ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-10-31(Mon)

 コンビニでAmazonのギフト券を買い、ガスこんろを注文した。Amazonギフト券は買うときに金額を指定してその金額で買えるので、買いたい商品ピタリの金額にすればいいわけだ。コンビニで払い込むときのように払い込み番号をコンビニ側に示したりとか、余計な手数料を取られたりすることもないわけで、ずっと便利だということがわかった。これからは活用しようと思う。

 昨日カレーをつくり、またタイカレーの缶詰を入れてみたのだけれども、今回はさほどに美味しくはならなかった。タイカレーの缶詰にはイエロー缶とかグリーン缶とか種類があるので、その種類によって、わたしの口に合うものも、そうでないものもあるのだろう。

 ニェネントは今日もわたしといっしょに寝る。もう皮膚病もすっかり治って、かわいいニェネントにもどった。いや、なんだか、前以上にかわいくなったように思える。


 

[]「マンハッタン無宿」(1968) ドン・シーゲル:監督 「マンハッタン無宿」(1968)   ドン・シーゲル:監督を含むブックマーク

 クリント・イーストウッドがドン・シーゲル監督と最初に組んだ作品だという。ここまでのイーストウッドの出演した作品はいずれも西部劇で、この作品は現代ものなのだけれども、イーストウッドは西部(アリゾナ)からニューヨークに出てきた保安官補で、テンガロンハットにカウボーイブーツと、まるっきし西部劇のヒーローである。彼は凶悪犯の身柄を引き取りにニューヨークに来るのだけれども、その犯人に逃げられてしまう。彼は警官職から解雇され、一市民として犯人を追うのだが、都会人にはない野生の感みたいなもので犯人に迫っていくし、そんな野性味に惹かれる女性もいるのだよ、と。

 西部劇スターから「ダーティハリー」の現代的、都会的ヒーローへの橋渡し的な作品とでもいえるのか。ここでもラストはヘリによる空撮、だった。


 

[]二〇一六年十月のおさらい 二〇一六年十月のおさらいを含むブックマーク

舞台:
●「Cross Transit」北村明子:演出・構成・振付・出演 Kim Hak:ドラマトゥルグ・ビジュアルアートディレクター @三軒茶屋・シアタートラム
●ARICA「蝶の夢 ジャカルタ幻想」藤田康城:演出 首くくり栲象&安藤朋子:出演 @木場・EARTH+cafe+bar
●カミーユ・ボワテル「ヨブの話―善き人のいわれなき受難」カミーユ・ボワテル:演出・構成・振付・出演 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウス
●フェスティバル/トーキョー16 イデビアン・クルー「シカク」【Aキャスト】井出茂太:振付・演出 @西巣鴨・にしすがも創造舎

音楽Live:
●塩田千春展×ダンス・音楽「2台のコントラバスと古い扉とアコーディオンと無数の鍵による組曲」mama!milk:音楽 @KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ「塩田千春|鍵のかかった部屋」展示スペース

映画:
●「秋の理由」福間健二:脚本・監督

読書:
●「穴」小山田浩子:著
●「なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集」シャーリイ・ジャクスン:著 市田泉:訳

DVD/ヴィデオ:
●「狩人の夜」(1955) チャールズ・ロートン:監督
●「理由なき反抗」(1955) ニコラス・レイ:監督
●「サウンド・オブ・ミュージック」(1965) ロバート・ワイズ:監督
●「マンハッタン無宿」(1968) ドン・シーゲル:監督
●「ダーティハリー」(1971) ドン・シーゲル:監督
●「ダーティハリー2」(1973) ジョン・ミリアス/マイケル・チミノ:脚本 テッド・ポスト:監督
●「アイガー・サンクション」(1975) クリント・イーストウッド:監督
●「ダーティハリー3」(1976) ジェームズ・ファーゴ:監督
●「ダーティハリー4」(1983) クリント・イーストウッド:監督
●「狼の血族」(1984) ニール・ジョーダン:監督
●「ダーティハリー5」(1988) バディ・ヴァン・ホーン:監督
●「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988) ジュゼッペ・トルナトーレ:監督
●「都市とモードのビデオノート」(1989) ヴィム・ヴェンダース:監督
●「プレタポルテ」(1994) ロバート・アルトマン:監督
●「ブラックホーク・ダウン」(2001) リドリー・スコット:監督
●「J・エドガー」(2011) クリント・イーストウッド:監督
●「罪の手ざわり」(2013) ユー・リクウァイ:撮影 ジャ・ジャンクー:監督
●「ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男」(2014) ロン・マン:監督
●「BROTHER」(2001) 北野武:監督

 

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■ 2016-10-30(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 ガスこんろがもう限界にきてしまった。このところ火の点きが悪くって気にはなっていたのだけれども、火の点きだけではなく、「ごとく」の部分がさびて、腐食して折れてしまった。前から一本は折れていたのだけれども、今回はそのとなりも折れてしまって、鍋などをのせても安定が悪い。もう限界であろう。先日ホームセンターに行ったときに、「そろそろ買い替えなければ」と、売っているものをチェックしておいたのだけれども、たしか一口タイプのもので五千円ぐらいだったと思う(二口あっても場所を取るばかりだし、ウチにはIHタイプのクッキングヒーターもあるので、一口のでいいのである)。それで今日はAmazonでも探してみたのだけれども、こっちは四千円ぐらい。Amazonで注文することに決めた。「コンビニ支払い」が出来ないようなのでどうしようか、と考えてみたら、つまりはAmazonのギフトカードで支払いすれば問題ないのである。明日にでもやってしまおうと思う。

 今日は予定が何もない。家でゆっくりしようと思っている。
 午前中に南のスーパーへ行ったら、ジャガイモもタマネギも25円ぐらいで売られていて、「ようやく価格も落ち着いたのだな」と思った。レタスもずいぶんと安くなった。レタスは先日買ったばかりだけれども、ジャガイモやタマネギはまだ家にストックがあるはずだから買わなくてもいいと思って買わなかった。ところが、帰宅して冷蔵庫をみてみるともうあまりストックも残っていなくって、「買って来てもよかったのだな」と思ったりした。今日はカレーをつくる予定でもある。

 ニェネントは朝からベッドの上で寝ている。急にベッドのことが気に入ってしまったのだろうか。夜に寝るときも、またわたしのとなりで寝るのである。いつもこういう感じでやってくれるとかわいいのだがと思う。


 

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■ 2016-10-29(Sat)

 今日も、通院の翌日ということで、あらかじめ休みを申請していたので、朝はゆっくりと睡眠。実は今日から、新宿のK's cinemaという映画館で、ARICAの安藤朋子さんの出演している「秋の理由」という映画が公開される。それでもって今日は初日の舞台挨拶があるということで、安藤さんもその挨拶に出られるということ。映画はこれからしばらくやっているから、いつでも行けるのだけれども、初日の舞台挨拶はもちろんこの日一回だけ。安藤さんは映画に出演されたのは初めてだと聞いているし、慣れない環境の中でちょっとは心細い思いをされているかもしれない。そんなとき、安藤さんが客席を見渡して、たとえわたしのようなものでも知った顔があれば、少しは安心されるのではないかと思う。そう思って、その舞台挨拶に合わせてこの映画を観に行くことにした。監督の福間健二さんは先日のARICAの公演を観に来ていらっして、舞台の終わったあとにちょっと安藤さんに紹介していただいているし、この映画に主演している佐野和宏さんというのは、あの「追悼のざわめき」にも出ていらっしゃったし、井土紀州監督の「百年の絶唱」や瀬々敬久監督の「雷魚」、「汚れた女」など、わたしが大きなインパクトを受けた作品でも主演をされているわけで、何だかわたしに縁深いような気がしてしまう。でも、本来は監督さんなそうだけれども、わたしは佐野和宏さんの監督した作品を観たことはないというのは残念。

 今日は昨日のように雨が降って寒いということもなく、ちょっと薄着で出かけた。二時ぐらいに新宿に着いて、まずは映画館へ行って整理番号付きのチケットを入手。それから外に出て、ちょっと遅い昼食にしようと。今日はもう日高屋でもないだろうと、別の店を開拓するつもりで歩き回る。「信州そば」とかいう店で、カツ丼とそばのセットが700円とかだったので、カツ丼が食べたいという気分でもあったし、この店にした。店内はなんだか清潔で、回転は早いし、ちゃっちゃっと食事するにはいい店だと思った。味はそこそこ。

 あとは映画館へ戻って開場を待つ。映画の内容から(わたしのような)ジジくさい客が多いかと思っていたけれども、そういうわけでもなくって若い方も多かった。映画が始まり、また途中で眠くなってしまったのだけれども、終盤でちょっと意識が遠のいたかもしれない。あとは大丈夫だったと思う。

 映画が終わって、そこで一回目の舞台挨拶。これは十分ぐらいの簡単なものだったけれども、次の上映が始まる前にも二回目の舞台挨拶があり、先に観た客も見て行っていいということだったので、わたしも後ろの方で見させていただいた。この二回目の挨拶の方はなんと三十分ぐらいも続き、出演者への質問などを交えて充実したものだった。

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 その舞台挨拶も終わり、いそがしそうな安藤さんにちょっとだけあいさつをして外に出る。もうあとは帰るだけ。今日もターミナル駅で降り、値引きされた弁当を買って帰った。
 夜寝るとき、わたしがベッドにもぐり込んで本を読んでいると、ニェネントが近寄ってきてベッドにとび上がり、わたしのすぐそばで丸くなって寝始めた。「うわ、珍しいこともあるものだ」と、ちょっとびっくりしてしまった。このツンデレ猫が、いったいどういう風の吹きまわしなんだろう。でも、かなりうれしかった。


 

[]「秋の理由」福間健二:脚本・監督 「秋の理由」福間健二:脚本・監督を含むブックマーク

 まさにこの秋にぴったりの美しい映像と、言葉になるようなならないような、微妙な人と人との関係(じっさいに、主人公のひとりは言葉を発することが出来なくなっている)。それは本(書かれた言葉)を通じての男同士の友情だったり、男と女との関係だったり。そんな中で、安藤朋子さんの存在は皆を包み込み、支えを与えているような、どこか慈愛に満ちた存在に見えたし、そんな安藤さんの声が、やわらかくってステキなのだった。

 舞台挨拶で福間監督は、「どのカットも手を抜くことなく全力で撮った」というようなことを語っていらっしゃったけれども、わたしも、観ていてそういう気合いは感じていた。それぞれが美しいショットと、それらのショットのつなぎとが想像力を刺激して、そこに映画的な美しさを感じ取れるような。何か散文詩を読みたくなる、内省的な気分にさせられる、そんな映画だったかな。多くの人に観られるといい映画だと思う。


 

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■ 2016-10-28(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 今日はいよいよ、国分寺のクリニックへ行く日。朝から曇天で肌寒く、予報では雨になるといっている。クリニックの予約は二時半なのだけれども、ちょっと早めに出て新宿あたりで昼食にしたいし、先日買いそこねたCD、Red Krayolaの「Kangaroo?」もやっぱり買っておきたいので、TOWER RECORDにも寄ってみたい。十一時の電車で家を出た。寒そうなので、この秋初めてジャケットを着て出かけることにする。

 家を出るときにはもう、少し雨が降り出していて、傘を持って来なかったことを後悔したけれども、自分の心づもりでは新宿ででも安い傘を買うつもり。新宿に十二時ちょっと過ぎに到着しだけれども、まだそんなに雨は降っていない。やはりちょっと肌寒いので、まずは日高屋で担々麺を食べる。外に出ると雨足が強くなっていて、もう傘が必要。先にTOWER RECORDに行き、CDを買って外に出る。「傘を買うならドンキがいいな」と、歌舞伎町入り口のドン・キホーテまで足を伸ばし、安い傘をゲット(価格的にそこいらで買うのとあまり変わりはなかったけれども、いわゆる「ビニール傘」ではないからいい)。

 また駅に戻り、JRで国分寺へ。クリニックはすぐに見つかり、ちょっと駅前に戻って一服してから戻る。予約時間の二十分ぐらい前で、ま、感覚としてはちょうどいい時間だっただろうか。初診の手続きをして、呼ばれるのを待つ。
 担当の先生はかなり年配の方だった。たしかこのクリニックのホームページで顔写真の出ておられた先生で、クリニックの院長先生なのだと思う。いちおうわたしの経歴などの問診があり、かんたんな記憶力テスト。これは先にいわれた三つの単語をあとで憶えているかとか、野菜の名前を知っているだけ挙げていくとか、100から7を引いていくつになるか、そこからまた7を引くといくつになるかとかのテスト。わたしは30点満点だったよ(今でもその三つの単語は憶えている)。紹介状の脳波データが不完全だったようで、「まずは脳波検査、そしてもっと精密な記憶力検査をやりましょう」ということで、11月の中旬に二週続けて通院することになった。「消えてしまった記憶はもう戻らないですけれども、これからの記憶が消えていかないように努力しましょう」といわれ、「そう、その言葉を待っていたんですよ!」という感じ。これでもう、完全にわたしの主治医はこのクリニックに変更ということになる。とにかくは望むようなかたちの治療をほどこしてくれそうで、気分的にもスッキリした。まだまだ本格的な治療が始まるのは先のことになるけれども、期待したいと思う。そう、医療費の方も、「自立支援医療」ですますことが出来たので、千二百円ですんだ。つまり、「自立支援医療」を使っていなければ、一万円とかかかっていた可能性もある。先日の医大付属病院でムダに医療費がかかっているので、ここで取り戻したという感じ。とにかくはよかった。

 帰宅して、買ったCDの封を切ってみたのだけれども、これが国内盤としてはデータがあまりに乏しい。解説というものはなく、ただアメリカ盤プレス・リリースとその翻訳、そして歌詞の翻訳とが載っているだけ。曲ごとの参加アーティストなどのデータは皆無だし、プレス・リリースの翻訳が自動翻訳マシーンに放り込んでやったものをそのまま掲載したというようなもので、日本語になっていない。発売元の会社は、どういう意識で「これでOK」としたのだろうか。客をナメているといわれても仕方がないのではないかと思う。とにかくはコレなら輸入盤と同程度である。すっごくがっかりした。


 

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■ 2016-10-27(Thu)

 今日もまた、なんか暑い。さて今日は、「自立支援医療」の指定医療機関をやっぱり、明日行く国分寺のクリニックに書き換えてもらうことにして、市役所へ行ってきた。今までは家のそばのメンタルクリニックへ通院するのに「自立支援医療」を利用していたのだけれども、その指定医療機関というのは一ヶ所しか指定出来ないということなので、もうこの際、メンタルクリニックへ行くのはやめることにした。これからはすべての治療は国分寺のクリニックに集中し、全部まかせて診てもらうつもりである。まだいちども行っていないクリニックをそこまで信頼するのもおかしいかもしれないけれども、今まで通院して診てもらっていた市民病院にせよメンタルクリニックにせよ、わたしの症状、状態をほんとうにわかってくれているわけではないと思う。やはりそういうことは専門の専門のところに頼るのがいちばんだと思う。市役所での手続きも思ったよりも簡単にすんで、これで明日の初回の通院からすぐに「自立支援医療」の適用が受けられる。

 夜になってFacebookを閲覧していて、わたしと同じように過去の記憶が消えているようだという人の書き込みをみたので、「ちゃんと診てもらった方がいい」とかコメントを入れているうちにやりとりがつづいたのだけれども、最後になって相手はわたしのアドヴァイスに「余計なお世話」みたいな反応になり、「これは3.11の影響なのだから、関東から外に出れば良くなる」とおっしゃるわけである。まあわたしもちょうど明日にクリニックへ行くとあって、力もこもってしまっていたのかもしれないけれども、けっきょくその人はつまり、「3.11の影響でわたしの身体の状態はあちこちおかしいのだ」ということを書くだけで、本気で治療しようとはまるで思っていないのだとわかった。つまりすべては原発事故のせいで、それはもうどうしようもないことなのだ。原発事故でこうやって自分の身体に影響が出ているということを訴えたい、それだけなのである。わたしはこれにはちょっとあきれてしまった。おそらくはそこまで深刻には思ってはいらっしゃらないのだろう。しかし、たとえば自分が放射線被曝のせいで甲状腺ガンになったとして、そのガンを治療しようとしないで、「これは3.11のせいなのだから、関東から外に出ればいいのだ」などという人がいるだろうか。なんだか、3.11というのが宗教みたいになってしまっているように思った。たしかに過剰に放射線被曝を恐れる人というのはいて、東日本で穫れた米は食べないとか、太平洋で水揚げされた魚は食べないとかいう人はいる。実はわたしだって、関東東北辺りで採れるキノコ類はあんまり食べたくないな、みたいなことは思ったりしているのだけれども、こうやって「自分の身体が不調だ。これは3.11のせいなのだ」とばかりいっている人というのは、そういう食べものに気をつけるということを通り越して、どこか信仰に似ているわけだ。病院に行って診察を受けても、「これは3.11のせいなのだから」と、治療に専念しようとしない。おかしな話だ。


 

[]「都市とモードのビデオノート」(1989) ヴィム・ヴェンダース:監督 「都市とモードのビデオノート」(1989)   ヴィム・ヴェンダース:監督を含むブックマーク

 ファッション・デザイナーの山本耀司とのコラボレーション、というか、山本耀司の仕事場にカメラを持ち込んで彼の創作過程を記録し、そこに映像としてもヴェンダースなりの試みをすべりこませようとしたような作品。ヴェンダースはさいしょ小型の35ミリ撮影機材で撮影しようとしたらしいけれども、その音がじゃまでやむなくヴィデオ機材を導入したという話を読んだ。じっさいヴェンダースはそれまでヴィデオというものを嫌っていて、ここでもそのヴィデオによる映像をどうやってみせるか、いろいろと工夫しているみたいだ。つまり、山本耀司の仕事場とかはヴィデオで撮るのだけれども、そのヴィデオ映像を小型モニターで再生し、そのさまを別の背景を入れながら35ミリで撮るというようなやり方。そのやり方にはたして成果があったのかはわからないけれども。

 この作品の原題(英語タイトル)は「Notebook on Cities and Clothes」で、「モード」ではなくって「Clothes」なのだ、というあたりが興味深い。そうだなあ、都市(Cities)〜(この場合はパリと東京だろうけれども)も、衣服(Clothes)も変容していきながら「現代」というものを形成して行く。その中に「映画」(ヴィデオ)というものをも投げ込むことで、実はこの作品、都市と衣裳、そして映画というものを並列させてその「今」での変容をみせているという感じで、意外とこの邦題は的確なのではないかと思ったりする。

 わたしにはヴェンダースの真の意図はわからないままのところが多いけれども、そのヴェンダースと山本耀司とがビリヤードをしている場面が、なんだか心に残った。


 

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■ 2016-10-26(Wed)

 今日はその、市民病院へ紹介状をいただきに行ってきた。今日はロビーはあまり人がいなくって、思ったよりも早く自分の順番がまわってきた。医師に「今日は紹介状を書いていただきに来たのです」と告げると、特にリアクションもなく淡々と紹介状を書いて下さった。やはり昨日電話しておいたので医師にそのことが伝わっていて、おかげでスムースにことが運んだのだろう。そもそもわたしが診察室に入ったときすでに、医師のパソコンにはその「紹介状」を書く書式が開かれていたみたいだったし。やはり医大付属病院でアドヴァイスを受けた通りにしてよかった。人のいうことはよく聞くようにしよう。

 ここまではたいして時間もかからずにスムースに進んだのだけれども、このあとの会計で待たされてしまい、一時間に一本しかない下りの電車が今まさに行ってしまいましたよ!という時間に、ようやく会計が終わった。これで約一時間、この周辺で時間をつぶさなければならなくなった。まあこの駅前には量販古書店もあるので、そこでゆっくりすればいいわけではある。その古書店に行くまえに、となりのスーパーに寄ってみた。「うちのあたりのスーパーに比べてどのくらいの値がついているか」という調査。以前は、このスーパーは確実にうちのあたりよりも何でも高かったのだけれども、最近改装されたあとはなんだかいろいろなものが安くなっている。安いものがあれば場合によっては買って帰ってもいい。それで野菜・果物売り場をみると、タマネギが一個28円で売っていた。ニュージーランド産だから安いのだけれども、うちのあたりよりも一個十円以上安い。買って帰ってもいいのだけれども、自宅にはまだタマネギのストックはいっぱいあるからパス。店内をぐるっとまわってみて、それ以外にひっかかるようなものもなかった。
 次に量販中古書店。ここでは前に来たときに「次来たときに買おう」と思っていた商品がある。ゴダールの「ウイークエンド」のDVDである。950円。これはAmazonで中古で出ているものよりも安い。「まだ棚にあるだろうか」とチェックして、ちゃんと置かれていたのでひと安心。あとは他のDVDなどをチェックするけれども、今日は掘り出し物は見当たらなかった。でも、文庫本の方で、このところちょっと気になっていたイーデン・フィルポッツの「赤毛のレドメイン家」の新品同様の美本が半額以下で置かれているのを見つけ、「次は推理小説に挑戦してみよう」と、これも買った。なんだか、こういう買い物をすると気もちがウキウキするみたいでいい。

 帰宅して、昼食にはちゃんとご飯を食べることにして、冷凍庫に転がしてあったほっけを焼いて食べた。魚というのは冷凍保存しておいても食べるときに簡単だからいい。もうちょっと、焼いて食べる魚を冷凍保存しておこうかと思う。
 食後はドラッグストアへ行ってみたのだけれども、昨日三割引で置いてあった久保田の千壽が、売れてしまってなくなっていた。「これでは百壽の方もすぐに売れてしまうぞ」と思って、買って帰った。家の中は一升瓶でいっぱいである。買い物から帰ったあとはまた長い昼寝をして、夜に映画を一本観た。


 

[]「理由なき反抗」(1955) ニコラス・レイ:監督 「理由なき反抗」(1955)   ニコラス・レイ:監督を含むブックマーク

 この「理由なき反抗」というタイトルを聴くと、なぜか自然に「Rebel Without a Cause」という原題を思い出してしまうのは、なぜなんだろう。ひょっとしたらずいぶん前に観たことのある映画なのかもしれないけれども、内容はまるで記憶していない。でも、観ていると、「理由なき」どころか、ちゃあんとした理由があるじゃないか、って気分にはなってしまう。特に、サル・ミネオの演じるプラトンという若者なんか、あんまりにもそのあたりが明白すぎて、観ていて鼻白む思いもしてしまう。この頃には、こういう、若い子の内面の葛藤とかを主題とした映画というのも、まだあまりなかったということだろうか。まあこれ以降は現在まで、あまりにこれに類した作品はつくられすぎているという気もするので、「なんだ」という気分にもなるのだけれども、やはり先駆的表現というものには敬意を持つべきだろうか。
 でも、ここでジェームズ・ディーンらがやる「チキン・レース」ってやつ、崖のギリギリのところまで車を走らせて、そこで車から飛び降りるということならば、車の方は自然と崖の下に落ちてしまうものではないのか?って思ってしまう。

 冒頭のジェームズ・ディーンが酔っぱらってるところ、こういうジェームズ・ディーンの演技というのはなんだかあんまり好きじゃなくって、「またやってる」って気分で観てしまうし、観ているとこの映画、編集とか雑なところも見受けられる。ジェームズ・ディーンの死後にあわてて公開されたようなことも聞くし、そのあたりでバタバタと仕上げられた作品なのかもしれない。


 

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■ 2016-10-25(Tue)

 「月桂冠」を半額で売っているドラッグストアに、久保田の百壽と千壽とが三割引で置かれている。さすがに月桂冠はそこまでに美味な酒というわけでもないので、ここいらで美味な「久保田」など飲んでみたくなる。たまにはいいじゃないか。「買ってみよう」と思ったのだけれども、「いや、ひょっとしたら明日になったら半額になったりして」などといやしいことを思い、もう一日待ってみることにした。

 金曜日はいよいよ、東京のクリニックの予約日になるのだけれども、「やはり市民病院からの紹介状ももらっておいた方がいいだろう」と考えて、医大付属病院でいわれたように、まずは市民病院に電話で「紹介状が欲しい」ということを話しておいた。担当の医師は毎週水曜の午前中しか来られないので、明日行って紹介状を書いてもらおうという考えなのだけれども、先に連絡しておけば、先に担当医に「紹介状を書いてほしいという電話があった」という知らせが行き、スムースにことが運ぶかもしれない。ダメならダメでもともとで、ここは出来るだけの努力をしておこうと考えたわけである。いちおう、この金曜日はわたしには大事な日になるので、その日に向けてのわたしは(めずらしく)前向きなのである。これで金曜日までに、「自立支援医療」の方でも市役所に行って、指定医療機関を変更してもらえば完璧であろう。

 さて、いよいよもってして、このノートパソコンはポンコツになってきた。機能しないキーが増えてしまって、普段の作業にも支障を来すようになっている。もうそろそろ、新しいパソコンに買い替える潮時だろうか? Amazonで検索してみて、ノートパソコンではないけれども、iMacならばけっこう安いもの(もちろん中古)が出ている。もともとわたしはiMac愛好派だったし、どうせ家で使うのだから、無理してノートである必要などまるでないのだ。今はかなり本気で、買い替えることを考えている。


 

[]「アイガー・サンクション」(1975) クリント・イーストウッド:監督 「アイガー・サンクション」(1975)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 イーストウッドが監督して主演。彼は大学で美術理論を教える教授であり、しかもシークレット・エージェントの殺し屋というか、そういう組織にも属している。そうやって得た大金で個人の美術コレクションを隠し持っている。しかも彼は登山家でもある。なんちゅーか、万能というかカッコいいというか無敵というか、そういうのを自分で演じて自分で演出するなんざぁ、どうなんでしょうね。そりゃあこたえられないでしょうね〜。もう、冒頭から大学の女子学生の露骨な誘いをカッコよく突っぱねちゃうし、観てる方は困ってしまいます。

 さて、彼のところに来たあたらしいミッションは、エージェントを殺してマイクロフィルムを盗んだ一味の、組織員を「制裁(サンクション)」すること。なんだかんだあって、その組織員はアイガー北壁を踏破しようとするパーティーに参加しているらしいということがわかる。しかし、パーティーの中の誰が組織員なのかはわからない。とにかくはいっしょにアイガー北壁にトライしてみなくっては。そんじゃまあ、登山のヴェテランでもあるイーストウッドにはおあつらえ向きの仕事ではありませんか(しかしまあ、ご都合主義な流れの展開だなあ)。

 観ていて何となく、「あ、こりゃあ<敵>はコイツだな」って、見当はついてしまいますね。しかし、この作品の見せどころは、何といってもその登山シーン、でしょうか。なんか、初期のイーストウッド作品って、ヘリ撮影が多いような気がするんだけれども、この作品でもそういうシーンは多いし、「どう見てもホントに絶壁に登ってます! スタントマンではありません!」というのはたしかにスゴいですね。まあ、エンターテインメントとして、こういうところを極めてみたかった、ということなのでしょうか。


 

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■ 2016-10-24(Mon)

 今朝みた夢。わたしは出先で終電を逃してしまい、始発電車を待っている。いろいろと時間をつぶして、「もう四時ぐらいになるだろう」と思ったのだけれども、時計をみるとまだ、やっと一時になったところだった。わたしはバーのようなところに入り、そのバーにいる皆といっしょにテレビをみる。テレビでは伝統芸能の教育ヴィデオのようなものが流されていた。カウンター席が満席なので、その席と壁とのあいだに入って、壁に寄りかかってみようとするのだけれども、壁に貼ってある映画のポスターがはがれそうになる。そのポスターはステンレスか何か、薄い金属板に印刷されていて、下の方が割れてそり返っている。さわると危なそうだと思っていたら、店の人が来て直してくれた。バーの中で皆がしゃべっている会話が面白かったのだけれども、もう忘れてしまった。
 そのあとにわたしはいつしか外に出て、バスだか電車だかの乗り物に乗っている。夜のはずなのだけれども、外はすっかり明るくなっている。その乗り物は街中を一周するようで、わたしの前には山手線やメトロとの乗り継ぎのマップが置かれている。街の景色はまるで東京ではないのだけれども、どうやらここは東京のようだ。Gさんが乗っていて、「池袋へ行くの?」と聞いてくる。
 外は雨が降っているのだけれども、雨よりも道にたまった水がハンパではなく、道路はすっかり冠水してしまっているし、側溝からは水が吹き上げている。
 いつしかわたしは他の乗客といっしょにその乗り物から降りていて、帰路に着こうとする。もう雨は降っていない。前の四つ角に、Hさんがセーラー服を着て立っているのが見える。わたしのまわりの人たちには挨拶しているようなのだけれども、わたしのことは無視しているように感じる。近づくと、顔にマスクをかけていて、そのマスクを黒く塗っている。目にもメイクを入れていて、幽霊のメイクをしているみたいだ。そのそばにIさんがいて、やはりセーラー服で、同じようなメイクをしているのだけれども、鼻を完全につぶしたメイクをしていて、リアルに不気味である。何かそういう、幽霊とか妖怪の出るイヴェントに出演していたのだろうか。わたしはIさんに、「Hさんのはガマンできるけれども、あんたのは恐すぎる」という。
 かなり忘れてしまった部分が多いけれども、そういう夢だった。

 なんだか、もう十一月も近いというのに、なかなか秋らしい涼しい日にならない。部屋にいるときはずっと扇風機を回しつづけている。ニェネントはずっとキャットタワーのてっぺんで「ネコ鍋」みたいに寝てばかりいるし、気分的にはまだ夏がつづいている。
 近くのドラッグストアではまだ「月桂冠」の一升瓶が半額で売っていて、今日も買ってきた。部屋には一升瓶の空き瓶が並び、とんだ情景になっている。次の「燃えないゴミ」の収集日にまとめて出すことになるけれども、もちろんビニール袋ひとつでは収まらないし、ゴミ収集場所はちょっとした壮観になるのではないだろうか。恥ずかしい。


 

[]「プレタポルテ」(1994) ロバート・アルトマン:監督 「プレタポルテ」(1994)   ロバート・アルトマン:監督を含むブックマーク

 きのう、アルトマンの「ザ・プレイヤー」の内容をもう忘れかけていると書いたけれども、けっきょくこの「プレタポルテ」って、その「ザ・プレイヤー」の同工異曲、みたいなものではないのか、と思う程度には「ザ・プレイヤー」のことを記憶している。つまり、「ハリウッドって腐ってるよね!」イコール「ファッション界って腐ってるよね!」みたいなわけで、映画界に群がる人たちも、ファッション界に群がる人たちも、似たようなものではありませんか、という感じ。そこにマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンのコンビが、彼と彼女との過去の映画をパロッて再現してみせてくれるのがサーヴィスと言うか。
 スティーヴン・レイがけっこうおいしい役どころ(ファッション・カメラマン)で出演していて、痛快なところをみせてくれたのは楽しかった。


 

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■ 2016-10-23(Sun)

 このところ、とにかくは日中も眠くって仕方がない。昨日もダンス公演を観ていても眠くなってしまったし、普段家にいるときでも、午後になると眠くなる。今日は昨日出かけての翌日ということもあるし、やはり昼から眠くて眠くて仕方がない。それでいつものように長い午睡をとることになり、目覚めるともう外は暗くなっている。毎日毎日、こういうことの繰り返しになる。寝てばかりいるニェネントの影響だろうか。

 朝、しごとをしているとき、ふと外をみると、行き先表示にここの駅の名前が書かれたバスが通って行った。どうみても「路線バス」なわけなのだけれども、この地域の路線バスは七〜八年前にすべて廃止されている。おどろいて仕事場の人に「路線バスが走ってる」というと、今月の初めからまた、「つくば山」までの路線バスが走るようになったのだという。これはサプライズ・ニュースだった。
 わたしは以前から、「せっかくこうやって茨城県の、筑波山のよく見えるところに転居してきたのだから、一度はその筑波山に登っておきたいものだ」と思っていたわけで、かつては「そのうちに路線バスで筑波山のふもとまで行って、登って来よう」という気でいたのだけれども、その路線バスが廃止になってしまって、筑波山へ行くのは、経路としてとてもめんどうなことになってしまった。とにかく、道路としてはこの地元から一直線で筑波山へ行けるというのに、電車や他の所からのバスを使って行くとなると、ものすごく遠回りしなくてはならないし、運賃もたしか二千円近くかかってしまう。それが、筑波山への直通バスが再開されたとなると、どうやらいよいよ、筑波山登山が実現しそうである。
 さてさて、そうすると、はたして今、そんな山登りする体力とかが残っているかということももんだいになってくるけれども、たかだか900メートルぐらいの山だし(と、なめてかかってはいけないが)、「こりゃあダメだな」と思ったら、山頂へ行くケーブルカーというものもあるわけである。うん、あんまり無理しないで、登山も下山も両方ともケーブルカーを使っちゃう、というのが、今のわたしには正解かもしれない。

 

[]「ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男」(2014) ロン・マン:監督 「ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男」(2014)   ロン・マン:監督を含むブックマーク

 こうやってWOWOWなんかで放映されるドキュメンタリーって、先日観たイーストウッドのドキュメンタリーなんかでもそうだけれども、いかにも「おまけ」というか、DVDの特典でついてくるみたいな、テレビ放映用みたいなのが多いのだけれども、これは観ているとなんだか本格的というか、完成度がまるでちがう。そう思って調べてみたら、この作品は去年劇場で普通に公開された作品だった。なるほどなるほど。

 映画はまずは「アルトマネスク(Altomanesque)」という造語を紹介して、「この言葉にはいろんな意味がある」とし、各シークエンスの冒頭に登場する人物(アルトマンを敬愛する俳優、監督など)にその意味を答えてもらっていく。エリオット・グールドやジュリアン・ムーア、ポール・トーマス・アンダーソンなどなど‥‥。
 そして編年的に彼の作家活動を紹介して行くのだけれども、その初期にテレビ映画「コンバット!」の演出も手がけたことが紹介される。そこで紹介された「コンバット!」の一シーンを観て、その、サンダース軍曹(ヴィック・モロー)が戦場で記憶を失うという回のことを、わたしはおぼろげながら記憶していたのだった。「そうか! あれはアルトマンの演出の回だったのか!」というのは、ちょっとした驚きだった。

 そんな合間にアルトマン家のファミリー・ムーヴィー映像(彼の子供たちが撮影していたものらしい)がはさみ込まれ、これが実に貴重というか効果的というか、アルトマンという人物を描くドキュメンタリーとして、これ以上は望めないほどの素材があったものだという感想。そして、「よくできた奥さん」というと変ないい方だけれども、五十年代末からアルトマンの死までアルトマンに付き添った、キャスリン・リードという人はすばらしい。

 しかし、やはり彼の出世作は「M★A★S★H マッシュ」なんだなあ。アルトマンはけっこう脚本を自由に書き換え、俳優たちのアドリブにもまかせたらしい。きっちりした俳優だったドナルド・サザーランドはこういう演出がお気に召さなかったようだけれども‥‥。

 観ていてショックだったのは、先日観たばかりの「ザ・プレイヤー」の内容を、わたしはもう忘れかけていたということ。まあ、こういう優れたドキュメンタリーを観ると、アルトマンの作品をまたずらっと、さいしょっから観直してみたくなってしまう。


 

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■ 2016-10-22(Sat)

 今日は、イデビアン・クルーの新作を観に行く。会場は「にしすがも創造舎」というところだけれども。「それってどこよ」って感じである。一回池袋まで出てから山手線に乗り換えて、それでメトロか何かに乗り換えるのかな? 過去に行ったことはあるはずだけれども、例によってこれっぽっちも記憶に残っていない。しかしこの日記で「にしすがも創造舎」と検索してみると、もう何度も何度も行っていたことがわかる。そういうことを憶えていないということは、その「にしすがも創造舎」で観た公演も、み〜んな忘れてしまったということ。あらためて、「情けないことよ」と絶望する。

 とりあえず、今日の公演は午後一時半スタートと、ずいぶんと早く始まる公演である。それは前もってわかっていたことなので、今日はしごとは休みにしてもらってあるわけで、とにかくあわてて出かけるようなことにはならない。ここでもまた、例のローカル線乗り換え問題というのがからんでくるし、昼食はあっちに行ってから食べることにしようということもあるので、地元駅九時四十分発の電車で出発する。今日は乗り継ぎのタイミングが合わず、これで池袋到着は十二時ちょっと前になった。まあここは妙に乗り継ぎがうまくいってしまっても早く到着しすぎてしまうので、このくらいでOKである。それで巣鴨とかへ移動してから「食べるところがない」ということになっても悲惨なので、池袋でいちど下車して食事をすることにする。ついでに、やはり昨日TOWER RECORDでみた「KANGAROO?」のCDが欲しくなってもしまったので、池袋のTOWER RECORDに寄ってみて、あれば買ってしまおうと。
 まずはTOWER RECORDを探し、すぐに見つかったので、近場で昼食をとることにする。今日はなんだか「カツ丼」を食べたいという気もちが強く、「どこかでカツ丼やってないかな」と探す。すると、某地下の寿司屋の店頭にランチメニューとして「カツ丼」と書かれていて、「え? 寿司屋でカツ丼???」といぶかしく思い、「いや、何かの間違いではないのか」と思いながらも、どうみても「カツ丼」を出してくれそうなので、思い切って地下への階段を下りた。店の感じはごく真っ当に寿司屋さんで、カウンター席にすわると、つい「おまかせしますよ」とか言いたくなってしまう。でも、テーブルの上にはしっかりとランチメニューで「カツ丼」とあって、「カツ丼を下さい」と注文する。いや、寿司屋でカツ丼というのは初めての体験である。
 えっと、まあ、寿司屋のカツ丼に期待してもしょうがないというか、実のところコレは、先日立ち食い蕎麦で食べたカツ丼の方がおいしかったかな? とにかくは食事を終えて外に出て、TOWER RECORDへと行ってみた。こちらの店舗は昨日の新宿の半分もない広さで、探していた「KANGAROO?」のCDは、もちろんなかった。

 時間もちょうどいいので、西巣鴨へ移動する。山手線で巣鴨に出て、メトロで西巣鴨に出ると、すぐ目の前が「にしすがも創造舎」だった。ちょうど開場の時間で、若い番号だったわたしはすぐに会場に入り、けっこういい席(と思える席)に陣取った。‥‥しかし、じっさいに舞台が始まってみると、この眠たさはいったいどうしたことだろう。とにかくは眠くって眠くってしかたがない。何度か寝落ちしかけて、あぶなくコックリコとなってしまうところだった。やはり昨夜終電で帰ったりしたツケがここにまわってきたのか。無念なことである。

 上演時間は一時間ぐらいだったので、終わっても余裕で三時前である。ゆっくり帰っても、乗り継ぎが悪くても、六時には帰宅できるであろう。もうニェネントに早く会いたい! 夕食は残っているレトルトパックご飯(とうに賞味期限を過ぎている)を温めて、おかずは何とでもなるだろう。とにかくは節約も大事である。


 

[]フェスティバル/トーキョー16 イデビアン・クルー「シカク」【Aキャスト】井出茂太:振付・演出 @西巣鴨・にしすがも創造舎 フェスティバル/トーキョー16 イデビアン・クルー「シカク」【Aキャスト】井出茂太:振付・演出 @西巣鴨・にしすがも創造舎を含むブックマーク

 イデビアンは好きである。ダンスなんだけれどもどこか滑稽であったりするし、それでもダンスとしてのグルーヴ感も満載だったりする。今回の公演は女性四人での公演(Aキャスト)と、男性四人での公演(Bキャスト)と分けての公演。ファンだったらどっちも観ておきたいと思うことだろうが、わたしはやはり女性が好きなのだろう。

 「シカク」とはなんだろう? 「視覚」?「四角」?「死角」?「刺客」? ‥‥いろんな言葉が思い浮かぶものである。こういうタイトルを発見するあたりに、やはり井出さんのセンスみたいなものを感じてしまう。
 さて、舞台は4DKぐらいの家の間取り図みたいになっていて、もちろん壁はないし、4DKとしてはこじんまりとしている。一区画だけは畳敷きみたいになっているけれども、あとはフローリングかな? 正面客席側はベランダへの窓になっているようで、奥が出入り口とバス・トイレ。どうもこの空間を四人の女性でシェアハウスしているというか共同生活をしているという設定みたいで、なるほど、それならば男性だけのキャストと女性だけのキャストに分けたというのもわかる。男女が混じると余計なこと考えちゃうからね。

 「ダンス」としてはメンバーひとりひとりのキャラが立っている感じで、みているとそれぞれの性格までわかってくる感じ。あまり群舞というものではないというか、そもそもがあまりダンスっぽくはない。なんとセリフまであるし、「お、ついにユニゾンで踊るのか!」と思っても、そういう場面はすぐに終わってしまう。とにかくはユーモラス、というのがぴったりな舞台だったというか、みていて楽しかった。それなのに、こういう公演でなんでわたしは眠くなってしまったのだろう。あれこれと集中力の切れてしまったのがとっても残念である。


 

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■ 2016-10-21(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 今日は、夕方からFさんと新宿で飲む予定。前回新宿で飲んだときに行けなかった、点心料理の香港屋台の店へ行ってみようよ、ということになっている。

 今日もいい天気だけれども、昨日のように「暑い」ということはない。逆に「また暑いのでは」と思って薄着で出かけてしまい、肌寒さに何度かくしゃみが出て、「風邪をひくか」と思ってしまったほどだった。
 待ち合わせの五時に間に合うには二時の電車に乗らなくてはならなくて、実はこれだと乗り継ぎがうまくいけば四時前に新宿に着いてしまうわけで、時間がかなりあまることになる。出発を一時間遅らせて三時にして、それで同じように乗り継ぎがうまくいくと、五時前のちょうどいい時間に新宿に到着するのだけれども、この乗り継ぎがうまくいくかどうかわからないというのがこのローカル線のひどいところで、ローカル線がターミナル駅のホームにすべり込むとき、ひとつとなりのホームにまだ湘南新宿ラインが来ていなければ、急いで階段を駈け昇ってとなりのホームへいけば、だいたい間に合う。しかし、すでにホームに湘南新宿ラインが到着していたり、今まさにホームにすべり込んで来るところだったりすると、ローカル線の乗客でも少しでも早く電車に乗りたいという人は、まさに全速で階段を駆け上がり、そして駆け下りるのである。ちょっとでも遅れると電車には乗れない。「なんでこんなことにエネルギーを使わなければいけないのか」と、毎回のように疑問に思う。そして、もう向かいのホームの湘南新宿ラインの車両のドアが開いてしまっていたりしたら、もうどんなにがんばっても間に合わない。これが、その日その時、電車によってちがうのである。おそらくはJR側では、「そのローカル線から、湘南新宿ラインに乗り換えて間に合うことは想定していない」という返答になることだろう。じゃあ、目の前に、急げば間に合うように電車が来るというのに、「あなたがここでこの電車に乗り換えることは想定していません」となるわけなのか。これはかなり不条理な問題ではあると思う。
 そういうわけで、三時のローカル線に乗って五時前に新宿に到着出来る可能性はあるのだけれども、安全策をとれば二時の電車に乗らなくてはならないことになる。ここで浮いてしまう一時間をどうしてくれるのだと、JRに問い詰めたい気分ではある。

 ‥‥けっきょく、二時の電車で出発し、乗り継ぎもうまくいったので四時前に新宿に到着。「さー、どうしようか」ということで、実に久しぶりに、TOWER RECORDに入ってみた。いろいろと棚を見て歩き、つまりはたいていの輸入盤はめちゃ高で、これはAmazonで買う方がヘタしたら千円ぐらい安く買える。いや、店舗を構えたところでも、もっと安く輸入盤を扱っているところもあるのだろうけれども、わたしにはどういうところにそういう店があるのか、もうわからなくなっている。やっぱりDISK UNIONとかに行ってみようか。
 ただ、「こんなのが国内盤で出ているのか」とびっくりするものがあれこれとあって、みているといろいろと欲しくなってしまうのだった。RED KRAYORAの紙ジャケ盤とかずらりと並んでいて、「全部欲しい〜!」って感じになる。傑作「KANGAROO?」だけでも買っておこうかと思ったのだけれども、他のところでDan Pennの「Nobody's Fool」の国内盤、などというのを見つけてしまい、「KANGAROO?」はCDRで持ってるはずだからと、けっきょく「Nobody's Fool」を買ってしまった。うーん、店でCDを買うのなんて、何年ぶりのことになるだろうか。もちろん思い出せることではない。

 そろそろFさんと待ち合わせの時間が近づいたので、待ち合わせ場所の紀伊国屋書店へ。お互いに五時よりも前に着いていたというのに、お互いに店の中を見て歩いたりしていてすれちがい、やっと遭遇できたのは五時十分に近かった。「それでは行きましょうか」と、店のある三丁目の方へと歩く。二人ともその店のあった場所はしっかり憶えていて、いちども迷わずにその店に直行。わたしたちが最初の客だった。
 わたしはホッピーでFさんは小ガメ入りの紹興酒を注文し、まずは腸詰めをいただく。これがとっても美味だった。次に頼んだ小龍包も肉汁たっぷりのジューシーさで最高。Fさんの紹興酒をちょっといただいたけれども、これが辛口で普通の紹興酒にはない美味しさだった。この店は久々のヒットだと思う。そんなうちに店内は満員になってしまっていて、さすがに金曜日の夜なのだけれども、お客さんは若い人ばかりでしかも女性連れが多い。居酒屋によくいる背広姿で声の大きいサラリーマングループの姿がみえないのもいい。いろいろと食べて飲んで、九時近くまで居座ってしまった。長居しすぎであろう。またこの店には来たい。

 いい気分にちょっと酔って満腹になって、ローカル線は終電で帰宅した。ニェネントくん、遅くなってごめんね。という感じである。


 

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■ 2016-10-20(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 No Music, No Life。このところ、音楽を聴く機会が増えた。一時期はもうまったく音楽など聴かなかったけれども、やはり音楽のある生活はいい。昨日久々にCDを買うことにしてみると、またいろいろと聴いてみたくなったりする。

 わたしはもう、かつて持っていたLPだとかCDのほとんどを売り払ってしまっていて、その音源はCDやMDにコピーしてしまってある。これらの音源をまた聴いてみようと引っぱり出してみるのだけれども、とにかく「未整理状態」というか、ランダムにしまってあるだけなので、いったいどこに何があるのだかさっぱりわからない。「あのアルバムがどこかにコピーしてあるはず」と思っても、探し出すことが出来ない。また、まだ残っているCDにしても、ケースだけで中の肝心のCDが行方不明になっていたりする。これらはそのうちにキチンと整理して、どこに何があるのかすぐにわかるようにして、ケースのあるものはちゃんとケースに戻しておかないと、持っている意味がないではないかと思う。

 今日はまた暑い一日になった。家にいるとエアコンをつけたくなるほどで、ずっと扇風機をつけっぱなしの一日になった。ニェネントは相変わらずキャットタワーのてっぺんで丸くなって寝てばかりで、その寝姿をみると、キャットタワーの丸い台とニェネントの背中の曲線とがぴったり合わさっていて、これでは「ネコ鍋」じゃないか、とか思ってしまう。

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■ 2016-10-19(Wed)

 久しぶりに、AmazonでCDを買う申し込みをした。買うのはMazzy Starの新作のライヴアルバム。なんかもう最近は、CDとかで新作を買うというと、このHope Sandoval関係のものに限られるようになってしまった。そのくらい、Hope Sandovalの音楽は好きである。

 今日はもう、昨日のような暑さはない。いいかげんに、秋らしく落ち着いた日がつづいてほしいものだと思う。それで、今日は本当ならば市民病院へ行って、東京のクリニックへの紹介状を書いてもらおうと思っていたはずなのに、もうすっかり忘れてしまっていて、「あ、いけない!」と思い当たったのは、もう夕方になってからのことだった。市民病院でわたしがかかっている「脳外科」は、水曜日の午前中だけしか担当医が来ないので、いろいろと不便である。先日の大学病院の担当医師は、市民病院が紹介状を書いてくれなかったことについて、「まずは病院に電話してみることです」ということだったけれども、担当医が週に一度、それも午前中しか来ないということだと、先に電話で伝えてもどうしようもないのではないかと思ったりする。まだ来週の水曜日にもう一度行ける日はあるので、言われた通りにまずは電話してみて、それで行ってみようかと思う。

 今日病院へ行くのを忘れたように、このところ予定を忘れてしまうことが多い気がする。あさってFさんと新宿で飲む予定だったことも忘れてしまっていたし、あれこれと観たい映画がもう公開されていることも忘れてしまっている。今観たい映画は、何といっても黒沢清監督の「ダゲレオタイプの女」である。あさってFさんに会う前とかに観ることはできないだろうか。

 今日も食事は昨日のおでん。昼も夜もおでんだった。値引きされて一パック250円ぐらいだったわけだから、これで三食まかなったということは一食百円以下ですんでいる。なかなか経済的ではないかと思う。


 

[]「狩人の夜」(1955) チャールズ・ロートン:監督 「狩人の夜」(1955)   チャールズ・ロートン:監督を含むブックマーク

 久しぶりに、持っているDVDでの鑑賞。監督のチャールズ・ロートンというと、「スパルタカス」で元老院の大御所を演じていた方という記憶はあるけれども、自ら監督した作品はこれ一作だけという。それも、あまりの不入りで以後の製作意欲をそがれてしまったということらしい。しかし、この作品はいろいろといわれているように、傑作なのである。主演はロバート・ミッチャムで、これがまたキリスト教の教義をインチキに振りかざす極悪人で、おぞましいったらありゃあしない。こういう役はもう、ロバート・ミッチャムの独壇場だろうか(「恐怖の岬」という、やはり彼が悪役を演じる傑作があるらしいけれども、わたしの記憶には残っていない)。その毒牙にかかってしまう「愚かだね〜」という未亡人がシェリー・ウィンターズで、彼女が殺されて、池の底で髪を水の流れにまかせて沈んでいるシーンは美しい! そして、このロバート・ミッチャムが「ニセモノだね!」と見破って、子どもたちを守るのがリリアン・ギッシュ。すばらしいキャスティングだと思う。

 さて、この作品のひとつの見どころは、そのロバート・ミッチャムから小舟で逃れる二人の子どもの逃走というところにあって、川の流れに小舟の行方をまかせる二人の行方を、観る方も感情移入して「無事に逃げおおせてくれ!」と思いながら観ることになる。この川の描写がまたすばらしい。

 タイトルの「狩人の夜」とは、何のことなんだろうか。終盤に、逮捕されたロバート・ミッチャムをリンチにしようと、群衆らがたいまつを手に集まって町を進む。この群衆こそが「狩人」なのだろうか。そしてこの群衆は、かつてはロバート・ミッチャムの口車に乗せられて、「彼こそは神の使い」みたいに崇めた連中でもあるのである。そういうところでこの映画、安易にものごとを信じて行動する群衆への警告、というような視点も感じてしまう。

 特に終盤に、映画のムードがコロコロと変わってしまうところはあるのだけれども、やはりこの作品は傑作なのだと思ったわけである。DVDに付加されているデータが充実していて、こういうDVDはいいな、と思わせられた。


 

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■ 2016-10-18(Tue)

 なんだか今日は暑い。いつまでも「秋」になりきらず、周期的に夏が戻ってくる感じがする。真夏に比べればそれは気温は低いのだろうけれども、もう気もちは秋になっているので、とっても暑く感じる。しっかりと秋になってほしいものである。

 ニェネントはキャットタワーのてっぺんで寝てばかり。キャットタワーの上は丸くなっているのだけれども、その丸みにぴったりと体をあわせて丸くなって眠っていて、上からみるとまるで「ネコ鍋」みたいにみえる。

 このところ、午後になると長い昼寝をしてばかりで、「こういうことを続けるのはよろしくない」という気もちもあって、今日はがんばって昼寝をしないで過ごした。午後から南のスーパーに買い物に行き、おでんのセットが半額だったので、「しばらくは<おでん>で行こう」と買って帰り、夕食はおでんにした。ただ温めればいいだけのようなもので、お手軽メニューである。そんなおでんを食べていると、ニェネントが「おいしそうだにゃ〜」みたいに近づいてきて、食卓の上に乗ってきた。さすがにネコには「おでん」は食べられないだろうと、お引き取り願ったが、いったい何に惹かれて寄ってきたのだろうか? そもそも「おでん」の材料には練り物が多いから、魚っぽい空気が部屋にただよったのかもしれない。


 

[]「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988) ジュゼッペ・トルナトーレ:監督 「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988)   ジュゼッペ・トルナトーレ:監督を含むブックマーク

 いわゆる「名画」という作品なのだろうか。噂はいろいろと聞く作品なので、「とりあえずは一度」と観てみたのだけれども‥‥。

 結論からいうと、死ぬほどつまらなかった。観ていて、何度も何度も「いいかげん、早送りしてしまおう」と思ったところを我慢して最後まで観たのだけれども、もう早く忘れてしまいたいし、早送りで観ればよかったと思う。いったい何でこの作品が人気があるのか、まるでわからない。観ていてあきれるほどに凡庸な演出は散見されるし、子役の子はかわいいかもしれないけれども、演技になっていない。壮年後の主人公を演じるジャック・ペランはもったいづけて気取ってるだけに見えるし、とにかく過去の名作映画の引用が多すぎ。ラストのキスシーンの連続にも心動かされなかったわたしは、感性の上で問題あるのかもしれないが。

 良かったのはエンニオ・モリコーネの音楽と、主人公の彼女の美貌だけ、だった。


 

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■ 2016-10-17(Mon)

 あたらしい週がはじまった。今週末にはFさんと新宿で飲む予定だし、池袋にダンスの公演を観に行く予定もある。先週はいろいろと出かける予定をやめて家でゴロゴロしていたのだけれども、今も外に出かけようという気分がなくなってしまった。できれば当分、電車に乗って出かけるようなことをせずに、家でニェネントとのんびりしていたい。家にいて、くつろいでいるニェネントの姿をみているのがいちばんの幸せのようにも思える。寝ているニェネントをみていると、今さらながらに、ニェネントがわたしのところにきて、こうやってわたしといっしょに暮らしているということが奇跡のように思えてしまう。そして、わたしは果報者だと思う。

 今日も午後から昼寝をし、目覚めたらもう外は暗くなっていた。日が短くなっている。秋真っ盛りという気がする。夕食には買ってあった白菜と鶏肉で水炊きをつくった。いちばん簡単で、失敗のない献立である。白菜の安いときには経済的な献立でもある。

 夜はまた、エドガー・フーヴァーの伝記を読み進めた。やはり一日に十ページちょっとしか読み進められず、こんなペースでは、読了するのに二ヶ月もかかってしまうだろう。でも、この本を読み終えることができれば、ちょっとは「もう本を読めるぞ」という自信になるだろうと思う。


 

[]「狼の血族」(1984) ニール・ジョーダン:監督 「狼の血族」(1984)   ニール・ジョーダン:監督を含むブックマーク

 ニール・ジョーダンのごく初期の作品で、「モナリザ」の二年前の作品。わたしは勘違いして「吸血鬼」の映画だと思い込んでいたけれども、出てくるのは「狼」なわけだから、これはウェアウルフの登場する映画で、しかも童話の「赤ずきんちゃん」を下敷きにした作品だった。この作品でも、「赤ずきんちゃん」と同じように狼は男に変身し、ヒロインに迫るのだけれども、ここではそのことが性的な比喩として取り扱われていて、思春期に背伸びしたいヒロインを、「男たちには気をつけなさいよ」と諭すおばあちゃん。しかしヒロインの周囲の男の子たちはまだまだ「子ども」で、ヒロインは森で出くわす見知らぬ男に惹かれるのである。

 いろいろな象徴的意味のこめられたオブジェの登場する作品だけれども、そういう部分の象徴性に足をとらわれてしまったような印象もある。しかし、全篇がセット内での撮影での、森のセットや小屋のセットなど、とってもいい感じではあった。
 まだまだSFXの発達していない時代の作品でもあり、人から狼への変身シーンなども苦労のあとの偲ばれる「実写」でこなしているのだけれども、これはけっこういい感じだったのではないかと思う。ただ、登場する「狼」はやはりどう見ても「犬」だろう、というところで、シベリアンハスキーにしか見えなかったりする。

 終盤に登場する「狼女」として、当時なかなかに人気のあったシンガーのダニエル・ダックスが出演していたけれども、シンガーとしてはエキセントリックな印象だった彼女、ここではかなりおとなしい「狼女」ではないか、という印象ではあった。


 

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■ 2016-10-16(Sun)

 今日は久しぶりのしごと。朝、まだ真っ暗な外へ出て行こうとしたら、ニェネントがなきながら寄ってきて、ドアの前にわたしより先にまわりこんで、そこで丸くなってしまう。久しぶりに「行かないでよ〜」というメッセージ。このところはニェネントとも親密に時を過ごしていたので、なんだかすっかり「デレ猫」になってしまったようだ。普段のニェネントは飼いネコにあるまじきツンツンぶりなので、こうやってデレッとしてくれると、それはそれはとってもうれしい。

 今日しごとに出ればまた明日は休みなので、このところは気分的にものんびりとしている。午後からまた長い午睡をとり、目覚めたらもうすっかり暗くなっていた。テレビで「モヤモヤさまぁ〜ず」とかを見て(けっこうこの番組はファン)、昼寝をしたもので眠れない長い夜は、昨日から読み始めた「大統領たちが恐れた男 FBI長官 フーヴァーの秘密の生涯」を読み継いだ。けっこう先日観たイーストウッドの「J・エドガー」との差異というのも気になるところで、映画では、フーヴァーはナオミ・ワッツが演じていたヘレン・ギャンディにいちど求婚したことになっていたけれども、この本を読むと、フーヴァーが求婚したのはヘレン・ギャンディではない別の女性だったらしい。やはりこのエドガー・フーヴァーという人物、あまりに逸話が多すぎるというか、それらをまとめて二時間ぐらいの映画に収めるというのは並大抵のことではないと思う。しかし、あの映画はやはり、政治的な面から目をそらせすぎていたきらいはあると思う。
 今のところは読書も快調で、一時期のように「読んでいた前のところが思い出せない」とか、「集中力が持続しない」とかいう問題も(そういうところがないことはないけれども)いくらか軽減されている気がする。この調子がつづくといいと思う。とりあえずは、この二段組みで500ページを超える本を読み通すことだろう。


 

[]「なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集」(2)シャーリイ・ジャクスン:著 市田泉:訳 「なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集」(2)シャーリイ・ジャクスン:著 市田泉:訳を含むブックマーク

 昨日のつづき。

●「貧しいおばあさん」:キティとひいおばあさんとの、肉屋での楽しいお買いもの。世間なんてこうやって乗り切って行けばいいのだよね。「レディたるものは‥‥」。
●「メルヴィル夫人の買い物」:待たされるのが大っ嫌いなメルヴィル夫人の、デパートでの爆笑お買いもの。これは電車の中で読んでいて笑いを抑えるのに苦労した。楽しい。
●「レディとの旅」:九歳のジョセフ少年の、生まれて初めての列車でのひとり旅。相席になった女性は指名手配中だった。ジョセフは彼女の息子ということにされるけれども‥‥。ちょっとのぞき見た大人の世界、って感じだろうか。
●「『はい』と一言」:隣家の夫妻が事故死して、残された遺児のヴィッキーをしばらくあずかることにした家族。ヴィッキーは不細工で不器用だとあまり好かれていない。でも彼女の隠された能力とは‥‥。「あらら」というオチ。
●「家」:夫と田舎に転居してきたエセルは、村の人たちと知り合うのがうれしかった。でも、村の人たちは「雨の日にあの道を通っちゃいけない」という。なのにエセルはその道で車を走らせる。ちっちゃなホラー。
●「喫煙室」:バカな、だまされやすい悪魔の出てくるお話。
●「インディアンはテントで暮らす」:書簡のやり取りだけで成り立つ作品。AはBから部屋を借り、BはそれでCのところに間借りする。Aの住まいにはDが入居する。Aは「あなたは正当な住人ではない。」といわれ、Dに「悪いけど出て行ってくれ」と伝える。なんだかんだとやり取りがあって、はたして結末は?
●「うちのおばあちゃんと猫たち」:おばあちゃんと、何代にもわたる猫たちとの闘争記。
●「男の子たちのパーティー」:ここからは、シャーリイ・ジャクスン自身の子育て奮闘エッセイ。まあ相手が九歳の男の子ならば逸話には事欠かないことだろう。以下、「不良少年」、「車のせいかも」、「カブスカウトのデンで一人きり」と、子育てものがつづく。
●「S・B・フェアチャイルドの思い出」:これはおかしい。S・B・フェアチャイルドというのは大きなデパートのようだけれども、そこで不良品のテープレコーダーを買ってしまったあげく、返品しようにもたらい回しにされてしまうと。

 あとはエピローグの「名声」というユーモラスな短文が全体をしめ、特にこの本の後半で際立つ、作者のユーモア感覚が印象に残ることになる。やはり、シャーリイ・ジャクスンという人のいろんな側面を読み取れたということで、楽しい読書ではあった。


 

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■ 2016-10-15(Sat)

 夢をみた。わたしは何かのはずみでEさんと結婚することになっている。Eさんは美人だからいいか、などとわたしは思っている。両親からはお祝いに硯のセットをもらい、Eさんは腕時計をわたしにくれた。腕時計の文字盤は横線の細かく入ったうすむらさき色で、角が丸くなっているその形からも、女物の腕時計のようにみえる。
 二段ベッドの上で寝ているわたしは、起き出して下で寝ているEさんのところに降りて行くのだけれども、Eさんの向こう側にはEさんと並んで寝ている母の姿が見えた。「なぜ母がいっしょに寝ているのだろう」と、わたしは考えている。
 その他にも別のストーリーの夢をみていたようだけれども、もう忘れてしまった。

 わたしの三連休は今日でおしまい。昼から池袋で行なわれる「フェスティヴァル/トーキョー」のオープニングのイヴェントに行こうと思っていた。天気も良く、お出かけ日和ではあるけれども、やはりなんだか直前になって出かけるのがめんどうになり、家にこもることにした。
 ニェネントと遊ぼうと思ったのだけれども、ニェネントは「キャットタワー再発見!」という今日この頃で、もうほとんどの時間をキャットタワーのてっぺんで寝ている。今日はわたしもほとんどテレビを見ることをしなかったので、ニェネントが寄ってくることもなかった。

 テレビの番組表をみても、これから先あまり録画しておきたい映画もないようで、「新しく録画するために過去に録画してあった映画を観ては消去する」ということも無理にやらなくってよくなった。それで、あと少しで読了だったシャーリイ・ジャクスンの「なんでもない一日」を読み終えて、昨日観た「J・エドガー」関連で、「大統領たちが恐れた男 FBI長官 フーヴァーの秘密の生涯」という分厚い本を読みはじめた。はたして読み通せるだろうか?


 

[]「なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集」(1)シャーリイ・ジャクスン:著 市田泉:訳 「なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集」(1)シャーリイ・ジャクスン:著 市田泉:訳を含むブックマーク

 この本はシャーリイ・ジャクスンの死後、納屋から発見されたという彼女の未発表原稿、そして雑誌に発表されたまま単行本未収録だった作品を集めて刊行された短編集で、アメリカ版に収録された130篇あまりの中から30篇ほどを訳出してまとめたもの。内容は彼女らしい悪意のこもったような不気味な作品から幻想譚、ユーモラスなものから子育てエッセイと、幅広い。

●「スミス夫人の蜜月」の二つのバージョンは、スミス夫人が自分の運命を知らないのか、それとも知っているのかというバージョン違い。その新婚の夫はおそらくは花嫁を殺害しつづける連続殺人鬼なのだろうけれども、そう決めつけているわけではなく、あくまで夫人の一人称で進行する。
●「よき妻」は、妻を監禁する夫の歪んだ心理。
●「ネズミ」は、それまで夫に見せなかった恐ろしい一面を、ある機会に夫に見せつける妻。
●「逢瀬」、夜の街を追って来る足跡を逃れてさまよう女性。聞こえてくる声は同じ文句を繰り返す。
●「お決まりの話題」、屋敷の絵の中に取り込まれてしまった二人の女の子のストーリー。
●「なんでもない日にピーナツを持って」、主人公夫婦の夫は町に出て、出会う人々に善行を積む。しかし一方で妻の方はその逆を行なっていたようだ。明日は立場を交替しようと語る二人。
●「悪の可能性」はちょっと先の「なんでもない日にピーナツを持って」に似ている? 町を散歩するのが日課のミス・ストレンジワースは、帰宅すると町で見かけた人たちに嫌がらせの手紙を書くのが楽しみ。しかしある日、その投函する前の手紙を人に見つけられたら?
●「行方不明の少女」、クラス全員の課外授業で来ているキャンプ場から、ひとりの女の子が行方不明になる。しかし、周囲の誰ひとり、彼女がどんな女の子だったのか思い出すことができない。一年あまりたって彼女の死体が見つかるけれども、いったい彼女はいつから行方不明になっていたわけだろう?
●「偉大な声も静まりぬ」、著名な文芸評論家の臨終の場、病院での人々のシニカルなスケッチ。
●「夏の日の午後」、まだ就学前のキャリーとジーニーは、死んでしまった角の家の子にティッピーと名付け、今でもいっしょに遊べるものと思っているのである。
●「おつらいときには」、ガーデン夫人は、バスの中で出会っただけのホープ夫人から手紙をもらい、「この人はわたしの悩みをわかってくれる人では」と思い、彼女に会いに行く。しかしホープ夫人はつまりは手紙魔で、出会った人誰にでも同じような手紙を出しまくっているだけの人だった。
●「アンダースン夫人」、人はどういうことで狂ってしまうのか。毎日が同じ言葉の繰り返しで生きていて、そこからはずれたときにどうなってしまうのか。
●「城の主」、ちょっと少女マンガのストーリーのような幻想譚。
●「店からのサービス」、盲目の男とその妻という女による「詐欺」の手口。

 長くなったので、残りは明日。


 

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■ 2016-10-14(Fri)

 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞することに決まった。このことは、ギンズバーグからバロウズ、そしてケルアックらビートニクの作家への評価が今になってなされた、と考えてもいいのではないかと思う。ペンを取る作家ではなくて、「吟遊詩人」ともいうべきシンガー/ソングライターが受賞するというのも面白いこと。もちろんわたしなども、ディランの詩は「文学」として受けとめていた部分はあるけれども、こうやっておおやけに認知されるというのは喜ばしいことだと思った。きっとCDショップでは、これからディランのアルバムがバカ売れすることになるんだろうな。皆がそうやってアルバムの歌詞カードを一所懸命読むようになれば、やはり喜ばしいことだと思う。
 今のわたしには、「A Hard-Rain's A-Gonna Fall」とか、「Subterranean Homesick Blues」の詩(の一部)が思い出される(こういう記憶は消えていない)。

 今日は連休二日目。今日も病院で、この日はうちの近くの内科医での定期的な検診。その帰りに市役所に寄って、「自立支援医療」について聞いてみる。こんど行く東京のクリニックを「指定医療機関」にしてもらおうと思ったのだけれども、指定医療機関というのはひとつだけしか認められないのだということ。これも意外なことで、どうしようかと迷ってしまう。「では考えてみます」と帰ってきたけれども、今「指定医療機関」にしているメンタルクリニックはもう行くのをやめてしまって、東京のクリニックの方を指定しようかとも考えるのだけれども、その東京のクリニックにこれからも通院することになるのかどうか、まるでわからない。

 夜は上映が今日でおしまいの「山河ノスタルジア」をやはり観に行こうかと思ったのだけれども、どうしても帰りが終電になってしまうというのがネックで、「やはりやめておこう」と、家でゴロゴロすることにした。
 今日の「ゴロゴロ」はニェネントといっしょで、昼寝するときにニェネントを抱いて、わたしのとなりに寝かしつけたのだけれども、いつもならすぐに他所に行ってしまうニェネントが、この日はずっとわたしのそばに居つづけ、どうやらそのまま眠ってしまってもいたようである。こういうことはとっても珍しいことで、記憶にもそういうことは残っていない。このごろは「ツンデレ」でも「デレ」の方がちょっと勝っているニェネントだけれども、今日なんかはまさに「デレデレ」のニェネントくんで、わたしとしてもうれしい気分である。


 

[]「J・エドガー」(2011) クリント・イーストウッド:監督 「J・エドガー」(2011)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 うちにはそんなエドガー・フーヴァーの伝記本が転がっていて、途中までは読んだものと思うのだけれども、もちろん内容はまるで記憶に残っていない。ただ、エドガー・フーヴァーという人物、どこかアメリカの「歪み」を体現していた人物なのではないのか、そういう印象は残っている気がする。反共、超保守で、大統領をも恐れさせた男と。

 この映画では、通底するようなドラマっぽい展開は見られず、どちらかというと短いエピソードの連続のような印象で、そのなかで浮かび上がるのは、ちょっとマザコンっぽくって、同性愛者だったという彼の肖像だったように思う。
 この映画でみられる彼の行動は、図書館のインデックスの整備から始まる、科学的捜査の導入、エマ・ゴールドマンの国外追放、リンドバーグ子息誘拐事件の解決(?)、そして要人のプライヴェート生活の盗聴から、マーティン・ルーサー・キング牧師のノーベル平和賞受賞を妨害するための脅迫めいた行動などになる。彼のプライヴェート・ライフとしては、母(ジュディ・デンチが演じている)とのマザコンめいた暮らしがあり、ヘレン・ギャンディ(ナオミ・ワッツ)にはいちどは結婚を申し込むものの拒絶され、その後は彼女を終生、彼の個人的秘書、仕事のパートナーとしての関係をつづける(彼の死後、彼の極秘ファイルを処理するのはそのヘレン・ギャンディである)。そして彼の同僚(副長官)であったクライド・トルソン(アーミー・ハマー)とは、終生同性愛的な関係をつづける。

 こうやって映画にするのなら、もっともっと、このエドガー・フーヴァーという人物には描くに足ることがらがあるように思えるし、彼の政治的スタンスなどももう少し突っ込んで描いてもいいように思える。そこのところは、共和党支持者であるイーストウッドの政治的姿勢がじゃましてしまったのだろうか。

 このところのイーストウッドの作品のように、彩度を落として黒を基調とした画面は渋さをかもし出しているし、トム・スターンの撮影はやはりすばらしい。わたしとしては、ナオミ・ワッツの抑えた渋い演技をみることができたのがうれしかった。


 

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■ 2016-10-13(Thu)

 今日はしごとは休み。わたしの三連休の始まりである。まず今日は、医大病院へ行って紹介状を書いてもらう。受信の受け付けは八時半からということなので、なるべく早く行っておこうと、七時四十分の電車で出発する。これで、その医大病院のある駅には八時二十五分に着くはず。駅から病院までは十分足らずのはずだから、ちょうどいいではないか。
 この駅には当然、以前に来たことがあるはずなのだけれども、これっぽっちも記憶に残っていない。なんだか、高い建物のない真っ平らなところだなあという印象。その医科大学が出来てから開発された土地らしくも、メインの道路は広く、その他の道路も碁盤の目のように走っている。

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 さて、病院に到着して、受付けをするのだけれども、その前に「前に受診したことがあっても、紹介状がないと<選定療養費>というのをいただきますよ」と知らされる。その額が5400円になる。なんということだ。市民病院で紹介状をくれればよかったのに、市民病院でもこんなことは知らなかったのだろう。こういうことならば今日は受診するのをやめて、先に市民病院へ行って、紹介状をもらってから出直した方が安くつくことになるだろう。よほどそうしようかと思ったけれども、もう東京の病院へ行くまでの日にちもあまりないことだし、時間のロスと財布のロスとを考え合わせて、あきらめて今日すませてしまうことにした。

 ここまでが第一段階(今日はいろいろとトラブルがつづくのだ)。次に受付けをすませるのだけれども、「予約をしていないので」ということで、11時からの受診になるといわれる。まだ時間は9時前。なんということ。二時間以上も時間をつぶさなければならない。ちょっとがっくりする。
 来る途中にTSUTAYAと書店との複合ビルがあったので、そっちへ引き返して棚の本をみたり、レンタルヴィデオの棚をみて「こんなヴィデオがレンタルできるのか」とかチェックして時間をつぶすことにした。ウチから歩いて15分ぐらいのところにも、こういうTSUTAYAと書店との複合店舗はあるけれども、ちょっと遠いのでほとんど行くことはない。でも、やはりレンタルヴィデオの店というのは利用のしがいもあるし、TSUTAYAのそばの書店というのもどこもかなり大型だし、やはりわたしもウチの近くのTSUTAYAにもうちょっと行ってみるか、という気分にはさせられる。
 しばらく本の立ち読みとかをしていて、十時半も近くなったので、「もう病院に戻って、順番がくるまで持ってきた本でも読んでいよう」と、病院へ引き返す。それでわたしが待つべき診察室の前に着いてみると、すでにわたしの待ち番号が点滅していた。「なんだ」という感じで診察室へ入る。

 今日の来院の理由は先に受付けに話してあったので、担当の医師の方も単刀直入にそのことを話し始められた。そして、その内容がわたしにはちょっとショックだった。「その東京の病院への紹介状は、本来その市民病院の方で書けるはずのものですよ」ということ。じっさい、この医大病院にはもう二年以上来ていないわけだから、それ以降の状況を把握しているのは市民病院の方だし、MRIの診察結果だとかは市民病院の方にあるのだという。わたしはてっきりMRI検査はこの医大病院の方で受けたものと思っていたけれども、そうではなかったらしい。担当した医大病院の医師は、「そういうことは市民病院の方で対処しなければならないことです」という。
 ‥‥なんだ。市民病院の医師はなんでそのあたりのことをスルーされてしまわれたのか。これではもういちど市民病院の方へ行かなければならないではないか。医大病院の医師も「おかしなことだ」と思われているようで、「まずは市民病院に電話されるのがいいと思いますよ」とおっしゃられる。かなりのショックである。医大病院の医師の方は、「こちらで書けるだけのことは書いて紹介状をおつくりしますけれども、先方で<これでは不備だ>ということになるかもしれません」ということで、とにかくは紹介状を書いて下さった。しかし、とにかくはもういちど、市民病院の方に連絡するなり行くなりしなければならない。まいったな。というか、「どうなってるんだ」という感じ。まあここの担当の先生は親切だったので助かったけれども。

 とにかくはもう、あとは帰ってふて寝するだけである。帰宅して昼食を食べ、あとはずっと昼寝した。夜にもういちど出かけて映画を観ようなどという気にはならない。映画に行くのなら明日。暗くなってから起き出して、録画してある映画を一本観た。


 

[]「BROTHER」(2001) 北野武:監督 「BROTHER」(2001)   北野武:監督を含むブックマーク

 ジェレミー・トーマスが製作にかかわった日英共同製作の作品で、舞台の大半がアメリカでの撮影。観た感じでは、「ソナチネ」の渡米版という趣を感じた。とにかく登場人物(日本人)は皆、死にたがっているというか、死ぬための理由を見つけたがっていて、そんな理由を見つけたらさっさと死んで行く。それでアメリカの男たちは恐れおののくというか、ちょっとしたカルチャーギャップを感じる。そういう映画なのかと思った。せっかく情緒を排して「感情の欠如」みたいなのを描いていてそこがいいのに、ラストにそういう感情を爆発させるのはどうなんだろうという感じで、さいごまでクールにみせて欲しかった気もする。


 

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■ 2016-10-12(Wed)

 今朝はさらに気温が下がり、もうセーターでも引っぱり出したい気分になる。気象情報では十一月の気候だといっていた。明日はもうちょっと気温も上がるらしい。

 明日は医大病院へ行く予定なのだけれども、それでついでにターミナル駅で映画を観たいと思ったのだけれども、医大病院での外来の受け付けは午前中でおしまいで、映画の方は観たい「山河ノスタルジア」は夜の八時から一回だけの上映。これでは一度家に戻って、再度夜になってから映画を観に出かけなければならない。なんだかめんどうである。しかも昨日書いたように「山河ノスタルジア」を観ると終電での帰宅になるわけだし、とにかく何もかもめんどう。でもやはり、「山河ノスタルジア」は観ておきたい気もする。どうしよう。

 このところタマネギやジャガイモ、ニンジンとかの野菜の値段が高騰しているのは、スーパーでみれば実感出来たのだけれども、今はレタスもとんでもない価格になっている。今日スーパーに行ったら、一玉398円の値段がついていてびっくりした。しかも、みてみるとそれがとっても小玉の、スカスカのレタスなので、二度おどろいてしまった。普通にレタスが安かった頃にはとても店頭に並ばなかったような、一種の「生育不足品」だと思う。それでも四百円とかの値段がついてしまう。レタスの価格としては過去最高値ではないだろうか。わたしはいちおう毎朝、トーストにレタスと玉子サラダ、トマトをはさんで朝食にしているので、レタスがないと困る。しかし四百円のレタスを買う気はしないので、とにかくはサニーレタスを買った。248円である。しかし、そのサニーレタスをトーストにはさんでみると、これはやはりレタスにはかなわない。食感がぜんぜんちがう。これだったら緑菜などなしですませた方がよっぽどマシな気がした。しばらくは(レタスの価格が落ち着くまでは)レタス類は買わずにやり過ごそうかと思う。


 

[]「罪の手ざわり」(2013) ユー・リクウァイ:撮影 ジャ・ジャンクー:監督 「罪の手ざわり」(2013)   ユー・リクウァイ:撮影 ジャ・ジャンクー:監督を含むブックマーク

 明日ひょっとしたら、このジャ・ジャンクーの最新作「山河ノスタルジア」を観に行くので、前年に公開されたこの「罪の手ざわり」を観ておくことにした。英語題は「A Touch of Sin」で、まさに「罪の手ざわり」である。

 まずは道路にひっくり返ったトラックと、道いっぱいに転がったトマトのような赤い野菜(果物?)の映像。そばに男が立っている。彼はダーハイという。その脇をバイクが走りすぎて行く。バイクに乗っているのがチョウという男で、その先の道で彼は三人のチンピラに止められ、「金目のものを出せ」と脅されるけれども、逆に持っていたピストルで三人を撃ち殺してしまう。どうやらチョウという男、堅気の人間ではなさそうだ。
 一方、ダーハイという男はもとは炭坑作業員だったようで、彼が働いている村の共同財産であった炭坑は、実業家のジャオによって権利が独占されてしまっている。ジャオの利益独占を、村長も賄賂をもらって黙認している。ダーハイはそのことに義憤を感じている。

 わたしは物語はこの二人を中心に展開していくのかと思って観ていたのだけれども、じつのところこの映画はオムニバス映画で、ダーハイの物語とチョウの物語はその後交差することもなく、それそれが映画の上では完結して行く。さらにジャ・ジャンクーの映画の常連のチャオ・タオ(シャオユーという女性を演じている)の起こす殺人事件の顛末が描かれ、そのあとにもうひとつ、中国南部の広東省を舞台として、シャオホイという青年の悲劇が描かれる。

 これらの事件は、すべて中国で実際に起きた事件を基に構成されたものだということで、観ていても、そういう背景のリアルさが映画を支えている気がする。そして、「今の中国ってこんなことになっているのか」というおどろきもある。わたしは特に後半の、シャオユーの置かれた錯綜した人間関係、シャオホイの孤独とかの描写に、今までの中国映画では描かれなかったにちがいない、社会のひずみのようなものを感じることになった。そこに随所に、街頭で演じられる京劇がインサートされてもいくわけで、じっさいにチャオ・タオの殺人シーンの彼女の表情とか身振りとか、京劇を模倣したような演出もみられる。そして四つの話の中にそれぞれ、馬、牛、蛇、猿という動物らが登場するこにも、何かのメタファーがあるのだろうか。

 わたしには最後のシャオホイの物語が痛くって心に滲みたけれども、中国のそれぞれの地域の空気感もしっかりと描かれていて、単純に「四つの犯罪を描いた作品」ということを越えて、現代中国の痛みを感じさせられるような作品だった。


 

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■ 2016-10-11(Tue)

 このところ、日ごとに気温が下がってくるみたいではあり、朝しごとに出かけるときにはちょっと寒くなってきた。
 今日明日としごとに出れば、明後日からは三連休になる。やはり三日ぐらいつづけて休めるというのはいい気分だし、「では何をやろうか」といろいろ考える。まずは医大病院へ行って、紹介状を書いてもらうことをやっておかなくてはならない、ということがある。こういうことは、もっと早くやっておくべきだったかもしれない。あとは「何をやって遊ぼうか」とか、そういうことだけれども、ひとつにはターミナル駅の映画館で、ジャ・ジャンクー監督の「山河ノスタルジア」をやっているのを観ておきたい。これも先週とかに行っておけば上映時間にもっと選択肢があったのに、今では夜の八時からの一回きりの上映になってしまっている。この時間でこの作品を観るとすると、終映時にはギリギリ終電車しか残っていないことになってしまうようだ。しかも、その終電までの五十分ぐらい、時間をつぶさなければならない。なんかツラい。どうしようかな、と考えてしまう。あとは土曜日は池袋の西口公園で、フェスティヴァル・トーキョーというイヴェントのオープニングがある。短い時間だけれども「珍しいキノコ舞踊団」だとかも出るし、わたしの知っているノイズ系のミュージシャンの演奏もある。無料イヴェントでもあるし、行ってみたい気はある。

 ニェネントは急にキャットタワーがあることを思い出したみたいに、このごろはいつもキャットタワーのてっぺんで寝ている。わたしがテレビをみているとキャットタワーから降りてきて、わたしのそばに寄ってくる。ちょっと「ツンデレ」の「デレ」の度合いが高くなってきている気配で、別に発情期でもないようなのに珍しいことである。そこで抱き上げてわたしの胸の上に乗せてやると、「ふにゃ〜、ふにゃ〜」とないて、そんななき声はいやがっているみたいにも聴こえるのだけれども、わたしの胸の上から逃げて行こうともせずにじっとしている。わたしが夕食を食べているとやはりそばに寄ってきて、わたしの食べるさまをじっと見ている。これは「わたしにも何かくれないかな〜」という意思表示で、わかりやすいのだが。



 

[]「ブラックホーク・ダウン」(2001) リドリー・スコット:監督 「ブラックホーク・ダウン」(2001)   リドリー・スコット:監督を含むブックマーク

 リドリー・スコットの作品というのも、「エイリアン」以外みんな忘れてしまったので、「はたしてリドリー・スコットとは有能な監督なのか?」などということはわからない。でも何となく記憶しているところでは「大した監督ではない」という感じである。世間では「巨匠」などと呼ばれているようで、「ほんとうにいい作品を撮る監督なのか?」という興味から、この「ブラックホーク・ダウン」という作品を観始めた。映画は、内戦下のソマリアで1993年10月に起きた米軍の軍事的介入を描いたもの。当初は三十分で終了するとされていた米軍の作戦は、ヘリの墜落などから混乱を極め、15時間を費やし、米軍側19名、ソマリア民兵側1000人(この映画による)の戦死者を出すことになる。そんな戦闘を、この映画はどう描くのか?

 ‥‥観終わって、二十一世紀にもなって、まだこんな映画がつくられつづけているということに、驚きを感じた。というか、ここまで米軍兵士を英雄視するような作品というのは、わたしは観たことがない。
 この作品が公開されたときアメリカの大統領はジョージ・ブッシュなわけで、しかも9.11の直後だったわけである。そのことは、この作品を考える上でのポイントではないだろうか(もちろん9.11の前に撮影などは終了していたことだろうが)。そしてこの作品の製作はジェリー・ブラッカイマーである。彼はこの同じ2001年に「パール・ハーバー」という映画も製作していて、その「パール・ハーバー」もまた、一般には「愚作」と位置づけられているようである。
 そこでも日本軍の描写のリアリティのなさが問題にされていたらしいけれども、この「ブラックホーク・ダウン」でのソマリア人たちの扱いもヒドい。まずは冒頭の字幕で、ソマリアの内戦は「部族」間の争いのような書き方がされていて、ソマリアという国はまだ「未開の地」かよ、みたいな表現のされ方になっている(これは字幕の翻訳の問題もあるか)。そのあとの戦闘シーンでも、米兵は真剣に戦っているというのにソマリア兵は白い歯を見せてヘラヘラしながら銃をぶっ放してくる。まるでギャングの集団である。そして、ゾンビのように、倒しても倒してもあとからあとからあらわれてくる。これは完全にソマリアの兵士らは「悪人」であり、米兵らは「善」を代表しているという描かれ方である。もちろん米兵はそもそもはソマリアに和平をもたらすための軍事介入を行なっているわけだけれども、この映画にはその軍事介入ははたして正当だったのか、という問いかけはない。ただまずは、撃墜されてしまったヘリの乗員を救うための戦いであり、ソマリア人をバンバン撃ち殺すことは正当化される。

 けたくそ悪い後味の映画だったのであまり感想を書いても仕方がないと思うけれども、ラストの字幕でこの戦闘で亡くなったアメリカ軍兵士19人の名前を出すのなら、同じ戦闘で亡くなったソマリア人千人の名前も出すべきだろうが、と思った次第である。
 こんな右翼の映画製作者の言いなりになって、こんな映画をつくってしまうリドリー・スコットという監督、とても「巨匠」などと呼べるわけがない。こんなヒドい作品は久々に観た気がする(初めてか?)。


 

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■ 2016-10-10(Mon)

 朝、しごとをやっているとき、不意に頭の中で古い曲がひゃっぺんがえしにリピートされてしまうことがよくある。別に最近聴いた曲が思い出されてしまうというわけではなく、古い古い、中学や高校の頃に聴いていた曲が、とつぜんに頭の中で流れ出す。これがいつまでもリピートされて止まらなくなってしまう。今日はキンクスの「David Watts」だった。いったいなぜキンクスなのか。このところキンクスのことなど考えたこともないし、とにかくは頭の中でとつぜんにスイッチが入ってしまうという感覚なのである。はたしてこういうことは正常なことなんだろうか。それとも、記憶障害とどこかで関係していると考えられるのだろうか?

 今日も午後からたっぷりと寝てしまい、こういうことがすっかり常態化してしまいそう。昼寝してしまうと夜眠れなくなるのだけれども、そういう時間は何をするでもなくぼんやりと過ぎ去ってしまう。日記に書くことも何もない。どこかで正常に、昼はシャンと起きていて、寝るのは夜という、あたりまえの生活に戻さなければいけないのにと思っている。


 

[]「ダーティハリー5」(1988) バディ・ヴァン・ホーン:監督 「ダーティハリー5」(1988)   バディ・ヴァン・ホーン:監督を含むブックマーク

 いちおうシリーズ最終作で、また前作から5年経ってしまっている。こういう感じだと、これからも突然に「ダーティハリー」の新作が登場したりすることもあったりして。リタイアして四半世紀経つハリー・キャラハンが、また事件に巻き込まれるとか。

 イーストウッドはこの1988年に「バード」を撮っていて、このときの撮影が、この「ダーティハリー5」も撮ったジャック・N・グリーンという人で、この人は1986年の「ハートブレイク・リッジ」からイーストウッドの作品で撮影を担当するようになり、2000年の「スペース・カウボーイ」までを撮っている。ちなみに、このあとの「ブラッド・ワーク」以降の撮影は、現在までトム・スターンという人が担当している。
 監督のバディ・ヴァン・ホーンという人も、そもそもがイーストウッドのスタントマンをやっていた人物で、まあイーストウッドの身内みたいな存在。ある意味、この作品もイーストウッドの作品みたいなものなのだろうと思う。じっさい、この映画のファーストシーンとラストシーンはサンフランシスコの夜景の空撮で、これは前作「ダーティハリー4」とまるで同じなわけである。

 さて、作品の方だけれども、これまでの四作にあった、「法の不備で野放しになった犯罪人をどうするか?」みたいな一貫したテーマはこの「5」にはない。ただ、「連続殺人」というテーマだけが継続され、その連続殺人は「デッドプール」(この作品の原題)という、死者を当てて行くゲームにリストされたものがつぎつぎと殺されて行き、そのリストにハリー・キャラハンの名前もあるわけである。そのリストされた人物群に関わる人物として、映画監督のピータ・スワン(リーアム・ニーソン)がいて、ハリーは「彼が犯人では?」と捜査を進める。ここに、ハリーを取材する女性テレビレポーターが絡んでくる展開になるわけだけれども、実のところこの作品、「犯人は誰か?」と探りながら観るような、ミステリー要素はない。終盤にそれまで姿をあらわさなかった犯人がようやく姿を見せ、しかもその犯人はいってみれば狂人だったというわけで、ドラマとしての深みはないと思う。この作品でのハリーはかなり生真面目で、ジョークを飛ばしたりもしないわけだし、演出自体もどこか生真面目。「3」、「4」からの流れで観ると、ちょっと肩すかしを食ってしまうようなところはあったかな。そういうのでは、残念な一作だっただろうか。イーストウッドももう、こういうアクション映画には飽き飽きしていたというか、「バード」など、もっとシリアスなものへと足を踏み込み始める、転換期の作品ということだろう。


 

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■ 2016-10-09(Sun)

 昨日は久々に終電で帰宅して、それから弁当を食べたりしてから寝たので、ずいぶんと遅い就寝になってしまった。今日はしごとも休みにしてあったのでのんびり寝ることが出来たけれども、起き出したあともシャンとせず、午後になってまた長い午睡を取ってしまった。そういうわけで、今日は起きていたのか寝てばかりだったのかわからない一日ではあった。ただ、夜になって起き出して、録画してあった映画「サウンド・オブ・ミュージック」なんかを観てしまった。これがまた三時間ぐらいある作品だったので、また寝たのは十二時に近くなってしまった。これでは生活のリズムが狂ってしまうのではないかと、これからが心配なのである。


 

[]「サウンド・オブ・ミュージック」(1965) ロバート・ワイズ:監督 「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)   ロバート・ワイズ:監督を含むブックマーク

 わたしが中学生のとき、学校の体育館でこの映画の上映会があり、全校生徒がこの映画を鑑賞した。課外授業である。そのときにこの映画のことはかなり印象に残り、サントラ盤を買いたいと思った記憶もある(このくらい古い記憶なら、逆にちゃんと憶えているわけである)。しかし、中学生ぐらいの子らに見せるのに、このくらい最適な映画もないんじゃないだろうかと思う。とにかくは歌われる楽曲はみんな楽しい名曲ばかりだし(作詞作曲はリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世のコンビで、彼らの最初の作品が先日観た「オクラホマ!」で、この「サウンド・オブ・ミュージック」は最後の作品になるそうだ)、大人の複雑な感情は深入りせずにさらりと描いているあたりがうまい。ま、キスシーンというものはあるわけだけれども、そこでは観ているみんながどよめいたというか息をのんだというか、そういう中学生には照れくさい場面だったのだけれども、そこはちょっと背伸びして、大人の世界をのぞき見る気分にさせられたのではないだろうか。「反ナチ」ということも、終盤の見せどころのテーマになっているわけである。感受性豊かに育ち始めるころに観る映画として、この映画はオススメ度も高い気がする。

 ‥‥そんな映画を、とにかくは何十年ぶりかに観たわけである。記憶に残っている部分がかなりあって、やはりこの年代の体験(見聞)というのは忘れないものだと思う。そんな、今になって観直しての感想。まずはう〜ん、ヒロインのマリアを演じるジュリー・アンドリュースって、なんか華がないっていうか、歌がうまいだけで、いわゆるハリウッド映画のヒロインという顔ではないような気がするのだけれども、でも観ていると、妙に色気があったり美人だったりするよりも、彼女みたいなルックスの方がこのヒロインにはぴったりだったろうと思うようになった。じっさい、マリア役の候補にはグレース・ケリーだとかドリス・デイなんかの名前が挙がっていたらしいけれども、まず、グレース・ケリーがこんな役が似合うとはとっても思えないというか、彼女の主演では別の映画になってしまうそうだ。ドリス・デイにはどこかジュリー・アンドリュースに似ているところもあるような気がするけれども、彼女だと実年齢がクリストファー・プラマーよりも年上になるわけだから、そりゃあ「問題外」ということになるだろ。このジュリー・アンドリュースをヒロイン役に選んだのは、監督のロバート・ワイズ自身だったらしい。その監督も、当初はウィリアム・ワイラーの予定だったらしいけれども。
 その相手役になるトラップ大佐は、今でもいろんな映画に出つづけているクリストファー・プラマーだけれども、子どもたちのしつけにもきびしい厳格な面と、優しい愛する男との両面をみせる演技で、歌声も甘いし、適役なんだろうと思った。そんな子どもたちの長女を演じているのはシャーミアン・カーという女優さんで、この人も歌がうまいし魅力的で、さぞかし活躍した女優さんだったのではと思ったのだけれども、この「サウンド・オブ・ミュージック」の二年後に結婚して、女優を引退してしまったらしい。ちょっともったいなかったというか、この映画で彼女と長女の役をめぐって競ったのは、ミア・ファローとか、ジェラルディン・チャップリンとか、パティ・デュークとか、シャロン・テートなどという面々だったらしい。スゴいメンツである。
 あとの出演者では、下から三番目の子を演じたアンジェラ・カートライトのことは憶えていた。わたしの世代にはテレビ番組「宇宙家族ロビンソン」の出演者のひとりとして記憶されている人だけれども、わたしは「噂の二人」や「鳥」にも彼女は出演していたものと思い込んでいた。そっちは彼女のお姉さんのヴェロニカ・カートライトの方で、わたしは今の今まで、この二人を混同してしまっていた。たしかにこの「サウンド・オブ・ミュージック」を観ていて、アンジェラ・カートライトって、なんか今まで観た映画と印象がちょっと違うなあと思っていたわけだった。
 あと、名前を知っていたのは男爵夫人を演じていたエリノア・パーカーという女優さんだけれども、彼女の他の出演作のことはまるで知らないでいた。この映画では、トラップ大佐とマリアとが惹かれ合っていることをみてとり、純真なマリアの心理を揺さぶって、一度はマリアにトラップ家から出て行かせる手管をみせてくれるわけである。この映画では唯一、途中で消えていなくなってしまうような損な役どころなのだけれども、何というか、マリアのライヴァルとして、大人の色気とでもいうものをムンムンさせている存在として、かなり印象に残った(このエリノア・パーカーとの対比のためにも、ジュリー・アンドリュースという人は適役だったわけだな、とも思った)。

 映画として、やはり歌のシーンこそ楽しいわけだけれども、序盤の「ド・レ・ミの歌」のミュージック・クリップ的な楽しさで、観てる方の気もちをグッとつかまれてしまう。この曲でのさまざまのシーンの組み合わせで、マリアと子どもたちが一気に打ち解けて行く感じが伝わってくる。まあこういうシーンは、セリフのやり取りからだんだんに「歌」になだれ込んで行くわけで違和感もないのだけれども、マリアとトラップ大佐のラヴシーン、とにかく突然、唐突にマリアが歌い出すわけで、観ていて「え? そこで歌い出すのかよ?」って、ちょっとびっくりしてしまう、というか、笑った。

 まあ史実とはずいぶんと異なってしまっている部分もある映画らしく、この映画はそのあたりをきっぱりと「トラップ大佐=オーストリア=善、ナチス=悪」と割り切っているけれども、当時のオーストリアの状況というのはもっと複雑なもので、(他にも理由はあるだろうけれども)この映画はオーストリアではヒットしなかったらしい。
 しかしまあ、「クレオパトラ」の不入りで傾きかけていた20世紀フォックスは、この作品の大ヒットで持ち直したらしい。万人向けのミュージカル映画として、これからもまだまだ、多くの人の心を惹き付ける作品ではあると思う。


 

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■ 2016-10-08(Sat)

 今日は横浜へ行く。観るつもりでいた塩田千春の「鍵のかかった部屋」の展示会場で、わたしの好きなmama!milkのライヴ演奏がある。時間は午後七時からなので、こちらは四時に出ても間に合いそうなのだけれども、少し早く出て、展示の方を先にゆっくり観ることが出来ればいいと思っていたので、三時に家を出ることにした。おそらくは今日は終電での帰宅になるだろう。午前中に買い物に出て、帰ってからの夜食にするつもりで先に弁当を買い、冷蔵庫に入れておいた。
 この頃は午睡がすっかり習慣になっているので、昼食のあとは出発まで寝ていようとベッドに横になる。目覚めるともう二時半になっていて、ちょっとあわただしく準備をして、家を出た。いつものように行きの電車の中では睡眠。
 横浜に到着してまだ五時をちょっと過ぎたぐらいの時間なのだけれども、もうすっかり外は暗くなっていた。西の空だけがちょっと明るい。みなとみらい線に乗り換え、日本大通り駅で降りて地上に出るのだけれども、会場の神奈川芸術劇場がどこなのかわからなくなった。しばらく歩いて街頭の地図を見て、自分がまったく逆の方向に歩いていたことに気づき、あわてて道をもどる。

 ようやく神奈川芸術劇場に到着し、そこで劇場の前の掲示をみると、展示の観覧時間はとりあえず午後六時までで、会場への入場はその三十分前でストップ、なのであった。もう時刻はとうに五時半を過ぎている。つまり、ライヴの前に作品をゆっくり観ようなどという目論みはまったく不可能なのであった。こういうことは持っているチラシをよく読んでいれば前もってわかるはずの事柄で、そういうことをやらないものだから中途半端なことになってしまう。ライヴのための開場時間まで、一時間ぐらい時間をつぶさなければならない。どうしようか?
 時間もあることだし、ここは日高屋にでも行って、軽く一杯ビールでも飲んで、イカ揚げとかギョウザとかおつまみでも食べて時間をつぶそうかという気になる。それで、「たしか日高屋はこっちの方角」という方に歩くのだけれども、これがなかなかたどり着かない。歩いて歩いて、それでようやく、「もうちょっと歩けば日高屋だ」というところまで来たのだけれども、もうすでに時間は六時も過ぎてしまっている。日高屋で飲むのもいいけれども、ライヴの開場時間は六時四十五分。そんなことをやってゆっくりしている時間など、もうほとんどないではないか。そんなことはやめようと、また神奈川芸術劇場の方に引き返すことにした。どうも今日は、このあたりをうろちょろうろちょろしている。
 帰宅すれば弁当が買ってあることだし、無理してここで食事する必要もないのだけれども、軽く何か食べておこうと、劇場の前にあるコンビニでサンドイッチと飲み物を買う。コンビニの店内にテーブルや椅子の置かれたスペースがあったので、そこで落ち着いて食べることが出来た。

 開場時間が近づいたので会場に行ってみると、もうずいぶんの人が開場を待って並んでいた。貼ってあった掲示で、ライヴの時間は約一時間とある。その時間ならばゆっくりと、あわてずに帰ることが出来るので安心する(横浜から帰宅するには、横浜駅を九時ぐらいに出ないとこちらのローカル線の終電に間に合わない)。

 開場され、展示室(スタジオ)内に入り、目の前に拡がる塩田千春さんの作品世界を目のあたりにする。スタジオのスペースいっぱいに作品があり、その周囲に客席が設けられている。つまりはその作品(インスタレーション)の中に演奏者が入って、演奏が行なわれることになる。

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 作品の感想、ライヴのことなどは下に書くことにして、予定通りに約一時間でライヴが終わり、終演後にしばらく、作品を仔細にながめる時間も取れた。作品はヴォリュームはあるものの一点きりだから、観て歩くのにそんなに時間がかかるわけでもない。無理して早く来て、別料金を払ってまで展示を見なくって良かったかな、という印象。

 帰りは予想した通り、あわてず騒がずゆっくりと帰路に着くことが出来た。電車の中で持って来たシャーリイ・ジャクスンの「なんでもない一日」を読み、ちょうどユーモラスな「メルヴィル夫人の買い物」というのを読んでいておかしくって、つい読みながら笑い出しそうになってしまった。
 帰宅してそれほど空腹でもなかったのだけれども、せっかく弁当を買っておいたわけだからと、あたためて食べた。食べているとニェネントが、「めずらしいもの食べてますねえ」みたいな感じで近寄って来るのだった。


 

[]塩田千春展×ダンス・音楽「2台のコントラバスと古い扉とアコーディオンと無数の鍵による組曲」mama!milk:音楽 @KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ「塩田千春|鍵のかかった部屋」展示スペース 塩田千春展×ダンス・音楽「2台のコントラバスと古い扉とアコーディオンと無数の鍵による組曲」mama!milk:音楽 @KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ「塩田千春|鍵のかかった部屋」展示スペースを含むブックマーク

 まず塩田千春の作品の印象だけれども、意外とこじんまりしているというか、自分としてはもっとインパクトのあるものを予想していたところがある。わたしは彼女の作品のことをあまりよく記憶していないのだけれども、この日記で検索すると、九年前の2007年に、同じ横浜の神奈川県民ホールでかなり大規模な展覧会が行われていたのを観た記述が見つかり、それを読むとこれまでの彼女の作品がどんなものだったか、いくらかでも思い出すことが出来た気がする。やはり”日記”というものはキチンと書いておくものである。

    『沈黙から』 塩田千春展 From in silence Chiharu Shiota @神奈川県民ホールギャラリー

 この作品、ヴェネツィア・ビエンナーレで展示されたときはどうももっと大規模な作品で、赤い糸で鍵の吊るされたセクションでは本来、その下に木造の二艘の舟が置かれていたようだ。やはりわたしが「こじんまりしてるな」と思ってしまったのもゆえなきことではなかったというか、この展示で、この「鍵のかかった部屋」という作品をわかったような気になるのは、ちょっとちがうかもしれない。もっともっと、大きな空間で観てみたい作品ではある。

 さて、肝心のmama!milkのライヴ。
 mama!milkの本来のメンバーは、生駒佑子(アコーディオン)、清水恒輔(コントラバス)のふたりだから、この日のもうひとりのコントラバス、守屋拓之はゲスト、ということなんだろう。聴いていると、この守屋拓之という人のアプローチには、かなりジャズっぽいところがあるように思えた。そういうところで、どちらかというとノスタルジックで、それでいて実験的なところのあるmama!milkの本来の音と、どこかマッチしないように感じられるところがあったのはたしかなこと。正直、「本当にふたりのコントラバスが必要だったのか?」と思ってしまう部分はなきにしもあらず。しかしそれでもこの空間の中で、どこか別の世界に連れて行かれるような、心地よい音世界を体験出来たと思う。



 

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■ 2016-10-07(Fri)

 今日は昨日ほどの暑さにはならず、風もさわやかな秋らしい晴天になった。もう十月も一週間過ぎようとしているし、急に秋のど真ん中になってしまった感じがする。朝の五時にしごとに出るときも、外はもう真っ暗になってしまったし、じきに公園のケヤキの樹も紅葉するだろう。駅前のハナミズキの木も赤い実をつけ、ヤマボウシにも赤い実がついた。

 今月末には東京の「てんかん」専門クリニックに予約を入れているのだけれども、そっちへ行く前に、さいしょに診断をしてもらった近郊の大学付属病院に行っておかなくてはならない。市役所の方へ行って「自立支援医療」の手つづきもしておく必要があるし、こういうことをついつい忘れてしまう。もう三週間ぐらいしかないのだから、早めにやっておかなくては。来週になるとしごとの方で三連休ができるので、そのときにまとめてやってしまおう。

 ニェネントは元気で、今日は運動会をやっていた。バタバタとうるさいのである。このごろ、まったくキャットタワーに登らなくなってるなあと思って、だっこしてキャットタワーのてっぺんに降ろしてやる。それで「こんなところがあったのか、忘れてましたよ」みたいに、そのあとはときどき自分でタワーのてっぺんに上がり、丸くなって休んでいる。よかった。せっかく買ってあげたものだし、それなりにリヴィングのスペースも取ってしまっている。いっぱい使ってもらわないと悲しくなるよ。

 昨日買った日本酒、自分ではすっかり「大関」だと思い込んでいたのだけれども、よく見たら「月桂冠」だった。「大関」の方がちょっと安いのに、どっちでもかまわないだけにもったいないことをした。
 夜は寝る前にシャーリイ・ジャクスンの「なんでもない一日」を読み進めているのだけれども、これはとってもフィットするというか、久しぶりに「読みやすい」本を読んでいる、という感じ。読んでいてはじめの内容を忘れてしまうような長さではないし、やっぱりわたしは、このシャーリイ・ジャクスンの、ちょっといや〜な感じというのが好きなのである。


 

[]「ダーティハリー4」(1983) クリント・イーストウッド:監督 「ダーティハリー4」(1983)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 前作から6年の期間を置いての第四作で、つづけて観ると、たしかにイーストウッドが急に渋くなった感じがするわけである。今回の原題は「Sudden Impact」で、撮影は第一作のブルース・サーティースを呼び戻し、音楽もラロ・シフリン。そしてソンドラ・ロックとの共演である。まさかソンドラ・ロックがイーストウッドの相棒になるわけではなく、実は彼女こそが今回の連続殺人の犯人である。しかしその連続殺人には「復讐」という大きな動機があって、やはりこれまでのシリーズのように「法から逃れている犯罪者」への制裁、という主題が見出されると思う。それはまずはこのシリーズではハリーの役目なので、序盤でマフィアのボスの孫娘の結婚式場にハリーが乗り込んで、まあ脅迫するわけで、おかげでボスは心臓マヒを起こして昇天してしまう。そんなこんなでハリーはマフィアから命を狙われることになるし、そのやり方が上司のお気に召さず、北カリフォルニアのサンパウロという小さな町へ出張捜査を命じられる。その町はシスコで股間を撃たれて死んだ男の出身地なので、その事件の捜査なわけである。それからもサンパウロでは同様に、男が股間を撃たれて殺される事件が連続するわけである。

 さて、今回もハリーは、ちょっとしたギャグっぽいところをいろいろとみせてくれるのだけれども、これがあんまりシニカルなギャグというわけでもなく、イーストウッドには似合わないんじゃないのかと思うのだけれども、彼が自分で監督してそういうことをやっているわけだから、自分でそういうことをやってみたかったのだろう。
 前作では「Marv」というぼやきを何度かつぶやいていたハリーだけれども、この第四作では「Swell」(泣けるぜ)と繰り返す。これはひとえに、同僚から不細工なブルドッグをプレゼントされてしまい、そのブルドッグのドジぶりを目の当たりにするたびにつぶやくわけだけれども、どうも犬を連れて散歩させているハリー・キャラハンというのも、どこか様にならないとみえる。ま、この作品ではあまりに有名な決めゼリフ、「Go Ahead, Make my day」(直訳すれば「やってくれ、それでオレの日をつくらせてくれ」みたいなものだけど、これを字幕であらわすのはむずかしいだろう)というのがあるわけだから、「Swell」ぐらいで目くじらを立ててはいけないのである。

 さて、犯人であるところのソンドラ・ロックは絵描きで、なぜか遊園地(営業していない?)の回転木馬の修理をしている。これはもう、ラストではその回転木馬が使われるのだろうということはヒッチコックを見るより明らかで、ただもう、「どういう風に使ってくれるのかな?」という興味を引きずるばかり。しかし、期待させてくれたわりに、ラストの回転木馬はそれほどのものでもなかったかな(「串刺しの刑」というのはあったけれども)。
 イーストウッドの演出は、特に夜のシーンでの陰影の描写に目を惹かせるところがあったと思うし、彼の好きなソンドラ・ロックの表情をアップでとらえることには一所懸命だったようだ。ラストのイーストウッドがソンドラ・ロックに注ぐまなざしは、「わかるだろ、オレはお前を愛してるんだ」といってるわけであるし。ヘリ撮影を多用しているのも特徴というか、冒頭のシスコの夜景からラストまで、とにかくは空からの撮影シーンが多い。エンド・クレジットにはロバータ・フラックの歌がかぶさるんだけれども、なんか、彼女の「愛は面影の中に」をヒットさせたのはオレなんだよ、といってるみたいだった。ま、実際にそうなんだろうけれども。


 

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■ 2016-10-06(Thu)

 やっぱり美味しい日本酒を味わいたいものだなあと、まずい紙パックの日本酒を飲みながら思っていたわけだけれども、前に旨い日本酒を安く買ったドラッグストアで、「大関」の一升瓶(ワンカップ大関ではない)を三割引で売っていたのを買ってしまった。飲んでみるとこれがかなり旨いわけで、やはり日本酒というものはまず、紙パックなどにされている時点でアウトなのであろうか。とにかくは酒に紙の匂いが移ってしまっている印象がある。
 それで思い出すのだけれども、二、三年前に友人から「月島のもんじゃ焼きの有名な店に行こう」と誘われ、三人ぐらいでその「有名な店」に行ったことがある。店内には芸能人のサイン色紙があれこれと並べられているような店で、そんなに安い店ではなかった。誘ってくれた友人はアルコールはダメだったけれども、わたしは日本酒を注文してみた。メニューにはただ「日本酒」としか書かれていなくって、銘柄も何もわからないので不安はあったのだけれども、差し出されたコップ酒を飲んでみると、まさに「紙パック日本酒」の味がした。やはり、メニューにただ「日本酒」と書かれているだけのような店は、ほんとうにとんでもない酒を出すものだと、そのときに思ったわけである。まあ日高屋とかを別にすれば(日高屋には自社ブランドの不味い日本酒があるけれども、紙パック日本酒よりはマシだろうと思う)、そんな店はめったにあるものではないだろうが。
 そういうわけで、たとえ「大関」でも、どんな紙パック日本酒よりも美味であると思いながら飲むのである。これからはもう、かならず日本酒は瓶入りのものにしたいものだと思った(空き瓶を燃えないゴミで出すのが大変だけれども、リサイクル出来るんだっけ?)。

 ニェネントの皮膚病はいよいよ治癒に向かっている。鼻すじの左のところで毛が抜けているのがまだちょっと目立つぐらいで、もう皮膚病のことを気にしなくてもいいんじゃないだろうか。塗り薬を塗るところもなくなったし、ただ一日に一度だけ、飲み薬を飲んでもらうだけである。飲み薬を飲むといっても、そこは素直に飲んでくれるわけでもなく、ひざの上で抱いてちょっと顔を押さえつけさせてもらって、左手の親指と人差し指でちょっと下あごを押さえて開き、少し開いた口の中に薬を二滴ほど落とし込む。まあ無理に口を開けさせられるのはさすがにいやがるけれども、薬自体は「絶対拒否」という態度でもないようだ。

 今日はめっちゃ暑い。しごとは非番で休みだったから外のことはわからないけれども、部屋にいても真夏のように暑い。エアコンもフル稼働してもらう。ニュースでも各地で三十度を超える暑さになったと報道している。こういう日は外に出ないようにしよう。
 午前中に一本映画を観て、午後からは昼寝。夕方に起き出して、新しい炊飯器のタイマー機能を実際に使ってみた。お米を研いで炊飯器にセットして、七時に炊きあがるようにセット。何かの間違いで七時から炊飯開始なんていうことになるとイヤだな、などと思っていたのだけれども、きっちりと七時に炊きあがっていた。考えてみたら、スイッチを入れてもいつ炊きあがるのかわからないというよりも、何時から食事にしたいから何時に炊きあがっていてほしい、という方がストレートでいいのではないかと思う。


 

[]「ダーティハリー3」(1976) ジェームズ・ファーゴ:監督 「ダーティハリー3」(1976)   ジェームズ・ファーゴ:監督を含むブックマーク

 ハリー・キャラハンが、ケイト・ムーアという女性の新米刑事と組むという第三作で、原題は「The Enforcer」。このEnforcerというのは、用心棒とか殺し屋とかいう意味もあるようだけれども、一般には「法の執行者」みたいな意味で使われるみたいで、そういうのではこの「ダーティハリー」シリーズのコンセプトをよくあらわしているように思う。これまで観た第一作、第二作では、たしかに根底にそういう「法の執行者」という問題があっての造形、演出だったようには思うのだけれども、実は観てみた感じでは、この第三作は「法の執行者」という側面はいちばん希薄だったような気がする。

 冒頭に、第一作、第二作と同様に、まずは殺人犯による犯行シーンがあるのだけれども、このシーンの演出がめっちゃヘタクソで、たしかに監督の名前も知らない人だし、この第三作、だいじょうぶなのかよ?って感じにはなってしまう。まあとにかくはアクション・シーンとかに期待は持てそうもない。
 だいたいこのシリーズの作劇法はわかってきて、まずその作品の悪役が誰かを殺す、という導入部があって、そのあとはハリーが彼らしい爽快なやり方で事件を解決して、「今回もダーティハリーが活躍するぜー」というのをみせる。そこから始まるわけである。

 さて今回のハリーは、強盗事件解決の「ヤリすぎ」のせいで人事課に異動させられ、そこで、銃を撃ったこともないという女性刑事のケイト・ムーアの面接を担当する。彼女がこのあとハリーの相棒にされるわけで、「困ったなあ」というハリーと、けっこう下ネタのジョークで返すケイトとの溝は、すこしずつ埋まって行く。そんな時に兵器工場から大量の武器弾薬が強奪され、市に脅迫状が届くわけである。それでなんと、市長が人質に取られ、「どうするのよ」という展開。

 今回はやはり、相棒のケイト・ムーアがいいですね。演じているのはタイン・デイリーという方で、この作品が認められて、このあとTVドラマの「女刑事キャグニー&レイシー」に主演することになるそうな。この人の顔は記憶に残っていたので、たしかに過去に「ダーティハリー」シリーズは観たことがあったわけだなあと、ちょっと記憶をたどることにもなる。現場でも動きにくいだろうスカート姿で走り回る彼女の姿が、この第三作のメインだったような。

 それで、この回の特徴はユーモアのセンスというか、ハリーも第一作のような決めゼリフはいわないけれども、何度か「Marvs(〜Marvelous、かな?)」(字幕は「何てこった」)というセリフを繰り返すし、ケイト・ムーアとのやりとりも楽しかった。わたしはイーストウッドのシニカルなユーモア感覚というものが大好きなので、前作ではそういうのが封印されていたのが不満でもあったところ。そういうのはこの第三作で楽しませていただいた感覚。
 ラストのアクションはやっぱ、ちょっと「そりゃあちがうだろ?」って感じではあったけれども。


 

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■ 2016-10-05(Wed)

 Slapp Happyが再結成をして、来年の二月に来日公演をするらしい。16年ぶり2回目の来日で、その16年前の吉祥寺での来日公演はわたしも行って、少し記憶に残っている(って、単にダグマー・クラウゼのMCを記憶しているだけだけれども)。こんどの来日にもぜひ行きたいのだけれども、チケットは9000円かあ。ちょっと考えてしまう。もうチケットは売り出されているようで、すぐにソールドアウトなどということにもならないだろうけれども、行くなら行くで早く決めなくては。
 などと思っていたら、リッキー・リー・ジョーンズも今来日しているらしくって、その東京公演は昨夜のことだったらしい。リッキー・リー・ジョーンズのライヴというものも、体験したかったものだと思う。

 このところちょっと生活様式が変わって、午前中に一本映画を観てから昼食、それから二、三時間の午睡をする。そのあと起き出して買い物に行ったりして夕食の準備をし、七時頃に夕食を食べた後は本を読んだり音楽を聴いたりする。本を読むといっても、書棚には内容を記憶していない本ばかりがずらりと並んでいるわけで、ちょっと前までは図書館で借りた本ばかり読んでいたけれども、それではいつまでも部屋にある本は「記憶していない本」の山が残るだけである。しばらくは図書館で本を借りるのはやめ、とにかくは部屋にある本を読むことにした。まだまだ本を読むペースは遅いし、読んでいても内容を忘れてしまうので、長編小説とか学術書みたいなのはやはり敬遠して、短編集みたいなものがいい。そういうわけで、いちばん手元にあった(和室の隅に転がっていた)本から読むことにして、シャーリイ・ジャクスンの短編集「なんでもない一日」を読み始めた(しかし、なんでこの人の名前の表記は、「シャーリー・ジャクソン」ではなくって「シャーリイ・ジャクスン」なんだろう)。一篇がだいたい十ページぐらいなので、とりあえず途中で飽きずに読みつづけることはできる。興が向けばつづけて二、三篇つづけて読むこともできる。

 今日はちょっと遅い時間になって北のスーパーへ行くと、さんまを開いて骨を取ったものがパックされていて、半額になっていたので買って帰り、焼いて食べた。さんまを焼くと、部屋が煙だらけになるので大変である。しかしやはり、こういう焼き魚というのは丸ごと、骨もワタも付いたものを焼いて、ちょっとワタの味がまじったぐらいのものを、骨をよけながら食べてこそおいしいのだとわかった。今思ったけれども、ちょっとニェネントに分けてあげればよかった。


 

[]「ダーティハリー2」(1973) ジョン・ミリアス/マイケル・チミノ:脚本 テッド・ポスト:監督 「ダーティハリー2」(1973)   ジョン・ミリアス/マイケル・チミノ:脚本 テッド・ポスト:監督を含むブックマーク

 ハリー・キャラハンのシリーズの第二作だけれども、原題はただ「Magnum Force」。前作は100分ぐらいの尺だったけれども、今回は120分を越えている。脚本がなんとジョン・ミリアスとマイケル・チミノということで期待するわけだけれども、「実は黒幕は‥‥」というヒネリを入れた、ちょっとミステリー度をアップした内容だっただろうか。今回も連続殺人事件が起きるのだけれども、そのターゲットは法の網をかいくぐってのうのうと生きている、マフィアの大物だとかそういう人物ばかり。って、それって、ハリー・キャラハンも「許せない」と思っている連中ではないのか。

 まずはその「殺人」が起き、それからハリー・キャラハンがカッコいい登場を見せるという展開は前作通り。今回の登場はハイジャック犯の制圧というか、旅客機内で、操縦士に扮したキャラハンが犯人らをぶっ飛ばすのである。ちょっと、この現実味のない展開こそがこのシリーズのカラーというか、エンターテインメントの王道というところだろうか。

 しかし、それ以降の展開はどこかシリアスというか、実はその連続殺人犯というのは警官ではないのか、という流れになって来て、ハリーはその犯人を追うことになる。つまり、第一作の流れからみれば、連続殺人犯のやっていることとハリー・キャラハンのやっていることとは、「法によって裁かれない悪人を法の力によらずに裁いてしまう」という共通点があるのではないか、ということになる。特に第一作ではその「法」の不備というか、不条理な側面が強調されていて、ハリーはそのことに抗うわけである。まあハリーはこの作品の連続殺人犯のように不意打ちみたいな卑怯な真似はしないわけで、みていればわかるように、この連続殺人犯たち(ひとりではなかったのである)との差異は大きいのではあるけれども。
 ところが映画の展開のなかで、ハリーはその連続殺人犯グループに「おまえも同じ気もちだろうが」みたいに、仲間に誘われることにもなる。ハリーは「法に不備があるとしても、それがある限りはその法に従うよ」というわけで、なんか優等生である。

 ストーリー展開としてはさすがにこの脚本陣、と思わせられる面白さというか、かなりきっちりとシリアスにつくられている印象はあるのだけれども、わたしとしては、第一作のどこかぶっ飛んだ感じをみせてくれるダーティハリーの方が好みではある。この第二作には決めゼリフもないし、ユーモアにも欠けているとは思う。ラストの廃船になった空母での対決シーンも、演出としてイマイチだったような気もする。


 

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■ 2016-10-04(Tue)

 今朝みていた夢。
 わたしは妻と娘との三人で暮らしている。妻が夕食の準備をしているあいだに、わたしは娘を連れて外に出る。そんなに遠くに行くつもりはなかったのに、バスに乗ってしまう。バスは細いクネクネした道を走り、道幅いっぱいをふさぎながら、ようやく広い道に出る。そのときに、逆方向からその細い道に入って来ようとしていたバスと、軽く接触した。
 わたしと娘はバスを降り、とある大きな店に入って行く。その店には絵本がたくさん置いてあり、子供たちが床に寝ころんで、自由にそんな絵本を読んでいる。わたしは二階に本屋があったはずと上がろうとするけれども、そこに「この店は近々改装して形態を変えます。今日は××をやっています」と書かれた立て札が立てられている。一段高くなったそのスペースを覗いてみると、薄暗い畳敷きの場所に人々が大勢すわっていて、読経のようなことが行なわれていた。わたしのところに店員らしい女性が近づいて来て、「二階へ行くのなら左からぐるりと回って行ってください」と、ユーモアを交えて教えてくれる。
 その左側に回っていくと、二階に行く前にもう、本などを売っているスペースになっていた。娘はいつの間にか、わたしのそばからいなくなっている。その売り場の奥は映画館の座席のように赤い椅子が並んでいて、そこにお客さんがすわっていたりするし、その椅子の前に本や商品が置かれてもいた。わたしは見てみたい品があったのでその座席の方へ行ってみるけれども、そこまで行ってみると、いったい何を見たかったのかわからなくなってしまった。
 外に出ようと、その座席の並んだ奥の、透明ビニールで包まれたマットレスを敷き詰めたような、こう配のついたところをよじ登って行く。登りながら下を見ると、マットレスの下に広い空間があるようで、そこに男の子が眠っているのがみえる。
 ようやくマットレスの坂を登り切って、外に出ることが出来た。あたりに子供たちがいて、わたしのことを「先生なの?」と聞いてくる(このあたり、読んでいた小説「穴」の影響だろう)。わたしは声色を変えて、「ほんとうは先生なんだよ」と、子供たちに答えている。
 帰りが思いがけず遅くなってしまったので、家に電話をしておこうと思うのだけれども、歩きながら、「公衆電話など今どきはほとんどないんだよなあ」などと思っている。道を進むと、古めかしい木造の、八百屋らしい店があった。店頭の箱にニンジンが入れられて売られている。何気なく店の中に立っていると、お客さんが来て「お寿司を下さい」といっている。ここは八百屋ではなかったのかと店内をよくみると、右の方に小さなガラスケースがあったので、その中にお寿司などが入れられて売られているのだろうと思った。でも、みてみるとケースの中には和菓子のようなものばかりしか見えない。ケースの下段に白い器に入れられた最中のようなものが置かれていて、「あの最中が食べたいな」などと思う。その最中のとなりにいなり寿司らしいものが置かれていて、「ああ、あれがお寿司なのか」と合点する(これも読んでいた小説の反映なのだろう)。そのいなり寿司の上の段に、いつの間にか「ちまき」のような、「柏餅」のようなものが置かれていて、「子供の日には買ってみたい」と思い、いつの間にかまたわたしのそばにいる娘に、「こんどあれを買おうね」とか、語りかけている。

 あたらしい炊飯器は、炊きあがって「保温」にしておいても、24時間経つと自動的に保温が解除されてしまうようだ。まあ前の炊飯器も48時間で「警告」みたいにディスプレイが点滅しはじめたけれども、そのまま「保温」は継続されていたものだった。わたしは無精だからいちどに三合ぐらい炊き、そのまま炊飯器に入れっぱなしで何食分にもしていたわけだけれども、これからはそういうわけにはいかないだろうか。おそらく「保温」を継続する方法はあるだろうと思うけれども、とにかく、あまり長い時間「保温」で保存したご飯はあまり推奨されないわけである。とりあえずこの日は、残ったご飯を器に取って、冷蔵庫で保存することにした。


 

[]「ダーティハリー」(1971) ドン・シーゲル:監督 「ダーティハリー」(1971)   ドン・シーゲル:監督を含むブックマーク

 昨日からBSで、昼間に「ダーティハリー」全五作の連続放映が始まったので、これを連続して観ることにしている。今まで「ひかりTV」の他のチャンネルで連続放映もやられていたものだったけれども、今回初めて観ることになる。いや、「初めて」ではない。この日記で検索してみると、七年ほど前にシリーズ五本を連続して観ていることがわかる。これっぽっちも記憶にないことはいつもと同じ。

 映画の製作時期としては、イーストウッドの初監督作品「恐怖のメロディ」のちょっと後というか、ほとんどかぶっているのではないかと思えるところもある。撮影のブルース・サーティースは両作品で撮影を担当しているし、ドン・シーゲルも「恐怖のメロディ」では俳優としてちょっと出演もしていた。それでこの「ダーティハリー」のはじめの方のシーン、ハリーがシスコの街を歩く場面のバックに、ちょっとだけ映画館の上映作品ディスプレイがみえて、それがその「PLAY MISTY FOR ME」だったりするのが面白い。

 観ていて、「ああ、この嫌ったらしい犯人の顔はちょっと記憶にあるみたいだ」とか思い当たったところもあるし、キャラハン刑事のこの映画での「決め」のセリフ、「オレも何発撃ったか忘れてしまった‥‥」っていうのも、何となく憶えていたような気がした。
 作品として、これは先日観たエドワード・ドミトリク監督の「狙撃者」の裏返しというのか、どちらも「法の不備」という問題がテーマ、というところがある。「狙撃者」では、「止めて欲しいのに法の不備で<野放し>にされてしまって犯罪に走ってしまう」男を描いていたけれども、こちらはその「法の不備で<野放し>になっている犯罪者を、正当な方の手続きを経ずに<処罰>する法の執行官」というところになる。冒頭のシーンがまた、狙撃犯が照準スコープで標的に狙いを定めるシーンで、このあたりでも「狙撃者」を思い浮かべてしまう。

 この狙撃犯はサンフランシスコ市に10万ドルを要求し、拒絶すれば毎日ひとりずつ殺していくという。まずは神父か黒人をターゲットにすると。脅迫状で自分を「スコルピオ」と名乗る犯人を、ハリー・キャラハン(もちろんイーストウッド)と相棒のチコは独自に追い始める。
 神父殺害こそ警察のヘリ巡回で未遂に終わらせるが、スコルピオは黒人少年を殺害し、さらに14歳の少女を誘拐、監禁しているといい、身代金の引き渡しを要求する。ハリーが犯人の指定したマリーナに身代金を運ぶことになるのだけれども、格闘の末に犯人「スコルピオ」に傷を負わせるものの、取り逃がしてしまう。その犯人に追わせた傷を手がかりに、ハリーはスコルピオを取っ捕まえるわけだけれども、誘拐された少女はすでに殺されていた。さらに、ハリーの逮捕と自白強要が違法と見なされ、なんとスコルピオは釈放されてしまう。ハリーは「アイツはまたやるに決まっている」というのだが‥‥。

 ハリー・キャラハンというキャラクターは、相棒がいるとはいえ(前半で大ケガをして出て来なくなるが)、一匹狼的なキャラというか、警察という組織の中でも個人行動を突き通す存在である。このあたりの造形が鮮烈で、まだ時代的にもそういうアンチ・ヒーロー的な警察官というのも存在しない頃だっただけに、同時代的には強烈な印象を残したのではないかと思う。考えてみれば、こういう造形というのはそのちょっと前の「アメリカン・ニューシネマ」の時代の落とし子、という側面はあることだろう。ちょっと似たテイストの作品にウィリアム・フリードキンが監督してジーン・ハックマンの主演した「フレンチ・コネクション」があって、この「ダーティハリー」と同じ1971年の作品なわけだけれども、わたしはこの「フレンチ・コネクション」のことはもうまるで記憶していないので、ここでどうのこうのと比較出来ないのが残念である。
 どうやらこの作品の脚本にはジョン・ミリアスも協力しているらしく、そのあたりにこの映画の新しい感覚の源泉もあるのかもしれない。でもやはりこの映画ではドン・シーゲルの演出が決まっていて、イーストウッドというアクターのことをよく知っているシーゲルが、彼のアウトロー的な魅力を最大限に引き出してみせた、ということだろうか。


 

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■ 2016-10-03(Mon)

 ニェネントの皮膚病は、少しずつ良くなって来ていると思う。このごろは、そういうニェネントのことがかわいくって仕方がない。昨日一昨日のように外に出かけても、「早く帰ってあげないとニェネントが寂しがっているだろう」とか思ってしまって、出来るだけ早く家に帰ろうとする。おそらくニェネントはわたしなんかいなくったって、ただ食事の時間がずれ込んでしまうだけで、さほど気にしてなんかいないようにも思えるのだけれども。
 今日はしごとのあとは一日家にいたけれども、ニェネントは和室の机の下で丸くなって、寝てばかりいる。腰のところで丸く抜けてしまっていた毛もだんだん生えて来て、その部分の毛が薄くなってることなど、もうほとんどわからなくなった。

 二日つづけて遠出をするとやはりくたびれてしまった感じで、今日はもう何もしない。出かけていたあいだに放映されていた映画をいくつか録画しておいたのだけれども、ハードディスクが満杯になってしまっていて、録画エラーがつづいていた。ハードディスクに空きをつくるにはまたせっせと録画した映画を観なければならないのだけれども、今日はそういう気分でもないし、まだ録画しておきたい映画はこれからも放映されつづけるし、観た映画を消去してまた録画して、またハードディスクが満杯になって、といういたちごっこの繰り返しになる。「いっそのこと」と、前に録画してあった映画で「もうこれは観ないだろう」とか、「観なくってもいいや」と思えるような映画はどんどんと消去した。それでもまたすぐに満杯になってしまうだろうけれども。

 今日はついに、あたらしい炊飯器のデビューである。まずは取扱説明書にざっと目を通し、「よし、了解」ということで米をとぎ、セットする。あたらしい炊飯器のタイマーは「炊きはじめ」の時間を指定するのではなく、「炊きあがり」時間を指定するとその時刻に炊きあがるというものなので、ちょっと感覚がちがう。もともと古い炊飯器ではタイマーなど使わなかったので(わたしはずっと部屋にいるわけだし)、今回もタイマーは使わずに、「そろそろだな」という時間にスイッチを入れる。ちょっと前の炊飯器よりも炊く時間がかかるような気がするけれども、ま、それだけおいしく炊きあげてくれるかと。
 約一時間で炊きあがり。うん、やはり美味しく炊けたと思う。ちょっと水加減が多すぎてやわらかご飯になったけれども、炊きあがった米粒がつやっぽく、一粒一粒が立っている感じというか、甘みがある。まあ前のおんぼろ炊飯器と差異がなかったりしたらガッカリなんだけれども、とにかくは満足。

 薄っぺらいのに読むのに時間がかかっていた「穴」という本を、ようやく読み終えることができた。


 

[]「穴」小山田浩子:著 「穴」小山田浩子:著を含むブックマーク

 新潮文庫の一冊で、表題作の他に「いたちなく」と「ゆきの宿」を収録。「穴」は二年前に芥川賞を受賞した作品ということで、文庫化されるペースがずいぶん早いなあ、という感じ。

●「穴」
 主人公は夫の都合で転居した田舎町の、実家近くの家で生活を始める。それまでの仕事も辞めるけれども、家賃の心配がないので困らない。ある日彼女が川沿いのコンビニへ行こうとすると、彼女の前を見たことのない黒い動物が歩いているのを見る。草むらに入って行くその黒い動物を追って行くと、首まで入ってしまうような穴に落ちてしまうのでる。こりゃあれか、「不思議の国のアリス」なのか?って思ってしまうけれども、穴の中に不思議な世界があるわけではない。でも、その穴に落ちたときから、彼女の周りにはいろんな人物があらわれることになるし、ある意味では彼女は別の世界の中に入って行くわけで、「不思議の国のアリス」に通底するものはあるのではないかと思う。
 読んでいると「その黒い動物は何だったのか?」と、気にはなるのだけれども、この作品は、主人公とちょっと奇妙な周辺の人たちとの交流のようなことを書き継いで行く。特に離れの物置小屋で何十年もひとり生活しているという義兄の存在は奇妙、奇怪なのだけれども、やはり主人公にこの奇妙な世界の説明をする、「アリス」の登場キャラクターのようではある。
 ラストにまたその「黒い動物」は登場し、「穴」もまるでむかしの「アースワーク」を思い出させるようにいっぱい出てくるのだけれども、その黒い動物も、義兄も、周囲にたくさんいた子供たちも、「あれは幻影だったのか」というように消えてしまう。そして主人公はあたらしく買った自転車に乗り、あたらしい勤め先(それはコンビニなんだけれども)へと向かうのである。
 「幻想小説」というわけではないのだけれども、奇妙な登場人物らの中で主人公の生が確認されて行くような、面白い味わいの小説だった。

●「いたちなく」
 主人公とその妻(共に四十代)とは、古い友人が若い女性と結婚したことを知り、その友人の誘いもあって、彼の家に夫婦で訪ねて行く。友人の家は古い日本家屋をかなり洋風にリフォームした住まいなのだけれども、その家にいたちが出るのだという。罠を仕掛けるといたちがかかり、それを車で遠くまで運んで山に捨ててくる。罠にはまた次のいたちがかかり、また山に捨てに行く。この繰り返しだという。友人は隣家のおばあさんはここにいたちが出ることは知っていたはずだから、教えてくれれば良かったのにという。友人夫婦のふるまってくれた猪肉の鍋を食べて日本酒を飲みながら、主人公の妻が幼いころに実家でいたちを捕えて溺死させた話をするのである。それからしばらくして聞いたところでは、友人宅にいたちは出なくなったそうである。
 ここでも、先の「穴」のように、いたちが異界の動物のようにあらわれる。そして、どこか奇妙なねじれたような話が、シシ鍋をつっつきながら展開されて行く。この短編にも奇妙な面白さがあった。

●「ゆきの宿」
 前の「いたちなく」の続編で、登場人物は同じ。「いたち」以降仲良くなった主人公の妻と友人の妻。その友人の妻の初産のときも主人公の妻と会っていて、主人公の妻の運転する車で参院へ行ったのだという。奥さんも赤ちゃんも落ち着いて、主人公夫婦はまた友人宅を訪れる。ところが途中で雪が降り始め、積もった雪で帰れなくなり、主人公夫婦は友人宅に泊めてもらうことになる。とりとめもない話を皆でしていると、隣家のおばあちゃんが手製の「おから」のお稲荷さんを持って来てくれたりする。
 友人は魚を水槽で飼う趣味を持っていて、主人公の寝かせてもらった部屋にはアロワナの水槽があった。主人公が寝ていると、そのアロワナが水槽を飛び出して主人公の腹に乗るという夢をみて、主人公は「金縛り」にかかって動けなくなる。翌朝、主人公夫婦の姿をみとめた隣家のおばあさんは、主人公に妻のお腹に赤ちゃんがいる、と告げる。
 この短編では「いたち」の代わりに「アロワナ」が登場し、それが「夢」とはいえども奇怪な印象になる。また、となりのおばあちゃんが、何かを見透かすような、不思議な存在のように描かれる。


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■ 2016-10-02(Sun)

 今日は晴天のいい天気。また、観劇でお出かけをする。今日は池袋での公演で、時間はやはり午後三時からだから、昨日と同じように十二時の電車で家を出る。これで昨日ならターミナル駅で十二時二十二分の電車に間に合って、あとの時間が楽になったのだけれども、今日はその十二時二十二分の電車、わたしの乗るローカル線電車がホームに入ったときにはもうすでにホームに到着していて、乗り換えが間に合わなかった。‥‥これはこの駅での電車の乗り継ぎでいつも問題を感じていることなのだけれども、いったい乗り継ぎをさせる気があるのかということ。ローカル線の電車はそのターミナル駅に十二時二十分に到着することになっていて、となりのホームの湘南新宿ラインは十二時二十二分発。乗り換え時間はたった二分である。でも、二分あれば階段を駆け上がり、走って行けば間に合わない時間ではない。ところがこれが、間に合わなかったり間に合ったり、その日その時によってバラバラである。そもそも、わたしのような老人に走らせるというのは残酷な仕打ちでもあるだろう。おそらくJRとしては「乗り換えは想定していない」という答えが予測できるけれども、「急げば間に合う」のであれば誰だって急いで乗り換えたくなってしまうだろう。とにかく、もしも湘南新宿ラインを使いたいのなら、それ以後三十分も待たなければならないのだから。その、ローカル線の到着時刻をあと五分、いや、三分でも早くなるように調整することは出来ないのだろうか。顧客サーヴィスが足りないといわれても仕方がないのではないのだろうか。誰も文句いわないんだろうけれども、やはり今度いってやろう。

 そういうわけで、今日は池袋に到着したときはもう二時を過ぎていた。まあ指定席を確保してあるから三時までに行けばいいのだけれども。そういうことで急いだわけではないけれども、この日の昼食はもう日高屋とかはやめにして、牛丼とかを食べたいと思った。それで牛丼屋を探したけれども見つからず、けっきょくは立ち食いそばの店に入って、カツ丼を注文した。四百円。安い。けっこうおいしかった。

 会場へ行き、自分の席に着いて開演を待つ。わたしの席はかなり前の方の席である。わたしの前の方で帽子をかぶっていたお客さんが、係員に「始まったら帽子はお取り下さい」みたいな注意を受けていたみたいだ。こういうケースは最近よく目にする。帽子をかぶったお客さんが多くなったからだろうか。
 さて、それで開演してみたら、わたしの前の客は帽子をかぶっていたわけではないのだけれども、伸び上がって観ているのか座高が高いのか、その客の頭がじゃまになってステージがほとんど見えないのである。こういうとき困る。座高が高い人だったら「低くなってくれ」といっても無理かもしれないとか考えるし、どこでもこういう風に前の人の頭がじゃまになってるのかも?なんて思ってしまう。客席は真っ暗だから、前の人が伸び上がってるのかどうかもよくわからない。しかし、ちょっと明るくなったときにみてみると、前の人は明らかに周囲の人よりも十センチぐらい頭が出ている。これはすわり方の問題だろう。前の人に「すみません、もうちょっと低くなってくれませんか。全然見えないんです」と小声でいう。すぐにまわりの人と同じに低くなってくれた。この前の客のおかげで、冒頭の五分ぐらいはきちんと観ることが出来なかったではないか。ちょっと腹が立った。「帽子」どころの問題ではない。こういうことは観劇のとき、自然と「腰の位置を高くしたら後ろの客に迷惑だ」という気もちがはたらくものではないだろうか。あまり舞台観劇の体験のない人だったのか。とにかくは不運なことだった。次からは席を決めるときに、前の人の頭がじゃまにならない席を選ぼうと、強く思った。

 上演時間はこれも一時間ほどのもので(昨日から観た舞台はぜんぶ一時間強の上演時間だった)、終わっても四時ちょっと過ぎ。「ニェネントくんをひとりぼっちにしておくのはかわいそう」と、すぐに帰ることにした。ターミナル駅で乗り継ぎの時間があったので弁当を買い、帰宅したのは七時ぐらい。ニェネントくん、お留守番ありがとう。


 

[]カミーユ・ボワテル「ヨブの話―善き人のいわれなき受難」カミーユ・ボワテル:演出・構成・振付・出演 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウス カミーユ・ボワテル「ヨブの話―善き人のいわれなき受難」カミーユ・ボワテル:演出・構成・振付・出演 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウスを含むブックマーク

 このカミーユ・ボワテル氏、「コンテンポラリー・サーカス」とか「ヌーヴォー・シルク」とか呼ばれているとかいうことだけれども、そんな言葉に足をとられるとまるで誤解してしまう(このことはまたあとで書く)。そんな公演だった。わたしにはこれはアート系の、オブジェと絡んでのユーモアをたたえたパフォーマンス、と思われた。余計な予備知識はまったく不要。虚心に観ていれば、おのずとその楽しさが了解できる。

 先に書いたように、出だしのところはいささか気分を集中して観ることが出来ず、舞台を楽しむというわけでもなかったのだけれども、だんだんにこの舞台上に構築される世界に魅了されて行ったというか、かなり楽しむことのできた舞台だった。
 舞台上にはそれこそ無数の、道路工事現場によく置かれている折りたたみのバリケードのような木製の器具が置かれていて、登場人物(カミーユ・ボワテル氏)はそのバリケードと奮闘をつづけられるわけである。果たしていったい何を、そのバリケードでやろうとしているのかよくわからないけれども、とにかくはそれらの器具を移動させたり、その上に登ってみたり、とにかくは意図するところのものはどうしてもうまくいかないようである。このあたりがタイトルの「いわれなき受難」ということになるのだろうか。
 しかし、途中からボワテル氏は舞台上の空間を行ったり来たりということをはじめられ、ここが「ゆるい」というか、ただ舞台左右のはしごを上に登られたり、最上部のキャットウォークを歩かれたり、ここで「とりとめもない」という印象も受けたのだけれども、あとで思い出すと、舞台空間をパフォーマーのものにするというか、空間を変節させるというか、この「ゆるさ」がとっても効果的だったように思える。
 そのあとは舞台中央のいくつものスタンドに手づくり感の強いマイク(むき出しのスピーカーを逆配線でマイクに仕立てている?)などをセッティングされ、黒い釣り鐘のようなかたちのコスチュームを着ての、「音」の展開、だったかな。雰囲気としてのコミカルさはずっと持続している。さいごにはずっと舞台に置かれているバリケードを複数個組み合わせて動かし、奇妙な雰囲気をあじあわせて下さった(この部分、とっても面白かったのだけれども、何と書き表したらいいのかわからない)。

 観終わった感想として、とっても興味深くも面白かったわけだけれども、「コンテンポラリー・サーカス」とか「ヌーヴォー・シルク」とかジャンル分けしなくってもいいではないか、と思う。こういうジャンルの概念を持ち出さなければ説明できない悲しい批評家もいるわけで、当日配布された見開きのパンフレットには、「ヤサぐれ舞踊評論家」などと名乗られるN氏が寄稿しておられる。その一文には「物を動かせば、それは全てジャグリングだ」という考えが、その「コンテンポラリー・サーカス」にはあるのだといわれる。この日のボワテル氏のパフォーマンスにももちろんそういう側面もあるのかもしれないけれども、別に「ジャグリングだ」などと無理して了解しなくっても充分に楽しめるパフォーマンスだったわけだし、これは自国フランスなどでの評価としてそういわれているのだから仕方がないのかもしれないとは思うけれども、逆にこれを「ジャグリング」とかとリンクさせて鑑賞したり、「これが<コンテンポラリー・サーカス>か」などと思いながら観るのは、まったくつまらないことだと思う。
 「ヤサぐれ舞踊評論家」のN氏は「筆者は本場フランスを回って取材してきたので、ちょっと説明しておこう」などと書かれるが、あまりにこの日の公演を、「コンテンポラリー・サーカス」とか「ヌーヴォー・シルク」とかのジャンルにこだわって説明されていると思う。だいたいこのN氏は「現地に実際に行って観て来た」というのがお得意な方で、去年のバットシェバ舞踊団の来日公演のときも、「わたしは危険なイスラエルにまで入国して彼らのダンスを観て来たのだ」と、さも自慢げに書かれるわけである。そういう「取材」で何かほんとうに発見されたことがあるのならいいけれども、けっきょくつまりは、向こうで批評家などがいっていることを翻訳して伝えているだけではないのか。特に今回のカミーユ・ボワテル氏のパフォーマンスでは、そういうことを強く感じる。まあN氏は何でもジャンル分けしなければ気がすまないお方というか、十年ほど前にこの日本で「コンテンポラリー・ダンス」なる動きが盛んになってきたときに本を出し、そんな日本のアーティストを細かく分類して標本のようにして、ある面で日本のそういうコンテンポラリー・ダンスのムーヴメントの衰退に力を貸した人物でもあられると思う。わたしはこの人の書くことはこれっぽっちも信用していなかったけれども、今回もまた「やっぱり」という感じではあった。


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■ 2016-10-01(Sat)

 今日は久々に、二つの公演をハシゴで観に出かける。まずは三軒茶屋で午後三時から、そのあとは木場で六時からだから、昼から出かければ間に合うし、木場の公演は一時間ぐらいの予定みたいだから、そんなに遅くならないうちに帰って来られるだろう(明日はしごとは休みだけれども、また池袋での公演を観に行く予定でいる)。

 空は曇天だけれども、雨にはならないだろうと思う。十二時の電車で家を出て、乗り継ぎがうまく行って三軒茶屋には二時ぐらいには着くことが出来た。昼食の時間があわただしいかとも思っていたけれども、けっこうゆっくりと時間が取れそうだ。そこで久々に日高屋へ行き、担々麺を注文する。わたしはけっこう辛いのが好きなので、麺の上からさらにコショーとラー油をたっぷりとかけて食べる。しかしちょっとコショーをかけすぎてしまって、なんだか味がよくわからなくなってしまった(もともとそれほどの味のものでもないけれども)。

 三軒茶屋の公演も一時間ちょっとで終わったのだけれども、そのあとのアフタートークも聴いてしまったので、三軒茶屋を出たのは五時ぐらいの時間。三軒茶屋から木場へ行くのに、いったいどうやって乗り継いで、どのくらい時間がかかるのかわからなかったのだけれども、「乗り換え案内」でみると三軒茶屋から田園都市線でそのまま半蔵門線に入り、九段下で東西線で乗り換えれば三十分ぐらいで行けるみたいだったので、その案内に従う。しかし、九段下での乗り換えというのがいちど改札を出なくてはならず、異様な距離を歩かされる。自分の感覚では十分ぐらい歩いた気がする。

 もうすっかり暗くなっている木場の駅前を、会場へと歩く。ちょっと雨が降り出したようだ。本降りにならなければいいのだけれども、と思う。わたしの歩いている前を三人ばかし人が歩いていて、「この人たちもひょっとしたら同じ公演を観に行くのだろうか」と思っていたら、案の定、その人たちもそうなのだった。
 この会場のEARTH+cafe+barというところ、前にいちど来たことがあると思って、それがなかなかに思い出せなかったのだけれども、中に入ると上の階があるのもわかり、わたしは前に来たときにその二階から誰かの公演を観ていたはずと思い当たった。そうすると、それが小林嵯峨さんの舞踏公演だったのだと思い出すことが出来た。この日記で調べるとそれは二年前の十一月のことで、それは「記憶が消えてしまった」時期よりもあとのことなので、そうやって思い出すことが出来たわけである。
 会場ですぐにAさんとお会いして挨拶。「今日は泊まって行くんですか?」と聴かれ、「いや、ちょっと‥‥」と答えると、「それは残念」と。そういわれると悪い気はしないというか、明日のチケットも持参して来ているからどこか泊まってもいいんだよね、などと思うのだけれども、ニェネントくんをひとりぼっちにしておくのがかわいそうに思って、「やはり帰らなければ」と思うのである。しばらくしてBさんがいらっしゃって、「わたしの家はこの場所から歩いて三分ぐらいなんですよ」といわれる。たしかAさんも自宅はこのスポットのすぐ近くのはずだと思うのだが、お二人は知り合いというわけではない。

 公演が終わってもまだ七時ぐらいなので、しばらくはバーも兼ねた会場でジントニックとか注文して飲みながら、CさんやDさんともちょっと(本当にちょっと)お話をする。
 皆さんにお別れして帰途に着いた。雨は止んでいる。帰りは東京駅にでも出れば帰りやすいかと思うのだけれども、これもどのような経路をとればいいのかわからない。また「乗り換え案内」のお世話になると、東西線で大手町まで出て、そこから丸ノ内線に乗り換えましょうと。で、その順路で行くのだけれども、また大手町の駅で乗り換えにすっごく歩かされてしまい、「これなら東西線の日本橋で降りて東京駅まで歩くのと同じなんじゃないだろうか」と思う。とにかくメトロの乗り換えというのは、駅によってはとても難儀である。

 その「乗り換え案内」によれば、上野東京ラインを待つよりも、その前の高崎線に乗って大宮まで出て、そこで湘南新宿ラインの快速に乗り換えれば、ローカル線でひと電車早いのに乗れるみたいなので、ちょっとがんばってその順路で帰る(上野東京ラインなら確実に東京駅からすわれるのだけれども、高崎線はかなり混み合っている)。
 なんとか十時ちょっと過ぎに自宅駅に着き、この夜はコンビニで夜食の弁当を買って帰った。コンビニの弁当を買うなんて、記憶にないことである。帰宅して「ニェネントく〜ん、キミのために出来るだけ早く帰って来たんだよ〜」というけれども、ニェネントにはわかる気配はない。


 

[]「Cross Transit」北村明子:演出・構成・振付・出演 Kim Hak:ドラマトゥルグ・ビジュアルアートディレクター @三軒茶屋・シアタートラム 「Cross Transit」北村明子:演出・構成・振付・出演 Kim Hak:ドラマトゥルグ・ビジュアルアートディレクター @三軒茶屋・シアタートラムを含むブックマーク

 この「Cross Transit」と題された公演はこの春にもあったのだけれども、そのときには北村明子さんは出演されていなかったので観なかった。で、今回は北村さんも出演されるようなので期待して観に来た。
 わたしは古い記憶は消えてしまったので、二年以上前の彼女の活動や「レニ・バッソ」のことなど、まるで記憶に残ってはいない。しかし、去年の春に観た彼女のソロ「route 1 永遠と1秒の間」はとってもよかった。今思い出すと、去年観たダンス公演の中でも飛び抜けてよかった公演だったのではないかと思う。何から何まで記憶しているわけではないけれども、こうしていくらかでも記憶に焼き付いて残っているということも、それだけその公演が印象深かったということではないかと思う。

 今回の公演は男性三人(ひとりはカンボジアのダンサーらしい)、女性二人のダンサーによるダンスが基本で、中間で北村さんの短いソロが挿入された構成だった。舞台後方には七〜八十センチ角の白い(段ボール製のような)立方体がぎっしりと、ちょっとずつデコボコとさせながら並べられていて、そこにカンボジアの写真家Kim Hak氏の写真作品、その写真作品を映像加工したものが投影される。Kim Hak氏のテキストが語られる中、ダンサーたちがいろいろな組み合わせで舞台上で踊る。そういう作品だった。

 ダンサーたちの動き、特にその手、腕、指の動きは(わたしがそのあたりに詳しいわけではないけれども)東南アジアの踊りを想起させられるものであり、これは北村明子さんの近年の取り組みの成果なのだろうと思う。Kim Hak氏のテキストで語られるのは、彼と「写真」との関わり、特にポル・ポト独裁時代に皆が写真を処分し、隠したという話から、現在の彼の仕事についての話など。

 写真というものは、やはり「記憶」というものと関わっているものではないかと思う。ダンサーたちの繰り拡げるダンスの、その繊細で大胆なような動きからも、やはりなぜか、時間の経過の中で定着されたり消え去ったりして行く「記憶」のことを思ったりした。こういうのは前に観た北村さんの「route 1 永遠と1秒の間」でも感じたのではなかったかと思う。そのときの振付けと今回の振付けとではまるで異なっているのだけれども、やはりそこに北村さんの世界が拡がっているのではないだろうか、そういうことを思った。

 Kim Hak氏の写真の中に、そのテキストでも語られる、ポル・ポト時代に処刑された女性の、処刑される前に幼子を抱いて撮影されたという一枚の写真が瞬間投射されたのが、その表情と共にいつまでも心に残っている。


[]ARICA「蝶の夢 ジャカルタ幻想」藤田康城:演出 首くくり栲象&安藤朋子:出演 @木場・EARTH+cafe+bar ARICA「蝶の夢 ジャカルタ幻想」藤田康城:演出 首くくり栲象&安藤朋子:出演 @木場・EARTH+cafe+barを含むブックマーク

 この、安藤朋子さんと首くくり栲象さんとによる「蝶の夢」、2011年と2012年との二回行われていて、この日記をみるとわたしはその双方を観ているわけだけれども、例によって、これっぽっちも記憶していない。首くくり栲象さんのやられている「首吊りパフォーマンス」も、ことばとして了解しているけれども、いったいどのようなものだったのか、記憶しているわけではない。

 会場はふだんはギャラリーとしても機能している奥行きのあるホワイトキューブ空間で、その奥の右手に籐椅子(上にクッションがある)やキャリーバッグなどがあり、赤い布の貼られたテーブルのような箱の上には本やティーポット(?)などが置かれている。そのそばに上からロープが吊るされ、中間に吊るされた鳥かごには何かぬいぐるみのようなものが入れられている。ロープの一端は天井を経て、左の空間に垂れ下がっている。きっとここで栲象さんはパフォーマンスをやられるのだろう。

 奥手にいつしか安藤さんが立たれていて、ゆっくりとした動きで籐椅子にすわられる。そのさまはどこか、没落した旧地主かなにかの夫人が、何もやることもなく、ただ時の過ぎ去るのをやり過ごされているようにみえた。
 栲象さんは思っていた場所にはあらわれず、客席のすぐ左後方に、踏み台を引きずってやって来られる。麦わら帽を被り、オレンジ色のシャツに茶色のズボン。なんだかメキシコの農園で働く農夫みたいだと思い、安藤さんとの対比で、ちょっとしたドラマを想像してしまった。

 まず栲象さんはその客席左の場所で帽子を取って壁にかけられて、その場所で「首くくり」のパフォーマンスを始められた。この部分は栲象さんの「ソロ」とでもいった場面で、この間安藤さんは身じろぎもせずに栲象さんのパフォーマンスに見入っていらっしゃった。
 それから栲象さんも中央奥のスペースに移動され、安藤さんとのデュオというか、そういうパフォーマンスになる。安藤さんは置かれていた籐椅子やキャリーバッグなど、ロープに皆引っかけられて、その反対側では栲象さんが首を吊る。「重さ」の均衡。最後に栲象さんは「りんご追分」を唄いながら退場されたけれども、あれは「重力」→「ニュートン」→「りんご」ということなのか、と思った。

 観ていて、少しなりと、ARICAの公演の特色とでもいったものを思い出せるような気がした。けっこうエンターテインメントというか、わたしにはとっても楽しい公演ではあった。


 

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