ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-04-30(Sat)

 今日も夢をみた。夢の中でわたしは再婚しているのだが、その妻は現実の元妻だった。わたしたちふたりは、またいつもの夢に出てくる町のようなところに住んでいる。うちのとなりの家は大きくて、離れがある家なのだけれども、その離れが空き家になり、そこにうちの家主が越してくる。妻は「家に虫が来るので、虫よけをつけてほしい」という。そのとなりの家には虫よけがあるのに、うちにないのは不公平だと。
 妻とわたしはその隣家に行っているのだが、妻は自分が中国人であるかのようにふるまい、わざとしゃべり方を訛らせていて、「日本語はむずかしいです」とか話している。隣家を出るとき、わたしはブーツのような靴を履いてきたので、うまく履けるかどうか心配になる。ブーツといっても、外観は編み上げのスニーカーのようになっているのだが、高さは24センチある。ブーツを横にして、うまく足をすべり込ませて履くことが出来る。
 妻と家に戻るのだが、わたしはこの新しい妻にはどこかおっちょこちょいなところがあると思い、他の夫婦というのはどうなんだろう、などと考えている。妻が古い服を捨てるといって、その服をみせてくれる。茶色の上着の下に、縦縞のストライプの入った派手な光沢のあるスラックスがついているのだけれども、そのスラックスにも上着のように腕を通すところがある。妻はそのスラックスのサイズが合わなくなってぶかぶかになってしまい、その腕を通す部分が前に来てしまうのだといい、見せてくれる。
 ふたりで買い物に出るのだけれども、いつも食品を買っていた店の中はガランとしていて、何もない屋根裏のようにみえる。そこに小さなネズミのおもちゃが動いていて、そのおもちゃに小さな犬がじゃれついている。わたしが店の中からかがんで外に出ようとすると、犬がわたしを追ってくる。さっきよりずっと大きな犬になっていて、わたしに噛みついて来ようとする。わたしが高い台のようなところから下に飛び降りると、リードでつながれている犬は、それ以上追って来られない。そんな夢。

 今日はぼんやりと、一日何もしないで過ぎてしまった。CDでリー・ワイリーを聴き、「千一夜物語」を読んでいると眠くなってしまい、そのまま寝てしまう。いつものことである。
 前に買った白菜がまだまだ残っているので、昼食も皿うどんを優先してつくって白菜をたくさん投入、夕食でも水炊きをいっぱい食べようと、鶏肉や豆腐を買ってきてせっせとつくっている。「こんなにたくさんぶち込んで食べられるかしら?」と思っても、加熱すると白菜なんて縮んでしまうのだろう、「多すぎるかも」と思うぐらいにぶち込んでちょうどいいぐらいになる。



 

[]二〇一六年四月のおさらい 二〇一六年四月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●福留麻里企画ダンス公演「動きの幽霊」より「動きの幽霊」福留麻里:構成・演出 @横浜・STスポット
●福留麻里企画ダンス公演「動きの幽霊」より「あさっての東京」神村恵/福留麻里:振付・出演 @横浜・STスポット
●“すずしろ”による物語る演劇シリーズ 折口信夫「死者の書」全文を語り・演じる/全5回 その参 すずしろ:企画制作 笠井賢一:演出 @下北沢・アレイホール

映画:
●「光りの墓」アピチャッポン・ウィーラセタクン:監督

読書:
●「人類の知的遺産 43 カント」坂部恵:著
●「百年の孤独」ガブリエル・ガルシア=マルケス:著 鼓直:訳
●「エル・アレフ」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳

DVD/ヴィデオ:
●「嵐が丘」(1939) エミリー・ブロンテ:原作 ウィリアム・ワイラー:監督
●「地獄への逆襲」(1940) フリッツ・ラング:監督
●「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942) オーソン・ウェルズ:脚本・監督
●「スピード」(1994) ヤン・デ・ボン:監督
●「サブウェイ123 激突」(2009) トニー・スコット:監督
●「トスカーナの贋作」(2010) アッバス・キアロスタミ:監督
●「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014) ウェス・アンダーソン:監督
●「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014) モルテン・ティルドゥム:監督
●「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014) フレデリック・ワイズマン:監督
●「女経」(1960) 村松梢風:原作 増村保造、市川崑、吉村公三郎:監督
●「セーラー服と機関銃」(1981) 相米慎二:監督
●「MEMORIES」(1995) 大友克洋:製作総指揮
●「千と千尋の神隠し」(2001) 宮崎駿:脚本・監督
●「海炭市叙景」(2010) 佐藤泰志:原作 熊切和嘉:監督


 

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■ 2016-04-29(Fri)

 今朝みた夢は奇妙な夢だった。わたしはどこか知らない海沿いの町に来ているのだけれども、その町では年に一度、お祭りのようにプロ野球のゲーム、阪神vs.中日のダブルヘッダーが催されるらしく、どうやらその期日が近づいているらしい。わたしはもう野球というものにほとんど興味をもっていないので、こういう夢をみることは意外である。その漁港らしい町の海辺沿いの道にカモメが何羽もいて、わたしはその道をカモメをみながら歩いている。夢の全体を憶えていないせいもあるだろうけれども、誰も人は出てこないし、ふだんのわたしの生活や心情とはまるで関係のない夢で、まるで他人の夢をみせられたような感覚である。

 ニェネントはどうやら新しいキャットタワーの存在にも馴れたのだろうか。今はリヴィングのど真ん中、食卓の前に置いてあるのだけれども、わたしが食事をしているときにはそのキャットタワーの中段に登り、そこからわたしが食事をしているさまを眺めるようになった。まあ眺めていればときどき、わたしが「お裾分け」してくれることを知っているので、このわたしの食卓の前というのはニェネントの定位置ではあるのだが。だいたいニェネントが登るのは中段までで、いちばん上の段にはなかなか上がってくれない。まあそこまで上がってしまうとわたしとの距離も遠くなってしまうから、いざというときにお裾分けに手が届かない。それでも気が向くとたまに、いちばん上まで登ったりもしてくれる。

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 そのいつもの定位置の中段の下には、ネコが遊べるように白いモフモフの球がぶら下げられているのだけれども、今日はその球でひとしきりじゃれていた。そういう姿をみると「やっぱりニェネントもネコなんだなあ」とあらためて思い、愛おしくなったりもする。
 しかしながらけっきょく、このキャットタワーが梱包されてきた段ボール箱が気に入っているようではあり、すぐにその段ボール箱の中に入り込んでしまう。ネコの本性というものはいたしかたがないものである。

 今日は早くに買い物に出かけ、昼前から映画を観始めたりして、午後いっぱいずっと、テレビの前で映画ばかり観ていた。



 

[]「女経」(1960) 村松梢風:原作 増村保造、市川崑、吉村公三郎:監督 「女経」(1960)   村松梢風:原作 増村保造、市川崑、吉村公三郎:監督を含むブックマーク

 三十分ちょっとの中編三つからなるオムニバス映画で、当時の大映の看板女優三人がそれぞれ主演する。いずれも原作は「残菊物語」の村松梢風。こういうタイトルの短篇集があったのかもしれない。
●「耳を噛みたがる女」増村保造:監督
 主演は若尾文子で、隅田川に浮かぶだるま船の貧しい家庭で暮らしながら、勤め先のバーで男たちをたぶらかし、稼いだ金をしっかり株に注ぎ込むという、「若尾文子がこんな役どころの映画、前にも観たな」というハマり役。しかし彼女には好きな男もいるんだけれども、そのあたりでの恋のさや当てと意外な彼女の思いやり、というあたりが面白いところ。当時の東京の下町風景とかがいい感じだし、兜町を歩いて行く若尾文子のラストショットも爽快。

●「物を高く売りつける女」市川崑:監督
 山本富士子主演。同じ市川崑監督の「黒い十人の女」でみせた、ちょっとコミカルな感覚の悪女ぶりをここでもみせてくれる感じで、わたしはこういう山本富士子がいちばん見たいのですよ。前半のちょっとミステリアスでそこはかとないエロスを漂わせる雰囲気から、後半はとつぜんに計算高い悪女に変貌。彼女の住まいの生活じみた感じが、前半の古風な屋敷といい対照になっている。「あたしぐらいとびっきりの美人じゃなくっちゃ(こんな仕事はできない)」なんてセリフがさらっといえるのも山本富士子。相手役の船越英二もとてもいい。ただ、タイトルがあまり即物的で、ここは「手紙を燃やす女」とかにした方がいい感じ。

●「恋を忘れていた女」吉村公三郎:監督
 京マチ子主演。彼女は京都の旅館の女将で、旦那とは死別している。昔は芸妓をやっていた関係で、彼女となんとか、とつきまとう男もまだまだいるわけである。しかし彼女は旅館の経営一筋にドライに割り切っている。そこに昔の恋人だった男から連絡があって会うのだけれども、彼は詐欺罪で警察に追われていて、彼女の目の前で逮捕される。旅館に宿泊していた修学旅行生のひとりが旅館の前で交通事故に会い、彼女が輸血してあげることから彼女の気もちに変化が生まれる。劇中、死んだ旦那の妹と口喧嘩みたいな成り行きになるけれど、これはみていると「普通ならつかみ合いのケンカになるだろう」みたいな展開なんだけれども、あっさり終わってしまう。そういう感じでどこかあっさりとした一篇。撮影が宮川一夫で、やっぱり格のちがいを感じさせる美しい画面である。京都の町並とかがいいし、橋の上のラストはすばらしいけれども。



 

[]「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014) フレデリック・ワイズマン:監督 「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014)   フレデリック・ワイズマン:監督を含むブックマーク

 以前映画館で観た作品。ワイズマン監督のドキュメンタリーといえば、ナレーションなし、インタヴューなし、音楽なし、もちろん説明テロップなしということになるのだけれども、このナショナル・ギャラリーを題材に選んだ作品では、学芸員の展示作品説明のトークがそのまま、説明のナレーションっぽくも聞こえてしまうではないか。そうすると、「ナレーションなし」という、ワイズマンの基本姿勢から逸脱しているではないかということになるのだけれども、つまりこのドキュメンタリー、ギャラリーに展示された作品などを説明紹介するための作品ではないということ。つまり、そういうトークする学芸員らのポジションというか立ち位置というか、そのあたりをこそ撮っているのだということ。それはギャラリーの運営をめぐって討議する役員、裏方として絵画修復や額縁製作にあたる職員、ギャラリー内で行なわれるクロッキー教室の様子などなどを撮ることと並立させることで、この「ナショナル・ギャラリー」という施設のありようを立体的にとらえようとしているのだと読み取るべきだろうし、観ていれば自然とそのような観方をとることにもなるだろう。
 しかしやはり、そういった学芸員のトークに割かれる時間が多すぎるのではないかというのがわたしの感想で、わたしとしてはもっともっと裏方の仕事を観てみたかった気がする。というのも、わたしも過去に都美術館に作品を搬入、展示した経験もあるもので、美術館にはもっとさまざまな裏方の仕事があるのではないだろうかと思ってしまうのである。デスクワークだってあるだろうし、警備員の仕事もあるだろう。休館日のギャラリー内ってどんなんだろう。そういうところよりも圧倒的に学芸員トークの占める割合が多いので、どこか「これはやはり作品の解説を聞かせるドキュメンタリーではないか」という感じにもなってしまう。レンブラントの作品のX線調査で、表面の絵の下に別の絵の姿が浮かび上がってくるシーンなど、なんかニュース映像的なドラマティックな展開で、ワイズマンらしくないんじゃないかという気もしてしまう。
 ワイズマンらしくないというのでは、終盤のギャラリーでのピアノ演奏、いや、それよりも、すっかり演出された感のあるラストのダンススーンなど、違和感を感じてしまう自分がいる。

 ひとつの観方として、この作品は「ナショナル・ギャラリー」を描いた映像作品、というよりも、もっと普遍的に、展示された美術作品というものをテーマにした、美術映画として観られてしまう要素はあるのではないだろうか。じっさい、「ナショナル・ギャラリー」という対象を撮った映像作品と考えると、「ナショナル・ギャラリーにはもっと著名な所蔵作品があるではないか」という観方も出てくるのではないのか。まあワイズマンがそういう意味での「ナショナル・ギャラリー」を撮っているのではないというのはわかるのだけれども、そういう観方をしてみてもなお、先に書いたように、学芸員のトークの比率が大きすぎるのではないだろうか。やはりこのことは、この作品への大きな疑問ではある。

 それで「ナショナル・ギャラリー」のことをWikipedia で調べてみると、興味深いことがふたつほど書かれていた。ひとつは絵画修復の問題で、このことはこの作品の中でも語られていたことだけれども、修復〜洗浄によって残すべきワニスまで除去してしまったという批判があったということで、このことは十九世紀中葉と第二次世界大戦後の二回にわたって批判され、議論が起こっているのである。このドキュメンタリーでは修復担当者がひとごとのように「洗浄しすぎると絵画本来の艶まで失われてしまう」といっていたわけだけれども、それはまさにこのナショナル・ギャラリーで起こった問題なのであった。
 もうひとつは作者特定に関しての批判があることで、それはこのドキュメンタリーでもかなり時間を割いて紹介されていた、ルーベンス作(?)「サムソンとデリラ」の件だけれども、この作品は1980年に購入され、ルーベンスの作品とされているのだけれども、多くの美術史家はこの作品をルーベンス作とは考えておらず、ナショナル・ギャラリーは間違いを認めたくないだけだとしている。わたしもこのドキュメンタリーでこの作品を観て、(もともとわたしはルーベンスという画家がちっとも好きでないこともあって)「やっぱりルーベンスって粗雑だよねえ」と思ったものである。しかし、いくらルーベンスでももうちょっとは筆力あってもよさそうなものだよね、という感想にもなるのだけれども、このあたり、はたしてこのナショナル・ギャラリー所蔵の「サムソンとデリラ」がほんとうにルーベンスの作品か?というのは、以下のサイトに突っ込んで書かれている。「サムソンはかかとをどうしちゃったの?」ってことで、どうやらこの作品、ルーベンスの銅版画をもとにして別の画家が油彩で描いたものではないのかという推理なのだろう。

http://www.afterrubens.org/home.asp

 このドキュメンタリーでは、ナショナル・ギャラリーの人たちは完全にこの作品を「ルーベンスの作品」として扱っているようだけれども、どうもそれは眉唾モノらしい。はたして、ワイズマンはそのあたりのことを知っていて、わざとナショナル・ギャラリーの人たちに語らせているのだろうか。いや、きっと知っていたにちがいないのだが。とにかくはちょっと興味深いことではある。




 

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■ 2016-04-28(Thu)

 昨日帰宅したら、来月の「ひかりTV」、「WOWOW」の番組表が届いていた。じつのところ、もうあまり放映される映画とかを観ることに振り回される生活はやめようと思っていたのだけれども、やはりいちおうチェックしてみる。すると、これが大変である。まずはアントニオーニ監督の「赤い砂漠」が放映されるし、川島雄三の「幕末太陽傳」もある。フェリーニの「8 1/2」も放映されるのだけれども、何よりも、アラン・レネ監督の「ミュリエル」が放映されるというのが驚きである。他にもニコラス・ローグの「ジェラシー」も放映されるし、やはり来月も映画に振り回される月間になりそうである。いちおう録画した映画などはDVDに落とせるだけの機材は持っていることだし、長く使っていないけれども、DVDにして保存することも考えなくてはならないだろう(録画の仕方も忘れてしまっているけれども)。

 昨日は「光りの墓」を観たシアター・イメージフォーラムで、これから始まる「イメージフォーラム・フェスティバル」のチラシを手に入れてきたのだけれども、観たいと思っていた作品はどれも、わたしには早朝(観るためにあまりに早くに家を出なくてはいけない)か深夜(観終わると帰って来れない)すぎて、どうもどれも観に行けないようである。せめて、一度だけ上映される「ダダ100年」だけでも行けるといいのだけれども。

 「千一夜物語」は面白いのだけれども、自宅で読んでいるとなかなか進まない。これはずっとつづく、わたしの読書姿勢の問題。それでやはり図書館から借りているCD、ビル・エヴァンスとジム・ホールの「アンダーカレント」を聴いていたのだけれども、名盤の誉れ高いこの盤、やっぱりわたしはどうも相性が悪い。とにかくは一曲目の「マイ・ファニー・バレンタイン」のイントロの、ビル・エヴァンスのピアノの音がなんだかダメ。どうも硬いというか、名盤「ワルツ・フォー・デビー」の一曲目、あの「マイ・フーリッシュ・ハート」の出だしの、どこまでも柔らかい音と比べてしまうと、こちらも同じピアニストと思えないぐらいに差異があると思うんだけれども。たしかにエヴァンスとジム・ホールとのインタープレイはすばらしいものがあるんだろうけれども、そこに行くまでにいつも、ちゃんと聴こうという気が失せてしまう。このジャケット写真を誉める人も多いけれども、これもわたしには溺死体みたいに見えてしまって、やっぱりダメなのである。

 今日は久々に映画を二本も観た。



 

[]「トスカーナの贋作」(2010) アッバス・キアロスタミ:監督 「トスカーナの贋作」(2010)   アッバス・キアロスタミ:監督を含むブックマーク

 観ていて、「あれ?」と思ってしまう作品で、つまり、この男と女はじっさいに夫婦なのか、そうじゃなくって夫婦のフリをするゲームに興じているのか、わからなくなってしまう。後半の二人の会話はまるっきし夫婦のそれなのだけれども、たしか始まってすぐに、女性(ジュリエット・ビノシュ)の息子が「お母さんはあの男と親しくなりたいんだろ?」みたいなことをいっていたし、彼女のギャラリーを男が訪れたときの会話も、(仮に長く別居していたとしても)ぜったいに夫婦の交わす会話ではなかった。しかしこの親密さは普通ではなく、おそらくは男がイタリアに来たあとに関係を持っていたというあたりが真相だろう。それであるところで夫婦とまちがえられたものだから、それからは夫婦のフリをしつづけたということ。
 そうすると映画の観方がちょっと変わって来る部分もあるのだけれども、このふたりが夫婦を「演じている」ということ、つまり「演技」であるということ、しかしじっさいにそういう感情を持ちながらふるまっているということとのバランス、そんなバランスが崩れそうになるあたりこそが、この作品のみどころ、なんだろう。そこでの女性の感情、心理、そして男性のそれとのずれが大きくなったりほとんどなくなったりするし、これは「演じているのだ」と思ってみるととっても面白く観れたりする。

 ほとんどその男性と女性とのふたりっきりの出演で、イタリアの郊外の風景、室内の感じ、そしてそこで出会う人たちとのちょっとした交流など、実に自然でうまく溶け合った演出になっている。ただ、わたしはこの作品はちょっとあざとい感じがして、そこまで好きなものではない。
 ラストに窓枠からの外の風景が画面いっぱいに写され、その窓の枠の内側に、外の風景にかぶさるようにエンディングのテロップが上がってくる。そこで「これは<映画>なんだ」とあらためて確認されるような気分で、このエンディングの処理は好きである。



 

[]「セーラー服と機関銃」(1981) 相米慎二:監督 「セーラー服と機関銃」(1981)   相米慎二:監督を含むブックマーク

 おおむかし、テレビで放映されたときにでも観ている作品だと思う。監督が相米慎二ということで期待して観たのだけれども、やっぱり相米監督らしい、「映画としての映画」を楽しむことができた気がする。そしてこの映画、脚本はなんと田中陽造なのであった。このことにはちょっとびっくり。
 とにかくは長廻しの多用、思いがけない場所、思いがけないカメラ位置からの撮影とか、わくわくしながら観ることができた。暴走族の疾走シーンなんか、よく撮ったものだと思う。

 ラストシーンは観ていて記憶もよみがえったものだったけれども、調べるとこの作品では黒沢清氏が助監督をやっていて、このラストシーンのエキストラ誘導係だったとうこと。画面にはそんな黒沢清氏も写り込んでいるらしい(確認してないけれども)。
 この頃は渡瀬恒彦氏も映画に出まくっていたと思うけれども、このところさっぱりその姿をみていない。お元気なのだろうか。




 

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■ 2016-04-27(Wed)

 天気予報では今夜は雨になるといっている。前から観ようと思っていたアピチャッポン・ウィーラセタクンの「光りの墓」、もう上映も終了してしまうようなので、あわてて今日観に行くことにした。

 わたしが留守にするあいだ、ニェネントがキャットタワーを楽しんでくれるように祈りながら、昼食のあと、午後一時の電車で渋谷に向かった。映画は四時十分に始まる回で観ようと思っているのだけれども、映画館に着いたのはちょうど一時間早い三時十分。整理番号はナンバーワン、だった。
 映画が始まるまでの時間つぶしに、近くの青山ブックセンターへ行く。今のわたしはよほどのことがない限り書籍を買うつもりはなく、「こんな本があるのか」というのをチェックして、あとで地元図書館が所蔵しているかどうか調べてみる、というのが書店訪問の目的みたいなもの。今日はロバート・エイクマンという人の本が目にとまり、読んでみたい気になった。書店に置いてあったのは文庫本だったけれども、帰宅して調べたら、図書館にその古い単行本が所蔵されているのがわかった。今は読む余裕はないけれども、そのうちに。

 映画館の入場時間になり映画館に戻ってみると、この回の観客は十人ぐらいのものだった。ガラ空き。前にここに同じウィーラセタクン監督の「世紀の光」を観にきたときはかなり混み合っていたというのに、どういうことなんだろうと考えてしまう。もう公開が始まってからかなりの日にちが経っているせいなのだろうか。
 とにかくは館内が混んでいないのは楽である。となりの席にバッグを置き、足を横に伸ばして楽な姿勢で映画を観ることができる。

 映画が始まり、どうもわたしの近くの席の人はこっくりこっくりしているようである。「う〜ん、これはたしかに眠くなる映画かもしれないなあ(退屈、ということではない)」と思うのだけれども、わたしは眠くなることもなく、ちゃあんと全篇観ることができた。

 終映後、外に出ても雨は降っていなかったのでホッとする。渋谷駅周辺も、こないだの下北沢周辺のようにカオスである。

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 晩ご飯は自宅で食べるつもりで一直線で帰路に着く。昨日「かつおのたたき」を買ったのを忘れていたし、ご飯は炊いて保温されている。かつおのたたきをニェネントに分けてあげよう。電車の中では「千一夜物語」を読み進んだけど、やっと百ページを越えたところ。貸出期間の二週間で一冊読むのはきついだろうか。



 

[]「光りの墓」アピチャッポン・ウィーラセタクン:監督 「光りの墓」アピチャッポン・ウィーラセタクン:監督を含むブックマーク

 映画が始まる前にウィーラセタクン監督のメッセージがあり、長谷川祐子さんやスカイ・ザ・バスハウスへの謝辞が述べられていたけれども、たしかにオブジェっぽい物体も登場し、そういうアートの世界への親和性も高い作品だと思った。特に、病室の中のそれぞれのベッドのそばにある、七色に色を変える光の柱の存在。この存在のために映画に非現実の空気が漂い、映画のトーンを決めている感じがする。

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 作品は過去と現在、夢とうつつ、生と死の世界を行き来するような、やはり不思議なテイストの作品だった。いっしゅん写される、水面に浮かぶ不思議な赤黒い物体のことが気になって、あのシーンだけでももういちど観たいと思ったりする。広場で大ぜいの人たちが体操のようなダンスを踊るシーンも記憶に残り、他にも印象に残るシーンが(ちょこちょこ行ったり来たりするニワトリの親子とか)あれこれと心に残っているけれど、これはなかなか忘れられない作品になるだろう。

 演出面ではとにかくはワンシーンワンカット基本で、カメラ位置もフィックス(多分、一ヶ所だけカメラが動く場面があった)。かなりの長廻しである。むかし学校だったらしい病院、その周辺にあるらしい林を舞台にした展開がいい。ずっと昔に王たちが戦った跡、そして洪水でここまで水がきたという、樹木の幹に残された跡。過去の痕跡というものが残る土地である。

 とちゅうで映画館の中のシーンがあって、そこでスクリーンには「The Iron Coffin Killer」という(めっちゃB級っぽい)タイのホラー映画の予告編が映されていたけれど、これも気になって夜も眠れない。



 

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■ 2016-04-26(Tue)

 夢をみて、以前派遣で通っていた勤務先の上司が出てきた。なんだか、あのとき派遣の仕事を始めたときの情況を夢にしたようなものだった。どうも先日テレビで、そんなわたしのやっていた業種の会社が紹介されていたせいかもしれない。今でもわたしゃ、あの仕事をやれといわれればまだまだガンガン出来ると思うんだけれども。

 で、今の上司のパワハラについてだけれども、けっきょくあれから二週間経った今になってもわたしの申し入れたことがらは無視されたままで、ただわたしに責任だけが押し付けられている。もう交渉などする気にもならず、今度は今までのことすべてをリストアップして、相談窓口にまとめてメールで訴えようと思う。「そっちが何もやらないなら、こっちがやってやろうじゃないの」という感じで、こうなったら望むのは上司の左遷である。

 午後になって、待っていたキャットタワーが届いた。梱包を開き、説明図をみて組み立てる。ニェネントが「なにやってるのー」と寄って来る。これはね、キミへのプレゼントなんだよー。組み立て終えると、ニェネントはさっそくタワーにぶら下げられたモフモフのボールに反応して、ちょっかい出したりかみついたり、ひとしきり暴れまわる。これではボールはすぐにちぎれてしまうかもしれないな、などと思うのだけれども、ちょっとリヴィングを片づけてセットしたあとは、ニェネントはもう興味を失ってしまったのか、まるでキャットタワーに寄って来ない。ただ梱包されてきた段ボール箱には反応して、中にもぐり込んだりするのである。う〜ん、もっとキャットタワーに夢中になってくれると思ったのだけれども、ここまでのところはあまりニェネントの反応はよくないみたいである。ちょっとがっかり。

 まあ、せめて爪研ぎだけでも早く憶えてほしいと、ニェネントを抱き上げて前足を取り、むりやりキャットタワーの支柱の爪研ぎになっているところで爪研ぎをやらせようとする。
 さて、とにかくは部屋の中にこのキャットタワーが鎮座していれば、これからのニェネントも変化を見せてくれるだろうか。



 

[]「サブウェイ123 激突」(2009) トニー・スコット:監督 「サブウェイ123 激突」(2009)   トニー・スコット:監督を含むブックマーク

 トニー・スコット監督の作品としては、先日観た「アンストッパブル」の前に撮られた作品。過去にあった「サブウエイ・パニック」という作品のリメイクだということ。今回も鉄道が舞台だし、デンゼル・ワシントンが主役ということで、ちょっと「アンストッパブル」の印象がかぶってしまう。
 この作品では地下鉄がジョン・トラボルタらによってハイジャックされ、乗客を人質に身代金が要求されるという展開で、運行司令室にいたデンゼル・ワシントンがジョン・トラボルタの指名で仲介〜交渉役にされる。警察側の指揮をとるのはジョン・タトゥーロ。身代金受け渡しまでのタイムリミットは一時間と指定される。

 とにかく映画の半分はデンゼル・ワシントンは司令室で座っているわけだから、ここまではアクション映画としての展開はみられない。ここは犯人のジョン・トラボルタとデンゼル・ワシントンの交渉、会話に重点がおかれるような演出で、特にジョン・トラボルタのファナティックな演技に重点がおかれている感じがする。デンゼル・ワシントンは、あくまでも抑えた演技。これが後半になって、そのデンゼル・ワシントンが身代金を届ける役を担うことになり、一気にアクション映画としての展開に期待が高まる。しかし残念なことにここからの演出はかなり乱暴で、前半のち密さに欠ける展開になってしまった。まあ前半の静的な頭脳戦というままでは終わらせられないわけだし、アクションをぶち込むために犠牲にしたものもありますよ、という感じだろうか。

 それでも、トニー・スコットの演出はやはりカッコいいというか、冒頭のタイトル部からしてスピード感満点だし、映像のスピードを編集したり、編集作業を見越しての撮影だとか、このあたりはミュージック・クリップを手がけてきた監督のような手腕を発揮するのだけれども、調べてみるとトニー・スコット監督は特にミュージック・クリップ上がりの監督というわけでもないのだった。今は、彼の監督した「トゥルー・ロマンス」がみたいなあ。



 

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■ 2016-04-25(Mon)

 キャットタワーといっしょに注文してあったカーテンが届き、さっそくつけ替えた。部屋の中が明るくなって気分がいい。キャットタワーはおそらくは明日あたりに到着するだろう。

 昨日から「千一夜物語」を読み始めているのだけれども、これまで挫折した「カンタベリー物語」、「デカメロン」と比べてはるかに面白い。ひとつには翻訳が読みやすいこともあるけれど、中世ヨーロッパのキリスト教倫理観というものが、いかに人々の想像力、表現を規制していたことか、ということなのかもしれない。それに比べると当時のイスラム教世界というものに、比較にならない自由さがあったということなのか(現在はまるで逆になっているのではないかと思うけれども)。まあ「千一夜物語」は中世当時のまま残っているわけではなく、十九世紀までの長い時間をかけて加筆修正されてもいるだろうけれども。
 わたしなどでも「千一夜物語」といえば、シェラザード(シャハラザード)姫が王(シャハリヤール)の夜伽に毎夜面白おかしい話をつづけ、翌朝には殺されるという運命を伸ばしつづけるものと承知をしているけれども、ではなぜその王はそのように毎夜娘たちの処女を奪い、翌日には殺してしまうというようなことをつづけていたのか、そのあたりのことがこの「千一夜物語」の冒頭に語られているわけで、「なるほどね〜」ということになるのである。どうもこの「千一夜物語」、その根底にはひとつに「女性というものは男性を裏切るものである」ということがあるようで、特に王などの身分の高いものの場合はたいてい、その妻は王のスキをみて不倫を重ねているみたいではある。シャハラザードが話をするシャハリヤール王もまた、自分の留守に妻に黒人奴隷との不貞をはたらかれ、それ以来女性不信になっているみたいで、そんなもんで(もちろんその妻は打ち首にして)それ以降妻はめとらず、国じゅうの若い乙女に毎夜の相手をさせては、翌朝にはその首をはねてしまうのである。そりゃあ国じゅうから処女はいなくなるわけである。シャハラザードの父はシャハリヤールに仕える大臣(ワジール)で、なんとかシャハラザードをそのような目にあわすまいとするけれど、シャハラザードは自らすすんで王の相手をすることを望むのである。
 物語は一夜にひとつというものではなく、いってみればクライマックスで中断させられたりもして、「つづきを聴きたければ明晩のお楽しみ」ということになる。たしかにこれではつづきを聴かずにシャハラザードの首をはねてしまうのはむずかしいだろう。さらに、ひとつの話はその中で分岐して、登場人物がまた話をはじめるという階層構造になっている場合が多い。「話の中の話の、そのまた中の話」という重層にもなっている。それで、第三夜は「漁師と魔神との物語」で、これは有名な「壷に閉じ込められた魔神と、その封印を解いて魔神を外に出してしまう漁師の話」である。しかしその展開はわたしなどが知っている展開とはちがっていて、「三つの願いを叶える」というようなものではなく、魔神は漁師に、不思議な魚の取れる湖を教えることになり、そこからまた話が重層化していくのである。

 わたしが読んでいるのは、いわゆる「マルドリュス版」から佐藤正彰氏が翻訳したものだけれども、その「マルドリュス版」にも十六巻ものと八巻ものとがあるようで、ここでは八巻本を基にして翻訳しているらしい。基本は同じ内容で、繰り返される韻文が多く省略されているとのこと(岩波文庫の方は、十六巻版からの翻訳らしい)。この他に日本では東洋文庫版のアラビア語カルカッタ第二版からの直訳、そしていわゆる「バートン版」とがある。わたしはバートン版というのはエロティックな部分をクロースアップして強調したものと思い込んでいたのだけれども、実は他のどの版よりも収録物語数が多く、「もっとも完備している」といわれているらしい。なんだ、知らなかった。日本ではこれはちくま文庫から完訳が出されてるけれども、ま、地元の図書館にはこれは所蔵されていないし、今読んでいるものでよしとしよう。

 夜は映画を一本観てから夕食にし、そのあとまだ早い時間にベッドで「千一夜物語」を読んでいたのだけれども、これがすぐに眠くなってしまい、いつの間にか寝てしまっていた。



 

[]「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942) オーソン・ウェルズ:脚本・監督 「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942)   オーソン・ウェルズ:脚本・監督を含むブックマーク

 これは1918年に発表された同名小説の映画化で、オーソン・ウェルズにとっては「市民ケーン」につづいての監督第二作になる作品。これはヨーロッパでいえば「貴族の没落」で、そこをアメリカの風土の中で自動車産業の興隆と共に描いている感じ。ちゃんと豪華な舞踏会(このシーンの演出、撮影〜カメラの動き〜はすばらしい)は描かれるし、やはり十九世紀の終わりと共に、貴族の没落というテーマをなぞるような作品ではあると思う。
 しかし、アンバーソン家の紹介などから展開していく前半のじっくりとした描写に比べ、後半の演出の駆け足感というのはかなりのもの。これはじつのところ、オリジナルは131分あった作品を、映画会社が88分にまで短縮編集し、ラストも撮り直したものを使用したということらしい。じっさい、デビュー作の「市民ケーン」は今でこそ誰もが認める大傑作なのだけれども、公開時の興行成績は散々なもので、世間的なオーソン・ウェルズの評価は高いものではなかったらしい。そういうことでこの作品の最終編集権もスタジオにゆだねて製作されたのがこの作品で、その131分版の試写の一般の反応も良くなかったことから、大々的にカットされてしまったのがこの作品ということらしい。そう、本来のこの作品の編集はロバート・ワイズが担当。88分版への編集は、そのワイズや、出演したジョセフ・コットンらが任されたらしい。ここで舞踏会の長廻し撮影シーンもカットされてしまったということで、もうそれらのカットされた作品は行方不明のままであると。



 

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■ 2016-04-24(Sun)

 今日は突然に、下北沢に出かけることにした。知人から案内をいただいていた公演が今日、下北沢で行なわれるのだけれども、連続五回の公演のこの日は三回目。今日は三時からの公演なので無理せずに行って帰って来れる。五月も六月もあるのだけれども、とりあえずはこの日出かけてみて、興味を持てるようだったらまた来月以降のことを考えてみようということ。
ちょっと出かけるのに躊躇する気もちもあったのだけれども、とにかくは電車の中で「千一夜物語」も読めることだし(電車の中は最高の読書室である)、天候も曇りとはいえ暑くも寒くもなくいいコンディションだし、しばらく電車に乗ってもいないので(電車の乗り方を忘れるということではないが)、とにかくは出かけることにした。

 乗り換え駅からは上野東京ラインに乗り、これだと大宮か赤羽で新宿か渋谷方面へ行く電車に乗り換えなければならないのだけれども、これがやはり車中で爆睡してしまい、まずは大宮駅を乗り過ごしてしまい、「赤羽では降りなければ」と思っていたのに、また寝てしまってハッと気づいてみたら、電車は赤羽駅にいて、もうドアが閉まってしまったところだった。昼食のじかんも見込み、ローカル線の本数の関係で余裕を持って出てきたからいいようなものの、普通なら開演時間に間に合わないことになる大失態である。とにかくは上野までそのまま出て、山手線に乗り換えて渋谷まで行く(下北沢へは、渋谷からの方が運賃が安い)。
 渋谷からは井の頭線で下北沢に行き、到着時間はまだ二時ぐらい。ちょうど昼食ができる時間が空いているので、日高屋に行って期間限定(ちょうど昨日からはじまったみたい)の和風つけ麺を食べる。麺とチャーシューとメンマだけのシンプルきわまりないメニューだけれども、わたしは過剰な味つけのものよりも「ひと味足りない」というようなものが好きなので、このメニューはけっこう気に入っている。

 食事を終えて北口に回り、まだ時間があるのでpeacock の三階の書店へ行ってみる。ちょっと岩波文庫でチェックしてみたいものがあったのだけれども、この書店には岩波文庫はせいぜい三十冊ぐらい並べられているだけで、かなりがっかりした。三十冊ぐらいだけ置いてあるという意味がよくわからない。
 この書店の窓から駅の方向を見ると、つづいている工事の様子が俯瞰できるのだけれども、もう駅が地下にもぐってから三年経つというのに、まるでカオスな状態のままという感じである。

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 そろそろ開場の時間になるので、会場に移動する。このアレイホールという場所はその名前も記憶しているので、過去に何かで来たことがあるはずだと思う。
 その公演の方だけれども、けっきょく、時間も予想以上に遅くなったので、休憩をはさんでの後半の演出者による原作の解説はパスして、会場を出て帰路に着いた。

 ターミナル駅に着いて六時二十分ぐらい。駅ビルにあるスーパーの値引きも始まっているかと思って行ってみたけれども、いなりと伊達巻寿司のセットは半額になっていた。弁当類はだいたい二割引。今日はこれで食事をすませてしまおうと、カツとチキン照り焼きの弁当、それとさっきの寿司セットを買って帰った。

 電車の中で「千一夜物語」を少し読み進めたけれども、そのことはまた明日にでも。


 

[]“すずしろ”による物語る演劇シリーズ 折口信夫「死者の書」全文を語り・演じる/全5回 その参 すずしろ:企画制作 笠井賢一:演出 @下北沢・アレイホール “すずしろ”による物語る演劇シリーズ 折口信夫「死者の書」全文を語り・演じる/全5回 その参 すずしろ:企画制作 笠井賢一:演出 @下北沢・アレイホールを含むブックマーク

 今日の公演は折口信夫の「死者の書」をモティーフに、<「語り」から「劇世界」への可能性を提示する>ということで、そのプロセスを公開するのだという。わたしは「死者の書」は読んでいないし、けっこうつらい観劇になりそうな予感がするのだけれども、どうなるだろうか。
 ‥‥けっきょくやはり、そのほとんどが三人での原典朗読で、そのさいごにわずかだけ、花束を手にしてのパフォーマンスが繰り拡げられた。

 「死者の書」のなかでも、今日取り上げられた箇所はちょっと本筋から外れた箇所だったということもあり、やはり聴いていても内容の捉えにくい朗読というのは眠くなるもので、わたしもこっくりこっくりしてしまった(まわりをみると、そういうのはわたしだけではなかったようだけれども)。さいごまで会場にいることもしなかったし、案内を下さったGさんには、あまりいい観客ではなくって申し訳ない気もするけれども。



 

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■ 2016-04-23(Sat)

 ベランダに出て洗濯していると、足元に長さ五センチほどの細長い、茶色の繭のようなものがあるのが目にとまった。手に取ってみるとそれはおそらくは蛾の蛹で、大きさからもこのあたりにいる蛾の種類からも、スズメガの蛹なのだろうとわかった。もう春も盛りで、いろいろな生命が新しい姿を見せる時期だ。

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 蛹になる昆虫というのはつまりは「変態」する昆虫で、幼虫はその姿を蛹の中でいちど完全に解体し、新たに成虫の姿になって外の世界に飛び出すのである。蛾も幼虫時代にはつまりは「いもむし」で、無数の足を持っているのだけれども、蛹の段階を経て、いわゆる昆虫の六本足と羽根を持つ姿に変態する。それまでの蛹の内部というのはいわば「カオス」状態で、つまりは幼虫期のすべてがご破算にされて溶解しているという。不思議な現象だと思う。それはひょっとしたら、昨日読んだボルヘスの《アレフ》みたいなものではないかと空想してみたりする。蛹の中には、「宇宙」が内包されているのではないのか。

 今日は土曜日で、久々にMDコンポでの留守録がちゃんと機能して(先週は地震の報道でいつもの番組は休止したようだし、その前はリアルタイムに聴いたので留守録はしなかった)、そうやってエアチェックした「ウィークエンド サンシャイン」と「世界の快適音楽セレクション」とをずっと聴いていた。やはり留守録が出来るというのは仕合わせなことであろう。

 「エル・アレフ」も読み終わったし、次は「千一夜物語」を読もうということにして(借りている「デカメロン」は、もう返却する)、午後からやはり借りている「千と千尋の神隠し」を観て、借りていたものをまとめて図書館へ行った。まずはお目当ての「千一夜物語」を探し、借りることにする。筑摩書房の全集モノとしては「世界文学大系」と同じ本の大きさだけれども、こちらは二段組みだから多少はサッサと読めるかと。あと、CDでメシアンの「彼方の閃光」、意外とこれはちゃんと聴いていないビル・エヴァンスとジム・ホールの「アンダーカレント」、それと家にケースはあるけれども中身の見つからないリー・ワイリーの「ナイト・イン・マンハッタン」を借りる。DVDも何か借りようと、アルトマンの「ゴスフォード・パーク」を借りた。



 

[]「千と千尋の神隠し」(2001) 宮崎駿:脚本・監督 「千と千尋の神隠し」(2001)   宮崎駿:脚本・監督を含むブックマーク

 もちろん昔観ている作品だけれども、まるで記憶していないわけである。これは面白い。奇想のかぎりを尽くしたという感じもして、ジブリ版の「不思議の国のアリス」という感じもする。

 しかし、この作品の基底テーマはおそらくは「欲望」、その充足のネガティヴな側面という感じで、千尋の両親はその「ワンダーランド」に迷い込んだときに「食欲」の罪に陥り、豚に変身してしまう。その先に千尋が行く湯屋とは、おそらくは八百万の神々のための遊郭というところで、ま、これは露骨にな描写出来ないだろうけれども、「性欲」のもんだいはあるのだろうと思う。そこではたらくものたちはおそらく金銭欲に囚われているというか、とにかくは彼らが動く第一原理は「金」であろうというのは、そこに闖入する「カオナシ」への対応にあらわれているだろうか。「カオナシ」という存在も、ひとつタガが外れると「物欲」まみれの存在になってしまい、とにかくは「もっと欲しい!」だけの存在に堕ちる。湯屋を経営する「湯婆婆」にせよ、これは資本主義原理での欲望追求に忠実な存在だし、その双子のライヴァルの「銭婆」のことはよくわからないけれども、そのネーミングからしても守銭奴っぽいというか。
 そんな欲望まみれの世界に迷い込んだ千尋に、そこから逸脱する精神を持つ「ハク」は、「ここで働かせて下さいといいなさい」という。「欲望」の蔓延する世界で、その欲望充足願望に対抗するのは「労働」ではないかということだろうか。う〜ん、ある意味でマルクスっぽいというか、社会主義理論ではないだろうか??? じつは「川」であるハクは、ある面で「自然世界」の象徴でもあり、人間たちの欲望充足行為によって死に瀕している、というあたりにも、現代社会批判みたいなものが汲み取れる気がする。「坊」が外の世界にふれて自立するというあたりにも、監督のメッセージを読み取れるだろう。ま、この資本主義社会はここでの「湯屋」みたいなものであり、わたしなどもその中で右往左往するカエルみたいなモノなのかもしれないな。

 その登場から、両手を上げてふにゃふにゃと女の子走りをする千尋はじつに頼りないのだけれども、これが湯屋に入ってみるとおどろくほどに芯の強い少女であることにびっくりする。この「湯屋」の世界での盟友であるハクを救うために、すっごい冒険もこなしてしまう行動力も持っている。彼女はこの奇想の世界の傍観者ではなく、積極的に行動する存在である。その原理の第一はまずは「豚になってしまった両親を人間に戻す」ことにあるけれども、それは「傷ついたハクを助ける」ということにも結びつく。

 飛び出すいろいろなイメージは眼を楽しませ、その色彩設計も見事だと思う。ジブリ作品の中ではちょっと異質かもしれないけれども、これもまた宮崎駿のメッセージなのだろう。わたしは好きな作品である。



 

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■ 2016-04-22(Fri)

 このところすっかり、電車に乗って出かけるという気分にならなくなってしまった。観たいと思う演劇やダンスなどの公演がなくなったということもあるけれども、それはわたしのチェックが足りないだけで、じつは今日もどこかで、わたしが観て面白いと感じるような公演が開催されているのかもしれない。そう、映画などは探せば「観に行ってもいいな」と思うようなものはいつでも見つかるのだろうけれども、やはりそういう気分になれないでいる。ただ、今渋谷でやっている、アピチャッポン・ウィーラセタクンの「光りの墓」は観ておきたい。そう思って、その「光りの墓」の上映されるシアター・イメージフォーラムをチェックしていると、今月末から(つまり、一般のゴールデンウィークのあいだ)「イメージフォーラムフェスティバル」がはじまることがわかり、その上映プログラムをみていると、そのうちの幾本かはぜひ観てみたいなと思うようになった。そう、あとはカラヴァッジョ展もやはり行きたいし、久々に連続して東京へ行くようなことになるかもしれない。

 別に、遠出しないからお金が残ったというわけでもないのだけれども、気分転換に汚くなっているリヴィングのカーテンを買い替え、それと、ニェネントのためにキャットタワーを買うことにして、今日注文してしまった。ちょうどネットのプロバイダの契約更新代金も請求が来ていて、合わせるとちょっとした出費になってしまった。

 今日は借りている本を返して、読もうと思っている「千一夜物語」を借りて来ようかと思ったのだけれども、借りているDVD「千と千尋の神隠し」をまだ観ていないので、これを観てから図書館へ行こうと思う。

 ボルヘスの「エル・アレフ」を、ついに読み終えた。



 

[]「エル・アレフ」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳 「エル・アレフ」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 篠田一士:訳を含むブックマーク

 ラストの一篇は「アレフ」。おそらくはボルヘスの恋人であったのではないかと思われる、ベアトリス・ビテルボの死、彼女への追憶から作品は始まる。ボルヘスは、そんなベアトリスの誕生日である四月三十日に、彼女の親族(父?)であるカルロス・アルヘンティーノ・ダネリを訪問する。四月三十日には毎年カルロス邸を訪れるようになり、だんだんにカルロスと親しくなっていく。じつはカルロスは自信過剰な詩人であり、ボルヘスは毎年、辟易しながらカルロスの自画自賛文学談義に付き合うのである。しかし、ついには彼がボルヘスに「地下室にある《アレフ》」のことを打ち明けるのは、カルロスの信頼を得たからこそだろう。そしてボルヘスは地下室でその《アレフ》を目にするのである。《アレフ》とはどんなものか。

 梯子の段の下側の右手に、ほとんど直視出来ないほどに輝く玉虫色の小さな球体が見えた。最初、それは回転しているのだと思った。それから、この運動とみえるものは、それが内蔵する多くのめくるめく光景のつくり出す幻影なのだと分った。《アレフ》の直径は二、三センチに過ぎないが、宇宙空間が、大きさを減ずることなく、そこに存在しているのだ。一つ一つのものが(たとえば鏡面のように)無数のものであった。なぜなら、わたしは宇宙のあらゆる地点からはっきりとそれを見たのだ。

 ‥‥その地下室は取りこわされることになっており、《アレフ》をみせてくれたカルロスに「(これを機会に)誰ひとり容赦しないこの危険な首都から遠ざかることです」と強くすすめ、《アレフ》について議論することを拒否する。そして、「忘却」が、これらのことをおおいつくすのである。

 ここには、文学表現においてのみ可能な「無限」の表出があるだろう。空間的にも時間的にも無限であるような、そんなスポットが直径二、三センチの球体の中にある。ボルヘスがおもしろいのは、その《アレフ》にたどり着くためにベアトリス・ビテルボの死からこの物語をはじめ、カルロス・アルヘンティーノ・ダネリという男を奇妙な案内役として登場させること。これらの背景が、《アレフ》とは別に物語を構成するようではある。

 この「エル・アレフ」という書物全体でいえることは、先に読んだ「伝奇集」のような、架空の書物をめぐり迷宮をさまようペダンティックな展開が影をひそめ(消えてしまうわけではないが)、もっと直線的な展開の物語が多いと思った。その分、わたしなどには読みやすい作品が多かっただろうか。ただ、「直線的」とはいっても、そのラストが冒頭へつながって円環を成すような、そんな作品が多いし、まさに「推理小説」ともいえる展開をみせるもののある。そしてガウチョの世界を描いた作品もいくつか。そうみてみると、これはボルヘスの多岐にわたる嗜好性がいちどに噴出した作品集ではないか、とも思える。

 「エンマ・ツンツ」は誰が読んでもストレートに面白さを感じられる作品だろうし、ボルヘスの年譜をみると、この作品は何度か映画化されているみたいではある(その中にはボルヘス自身が脚色したものもあるようだ)。わたしが面白く読んだのは「神学者たち」や「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」、「アヴェロエスの探求」などなど。いや、みんな面白かったけれども。



 

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■ 2016-04-21(Thu)

 朝、しごとから戻って来ると、ウチのベランダの前にネコがいて、ウチのベランダを見上げていた。そのネコの体の柄や色がニェネントに似ていたので、いっしゅん、ニェネントが外に出てしまったのかと思ってしまった。しかしそのネコがわたしの気配であわてて逃げていくところをみたら、前にみたことのある野良ネコだった。ニェネントに似ているところがあるなんて思ったこともなかったのに。でも、そういう野良がまだ元気に生きているということがなんだかうれしい。ウチのベランダを見上げていたというのは、ニェネントの気配を感じていたのだろうか。このあたりにはもう野良ネコの姿もまるで見かけないし、ひとりぼっちで淋しいのだろうか。キミが牡でさえなければ、ニェネントとお友だちになってくれるのは大歓迎なんだけれども。また来てくれるといい。

 今日は木曜日だから、南のスーパーは全品10パーセント引き、北のスーパーはたまごの安売りの日で、南北へと歩き回った(それほど遠距離ではないのだけれども)。南のスーパーでは鶏のもも肉と、まだ売っていた白菜の大きな玉とを買った。これでまた水炊きをやるつもりだし、白菜は長持ちするしいろいろに使えるし、キッチンにひと玉あると何かと便利である。

 やっぱり「デカメロン」も読むのはやめることにして、ボルヘスの影響かな?というところで、「千一夜物語」をあらためて読もうかということにした。それは読むのなら抄訳ではなくて全部読みたいし、そうすると筑摩の「世界古典文学全集」で四冊。それは今年いっぱいかかってしまうのではないかと、ちょっと不安になってしまったりもする。

 そのボルヘスもいよいよ佳境に差しかかってきたというか、あとふたつである。今日は「敷居の上の男」を読んだ。「あるイスラム教都市に騒乱がおこったので、秩序を回復するために。中央政府が一人の強力な人物を送った」。その男は「デイヴィッド・アレグサンダー・グレンケアン」と、この物語の中で呼ばれることになる。「彼が来るという知らせだけで、その都市を鎮静させるに充分だった」。数年が過ぎ、グレンケアンが失踪する。この物語の語り手(ぼく)は、グレンケアンの運命を隠し通そうとする陰謀が瀰漫(びまん)しているのを感じる。「この町の住民は(とぼくは思った)、一人残らず秘密に加担しているし、それを守ろうと誓っているんだ」。「ぼく」は、ある界隈で、「一個の物体のように動かない非常に年とった男」が敷居にうずくまっているのに出会う。「ぼく」は彼がまさかグレンケアンの失踪のことを知っているとは思わないのだが、男は「わしが子供の頃」のこととして、イギリスから来た裁判官が審判にかけられたことを語るのである。人々は裁判官を裁く裁判官を探そうとした。しかし裁判官となるべき賢者は見つからず、「もし運命がわしらに賢者を禁じるなら、愚者を探し出すべきではないか」ということになる。判決は一人の狂人の意志にゆだねられ、なんと被告はその裁判官を承認するのである。‥‥裁判は十九日つづいてついに宣告がくだり、短剣が被告の喉にくらいついたという。それらの話をした男は立ち上がり、その言葉は「ぼく」を追い払う。歩いて行った「ぼく」は、手に刀を持った裸の男に出くわす。「誰もが彼に口づけして、ちやほやしていた。その刀はグレンケアンに死を与えたために汚れていた。四肢を切断されたその屍を、ぼくは突き当りの厩の中で発見した」。
 ‥‥時間軸のずれ。そして、賢者と愚者という対比。なぜ殺された男はイギリス人なのだろうか。「戦士と囚われの女の物語」でのイギリス人のこと、そして、「アベンハカーン・エル・ボハリー、おのれの迷宮に死す」が逆にイスラム世界からイギリスへ逃亡してきた男の物語だったことを思い出す。



 

[]「MEMORIES」(1995) 大友克洋:製作総指揮 「MEMORIES」(1995)   大友克洋:製作総指揮を含むブックマーク

 三篇の中篇からなるオムニバス。

●「彼女の想いで」大友克洋:原作 今敏:脚本・設定 森本晃司:監督
 宇宙の彼方(ここでは宇宙の廃墟)からメッセージが届くというのは、「2001年宇宙の旅」を思い出させられるし、その宇宙船の内部にロココ空間が出現するというのもまた、「2001年」にみられたものではないかと思う。その空間は元オペラ歌手の現世への執着らしく、発信されるメッセージは彼女の唄うオペラ歌曲である。空間はホログラフとして彼女の世界を現前化させ、そこへ到達した宇宙飛行士を惑わせる。これは考えてみたら、先日読んだビオイ=カサーレスの「モレルの発明」を思い出すところもあり、そういうところでは、ビオイ=カサーレスやボルヘスがSFを書いていたらどんなだっただろうと想像させられてしまうところがある。
 わたしとしては、このアニメの人物を描く描線の硬さは好みではなく、特に女性や子どもの描き方にはまるで気もちを動かされないのである。

●「最臭兵器」大友克洋:原作・脚本・キャラクター原案 岡村天斎:監督
 一種ブラック・ユーモアの作品というか、ある男が飲んでしまったカプセルというのが、つまりは「最終兵器」だったというのである。しかしそれを飲んでしまった男自身はそのことに気づかず、死に到らせる臭気を発散させながら山梨から東京へと東上して行くのである。まあ壮大なジョークとして、楽しむしかないのである。
 しかし、ここでのリアルな絵のタッチはこのストーリー展開にマッチしているのか、特に次の「大砲の街」を観てしまうと、こういうオーソドックスなアニメというものにも限界を感じてしまうだろうか。

●「大砲の街」大友克洋:原作・脚本・キャラクター原案・美術・監督
 これぞまさしく大友克洋の作品で、素晴らしい描画と色調の統一、その世界観、そして全篇がいわゆる「カット」なしに継続するという、演出面の面白さも堪能できるわけである。大友克洋には、またすばらしい長篇アニメをつくってくれることを期待している



 

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■ 2016-04-20(Wed)

 今日みた夢。わたしの部屋でパーティーが行なわれている。パーティーというよりもライヴ・イヴェントのような雰囲気で、三組ぐらいのバンド(?)が出演していて、見知らぬ人が大ぜい来ている。例によってわたしの部屋はじっさいのそれよりだだっ広く、学校の教室のようである。わたしの妻は別室にいて、知人の女性たちとだけで閉じこもり、何か食べものをつくったりしているようだ。
 すべてのスケジュールが終わり、部屋には誰もいなくなる。わたしは少しずつ部屋を片づけはじめる。ラストに出ていたバンドに関するチラシが床に落ちていて、それを読んでそのバンドのメンバーの娘さんが亡くなられていたことを知る。壁に掲示板のような書き込みが残されていて、そこに書かれていることが面白いので、わたしはそれを残しておこうかと考える。
 妻の部屋はまだ閉め切っていて、友だちがまだいるのかと思っていたのだけれども、ちょっとのぞいてみるともう皆帰ってしまっていて、妻だけが奥のソファーの上で寝ていた。目を覚ました妻に「皆帰ったのか」と聞き、わたしは「掃除をはじめなければ」という。そんな夢だった。

 昨夜は雷雨だったけれども、今日はまたいい天気になった。しかし、早朝にしごとに出て、そのあと一度だけ、ちょっと近くに買い物に出た以外は家にこもりっぱなし。そして昼食のあとはまた長い午睡。それで、「こんなに睡眠ばかりしてだいじょうぶなのか」と思うくらい、夜も早くに寝てしまうのである。

 今日は寝てばかりいて、映画も一本観たので、あまり読書ははかどらなかった。今日のボルヘスは「待つ」という作品。ヴィラリという男の追跡から逃げているらしい男が、自らその追っ手のヴィラリという名を名乗り、ブエノス・アイレスに潜伏する。彼は待つのである。新聞にヴィラリの死亡記事が載る日を。「ヴィラリが《すでに死んでいた》こともまたあり得ることだが、その時はこの人生は一場の夢となるわけだ。この可能性は彼を不安にした。」

ヴィラリは、追憶も予見もない、ただの現在に生きようとした。ことに前者は後者よりなお問題にならなかった。漠然とではあるが、過去とは時間を形成している実質であることが分かったと信じていた。だからこそ、時間は忽ち過去に変わるのだ。彼の疲労は、ある日、幸福に似ていた。このような瞬間には、彼は犬よりも大して複雑な存在ではなかった。

 ‥‥漠然とではあるが、わたしも同じようなことを考えていたことがある。「待つ」とは、何を? 「死」であろう。



 

[]「海炭市叙景」(2010) 佐藤泰志:原作 熊切和嘉:監督 「海炭市叙景」(2010)   佐藤泰志:原作 熊切和嘉:監督を含むブックマーク

 しばらく前に観た「そこのみにて光輝く」も、この作品と同じく佐藤泰志の原作だったし、やはり彼の原作の「オーバー・フェンス」という作品も、今年は公開されるらしい。彼はもう25年も前に、41歳の若さで自殺されている。

 この「海炭市叙景」は、函館をモデルとした架空の町「海炭市」を舞台にした、五つの物語からなるオムニバス作品。さいしょの兄妹(妹役が谷村美月)の話が大みそかの話で、次のネコを飼うおばあちゃんの話は過去にさかのぼる展開になる。プラネタリウムに勤める男(小林薫)は、妻(南果歩)が夜の水商売に働きに出ていて、家族はバラバラである。同じように、ガス会社の社長(加瀬亮)の家庭にも、DVが横行しているのである。そのガス会社に東京から浄水器の営業で来ている男は、実家に帰らずに年末の夜のバーで男女の醜態を眺めたりしている。時制は兄妹の話に追いつき、兄は初日の出をみた帰りに山で遭難し(自殺だろうか)、死体が見つかるというニュースがテレビで流れている。ガス会社の営業の男は墓参りに行って父と会い、バスの中で会話する。彼は東京へ帰って行く。おばあちゃんのネコは行方不明になっていたけれども、妊娠して戻って来る。おばあちゃんは「産め、産め、おらが育ててやる」といっている。そんな映画である。

 音楽がジム・オルークで、映画の雰囲気にとてもマッチしているというか、この映画の空気をつくっているのかもしれない。この作品も撮影(近藤龍人)がよくって、ロングの固定カメラから移動していく流れとか、室内での縦の構図とかに惹かれる。とにかくは五つの物語を通して、この架空の「海炭市」を背景にして生きる人々を外からとらえながらも、微妙なところでその内面をうかがい知れるような、その加減がすばらしいのである。いい映画だと思った。




 

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■ 2016-04-19(Tue)

 今日は図書館が開いているので、借りていたCDやDVD、本を返しにいった。かわりに「デカメロン」とか借りてきたけれども、どんなものだろうか。借りて帰って本を開いたら、もうあんまり読みたくもなくなってしまった。

 図書館への道ぞいの風景を、またデジカメで撮ってきた。まずはブロック塀のすき間から外にはみ出て咲いた花。この花は調べてみて、「蔓日日草(つるにちにちそう)」というのだとわかった。

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 これはウチのすぐ裏で満開になったツツジの鮮烈な赤。

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 ウチの外壁もずいぶんとツタが伸びてきて、外壁をおおいはじめた。真夏には壁が見えないほどに生い茂ることになるのだが。

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 公園のケヤキの木も、緑の葉がどんどんと吹き出すように茂ってきた。毎日の成長がとても早い。近くでみたら、葉が大きくなっていくのが肉眼でもわかるんじゃないだろうか。

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 今日は昼のあいだは暖かい春らしい晴天だったのだけれども、夕方からくもりはじた。日没のころには雷鳴がひびいて、稲光もみえるようになった。
 熊本、そして大分の地震はまだ大きな余震(?)がつづいていて、被災者の人たちは落ち着かないことと思う。安倍内閣は「リーマン・ショックや大震災のような重大な事態が発生しない限り、来春の消費税増税は確実に実施する」といったらしい。今回の地震は「大震災」と呼んでいいのではないだろうか。安倍首相は原発事故が起きるぐらいじゃないと、「人災」の側面がないと「大震災」とはいえない、などと思ってでもいるのだろうか。ひどい話ではないだろうか。

 ボルヘスの「エル・アレフ」、今日はまず「アベンハカーン・エル・ボハリー、おのれの迷宮に死す」。珍しく二人の人物の対話である謎が究明されるという体裁で、その対話する二人の一方は詩人であり、もう一方は数学者という設定。一種の謎解きミステリーなのだけれども、そういう謎を解くというのは、詩人的精神と数学者的精神とがあってこそ解けるのだというボルヘスの示唆なのだろうか。タイトルに「迷宮」は出てくるし、じっさいに謎を解かれるべき「事件」の舞台はその迷宮で起こるのだけれども、ここでボルヘスの描く迷宮は思いがけずもずいぶんとあっさりしていて、誰ひとりその迷宮で迷うわけでもない。ただ、ミノタウロスとの関連があって迷宮が引き出されたのだろうか。なぜか舞台はイギリスである。

 次は「ふたりの王とふたつの迷宮」で、これは先の「アベンハカーン・エル・ボハリー、おのれの迷宮に死す」の中で語られる物語を、ここに独立させて収録したもの。さて、ここでのふたつ目の迷宮とは、次のようなものである。

「おお、時と物の王、世紀の鑑よ! バビロニアであなたは、無数の階段と扉と壁をもつ青銅の迷宮にわたしが踏み迷うことを望まれた。今全能の神は、わたしの迷宮をあなたに見さしめたまう。ここにはのぼるべき階段もなく、押し開くべき扉もなく、たどるに疲れる回廊もなく、行く手を阻む壁もない」

 ‥‥そしてそれは、つまりは広大な「砂漠」なのである。

 今日は先日録画しておいた「パリ、テキサス」を観ようとしたら、地震のために時間がずれ込んでいるし、放映中にさらにあの本震が起き、映画放映は中断してしまっていた。残念。それで一昨日録画した「スピード」を観たのだけれども、始まって三十分ぐらいは延々と地震の震度などのテロップが何度も繰り返し挿入されていて、「そこまでしつっこく、映画を放映しているところにかぶせて報道しなくってもいいんじゃないか?」とは思ってしまった。ちゃんと報道チャンネルは別にあるではないかと。



 

[]「スピード」(1994) ヤン・デ・ボン:監督 「スピード」(1994)   ヤン・デ・ボン:監督を含むブックマーク

 これも脚本の秀逸な作品だけれども、演出としては放置状態というか、もう俳優のやりたいようにやらせているだけみたいな印象はある。犯人のデニス・ホッパーの奇妙な陽気さはどうかと思うし、捜査隊の隊長のバカ陽気ぶりにはあきれる。監督はもともと撮影監督あがりの人ということで、各ショットをどのように撮るかということはコントロールしていたのだろう。ハリウッドらしく膨大な予算を注ぎ込んでるなと思ったら、意外と低予算作品だったらしい。この作品のヒットでハリウッドのアクション映画というのは一気に盛り返したということである。

 ヒロインのサンドラ・ブロックがなんとも「ゼロ・グラビティ」を思わせられる役どころというか、主演のキアヌ・リーブスとのやりとりで「あんたの天職はパイロットだと思う」といわれてしまうのには笑ってしまったし、問題のバスからついに脱出の瞬間というのも、どうしても「ゼロ・グラビティ」を思い浮かべてしまう。




 

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■ 2016-04-18(Mon)

 今日はおだやかな晴天。午後からニェネントのネコ缶がもうなくなって来ているのを思い出し、今日は月曜日なので、ホームセンターの方のドラッグストアへ行けば3パーセント引きなのだけれども、なんだか行くのがめんどうになって行くのをやめた。まだ十日分以上は残っているから、来週買いに行けばいいだろうと思うのだけれども、こうやってこのごろは外を歩くことを忌避してばかりいる。そのせいかこのところはメタボというか、ウェストが太くなってしまってボトムズがきゅうくつになってしまっている。もうちょっと散歩をするとか、運動をしなくっちゃいけないと思うのであるが、あまりやる気がないというのが正直なところ。今日は図書館は休館日なので行けなかったし、しごとも休みだったのでほとんど外に出かけずじまい。スナックをかじりながら映画を観て、メタボな一日である。

 今日読んだボルヘスは二篇。まずは「《ザーヒル》」という作品。《ザーヒル》とは何か。それはイスラム起源の信仰のようなもので、「けっして忘れられないという恐ろしい力を持ち、そのイメージがついには人を狂気にかりたてるという存在もしくは事物」のことだという。つまり、俗に「昼も夜もそのことばかり考え、夜も眠れなくなる」というようなヤツの、もっともっと強烈なモノなのだろうか。
 作品は「ブエノス・アイレスでは、《ザーヒル》は二十センターボにあたるありふれた硬貨である」と書き出され、ボルヘス自身が主人公として、その《ザーヒル》を手にしてしまった経緯が語られる。主人公(ボルヘス)はその魔力の圏外へ出ようとしてくだんの硬貨を使ってしまうのだけれども、やはり逃れることは出来ないのである。主人公(ボルヘス)は《ザーヒル》信仰のことを調べはじめる。まず《ザーヒル》の存在の最初の証拠とは、「ひとたびそれを見た者は以後他のことは何一つ考えられなくなるように造られ、それゆえ、人びとが宇宙を忘れることを恐れて、海の最も深いところへ沈めよと王が命じた」銅製の天体観測儀であったという。また、魔性の虎こそが《ザーヒル》であったという言い伝えもある。
 けっきょく、《ザーヒル》のことを調べても、主人公は「何ものもわたしを救うことが出来ない」ことを悟り、絶望、安堵、羨望などの感情を味わうのである。そして主人公は、その《硬貨》をどこまでも観察するのである。

かつてテニスンは、もしただ一つの花でも理解することが出来れば、われわれが何者であり、世界が何であるかを知ることが出来るはずだ、と言った。恐らく、いかに取るに足らぬものでも、宇宙の歴史と、因果の無限の連鎖をはらまぬものはない、と彼は言いたかったのだろう。恐らく彼の言いたいのは、可視世界は、丁度、ショーペンハウアーによれば意志があらゆる主観の中にふくまれるように、あらゆる表象の中にふくまれるということだろう。ヘブライ神秘学者たちは、人間は小宇宙であり、大宇宙の象徴的鏡であると主張する。テニスンに従えば、あらゆるものは宇宙たり得るのだ。あらゆるもの、あの堪えがたい《ザーヒル》さえも

 こういう文章こそ、ボルヘスの真骨頂というか、ショーペンハウアーとヘブライの神秘学者がすんなりと並列されてしまうことに、ボルヘスの魅力があるだろうか。作品はさらに面白い文章が続き、まさにその《ザーヒル》の奥に神が出現することになるのだけれども、わたし自身が《ザーヒル》にザーヒルされたようになってしまう。このあたりでやめておこう。

 次は「神の書跡」。なぜかジャガーと共に半球型の地下牢に幽閉されている男の独白。幽閉される中で男は「何事かをなさねばならぬ、何かの意味で時間を生かさねばならぬ」という宿命に駆られるのである。そして彼は、神についての伝承の一つを思い出すことになる。「末世に多くの不幸と荒廃とがむらがり起ることを予見して、天地創造の第一日に、神は諸悪を祓うことの出来る魔法の一文を記したまうた。それがはるか後代に伝わるよう、又偶然がそれに触れることのないような方法で書かれたのである。」う〜ん、これは、「天空の城ラピュタ」の呪文「バルス」のようなものなのか。
 とにかく、主人公は考えて、そのメッセージとは、自分の前にいるジャガーのその毛皮の模様に記されているのだろうと考えるのである。ある無限とも思える夢のあと、主人公は神との、宇宙との合体を体験する。そしてその、神の言葉を知ることになるのである。「それを唱えさえすれば、この石牢を撤廃し、わたしの夜の中に日をさし入れ、若返り、不死となり、虎がアルバラードを引き裂き、スペイン人どもの胸に聖なる短剣を埋め、ピラミッドを再建し、帝国を再興することが出来る」。しかし主人公は、その言葉を自分は決して唱えないことを知っている。「宇宙の燃えさかる構図」をかいま見た者にとって、すべては他者なのである。何者でもない彼からすれば、他者の運命に何の関係があろうか。そういうことなのである。これもまたボルヘスらしい、無限をかいま見るような一篇であるだろうか。



 

[]「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014) モルテン・ティルドゥム:監督 「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014)   モルテン・ティルドゥム:監督を含むブックマーク

 「エニグマ・コード」については聞いたことがあると思っていたけれども、その詳細はまるで知らなかった。この作品は、そのドイツ軍の暗合コード「エニグマ」の解読グループの主導的人物、初期のコンピューター開発者であり、のちに同性愛者として訴追されてあげくに自殺したアラン・チューリングの半生を、その三つの時代で描いたもの。もちろんメインは世界大戦の時代の「エニグマ」解読への過程であるが、彼が同性愛者として不幸な人生を終えたことをも描くことで、邦題にあるようにひとりの天才数学者の人生を浮き彫りにする。

 この映画の良さは何といってもその脚本にあるだろうけれども、この原作にあたるアラン・チューリングの伝記は1983年に出版されていたらしく、また、そこから脚色された脚本も2011年には書き上げられて発表されていたようである。その脚本の評判がまずは非常に高かったようで、満を持しての映画化ではあったようである。

 通して観て、けっきょくはアランが同性愛者であるということが重たい意味を持ち、そのような同性愛者差別を行なっていた当時の情勢への批判になっている。こんなつまらない差別法がなければ、イギリスはコンピューター開発の最先端を行っていたかも知れない。そして映画でアランが逮捕される時代は、まさに先日の「キャロル」と同じ時代なのである。イギリスとアメリカ、国が違うとはいえ、「キャロル」のハッピーエンドがいかに大胆なものであるかが納得できる。

 アランは人の感情の機微を解さない男とも描かれ、同僚との酒の席で、他のメンバー(チェスやクロスワードに関して天才肌の能力を持っている)がその言葉尻での心理のやり取りを読んでいくのについていけない。それでも、別の言葉尻から暗号解読の重要なヒントを読み取るというあたりがとっても面白い。さらに、暗号解読のあとも素直に軍の行動に結びつけようとはさせないあたりの計算もみごとである。

 演出陣も、「この脚本なら傑作にできる」という意気込みがあるのか、予算もそれなりに注ぎ込まれたのだろうけれども、戦時下の情況をあらわすほんのちょっとしたシーンにも贅沢に予算が使われているようで、重厚さは感じられる作品になっている。主演のベネディクト・カンバーバッチももちろんいいのだけれども、わたしはその上司役のチャールズ・ダンスやマーク・ストロングがお気に入り。主人公のアランと一度は婚約する暗号解読チームのメンバー、紅一点のジョーンをキーラ・ナイトレイが演じているのだけれども、みているとおそらくは現実のジョーンはもっともっと地味な女性だっただろうと想像してしまい、「キーラ・ナイトレイはちがうんじゃないかな〜」と思ってしまったのだけれども、wikipedia の記述に、まさにアランを知っている姪の証言が書かれていて、彼女も「ナイトレイの起用は不適切ではないか」と語ったらしい。ま、いいんだけれども。




 

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■ 2016-04-17(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 とても風の強い一日で、あんまり風が強いのでなるべく外に出ないようにしようと決めた。何かが飛んできてそれに当たってケガをしてしまうのもバカげている。家でおとなしくしているに限るのである。そういうわけで、図書館に行こうと思っていたのも中止した。

 テレビは今日も熊本地震の報道が多いけれども、日曜の昼らしいバラエティー番組もやっている。あまり興味もないので、ベッドに寝ころんで本を読んでいると、例によって眠くなってしまい、そのまま寝てしまう。いくら読んでいるボルヘスが面白いといっても、眠くなるものは眠くなるのである。それで目が覚めるともう外は薄暗くなっている。このところはまいにち、こんないちにちの過ごし方ばっかりになってしまっている。

 今日の「エル・アレフ」は、また三篇読んだ。まずは「もうひとつの死」という作品。この作品もガウチョもの、ということもできるのかもしれないけれども、1904年の革命の戦闘での臆病なふるまい、その恥辱にあふれた記憶に以後四十年を臆病者として生きたダミアンという男が、1946年に死を迎えるときにその過去をつくり変え、まさにあの戦闘のときに勇敢に死んだ英雄として「死に直す」のである。ボルヘスもこのダミアンという男のことを多少知っていて、その写真を見たこともあるのだが、写真は失せてしまった。ダミアンの死の直後にボルヘスが会った大佐は、そのときは1904年のダミアンを「臆病者」として憶えているのだが、次に会ったときにはどうしてもそのダミアンのことを思い出せなくなっている。革命戦争後のダミアンをよく知る老人もダミアンの死の直後に死んでしまい、1904年以後のダミアンに関する記録、記憶はすべて消えてしまうのである。そのときボルヘスの読んだ本には、「神はかつて存在したものを存在しなかったものにすることが出来る」と書かれている。ボルヘスは、臆病者ものの振舞いをしたダミアンは、その余生を自らの恥ずべき行為を修正することに捧げたのだろうという。ダミアンはその臨終にあたって、四十年前の戦いを再び生き、そこでまさに男らしく振舞い、総攻撃の先鋒を切って突撃して銃弾に倒れるのである。

神学大全』には、神が過去を作り変えることは不可能とされているが、原因と結果との錯雑した連鎖関係については言及がない。その関係はあまりに広くまた密接であるために、たとえとるに足らぬと思えるたった一つの昔の事実も、現在を無効にすることなく抹消するのは不可能だろう。過去を修正することは、ただ一つの事実を修正することではない。それは、無限に及ぼうとするその事実の結果を抹消することになる。換言すれば、それは二つの世界史を創ることになるのだ。

 ‥‥文学なんてある意味ウソ八百書けるのだから、「過去が入れ替わってしまった」ならそれだけでよさそうなものなのに、ボルヘスはそこに得意の神学書などの典拠を持ち出し、別の世界史を創ってしまう。この壮大さというのか、厳密さというのか、それがボルヘスの魅力でもあるだろう。

 次は「ドイツ鎮魂曲」。これは難物である。強制収容所の副所長であった語り手のナチス党員、オットー・ディートリッヒ・ツア・リンデは、戦犯(拷問者ならびに殺人犯)として処刑されようという前夜にこの「ドイツ鎮魂曲」を書いている、そういう設定である。この作品についてボルヘスは、末尾のエピローグに短いコメントを書いている。

さきの大戦中、わたしほどドイツの敗北を切望した者はなかったはずだし、ドイツの運命の悲劇を、わたしにまして感知した者もなかったはずだ。「ドイツ鎮魂曲」は、ドイツについて何一つ知らないわが《親独家》たちが、泣くことはおろか、推測すらしなかったこの運命を、理解しようと望んだものである。

 この作品は、たんじゅんなナチスドイツ糾弾の作品ではない。もちろんナチスドイツを肯定などしていないのだけれども、語り手のナチス党員に「ドイツ的精神」とでもいうものを語らせ、その敗北をまさに「ドイツの運命の悲劇」として書いたものだろう。語り手はナチス敗北ののち、「わたしが敗北を喜ぶのはなぜか」と自問する。

新秩序を樹立するためには、多くのものが破壊されねばならぬ。われわれは今、ドイツもその一つであったことを知る。われわれは生命以上のあるものを与えてしまった。わが愛する祖国の運命を手放したのである。他の者は呪うがいい、泣くがいい。わたしはわれわれの運命が円環を閉じ、完成したことを喜ぶ。

 青春期の語り手の精神に影響を与えたものとして、彼はブラームス、シェイクスピア、そしてもう少しあとにはニーチェとシュペングラーの影響を受けたと告白する。この「ドイツ鎮魂曲」を理解するには、おそらくはこれらの人物に留意しなくてはならないだろう。実際、ニーチェとシュペングラーの名はナチスの思想的バックボーンとして語られることも多いと思うが、特にシュペングラーの、「あらゆる文化は予定された歴史的運命によって発展し、変貌し、ついに円環をなす」(この部分、「松岡正剛の千夜千冊」から引用させていただきました)ともいえる思想こそ、語り手の思想に大きな影響を与えているのではないだろうか。そして、その「円環」の思想は、ボルヘスの得意とするところのものでもあるだろう。
 しかし、この作品はあくまでも語り手の思想として語られるものであって、この語句をそのまま受け入れることはできないだろう。読み手はこの作品をどのように批判的に読み得るか、そのあたりが試されるように思えてしまう。ラスト近くには次のような文章がある。はたしてこれをどう読むか。

 今や、非情の時代が世界を覆わんとしている。われわれが、すでにその犠牲となったわれわれが、それを鍛えたのだ。英国が鉄槌であり、われわれが鉄床であろうとも、かまわぬではないか。支配するのが暴力であって、キリスト教の奴隷的小心でないことこそ重要なのだ。勝利と不正と幸福とがドイツのものでないとするなら、他の国のものたらしめよ。たとえわれらの住みかが地獄であろうとも、天国をして存在せしめよ。

 次は「アヴェロエスの探求」という作品。アヴェロスという人物は十二世紀スペインに生まれた実在の哲学者で、Wikipedia にも「アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名」と書かれている。まさにこのボルヘスの作品で、アヴェロスはアリストテレスの「詩学」の注解を執筆しようとしているのだけれども、その冒頭にある「悲劇」と「喜劇」ということばのことがわからないのである。つまり当時のアラブ・イスラム文化圏には、演劇というものは存在しなかったのである。その身近に存在しないもの(体験したことのないもの)を想像するということの困難さこそ、この作品の主題だろうか。
 アヴェロエスらは、当時シナ帝国の奥地まで旅をして来たという旅行家アブルカーシムを囲み、異国でのさまざまな不可思議な見聞の話を聞くのだが、そこで持ち出される「演劇」のことを、聞くものは誰も理解することが出来ない。このあたり、ボルヘスの作品としてはめずらしくユーモラスな印象も受けるのだけれども、この作品の最後で、すべてのものは雲散霧消、消え去ってしまうのである。このことをボルヘスはこう書く。

わたしの物語は、それを書いている間のわたしという人間の象徴であり、その話を書くためにはその人間でなければならず、そしてその人間であるためにはその話を書かねばならず、という風に無限に続くのだということを悟った。(わたしが彼を信ずることをやめた瞬間に、《アヴェロエス》は消散するのだ。)



 

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■ 2016-04-16(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日は突然に、季節はずれに仕事が大忙しだった。いつもの倍ぐらいの時間がかかり、とにかくは早朝からくたびれてしまった。
 熊本の地震はこの日早くの深夜にまた大きな地震があり、また大きな被害が出た。一昨日の地震は「前震」で、この日の地震こそが「本震」ということらしい。また、これからも大きな地震がつづくようで、テレビでもひんぱんに地震警報が流される。もうテレビはいちにちじゅう、熊本の地震の様子を伝えるニュースばかりになった。震源は中央構造線上にあるようで、その構造線に沿った大分を震源とする地震も起きている。いつ収束するかもわからない状況だけれども、川内原発は稼働しつづけられていて、停止するつもりはないという。ここで福島のような原発事故が起きたら、もう日本は住めない国になってしまう。政府や九州電力の判断に危機感を越えて恐怖感を持つ。

 ついテレビをみてばかりになってしまうのだけれども、今日もボルヘスの「エル・アレフ」をすこし読み進めた。今日はまず、「タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九―一八七四)」から。ボルヘスが一方で得意とする「ガウチョ」もののひとつだろうけれども、ある夜に「自分とは何者であったのか、これから何者でありえるのか」ということを強烈に認識し、即座に行動に移した男の生涯を、その一夜をメインにまとめたもの。先に読んだ「死んだ男」と好対照を持つ作品だろうか。
 このラストの一行に、唐突に「逃亡者マルティン・フィエロ」という名前が出てくるのだけれども、「ひょっとしたら」という思いで検索してみたら、思いがけない面白い検索結果が出た。「マルティン・フィエロ」というのは、19世紀の作家ホセ・エルナンデスによって書かれた、ガウチョ文学の最高峰、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる作品、「エル・ガウチョ・マルティン・フィエロ」、「マルティン・フィエロの帰還」に登場するヒーローの名前なのである。つまり、アルゼンチンの読者であればおそらくかならず、このボルヘスの掌編のラストの一行を読めば、「ああ、マルティン・フィエロか」と思い当たるわけであろう。もちろんマルティン・フィエロのことを知らなくても十分に楽しめるのだけれども、ボルヘスには意外なエンターテインメント色の強い、二次創作作品ということができるだろうか。

 そして次の「エンマ・ツンツ」。ある非力な女性が、無実の罪から服役し、獄中で自殺した父のかたきをとる、完璧な復讐譚なのだけれども、ボルヘスの偏愛するミステリー色の強い作品で、一級のエンターテインメントとして楽しめるだろう。読む人は彼女の行動が何をめざしているのかいぶかしく思いながら読み進め、そのラストで「なるほど!」と合点がいくのである。これはある意味で「直線の迷路」なのだろうか。この作品でも、その末尾の数行がすばらしい。

 実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた陵辱もまた真実だった。ただ情況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。

 ‥‥まさにその通りなんだなあ。

 「アステリオーンの家」。あれ? アステリオンというのは聞いたことがあるな?と思ったのだけれども、つまりはミノタウロスのことで、この掌編はミノタウロスの迷宮をそこに長年住むミノタウロスの視点で描いたもの。まさにボルヘス好みの「迷宮譚」であり、ミノタウロスは自分を孤独と迷宮から救う「救い主」の到来を待ち望むことになる。

わたしの救い主はどんなだろう、とわたしは自問する。彼は雄牛だろうか人間だろうか? ひょっとして人間の顔をもつ雄牛だろうか? それともわたしに似ているだろうか?

 ここでも、ラストの一行がとどめを刺すことになるだろう。

 ボルヘスの作品は短いものばかりなのだけれども、何度も読み返したりするもので読むのに時間がかかる。しかし、そこにはまさに「読書の愉しみ」がある。



 

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■ 2016-04-15(Fri)

 ほとんどの桜はもう、散ってしまった。すでに緑の葉が枝にあふれ、わずかに残った花の桜色、そして花の散った額の紅色とが緑とまざり、新印象派の点描画のようにみえる。今日は空も雲ひとつない晴天で、内科病院へ行く途中、図書館のところからみえる筑波山の、そのふもとの木々の緑もよくみえる。デジカメでその筑波山を撮ったら、ちょうどローカル線の電車が走りかかった。

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 教会の入り口に、ヤカンを植木鉢にして置いてある。その植えられた花がきれいに咲いているのだけれども、ヤカンとではまるで不釣り合いにみえる。ヤカンがそんな自分を恥ずかしそうにして、ものかげに隠れようとしているみたいである。あまり教会のイメージアップにはつながらないようにも思えるのだけれども。

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 カンタベリー物語の中巻を読み始めたのだけれども、つまりはやっぱり退屈で面白くないので、読むのをやめてしまった。こういう中世の説話的物語を求めるのなら、まだ「デカメロン」の方が楽しめるのではないだろうか。そういうことで、以前ちょっと読み始めていた、ボルヘスの「エル・アレフ」をまた読み始めた。前に冒頭の「不死の人」と次の「死んだ男」(考えてみたら、「不死の人」の次が「死んだ男」というのも面白い配列だけれども)を読んだので、今日は次の「神学者たち」から。
 この「神学者たち」は、非常に面白かった。ボルヘスと「神学論争」というとやはり「薔薇の名前」を思い出してしまうので、そこからの連想でこの短編も面白く読んだのだけれども、ウンベルト・エーコも、「薔薇の名前」を書くときにこの「神学者たち」のイメージは持っていたのではないだろうか。冒頭からフンの馬族が修道院の蔵書を焼き払い、ただアウグスティヌスの「神の国」という書物だけが焼け残ったというあたりも、「薔薇の名前」で焼失する図書館、そこから残されたアリストテレスの「詩学」のことなど思い出してしまう。しかしそこから続く物語は、一見その焼け残された「神の国」とは無関係のようだ。
 物語は司教補のアウレリアヌスがパンノニアのヨアンネス(どちらもボルヘスの創作した人物であるだろう)に抱くライバル心というか、異端を論難しようとする宗教論議においてのアウレリアヌスの行為をめぐっての展開で、ここにアウレリアヌスもヨアンネスもそろって糾弾しようとする「円環派(モノトモス派)」、そして「道化派(ヒストリオン派)」という異端の教義も紹介され、その教義が物語展開にもおそらくは重大な影を落としているわけだろう。アウレリアヌスはヒストリオン派を糾弾する文書を書くのだが、その核心の部分がかつてヨアンネスの書いたモノトモス派糾弾文書の一節であったことに思い到る。そのままにしておけばヨアンネスの剽窃になり、典拠を示せば自らを告発することになる。そこでアウレリアヌスはうまい手口を考えて、ということになり、その糾弾文書によってヨアンネスは「異端」として告発され、火あぶりの刑を宣告される。
 やがてアウレリアヌスもまた、落雷による火災で焼死することになるのだが、その結末でボルヘスは「楽園においてアウレリアヌスは、測り知れぬ神にとって、彼とパンノニアのヨハンネス(正統と異端、憎む者と憎まれる者、告発者と被告発者)は唯一人の人間を形成するのだと悟った、という方がより正確であろう」と書いている。
 ストーリーの骨子に、そのディテールが密接に関わってくるような、ディテールの面白さが全体に波及するような、いかにもボルヘスらしい作品。堪能した。

 次は「戦士と囚われの女の物語」。先の「神学者たち」でアウレリアヌスとヨハンネスが鏡写しの存在だったように、ここでもローマ帝国を包囲して攻めながらも敵陣に走り、ローマを守って死んだドロクトゥルフトという戦士と、ボルヘスの祖母(彼女もイギリスからアルゼンチン奥地に渡ってきた存在)がかつて会ったという、インディオに連れ去られてそのまま酋長の妻になった金髪のイギリスの女性との対比が語られ、「この貨幣の表裏は、誓って同一なのである」と結ぶ。一方は自分の知らないでいた「文明」に幻惑され、一方はそういう文明を捨てて「野蛮」に囚われながらも、「今は幸せで、文明社会に戻る気はない」という。しかし、ボルヘスにいわせればこれは同一なのである。
 この「貨幣の同一の表と裏」というのは、この短編集「エル・アレフ」のもうひとつの主題なのかもしれない。どうも前に読んだ(あまりに観念的すぎる感のあった)「伝奇集」よりも、こちらの「エル・アレフ」の方がわたしは好きだな。

 「カンタベリー物語」を読まないと決めたので、早めに図書館に返してしまいたい。借りているDVDの「グランド・ブダペスト・ホテル」を午後から観てしまった。



 

[]「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014) ウェス・アンダーソン:監督 「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014)   ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 前に映画館で観たおぼろげな記憶でいうと、この作品は映画館の大きなスクリーンで観るべきだと思う。画面の中の細かいところ、細部にも面白さが詰まっているので、これはどんな大きなモニターでも本来の楽しさは味わえないんじゃないかと。百インチぐらいは必要そうだな。

 今回観て思ったのは、おそらく最初のイメージとしてはもっと膨大なストーリーだったのではないかということで、そこからグスタヴとゼロとの冒険譚的な部分をクロースアップし、その他の部分では省略せざるを得なかったところが多いのではないかということ。いや、でも、あえてこれだけの描写にとどめて、冗長になることを避けたとも考えられる。例えば「鍵の秘密結社」なんか簡素すぎて、その結社にどんな意味があるんだかわかんないところがある。しかし冒頭(原題のシーン)とかの作家の銅像に女性が訪れるシーンで、その銅像の廻りにはいっぱい鍵がかけられていて、その作家の作品としての「グランド・ブダペスト・ホテル」では、「鍵の秘密結社」が重要なアイテムとされているように思えることになる。これは映画として説明を始めると、たしかに冗長になってしまうだろうか。

 そういう意味では、ここまでにいろんな挿話をてんこ盛りにしなくってもよかったような気もする(たとえば逮捕〜脱獄の経緯とか)けれども、これだけのオールスターキャストを並べると仕方がなかったのだろうか。いや、でもこの作品、尺としては100分と、近年の映画作品としてはかなり短い方なのではないだろうか。この面白さなら、多少説明的な演出があったとしてももうちょっと長くっても楽しめる気がするのだけれども。

 さいごの、エンドクレジットの楽しい音楽で、「3 Mustaphas 3」のことを思い出した。彼らのアルバムは何枚か買ったものだった。YouTube で検索して聴いてみたけれども、「こんな音楽だったっけ?」という感じがした。




 

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■ 2016-04-14(Thu)

 このところ、日常からはなれた変な夢をよくみるようだ。今日の夢では、わたしの部屋におおぜいの知らない若者が集まってくる。わたしの部屋は今までわたしが住んできた部屋を統合したような雰囲気で、しかも学校の教室のように広くて、机がいっぱい並んでいる。今日のこの集まりは、来ているFさんが呼びかけたもののようで、「著作権」の勉強会みたいなものらしく、集まりのあとはそのまま海外へ行く予定になっているみたい。わたしも皆といっしょに行くつもりだったけれども、パスポートが十年前のものをそのまま更新していないので、もう使えないんじゃないかと思う。
 Fさんが、まだ高校生だというメガネの女の子を紹介してくれる。肌の色がまっ白で、かなりふっくらとした子。わたしは「紹介されても困る」と思っている。
 皆にお茶ぐらいは出そうかと思うのだけれども、Fさんがバッグからいろいろと取り出し始め、寿司などをつくりはじめる。
 外へ出てみると、わたしの部屋をめざしてやってくる人がいっぱいいる。歩きタバコしている人もいるので、近所迷惑になると思って「ここでタバコは喫わないで下さい」といって回る。
 部屋に戻ると、誰かがわたしの音楽プレーヤー(CDではなく、テープのプレーヤーのようだ)を出してきて聴いている。そのセットの仕方が悪いのか、プレーヤーが変な動きをしていて、まるでロボットが動いているように見える。

 「カンタベリー物語」の上巻、いちおう読み終わったのだけれども、あとの巻をどうしようか、ちょっと迷っている。わたしは自分の好きなイングランドの伝承歌、とりわけバラッドの、その源泉のようなものが、この「カンタベリー物語」の中に読み取れるのではないか、という気もちもあって読み始めたのだけれども、少なくともこの上巻を読んだ限りでは「空振り」だった。まあこの上巻には四つの物語しか載っていないのだけれども、正直いって、退屈なものが多かった。これは訳文のせいもあるのだろうか。
 いちばん最初の「騎士の物語」がまた長いのだけれども、これは時代のせいもあるのか、かなり退屈で冗長に感じられた。かんたんにいえば「ひとりの乙女を二人の若者がうばい合う」物語で、二人の若者はふたりとも欠点もない高邁な騎士であり、どちらがより優れているとかいえないわけでもある。その女性の方も当初は「だれにも嫁がずに処女を守りつづけたい」といっているわけである。そうすると、近代以降の小説というか物語であれば、これは解決策はほとんどひとつしかないだろうと思えるのである。つまり、ここは若者のどちらかが勝負に勝って乙女を勝ち得るのではなく、誰も勝者はいないという結末になるべきだろう。二人の若者がどちらもその戦いで死んでしまうとか、逆に乙女の方が死んでしまう(こちらの方がありそうな結末)とかいう結末になるだろう。そう思って読んでいたのだけれども、意外なことに若者の一方が勝ってしまうし、乙女の方も彼に嫁ぐことをあっさりと受け入れる。これは読み終わっても「そりゃあないだろう」って感じではあった。
 つづく笑い話二つもそんなには面白くなかったし、この上巻のラストの「弁護士の物語」になってようやく、この時代の物語らしい面白さを読み取ることができただろうか。
 まあ、中巻をちょっと読み始めてみて、それでどうするか決めようと思う。

 夕食は、先日白菜の四分の一カットを買ってあるのがちょっとしなびてきたこともあり、また鶏肉と水炊きにした。お手軽でおいしい。
 寝ようとする頃になって、熊本の方で大きな地震が起きたという報道をみた。大きな被害が出ていないか、ちょっと心配である。あの近くには川内原発も稼働中のはずだし、いくら津波の心配はないとはいえ、すぐにストップするべきだろう。



 

[]「地獄への逆襲」(1940) フリッツ・ラング:監督 「地獄への逆襲」(1940)   フリッツ・ラング:監督を含むブックマーク

 アメリカに渡ったフリッツ・ラングが、はじめてカラーで撮った作品ということ。この邦題ではいったいどんな映画なのかまるっきり想像ができないけれども、原題は「The Return of Frank James」。つまり、ジェシー・ジェームズの兄のフランクの物語である。この映画には先立つ「地獄への道」(原題「Jesse James」、ヘンリー・キング:監督)という作品があったようで、これはその続編という位置づけのようだ。そのことがこの邦題にもあらわれているのだろう。

 さてこの作品、そのジェシー・ジェームズが例のボブ・フォードに後ろから撃たれて殺害されるシーンからはじまり、そのニュースを聞いたジェシーの兄のフランクが復讐のためにボブを追うというストーリーである。
 わたしは以前、「ジェシー・ジェームズの暗殺」という映画を観て、ボブ・フォードのことについては予備知識があったのは助かったけれども、まあこの映画は全部が全部、史実に忠実なわけでもない。フランクがジェシー暗殺の前に強盗団を抜け、名前を変えて郊外で農夫になっていたというのは史実のようだけれども、実はフランクはジェシーが殺されたあと、復讐に立ち上がるのではなくて自首をしたというのが史実のようだ。ただ、その裁判で無罪になって余生を平穏に暮らしたらしいので、そういうところはこの映画にも活かされているだろうか。
 ボブ・フォードがジェシーを後ろから撃ったあと、各地の劇場の舞台で自らジェシー殺害の様子を演じていたというのは、「ジェシー・ジェームズの暗殺」で描かれていたように史実。しかしまさか彼はフランク・エームズの裁判の傍聴に行ったりはしないし、フランクに復讐されるわけでもない。それでもボブは、ジェシーを殺害して十年が経った1892年、ただ有名になりたかったというエドワード・オケリーという男に撃ち殺されている。

 そういうわけで、フランクがボブを追って復讐したという史実はないのだけれども、フランクの裁判のあたりはけっこうこういう感じ(南部と北部との対立)という空気もあったのかもしれないし、ボブ・フォードが天寿を全うしたわけではないというのも、そういうことだろうと。

 さて、演出のフリッツ・ラングだけれども、やはりこれは素晴らしい仕事だと思う。わたしはフリッツ・ラングといえば「影」の使い方しか思い浮かばないのだけれども、この作品でも、その「影」を随所で効果的に使っている。そして室内での採光での光と影の捉え方も印象的。先日観た「嵐が丘」でもその撮影が印象に残ったのだけれども、この「地獄への逆襲」のカメラもまた、「嵐が丘」と同じような感想を持った。この時代の撮影というのは、このような撮り方がひとつの規範になっていたのだろうか。近年の映画よりもずっといいように思えてしまう。この作品の撮影監督はジョージ・バーンズという人で、ヒッチコックの「レベッカ」でアカデミー賞を授賞されている。
 もうひとつ、この「テクニカラー」のことにふれておきたいのだけれども、思いのほか色調を抑えた画面で、テクニカラーとしてこんなにナチュラルな画面というのも観たことがないと思ってしまったのだけれども、このあたり、監督のフリッツ・ラングがちゃんとチェックしていたらしい。さすがフリッツ・ラングである。




 

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■ 2016-04-13(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 朝食は昨日スーパーで買ったパン。どれもおいしかった。しかし、今日もまた無為な一日になってしまった。また午後から午睡で二時間ぐらいはつぶしてしまい、読書もはかどらない。わたしと同じように、ニェネントも寝てばかりいるようだ。
 読んでいる「カンタベリー物語」だけれども、どうも訳文に乗り切れない。本来が「詩文」であるはずの原作なのだけれども、この訳文はいかにも学者によるものというか、文章としての美しさが感じられない。おそらくは逐語訳なのだろうその文章は時に日本語としておかしい気がするし、いちいち読んでいる気分にブレーキがかかってしまう。訳注が豊富なのは「なるほど」と勉強になるとはいえるけれども、やはりここは筑摩文学大系の西脇順三郎の訳で読んだ方がよかったかもしれない。ちょっと失敗だっただろうか。

 夕食はちゃんと何かつくろうと、タマネギ、ニンジン、そしてキャベツを豚肉と炒め、さいごにモヤシを入れてさらに炒めて「焼肉のタレ」で味付けした。なかなかにおいしいものが出来た。そんなことに満足していてもしかたがないのだけれども。



 

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■ 2016-04-12(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 朝、夢をみた。その夢は寝坊してしごとに遅れるという夢で、かなりリアルなものだった。
 さてそれで、この日はもんだいの「パワハラ」をめぐって、その部長と総務部長とわたしとで話し合い。わたしが昨日総務部長に「パワハラということで相談してある」と伝えているので、とうぜんそのことは当事者の部長にも伝わっているわけである。であるからして、「あんた、こないだいってたことと全然ちがうやん」という感じで、わたしのいうことをみんな受け容れるのである。パワハラやるんならやるで、もっと性根をすえてやればいいのにと思う。とりあえずはこれからもだいたい、今まで通りにしごとを進められるようである。またもんだいが起こればまた通報する。それだけのことである。パワハラ部長よ思い知ったか、という感じではある。
 しかしまあ、こんなつまらないことにかかずりあって満足しているようではわたしもおしまいである。自分のことをやらなくては。

 今日は南のスーパーの特売日で、いろいろと安い商品が並ぶ。午前中にいちど行ってみると、「タイカレー」の缶詰が安く売られていた。このタイカレーの缶詰は、しばらく前にターミナル駅のアルコール量販店に「お試し価格」とかいってかなりの安価で売られていたのを買ってあるのだけれども、まだ食べてはいない。その後、ネットで読んだ評判では、このタイカレーにはまった人は病みつきになってしまうぐらいにはまってしまうようである。スーパーから帰宅して、「ほんとうにおいしいのならまた出直して買って来てもいい」と思って、この日の昼食はその「タイカレー」にしてみた。単にあたたかいご飯に、缶詰を開けてぶっかけるだけのものなのだけれども。
 ‥‥これが、なるほどおいしかった。ココナッツミルクの味とカレーの辛さとの調和がいい。これなら、買いだめしておいてもいいだろう。そう考え、午後からまたスーパーに出かけて、その「タイカレー」を買って来た。一種類二缶までという制限付きなので、三種類で六缶。
 夕方というか夜、もうこの日の夕食の準備をするのもめんどうになり、この時間なら値引きされた惣菜をおかずにしようと、またまたスーパーに出かけた。夕食のおかずにはレバー肉と野菜の炒め物を買い、さらに、この時間なら値引き前は500円以上のパン類が150円に値引きされているものを買い、これは明朝の朝食にするつもり。そしてさらに、もういちど「タイカレー」を買えるだけ、つまり六缶買って帰った。

 けっきょく、この日もこのところの不活発な状態はまだつづいていて、「タイカレー」を買い集めるだけの一日になってしまった。あとはそれなりにCDを聴いたり、読んでいる「カンタベリー物語」を読み進めたりはしたのだけれども、「カンタベリー物語」はせいぜい50ページぐらいしか読み進められなかった。



 

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■ 2016-04-11(Mon)

 夢。夜である。どこかの工事で増設するゲート(凱旋門のような形)をぶら下げたヘリ(映画「甘い生活」を思い出す)が飛んでいる。ゲートの全体に白いLEDがつけられて光っているのだけれども、そのヘリが、みているわたしたちの上方でバランスを崩して墜落する。落ちたのはわたしの住まいあるはずの場所のすぐ前の道路で、その路上には三つのケージに入れられた犬がいて、そばにいた三人の調教師(?)が、墜落したヘリに巻き込まれて死ぬ。三匹の犬のうちの二匹も死んだようだ。うつぶせになったまま動かなくなった女性の調教師、血だまりのできた路上。現場の近くには応急テントが張られ、死んだ人が運び込まれる。落ちて大変なことになっているはずのヘリコプターの機体は、微塵も残っていない。この事件の前にもわたしは人が大ケガをするのをみているので、「こうやって人がつづけてケガをしたり死んだりするのをみると、泣きたくなる」と思っている。そんなわたしの気もちを察して、そばにいた同僚がお菓子を分けてくれる。わたしの住まいのある位置は木造の二階建ての家になっていて、ヘリが墜落するときにはその二階の窓からみている人がいたのだけれども、今は窓が閉ざされてしまっている。
 事件が一段落して、わたしは現場をデジカメで撮影しようとするのだけれども、なかなかうまくフレームが決まらない。そのときわたしはメガネをかけていたのだけれども、それをみて、そばにいる人が「ほお骨をけずるのはとても痛いからやらない方がいい」などと、自分のほおを指しながらいう。どうやら、メガネをかけたときにそのレンズがほお骨にあたってしまうことをいっているらしい。わたしはそのようなことはないはずなのだけれども。その人のほおは骨をけずったあとなのだろうか、平たく赤い色になっている。室田日出男にそっくりな人だった。

 今日はいよいよ、上司のパワーハラスメントについて、相談窓口に電話をした。結論をいうと、「あなたは解決策のヴィジョンをお持ちのようだから、社内で総務部長とかそういうもっと上の上司に相談することをおすすめする」ということだった。そういうことで、次に総務部長に連絡を取り、明日、総務部長とわが部長とわたしとで話し合いをすることになった。総務部長には、わたしがいちどはこの件を「パワハラ」として相談したことは伝えた。ま、おそらくこれでわたしが勝ったようなもので、わたしの要求は通ることになるだろう。

 さて、ようやくカーリングロス状態から脱したと思ったのだけれども、実は男子の世界選手権でも日本チームは躍進し、アメリカと三位決定戦を戦うところまで行き、おしくも負けてしまったというニュースを読んだ。つまり世界四位になったわけで、こちらも男子としては今までの最高の成績になったということ。YouTube で検索すると、その三位決定戦のゲームすべてを見ることが出来るのだった。ちょっと見始めたのだけれども、もうカーリングのゲームも見慣れてしまったので、解説がなくても見ていてポイントはつかめるようになっている。というか、解説がないというのも見ていておもしろい。またカーリング熱が再来しそうでこわい。

 今日は久しぶりに映画を観ようと、前に鎌倉に行ったときに買ってそのままにしてあった「嵐が丘」のDVDを観た。久しぶりに観る映画はいいものだ。読書の方は「カンタベリー物語」、一日かけてようやく百ページちょっとというのは、やはり読書ペースとしては遅すぎる。二日で一巻読み終えたいつもりでいたけれど、これでは三日かかってしまうだろう。



 

[]「嵐が丘」(1939) エミリー・ブロンテ:原作 ウィリアム・ワイラー:監督 「嵐が丘」(1939)   エミリー・ブロンテ:原作 ウィリアム・ワイラー:監督を含むブックマーク

 情けないもので、一月に読んだこの原作、もうあらかたを忘れてしまっている。まあこの映画を観ていると「これは原作とはちがうんじゃないかな」ぐらいのことは思うのだけれども、具体的にどこがどうちがっているのかまではよくわからない。原作後半のキャサリンやヒースクリフの子の世代のストーリーはカットされているけれども、それはこの原作を普通の尺で映画化しようとすればたいてい考えることだろう。それでも、原作での「死に到るまでの激情」という雰囲気はこの映画にはあまりなく、どちらかといえば「すれちがい」による悲劇、メロドラマという側面を強く感じることになる。

 わたしがこの映画で観たかったのは、まずはマール・オベロンという女優さんの演じるキャサリンの姿で、とにかくはわたしはこのマール・オベロンという名前はウィリアム・ワイラーの「嵐が丘」でキャサリンを演じた女優、としてしか知りはしない。なんだかその「マール・オベロン」という名前もどこか野性的というか、この映画のスチール写真でみる彼女の姿も、キャサリン役に似合っているように思っていた。‥‥それでけっきょく、やはりマール・オベロンの演じるキャサリンはとてもすばらしかった。インドの血が流れているというそのエキゾチックな容貌は決して「すごい美人」というのではないけれども、キャサリンのエキセントリックな性格をよくあらわしていただろうし、そのラスト、ローレンス・オリヴィエのヒースクリフに支えられ、窓の外を眺めながら息絶えるシーンの表情には鬼気迫るものがあったと思う。
 そして、予想外によかったのがそのローレンス・オリヴィエで、実はこの作品が彼のハリウッドデビュー作品なのだそうだけれども、この映画を観てしまうと、もうローレンス・オリヴィエの容姿抜きにヒースクリフを思い浮かべることはできない気がする。そういうところで、この「嵐が丘」の映画化ということで、マール・オベロンとローレンス・オリヴィエの組み合わせというのは史上最強なのではないだろうか(じっさいには撮影中のふたりは非常に仲が悪かったらしいのだけれども)。

 それでもちろん、ウィリアム・ワイラーの演出も手際よくって、観ていてもまさに名画を観ているという気分を満喫させてくれる。いろんなところでその演出を「うまいなー」と堪能させられるのだけれども、その演出をみごとに支えているのが撮影だろうと思う。たいていのロングショットでは固定で、これがミドルショットになるとカメラは被写体と共に動いていくような撮り方が基本になっているようだけれども、そのカメラの運動こそがドラマを動かしていく感じである。モノクロの光と影の捉え方もみごとで、観ていると「映画撮影とはこうでなくっちゃ」と思わせられるところがある。スラッシュクロス家での舞踏界のシーンも美しい。この撮影監督はグレッグ・トーランドという人で、ジョン・フォードの「怒りの葡萄」(わたしは未見)、そしてあのオーソン・ウェルズの「市民ケーン」の撮影を担当した人。じっさい、この「嵐が丘」ではアカデミー撮影賞を受賞されているのだが、わずか44歳で早世されてしまったらしい。

 原作通りというわけではないにせよ、それでも原作の雰囲気はみごとに再現した作品と思われ、これでは「原作とちがうじゃないか!」と文句をいう人もいないだろう。みごとな作品で、また観返してみたいと思っている(原作もまた読んでおきたい)。



 

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■ 2016-04-10(Sun)

 また何もしない無為な一日。受けているパワーハラスメントについて、相談窓口にメールしようかと考えたけれども、明日になれば電話での相談ができるので、その方がダイレクトに相談相手の考えやこれからの展開を知ることができるだろうかと、明日まで待つことにした。電話口で論点をまちがえずに相手に伝えられるよう、考えておかなくてはならないだろう(そういうことではメールの方がいいのかもしれないけれども)。

 今日動いたのは、図書館へ行ったことだけ。ちょうど読み終えた「百年の孤独」を返却し、次は「ドン・キホーテ」を読もうかと思ったのだけれども、この図書館に置いてあるのは筑摩の世界文学大系のものと、新潮社の四巻本の二種類だけ。ほんとうは岩波文庫版で読みたかったのだけれども、世界文学大系は本がでかくって重たくってあんまり借りたくないし、新潮社版はその翻訳があんまり評判がよろしくないのである。これはちょっと保留しておいて、別の本にしようと、古典的な名作ということを条件に探してみた。ダンテの「神曲」みたいなしちめんどうくさいのではなくって、読んで楽しい本と考えると、チョーサーの「カンタベリー物語」あたりにしようということになり、岩波文庫の上中下巻三冊を借りた。目標はこの三冊を一週間で読むことだけれども、ちょっと無理だろうか。
 あと、CDはまた二十世紀の音楽ということで、アルバン・ベルクの「抒情組曲」、そしてペンデレツキの「無伴奏合唱宗教曲全集」というのとを借りた。DVDもなにか借りてみようかと考え、ウェス・アンダーソンの「グランド・プダペスト・ホテル」を借りてみた。そろそろ自宅で映画を観始めてもいいだろう。

 帰宅して「カンタベリー物語」を読んでいたら例によって眠くなってしまい、三時間以上も昼寝してしまった。では夜は眠れないことになるのかと思ったら、九時になるともう寝てしまった。寝てばかりの一日になってしまった。



 

[]「百年の孤独」ガブリエル・ガルシア=マルケス:著 鼓直:訳 「百年の孤独」ガブリエル・ガルシア=マルケス:著 鼓直:訳を含むブックマーク

 膨大なエピソードの盛り込まれた、南米コロンビアの架空の町マコンドと、その町と盛衰を共にしたブエンディーア一族の物語。登場人物もまた膨大で、七世代にわたるブエンディーア一族は(意図的に)似通った名前を授けられ、読んでいても(自分の記憶力の悪さもあって)混乱する。物語を支えるのは非現実的な超自然現象の連鎖でもあり、その文体の簡潔さもあって、ギリシア神話でも読んでいる気分になってしまう。というか、すべては非現実の空気に包まれている。

 この年代記の全体像を把握しているブエンディーア一族の人物はもちろんいないのだけれども、大いなる母であるウルスラは一族の宿命は理解していただろう。ラストに六代目のアウレリャーノが、ジプシーのメルキアデスの遺した羊皮紙を解読し、一族の運命を知ることにはなるけれども、そのアウレリャーノは一族の過去の歴史を知っているわけではない。ただ、メルキアデスのみがすべてを知っていて記録を遺したということでは、メルキアデスこそ作者の分身というか、この「百年の孤独」という書物こそが、そのメルキアデスの遺した羊皮紙そのものではないのか、という感想にもなるかもしれない。そして、すべては虚構なのだろうか。

 ウルスラはこの作品の中で次のような感慨を持つ。

時は少しも流れず、ただ堂々めぐりをしているだけだということをあらためて知って、身震いした。

 そして、別のところでは、占い師でブエンディーア一族とも深い関わりを持つピラル・テルネーラの感慨として、次のようにも書かれている。

百年間におよぶトランプ占いと人生経験のおかげで、この一家の歴史は止めようのない歯車であること、また軸が必然的に徐々に摩滅していくことがなければ、永遠に回転しつづける車輪だということを知っていたのだ。

 登場人物の多くが陥る、圧倒的な孤独というものこそが、この作品を一級の作品にしているのだと思う。そのこととは関係ないけれども、読んでいて「あれ?」と意外だったのは、ウルスラによってあれだけ周到に隠された金貨の三つの袋が終盤に思いがけず簡単に発見され、しかも簡単に盗まれてしまうあたりなのだけれども、まあこのあたりも作者が読者に仕掛けた「躓きの石」なのだろうか。作品の中には、「文学は人をからかうために作られた最良の玩具」という言葉もある。



 

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■ 2016-04-09(Sat)

 今日は横浜へ、福留麻里さんのダンス公演を観に行く。二つの作品が上演され、わたしはまず二時からの「動きの幽霊」から観ることにしているので、家を出るのは十時半の電車。しごとは休みなので、そんなにあわてずに準備して出かける。地元駅のホームは東南アジア系らしい若者たちがおおぜいで電車を待っていた。ほんとうにこのあたりはいろいろな、多彩な人種の人たちがいる。その中では東南アジア系、おそらくはタイあたりの人たちがやはり多いだろうか。まちなかにはタイ式マッサージの店がやたらにあるし、タイレストランもある。
 車窓からは沿線の満開の桜がみえるけれども、ターミナル駅に着いて駅の外を見ると、もうここの桜はすっかり散ってしまっていて、残った花のがくで、桜の木全体が赤っぽい色にみえる。距離的にそんなに離れていないところなのに、ずいぶんと差があるのにちょっとおどろいた。

 一時ちょっと前に横浜駅に着き、まずは昼食にしようと思うのだけれども、前の体験で横浜駅周辺の食堂は混み合っているのがわかっているので、会場の先まで歩いてみて探すことにする。
 それで、歩いているとふいに呼び止められた。三十代ぐらいの男性なのだけれども、「お久しぶりです」などとあいさつしてくる。わたしの記憶が抜け落ちてしまっているせいで、実は知っている人なのだろうかと思うけれども、わからない。いぶかしい表情をしていると、「◯◯ですよ」と自分の名前をいってくる。やはり人違いだと思うので、「いや、人違いだと思いますよ。わたしはXXといいますから」というと、「ほら、XXさんじゃないですか。一年半ぐらい前に、この近くの病院で奥さんとご一緒だったのにお会いして、おはなししたじゃないですか」という。とにかく今のわたしに妻はいないし、このあたりの病院に来たこともない。「いや、たしかにわたしはXXですけど、今は独身ですからやはり人違いですよ」と答えた。その方はようやく納得してくれたようだけれども、そんな、わたしと同じ名前でわたしとそっくりな人物などというのがいるのだろうか。わたしの分身なのだろうか。奇妙な体験だった。

 適当に食事のできるところを探していたら時間が経ってしまったので、近くに見えた牛丼屋で昼食にした。食べ終えるとちょうど開場の時間も近いので、会場へ行く。まだわたしが四番目の客だったけれども、先にBさんとCさんとがいらっしゃった。今日はいろいろと知っている方にお会いできるんじゃないかと思う。

 まずは「動きの幽霊」が終わると三時ちょっと過ぎで、これから次の「あさっての東京」まで、一時間近く時間をつぶさなくてはならない。以前このあたりでカフェとか喫茶店を探したとき、どこも混み合っていた記憶があるので、「どうしようか」と思っていたら、会場の一階の奥に喫茶店があるのに気付き、そこに行ってみた。意外と穴場というか、ゆったりとしたスペースで喫煙席もある。本を読んでゆっくりと時間をつぶすことができた。

 今回の福留麻里さんの公演は、「動きの幽霊」という題目と「あさっての東京」という演目とのふたつが上演され、わたしは二時からの「動きの幽霊」と四時半からの「あさっての東京」を観るのだけれども、四時半から「あさっての東京」を観て、そのあとの六時からの「動きの幽霊」を観る方もいらっしゃる。「あさっての東京」の方の受付開始時間になったので会場へ行くと、さっきのCさんもいらっしゃったので話をする。Cさんと話をするのは久しぶりのことになる。最近観たものの話をして、Cさんも先日の「踊りに行くぜ!!」の山崎広太さんの公演に否定的な意見だったので、ちょっと「わが意を得たり」とうれしくなった。Bさんはもう帰られていて、彼は「あさっての東京」は明日観に来られるらしい。
 開場を待っていると、DさんとEさんもいらっしゃった。DさんとEさんとは、「あさっての東京」の終わったあとでちょっとおはなしをした。今日はこれでおしまい。終わったあと誰かと飲みに行けたりするといいと思ってたけれども、思ったより知人も来なかったし、Cさんも先に帰られてしまっていた。外はまだ明るい。帰ろう帰ろう。



 

[]福留麻里企画ダンス公演「動きの幽霊」より「動きの幽霊」福留麻里:構成・演出 @横浜・STスポット 福留麻里企画ダンス公演「動きの幽霊」より「動きの幽霊」福留麻里:構成・演出 @横浜・STスポットを含むブックマーク

 よくみると福留麻里さんは「構成・演出」ということになっていて、「振付作品」、つまり「ダンス」というのとはちょっとちがう、というか。そう、「幽霊」というのは肉体を持たないわけだから、そういう身体性を排除した、視覚的なことにこだわった作品なのだろうかと思った。そういう意味ではインスタレーション的な、美術作品みたいな受け止め方をしてしまう。照明の使い方、置かれたペットボトルなどのことも、やはりインスタレーション的に思えてしまう。

 じっさい、福留さんと男女二人、合わせて三人による舞台は、やはりダンスというよりは「身振り」の連続のようでもあり、どこかメロドラマめいた印象を受けるところもあった。長い長い暗転もまたドラマ的だった気がする。



 

[]福留麻里企画ダンス公演「動きの幽霊」より「あさっての東京」神村恵/福留麻里:振付・出演 @横浜・STスポット 福留麻里企画ダンス公演「動きの幽霊」より「あさっての東京」神村恵/福留麻里:振付・出演 @横浜・STスポットを含むブックマーク

 たとえば「30年後のコミュニケーション」だとか、「明日の横浜」だとか、二人が語りながらダンスを繰り拡げられる。前半は特に神村さんの動きが面白く、目が釘付けになる思い。後半はふたりの動きがシンクロしていくデュオのダンスという展開になり、これは正直いってちょっと平凡な展開だったかもしれない。



 

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■ 2016-04-08(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 今日も職場で不快な展開になった。普通にわたしが仕事を継続するための環境を取り上げられ、さらに部長はわたしに余計なタスクを課そうとしている。被害は深刻で、考えればこれはみごとにパワーハラスメントにあたるのではないだろうか。ちょっと調べてみたけれども、「相談、要望をはねつける」、「不適切な業務分担を行なう」というのは、あきらかにハラスメントであるだろう。
 ちょうど、明日から月曜日までわたしのシフトは三連休になるので、考えをまとめて月曜日に相談窓口に相談しようと思う。つまらないことに時間をとられてしまうが、ちゃんとパワハラと認められれば職場の空気も変わるだろう。

 しかし、こういうときにも、いや、こういうときこそ、クソまじめになることなく、ものごとを斜めからみる視点を持つこと、自分を客観視する視点が必要だろう。

 昨日の雨もやんで、今日はあたたかい一日になった。桜の花はもう盛りをすぎて、どんどんと散って行く。そんなつまらないことにかかずった一日、ほとんど何もしないまますぎていった。明日は横浜に出かける予定だし、気分転換をしよう。
 まだ読んでいる「百年の孤独」は、ようやく明日にも読み終えることができるだろう。



 

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■ 2016-04-07(Thu)

 朝、目が覚めると夢をみていた気配が残っていた。このところみる夢はたいてい、川沿いの同じような平屋建ての並んだところが舞台になることが多いのだけれども、この朝みた夢も同じような舞台の夢だったみたいだ。夢から覚めても、「夢をみていた」というよりも「なつかしい景色をまたみてきた」という感覚が残っている。

 朝にわたしがしごとに出る時間(四時五十分ぐらい)はまだまだ暗いのだけれども、だんだんに東の空に明るさが感じられるようになってきた。しかし今朝は空は真っ暗で、天気予報では午前中は激しい雨になるかもといっていた。その天気予報の通り、六時を過ぎたあたりから強い雨が降り出し、八時ごろには土砂降りになってしまった。きょねんの大雨のころを思い出すような雨だったけど、その時間帯がピークだったようだ。でも、この日が入学式という学校も多かったようで、まさに通学時間帯の豪雨、たいへんだったろうと思う。

 しごとを終えて帰宅して、そのあとに買い物に外に出ようとしたら、ドアの外側に見たことのない奇妙な虫がへばりついていた。なんだか「エイリアン」に出てくるフェイスハガーを思わせる姿だと思う。

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 外はまだ雨が降っている。あの激しい雨のせいで、桜の花もずいぶんと地面に落ちてしまった。

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 さて今日は、ある五月の公演のチケットの発売日なので、がんばっていい席を取りたいのである。その公演は「文楽鑑賞教室」で、こんかいは「曾根崎心中」が上演される。先日久しぶりに連絡を取ったAさんといっしょに行くことにしてあって、できれば前の方の席を取りたい。チケット予約開始の十時になってすぐにアクセスするが、やはり混み合っていてつながらない。こういうときはなかなかつながらないものだけれども、再トライしたら意外とすんなりつながった。それでチケットを予約しようとしたら、行きたいと思っていた日はすでに、すでにチケットは完売になっていた。これは、今日の一般のチケット予約開始の前に団体客を優先して予約をとっていたせいだろう。やはりそこまでに団体客は多かったか。「それでは仕方がない」と、別の日でAさんも行けそうな日を選んで席を確保しようとする。もう残席はほとんど残っていなくって、後ろの方に十席ぐらいあるだけ。うだうだ迷っているとそんな席もすぐに埋まってしまうので、とにかくは後ろから二番目の列、端の方(いちばん端ではない)の席を予約した。
 このところ、ここまでのチケット争奪戦というものも体験していなかったので、ちょっとおどろいてしまった。まあずいぶんと後方の席だけれども、楽しみにしよう。

 午後からは読書。カントの入門書をいちおう読み終わり、そのまとめ方に「な〜んだぁ」という感想を持ってしまう。「百年の孤独」はいよいよ佳境に入ってきたというか、ま、全篇どこもかしこも佳境みたいなものなんだけれども、二百五十ページまでは進んだ。明日読み終えられるかどうか。

 どうも読書に全精力を集中することもできず、途中からCDを聴き漁った。わたしはたいていのCDはCDRにコピーしてしまっていて(オリジナルは売却した)、その何百枚もあるCDRを分類もしないままにCD保存用のアルバムにランダムに放り込んである。だから、「あのCDが聴きたい」とかなると、その何冊もあるアルバムをひっくり返してみて、懸命に探さなくてはならない。それで探している途中で目移りしてしまい、「このCDも聴きたいな」となってしまう。聴きはじめると、いつまでも終わらない。
 今日は、久しぶりにThe Incredible String Band のCDを何枚か聴いた。やはりこの人たちは面白い。聴いていて笑い出しそうになったりした。それで、アルバムをあれこれひっくり返していたらRip Rig + Panic のアルバムを見つけ、聴いてみた。ゴキゲンな気分になってしまい、近くにいたニェネントを抱え上げてダンスした。ニェネントはびっくりしたことと思う。しかし、Rip Rig + Panic が活動していたのは1981年から83年にかけてのこと。なんと、30年以上も昔のことなのだなあ。わたしはせいぜい20年ぐらい過去のものかと思っていたけれども、わたしも歳をとるわけだ。でもやはり、Rip Rig + Panic はすばらしい。



 

[]「人類の知的遺産 43 カント」坂部恵:著 「人類の知的遺産 43 カント」坂部恵:著を含むブックマーク

 カントの生涯と、その思想とをかいつまんで紹介する本。中間の「カントの著作」の部分はかなりすっ飛ばして読んでしまった。しかし、カントがまずは「自然地理学」を究め、そしてスヴェーデンボリの出現に動揺したのだ、というあたりは興味深かった。最終章の「カントの思想と現代」は、いくらこの本が1979年刊行だということを考えても、ちょっとばかり期待はずれの章だった。ま、カントの思想の要点がわかったというわけでもないのだけれども。



 

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■ 2016-04-06(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 今日は勤務先の上司のやり方に反撥し、しごとのあとにちょっとした論争をやってしまった。とにかくはしごとで使わなければならない資材をどんどん減らされてしまい、必要な数を割り込んでしまっている。上司は現場のしごとのことをまるで知らずに、こちらには何の断わりもなく一方的に資材を返却してしまったのである。いったいなぜ現場の人間とコミュニケーションをとろうとしないのか。
 この上司(部長である)はちょうど一年前に赴任してきたのだが、現場ではたらく人たちの評判はすぐに最悪のものになった。それまでの上司は繁忙期にはいっしょにしごとを手伝いもしたものだったが、彼は皆の後ろで腕組みをして命令を下すだけである。パワハラめいたところもあり、彼を嫌って辞めた人もいた。また、この部長とペアになって赴任してきた課長というヤツが、その部長の腰巾着なのだから余計に始末が悪い。この日記には書かなかったが、以前にもわたしはこの二人のペアと衝突したことがある。おどしをかけたわけではないが、「ではしかるべきところに報告いたしましょうか」と伝えたところ、それ以降はあまり強権的なところはみせず、おとなしくなっていたように思っていたのだけれども。

 とにかく帰宅してからも腹立たしく、いちにちこのことを引きずってしまった。平静心をたもつのに苦労したけれども、そういうときニェネントをだっこしたり、ニェネントをかまったりしていると、こちらもおだやかな気もちになるのがわかった。ペットにいやされるというのはほんとうのことだし、今日は、そばにニェネントがいてくれたことに心から感謝したいと思った。
 しかし、こうやってつまらないことで心乱されるというのも、ここのところの白痴的日常のなせることなのかもしれない。読書というものもなんだか、読んでいる途中よりも読み終えてから一気に思考回路があれこれと動き出す感じで、まだ読み終えていないときには「ブランク」なままになっているような気がする。

 それで、読んでいる「百年の孤独」はそういうこともあってあまり進まず、二百二十ページあたりまで。それで、放置してあったカントの入門書の、めんどうなところ(というよりも肝心のところか)をすっ飛ばしてしまって、読みやすいところだけ読み進めた。ほぼ最終ページまで進んだ。
 そうやってベッドで仰向けになって本を読んでいて、そばにニェネントがいたのを抱き上げて、自分の胸の上にすわらせたのだけれども、ニェネントはそこから逃げようともせずにじっとしていて、見た感じリラックスしてくつろいでいるようだった。なんだかニェネントもここにきて、さらにだんだんにわたしになついてくれているみたいで、ちょっとうれしくなるのだった。



 

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■ 2016-04-05(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 引きつづいて「百年の孤独」を読むだけの一日。この日はちょっと読書もはかどって、百八十ページあたりまで進んだ。しかしそのかわり、「あれ? この人物は誰だっけ?」とわからなくなることも多い(とにかく、同じような名前の人物が山ほど出てくるのだ)。図書館でこの本を借りたとき、古い「現代世界の文学」シリーズのものを借りてしまったのだけれども、よく棚をみればのちに出された改訳版が置かれていたはずで、そちらの本ならば巻頭に「家系図」というか、登場人物一覧が掲載されているらしい。そっちを借りればよかったなあと思うわけである。

 今日はちょっと肌寒いいちにちで、日が暮れてからは電気ストーブをつけてみたりした。特に何を思い、何を考えるというわけでもなく、白痴的に平和ないちにちである。



 

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■ 2016-04-04(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 今日も本を読むだけの一日。しかし読んでいる「百年の孤独」はようやく百ページに近づいたあたりで、ペースは遅い。それになかなか長時間集中することもできず、一時間も読むと「お休み」という感じでパソコンの電源を入れてみたりする。
 パソコンをみていると、ニェネントがわたしの膝のところに寄ってきて、そこで丸くなる。ちょうど抱き上げやすいところにいるので、ついつい手を回して膝の上に抱き上げ、仰向けにひっくり返してやる。そうすると、わたしが押さえつけた手を後ろ足でネコキックしてくるのだけれども、そんなにまで嫌がっている感じでもなく、逃げて行こうとはしない。ほんとうはこういう格好が好きなのだろうかとも思う。

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 夕食にはカレーをつくった。市販のカレールーを使ってのオーソドックスなカレーだけれども、オイスターソースだとかウェイパーだとかを入れたらちょっと塩っぱくなってしまったし、煮込むときに放置していたので鍋に焦げ付いてしまった。ま、これで当分はカレーでの夕食がつづくだろう。



 

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■ 2016-04-03(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 あのカーリング女子世界選手権以来、わたしの生活様式はガラリと変わってしまった。それがバカげたことなのか、歓迎すべき変化なのか、まだよくわからないでる。とにかくは録画した映画など無理して観なくてもいいではないか、となったのがいちばんの変化で、前は一日に一本映画を観なければというような強迫観念に似たものがあったけれども、もう十日以上家で映画を観ていない。そのかわりに「本を読もう」ということにシフトした。前から「もっと読書に励みたい」と思っていたところはあったし、そうと決めたらいっぱい本を読んでみたいものだ。

 しかし、昨日から読んでいるガルシア=マルケスの「百年の孤独」で、すでに「わたしは何て本を読むのが遅いんだ」と思い知らされてしまっている。昨日と今日とでようやく五十ページ、これは何とも情けないことだ。やはり、記憶力の退化と読書力の衰退とは関係あるのかもしれない。読書に要求される集中力も持続できない。映画を観るのであれば、観ている側では上映時間を左右できないわけだから、誰が観ても一本の映画を観るためにかかる時間はぜったいに同じである。たとえ観ていて集中力が途切れたとしても、映画はどんどんと進行していく。しかし本を読むとき、集中力が途切れるとそこで本を読むのをやめてしまったり、ストーリーが追えなくなって前のページを繰り直したりもする。思考能力とかの低下が如実になってしまうようで、ちょっと自信をなくしてしまう。
 またこの「百年の孤独」という書物、てんこ盛りに盛り込まれたストーリーのあらすじだけが凝縮されたような文章ではあるし、その上にほぼ同じ名前の人物ばかりが登場してきて、「この<アルカディア>はどの<アルカディア>なんやねん」と、わからなくなってしまうのである。いまのわたしには、がんばっても一日五十ページ読み進めるのがせいいっぱいな気がする。ということは、この本は三百ページ強あるから、読むのに一週間かかるということだろう。
 この読書の遅延が、この「百年の孤独」に限ったことなのかどうか、次に読む本ではっきりするかもしれない。実は次は「ドン・キホーテ」を読もうかと思ってるのだが。

 ニェネントはやはりまた発情期で、「また」というよりも、実はずっと継続しているのかもしれない。パソコンをいじっていてもわたしの膝のあいだに割り込んで来て、そこで丸くなっている。そしてわたしの顔を見上げて、にゃんにゃんなくのである。
 ちょっと考えて、近いうちにニェネントに立派なキャットタワーを買ってあげようかと思っている。ずっと部屋の中もちらかったままで、「ゴミ屋敷」とはいかなくてもかなり凄惨な状態にはなっている。こういうときに部屋の模様替えを強いるような大きなものを買えば、いやがおうにも部屋の片づけをやらなければならないだろう。そういう、わたしの側の都合もあるのだけれども、やはりニェネントにも「娯楽」を与えてあげたい。自分の生活空間にも変化があるといい。

 今日はスーパーで、「酒のつまみ」のつもりで串刺しの焼き鳥を買ったのだけれども、食べていて「今日の夕食のおかずはコレにしよう」ということにして、またまた簡素な夕食になった。先日やった白菜と鶏肉の水炊きがおいしかったので、白菜を買いたかったのだけれども、もう白菜のシーズンも終わりのようで、以前のような安い白菜は売られてなかった。この冬は白菜は一玉しか買わなかったな。



 

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■ 2016-04-02(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 桜の花は七分ぐらいは咲いたと思う。昨日一昨日と暖かだったので、一気に開花したみたいだ。
 ほんとうは二日前に行く予定だった、二週間に一度の内科医への通院、昨日も行きそびれてしまい、ようやく今日行った。図書館への返却も遅れていたのをいっしょに。内科医は図書館のそばの橋を渡ってすぐのところにあるのだけれども、その橋のところへさしかかると、川岸にアオサギが一羽いるのがみえた。デジカメを持っていたので、写真を撮ろうと川縁に寄ってカメラを構えてみたけれども、すぐに飛んで行ってしまった。川縁にはこのごろは釣りをする人の姿がよく見られ、それだけ魚の数が増えてきたのだろうけれども、今日は釣り人の姿もなかったのでアオサギも飛来してきたんだろう。

 病院の帰りに図書館に寄り、「これからは読書モードの生活にしよう」と思い、何か海外文学の名作を借りようと館内をあれこれ見て歩いた。スタンダールの「赤と黒」にしようかとか、セルバンテスの「ドン・キホーテ」にしようかとか迷ったけれども、けっきょく「ラテンアメリカ文学がいいね」と、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を借りることにした。このくらいの本が一日で読了できると理想なのだけれども、本文が二段組みで字も小さいので、ちょっと一日では無理だろう。
 CDも何か借りようとみていて、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」があったので、昔聴いていたことを思い出してこれを借りることにした。指揮はケント・ナガノ。「もう一枚何か」と探して、ブーレーズの指揮したヴェーベルン作品集を借りた。というわけで今は二十世紀初頭の音楽に熱中。

 帰宅して、「トゥーランガリラ交響曲」を聴きながら「百年の孤独」を読む。「トゥーランガリラ交響曲」はライヴ録音のようで、オンド・マルトノの音量が小さいのがちょっと残念だけれども、エキサイティングな演奏で気に入っている。「百年の孤独」はやはりスイスイと読み進められるものではなく、一日かかってやっと二十ページぐらいしか読めなかった。この本は邦訳が出た直後ぐらいに読んでいるはずなんだけれども、もちろん憶えているわけではない。しかし、読んでいるとちゃんと登場人物の名前だけは記憶からよみがえってきた。固有名詞に関する記憶力というものは、そんなに消えてしまったわけでもないようだなと思う。

 このところ、弁当ばかりの夕食になってしまっているので、「いいかげんにしよう」と今日は米を炊いた。それでも惣菜をちゃんとつくったわけではなく、しばらく前に買ってあった「つくね」のレトルトパック、本来は酒のつまみにするようなものだろうけれども、これとレタスのサラダとで夕食にした。



 

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■ 2016-04-01(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 ターミナル駅の映画館で「女が眠る時」という作品を今日までやっていて、監督がウェイン・ワンだということもあって、観に行こうかと考える。今日の上映はたしか16時55分からの一回だけだと思っていたので、その時間に合わせて出発できるように準備した。それで出発前にもういちど確認と思って調べてみたら、なんとこの日の上映は16時05分からだった。わたしが見まちがえていたのだろうけれども、もうそれには間に合わない時間になっていた。ちょっとばかりガックリきてしまった。これもカーリングロスの影響かもしれない。カーリングロスはおそらくいまだにつづいていて、たとえば「点」という漢字の上半分が、カーリングで投げるストーンの形にみえてしまったりするのである。

 それで今日はパソコンを使っていて、なんだか安定がわるいというか、ボディがグラグラする感覚。「どうしたんだろう」と裏返してみると、バッテリーの収められている部分のふたが持ち上がってしまっていて、押しても閉まらなくなっている。ふたを開けてみると、なんだかバッテリーが膨張してしまっているようで、バッテリーのケース自体が変形して、中のバッテリーがのぞいて見える。「これは大変、放置していたらバッテリーが破裂してしまうんじゃないかしらん!」とか思って、とにかくはバッテリーを取り外し、どういうことなのか調べてみる。もうパソコン自体を買い替えなければいけないのかと、ちょっとあせってしまう。調べても「劣化」のせいなのかどうか、よくわからないけれども、とにかくはもうバッテリーは使えない。まあノートパソコンではあるけれども外に持ち出して使うことはないので、バッテリーを外してしまえば問題なく使えるわけである。

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 それで、バッテリーを外してみたところ、なんだか今までの不具合も解消してしまったようである。どうやら本体の内部ですでにいくらかバッテリーが膨張していたのか、それに圧迫されての不具合だった公算が高い。<0>のキーも、<コピー>、<ペースト>などのショートカットキーも、まるで問題なく使える。こんなことなら、<0>のキーの部分に不具合があるのかと、分解などしなければよかった。
 とにかくはこれからはバッテリーなしでこのパソコンを使っていくけれども、あと三、四年は活躍してほしいな。

 今日も映画とか観なかったけれども、読んでいるカントの本(いよいよ佳境の「純粋理性批判」あたりの解説に入って、ちょっと難航)のほかに、またボルヘスの「エル・アレフ」とか読み始め、冒頭の「不死の人」、それに「死んだ男」とを読んだ。なんだかもっとラテン・アメリカの小説が読みたくなり、たしかドノソの「夜のみだらな鳥」とかも持っていたはずと本棚をチェックしてみたのだけれども、その「夜のみだらな鳥」は箱だけしかなかった。中身がどこかにあるのか、それとも失せてしまったのか、探すのはたいへんである。どうせ明日図書館に行く予定だから、何か面白そうなラテン・アメリカの小説を借りてこようかと思う。

 今日もまた、夕食はスーパーに弁当を買いにいく。コロッケの弁当のほかに、まぐろの刺身が元値が600円ぐらいなのに200円で売っていたのも買って帰った。さすがに刺身はけっこうおいしかった。ニェネントにもちょっとおすそ分け。



 

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