ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-07-30(Sat)

 昨日書いたように、今夜は東京で水族館劇場の三重公演の報告会のようなものが行なわれる。行ってみたいという気もちもあったのだけれども、「外は暑そうだしな」などと考え、けっきょくは行かないことにしてしまった。
 今、この町では夏祭りのまっさいちゅうで、駅の北側を中心に神輿が繰り出されてにぎやかなことになる。三時頃にはウチの前も神楽の音がひびき、この町内の神輿がゆっくりと引き回されて行くのを見ることができた。このあたりにもきっと町内会とかあるのだろうけれども、そういう「町内会費を払ってくれ」とか「回覧板を回してくれ」とかいう人がやってくることもない。まあウチはちょっといわく付きのアパートと認知されているのだろう、それで町内会からはオミットされてるんじゃないだろうか、とか考えてみる。

 ちょうど炊いてあったご飯も食べ切ってしまったし、あたらしく炊くのもちょっとめんどうで、せっかくのお祭りなのだからまたスーパーでお弁当でも買ってこよう、ついでに祭りの様子もちょっと見てこよう、などという考えで、日の暮れはじめた頃に出かけてみた。
 いつもは車の通りもほとんどない、この南側の駅前の道路にも車が連なっていて、祭りに車できた人たちが駅の周辺の駐車場に車を置いて、それで祭りの会場に歩いて行くんだろうと想像する。じっさい、駅の南口から北口に抜ける歩道橋には、ほんとうに大ぜいの人の姿がみえる。わたしもその歩道橋に上がって北口の方へ行ってみる。

 時刻は七時ちょっとすぎ。ちょうど神輿の渡御のさいちゅうで、駅の正面のあたりで神輿が上下に動いているのがみえる。あたりは人があふれていて、この町の人口の三分の一ぐらいの人が来てるんじゃないかという感じ。ちょっと年配の男性らは立派なカメラを持っている人がけっこういて、神輿にカメラを向けてシャッターを切っている。若い夫婦の人たちはそろって浴衣を着ていたりもして、まだ幼いような子供たちがそんなお父さんお母さんのまわりをぐるぐるまわっている。もっと若い人たちはいかにも「祭り」だね、という格好で、ふたりとか五、六人とかでグループをつくっている。中年の男女はだいたい普段着だけれども、法被とかを着ている人は祭りの関係者なのだろうか。わたしは人の群れの中までは入って行かなかったけれども、そっちへ行けばたくさんの屋台とかが出ていることだろう。

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 お祭りの方はこのあたりで切り上げて、また北口の方へ戻ってスーパーまで行ってみる。お弁当コーナーへ行ってみると、まだ時間がちょっと早いので半額までには値引きしていないものがほとんど。この日は土用の丑の日でもあるので、「うなぎ」関係のお弁当も多く並んでいる。「うなぎごはんとうどん」のセット弁当が半額になっていて、「やっぱりうなぎだね」と、コレを買う。それと普通の弁当とパンを買い、こっちは明日用。「うなぎごはんとうどん」は量的に少ないのだけれども、いただいたとうもろこしも食べてちょうどいい分量。うなぎとうどんというのも意外と合うものだ。久しぶりのうなぎ、めちゃ安かったけれどもそれなりにおいしかった。


 

[]「その土曜日、7時58分」(2007) シドニー・ルメット:監督 「その土曜日、7時58分」(2007)   シドニー・ルメット:監督を含むブックマーク

 なんと、この日記で検索すると、この作品を観るのはこれで三回目ということになる。それでも例によって、わたしの記憶にはこれっぽっちの断片も残っていなかった。

 けっきょく、観終わっての感想もまた、過去に観たときの感想と同じようなものだし、あらためて同じようなことを書こうとは思わない。ただ、観始めて冒頭のシーンはかなりハードなセックス・シーンだったのだけれども、まあ男の方はフィリップ・シーモア・ホフマンだということはわあっていたのだけれども、女優の方の顔がちょっとみえたとき、「あれ? マリサ・トメイではないのか?」と思ったのだけれども、これはどうみてもマリサ・トメイなので、ちょっとおどろいてしまった。表面的にはフィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークの演技ばかりが目立つ作品だけれども、このマリサ・トメイの演技もまた、すばらしいものではあったと思う。こういうことはわたしは書かない人なんだけれども、ひとこと、「すごい美乳」だと思った。

 でもやはりこの映画の結末、フィリップ・シーモア・ホフマンはあのまま回復してもなにひとつとしていいことはないわけで、ああやって死ぬことが出来たというのはやはり、これは「慈悲」によるものではないのかと思ってしまう。悪魔はとうに、「お前は死んでいる」と知っていたのだろう。


 

[]「祇園囃子」(1953) 川口松太郎:原作 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督 「祇園囃子」(1953)   川口松太郎:原作 依田義賢:脚本 宮川一夫:撮影 溝口健二:監督を含むブックマーク

 この作品は廉価版のDVDを買って持っているのだけれども、まだ観ないでいる。きっとテレビ放映の方が映像がきれいだろうと思って、こうやって録画したものを観る。

 溝口監督としては「西鶴一代女」、「雨月物語」につづいて撮った作品で、このあとが「山椒大夫」となる。おそらくは彼のキャリアの中でも絶好調だった頃の作品、といえるのではないだろうか。「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒大夫」の三本は皆時代ものだけれども、この「祇園囃子」は現代の京都、祇園の花街の芸妓を主人公に撮った作品で、主演は木暮実千代と若尾文子。ただ、「現代」とはいっても、その客が背広姿のサラリーマンだというところで「現代」が舞台なのだとは思うわけだけれども、このようなシチュエーションというのは江戸時代でも同じような設定で撮れそうだし、舞台となる祇園の町などどこも、出てくる風景がみんな「現代」でなくってもそのまま通用しそうである。
 溝口監督のもっと古い作品、「祇園の姉妹」というのをずいぶんと昔に観た記憶がちょっと残っていて、その「祇園の姉妹」とこの「祇園囃子」には、共通したところがあるのではないかと思う。芸妓という立場から、男に人格を無視するような虐げを受ける女性の悲哀。たしか「祇園の姉妹」では、そのラストの方で主演の山田五十鈴が男社会への呪詛を吐くような場面があったのではないかと思うのだけれども、この「祇園囃子」では、犠牲になった木暮実千代が若尾文子に対して「わたしがあなたを守って行くから」というようなことを語って終りになる。

 しかし、「芸妓」というものはあくまでも「芸」をみせる存在で、いわゆる「芸は売っても体は売らぬ」というようなものではなかったかと思うのだけれども、この作品ではそのあたりはあいまいで、決まった「だんな」には尽くすのだけれども、その「だんな」というものを外から押し付けられてしまう、というあたりにこの映画の「悲劇」があるようだ。
 木暮実千代の演じる美代春は「だんな」を持たずにやって行きたいという気概があるのだけれども、お茶屋の女将(浪花千枝子)に東京の役所の課長を押し付けられるのである。芸妓になりたての若尾文子は栄子から美代栄の名になるけれども、やはり意に染まぬ男楠田(これがさっきの東京の役所課長からの受注を狙っていて、そのために花街を利用している)を「だんな」にと押し付けられ、楠田と二人きりになった部屋で男の唇を噛み切るという事件を起こす。美代栄の事件を穏便に済ますためにも美代春はだんなを押し付けられ、それをあくまでも拒むと、お茶屋の女将の手配でどこの座敷からも声がかからなくなってしまうのである。芸妓として生きるためには、美代春は女将の意向を汲まざるを得ず、手配された役所課長の待つ旅館へ行くのである。美代栄はそんな美代春をなじりはするけれども和解、美代春と美代栄、ふたりで芸妓として生きて行く決意をするのである。

 この映画に登場する男たちは、皆醜い。キザでむっつりスケベの役所課長から受注を得るために芸妓の存在を利用しようとする楠田、そしてその部下たち。そんな醜い男たちを取り持つのがお茶屋の女将で、この映画での力関係ははっきりしている。美代栄の父もまた、零落して美代栄の保証人になることさえ拒むのに、ちょっと美代栄が売れそうになると借金を申し込んでくるという厚かましさ。
 冒頭に「外国では日本といえば<フジヤマ、ゲイシャガール>といわれるほど、芸者の存在は有名になった」と語られるけれども、その人格は無視されようとしている。

 しかしこの作品の見どころはやはり宮川一夫の撮影でもあり、ここでは花街の路地を実にみごとに映像化している。横移動するカメラ、そして路地の奥行きをみせる縦の構図の視点。路地を歩いて行く美代栄を追って行くカメラがふっとその向きを変えると、そこにまた別の路地があり、その奥で誰かが花火をやっているシーンなど、夢のような美しさがある。そして、薄地の暖簾のかかったりしている室内のシーンなどもまた、すばらしいものである。
 そう、それと、木暮実千代の食べるそうめんがおいしそうだった。


 

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