ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-05-31(Tue)

 高田馬場の名画座で今村昌平監督の特集が上映されていることを知り、特に今村昌平監督のファンというわけではないのだけれども、今日は「赤い殺意」と「豚と軍艦」。このあたりの作品は「ひかりTV」とかBSでもなかなか放映されないし、特に「赤い殺意」は昔観て面白かった記憶があるので、また観てみたいという気になった。今日はしごとも休みだし、朝から晴天でお出かけ日和。先週ほどの暑さもなく、外に出ても快適である。十二時四十分からの「赤い殺意」をまず観ようと、九時四十分の電車で出かける。これだと高田馬場には十二時ちょっと前に着いてしまうのだけれども、現地で昼食をとったりしていればちょうどいい時間になるだろう。

 電車の中では本を読んだり眠ったり、いつもと同じ旅程である。昼食は高田馬場の日高屋で。さすがに昼食時で混み合っていた。わたしの向かいの席に途中からお客さんが来て相席になったのだけれども、そのお客さん、何を思ったのか、テーブルの上に置かれているわたしの伝票を取り上げて、くしゃくしゃっと丸めてしまわれた。おそらくは捨てようとしていたみたいで、思わず「何するんですか」と声をかけてしまった。びっくりな体験ではあった。

 映画館は、朝の回からの客とこの昼の回からの客とがいっしょになり、かなりの混み方だったけれども、まず「赤い殺意」が終わると、朝からのお客さんは二本とも観たので帰られるわけで、そのあとあまり新しい客も入って来られなかったので、こんどはゆったりとした客の入りになった。
 明日は「神々の深き欲望」が上映され、これもとても観たいのだけれども、連日の上京というのも疲れてしまうし、DVDで観るという選択もあるので(今日上映された「赤い殺意」のDVDは、Amazon でみるとすごい高値が付いている)、また観ることのできる機会もあるだろうと、断念した。

 「豚と軍艦」の上映も終わり、まっすぐに帰路に着く。この時間だとちょうど、ターミナル駅の駅ビルのスーパーが値引きをはじめる時間にターミナル駅に着くことになるので、そこでの買い物をもくろんでのことでもある。
 ご飯は炊いて保温してあるので、おかずになるものだけを買う。チキンフライ、それにサラダなど、半額になっていたのを買って帰った。

 ちょうど帰りの電車の中でGさんから電話をもらい、帰宅してゆっくり話をしたのだけれども、今週末のフィリップ・グラスとパティ・スミスとの公演に行く件についての話だった。HさんもIさんも来るらしい。夜の公演なので、そのまま東京に泊まることになりそうだ。



 

[]「赤い殺意」(1964) 今村昌平:監督 「赤い殺意」(1964)   今村昌平:監督を含むブックマーク

 主演は春川ますみで、おそらくは彼女の代表作がこれだろうと思う。線路際の家にの妻の春川ますみは、夫(西村晃)や家族から「女中のようなもの」と疎んぜられているのだけれども、夫の出張中に強盗(露口茂)に押し入られ、強姦されてしまう。強盗はその後も春川ますみにつきまとい、関係を迫ってくる。もちろん彼女はそんな男を振り払おうとするのだけれども。

 実のところ観ていて音声が聴き取りにくく、しかも東北弁で、いっていることがよくわからない。そういうこともあってついついまぶたが重くなってしまい、観ていて何度も、ふっと意識が遠のきそうになってしまった。しゅんかん寝てしまったこともあると思うけれども、それでも展開がわからなくなるようなところはなかった。そういうのでストーリーはわかるのだけれども、細かいつながりを把握できないで観ていた感じはあり、作品としてのほんとうの面白さを受け止められたとはいえないところがある。残念な鑑賞ではあった。
 もういちど観たいところではあるけれども、先に書いたようにDVDはとんでもない高値。まあ今年は今村昌平監督生誕90年、没後10年の年にあたるので、他のところでも特集上映が行なわれるかもしれない。



 

[]「豚と軍艦」(1961) 今村昌平:監督 「豚と軍艦」(1961)   今村昌平:監督を含むブックマーク

 こちらはちゃんと起きて観た。冒頭の横須賀ドブ板通りの映像から持って行かれ、この作品の撮影は今村作品のいつもの姫田真佐久なんだけれども、すばらしい撮影監督だったのだなあと再認識した。全篇を通して、この撮影はどこもすばらしい。そして音楽は黛敏郎で、こちらもいい音楽を聴かせてくれる(ここでもラヴェルのボレロみたいなのが聴けたけれども)。脚本は山内久という人で、この人は川島雄三監督の「幕末太陽傳」の脚本に、今村昌平と共にかかわっている人。

 主人公はチンピラやくざの長門裕之で、彼とそのガールフレンドの吉村実子との関係、やくざ組織の闘争と興亡などが描かれる。組が駐留米軍と契約して基地の残飯を養豚に利用することになり、長門裕之が豚の飼育係に回される。長門裕之はほんとにチンピラで、まあ組の雑用係。情況に振り回されながら、その中でのし上がっていくことを夢みている。彼の恋人の吉村実子は姉が米兵のオンリーさんなわけで、そんな基地の街に生きることにうんざりはしていて、長門と街を出たいと思っている。
 組の幹部がその米軍の残飯がらみでたかりに来た男を殺して海に捨て、長門裕之に罪をおっかぶせようとする。「何年かムショにいて、出てくれば組の幹部だ」といわれてその気になってしまう長門。しかしその死体が海からあがってしまい、動揺した幹部らは死体を豚のエサにしてしまう。何かの祝いで豚の丸焼きを皆で食べる組の連中だが、その豚から人の歯が出てきて、パニックになる。幹部の男(丹波哲郎)はこの騒ぎで血まで吐いて入院してしまい、組はガタガタになってしまう。
 長門裕之とケンカした吉村実子は夜の街に飛び出し、バーで出会った米兵らに強姦される。長門裕之の組は分裂し、養豚場の豚を巻き込んでの乱闘になる。横須賀の街に豚があふれ、長門は偶然見つけた機関銃を乱射しまくるが、撃たれてトイレで死んでしまう。‥‥静かになった朝、吉村実子はひとり横須賀の駅から外へ出ようとするのだった。

 この作品でもヤクザ映画というのに機関銃が持ち出され、そういうのでは「セーラー服と機関銃」とか「ソナチネ」の先駆になっているというか、この作品から、ヤクザ映画がひとつそのタガを外してしまうには、機関銃というアイテムは必須のものになってしまったということだろうか。いや、わたしはそんなにヤクザ映画というものを観ていないので、どうのこうのということはできないのだけれども。

 おかしいのは小心者ヤクザを演じる丹波哲郎で、胃潰瘍を胃ガンと思い込み、「早く死にたい」と列車に飛び込もうとまでする姿はこっけいで、この作品の中でいちばん笑いを誘う存在ではあったし、つまりは作品のスラップスティックな側面を増幅させる存在だっただろう。この、丹波哲郎らの組員たち(大坂志郎、加藤武、小沢昭一)も皆個性的で、短い時間でよく描き分けられていたと思う。
 そしてやはり、この作品のフィーメールな魅力は吉村実子の魅力。こうやってこの映画を観ると、どこかビョークを思い出させられるルックスの吉村実子、超美人というのではないけれども、この作品の空気感にはまさにピッタリのキャスティングだと思う。そしてどこまでもチンピラな長門裕之の好演も、すばらしいことはいうまでもない。

 わたしがまだ幼い頃は横須賀はたしかに「基地の町」で、「ドブ板通り」というスポット名も記憶の片隅に残っている(ひょっとしたら、行ったこともあったんじゃないかと思うが)。いや、横須賀が「基地の町」というよりも、この日本が米軍の支配下にあったのは、この作品からそんなにさかのぼった過去のことではない。そんな中で、この横須賀で米軍基地の残飯でうまいことやってやろうとするこのヤクザたち、まさに日本という国の戯画ではあるだろうし、そんな米軍の残飯で肥え太った豚こそは日本そのものでもあるだろう。ラストの大乱闘で街に豚もあふれ出し、ケガをした人間と同じように豚もまた担架に乗せられて運ばれるのには笑ってしまうし、強烈な皮肉でもあった。ラストのメッセージも含めて、これは1950年代から60年代初頭の日本を戯画化した、とっても面白い作品ではあったと思う。


 

[]二〇一六年五月のおさらい 二〇一六年五月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●Abe”M”ARIA ダンス公演「サイコ・カナリア」〜既知夢を掘り起こす〜 Abe”M”ARIA:構成・出演 @中野・テルプシコール

伝統芸能:
●文楽鑑賞教室「曽根崎心中」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場

映画:
●「キャロル」パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督
●「豚と軍艦」(1961) 今村昌平:監督
●「赤い殺意」(1964) 今村昌平:監督

読書:
●「七つの夜」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 野谷文昭:訳

DVD/ヴィデオ:
●「羅生門」(1950) 芥川龍之介:原作 橋本忍:脚本 黒澤明:脚本・監督
●「山の音」(1954) 川端康成:原作 成瀬巳喜男:監督
●「近松物語」(1954) 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督
●「小早川家の秋」(1961) 野田高梧:脚本 小津安二郎:脚本・監督
●「黒の試走車」(1962) 増村保造:監督
●「女系家族」(1963) 山崎豊子:原作 依田義賢:脚本 三隅研次:監督
●「心中天網島」(1969) 近松門左衛門:原作 篠田正浩:監督
●「書を捨てよ町へ出よう」(1971) 寺山修司:製作・脚本・監督
●「ソナチネ」(1993) 北野武:脚本・監督・編集
●「カンゾー先生」(1998) 坂口安吾:原作 今村昌平:脚本・監督
●「ラブ&ピース」(2015) 園子温:脚本・監督
●「陽のあたる場所」(1951) ジョージ・スティーヴンス:監督
●「真昼の決闘」(1952) フレッド・ジンネマン:監督
●「水爆と深海の怪物」(1955) レイ・ハリーハウゼン:特殊効果 ロバート・ゴードン:監督
●「昼下りの情事」(1957) ビリー・ワイルダー:製作・脚本・監督
●「クリムゾン・キモノ」(1959) サミュエル・フラー:製作・脚本・監督
●「噂の二人」(1961) リリアン・ヘルマン:原作 ウィリアム・ワイラー:監督
●「白い肌の異常な夜」(1971) ドン・シーゲル:監督
●「愛の嵐」(1973) リリアーナ・カヴァーニ:監督
●「バーディ」(1984) アラン・パーカー:監督
●「ゲーム」(1997) デヴィッド・フィンチャー:監督
●「アメリカン・ビューティー」(1999) サム・メンデス:監督
●「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001) ウェス・アンダーソン:監督
●「ゴスフォード・パーク」(2001) ロバート・アルトマン:監督
●「マッチポイント」(2005) ウディ・アレン:脚本・監督
●「ジャーヘッド」(2005) サム・メンデス:監督
●「007 カジノ・ロワイヤル」(2006) マーティン・キャンベル:監督
●「バベル」(2006) アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ:監督
●「3時10分、決断のとき」(2007) ジェームズ・マンゴールド:監督
●「007 慰めの報酬」(2008) マーク・フォースター:監督
●「英国王のスピーチ」(2010) トム・フーパー:監督
●「プロミスト・ランド」(2012) ガス・ヴァン・サント:監督
●「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」(2012) ブラム・ストーカー:原作 ダリオ・アルジェント:監督
●「007 スカイフォール」(2012) サム・メンデス:監督
●「ゼロの未来」(2013) テリー・ギリアム:監督
●「キングスマン」(2014) マシュー・ヴォーン:監督
●「博士と彼女のセオリー」(2014) ジェームズ・マーシュ:監督
●「ターナー、光に愛を求めて」(2014) マイク・リー:脚本・監督
●「薄氷の殺人」(2014) ディアオ・イーナン:脚本・監督
●BS世界のドキュメンタリー「ヴィスコンティVSフェリーニ」(2014) Flair Production(フランス):制作
●「唐版 滝の白糸」(2013) 唐十郎:作 蜷川幸雄:演出

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160531

■ 2016-05-30(Mon)

 ケータイ(といっても古いPHSだけれども)のバッテリーがそろそろ寿命も近いようで、フルに充電してあってもすぐに消耗してしまう。ただ充電器から外しておくだけでも、一日で電源が落ちてしまうほどである。普段は充電器に差しっぱなしなのでだいじょうぶではあるけれども、そうやって充電器にセットしたままということも、バッテリーの寿命を縮める要因にはなっていたかもしれない。とにかくは直に買い替えなければなるのではないかと危惧している。
 電話番号やメアドが変わらないのであればスマホにしてもいいのだけれども、本体はいったいどのくらいして、月々の料金はどのくらいになるのだろうか。今でも月に四千円ぐらいかかっているのだけれども、これはちょっと支払い過ぎというか、もっと安いプランはありそうだし、つまりはスマホに買い替えてもあまり月額は変わらないのではないだろうか。そうだといいのだけれども。

 今日は朝から雨。二、三日前の暑さもなく、どちらかといえば肌寒いぐらいの天候。昨日洗濯をして布団も干しておいてよかったと思う。いちにち降ったり止んだりの天気がつづいたけれども、夕方にはほぼ雨も上がった。今日は月曜日で東のドラッグストアで3パーセント引きの日。このドラッグストアはもともとニェネントのネコ缶が安いので、まとめ買いに出かける。かつおの缶詰のささみ、しらす、かにかまのトッピング付きを、それぞれ3缶パックのものをふたつずつ買う。ニェネントはやはりかにかまのものが好きなようだけれども、そこはバランスである。かにかまだけを買ったりはしない。

 帰宅して、戸棚にあった親子丼のレトルトパック(賞味期限を過ぎてしまった)で夕食にすることにする。この親子丼レトルト、前にいちど食べてものすごくまずかった記憶があるので、今日はタマネギも鶏肉も玉子も用意して、要するにちゃんと親子丼をつくった上にまぜることにした。なんだかもう、レトルトパックなど不要なような感じである。ちゃっちゃっと親子丼をつくり、ご飯にのせ、その上にあたためたレトルトパックの封を切ってまぜる。レトルトの封を切ると、中身の親子丼はグロテスクというか、これはもうほとんど嘔吐物である。手づくりの親子丼があるからなんとか食べることが出来たものの、このレトルトだけではとても食べられたものではないだろう。おそらくまちがえて一度買ってしまった人も、このレトルトを二度と買うようなことはないだろう。こんなにまずいものが店で売られているということがおどろきではある。自分でつくった親子丼だけですませた方がどれだけおいしかったことだろう。



 

[]「ゼロの未来」(2013) テリー・ギリアム:監督 「ゼロの未来」(2013)   テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 ちょっと、「未来世紀ブラジル」みたいだなー、とか思ったのだけれども、その「未来世紀ブラジル」の内容をもう思い出せなくなっている。去年の九月末に観てるのだけれども、わたしの記憶力はそのくらい脆弱なものになってしまっているらしい。

 とにかくは近未来の物語。主人公のコーエン(クリストフ・ヴァルツ)は能力あるプログラマーなのか数学家なのか、「MANCOM」という組織の下、そのMANCOMのコンピュータ(?)を使って「ゼロの定理」を解析しようとしている。コーエンには友だちも恋人もなく、ただ「生きる意味」を教えてくれるだろう電話を待っている。その電話に出るために自宅勤務を了承してもらい、教会の廃墟らしい自宅で仕事を進める。「MANCOM」の標語は"Everything is under control"。コーエンの住まいには至る所に盗撮装置が設置される。「MANCOM」のトップは「マネージメント」と呼ばれる男(マット・ディモン)。彼は「ゼロとはカオスであり、カオスとは商機だ」と語っている。あるパーティーにいやいや参加したコーエンは、そこでベインズリー(メラニー・ティエリー)という女性と出会う。彼女は実は「MANCOM」に雇われた娼婦なのだけれども、コーエンとベインズリーは想定外に接近し、コーエンはベインズリーに恋をするようである。コーエンの住まいには「マネージメント」の息子、やはり天才プログラマーのボブも訪れるようになり、コーエンは引きこもりの生活から外の世界へ足を踏み出しもする。

 すべてが監視され管理された世界で、引きこもりの主人公は生きる意味を見出せるのか?というような映画だけれども、そのコーエンが電話で待つ「生きる意味」への回答と、彼が仕事で解析する「ゼロの定理」というのは、けっきょくは同じこと、同じものというか、いつかコーエンは電話のことは問題にしなくなってしまう。このあたり、観ていても脚本としてはお上手ではないな、という印象にはなる。「ゼロは100パーセントであるべき」という最終目標を、なぜゆえにコーエンは極めようとするのか。これはある意味で、この映画を成り立たせる大前提なので、ここに疑いをさしはさむことはタブーなのであろう。まあそのようにしかコーエンは生きていけないというか、この厳密さの中にこそコーエンのひとつの存在意味があるようではある。その、「MANCOM」の求める「ゼロは100パーセントであるべき」という厳密さをはみ出すのが、ベインズリーとのヴァーチャルなハネムーンのようなビーチでの(疑似)体験、だろうか。その体験がリアルになるかというときに、コーエンはすべてを失ってしまう。こういうタッチこそが、きっと、テリー・ギリアムの愛好する世界観なのだろうか。
 でも、「ヴァーチャルな記憶は残っているが、しかし彼女はもういない」という世界と、「ゼロは100パーセントであるべき」という定理の実現された(もしくは破壊された)カオスの世界とを、こうやってつなげてしまうのはいかにも乱暴ではないだろうか。果たしてコーエンはカオスを実現させた功労者なのか、それとも単にしくじっただけの男なのか。というか、ベインズリーはいったいどこまで生身の存在なのか、ということでもある。

 面白いといえば面白い、しかし「ん?」と考えるとデタラメな映画なのではないか、というところだろうか。そう、ティルダ・スウィントンが、変なヘアスタイルの精神分析医で二次元のみの出演をしていて、これはやっぱり楽しめた。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160530

■ 2016-05-29(Sun)

 ふいに、「Musica Elettronica Viva」という、1960年代ぐらいから活動している即興音楽家集団の名前を思い出してしまい、「Leave The City」というアルバムを持っていたはずと調べ、たしかにそのアルバムは1971年にリリースされていたことがわかった。たいていの音楽は網羅されているYouTube にもアップされているだろうかと検索してみると、ちゃんと「Leave The City」のA面もB面も見つけることができた。聴いてみて、そう、この音は瞑想気分に浸れる音世界だったのだと思い出した。いま聴いてもとってもわたしにはフィットする。やはりちゃんとCD化されているようで、そのCDが欲しくなってしまったけれども、Amazon では五千円以上の値が付いている。それはちょっと買えないなと思うけれども、無理して買ってもいい音世界だとは思う。

     D

 昨夜BSで「映像の世紀プレミアム」としてその第一回、「世界を震わせた芸術家たち」というのが放映されていて、録画しておいたものを今日観た。パリ万博で人気を集めたロイ・フラーのダンス映像から、ベルリンの壁の前でライヴを行なったデヴィッド・ボウイまで、二つの世界大戦、冷戦、ヴェトナム戦争という「戦争」を絡めながら、基本的なスタンスはそれら「戦争」に関係した(協力するものもあり、抗うものもある)アーティストの動きにスポットをあてた内容だっただろうか。しかし取り上げられたのはベルリンの壁の崩壊までで、湾岸戦争、中東戦争、そして3.11やISのテロのことは取り上げられない。それはつまり湾岸戦争以降の世界では、アートはその力を発揮し得ていないということだろう。たとえばヴェトナム戦争では戦争に加担するアメリカ政府にアメリカ国民が異議を唱えるという構図があったけれども、現在のイスラム原理主義者(といっていいのだろう)らによるテロに対して、アートはどのように立ち向かえばいいのだろうか。それはシャルリー・エブドのようなやり方になるのだろうか。このことは、「他者」とは何なのか、という問いかけにもなるのではないかと考えもする。
 まあこれらはNHKによる最大公約数的な「表現」の列挙ではあるだろうけれども、わたしにはわたしの、独自の「アート」の歴史というものを内に持っている。それだけ長生きしてしまったし。そんなわたしでもやはり、3.11以降の「アート」の力、というものはわからないでいる。
 そう、アンディ・ウォーホルの紹介のとき、BGMがヴェルヴェット・アンダーグラウンドだったことはうれしかった。



 

[]「羅生門」(1950) 芥川龍之介:原作 橋本忍:脚本 黒澤明:脚本・監督 「羅生門」(1950)   芥川龍之介:原作 橋本忍:脚本 黒澤明:脚本・監督を含むブックマーク

 久しぶりの鑑賞。観た時期が古いので、だいたいのところは記憶に残っていた。出演者は八人のみで、主な出演は三船敏郎京マチ子、そして森雅之の三人だけになる。つまり盗賊の三船敏郎が旅の途中の京マチ子と森雅之の夫婦に目をつけ、森雅之をうまくだまして縛り上げ、その目の前で京マチ子を陵辱するのだが、そのあとに森雅之は胸を刺された死体で発見される。いったいなぜ、森雅之は死んだのか? ここで検非違使を前にしての証言で、三船敏郎と京マチ子の証言は食い違う。巫女(霊媒師)によって死せる森雅之の霊も呼び出されるが、その霊の語るところもまたふたりの証言とは異なるものである。「いったい真実とは?」となり、取調べの席に証人として並んだ志村喬と千秋実とは、羅生門の下で雨宿りしながら「人間が信じられない」という。そこにやはり雨宿りに来た上田吉二郎が話を聞き、志村喬が事件の一切を目撃していることをつきとめる。志村喬の見た「事件」もまた、三人の話とは食い違うのであるが、上田吉二郎の追求で、彼は現場から遺留品を盗んでいることが発覚する。はたして志村喬の話を信じられるだろうか。
 三人の証言はそれぞれ、ことさらに自分自身をヒロイックに誇張していたり、自分を悲劇の主人公として事実をねじまげているようではある。そういう意味では志村喬の証言がいちばん真実に近いようには思われる。

 しかし、これは「これが真実」と種明かしをするための作品ではない。それぞれがつまりは自分に都合のいいように現実をねじ曲げるわけだけれども、この映画はその三通りの、いや、四通りの「ねつ造された物語」を「映画」として描く。ここにこそ、この作品の画期的な点がある。それはある意味で、「これは<映画>なのである」という映画なのだ、ということではないだろうか。このあたり、先日「キングスマン」を観てちょっと考えたことの延長になるかもしれないけれども、この「羅生門」、「これが真実である」という映像が四通り繰り返され、観客はつまり、「なんだ、嘘なのか」と認識せざるを得ない映像が繰り返される。しかし、それぞれの「嘘」には、「映画」としてのリアリティが付与されているのである。これは映画史の中でおそらくは画期的なできごとで、ある意味、映画が自らの表現を「嘘」だと宣言しているような作品なわけである。Wikipedia をみると、この作品があの「去年マリエンバートで」にも影響を与えているだろう、というようなことも書かれているけれども、それはあながち的外れな言説ではないだろう。

 さてこの作品、ここでも撮影は宮川一夫、音楽は早坂文雄というゴールデンコンビで、特に宮川一夫の撮影は見事すぎる。まずは映画の冒頭で志村喬が森の中に入って行くところを捉えた映像と、その映像を編集してつないで行く演出とがすばらしく、ここで観客は三船敏郎、京マチ子、森雅之三人による(ここに志村喬の存在も入るわけか)虚構の世界へ導かれて行くのである。そして三人の回想映像。三船敏郎の目の前でなびいた風が、京マチ子の足先から、チラとのぞくその顔までをみせてくれるその映像。この映像は三船を眩惑する映像なのであるが、観客の目もまた眩惑されるであろう。そして、森の中を縦横無尽に走り回るカメラがすばらしい。このスピード感。「いったいどうやって撮ったのだろう」と思わせられる。
 京マチ子の語るシーンでは、早坂文雄がラヴェルのボレロを意識した(「意識した」というより、ここまでくるともうパクりだけれども)音楽があまりに強烈で、緊張感を高めることになる。しかしWikipedia をみると、この京マチ子の役、当初は原節子が想定されていたらしいのだけれども、この役を演じる原節子というのは、どうしても想像ができないし、それはミスキャストになっていたのではないかとしか思えない。それだけ京マチ子がすばらしいということでもあるけれども。

 さて、この作品が翌1951年にヴェネツィア国際映画祭に出品されて金獅子賞を受賞し、ここから海外において「日本映画というのはトンでもないことになっているみたいだ」ということになり、毎年のように日本映画が海外の映画祭で高い評価を得るという、日本映画の黄金時代を迎えることになるみたいだ。今日は先に「映像の世紀」で、パリなどで二十世紀初頭から日本ブームの下地のようなものがあったことはみているので、そういうところでこの、時代色も豊かで、しかも映画としてある面ではとんでもない視点を備えた「羅生門」のような作品が突然に登場し、それはびっくりポン!だったことだろうと思う。しかもこのあとも日本からは続々と、すっげえ作品が届いてくるようになるわけだ。またそんな情況が、日本映画をとりまく環境に起こってくれるといいのだけれども。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160529

■ 2016-05-28(Sat)

 今日は土曜日なので、MDでの留守録の活躍する日。7時20分からの「ウィークエンドサンシャイン」から、9時から11時までの「世界の快適音楽セレクション」とを一気にエアチェックする。全部聴いて3時間40分。あとで聴くのもなかなかに大変である。というか、午後から横になって再生して聴いていると、いつしか眠りに落ちてしまうのである。前から気付いていることだけれども、このエアチェックしたMDを寝る前に聴いていると、だいたい15分ぐらい聴いたところで眠りについてしまうようだ。音楽が退屈だとかそういうことはあり得ないわけだから、いったいなぜ、好きな音楽が流れているのに眠くなってしまうのか、ちょっとした謎である。本を読んでいても眠くなってしまうことはあるけれども、15分とかそういう短い時間で眠くなってしまったりはしない。とにかくは、ひと眠りしようというときには、このエアチェックしたMDさえ聴けば万全である。今日も二時間ほど昼寝をした。

 夕食には豆腐を買ってあるので麻婆豆腐をつくろうと思ったのだけれども、戸棚をみると賞味期限が過ぎてしまった麻婆豆腐の素が残っていたので、これを使うことにした。いつも買っているN社のモノやM社のモノのように二回分入っているものではなく、あくまで一回分。おそらくは値段もそんなに安いものではなかったことと思う。
 「さあつくろう」と、箱の裏の「作り方」を読んでみると、ひき肉が必要なのだった。N社のモノもM社のモノもすでに中にひき肉も入っているというのに、面倒だなあ、と思いながらつくる。「これでおいしくなかったら承知しないぞ」と思っていたら、じっさいにおいしくなかった。N社のモノやM社のモノの方がはるかにおいしいではないか。もう、まちがえてもこの「麻婆豆腐の素」は買わないぞ、と誓うのであった。



 

[]「ラブ&ピース」(2015) 園子温:脚本・監督 「ラブ&ピース」(2015)   園子温:脚本・監督を含むブックマーク

 これも麻生久美子が出演しているということで観てみたのだけれども、いったいぜんたいどういう映画なのか、まるで知らないままに観始めた。えっと、ミュージシャン志望だけれども夢が叶わず、勤め先では「廃棄物」扱いされて徹底的にバカにされている男が、昼休みに屋上で売られていたカメを買う。そのカメに「ピカドン」と名前をつけて可愛がり、会社にもカメといっしょに行くのだけれども、見つかってしまってさらに皆にバカにされる。彼のことをバカにしないのは麻生久美子だけである。絶望した男は、トイレの水洗からそのカメを流してしまう。さてさて、下水を流れて行ったカメは、地下にある不思議な部屋に到達する。そこには捨てられたおもちゃや人形、ペットなどが集まっていて、ある老人(西田敏行)がその世話をしている。その老人が皆に与えたキャンディのおかげで、そこにいるおもちゃ、人形、ペットなど、皆言葉がしゃべれるのである。老人はカメにもキャンディをあげるのだけれども、そのキャンディは「夢を叶える」キャンディだった。飼い主の男の夢を引き継いだカメは、男を夢みたミュージシャンとしてデビューさせる。男のために曲もつくってあげるカメ。しかしカメは夢が叶うたびに体が大きくなっていくのだった。超ビッグになった男はスタジアムでライヴを行なうけれども、そのスタジアムに、ガメラのように大きくなったカメが、街を破壊しながら向かうのだった。

 冒頭からの主人公のくどい演技は苦手なんだけれども、カメが下水に流されて地下の部屋に着くまでの描写は好き。その地下室の様子、そこに集うおもちゃやペットたちの集合もとってもいい。それだけに、いったいどこを向いてつくられている映画なのか、どうもわからないという印象。主人公の男が成り上がって行くサクセス・ストーリーは、ちゃっちゃっちゃっとあっという間の出来事だし、麻生久美子とのラブストーリーが発展するわけでもない。やっぱり主人公はカメなのか、という感じで、たしかにこのカメくん、実写のカメも着ぐるみのカメもかわいい。そしてやっぱり見せ場は巨大化したカメが東京を縦断して行くシーンだろうなあ。ここはCGをまるで使わないで、ミニチュアセットと実景の組み合わせだけでやっているらしい。こういう「かわいいモンスター」が街を破壊するという作品、何かあったなあと考えたのだけれども、どうも「ゴーストバスターズ」のマシュマロ・モンスターではないかと思う。わたしも怪獣映画は好きだし、このシーンはちょっと熱中した。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160528

■ 2016-05-27(Fri)

 ニェネントは新しいキャットタワーが気に入っている。いちばん上の段で丸くなって眠っていたり、毛づくろいをしたりしてくつろいでいる。なぜか知らないけれども、毛ぢくろいをするにはこのキャットタワーの上がいちばんのようだ。今日もいちばん上で毛づくろいしているなと思っていたら「ガタン!」と音がして、ニェネントが前足でいちばん上の段からぶら下がっているのがみえた。どうやら毛づくろいをしていてバランスをくずしてしまい、上の段から転落してしまったようだ。ニェネントはそのまま変な格好で着地して、コソコソどこかへ行ってしまった。「恥ずかしいところをみられてしまった」というところ、だろうか。‥‥ネコには、そういうおマヌケなところがあるから好きだ。

 このところはやはり気分的にものごとを深く考えることもなく、そういう意味ではタラタラとした日常をおくるばかりである。それだけ脳の機能が低下しているのではないかと心配にもなるし、こういうことでいいのかどうかわからない。



 

[]「カンゾー先生」(1998) 坂口安吾:原作 今村昌平:脚本・監督 「カンゾー先生」(1998)   坂口安吾:原作 今村昌平:脚本・監督を含むブックマーク

 終戦直前の岡山を舞台に、一開業医とその周辺の人々の行動を描いたドラマ。主人公の赤城医師(柄本明)は往診に廻るたびに「肝臓炎」という診断を下すので「カンゾー先生」と呼ばれていて、その周辺にはモルヒネ中毒の医師(世良公則)やアル中の住職(唐十郎)らが出入りしている。そこに幼い妹弟を養うために「淫売」をしていたソノ子(麻生久美子)が、父親の死をきっかけに病院の看護役として引き取られてくる。赤城医師は性能のいい顕微鏡を手に入れ、肝臓炎の病原菌をつきとめようと顕微鏡の整備にも力を尽くす。そんなところに捕虜収容所から脱走してきたオランダ人兵士がソノ子に助けられて病院にかくまわれることになり、顕微鏡の整備に力を貸すことにもなる。しかしオランダ人兵士は発見され、顕微鏡も破壊されてしまう。あまりに肝臓炎病原菌の究明に熱中しすぎたことを反省した赤城は、また往診に走り回ることになる。離島に小舟で往診に出た赤城とソノ子は巨大なザトウクジラに遭遇し、ソノ子はひとりでクジラを射止めようとする。クジラは逃げ、ソノ子は赤城に愛を告白するけれど、そんなとき、空には広島に投下された原爆のキノコ雲が、あたかも肝臓のようなかたちをして高くあがるのである。

 当初は三時間を超える作品だったらしいのだけれども、配給会社(東映)の要請で129分までに短くされてしまったらしい。たしかに観ていると描写不足というのか、もっともっとふくらませるべき展開が散見されると思う。今村監督も「当初の三時間ヴァージョンの方がはるかに面白かった」といったらしいのだけれども、きっとそうだったことだろうと想像はつく。三時間ヴァージョンは残しておいて、ソフト化されたときなどに、ちゃんとみられるようにしてほしかったところではある。

 実はこの作品、麻生久美子のデビュー作というつもりで観てみたのだけれども、じっさいのところはデビュー作というのではないようだ。しかしここでの初々しい演技はやはりすばらしい。この作品の次に彼女が出演した作品が、黒沢清監督の「ニンゲン合格」なのらしい。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160527

■ 2016-05-26(Thu)

 今日はイニシャルではなくて本名で書く。石井良枝さんの夢をみた。石井さんは今はどうしていらっしゃるのだろう。夢の中で石井良枝さんはやはりパフォーマンスの舞台を控えていらっしゃるのか、メイクをされていたところだと思う。わたしの目の前にいらっしゃる石井さんは髪を短くされ、そして脱色された髪は白く見えていた。眉毛も白く光を反射していて、石井さんはわたしに「眼も脱色したの」と語られていた。その左目の虹彩は脱色され、白く輝いていた。わたしは「瞳を脱色するようなことはされない方がいいのに」などと考えていた。目覚めたときに、夢の中のこのシーンだけが鮮烈に思い出され、ほかの場面のことは忘れてしまった。

 わたしが自分のイヴェントをはじめたとき、彼女の存在がわたしの支えであったことを彼女は知らないだろう。いつの間にか消えてしまった彼女のことをこうやってこの朝にふいに思い出し、ノスタルジックな想いにとらわれてしまったわたし。いったいこの世界の何がこのような作用を引き起こし、今日この日に石井良枝さんのことを思い出させられてしまったのだろうか。

 この十年とか二十年の記憶が消えてしまった今、夢でみるのは遥か過去に遡った頃のことが多い。そんな中で、今日の夢はどこか特別なものだった。記憶の飛んでしまった時期を吹っ飛ばして、それは遥か過去から現在へのメッセージのように思える。それは今のわたしに二十年前からもういちどはじめなさいというメッセージなのだろうか。
 わたしの身体が二十年分老化を遅らせ、寿命もまた二十年先送りされるのであれば、そういうことも意味を持つだろう。いやそうではなく、自分の寿命が二十年短くなってしまったのだと考えれば、今のわたしの情況も受け入れられるのではないだろうか。それはわたしの「生き方」の問題として、意味の大きなことではないかと思う。そのように今日の夢からのメッセージを受けとめようとしようか。それが、石井良枝さんからのメッセージなのかもしれない。(石井さんの名前を出してしまったことで、変なことにならなければいいけれども。)



 

[]「ジャーヘッド」(2005) サム・メンデス:監督 「ジャーヘッド」(2005)   サム・メンデス:監督を含むブックマーク

 1990年の湾岸戦争の際、海兵隊員としてサウジアラビアに派遣された人物の書いた原作を、サム・メンデスが映画化したもの。冒頭のシーンはまるで「フルメタル・ジャケット」がまた始まったか、というようなところで、主人公のスオフォード(ジェイク・ギレンホール)はその訓練で斥候狙撃兵に配属される。そうすると「アメリカン・スナイパー」が始まるのかというところだけれども、もちろんその切り口はそれらの作品とはまるで違う。じっさいのところ、この作品には戦闘シーンはほとんどなく、サウジに到着した兵士たちはただひたすら「待機」させられる。しかしその中で、「戦争」というものは主人公の中で徐々に実体化していく。そういう、じっさいに戦わなかった「戦争」への参加、ということが、主人公の戦場でのパートナーのトロイ(ピーター・サースガード)にとっては、どこか不完全燃焼になったのかもしれない。
 「待機」、「待機」の日々というのは、どこかで昨日観た「ソナチネ」に通じるところもあるだろうか。じっさい、帰還後に死亡したというトロイの死の原因は語られないけれども、映画ではまさにサウジの体験と結びつけられて語られていただろう。それは主人公の視線でもある。

 「死」のない戦場、そんなところでも、アメリカ軍の空爆によってイラク人らの屍を目にすることにはなる。その世界はどこか非現実で、さらに、イラク軍によって火を放たれた油田の炎の中、黒い馬が主人公の前に姿をあらわすシーンはまさに「非現実的」で、しかもとてつもなく美しくもある。
 「アメリカン・スナイパー」では描かれなかった部分を、補完した作品という見方はできると思う。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160526

■ 2016-05-25(Wed)

 となり駅の市民病院へ行く。しごとも休みなので早く出かけようと思っていたのだけれども、昨日の帰りが遅かったし、朝少しのんびり寝てしまった。それに、起きようとすると腰が異様に痛かった。腰痛というヤツである。こういうことになるのはいつ以来なのか、まるで記憶にはない。今までのわたしは、「腰痛」などということと無縁の生活をおくってきたのである。それがこうやって痛みを抱えてしまうと、「入院したりする事態になったりして」とか、悪いことばかり考えてしまう。まあ、まるで動けないという激痛でもないし、寝ていてから起きるのがつらいというぐらいのことなので、病院には行くことにした。けっきょくは九時四十分の電車で出かける。

 久しぶりに二時間近くたっぷり待たされて、持って行った「千一夜物語」(まだ図書館から借りている)もずいぶんと読み進んだ。診察と会計が終わって十一時半に近く、帰りの電車までには一時間近くある。それではと、まずは近くのショッピングモールにあるスーパーに行ってみた。このスーパーは最近ずっと改装工事をやっていたけれど、ようやく新装開店になったようだ。中に入ってみると、以前よりはいろいろと安い品の並ぶスーパーに変身したみたいだ。前はどんな品もウチの近くのスーパーより高く、「この駅で降りてもこのスーパーを利用することはないな」と思っていたのだけれども、今はモノによってはウチの近くのスーパーよりも安いのではないかと感じる。次回来るときは、「何か買うこともあり得るぞ」というつもりで来ようと思う。
 スーパーを出て、電車の来る時間までは近くの量販古書店へ行く。この店は最近はめぼしい本が置かれていることも少なくなり、主に中古DVDのコーナーをみる。今日はなんと、ジョセフ・ロージーの四枚組DVDボックスセットが1550円で置かれていた。一枚400円ぐらい。内容は「できごと」「召使」「銃殺」、そして中田秀夫監督によるドキュメンタリー「ジョセフ・ロージー:四つの名を持つ男」である。これは迷わずに買うことにした。他にも、ゴダールの「ウィークエンド」950円とか、欲しいDVDがいくつかあったけれども、今日はジョセフ・ロージーだけにしておく。

 電車で帰宅して十二時半。今日はかんたんにカップ麺で昼食にした。午後から映画を二本観て、夕食はスパゲッティですませた。



 

[]「女系家族」(1963) 山崎豊子:原作 依田義賢:脚本 三隅研次:監督 「女系家族」(1963)   山崎豊子:原作 依田義賢:脚本 三隅研次:監督を含むブックマーク

 依田義賢の脚本で撮影は宮川一夫と、まるで溝口健二作品のようなスタッフだけれども、このふたりは「悪名」シリーズでもいっしょになっていて、ふたりとも後年にはけっこう娯楽作にもかかわっているようである。原作は山崎豊子なので、なんとなく「金と権力をめぐる骨肉の争い」のドラマなのだろうと思ってしまい、たしかにこの「女系家族」にもそういう面はあるのだけれども、しばらく前に観た「ぼんち」もまた山崎豊子の原作で、この「女系家族」は「ぼんち」にちょっと似たテイストの作品かと思う。

 大阪の旧家矢島商店の当主の嘉蔵が、三人の娘を残して急逝する。その遺産相続をめぐって、実は以前から店の財産を着服していた大番頭の宇市(中村鴈治郎)も加えて、少しでも多くの遺産を得ようとあーでもないこーでもないと、表になり裏になりの争いが繰り拡げられる。基本は嘉蔵の遺した遺書にしたがってのことになるが、長女の藤代(京マチ子)は、出戻りではあるけれども長女としての権利を主張し、山林など不動産の権利を得る。婿を迎え入れてのれんを継いでいる次女の千寿(鳳八千代)は当然、店の経営権を得、それなりに欲もある三女の雛子(高田美和)は書画骨董を得る。
 藤代には相談に乗ってくれる踊りの師匠の梅村(田宮二郎)がいるけれども、梅村は当然藤代が得る遺産目当てのことである。また、雛子にはなにかと叔母の芳子(浪花千栄子)が後ろ盾になっている。そんなところに、当主の嘉蔵に妾の文乃(若尾文子)がいたことがわかり、しかも文乃は嘉蔵の子を孕んでいたのである。三姉妹は文乃の住まいにまで乗り込み、堕胎まで迫ることになるが、嘉蔵の遺書には文乃のことまでは書かれていないのであまり問題にしない。
 自分の不正を隠そうとする宇市の思惑も実り、三姉妹それぞれが納得の行く結論に達するかに見えた親族会議の席に、男の赤ん坊を抱えた文乃が姿をみせ、そこで嘉蔵からの遺言書を披露するのである。

 ま、若尾文子が出てきたときから、「これは若尾文子がぜ〜んぶかっさらっていってしまうんじゃないか」と思ってしまうのだけれども、そこに到るまでのドロドロの争いというものは見ごたえがあり、ここはさすがに三隅研次監督の演出によるものだろう。ちょっと京マチ子と中村鴈治郎との腹黒さのみが目立つ感覚ではあるけれども、田宮二郎や浪花千栄子も相当のやり手というか、ここは田宮二郎のスマートな策略が面白かった。もともとの悪事は露見し、策略は策略ですべて無に帰すという、なかなかにすっきりとした後味の作品だった。



 

[]「ソナチネ」(1993) 北野武:脚本・監督・編集 「ソナチネ」(1993)   北野武:脚本・監督・編集を含むブックマーク

 もう昔観た記憶など残っていないのだけれども、こうやって観てみるとこの作品、相米慎二監督の「セーラー服と機関銃」へのオマージュを強く感じてしまう。孤立した弱小(でもないようだけれども)ヤクザ組が消滅するまでという大まかなストーリーラインもそうだし、クレーンを使ったリンチはまるで同じである。機関銃の登場という<非現実>にも共通項を感じてしまうし、映画全体に通じる「ごっこ」のような子供っぽさというのか、そういう空気感も似ていると思う。

 でも、そんな中で、北野武の「死」への親和性というのか、そんな彼の心情がよくあらわされている作品でもあると思う。「あんまり死ぬのを怖がってると死にたくなっちゃう」というところに、この「死」への長い猶予期間、「死」までの休暇のようなこの作品の緊張感の来るところがあるのだろうか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160525

■ 2016-05-24(Tue)

 今日は四時半に新宿でCさんと待ち合わせ、飲みに行く予定。四時半に新宿に着くには三時にターミナル駅を出ればいいのだけれども、ちょうどターミナル駅の映画館では十二時半ぐらいから「キャロル」を上映していて、三時ちょっと前に終わる。いちど観ている映画だけれども「また観たい」と思っていたから、まず「キャロル」を観て、それから新宿に向かえば、時間のムダのない行動ができる。ちょうど映画館のポイントもたまっていて、今回は無料で観ることができるし。

 十二時に地元駅を出る電車でターミナル駅に行き、すぐに映画館へ直行すると、間髪を入れずに映画の上映が始まる。今日の映画館の観客は、わたしを入れて四人か五人だっただろうか。この映画館の平日の昼間としてはごく普通の入りだろう。予告を観ていたら面白そうな映画の予告もやっていて、もっとこの映画館に通ってもいいなと思うことになる。そう、ジャ・ジャンクーの新作はいずれこの映画館で上映されるので、そのときに観ようかと思っている。

 映画を観終わって駅へ行くと、すぐに湘南新宿ラインの快速がやってくる。新宿には四時十五分ぐらいに到着。こんなにムダのない行動というのも気もちがいい。しかし、サミットの始まるという都心は警備の警官にあふれていた。
 今日は新宿も東口で飲もうかと相談していたので、待ち合わせの時間まで東口を出た右手の方を歩いて、よさそうな居酒屋があるかどうかみてみたのだけれども、このあたりはどこもチェーン店のような居酒屋ばかりで、あまり入りたいと思う店もない。やはり三丁目の方に行ってみようかと思う。

 紀伊国屋の前でCさんとおちあい、三丁目の方に歩いてみる。わたしは路地にあった香港屋台の店が気になったのだけれども、五時オープンということで、まだちょっと時間があった。ちょっと興味をそそるような店はどこも五時オープンのようで、もうちょっとあたりをブラブラしてでも、五時まで時間をつぶしてもよかったかもしれない。けっきょく、二十四時間営業みたいな二階にある居酒屋へ行くことにした。値段は普通か、ちょっと高めぐらい。
 Cさんとはいつもの気のおけない会話がつづき、次回は新橋あたりの居酒屋を開拓しようかということになった。

 八時ぐらいに散会ということになり、会計はふたりで八千円に近い金額。わたしとしてはふたりでも六千円台でおさめたいところはあるし、今日はあまりひとりで四千円飲んで食べたという気分ではない。やはり香港屋台の店に行ってみたかったかな。



 

[]「キャロル」パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督 「キャロル」パトリシア・ハイスミス:原作 トッド・ヘインズ:監督を含むブックマーク

 昨日観た「噂の二人」のことなど考えれば、この時代にレズビアンであることが露呈したのであれば、もっと大々的に批難攻撃されたことであろうし、それはキャロル(ケイト・ブランシェット)と元夫との、娘の親権争いの裁判の場で全開していたのかもしれない。そういうことはこの作品では(原作でも)描かず、さらっとキャロルが裁判で負けたことだけを伝える。この作品はこの時代にレズビアンであることの困難さを伝える作品ではなく、どこまでも「ラヴストーリー」なのだと思う。
 基本は、テレーズ(ルーニー・マーラ)がキャロルのもとへ飛び込んで行くかどうか、その決断までを描くような作品なのだと思う。まずはキャロルがテレーズを誘い(このあたりは英語でいえば「Seduction」ということばがピッタリだと思う)、そのあと終盤にはテレーズの自由意志にまかせる。おたがいにまっすぐ直線ではない愛の経路こそが、この作品の主題なのだと思えてくる。そこにふたりのすばらしい女優の「目」の演技が、観客を魅せてくれる。
 みていて、この映画でのケイト・ブランシェットって、どこか既視感があるような気がしたものだけれども、この映画での彼女、今の美輪明宏の若い日の頃、つまり丸山明宏に似てなかっただろうか? そう観てみると、両性具有を思わせる丸山明宏の魅力を、ここでケイト・ブランシェットにかさねてみてしまうことは、そんなにまちがったことでもないように思えてしまう。

 二回目に観て、ひとつ気がついたのは、テレーズがキャロルへのプレゼントのレコードを買いにレコード店に行ったとき、そのレコード店には女性のカップルがいるのがちょっと描写されていたこと。テレーズの中に、キャロルへと惹かれて行く自分の気もちを「不純なもの」と思うようなところは皆無なのだけれども、このちょっとした描写で、より自分に正直に生きる決心はついたのではないだろうか。このあたり、「Freaks」ということばに負けてしまった、「噂の二人」のシャーリー・マクレーンとの大きな差異がある。

 ラストはやはり、このあとのふたりの幸福を願わずにはいられなくなるのだけれども、このふたりなら大丈夫なのではないだろうか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160524

■ 2016-05-23(Mon)

 今朝見た夢。わたしは団地(昔住んでいたところ)の近くに住んでいるようだ。そこの大学がある側の信号のところまで、女性ふたりの乗る車に迎えに来てもらう。女性のひとりはFさんだったと思う。いろいろなところに行ったようだけれども、その部分の記憶は残っていない。その帰り道、女性ふたりは前の席でわたしは後ろの席にすわっているのだけれども、なぜかその車にいろいろな人が乗って来て、バスの中のようになってしまう。わたしはまた乗せてもらったところの信号で降ろしてもらうのだが、降りるときに女性のどちらかに「マンガを持って行かないか」と聞かれる。
 外は雨が降ったあとのようで、あちこちに水たまりが出来ている。その水たまりは見た目よりもずっと深く、わたしの向かいに歩いてきた男女の、男の方がそんな水たまりのひとつに足をとられると、胸のあたりまで水の中に入ってしまう。「大丈夫ですか?」と声をかけるわたし。
 その近くの店に入り、二階に上がってみると、コンサートのポスターが貼ってある。ソフト・マシーンの来日コンサートのようで、「Soft Machine Fifth Tribute」の文字が読める。どうやらアルバム「Fifth」のときのソフト・マシーンのメンバーが再結集して、そのアルバムをライヴで再現するという企画のようだ。しかしそのポスターのメンバーの写真はアルバム「Fourth」のジャケットのものであり、わたしも「Fifth」ではなくって「Fourth」と了解していて、「Fourth」ならばわたしの大好きなアルバムだからぜひ行きたいと考える。夜のライヴならばまた時間的に行きづらくなるのだけれども、手書きで「午後4時」と書いてあって、その時間ならば楽に行けるな、と考える。チケット代も8000円とあり、もうすっかりそのライヴに行く気になっている。「わたしだってプログレは好きなのだ」などと思っている。ポスターをよくみると、そのライヴには他にいろいろなバンドも出演するようだけど、知らないバンドばかりだった。その店を出て、家への道を歩いていると、Fさんと出会う。彼女もわたしが降りてからすぐに車を降りたらしい。「家に寄って行けばいい」と彼女を誘う。
 どうやらわたしは転居したばかりのようで、荷物も新しい部屋に到着したばかりなのだが、家主さんが荷物を開けて片付け、ちゃんとレイアウトもしてくれていた。机のところに油絵具が並べられ、床には澁澤龍彦の本が置かれている。Fさんに「どんな本を持っているのか、すっかりバレてしまっているな」と話す。二階への階段を上がったところに丸い木の桶のようなものが置いてあり、その中にマグロの寿司がちょっと残っている。どうやら「食べて下さい」という意味のようだ。二階の部屋の床には割れた皿のようなものが置かれていた。そんな夢だった。

 今日は何もやらないままに過ぎていった一日だった。明日は新宿でCさんと会うことになっているので、それに備えての休息日、という感じである。午後からは映画を二本観て、夕食には四日ほど前に買って忘れていたマグロの刺身、これを冷凍庫に放り込んでおいたものを半分解凍し、まだ凍っている状態のものをわさびしょう油でおかずにした。半分凍った刺身というのもおいしいものである。



 

[]「キングスマン」(2014) マシュー・ヴォーン:監督 「キングスマン」(2014)   マシュー・ヴォーン:監督を含むブックマーク

 前に映画館で観て、観たあとすぐにストーリーも何もかもすっかり忘れ去ってしまっていた映画。「こういう映画だったのか」という確認のための再見で、やはりそれほどに面白い映画というわけでもなかった。

 映画の中で登場人物が、それまでの映画だとルーティンでこういう展開になるのだけれども、「これは映画ではないから」と、それまで主人公扱いだったコリン・ファースがいとも簡単に殺されてしまったりとかするのだけれども、これを厳密にいうとこれもまた「映画」であることは間違いないのだから、「これは映画ではない」というのは大嘘になる。もちろん観ている方はそんなこと百も承知で、「映画のくせに<これは映画ではない>なんていってやがらあ」と思うのだけれども、マジメに考えると「では、<映画>とは何か」とかいうことになってしまう。というか、この作品はどうみても「娯楽映画」の範疇に入るわけだから、ゴダールが映画の中で「これは<映画>ではない」などとのたまうのとは、まるでわけがちがう。
 で、「娯楽映画」というものは、観客を楽しませるためにリアリティを捨て去る、という演出をしていると思うけれども、そこで「これは映画ではない」とのたまうのは、「これは<リアル>だ」といっているわけだろうか。しかしそんなのはリアルでも何でもなく、逆に劇場で映画を観る観客にとっては、登場人物が観客席に向かって「これは映画だからね」とウィンクしてみせる映画の方が、<映画>というものを考えればずっと<リアル>なわけだろう。

 まあこんなことをマジメに考えてもしょーがないのだけれども、「これは映画ではない」としての展開がまるで面白味のないものになってしまうのであれば、「ちゃんと<映画>にしてくれよ」といいたくもなってしまうだろう。ま、「これは映画ではない」などとしょーもないことをいい出して、けっきょく面白くもない展開をみせつけられる観客というのはかわいそうなものである。そういう意味でも、この<映画>は面白い<映画>ではなかったといえるだろう。



 

[]「噂の二人」(1961) リリアン・ヘルマン:原作 ウィリアム・ワイラー:監督 「噂の二人」(1961)   リリアン・ヘルマン:原作 ウィリアム・ワイラー:監督を含むブックマーク

 明日もういちど「キャロル」を観に行く予定なので、その前に、「キャロル」とは逆に、そういう同性愛が社会から疎まれていたことを前提とする作品「噂の二人」を観た。
 わたしは観る前から、この映画は当時の「赤狩り」へのメタファーも含む作品なのではないかと思い込んでいたのだけれども、観始めるとすぐ、この映画の原作があのリリアン・ヘルマンの戯曲「子供の時間」によるものだとわかるわけで、わたしもこの作品の原作がリリアン・ヘルマンとは知らなかったけれども、「ほら、やっぱり<赤狩り>のメタファーとしての同性愛排斥というものがあるわけだろう」と思ってしまった。ところがそうではなく、この原作戯曲の発表されたのは1934年のことで、まるで<赤狩り>とは関係のない戯曲ではあったのだ。
 しかし、ウィリアム・ワイラーがこうしてこの戯曲を映画化したのは1961年のことであり(実はワイラー監督は1936年にもこの戯曲を映画化しているらしいのだが)、そこにはハリウッドの<赤狩り>に徹底して抗したワイラー監督の視点が入っていることはまちがいないのではないだろうか。それは、先日観たフレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」に読み取れる<赤狩り>への抵抗の姿勢と同様、もしくはそれ以上のものではないだろうか。つまりここでは、「真昼の決闘」での市民による「弾圧」への黙認、ということを越え、風評だけで他者を攻撃、弾圧する市民らを断罪しているのではないか。じっさいにこの作品で描かれたように風評で仕事を奪われ、アメリカからの亡命すら余儀なくされた人たちもいたわけではあるし、やはりここには「赤狩り」へのメタファーがあるという観方は、外れてはいないと思う。そういう意味では、この映画をラストまで観て、「わたしは近年、これに似たとんでもないことをやってしまっていた」と反省する人々は複数いたのではないだろうか。

 さて、映画はいかにも舞台劇が原作らしくも、シャーリー・マクレーンとオードリー・ヘップバーンとで経営する女学校、それとその学校の生徒の家だけが舞台となるような作品で、女子だけのこじんまりとした学校ということで、わたしは不埒にも先日観たクリント・イーストウッド主演の「白い肌の異常な夜」を思い浮かべてしまったのだけれども、まさかそんな作品であるわけもない。しかし、その女学校の生徒がつく嘘というものがキーになっているところなどは共通してもいて、女学校の生徒には嘘つきがいる、というのはひとつの公式なのかもしれない。
 しかしこの作品のすべての元凶である嘘つき娘は、かわいげのない子役が演じていることもあってほんっとに憎ったらしくって、「子供時代にこんなヒドい役を引き受けてしまったこの子役、ちゃんと真っ当に成長がすることが出来たのかと心配になってしまうほどである。その子に脅されて彼女の嘘を裏づける嘘をついてしまう少女をヴェロニカ・カートライトがやっていて、どうもこの作品が彼女のデビュー作らしい。

 とにかくはおぞましくも救いのないストーリー展開なのだけれども、そこでのシャーリー・マクレーンとオードリー・ヘップバーンとの演技というのがひとつの見どころになるだろう。オードリー・ヘップバーンの出演作は先日「昼下りの情事」を観たばかりだけれども、ここではうってかわって大人の、苦悩する女性を演じていて、やはりこの人は演技のうまい人なんだと感心した。
 セリフの中でシャーリー・マクレーンが「そうよ、わたしはfreakよ!」と語るシーンがあり、その当時にはそのような同性愛嗜好者が「Freak」と呼ばれていたということに、少なからずショックを受けた。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160523

■ 2016-05-22(Sun)

 今日もしごとは非番で休みだった。別に昨日の外出で疲れたというわけでもないのだけれども、今日はいちにち一歩も外に出なかった。どうやら外は気温も上がって三十度近くになったようで、部屋の中にいても外の気温の高さは感じることができる。

 わたしが外に出なかったので、ニェネントの外出も今日はなかったのだけれども、やはりなんだかわたしのまわりにつきまとうようだ。パソコンに向かっていると、わたしの膝のところにきて丸くなっている。ときどき、わたしのひじをペロッと舐めてきたりする。やはりそうやって舐められたりすると「かわいいヤツよのお」とか思ってしまい、愛情が増してしまう。やはりきっと、わたしに何かを求めているんじゃないだろうか。「もっとかまって」、ということだろうか。

 なんだかこのところ、部屋を片付けるということをまるでやらなくなってしまって、「ゴミ屋敷」一歩手前、という感じになってしまった。いろんな舞台を観るとチラシがいろいろついてくるし、映画を観に行くとつい、これから公開される作品でめぼしいもののチラシを持ち帰ってしまう。こういうものもけっきょくは部屋がちらかる大きな原因になる。あとは季節の変わり目になると着る服が変わってくるのだけれども、そうやってもう着なくなった服を出しっぱなしにして、よけいに部屋の乱雑さの原因になる。それと先日MDプレーヤーを買ったせいで、聴くためにそのMDやCDが床に出しっぱなしになっている。こういうものをなんとか片付けないと、ほんとうにゴミ屋敷になってしまいそうだ。



 

[]「小早川家の秋」(1961) 野田高梧:脚本 小津安二郎:脚本・監督 「小早川家の秋」(1961)   野田高梧:脚本 小津安二郎:脚本・監督を含むブックマーク

 小津監督唯一の東宝作品ということで、スタイルはまるで従来の小津作品とは変わらないと思うけれども、俳優陣はガラリと変わっている。小津作品の常連での出演は原節子と笠智衆ぐらいのものだけれども、笠智衆は物語とちょくせつは関係のない農民の役でちょっと出ているだけ。

 舞台は関西で、造り酒屋の小早川家には当主万兵衛(中村鴈治郎)、長女の文子(新珠三千代)、次女の紀子(司葉子)がいて、今は店の経営は文子の夫の久夫(小林桂樹)が引き継いでいる。小早川家としては次女の紀子と、亡くなった長男の未亡人の秋子(原節子)との縁談を期待しているのだが、見合いの席の準備された紀子には別に思う人があり、秋子は再婚の意志はないようだ。そんな中、万兵衛はかつての愛人のつね(浪花千栄子)と再会し、彼女の家に入りびたるようになるのだけれども、心筋梗塞で倒れてしまう。いちどは回復してまた遊び始める万兵衛だけれども、また愛人宅で倒れ、そこで息を引き取ってしまう。ラストには主な出演者が喪服でそろっての葬儀の場となり、皆が万兵衛の遺骨を抱いて川の橋を渡るシーンで映画は終わる。

 野田高梧と小津安二郎とは、出演者が決まってから「アテ書き」のように脚本を書くらしいのだけれども、いつもの小津映画常連とは異なる顔ぶれでの作劇で、とまどったところもあるのだろう。特に原節子をめぐっての展開、彼女を再婚相手に選びたい森繁久彌の登場など、まるで活かされていない感じは否めない。原節子の登場する意味はただ、見合いにのぞむ司葉子に忠告してあげるぐらいのものでしかないし、その司葉子の挿話もまた、彼女が思いを寄せる男も登場するわけでもなく、どこか中途半端な印象を受ける。
 そうするとこの作品、小早川家の当主中村鴈治郎をめぐる展開にこそ面白味があるわけだけれども、このあたりをもうちょっと掘り下げて見せてほしかった、ということはある。そういう意味ではバランスの悪いところの目立つ作品に思える。ただ、ラストに不吉な黒いカラスの登場してくる葬儀のシークエンス、この部分はやはりどこか不気味で、皆が正装していることもあり、その欄干のない渡り橋を渡る皆の姿はなんだか、マグリットの絵でも観ているような奇妙な感覚にとらわれてしまう。

 中村鴈治郎は心筋梗塞から一時回復して、長女夫婦の子供とキャッチボールをやったりかくれんぼをやったりもする。それは病み上がりの老人にはあんまりのことで、その死期を早めてしまったことはまちがいないことだろう。というか、やっぱりわたしは、小津映画に登場してくる子供たちがどれもこれも好きになれない。これは生理的な問題だろうか。出演者では、カメラに正面から向き合って中村鴈治郎に意見する新珠三千代、彼女の存在が強く印象に残った。どうやら小津監督も新珠三千代のことをずいぶんと気に入ってしまったのだと、何かで読んだ。



 

[]「心中天網島」(1969) 近松門左衛門:原作 篠田正浩:監督 「心中天網島」(1969)   近松門左衛門:原作 篠田正浩:監督を含むブックマーク

 この映画にも、先に観た「小早川家の秋」のように、その終盤に「死」の世界へと橋を渡って行くというシーンがあったのだった。

 冒頭に、文楽人形の頭などが映され、その文楽の舞台裏のような情景に、篠田監督(だと思う)がこの作品の演出方針を電話で語っている声がかぶさってくる。この作品の脚本は篠田監督自身、そして富岡多恵子、この作品で音楽も担当している武満徹の名が並んでいる。ここに武満徹の名があることがちょっと意外だったのだけれども、これは実は1958年に武満徹自身が脚色したラジオドラマというものがあったそうで、それは単にラジオドラマということを越えた音楽的なものでもあり、それを聴いた篠田監督がこの作品の構想を得たのだという。つまりそこには、江戸時代の文楽の名作をただ再現するのではなく、現代性を持たせたものとしてラジオドラマ化した武満徹の視点があっただろうし、篠田監督もそのような現代性にインスパイアされたものだろう。

 しかしこの作品、そのストーリーラインにおいては(おそらくは)原作を忠実になぞっているようで、観たあとで調べてみた限りでも、映画のために改変されたところというのはないようだ。そうではなく、篠田監督がこの映画でやろうとしたのは、そもそもが人形が演じた「人形浄瑠璃(文楽)」というものを映像化するときの、そのリアリティの改変ということだと思う。そもそもが舞台作品であるものを映画化するにあたって、篠田監督はストーリーはいじらなかったけれども、その視覚的演出法において実験的手法を取り入れたわけだろう。そのひとつは「黒子」の登場で、もうひとつは美術的に大胆なセットを組み上げたということだろう。

 「黒子」についていえば、そもそもの文楽には人形をあやつるために人形遣いとしての黒子が存在するのだけれども、この作品ではまるで主人公らの運命を導くようなかたちで黒子らが登場してくる。わたしは観ていてそれらの黒子の存在が活かされていないと感じる部分もあったのだけれども、この作品が文楽作品を映画化したものだという視覚的メッセージの意味も含まれているとすれば、まさに観るものにそのようなイメージを強く与えることには成功しているだろうし、映画ラストの心中場面での黒子の演出はみごとなものだったと思う。

 そしてこの映画の美術だけれども、これはそもそもがATG映画として低予算であることを逆手に取ったという「発想の逆転」があったのだろうけれども、これもまたそもそもの原作が舞台作品であったことから、そのセットから現実世界のリアリズムを極力排除し、まさに「虚構性」を際立たせることに成功しているだろう。そして効果的に使われたセットはまた美しくもあった。

 そういうことでいっておけば、濃淡をはっきりと際立たせ、照明のあたった人の肌はどこまでも白く、影の部分は黒く沈ませるという照明の効果もまた特筆もので、中間のグレートーンを切り捨てた映像はくっきりと美しく感じられた。

 ストーリーのことを書いておけば、紙屋治兵衛(中村吉右衛門)の妻のおさん(岩下志麻)という存在の印象の強い作品で、彼女が夫である治兵衛と、その夫と心中しようとする遊女小春(岩下志麻の二役)との関係をうまくおさめようとする意志こそが印象的で、おさんを中心に考えるこの物語というものもまた、充分にドラマティックなものではあるだろう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160522

■ 2016-05-21(Sat)

 今日明日はしごとは休みの連休。今日は中野へ行き、まずは中野ブロードウェイで開催中らしい清水真理さんの人形の展示をみて、それからAさんと会って居酒屋へ行く予定。そのあとはテルプシコールでのアベさんのダンス公演。目いっぱいの日程である。ほんとうは中野へ行く前に上野でカラヴァッジョ展を観るとか出来るといいのだが、などと考えていて、十一時ごろに家を出ればそのカラヴァッジョを観ることも可能だろう。しかし、やはり十一時になっても出かける気分ではなく、カラヴァッジョ展はまたいずれ。出かけるタイムリミットの午後一時にようやく家を出た。

 四時に中野駅に到着。中野というところに来るのは五年か六年ぶりになるだろうか。そのあいだにわたしは記憶が消えてしまっているので、中野というのがどういうところだか、まるでわからない。おそらくは大きな駅ビルがあるのだろうと思っていたらそういうものはなく、高架のホームから下の改札に降りるだけの駅だった。

    f:id:crosstalk:20160521170645j:image:w360

 まずは「中野ブロードウェイ」というところへ行くのだけれども、北口に出ると目の前にアーケイド街があるのでそこを進んでいくと、自動的に中野ブロードウェイに吸い込まれてしまうのだった。ゴキブリホイホイみたいな街。
 その中野ブロードウェイの四階に上がり、小さなスペースでの清水真理さんの人形作品の展示を観る。点数は少ないけれども彼女の作風をよくあらわす作品が並んでいて、見ごたえのある展示だったと思う。

       f:id:crosstalk:20160521162353j:image:w280

 中野ブロードウェイというところはマニアックな店の並んだところのようで、中を歩いていると面白い。古い映画のポスターがたくさん売られている店や、プロ用のヴィデオカメラなどが並んでいる店もある。古本屋に入るとスティーヴンソンの怪奇短編集というのをみつけ、面白いことにこの本は二冊あったのだけれども、きれいな本の方がずっと安かった。初版とかそういうことが関係しているのか。とにかくはスティーヴンソンはボルヘスのおすすめの作家でもあるし、この本を買った。
 一階には中古パソコンの店もあり、MacBook の中古が四万五千円ほどで置かれていた。OS は10.6.8。わたしのと同じである。MacBook の中古はまだあまり安くなっていないというか、わたしが持っているMacBook は、今考えてもいい買い物だったのではないかと思う。

 Aさんと待ち合わせの時間が近づいたので、駅の改札口に戻る。無事にAさんと遭遇し、居酒屋で飲んで語る。まあわたしはこのあと観劇の予定があるのであんまり飲むことは出来ないけれども、久しぶりのAさんと話すことはいっぱいあり、楽しいひとときだった。

 次はテルプシコールでのアベさんのダンス公演。アベさんのダンスを観るのも、ほんとうに久しぶりのことになる。そもそもが「テルプシコール」という小屋がどこにあるのか、どんなところだったかまるで記憶が失せている。
 JRの線路のすぐ脇にあるテルプシコールは、思ったよりも古びた、小さなところだった。靴を脱いでビニール袋に入れ、中に入る。入り口のすぐそばにEさんのお姿もあり、ちょっとあいさつした。

 久しぶりに観るアベさんのダンス、とにかくはとってもよかった。アベさん健在なり、という感じ。舞台がはねて客席を出ると、舞台を終えたばかりのアベさんがいた。「久しぶりぃ〜」とか声を掛け合い、「とってもよかったよ」と、かんたんな感想を伝えた。「飲みに行こうよ」と誘われたけれども、行けなくってごめんなさい。次は泊まりがけ覚悟で来ますから、そのときに飲みましょう。

 まだローカル線の終電には間のある電車で帰路に着いてターミナル駅で下車し、改札の外すぐのところにある吉野家で牛丼の夜食にした。いろいろと充実した楽しい一日だったと思う。



 

[]Abe"M"ARIA ダンス公演「サイコ・カナリア」〜既知夢を掘り起こす〜 Abe"M"ARIA:構成・出演 @中野・テルプシコール Abe"M"ARIA ダンス公演「サイコ・カナリア」〜既知夢を掘り起こす〜 Abe"M"ARIA:構成・出演 @中野・テルプシコールを含むブックマーク

 わたしはアベさんのソロ公演かと思っていたのだけれども、男性二人、女性ひとりの共演者あり。まずは男性ソロからはじまった舞台はアベさんともうひとりの女性との左右対称のフォームのデュオからアベさんのソロへ、暗転からもうひとりの男性のソロ、男性同士のデュオへと移行。籠の中のカナリアのシルエットが大写しにされてアベさんのソロになる。

 背後にある「物語」を想起させられるような楽しい構成の舞台で、その中でやはりアベさんのアナーキーなダンスが際立っていた。ぶっ壊れたコッペリアのようなアベさんに、観る側の想像力も拡がる思いをした。筆力がなくてうまく伝えられないけれども、すばらしい公演だったと思う。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160521

■ 2016-05-20(Fri)

 今朝みた夢。わたしは友人ら六人ぐらいのグループで山のホテルに宿泊している。他にもおおぜいのグループ客がいる。その夜はパーティーがあるようで、ホテルの中の映画館のような劇場のようなところで、皆が飲んだり食べたりすることになるらしい。劇場の入り口でまずは酒をもらうことになり、わたしはビールにする。最初にもらったグラスが小さいので、大きいジョッキに代えてもらう。
 Dさんといっしょに劇場の中で席を探すのだけれども、中央の部分はずっと傾斜がついていて、横に座席が並んでいるだけなので、パーティー会場としては不向きだと思う。しかし右の方をみると、そこは平らな床でボックス席になっていて、六人で座れる。わたしたちグループが座るにはちょうどいいと考え、その席を取ろうとするのだけれども、どのボックス席にもすでに衣服とかが置かれて席が取られている。空いている席をみつけるけれども、そのテーブルの上には職員がクリップされた伝票を置きっぱなしにしている。Dさんと職員を捜し、その席を使ってもかまわないかどうか聞こうとするけれども、そのあいだにもう誰かがその席に服を置いてしまっていて、どの席もふさがってしまった。
 わたしは持っていたビールのジョッキをどこかに置き忘れてしまい、探して劇場の外に出る。外は夜で、雪が降っていた。夜空に雪の舞う様子が美しい。歩いていて道に迷ってしまい、ホテルはわたしのずっと下の方にみえるようになってしまう。そのホテルへ通じる下りの細い坂道があり、わたしはその坂道をすべり台のようにしてすべり降りる。うまい具合にホテルの前に戻り、グループの皆と再会する。どこへ行っていたか、どうやって戻ってきたかを話すと、「そんなに遠くへ行っていたのか」と皆におどろかれる。
 Dさんからメールが届くのだが、そのメールを開こうとしても、宛先がグループ化されていてうまく開くことができない。

 今日は休みの中日で一日だけしごとにでる。で、帰宅してみるとまたまたニェネントはキッチンの下の扉を開けてしまっていた。しかしネコご飯はもう別のところに保管してあるので、ニェネントとしては「空振り」だったわけである。
 そのニェネントに「発情期」の気配はないようなのだけれども、部屋の中を啼きながら彷徨することを繰り返している。発情期でもなければ啼き声をあげるコではないはずなので、「どうしたんだろう」と思ってしまうけれども、実のところは軽い発情期なのかもしれない。
 このごろはどうやら先日買ったキャットタワーが気に入ってくれたようで、そのいちばんてっぺんで丸くなっていることが多い。キャットタワーのてっぺんは丸くなっていて、人間用の丸椅子のように低い背もたれのようなものがついていて、その背もたれのような部分に背中を合わせると、ニェネントが丸くなって寝るときの背中の弧にぴったり合致するようで、それが気に入ってるのかもしれない。

 内科医への通院日。まるで異常なし。



 

[]「書を捨てよ町へ出よう」(1971) 寺山修司:製作・脚本・監督 「書を捨てよ町へ出よう」(1971)   寺山修司:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 まあある意味で「困ったちゃん」映画で、めちゃくちゃなところの多い作品なのだけれども、そもそもが「書を捨てよ」というよりも「映画を捨てよう」というような作品でもあり、「映画館を出て町に出よう」というタイトルの方がいいような。そういう「映画の否定」としてみてみれば、面白いところのある作品。音楽に関して寺山修司周辺のミュージシャンがおおぜい協力しているようで、そのような「天井桟敷」っぽい音楽はいっぱい聴くことができる。

 スタッフ、キャストのクレジットのいっさい出ない作品で、ラストにはクレジットの代わりにそれらスタッフ、キャストの正面からの画像が続く。観ていると見知った人物の顔も多く、「こんな人が関わっていたのか」と思ったりする。どうやら撮影は鋤田正義が担当していたようだけれども、まあムリしてワンシーンワンカットでおさめようと、カメラを左右に動かしながらの撮影だったりするから、映画シーンとしてどうのこうのといえるようなものでもない。ただ、「人力飛行機」のシーンは美しかったし、そういうカラーフィルターを多用した絵というのが、この作品のちょっとした特色になっているだろうか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160520

■ 2016-05-19(Thu)

 朝目覚めたときに、何とももの悲しい気分におそわれた。こういう気分は長く感じたことのなかったものだけれども、きっとしばらく知人に会わないでいたのを昨日Bさんにお会いして、それで人恋しさみたいな感情を持ったのだろうか。

 昨日帰宅したときキッチンをみると、またニェネントが流しの下のネコご飯の収納場所に侵入し、思いっきり食い散らかしていた。流しの下からつづいているレンジの下の収納の扉が壊れていて、閉めたつもりでもニェネントが開けようとすれば開けられてしまうのである。もうニェネントは「おなかがすいたらそこへ入れば食べるものがある」と学習してしまったので、置く場所を考えなくってはいけない。

 今日は木曜日なので、南と西のスーパーでは一割引の日、そして北のスーパーは玉子の安売り。もう玉子の在庫がなくなってしまったので、北のスーパーには行かなくてはならない。ついでにレタスとインスタントの焼きそばとを買った。いちど南のスーパーへ行って買い物しようと思ったのだけれども、西のスーパーに行った方がいいように思い直し、今日はその西のスーパーへの近道の陸橋を越えて行った。陸橋の下にはJRの線路とふたつの私鉄(第三セクター)の線路が並んでいて、東側には駅舎が見える。いい眺めだと思ったけれども、電車の写真を撮るための人が陸橋の上で三脚をセットしているのをみた。彼にとっては、風景よりも電車の走る姿の方が美しいのだ。その気もちはわたしにもわかる。
 スーパーではウィンナの大きな袋とか買ってしまったけれども、食べ切るのがたいへんそうで、あまり必要のない買い物だったかと反省している。



 

[]BS世界のドキュメンタリー「ヴィスコンティVSフェリーニ」(2014) Flair Production(フランス):制作 BS世界のドキュメンタリー「ヴィスコンティVSフェリーニ」(2014)   Flair Production(フランス):制作を含むブックマーク

 1950年代から70年代にかけて、イタリア映画を代表する巨匠として名を馳せたふたりの監督の、その強烈なライヴァル関係を描いたドキュメンタリー。

 このふたりは「ライヴァル」というのを越えて、「犬猿の仲」だったらしく、長年たがいに口をきかず、すれ違っても挨拶もしなかったという。たしかにヴィスコンティは貴族の出自でゲイでもあり、庶民階級の出で女好きだったフェリーニとは対照的だったということはわかる。同じ時代に活躍し、同じ映画スタジオを使い同じ俳優を使って映画を撮ったふたり。同じようにマフラーを好んで着用したふたり。そのフィルモグラフィをみても同じ年に問題作を発表し、たがいに競い合っていたかのようである。クラウディア・カルディナーレは同じ時期にふたりの監督の作品(「山猫」と「8 1/2」)に出演しているが、ひとりがブロンドにしろといえばもうひとりはブルネットにしろといい、苦労したと話す。

 このドキュメンタリーをみると、ヴィスコンティはジャン・ルノワールから、フェリーニはロベルト・ロッセリーニのスタッフとなって映画を学んだという。ふたりはその映画人生をネオリアリズモからスタートするけれども、ふたりの立ち位置は少しずつ異なってくる。1954年にフェリーニは「道」を発表し、ヴィスコンティは「夏の嵐」を発表。このときにヴィスコンティのファンが「道」にブーイングを浴びせた、というあたりがふたりの対立の始まりらしい。1957年にフェリーニが「カビリアの夜」をチネチッタで撮影していたとき、同じチネチッタでヴィスコンティは「白夜」を撮っていて、たがいに無視し合うことになるし、このとき「白夜」に関わっていたマルチェロ・マストロヤンニやニーノ・ロータはフェリーニ組に乗り換えてしまい、よけいに対立は明白になる。次の「甘い生活」と「若者のすべて」での衝突は「甘い生活」が絶賛されることになるけれども、ヴィスコンティは「甘い生活」での貴族の描かれ方を酷評する。その貴族の世界を、ヴィスコンティは「山猫」でみごとに描くことになるけれども。

 どこまでもリアリズムを追求したヴィスコンティ、即興も取り入れながら、現実から離れたファンタジーともいえる世界を映画で実現しようとしたフェリーニ、どこまでも対立するかにみえるふたりの監督だけれども、ついに1970年のとある芸術祭で和解する。フェリーニがヴィスコンティにちょくせつ会い、彼の作品への賛辞を述べるのである。それ以降、ふたりの監督はたがいの作品の試写会に足を運ぶようになる。けっきょく、このふたりの対立はふたりの監督の取り巻きの対立ではあったようだ。

 このドキュメンタリーでは、「甘い生活」対「若者のすべて」では「甘い生活」の圧勝、「8 1/2」対「山猫」は引き分け、そして1969年の「サテリコン」対「地獄に堕ちた勇者ども」では「地獄に堕ちた勇者ども」に軍配を上げ、バランスを取っている印象。
 以降、ヴィスコンティはオペラの世界へ、フェリーニはサーカスの世界へと進んで行く。ドキュメンタリーは、「最後には、勝者も敗者もありませんでした」と結ぶ。まあ、無理してどっちが勝ったかなどと比較しなくてもいいのだけれども。



 

[]「バベル」(2006) アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ:監督 「バベル」(2006)   アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ:監督を含むブックマーク

 モロッコと、アメリカ〜メキシコ、そして日本でのドラマがリンクして、まさに「バベル」として、ことばの意思疎通の問題が絡んでくる作品ということだろうか。モロッコの話、そしてアメリカ〜メキシコの話は、ある偶然の不幸というような展開で、そんなことに巻き込まれてしまった出演者が助かるかどうかというあたりが主眼になるだろうけれども、日本の話だけはちょっと異なっていて、人の心の中の「砂漠」のようなものを描き出した部分があり、ストーリーとしても演出としても、この日本のパートがいちばん心に残ることになる。東京の夜というものがリアルに描かれていると感じ、その点でもこのパートには惹かれる。

 ただ、このパートで健聴者が聾者を演じたことへの批判があったようだけれども、その批判は妥当なものだと思う。これは俳優が盲目を演じるのとはわけがちがうだろう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160519

■ 2016-05-18(Wed)

 今日は久しぶりの東京。国立劇場での文楽鑑賞教室、「曽根崎心中」をBさんと観に行く。とりあえずは昨日書いたように八時五十五分の電車で出発。今日はしごとも休みだから、ふだんならまだしごとをやっている時間である。いつものように電車の中では爆睡したけれど、この時間帯は東京に近づくとまだまだラッシュアワーというか、かなりの混み具合である。都心に近づいて来たところで目が覚めたけど、もう十一時も近いという時間なのに、これから出勤する人たちがいるということなんだろうか。わたしはドアの脇の座席に座っていたのだけれども、そのドアのところにベビーカーに赤ちゃんをのせて乗って来たお母さんがいて、社内の混み具合に押されて気の毒だった。でも、そのベビーカーがわたしの足のところに来て、赤ちゃんの足がわたしに触れてくるのはちょっとうれしかった。わたしだって人の気もちは持っているのである。
 渋谷駅に十一時ぐらいに到着。駅の構内にはずいぶんと制服の男性の姿が目立ち、つまりは来週三重の方で開催されるサミットに合わせての警備なのだろう。ちょっと買い物をすませ、時間は早いけれども、先にランチのできる店を探しておこうと永田町へ移動。こちらは官公庁も近いので、警備はよけいに厳しいみたいだった。停車していたトラックの運転手が尋問されていて、他の警備の人間がトラックの写真を撮ったりしている。わたしなどもスーツ姿ではないわけだから尋問されるのかと緊張。
 しかしあたりはさすがに官公庁街で、気楽にランチの出来そうな店も見あたらない。あるのは高級な和食の店や中国料理の店。ようやく官庁ビルの地下にお手軽そうな店を見つけ、待ち合わせ時間が近づいたので駅へ戻る。

 無事にBさんと遭遇し、さっき見つけた店で昼食を、と行ってみるけれども、ビルの中に入ってみるとその店が見つからない。もっと国立劇場の方へ行ったところにいろいろありそうなので、そっちへ移動。インドカレーの店をみつけ、そこで食べることにした。店内ではインド映画の映像が流されていて、これはインド料理店の「お決まり」なのだろうか。以前吉祥寺のインドカレーに同じBさんと行ったときも、店内ではボリウッド・ダンスの映像がずっと流されていたっけ。
 カレーはそんなに辛くなく、おいしくもなかった。これならウチにあるタイカレーの缶詰の方がずっとおいしい。

 開場時間になったので国立劇場へ移動。小劇場へ行ってみると、そこには制服を着た女子学生らが列をつくっていた。そうか、「鑑賞教室」なのだから、こういうことになっているわけか。配布されたパンフレットに後援、協力として「日本修学旅行協会」や「高等学校演劇協議会」などの名もみえる。劇場に入ってみると、客席の半分以上はその女子学生に埋められているようだ。

 開演前に「文楽の魅力」として、太夫、三味線、人形それぞれの簡単な解説があり、休憩をはさんで「曽根崎心中」本編の上演。江戸時代にはこの「曽根崎心中」に感化されての心中が流行、上演が中止されたりもしたみたいだけれども、この日観た女子学生たちが感化され、じっさいに心中などしなければいいのだが(そんなことはないか)。

 終演時で四時半近い時間。国立劇場の中にある、社員食堂のようなザッとしたインテリアの喫茶店でBさんとお茶をする。ゆっくりしていると帰りがラッシュアワーにぶつかってしまうので、五時半ごろに店を出て渋谷に向かう。表参道に出るというBさんとはとちゅうまでご一緒してお別れ。渋谷駅に着いてみると、ちょうどわたしの利用する線の電車は出たばかりだったので、大崎まで逆戻りしてから電車に乗った。大崎あたりだとまだ電車内はそんなに混んでいないし、渋谷で乗るよりは楽な位置にいることができるし、うまくいけば早くに座席に座ることができる。この日は池袋駅でわたしの前にすわっている人が下車したので、そこからすわることができた。
 ターミナル駅で、駅ビルのスーパーに寄ろうかと思ったら、ちょうど八時を過ぎたところでもう閉店していた。ローカル線で自宅駅で降り、北のスーパーでお弁当を買って帰ることにした。



 

[]文楽鑑賞教室「曽根崎心中」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 文楽鑑賞教室「曽根崎心中」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場を含むブックマーク

 「生玉社前の段」「天満屋の段」「天神森の段」と、この日上演されたこの三段で「曽根崎心中」は全部、らしい(「生玉社前の段」で、冒頭にこの日やらなかったお初が生玉神社へ入ってくる部分もあるらしいけれども)。時代物に比べて世話物は短い。ただ「心中するに到る原因」、「心中を決意する過程」、「心中の場」という直線的な構成で、それ以外の余計な要素というものは皆無。「天満屋の段」で郭からふたりが抜け出す、というあたりがスリリングでドラマチックな場にはなっているのだろうか。

 ただ、いったいなぜふたりは「死」を選ばなければならなかったのか。このあたりに、江戸時代の市井の人々の置かれた情況が描かれてはいたわけだろう。だからこそこの人形浄瑠璃に感化され、自らも心中を選ぶという人たちが出てきたわけだろう。
 徳兵衛は伯父である主人の決めた縁談を断り、先に継母が受け取っていた結納金を返して破談にすることを望むのだけれども、その取り返した結納金を友人と思っていた九平次に貸してしまう。偶然会った九平次に金を返すように督促すると、「そんな金は借りた憶えはない」とつっぱねられ、詐欺師呼ばわりされる。ここで徳兵衛は「死をもって自分の潔白を証明する」ことを決意する。徳兵衛はお初を身請けして共に暮らすことを約束しており、その徳兵衛が死を選ぶならばお初に生きつづける意味はなくなるし、そもそもがふたりいっしょになることが夢だったのであるから、徳兵衛と死ぬことを選ぶ。
 これは現代にみられる「心中」のかたち、「ふたりの仲が認められないから死んでいっしょになる」というのとは異なっている。たとえば昨日観た溝口健二の「近松物語」でも、主人公のおさんと茂兵衛とはさいしょは別々の動機から、「ふたりの思いを遂げるため」というのではなくして琵琶湖で心中しようとする。逆にそこでふたりが互いに思い合っていたことがわかると、どこまでもふたりで生きようという道を選択する。そうみてみると、江戸当時の「心中」というのは、現代のわれわれが考える「心中」とはどこか異なるものがあるのではないだろうか。
 まずここで徳兵衛はお初の存在に関わらず、死をもって身の潔白を証明しようとし、そこにお初が同調して行動を共にすることになるようなものだろう。まずは徳兵衛が自死を決める、ということがこのストーリーのかなめではある気がする。そこで、「死んでみせることが潔白を証明する」という思考が、現代のわたしたちには了解できないことではあるけれども、どうなんだろうか、江戸時代の犯罪の取調べというものがどこまで発達していたものかわからないけれども、「おまえは<騙り(かたり)>だ」といわれてしまうと、潔白の証明は困難だったのだろうか。そうすると世の中は九平次のような人物の天国になってしまうのだが。
 もうひとつ、重要な要素として、徳兵衛は伯父からの縁談を破談にする代わりに、大阪からの退去を言い渡されていることがあるだろうか。それはつまりは身請けを約束したお初との仲が終わることを意味していたのだろうか。そうだとすればこのふたりの心中というものも心情として理解できるところはあるし、お初の側の理由は「もう徳兵衛に会えなくなるのなら徳兵衛といっしょに死のう」というものではあるだろう。

 まとめるとつまり、どうも見えてくるのは、「理不尽なことには<死>をもって対しよう」という江戸の人のアティテュードであって、この「理不尽なことへの対抗手段」としての「心中」ということに、この「曽根崎心中」の観客は惹かれたのではないだろうか。

 この日の上演、お初をあやつったのは桐竹勘十郎で、その繊細な動きを堪能させられたし、徳兵衛の吉田和生もよかった。わたしは「天満屋の段」での三味線、鶴澤燕三の演奏が気に入った。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160518

■ 2016-05-17(Tue)

 明日からしばらくは、しごとの休みがいっぱい連続する。明日あさっては連休で、一日出勤して土曜日曜も連休。それで月、火と出勤すれば水曜日もまた休み。まあしごとをしているといっても早朝の四時間だけなので、いつも休みみたいなものだけれども、休みという前の日は次の日に早起きしなくていいので気が楽である。そういうのでは休みの当日より、その前の日がのんびり出来る。
 でも明日は二時から国立劇場で「文楽鑑賞教室」、「曽根崎心中」を観るので、あまり朝寝もしていられない。いっしょに観るBさんとは永田町駅で十二時の待ち合わせにしたのだけれども、十二時に永田町駅に行くためには、調べるとこっちを八時五十五分の電車で出なくってはならないようだ。それで渋谷に到着するのが十一時ちょっと過ぎになるようなので、三十分ぐらい時間をつぶさなければならないか。先に永田町に行って、食事の出来る店を探しておくのがいいだろうか。

 今日は火曜日なので南と西のスーパーで特売品の出る日。南のスーパーよりも西のスーパーの方が安いことがわかったので、この頃は西のスーパーばかりに行く。というか、このところわたしの日常はスーパーの特売に合わせて動いているみたいだ。パソコンでそんなスーパーのチラシを開いてみて「これとこれを買おう」とか考え、まるでやりくり上手な主婦のような行動である。今日は麻婆豆腐の素がすごく安かったので、夕食は急きょ麻婆豆腐。さんまの蒲焼とか生姜焼とかの缶詰も買い込み、いっぱいたまってしまった。おつまみのスナック類は「少しセーブしなくっちゃ」と思っているので、がまんして何も買わなかった。


 

[]「昼下りの情事」(1957) ビリー・ワイルダー:製作・脚本・監督 「昼下りの情事」(1957)   ビリー・ワイルダー:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 オードリー・ヘップバーンという女優さんの作品もどこか「食わず嫌い」というところがあって、「ローマの休日」を観た古い記憶があるだけで、その他の彼女の出演作品はまるで観たことがないと思う。このところ「ひかりTV」で彼女の主演作をいくつも放映されているので、ちょっと観てみることにした。共演はゲイリー・クーパーとモーリス・シュヴァリエ(舞台がパリなので、彼が出たのだろう)。

 音楽学校でチェロを習っているアリアーヌ(オードリー・ヘップバーン)のお父さん(モーリス・シュヴァリエ)は私立探偵で、アリアーヌはそのお父さんのもとへ依頼の来た浮気調査の一件の内容を聞いてしまう。調査依頼者の男は妻がホテルで浮気していたという調査結果を聞き、妻の浮気相手の名だたるプレイボーイ、フラナガン氏(ゲイリー・クーパー)をやっつけようと、銃を持って出て行く。アリアーヌは「これは大変」とフラナガン氏の宿泊するホテル・リッツへ出向き、機転を利かせてフラナガン氏を救うのである。プレイガールのようにふるまうアリアーヌは、翌日からもフラナガン氏のホテルの部屋で午後のデートを続けるのである。

 アリアーヌが持っているチェロのケースだとか、帽子だとか花だとか、いろんな小道具が効果的に使われるのがいかにもワイルダーというか、いろいろと楽しませてくれる。まあマジメに考えればアリアーヌに男性経験はなく、嘘八百を並べていることは、フラナガンのようなプレイボーイでなくってもすぐにバレバレになっちゃうんだろうけれども、オードリー・ヘップバーンの軽妙な演技とゲイリー・クーパーの彼女に翻弄される演技とで引っぱって行かれる。で、ラストのリヨン駅で列車を追うヘップバーンの、そのあまりに切ない嘘は可愛らしすぎというか、やっぱりオードリー・ヘップバーンという女優さん、こういうロマンティック・ラブ・コメディでの演技、みごとなものだと思う。

 映画の中でヘップバーンが、「パリには700のホテルがあって、客室は2万2000」とかいうセリフがあるのだけれども、あれ?このセリフ、最近観た映画で同じのを聞いた憶えがあるぞ。たしか「007 スカイフォール」の中でマネーペニーがいうセリフじゃなかったかしらん。あれはこの映画からのパスティーシュだったのか(記憶違いかもしれないけれども)。



 

[]「近松物語」(1954) 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督 「近松物語」(1954)   依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督を含むブックマーク

 以前観て「いい作品だ」と思った記憶はあったけれども、これって「大傑作」じゃないか。どうも溝口健二という監督は「黒澤、小津、溝口」の三大監督と並び称されるわりには、あまり評価の声を聞かないのだけれども、黒澤明監督が「娯楽映画」の表現を極め、小津安二郎監督が「独特の」映像世界を極めたとすれば、溝口健二監督は「映画」そのものの表現美を極めた監督のように思える。わたしはとにかくは溝口監督のことを「好き」というよりも「すごい」監督だと思っているのだけれども、彼の場合はちょくちょくと、トータルにみると評価に困ってしまうような作品もあるわけで、そのあたりで損をしているところはあるだろうか。
 わたしは溝口監督の作品では「祇園の姉妹」、「残菊物語」、「元禄忠臣蔵」、「お遊さま」、そして「雨月物語」、「祇園囃子」、「山椒大夫」らの作品は飛び抜けて愛する作品なのだけれども、今日からはここにこの「近松物語」も加えることになるし、ここに純粋な男女のラブストーリーという側面をみれば、溝口監督の作品の中でも特異な位置を占めている作品ともいえるように思う。と同時に、いちばん一般的に受け入れられそうな要素も強いと思うのだけれども。ちなみに、この作品の公開された1954年のキネマ旬報ベストテンをみると、この「近松物語」は5位に入っている。この頃の日本映画はまさにその黄金時代で、この年は「七人の侍」も公開された年なのだけれども、ベストテンでは3位どまりになっている。1位は木下恵介監督の「二十四の瞳」、2位も同じ木下監督の「女の園」で、6位はわたしも先日観た成瀬巳喜男監督の「山の音」、9位に溝口監督の「山椒大夫」である(ついでに書けば、「ゴジラ」もこの年の公開)。60年経つといろいろと評価も変わるねえ。

 溝口監督のフィルモグラフィーでみると、1953年が「雨月物語」と「祇園囃子」、54年が「山椒大夫」と「噂の女」、そしてこの「近松物語」と、これらの作品はすべて依田義賢の脚本、撮影は宮川一夫、音楽が早坂文雄という布陣で、このようなスタッフにも恵まれ、おそらくは溝口健二監督にとって最も充実した時期だったのではないだろうか。

 さてこの「近松物語」、まずは井原西鶴が「好色五人女」でとりあげた実際の事件を、のちに近松門左衛門が「大経師昔暦」として脚色し書き上げたものがあるのだけれども、そこからさらに川口松太郎が「おさん茂兵衛」として小説化し、まずは新派の舞台としてヒットしたものらしい。それを依田義賢が脚色したのがこの映画。どうも「大経師昔暦」とは結末が異なっているようなのだけれども、それが川口松太郎によるものなのか、依田義賢によるものなのか、ちとわからない。とにかくは心中もの、というわけではない。

 映画では茂兵衛を長谷川一夫、おさんを香川京子が演じていて、ほかに南田洋子、新藤英太郎などが出演している。本来は誤解が元で逃避行に出るおさんと茂兵衛だけれども、いちどは「もうふたりで死ぬしかない」というところまで追いつめられてしまう。琵琶湖に浮かべた小舟からふたりで身を投げようとしたとき、茂兵衛はおさんに「さいごにひとこと聞いて下さい」と、「とうからずっとお慕い申し上げておりました」と告白するのだけれども、おさんは「それを聞いてわたしは死ねなくなった。死ぬのはいやや、生きていたい」という。ここからのふたりは恋の逃避行となり、それまでと意味合いがまるで異なってしまう。しかし追っ手はどこまでもふたりを追いつめ、ふたりの逃げるところはなくなってしまう。

 とにかくは、香川京子と長谷川一夫の切々とした演技がまずはすばらしいのだけれども、南田洋子の思い詰めた演技も、進藤英太郎のにくったらしい演技もいい。そして随所に見られるすばらしい演出とカメラ。そして音楽。特に先に書いた琵琶湖での小舟のシーンだけれども、ここで長谷川一夫にすがりつく香川京子のいきおいで、小舟が湖上でゆっくりと回りはじめる。それを固定カメラでずっと捉えているのだけれども、これは本当にすばらしいシーン、演出で、この映画の中での大事な転回点として、とにかくは印象に強く焼き付く。まさに映画的な、強烈にすばらしい演出ではないだろうか。今観たばかりの感じでは、もうこの作品こそがあらゆる映画作品のトップに位置するように思えてしまう。ほんとうにすばらしい作品だった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160517

■ 2016-05-16(Mon)

 夢をみていたけれども、起きてメモを取るのをめんどうでそのまま二度寝して、すっかり忘れてしまった。何かイギリスに関係する夢だったかもしれない。

 昼寝をするのは健康に良いという。しかしそれは15分ぐらいの午睡で、それ以上寝てしまうと意味がないという。このところしばらくは30分ぐらい昼寝する日がつづいていて、あまり悪くもないのではないかと思っていたのだけれども(いや、やはり15分を越えているからダメなんだろう)、今日は二時間も昼寝をしてしまった。これはたしかにトゥーマッチだと思う。起きてもスッキリしなかったり、夜寝られなくなったり、いろいろと悪影響が出る。
 それで、いつもなら八時を過ぎるともう睡眠モードになってしまうのだけれども、今日は眠くならずにずっと起きていた。ニェネントを抱き寄せて、膝の上のニェネントで遊んでいるとき、小さな揺れを感じた。その揺れがなんだか遠くの方からだんだんにこっちに近づいてくるような感覚で、揺れが大きくなってきた。棚から物が落ちて、「けっこう大きいじゃないか」と思うことになる。わたしに抱かれているニェネントも揺れを感じているようで、様子が不安そうである。
 前に何かの書き込みで読んだのだが、地震でおびえたネコは飼い主が抱いてあげてゆらゆらと揺らしてやると、「なんだ、コイツが揺らしていたのか」と思って落ち着くのだそうである。ちょうどわたしはニェネントを抱いていたので、「ほーら、これは地震じゃなくって、ワシが揺らしておるのだよー」と、ゆらゆらやってあげた。効き目があったのかどうかわからないけれども、いつまでも抱かれているのをいやがるニェネントではあった。
 震源地はこのあたりではおなじみのウチの南の方で、関東地方全体が震度3以上の震度で揺れたみたいだ。この地域は震度4あったみたい。熊本の大地震があったあとだけに不安になる人もあったようだけれども、わたしなんかは「またいつもの地震か」という感じで、あまり気にすることもない。でも、もしもの時の備えはしておかなくっちゃと思うわけで、前に持っていたけれども古くなって使えなくなってしまった懐中電灯は、ちゃんと新しく買っておいた方がいいように思う。


 

[]「ターナー、光に愛を求めて」(2014) マイク・リー:脚本・監督 「ターナー、光に愛を求めて」(2014)   マイク・リー:脚本・監督を含むブックマーク

 まずはマイク・リーの映画だというと、それだけでとってもめんどくさそうなのだけれども、そういうことでそんなに疲れてしまう作品ではなかった。しかし、やはりわからないところはある作品。そのことはあとで書く。

 主演でターナーを演じているのがティモシー・スポールで、じつはわたしはこの俳優さんが最近は苦手なところがあるのだけれども、この作品でその苦手意識にダメ押しをされてしまった感じ。
 先日観た「英国王のスピーチ」にも、ウィンストン・チャーチル役でこのティモシー・スポールはちょっと出演していたのだけれども、観ていてもそれがチャーチルだということで観るよりも、どうしてもそこにティモシー・スポールがいるとしか思えないわけで、ま、彼とチャーチルとはとても似ているとは思えなかったこともあるのだけれども、個性的な容貌の役者というのはその容貌だけで役をはみだしてしまうところがあるのではないかと思う(例えばローワン・アトキンソンなんかも、画面に登場してくるだけで「あ、あの人」と思われてしまうだろう)。それはこのターナーを描いた作品でもいえることで、いくら観る方がターナーの壮年期、晩年のその容貌を知らないとはいえ、画面に登場しているのがターナーだと思うより前に、ティモシー・スポールが演じていると思うことから気もちが外れていかない。しかもそれで演技として強烈なダミ声はあるし、ゴリラのように「グッ、グッ」とうなりながらしゃべる。悪いけれどそういう声、音が不快で、観ていても途中で気分が悪くなってしまったところがある。
 まあそういうしゃべり方がターナーの特徴だったと、当時の記録に残されていたのかもしれないけれども、どうなんだろうか。たしかにそういうしゃべり方のおかげで、他者にあまり心を開くことのなかったターナーという人物像こそは浮かび上がってくることになるかもしれないけれども。

 それでこの作品、それはマイク・リー監督のことだから、いわゆる一般の「伝記映画」というつくり方ではなく、十九世紀初頭から中葉にかけてのイギリスの空気の中で、ターナーという画壇でも成功している画家がどのように世界を観、どのように創作意欲を高めていったか、というようなものを描いた作品という印象になる。
 ターナーの自宅アトリエや展覧会場、そしてターナーが描いた風景などをとらえた映像は美しく、著名な(前日観た「スカイフォール」でも出てきた)「戦艦テメレール号」の風景など、観ていても「絵と同じじゃないか」みたいな驚きを感じたところもある。

 科学も発達してきて、蒸気機関車は走るようになり、写真機も登場する十九世紀。たしかにターナーには蒸気機関車を描いた「雨、蒸気、速度」という作品もあるけれども、はたしてどこまでそのような科学の発展に影響を受けていたのか。映画にはターナーが写真スタジオを訪れて写真を撮るというシーンもあるけれども、ターナーの肖像写真というのは残っていないはずで、このような挿話は創作である可能性が高い。実際のところ、ターナーに関する資料というのはきわめて少ないらしく、ある資料には「ターナーは書くことのないつまらない人間だった」とまで書いてあるらしい。
 そんなターナーについて、この作品でクロースアップされるのはふたりの女性とターナーとの関係で、主にはマーゲイトという港町で宿屋を営むソフィア・ブースという女性との、ターナーの死に到るまでの関係が描かれるのだけれども、ターナーの自宅アトリエでターナーの身の回りの世話をしているのはハンナという家政婦で、彼女は映画の中でほとんどセリフはないのだけれども、アトリエでターナーのいるところ、たいていはそばにハンナがいる。ターナーは性欲処理もこのハンナで満たしているわけだけれど、映画の終盤でハンナは、アトリエに不在がちになるターナーの、その上着のポケットからマーゲイトの宛先のあるターナーの手紙を見つけ、その住所をたずねてみる。そこで近所の人からターナーらしい男性が女性と暮らしていることを聞き、ターナーに会わずに帰ることにする。ハンナはやはりターナーのことを想っているということ。
 おしまいにターナーはマーゲイトのソフィア・ブースの家で亡くなり、映画のラストはターナーのアトリエの中を行き来するハンナの、フェルメールのタブローのような美しい映像で終わる。わたしがこの映画で好きなのは、そんな、なんだかいじらしいようなハンナという女性の描写で、ラストには「ターナーが死んでしまって、彼女はこれからどうなるんだろう」とか思ってしまうのだけれども、どうやら現実にはターナーの遺言で、彼女はターナーの遺作の管理一切をまかされるらしいのである。映画ではそれほど知性的な女性とも描かれていなかったハンナだけれども、現実にはそういうわけでもなかったということだろうか。

 先も書いたけれども、撮影の美しい映画で、ターナーのタブローを再現するような風景はもちろん、廊下からのぞきこむような、縦の構図の室内の映像もとても美しい。当時の展覧会場の再現も興味深いところがあったし。
 しかし、それでまたティモシー・スポールの演技批判みたいになるけれど、この映画の中ではなんども、ターナーが絵を描いているシーンが映される。このためにティモシー・スポールは二年間絵を描くことを学んだらしいのだけれども、どうもどのシーンをみても、「そんな描き方はないだろう」という感想になる。もちろんこれは役者の演技だけでなく監督の演出もあるだろうけれど、わたしがみた感じでは、悪いけれども「あのくらいの絵を描くまねごとなら、誰でもその場ですぐに出来てしまうんじゃないか」って思ってしまう。立ってスケッチを描く場面も描画道具を動かす手の動きはおかしいと思うし、特に油彩画の場合の筆の動かし方は、筆を動かす方向が加筆しているそもそもの作品の筆のタッチと合っていないと感じる。ツバを画面に吐きつけて描いてもいいけど、水をはじく油彩画に水性の唾液をまぜていかほどの効果があるのか、このあたり専門家はどう思うのか知らないけれども、かなり疑問。
 それと、展覧会場でとなりに並んだコンスタブルの作品に対抗意識をち、その場で赤の絵の具で加筆してブイに仕上げてしまうシーン、その絵の具の赤い色は加筆される作品と色価がまるで合っていない。もちろん映画としてはそこであまりにも色価の異なる色彩を描き加える、その効果を狙っているわけだろうけれども、あれはどうみてもおかしい。作品全体のリアルなタッチの演出がぶち壊しになるようであった。

 もうひとつ書いておけば、作品中でラスキンとの交友がちょっと描かれるのだけれども、映画でも言及されるように、ラスキンはその「近代画家論」でターナーを賞賛している。しかし、これはWikipedia の記述によると、「(ラスキンは)ターナーの描いた裸婦画を<イメージを壊す>という理由で全て焼却処分してしまっている」とある。これは陰毛嫌いのラスキンのことであるから(新婚の初夜で新妻の股間に陰毛があるのを見たラスキンはショックを受け、六年後に彼女と離婚するまでセックスレスだったということ。離婚以後のラスキンは少女に魅せられるロリコンになるのだけれども)、そのターナーの裸婦画には陰毛が描かれていたにちがいない。この映画ではターナーの裸婦画は一枚も出てこないのだけれども、ラスキンが焼いてしまって一枚も残っていないのだろうか。映画の中では娼婦をモデルに絵を描くシーンはあるのだけれども、服を脱ぐのを止めさせ、わざわざ着衣のままで描いている。ここでの短い娼婦との対話も映画のポイントにはなっているのだけれども、このシーンを観ると「ターナーはわけあって裸体画は描かなかったのか」と思い込んでしまいそうである。
 まあターナーの人となりを残された資料に忠実に描いたという映画ではないことは確かで、彼の死を看取ったソフィア・ブース夫人はじっさいには息子があり、ターナーは夫人とその息子と、三人での共同生活をおくっていたというのがほんとうのところらしい。
 とにかくはこの映画を観て、「ターナーとはこういう人物だったのか」と思い込んでしまうことは誤りであろう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160516

■ 2016-05-15(Sun)

 今日の夢。わたしはどこかの会社の社員で、それほどに古参ではないらしい。昼時間になり、社員は皆社員食堂へ行く。わたしは同僚とエレヴァーターで上がって、食事の出されるカウンターへの列につくのだけれども、わたしと同僚のひとりかふたりとは何かの用で呼び出され、その列を離れてしまう。
 用がすんでカウンターへの列に戻ろうとすると、もう食事はぜんぶ配り終わってしまっている。テーブルのわたしの席には誰かが湯のみ茶碗を置いてくれてあるけれども、それだけ。わたしと列を離れた同僚の分の昼食は、誰かが代わりに取ってくれてあるようで、昼食がないのはわたしだけ。わたしはその会社に入って日が浅いので、皆わたしのことは気に留めなかったのだろうと考える。とにかくはカウンターのところに戻り、まだ昼食は残っていないかどうか、新しくつくれるかどうか聞く。「つくれないことはない」という返答で、皆のメニューとはちがう特製の昼食をつくってもらう。「220円」といわれ、520円で払おうとしたけれども、百円玉が財布にいっぱいあったので、ちょうど220円にして五百円玉は取り戻す。
 食事の内容はほんとうに残ったもののあり合わせでつくったようで、お湯のような透き通った汁の中にウィンナーを入れたものと、メインディッシュでおでんのような春雨のようなものとがトレイにのっている。見た目にも味が薄そうなのだけれども、ふと気づくとテーブルの上に出前のための箱のようなものが置いてあり、その中にソースや調味料などが入っている。下段の右にナンプラーがあり、「ちょっと味が合わないかな」と思ったけれども、まずはこれを料理にかける。箱の左にはラー油の入った大きなビニール袋や、おそらくは豆板醤らしい赤い色の調味料のビンなどが並んでいた、そういうものも全部料理にかけてみた。

 さてさて、はたして「夢」というものでは、モノの味を味わうことができるのだろうか、というあたりが興味津々ではあるのだけれども、そういうところの記憶はやはりないというか、その前に目が覚めてしまったようだ。
 わたしの目を覚ましたのは、ニェネントの毛玉を吐く気配。「ゲッ、ゲッ」と声を出し、つまりはそのあとに嘔吐するのである。夜中に寝ていてもニェネントのそういう声で目覚めると、とにかくは飛んで起きだして、ニェネントの口元の床にキッチンペーパー(普通、ティッシュペーパーなんだろうけれども、わが家では代わりにいつもキッチンペーパーを使っている)を敷いてやる。その上にみごとに吐いてくれればそれでよし。しかし、ニェネントの「毛玉吐き」は、いつもだいたい三回連続する。だから次のニェネントの「予告」を待って、いざその「予告」が到来したら、床が汚れるのを防ぐわけである。
 昼間にこういう事態になれば追って行ってこの手順をやればいいのだけれども、わたしが寝ている夜中にこういうこと事態になり、処置しないで放置しておくと、朝起きて思わぬところにニェネントの吐瀉物の出くわすことになるし、物陰でやられると気付かずにいつまでもそのまま吐瀉物を放置する、なんてことになりかねない。ネコの「毛玉吐き」というのは、なかなかにめんどうな、日常的な「事件」ではある。

 今日は図書館に借りていたCDや本を返却し、今回は本だけを新しく借りてきた。まずは途中まで読んでいた「千一夜物語」をまた借りてきてたのだけれども、これからしばらくは東京に出かける機会が多くなるので、「電車の車中」という読書室をフルに使えるだろう。少なくともこの「第一巻」は読了できるのでは、と思っている。
 それと、同じく筑摩の「世界古典文学全集」から、シェイクスピアの巻を借りた。とにかくは全部読めなくっても、「ハムレット」だけでも読めればいい、というつもり。この「世界古典文学全集」には、セルバンテスの「ドン・キホーテ」も二分冊で収録されているので、同じ筑摩の「世界文学大系」だと前・後篇合わせて一冊にされているものよりも読みやすいだろう。いずれ「ドン・キホーテ」は読むつもりなので、翻訳者は同じなわけだから、この「世界古典文学全集」の方で読むようにしよう。

 夕食は買いだめしてある「タイカレー」のレッド缶、「ツナとタイカレー」を食べてみたのだけれども、そのネーミングで「レッド缶」だからいちばん辛いのかと思ったら、今まで食べたこの「タイカレー」シリーズではいちばんマイルドな味だった。ちょっともの足りない味。



 

[]「3時10分、決断のとき」(2007) ジェームズ・マンゴールド:監督 「3時10分、決断のとき」(2007)   ジェームズ・マンゴールド:監督を含むブックマーク

 ラッセル・クロウとクリスチャン・ベールの主演の西部劇で、原作はエルモア・レナードによる短編。1957年の「決断の3時10分」のリメイクになるらしい。

 強盗団の首領ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)は、駅馬車を襲撃したあとに酒場の女とひとときを過ごし、酒場に降りてきたところを保安官らに逮捕される。彼はどうせ自分の部下たちが自分を救出してくれると理解している。その駅馬車強盗の現場を目撃していた牧場主のダン・エヴァンス(クリスチャン・ベール)はわけあって町の人間の妨害に合い、牧場の運営に困窮している。そこにウェイドをユマの監獄に送るために彼を駅まで護送する一行に加われば、200ドル支給されると聞き、自分も護送の一団に加わることにする。その一団を強盗団の部下らが追い、駅への道には先住民が待ちかまえてもいる。さいしょの夜にエヴァンスは自宅に一団を招き入れ、そこでウェイドはエヴァンスの妻(グレッチェン・モル)の人柄に惹かれるようだ。エヴァンスの息子のウィリアム(14歳)は父を心配し、ひそかに一行の後を追う。
 道中に多くの犠牲者を出しながら、生き残ったエヴァンスと探偵社の男のふたりとウェイドは、駅のある町へ到着する。そこに強盗団らも到着し、町の連中に「エヴァンスらを射殺すれば金を出す」と焚き付ける。少し遅れてウィリアムも町に到着し、影ながら父の手助けをする。そして、3時10分のユマ行きの列車が駅に到着する。

 なんだか、演出が平板な気がして、わたしはあんまり楽しめた作品ではない。聖書を引用して絵もたしなみ、教養があるようなのに残忍な、ラッセル・クロウの演じるベン・ウェイドという造形はちょっと面白いけれども、その他の登場人物に深みがないという印象。ダン・エヴァンスを演じるクリスチャン・ベールも、わたしには「200ドルが欲しい」という以上のところはあまり読み取れなかった。ピーター・フォンダも出演しているのだけれども、何をやるわけでもなく死んでしまう感じ。
 つまりは演出に緩急強弱の変化がなく、ずっとフラットに進行していくという印象の映画だったかな。

 列車の到着する時間がひとつのポイントになっているところとか、町の連中が「正しいこと」から外れて「金」で動かされ、エヴァンスが孤立するところとか、先日観た「真昼の決闘」をちょっと思い出したところはある。



 

[]「マッチポイント」(2005) ウディ・アレン:脚本・監督 「マッチポイント」(2005)   ウディ・アレン:脚本・監督を含むブックマーク

 ウディ・アレンの作品はほとんど観たことがないので(食わず嫌いなのである)、彼のほかの作品と比べてどうのこうのということはわからないけれども、とても面白い作品だった(多分、ウディ・アレン当人が出演していなかったせいなのだろう)。まあわたしはスカーレット・ヨハンソンが出演しているから観たのだけれども。

 主人公のクリス(ジョナサン・リース=マイヤーズ)はプロのテニス選手だったのだけれども、テニス選手としての限界を感じて人生を変えようと、まずはテニスのコーチになる。そこで上流階級のトム(マシュー・グード:彼は先日観た「イミテーション・ゲーム」にも出演していた)という男と親しくなり、その家族との交友も始まる。クリスはトムの妹のクロエと付き合うようになり、ついには婚約を交わし、トムの父の経営する会社に好条件で就職することになる。トムにはアメリカから来ている女優志願のノラ(スカーレット・ヨハンソン)という婚約者がいるのだが、そのノラに会ったクリスは、濃厚な彼女に強く惹かれることになる。クリスはクロエと結婚するが、トムはノラとの婚約を解消して別の女性と結婚する。
 さて、クリスはテート・モダンで偶然にノラと再会し、もう自分にストップをかけることができなくなってしまう。クロエに隠れてノラに会い続けるクリス。しかしノラは妊娠してしまい、そのことで責任を取るようにクリスに迫るようになる。妻のクロエにもクロエが待ち望んだ妊娠の知らせがあり、仕事のこともあるわけで、クリスにはノラの存在が邪魔になってしまうのである。

 まあつまりはクリスは、隣室に押し入った強盗の巻き添えをくって射殺されたことを装ってノラを猟銃で射殺する。そのために何の咎もない隣室の老婆を殺害し、その部屋を強盗に見せかけて荒らすのである。クリスには嫌疑はかからないと踏んでの犯行だったけれども、そこに運命のいたずらが待っていたわけである。

 冒頭にクリスがベッドでドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいるショットがあり、そう考えるとたしか「罪と罰」ってこんな話じゃなかっただろうかと思う(もう記憶していないけれども)。そして何よりも、これも先日観た「陽のあたる場所」とのシチュエーションの類似、ということがあるだろう。上流階級へよじのぼる道を得たのに、下から自分の足をひっぱるものがいる。その足をひっぱるものを消してしまえば自分の未来は「陽のあたる場所」になるだろう。クリスもそう考えたに違いない。
 終盤、運命を決めた<指輪>が川に落ちるか歩道側に落ちるかによって、クリスの未来は決まってしまうのだけれども、観ていての予想を覆す結末におそれいった。もちろん、あそこで<指輪>がほんのちょっとの差でちがう側に落ちていれば、クリスの運命は180度変わっていたわけだろう。冒頭のネットにかかるテニスボールのスローモーション映像がうまく活かされていた。

 演出として、スカッと切り替わる場面転換が切れ味がよくって心地よくもあり、さらにその場面ごとに聴こえてくるオペラの古い音源、これはエンリコ・カルーソーの歌声で、クリスの趣味でもあるのだけれども、とても効果的に使われていたと思う。気に入った作品で、これからも(ウディ・アレンが出ていなければ、という条件付きで)ウディ・アレン監督の映画は観てみたいと思った。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160515

■ 2016-05-14(Sat)

 しごとで必要な資材がいよいよ底をつき、作業が困難になってきた。それゆえにわたしはこのような事態を招いた上司をパワー・ハラスメントで訴えているのだけれども、早く何とかなってくれないと、ほんとうにしごとを続けるのが困難になってしまう。わたしが上司を告発していなければいったいどうなっていくのか。告発は当然の成り行きであるし、結論がどう出るのかは明確なことだろうと思う。来週早々にも問題が解決するといいのだけれども。

 ニェネントの「発情期」はいつの間にかおさまってしまったみたい。それでもまだ、部屋の中をにゃんにゃん啼きながら徘徊することをくり返したりしている。そういう行為は発情期特有のものだと思っていたのだけれども、何か不満があるのだろうか。
 ニェネントは今も毎朝、わたしがしごとから戻ってドアを開けると外に飛び出し、しばらく外ですごしていることに変わりはない。ドアの前の通路と、向かいの駐車場の金網とのあいだのそんなに広くはない空間でのんびりし、雑草を食んでみたりしている。わたしもこの頃はニェネントはそれ以上危険なところに行くことはないと判断し、外にいるニェネントは放っておいて部屋の中に入り、ニェネントからすっかり目を離してしまうことが多い。ほんとうは目を離してはいけないと思うのだけれども。
 今朝はニェネントに朝ご飯をあげようと流しの下の収納を開けてみたら、カリカリの袋がみごとに破かれてボロボロになっていた。収納の扉はしっかり閉めてあったのでおどろいて、ネズミでも出現したのかと思ってしまった。しかし、となりのガスレンジの下の収納の扉が開いていて、どうやらニェネントがそこから侵入したみたいだ。中は仕切りがないのでカリカリの袋の置いてあるところまで行き、思う存分に食べちゃったみたいだ。「なんてヤツだ」と思っても、戸締まりをしっかりしなかったわたしが悪い。
 それで今朝の分のカリカリを皿に出してあげると、「わたし、もういっぱい食べちゃったところよ」みたいな感じで、まったく寄ってきて食べようとしないのだった。これにはちょっとムカついた。とにかくはこれからは収納の戸締まりはしっかりしておかなくては。

 昨夜録画しようとした映画の一本が、ハードディスクの容量がなくなってしまっていて、録画が異常終了していた。これから録画したい作品もあれこれ連続していることだし、しばらくは、観ては消し観ては消しの録画とのいたちごっこになってしまうだろう。



 

[]「クリムゾン・キモノ」(1959) サミュエル・フラー:製作・脚本・監督 「クリムゾン・キモノ」(1959)   サミュエル・フラー:製作・脚本・監督を含むブックマーク

 サミュエル・フラー監督の、日本未公開のフィルム・ノワール。ロサンゼルスの日系人らをめぐるドラマで、ラストではリトルトーキョーでの「祭り」が舞台になる。いちおう「フィルム・ノワール」というふれこみだけれども、観た感じは本来の殺人事件捜査より、その捜査にあたる男ら(一方は日系二世)と、事件の証人の女性との三角関係こそが主題という感じ。

 サミュエル・フラー監督の作品というのは記憶にないのだけれども(ゴダールの「気狂いピエロ」での彼は記憶にあるが)、彼のフィルモグラフィーをみると、この「クリムゾン・キモノ」の前にも「東京暗黒街・竹の家」などという作品もあり、フラー監督にはそういう日本趣味、みたいのものがあったのだろうか(よく調べると、その「東京暗黒街・竹の家」は日本のトンでも描写で有名らしいけれども)。

 さて、この「クリムゾン・キモノ」。まずはロサンゼルスの劇場で、ダンサー(「ストリップティーズのダンサー」といわれてた)が楽屋で銃撃され、道路まで逃げ出たところで射殺される。彼女の楽屋には、彼女がキモノを着た絵が飾られていた。その絵のサインは「クリス」とある。まずはこの絵を手がかりに、ロス市警のチャーリーとジョーのコンビが捜査を開始する。このふたりは戦時中(朝鮮戦争?)からの長い友人であるけれども、ジョーは日系二世。このことは重要なファクターになるけれども、とにかくは「クリス」という絵の作者を捜し出してみると、それはクリスティーンという女性だった。彼女もまた銃で狙われ、クリスティーンはジョーの住まいに保護される。ここでまずはチャーリーがクリスティーンに惚れてしまうわけで、クリスもまんざらでもない対応をするからややっこしくなる。そのあとにジョーとクリスとの交流があり、実はクリスはジョーにぞっこんであるし、ジョーももちろんである。ジョーはチャーリーの気もちも知っているので、悩んでしまう。そのことを知ったチャーリーは身を引こうとするのだけれども、ジョーはそれが日系人に対する憐憫だと解釈し、ふたりの仲はこじれてしまう。
 さて、肝心の事件の方もリトルトーキョーでの日系人らの祭りの場でちゃっちゃっちゃと解決してしまうのだけれども、そちらの事件もまた、チャーリー、ジョー、クリスとの関係に相似する三角関係によるものだった。ジョーはチャーリーへの誤解をとき、さいごにはクリスと熱いキッスを交わすのであった。

 こういう、フィルム・ノワールの体裁をとりながらも、人間ドラマに仕上げてしまうのがサミュエル・フラー監督の持ち味なんだろうか。簡潔な描写できっちりと描き上げるあたりの手腕は確かなものがあると思ったし、登場人物の造形もおもしろい。また、日本文化へのリスペクトというのか、そういう日系人社会での日本の風習の描き方に差別的なところはまるでないし、ストーリー自体、ヒロインの選ぶ男性は日系人の方なのである。ジョーがピアノでクリスに聴かせる「赤とんぼ」のメロディが、心に残る。



 

[]「唐版 滝の白糸」(2013) 唐十郎:作 蜷川幸雄:演出 「唐版 滝の白糸」(2013)   唐十郎:作 蜷川幸雄:演出を含むブックマーク

 2013年、シアターコクーンでの収録。‥‥わからない。いったいどこが面白いのかわからない。たしかに唐十郎らしい、脱線しながらも華麗なセリフというものはあるのだけれども、そういったものはもっと他の作品でより楽しめたのではないかと思う。浅倉摂の美術にしても、誰がやってもあんなものになるんじゃないかという感想だし、ラストの大がかりな(?)舞台転換も、これだけのハコだったらもっとできるじゃないか?と思ってしまう。そもそものストーリー展開が単に直線的に進むだけで、たとえば背後でサブストーリーが絡んでくるとかそういうものでもない。単に俳優の名演をみせようとするだけの舞台のようで、わたしにはまるで興味が持てなかった。チケット代も高額だっただろうし、じっさいに劇場に足を運ぶようなことをしなくってよかったと思う。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160514

■ 2016-05-13(Fri)

 昨夜、ある著名な舞台演出家が亡くなられた(彼の名前は書かない)。役者に灰皿を投げたりする厳しい指導で知られた演出家である。そのニュースをみて、ちょっといろいろと思い出して考えるところがあった。
 映画「シャイニング」を撮るとき、監督のスタンリー・キューブリックはジャック・ニコルソンの奥さんウェンディ役のシェリー・デュヴァルを徹底的に精神的に追い込み、恐怖に怯えるリアルな演技を引き出すことになるけれど、シェリー・デュヴァルはキューブリックを憎んだという。
  ヒッチコックは「鳥」の主演のティッピー・ヘドレンに車の中でキスを強要し、拒まれると以降の撮影で彼女を実際に鳥に襲わせ、彼女に失明のおそれもある傷を負わせることになる。
  ロベール・ブレッソンはそれこそ名監督としてその名を残しているけれども、彼の「バルタザールどこへ行く」に主演したアンヌ・ヴィアゼムスキーは、後に書いた「少女」という半自伝的な小説で、ブレッソンがとんでもないロリコンのセクハラ男だったことを暴露している。
  ロマン・ポランスキーは今でもすばらしい作品を撮り続けている名監督だけれども、少女への淫行の常習者として今ではアメリカへの入国ははばまれている。彼の「テス」に主演したナスターシャ・キンスキーとは、彼女が十五歳の頃から性的関係を持っていたとされている。
 あと、ウディ・アレンにも何かスキャンダルがあったような‥‥。

 ウィキペディアによると、カーク・ダグラスはキューブリックのことを「才能のあるクソッタレ」といったということだけれども、ま、パワハラにセクハラ、幼児愛、みんな犯罪を構成しそう。そろって「才能あるクソッタレ」だろう。
 そうはいっても、やはりわたしはキューブリックの作品は大好きだし、ブレッソンもすごい作品をつくった人だと思う。ヒッチコックもポランスキーも才能にあふれている。
 それから、ある日本の小説家/劇作家は、自分のエッセイの中で自作戯曲の舞台稽古の現場に立ち会い、「俳優が頭が悪いので作品の意図を理解できないでいる」みたいなことを書いていて(「頭が悪い」と書いていたのか、「バカだから」だったのか忘れたけれども、とにかくは罵倒に近いニュアンスだった)、読んでいて気分が悪くなったこともある(その本はゴミ箱に捨てた)。この作家は自分の主宰する劇団も持ったが、そこでは自分の愛人の女優をいつも優遇してた。彼も「才能のあるクソッタレ」だろうと思える。
 これらの人たちは、自分の絶対的な地位を利用して他者にせまっていたということで、とにかくは「ハラスメント」を構成していた、ということになるだろう(ポランスキーは「ビョーキ」だろうけれども)。まだキューブリックはそのことを作品に生かそうとしていた面もあるだろうけれども、ヒッチコックもブレッソンも、その行為はあまり弁護できるものではないようだ。
 また、役者に灰皿を投げるというのは、ある意味で当人の指導能力、演出能力の欠如からきているのではないかともいえる。これはつまらない<伝説>だと思う。

 わたしのパワハラ被害については、事態はより逼迫してきたのだけれども、今日相談した窓口からメールがあり、「5月9日に通報が完了した」ということ。これで来週中には何らかの進展が期待できそうだ。



 

[]「バーディ」(1984) アラン・パーカー:監督 「バーディ」(1984)   アラン・パーカー:監督を含むブックマーク

 そう、アラン・パーカー監督という人物がいたのであった。わたしはこの人の作品で好きなのがあったはずと思って、彼のフィルモグラフィーをチェックしてみたけれども、どうやらわたしのお気に入りは「ザ・コミットメンツ」だったようだ。しかし例によって、わたしはこの作品をまるで思い出すことができない。アイルランドの青年らがロックバンドを結成する話だったかしら。
 この「バーディ」も、むかし観ているはずだけれども、やはり何も思い出せないで観た。主演はマシュー・モディーンとニコラス・ケイジ。音楽をピーター・ガブリエルが担当している。

 アル(ニコラス・ケイジ)とバーディ(マシュー・モディーン)はハイスクール時代の親友。アルは普通にスポーツ好きで女の子にも積極的なのだけれども、バーディは異様なまでに鳥に夢中になっていて、それ以外のこと、例えば女の子のことなどには見向きもしない。アルはそんなバーディにつきあって、いっしょになって鳥を集めたり、鳥のように空を飛ぼうと人力飛行機の製作を手伝ったりしていた。
 彼らが成人してヴェトナム戦争に徴兵され、アルは顔に大ケガをして帰還する。バーディはおそらくは重度のPTSDに罹り、口もきかずにまったく外に心を開かず、独房の中にこもってしまっている。そんなバーディの精神的治療のため、アルは病院に呼ばれてバーディに会う。何とかバーディの心を開かせようとアルは懸命に語りかけ、ハイスクール時代のことを思い出させようとする。何日も何日もアルのバーディへの面会は続く。

 ハイスクール時代の、そういう鳥に夢中のバーディの描写、そしてそれに付き合うアルのピュアな気持ちが伝わってきて心地いい。それと対比される独房内で内にこもったバーディの、金網に囲まれた青い世界は、どうしても鳥かごの中のようにみえるだろう。
 終盤にカメラが鳥の目になり、道を高速で走り抜けて空に舞い上がる。このシーンは美しいし、バックで流れるピーター・ガブリエルの音楽と共に、心に残るものになった。「悲劇」と思わせてハッピーエンドに終わるラストも、爽快な気分にさせられた。
 エンドクレジットで、登場した動物たちの名前もリストされていたのだけれども、カモメの名前が「ジョナサン」だというのが時代を感じさせるというか、ほほえましかった。



 

[]「七つの夜」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 野谷文昭:訳 「七つの夜」ホルヘ・ルイス・ボルヘス:著 野谷文昭:訳を含むブックマーク

  目 次
第一夜 神 曲
第二夜 悪 夢
第三夜 千一夜物語
第四夜 仏 教
第五夜 詩について
第六夜 カバラ
第七夜 盲目について
エピローグ(ロイ・バーソロミュウ)

 やはりボルヘスは面白い。この「七つの夜」は1977年、77歳のボルヘスがブエノスアイレスの劇場で行なった一連の講演の記録。この原稿に手を入れ終えたボルヘスは、「悪くない。さんざん私につきまとってきたテーマに関して、この本は、どうやらわたしの遺言書になりそうだ」と語ったという。たしかに、いかにもボルヘスらしい題材(わたしのこれまで読んだ範囲では、ちょっと意外に感じた題材もあったけれども)への、いかにもボルヘスらしいアプローチ、語り口を充分に楽しめる本だった。

 ひとつ、この書物でキーになることは、ボルヘスが「盲目」であったということで、このことはダイレクトに第七夜でテーマにされているけれども、第五夜の「詩について」でも、読まれる言葉としての「詩」ということがクロースアップされ、言語の持つ「音」という要素が探求される。視覚的に「読まれる」のではなく、音として「聴かれる」書物というアプローチは、この講演集の随所にあらわれていると思う。

 その第七夜「盲目について」を読むと、そこではボルヘスと同じように盲目でありながら(この「でありながら」という書き方は差別を含んでいるのだが)図書館長職についたふたりの人物にふれ、ホメーロス、そしてミルトンという盲目の詩人について考察し、「詩と盲目との親密な結びつき」を示す。ボルヘスは「私にとって盲目はまったくの不幸を意味してきたわけではありません。盲目を哀れみの目で見てはならない。それはひとつの生き方として見られるべきです。盲目とは人の生活様式のひとつなのです」と書き、この第七夜の結び(この講演集の結び)を、「盲目とは、運命もしくは偶然から私たちが授かる、とても不思議な道具の数々のひとつであるにちがいありません」とする。

 第五夜「詩について」は、先に書いたように「聴かれる」言葉としての「詩」にアプローチしたという側面もあり、「月」ということばが各言語でどのような響きを持つかを考察したりするけれど、やはりここではボルヘスの書いた詩の定義がいいので、ここに書き写しておきたい。

 詩とは読者と書物の出会い、書物の発見です。そしてもうひとつの美学的経験がある。これも実に不可思議な瞬間なのですが、詩人が作品を宿す、彼が発見あるいは発明していく、そういう瞬間が存在するのです。一般に知られるところによれば、ラテン語では「発明する」という言葉と「発見する」という言葉は同意語です。こういったことはすべてプラトンの学説に一致していて、発明する、発見すると言えば、それは思い出すことなのです。さらに、フランシス・ベーコンが言うには、もしも覚えるということが思い出すということであるのなら、知らないということは忘れることができるということである。何もかもすでに存在している。私たちに必要なのは、それを知ることだけなのです。

 これはボルヘス流の芸術論、というか創作論なのだろうけれども、このようなアプローチは第二夜の「悪夢」にもみられるものだと思う。そこではダンテの「神曲」の「地獄篇」にも触れながら「夢」「悪夢」が分析されるのだけれども、ボルヘスは夢とは芸術作品、おそらくは最古の芸術表現だろうといい、それは演劇の形をとることを指摘する。それは、夢においてわたしたちは同時に劇場、観客、俳優、物語であるから。

 第一夜の「神曲」でボルヘスは、「『神曲』というあの至福の書を享受しない権利、それを無心に読むことを差し控える権利など誰にもない」と「神曲」を絶賛している。このことはこの講演集で繰り拡げられる創作論の、ひとつのモデルが「神曲」にあるということだろうか。ここでは主に「地獄篇」について語られるのだけれども、その中で登場するパオロとフランチェスカと、ダンテとの関係との考察のところは面白かった。

 第三夜「千一夜物語」、第四夜「仏教」、そして第六夜「カバラ」とでの主題は「東洋」、その「東洋」と「西洋」との出会いについてであるだろうか。
 「千一夜物語」の冒頭でボルヘスは、「西洋の歴史における重大事件のひとつに、東洋の発見があります」と書いた上で、「千一夜物語」こそが文学における西洋による東洋の発見だったのだとし(ロマン主義運動とは、誰かがノルマンディーかパリで「千一夜物語」を読んだその時に始まったといえると)、「千一夜物語」の構成を説いていく。「『千一夜物語』は死んだものではありません。その本はあまりに膨大なので、読み切る必要がない。なぜならそれはすでに私たちの記憶の一部であり、今宵の一部であるからです」。

 第四夜「仏教」は、とても興味深く読んだ。前にちょっと日記でも触れたけれども、ここで書かれているのは主に日本の禅宗による仏教なのだけれども、ここで書かれるブッダ伝説は仏教徒に信じることを強制されるものではない。禅宗とは、自我が存在しないこと、すべては非現実であることを悟ることだという。
 わたしもずいぶん昔に鈴木大拙を読んだことはあるのだけれども、もちろん記憶に残っていない。このボルヘスの講演を読み、もういちど鈴木大拙を読みたくなった。

 第六夜「カバラ」では、「コーラン」や「聖書」などの聖典というものは何なのか、それらはどのように解釈されてきたのかという分析を含む論考。ある意味で、「テクストとは何か」ということから、「読む」という行為の原点をさぐるような論考だろうか。わたしが昔聞いて気に入っていた話、実はエホバは下級の神で、それゆえに彼が創造したこの世界には誤りが多く含まれているのだ、という論が紹介されていた。

 読み終えてトータルに考えて、やはりここで語られているのは「本を読む」という楽しみ、愉しみ、そのことをめぐる豊かな論考なのだと思う。たとえ読み終えられた本はすぐに忘却にすくい取られてしまうとしても、やはり読書は愉しい。そのことをボルヘスは教えてくれる。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160513

■ 2016-05-12(Thu)

 先日メールをいただいた古い知人のAさんとは、おそらく来週にお会いすることになるだろう。来週はBさんといっしょに文楽を観に行くことも決めてあるし、さらに今日はCさんから電話をもらい、「そろそろ会いましょう」ということになった。前はCさんとは二ヶ月置きぐらいにお会いして飲んでいたのだけれども、しばらくご無沙汰してしまっていて、今年はまだお会いしていないのだった。
 このところあまり東京の方に出かけていないし、知人とお会いすることもめっきり少なくなった。この日記でみてみると、ちょうど一ヶ月前に横浜に行って、そのときにいろんな人にお会いしたのがさいごになるみたいだ。前は人に会わないでいると何か人恋しくなるというか、誰かにお会いしたいなとか思っていたものだけれども、こうやってしばらく人に会わないでいると、そういうことはまるで考えなくなってしまった。「引きこもり」へのワンステップ、なんだろうか?

 映画とかもあまり観に行かなくなっているし、今やっているジャ・ジャンクー監督の新作は観たいと思っていたのだけれども、調べてみるとこの映画はいずれ、地元のターミナル駅のあの映画館で上映されることがわかった。それだったら交通費のこととかあるし、地元で観るに限ると考えてしまう。
 その地元の映画館では来週から「キャロル」の公開も始まる。いちど観た映画だけれども、せっかく地元でやってくれるんだし、もういちど観てもいいなと思っている。しかし、いい映画を上映するいい映画館になったものだと思う。以前はこれほどまでにわたし好みの作品を上映していたわけでもなかったと思うけれども。客の少ない映画館だけれども、応援したい。

 先日勤め先で同僚にレタスを三玉ほどいただいて(もっといっぱいあったのだけれども、ひとりではどんなに日持ちしても三玉ぐらいが限界だろうと思って)、新聞紙に包んで取っておいたのだけれども、今日新聞紙を取ってみたら、表面の方はもうすっかり腐ってしまっていた。ダメになっているところをどんどんはがしていくと、半分ぐらいの大きさになってしまった。これは中もあぶないかなと包丁でふたつに切ってみると、やはり芯の方も傷んでいた。店で売っているものはここまで痛みは早くないと思うけれども、何かがちがうんだろう。別の玉ふたつもやはり外側はすっかりダメになっていたけれども、こちらは芯の方はだいじょうぶのようだった。それで今日は、買ってあったアボガドとトマトと、そしてそのレタスとでサラダにして、夕食のおかずにいただいた。おいしかった。
 夕食を食べているとまたニェネントが寄ってきて、そばで何か欲しそうにしている。「アボガドは食べるんじゃないかな?」と思ってちょっとあげてみたら、ペロリと食べてしまった。それならもっとあげてみようかと思ったけれども、そこでネコにはアボガドはよくないんじゃなかったかと思い、とりあえずはそこまでにした。あとで調べると、やっぱりアボガドはネコに与えたら危険な食物のひとつだった。いけないいけない。少量でやめておいてよかった。



 

[]「英国王のスピーチ」(2010) トム・フーパー:監督 「英国王のスピーチ」(2010)   トム・フーパー:監督を含むブックマーク

 この映画で描かれたジョージ6世のことはまるで知らなかったけれども、つまりは今のエリザベス女王のお父さんで先代の国王。彼の在位期はちょうど第二次世界大戦のときで、国王はドイツへの宣戦布告や国民への呼びかけなど、重要なスピーチの機会がいろいろとあったわけなのだけれども、実はこのジョージ6世、吃音症で悩んでいた。そこで妻のエリザベス妃が評判のいい民間の言語療法士を探し、ふたりでその療法士宅を訪ね、それ以降、ジョージ6世は彼の療法に身をゆだねるのである。
 ドラマはたんじゅんに彼の吃音症の治療矯正だけでなく、彼の兄のエドワード8世の退位によって、予期せぬ国王の座が主人公のジョージ6世にまわってくるなどの事件もあるわけで、それまで自分が国王になることはあるまいと思っていたジョージ6世だけれども、吃音症の治療矯正はより逼迫したもんだいにはなるのである。

 ジョージ6世を演じるのはコリン・ファースで、言語療法士はジェフリー・ラッシュが演じている。それとエリザベス妃がヘレナ・ボナム=カーターで、映画としてはこの三人の名演がきっちりとドラマを締めていると思う。コリン・ファースとジェフリー・ラッシュとの絶妙な距離感の交流はすばらしいものだし、わたしが感心したのはヘレナ・ボナム=カーターの気品というか、この方、もともとイギリスの上流家庭(曾祖父がイギリス首相)の出だから、もう身についたものなのだよね。

 「大作映画」というのではないのだけれども、ドラマトゥルクとしてみごとな完成度の映画だとは思う。すべての要素がしっかりと絡み合い、時代背景もきっちり描きながら、階級を越えた友情を描いている。いつもジョージ6世と共に移動するカメラもまた、観客のシンパシーをジョージ6世に引き寄せるものだっただろうか。そしてラストの国民に呼びかけるラジオ放送はまさにクライマックスとして、ベートーヴェンの交響曲7番をBGMにして感動的に盛り上げている。いい映画だと思った。

 主演の三人以外にもいろんな人の姿をみることができたのも楽しい作品で、エドワード8世には久しぶりにみるガイ・ピアーズ、ジェフリー・ラッシュの奥さんにはBBCテレビで「高慢と偏見」のヒロイン、エリザベスを演じていた(コリン・ファースと共演していた)ジェニファー・イーリーが演じていた。ジョージ6世の父のジョージ5世は先日観た「ゴスフォード・パーク」に出ていたマイケル・ガンボン、同じく「ゴスフォード・パーク」に出ていたデレク・ジャコビは大司教役だった。あと、メアリー王太后役でちょっと出演されていたのは、懐かしいクレア・ブルームだった。こんなこといってはなんだけれども、まだご存命だったとは。いや、とてもお元気そうでしたけれども。



 

[]「白い肌の異常な夜」(1971) ドン・シーゲル:監督 「白い肌の異常な夜」(1971)   ドン・シーゲル:監督を含むブックマーク

 すっごい邦題だけれども、原題は「The Beguiled」。南北戦争時(おそらくはその末期)、南部の森の中の小さな女学校が舞台で、そこに近くの森の中で負傷して倒れていたジョン・マクバーニー(クリント・イーストウッド)が助け込まれてくる。女学校は校長のマーサ、そしてふたりの教師、黒人の召使い、数名のティーンエイジャーの生徒らと、すべて女性ばかりである。女学校はまだ南軍の監視下にある場所で、本来ならばマクバーニーは南軍に手渡されるべきなのだけれども、マーサ校長の思惑で、彼の傷が癒えるまで女学校でかくまわれることになる。女性ばかりの隔離された世界で丁重な治療を受けることになるマクバーニーの、その鼻の下は自然と伸びてしまいます。そしてそして、校長、教師、ませた生徒の三者によるマクバーニーの争奪戦が始まっちゃうのですね。
 さてこの三者でいちばんのトラップは、実は、ませちゃった生徒なのでありました。校長と教師はうまくかわしたマクバーニーだけれども(マクバーニー自身は教師の女性に気があるようだ)、若さでぶつかってくる嫉妬心満載の生徒こそは地雷原ではありました。事態の露見してしまった彼は階段から落下、足を骨折してしまう。その結果として彼は校長の怒りを買い、骨折した足を切断されてしまうのである。
 この最悪の事態もなんとか回避し、女学校を牛耳るかに見えたマクバーニーだけれども、他の生徒のペットの亀さんを投げちゃったのがいけなかったですね。恨みを買ったマクバーニー、校長と生徒らの策略にかんたんに引っかかってしまってジ・エンド。

 これはドン・シーゲルの異色ドラマだけれども、この作品の製作された1971年にはイーストウッドは自身の初監督作、「恐怖のメロディ」を撮っている。そしてその「恐怖のメロディ」もまた、この作品と同じように女性に命を狙われるモテ男のことを描いているわけで、この「白い肌の異常な夜」と「恐怖のメロディ」という作品を並べてみるというのは、かなり興味深いことではある。わたしはよくわからないのだけれども、これ以降のイーストウッドの作品をみても、少なくとも「マディソン郡の橋」までは男女が結ばれてハッピーエンドに到るという作品はないのではないだろうか(ちゃんと観ていないので、まちがえているかもしれないけれども)。
 ま、とにかくは、「女は怖いよ」という、モテ男の嘆き映画ではありました。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160512

■ 2016-05-11(Wed)

 また夢をみた。この頃みる夢には親や前の妻、そして娘などがよく出てくるのだが、この日の夢にも両親と娘が出てきた。
 わたしは両親と娘が暮らしている団地の家に行く。どうやらわたしは風呂を借りに訪ねて行ったらしいのだけれども、わたしが湧かした風呂に父が入ってしまったので、そのまま帰ることにする。ちょうどバスがきてわたしが乗ると、父と娘もわたしを追って同じバスに乗ってくる。駅に着いてわたしは父と娘と別れてバスを降り、しばらく歩いてからボートに乗り、別の路線の駅に着く。
 電車に乗ったわたしは、イヴェントの企画の相談をしている連中の集まる部屋へ行き、彼らに助言することになる。チラシのアイディアなどを伝え、賛意を得る。(このあいだにいろいろなことがあるのだけれども、ちょっと省いて)帰りはメンバーが車で駅まで送ってくれる。駅の外からホームにかけ上がったわたしは、ボートに乗り換えようと考え直し、ホームから飛び降りて走り出す。駅員が「ホームにかけ上がるのはやめて下さい」とアナウンスしている。
 わたしは坂道をのぼって行き、ボートに乗る。そのボートは途中までは川を進んで行くのだけれども、やがて町なかの普通の道路の上を進むようになるのだった。ボートの先頭に立って、そのボートが道路を進んで行くのをみるのは爽快だった。

 昨日この日記を書いていてマイルスの「ジャック・ジョンソン」のことを思い出し、また聴きたくなってしまった。昔CDは持っていたはずで、売り払ってしまう前にCDRにして保存してあるはず。探してみると、その「ジャック・ジョンソン」のセッションの五枚組セットのCDRがみつかった。好きだったからボックスセットも買っていたんだな。すっかり記憶から消えていた。それで一枚目から聴きはじめてみたけれども、それはアルバムとしてリリースされていた「ジャック・ジョンソン」とは別の、セッションからの録音だった。それもいいのだけれども、やはりアルバムA面の「Right Off」を聴きたい。二枚目を聴いたけれどもそれもちがっていた。三枚目。これが「Right Off」だった。アルバム用に編集されたものではなくて、アルバムと同じではないのだけれども、やっぱりすばらしい。特にマイケル・ヘンダーソンのベースが飛び跳ねている。繰り返して聴いてしまった。

 今日は午後から映画を三本も観てしまった。
 わたしがリヴィングで横になって映画を観ていると、ニェネントがわたしのそばに寄ってくる。ニェネントはいつもわたしがいる部屋にいっしょにいたがるから、わたしが和室でパソコンに向かっているとわたしの後ろで丸くなっているし、キッチンに行くと着いてくる。リヴィングに行くとこのあいだ買ったキャットタワーにのぼったり、テレビの下で丸くなったり、はてはテレビの前に駆け上がってわたしがテレビをみる邪魔をしたりする。わたしのそばに寄ってきたニェネントはわたしの腹に前足をかけてきたりするから、抱き上げてわたしの胸の上に置いてやると、そこでじっとしている。ニェネントはスキンシップが好きでないというか、よく飼いネコは飼い主の膝の上に乗っかったりするとか肩に乗ってくるとかいうけれど、そういうことはまるでやらないネコである。ちょっと飼い主としてはもの足りないところがあるのだけれども、こうやって胸の上で横にならせても逃げ出さないでじっとしている。このときだけが、飼い主とネコという風情になるめずらしい時間なのである。



 

[]「水爆と深海の怪物」(1955) レイ・ハリーハウゼン:特殊効果 ロバート・ゴードン:監督 「水爆と深海の怪物」(1955)   レイ・ハリーハウゼン:特殊効果 ロバート・ゴードン:監督を含むブックマーク

 ハリーハウゼンの本格デビュー作「原子怪獣現わる」は「ゴジラ」に大きな影響を与えたらしいけれども、彼のその「原子怪獣現わる」の次のこの作品、「ゴジラ」の展開にとてもよく似ている。「原子怪獣現わる」が1953年で日本の「ゴジラ」が1954年、この作品は1955年の公開。ひょっとして「原子怪獣現わる」が「ゴジラ」に影響を与え、その「ゴジラ」がこの「水爆と深海の怪物」に影響を与えたのか?とも思ったけれども、「ゴジラ」がアメリカ向けに編集されて公開されたのは1956年らしいから、この「水爆と深海の怪物」は「原子怪獣現わる」から引き継がれた路線なのだろう。とにかくはわたしは「原子怪獣現わる」を観ていないので何ともいえない。WOWOWで放映してくれればいいのに。

 そしてこの「水爆と深海の怪物」、正体はマリワナ海溝あたりの深海に棲んでいた巨大タコなのである。これがアメリカの水爆実験で放射能を浴び、タコがエサにしていた魚たちが逃げてしまったもので太平洋をさまよい、アメリカの西海岸に接近してしまったと。

 映画はニュースのアナウンスを思わせる男性のナレーションで新型原子力潜水艦の完成を伝え、その潜水艦内部の様子が描かれるのが導入部。せっかく潜水艦なのに海底を進む姿などまるでなく、ただひたすら艦内の様子だけ。かなり低予算なのだということが想像できる。それでレーダーに映った未確認生物の情報を持ち帰り、生物学者を招き寄せて対策を練ることになるけれども、潜水艦の艦長は生物学者が若い女性なもんだから引き止めて何とかしようとがんばる。その女性生物学者もまんざらではないようで、未確認巨大生物はふたりのロマンスのさしみのツマというか、いいように利用されちゃってますね。
 さて、生物学者は潜水艦が持ち帰った未確認生物の体の一部を調べ、「これはタコなんじゃないか」と。そういう巨大なタコというのは十三世紀の記録にも出てくるし、バカげた空想ではありませんと。もちろん海軍はそんな話は信じないのだけれども、ついに貨物船が沈没し、漁船はまるで魚が捕れなくなるなどの事態になる。そしてついに、海岸にその巨大タコが姿をあらわす。海軍も本気になって対策を取り、海岸線には魚雷が配置される。なぜかその女性生物学者が必殺!銛のついた特殊弾のアイディアを出して製作される。この特殊弾は先の原子力潜水艦から発射出来るのである。
 巨大タコはサンフランシスコの金門橋の支柱に取りついてよじ登り、橋を破壊してしまう(ここがいちばんの見せ場)。そのあとにサンフランシスコ市部に上陸して人々を襲うけれども、軍が火炎放射器をタコに向けると、タコ焼きにされることを嫌ったタコは海へと逃れるのであった。そこを潜水艦が例の特殊弾でタコを攻撃、みごとにタコは酒のつまみにされてしまうのであった。そして、艦長と生物学者のカップルの仲も進行するのであった。

 う〜ん、ハリーハウゼンの仕事っぷりはさすが、であります。タコという軟体動物の、その体のうねりをうまく表現しているし、造形としてタコの形もなかなかのもの。特にその目の上に並んだ突起が、いかにも「Devilfish」という感じでいい。その目のアップが一ヶ所だけあって、そこに悪魔的なものを見せてくれる。
 まあ映画としては正直いっておそまつなもので、つまらない男女のロマンスなどうっちゃっておいて、もっとタコ対人間に絞った演出を見せてほしかったところ。予算がなくっても工夫すればどうにかなるものだと思うけれども。じっさい、日本の劇場でこの作品が公開されたときには、そういうロマンス部分はぜんぶカットして、50分弱の作品として公開されたらしい。
 低予算のせいだろうけれども、その女性生物学者が研究室の水槽から小魚をすくい取るときに、金魚すくいで使うような網を使っていたのがほほえましかった。



 

[]「真昼の決闘」(1952) フレッド・ジンネマン:監督 「真昼の決闘」(1952)   フレッド・ジンネマン:監督を含むブックマーク

 こちらはその「水爆と深海の怪物」よりも三年前につくられた、ヒューマニスティックな西部劇の傑作。監督はフレッド・ジンネマンで、脚本はカール・フォアマン。このカール・フォアマンという人、Wikipedia をみると「社会主義の信奉者となり共産党員となった」とある。デヴィッド・リーンの「戦場にかける橋」の脚本もこの人だけれども、この「真昼の決闘」での脚本:カール・フォアマン、監督:フレッド・ジンネマンというコンビは最強のものだろう。そして、生命の危機にあっても、新婚ホヤホヤの妻が去ろうとしても自分の信念を捨てない、主演のゲイリー・クーパーの演技がまたすばらしい。一時間三十分ぐらいの作品なのだけれども、クライマックスは十二時の列車の到着で、途中に何度も映される時計を見ていると、これはまさにリアルな時間進行に合わせて進行するドラマのようである。観ていても、「列車の到着まであと◯◯分、さあどうするんだ」と気をもんでしまう。

 ある登場人物が、「人は口では法だ秩序だというけれども、腹の中ではどうでもいいのさ」とのたまうのだけれども、もちろんこの作品はそういう市民社会を批判する視点はある。そしてじっさい、この作品が製作、公開された1952年という年は、ハリウッドがまさに「赤狩り」に巻き込まれた年。この作品はまさに、そんな赤狩りで告発された映画人を見捨てる人々を批判したものではないのか。Wikipedia には、ジンネマン監督は「この作品に政治的意味はない」と語ったと書かれているけれども、脚本を書いたカール・フォアマンはどうだろうか。ある面で、カール・フォアマンの書いた「政治的意味合いのいっぱい込められた」作品を、ジンネマン監督が政治色を薄め、政治的視点を抜きにしても観ることのできる作品に仕上げたのかもしれない。しかし脚本は残っている。映画のなかで、教会の牧師は「正や不正を越えた生き方があるはずです」と語っている。このことばを、その当時の「赤狩り」の空気を抜きに考えるというのはむずかしいのではないだろうか。
 作品のなかでは片目の酔いどれ男と少年だけがケイン(ゲイリー・クーパー)を助けると名乗り出るのだけれども、ラストでケインはその少年にシンパシーを寄せるふるまいをみせる。未来の世代に希望を託すということだろう(そういうのでは、片目の男にもひとことあってもよかったように思えるけれども)。そう、そして酒場の女主人だったヘレン(ケティ・フラド)の存在もまた、この映画の救いだった。ある面で、ケインのいちばんの味方は彼女だったというところもある。彼女がいわゆる白人(WASP)ではなく、メキシコ人というマイノリティーだったということも、その意味するところは大きいだろう。

 もちろんドラマ展開もとても面白いもので、先に書いたリアルタイム進行ということもあるし、「1対4でどうするんだろう」というハラハラ感も、いちどはケインから先に町を立とうとした妻のエミー(グレイス・ケリー)も戻ってきての展開で楽しませてくれる。とにかくはまれに見る傑作のひとつ、だとは思う。調べてみたら意外にも、当時のキネマ旬報ベストテンにはランクインしていないのだった。「そうなの?それでいいのか?」みたいな。



 

[]「愛の嵐」(1973) リリアーナ・カヴァーニ:監督 「愛の嵐」(1973)   リリアーナ・カヴァーニ:監督を含むブックマーク

 1957年のウィーン。元ナチス親衛隊員のダーク・ボガートと、かつて強制収容所に収容されていたシャーロット・ランプリングとが、戦後十二年も経ってからも当時の倒錯した関係に溺れ、まさに滅亡して行くさまを描いた作品。
 マックス(ダーク・ボガート)はホテルの夜番を勤めていて、そのホテルに、客として今は世界的な指揮者の夫人になっているルチア(シャーロット・ランプリング)が宿泊するのである。現在の地位からすれば、ルチアの方がマックスより階級が上ということになるのだけれども、忍び逢うふたりの関係は、収容所でのときの関係の延長である。マックスら生き延びた親衛隊員は互いに協力し合って査問会を開き、過去を消し、時には証人を抹殺して生き延びようとしている。彼らにとってルチアは放置できない証人だし、マックスとルチアが今になって関係を再燃させるのは危険なことでもある。一方のマックスとルチアはもうすべてを棄て(マックスはホテルのポーターを辞め、ルチアは夫のもとを去ってマックスのアパートで同衾している)、ふたりで共に堕ちて行こうとしているようである。その1957年のドラマと並行して、戦時中の収容所での頽廃したふたりの関係も挿入されながら物語は進行する。

 ラストに到るまで、ひとつの美意識がこの作品を貫いているわけで、「堕ちて行く」ということをこれだけみせつけられる作品というのもそうはないだろう。そこに常に「死」の影がつきまとい、ウィーンの頽廃的な空気、収容所の倒錯した世界がドラマを支える。

 特に室内の光と影をうまく捉えた撮影が良く、ここでの撮影監督はアルフィーオ・コンティーニという人物なのだけれども、この人はやたらにたくさんイタリア映画を撮っている人で、じっさいにはコメディ映画の撮影にその本領を発揮していた人物らしい。アントニオーニの「砂丘」はこの人の撮影。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160511

■ 2016-05-10(Tue)

 図書館から借りているCD、マイルス・ディヴィスの「クールの誕生」を聴く。名盤なんだけれども、今までちゃんと聴いたことはなかったものだと思う。これがとにかくとってもいい。聴いていると、「これって昔聴いたことがあるのではないか」という、既視感ならぬ「既聴感」にとらわれてしまう。とても懐かしい音なのだ。目を閉じて聴いていると、高校生ぐらいの頃はじめてジャズ喫茶に行ったときの、その風景が頭に浮かんでくる。そこは一階と二階とがあるジャズ喫茶で、一階にはたしかカウンター席があり、二階はテーブル席だったと思う。テーブルも椅子も壁もすべて同じ色調の木製で、まさに昭和の雰囲気だった。わたしはその店の二階に上がるのだけれども、もともと客数の少ないそのジャズ喫茶で、二階には誰も客はいなかった。そこに置かれたスピーカーから古いジャズが聴こえてきたのだけれども、今聴いている「クールの誕生」は、あの日あの時に聴こえた音のように思えてしまう。
 そういうことを考えているとふと、そのジャズ喫茶は「ニューポート」という店名だったことを思い出した。お茶の水駅の、画翠のある通り沿いにあったジャズ喫茶で、あまりジャズファンに有名な店ではなかったことが好きで、わたしは高校卒業後もその店にときどき行っていた。それでまた思い出してしまうのだけれども、当時リリースされたばかりのマイルスの「ジャック・ジョンソン」をはじめて聴いたのもこの店だった。だから古いレコードばかりかけているわけではなく、新しいジャズもけっこうかけていた店だったのだ。「ジャック・ジョンソン」、さいしょ「何でジャズ喫茶なのにロックをかけはじめるんだ」と思ってしまったけれども、トランペットの音が響いたその時に、「これってマイルスじゃないか!」って思ったわけで、すぐにジャケットを確かめに行った。そしてそれからすぐにレコード屋でそのレコードを買った。今調べると、このレコードがリリースされたのは1971年のことだった。マイルスのアルバムで、わたしがいちばん聴き込んだのはこのアルバムのA面だろうと思う。

 「クールの誕生」のあとは、セロニアス・モンクの「ブリリアント・コーナーズ」をかけてみたけれども、これは昔けっこう聴いたアルバム。聴き馴れていたせいか、今はあんまり感銘は受けなかった。最初のイントロ部分はたしかに強烈だけれども、あとは普通のジャズになってしまうのだな、なんて感想。

 今日は火曜日で南のスーパーとかでいろいろと特売のある日。先日行ってみた西のスーパーも同系列店だから、同じように特売をやっているはず。両方の店に行ってみようと考え、ネットで両方の店のチラシが見ることができるので、チェックして「こっちの店ではコレを買って、あっちの店ではアレを買おう」とか計画して出かけた。一円でも安く買おうとするとなかなかに大変である。こうやってがんばって一円でも安く買い物してみても、あっさりと百円とか二百円とか無駄遣いしてチャラ(というよりマイナス)にしてしまうのだけれども。この日は西のスーパーでコロッケが一個40円ぐらいだったので、これを買って夕食のおかずにした。

 今日もまた007映画を観て、これで三日連続しての007。このあいだ公開された「スペクター」も観てみたいものだけれども。



 

[]「007 スカイフォール」(2012) サム・メンデス:監督 「007 スカイフォール」(2012)   サム・メンデス:監督を含むブックマーク

 今回すごいのは、監督がサム・メンデスなのだということ。先日観た「アメリカン・ビューティー」のあの監督が007映画のメガホンを取るなんて、ちょっと信じがたいところがある。残念なことに前の二作で脚本に関わっていたポール・ハギスの名前はスタッフに見当たらないけれども、撮影はロジャー・ディーキンス。この方は主にコーエン兄弟の作品の撮影をずっと担当されていた方で、サム・メンデスと同じく、ハリウッドのメインの娯楽路線とはちょっと違うところにいる人ではあるだろう。そんなふたりが、超有名なアクション大作シリーズに挑むわけだから、とにかくはどんな絵になるのか、観るのが楽しみである。さらに今回の敵役はハビエル・バルデムというのも楽しみで、あの「ノーカントリー」での強烈な悪役ぶりが思い出されてしまう。そう、その「ノーカントリー」での撮影監督はもちろん、今回のロジャー・ディーキンスだったわけである。

 さて今回は、まずは各国のテロ組織に潜入しているMI6やNATOの秘密工作員のリストの入ったハードディスクが奪われ、その奪った男をボンドが追うというアクション・シーンから始まる。このあたりは「カジノ・ロワイヤル」の導入部のアクション・シーンを思い出させられるものだけれども、ボンドをフォローする女性工作員(イヴ)が、Mの指令で列車の上でもみ合うボンドと敵に向けて発砲し、弾はボンドの方に命中してしまってボンドは川に落下する。
 ボンドは死んだものと処理され、Mもその責任を問われる。実はボンドは一命をとりとめ、トルコの奥地だかで女性とのんびり暮らしているのだけれども、奪われたハードディスクから漏れた情報で工作員が殺害され、さらにMI6本部も爆破されるというニュースを知り、ロンドンに戻る。ここでしばらくのブランクのあったボンドに対して復帰テストが実施され、(実際には不合格だったのだが)とにかくはエージェントに復帰する。まずはボンドの証言からハードディスクを奪った人物パトリスが特定され、その男が近く上海に潜入することもわかる。彼を追ってボンドも上海へ行き、パトリスと対決するものの、パトリスから情報を聞き出す前にパトリスはビルから落下して死んでしまう。
 パトリスの持ち物にマカオにあるカジノのチップがあったことからボンドはマカオのカジノへ赴き、そこで出会ったセヴリンという女性から有力な情報を聞き出す。翌日、セヴリンとともに黒幕のいるという廃墟の島に船で向かうのだけれども、そこでボンドとセヴリンは拉致されてしまう。ここでついに、黒幕の元MI6エージェントだったシルヴァと対面するボンド。シルヴァはMへの私怨からの犯行ではあるようだ。セヴリンは射殺されてしまうけれども、ボンドの連絡で島へ急行したMI6派遣のヘリによってシルヴァを捕えることに成功し、彼をロンドンに連行する。
 ロンドンではMI6本部の爆破、工作員の死亡などから公聴会が開かれていて、Mは批判の矢面に立たされている。その隙にシルヴァは潜入している部下の助けを借りて脱走し、地下鉄に逃げ込む。ボンドの追跡をかわしたシルヴァは公聴会議場に部下とともに乱入するが、間一髪のところでMはボンドやイヴらに救われる。
 Mと共にシルヴァから逃れたボンドだけれども、シルヴァと対決するためにボンドの生家であるスコットランドの「スカイフォール」へと向かう。

 「カジノ・ロワイヤル」と「慰めの報酬」の連作では、ボンドはエージェントに成りたてのキャリアの浅い人物として描かれていたけれども、この「スカイフォール」ではもうベテランもベテラン、そろそろ退役しますかみたいなエージェントとなっているから、先の作品とこの作品とのあいだにはなが〜い時間が流れているということなんだろうか。また、わたしは「ジェームズ・ボンド」というのはコードネームであって、007が代々引き継ぐ名前、本名とはちがうのだと思っていたのだけれども、ここでは彼の本名そのものなのだということになっていた。ここはコードネームだとしておけば過去の作品らとの整合性も取れて並立出来るのに、もったいないことしてしまったなという感想。

 さてさて、期待の演出と撮影に関してだけれども、やはり期待は裏切られなかったというか、すべてが「すばらしい!」というのでもなかったけれども、「さすが!」とうならせられるいくつかのシーンを堪能することが出来た。
 まずは上海でのパトリスとの対決に到る場面の、高層ビルの窓の外の青を基調としたネオン映像、その前でのふたりのシルエットでの格闘シーンのとてつもない美しさで、ここでこの作品が単にアクション映画で終わるものではないことを十二分に示せていたと思う。音を出来る限りセーブして、その撮影の美しさを際立たせた演出もみごとだった。
 そしてわたしがこの作品でいちばん痺れたのが、マカオのカジノ・バーでのボンドとセヴリンの対話シーンの緊迫感。律儀な切り返しでの演出なのだけれども、ここでのセヴリン役のベレニス・マーロウの演技とダニエル・クレイグとの対比がだんだんに緊張をはらんで行く過程にはドキドキしてしまった。ここはさすがにサム・メンデス、とうならされたシーン(このシーン、「カジノ・ロワイヤル」でのヴェスパーとボンドとの対話シーンを思わせるものがあった)。それと、真正面から捉えた、ナショナル・ギャラリーのターナーの作品の前でのボンドとQとの対面シーンもよかった。ここは先日ワイズマンのナショナル・ギャラリーを描いた作品を観ていたので、ターナーの絵とその壁紙の模様を見たときに、「あ、ナショナル・ギャラリーだ」と思ってしまった。
 もう一ヶ所あげるなら、ボンドが船の甲板に直立してマカオに入って行くシーンだろうか。ここで、演出も撮影もリアリティとかいうことを無視して、ひたすら「カッコいい」絵をつくろうとしていることがわかるというか、アクション映画の本質をそういうシーンにも導入しているというところで、彼らのそういったアクション映画へのアプローチのわかるシーンだろうか。
 ただ、やはり火薬を多用した爆破シーンとかはつまりは物量作戦というか、スタッフの危険もあるだろうし、それほどまでに他のアクション映画との差異は感じ取れなかったところはある。

 期待したハビエル・バルデムの悪役についてだけれども、う〜ん、けっきょくはこの悪役というのは私怨というか、そういう原理で動いているわけで、「悪」としては次元が低いというのか、これはこの作品全体の印象にもなるのだけれども、「悪」の原理としてはこれまでのボンド映画とは異なる感覚で、「これはボンド映画ではないのではないか」ということになる(まあボンド映画をすべて観ているわけではないけれども)。
 ただ、彼の登場シーン、最初のマカオ近くの廃墟の島のときはシャルル・トレネの「Boum!」がバックに流れ、スカイフォールにヘリでやって来るときにはアニマルズの「Boom Boom」を大音量で流しながらだったというのは、ちょっと笑ってしまった。「ブーン!」が好きなのか。
 そういえば、ダニエル・クレイグのシリーズになってはじめて、Qもマネーペニーも登場した。マネーペニーはイヴだったけど、途中で「このコがきっとマネーペニーだな」と思わせられるところがあった。Mもラルフ・ファインズに交替し、これからそういうMI6のスタッフとボンドとのやり取りも楽しみになる。そういうところが長いシリーズの魅力でもあるだろう。いちばん新しい「スペクター」も観たい。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160510

■ 2016-05-09(Mon)

 今日は心療内科に通院する日だった。また危うくすっぽかしてしまうところだったけれども、ギリギリ予約時間の中で駆けつけることができた。「診察」といってもほとんどあいさつみたいなもので、「その後お変わりありませんか?」「はい」「睡眠はよく取れていますか?」「はい」、これでおしまいである。ま、薬の処方箋をもらうために行っているようなものだから。

 来週は文楽を観に行くのだけれども、席がずっと後ろの方だし、ここいらでひとつオペラグラスでも買っておくかと、先週末に注文してあったのが今日届いた。8倍なのでけっこう満足のいくところ。安い買い物だったけれども、役立ってほしいものである(ほんとうは千円しない価格だったのだけれども、Amazon は先日から、低価格のものには送料を取るようになってしまったのだ)。

 昨夜パワー・ハラスメントを告発するメールを相談所に送ったのだけれども、さっそく返事が来て、「この相談窓口は外部のものなので、通報を希望されるのであれば(可能なら)相談内容を時系列順にまとめ、その他必要事項を知らせてほしい」ということで、大半を書き直してまた送付した。少し告発の調子が弱くなってしまったけれども、とりあえずはこれで正式に通報したことになるのだろう。どうなることだろうか。

 ボルヘスの「七つの夜」、順調に一晩に一章ずつぐらい、そのタイトルに合わせて読みすすめて来たのだけれども、今日は昼間も読んだので、七つの夜よりは早く読み終わりそうである。今日は「仏教」についての章を読んで、これはほんとうに面白い章だった。国民で仏教を信仰する人の割合のいちばん多い国に住み、それこそ仏教に囲まれて生きて来たというのに、自分がまるで仏教について知るところのないことはやはり情けない。ここでボルヘスが書いているのは主に禅宗による仏教なのだけれども、その教義にシンパシーをおぼえるところが大きい。この「七つの夜」という講演集が、そもそもがその通底する主題に「東洋」というものもあるようで、つまりは「西洋」からみた「東洋」。きっと自分が精神的に西洋的なところで生きてきているだけに、よりボルヘスの語り口に共感をおぼえるのだろうと思う。繰り返して読んでみたい本である。



 

[]「007 慰めの報酬」(2008) マーク・フォースター:監督 「007 慰めの報酬」(2008)   マーク・フォースター:監督を含むブックマーク

 昨日観た「007 カジノ・ロワイヤル」が終わったところから始まる、「続篇」である。ジェームズ・ボンドのシリーズ映画で、続篇というのははじめてなのだということ。監督はマーク・フォースターという人に変わっているけれども、脚本にはポール・ハギスの名前は残っている。いちおうボンド・ガールはオルガ・キュリレンコなのだろうけれども、ボンドとそういう関係になるわけではなく、ラストに軽いキスを交わすぐらいの関係。今回の敵役はマチュー・アマルリックで、この人は善玉も悪玉も器用にこなす人。

 今回は、「007 カジノ・ロワイヤル」で死んだヴェスパーを影であやつっていた悪い男、そんな彼の背後を探るという、復讐心も込められたような展開になる。ここに、やはり幼い頃に独裁者に母と姉を目の前で殺されたカミーユ(オルガ・キュリレンコ)の復讐ストーリーが関わり、ボンドとカミーユは手を組むわけである。
 冒頭からの展開は、とにかくボンドが容疑者を次々に殺してしまうところから、M(ジュディ・デンチ)の不信感というか怒りを買っているわけで、まずは前回ル・シッフルの所有していた、マーキングされたドル紙幣を持っていた男がハイチにいることを知り、ボンドもハイチに向かう。ボンドはその男を殺してしまうけれども、偶然その男とボンドが容貌が似ていたこともあり、カミーユとも出会うし、いろんな情報を手に入れることにもなる。するとたどり着くのは、ドミニク・グリーンという実業家。彼はおもてむきはNPOエコロジー法人の代表だけれども、実はカミーユが復讐しようとする軍人、メドラーノ将軍のクーデターを支援しているのだった。私怨を晴らそうとするかのようなボンドの行動は周囲にさまざまな疑念を生み、彼自身も追われることとなる。しかしふたたびカミーユと行動を共にして、カミーユはメドラーノ将軍に復讐を果たし、ボンドもグリーンを砂漠に置き去りにする。
 ヴェスパーの愛人としてヴェスパーをだました男の行方を知ったボンドは、Mらと共に雪のキエフへと彼を追って行く。Mはまたボンドはその男を殺すだろうと危惧するのだが。

 ここでのマチュー・アマルリックは、そこまでの大物ではないだろうという感じもするわけだし、もっと背後に大きな黒幕がいるだろうという展開。あくまでボンドに敵対して苦しめようとするわけでもないようだ。メドラーノ将軍もつまらん性欲のかたまりオヤジって感じで、大物感はない。
 前半のクライマックスは、オペラ「トスカ」の上演と舞台裏の追跡劇が同時進行して、シンクロして行くあたりなんだろうけれども、せっかくの現代的で華やかな舞台の魅力がいまいち伝わらない気がしたのが残念。
 先に書いたように、ボンドとカミーユは互いに復讐心でつながっているような存在で、この関係が今までのボンド・シリーズにはなかった新鮮なところだろうか。そういう意味でボンドとベッドを共にする女性は別にいて、彼女はあの「ゴールドフィンガー」を彷彿とさせられる、むごい殺され方をしてしまう。とにかくはダニエル・クレイグらしいというか、やたらと暴力的なボンドを楽しむ作品なのかもしれない。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160509

■ 2016-05-08(Sun)

 この日記のトップページを開いても、最新記事は下の方に沈んでしまっている。そのあたりのレイアウトをちょっと修正したいのだけれども、もうHTMLタグの記述法を忘れてしまっているので、どこをどういじれば修正できるのかわからない。しょうがないから当分は(HTML記述法がわかるまで)このままにしておくしかない。

 ニェネントは抜け毛はすごいわ、発情期ではあるわで、たいへんである。でも、ブラッシングしてあげると発情期の「むずがゆさ(なのかな?)」もけっこう解消されるようなので、ちょっと楽。ブラッシングして抜け毛を集めるのは、わたしにも多少は楽しいことなのである。

 さて、以前書いた上司のパワー・ハラスメントについて、その後まったく改善されないし、逆にわたしの責任だけ重くされてしまったわけになる。「これはダメだ」と、相談室に対して、すべての経緯を書いた長いメールを送付した。これできっと動き出してくれることと思うし、そう願う。勝算はある。

 昨夜、古い知人のAさんからメールをもらい、その返事を出したのだけれども、近いうちに会うことにしようと思う。Aさんはわたしの新しい住所も知らなかったから、もう連絡を取るのは六、七年ぶりにはなるのだろう。



 

[]「007 カジノ・ロワイヤル」(2006) マーティン・キャンベル:監督 「007 カジノ・ロワイヤル」(2006)   マーティン・キャンベル:監督を含むブックマーク

 ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じた第一作。いわゆるボンド・ガールはエヴァ・グリーンが演じ、ボンドの敵役はマッツ・ミケルセン。このマッツ・ミケルセンとエヴァ・グリーンは、わたしも映画館で観た「悪党に粛清を」というデンマーク産西部劇で共演していた。監督はマーティン・キャンベルという人で、この監督の「007 ゴールデンアイ」は、シリーズの中でも高い評価を得ていたらしい。それでわたしなどが期待してしまうのは、この脚本を担当した三人の中にポール・ハギスの名前があることで、これはきっとドラマの部分で楽しませてくれるのだろうと期待する。

 この作品ではボンドは00ナンバーを取得したてのようで、まず冒頭の雪のプラハで「二人殺すことが諜報員の条件」というのをクリアすることからスタート。それから舞台はマダガスカルに移動し、ボンドはある男を追跡するのである。このあたりで「スタイリッシュなボンド」というのではなく、血と汗にまみれてハードなタスクをこなす新しいボンド像をみせてくれることになるけれど、この綱渡り的なアクションの連続はたしかに目を楽しませてくれる。
 今回の悪役、ル・シッフルは、世界各国のテロ組織から金を預かってマネーロンダリングしながら資金を増やし、テロ組織に増えた資金を戻してやっているらしい。それでまずル・シッフルは新型ジャンボ旅客機のお披露目のその時に旅客機を爆破させ、株価操作を行なおうとするのだけれども、これをボンドが体をはって阻止してしまう。投資した資金を失ったル・シッフルは、モンテネグロの「カジノ・ロワイヤル」で行なわれるポーカー勝負に参加する。彼は数学の天才で、ポーカーの名人なのだということ。そこはジェームズ・ボンドもまたポーカーの名人なのであって、MI6では、ボンドがポーカーゲームに加わってル・シッフルを負かす、という筋書きを実行することになる。彼の監視役、財務担当は財務省から派遣されて来たヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)。ふたりは互いの心理を読んで丁々発止のやり取りをするけれども、和解してゲームに参加する。
 ル・シッフルのブラフ(はったり)の際のクセを見抜いたと思ったボンドだけれども、「ここぞ」という大勝負で負けて持ち金をすってしまう。ヴェスパーは負けたのはボンドの自信過剰とし、もうこれ以上金は出せないというのだけれども、同じくゲームに参加していたメンバーの中にCIAのエージェントがいて、彼から資金を都合してもらう。それ以降勝ち続けるボンドだが、カクテルに毒を盛られて死線をさまようことになる。そんな彼をヴェスパーが危機一髪救う。さいごの勝負でル・シッフルとボンドのふたりの勝負になり、互いにすべてを賭けるのだが、ボンドは最強の手役をつくって勝利する。
 いちどはル・シッフルに拉致され、勝ち金を振り込んだ銀行口座のパスワードをめぐって拷問を受けるのだが、これまた危機一髪のところでル・シッフルに金をゆだねていたテロリストの一団が現れ、ル・シッフルを射殺してしまう。ボンドとヴェスパーは愛し合うようになり、ゲーム後の余暇をヴェネチアで楽しむ。しかしヴェスパーはボンドを裏切り、勝ち取った大金を持ち逃げするのである。

 はっきりいって、今回のボンドはミスが多い。そしてヴェスパーとの余暇を楽しみ愛し合い、「わたしゃ諜報員を辞職してこれからは愛の生活をいたします」っていう青春ドラマの主人公のようなボンドも「なんだかなー」というところがある。しかし、そういうクールなだけではない、ボンドの精神の起伏の大きさを描くことから、より人間的でリアルなボンド像を生み出そうとしたのだろうし、そのあたりにポール・ハギスが脚本に参加した成果というものもあるのだろうか。

 ポーカーのゲームがひとつのクライマックスではあるだろうけれども、このあたりをしつっこくやらないで、勝負自体はある意味で定石通りの展開にしたのはよかったのではないだろうか。「うわ、ル・シッフルはこんな手をつくっちゃったし、どうなるんだろう」から、「そうか、そんなすごい手が残っていたか!」という見せ方はなかなかにしびれた。

 エヴァ・グリーンはさすがに演技力もあり、「実は‥‥」というところのボンド・ガールを、ダニエル・クレイグに対抗してよく演じていたと思う。しかし、メイクばっちりの容貌よりも、メイクしかけのときの方がずっと美しかったように思ったけれども。とにかくは娯楽作品として楽しめる映画だった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160508

■ 2016-05-07(Sat)

 今日みた夢。わたしはまた以前の妻と夫婦でいて、あるアパートに引越しをするのだが、そこの住民は変な人が多い。年配のおばさんはちょっと狂気じみた振る舞いをするし、となりの若い夫婦の夫の方は、わたしたちの部屋を窓から露骨にのぞき込む。わたしは彼に「のぞかないでくれ。のぞき見をするようなヤツはバカヤロウだ」というと、「ちぇっ」と舌をならして行ってしまう。
 妻は別のおばさんも変なのだといい、そのおばさんは庭のまん中につながれた犬がグルグル回っているのを見て、唐突に「そう、靴下!」といい、犬用のサイズの靴下を編みはじめるのだという。その長さは14.3センチなのだと。
 そんな話をしているとき、わたしたちの部屋の床には一匹のカブトムシがひっくり返っていて、グルグル回っている。カブトムシは二匹に増え、新しく増えたカブトムシは外来種のようで、その胴には虹色の光沢があるし、胴からつながる流線型の角のかたちも独特だった。

 夢から覚めて、あのカブトムシは「ヘラクレスオオカブト」ではなかったかと調べると、少なくともその形状はまさに、ヘラクレスオオカブトのものだった。

 今日は北のスーパーで買い物をすると千円につき二百円の買い物券がついてくる、実質二割引に相当するお買い得の日なので、米などを買っておく。ポイントカードのポイントもたまって、こちらも五百円分の買い物券がもらえた。一気に九百円分の買い物券ゲットなのだけれども、こっちのスーパーで九百円の買い物をするというのはなかなかに大変なことである。多少高くても「買い物券」があるのだからと割り切って、なるべく保存の効くものを買っておこうかと思う。
 スーパーの帰り道、踏切のそばの家の花壇の三色スミレが、そろって満開になっていた。

    f:id:crosstalk:20160506112911j:image:w360


 図書館で借りたボルヘスの「七つの夜」を読み始めているけれども、これがとっても面白い。一晩に一章(一夜)読むのは容易いようなので、一週間で読み切れるだろう。ボルヘスはやはりわたしの性に合っているみたいなので(わたしは記憶の失せた人、一方のボルヘスは「記憶の人」だというのに)、家にある「ブロディーの報告書」も読みたくなった。「千一夜物語」はそのあとになるかな。



 

[]「ゲーム」(1997) デヴィッド・フィンチャー:監督 「ゲーム」(1997)   デヴィッド・フィンチャー:監督を含むブックマーク

 これはフィンチャー監督が「セブン」のあとに撮った作品で、「セブン」であれだけえげつない、希望のない世界を観客に見せたあと、観客に「また『セブン』かよー」と思わせる展開をやってみせ、さいごにどんでん返しをくらわせるということをやってみたのだろうか。趣味が悪いぞ。

 主人公の投資銀行経営者ニコラス(マイケル・ダグラス)は、48歳の誕生日に弟のコンラッド(ショーン・ペン)から、誕生日プレゼントとして「人生が一変するすばらしい体験が出来る」という<ゲーム>への招待状をもらう。「いいよ」とその招待状にサインをすると、彼の身の回りでは生命の危険をも伴うような、とんでもないことが起こりはじめるのである。

 サスペンス/スリラーとしてよく出来てるのかもしれないけれども、わたしには受け付けられない悪趣味な世界だと思った。そもそもわたしは、このような外からの力での「自己改革」をする、ということに大きな不信感を持っているし、基本的にこんな仕組まれたことで成し遂げられる「自己変革」なんて、手の込んだ「洗脳」となるではないか。この作品ではニコラスは情のない冷たい人間だということに危惧した弟のコンラッドが、彼に人間らしさを取り戻させるためにこの「ゲーム」に招待したというわけだけれど、そのコンラッドの「正当性」はいったいどこにあるのか。コンラッドはそのようなことを仕込むだけの真っ当な人間、いや「真っ当な人間」を超えた存在であるという保証はどこにあるのか。人が人を改造するというのは、やってはいけないこと。それは「神」の領域に足を踏み入れることなのではないのか。わたしにはそういう「神」への信仰心はないつもりだけれども、この映画が唾棄すべき映画であるということはわかる。

 演出面では「さすがにデヴィッド・フィンチャー」と思わせられるところがあるだけに、このような題材を選んで映画にしたフィンチャー監督には、ちょっとがっかりしてしまった。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160507

■ 2016-05-06(Fri)

 ニェネントを膝に抱いていて降ろすと、履いていた黒いボトムスがニェネントの毛だらけになっていた。毛がつきやすいボトムスに変えていたこともあったけれども、昨日まではこんなことはなかったはずと思いながらもニェネントをブラッシングしてやると、取れるわ取れるわ、ものっすごい量の抜け毛が取れるのである。何度やっても相当量の毛の量で、すぐにテニスボールぐらいの大きさの毛の玉ができた。先週も、そろそろ下毛の抜けてくるころだと思ってブラシをかけてやったのだけれども、その時はまるで抜け毛もなかったというのに。今朝にでもとつぜん、「さあ、暖かくなって下毛を棄てる時期になった」と決めたのだろうか。ちょっとおどろいてしまった。しかしながらニェネントは白と茶のブチなので、抜けた毛は混ざり合って汚れた雑巾みたいな色になってしまうのが残念である。まっ白とかまっ黒なんだったら、集めて大きな玉にしてみてもいいんだけれども。
 そしてしかも、ニェネントはどうやら発情期に突入したらしく、わたしにまとわりついてくる。パソコンに向かっているとわたしの膝のあいだに入り込んできて、「かまってよ〜」とアピールしてくる。無視しているとわたしの手を噛んできたりするのである。まあブラッシングしてあげるのでも効果はあるみたいだから、その分せっせとブラッシングやってあげる。いくらやってもいっぱい抜けてくるから、さいごには禿げちゃうんじゃないかと心配になる。

 今日は内科医への通院日なので、このボトムズの毛は何とかしなくてはならない。ここで活躍するのが掃除用の「コロコロ」の芯。これはネコを飼うときの必需品であり、こういうときにこそ役に立つのです。なかなかにきれいになります。
 それで今日も内科医は異常なし、平常通りである。ま、健康ですね。その内科医の帰りに図書館に寄り、DVDとCD、そして「千一夜物語」を返却した。かわりに新しく借りたのは、CDはマイルス・ディヴィスの「クールの誕生」、そしてセロニアス・モンクの「ブリリアント・コーナーズ」。それとクラシックはバルトークの「中国の不思議な役人」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」のカップリング。DVDも「英国王のスピーチ」を借りてみた。本は「千一夜物語」への言及もあるボルヘスの講演集、「七つの夜」。この本ならば、そんなにページ数もないし、一夜に一章ずつ読めば一週間で読み終えられるだろう。

 夕食には昨日買って忘れていたカツオのたたきをおかずにし、ニェネントにもわけてあげる。買ったパックは端の方のかたちの整っていないところを集めたパックで、安いわりにはボリュームがある。食べ切れなかったので明日もまたカツオになる。ニェネントきっと喜ぶだろう。



 

[]「博士と彼女のセオリー」(2014) ジェームズ・マーシュ:監督 「博士と彼女のセオリー」(2014)   ジェームズ・マーシュ:監督を含むブックマーク

 あのスティーヴン・ホーキング博士の伝記映画で、彼の元妻のジェーン・ワイルド・ホーキングの書いた回顧録を映画化したもの。ケンブリッジ大学の学生時代のホーキング博士と彼女との出会いから、ふたりが別れたあと、ホーキング博士がエリザベス女王に招かれるまでを描いている。やはりこの映画を観るというのは、ホーキング博士がいかにあの難病と付き合って生きてきたのか、という興味本位で観たところもあるのだけれども、そういう部分も含めて、しっかりした骨子のヒューマンドラマだった。
 おそらくは登場人物らが存命する人たちであることから、ある程度きれいごとにしてあるところはあるのかもしれないけれども、たとえばふたりが別れることになるきっかけとか、意外と踏み込んだ描写になっていると思う。そしてわたしが気に入ったのは、ふたりの結婚式とか子どもの誕生だとかいうドラマチックな部分を、さらりと短い描写ですませているあたりで、このあたりの簡素さのおかげで、妙に感傷的な作品に陥らないですんだのではないだろうか。まあさすがにホーキング博士の宇宙論とかまでに深入りしてはいないけれども、「宇宙がそうなのだとしたら、では神は?」というようなところから簡素に攻めているあたり、このストーリーの背景に宗教的なものも描かれているということで、通底させている印象は受けた。あとはわたしなどもよく知るところの、ホーキング博士のすてきなユーモア感覚、これも随所に活かされていたのは楽しかった。

 そのホーキング博士を演じたのが、アカデミー主演男優賞を受賞したエディ・レッドメインという俳優さんなのだけれども、たしかにこの演技は名演、熱演で、しかも、わたしなどが知っているじっさいのホーキング博士の容貌にとてもよく似ているのにおどろいてしまった。この作品の俳優陣は皆、この作品の基調の「清潔さ」みたいなものをサポートしていて、ジェーン役のフェリシティ・ジョーンズ、そのジェーンののちの夫になるジョナサン役のチャーリー・コックス、ホーキングの母親役のエミリー・ワトソン(彼女は一昨日観た「ゴスフォード・パーク」でも印象に残る役で出演していた)ら、それぞれが印象に残る演技をみせてくれたと思う。演出も先に書いたような簡素さというものが印象的で、わたしは好きである。あと、この音楽がとてもよかった。スコアを書いたのはヨハン・ヨハンソンというアイスランド出身のミュージシャンとのこと。Wikipedia をみると、コンテンポラリー・ダンスに曲を提供してもいるらしい。名前は憶えておこうか。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160506

■ 2016-05-05(Thu)

 今までの都内の公演はこの二十年来、毎回観に行っていた「水族館劇場」が、今年は東京で公演せずに三重での公演がこの週末に始まる。東京(というか関東)でやらないというのは残念なことで、たとえ三重であろうとも行って観たいところなのだけれども、それは関西で一泊せざるを得ないだろうし、交通費を合わせても四、五万はかかってしまうそう。それはやはり今のわたしには辛いので、あきらめるしかないだろう。その場所ならではの大がかりな仕掛け、広い自然を取り入れた借景もあるようなので、行けないことは無念である。

 けっきょく、明日までになった「イメージフォーラム・フェスティバル」も、時間が合わないので行かないまま終わることになるけれども、なんだかまた「お出かけ気分」からは離れてしまっている。再来週には文楽を観に行くし、そのあとも知り合いのダンス公演(これはひょっとしたら東京に宿泊することになるだろう)に行く予定はあるけれども、それ以外の予定はまるでない。まあ出かけなければ無駄づかいもしないから善しとして、しばらくは引きこもり生活に浸ろうかと思う。

 今日は久々に、西にあるスーパーに買い物に行ってみた。歩いて十分弱のところ。このスーパーはウチの南にあるスーパーと同系列だけれども、店内ディスプレイを簡素にしたりレジ袋を基本つけなかったりと、低価格路線の店なのである。まあ何から何まで低価格というわけではないけれども(モノによっては南のスーパーの方が安価だったりもする)、やはり安いものはめちゃ安い。なぜこのスーパーを利用しなくなったのか、その理由も思い出せないけれども、これからはこのスーパーでの買い物をメインに据えて、いろいろと利用し分けるように考え直したいと思った。
 そう、今日は「子どもの日」ということで、スーパーにちまきを売っていたのを買って来た。これは「ちまき」というよりも「おこわ」という味だったけれども、「ちまき」とはこういうものなのだろうか。ちゃんと食べたことがないのでよくわからないけれども、これはとってもおいしかった。

 読んでいる「千一夜物語」、面白くないわけではないのに意外とサクサクと読み進められないのは書いている通り。ちょっと時間がかかってしまったので、やはり明日いちど返却し、ブレイクを入れてから再度挑戦したいと思う。



 

[]「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」(2012) ブラム・ストーカー:原作 ダリオ・アルジェント:監督 「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」(2012)   ブラム・ストーカー:原作 ダリオ・アルジェント:監督を含むブックマーク

 おそらくはダリオ・アルジェント監督の今のところいちばん新しい作品で、3D作品だったらしい(日本公開は通常の2D上映だったとか)。たしかに観てみると、「これは3Dを意識した画面づくりだなー」と納得するところではある。

 で、いちおう登場人物などはブラム・ストーカの原作にならっていて、ドラキュラ城へ司書として雇われたジュリアンが向かうという導入部も原作通りなのだろうけれども、そのあとの展開はかなり原作を間引いているというか、ストーリーをまじめに追おうとすると痛い目にあう。ここでのドラキュラ伯爵はコウモリではなく、フクロウとか蠅だとか、果てには巨大な◯◯◯◯だとかいろんなものに姿を変えることが出来るようで、これは忘れたけれども原作の通りなのかもしれない。しかし、突如としてどんな空間にもこつ然と姿をあらわすことも出来るようで、これではドラキュラ伯、無敵の帝王ではないか。どんな防御策も通用しないではないかと思うのだけれども、とにかく伯爵は呼び寄せたジュリアンの妻のミーナ嬢にあまりにご執心で、そのスキにヴァン・ヘルシング氏も彼を倒すチャンスを見つけられるというものである。

 さすがにダリオ・アルジェント監督らしくも、強い原色の照明による独特の世界は健在だし、ゴシック風味の建築も雰囲気を出しているだろう。しかしあまりに有名なそのストーリー展開に意外性もなく、「謎解き」という面白さを望むことは出来ないし、吸血鬼映画としては既視感のある映像も続くことになる。
 ただ、このミーナ役の女優さんはダリオ・アルジェントの美意識にかなってか、とても美しくも清楚で、わたしも途中からは彼女の姿を観るためにだけ観つづけてしまったところがある。この方はマルタ・ガスティーニというイタリアの女優さんで、まだ日本公開作も少ないようだけれども、これからもっと目にする機会の増える女優さんかもしれない。チェックしておこう。



 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160505

■ 2016-05-04(Wed)

 あまりよく憶えていない今朝の夢。わたしはまた妻がいて、夫婦で同じ職場ではたらいている。会社では春には社員皆で旅行に行くようで、わたしは会社でのしごと自体が楽しくて仕方がないようだ。会社でしごとをしていて定時になり、聞いていたラジオを消し、カーテンを閉めて皆で帰る支度をする。わたしがふと机の引き出しを開けると、そこには籠にのせられたたくさんのアサリがある。たいていのアサリはもう薄く口を開き、死んでしまっているようだ。そんな、引き出しの中のアサリの印象が強烈な夢だった。

 今日はしごとは非番で休みだけれども、朝起きると窓の外では風がとても強いようで、窓の外の木の枝が大きく風になびいていた。空は晴れているようだけれども、こんな朝は外に出たくはない。「今日はしごとでなくってよかった」と思う。
 風は午前中にはほとんどやんでしまったようだけれども、今日は近くのコンビニにちょっとタバコを買いに出ただけで、ずっと部屋に引きこもり。

 図書館から借りているDVD、アルトマン監督の「ゴスフォード・パーク」もそろそろ返却しないといけないので、アルトマン監督によるオーディオ・コメンタリーも聴くつもりで、早い時間から観始めた。いちど観終えて、そのオーディオ・コメンタリーの方でもういちど観始めたのだけれども、アルトマンはあんまりしゃべらないし、聴いていてそこまで興味を惹かれるようなものでもなかったので途中でやめてしまった。いちおう特典映像はみんな観たけれど、おそらくは映画祭か試写会か何かのあとの映像で、主要キャスト、スタッフが舞台上に並んだところに観客が質問をするという映像があった。そこである観客がいきなり、「アガサ・クリスティの本は人物描写が重厚なのだけれども、この映画ではそれを感じない。群像描写に失敗しているのではないか」という、辛辣な(というか間違った判断だろう)質問というか意見がぶつけられたのにはびっくりした。映画を観ていろいろな意見があって当然だけれども、こういうこともあるんだな。もちろんアルトマン監督は「わたしはそうは思わない」と答えていたけれども、こんな、ある意味でバカげた質問に答えなければいけないスタッフも大変だ。



 

[]「ゴスフォード・パーク」(2001) ロバート・アルトマン:監督 「ゴスフォード・パーク」(2001)   ロバート・アルトマン:監督を含むブックマーク

 アルトマン監督お得意の群像劇で、彼は「これまでに撮っていないジャンルは何だろう」と考え、ほんとうはアガサ・クリスティの作品の映画化で推理ミステリーを撮ろうとしたらしいけれど、アガサ・クリスティの作品はもうすべて映像化されてしまっていたそうで、「それなら」と、アガサ・クリスティ風のオリジナル脚本のミステリーを撮ることにしたらしい。脚本はジュリアン・フェロウズという人。この人は近年評判になったテレビドラマ「ダウントン・アビー」の製作/脚本も担当した人で、イギリスの貴族や王室の風習、生活に詳しい人のようだ(そのキャリアの初期には俳優として活躍していたらしい)。

 舞台はイギリスの郊外のゴスフォード・パークという古風な邸宅で、このような荘園の地主の邸宅を「マナーハウス」と呼称するそうである。時は1932年。貴族階級など絶滅間際の恐竜のような存在だった時代だろうけれども、この映画ではそのような「没落して行く貴族階級」などという視点はあまり感じられない(経済的に行き詰まっている人物は多いようだけれども)。そこではまだ、貴族とその使用人らの「古いしきたり」が残っているのである。この映画が描くのは、そのような貴族階級と使用人らの「古いしきたり」の世界である。
 この作品ではそういうマナーハウスで主人のウィリアム卿主催の狩猟パーティーが開かれることになり、十人以上の貴族らが使用人を引き連れてそのマナーハウスに宿泊に来るわけである。貴族だけでなく、遠い親戚というハリウッドの映画俳優アイヴァー・ノヴェロ(実在の人物)と、その友人の映画製作者も従者を連れて来ている。貴族らは邸宅の「上の階」を使い、使用人らは「下の階」に控えることになる。貴族らはそれぞれの思惑があっての交流、交渉がいろいろとあるのだけれども、使用人らは「下の階」でそれぞれの主人のゴシップ話や見たこと聴いたこと、うわさ話に花を咲かせる。いろいろな人間模様が描かれたあと、次の日になってウィリアム卿は自室で何者かにナイフで刺され、死体で発見される。さっそく捜査のために警部と巡査がやって来るが、実はウィリアム卿は刺される前にすでに毒を盛られて死んでいたことがわかる。さて、毒を盛った殺人犯は? そして、殺意を持ってウィリアム卿を刺したのは誰? ということになるのである。

 実はふつうに観ていれば、いったい誰が毒を盛ったのかはかなり歴然としているのだけれども、しかしなぜその人物がウィリアム卿に殺意を持ったのかということがわからない。その理由が、それまでの流れのなかから立体的に浮かび上がってくるところが、この作品の見どころだろうか。そこで意外な人物関係も明らかになるけれども、まあいってしまえばウィリアム卿は殺されても仕方ない人非人だったとはいえるだろうか(「あの人はそんな人じゃありません」と彼を弁護して、その関係がバレてしまった使用人もいるけれども)。そしてやはり、「上の階」と「下の階」との差異というか、上の階の貴族連中は虚飾のなかに生きていて、実のところ「下の階」の使用人に頼ってばかりという感じだし、人間として生き生きしているのはやはり「下の階」の使用人たちだろう。ここで「もうひとつの話」という感じで、映画製作者が連れて来た「従者」というふれこみの男が実はハリウッドの俳優で、役づくりのために従者のふりをし、使用人らのなかにまぎれ込んでいたことが終盤にわかるのだけれども、そのあとの使用人らの彼へのしっぺ返しが痛快で、このシーンは笑ってしまった。

 全体の狂言回しというか、物語の展開を助けるのが、ウィリアム卿の妻の叔母にあたる伯爵夫人(マギー・スミス)の使用人であるメアリー(ケリー・マクドナルド)なのだけれども、このケリー・マクドナルドの、まだ使用人として馴れていない感じとか、その初々しい感じがとてもいい。ケリー・マクドナルドという人は前に観た「ノー・カントリー」でジョシュ・ブローリンの奥さんを演じていたが、けっこうわたしは好きな女優さんである。調べると「トレインスポッティング」のオーディションを受け、デビューしたらしい。「アンナ・カレーニナ」の映画にもキーラ・ナイトレイと共演しているようで、その映画も観てみたい。
 あとはとにかく「アルトマン映画」らしくというか、大スターがいっぱい登場して来る作品で、わたしが好きなのはヘレン・ミレン、エミリー・ワトソン、そしてリチャード・E・グラントとか。意外なところではクライヴ・オーウェンとかも出ていて、この人はもっと近年になって出てきた人かと思っていた。

 演出はやっぱりさすがにアルトマンというか、これだけの登場人物のドラマを二時間枠のなかにまとめて、単に推理ミステリーを越えた人間ドラマをみせてくれたのはさすがだと思う。これを「重厚」と思わなかった人もいたらしいけれども、わたしにはとてもそうは思えない。そして、落ち着きのなかにも嘘八百みたいな情況の「上の階」、「しきたり」に従いながらも人間らしさをみせてくれる「下の階」との描き分けもすばらしいと思う。



 

[]「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001) ウェス・アンダーソン:監督 「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001)   ウェス・アンダーソン:監督を含むブックマーク

 この作品はまだ、ウェス・アンダーソン監督の第三作目でしかないのだな。もう相当のキャリアを積んでからの作品だと思っていたけれども、ちょっと意外だった。
 わたしはウェス・アンダーソン監督の作品にはハマることもあるし、まるで受け付けないこともある。最近作の「グランド・プダペスト・ホテル」はとっても楽しい作品だったけれども、この作品にはちょっと困ってしまうところがある。しかしこの作品の構成、その「グランド・プダペスト・ホテル」に酷似している。まずは作品自体が映画のタイトルの本の中身を映像化したというスタイルで、冒頭にその本が映されてその表紙が開かれて本編が始まるのは同じだし、その冒頭しばらくのシンメトリー偏愛演出もまるで同じ。ちょっと今はその他の作品のことは忘れてしまっているので、彼のほかの作品にもそういうのがあるのかどうかはわからないけれども、とにかくは「グランド・プダペスト・ホテル」のスタイルはこの作品に似ている。
 この作品、つまりは父親ががんばってバラバラになってしまっている家族(三人の子)との絆を再構築しようという話で、その三人の子らは皆早熟というか、ロウティーンの頃にいろいろな分野で天才的な活躍をしていたわけである。ところが今(22年後?)はそれらの子らは皆、その分野からリタイアしてしまっていると。はたしてそんな家族は、新しい「生」に踏み出せるのか?というお話なんだろうか。

 実は養子という、若くして天才戯曲作家となり、一冊の戯曲集だけを出版してあとは沈黙する長女(グウィネス・パルトロウ)のキャラクター、話は面白いと思う。ここのところは好きだけれども、う〜ん、わたしはけっきょく、長男役のベン・スティラーという役者のことが受け付けられないだけのことかもしれない。どうもわたしはこの人のこと、見続ける我慢が出来ないのだな。いや、それを抜かして考えても、それ以外の登場人物もどこか中途半端なような印象を持つのだけれども、それはわたしが間違っているのだろうか?

 でも思ったのは、親というのは、子どもたちとの絆というものは大事にしたいものだろうということ。昨日観た「アメリカン・ビューティー」のケヴィン・スペイシーにしても、娘の行き先を心配し、「あれなら大丈夫だろう」と確信することが大事だったわけだろう。そう思うといつも、わたしの父親、アイツはいったい何者だったのだ、と考えてしまうのである。ただ子どもを放置し、わたしと話をしようともしなかった。何という情けない人間だったことだろう彼は。‥‥いや、このことはあまり書かないようにしよう。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160504

■ 2016-05-03(Tue)

 今朝もわたしがしごとから戻ってドアを開けると、ニェネントが外にとび出して柵を越えて行く。柵にひじをついて、ニェネントの動きを目で追う。ニェネントのうろちょろしている区画の向こう側はパチンコ屋の駐車場で、九時のパチンコ屋の開店に合わせて、もう車が何台も入って来てる。空は雲もない青空で、春らしいそよ風が心地いい。ニェネントに「気もちいい天気だねー、こんな日にパチンコ屋の日の射さない店の中にこもるなんて、つまらないことやる人もいるんだねー」と、話しかけてみる。ニェネントの外出も、そろそろ「日光浴」と呼んでもよくなってくるだろう。
 そんな、わたしの目の下で右往左往しているニェネントをみると、やっぱり一時期よりもずっとほっそりしてしまって、逆に「これではちょっと痩せすぎなんでないの」という感じにまでなってしまっていて、これはいけないと、これからは食事量をもっと増やしてあげることにした。

 この頃は買い物に行っても、安いカップ麺とかがあるとすぐに買ってしまう。別にカップ麺が好きなわけでもないし、カップ麺やインスタント麺は塩分が多いのであんまり摂取しない方がいいのだけれども、なんか保存食のつもりになってしまうのか、「あれ? いつもより安いじゃないか」と思うとつい買ってしまう。カップ麺とかはいくら安いといっても60円より安くなることはないわけで、そう考えるとちっとも安い買い物ではない。インスタント麺なら安ければ一食50円ぐらいのもので、野菜などいろいろと具を入れても、カップ麺よりは安く出来るだろう。ただ、カップ麺はつくるのがかんたんというだけのこと。これが保存食になるかどうかというと、水が断水して火が使えなくなればまったく役に立たない。つまりは食事の準備が面倒なときにたよる「非常食」、というわけになる。
 まあ「安い」ということで考えれば、いちばん安く出来るのはパスタだろう。これは原価計算で40円もかけるとかなりボリュームのあるものになるし、シンプルにやれば30円でお腹いっぱいになるだろう。つまり、毎食毎食かんたんなパスタですませれば、一ヶ月の食費は三千円ぐらいでおさまってしまうではないか。そのうち貧乏になったらコレをやってみようかとも思っている。

 今日もまた映画を二本観て、夜は本を読みながらすぐに寝てしまった。



 

[]「アメリカン・ビューティー」(1999) サム・メンデス:監督 「アメリカン・ビューティー」(1999)   サム・メンデス:監督を含むブックマーク

 これはおかしい。ひとりで声を出して、大笑いしながら観ていた。タイトルの「アメリカン・ビューティー」とはグレイトフル・デッドのアルバムタイトルにもなっていた(ジャケットも飾っていた)バラの品種で、この作品ではアンジェラという女性の象徴として、また、映画全体で登場人物らのみせる、うわべの「アメリカ流美しい生活」をも意味しているようではある。
 映画は、主人公のレスターのナレーションで、レスター家族の住む地域の空撮から始まる。レスターの語り口には、「サンセット大通り」の、死せるウィリアム・ホールデンのナレーションを思い出させるものがあり、見ていて「語り手は実は死者なのではないだろうか」と思うことになる。
 主人公家族は郊外に庭つきの一軒家を持ち、夫のレスター(ケヴィン・スペイシー)は広告代理店に勤めている。妻のキャロライン(アネット・ベニング)も仕事を持っていて、自分で不動産の営業に回っている。娘のジェーン(ソーラ・バーチ)は地元のハイスクールに通っている。妻もはたらいているというのはちょっと特殊かもしれないけれども、いわゆる白人アッパーミドル階層の典型的な家族像ではないだろうか。しかし、レスターの会社には人員整理のための査察員が派遣され、レスターは人員整理の候補と目されてしまう。キャロラインは上昇志向のかたまりのようなスノッブで、レスターとの関係はうわべだけで、いっしょのベッドで寝ていても長く夫婦関係はないようだ。レスターはバスルームで性欲処理(つまりマスターベーション)するのが日課。思春期のジェーンは思春期らしく父レスターの存在をうとましく思い、父とのコミュニケーションもない。そんなある日、レスターにとってはジェーンとの交流再築も目的に、ジェーンの学校でジェーンも参加するチアリーディングの発表会を見に、キャロラインとともに出かける。そこでレスターはジェーンと踊るジェーンの級友のアンジェラを目に留め、まさに彼女に心を奪われてしまうのである。笑っちゃう。それ以降、レスターの妄想世界ではバラの花に包まれたアンジェラの肢体がレスターを誘うのである。
 ジェーンはそんなことお見通しで、「自分のクラスメートを見て勃起してるような父親なんか殺してやりたい」って思っている。うわべだけは幸福そうな家庭を演じていても、実はみんなバラバラ。特にレスターの欲求不満、フラストレーションは強そうだ。遊びに来ていたアンジェラとジェーンとの会話を盗み聞き(笑)したレスターは、アンジェラが「ジェーンのお父さんがもっと筋肉隆々だったら寝てみたい」というのを聞いてしまい、それからは突如筋トレに励むのである(笑)。
 そんなレスター家を隣家から観察している存在があって、それは最近となりに越して来た元海軍大佐フィッツ(クリス・クーパー)のひとり息子、ジェーンの同級生になるリッキーである。リッキーは詩人肌の青年で、いつもヴィデオカメラを手にしていて、それで映像詩のようなものを撮ろうとしているようだ。父に隠れてマリファナの売人をやって小銭を稼いでいて、あるパーティーでレスターはそのリッキーからマリファナを買ったりする。これがレスターの自己解放の第一歩かもしれないけれども、そのことは置いておいて、ジェーンはリッキーに惹かれて親しくなって行き、初体験もすませてしまう。。
 レスターはマリファナ体験で勢いを得たのか、会社に辞表を提出して逆に上司を脅し、給与一年分の退職金をゲット。車も欲しかった車種に買い替えて、なんとドライヴインのハンバーガーショップではたらきはじめる。彼の新しい人生がスタートする、という感じである。しかし、レスターのナレーションはその日が「自分が死ぬ日」であることを語る。
 さて、キャロラインはキャロラインで、夫レスターとやり直すチャンスもあったのにそれをふいにして、さらにレスターへの不満も募らせ、ついには仕事上のライヴァルの不動産屋バディと不倫するに到ってしまうのだが、そのバディとともにハンバーガーショップに立ち寄り、レスターに不倫がバレてしまう。悟りの境地に近いレスターは気にしないのだけれども、おかげでバディに逃げられもしたキャロラインは激高する。

 ‥‥いけない、ストーリーを全部書きたくなってしまう。とにかくはストーリーを書くのはもうおしまい。それくらい、わたしには面白くってたまらない作品だった。しかしこの日記で検索してみると、どうやらわたしは以前観たときにはそんなにこの作品のことが気に入っていたわけではないみたいだ。それだけわたしが変わったのか。素直になったということだろうか。わたしもこの映画のレスターの境地にあこがれているのだろうか。
 レスターはどこかで青年の気持ち(?)を取り戻し、世界は彼の前でまるでちがう姿をみせるようになっただろう。上に書いたストーリー以降の展開でのレスター(ケヴィン・スペイシー)の表情のおだやかさはほんとうに心に残る。まるで背後に後光が射しているようだ。「うわべだけ」のウソの世界を捨て、自分を解放した男のつかの間の幸福な時間を、わたしも映画を通じて共有出来る気がする。その裏側には、隣家のフィッツのようにじっさいの自己を見つめなかった存在があり、ある意味では偽った生を送っていた。「偽りの生」ということでは妻のキャロラインもそうだろうし、彼女はさいごには誤った方法で自己実現しようとする(ここはちょっと強引?)。アンジェラもまた、若いけれども「偽りの生」を生きていたのだろう。終盤のレスターの存在は、それらの人々が「ほんとうの自分」を見出すための触媒のような役目も担っていたようではある。レスターはそれを直視出来ない不幸な人間の犠牲になったといえるのか。レスターがさいごにその生き方を見つけたように、ジェーンとリッキーもそんな生き方を探すために旅立つ。

 ここで描かれたのは、アメリカのいわゆるWASPと呼ばれる層の、その虚偽を暴いたものということも出来ると思うし、そういったWASPであることの幸福像の未来を描いたものともいえるかもしれない。しかしこれらの「虚偽の家族像」というものは特にそういう層にかぎった問題ではなく、この日本でもいくらでもみられるところのものだろう。その陰に「自己実現」を避け、仕事の上でも家庭内でも無難でオーディナリーな生活を選ぼうとする「弱さ」があるのだろう。この「弱さ」はアメリカに限らず、世界で普遍的に多くの人の持つものではあるだろう。‥‥ひとりごとをつぶやけば、わたしはそういう「自己実現」をやってのけたという自負はある。もちろん「そんなことをいうあんたは何さまなんだよ」という声は聞こえるし、「自己実現」ではなくって「自己満足」だろうといわれても仕方がないかもしれない。しかし、とにかくはわたしは偽りの生活を棄てたという自負はある。

 映画のことに戻れば、この作品はサム・メンデスの第一回監督作品だという。それまでの彼はロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出家であったというから、舞台演出家としてはもう一流だったわけだろう。この作品のテイストはシニカルなコメディーという体裁をとっているけれども、とにかく笑わせるところでは下ネタも入れながら思いっきり笑わせてもらった。最高だったのは隣家のフィッツが「勘違い」してしまってレスターにすがる(?)シーンで、ここは実はナチス信奉者という裏を持つ軍人の、その隠していた弱さが噴出するシーンでもあり、演じたクリス・クーパーの演技もあって、ただ笑わせるだけのものではなくみせてくれた。これらコミカルな展開とは離れての、ジェーンとリッキーの未来に夢を託す、ふたりの描き方もまたヴィヴィッドなものだったと思う。
 あとは既成音楽の使い方のうまさというか、「ここでこの曲」というマッチングがすばらしかった。エンドタイトルに移行してのビートルズの「ビコーズ」のカヴァーもぴったりだったし、アンジェラがレスターの部屋で聴くのがニール・ヤングの「Don't let it bring you down」のアニー・レノックスによるカヴァー、そして何よりも個人的には、ニック・ドレイクの「Fly」を聴かせてもらえたのがうれしかった。この映画は、わたしの大好きな映画である。



 

[]「黒の試走車」(1962) 増村保造:監督 「黒の試走車」(1962)   増村保造:監督を含むブックマーク

 増村保造監督らしい、感情移入を排したクールな「産業スパイ」ドラマで、原作は梶山季之。主演は田宮二郎だけれども、スパイ戦を指揮する高松英郎の存在が印象に残る。この結末はどこか昨日観た「プロミスト・ランド」を想起させられるところもあるし、さっき観た「アメリカン・ビューティー」につながらないこともない。いや、昨日の「陽のあたる場所」だって、どこかでつながっているだろう。

 しかし、この作品の製作された1962年というのは、ようやくボンドシリーズの一作目「ドクター・ノオ」がつくられた年だし、同じ増村保造監督による「陸軍中野学校」は1966年の製作。そういう風にみると、たとえ「産業スパイ」とはいえ、表面に出ないスパイ的な活動を主題に描いた作品としては、これは先駆的な作品だといえるのではないだろうか。

 物語は新車発売をめぐる、その新車の仕様(大衆車かスポーツ・カーか)からカー・デザイン、そして価格設定をめぐることになる、車メーカー二者による情報の奪い合いで、田宮二郎は、上司(高松英郎)の希望(というより指示)で、自分の婚約者(叶順子)をも敵社の情報源企画部長の通うバーではたらかせたりもする。さらに最重要情報を盗むため、その婚約者を敵部長と一夜を過ごさせるところまでいってしまうのだが、社内上層部に情報を漏らしているスパイが存在していることがわかってくる。いちどは販売競争に勝ったかとみえた会社だけれども、その新車が発売早々に踏切内でエンストし、事故を起こしてしまう事態になる。これも敵社の工作とみた高松英郎や田宮二郎は、そのスパイを突き詰めようとする。‥‥スパイは意外な人物ではあったけれども、裏工作を暴かれた敵社は列車妨害で告訴され、部長は辞任、高松英郎や田宮二郎らの会社の勝利となる。しかし田宮二郎は会社に辞表を出し、まずは壊れかけた婚約者との仲を修復しようとするのである。
 「人が生きていくのに、ここまでに人間性を犠牲にしてもいいのか」という問いかけで会社に辞表を出すということで、「プロミスト・ランド」の主人公とこの田宮二郎の決断は同じものだろうし、五十年経っても同じ問いが投げかけられてしまう、というのがこの社会なのであろう。そして、マット・ディモンと田宮二郎はそんな世界から脱却しようとし、それは先の「アメリカン・ビューティー」のケヴィン・スペイシーも同じなのではないだろうか。いったいいつまで、人々は疎外され、自分をごまかしながら生きていかなければならないのだろう。そんなところを五十年も前に告発したともいえるこの作品、先駆的な意義もあるのではないだろうか。

 あまり扇情的な描写に走らず、冷徹に物語を展開させる演出は見事であり、この作品を見ごたえのあるものにしていると思う。そう、船越英二が出演していて、彼がいるというだけで、何となく彼が何者なのか想像がついてしまうのだけれども、飄々とした演技のなかにその映画に合わせたカラーを出してくるあたり、うまい役者さんなのだろうと思ってしまう。わたしが観た彼の出演作というと市川崑監督のものが多いのだけれども、「黒い十人の女」、「野火」、そして先日観た「女経」と、それぞれに異なる個性をみせてくれていた。この作品でもいい味で作品を締めていたと思う。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160503

■ 2016-05-02(Mon)

 今朝もニェネントは柵の外にとび出し、もうすっかり柵の外の世界に魅了されてしまったみたい。わたしとしてはそのまんまニェネントが手の届かないところに行ってしまう危険が増してしまったので、柵の外で草を食んだりしているニェネントをみながらも、ちょっと不安なのである。今はまだ、せいぜい一、二分のあいだ外界を楽しんでから、自分で柵の内側に戻ってくるけれども、いつかそのまま帰って来ようとしなくなったりしないだろうか。まあニェネントもそこまでバカではないだろうから、自分が外で暮らして行くちからなどないことぐらいわかってると思うけれども、意外と大バカなネコかもしれないのである。心配心配。
 新しいキャットタワーは、ニェネントにとってはわたしが食事をしているところを監視するウォッチタワーの役割だけ、みたいなもので、あんまりふだんは使ってくれない。いちばん期待した「爪研ぎ」としての役割はまるでダメで、ニェネントを抱いてその前足を持ち、「こうやるんだよ」とキャットタワーの柱に押しつけて覚えてもらおうとしたのだけれども、やっぱり無理矢理というのはダメなのか、もう今までの習慣の段ボールでの爪研ぎをやめようとはしない。これは残念なことである。

 読んでいる「千一夜物語」はそれなりに面白いのだけれども、読んでいるとすぐに眠くなってしまい、なかなかに読書ははかどらない。まだ二百ページにも届かないところで、これでは多少返却期限をオーバーしても読了出来そうもない。ここはいちど返却して、ちょっとブレイクを入れた方がいいだろうかと思う。
 今日も、映画を二本観た。



 

[]「薄氷の殺人」(2014) ディアオ・イーナン:脚本・監督 「薄氷の殺人」(2014)   ディアオ・イーナン:脚本・監督を含むブックマーク

 二年前のベルリン映画祭で金熊賞を受賞した作品ということで、このディアオ・イーナン監督の作品が日本で公開されるのはこの作品が初、らしい。「あれ?」と思うところもあったけれども、とても面白い作品だった。

 主人公はバラバラ殺人事件を捜査するジャンという刑事で、死体の脇に身分証明書があったことから被害者は特定され、重要参考人に事情聴取に行くのだが、ここでその重要参考人の抵抗に会い、同僚が射殺されて自分も重傷を負う。重要参考人ふたりも主人公刑事によって射殺される。
 それから五年経ち、主人公は刑事を辞めて警備員になっていて、酒浸りのすさんだ生活をおくっている。偶然会ったかつての同僚に、またバラバラ殺人事件が連続して起こっていることを聞く。被害者はすべて、かつての事件で残された、クリーニング店で働く未亡人ウーの周辺で起こっているらしい。興味を持ったジャンは独自に捜査を始めるのだけれども、いつしかウーの魅力に惹かれていく。そして事件の真相は‥‥、という展開。

 事件の真相というのは何となく想像がつかないでもないのだけれども、やはりまずこの映画で興味深いのはその独特の演出のタッチで、いろんなところで「そう来たか!」とうならせられることになる。冒頭のバラバラ死体の一部をみせていくところから持って行かれるし、主人公らが重要参考人逮捕に向かったときの銃撃戦に到る展開にはノックアウトされてしまう。そして、描写が五年後に移行したところでの、路肩に座り込む主人公へとUターンするカメラにもびっくり。そのあともスケート場でのシーンだとか、とにかくまずは斬新な感覚の演出を楽しむことが出来る。
 そして、ここで主人公がのめり込んでしまう女性、ウーの、まさにファム・ファタール的な魅力。この女優さんは台湾のグイ・ルンメイという女優さんで、台湾や中国、香港の映画界でキャリアを積んでいる方らしい。おそらくはそれまでの出演作は青春映画っぽいのが多いのではないかと想像されるような、かわいい容姿の女優さんなのだけれども、この作品ではほとんど笑顔をみせることもなく、常に無表情な冷たい顔をみせている。じつはわたしもこの女優さんの魅力に惹かれてしまった観客なわけだけれども、主人公でなくっても、この女性には「危険だ」と思いながらも引き寄せられてしまうだろう。映画の背景は冬の季節が多く、登場人物の吐く息も白いし、このヒロインなどは寒さで鼻が赤くなっている。これがまたいいのである。
 主人公のジャンはそのウーを誘い出して遊園地で会うのだけれども、その遊園地には「第三の男」じゃないけれども観覧車があって、ふたりはその観覧車に乗り、その中でセックスしてしまう(着衣のままネ)。このときのウーの表情にも、とにかくそそられてしまう。なんて魅力的な女優さんなんだろう。

 ラスト、逮捕された犯人が護送されるとき、時間は昼なのだけれども、向かいのビルの屋上から無数の花火が打ち上げられる。これがこの作品の原題の「白日焰火」ということらしいけれども、おそらくこれはジャンがやっていることなんだろうと想像がつく。まあわたしとしては、ジャンはウーといっしょにもっと堕ちて行ってもいいような気もしたけれども、いつの間にか警官に復帰していて、事件解決の際には同僚らと祝杯をあげ、宴会を開くというのは、あんまりこの作品には似つかわしくなかった気はする。



 

[]「陽のあたる場所」(1951) ジョージ・スティーヴンス:監督 「陽のあたる場所」(1951)   ジョージ・スティーヴンス:監督を含むブックマーク

 二十世紀の初頭にじっさいに起きた事件をもとにテオドア・ドライサーが書いた小説「アメリカの悲劇」の、二度目の映画化作品で、モンゴメリー・クリフト、シェリー・ウィンターズ、そしてエリザベス・テイラーの出演。
 主人公のジョージ・イーストマンは伯父が経営する水着製作会社に呼ばれ、就職が決まる。まずは商品の包装係からはじまるのだけれども、その職場でアリス(シェリー・ウィンターズ)と親しくなり、職場恋愛は禁止されているのに関係を持ってしまう。その後ジョージは伯父の家のパーティーに招かれ、昇進を約束されるのだけれども、そのパーティーでアンジェラ(エリザベス・テイラー)という華やかな女性と出会い、ふたりはいちどに惹かれ合ってしまう。この関係はアリスも知るところとなり、はげしい嫉妬を招く。さらに悪いことにアリスは妊娠していることがわかり、ジョージは堕胎をすすめるのだけれども、医師が堕胎を拒否する。アリスはジョージに結婚を迫り、アンジェラとの仲を進展させていたジョージは対応に苦慮する。ついにジョージは結婚を承諾したフリをしてアリスを湖畔に誘い、いっしょにボートに乗り、泳げない彼女を溺れさせようと計画する。しかしいざというとき、ジョージはアリスの純粋な愛情を知り、殺意を捨てる。ところがボートの上でアリスが立ち上がり、ボートは転覆してアリスは溺死、ジョージだけが助かってしまう。警察の調べでアリスとジョージの関係は暴かれ、ジョージの殺意も白日のもとにさらされて彼は逮捕され、裁判にかけられる。裁判でジョージは故意にボートを転覆させはしていないと証言するが、評決は「有罪」だった。電気椅子を待つジョージのもとにアンジェラが面会に訪れ、ふたりはさいごの別れを交わすのである。

 う〜ん、モテる男の悲劇というか、彼は特にアンジェラが上流階級だから惚れた、というわけでもないわけで、これはもうジョージには(アンジェラにとっても)「運命の出会い」みたいなものだった。ところが結果をみると下層女性労働者のアリスよりもアンジェラを選び、アリスを捨てることで会社でも昇進の道を選ぼうとしたようにみえてしまう。アリスの死にしても、じっさい最後にはジョージはアンジェラよりもアリスを選んでいるのだろうけれども、あらわれた残酷な結果は逆のことを示している。まあアリスをボートに誘ったジョージはたしかに有罪だし、ジョージを脅迫まがいに脅したアリスもそのことでは責められるだろう。しかし、若さの過ちというにはあまりに残酷な結末である。

 タイトルの「陽のあたる場所」というのは、ジョージが夢みた彼のゴール地点なのだろうか。太陽のようなアンジェラといっしょになり、伯父のおかげもあって会社でも出世する。しかし、アリスといっしょになった場合での、きっとつつましいだろう生活もまた、それはそれで「陽のあたる場所」たり得たのではないだろうか。つまりはジョージがたどり着けなかった場所、それこそが「陽のあたる場所」なのだろう。伯父の会社に就職するまでのジョージは母子家庭育ちで、母は宗教の伝道活動に熱心。ジョージは学歴もなく、大会社での出世など見込めるようなスタンスにはなかったわけだし、彼の手に届かなかった「陽のあたる場所」はほんとうにまぶしい。

 この作品でのエリザベス・テイラーはこのとき19歳で、ほんとうに太陽のように美しい。まさに「ハリウッド」を代表した女優であったことが納得出来る。そして繊細な演技をみせるモンゴメリー・クリフトもいい。この作品での彼の表情をみていると、なんだかトム・クルーズに似ているところがあるんじゃないだろうか、などと思ってしまうのだけれども。
 ジョージ・スティーヴンスの演出は手堅く、特に伯父の家でのパーティーの「上流社会」の描写に冴えをみせ(衣裳はイーディス・ヘッド)、それがアリスの部屋との対比になってもいる。全体の進行にもよどみもなく、見ごたえのある作品だった。名セリフもいろいろとある作品で、エリザベス・テイラーがさいごにモンゴメリー・クリフトにいう「わたしたち、お別れをいうために出会ったのね」なんていうのも泣かせられる。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160502

■ 2016-05-01(Sun)

 わたしがしごとから戻ってドアを開けると、ニェネントが待ちかねたように外にとび出すというのが、このところ毎日のことになっているのだけれども、いつもは部屋の前の通路のところを行ったり来たりするだけだったのに、今日はその通路に沿った柵のすき間からその外に抜け出してしまって、ちょっとあせった。以前はその柵のすき間がニェネントのウェストよりも細くってニェネントも外にとび出せなかったはずだけれども、どうやらダイエットの成果あって、柵のすき間もクリア出来るようになってしまったようだ。しかしそこからニェネントが変なところに行ってしまうと、わたしが追いつくことが出来なくなってしまう。しばらく様子をみていても戻ってくるようなそぶりをみせないので困った。しょうがないからグルッと外に出て、建物を迂回してニェネントのいるところに行くと、そのグルッとまわり込んだあいだにニェネントは見えないところに行ってしまっていた。あせった。しかしそこから開けてあるわたしの部屋のドアをみると、そこにニェネントがいて部屋の中に入っていくところだった。とにかくはひと安心。

 朝食を終え、わたしがパソコンに向かっていると、外からネコがケンカをしているような声が聞こえてきた。わたしのそばにいたニェネントもビクッと反応する。「近くにいるのだろうか」とドアを開けて外をみると、ドアの前の通路の外側、ちょうど今日ニェネントがとび出してしまったところで、二匹のネコが向き合っていて、一触即発というところだった。一匹は先日ウチのベランダを見上げていたブチでブスの野良で、もう一匹は見たことのない黒ネコ。わたしがドアを開けたので二匹ともふっとんで逃げて行ってしまったけれども、あれはきっと縄張り争いだったんだろう。このあたりは今はブチのブスネコの縄張りで、そこに黒ネコが侵入してきたのではないかな。それとも、二匹ともそれぞれニェネントの匂いに反応して、「どんなネコがいるのか」と探っていて、鉢合わせしたのかもしれない。黒ネコの方が飼いネコかどうかはわからないけれども、あたりにいろんなネコがいるというのは楽しい。野良ネコというか、地域ネコがいるということが、わたしには「豊かさ」の指標であるように思えたりする。ま、ニェネントのお母さんも地域ネコだったわけだし。

 ニェネントはダイエットに成功してほっそりしてしまったのだけれども(ちょっと細くなりすぎた気もするので、今日から食事の量を少し増やしてあげた)、わたしはすっかりメタボである。まずはもうちょっと間食とかを減らさないといけない。ついつい、買い物に行くと毎回おつまみ類を買ってしまう。まずはこういうところをあらためないと。
 今日は午前中にスーパーに買い物に行って、焼き鳥とか買って来たので、夕食のおかずは焼き鳥である。居酒屋で酒を飲みながら食べる焼き鳥の方がおいしいのだけれども、これはこれで食が進んだ。

 今日から五月だけれども、先日書いたように、またいろいろと映画を録画しなければならないようなので、今日はがんばって映画を二本観た。

 



 

[]「プロミスト・ランド」(2012) ガス・ヴァン・サント:監督 「プロミスト・ランド」(2012)   ガス・ヴァン・サント:監督を含むブックマーク

 主演のマット・ディモンが共演したジョン・クラシンスキーという人と共に脚本を書き、ほんとうは自分で監督するつもりだったらしい作品。スケジュールの都合で、過去にタッグを組んでいるガス・ヴァン・サントに監督してもらうことになったということ。テーマとしてシェールガスの問題が取り上げられていて、ちょうどこのあたりのことには興味を持っていただけに、グッドタイミングな鑑賞になった。

 この作品ではシェールガス掘削による環境破壊のことも描かれるけれども、何よりも問題にされるのは<企業悪>というか、そんな組織の一員として生きることを問うような作品。
 スティーヴ(マット・ディモン)はエネルギー会社の社員として、同じ社員のスー(フランシス・マクドーマンド)と共にアメリカの片田舎の貧しい地域を訪れ、地元の牧場主らから掘削権を買い上げる交渉をする。この地域はシェールガスの埋蔵量が豊富なのである。さいしょ一軒ずつ巡回して「バラ色の未来」を説いてまわっていたスティーヴは、住民集会を開いて一気に全体の契約を得ようとするのだけれども、その集会でひとりの老教師が隠された問題点を指摘するし、ダスティンという環境保護団体の活動家というのも町にやって来て、ほかの掘削地(その活動家の地元)で起きた事例として草原に倒れた牛の写真を見せ、危険性を訴える。町民には一気にスティーヴらへの不信感が拡がる。会社での評価を上げて出世をめざすスティーヴは必死に打開策を検討するのだけれども、そんなとき本社から、ダスティンの虚偽の証拠が送られてくる。「勝った」と思ったスティーヴだけれども、実はそこにはウラがあり、自分らが会社にとっては「駒」にすぎなかったことを痛感する。

 明るい空の青や牧場の緑が印象的で、そこからちょっと日陰に入ると人物は陰になって黒いシルエットになってしまうのとか、光の描き方としてみごとな印象で、こういう描き方はアメリカ映画ではなかなかみられない描写だろうと思う。そういう、ハリウッド的な作画術とは距離を置いたガス・ヴァン・サントの演出というのを感じ取れる。早送りで見せる青い空の雲の動きも、どこか心に残るものである。

 ただ、ストーリー展開として、このラストのスティーヴの決断というのはそこまでに意外なものでもなく、今のわたしは思い出せないけれども、アメリカ映画にもこういう展開をみせる前例というのは複数見つかるのではないだろうか。「甘い」といってしまうと違うかもしれないけれども、どこか違和感が残るという気分。
 これはひょっとしたら、シェールガス掘削をめぐる問題への視点が「環境破壊」という一面から描いているだけ、ということから来るのかもしれない。わたしもシェールガスの未来には興味を持つものだけれども、実はそんな問題点を認識しているわけではない。もちろん一本の劇映画というものがひとつの問題にありとあらゆるアプローチをするなどということはあり得ないだろうけれども、この作品でのアプローチには、どこか「浅い」という感想を持ってしまうのである。そのことが、この作品のラストを「甘い」と思わせる、ひとつの要因にもなっているのかもしれない。
 そう、先日「ウースター・グループ」の一員として来日して、(コーラスだけれども)その歌声を聴かせてくれたフランシス・マクドーマンドが、この映画では下手な歌を聴かせてくれるというのがおかしかった。



 

[]「山の音」(1954) 川端康成:原作 成瀬巳喜男:監督 「山の音」(1954)   川端康成:原作 成瀬巳喜男:監督を含むブックマーク

 わたしはこの作品のこと、原作小説も映画もよく知らないでいたのだけれども、原作はある意味で川端康成の最高傑作という評価もあるらしい。しかし、データを調べていると面白いのは、この映画が公開されたのは1954年の一月のことであるのに、原作小説が刊行されたのは同じ1954年の四月と、映画の方が先になっているのである。これはこの小説が1949年から順次文芸誌に発表されていた長篇作品ということから、この映画作品はその一部を映画化したものと考えられるものだろう。じっさい、さいしょに1949年に発表された章のタイトルが「山の音」で、その後に発表されたものはそれぞれ異なるタイトルになっていることから、そのさいしょの章の部分を映画化したというのが、この成瀬巳喜男監督の「山の音」なのだろう(こんなことは原作を読めばすぐにわかることだけれども)。この脚本は水木洋子で、成瀬監督は翌年にまた水木と組んで、あの林芙美子の「浮雲」を映画化することになる。その前の作品である。

 主人公の信吾(山村聰)は妻と息子夫婦、修一(上原謙)と菊子(原節子)と共に鎌倉に住んでいる。信吾は東京の会社の重役で、同じ会社に修一も勤めている。朝はふたりいっしょに通勤しているけれども、修一は実は外に愛人がいるし、毎夜帰宅時間は遅い。そんな修一の行状は家族皆の知るところであり、信吾も心を痛めている。その信吾の心痛は嫁の菊子への同情となり、その気もちは同情をこえた複雑なものになるのであるし、菊子の方でもそんな信吾の配慮に心動かされているのである。ヤバい。
 ついには信吾は会社で修一の愛人を知っているという女事務員を説得し、その修一の愛人に会いに行くこともする。また、菊子は体調を崩し、それが実は妊娠していたためなのだけれども、彼女は堕胎してしまうのである。

 ‥‥どうしても、観ているとこの信吾という主人公が作者の川端康成の自己投影としか思えないところがあり、わたしは川端康成というのはそういうところがヤなのだけれども、実のところ、「いい気になっちゃって‥‥」と思ってしまうところがある。いってみれば、信吾は菊子が幸福になれるように願っていて、そのような行動もするのだけれども、修一の行状を変えることは出来ないし、逆に菊子の信吾への依頼心、依存を強めるようなところがあり、そのことが問題の解決を遅らせることになってはしないかと思ってしまうし、時に、善人ぶって菊子のことを心配する信吾の姿は、これは偽善者ではないかと思ってしまったりもする。
 けっきょくラストには信吾夫婦は信州へ転居して、二世帯同居というかたちを解消することになるのだけれども、ほんとうはこういうことはもっと早くにやっておくべきだったようにも思ってしまう。問題の根源には、この「二世帯同居」ということがあったのは明らかだろう。

 演出はやはりすばらしいものがあって、成瀬監督の場合はその移動するカメラに特徴があるだろうか。どの場面もいいのだけれども、ラストの信吾と菊子が公園をふたりで歩くシーンのカメラはすばらしい。撮影は玉井一夫という人で、たいていの成瀬監督の撮影を担当しておられる。それから照明の工夫ということもあって、これは鎌倉の台風の夜、停電のあとにろうそくの灯だけで展開するシーンがあるのだけれども、ここでのろうそくの光のとらえ方、移動の仕方など、目をみはるものがある。
 あと、原節子の魅力というのもあるのだけれども、ただひまわりのような笑顔をみせているというのではなく、鼻血を出したシーンで鼻にちり紙をあて、目線を横に泳がせるシーンでのその妖艶さというか、原節子にはこういう魅力もあったのだと再認識させられたものである。それからなぜか、信吾を修一の愛人宅へ案内することになる事務員の、どこかギスギスした感じが、なぜかしら心に焼き付いてしまった。




 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20160501
   3234619