あとは、昼からいっぱい寝た。何もしないでただ睡眠をとった。目が覚めると外はまっ暗で、時計をみると六時半をさしていた。一瞬、それが朝の六時半なのか、夕方の六時半なのかわからなくなってしまった。ちょっと意識が覚めてくると、今の時期は朝の六時半はもっと明るくなっていることに気づき、「夕食を食べなくっちゃ」と起き出した。そうすると、発情期のニェネントが待っていて、わたしに「なんとかしてよ〜」と、訴えて来るのだった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160305

■ 2016-03-04(Fri)

 今日から、予定では三日連続して上京して観劇の予定なのだけれども、どうもそんなにつづけて舞台を観る元気がないようで仕方がない。無理をして疲れがたまると風邪とかも引きやすくなるだろうし、疲れていると感じているときはゆっくり休んだ方がいいのではないかと思う。それでも、今日の公演はやはり観ておきたいので、とにかくはがんばって出かける。明日以降のことはまた考えよう。

 開演が午後の四時と、マチネ公演にしては遅いはじまりなので、家で昼食をとってゆっくりと出かける。
 わたしには、電車に乗るということはその時間が睡眠をとる時間になるか、それとも本を読む時間になるか、そのどちらかなのだけれども、このところずっと、往路が睡眠、復路が読書という風にだいたい決まってしまっている。今日もその通りになってしまった。

 会場の森下スタジオというのは、わたしの状態が正常になってからも行ったことがあるので、そんなに迷うこともないだろうと思っていたのだけれども、メトロの大江戸線の森下駅で降りて外に出て、しばらく歩いていて、自分がまるで見当違いの道を逆方向に歩いているのに気がついた。あたりに掲示されていた地図をたよりに引き返し、しばらく歩いていたら、知っている居酒屋「Y」の前に差しかかったので、そこで目的地への道を思い出したのだけれども、そこまでに歩いていた道も見当違いの道だった。「Y」のことが記憶になかったら、もっともっと迷っていたことだろう。

 森下スタジオへのわかりやすい目印、ふうせん屋の角を曲がって歩いて行くと、前からBさんが歩いてくるのに出会った。Bさんは今日の公演の主催者でもあるのだから、今日Bさんとお会い出来るのは当然のこと。会場に着くとまだ開場されていなくて、三、四人の客がロビーにすわって開場を待っていた。わたしもすわって本を読んでいると、あとからCさんがいらっしてちょっと会話した。このところは突然に、Cさんといろいろなところでお会いすることが多くなっているので、「よくいろんなの観に出て来るね」とかいわれ、「これからも何か?」と聞かれ、実は明日も明後日も予定があるとはいえなくなってしまった。コンビニに行かれていたBさんも戻って来られ、「(マチネだから終わったあとに)飲みに行けないじゃん」といわれる。わたしもBさんとかとゆっくり飲みたいけれども、それにはもう東京で宿泊する覚悟がないと出来ないことである。まあそのうちにそういう機会もあるだろう。

 舞台が終わって、また少しBさんと話するけれど、Bさんは神村さんとかと話をしに戻って行かれた。わたしは神村さんにどんな話をすればいいかわからないので、「このあたりでおいとましよう」と帰路に着いた。
 帰りの電車は偶然、一昨日乗った電車と同じ時間のものになり、一昨日と同じようにターミナル駅で駅ビルのスーパーに寄り道した。この時間がちょうどタイムサーヴィスの始まる時間のようで、惣菜コーナーの品に「半額」のシールが貼られて並んでいる。これから帰りはいつもこの同じ電車を選んで乗るようにして、毎回このスーパーで買い物して帰るというのもいいな、などと考える。この夜は大きな焼豚のかたまりを半額で買った。焼豚なんてそんなにかんたんには傷まないだろうから、しばらくは焼豚三昧が出来るだろう(わたしの大好物のひとつが焼豚である)。

 帰宅して食事をし、また卓球の女子団体の対北朝鮮戦をみる。特に第四試合の伊藤美誠対リ・ミョンスンの試合は白熱したすばらしいゲームで、試合の終わる遅くまで、夢中でみてしまった。しばらくはこのゲームのことを思い出して心があつくなりそうである。



 

[]SNACパフォーマンスシリーズ2015 vol.4 「知らせ」神村恵・津田道子:構成・出演 @森下・森下スタジオ Sスタジオ SNACパフォーマンスシリーズ2015 vol.4 「知らせ」神村恵・津田道子:構成・出演 @森下・森下スタジオ Sスタジオを含むブックマーク

 津田道子さんというのは美術作家ということで、去年の暮れに観た、やはり神村さんが美術作家と組まれての公演「ビフォア・オア・アフター」のことを思い出す。あのときもトークをまじえながらのパフォーマンス、だったけれども、この日のパフォーマンスもトークをまじえながらのもの。当日配布されたコピーを下に写しておく。

本公演は、神村恵(振付家・ダンサー)・津田道子(美術家)による、演劇が成立する仕組みを考える試みです。劇場では、客席と舞台、演者と演者、演出と演者、言葉と身振り、ものと人の間で知らせが受け交わされています。そこで積み重ねられる了解や誤解を分解して、イメージが立ち上がるプロセスを組み立て直したいと思います。

 じっさい、この日の舞台はものが乱雑に放置されたままで、照明もほぼ客電状態。とても「演劇が成立する」というような状態ではない。ここから、マイクを持った津田さんが「動き」をみせられる神村さんに、「今何をしているのですか?」みたいな問いかけを重ねられて行くような。スタートでは「どこから演劇が成立するのか」というあたりで、それは「見立て」のようなことをいっておられるのか、というような展開をみせるのだけれども、だんだんにそういうところからは逸脱しつづけて行くというか。コミカルというのかユーモラスというのか、忍び笑いしながら観つづけるような展開になる。それは津田さんの問い(つっこみ?)に答える神村さんという立ち位置の、関係性にもよるものだろうし、神村さんの動きと言葉との展開にもよるものだっただろう。神村さんは前の「ビフォア・オア・アフター」でも語りながらのダンスを繰り拡げられ、それがやはり笑いを誘うようなところもあったのだけれども、そういうところで「ビフォア・オア・アフター」から引きつづいての試み、というところもあるのかもしれない(といいながら、わたしは神村さんのそれ以前のダンスについて記憶するところがないので、なんとも語ることは出来ないのだけれども)。

 しかし、これは神村さんの指向性によるものなのか、ダンサーと美術作家とのコラボレーションというものがとても興味深くも面白いものであることに、あらためて気づかされたところがある。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160304

■ 2016-03-03(Thu)

 買おうと思っていたボルヘスの「続審判」、岩波文庫版で1500円ぐらいもすることがわかり、「そりゃあ高いな」ということで、「いつでも図書館で読めるのだから買うこともないか」ということにした。ほんとうは買うものは出来るだけ少なくしたいものである。昨日買った漱石の「草枕」も、一晩経ってみれば買わなくっても良かったかな、などと思うようになった。

 今日は内科医の診察日。血液検査などしたので、いつもより診察費がかかってしまった。寒いせいかときどき血圧が140を超える日があるけれども、それ以外に異常はないようだ。
 帰りに図書館に寄り、先週借りたシェーンベルクの「グレの歌」と歌曲集を返却し、かわりにまたシェーンベルクで「浄夜」と、グレン・グールドによるピアノ曲集とを借りた。DVDの新入荷コーナーにイーストウッドの「グラン・トリノ」が置かれていたので、これも借りた。この図書館のDVD在庫もだんだんに充実してきた。新作ばかりでなく、映画史の名作もいろいろ買ってほしいところである。

 ニェネントはずっと発情期がつづいていて、見た感じはつらそうである。いつも、ほんとうは不妊手術をしてあげておいた方が良かったのかとも思うのだけれども、なんだか、動物の本来の権利を人間が奪ってしまうようで、やはり「そういうことはやらないだろうな」と思ってしまう。わたしがもっと若くって、もっといろいろと余裕があれば、ニェネントが子どもを産んで、子育てをする権利を行使させてあげることも出来るのである。
 暖かくなってきて、そんなニェネントも下毛が抜けはじめた気配がある。ブラッシング用のブラシが長く使ってなくって、どこに置いたのかわからなくなってしまった。早く探し出さないといけない。

 夕食は先日買ってあったサツマイモを大きな短冊に切り、電子レンジでチンしてから炒めておかずにした。これはとってもかんたんでおいしいし、サツマイモの安いときに買っておけばものすごく安上がり。サツマイモは保存もきくし、めんどうなときに便利な惣菜である。
 夜はまた卓球をみて、やはり昨夜はドイツに敗れてしまったということだけれども、今夜はその同じドイツを相手の決勝リーグ準々決勝。スッキリする勝ち方で前夜の雪辱を果たした。みている方でもスッキリした。



 

[]「アパッチ砦」(1948) ジョン・フォード:脚本・監督 「アパッチ砦」(1948)   ジョン・フォード:脚本・監督を含むブックマーク

 わたしはジョン・フォード監督の作品といってもイメージするものもなく、ただ漠然と「ウェスタン」とか「故郷アイルランド」とか思い浮かべてしまう部分もあるのだけれども、そんなジョン・フォード監督の「騎兵隊三部作」というものの一作目がこれ。

 わたしだって少年期には雑誌に載った西部開拓史時代の逸話やインディアン(先住民)と騎兵隊の戦いなどの話は読んでいたわけで、そんなところからカスター将軍の第七騎兵隊全滅の話などを思い出しながら観ていたのだけれども、じっさいにその「リトルビッグホーンの戦い」がモデルとされての作品、ということらしい。

 そのアパッチ砦に新しく赴任(実は左遷)してきたサースディ将軍(ヘンリー・フォンダ)と現場の情勢を熟知するヨーク大尉(ジョン・ウェイン)との対立と、けっきょくのサースディ将軍の戦死とがメインのストーリーといえばメインなのだけれども、同行したサースディの娘フィラデルフィア(シャーリー・テンプル)と砦のオローク軍曹の息子のミッキー中尉との恋愛、砦内での家族らの生活、ダンス・パーティーなどがいっしょに描かれ、実に立体的な作品になっていると思う。単純にアクション映画ではない、というあたりの演出がいい。そういうところでアクション・シーンはごくわずかなのだけれども、的確な描写が映画の奥行きを深めていたと思う。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160303

■ 2016-03-02(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 Faebook をみていると、笠井叡が、去年の公演「今晩は荒れ模様」に対して、舞踊批評家協会賞が授与されることを拒否(辞退)したということが話題になっている。笠井氏はその「授賞理由」に反撥してのことらしいのだけれども、笠井氏が自身のブログで引用しているその「受賞理由」は次のようなもの。

昨日、貴協会より、第47回(2015年度)の受賞の決定書ならびに、賞の贈呈式、祝賀パーティーのお知らせを受け取りました。その授賞理由は以下の通りです。

「お気に入りの6人の女性ダンサーに振り付け自らも踊った<今夜は荒れ模様>(*そもそも、題名が違っています)の舞台で、男たちの様々な戦争ごっこを尻目に、全員で嬉々として踊り狂ったダンス三昧の舞踏会の成果に対して」

(*)部分は笠井氏が指摘したもの

 この授賞理由に対して、笠井氏は次のように批判する。

このような授賞理由を、受け入れることは到底、出来ません。以下の理由で、受賞を辞退させていただきます。

1・賞を贈呈するということは、その作品に対する明瞭な成果と、その作家に対するリスペクトあるということは当然ですが、今回の授賞理由に、その二つが全く感じられないということ。

2・一つの舞踊作品には、その作品と時代との強い結びつきが存在しています。舞踊批評が存在するという根拠は、そのような時代に対する時代感覚と、その作品を結びつけることが、その批評において、肯定的な意味でも、否定的な意味でも要求されています。今回の授賞理由には、そのような公的な、社会的な意味合いが全く感じられず、作品を一個人の享楽的な行為としてとらえています。このような受賞理由を恥ずかしげもなく、メディアに向かって公開するという貴協会のセンスには、ただただ、呆れるばかりです。

3・どんな作品も一個人で成り立つものではなく、そこには様々な人たちの参加、協力や助力があって成り立つものです。たとえ、それが個人に与えられる賞であっても、その賞は、それに関わったすべての人間を含んでいます。このような受賞を、この作品に関わってくれた多くの人々に対して、結びつけることは、私としては出来かねます。
以上、三点です。

 結果として、笠井氏は次のように結ぶ。

私が心から望むのは貴協会が、舞踊批評の根底に立ち戻り、真に日本の舞踊発展に寄与することです。上記のような選考理由は、むしろ、ダンサー達の日々の努力を馬鹿にしています。ダンサーは日々、カラダを削いで、修行に励んでいます。そのようなダンサー達に応えるえることのできる批評の団体であるためには、一つ一つの批評そのものが、時代の正念場であることを、明かしていかなければなければならないと、思います。

 ここで笠井氏が書かれていることによくわからないこともあるのだけれども、わたしはその去年の「今晩は荒れ模様」を観て、「もう笠井叡の舞台というのは観てもしょうがないな」と思ったわけではある。それでここに書かれている「授賞理由」を読むと、何というか、面白いのである。

 これって、「ほめ殺し」ではないのか。そういう視点なのならば、わたしはこの「授賞理由」に笑いながらしっかり同意するところはある。
 わたしはその「今晩は荒れ模様」の公演で、そのチラシに書かれた笠井叡氏の「御挨拶」の一文に今でも違和感を持っていて、その文章に対していまだに誰も疑問を呈しないことを不思議にさえ思っている。もういちどその「御挨拶」をここに引用すれば、こういう文章である。

 戦争とは、過去の男性文化の最も醜悪な遺物です。
 これを乗り越え、歴史に新しい地平を拓くのは、
 すべての文化、民族をつなぐことの出来る女性の生命的な力であると、私は確信しています。
 すでに、戦争の時代は終わっています。
 今、人は歴史が耐え得る限りのものを、
 日々の生活の中に向かって、投げ返しています。
 人と人との間に、生命のさざ波が立ちます。
 だから、ダンサーが踊る真新しい緑の野では、
 昨晩も今晩も明晩も…荒れ模様。

 ‥‥別に、「戦争」を乗り越えて歴史に新しい地平を拓くのが、「女性の生命的な力」(よく読むと変な文節だ)であってもかまわないけれども、2015年というときに、「すでに、戦争の時代は終わっています。」というのはどういうことなんだろう。誰だって疑問に思うはずだけれども、その後も、このことをあえて問題にした意見を聞くことは出来なかった。しかしここで舞踊批評家協会が、この公演に対して「男たちの様々な戦争ごっこを尻目に、全員で嬉々として踊り狂ったダンス三昧の舞踏会の成果に対して」と書くのであれば、そこには笠井氏の「御挨拶」と「今晩は荒れ模様」の公演に対する、ちょっとした批評にはなっているではないかと思うのである。
 わたしの読みでは、「戦争の時代は終わっている」のだったら、今世界で起こっている「戦争」というのは、あれは「戦争ごっこ」なのかいな?ということになり、あのときの公演は「全員で嬉々として踊り狂ったダンス三昧の舞踏会」という批評になるわけだろう。

 はたしてこれが「舞踊批評家協会賞」という賞の授賞理由としてポジティヴにとらえられるかどうか、そのあたりの疑問はもちろんあるけれども、先に書いたようにこれを「ほめ殺し」ととらえれば、舞踊批評家協会というところもおもしろいことをやるもんだなあ、という感想にはなる。まあ笠井氏の「反論」というのか、「受賞辞退の理由」というものがたいしたこといってるわけでもないし、全体に「どうでもいい」ことがらではあるのだけれども、舞踊批評家協会が笠井氏のその公演の「御挨拶」に対しても反応しての授賞というのであれば、耳を傾けるだけのものではあると思った。

 笠井氏が「戦争の時代は終わっています」ということは、何か高邁なお考えがあってのことだろうけれども、いったい皆はそのあたりをすんなりと納得されていらっしゃるのか。「おかしい」なら「おかしい」と、「納得出来ない」なら「納得出来ない」という声はあがるべきだろうと思う。そういう声があがらないというのは、笠井叡という人物が「大御所」であられるからなのだろうか。そういう「大御所」などわたしは不要だし、彼を「大御所」とまつりあげ、そっとしておくという日本のダンス・舞踏界というものもつまらないものだと思う。そういう中で、舞踊批評家協会がこの奇妙な「授賞理由」をあげたこと、ちょっと面白く感じているわけである。

 長々とどうでもいいことを書いてしまった。

 今日は午後から、Aさんの参加されている人人展というのを観に上野へ出かけた。陽気は少しずつ暖かくなってきているのだろう、ちょっとずつ、薄着で出かけても寒くなくなってきた。
 ほんとうは、展覧会を観たあとでAさんとまた近くで飲めればとも思っていたのだけれども、今日は展覧会の初日でもあり、参加者、出展者が集まっての飲み会になるという。その席に同席させてもらってもいいのだけれども(去年はそうした)、今週は明後日からまた連続して出かけることもあり、身体的にも経済的にも厳しくなるので、Aさんには悪いけど、展示を観たあとは帰ることにした。
 人人展というのはわたしでも知っている有名な画家らも過去に参加していた団体で、今年はその四十回展というので、そんな過去の物故作家らの作品も展示されていた。総じて、日本という風土を感じさせる、土着的な作風の作家の集う集団という感じがする。
 会場を観てまわっていると、それなりにクオリティの高い作品が並んでもいるわけで、そういうわたしがその名を知るわけでもない作家たちの、たくさんの作品を観ていると、「これらの作家たちも日本美術史の端にもひっかからず、いずれは<忘却>の淵に沈んで行くのだなあ」と思うとつい、「生きる」という意味合いを考えたりもしてしまうのだった。

 五時の閉館時間で外に出て、上野公園を少し歩く。もう早咲きの桜が咲いていたりする。

    f:id:crosstalk:20160302161326j:image:w360

    f:id:crosstalk:20160302171714j:image:w360

 上野駅に行き、本屋へ行ってボルヘスの「続審判」を探したけれどもこの店には置いてなく、この日に買っておきたいと思ったので、そのまま東京駅まで行き、八重洲ブックセンターへ行ってみた。ところがここにも在庫はなく、この日は買うのをあきらめた。代わりに何かしら買っておきたくなって、漱石の「草枕」を買うことにした。岩波文庫と新潮文庫とどちらがいいのか比べてみて、意外に新潮文庫の方がずっと安いし、解説を柄谷行人氏が書いていたので、新潮文庫の方を買った。

 帰宅の途中でターミナル駅で下車し、駅ビルの一階のスーパーへ行ってみると、そこの手前の京樽の店でタイムサーヴィスの半額コーナーがあったので、晩ご飯としてちらし寿司と巻き寿司とを買って帰った。帰宅して食べたけれども、「京樽」だからといってそんなにおいしいわけでもないことがわかった(近所のスーパーのちらし寿司の方がおいしいのではないのか)。
 テレビで卓球の対ドイツ戦をやっていたのをみていたけれども、日本がだんだんに劣勢になるし、時間も遅くなったので全部みないで寝ることにした。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160302

■ 2016-03-01(Tue)

 三月になった。季節はもう春になったけれども、今朝は寒かった。ニェネントがこのごろわたしにつきまとい、わたしを見上げてはにゃ〜にゃ〜ないて、何か訴えてくることが多い。おなかが空いたのか、外に出たいのか、何を要求してるのかわからなくって、「ネコのことばはわかんないよ」と思っていたのだけれども、今朝ふと、「また発情期になったのかしらん」と思い当たった。それで、寄って来たニェネントのしっぽのつけ根あたりをペン、ペンとやってあげると、足をもぞもぞさせてその場にうずくまり、「もっとやって」という態勢をとるのである。やっぱり発情期だった。もう何ヶ月ぶりかのことなので、すっかりそういうことは忘れていたけれども、やはり季節はもう春ということだな、と思った。しかし、ネコにとって発情期というのはつらいのだろうか。部屋の中をなきながら徘徊するニェネントはどんな気もちでいるのだろうか。

 この週末は三日連続して観劇で出かけなければならないのだけれども、それ以外にも明日から上野でAさんの参加する展覧会も始まり、行く日取りを考えると明日がいちばんいいようなので、そのようにAさんに連絡した。展示が終わるとその展覧会のメンバーでの飲み会になるようで、去年はわたしもその飲み会に参加したわけで、今年もそういう流れになるのだろう。ハードスケジュールである。

 読んでいるボルヘスの「異端審問」が面白く、これなら買って手元に置いておいてもいいと思い、明日出かけるのなら本屋で探して買っておこうかと思う。調べると今は岩波文庫になっているようだ。黒澤明の映画を一本観て、夜はまた女子の卓球団体の世界選手権をみた。



 

[]「静かなる決闘」(1949) 菊田一夫:原作 黒澤明:脚本・監督 「静かなる決闘」(1949)   菊田一夫:原作 黒澤明:脚本・監督を含むブックマーク

 戦時中、軍医として戦地に赴任していた主人公の医師(三船敏郎)は、患者のオペ中に指をケガし、そこから梅毒に感染してしまう。戦争が終わって主人公はその父(志村喬)の産婦人科医院で働くのだけれども、梅毒に感染していることをひたすら隠して自分で治療をつづける。婚約者同然の女性もいて、彼女は主人公との早い結婚を望んでいるけれど、主人公は真相を隠して彼女と距離をとりつづける。病院には元ダンサーの見習い看護婦(千石規子)がいるのだが、彼女は身を持ち崩していたときに妊娠し、主人公の世話で病院で働くようになっている。彼女は子どもを産む決意もついていないのだが、主人公の秘密を知ることで主人公を応援するようになり、自分も子どもを産んで育てることになる。

 もとは舞台劇だったそうで、この原作を舞台でやっていたのが千秋実の率いる劇団だったという。その縁で千秋実は黒澤作品に出演するようになるそうな(この作品にはまだ出演していない)。

 とにかくはこの時代の黒澤作品のもうひとつのベクトルの、ヒューマン・ドラマの一作で、三船敏郎が高潔な意志を持つ医師を演じているのだけれども、その悩み、苦しみは千石規子にぶっつける。その告白を受け止めた千石規子もまた成長して行くわけだけれども、前作「酔いどれ天使」につづいて、この作品でもその千石規子がいい。
 しかし、前作「酔いどれ天使」といい、この作品といい、「赤ひげ」といい、黒澤監督には思いのほか「医療モノ」作品が多い。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160301
   3234233