ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-07-31(Sun)

 今日はしごとは非番で休みなのだけれども、五時半ごろに目が覚めてしまった。普段なら「もういちど寝よう」とそのままベッドから動かないのだけれども、この日はもう起きてしまうことにした。しばらくテレビなど見てぼんやりしていると、六時になって外で「ドーン」という音がひびいた。そう、今日はこの地の祭りの最終日で、六時から「川渡御」が行なわれる。その合図花火の音だった。
 わたしもこの町に来て十年からになるけれども、この「川渡御」というのは今まで見たことがない。せっかくこの時間に目覚めたことだし、いちどぐらいは見ておいてもいいだろうと思い、のんびりと出かけてみることにした。

 朝食をすませてから、七時ごろに家を出て歩く。空は晴天だし、まだ朝早いので暑さも感じない。いい散歩である。同じ方向に歩いて行く人が何人かいて、きっとその人たちも川渡御を見に行かれるのだろう。
 川渡御の行なわれる場所に近づくと、川沿いに大ぜいの人が集まっていた。まだ本番までには少し時間があるようだ。人の集まった先の橋の上にクレーン車が置かれていて、その近くに神輿がある。つまり、クレーンで神輿を持ち上げて川岸に降ろすのである。昔は河原の土手を越えて人が担いだまま川に突入したのだろうけれども、今は護岸工事されてしまっているので、ダイレクトには川に行けないのである。ちょっと残念な演出ではあるけれども、無理なものは無理である。

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 わたしが行ったのはちょうどいい時間だったようで、すぐに神輿がクレーンで吊り下げられ始め、川の中へと降ろされて行く。下で若衆らが待ち構えていて、降ろされた神輿に手をかけて神輿にかけられていたワイヤーが外される。本番開始。

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 まあ、壮大な水遊びをやらかしているという感じではあるけれども、納涼感というものはある。都会では人が入れるような川もないだろうから、地方色にあふれた夏のイヴェント、というところだろうか。あまり長居しないで家へ帰ることにした。

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 今日は東京都知事選挙の投票日。ネットを閲覧していると、もう結果はわかってしまっている。今回の選挙戦では革新側にもいろいろと問題があったし、勝てるわけのない選挙だった。わたしは都民ではないとはいえ、日本の首都、最大の人口を抱える都市の長が、保守というよりももっと右寄りの存在になってしまったということは、日本の今後に大きな影響を与えることになるだろうし、この国がさらに右寄りにシフトしてしまうだろうという危惧がある。


 

[]「シャッター アイランド」(2010) デニス・ルヘイン:原作 マーティン・スコセッシ:監督 「シャッター アイランド」(2010)   デニス・ルヘイン:原作 マーティン・スコセッシ:監督を含むブックマーク

 「これは初めて観る作品だろう」と思っていたのだけれども、この作品もまた過去に観たことのある作品だった。これっぽっちも記憶していない。

 原作はデニス・ルヘインという人で、この人は先日観た「ミスティック・リバー」の原作も書いた人らしい。この二作に共通するある種の救いのなさは、「イヤな感じのミステリー(イヤミス)」とも分類される作品を書かれる作家ということになるのか。わたしは好きだし、邦訳もかなりの数出ているようで、地元の図書館にも数冊在庫している。こんど読んでみようかとも思う。

  この作品については、「この映画のラストはまだ見ていない人には決して話さないでください」ということらしいのだけれども、そういうルールは破ってしまうと思う。
 この「シャッター アイランド」の主役はレオナルド・ディカプリオ演じる連邦保安官のテディで、終始彼の視点のみで描かれた、つまりは一人称映画。テディは相棒のチャック(マーク・ラファロ)と共に、フェリーでボストン沖にある孤島へと向かうところから映画は始まる。その孤島には精神病院があり、精神異常の犯罪者が強制収容されていて、まるでアルカトラズ島のように脱出不可能とされている。その病院からレイチェルという女性がこつ然と姿を消したという。その捜査のためにテディとチャックは赴任して来たのであるという。これがまず、どうも腑に落ちない。そんな、連邦保安官が二人も赴任するほどの事件なのか? 単に島内を探しまわって、あとはフェリーに乗って島から脱出した可能性を調べ、それでわからなければ「彼女は脱走したけれども海で溺死した」という判断でもいいのではないのか? 
 じっさいに病院長のコーリー医師(ベン・キングスレー)はそこまで大騒ぎしていなくって冷静ではあるし、しかもなんと、翌日には、行方不明だったレイチェルは戻って来ているのである。あれだけ脱出不可能と思われた病棟からどうやっていなくなり、どこに潜んでいたのか? そういう説明はなされぬまま、ただ島を襲うハリケーンのためにテディらは島から出られないのである。まるでつじつまが合わない展開である。この展開を説明するのはただひとつ、テディ自身がその精神病院の患者であり、ストーリーのほとんどはそんなテディの妄想なのだろうと。それしかない。そう思って観始めると、とにかくはすっきりする。テディは死んだ妻の幻影をひんぱんに見ることになるし、その妻を焼死させた放火魔のアンドルーという男がこの島に収容されているという。レイチェルが残した書き置き「4の法則 誰が67番目?」の「4の法則」のことはわからないけれども、収容患者数66人というその病院で、67番目の患者とはまさにテディその人のことなのではないかと。そうやって観て行くとたいていのことは説明がつくのだけれども、ではテディの相棒のチャックとは誰なのか? というのがわたしのわからなかったところ。妄想というにはリアルな存在のようだし、なぜこつ然と姿を消してしまったのか、このあたりをどう解釈するかというのはわからなかった。
 しかし終盤にまさにすべてはテディの妄想だったと明かされ、わたしの推測したように彼は病院の患者だったことがわかる。そして、チャックの正体もそこで判明することになる。‥‥そうだったのか。なるほどね。

 しかし、けっきょくこの映画って、「どこで謎がわかるか」という謎解き映画なのだろうか。ちょっとそのあたり、「謎」を越えて観るものを引きつける力には欠けていたようには思う。

 ラストにそのテディのことばとして、「モンスターとして生きつづけるか、善人として死ぬか」ということが語られるのだけれども、この部分、昨日観た「その土曜日、7時58分」のラストのことを思い浮かべてしまった。はたして錯誤と罪の中で生きた人間は、生き伸びた方がいいのか、そのまま死んでしまった方がいいのか?

 この作品、映像として思い浮かべたのは「薔薇の名前」だった。この精神病院はまるで「薔薇の名前」に登場する修道院のようだし、重症患者が収容されているという「C病棟」の内部や、手術室があるという灯台の内部は、まさに「薔薇の名前」でのあの図書館を思わせられる「迷宮」だった。ベン・キングスレーの医師はどこか「薔薇の名前」でのベルナール・ギー(F・マーリー・エイブラム)を思わせる風貌だったし、「薔薇の名前」での図書館長ホルヘを思わせる存在として、この「シャッター アイランド」にはマックス・フォン・シドーが出演していたではないか。
 そう、音楽にペンデレツキやリゲティ、そしてジョン・ケージなどの現代音楽が多数使われていた。イーノの曲もあったけれども、一曲、ティム・ホジキンソンの曲も使われていたようなのにおどろいた。まあどこで使われたどの曲なのかはまるでわからないのだけれども、こういう選曲もロビー・ロバートソンによるものなのか。

 

[]二〇一六年七月のおさらい 二〇一六年七月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●アパラタス3周年 アップデイトダンスNo.37「夜」la nuit 勅使河原三郎:演出・照明 佐東利穂子・勅使河原三郎:出演 @荻窪 カラス・アパラタス B2ホール

映画:
●「マジカル・ガール」カルロス・ベルムト:脚本・監督
●「第一アパート」(1992) 井土紀州:脚本 井土紀州+吉岡文平:監督
●「百年の絶唱」(1998) 井土紀州:脚本・監督

美術:
●「松本零士展 ―夢の彼方に―」@筑西市・しもだて美術館

読書:
●「才智あふるる卿士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 前篇」ミゲル・デ・セルバンテス:著 会田由:訳
●「アメリカの没落」アレン・ギンズバーグ:著 富山英俊:訳
●「動物という文化」日高敏隆:著

DVD/ヴィデオ:
●「疑惑の影」(1943) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「三人の名付親」(1948) ジョン・フォード:監督
●「波止場」(1954) エリア・カザン:監督
●「騎兵隊」(1959) ジョン・フォード:監督
●「シャレード」(1963) スタンリー・ドーネン:監督
●「シャイアン」(1964) ジョン・フォード:監督
●「ハズバンズ」(1970) ジョン・カサヴェテス:脚本・監督
●「ジョン・カーペンターの要塞警察」(1976) ジョン・カーペンター:音楽・脚本・編集・監督
●「アルカトラズからの脱出」(1979) ドン・シーゲル:監督
●「ペイルライダー」(1985) ブルース・サーティース:撮影 クリント・イーストウッド:監督
●「キリング・ゾーイ」(1993) ロジャー・エイヴァリー:脚本・監督
●「クリムゾン・リバー」(2000) マチュー・カソヴィッツ:監督
●「インソムニア」(2002) クリストファー・ノーラン:監督
●「ミスティック・リバー」(2003) デニス・ルヘイン:原作 ブライアン・ヘルゲランド:脚本 トム・スターン:撮影 クリント・イーストウッド:音楽・監督
●「ブラザーズ・グリム」(2005) テリー・ギリアム:監督
●「その土曜日、7時58分」(2007) シドニー・ルメット:監督
●「Dr.パルナサスの鏡」(2009) テリー・ギリアム:脚本・監督
●「シャッター アイランド」(2010) デニス・ルヘイン:原作 マーティン・スコセッシ:監督
●「アンナ・カレーニナ」(2012) レフ・トルストイ:原作 トム・ストッパード:脚本 ジョー・ライト:監督
●「マジック・イン・ムーンライト」(2014) ウッディ・アレン:脚本・監督
●「チャイルド44 森に消えた子供たち」(2015) トム・ロブ・スミス:原作 ダニエル・エスピノーサ:監督
●「クーデター」(2015) ドリュー・ドゥードル:製作・脚本 ジョン・エリック・ドゥードル:脚本・監督
●「祇園囃子」(1953) 川口松太郎:原作 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督
●「グラマ島の誘惑」(1959) 飯沢匡:原作 川島雄三:脚本・監督
●「肉弾」(1968) 岡本喜八:監督
●「復讐するは我にあり」(1979) 佐木隆三:原作 今村昌平:監督
●「復讐 運命の訪問者」(1997) 高橋洋:脚本 黒沢清:監督
●「復讐 消えない傷痕」(1997) 黒沢清:脚本・監督
●「苦役列車」(2012) 西村賢太:原作 いまおかしんじ:脚本 山下敦弘:監督
●「さよなら渓谷」(2013) 吉田修一:原作 大森立嗣:監督
●「私の男」(2014) 桜庭一樹:原作 熊切和嘉:監督
●「ロマンス」(2015) タナダユキ:脚本・監督

 

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■ 2016-07-30(Sat)

 昨日書いたように、今夜は東京で水族館劇場の三重公演の報告会のようなものが行なわれる。行ってみたいという気もちもあったのだけれども、「外は暑そうだしな」などと考え、けっきょくは行かないことにしてしまった。
 今、この町では夏祭りのまっさいちゅうで、駅の北側を中心に神輿が繰り出されてにぎやかなことになる。三時頃にはウチの前も神楽の音がひびき、この町内の神輿がゆっくりと引き回されて行くのを見ることができた。このあたりにもきっと町内会とかあるのだろうけれども、そういう「町内会費を払ってくれ」とか「回覧板を回してくれ」とかいう人がやってくることもない。まあウチはちょっといわく付きのアパートと認知されているのだろう、それで町内会からはオミットされてるんじゃないだろうか、とか考えてみる。

 ちょうど炊いてあったご飯も食べ切ってしまったし、あたらしく炊くのもちょっとめんどうで、せっかくのお祭りなのだからまたスーパーでお弁当でも買ってこよう、ついでに祭りの様子もちょっと見てこよう、などという考えで、日の暮れはじめた頃に出かけてみた。
 いつもは車の通りもほとんどない、この南側の駅前の道路にも車が連なっていて、祭りに車できた人たちが駅の周辺の駐車場に車を置いて、それで祭りの会場に歩いて行くんだろうと想像する。じっさい、駅の南口から北口に抜ける歩道橋には、ほんとうに大ぜいの人の姿がみえる。わたしもその歩道橋に上がって北口の方へ行ってみる。

 時刻は七時ちょっとすぎ。ちょうど神輿の渡御のさいちゅうで、駅の正面のあたりで神輿が上下に動いているのがみえる。あたりは人があふれていて、この町の人口の三分の一ぐらいの人が来てるんじゃないかという感じ。ちょっと年配の男性らは立派なカメラを持っている人がけっこういて、神輿にカメラを向けてシャッターを切っている。若い夫婦の人たちはそろって浴衣を着ていたりもして、まだ幼いような子供たちがそんなお父さんお母さんのまわりをぐるぐるまわっている。もっと若い人たちはいかにも「祭り」だね、という格好で、ふたりとか五、六人とかでグループをつくっている。中年の男女はだいたい普段着だけれども、法被とかを着ている人は祭りの関係者なのだろうか。わたしは人の群れの中までは入って行かなかったけれども、そっちへ行けばたくさんの屋台とかが出ていることだろう。

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 お祭りの方はこのあたりで切り上げて、また北口の方へ戻ってスーパーまで行ってみる。お弁当コーナーへ行ってみると、まだ時間がちょっと早いので半額までには値引きしていないものがほとんど。この日は土用の丑の日でもあるので、「うなぎ」関係のお弁当も多く並んでいる。「うなぎごはんとうどん」のセット弁当が半額になっていて、「やっぱりうなぎだね」と、コレを買う。それと普通の弁当とパンを買い、こっちは明日用。「うなぎごはんとうどん」は量的に少ないのだけれども、いただいたとうもろこしも食べてちょうどいい分量。うなぎとうどんというのも意外と合うものだ。久しぶりのうなぎ、めちゃ安かったけれどもそれなりにおいしかった。


 

[]「その土曜日、7時58分」(2007) シドニー・ルメット:監督 「その土曜日、7時58分」(2007)   シドニー・ルメット:監督を含むブックマーク

 なんと、この日記で検索すると、この作品を観るのはこれで三回目ということになる。それでも例によって、わたしの記憶にはこれっぽっちの断片も残っていなかった。

 けっきょく、観終わっての感想もまた、過去に観たときの感想と同じようなものだし、あらためて同じようなことを書こうとは思わない。ただ、観始めて冒頭のシーンはかなりハードなセックス・シーンだったのだけれども、まあ男の方はフィリップ・シーモア・ホフマンだということはわあっていたのだけれども、女優の方の顔がちょっとみえたとき、「あれ? マリサ・トメイではないのか?」と思ったのだけれども、これはどうみてもマリサ・トメイなので、ちょっとおどろいてしまった。表面的にはフィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークの演技ばかりが目立つ作品だけれども、このマリサ・トメイの演技もまた、すばらしいものではあったと思う。こういうことはわたしは書かない人なんだけれども、ひとこと、「すごい美乳」だと思った。

 でもやはりこの映画の結末、フィリップ・シーモア・ホフマンはあのまま回復してもなにひとつとしていいことはないわけで、ああやって死ぬことが出来たというのはやはり、これは「慈悲」によるものではないのかと思ってしまう。悪魔はとうに、「お前は死んでいる」と知っていたのだろう。


 

[]「祇園囃子」(1953) 川口松太郎:原作 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督 「祇園囃子」(1953)   川口松太郎:原作 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督を含むブックマーク

 この作品は廉価版のDVDを買って持っているのだけれども、まだ観ないでいる。きっとテレビ放映の方が映像がきれいだろうと思って、こうやって録画したものを観る。

 溝口監督としては「西鶴一代女」、「雨月物語」につづいて撮った作品で、このあとが「山椒大夫」となる。おそらくは彼のキャリアの中でも絶好調だった頃の作品、といえるのではないだろうか。「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒大夫」の三本は皆時代ものだけれども、この「祇園囃子」は現代の京都、祇園の花街の芸妓を主人公に撮った作品で、主演は木暮実千代と若尾文子。ただ、「現代」とはいっても、その客が背広姿のサラリーマンだというところで「現代」が舞台なのだとは思うわけだけれども、このようなシチュエーションというのは江戸時代でも同じような設定で撮れそうだし、舞台となる祇園の町などどこも、出てくる風景がみんな「現代」でなくってもそのまま通用しそうである。
 溝口監督のもっと古い作品、「祇園の姉妹」というのをずいぶんと昔に観た記憶がちょっと残っていて、その「祇園の姉妹」とこの「祇園囃子」には、共通したところがあるのではないかと思う。芸妓という立場から、男に人格を無視するような虐げを受ける女性の悲哀。たしか「祇園の姉妹」では、そのラストの方で主演の山田五十鈴が男社会への呪詛を吐くような場面があったのではないかと思うのだけれども、この「祇園囃子」では、犠牲になった木暮実千代が若尾文子に対して「わたしがあなたを守って行くから」というようなことを語って終りになる。

 しかし、「芸妓」というものはあくまでも「芸」をみせる存在で、いわゆる「芸は売っても体は売らぬ」というようなものではなかったかと思うのだけれども、この作品ではそのあたりはあいまいで、決まった「だんな」には尽くすのだけれども、その「だんな」というものを外から押し付けられてしまう、というあたりにこの映画の「悲劇」があるようだ。
 木暮実千代の演じる美代春は「だんな」を持たずにやって行きたいという気概があるのだけれども、お茶屋の女将(浪花千枝子)に東京の役所の課長を押し付けられるのである。芸妓になりたての若尾文子は栄子から美代栄の名になるけれども、やはり意に染まぬ男楠田(これがさっきの東京の役所課長からの受注を狙っていて、そのために花街を利用している)を「だんな」にと押し付けられ、楠田と二人きりになった部屋で男の唇を噛み切るという事件を起こす。美代栄の事件を穏便に済ますためにも美代春はだんなを押し付けられ、それをあくまでも拒むと、お茶屋の女将の手配でどこの座敷からも声がかからなくなってしまうのである。芸妓として生きるためには、美代春は女将の意向を汲まざるを得ず、手配された役所課長の待つ旅館へ行くのである。美代栄はそんな美代春をなじりはするけれども和解、美代春と美代栄、ふたりで芸妓として生きて行く決意をするのである。

 この映画に登場する男たちは、皆醜い。キザでむっつりスケベの役所課長から受注を得るために芸妓の存在を利用しようとする楠田、そしてその部下たち。そんな醜い男たちを取り持つのがお茶屋の女将で、この映画での力関係ははっきりしている。美代栄の父もまた、零落して美代栄の保証人になることさえ拒むのに、ちょっと美代栄が売れそうになると借金を申し込んでくるという厚かましさ。
 冒頭に「外国では日本といえば<フジヤマ、ゲイシャガール>といわれるほど、芸者の存在は有名になった」と語られるけれども、その人格は無視されようとしている。

 しかしこの作品の見どころはやはり宮川一夫の撮影でもあり、ここでは花街の路地を実にみごとに映像化している。横移動するカメラ、そして路地の奥行きをみせる縦の構図の視点。路地を歩いて行く美代栄を追って行くカメラがふっとその向きを変えると、そこにまた別の路地があり、その奥で誰かが花火をやっているシーンなど、夢のような美しさがある。そして、薄地の暖簾のかかったりしている室内のシーンなどもまた、すばらしいものである。
 そう、それと、木暮実千代の食べるそうめんがおいしそうだった。


 

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■ 2016-07-29(Fri)

 夢をみた。わたしは水族館劇場の公演を観に来ている。それは現実の水族館劇場とはまるでちがうものだけれども、ただ夢のなかの認識では「わたしは水族館劇場の舞台を観ている」と思っている。夢のなかでこの舞台は二度目の観劇で、この日が公演の最終日のようだ。グラウンドのような舞台スペースを囲んで、その周囲三方にやぐらが組まれていて、それが観客席になっている。一階席と二階席とがあるようだ。席はけっこう空いていて、わたしは舞台上手の二階席に寝転がって観ている。舞台ではコントのような出し物がつづいている。そのうちにわたしは起き上がって、少し中の方の席に移動してすわって観ていると、先程までわたしが寝て観ていた場所はもう、客で埋まってしまっていた。近くにいたBさんに「今日が千秋楽だよね」と聞くと、「そう、楽日」という答えが返ってくる。
 いつしか、わたしのそばにCさんがいて、わたしとCさんとは知らない魅力的な黒い服の女性と話をしている。わたしは、「Cさんがこの女性と親しくなれば、わたしもまたこの女性と会えることになるだろう」と思っているのだが、彼女は予想外にCさんに馴れ馴れしい接し方をしている。舞台では、Bさんもその製作を手伝ったらしい「自動ギター」を使ったライヴが行なわれ、そのあとは休憩になる。
 わたしのいる場所からちょっと首を動かせば、わたしの住まいの部屋を見ることができる。わたしは仕事場に上着と部屋の鍵を忘れて来てしまったので、誰かわたしの家族が部屋に戻っていれば自分も部屋に入れるのだが、と考えている。外から見たわたしの部屋は、中に電気がつけられているぐらいに明るく見えるのだけれども、外も同じぐらいの明るさなので、はたして部屋に誰かがいて電気をつけているのかどうかはわからない。わたしはこの公演の場所からほんとうにすぐ近くに自分の住まいがあり、すぐに帰れるということを自慢したい気分があるようである。
 わたしの家の右側にある大きな工場から黒い煙がモクモクとたちのぼる。そこは製紙工場で、いつも昼と夜の六時からの二度操業を始め、その時間にはこうやって煙があがるのである。時計をみるとまさに、ちょうど六時になったところだった。その左側のアパート(わたしの住まいのアパートなのかもしれない)からも、ゴミを焼く白い煙がたちのぼる(この煙がたちのぼる夢のシーンはとてもリアルで、かなりはっきりと記憶に焼き付くものだった)。
 そのあとはわたしはいろいろな人と「水族館劇場」の舞台についての話をしている。この公演を貶す人もいること、「ひどい」という人もいることなどを話しているのだけれども、「改憲されたらこういう公演も出来なくなってしまうのだ」という話も出てくる。

 水族館劇場はこの六月に三重の方で公演を行い、今年は関東(東京)での公演はないのだけれども、来年には東京公演も決まっているようである。そして明日の夜、東京でその三重公演の報告会のようなものが行なわれる。三重公演のダイジェスト映像も上映されるようで、行ってみようかとは思っているのだけれども、どうするかまだ決めていない。

 しごと先でとうもろこしをいっぱいいただいてしまった。圧力鍋で蒸して食べれば手軽においしく食べることが出来、夏っぽい味覚を楽しめる。たくさんあって食べ切れないので冷凍保存することにしたけれども、すでにいろんな食材で満杯状態だった冷凍庫の中はぎっしり、すき間なくいろんなものが詰まってしまった。

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 今日はまた午睡をいっぱいしてしまい、何もしない一日になってしまった。


 

[]「復讐 消えない傷痕」(1997) 黒沢清:脚本・監督 「復讐 消えない傷痕」(1997)   黒沢清:脚本・監督を含むブックマーク

 先日観た「復讐 運命の訪問者」の続編というか、主人公は同じ安城という名前なのだけれども、物語自体は連続しているわけではなく、その主人公の名前以外はまるで異なるものである。
 ここでの安城は五年前に妻を殺されていて、その復讐を果たそうとしているのである。五年前には刑事だったのを辞め、山本という偽名でゴミ分別の仕事をしながら妻殺しの背後関係を探り、関係者に復讐をつづけている。ここに西という現役の刑事が登場し、彼が追う闇資金ルートの捜査の過程で安城の存在を知ることになる。安城の妻殺しもまた、その闇資金ルートと深い関わりがあったのだ。西は検察庁の資料を渡して、安城に協力を申し入れる。
 その闇資金ルートの影の存在に服飾学院の創設者が絡んでいるとみた安城は、自分の住むアパートの二階にその服飾学院の生徒がいることから、彼女に服飾学院の資料を手に入れてくれとたのむ。受けいれた彼女は、交換条件で安城に服飾学院の課題の洋服づくりのモデルになってくれと依頼する。
 この本筋とは別に、安城(山本)と吉岡組というヤクザ組織の組長の吉岡との交流(?)というものが描かれる。安城は組の構成員ではないのだけれども、いつも組の事務所に遊びに行っていて、事務所で吉岡と将棋をやったり、組員らとドライブしたりの繰り返し。こちらの話はどうやら「復讐」とはまるで関係がないようであるが、吉岡はシャブ中なのか、時に理性的な行動が出来なくなるようである。時にキレて、自分の組員だろうがぶっ殺してしまうのである。そんな吉岡はいつも、組の再興のため安城に組に入るように誘っている。
 本筋に戻って、ついに妻殺しの黒幕にたどり着いた安城は、その男の住まいに乱入する。病床にある男はすべては自分の指示であり、ほんとうは安城の方を殺そうとしたのだと告白する。いちどは男に手をかけようとした安城だが、そのときは病床の老人を始末することが出来ないで引き返す。
 またもキレてしまった吉岡はライバルの組に殴り込みに行ってしまい、安城に闇資金ルートの黒幕を知らされた西もまた、川縁で鎖で縛られた死体になっている。安城はもういちど黒幕宅に行き、今度こそは復讐を果たすのである。

 安城と、そしてアパートの二階の女の子以外、登場人物はことごとく死んでしまうという、殺伐とした作品。例によって殺人シーンは即物的な演出だし、皆ロングの画面で撮られている。とにかくは安城の復讐譚と、ヤクザの吉岡とのからみとの不整合というか、かみ合わない展開が異様な作品ではあるけれども、その結果としてか、奇妙なユーモアを感じさせる作品にはなっていると思う。それはまた、主人公安城の、乾いた空虚さをも思わせるものではある。


 

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■ 2016-07-28(Thu)

 しごとから部屋に戻ると、アパート通路の突き当たりに一匹のネコが丸くなっていた。例の野良ネコである。こいつが、ニェネントのことを狙っているのである。今日もまたこうやって、ニェネントが出て来ないものかと待ち伏せているのだろう。部屋に入ってカメラを持ち出し、撮影してやろうと近づいても、なかなかに逃げ出さない。とうとうさいごには柵の外に逃げていったけれども、やはりそのしっぽは奇妙に折れ曲がってしまっている。
 ふだんならばそんな野良ネコにも「生きて行くのも大変だろうね」みたいな視線を持っていただろうし、それなりにシンパシーを抱いていたかもしれない。でも、今はちがう。「おまえのせいでニェネントは自由に外で遊ぶことが出来なくなってしまったじゃないか!」である。勝手なものではあるけれども、この野良くんには、出来るならテリトリーを変えて、このエリアからはなれたところでやっていってほしいものである。

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 昼前に図書館へ行き、昨日見つけていた横塚晃一著「母よ!殺すな」と、「哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡」という本とを借りて来た。


 

[]「肉弾」(1968) 岡本喜八:監督 「肉弾」(1968)   岡本喜八:監督を含むブックマーク

 この作品は公開当時に映画館で観ている。わたしは高校生だった。なんとなく、大谷直子=「うさぎさん」というぼんやりとした記憶は残っていた。こういうところ、この十年ほどの消えてしまった記憶よりもずっとしっかりとした記憶である。

 1945年の夏。ナレーション(仲代達矢)によって「あいつ」と呼ばれる主人公(寺田農)は、軍隊の訓練のなかでは落伍気味の人物ではある。一日の休日を得た「あいつ」は古本屋へ行って「すぐには読み終わらない長い本、退屈な本はイヤだけれども、そんなに面白い本でなくてもいい」と注文を出し、両手のない古本屋のオヤジ(笠智衆)のすすめで、聖書を手に入れる。「あいつ」は遊郭の窓の中にセーラー服のおさげ髪の少女(大谷直子)の姿を見、その遊郭に飛び込む。しかし彼の相手をしてくれたのは「前掛けのおばさん」(春川ますみ)だった。外は土砂降りの雨になっていた。遊郭の「第二あけぼの楼」と大きく書かれた番傘をさして外に飛び出した「あいつ」は、数学の参考書を手にしたセーラー服の彼女と再会する。彼女とその夜を過ごした翌朝、「あいつ」は砂浜の穴の中で対戦車地雷を抱える特攻兵になっていた。そこに来た幼い兄弟と仲良くなり、もんぺのおばさんに、沖縄でアメリカ軍とのはげしい戦闘がつづいていること(負けそうなこと)を聞く。「あいつ」にとって、昨日今日と出会った人たちこそが、この戦争で守らなければならないものだった。しかしその夜にその地を襲う空襲があり、「あいつ」と、昨日会った兄弟の弟以外、セーラー服の子も、みんな死んでしまう。「あいつ」は魚雷にドラム缶をくくりつけ、そのドラム缶の中に番傘をさして三日分の食糧とともに乗り込み、空母を狙う特攻として海を漂流し始める。そして1968年夏、江ノ島の海に、「あいつ」の白骨死体を乗せたドラム缶が浮かんでいた。

 どこか砂浜のある風景の、その近くの町と砂浜、そして海とだけで展開していくということが、この主人公の内面をよくあらわしていて、彼が戦争から守ろうとしたものがストレートに伝わってくる。
 声高に、もっともらしい「反戦」のメッセージを叫んで主張するのではなく、「戦争でのあるひとつの死に方」を提示する。まさに戦争の無意味さからそれのもたらす悲劇、そしてさらに「無意味さ」のダメ出しとしての特攻行為。


 

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■ 2016-07-27(Wed)

 朝、しごとから帰っても、ドアを開けるときには中のニェネントが外に飛び出さないよう、気をつけてドアを開ける。部屋の窓も皆施錠して、ニェネントが自分で開けてしまって外に出て行ったりしないようにする。もう、ニェネントの外出は当面、完全に禁止である。

 昼すぎになって、リヴィングの方のベランダでネコのなく声がした。リヴィングへ行ってみると、くもりガラス越しにベランダにいるネコのシルエットが見えた。そのベランダのネコのそばに寄って、室内のニェネントもネコのことが気にかかるようだ。もう明らかにその野良ネコはニェネントの存在を気にしていて、ニェネントを目当てにしてこの部屋の周辺に現れているようだ。
 窓の上の透明ガラスの部分からベランダを見下ろすと、白と薄茶のブチのやせたネコがいて、わたしの方を見上げるのだった。わたしの存在に気づいてベランダの外へ逃げていったけれども、そのしっぽが奇妙なかたちに歪んでいて、ひとめでそのネコとわかる目印になる。「このネコか」という感じで記憶にとどめるけれども、このあたりの野良ネコもやはりずいぶんと変化、代替わりしているようである。野良ネコの寿命は短いだろうから、以前見た野良の姿を見かけなくなってしまうのは、ちょっと悲しいけれども自然なことかと思うのだけれども、いつもそのあとには新しい野良が出現してくる。そんな新しい野良たちの親はどこにいて、どうやってどこで生まれてくるのだろうか。野良ネコの生涯を思うと少し悲しい気もちになるけれども、野良ネコがまるでいない町というのも、ちょっとばかし寂しいものである。地域ネコの認定されているような町がいい。

 昨日の障害者施設襲撃事件のことから心に傷をつけられたような感覚で、そういう障害者らのことを調べていて、「青い芝の会」という組織の存在を知った。その「青い芝の会」の横塚晃一氏による「母よ!殺すな」という本が地元の図書館にもあるようなので、明日にでも借りてこようと思っている。


 

[]「疑惑の影」(1943) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「疑惑の影」(1943)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 映画の冒頭はニューヨークのアパートの一室から。そこに住むチャーリー(ジョセフ・コットン)は彼を追う二人の男にいら立ち、ニューヨークから逃れることにする。行き先はカリフォルニア郊外に住むチャーリーの姉がいるニュートン家。その家にも同じチャーリー(テレサ・ライト)という名前の長女がいるのだけれども、彼女はかわり映えのしない田舎の生活に飽き飽きしていて、叔父のチャーリーの来訪を心から歓迎する。叔父のチャーリーはしばらくニュートン家に滞在することにするというのだけれども、そんなニュートン家に男二人があらわれ、「典型的なアメリカ家庭」を取材するとしてあれこれと聞いていく。叔父のチャーリーは二人にふいをつかれて写真を撮られ、フィルムを渡せと激怒する。長女のチャーリーは新聞を隠したりする叔父の行動に不信感を持つのだが、取材に来た男のひとりが自分は刑事だとして彼女の前に姿をあらわし、叔父は連続未亡人殺しの容疑者のひとりなのだという。果たして叔父は殺人犯なのか?

 実はストーリー展開としては疑問のある作品なのだけれども、そういうところがないとこの映画が成り立たないのも事実。まずは叔父のチャーリーはじっさいに殺人犯なのだけれども、当初ニュートン家の人間はそんな疑いは誰も持っていないわけだし、わざわざその殺人事件の載った新聞を隠す必要などないではないか、と思えるわけである。仮にニュートン家の人がその新聞を読んだとしても、その殺人事件を叔父のチャーリーと結びつけて考えるはずもない。ここで余計な隠し立てをするものだから、長女のチャーリーの疑惑の芽を育ててしまう。
 それで、そんな長女チャーリーの疑惑をかわすことぐらい、そんなにむずかしいことでもないだろうと思えるのだけれども、あっさりと「この世界はブタ小屋だ」などと語り出し、つまりは自分が殺人犯だと知らせてしまう。このあとに別の容疑者が事故死して、表面上は一件落着となるだけに「あそこで余計なことを口走らなければ万事OKだったのに」というわけで、そうするとそれ以降の展開は真相を知る長女チャーリーをいかに始末するかということになる。まあ、そういう表面的には多少不自然な展開こそがこの映画を成立させているという、ちょっとややこしい作品ではあるかと。

 刑事の男と長女チャーリーとのロマンスという要素も少しだけあるのだけれども、その点は観ていても「おまけ」というか、田舎の生活に飽き飽きしていたチャーリーへの、映画的なプレゼントだったのだろう。それ以外のさまざまな登場人物は皆とてもいい味を出していて、例えばニュートン家の父や母、そして次女や長男ら、そして隣人のハーブといった面々が、この作品の奥行きをつくっていると思う。
 叔父のチャーリーが長女チャーリーを始末しようとするガレージ、そして外の階段などの描き方あたりにこそ、サスペンスのヒッチコックの面白さが味わえるだろうか。九時に閉まってしまうという図書館に急ぐ長女チャーリーの切迫感もおみごと。


 

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■ 2016-07-26(Tue)

 朝、しごとを終えて家に帰り、ウチのドアの方へ回りこむと、ドアの前から一匹のネコが走り去って行った。もちろん野良ネコである。はじめて見るネコだと思ったけれども、やはりまだこの辺りにはいろんな野良が棲息しているわけだろう。おそらくはニェネントの匂いに引き寄せられたのか、とにかくはニェネントというネコを目当てに来ていたのではないのか。
 これは一大事である。今までのようにニェネントが外に出ることを許していたら、その野良ネコと遭遇することになる。もしもその野良がオスだったりしたら、ニェネントの貞操は奪われ、妊娠までしてしまうことであろう。ましてや今のニェネントは発情期なのである。もしもその野良がメスだとしても、ニェネントがその野良について行って、自分のテリトリー(このアパートの敷地内)を越えて外に出てしまい、家に戻れなくなってしまうことにもなりかねない。交通事故に遭うおそれもあるし。
 これはもう、当面はニェネントの外出は絶対に禁止である。せっかくニェネントも外の世界に興味を持ち、わたしも「少しぐらいならいいだろう」とは思っていたのだけれども、そういう野良ネコの存在があるのなら、仮にニェネントが外に出てしまったとしたら、もう片時もニェネントから目が離せない。そして、野良ネコが出現したらすぐにニェネントを部屋に戻すか、それとも野良ネコを追い払わなければならない。そのためにはわたしはニェネントとつきっきりでいなくてはならないし、ニェネントがどこかに走って行ってしまったり、人がすぐには入って行けないところに行ってしまったりしたら、わたしはニェネントを守りつづけることができなくなってしまう。その野良ネコがもうぜったいに来ないという確信が持てなければ、ニェネントを外に出してやることはできない。ちょっとショックな事態にはなってしまった。

 今日は早朝にショッキングな事件があった。相模原の障害者施設に男が侵入し、障害者十九人を殺害したのである。犯人は「障害者は生きていてもしょうがない」という考えを持っていたようで、いわゆるネトウヨ的なところから影響を受けていたのではないかという説もある。たしかにこれはヘイトスピーチから一歩踏み出した「ヘイトクライム」である。世界にまん延するテロリズムもこの事件の引き金になっているのだろうけれども、この世界は何という殺伐とした世界であることだろう。


 

[]「インソムニア」(2002) クリストファー・ノーラン:監督 「インソムニア」(2002)   クリストファー・ノーラン:監督を含むブックマーク

 ヴェテラン刑事のドーマー(アル・パチーノ)は、アラスカでの17歳の女性の殺人事件の捜査応援のため、同僚のエッカートと共にアラスカに赴任してくる。しかしドーマーは過去に犯人を逮捕するために、あるでっちあげによる証拠ねつ造をしたことがある。この件で内務調査が行われることになっていて、経緯を知っているエッカートは、その内務調査でドーマーに不利な真実の証言をするつもりでいるという事情がある。アラスカの方の展開は、ドーマーのアイディアでうまく犯人をおびき出すことに成功するのだけれども、濃霧の中でドーマーはあやまってエッカートを射殺してしまう。内務調査でエッカートと利害関係のあるドーマーは、犯人がエッカートを撃ったとウソの証言をする。夏のアラスカは白夜。そんな事件の展開と明るい夜とで、ドーマーは不眠症(インソムニア)に悩まされる。そんなとき、犯人からドーマーに電話がかかってくる‥‥。

 クリストファー・ノーランという監督は、ほんとうに絵づくりがむごいというか、カット割りとか画面構成とかが下手だと思う。彼自身はもう有名な監督だけれども、こういう絵づくりは、もっとどうでもいい二流の映画でもずっと見ごたえのある絵を見せてくれると思う。まずはわたしは、この監督のそういうところがどうも好きになれない。
 タイトルにもなっている「不眠症」ということも、絵として見せるのではなく、アル・パチーノのだんだんに焦燥して行くメイクと演技とだけに頼っている感じなのもマイナスか。


 

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■ 2016-07-25(Mon)

 今日はしごとは非番で休み。朝は九時までたっぷりと寝て、つまりは十二時間の睡眠をとった。それで充分だろうと思っていたら昼すぎにまた眠くなってしまい、二時間ほど午睡をしてしまった。もう午睡というものがすっかり習慣になってしまったみたいで、これは睡眠をたっぷり取っているかどうかとかまるで関係のないことのようだ。これで十四時間の睡眠。さすがにこれは寝すぎで、夜はなかなか寝られなくなってしまい、十二時を過ぎても眠れなかった。それならそれで眠れない時間を読書とかにあてることができればいいのだけれども、本をひろげても活字を読みつづけることが持続できない。これが今いちばん情けないと思っていることで、ほんとうは一日に最低でも二時間ぐらいは読書にあてたいとは思っているのだけれども。
 「映画」というのは受動的な立場で鑑賞できるから、時間さえ割けば画面の方で勝手に進行してくれて、それで「何かを観た」ということになるのだけれども、読書というのはちょっと能動的にならなければ先に進めない。‥‥こんなことは当たり前のことなんだけれども、こんな当たり前のことがクリアできないというのが現在の「わたし」ではある。映画にしても、ただ目の前で進んで行く画面を眺めているだけで、ほんとうにその奥で展開されていることにはまるで無頓着でいるというのが、じっさいのところなのではないだろうか。

 さて、わたしはこのまま朽ち果てて行くのだろうか?


 

[]「ブラザーズ・グリム」(2005) テリー・ギリアム:監督 「ブラザーズ・グリム」(2005)   テリー・ギリアム:監督を含むブックマーク

 テリー・ギリアムの作品としては初めての大資本下での作品らしく、製作はアメリカとイギリス、そしてチェコの国の名が並んでいる。チェコが絡んでいるというあたりでけっこう期待するわけだけれども、もしかしたら、そういうあたりでディテールにばかり耽溺する結果になってしまったのかもしれない。

 グリム兄弟の編した童話のモティーフをあちこちに挿入し、そのことで奥行きを出そうとしたのかもしれないけれども、本来の物語自体があまりに平凡なオカルト話というか、グリム兄弟の作品に潜む「ねじれ」というものをまったく具現化していない。つまり、主人公がグリム兄弟であるという必要性、必然性が、まるっきしないのである。あまりのつまらなさにあきれてしまうほどの作品。そして、この作品製作の中断中に撮ったのがあの秀作「ローズ・イン・タイドランド」だったということで、まさに「大資本」でのメジャー作品というものがいかに作家の表現指向をそいでしまうものかということの、格好の例証になってしまったような映画ではないだろうか。情けない。
 先日観た「Dr.パルナサスの鏡」にもあまり感心しなかったし、今の時点での最新作「ゼロの未来」も、そこまでの作品ではなかったと思う。テリー・ギリアム、だいじょうぶなのか?


 

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■ 2016-07-24(Sun)

 朝、しごとに出ようと家を出てすぐに忘れ物に気づき、また引き返してドアを開けた。その瞬間、待ちかまえていたニェネントが外に飛び出してしまった。「こら!」と追い戻そうとしたけれどももう追いつけない。困った。ニェネントの姿はどこかものかげに隠れてしまってみえない。もうしごとに行かなくてはならないし、このままドアを閉めて出かけてしまうと、ニェネントはわたしがしごとを終えて戻ってくるまで部屋に戻れなくなってしまう。それは大きな事故の原因になるとか、そのままニェネントが行方不明になってしまうことにもなりかねない。とりあえずドアのすき間を開けておいて、ニェネントがいるだろうあたりに行ってみる。それでまたドアのところに戻ると、ちょうどニェネントがドアの中に入って行くのがみえた。ひと安心ではあった。

 ニェネントは今日も「サカリノさん」が継続中で、わたしが和室からリヴィング、リヴィングから和室へと移動するたびにいっしょについてきて、わたしのそばで丸くなる。わたしがベッドで寝ているとき、のどから絞り出すような声でなきながらリヴィングの中を徘徊しつづける。ちょっとした騒音である。この建物はそれなりに防音もしっかりしているし、そもそも隣の部屋はもう空き部屋になっているから苦情が来るしんぱいもないのだけれども、そのあたりがクリアできていなければ、近隣から苦情殺到ということにもなりかねなかったことと思う。早くニェネントには平静を取り戻してほしい。

 


 

[]「騎兵隊」(1959) ジョン・フォード:監督 「騎兵隊」(1959)   ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 ここでの騎兵隊はアメリカ先住民を相手に戦う騎兵隊ではなく、南北戦争当時の北軍騎兵隊のことで、この映画は南北戦争の戦いの一つ、ビックスバーグの包囲戦を中心に描いている。

 例によって主演はジョン・ウェインで、彼の演じるマーロー大佐が南軍の補給経路を絶つために北軍の指揮をとる。同じ部隊に軍医のケンドール少佐(ウィリアム・ホールデン)が配属されるのだが、マーロー大佐は医者嫌いで、この二人のあいだに確執が生じる。
 部隊は移動の途中である農園に立ち寄り、そこの女主人のハンナと使用人のルーキーのもてなしを受けるのだけれども、実はハンナとルーキーとは南軍支持者で、マーローらの作戦会議の内容を盗み聞きし、南軍へ密告しようとするのだった。やむなく部隊はハンナとルーキーを連れて進軍をつづけることになる。

 これは大局的に戦いのダイナミズムを描く作品ではなく(彼らがどう転戦してどう勝利したのか、わたしはもう忘れかけているし)、ユーモアをたたえた人間ドラマという側面が強いという印象。そういう意味では「リアルさ」というものをこの作品に求めても仕方がないのだけれども、「映像詩」とでも呼ぶにふさわしい抒情を感じ取ることはできたと思う。


 

[]「クーデター」(2015) ドリュー・ドゥードル:製作・脚本 ジョン・エリック・ドゥードル:脚本・監督 「クーデター」(2015)   ドリュー・ドゥードル:製作・脚本 ジョン・エリック・ドゥードル:脚本・監督を含むブックマーク

 この映画は去年の九月に映画館で観ている。ちょっと内容も忘れかけてはいたけれども、こうやって見直すと「そうそう、こういう映画だった」と思い出すことはできた。感想は最初に観たときと同じようなものだけれども、この映画を映画館で観たときに比べ、この十ヶ月のあいだにこういう映画のリアリティというものは増してしまった。例えば先日のバングラデシュのダッカでの日本人らが犠牲になったテロなど、一面ではこの映画に含まれていたテロ(恐怖)の具現化ではないのか、という印象も受けてしまう。


 

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■ 2016-07-23(Sat)

 今日は東京に出かける。観ようとする公演は午後の四時からなのだけれども、ちょっと余裕を持って十二時に家を出ることにする。わたしが留守のあいだにニェネントが窓を開け、好き放題外に出てしまうと困るので、しっかりと窓に施錠してから出かける。外はそれほどに暑くもなく、湿度も高くなくてどちらかといえば快適である。こういう日は、部屋にこもりっきりでいた方が不快感は増す気がする。

 新宿で下車をして、まずは遅い昼食をとるのだけれども、今日はなんだか牛丼が食べたいという空気感で、久しぶりに松屋へ行ってみた。むかしよく牛丼屋に行っていた頃は、行くのは「松屋」と決めていたのだけれども、メニューが変わって「プレミアム牛丼」なるものが登場して、それから一〜二度松屋に行った憶えはあるけれども、どうもその「プレミアム牛丼」というのが普通においしくなかった。それで「これからは吉野家の方がいいな」と思っていたことを、店に入ってその「プレミアム牛丼」を食べるまではすっかり忘れていた。ちょっと「しまった」と思ったわけだけれども、つまりはなんだか牛肉があまりに薄くてやわらかく、箸で引っぱっても肉がビロビロと伸びて切れが悪いという感じ。肉が薄い分味も薄いだろう。それに松屋は紅しょうががあんまりおいしくない。これは吉野家の紅しょうががいちばんだと思う。総じて、失敗の選択であった。
 そうやってわたしが牛丼を食べていると、隣の席に中年の男性がすわられた。彼の注文はライスと玉子だけだった。なるほどなあ、外食でいちばん安上がりに済まそうと思えば、こういう選択もあるということか。松屋では食券で注文するわけだから、注文するときに「それだけ?」というような反応を受けることもないだろう。まあやってみるつもりはないけれども、そういうやり方もあるということ。
  食事のあと、そのうちに画材を買うつもりもあり、三丁目の世界堂へ行ってみた。世界堂という店に入るのもずいぶんと久しぶりになるけれども、相変わらず所狭しと商品が並べられていて、ちょっと息苦しく感じてしまう。そういうことばかり気になって、欲しい画材の方はあまりチェックもできなかった。

 このあと、公演の場所である荻窪へ移動。場所は二年前にいちど来ているし、その頃からの場所的な記憶はだいたいちゃんとしているので、すぐにたどり着くことができた。しかし開場にはまだもう少し時間があるようで、時間つぶしにあたりを歩いたりする。ドリンクを買おうかと立ち寄ったLAWSON STORE 100 で店内を見ていると、「長野産」という大きな白菜が一玉百円で売られていた。これはどう考えても激安で、お買い得であることはまちがいない。白菜はいろいろと使い道もあるし、日持ちもするから買って帰ってもいいのではないかと思う。とにかくは帰るときに考えよう。

 開場時間になり会場へ移動。まずはB1のロビーで開演を待つ。このロビーの壁にはカラスの剥製が飾られている。どんな動物のものでも、剥製というものは哀れなものだと思ってしまうけれども、生前のその姿がいつまでも保存されるというのは幸運なことなのだろうか。
 開演時間の四時まで待ち、さらにB2のホールまで降りて客席に入る。ここの客席数は50席ぐらいはあるだろうか。舞台もせり上がり、照明設備などもしっかりとしていて、多くのダンス公演が行われるような小ホールなどよりもよほど「劇場」の体裁をとっている。

 一時間強の講演が終わり、まだ明るい地上に出る。まだ電車もそれほどに混んでいないだろうから、やはり先ほどの白菜は買って帰ることにした。店でレジ袋に入れてもらった白菜はやはりかなり巨大で、しかもずっしりと重みがある。手にさげて電車に乗り込むと、なんだか「買い出し」に出て来て帰るところのような気分になってしまった。まあ地元には今どき一玉百円というような白菜は売っていないから(1/4でも百円する)、たしかに「買い出し」をして来たのだとはいえるかもしれない。

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  (その白菜とニェネントとの記念写真。白菜の方がデカい!)

[]アパラタス3周年 アップデイトダンスNo.37「夜」la nuit 勅使河原三郎:演出・照明 佐東利穂子・勅使河原三郎:出演 @荻窪 カラス・アパラタス B2ホール アパラタス3周年  アップデイトダンスNo.37「夜」la nuit 勅使河原三郎:演出・照明 佐東利穂子・勅使河原三郎:出演 @荻窪 カラス・アパラタス B2ホールを含むブックマーク

 大黒の舞台。照明も上からのスポットのみで、基本は佐東利穂子のソロ(白い上着に白いタイツ、そして黒のハーフパンツ姿)。時に照明が暗くなって行き、ほぼ漆黒に包まれるかと思われるようになると思えば、時に明るい(まぶしい)フラッシュのようなライトに舞台が照らされることにもなる。
 佐東利穂子さんのダンスというのはいつもこのような感じなのだったと思うけれども、その長い手足を活かした有機的なダンスは、やはり卓越しているという印象。ここに後半になって頭まですっぽりと黒づくめの勅使河原三郎が現れ、ゆっくりとゆっくりと舞台を移動し、佐東利穂子と絡む(佐東利穂子が絡む)ことになる。おそらくは勅使河原三郎氏はそれこそ「夜」を象徴する存在なのであろう。

 この「夜」の公演は八日間にわたって行なわれ、「アップデイトダンス」のネーミングの通り、日々その内容をアップデイトし続けられるものらしい。じっさいにこの初日の公演はすっかり佐東利穂子のソロだったそうである。こういう公演を積み重ねて行くことによって、より完成度の高い舞台が実現して行くだろう。観客はその現場を目撃するわけだ。

 う〜ん、やはりわたしのボキャブラリーは退化していて、この公演のことを書く力がないことを痛感する。まだまだ、もう少しこういう体験を積み重ねて行くしかないのだろう。わたしにとってもまた、「アップデイト」ということは日々必要とされることなのだろう。


 

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■ 2016-07-22(Fri)

 夜寝ていると、ニェネントがベッドの上にあがってきて、わたしと並ぶように横になった。前はいつも、寝るときにはニェネントもわたしのベッドにあがってきて、わたしの足元で丸くなって寝ていたものだったけれども、このところはずっとそんなことはやらなくなってしまっていた。「ずいぶんとめずらしいこともあるものだ」と思ったけれども、それだけ発情期がつらいらしい。とにかく最近のニェネントは、起きているときにはたいていわたしのそばにべったりで、「なんとかしてよ」という感じでにゃーにゃーとなくのである。つまり、わたしが寝ているときにもわたしのそばにきて、なんとかしてほしいのである。どうも今回の発情期はその期間もながく、ニェネントももてあましてしまっているみたいだ。「大変なんだろうな」と想像し、こういうときは「不妊手術してあげていた方がよかったのだろうか」と思ってしまったりする。なんだかかわいそうである。
 とにかくはその、わたしの横に並んだニェネントの腰のあたり、しっぽの付け根のところを手のひらでポン、ポンとたたいてやる。でもいつまでもつづけることもできないので、いいかげんのところでストップする。ニェネントはちょっとわたしの顔をみて、「もっとやってよ」という感じなのだけれども、もう終わりなのだとさとると、ベッドの下に降りていってしまう。

 明日は久々に東京に出て勅使河原三郎&佐東利穂子のダンス公演を観ることにして、予約を済ませた。このところ、一時に比べて東京とかへ出かける頻度がグンと減ってしまった。東京へ行っても映画とかを観るためのことが多く、以前のように演劇やダンス公演を観ることはほんとうに少なくなってしまった。正直いうと、過去の記憶が消えてしまったりして、演劇やダンスというものを、そういう過去の記憶と照らし合わせて楽しむということが、あまりできなくなってしまった。演劇やダンスの面白さがわからなくなった、ということでもある。
 この日記の過去の記述を読んでも、演劇やダンスの公演を観て、わたしなりにその内容を解釈し、感想を導き出しているのだけれども、今のわたしにはその頃のような感想は生まれてこない。それはとても悲しいことであり、極端にいえば生きている意味がないと思えるほどに絶望感におそわれる。わたしにはどうやってその絶望感を克服すればいいのか、まるでわからない。ただ、今でも面白く感じられるような公演を探し、そこで「わたしは今回はなぜ<面白い>と感じたのだろうか」と問うようなことを求めるわけだろうか。そういうわけで明日は東京へ行く。

[]「ミスティック・リバー」(2003) デニス・ルヘイン:原作 ブライアン・ヘルゲランド:脚本 トム・スターン:撮影 クリント・イーストウッド:音楽・監督 「ミスティック・リバー」(2003)    デニス・ルヘイン:原作 ブライアン・ヘルゲランド:脚本 トム・スターン:撮影 クリント・イーストウッド:音楽・監督を含むブックマーク

 過去に観たクリント・イーストウッド監督の作品で、その内容の記憶は消えているけれども、観たときに「とにかくこれはすごい」と思った作品があったはずで、それは「ブラッド・ワーク」なのか、この「ミスティック・リバー」なのか、それとも「ヒア アフター」か、とにかくこの三本は観ているはずだけれども内容を憶えていないわけで、これらの作品は早くもう一度観たいと思っていた。そのうちの一本、「ミスティック・リバー」を観ることができた。そして画面に引き込まれ、「とにかくこれはすごい」と思ったのはこの作品のことだっただろうと思った。とにかく、今までに観たイーストウッドの監督作品では「いちばん」だと思った。

 少年時代に親友だったデイヴとジミーとショーンの三人。しかしある日、三人で遊んでいたところをデイヴだけが車で誘拐され、おそらくは性的な陵辱を受けて後に監禁されていたところを発見される。それから三人は疎遠になる。二十五年経ち、三人はそれぞれ家族を持っている。デイヴ(ティム・ロビンス)は下層階級の平凡な家庭人になっていて、ジミー(ショーン・ペン)は雑貨店を経営しているけれども、裏社会とも通じているようだ。デイヴの妻のセレステ(マーシャ・ゲイ・ハーディン)とジミーの妻のアナベス(ローラ・リニー)とは親戚である。ショーン(ケヴィン・ベーコン)は刑事になっているが、その妻は今は家出失踪していて、時に無言電話をかけてくるだけである。そんなある夜、ジミーの娘のケイティが公園で射殺死体で発見される。捜査にあたるのはショーンと、相棒のホワイティ(ローレンス・フィッシュバーン)である。その事件の夜、デイヴは遅くに血まみれで帰宅し、セレステに「相手を殺してしまったかもしれない」と語る。ケイティの死を知ったセレステはデイヴに疑念を抱くことになるし、ショーンらの捜査もデイヴへと及ぶ‥‥。

 なんというかジリジリとしてくるような描写で、冒頭のデイヴ誘拐のシークエンスから、二十五年という歳月を経てのドラマの展開というものが重たい。終盤、その冒頭のシーンと同じようにデイヴだけがいない状況で道路にジミーとショーンが立ち、車に乗ったカメラがふたりから遠ざかって行き、ここにその「二十五年」というものが、しっかりと視覚化される。
 これはネタバレになってしまうけれども、ケイティ殺害の夜に偶然もうひとつの事件があったり、真犯人が「こいつかよ!」というような、うまくハマりすぎる展開も感じないでもないけれども、そのことがこの重厚な三人のドラマを観ることのじゃまにはならないだろう。映画は暗鬱な、あまりに暗鬱なクライマックスを迎え、わたしはそこで映画も終わるのかと思っていたのだけれども、そのあとのそれぞれの妻たちのドラマというものも、見ごたえのあるものではあった。セレステとアナベスの、それぞれの夫への意識がまた夫の運命を変えてもいたわけだろう。ラストに「市街パレード」を持ってくる演出が、心憎い。そういう描写が、このドラマを「その土地」を巻き込んでのドラマ、と感じさせることになり、凡百のミステリーとの「差異」となるのだろう。さいごにショーンの妻からの電話もあり、これも「うまくハマりすぎ」という感じだけれども、この暗鬱なドラマの唯一の「救い」として、あってしかるべきではあっただろう。

 これは一級のミステリーと思い、一般の評価もさぞや高評価なのだろうと思ったら、意外にもそこまでに評価が高いわけでもないようなのでおどろいた。どうも、この「暗さ」、「救いのなさ」というものが、ある種の観客には堪え難いようだ。つまり、なぜ無実のデイヴが、少年期に三人の中でひとり犠牲になったように、二十五年経ってもまた犠牲にならなければならないのか、ということだろうか。デイヴも少年期を振り返って、「あの時、車に乗せられたのがオレじゃなくて他のヤツだったならと考える」と語っているけれども、けっきょく、その二十五年の残酷さをも描いた作品ではあったのだと思う。恐ろしい作品だった。


 

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■ 2016-07-21(Thu)

 先日ニェネントのごはん、固形食のいわゆる「カリカリ」を一袋買ってきたのだけれども、どうもなんだか感じがちがう。包装の袋の色がいつも買っていたのとちがうように思ったのだけれども、いつも買っていたのは「かつお味」で、こんかい買ってきたのは「まぐろ味」なのだと気がついた。わたしはニェネントのお気に入りは何でも「かつお」だろうとばかり思っていて、買うときには「かつお味」で統一しようとしていたのだけれども、間違えてしまった。ニェネントが気に入らなくって残したりしたらどうしようと思ったのだけれども、特に気に入らないというような様子でもない。いやむしろ、今までよりも一気にたくさん食べるようにも見受けられる。味が変わったことで食欲が増したのかもしれないし、ニェネントは「かつお」と、決めてかかる必要もないということ。

 昨日たっぷりと寝たので、今日は昼から眠くなることもなかった。おかげで映画を三本観た。


 

[]「波止場」(1954) エリア・カザン:監督 「波止場」(1954)    エリア・カザン:監督を含むブックマーク

 マーロン・ブランドの主演でエヴァ・マリー・セイントの共演。彼女はこの作品がデビュー作らしい。どこかの港湾が舞台だけれども、遠くに摩天楼がみえるのでニューヨークの近郊なのだろうか。つまりはその港湾労働者を牛耳るボスのジョニー(リー・J・コッブ)の不正な仕切りによって労働者は皆上前をはねられている。委員会か裁判所の調査が入ったらしく、テリー(マーロン・ブランド)の友だちのジョーイはその証言に立つつもりだったのだが、ジョニーの手先によってアパートの屋上から突き落とされて死ぬ。テリーも、ジョーイを呼び出すために一役買ってしまっていたわけではある。ジョーイの妹のイディは、神父(カール・マルデン)と共に、事件の真相を知りたいとテリーに接近する。テリーは純真な青年ではあるけれども、正義や真理のために生きることに自覚はなかった。しかしイディや神父と出会うことでその生き方は変化して行く。ジョニーの一味だったテリーの兄のチャーリー(ロッド・スタイガー)までがジョニーに殺され、テリーは委員会で証言することを決める。

 重厚な演出で、アパートの屋上での撮影や夜の狭い通路での撮影など見ごたえがある。しかし、この監督のエリア・カザンという人物、例のレッド・パージの時代に司法取引をして、「共産主義者の疑いがあるもの」として同業者ら11人の名を漏らし、自らの業界での延命を図っているわけではある。そうやってみると、この「波止場」で「勇気を持って<悪>を告発する」マーロン・ブランドの姿は、エリア・カザン自らを美化したものではないのか、という見方ができる。というか、そうなのだろう。
 この「波止場」、映画としては力強い作品かもしれないけれども、そのように監督の自己美化、自己弁明の手段に使われたと考えると、いろいろと割り引いて考えなくてはならないことだろう。


 

[]「三人の名付親」(1948) ジョン・フォード:監督 「三人の名付親」(1948)   ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 先日観た「シャイアン」のようにスケールの大きな作品ではないけれども、場としての「西部」、そして「砂漠」の美しさ、そして厳しさの伝わってくる作品。映画の舞台は「アリゾナ」ということになっているけれども、撮影はおもにカリフォルニアのモハーベ砂漠で行なわれたということ。撮影はウィントン・C・ホークという人で、ジョン・フォード作品ではこの作品のほかに「黄色いリボン」「静かなる男」、そして「捜索者」などで撮影を担当している。この撮影がとてもいい。

 ジョン・ウェインら銀行強盗犯三人が砂漠の中をさまよい、保安官らの追跡をくらまして砂漠の中の給水地にたどり着く。そこには幌馬車が止まっていたのだけれども、中には出産まぢかの女性がひとり横たわっているだけ。どうやら給水地に水がたまっていなかったところをその女性の夫が水源をダイナマイトで爆破、そうして水を得ようとしたらしいのだけれども、そのせいで水源を枯渇させてしまっている。夫はそのまま水を求めて砂漠に出たのか、その姿はない。三人は女性を見捨てることはできず、周りに自生するサボテンをしぼって水をつくり、出産の心得のあった男が彼女の出産を助ける。無事に男の子が産まれ、三人はその赤ちゃんの「名付け親」になる。しかし母親は亡くなってしまい、彼女を埋葬した三人は砂漠を突破しようと闘争をつづける。一方で保安官らの追跡は迫ってくる‥‥。

 先に書いたように、この砂漠での撮影がすばらしい。逆光の中でシルエットになった三人。砂嵐に襲われる三人。まさに自然の中で翻弄される人の姿がリアルである。
 観ていれば当然、この赤ちゃんは救われるものだろうと予測はつくのだけれども、その赤ちゃんを助けようとする三人はどうなるのか、これが意外と苛酷な運命が待ち受けていた。しかし、追う方の保安官もまたヒューマニストとして描かれていて、つまりこの作品には「悪人」は登場しない。序盤にこそ銃撃戦はあるものの、その後はそのような「暴力」の世界は完全に排除され、ほとんど宗教映画というおもむきではあった。


 

[]「復讐 運命の訪問者」(1997) 高橋洋:脚本 黒沢清:監督 「復讐 運命の訪問者」(1997)   高橋洋:脚本 黒沢清:監督を含むブックマーク

 前に観ていた作品だけれども、ほぼ記憶になし。しかし、ここですでに新作の「クリーピー 偽りの隣人」のような作画がなされていたことに注目したし、この乾いたタッチを含めて、「CURE」以降の黒沢作品の原点のようなものがこの作品にあるのではないのか、とさえ思った。傑作である。

 主人公はやはり哀川翔で、彼は幼い頃に二人の男に家族を皆殺しにされていて、その事件は未解決のまま。歳月が経過して、彼は刑事になっている。ある事件で死んだ男の身元引き受け人として現れた男、その男こそがかつて彼の家族を惨殺した男のひとりと確信し、彼の背後を調査して行く。

 何の変哲もない住宅地、そしてやはり何の変哲もない田舎の風景。その背後に凶悪な殺意が潜んでいる。このあたりの演出はやはり黒沢清監督の独壇場というか、彼の作品の魅力でもあると思う。例によっての「廃墟」のような工場跡のような空間も登場する。唐突な発砲による殺人という演出も、このあとに「CURE」で活かされることになるだろう。

 終盤への、演出を含めた「狂気」というものはやはり、この作品が劇場公開ではない「Vシネマ」であったからこそ実現できた成果だろうと思うけれども、結果としてこのような作品を経て、黒沢清監督のボキャブラリーは飛躍的に増大したといえるのではないかと思う。


 

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■ 2016-07-20(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 少し財布に余裕が出来そうなので、ちゃんとした画材でも買い揃えてみようかという気もちがある。もちろん油絵の道具などというとたいへんなことになってしまうけれども、水彩を描くための画材を揃えるのならばあまり無理しないでもそれなりのものを揃えられるのではないかと思う。あとは、そんな画材を使って、ちゃんと絵を描く時間をつくれるかどうかということ。まあ今は映画ばかり観て時間をつぶしてしまっているわけだから、そのあたりをちょっと考えれば時間はつくれるのではないかと思うのだが。せっかく画材を揃えても「三日坊主」とかになってしまってはどうしようもない。

 今日はまた、寝てばかりの一日になってしまった。昼からリヴィングで映画を観ていたら眠くなってしまい、そのまんま寝てしまった。
 目が覚めたらもう七時を過ぎていて、食事の準備もめんどうで、ちょうどスーパーで値引きの始まる時間だったこともあり、また南のスーパーまで出かけてお弁当とかを買って来て、それで晩ご飯にしてしまった。今日は中華弁当。明日のパンと、ニェネントにもあげられるように、かつおのたたきとかも買って帰った。
 食事を終え、ニェネントにかつおのたたきをちょっとあげ、そのあとはもう寝てしまった。書くこともあまりない一日だった。


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■ 2016-07-19(Tue)

 参議院の選挙が終わって、こんどは(わたしにはちょくせつ関係ないけれども)東京都知事の選挙になる。いちおう保守陣営ふたり、そして革新側ひとりというのが、知事をあらそうメインの顔ぶれになりそうだけれども、せっかく保守陣営が二手に分裂してしまっているというのに、それに対抗する側にいまいち迫力を感じない。なんとかこのチャンスをモノにしてもらいたいところだけれども、最悪の結果も考えられるだけに気分は暗くなる。
 アメリカの大統領選挙も共和党からの候補はトランプになりそうだし、先日の参議院選挙はもちろん保守の大勝利。トルコではクーデターが起こりそうになったり、どうも世界全体が右傾化しているのではないのかと思ったりする。右傾化というのか、ISのテロ行為がひんぱんに起こるようにもなり、戦争状態というのが常態化する世界になりつつあるのかと思ってしまう。

 こんな世界だから日本も憲法を改定しなくてはならない、という声に引きずられてしまう人も多いことだろう。特にやはり、現行憲法の第九条を改訂するかどうかということは、いろいろと論議を呼んでいることと思う。このことに関してじっさいのところ、自衛隊というものがありながらも「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする条文を持つというのは矛盾ではないかと思う次第ではある。では自衛隊を現在の憲法に照らして「違憲」としてしまっていいのか、というもんだいはあるわけで、ここは憲法の中に、自衛隊という存在を規定する文言を入れるべきではないのかなどと、わたしなどは考えるわけである。こういうところを、現行憲法の精神を活かしながら改訂するのであれば、わたしは反対するものではない。
 しかし、現在の自民党の持つ「憲法改定案」というものは、その第九条関連のことではなく、むしろそれ以外の部分で基本的人権を放棄させるようなものがあるわけで、わたしはそっちの方がよほど問題だろうと思っている。
 護憲派の連中は決まったように「第九条を守れ」とか、「第九条をノーベル平和賞に!」などといっているわけだけれども、第九条ばかりを問題にしていると、つまりは墓穴を掘りかねないと思う。いったい守らなければならないものは何か。「基本的人権」「主権在民」もまた守られなくてはならない。はっきりいって、すでに自衛隊の存在で理念の危うくなっている第九条をいつまでも守ろうといっているのであれば、この件は簡単に保守側に突き崩されてしまう危険性がある(これはわたしが自衛隊の存在を支持するということを意味するのではないけれども)。じっさいに、テレビなどでみる「街頭インタビュー」では、第九条は実情に合っていないと考える人がいるようではある。そんなところよりも、例えば自民党の「憲法改正草案」お第十二条や第二十一条がどのように書き換えられようとしているか、ということこそを問題にすべきではないのか、とは思っている。とにかく、護憲側はあまりに第九条にばかりこだわるのはやめた方がいいのでは、とは思うのだけれども。

 

[]「シャイアン」(1964) ジョン・フォード:監督 「シャイアン」(1964)    ジョン・フォード:監督を含むブックマーク

 ジョン・フォードでも後期の作品で、70mmの超大作。尺も二時間半以上ある。内容はアメリカ先住民(インディアン)へのシンパシーに満ちた作品というか、強制移住させられたインディアン居留地の劣悪な環境から逃れようとしたシャイアン族が、アメリカ政府に反抗して故郷の土地へと移動するという物語である。この大移動は史実だったようで、この時代にはこのような居留地から逃亡する(移動させられる)インディアンの悲劇がいろいろとあったようである。そういうわけでこの作品の主役は先住民たちで、彼らに対するシンパシーに満ちた作品になっている。かつてのジョン・フォード監督の西部劇では先住民らはまさに「悪役」だったわけで、ここで監督がそんな先住民を主役にした映画を撮るというのも、時代の流れのひとつではあっただろう。

 映画ではそんな先住民の移動に同情的な警備隊の大尉(リチャード・ウィドマーク)と、先住民に同行するクエーカー教徒の教師(キャロル・ベイカー)らの存在を軸に、先住民らが通過するダッジ・シティの保安官ワイアット・アープ(ジェームズ・スチュワート)なども狂言回し的に登場もする。

 特に前半はジョン・フォード作品でおなじみのモニュメンタル・ヴァレーをバックでの撮影で、そんな荒野の中を騎馬隊や駅馬車が疾走するシーンだけでジョン・フォード作品の醍醐味を堪能できる気がする。しかし、先住民に英語を教えるというキャロル・ベイカーが、ずっと先住民といっしょにいながらも、これっぽっちも先住民の言葉をしゃべれないというのは、いかにそれが映画的な要請であるとはいっても、ちょっとばかし解せない気もしたのはたしか。
 終盤にシャイアン族らの到着する北部の砦には、カール・マルデンの演じる指揮官がいるのだが、インディアンに対してものわかりのいいようなことを語りながらも、自分からは何のアクションも起こそうとはせずに規則一点張り、上意下達のみに徹するその人物像は、この日本のあちこちにその類型を見出せそうだと思った。


 

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■ 2016-07-18(Mon)

 朝、しごとから部屋に戻ってくると、ニェネントの姿が見えなかった。和室の窓は開いてなかったのでどこか室内にいるはずと探したのだけれども、どうしても見つからない。いちおう窓を開けてベランダの外を見てみたら、駐車場にニェネントがいて、「へっへっへ」みたいに軽いノリで体をゆすりながら、駐車場を横断してくるところだった。「いったいどこから外に出たんだろう」と思ってリヴィングをみまわしてみると、リヴィングの窓がちょうどニェネントが通り抜けられるぐらい開いてしまっていた。そうか、こっちの窓も施錠していなかったから、自分で開けることを学習してしまったということか。
 こりゃいかんと、玄関から外にまわってニェネントのいる方へ行くと、ニェネントはあわててベランダに駆け上がって、開いている窓から室内に戻って行くのだった。

 いちおうわたしは四時間はしごとに出ているので、わたしがしごとに出かけてすぐにニェネントが外に出てしまったりして、そのままずっと外で過ごしたりするようだと、つまりは四時間も外で過ごしてしまうことになる。そのあいだわたしの目はまるで届かない。もしもそのあいだに近所の野良ネコとかがやって来て、しかもその野良ネコがオスだったりして、しかも発情期とか何とかで、ニェネントのことを陵辱してしまったりしたらいったいどうなるというのか。ネコの妊娠率は異常に高いはず。いやいや、そんな悪夢のようなことを想像するだけで恐ろしくなってしまう。これからは出かけるときにはしっかりとリヴィングの窓も施錠して、ニェネントが決して外に出てしまわないようにしなくってはならない。

 しかし、首輪をして外を歩くニェネントの姿(首輪をしていれば室内でも同じなんだけれども)をみると、それはやっぱり飼いネコに見えるわけで、つまり、「あのネコは飼いネコで、その飼い主はこのわたしなのだ」と思ってしまうことには、ちょっとした心地よさがある。英語でいうと「The Girl Is Mine」、というような感覚なんだろうか。

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[]「チャイルド44 森に消えた子供たち」(2015) トム・ロブ・スミス:原作 ダニエル・エスピノーサ:監督 「チャイルド44 森に消えた子供たち」(2015)    トム・ロブ・スミス:原作 ダニエル・エスピノーサ:監督を含むブックマーク

 この原作本がベストセラーになったことはちょっと知っていて、内容もあのチカチーロをモデルにしたシリアルキラーもののサスペンス・ミステリーらしいので、時間があれば読んでみたいとは思っていた。で、とりあえずはその原作からの映画化作品というので、楽しみにして観た作品。キャストにもトム・ハーディにノオミ・ラパス、そしてゲイリー・オールドマンやヴァンサン・カッセルなどの名前があり、製作にはリドリー・スコットの名も。きっと娯楽作品として力の入った作品なのだろう。そう思って観はじめたのだけれども。

 舞台はソヴィエト時代のロシア。まずは1933年のウクライナの大飢饉(ホロドモール)時代の描写から始まり、この飢饉で生き残り、レオと名付けられ孤児院で育てられた少年が、以降の主人公として活躍する。時代は1953年になり、レオ(トム・ハーディ)はライーサ(ノオミ・ラパス)という女性と結婚し、ソヴィエトの国家保安省(MGB)に勤務している。映画で彼はまず、ブロツキーというスパイの嫌疑をかけられた男を拘束しに他のMGB職員と彼の家に行くのだけれども、ブロツキーは逃げようとしてつかまる。そしてMGB職員は、ブロツキーのふたりの幼い娘以外の家族を、みせしめに射殺する。
 レオは同僚の息子が森の中で死体で見つかった事件を「殺人事件」として捜査しようとするのだけれども、スターリンの「楽園には殺人は存在しない」というスローガンから、捜査することすら出来ないのである。同時に、捕まったブロツキーの自白で、妻のライーサの名がスパイリストの中に含まれていると聞かされる(これはライーサに横恋慕する他のMGB職員によるでっち上げだったのだが)。よくわからなかったのだが、レオはライーサを告発する証拠を見つけるように指示され、これを拒否したためにライーサと共に地方に飛ばされ、民警に降格させられてしまう。
 しかしその左遷させられた地には、ネステロフ将軍(ゲイリー・オールドマン)という頼りになる上司がいたのだった。レオはその土地でも少年が森で不審死をとげている事件が起きていることを知り、ネステロフ将軍の協力を得て調査を進めることになる。結果として、モスクワ近郊で44人の少年が同じような不審死を遂げていることがわかるのだが‥‥。

 どうも観ていると、「森に消えた子供たち」のことはあくまでも物語の副題でしかなく、つまりはソヴィエト・ロシアの組織の中で不条理な辛酸を味わうレオ、その妻のライーサを通して、ソヴィエトがいかに非人間的な国家であったかを告発する作品ではないか、という感想になる。そして少年連続殺人事件とは、レオとライーサとが復権するための小道具という役どころにされてしまった感がある。まあそういう「ミステリー」を期待して観てしまったものとしては、なんとも「置いてけぼり」をくってしまうような作品ではあったし、どうもこう、スターリン信奉者らの非人間的な行為をこそ際立たせようとしたためか、ストーリー展開がちょっとわかりにくい印象がある。ただ終盤に主役のトム・ハーディとノオミ・ラパスとがアクションシーンを繰り拡げる場面があり、そのシーンを観ながらわたしは、「さすがに<マッドマックス>と<ドラゴン・タトゥーの女>だわい」などと、ちょっとだけ溜飲を下げたのであった。


 

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■ 2016-07-17(Sun)

 どうもこのところ、気分が停滞していて、これはやはり軽い夏バテなのではないかと思ったりする。思考力もきわめて低い状態で低迷しているようだ。この日記に書くことを探すのにも苦労しているというか、ただダラダラとした時間を過ごしている。

 ニェネントは相変わらず発情期で、そばに寄ってきてわたしの顔をみてニャアニャアとなく。そしてちょっとでも窓を開けるとそのすき間を拡げて外に出てしまう。わたしもめんどうなのでニェネントを外に出しっぱなしにしていて、ふと「あれ? ニェネントはずっと外に出たっきりなんだっけ?」と思い出したりする。ニェネントが外に出てることを、三十分近く忘れていたりもする。
 でもニェネントが面白いのは、「もう室内に戻してやらなくちゃいけないな」と思ってわたしが別の窓を開けてベランダに出ると、そんなわたしをみてすぐに部屋の中に舞い戻ること。わたしが外に出ることが「もう部屋に戻る時間かな?」というしるしになっているみたいなのだ。これは「賢い」ということなのだろうか。わたしはニェネントが「賢い」というイメージを受けたことはないので、あまり「賢いネコ」と思うことには抵抗があるのだけれども、とにかくはわたしが「部屋に戻ってほしい」と考えて動くと、ちゃんと自分から部屋の中に戻ってくれるというのはとっても助かる。いいコだね、とは思うのである。


 

[]「マジック・イン・ムーンライト」(2014) ウッディ・アレン:脚本・監督 「マジック・イン・ムーンライト」(2014)   ウッディ・アレン:脚本・監督を含むブックマーク

 わたしはかつてはウッディ・アレンの作品が好きではなかった。特に彼自身が主演した作品はイヤだった記憶がある。過去の記憶が消えてしまったのでそれがどういう理由からだったのかよくわからないけれども、彼の「自意識」みたいなもの、そしてインテリ臭さみたいなものが、作品の中の彼自身にかぶさって染み出てきて、それがイヤだったのではないかと思う。そういうわけで、彼自身が出演していなければけっこう平気だ。最近も「カイロの紫のバラ」や「マッチポイント」を観たけれども、どちらもけっこう楽しんで観ることができた。

 この「マジック・イン・ムーンライト」も、もちろんウッディ・アレンは出演していない。もう彼も八十歳になるわけだから、これからもよほどのことがなければ、スクリーンにみずから出てくることもないだろう。この作品は軽いラブコメで、主演はコリン・ファースとエマ・ストーン。

 舞台は1928年。コリン・ファースは有名なマジシャンで、舞台では中国人の扮装をしている。映画はベルリンでの彼の舞台から始まるのだが、そんな彼のところに友人のマジシャン(これをサイモン・マクバーニーが演じている)が訪れ、コートダジュールの知人の資産家一家のところに霊能力者という女性(エマ・ストーン)があらわれ、そんな彼女に一家は心酔しているのだという。コリン・ファースは名マジシャンとして他人のマジックのトリックを暴くことも出来るのだから、その霊能力者のトリックを暴きに行かないか?と誘うのである。同行したコリン・ファースはエマ・ストーンの霊能ぶりを間近でみて、「これは本当の霊能力者なのかもしれない」と思うのだが‥‥。

 コリン・ファースの毒舌というか、シニカルなセリフは彼に似合っていて、みていても楽しめるのだけれども、なんだか最終的な落ち着きどころとかみてしまうと、つまりはウッディ・アレンが自己をコリン・ファースに託しただけなのかな、などとは思ってしまう。このあたり、最近こういう映画を観たよなあと思ってしまったのだけれども、思い返してみるとオードリー・ヘプバーンが中年オヤジと結ばれてしまう作品群だとか、ヒッチコックの後期の作品などでもこういう、「監督の夢が主演男優に託されてしまった」というような作品というのはあるように思う。やっぱり、映画監督というのは主演女優となんとかなりたいと考えて映画を撮っているのだろうかなあ。

 劇中にひゃっぺん返しにコール・ポーターの「You Do Something To Me」が流れ、なるほど、たしかに「You Do Something To Me」という映画ではあるわけだなあ、などと思ってしまい、このあたりの楽曲の選択はさすがのものだな、などとは思ってしまう。絵の切り返し、そしてカメラに向かってくる人物を捉えるカメラも少しずつ後退して行くような撮影も、手慣れたものというか、演出面ではもう冒険はなくっても、安心して観ていられるところはあると思う。


 

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■ 2016-07-16(Sat)

 Facebook を閲覧していたら、わたしの友だちではない知らない人が、森達也監督の「FAKE」のことを書いているのを見つけてしまった。書いたのは「映画研究者」というお方で、「FAKE」批判なのらしい。「公開範囲は一般とします」ということなので、ここに引用してしまっても、そしりを受けるようなこともないだろうと思い、(面白いので)ちょっと書いておきたくなってしまった。まずはその全文を、そのまんま以下に引用しておきます。

長文です。映画研究者が映画監督をかなり厳しく批判する以上、公開範囲は一般とします。

森達也監督『FAKE』は、是非とも観た方が良い作品だと思いますが、問題点があまりに多いです。その一部は、新垣隆氏の所属事務所のこの見解を読めば分かるでしょう。もちろん、新垣氏側の見解が全面的に正しいとは限りませんが(そうではないと言いたいのではなく、森達也監督側と佐村河内氏側の反論も読まなければ判断出来ない部分もあると言っています)。

その他に私が『FAKE』の問題点だと思う点を幾つか述べます。

1. 新垣氏が記者会見で、佐村河内氏はピアノが弾けるというレヴェルではないという主旨の発言をしていましたが、この映画での佐村河内氏によるシンセサイザー演奏の場面を見聞きすると、それは全くその通りだと分かります。右手はほとんどメロディーを弾くだけで、左手はたどたどしく和音を付けているだけです。森監督は、佐村河内氏がまともにピアノやキーボードを弾けないことを何故追求しないのでしょうか? 映画を観ていれば分かるから? 恐ろしいことに、あのシンセサイザー演奏の場面を観て、佐村河内氏は鍵盤楽器が弾けると思ってしまう観客もいるのですが。

2. 完成した楽曲は、演奏されたのではなく、コンピュータにつないだシンセサイザーを使って再生されていました。部分と部分のつなぎがかなりぎこちなく、素人の仕事の域を出ない楽曲ですが、それでさえ、本当に佐村河内氏が独力で作曲したという証拠はあるのでしょうか? 誰かに手伝って貰っている可能性が排除出来ません。

3. 佐村河内氏が一定レヴェルの感音性難聴であることは検査で明らかであるとして、実際にどの程度聞こえているかのやり取りをめぐっては、彼が演技をしている可能性はありませんか? この映画を観ても、佐村河内氏が実際にどの程度耳が聞こえているのかは分からないのです。

4. そもそも、一定レヴェルの感音性難聴であるのを全聾と偽っていたのはなぜかを追求しないのはどうしてでしょうか? 映画は、彼の耳が普通に聞こえるという世間の誤解を変えるのには一定の役割を果たしていると思いますが、これは、少し注意してニュースを見聞きしあるいは読んでいた人間にとっては新事実でも何でもありません。疑惑の核心の方に迫らないのはなぜなのでしょう。

5. 森監督とのやり取りの際には、佐村河内氏の妻が、手話通訳をし、監督の発言も全て言い直しています。もし本当にこれほど他人の発言が聞き取りづらいのだとしたら、仕事の打ち合わせに関しては佐村河内氏の妻が全く関与していなかったという彼女の証言は信用出来るのでしょうか? その点を一切追求しないのはなぜなのでしょうか?

6. 私は「指示書」を書くことが作曲行為に当たるとは全く考えませんが(もしそうだとすると、例えば映画に関して「この場面にはこんな感じの音楽を付けて下さい」と監督やプロデューサーが指示すれば、あるいは脚本やコンテに書き込めば、彼らに音楽の著作権があることになってしまいます)、そもそもその指示書自体が佐村河内氏一人の手になるという証拠がありません。また、指示書と完成した楽曲にどの程度の関係があるのかを音楽学の専門家や作曲家に尋ねるということもしていません。

最後のショットで結論を宙吊りにすることで、以上の様な批判にこの映画が答えられているとはとても考えられません。

 ‥‥おかしいです。まあこの文章を書かれた方はあくまでも「映画研究者」なのであって、森達也監督の作品のようなドキュメンタリー作品のことはおわかりにならないのだろうか、とは思ってしまった。でも「映画監督をかなり厳しく批判する」と書かれているので、この「FAKE」が「映画」であり、森達也という方が「映画監督」である、という認識を持っていらっしゃるようだ。

 わたしはこの日記でも、そのもんだいの「FAKE」を観た感想も書いているのだけれども、ちょっとだけ、ここにもう一度引用しておきます。

(‥‥)この作品、つまりはこの作品自体のことを含めてのメディア・リテラシーについての作品ではないか、という感想は浮かぶ。そういう視点から、試されているのは観客なのだと思う。それは過去に佐村河内氏の問題を「あなたはどうとらえましたか」、ということでもあるだろうか。そのことがこの作品自体でもいえることで、作品全体が「入れ子構造」というか「メタ構造」とでもいうものになっていると思う。それがこの作品のいちばんの面白さだろう。そういう眼でラストをみれば、「やられたな〜!」という感想にもなる。

 まあ今日はちょっと、我田引水な展開にはなってしまいそうだけれども、つまり先に引いた「FAKE」批判の方の文章って、まさにメディア・リテラシー能力の欠如をこそ売り物にしているような文章ではないか。この作品の「入れ子構造」とか「メタ構造」のことにまるで無頓着で、まるでテレビの「真相追求ドキュメント」でもみるような視点でこの映画をご覧になっている。いったいなぜ、森達也監督はこの「FAKE」のような視点でドキュメンタリーを撮られたのか、まるでおわかりになっていらっしゃらない。そういう意味ではまことに「希有」な観客ではあらせられるわけであって、そのような方が自らを「映画研究者」と書いているのだから、これはタチの悪い冗談ではないかと思ってしまうほどである。おそらくこの「映画研究者」の方、いったいなぜこのドキュメンタリーが「FAKE」というタイトルなのか、そういうこともおわかりになっていないことと思う。

 あらためて書くまでもないことだけれども、この「映画研究者」の方が書いた「FAKE」の問題点六つ、森達也氏はそんなことを描かないからこそ、この「FAKE」という作品は成り立っているのである。そんなことを問題にしたいのであれば、映画研究などおやめになって、テレビのワイドショーとかの研究に鞍替えされた方がよろしいのではないかと思う次第である。
 しかし、そんなにもこの「FAKE」という作品に問題を感じながらも、「是非とも観た方が良い作品だと思います」とまでおっしゃるというのは、それはどういうことなんでしょうね。彼はこの「FAKE」という作品の、どのようなところが「観た方が良い作品」とお思いになられているのでしょう。

 いったいどんな方がこのような文章をお書きになられたのかと興味を持ったわたしは、ちょっと検索をかけてしまったりした。そこで彼のポートレイトもみることが出来たのだけれども‥‥(そういうことを書いてはいけません。以下削除)。



 

[]「アンナ・カレーニナ」(2012) レフ・トルストイ:原作 トム・ストッパード:脚本 ジョー・ライト:監督 「アンナ・カレーニナ」(2012)   レフ・トルストイ:原作 トム・ストッパード:脚本 ジョー・ライト:監督を含むブックマーク

 わたしはもちろんこの原作は読んでいないけれども、長大な原作がこうやってすんなりと二時間ちょっとの映画に収まってしまうとも思えない。どこかで大幅な省略とか映画的処理がなされているだろうから、この映画を観たからといって「アンナ・カレーニナ」のことがわかったような気分になってしまうのは、もちろん間違いであろう。この映画は、トム・ストッパードによって解釈された脚本による、ジョー・ライト監督の演出した「アンナ・カレーニナ」なのである。とはいっても、トルストイの「アンナ・カレーニナ」という小説がこういうあらすじを持っている作品だと思い込んでしまうことは、別にかまわないんじゃないかと思ってはいる。

 監督のジョー・ライトは先日観た「ハンナ」の監督であり、ジェーン・オースティンの名作「高慢と偏見」を邦題「プライドと偏見」として映画化もしている。文芸作品の映画化が好きなのかと思うが、彼のフィルモグラフィーで文芸作品というのは「プライドと偏見」とこの「アンナ・カレーニナ」ぐらいのもののようである。この「アンナ・カレーニナ」では、劇作家としても著名なトム・ストッパードの脚本での映画化。そして、この作品の演出面の大きな特徴は、映画全体を古い劇場で上演される舞台劇、という枠組みを設定していることで、そういういろいろな箇所で人工的というか、リアリズムとは距離を置いた演出をみせてはいる。まあカメラがぐるりと移動するとリアルな情景に変化したり、リアルな風景がいつの間にか舞台に取り込まれてしまったりもするわけだけれども、ラストシーンできれいに枠組みに収めたな、という印象はある。
 舞踏会のダンスシーンで振付をシディ・ラルビ・シェルカウイが担当している。トータルな印象では面白いところも感じたけれど、個々のダンスは妙に手をくねくねさせる感じで、ちょっと奇妙に思ってしまった。

 ストーリー展開としては、つまりは夫に飽きて不倫に走った人妻が行き詰まって死を選ぶというもので、なんだか「ボヴァリー夫人」の骨子と似ている。世界文学の名作といわれる作品に、不倫に走る愚かな人妻を描いた作品がこうして並んでいるというのも、「どういうこと?」などと考えてしまったりもする。


 

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■ 2016-07-15(Fri)

 今日はまた、雨が降ったりやんだりの一日。気温はそんなに高くはならなかった。二週間に一度の内科検診の日だったのだけれども、家から外に出たときには雨もほとんど降っていなかったのに、しばらく歩いていると雨脚が強くなり、あわてて家に傘を取りに戻ったりした。もう七月も半分終わってしまったのだけれども、梅雨はなかなか終わらない。
 検診の結果はいつものように「異常なし」。夏バテなどにならずに、この夏もこのまま乗り切りたいものだ。

 ニェネントがやはり、わたしのそばに寄ってきて、わたしの顔をみてニャンニャンとなく。「もっとかまってよ」ということなのだろうか。いや、発情期もしばらくなかったので気がつかなかったけれども、ひょっとしたら久々に発情期なのかもしれないと、おしり(しっぽの付け根)をペン、ペンとやってあげる。「にゃ〜、にゃ〜」となきながらもその場でじっとしている。やっぱり発情期だったみたいだ。気がつかないでわるいことをした。

 今日の夕食は、日曜日に買ってあった納豆のさいごの一パック(もう賞味期限は切れているのだけれども、そもそも納豆というのはもとが腐っているようなものだから、賞味期限切れでもまるで平気)を使って、もやしとたまごといっしょに炒め、納豆オムレツにしてみた。これが予想外にとってもおいしかった。安上がりだし(一食分五十円以下で出来る)、おいしいし、そもそもが健康的。これからも食卓のローテーションメニューに加えようと考えた。こういうメニューをつづけていれば、一ヶ月の食費は一万円を切ってしまうことだろう。


 

[]「グラマ島の誘惑」(1959) 飯沢匡:原作 川島雄三:脚本・監督 「グラマ島の誘惑」(1959)   飯沢匡:原作 川島雄三:脚本・監督を含むブックマーク

 ちょっと前に「アナタハン島事件」というものを調べていたのだったけれども、この「グラマ島の誘惑」も、その「アナタハン島事件」に想を得て飯沢匡が戯曲化したものが原作という。「アナタハン島事件」とは、太平洋の孤島で終戦後も共同生活を五年にわたって継続させ、その島でただひとりの女性が「女王」として32人の男性たちを牛耳っていたというもので、島の男たちは「女王」をめぐっての殺し合いをも繰り拡げたという。この顛末は、あの「モロッコ」などを監督したジョセフ・フォン・スタンバーグが日本人スタッフ・キャストを使い、「アナタハン」というタイトルで製作しているらしい。わたしはそっちの作品も観てみたいのだけれども、とにかくはこの川島雄三監督の「グラマ島の誘惑」を観る。

 ‥‥、う〜ん、この作品、「終戦後もしばらくにわたって、南海の孤島で日本人の男女が奇妙な生活、島の統治をつづけていたのだ」というところで「アナタハン島事件」を想起させられるだろうけれども、その構成メンバーも異なるし(この映画では男が三人で女が九人)、<島の統治>ということもまるで違う。どうもこの「グラマ島の誘惑」、戦後日本社会のカリカチュア、というおもむきの作品のようではある。

 島にいた男のうちふたりは皇族の兄弟という設定で、兄が森繁久彌で弟がフランキー堺。森繁久彌はまったくの役立たず人間で、自分で何もしようとはしないのだが、フランキー堺の方は、趣味も多彩で、いろいろと生活に工夫を持ち込もうとはしているようである。もうひとりの男(桂小金治)はそんな皇族兄弟の付き人のような軍人で、典型的な皇国賛美思想の軍人。女性たちのうち六人は従軍慰安婦で、ふたりは報道班員の自称「詩人」(淡路恵子)と「画家」(岸田今日子)。残るひとりは戦死した夫の遺骨を抱いて帰国しようとしていた八千草薫。ここにもうひとり、原住民で島にただひとり残っているという三橋達也がいる。
 どうも、この森繁久彌が昭和天皇のパロディのような演技を見せるのだけれども、そのあたりはやっぱり「軽いモノマネ」ぐらいで終わっている印象はある。「戦争が終わってもそのことを知らずに島に居残っている」ということを体現しているのは、軍人の桂小金治ひとりにかかっているようなのだけれども、彼は心臓発作で死んでしまい、残ったメンバーは日本本土と同じ「戦後民主主義」のパロディのような暮らしをつづける。
 森繁久彌は沖縄出身のちょっと精神薄弱の宮城まり子に子を産ませたりするのだけれども(その子は早逝する)、ふたりでカヌーで島から脱出する(助かって本土に到達するのは森繁だけ)。後にアメリカ軍が島を訪れ、「戦争は終わった」として皆を本土に帰還させる(八千草薫は三橋達也とふたり、島に残るが)。従軍慰安婦らは本土でも活動再開しようとするけれど、売春禁止法が制定されてしまうだね。岸田今日子は「グラマ島の悲劇」という本を書き、これが大ベストセラーになってしまう。そしてそのグラマ島で、水爆実験が行なわれようとする‥‥。

 川島雄三監督としてははじめてのカラー作品ということらしいけれども、セット感丸出しの島の様子だとか、コマ落としでコミカル感を出す演出、画面いっぱいに出演者の顔がはみ出すショットとか、かなりいろいろと面食らってしまう。本当はもっと諷刺を効かせたかったのだけれども、このあたりが精一杯だったのでは? と感じられるところがないわけでもない。森繁が女優陣にセクハラまがいの「おさわり」をサラリとやってこますのだけれども、あれははたして演出なのか、それとも森繁の独走なのか、そのあたりのことはちょっとわからない。


 

[]「苦役列車」(2012) 西村賢太:原作 いまおかしんじ:脚本 山下敦弘:監督 「苦役列車」(2012)   西村賢太:原作 いまおかしんじ:脚本 山下敦弘:監督を含むブックマーク

 これまたまったく記憶から消えていたのだけれども、この日記で検索すると、わたしはこの映画を映画館で観ていたようだ。‥‥人間というのは(というか、「わたし」という人間は)おかしなもので、過去の記憶を失って、それからまた同じ映画を観てみると、だいたいが同じ感想になってしまうようだ。いちど過去に観ていた映画だとわかってしまうと、あまり書くこともない。


 

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■ 2016-07-14(Thu)

 六月の末に送られてきた「ひかりTV」の番組表といっしょに、ショッピングの案内のチラシが入っていて、そこに「ひんやり涼しい敷きパッド」、「ひんやりタオルケット」などという商品があった。これから暑い夏、価格も安かったので、「これは買っておこう」と、ネットから購入申し込みをしておいた。すぐに注文確認のメールが届いて、商品は注文後一〜二週間に代引きで発送されるということだったけれども、(誠に申し訳ありませんが、ご注文殺到の際にはお届けまでに二〜三週間程頂く場合がございます。)という但し書きも。「これは二〜三週間かかるのだろうな」と思ったわけだけれども、もう注文をしてから三週間になる。「そろそろ届いてもいい頃だ」と思っていたのだけれども、今日になって一通のハガキが届いた。「商品のお届け遅延のお詫び」。読んでみると、つまりは注文が殺到して(本当か?)商品の供給が追いつかず、お届けまでにあと二〜三週間かかるという内容だった。せっかく、この夏を乗り切るために買おうとした「ひんやり涼しい敷きパッド」と「ひんやりタオルケット」、これでは到着するのは夏のピークも過ぎてからのことになってしまうのではないのか。なんだかガックリである。これで広告に偽りのある粗悪品(ちっとも涼しくなかったりして)だったら怒るぞ。


 

[]「Dr.パルナサスの鏡」(2009) テリー・ギリアム:脚本・監督 「Dr.パルナサスの鏡」(2009)   テリー・ギリアム:脚本・監督を含むブックマーク

 実は五年前のあの大震災のとき、わたしは部屋でこの映画を観ていたのだった。いったいなぜそのことを記憶しているのかわからないけれども、とにかくは映画の内容は記憶していない。今日この映画をまた観ようとして、観ている途中でまた大きな地震が来るのではないかと、思わなかったわけではない。何ごともなく観終えることが出来た。つまらないことを考えていたものだと思う。

 この作品、テリー・ギリアムの作品としてはあの「ローズ・イン・タイドランド」の次に製作された映画、ということになるみたい。「ローズ・イン・タイドランド」はわたしのお気に入りの作品だけにこの作品にも期待したのだけれども、ちょっとそういう気分は裏切られてしまったみたいだ。
 何でも、この映画の撮影中に出演するヒース・レジャーが急死してしまい、ジョニー・デップやジュード・ロウ、コリン・ファレルが鏡の中の世界にトリップしたヒースを演じるということで作品を完成させたらしい。そういうところが作品の完成度にどこか影響を与えてしまったのかもしれない。

 冒頭からの、日本でいえばアングラのテント芝居を思わせるような雰囲気は、好きである。「見世物小屋」という空気。しかしここからあまりにCGモード全開というか、「手づくり感」がまるで失われてしまったことが残念。もちろん別次元の世界へ入ってしまう展開の物語だから、CGモード全開という展開も仕方がないのだろうけれども、テリー・ギリアム監督はこういうCGに頼りすぎの作品が多い。「ローズ・イン・タイドランド」がよかったのは、そこまでにCGばっかり、という展開でもなかったからだろうか。

 物語としては「ファウスト」の翻案、というところなのだけれども、だったらやはり、「時よとまれ、おまえは美しい」というのは活かしてほしかった気がするわけではある。ファウストに相当する役はクリストファー・プラマー、悪魔役はトム・ウェイツが演じているのだった。


 

[]「キリング・ゾーイ」(1993) ロジャー・エイヴァリー:脚本・監督 「キリング・ゾーイ」(1993)   ロジャー・エイヴァリー:脚本・監督を含むブックマーク

 これは映画館で観たのではないかと思うのだけれども、観ているうちに思い出した部分もある。わたしの中にあった「狂った、キレッキレのジャン=ユーグ・アングラード」というイメージは、この作品の記憶にあったようだ。

 ジャン=ユーグ・アングラードの計画するパリの銀行襲撃を手伝うために、ジャン=ユーグの旧友、金庫破りの達人のエリック・ストルツがアメリカから呼ばれる。パリに着いた第一夜にエリックは娼婦を呼ぶけれども、その娼婦がジュリー・デルピー。彼女は昼は堅気の職業についていて、夜は娼婦をやっているわけだけれども、エリックとジュリーは互いのことを気に入って別れる。そのあとはジャン=ユーグが仲間たちと襲撃前夜の前祝いを行ない、エリックも呼ばれることになるのだけれども、ドラッグをキメまくる乱痴気騒ぎ。こんなことやっていて、本番の銀行襲撃は大丈夫なのかと心配にはなるけれども、その危惧はみごとに的中するのだね。ついでに襲撃した銀行では、ジュリーが「昼のお仕事」をやってもいたと。
 エリックがみごとに金庫を破り、狙いの金の延べ棒を目の前にするジャン=ユーグらだけれども、警官隊に包囲されてしまうし、仲間はどんどんと射殺されていく。
 ま、けっきょくはジュリーとエリックは生き残り、ジュリーの機転でエリックも逮捕されずに解放される。

 この銀行襲撃団の前夜の狂った感じ、そして襲撃当日の銀行内の閉塞感、その展開なんかはいい感じ。監督のロジャー・エイヴァリーは80年代にクエンティン・タランティーノと同じヴィデオ・ショップで働いていたそうで、「レザボア・ドッグス」の脚本を手伝い、「パルプ・フィクション」の原案を考えた人物だという。この「キリング・ゾーイ」も、製作にタランティーノの名があるのだけれども、じっさいのところはまったく無関係で、名前を貸しただけ、だったらしい。


 

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■ 2016-07-13(Wed)

 昨日買ったパンで朝食をとっていると、またニェネントが寄ってきてわたしが食べているパンにちょっかいを出そうとする。今日のパンは「あんぱん」ではなく、ウィンナーのパン。ニェネントはウィンナーも好きだったのか。

    f:id:crosstalk:20160713093949j:image

 今日は一日ずっと雨が降ったりやんだりの天気で、まだまだ梅雨明けというのは先のことになるようだ。気温はそれほどでもないのだけれども、とにかく湿気が上昇していて、外から部屋に戻ると「ムッ」と来るものがある。
 昨日あれだけ寝てばかりの日を過ごしたのだから、今日はばっちり眼が冴えた一日になるのかと思ったら、やはり昼すぎには眠くなってしまうのだった。眠いときには寝るのがいちばん。そういうわけで今日も午睡を二時間ほど。寝ているあいだ夢をみていたようだけれども、すぐに全部忘れてしまった。

 夕食は昨日買った「うな丼」にしたのだけれども、そこまでに「おいしい」と感じるものでもなかった。まあ三百円しなかったわけだし。


 

[]「ペイルライダー」(1985) ブルース・サーティース:撮影 クリント・イーストウッド:監督 「ペイルライダー」(1985)   ブルース・サーティース:撮影 クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 イーストウッドの監督作品を何から何まで観たわけでもないのでわからないけれども、この「ペイルライダー」あたりから、イーストウッドの作家性が表面に出るようになるというか、作品の深みが増すような演出が目立つようになるのではないのか。とにかくはこの作品はとても興味深い作品ではある。

 そもそもが「ペイルライダー」というタイトルからして(原題も同じく「Pale Rider」)、ヨハネの黙示録に登場する「蒼ざめた馬に乗る騎士」を想起させられるし、キャサリン・アン・ポーターの作品にも「幻の馬 幻の騎手(Pale Horse, Pale Rider)」というものがあるようだ。そしてこの映画の冒頭、こつ然と現れるクリント・イーストウッドの乗る馬はまさに「蒼ざめた馬」なのである。つまりそれは「Death」なのだけれども、この映画でのイーストウッドは、人々に災厄をもたらす黙示録的な意味での「蒼ざめた騎士」ではなく、登場以降は「Preacher」と呼ばれることになる。これは字幕では「牧師」とされていたけれども、「訓戒師」とかそういう意味合いが強いだろうか。「訓戒のために遣わされた<死>」、みたいな感じ?

 金の採掘のために峡谷に住み着く集落を、大規模な採掘法を行なう鉱山会社の連中は追い出したいと思っていて、ならず者を雇って襲撃をかける。集落には夫を亡くした未亡人のサラ、その娘の15歳になろうとするミーガン、そしてサラと結婚したいと思っているハルらが住んでいる。ミーガンの飼っていた犬が襲撃で殺されてしまうけれども、集落に住む人々の結束は固く、土地を守ろうとする。町へ買い物に出たハルは町を牛耳る鉱山会社の連中の嫌がらせを受けるのだけれども、そこに現れた旅の男に救われる。ハルは男を集落に宿泊させようと案内するが、着替えをした男は牧師の格好をしているのだった。
 町で<牧師>に痛めつけられた鉱山会社の連中は、無法も辞さない連邦保安官の助けを求める。やって来た連邦保安官は<牧師>の話を聴くと、「その男は死んだはず」と答えるのだった。

 まず、<牧師>の姿を捉えるショットがあり、そのあとに再び<牧師>のいた場所にカメラが戻ると、もう<牧師>の姿はそこにはない、という描写が何度も繰り返される。<牧師>の存在の非現実感にもつながる描写である。
 <牧師>は無口で、多くを語らないが、その眼光は鋭い。このあたりの<牧師>の描き方には、何というか、しびれるものがある。ここに「人間らしい豊かな生活をしたい」と望む集落の人たちがいて、<牧師>も、無口ながらもそんな彼らの生き方を後押しするようである。こういう、根底にヒューマニズムを感じさせる展開に魅力を感じる。
 この題材は後の「許されざる者」に通じるところもあるように思えるけれども、わたしはこの「ペイルライダー」が好きである。

 ブルース・サーティースの撮影もすばらしいものがあり、特に、薄暗い室内の奥に開いたドアから外の風景が見えるような「場」の撮影、その明暗の対比が美しい。

 まだクリストファー・ペンと名乗っていたクリス・ペンや、リチャード・キールなんかも出演していたけれども、リチャード・キールの役どころは、ちょっと面白いものだった。


 

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■ 2016-07-12(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 ‥‥自分の過去を自慢げに語る全共闘世代ほど、始末の悪いものはない。
 こういう人物は前にFacebook で見かけたのだけれども、またそういう人物に遭遇した。今回の人物は「反安倍政権」でかたまっている人物だけれども、その論旨はつまりは「左翼原理主義」とでもいうのか、ネトウヨ諸氏の論旨を180度反転させただけのものにすぎない。そして、現在の「反安倍政権」運動というものは全共闘運動からの遺産である、みたいないい方になる。
 こういう人物の発言というものは、それこそネトウヨ諸氏から「サヨク」への侮蔑に利用されるだけのものであり、客観的にみても、「反安倍政権」運動というものはいいかげんな論理で成り立っているわけだなあ、という印象を与えることにもなる。

 いったいなぜ、そういう全共闘世代は成長しないのか。彼らに挫折体験はなかったのだろうか。そう考えると、いまだにそういう過去を誇らしげに語る全共闘世代というのは、実はじっさいには闘争の場にいなかったのではないのか、単に全共闘へのシンパシーを持っていた(持っている)だけの人物ではないのか、と想像できる気もする。
 じっさいに闘争の場にいて、その最前線に立っていたのであれば(いや、そうでなくっても当時のそのような思想に染まっていれば)、もろにどこかの時点で自分の思想、思考を問いなおさなければならない事態に直面しているはずである。そのようなアイデンティ・クライシスに立ち向かった体験があれば、「自分が過去に全共闘と共に闘争した経験がある」などということは安易に語れるはずはないのである。そして、過去にそのようなアイデンティ・クライシスに直面していない全共闘世代などというものは、つまりはニセモノであろう。害悪を流すばかりの存在であろう。ある面で右翼よりも質が悪い。などということを考えてみた。

 今日は寝てばかりの一日になってしまった。午後は一時頃から午睡して、目覚めたのはもう七時を過ぎていた。これだけでほぼ一日分の睡眠だというのに、夜は夜で、十一時頃からまたしっかりと睡眠をとってしまった。
 午睡から醒めたのが七時を過ぎていたので、夕食はまたスーパーへの買い物ですませ、半額になっていた刺身盛り合わせでの食事になった。あと、半額の中国産のうな丼、そして半額以下になっていたパンなどを買い、これは明日の食事用。明日はもうちょっとシャンとした一日を過ごしたいものである。


 

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■ 2016-07-11(Mon)

 参議院選挙の結果が確定した。自民・公明の与党で改憲に必要な三分の二の議席を占めてしまったようだ。まあ予測していなかったことではないし、それほどの失望はない。Yahoo!ニュースのコメント(いわゆる「ヤフコメ」)を読んでいると、つまり与党に対抗する民進党にも共産党にも投票などできるものではないということ。民進党は、先の民主党時代の政権奪取の際のことを、皆は「大失敗」と捉えていて、その記憶はまだ今も鮮明なものなのだ。共産党はつまりは「左翼政党」であり、自衛隊を違憲とし、天皇制も認めない政党と、ヤフコメ諸氏は認識している。民進党と共産党をいっしょにして「反日」とする意見も多いようだった。それ以外の政党はとても受け皿にはなり得ないし、そうすると投票するとなると自民党しかないのである。これが今回の結果。
 しかし、大事なのは、そういう自民党に投票するしかない人々が、そのまま安倍政権を支持しているのではないということである。これもヤフコメから読み取れること。ここに大きなポイントがあると、わたしは思う。つまり、民進党や共産党などの視点から安倍政権を批判するのではなく、保守内の視点から安倍政権を批判する声が大きくなれば、やむを得ず自民党に投票したような人々の同調を得ることが出来そうではある。そういう声に期待し、そういう声の盛り上がることをうながすような展開になれば、ものごとは安倍政権の思うがままにはいかないのではないだろうか。野党側の動きとしてはむずかしいところもあるだろうけれども、保守側の分裂を期待したいところはある(他力本願)。

 ニェネントはこのところ、窓から外へ出歩くことが多くなってしまった。そこで「万が一」のことを考えて、首輪をさせようかと考えることになった。今はこのアパートの敷地、前の駐車場より外には行こうとしないのだけれども、どんなきっかけで敷地の外の道路に出て行って、そのまま戻ってこれなくなることになるかもしれない。やはり「飼いネコ」のしるしの首輪、それと「迷子札」というのはつけておいた方がいいように思う。それでホームセンターで首輪を買って来て、ニェネントにつけてやった。さいしょは首輪を嫌がるかと思ったけれども、つけてやってもみたところ平気な顔をしてる。ちょっとホッとした。

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 そんな、首輪をして部屋の中を行き来しているニェネントをみると、「おや、おまえは飼いネコだったんだね」などと思ってしまうのだ。

 そのニェネントだが。わたしが昨日スーパーで買ったあんぱんとかで朝食にしてると、のこのことわたしに近づいてわたしの手に足を掛けてきて、あんぱんをかじろうとするのである。「これはオレの朝食!」と追い払おうとしても、しつっこく寄ってくるのである。どうやら「あんこ」が好きな気配。たしかに以前わたしがあんドーナツを買ってきて食べようとしたときも、かじりつこうとした前科があった。
 「あんこ」が好きなネコなんているのだろうかと調べてみると、「あんこ・クリームなどを好む猫もいるようですが、虫歯や肥満、糖尿病の原因になります。」というのを発見した。つまり、まるで人間とおんなじだ。

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[]「ハズバンズ」(1970) ジョン・カサヴェテス:脚本・監督 「ハズバンズ」(1970)   ジョン・カサヴェテス:脚本・監督を含むブックマーク

 カサヴェテスの映画はたしか、「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」という作品がめっぽう面白かったと思うのだけれども、その記憶も消えてしまっているし、そもそもカサヴェテスの作品で記憶に残っているものもない。そんなカサヴェテスの作品を実に久しぶりに観てみた。出演はカサヴェテス本人とピーター・フォーク、そしてベン・ギャザラ。

 親友の突然の死に見舞われた三人の旧友(皆ニューヨーク近郊に住んでいる)は、それぞれ家庭を持つ安定した地位にありながら、親しい友を失うという体験から深刻な影響を受ける。まずは三人で飲み明かし、昼はバスケや水泳に熱中し、その次には皆でロンドンへ行くことを唐突に決める。ロンドンに着いた彼らはギャンブルにふけり、それぞれが女の子を調達してホテルの部屋に戻ることにする。

 まずはスタートは不快な映画である。三人で飲み明かし、バーのトイレで延々と嘔吐し続ける。いったい何なんだ、この映画は。そしてまた飲みに行き、こんどはその場にいた別の客らを巻き込んで、それぞれが順番に歌を歌う。そんな中である女性のシンギングを、三人が徹底して「心がこもっていない」とけなす(聴いた感じでは、そこまでけなされるようなシンギングではないのはもちろんのことである)。ほとんどハラスメントである。観ていても不快になっていくのだけれども、「ああ、この三人は自分の生き方を問い直したいのだろう」ということになる。そして、この作品は「コメディー」なのである。三人の男たちは右往左往して迷いながら、行き着く先は滑稽な状況ばかりである、といっていいだろう。いい歳こいた男たちが、いざ「人生を楽しめ!」という選択をしようとしても、実のところそういう自己のキャパシティもテクニックも持ち合わせてはいないということか。

 わたしがいちばん印象に残ったのは、ロンドンで女の子をゲットする手腕も持ち合わせていなかった(恐ろしい老婆に声をかけてしまい、逃れるのに四苦八苦する)ピーター・フォークが、ベン・ギャザラが調達たふたりの女性のひとりの中国の女性とまるでコミュニケーションが取れないというシーン。中国の女の子はただ泣くばかりで言葉はまるで通じない。彼女は土砂降りの外に出て行き、ピーター・フォークも彼女を追って外に飛び出すけれども、ただ濡れそぼって街頭にたたずむだけ。何なんだろう。ただ「不器用な男」ということだろうか。でも、英語をしゃべれないような中国の子が、キスをすると舌を入れてくる。そのことにピーター・フォークは怒る。どこかにピュアな何かが残っている。
 カサヴェテス(背が低い)が選んだのは大女。カサヴェテスはそんな彼女に動物的に向かっていく。なんだかカメラがメチャクチャなシーン。ベン・ギャザラも、次の朝になってみるとまた別の女の子三人とお茶している。けっきょく、このベン・ギャザラだけ、アメリカには戻らずにロンドンに残ってしまう。

 たしか冒頭のテロップには<「生」と「死」、そして「家族」についてのコメディー>とあったと思ったけれども、なんだか「生」も「死」も、そして「家族」も、すべて分解してしまうように感じる作品だった(ラストには家族へと回帰するヤツもいるわけだけれども)。
 「面白い」か「面白くない」かというとよくわからない作品だけれども、どこか妙に心にひっかかかる作品ではあった。カサヴェテスにはもっとめんどくさい作品もあったと思うし、また、もっとスカッと楽しめる作品もあったことと思う。


 

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■ 2016-07-10(Sun)

 ふうむ。ちょっと夏バテ気味なのでしょうか。昨夜ウィスキーを飲み過ぎたわけもないけれども、今日はなんだか一日だるい。昼寝もいっぱいして、とにかく何もしない一日。これはこの日が参院選の投票日で、どうせ喜ばしくない開票結果が出るに決まっていると予測がつくから、そういうことで「グッタリ感」を先取りしているのかもしれない。
 気になっていた投票率も、午後六時の段階で三十パーセント台の後半という感じ。これは八時までどんなにがんばっても60パーセントになど届かないだろう。50パーセントもむずかしい感じがして、そんなことになってしまったらなんと情けないことだろうと思う。

 夕食をつくるのもめんどうで、七時半ごろになって値引きの始まるのを見越して、南のスーパーに買い物に出た。中華弁当190円、「カツオのたたき」半額、自家製パン三個詰め合わせで半額以下、それと納豆25円などというものを買う。今夜は中華弁当にして、明日の朝食は買ったパン、昼食はしばらくは納豆にしよう。

 今日はニェネントが寄ってきて、わたしの顔をみてやたらにニャアニャアとなく。何かを訴えているのだろうけれども、ご飯の時間は終わったばかりだし、さっきはカツオのたたきをわけてあげてるし、何を要求しているのかさっぱりわからない。「にゃんですか?」と聴き返しても、ニェネントはネコだからただニャアニャアとなきつづけるだけなのだ。こまりましたね。


 

[]「動物という文化」日高敏隆:著 「動物という文化」日高敏隆:著を含むブックマーク

 図書館のリサイクルでもらって帰っていた本。まず第一部は「動物のパターン」。これは、ダーウィンのとなえるような進化論によって、生物というものは単純な形態から複雑なものへと「進化」したと考えるのではなく、単純な生物にもそれ独自の生態があり、それは他の生物に比べて「劣っている」とはいえないのではないのか、という論旨にしたがって、さまざまな地球上の動物の生き方のパターンを簡略に述べたもの(植物も生物だけれども、ここでは論及しないことになっている)。これって、わたしでも多少は記憶に残っているのだけれども、この書名に「文化」ということばがあることから類推がつくように、「文化人類学」の方法論を「動物」の種にあてはめたものではないかと思う。
 しかしながら、「文化」ということばにはその種が持っている遺伝形質ではなく、後天的に獲得されたもの(この定義はWikipedia の「文化人類学」の項より)という定義があるとすれば、ここでの著者の「文化」というとらえ方はいささか勇み足ではないのか、という疑問はある。ここは「ある集団の中で、個人的なものではなく、ある集団の成員に多かれ少なかれ共有されるもの」(同じくWikipedia の「文化人類学」の項より)という定義こそが、あてはまるものではあるだろう。しかし、「肛門」があるとないとでは、動物のあり方は大きく異なるものであることよなあ、などとは思うわけである。
 第二部は「動物の生きる条件」。これはそれぞれの動物の所有する器官、そして種の存続についてのもんだいを、動物の種ごとに考察していく。一見不合理な器官、種の存続法を持っているような動物にも、そのようなあり方を成り立たせる要因があるのだということ。ここでも、どの動物が他の動物よりも優位、などという視点はとられてはいない。さいごに「進化」のもんだいを、突然変異、自然淘汰ということを通じて考えていく。
 「あとがき」は、わたしも読んだことのある阿部謹也氏によるもの。


 

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■ 2016-07-09(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 大崎の美術館で行なわれている展覧会にAさんが参加しているので、今日はこれを観に行く。天気予報では関東地方は雨のようにいっているけれども、なんとか降らないで持ちこたえているという感じの天候。このまま降らないでくれるといいのだが。
 いつもは、東京方面へ行く電車に乗って眠ってしまっても大宮あたりで目が覚めるのだけれども、今日は池袋あたりまでぐっすりと眠ってしまった。すっかり車中で睡眠をとるのがクセになってしまっているけれども、わたしはこういうクセがいいことだとは決して思っていない。出来れば電車の中でもいつもシャンと起きていたい。

 いちど渋谷で下車して外に出ると、駅前で明日の投票日に備えて今夜行なわれるらしいイヴェントの準備が行なわれていた。女の人が「100% VOTE!」と書かれたプラカードを持って、明日の投票への呼びかけをされている。同じく「100% VOTE!」と書かれたうちわを歩く人に配っていて、わたしももらってしまった。こんかいの選挙から選挙権(投票権)が18歳以上に引き下げられ、そういう新しい有権者への呼びかけなのかもしれない。

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 この頃の選挙はいつも、投票率がやっと50パーセントを越えるぐらい、60パーセントに遠く届かないような数字でしかなく、それでは民意が示されたことにはならないだろうと歯がゆい思いをしている。せめて有権者の三分の二ぐらいは投票するようにならないと、「健全な社会」とはいえないのではないかと思ったりもする。はたして今回はどうなるのだろうか。選挙結果の予測はだいたいついていて、いわれている「改憲勢力」が全議席の三分の二に達してしまうのではないだろうか。そのあたりのことはもうあきらめるとして、投票率がどのくらいになるかということには興味がある。

 大崎に出て、会場の美術館へ行く。去年もこの場所には来ているはずなのに、もう記憶から抜け落ちてしまっていて、駅の改札を出たあとの道がわからなかったりする。

 なんとか経路を思い出して会場にたどり着き、会場にいらっしゃったAさんともお会いすることができた。この展覧会は日本画、水墨画の作家によるグループ展で、わたしなどがみても技術的に水準の高い作家さんたちのグループと思える。オーディナリーな「日本画、水墨画」というところから踏み出すような作品も見受けることができるわけで、グループ展としてのレベルは高いものに思えた。しかし作品自体はぜんたいに安定しているというか、観るものの気もちをかき乱すような作品というものはあまりない(Aさんの作品はそういう意味で例外的か)。そういうのでは、Aさんが春に参加されている上野の都美術館での展覧会の方が、八方破れのエネルギーに満ちているようには思う。

 短い時間だったけれどもAさんとお話しして、まだ明るいうちに帰路に着いた。けっきょく雨に降られることはなかったのはよかった。またターミナル駅で下車し、今日はいつもと反対側へ行き、家電量販店をのぞいてみた。炊飯器をチェックしてみようという目論みがあったのだけれども、店内に入ってそういう炊飯器の並んでいるコーナーにたどり着くと、たいていの炊飯器には三万円とかの値札がついていて、わたしはちょっとおどろいてしまった。もっと一万円台のとか、一万円以下のものとかが選べるものと思っていたのだけれども、端の方に一万円以下のものが三機種ほど並んでいるだけ。これではちょっと選択肢が狭すぎる気がして、やはりAmazon とかで買ってしまった方がいいだろうか、などと考える。
 家電店を出て、向かいにあるスーパーへ行ってみる。いつも行くスーパーとは別の店だけれども、ここも閉店に近い時間で値引きされた商品が多く並んでいた。半値になっているサラダのパックとか惣菜を買い、酒のコーナーをのぞくと洋酒が安かったので、Canadian Club なんか買ってしまった。帰宅して買って帰った惣菜で晩ご飯にして、そのあとウィスキーをなめてから寝た。


 

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■ 2016-07-08(Fri)

 投票日当日は出口調査とかうるさいし、静かな平日に投票しておこうと、前回につづいて期日前投票に行く。そのついでに、市の美術館で開催されている松本零士展も行くことにした。

 期日前投票の方は、ちょうどわたしが行ったときだけ混み合っていた。すんなりと投票出来ることと思い込んでいたので、まっすぐ投票所に入ろうとしたのだけれども、「しばらく外でお待ち下さい」と外の椅子で待たされた。八人待ち、というところ。そんなに期日前投票に来る人がいるとは思ってもいなかった。投票を終えて入り口をみると、もう順番待ちしている人なんていないのだった。もうちょっとだけ、行く時間をずらしていればよかった。

 投票を終え、投票所の市役所からそんなに離れていない市立の美術館へ行く。この美術館には以前何かの展覧会でいちど来館した記憶があるけれども、この日記で検索しても出てこない。まあわたしはこの日記で自分がどこに住んでいるのか隠しておきたいという気もちもあるもので、そういう思惑から、行ったことがあっても書かなかったのかもしれない。

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 平日の午前中だけれども、美術館の中にはちらほらとお客さんの姿もあった。外人のお客さんの姿も見かけたけれども、このあたりもそれなりに海外の方も暮らしておられるので、そういう方なのかもしれないし、松本零士のファンで遠方からやって来られた方なのかもわからない。

 美術館を出て、歩いたことのない裏道をちょっと歩いてみた。表通りの方はわたしがこの土地に越してきた頃にすっかり整備されてしまって、「古い街並み」というおもかげもないのだけれども、ちょっと裏通りに入るとそれなりに古い建物も残っている。この町は明治後期から大正にかけて商業で栄えた町で、特にこの駅の北側には、今でも少しはそんな名残も残っている。このあたりにはめずらしく坂道もある町で、その坂の段差が、町のちょっとしたアクセントにもなっていると思う。
 歩いていると、黒塗りの板壁の家があったのだけれども、その壁の隅に白い文字で小さく「らーめん」と書いてある。反対側の下の方にはラーメンの器のうず巻き模様も書かれている。あまり「店」にはみえないけれども、昔はラーメン屋だったのだろうか。それにしてもこんなに気恥ずかしげに小さく書かなくっても、もっと堂々と書けばいいのに、とは思ってしまう。意外と今でも現役のラーメン屋なのかもしれない。

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 昼ごろに帰宅して、午後からは二本の映画を観た。

 

[]「松本零士展 ―夢の彼方に―」@筑西市・しもだて美術館 「松本零士展 ―夢の彼方に―」@筑西市・しもだて美術館を含むブックマーク

 この美術館は箱は立派なのだけれども、今までわたしの食指の伸びるような企画の行なわれたこともなく、じっさい「工藤静香展」だとか「片岡鶴太郎展」のような、「それって、美術作品に注目してのキュレーションじゃないでしょ」みたいな展覧会とか、あとは普通に地元作家にスポットをあてるような展覧会ばかりなのである。まあハコモノ行政の産物なの?って感じではあったのだけれども、今回の「松本零士展」は、この美術館としてははじめて、ちゃんとした企画で開催された展覧会じゃないの?とも思えてしまうのである。それは「工藤静香展」や「片岡鶴太郎展」と同じように、一般に知名度の高い作家の作品をならべただけ、みたいなところも感じるけれども、いちおう現代のアートのフィールドに「マンガ表現」も参入させるという風潮を読み取っての企画、という一面も感じられ、地元民として期待してみたわけである。

 しかしわたしは、松本零士のマンガをそれほどまでに読んでいるわけではない。有名な「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」なども、いたいどういう話なのか知りもしない。この展覧会向きの観客ではないだろう。
 会場入り口のところには手塚治虫による松本零士への賛辞があり、それによると手塚も早くから松本零士の投稿などで「九州に松本といういいマンガ家がいる」という認識はあり、その後手塚が九州に旅行していたときに急遽作品を仕上げなければならなくなり、その時に松本に来てもらって手伝ってもらったことがあるらしい。

 展示作品の多くはやはり「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」関連のものが多いのだけれども、その初期のまるで手塚治虫そのままのような作品のコピーや、珍しい少女マンガ作品のコピーなどは目をひいた。雑誌掲載の原稿をそのまま一回分全部展示してあったり(それはそれでいいのかもしれないけれども)、作品のデータ的情報が書かれていなかったり、ちょっとアバウトなところも感じられる展示ではあったけれども、やはり松本零士のミニュアチュール的描写の達筆さなどを堪能することができた。
 彼の駆け出し時代には「週間漫画ゴラク」の表紙を何十点も担当していたそうで、その彼らしいエロティシズムあふれる作品(コピー)も展示されていたけれども、親子連れで訪れたお客さんには、このコーナーはきっと気恥ずかしいものだったことだろう。

 これからも、この美術館には今回みたいないい企画を実現してほしいと思うのだけれども、会場に書かれていた「今後の展覧会予定」をみると、やはりそんな期待は空しいみたいだった。残念。


 

[]「ロマンス」(2015) タナダユキ:脚本・監督 「ロマンス」(2015)   タナダユキ:脚本・監督を含むブックマーク

 タナダユキ監督の作品はだいたい観てきたはずではあるけれども、例によって記憶に残っていない。記憶の問題がおさまってから観たはずの「百万円と苦虫女」も、今ではほとんど憶えていないのが悲しい。

 この「ロマンス」は小田急電鉄との提携作品で、つまり「ロマンス」とはロマンスカーの「ロマンス」でもある。わたしも昔は町田の近くに住んでいたこともあり、ロマンスカーにはよく乗ったものだけれども、この映画でみると座席の色こそ昔とはちがっているけれども、車内の雰囲気はそんなに変わっていないと思った。

 主人公の鉢子(大島優子)はロマンスカーで車内販売を担当するアテンダント。郵便受けに届いていた手紙を出勤するときに持ってきていたのだけれども、それは母からの手紙。ずいぶん昔に離婚して、それからも男をとっかえひっかえしてきている困ったお母さんである。手紙でまた男と別れたといい、昔の懐かしい場所に旅行してみたいという内容だった。鉢子うんざり。同僚の久保さんはミスを繰り返し、こちらにもうんざり。鉢子がワゴンを押しながら客席をまわっていると、そのワゴンから商品を万引きしようとする男(大倉孝二)がいた。ひっつかまえて終点の箱根湯本で駅員に引き渡すのだけれども、スキをみて男は走り出し、改札もジャンプ越えして駅の外に逃げようとする。しかし俊足を誇る鉢子は彼を追い、しっかりとつかまえてしまうのである。
 男を駅事務所に連行し、彼女は勤務に戻ろうとするのだが、男は事務所から解放されて鉢子のそばにきて、彼女に親しげに話しかけ始めるのである。イラついた鉢子は男を無視し、ついでに母からの手紙をゴミ箱に捨てて勤務に戻ろうとする。しかし彼女は乗り込むはずのロマンスカーに乗り遅れ、おまけに男は鉢子の捨てた手紙を拾い出して読んでいて、しかもその手紙の内容から、「あなたのお母さんは死のうとしているのではないか。なんとかしなくては」などといいだすのである。男は桜庭といい、映画のプロデューサーをやっているのだという。ここから鉢子と男との奇妙な旅がはじまるのである。

 ほぼ全篇、この大島優子と大倉孝二のふたりだけのロードムービーという趣で、箱根周辺のスポットを周遊する感覚なのだけれども、主人公ふたりのやりとりがとにかくは楽しく、これは脚本も書いているタナダユキのちからだろう。どこか軽薄で調子のいい大倉孝二に対して、「オッサン」と呼び返しながら辛辣に切り返す大島優子。そんなこんなしながらも、たがいに相手の気もちを尊重するようになっていく。「まさか」のホテル同室宿泊などという事態になったりするけれども、そこは無事に切り抜けるか。
 う〜ん、ちょっと大倉孝二が自分のことをあれこれと言葉で説明しすぎた感もあるけれども、ま、さわやかな気分になれる作品ではあっただろう。タナダユキの、どこかシニカルな目線もいい感じ。


 

[]「ジョン・カーペンターの要塞警察」(1976) ジョン・カーペンター:音楽・脚本・編集・監督 「ジョン・カーペンターの要塞警察」(1976)   ジョン・カーペンター:音楽・脚本・編集・監督を含むブックマーク

 ジョン・カーペンター監督はこの作品を「リオ・ブラボー」へのオマージュとして製作したそうで、その展開など「リオ・ブラボー」からとられている部分も大きいらしい。わたしは「リオ・ブラボー」を観ていないのでそのあたりのことはわからないけれども、これは面白い作品だった。

 まずは、六人のギャングが警官によって射殺されるという事件。これでギャングの仲間どもが復讐計画をたてるらしいのだが、このギャング団の標的はまずは巡回アイスクリーム屋(おそらくはギャング団の裏切り者だったのか?)。ギャング団はアイスクリーム屋に狙いをつけるのだけれども、そこに少女がアイスクリームを買いにやって来てしまう。ギャング団は残酷にもアイスクリーム屋といっしょに少女も射殺してしまう。銃声で近くにいた少女の父親が駆けつけると、少女はすでにこと切れていた。まだ息のあったアイスクリーム屋が「車の中に銃が‥‥」といって息絶え、父親は車中から銃を取り出してギャング団のひとりを射殺する。するとこんどはギャング団はその父親を追うことになる。父親は町の警察署に命からがら逃げ込むのだが‥‥。
 一方、その父親の逃げ込んだ警察署は移転の準備中。翌朝にはすべて新しい署に移転完了のはずで、もう電話も使えなくなっている。この夜署に滞在しているのはふたりの男性警官とふたりの女性事務員だけ。ところがそんな警察署に、護送中の凶悪犯三人を乗せた護送バスが急遽立ち寄ることになる。護送中の凶悪犯のひとりが重病らしいのである。警察署には地下に留置場があったので、そこに護送犯を収容すればいいという判断だが、その三人の凶悪犯のひとりは有名なナポレオン・ウィルソンという極悪人なのである。
 三人の凶悪犯が署に入ろうとする瞬間に、時を同じくして逃げてきた父親も署にたどり着き、署全体が追ってきたギャング団の第一攻撃を受ける。父親はかろうじて助かるが、凶悪犯を護送してきた警官と運転手、そして重病だった護送犯はギャング団に射殺される。署内に残ったのは警官がふたりと凶悪犯ふたり、逃げ込んだ父親と女性事務員ふたりだけ。武器もほとんどない。しかもギャング団は想像を超えた大人数。ついにいちどは留置場に収容された凶悪犯ふたりも署の防御のために留置場から出され、いっしょにギャング団と戦うことになるのだ。

 ろう城する警官のひとり、そして凶悪犯のひとりも黒人なのだけれども、黒人の警官ビショップはほぼこの作品の主人公といっていい人物で、基本のろう城作戦も彼が練る、リーダー的存在。けっこうおしゃべりでもある。もうひとりの黒人凶悪犯はこのチャンスに乗じて脱走してしまうか?と思わせながら、なかなかにいい役割を果たすことになる。そしてナポレオン・ウィルソンはクールなタフガイ。とにかくは生き残るために全力を尽くすのである。逃げ込んだ父親はそのあとは生きてるのか死んでるのかわからない、まったく出番のない存在。女性事務員のひとり、リーはものごとに動じないクール・ビューティーで、片腕を負傷しても銃でギャングどもをやっつける。カッコいい。その他のふたりは早い段階で射殺されてしまうので、映画のほとんどは父親をのぞいた四人のサバイバル劇。とにかくは寄り道のない一直線の演出がクールだし、ビショップとナポレオン・ウィルソン、そしてリーというキャラクターが立っていて、観ていて引き込まれてしまうのである。
 ラストもまた、クールで決まっていてよかったな。


 

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■ 2016-07-07(Thu)

 午前中は心療内科のクリニックへ行って処方せんをもらって来た。所要時間三十分。お手軽な通院である。昨日は市民病院に行って処方せんをもらってきたのだけれども、心療内科クリニックから帰宅して薬を入れてあるケースをチェックすると、市民病院で処方されている薬はまだまだ残っているのがわかった。まだ二週間先の通院でもまるで問題はなかった。それでももう処方せんはもらって来てあるので、ドラッグストアへ行って処方してもらって来た。

 今日は暑くなってきたので、また和室の窓をちょっとだけ開けて、風通しをよくする。するとニェネントがやって来て、窓のすき間を拡げて外に出てしまう。もうニェネントにとっての「外の世界」というのは、前のようにわたしがしごとから戻ったときにドアから飛び出す世界ではなく、わたしが和室の窓を開けたときに飛び出す世界になってしまったようだ。こっちの「外の世界」は、だいたいベランダの範囲内のことだし、向かいの駐車場はめったに車も来ないし、もちろん人の行き来もないし、そういう意味では、ちょっとぐらいわたしがニェネントから目を離していても、安心していられる気がする。ニェネントが外に出てしまってもそのまま放置して、しばらくして「どうしてるのかな」とベランダをのぞくと、たいていはベランダでのんびりしている。たまに駐車場の敷地に降りてしまっていて、あたりに生えている雑草を食んだりしているときもあるけれども、わたしとしてはあんまり心配するわけでもない。「もうそろそろ部屋に戻らせるかな」と思ったら、リヴィングの方の窓を開け、わたしがベランダに出て行くと、和室の窓から部屋の中に舞い戻ってくれる。駐車場の敷地にいるときにはちょっとめんどうで、いちど玄関から靴を履いて外に出て、駐車場の方に足を向けてやらなければならない。ニェネントは、わたしが来たな、という気配を察すると、部屋に戻ってくれる。
 今のところはそうやって必ず部屋に戻ってくれるからいいのだけれども、そのうちいつか、部屋に戻らないで変なところに行ってしまうのではないかという危惧がないわけではない。まあニェネントにとって「見知らぬ外の世界」というのは危険な場所という認識とか、それに近い感覚は持っているようで、自分は「ここは安心」と認識している範囲の外の世界、それよりも外には行こうとしないようなので助かる。しかしひょっとして、妙な好奇心を起こして知らないところに行ってしまわないとも限らない。ベランダに出るという習慣をやめさせようとは思っていないけれども、こういうところではいつもの「臆病な」ニェネントでいてほしいと思っている。

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[]「復讐するは我にあり」(1979) 佐木隆三:原作 今村昌平:監督 「復讐するは我にあり」(1979)   佐木隆三:原作 今村昌平:監督を含むブックマーク

 観ていて、「このモデルになった事件は知っている」と思った。映画では榎津という名前になっているけれども、たしか「西」の字のつく名前じゃなかっただろうか。あとで調べたらこの連続殺人犯、西口彰という名前だった。「西」というのは当たっていた。こういう古い記憶は今でもまんざらではない。

 作品はまず、その榎津巌(緒形拳)がふたりの男を刺殺して逃亡を図るところから始まる。詐欺の常習犯として前科のあった榎津の犯行であることはすぐに露見し、彼は全国に指名手配される。連絡船の甲板に靴と遺書を残して自殺したとみせかけるも、警察はすぐに偽装と見破る。犯行から78日後に彼は逮捕されるが、その逃走中にさらに三人を殺害していたことがわかる。映画はその逮捕の時点から過去にさかのぼり、彼の家族関係、逃走の経路、重ねられた犯行をねっとりと描いて行く。カメラは今村昌平の作品でいつも活躍する姫田真佐久で、ここでも随所で彼の手持ちカメラが印象に残る。

 今でいえば榎津という男はシリアルキラーなのだけれども、その殺人の理由は基本は金目当てでしかない。これは冒頭のふたりの殺害と、逃走中の老弁護士の殺害がそうであろう。しかし、彼が浜松で投宿する宿屋のおかみのハル(小川真由美)とその老婆(清川虹子)までも殺害する件は、たんじゅんに金銭目当てともいえないような部分もあるようにみえる。榎津とハルには情交があり、ハルはあるとき榎津が全国に指名手配されている殺人犯であることを知ってしまってからも彼をかくまおうとする。たしかに榎津はふたりを殺したあとに宿屋の家財を一切売却して逃走資金に充てようとしていたようだけれども、この二件の殺人はほかの三件とはちょっと性格が異なるだろう。

 あとはこの実父(三國連太郎)と妻の加津子(倍賞美津子)との関係、というものがやっぱりこの作品のポイントになってくるわけで、このポイントで、この作品は単にシリアルキラーを描いたというところから脱却出来ているという印象。
 父は敬虔なクリスチャンで、戦前は網元を営んでいたようだが、軍に漁船の供出の命令を受け、抵抗するも軍人の殴打される。そのさまを榎津は目撃していて、父親への信頼も神への信仰も失ってしまったようで、それ以降非行を繰り返すようになる。そんな中に加津子と結婚する。父は漁船供出で得た金で別府で旅館を経営していて、老いた母(ミヤコ蝶々)は病床に伏しがち。その旅館で父と同居する加津子は、クリスチャンとして父を尊敬、敬愛することになり、榎津はそんな妻と父との関係を疑いもする。
 さて、映画を観るかぎり、この父は隠れた偽善者として描かれてもいるようで、自分だけは善人面をしながらも嫁の加津子とは危うい関係をつづけ、つまりは榎津の犯罪との距離の取り方も、親として危ういところがあるだろう。終盤にそんな父と榎津が留置場の面会室で対決するシーンがあり、この作品のちょっとしたヤマ場にはなっている。「人を殺すならあんたを殺すべきやった」と語る榎津に父は、「おまえは憎んでいる人間は殺せんヤツだ」と、その顔にツバを吐く。

 映画は死刑執行された榎津の遺骨を、父と加津子とが散骨するシーンで終わる。ここで骨を投げるごとにストップモーションが多用されるのだけれども、わたしはここは「決めの一回」だけでよかったようには思う。

 ちょっとだけ個人的感慨を書いておけば、この三國連太郎の演じる「父」は、わたしの父と同じようなものだと思った。わたしの父はクリスチャンではなかったけれども、偽善者としてのあり方はまるで同じ。この映画で、息子の榎津の側から父への直接の復讐は行なわれず、そういう意味では殺人を繰り返すことで父への復讐を果たしたといえるのだろうか。わたしはわたしで父への復讐はやった。わたしはクリスチャンではないから、「復讐するは我にあり」などと思ってはいないのだ。


 

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■ 2016-07-06(Wed)

 このところあまり夢をみない。みても記憶していない。熟睡しているということなのだろうか。
 しごとのあと、市民病院へ診察に(処方箋をもらいに)行く。昨日のように涼しくはないけれども、さほど暑いというのでもない。待ち時間をつぶすため、今日はスティーヴンソンの短編集を持って行って読んでいた。しかし今日は待ち時間はそれほどでもなく、さいしょの一篇を読み終わる前に順番がまわってきてしまった。おかげで昼前には帰宅。インスタントのつけ麺でかんたんな昼食をすませ、アラームをセットして二時間ほど昼寝をする。

 記憶力の悪さというものは、思考力の悪さに結びつくものなのだろうか。思考する上で過去のわたしの脳内データを参照するひつようがある場合など、まちがいなく、記憶がないということはマイナスにはたらくだろう。それに、現在のわたしは、海馬の部分でその機能がちゃんとはたらいていないのではないかと思ってしまう。発作以降、海馬のところでどこか損傷したままになっているのではないだろうか。この日記でチェックしてみても、五月に観た映画ですでにその内容の記憶が薄れてきているものがあるし、三月や四月に観た映画では、もうそのタイトルだけではまるで内容の思い出せない映画が多い。読んだ本はもっといけない。その内容をまったく思い出せない本がリストに並んでいる。いったいこれは普通のことなのだろうか。やはり記憶力が悪すぎる気がする。前に考えたように、東京にある「側頭葉てんかん」専門のクリニックでいちど診断を受けた方がいいようにも思う。
 今日観た「私の男」という映画も、二年ほど前に映画館で観た映画なのだけれども、今ではほとんど記憶に残っていない。今日観たことも、近い将来には忘れてしまうような気がする。


 

[]「私の男」(2014) 桜庭一樹:原作 熊切和嘉:監督 「私の男」(2014)   桜庭一樹:原作 熊切和嘉:監督を含むブックマーク

 前回観て今も記憶に残っていたのは、冒頭の二階堂ふみが流氷の海からあがってくる場面と、その二階堂ふみと浅野忠信との「血の雨」のシーン。それ以外は、どんなストーリーなのかも記憶に残っていなかった。

 この作品も昨日観た「さよなら渓谷」のように、ちょっとアブノーマルなシチュエーションの男女関係を描いたものだろう。そのアブノーマルさは、ふたりの合意で成立しているわけで、ふたりの外の世界は排除される。この「私の男」では、そんなふたりの世界に介入して来ようとする存在がいろいろとあるわけで、そんな存在にふたりがどのように対処するのかということで映画は進行して行く。

 映画は大地震で奥尻島を襲った津波で生き残った花(二階堂ふみ)と、彼女を引き取って養育する、遠縁で十七歳年上の淳悟(浅野忠信)との関係を追っていく。まずは淳吾と交際していた小町という女性がいるのだけれども、淳吾と花との関係に異常さを感じて淳悟から離れて行く。次に、花のことを気にかけていつも見守るようにしている、遠縁の大塩という老人(藤竜也)がいて、大塩は花と淳悟との関係に疑念を抱く。というか、ある場面をみてしまうのだけれども。そのことで大塩は花に話をし、ふたりに距離を置かせようとするのだが、そんな大塩への花の反撥は強かった。海上保安庁に勤めていた淳悟は海上保安庁を辞め、花と東京に出てタクシーの運転手になる。そこに大塩老人の不審死を調べる警官が私服で、淳悟ひとりでいた住まいを訪ねてくるが、大塩老人の死に花が関与していた証拠を突きつけられた淳悟は、その警官を殺害する。それから淳悟の生活は荒廃し、彼らの住まいはゴミ屋敷みたいになっていく。
 花は高校を卒業して就職するのだけれども、その職場の同僚が彼女に興味を持つ。酒の会の帰りに花をタクシーで送った同僚は、淳悟に招かれて彼らの家にあがるのだが、淳吾に服を脱げといわれ、まるでなぶられるようなことをされる。逃げようとする男に、淳悟は「あんたには無理だよ」という。
 時が経って、花は結婚することになるようだ。結婚式前夜、花は新郎とレストランで淳吾と会うことにする‥‥。

 熊切和嘉監督の作品は、先日「海炭市叙景」を観て以来だけれども、風景の中に人間をポツンと置いていくような演出は共通していると思った。この作品では被災した花の少女時代と、その高校時代、そして東京に出てからと、演出手法を変化させてつくっているようだった。少女時代の夜の描写で、一方に外の遠景の「青」があり、一方にライトに照らされた花の顔の「赤」がそれに対比される。そして北海道での高校時代では白い雪の世界が印象的。

 正直いうと、わたしはここで描かれたような世界、人間の関係にはあまり興味がない。そしてその「興味のなさ」を越えて映画に惹き付けさせる牽引力が、そこまでにある作品だとは思わない。いったい「風景」を描きたいのか、それとも「人間」を描きたいのか、よくわからない映画だと思ってしまった。そういう点では、(あまり映画を比べることはしたくないけれども)昨日観た「さよなら渓谷」の方に、わたしは惹き付けられる。


 

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■ 2016-07-05(Tue)

 今日は一気に、涼しい一日になってしまった。ニュースでも、今日の最高気温は22度ぐらいだったといっていた。空は曇っていて雨が降りそうだけれども、降るまでにはならない。まだ梅雨明けにはなっていないけれども、今年の梅雨はあまり雨が降らなかったという印象がある。しかし暑くないというのは快適というか、閉め切った室内でエアコンをつけないでいても平気なのはいい。
 昼になって、「あれ、そろそろ心療内科の診察の予約の日だったんじゃなかったかな?」と思って診察券をみてみると、昨日が予約日だった。ほんとうに、この心療内科の予約日というのはいつもいつもすっぽかしてしまう。何か無意識のうちに「行きたくない」という心理がはたらいているのではないかと思う。ほんのひとことふたことの問診ですんでしまう診察だし、二ヶ月に一度の通院だし、クリニックは自宅のすぐに近くだし、「いやだ」と思ったことなどないつもりなのだけれども。それで市民病院の方で処方してもらった薬をチェックすると、こちらもあと十日分ぐらいしか残っていない。そうすると明日の水曜日に行っておいた方がいいのだろう。それで心療内科の通院は木曜に行くことにして、クリニックに足を運んであらためて予約しておく。

 今日は映画を二本観て、ちょっと遅くまで(といっても十時ぐらいのことだけれども)起きていた。


 

[]「クリムゾン・リバー」(2000) マチュー・カソヴィッツ:監督 「クリムゾン・リバー」(2000)   マチュー・カソヴィッツ:監督を含むブックマーク

 先日観た「裏切りの戦場」という作品が、ちょっと緊迫感があってよかったので、そのマチュー・カソヴィッツ監督のちょっと前の作品を観てみた。ジャン・レノとヴァンサン・カッセルの共演というあたりからも、かなりの娯楽作品なのだろうと想像はつく。

 一方のジャン・レノはベテラン刑事で、アルプスのふもとで起きた猟奇殺人事件の捜査のために現地にきている。もう一方のヴァンサン・カッセルは若手刑事で、その近くで起きた墓の盗掘事件を捜査している。盗掘された墓の主は十年以上前に交通事故で死んだ少女で、彼女の資料もすべて盗まれている。調べていくうちにジャン・レノの扱う事件と交差していることがわかってくる。以後はふたり共同で捜査にあたるのだけれども、そこにある大学の閉鎖的な空気があたりを支配していて、捜査は難航する。しかし第二の事件が起きて‥‥。

 原作はフランスでベストセラーになったサスペンス・ミステリーらしいけれども、その映画化をマチュー・カソヴィッツが担うことになったというのは、彼がそれなりにフランスで評価されているということでもあるだろうか。この「クリムゾン・リバー」は、マチュー・カソヴィッツが「憎しみ」を絶賛されて5年後の作品だから、「憎しみ」の評判がそのまま、この「クリムゾン・リバー」映画化につながったと考えることができるだろうか。
 しかし、ここには「憎しみ」にあったはずの「怒り」とか、そういう世界を告発するような視点はないように思える。もちろん、この作品の舞台になった大学機構のめざしていた非人間的試みとは唾棄すべきものではあるけれども、この作品の基調はあまりに娯楽作品のそれというか、観ていてリアルさを感じられない。
 たとえばさいしょに発見された死体の、その眼球をくり抜かれた眼窩にたまっていた涙のような水が、今ではもう降ることのない酸性雨の成分と同じだなどと、いったいどこから気づいたのか。そのあとの第二の死体の発見というのもなんだか「突然」という印象にもなり、「あれよあれよ」という間に物語が勝手に進行していく思いになる。観ていて、「腑に落ちる」ということがない。だからラストの意表をつく(?)謎解きにしても、「そうだったのか」と思う前に、「どうでもいいよ」みたいな感じになってしまう。とにかくはわたしには楽しめる作品ではなかったが、これはマチュー・カソヴィッツ監督としては、娯楽映画と割り切ってどこかで妥協した結果なのだろうか。「裏切りの戦場」がよかっただけに、残念だった。


 

[]「さよなら渓谷」(2013) 吉田修一:原作 大森立嗣:監督 「さよなら渓谷」(2013)   吉田修一:原作 大森立嗣:監督を含むブックマーク

 わたしはきっとこの映画も観ているんじゃないかと思って、この日記を検索してみたのだけれども、どうやら原作は読んでいて、それっきりこの映画は観ていないようだ。で、読んだはずの原作のことは、一行だって記憶しているわけではない。

 これは何というのか、「純文学ミステリー」みたいな雰囲気を感じてしまうというか、ひとつの「謎」というものがあって、それは、尾崎俊介が過去に起こしたレイプ事件の被害者の水谷夏美という女性は、今はどうしているのか?という謎でもあるのだけれども、その謎は意外なかたちで解かされる。そうするとそのあとの観るものの視点は、いっしょに暮らしている尾崎俊介(大西信満)と尾崎かなこ(真木よう子)との深いところでの関係とはどのようなものなのか、というところに動いていく。これがいわゆる「普通の関係」などではなく、ある面で「不幸」ということでつながっているというのだろうか。
 なんだかそのように書くと昭和の匂いがしてくるというか、「演歌」かよ、みたいなことになりそうだけれども、この映画はまるでそういう切り口とはちがった演出をみせてくれる。そこに「現在」つくられた映画としての「良さ」がみてとれると思った。
 たしかに、冒頭のふたりのからみのシーンなどを観ていると、かつての日活ロマンポルノのことをちょっと思い出したりもしたのだけれども、ここで真木よう子の演じる尾崎かなこという女性、奥が深いのである。その奥の深さを、真木よう子がみごとに演じていると思う。橋の上から川に落ちるサンダルだなあ。

 大森立嗣という監督さんは、その作品をわたしは過去に何本か観ているようだけれども、もちろん記憶から消えてしまっているのでまるでわからない。原作との関係ということもあるだろうけれども、この作品での演出はさっぱりしていて好きである。ただ、これは原作にも出てくるのだろうけれども、週刊誌の記者(大森南朋)である人物が尾崎俊介とかなことの過去に興味を持ち、探っていくという展開はどこか安易な気がする。でも、もっとちがう立場の人間が彼や彼女に接近して、その過去を知っていく、という展開にするのはむずかしいのだろうね。ラストのその記者の尾崎俊介への問いかけも、なんだか週刊誌記者としての興味の持ち方からなのか、ひとりの人間として聞いているのか、ちょっとむずかしいところ。映画の終わらせ方としてはよかった気もするけれども。

 先に書いたように真木よう子がとってもよかったのだけれども、わたしはこの人の出た映画ってあんまり観ていないのだな。そして尾崎俊介を演じていたのは大西信満という人で、「知らないなあ」と思っていたけれども、その眼光というのか、眼の輝きのようなものが印象的な俳優さんだった。調べてみたらもとは大西滝次郎という芸名だった人で、つまりはあの「赤目四十八瀧心中未遂」で主役を演じ、若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」で坂東國男を演じていた人なのだった。


 

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■ 2016-07-04(Mon)

 もうすっかり季節は夏。今日も暑い。しかも外の気温より室内の方が暑いようで、外に買い物に出かけて部屋に戻り、ドアを開けると、「何かが室内で燃えているんじゃないか」と思ってしまうほどに、ムッと来る熱気を感じる。窓を開けると外の風が入っていくぶん涼しくなるけれども、そうすると開けた窓を拡げて、ニェネントが外に出てしまう。たまには外に出てもいいとは思っても、窓を開けているあいだ、ずっと外に出っぱなしになってしまう。それは何か不測の事態が起こらないとも限らないし、ニェネントも調子に乗ってとんでもないところにまで行ってしまう危険もある。そういうわけで、始終窓を開けておくこともできない。とうとうわたしも部屋のエアコンを使うようになった。やはりエアコンは快適なのだけれども、これで始終エアコンをつけっぱなしにしておくということになると、電気代がたいへんなことになってしまう。まあ電気代をケチって室内で熱中症になってしまうなどということもバカげている。夏であれば、電気代がかかるというのも季節の「必要経費」とあきらめること。

 今度の日曜日は参議院議員の選挙の日。だいたい誰に投票するか決めているし、期日前に投票に行ってしまおうかと思っている。しかし報道とかでは、改憲勢力が議席数三分の二を超える勢いだという。わたしは一応、意識としては「護憲」なのだけれども、それは単に第九条を守れということではなく、その影で改憲勢力はもっと国民の人権を奪ってしまうような改憲案を持っているからである。わたしはこの件で、護憲派が第九条ばかりを「守らなければならない」といいつづけていることは、まるでよろしくないと思っている。「人権」こそは守られなければならない。それはわたしが個人主義者だからこだわることかもしれない。わたしはわたしが個人主義者として生きていくことのできる社会を望む。

 わたしが自分のことを個人主義者だと思っていることは、その昔にアナーキズムに接近し、その影響からシュティルナーを読んだことからきているのだろうと思う。今ではもうシュティルナーの著作のことはまるで忘れてしまっているけれども、その思想はわたしの中のどこかで生きつづけているのだろうと思う。
 わたしへの、アナーキズムの影響は大きい。そしてわたしは、アナーキズムの理想とする社会は、現実世界では実現されることはないだろうと思っている。じっさいにわたしはアナーキストとして政治運動を行なったことなどないし、人に自分のことを「アナーキスト」といったこともない。わたしはアナーキストではない。しかし、アナーキズムの理念にふれることで、わたしの世界は大きく拓けたようには思う。めずらしく心情吐露してしまったかな。このあたりで。


 

[]「シャレード」(1963) スタンリー・ドーネン:監督 「シャレード」(1963)   スタンリー・ドーネン:監督を含むブックマーク

 オードリー・ヘプバーンの作品をできるだけ観ようとしはじめ、まだそんなには観ていないのだけれども、この作品にぶちあたった。はじめて観る作品だと思うけれども、これはとっても面白かった。ちょっとコミカルなロマンティック・サスペンスというのか、やはりヘプバーンがすばらしい。彼女の、しゃれたコメディエンヌとしての魅力をこの作品で満喫することができる。

 冒頭の、田舎らしい風景を移動しながら捉えたカメラが、そこを通過する列車から飛び降りる男を映し出すシーンが、いかにもサスペンスっぽい導入部。このあとに、007作品のタイトル・デザインでおなじみのモーリス・ビンダーによるタイトル・デザインが続く。かぶさるのはヘンリー・マンシーニによる有名な主題曲。
 列車から飛び降りて死んだ男は実はオードリー・ヘプバーンの夫(ヘプバーンは夫との離婚を決意していた)であり、彼は第二次世界大戦中にOSSのスパイの一員として対ナチス戦略に加担、四人のスパイ仲間と共謀して着服した金塊25万ドルを戦後に独り占めしていたのである。そこで残る三人が25万ドルを取り返すべく、行動に出たのである。三人はヘプバーンが25万ドルのありかを知っているとして脅迫してくるのだけれども、スキーから自宅へ戻ったヘプバーンは、家財道具一切が売り払われてしまっているのを目にする。夫は財産すべてを現金化し、どうやってかその25万ドルをどこかに隠して列車で逃亡しようとしたらしい。しかし夫の遺留品には金目のものは皆無とみうけられた。
 元スパイ仲間の追求は執拗で、そこにヘプバーンがスキー場で知り合ったケイリー・グラントがヘプバーンを手助けしてくれる。そんな中、つきまとうスパイらのメンバーがひとり、またひとりと殺害されていく。そして、ケイリー・グラントの素性もまた怪しくなってくるのである。

 監督はスタンリー・ドーネンで、この小粋でソフィスティケイトされた演出がすばらしい。わたしはスタンリー・ドーネンの監督した作品というものをすぐには思い浮かばなかったのだけれども、あのミュージカル「雨に唄えば」の監督さんだし、ヘプバーンとはこの作品の前に「パリの恋人」を撮っていて、さらに四年後には「いつも2人で」も撮っているようだ。この「シャレード」がとても良かったので、それらの作品もぜひ観てみたいものだと思う。

 あと、この作品での撮影、そして照明の仕事がすばらしいわけで、撮影は「麗しのサブリナ」も撮っているチャールズ・ラングで、この人もこのあと「おしゃれ泥棒」、「暗くなるまで待って」と、ヘプバーンと組んでの仕事がある。このあたり、ひょっとしたらヘプバーンからの指名、ということも考えられると思う。そしてこの作品でのヘプバーンの衣裳は、これすべてジバンシーによるもの。

 ゴージャスで楽しい作品だったけれども、面白いことに、この作品をWikipedia で検索すると、そのページの中からこの映画を全篇観ることができる。つまり、パブリックドメインゆえのことなのだろう。


 

[]「アルカトラズからの脱出」(1979) ドン・シーゲル:監督 「アルカトラズからの脱出」(1979)   ドン・シーゲル:監督を含むブックマーク

 実話をもとに製作された映画ということだけれども、脱獄に成功した人物の残した手記とかから映画化されたものではなく、刑務所側に残されていた脱獄の記録をもとに製作されたもののようだ。じっさいに三人の男がこのアルカトラズ島から脱出はしていることはたしかなのだけれども、その三人がその後どうなったかは不明なのである。ひょっとしたらサンフランシスコとかに逃げ込んで、自由を満喫する余生をおくったのかもしれないし、そのまま潮に流されて溺死してしまったのかもしれない。

 この映画のあとになって、もっと趣をこらした「脱獄もの」映画がいろいろと製作されているわけで、脱獄の方法、アイディアとしては、今からみると「やはりそういう方法になるか」という感想になってしまうのだけれども、とにかくは脱獄ものの先駆的作品ではある。

 クリント・イーストウッドの入所から始まる映画は、当然ながらほぼすべてがそのアルカトラズ島刑務所の内部だけの描写になり、わずかに面会にくる妻や娘以外、女性が登場することもない。イーストウッドらが脱獄を決意するのは映画が始まってかなりあとの方になってのことで、それまではたっぷりと、刑務所内の閉塞感が描かれることになる。ここで刑務所長を演じているのが、あの「プリズナーNo.6」のパトリック・マッグーハンというのもなんだか面白いところで、まさに「ナンバーワン」をもういちどやってみました、という感はある。
 その前半の閉塞感から、脱獄の計画を実行に移す後半は緊迫感を孕んだ展開になるのだけれども、こういうところのドン・シーゲルの演出ぶりは安心して観ていられるというか、かなりハラハラドキドキしながら観ることにはなった。やはり刑務所といえども人が生きていく空間、収監とは拷問ではないのだから、そうやって最低限の条件であっても、人が生きていくためには何もかもすべてを取り上げてしまうというわけにもいかず、そこに「スキ」というものもできてしまうわけだなあと、観ていて思った。さいごのテロップで、アルカトラズ刑務所はこの脱獄事件ののち一年ほどで閉鎖されたとあるのだけれども、別にこの脱獄事件のせいで閉鎖されたというわけではないようだ。


 

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■ 2016-07-03(Sun)

 やはり昨日終電で帰宅したことで疲労がたまったのか、今日は寝てばかりの一日になってしまった。しごとは休みだし、部屋からも一歩も外に出ないままで終わってしまった。起きているときは土曜日にエアチェックしておいた「ウィークエンド サンシャイン」を聴くのだけれども、この週もT=ボーン・バーネットの特集。しかし、聴いているとけっこういい曲が多く、エアチェックしておいてよかったと思う。それでも聴いていると自然に眠くなってしまい、いつもせいぜい三十分ぐらい聴いたところで寝てしまう。では次に聴くときには寝てしまった先のところから聴き始めればいいのだけれども、エアチェックした番組全体で「一曲」の扱いになっているので、先の部分を聴くには「早送り」ボタンを押しつづけていなくてはならない。それもめんどいので、やはり最初から聴きなおすことになり、そうするとやはり途中で眠ってしまう。そういうことばかり繰り返していて、つまりは番組の最初のあたりを何度もリピートして聴いているだけなのである。

 一昨日つくって冷蔵庫に保存している「イカの塩辛」、ちょっと味見をしてみたけれども、いい味になっているようだ。ちょっと塩を入れすぎてしょっぱい気もするけれども、それもまた「イカの塩辛」のおいしさだろう。


 

[]「才智あふるる卿士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 前篇」ミゲル・デ・セルバンテス:著 会田由:訳 「才智あふるる卿士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 前篇」ミゲル・デ・セルバンテス:著 会田由:訳を含むブックマーク

 一ヶ月ぐらいかけて、ようやく読み終えた。いわゆる「ドン・キホーテの冒険」というか、有名な風車との格闘の場面などはこの前篇のかなり早い段階に出て来るわけで、実はこの前篇のかなりの部分というのは、ドン・キホーテの活躍とはかんけいのない、ドン・キホーテらが旅の途中で出会った人たちの物語が延々と続くという構成になっている。そういうところではちょっと、先日読んだ「千一夜物語」に似た印象を受けてしまうところもある。そんな挿話のなかでメインになるのがアンセルモとロターリオ、ドロテーアとカミーラという男女四人による四角関係の物語で、彼ら彼女ら四人がドン・キホーテやサンチョらと合流することで、また別の物語展開になったりもする。

 まあ誰でも知ってることだけれども、このドン・キホーテという人物、平素は理性的で常識に富んだ人物という側面を持ちながら、騎士道物語の書物を読みすぎたせいで、騎士道物語に関わることではその正気を失ってしまい、自らを「蒼い顔の騎士」として、騎士道を極めるべく遍歴を重ねようとする狂人になってしまうのである。そしてその従者のサンチョ・パンザという男がまた、ドン・キホーテが「いずれは島を統治させてやる」という言葉を信じ、ドン・キホーテに従ってしまうわけである。
 描写の上で「誰がどうみてもそんな状況ではないだろう」と読み取れるような状況でも、ドン・キホーテにとっては騎士道を極めるための状況のひとつであり、そうでなければ魔法によって目くらましをかけられているという解釈になる。サンチョ・パンザは「そりゃあ違うだろう」という感慨も抱くのだけれども、ドン・キホーテにいいくるめられてしまうと、コロリと彼のいうことを信じてしまうのである。周囲の人たちはそんなふたりのありさまを面白がりながら、なんとかふたりを故郷におくりとどけようと腐心すると。

 後篇にはまた別の展開が待っていて、そちらではドン・キホーテももっと大活躍するみたいなので、読むのが楽しみではある。


 

[]「アメリカの没落」アレン・ギンズバーグ:著 富山英俊:訳 「アメリカの没落」アレン・ギンズバーグ:著 富山英俊:訳を含むブックマーク

 ギンズバーグにこの「アメリカの没落」というタイトルの詩集が存在するわけではなく、彼の「全詩集(1947〜1980)」から、「アメリカの没落」と題された第8セクション(1965〜1971)の部分を抄訳したもの、そこに1974年の「鉄の馬」という長編詩、そして1950年代の詩「ヒマワリのスートラ」、「アメリカ」を加えたものということ。

 こうやってこの本を借りてみたのは、先月のはじめにフィリップ・グラスとパティ・スミスによってギンズバーグの詩にアプローチするイヴェントを観たからだけれども、わたしにとってのギンズバーグとは、たしか高校時代に読んだ諏訪優の訳による「吠える」の体験がある。
 それ以来、その先日のイヴェントまでギンズバーグの詩というものに接したこともなかったわけだけれども、こうやって彼の「吠える」以外の詩作品を読んでみると、やはりいかに「吠える」が偉大であるかわかる気がする。‥‥こう書くと、今回読んだギンズバーグの詩に対して否定的だと思われるかもしれないけれども、う〜ん、やはり、ちょっと散漫という印象がないわけでもないし、例の「吠える」調の長詩以外の、かなりフォーマルな(あまり長くはない)詩作に関しては、その良さはあまりわからなかった。
 とにかくは方法論として「偉大なるアメリカ」をそのアメリカ縦断の旅を経て否定、卑俗なイメージと宗教的なイメージとの並列、クリシュナなどいかにも時代がかった東洋神秘主義への傾斜というものが読み取れると思うけれども、やはり今、このホイットマン流のイメージの奔流に身を浸すには、時代は大きく変わってしまったという感は否めない。もう、ビート・ジェネレーションという時代ではないのだろうか。


 

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■ 2016-07-02(Sat)

 外はいい天気で日ざしが強そうで、やはり暑そうである。またまたこの日も、夜には東京に映画を観に行く。これで先週の土曜日からの八日間で四回目の映画鑑賞になる。
 今日観るのは一般の映画上映とはちょっと異なり、脚本家〜監督の井土紀州氏の作品を中心に自主上映していく企画、「映画一揆外伝〜破れかぶれ〜」という上映会で、わたしは井土監督の作品のファンであることから、この「映画一揆外伝」という企画には度々足を運んでいる(この日記で調べると、二回行っているようだ)。今日はわたしが「井土紀州」という名まえを記憶するきっかけになった、「百年の絶唱」の上映。もちろんわたしはその「百年の絶唱」という映画のことを記憶しているわけもないので、今日はそんな「失われた記憶を求めて」の旅になる。今日上映されるもう一本、「第一アパート」の方も、この「映画一揆外伝」のイヴェントで二年ほど前に観ているのだけれども、こちらの記憶も消えてしまっている。もう二年前からの記憶であれば発作も起こすことなく、ちゃんと記憶しているべきであるのに、情けないことである。このところはこういうことばかりを考えているということも、また情けないことである。

 今日は東中野のポレポレ座というところでが会場で、まず「第一アパート」が上映され、そのあとに「百年の絶唱」、そしてそのあとにトークショーが催されるということなのだが、タイムスケジュールをみると、「百年の絶唱」を観終えたらすぐに帰路につかないと、わたしの場合終電に間に合わなくなりそうである。そういうわけで、トークショーはパスしてすぐに帰るという予定をたてる。
 しかし、最近は終電で帰るというスケジュールの組み立てに疲れるというか、できるだけ早く帰宅して家でゆっくりしたいという気もちが強い。それで、出かける間際になっても、「やっぱり今日は出かけるのをやめておこうか」などと考えている。映画の一本や二本観なかったからといって、そのことが重大な結果を及ぼすというものでもないだろう。観なかったら観なかったでいつもの日常がつづくだけのこと。しかし明日明後日としごとは休みを申請してあるから、終電で帰ってきても翌日はゆっくり寝て「休養日」にあてることができる。遅く帰宅しても疲労がたまるというほどでもないだろう。それに自分の記憶の補完という意味で、多少はとくべつな意味のある映画でもあるし。‥‥ギリギリまで考えて、やっぱり出かけることにした。

 上映が始まるのは六時半で、開場は六時。家を三時に出て、五時過ぎに新宿に到着。いちど下車してかんたんに食事を取り、東中野へ移動。ちょっと開場には早かったのであたりを歩いてみると、裏道で黒いネコに出会った。写真を撮ろうと追いかけたけど、車の下に逃げ込んでしまった。

 オープンした会場へ入ってみると、百人ほどの客席はじきに満員に近くなった。客席のあいだ、スクリーンの正面には8ミリ映写機が置かれている。そう、この日の上映は珍しく、どちらの作品も8ミリでの上映なのである。まあわたしは8ミリ映画への思い入れがあるわけではないので、「珍しい機器が置かれているなあ」という感想でしかないのだけれども。

 上映が始まり、特に二本目の「百年の絶唱」はかなりの大音量。昨日の映画館での体験の「逆」という感じなのだけれども、やはり映画館で観るのならば、大音量の方がいいのは当然である。その「百年の絶唱」の上映が終わって時計をみると、すでに九時十五分。あわてて会場を出て、すぐに駅に向かう。ここからは電車の乗り継ぎがよく、駅に着いたらすぐに電車は来るし、新宿駅での乗り換えもスムースだった。とはいってもやはりローカル線の終電で帰宅。待っていたニェネントにネコ缶をあげ、自分もかんたんに食事をして眠りについた。


 

[]「第一アパート」(1992) 井土紀州:脚本 井土紀州+吉岡文平:監督 「第一アパート」(1992)   井土紀州:脚本 井土紀州+吉岡文平:監督を含むブックマーク

 まさに学生の撮った「自主映画」というおもむきの作品なのだけれども、その映画への想いのロマン、描かれることを欲する観念といったものが、画面のちからのもとに昇華されているというか、力強さを感じる作品。いわば高校生だとか大学生がそのモラトリアム時代に感じるであろう焦燥だとか不安感、そういったものが、梶井基次郎の作品(特に「檸檬」)へのオマージュとして展開していく。わけのわからない衝動とともに、表現への渇求がパワーを得る。
 このわたしの「不安」とは何なのか? その「不安」の結晶した「檸檬」は「かんしゃく玉」になり、「金魚」へと姿を変えていく(と思う)。
 そして男はその「不安」の原点は彼の幼少期の体験にあることに気づき、故郷へと舞い戻るのである。その路地の奥には、「第一アパート」という廃墟のような建物があったはずだと。しかし彼がその場所に行ってみると、そこは更地の駐車場になっていた。

 実はネット上にアップされているこの作品の「製作ノート」を読むと、この第一アパートが駐車場になってしまっていたということは、まるで予想していなかった事態だったという。そのために大幅にストーリーの改変を余儀なくされたというが、わたしなどは、そういうところにもこの作品のパワーのやどる源泉があったのではないか、などと思ってしまう。

 いわゆる商業映画ではない、このような作品を久しぶりに観ると、やはり自分のなかで何かが化学反応を起こすような気分にはなる。このような体験のできたということは、ありがたいことでもある。


 

[]「百年の絶唱」(1998) 井土紀州:脚本・監督 「百年の絶唱」(1998)   井土紀州:脚本・監督を含むブックマーク

 このイヴェントのチラシには、「1995年渋谷ユーロスペースにてレイトロードショー公開され、僅か8日間の上映にも関わらず、およそ1000人もの観客を動員した」とあるけれども、資料には製作年度は1998年となっている。わたしもこのレイトロードショーにも行ったわけで、そのとき終映後に井土監督を囲んでの質問会でもわたしは質問していて、そのわあしの質問内容、そして井土監督の回答など、だいたいのところは記憶に残っている。この頃わたしが何をやっていたのかとか考え合わせると、やはりこのレイトロードショーは1998年が正しいのではないかと思う。しかしながら、やはりこの映画の内容についてはもう記憶から消えてしまっているわけで、ただ葉月螢が出演していたことを憶えているぐらいのものである。

 今回こうやって再見して、やはりこの作品、ただならぬパワーを持った傑作だと思った。そして思いのほか、先に観た「第一アパート」につながるモチーフが散見される。また内容を忘れてしまうことも悲しいので、チラシに掲載されたあらすじをここに再録しておこうと思う。

 中古レコード屋でアルバイトをしながら別れた女のことを忘れられず虚ろな日々を送っている青年平山。失踪した男が残したレコードを引き取ってくれという依頼に、その部屋を訪れた平山は、そこでこの世のものとは思えぬ異様な声を聞く。それが全ての始まりだった。徐々に彼の周りで異変が起こり始める。失踪した男のレコードを返せと平山に付きまとう女。抜けた歯。血痕に這うなめくじ。留守番電話に吹き込まれた口笛。古いレコード。廃墟の小学校。ダムの底に沈む村。木箱に閉じ込められた行き場のない想い。やがて、平山に失踪した男の記憶が浸透し始める。もう誰の記憶かわからない。平山はつき動かされるようにある目的に向かって行動を起こした……。

 ここで「失踪した男のレコードを返せと付きまとう女」は、その平山の前で和田アキ子の「どしゃ降りの雨の中で」を口ずさむわけだけれども、このシーンは心に残る。わたしの記憶では、なんだか登場人物の多くがこうやって昭和歌謡を口ずさんでいたように思い込んでいたのだけれども、じっさいにはこのシーンだけのことだった(「留守電に吹き込まれた口笛」も同じ曲だったけれども)。しかしこうやって登場人物が歌うシーンこそ、この作品のひとつのかなめだったようには思う。このことはこの日記で過去に書いたようなのでもう一度書くのはやめておくけれども、かつてのレイトロードショーのあとの質問会でわたしが井土監督に質問したことでもある。

 映画は、この東京という町で埋(うず)もれるように生きている人らと観客とをそういう歌を媒介として結びつけ、その失踪した男の過去(?)であるらしいダムに沈む村の映像がまた、観る観客の過去と結びつけられることになるだろうか。おそらくはダム建設の賛否を問う村民集会の映像。その映像にかぶさるフリーキーなギターノイズ。そして亀。ダムを行く車からの映像にベートーヴェンの「第九」がかぶさる。「亀は死んだ!」ということば。
 先に観た「第一アパート」のように、観るものの「過去」に問いかけるような作品だという印象を受け、思うところは多かった。この映画を観たあとわたしは「井土監督の作品はこれからも観つづけなければ」と思いもしたわけで、これはやはり力強い作品だと思う。


 

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■ 2016-07-01(Fri)

 昨日はその前の日に買ったイカ一杯と冷凍してあったイカ一杯とを解凍し、イカとジャガイモの煮物を作った。まあまあの味。冷凍庫にはもう一杯のイカがあるのでこれも解凍し、昨日調理したイカのワタと合わせて、イカの塩辛をつくることにした。「塩分は控えめに」というお達しをもらっていたので、長いことイカの塩辛をつくることはなかったけれども、その前はずいぶんとつくっていたものだった。
 まずは昨夜から塩漬けにしておいたイカワタを冷蔵庫から出し、外側の皮の部分を剥き取る。これをぐちゃぐちゃっとやって、その中にイカの身を切ったものを入れ、みりんと日本酒とを適量入れる。これで二、三日放置すればおいしくなるだろう。久しぶりの手製のイカの塩辛、楽しみである。

 今日はまた午後から、ターミナル駅の映画館へ映画を観に行くことにした。これで一週間に三度の映画鑑賞になるけれども、実は、明日もまた映画を観に出かけようかと思っているところ。そういうめぐり合わせというか、そのような心的状態になっているということなのか。
 映画が始まるのは一昨日よりも一時間ぐらい早い時間なのだけれども、一昨日と同じ時間に家を出て、ちょっとだけ湘南新宿ラインに乗って三つ先の駅まで行き、そこから戻って来た。この時間は本を読むというよりは睡眠タイムという感じなのだけれども、すぐに戻って来なくてはならないので寝る時間も取れず、ただ車中で呆然としていた。

 映画館に着いてみると、今日はすでに五、六人のお客さんが館内にすわっていた。今日は七月の一日で、「映画デー」。そのせいでお客さんの数も多かったのだろう(「多かった」といっても五、六人のことに過ぎないのだけれども、わたしがこの映画館で出会った観客の数としては異例に多い数である)。

 映画を観ていて実はちょっと眠くなり、やはりもう一時間早く家を出て、電車の中でたっぷり睡眠をとっておけばよかったと後悔した。でも、映画としては重要なシーンを見逃したわけでもなかったようで、じっさいに眠ってしまって見逃したシーンはほとんどなかったのだろうと思う。
 しかし、この映画館はあまりに音量が小さいのが気になる。まるで深夜に近所への迷惑をおそれてヴォリュームを絞っているみたいな感じで、映画館で映画を観ているという気がしない。前にも同じことを感じたこともあるので、このことは映画館に「もっと音量を上げて!」と、希望を出すべきかもしれない。

 映画が終わって、また下にあるスーパーの値引きタイムになるのだけれども、今日はちょっと時間が早く、まだほとんどの商品は値引きされてはいなかった。そんな中で、今日の収穫は「カレイのあんかけ」が半額。これを今日の夕食のおかずにすることにした。
 帰宅して、ニェネントにネコ缶を出してあげ、自分も買って来た「カレイのあんかけ」をチンして夕食。ここで食べていてカレイの骨をいっしょに食べてしまい、口の中でひっかかる。「魚の骨なんてそのまま食べてしまうことも出来るのでは」などと乱暴なことを考え、かまわずにそのまま食べてしまおうとしたら、その骨が上側の歯ぐきに突き刺さってしまった。とても痛い。指で歯ぐきに刺さった骨を抜き取ってみると思いのほか太い骨で、先には赤い血のあとがついていた。「こんな骨を吞み込んでしまっていたら大変なことになっただろう」と、ちょっとゾッとしてしまった。


 

[]「マジカル・ガール」カルロス・ベルムト:脚本・監督 「マジカル・ガール」カルロス・ベルムト:脚本・監督を含むブックマーク

 この映画のことはまるで知らなかったのだけれども、この春にロードショー公開されていたスペイン映画。原題も「Magical Girl」。監督はカルロス・ベルムトという人で、この作品が長篇第一作らしいのだが、つねに観ている観客の予想を裏切りつづけていく、意外性100パーセントのノワールな作品ではあった。

 冒頭はどこかの学校の教室らしく、初老の教師ダミアンが、メモを隠し持っていた生徒のバルバラに、「メモを渡しなさい」という。バルバラは「もうないから無理です」という。さっきまでメモを握っていたはずの手を開くと、そこには何もない。そして、ショートカットの少女アリシアが和製ポップス(ここで使われているのは日本のアニメ「魔法少女ユキコ」の主題曲という設定らしいが、そのアニメは架空のものであり、使われている曲は長山洋子のデビュー曲である)をバックに踊り出すというシーンになる。冒頭の教室のシーンは何だったのかひっかかるが、そのあとの絶望的な展開を想像するのはむずかしい。十二歳になる娘は白血病で余命はわずか。父のルイスは娘のノートを盗みみて、彼女の欲しがっている七千ユーロ(日本円で九十万円)もする高額な「魔法少女ユキコ」のコスチュームを買ってあげようと考える。それでまずは自分の蔵書を売っぱらってしまおうとするのはわかる。しかし「とても七千ユーロをつくれない」と思った父は、そのあとに宝石店に泥棒に入ろうとする。夜に店のショーウィンドウを割ろうとしたそのとき‥‥。

 冒頭のバルバラとダミアンの挿話は、奇妙なかたちでその後のストーリーに絡んでくるのだけれども、のちのセシリアと父のルイスの物語よりは十年以上過去のことであったようで、そのあいだにダミアンは(おそらくはバルバラとの関係のせいで)長く刑務所に服役していたらしい。ダミアンはその十年後の今でも、つよくバルバラに惹かれているらしい。
 妙なことから、すでに人妻となっていたバルバラ(精神が不安定らしく、夫の指示で薬をあれこれ服用している)はルイスと知り合い、関係を持ってしまうわけで、そのことでルイスはバルバラを脅し、彼女に七千ユーロを要求する。バルバラはあやしい組織を通じてあやしい屋敷に住む男に身を委ね、七千ユーロを工面することになるのだが、ルイスはアニメの小道具のスティックを買い忘れていたことに気づく。これがなんと二万ユーロ!
 ふたたびルイスはバルバラを恐喝し、二万ユーロをつくらせようとする。バルバラはまたあやしい屋敷に赴き、禁断の「黒蜥蜴の間」に男とともに足を踏み入れる。そして‥‥。

 いったい、冒頭のあのハートウォーミングに流れていきそうな展開は何だったのかという、とんでもない展開が観るものを待ち受けてはいたわけだけれども、この作品は登場人物の心理を深読みしての展開というわけではない。ある意味、脚本も手がけているこのカルロス・ベルムトという監督の、その嗜好で彼ら、彼女らの運命が決まってしまっているようなところがある。しかし、このノワールの背後には、空転する善意、消すことの出来ない欲望などが、悲劇的に、そしてアンバランスに配置されていて、その計算されたアンバランスさが興味深い作品だったとは思う。たしかにこの映画は「マジカル」で、「マジカル・ガール」とはバルバラのことではあったのではないだろうか。ふいに跨ぎ捨てられていくようなこの映画の悲劇性、そういうものが心に残ることにはなった。
 そう、エンドクレジットのバックには、美輪明宏の主演した「黒蜥蜴」の主題歌の、スペイン版カバーが流されていた。


 

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