ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2017-01-31(Tue)

 ニェネントがこのところ、なんとなくおばさんっぽい。顔の感じがずいぶんと変わって来たような気がする。ニェネントもこの正月は七回目の正月だったし、ネコの年齢を人間の年齢に換算してみると、六歳というのは人間の四十歳とか五十歳とかにあたるみたい。そりゃあもうすっかり「おばさん」である。そんなニェネントを、「お・ば・さ・ん」とか呼んでみる。そう呼ぶとニェネントが「にゃ〜」とか返事をするのでおもしろい。
 でも、もう、じきにニェネントの方がわたしを、「老い」ということでは追い抜いてしまうんだな。そう考えると、とっても悲しい。でも、何があってもわたしがニェネントを看取ってあげなくてはいけない。わたしの方がニェネントよりも先に逝ってしまうようなことだけは避けなくっては。これはいつも思っている至上命題である。健康第一。

 昨日書いたように、明日はまた国分寺のクリニックへ行って脳波検査を受ける予定なので、今日あまりたっぷりと睡眠をとってしまうと、また検査のときに眠れなくなってしまう。だから昼寝は禁止。そして、夜になってから録画した映画を二本観た。そのあとベッドの中で、借りている「コンビニ人間」を読み始めたけれども、今のところ、どう面白いのかよくわからない。ただ読みやすいので、読んでいて睡魔におそわれることもなかった。


 

[]「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994) ロバート・ゼメキス:監督 「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994)   ロバート・ゼメキス:監督を含むブックマーク

 かつて大ヒットしたヒューマン・ドラマで、わたしは観るのはこれが初めて。1960年代から70年代にかけてのアメリカの政治情勢(ヴェトナム戦争、反戦運動、中国とのピンポン外交などなど)をバックに、主人公フォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)の成長と遍歴を描いて行く。ロバート・ゼメキスの演出らしくも、主人公のフォレストがケネディ、ジョンソン、ニクソンらの歴代大統領(そしてジョン・レノンとも)と会うシーンがVFXで描かれる。

 フォレストは生まれながらに知能が低く、足には脊髄矯正器具を付けている。特殊学級へ行くことをすすめられるのを、母(サリー・フィールド)が抵抗して普通の公立学校へ通わせる。フォレストは近くに住むジェニーと仲良くなり、彼女との友情は以後長くつづくことになる。あるとき、学校でのいじめから逃げるため走ろうとして足の矯正器を壊してしまうけど、実はすっごい俊足であることがわかる。このことがフォレストにアメフトのプレーヤーの道をひらき、大学まで進学させることになり、当時のケネディ大統領に会うことにもなる。
 大学を卒業したフォレストはアメリカ陸軍に志願するが、上からの命令を素直に聞いていればいい軍隊のやり方はフォレストにぴったりのものだった。ヴェトナムに送られたフォレストはバッバという友だちを得、ダン中尉(ゲイリー・シニーズ)という上官の下でヴェトコンと闘うことになる。ヴェトコンに囲まれた味方兵士をおおぜい、自ら負傷しながらも安全なところまで避難させる活躍をし、ジョンソン大統領に栄誉勲章を贈られるが、将来いっしょにエビ漁をやろうと約束したバッバは戦死してしまう。
 両足を失ったダン中尉と共に病院で療養していたフォレストは、フォークシンガー志望〜ヒッピー〜反戦運動に熱中するジェニーに再会するけれども、ふたりの立場はあまりに異なるものだった。療養中にピンポンの才能があることがわかったフォレストは、「ピンポン外交」の一員として中国を訪れ、米中国交樹立の下地をつくってニクソン大統領と会い、テレビに出演してジョン・レノンとのトークを行なう。
 バッバとの約束を守ってエビ漁の漁船を購入するフォレストだが、そんな彼のところにダン中尉がやって来て、その後フォレストの良きパートナーとなる。最初は不調だったエビ漁も、大ハリケーンでフォレストの漁船以外の漁船が壊滅状態になり、フォレストは一財産を築く。その財産の半分はバッバの遺族に寄付し、残りもたいていは寄付してしまい、ダン中尉とも別れる。
 母が亡くなり、ジェニーと再会したフォレストはつかの間の幸せな時間を持つけれども、ジェニーは彼の前から姿を消してしまう。

 わたしはゲイリー・シニーズという役者がけっこう好きなので、彼の出番が多いこの作品はうれしかった。両足を失い人生をはかなむけれども、そんな人生を受け入れ、フォレストのよきパートナーとなる。この人のシニカルさをただよわせる笑顔がとっても似合う役だった。そういうところからも、「触媒」としてダン中尉の生き方に影響を与え、ジェニーにも影響を与える、そんなフォレストのあり方を、まさに「純真無垢」なものとして読み取れるような作品なのだろう。


 

[]「ドーン・オブ・ザ・デッド」(2004) ザック・スナイダー:監督 「ドーン・オブ・ザ・デッド」(2004)   ザック・スナイダー:監督を含むブックマーク

 ジョージ・A・ロメロの傑作「ゾンビ」のリメイク。これは以前観ていて、おぼろげながら少し記憶が残っていた。さまざまな人種が登場してくる作品で、そのあたりのことはいろいろと気配りをしてのキャスティングだったのだろうと思う。オリジナル版と同じように、生存者たちはショッピング・モールに立てこもるのだけれども、どちらかというと「このショッピングモールに出来るだけ長くろう城していたい」という感覚だった「ゾンビ」より、こっちでは早めに「ここも脱出しなければ」という空気になる。これは生存者のうちにクルーザーを所有している男がいたせいでもあるけれども、この作品では「このショッピングモールにいれば安全」という空気ではない。生存者たちが一枚岩ではないというのも、この作品の面白いところ。

 登場人物がそういうゾンビが生まれた原因について、「地獄が満員になってしまったから」みたいなことをチラッというシーンがあるけれども、あれ? それって黒沢清監督の「回路」の設定じゃないのか?って思ってしまい、そう考えると、ラストにクルーザーで脱出するというのも、「回路」っぽいところがある。「回路」が公開されたのは2001年で、その年にカンヌで国際批評家連盟賞を受賞しているから、アンテナを張り巡らしているアメリカの映画人が、この「回路」をチェックしていてもおかしくはない。どうもわたしは、この新「ドーン・オブ・ザ・デッド」の脚本には、「回路」の影響があるんじゃないかと思ってしまうのだけれども(調べてみると、「回路」は2005年にアメリカでも公開されていて、この「ドーン・オブ・ザ・デッド」よりもあとのことになるけれども、先に書いたように、「アンテナを張り巡らしている映画人」にはそのことは関係ないだろう。

 向かいの銃器店にひとり立てこもるアンディとの、しばらくののんびりとした展開と、その「のんびりさ」が壊れてしまう展開とが、ちょっとこの作品の奥行きを深めているように思えた。


 

[]二〇一七年一月のおさらい 二〇一七年一月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「ヒッチコック/トリュフォー」 ケント・ジョーンズ:監督
●「イレブン・ミニッツ」イエジー・スコリモフスキ:脚本・監督
●「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド:監督

読書:
●「物忘れの心理学」 星薫:著
●「スティーヴンソン怪奇短編集」ロバート・ルイス・スティーヴンソン:著 河田智雄:訳
●「妄想科学小説」赤瀬川原平:著
●「パルテノン・スキャンダル -大英博物館の「略奪美術品」-」朽木ゆり子:著

DVD/ヴィデオ:
●「知りすぎていた男」(1956) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「めまい」(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「赤い砂漠」(1964) カルロ・ディ・パルマ:撮影 ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督
●「シェルブールの雨傘」(1964) ミシェル・ルグラン・音楽 ジャック・ドゥミ:監督
●「バルタザールどこへ行く」(1966) ギスラン・クロケ:撮影 ロベール・ブレッソン:脚本・監督
●「ロシュフォールの恋人たち」(1967) ミシェル・ルグラン・音楽 ジャック・ドゥミ:監督
●「卒業」(1967) マイク・ニコルズ:監督
●「戦争の犬たち」(1967) フレデリック・フォーサイス:原作 ジョン・アーヴィン:監督
●「キツネとウサギ」(1973) ユーリ・ノルシュテイン:監督
●「ウエディング」(1978) ロバート・アルトマン:監督
●「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」(1986) クリント・イーストウッド:監督
●「ピンク・キャデラック」(1989) バディ・バン・ホーン:監督
●「ミラーズ・クロッシング」(1990) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン:脚本 ジョエル・コーエン:監督
●「フィラデルフィア」(1993) ジョナサン・デミ:監督
●「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994) ロバート・ゼメキス:監督
●「ジャッキー・ブラウン」(1997) エルモア・レナード:原作 クエンティン・タランティーノ:脚本・監督
●「トレーニング デイ」(2001) アントワーン・フークア:監督
●「ドーン・オブ・ザ・デッド」(2004) ザック・スナイダー:監督
●「ル・コルビュジエの家」(2009) ガストン・ドゥプラット/マリアノ・コーン:監督
●「フライト」(2012) ロバート・ゼメキス:監督
●「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)」(2014) コルネル・ムンドルッツォ:監督
●「白鯨との闘い」(2015) ロン・ハワード:監督
●「怪談」(1965) 小泉八雲:原作 小林正樹:監督
●「人斬り」(1969) 司馬遼太郎:原作 橋本忍:脚本 五社英雄:監督
●「月光の囁き」(1999) 喜国雅彦:原作 塩田明彦:脚本・監督
●「リアル 〜完全なる首長竜の日〜」(2013) 乾緑郎:原作 田中幸子・黒沢清:脚本 黒沢清:監督
●「蜜のあわれ」(2016) 室生犀星:原作 石井岳龍:監督

 

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■ 2017-01-30(Mon)

 そうやって昨夜から今朝にかけてまるで眠れず、それでもようやく二時間ほどは眠ることができただろうか。今日もしごとがなければ眠りについたところからいくら寝てしまってもいいのだけれども、今日からまたしごとなので、いつものように四時には起き出してしごとの準備をする。

 とりあえずパソコンの電源を入れ、いろいろとチェックしていると、ニェネントがわたしの後ろのところにうずくまるようにじっとしている。振り向いてそんなニェネントに気付くと、ニェネントがわたしの顔を見て「にゃ〜」とないて起きあがり、わたしのことを振り向きながらキッチンの方へ行く。つまり、「朝ごはんをちょうだいよ!」ということなんだけれども、今まではわたしがしごとに行くまでの早朝の時間はごはんを出したりせず、わたしがしごとから戻ってから朝ごはんを出してあげていたのに、この三連休でしごとに行かなくっても朝ごはんを出してあげていたので、「これからはそういうものなのか」と思い込んだというか、たった三日間で、それまでの習慣なんて忘れてしまうんだな。「待ってなさい。今はごはんの時間じゃないよ」というけれども、もちろんニェネントはわたしのことばはわからないのだ。わたしの方を見てはニャンニャンなきつづける。別にこの時間をニェネントの食事の時間にしてしまってもかまわないのだけれども、やっぱり「だめ!」ということにした。

 なんとかしごとは無事に終了し、とにかくは寝不足なので、部屋に戻ってからはずっと寝て過ごした。しかし、考えてみたら、明後日はまた国分寺のクリニックへ行って、先日眠れなくって失敗した脳波検査をまたやるので、ここであんまりたっぷり寝てしまうと、また検査のときに眠れなくなったりするんじゃないかと思った。まあ、この件は明日あまり眠らないようにすればだいじょうぶだろうか。

 ベッドのなかで、読みさしだった図書館から借りている本を読み終えた。


 

[]「パルテノン・スキャンダル -大英博物館の「略奪美術品」-」朽木ゆり子:著 「パルテノン・スキャンダル -大英博物館の「略奪美術品」-」朽木ゆり子:著を含むブックマーク

 「泥棒博物館」とも揶揄される大英博物館。そんな、大英帝国時代に植民地から略奪同然に持ち込まれた美術品は数多いのだけれども、そのなかでも「大英博物館の略奪品といえばコレ!」という、ギリシアのパルテノン神殿から持ち込まれた作品に的を絞って書かれた本。これらの略奪美術品は、十九世紀初頭に駐トルコ英国大使だったエルギン伯爵によってイギリスに持ち込まれ、「エルギン・マーブル」とも呼ばれている。

 う〜ん、わたしは、本としてはその「スキャンダル」であるところの事象の「告発」を期待したところもあるのだけれども、実のところこの本のほとんどはそのエルギン伯爵の伝記的記述で占められ、その行為への批判としては、わずかにバイロンによる「チャイルド・ハロルドの巡礼」の中で彼を「強奪者」と批判したことが紹介されるだけ。そしてあとの章で、ギリシアの文化大臣に就任した女優のメリナ・メルクーリによる返還運動が紹介され、この本の出版された2004年の時点で、ギリシアで建築のすすむ「新アクロポリス美術館」の構想を紹介し、「近々エルギン・マーブルはギリシアに返還されるのではないか」という希望的観測で終わっている。

 どうもなんだか、あまり「大英博物館」のあり方そのものを攻撃して、敵に回してもヤバいんじゃないかという判断があったのではないかという、ちょっと一冊の本としては歯切れが悪いのではないかという印象になる。エルギン伯爵の伝記本としては要領よくまとめられていたとは思うのだけれども、わたしが読みたかったのはエルギン伯爵の伝記ではなかったのに。


 

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■ 2017-01-29(Sun)

 今日はわたしの三連休のさいごの日。やはり出勤時間のことを気にしないでいい日がつづくのは快適だったけれども、また明日からは早起きしなければいけない日々にもどる。

 今日は決めてあったように高田馬場に映画を観に行くのだけれども、朝いちばんの回は十時頃からなので、そこから観るのはちょっとキツい。それに、行く前に池袋に寄って、一昨日予約したRosasのチケットを引き取っておきたい。二本の上映作品が一巡するのが三時半ぐらいで、そこから二本観終わるとだいたい五時。そのくらいのスケジュールがゆっくり出来ていいんじゃないかと思うのだけれども、観終えたあとでCさんのグループ展を観に行くと考えると、もうちょっと早い時間の方がいいだろう。それで、まず一本の上映が終わる十二時から観るスケジュールにした。映画を見る前に池袋に寄ること、昼食を先に取ることなどを考えて、こちらは九時ちょっと前の電車に乗ることにした。天気予報では今日もまた暖かくなるだろうといっていた。やはり空は晴れている。まだ九時前の北関東は寒いといえば寒いけれども、「今日は暖かくなるんだ」と思いながら歩くと、もう暖かくなったような気分になる。

 まず予定通り池袋でチケットを引き取り、まだ時間は十一時前。池袋で昼食にするとちょっと時間が早すぎるので、高田馬場に移動する。高田馬場の駅前の通りはさすが学生街というか、すっごい安いランチを出す店がいっぱい並んでいる。「どうしようか」と考え、けっきょくはいつもの「日高屋」へ。まだ時間も早いので店内も空いている。今日は、なんだか評判がいいらしい「チゲ味噌ラーメン」というのを頼んでみた。どんなんだろう? って、出てきたチゲ味噌ラーメン、つまりは大ざっぱにいうとキムチ味だった。あららら、家でもキムチをどうしようかともてあましているのに、外に出てまでキムチに苦しめられることになるとは‥‥。で、けっこう辛くっていいんだけれども、ちょっとボリュームありすぎというか、もてあましてしまう感じ。同じ辛いのならわたしはやはり担々麺でいいな。そういう感想です。

 さて、食べ終えて映画館へ。まだ一回目の「ハドソン川の奇跡」が上映中で、ロビーには二本目の「イレブン・ミニッツ」から観ようという、わたしと同じ考えの人たちが、入れ替えを待っている。思ったより大勢の人がいて、整理券まで配られていた。わたしは18番。映画館の人が「立ち見になる可能性もありますので、ご了承下さい」といっている。そうか、そんなに混んでいるのか。日曜日だし、「ハドソン川の奇跡」は、先日発表になったキネ旬のベストテンで外国映画のベストワンに選ばれた作品だし。十時からの「ハドソン川の奇跡」上映ではまだまだ空席があって、その次の「イレブン・ミニッツ」から観ようとしても充分空席はあると思ったのだけれども、すでにほぼ満席なのだろうか。いやいやでも、わたしの考えでは、さいしょの「ハドソン川の奇跡」だけを観て帰っちゃうお客さんも、それなりにけっこういるだろうと。

 十二時になり前の回の上映が終わり、係の人がドアを開け、お客さんが外に出てくる。けっこうカバンとかを持って出てくる人も多いので、これはわたしの考えたような、「ハドソン川の奇跡」だけを観て帰っちゃうお客さんなのではないかと思う。このあと整理番号順に映写室に入ったけれども、すぐにわたしの好みの座席が見つかり、空いている席を探してウロウロするようなこともなかった。それでまずは「イレブン・ミニッツ」の上映。

 「イレブン・ミニッツ」が終わり、映写室の外に出ると、ロビーにはさっきより多い、相当の数の人が入れ替えを待っていた。どうやら、ひとつ早い回から観ることにしたのは正解だったみたいだ。次は「ハドソン川の奇跡」。ふうむ。あとで書くけれども、この二本をつづけて観るというのはおもしろい体験だ。わたしは「イレブン・ミニッツ」の冒頭の部分がよくわからなかったので、そこのところだけもういちど、ちょっとだけ観てから映画館を出た。ロードショー映画館でなく「名画座」というのは、こういう観方(何度観てもかまわない)ができるからいい。

 外に出て、時刻はだいたい三時半ぐらい。Cさんのグループ展をやっている画廊は日本橋なので、高田馬場からはメトロで乗り換えせずに行ける。いいスケジュールだ。

 日本橋の高島屋デパートは、「ひなまつり」の「お雛様」の飾り付けがされているようだった。「節分」なんか関係ない。さすがに老舗デパートである。

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 画廊に着き、作品を観てまわる。このグループ展のテーマは「ネコ」。かなりの大御所から実力派の若手作家の作品まで、たくさんの描かれた「ネコ」たち。Cさんはやはり画廊にはいらっしゃらなかったけれども、Cさんの描いたネコはとってもかわいらしかった。彼女の知られざる側面、という感じ。すでに「売約済み」の赤い丸いシールが貼られていた。ネットでみていた彼女の作品とはちがうので、「あれ?」と思っていると、隅にそのタイトルのカードだけが置かれ、やはり「売約済み」のシールが貼られていた。全三点、ぜんぶ売れちゃったのか。すごいなあ。
 画廊の方とちょっと話をし、彼女の作品は売れちゃったので、今展示している作品は今日から急きょ展示し始めたのだということ。そしたらまた売れちゃったわけか。しかし、「売れちゃった」からといって、すぐに作品を買った人に渡しちゃうものだろうか。ふつう、展覧会の期間が終わるまでは展示をつづけるのではないかと思うのだけれども。まあそんなぽっと出の画廊ではなくて歴史のある老舗画廊菜なのだから、昔からそういうやり方でやってきたのだろうか。

 画廊を出て、すぐそばにあった「丸善」に立ち寄ってみた。店内をまわってみると、ももたなおきの本なんかが平積みしてあったりして、彼のサインも展示してあった(彼らしくも、ものすごくセンスのないサイン!)。ちょっと丸善に幻滅してしまったり。
 でもなんだか、このあたりは歩いていても「マンハッタン」みたいな雰囲気を感じるというか(高層ビルはないけどね)、東京駅へ向かいながら、頭の中ではリー・ワイリーの「マンハッタン」が鳴り響いていた。

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 帰りは東京駅から「上野東京ライン」でターミナル駅まで乗り換えなし一本。ターミナル駅で下車して駅ビルのスーパーに寄り、ちょうど「半額」のラベルが貼られたばかりの刺身詰め合わせと、ちらし寿司とを買って帰った。帰宅して、わたしはちらし寿司、ニェネントには豪華高級刺身ですよ。さすがに元値はかなりする刺身、先日の「めかじきの刺身」とは比べものにならない執着というか、わたしは(自分でも食べながら)ちょっとずつニェネントの皿に取ってあげるのだけれども、「もう待ちきれない」という感じでわたしのことを見つめ、食卓の上まで身を乗り出してくる。出してあげるともう、瞬時に食べてしまう。やはり、元値の張る刺身はネコにとっても美味なわけだなあと納得した。

 食事のあと、なんだか今日観た二本の映画のことをあれこれ考えたりしているといつまでもとまらず、ベッドに入って眠ろうとしてもなかなか眠れないのだった。


 

[]「イレブン・ミニッツ」イエジー・スコリモフスキ:脚本・監督 「イレブン・ミニッツ」イエジー・スコリモフスキ:脚本・監督を含むブックマーク

 ポーランドの監督、イエジー・スコリモフスキの作品。彼の名まえは聞いたことはあるけれども、どうもわたしは、彼の作品を観るのはこれがはじめてのことだと思う。東欧の監督らしい実験精神と美意識にあふれた作品で、まずは緊張感を持続させるような音楽(サウンド)が印象的だった。別にそれがニューヨークであってもかまわないような、高層ビルも立ち並ぶ都会での、ある日の午後五時から五時十一分までの十一分間を、多くの人物のさまざまな視点から繰り返し描いて構成した作品。

 説明的な描写はほとんどなく、登場する人物ら十数人の名まえもほとんどわからないし、「何をしている人物なのか」ということもわかりにくい。そんな中で、ホテルの一室(1111号室)に女優を招いて、オーディション名目で彼女を誘惑しようとする映画監督、その招かれる女優と、嫉妬に狂って彼女を捜す女優の夫との展開は筋を追いやすいし、じっさいにこの作品ではそのキーとなる展開をみせることになる。そういうところではある意味で、それ以外の人物らはこの三人に巻き込まれてしまうサブ的な登場人物かとも思える。そしてそれらのホテルの外の人物らが、もちろんこの映画の空間を拡げることになるし、その断片的な描写の集合からも、この映画のユニークな演出を際立たせてもいる。

 映画の中で、ほとんどすべての人物が、空に「奇妙なもの」を見たという。高層ビルの間を低空飛行する旅客機の映像が何度かインサートされ、窓からは鳥が飛び込んでくる。旅客機の低空飛行はこの街では「現実」のものなのかも知れないけれども、部屋に飛び込んでくる鳥は異常だろうし、いったい皆は空に何を見たのだろう。そんな異常現象と映画ラストの収束とに因果関係があるとは思えないのだけれども、この映画について考えると、そういう皆が見たという「空の不思議なもの」、窓から飛び込んでくる鳥、低空飛行する旅客機のこと(それからスローモーションで撮られた、破裂するシャボン玉の映像も)はどうしても思い出され、「あれはラストのカタストロフの前兆だったのだろうか」と思ってしまうことになる。

 人はどのように悲劇的なカタストロフに巻き込まれてしまうのか、そこには理由などない。そういうことを訴えているようにみえる、などと書けば、「そんなアバウトな映画なのか」と思われてしまいそうだけれども、でも例えば日本映画でも、広島原爆投下前の日の、明日起きるディザスターのことなど知らずに生きていた市井の人々を描いた映画が、たしかあったと思う。この「イレブン・ミニッツ」がその日本映画(タイトルを忘れた)に似てるだろうとはいわないけれども、その日本映画に登場する人物らは皆、おそらくは「善人」として描かれただろうと想像できる(違っているかもしれない)のに対し、この「イレブン・ミニッツ」に登場してくるのは、どうも怪しい人物も多い。そういうあたり、「悲劇に遭うのは皆善人だった」というようなステレオタイプから逃れた視点と感じるし、そのことがこの演出を成り立たせてもいるわけだろうと思う。

 都市には多くの人がいて、その街を構成している。ドラッグに溺れる人はすぐに見つかるだろうし、ある種の犯罪に走る人もいるだろう。映画をつくろうとする人もいれば、絵を描く人も修道女もいるし、人を救うことを仕事にしている人たちもいる。そういう都市を突然のディザスターが襲うとき、そこに巻き込まれてしまう人々。なんだか、「巻き込まれてしまったらもうどうしようもないな」というようなディスペレートな気分をも喚起させられる作品かとも思うけれども、都市のあるときの十一分間を切り取り、ユニークな撮影と編集で再構成した作品としての面白さは、紛うことのないものだと思った。

 実はこの作品の中で何度か登場する、その高層ビルの間を低空飛行する旅客機のイメージ、このときいっしょに見た「ハドソン川の奇跡」にもそっくり出てくる映像ではあった。このことでも思うことはあるのだけれども、それは「ハドソン川の奇跡」について書く中で書くことにしよう。


 

[]「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド:監督 「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 2009年一月十五日、ニューヨーク市でじっさいに起きた旅客機のハドソン川への不時着水事故を映画化したもの。原題は「Sully」で、これはその旅客機機長Chesley Sullenbergerのニックネーム。実在する市井の人物の名まえが映画のタイトルになるということにちょっとおどろいてしまうけれども、つまりけっきょくは、その「サリー」という人物の操縦技術、冷静な判断、ひいては彼の人物そのものを賛美し、英雄視するような作品ではないかと思う。

 作品は時系列にそって描かれるのではなく、不時着水事故のあと、自分の操縦する機が高層ビル街に墜落する悪夢に悩むサリー(トム・ハンクス)を描くことから始まる。すでに彼はメディアなどからは英雄扱いされているのだけれども、来るべき運輸安全委員会の査問で「自分の判断が間違っていた」とされる可能性が高く、不安と心労にさいなまれている。
 サリー機長の搭乗する旅客機は離陸直後に鳥の群れに突っ込み、両エンジン共に停止してしまう。旅客機の高度が下がり始めるなか、まずは離陸した空港へ引き返すこと、もしくは進行方向にある近隣の空港まで行くことのどちらか、というのが航空会社の望む選択肢だったろうと思えるのだけれども、サリー機長は現状の低下した高度ではどちらも成功の可能性は低いと判断し、さらに市街地への墜落を避けるため、すぐそばを流れていたハドソン川に不時着水することを決める。不時着水は成功し、乗客乗員の全員が、ケガ人を出すこともなく、近くを運行していたフェリーボートなどに即座に救出された。旅客機機体は、一時間後に水没してしまった。
 しかし、運輸安全委員会の判断ではどちらの空港へ向かっても墜落はせずに間に合ったはずだし、エンジンの一基も停止してはいなかったのではないかという疑問も出された。つまり、「機長の判断は間違っていたのではないか」と。

 先に書いておくと、これって、このあいだ観たロバート・ゼメキス監督の「フライト」に、(裏返しに)まるでそっくりな展開である。「フライト」の方がフィクションらしくももっと壮絶な事故で、死者も出るのだけれども、やはり機長(「フライト」ではデンゼル・ワシントン)の冷静沈着な判断によって最悪の事態を回避できたわけである。しかし「フライト」では機長には隠し通したい「飲酒しての搭乗」という事実があり、それさえなければ、運輸安全委員会も機長の判断を支持する流れにはなっていた、というあたりがこの「ハドソン川の奇跡」と真逆になってるわけだけれども。
 ま、映画の訴えるものとしてはかなり異なる二作品だけれども、時系列の描き方を除けば、その展開はまるで瓜二つ。両機長とも、その飛行機乗りとしてのキャリアのスタートが農薬散布のセスナ機というところも同じだし、この二作品、同時期に公開されてたらアレだったね、という感じ。

 それでつい、その「フライト」と比べてしまうのだけれども、「フライト」では「善」と「悪」との対立、そこで救いとなる「宗教」というようなものがテーマでもあったけれども、この「ハドソン川の奇跡」は、非の打ちどころのない「善人」たちの話。サリー機長と副操縦士のジェフ(アーロン・エッカート)は互いに信頼し合う申し分のないパートナーシップをみせてくれるし、映画のなかでこの二人に対立するものとして「運輸安全委員会」が出てくるけれども、彼らは別にサリーらを貶めようとする悪人などではなく、ただ「真実を突き止めようとする」存在であり、自分たちにまちがいがあれば素直に認める存在である。以下いちどいろいろと書いてみたら、ほとんどネタバレになってしまったので、消しましたけれども、つまりやはりこの作品、「人はその鍛錬の積み重ね、信念、冷静な判断によって運命を切り拓くことが出来るだろう」というようなポジティヴなメッセージにあふれた作品というか、いや、ただそのことだけを描いた作品、ということができるだろうか。
 このところのイーストウッドの作品にも、こういった「英雄視」された人物の苦悩、というようなものが描かれた作品がいくつかあった。例えば「父親たちの星条旗」だとか、例えば「アメリカン・スナイパー」だとか。この「ハドソン川の奇跡」もまた、そういった作品の系列に入るのかとは思うのだけれども、この作品には、それら過去の作品にあった「屈折」というものはほとんどない。どうも単純に「英雄賛美」みたいなところを感じるのが、わたしとしては「これでいいのだろうか?」という、この映画への疑問である。

 それで、先に観た「イレブン・ミニッツ」の中でも、高層ビル街のあいだを低空で旅客機が飛ぶという、まるで同じショットがあったわけで、ま、映画館としてはそのあたりに気付いて、この二本を並列して上映したのかもしれないけれども、とても面白い取り合わせだった。
 つまり、この「ハドソン川の奇跡」では、そのショットは機長サリーの「悪夢」とでもいうかたちであらわれたのだけれども、「イレブン・ミニッツ」ではその「悪夢」が映画全体を覆っているのではないのか。「映画」として、映像の力に託した思いというもの、偶然にも「ハドソン川の奇跡」のイーストウッド監督と、「イレブン・ミニッツ」のイエジー・スコリモフスキ監督とで同じかたち、表現をとったということ、もちろんそのことのウラには、「9.11」という現実の「悪夢」があった、ということだろう。あの事件が人の想像力に与えた影響の大きさ。


 

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■ 2017-01-28(Sat)

 明日は映画を観に行くと決めたので、その映画を観たあとにでもCさんのグループ展を観に行くとか、Aさんと会って飲むとかするといいと思い当たり、Aさんに連絡を取ってみた。こちらは明日はAさんに用事があって折り合わず。Cさんも明日はギャラリーにはいないと思うので、出来ればCさんのいるときに行った方がいいとは思うのだけれども、自分がそれに合わせて行動出来るかどうかわからない。二月の一日はまた国分寺のクリニックへ検査のために行くのだけれども、検査が終わってから行って、閉廊時間に間に合うかわからない。それだったらやはり明日とか、行けるときに行っておいた方がいいようにも思う。Dさんにも連絡してみたけれども明日は折り合いが合わず、「では」ということで、後日会うことで話がまとまった。

 五月のはじめにRosasが来日し、関東では池袋の東京芸術劇場でふたつの公演を行うのだけれども、そのチケット予約受付の開始が今日の十時。「あのRosasだぜ〜」というのにチケット代もそこまで高額ではなく、やはり二公演両方行きたいものだと考える。十時ちょっと前から東京芸術劇場のサイトを開いてスタンバイしていたのだけれども、「そろそろ」と思って「チケット予約」のページに進もうとすると、もう「ただいま混み合っております」のメッセージが。しまった、ちょっとタイミングが遅れた。何度かトライするけれど、なかなかつながらない。なんだか以前にもこういうことをやった記憶がある。そうだ、やはりRosasが前に来日公演やったときも、おんなじ体験をしている。
 そのうちにようやっとつながったけれども、もうずいぶんと空席は少なくなっている。それでも「ファーズ」の方はけっこう前の方の、「とりたい」と思っていたような場所をとることが出来たし、「時の渦―Vortex Temporum」の方もちょっと後ろにはなったけれども、通路際の席をとれた。とにかくはがんばってスタンバイした甲斐があった、というところ。

 昼食はまだまだいっぱいあるキムチを使って、一昨日の「キムチ納豆」アゲイン。これからしばらく、昼食はこの「キムチ納豆」と「キムチ入りインスタントラーメン」を交互にやって行こうかと思う。今日の夕食のことを考えて買い物に出て、ストックしてある鶏肉と白菜を使ってまたまた水炊きをつくろうかと、豆腐を買う。あと、前に買った安物のウィスキーをまた買う。このウィスキー、水割りにすれば、わたしにはそんなに飲めないというモノでもない。安い日本酒で味にガックリするよりはよほどマシだし、日本酒みたいにガバガバ飲んだりすることもないので、グンと経済的でもあることがわかった。これからは自宅で飲むアルコールは、この安物ウィスキーにしようかと思っているのだが。

 午後からは、昨日観た「人斬り」がそれなりに楽しめたので、録画してあった同じ五社英雄監督の「雲霧仁左衛門」を観始めた。原作が池波正太郎というのはわたしの趣味ではないけれども、出演陣がかなりのオールスター・キャストなので期待してみようと。‥‥しかし、これが冒頭から昨日の「人斬り」とは大違いだった。構図とかおかまいなしの映像、そして顔のアップがつづき、「シャキーン、シャキーン」という刀のぶつかり合う擬音がまるでリアルではないし、うるさい。その上にまた血の吹き出すシーンの続出で、このアバウトな演出は映画を観ているという気分ではない。十分ぐらいも延々とそういうシーンがつづいたので、「もういいかげんにしよう」と、観るのをやめた。五社英雄という人の演出には好きなところもあったけれども、これにはちょっとがっかりしてしまった(まあ、冒頭のところを我慢して最後まで観れば面白かったのかもしれないけれども)。


 

[]「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)」(2014) コルネル・ムンドルッツォ:監督 「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)」(2014)   コルネル・ムンドルッツォ:監督を含むブックマーク

 ハンガリー映画(ハンガリーとドイツとスエーデンとの共作という表示)。この年のカンヌ映画祭の「ある視点」グランプリを受賞し、同時に「パルム・ドッグ賞」なるものも受賞したとかいうもの。わたしはこの映画のことはまったく何も知らずに観始めたこともあり、このタイトルからしても「少女と犬との心あたたまる交流ストーリー」なのかと思ってたのだけれども、いきなり映倫の「PG12」マークが表示され、「そういう映画なの?」と、ちょっとおどろいてしまった。映画の簡単な紹介によると、犬版の「鳥」とか「猿の惑星」とか評されもしたとか。つまり、犬たちが人を襲うのだな。それで少女がそんな犬たちをなだめるのだろう。タイトルからそんなストーリーラインが想像され、その予測はじっさい、ほぼ的中していた。

 リリという少女が主人公で、彼女の両親は別居、彼女は母親と暮らしているのだけれども、その母が仕事で海外に長期出張に出ることになり、そのあいだ彼女は飼っているハーゲンという雑種犬(レトリーバー系?)と共に、父親に預けられることになる。思春期を迎えたリリへの父親の無理解というのもテーマのひとつなのだけれども、まず父は犬がいっしょだということに難色を示すし、このとき、法律で雑種犬を飼うと税金が課され、さもなければ保護施設に収容されることになったという。学校(楽団サークルでリリはトランペットを吹いている)にもハーゲンを連れて行って問題を起こしたリリに業を煮やした父は、車で郊外にハーゲンを連れて行き、リリのいうことを無視して置き去りにしてしまう。必死で車を追うハーゲン。
 ここからハーゲンの、流浪、流転の生活が始まる。肉屋の外でテリア系の野良犬(かわいい!)と知り合い、野良犬らの集まる空き地で大勢の野良犬とも知り合う。しかしそこに野犬捕獲員らがやって来て、たいていの野良はつかまってしまう。テリアとハーゲンは必死に逃げ、テリアともはぐれたハーゲンはホームレスの男にかくまわれ、助かることが出来た。一方リリは必死でハーゲンを探し、町中にハーゲンのポスターを貼ったりするのだが、そんな中、町で会った楽団の年長の生徒らからドラッグを預かったり、不良じみたマネをしたりする。ハーゲンはというとホームレスの男から闘犬訓練の男に売り飛ばされ、牙を研がれマックスと名付けられ、闘犬としての訓練を受け始める。闘犬としてのさいしょの試合に勝ったハーゲンは、試合後のいざこざ、混乱に乗じて逃げ出すことに成功する。野良犬らがいた空き地に戻ってみると、そこにはあのテリアが待っていた。二匹の幸せもつかの間、またあらわれた捕獲員に二頭は捕まり、保護施設に入れられてしまう。闘犬のせいでケガをしていたハーゲンは人に噛み付きもして処分の対象にされ、連れ出されるけれども、ここでハーゲンは連れ出した施設員を噛み殺し、他の野良犬らと共に施設を脱走する。
 一方警察に補導されたリリを引き取った父は、自分のリリへの接し方が間違っていたことに気付き、彼女の人格を認めた接し方をするようになる。そんなとき、町中にハーゲンら野良犬の一団が暴走していた。首領格らしいハーゲンは、他の野良犬を引き連れて、ちょうど行なわれていたリリらの演奏会会場へと集まることになる。ここでなぜかはわからないけれどもリリは自転車で一人、もはや誰も外を出歩かなくなった町を走り抜ける。そのあとを犬の群れが追って行く。リリの自転車が転倒しても犬たちはリリを追い抜いて行く。ハーゲンの目的は、それまで自分をヒドい目にあわせて来た人間たちへの復讐のようで、次々に人々をその牙にかけていく。リリとめぐりあったテリアはリリを案内しようと先導するけれども、反撃を始めた人たちに撃ち殺されてしまう(かわいそう)。父の身の上を案じたリリは父のもとへ急ぎ、そこでついに、犬たちのリーダーとなっているハーゲンに巡り会う。リリはバーナーの火で犬らを追い払おうとする父を止め、ハーゲンにトランペットで「ハンガリアン・ラプソディ」を吹いて聴かせるのである。ハーゲンのささくれ立った心はおさまるのだろうか、みたいな。

 あら、あらすじ全部書いてしまった。う〜ん、よくわからないところもいろいろとあるのだけれども、とりあえずはかなり面白く観ることができた。ここに血統種ばかりを優遇するペット産業への批判があるとするなら、今のわたしは諸手を上げて賛意を表したいし、不備のある法律で取りこぼされ、虐げられた弱者の叛乱の寓意ととらえてみても、やはり賛同出来るだろう。視点がリベラルである。
 そして、こうやって多くの犬を使っての演出には、やはり迫力がある。ある意味、ただ走っているだけの犬たちを、こうやってそこに意志があっての行動のごとく見せるのは、撮影や編集での苦労があったことと思うけれども、SFXなど使わずにこうやってやり遂げたこと、賞賛されるべきだろう。一方で少女リリの成長の物語、その父親との関係ということでみれば、これはちょっと通り一遍というか、食い足りないという感想にはなってしまうけれども。

 なんでもこの映画に出演した犬たちは皆、じっさいに保護施設から調達された犬がほとんどだということだけれども、この映画撮影後、すべての犬に「里親」が見つかったのだという。これがいちばんいいニュースだ。あのテリア犬がかわいかったなあ。


 

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■ 2017-01-27(Fri)

 今日からわたしは三連休。天気予報では今日の日中は気温も上がり、三月の陽気になるだろうといっている。でもなんだろう、部屋の中にいてもあまり暖かいという感じはしなくって、やっぱり暖房をつけてしまったりする。

 今日は図書館へ行き、そして帰りに市役所へ寄って、自立支援医療手帳の指定医療機関をまた書き換えてもらうことにする。
 今はずっと「わたしの名は紅」を読んでいるので、他の本を読む余裕などないのだけれども、借りていた本を返却しに行くと、どうしても書棚をぐるりとまわってみてしまう。そうするとやはり気になる本も見つかるわけで、「読めなくともとりあえず」みたいに借りてしまう。
 今気になっている本といえばメルヴィルの「白鯨」があるわけで、この図書館には筑摩の世界文学大系のメルヴィルの巻と、集英社ギャラリー「世界の文学」のアメリカの巻のものと、二冊の「白鯨」がある。どちらがいいかとちらりと開いてみて、やはり世界文学大系の方が挿画付きだからいいやと、単純な理由でそっちを借りる。ちなみにこの世界文学大系版、わたしは二十歳ぐらいの頃にこの版で読んだ記憶がある。もちろんきっとも記憶してはいないけれども、それは今のわたしの脳の疾患のせいではない。ま、とりあえずは「解説」ぐらい読めればいいかなという気もち。
 あとは、ずっと読みたいと思っている村田紗耶香の「コンビニ人間」がいつまでもいつまでも貸し出し中なので、芥川賞受賞時の、その全文掲載された「文藝春秋」を借りることにした。それともう一冊、「パルテノン・スキャンダル -大英博物館の「略奪美術品」-」という本。この本を書いた朽木ゆり子さんという人がフェルメールについて書いた本は、わたしの部屋のどこかに転がっているはずだ。
 図書館の帰りには予定通り市役所に立ち寄り、スムースにことがらを進めることが出来た。これで万事順調である。

 今日の昼食は昨日のようにキムチ納豆ご飯ではなく、インスタントラーメンをつくって、そこにキムチを入れてみた。これはこれでおいしいというか、キムチというものもなかなかに役に立つものだと思ってしまった。
 食べてしまうと「もう寝てしまおうか」というのは昨日と同じで、また昼寝。今日は二時間ぐらいの昼寝で、そのあとは起き出して録画した映画を観て、夕食にした。夕食は昨日と同じくレバニラ炒め。だいたいひとりで食事していると、材料を買っても量的に二回分ぐらいになるので、つづけて同じ材料での惣菜をつくることになる。そういうところで多少アレンジして、「今回は調理法を変えてみたらこんな味になった」みたいなことがあればおもしろいだろうけれども、レバニラ炒めはレバニラ炒め。冒険はしないのである。


 

[]「人斬り」(1969) 司馬遼太郎:原作 橋本忍:脚本 五社英雄:監督 「人斬り」(1969)   司馬遼太郎:原作 橋本忍:脚本 五社英雄:監督を含むブックマーク

 幕末の土佐藩、京都で名を馳せた「人斬り以蔵」こと岡田以蔵を勝新太郎が演じる歴史活劇。同じ土佐勤皇党の武市瑞山(仲代達矢)に「邪剣の人斬り」として、その「犬」として体よく利用されつづけた以蔵、つまりは必死で自分のアイデンティティーを求めて武市の支配から逃れようとするが、どこまでもその望みはかなわない。ついには情勢の変化に乗じて、自分の命と引き換えにしても武市を裏切ることで、すべての幕を下ろすことにする。

 わたしは「幕末モノ」というものは基本的にダメで、それはその映画とかの作品の外で、作品では描かれなかったことに関しての観客の知識をあまりに要求しすぎているからで、つまりはわたしが幕末の日本の情勢について無知だということにも由来するのだけれども、この映画でも説明もなく「坂本龍馬」が登場して、説明もなく「この男が坂本龍馬である」ということでストーリーが展開していく。そういうのはちょっと、わたしとしては困ってしまうのである(いくらわたしでも、坂本龍馬のことを知らないというわけではないのだけれども)。

 だから時代が幕末だとかそういうことを抜きにしてこの作品を考えて、つまりはこの「人斬り以蔵」というのは、テロリストだよね。「我は知る、テロリストの哀しきこころを‥‥」みたいなものというか、政治的に無知ながらも政治組織に利用され、その政治組織の「方針転換」に振り回される。そういう哀愁というのか、哀れさはこの勝新太郎の演技で伝わってくる。

 いちいち構図のばっちり決まったビスタ・サイズの画面がカッコいいのだけれども、美術もいい仕事をしているし、こういう五社監督の美意識というのはけっこう好きで、絵を観ているだけで楽しめるところはある。ただ、「血がドバッ!」っていう演出は、黒澤監督の「椿三十郎」以降の時代劇で、黒澤監督のいった「悪しき影響」ではあるだろうと思う。


 

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■ 2017-01-26(Thu)

 今日も、昨日と同じような寒さ。空は晴天だけれども、冷たい、凍りついたような青。わたしは明日から非番の日がつづき、三連休になる。つまり、今日しごとが終わったところから連休が始まるという感覚なのだけれども、特に出かける予定もない。せっかくの三連休なのだから、いちどぐらい外に出て遊んで来たいと思う。するとちょうど高田馬場の映画館から案内のメールが来て、土曜日からイーストウッド監督の「ハドソン川の奇跡」と、イエジー・スコリモフスキ監督の「イレブン・ミニッツ」との二本が公開されるという。どちらも評判になった作品で、もちろんどちらも観ていないものだから、この際コレを観に行ってみようかと思う。これで三連休の予定も出来たので、ひと安心。

 今日は木曜日なので買い物デー。まずは北のスーパーで玉子などを買い、そのあと久しぶりに、西のスーパーに行ってみた。このスーパーは南のスーパーと同列店なのだけれども、ディスプレイとか広告とか包装とか簡素化し、格安の商品を並べ、南のスーパーよりは全体に安くなっている品が多い。例えばドレッシングなんか、南のスーパーは二百円近い商品しか置いていないのだけれども、西のスーパーへ行くと百円ぐらいのものがいっぱい並んでいたりする。西のスーパーの方が安いのはわかっているんだけれども、何から何まで安いわけでもないし、ついウチからは近場の、南のスーパーを優先してしまう。
 今日西のスーパーに来たのは目的があって、南のスーパーに置いていない安いマヨネーズを買うため。あとは、今夜はレバニラ炒めをやるつもりなので、ニラも買う。店内を見回していると、さっき北のスーパーで単価百円で買った「皿うどん」が、メーカーは違うけれども78円。今日は一割引きになるから、税抜きで約70円である。一個につき30円も損してしまった。二個買ってしまったから、つまり60円の損。普段は飲まなくてもいい缶コーヒーを飲んだり、60円ぐらいの無駄遣いはいつも平気でしているのだけれども、こういうのはけっこうショックである。

 さて、今日の昼ご飯は、買ってあるキムチをどうするかという課題がある。ネットで「キムチをおいしく食べる方法」とか調べると、「キムチ納豆」などということばが頻出してくるので、「それではソレをやってみよう」ということにした。納豆とまぜるにはキムチは少し大きすぎる気がするので、小さく刻んでから納豆と混ぜ、卵黄も入れてかき混ぜ、こいつをご飯にかけて食べてみる。‥‥うん、コレはおいしく食べることができた。七味唐辛子とかを加えると、わたし好みの辛さになる。まだ納豆は二パックあるから、つづけてやってみよう。

 昼食のあとはベッドで本を読んでいて、思っていたとおりにそのまま寝てしまい、目覚めたときはもう薄暗くなっていた。もう食事の時間。‥‥こういう、昼食をとってそのあとはただ寝ているだけで、目覚めたらすぐに夕食というのは、あんまり健康には良くないような気がする。
 とにかくは「レバニラ炒め」。これも、「料理する」というようなものではない。ただ血抜きしたレバーとニラを炒め、市販の焼肉のタレで味付けをして、おしまいにもやしを加えてさらに炒めておしまい。「味付け」に工夫すればオリジナルな感じも出て、「料理した」という感覚になるだろうけれども、いろいろやってみてけっきょく、市販の焼肉のタレでの味付けがかんたんで、いちばんおいしいように思う(わたしの料理の腕のもんだいもあるだろうけど)。


 

[]「フィラデルフィア」(1993) ジョナサン・デミ:監督 「フィラデルフィア」(1993)   ジョナサン・デミ:監督を含むブックマーク

 ジョナサン・デミ監督が、「羊たちの沈黙」の次に撮った作品。この作品では、主演のトム・ハンクスがアカデミー主演男優賞を受賞している。共演はまだ若き日のデンゼル・ワシントン。

 主人公のベケット(トム・ハンクス)は一流の法律事務所に勤める有能な弁護士だったけれども、あるときに同僚に額にアザが出来ていることを指摘される。ベケットはごまかすが、同僚はそれがエイズによるものと判断するようだ。その後ある重要な案件で、ベケットが任された書類が行方不明になり、ベケットの責任とされ、解雇される。じっさいにベケットはエイズに感染していて、会社はそのせいでベケットをはめて解雇の理由をつくったとベケットは判断する。ベケットは会社を相手取って訴訟することを決め、以前いっしょに仕事をした、個人法律事務所の弁護士のミラー(デンゼル・ワシントン)に助けを求める。ミラーはそれまで「握手でもエイズに感染するのではないか」というような偏見にとらわれていたけれども、その偏見を解き、世間の偏見に苦しむベケットの姿を見て、彼の訴訟を手助けすることにする。

 原告も被告も、もちろん原告の弁護も被告の弁護も皆が弁護士業という、奇妙なシチュエーションの裁判が始まるけれども、この映画、その法廷シーンで劇的な(映画的な)展開があるわけでもなく、演出としてはそのリアルさを追求しているように思える。そんな法廷の中で、衰弱して行きながらも毅然とした姿勢を示すベケットの姿が感動を呼ぶ。被告側の弁護士(メアリー・ステーンバーゲン)も、「こんな仕事はいや」と独白するし、かつての社員は「自分の行為を一生悔いるだろう」ともいう。

 ジョナサン・デミ監督というと、もちろん傑作「羊たちの沈黙」を思い浮かべるけれども、わたしにはトーキング・ヘッズのライヴのドキュメンタリー「ストップ・メイキング・センス」の監督でもあり、彼の音楽センスというものには同調するというか、惚れるところがある。この作品でもブルース・スプリングスティーンの「フィラデルフィア」という曲も印象的だったり、ニール・ヤングの曲やピーター・ゲイブリエル、シャーデーらの曲が使われていたりして「さすが」という気もするのだけれども、やはり、この映画のいっちばん素晴らしいシーンは、ベケットが自宅でミラーと共に、彼の愛するマリア・カラスのオペラを聴くシーンだろう。ウンベルト・ジョルダーニ作曲の「アンドレア・シェニエ」からの第三幕、「亡くなった母を(La mamma morta)」がフィーチャーされ、室内の照明も、音楽に合わせて燃えるように赤く変化して行く。音楽を愛する人の、その「音楽を愛する」ということをみごとに描いた、美しいシーンだと思う。さすがにジョナサン・デミと、喝采したくなった。


 

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■ 2017-01-25(Wed)

 今朝は昨日ほど冷たい風が吹いていたわけではないけれども、気温が低い。朝の仕事は、まったく暖房など効いていない、戸外と同じような倉庫の中。足元から冷たくなって来て、「しもやけ」になってしまうのではないかと思った。

 寒いと外に出かけるのもおっくうで、なかなか「よし、出かけよう」という気にならない。今Cさんが日本橋でグループ展をやっているのにお誘いを受けているし、Aさんとも「二月ぐらいになったら」と連絡したきりになっている。Dさんともそろそろお会いしたい頃合いだし、出かけるようになれば、いろいろと連続することになるのではないかとも思う。人に会ってあれこれと話をするのはいいことだ。わたしには今、人に相談しておいた方がいいような、話しておいた方がいいようなことがあれこれとある。

 映画も美術展も、観ておきたいものはあれこれとあったりしたのだけれども、気がつくともう終わってしまっていることばかり。このあいだは新宿で溝口健二監督の「噂の女」をやっていて、これは前から「観に行きたい」と思っていたというのに、ふと気がつくと、もう上映は終わってしまっていた。これはかなりガックリ来てしまった。
 まだ新しい年が始まったばかりで、いつも活用しているスケジュール帳も新しいものになり、そのスケジュール帳をフル活用出来きれていない。そのあたりに、うまくスケジュール管理出来ていない原因があるのだと思う。

 寒いので、しごとから帰ったあとは一歩も外に出ず、ジャック・ドゥミのミュージカルを二本つづけて観たのだけれども、そのあとに買い物しておく必要なものがあったのを思い出し、しょうがないので近くのドラッグストアへ出かけた。店内をみてまわると、賞味期限の迫ったキムチが半額で売られていたのを見つけ、「とにかくは安いから買っておこうか」と、いつもの貧乏人根性で買ってしまった。帰宅してから昨日と同じく鶏肉の水炊きで夕食にしたのだが、「ちょっと食べてみよう」と開けてみたキムチ、これはやはりわたしの好きな食べ物ではない。これはただキムチだけ食べるのではなく、何か工夫してみないとおいしく食べられないだろう。明日から考えてみようと、さっさと冷蔵庫にしまうことにした。とりあえず水炊きは今日でおしまい。明日のご飯はどうしようかと考え、鶏とか豚のレバーがかなり冷凍庫でかさばっているので、「レバニラ炒め」でもやってみようかと考える。キムチは何か昼食のおかずに使うことを考えよう。
 食事のあとはもう寝るだけ。ベッドに横になって、読んでいる「わたしの名は紅」を読み継いでいるとそのうちに眠くなってしまう。枕元の明かりを消して寝ようとしていると、明かりが消されたのを合図にしたように、ニェネントがベッドの布団の上に跳び上がってくる。けっこう重たい。ニェネントはしばらくわたしの上でモゾモゾやっているけれども、そのうちにわたしの脇に移動して、そこで寝る体勢に入る。「ああ、ニェネントももうお休みだな」と思っているうちに、いつの間にかわたしも寝てしまう。


 

[]「シェルブールの雨傘」(1964) ミシェル・ルグラン・音楽 ジャック・ドゥミ:監督 「シェルブールの雨傘」(1964)   ミシェル・ルグラン・音楽 ジャック・ドゥミ:監督を含むブックマーク

 この映画の記憶もないのだけれども、この日記で調べると2012年に観ていることがわかった。それで、いろいろと調べていると面白いことがあれこれと出てくる作品で、まずはこの映画の製作のマグ・ボダールという人、先日観たブレッソンの「バルタザールどこへ行く」の製作の人でもある。そして美術担当のベルナール・エヴァンという人物、この人はもう、フランスのヌーヴェルヴァーグを美術面で支えていたような人物で、Wikipediaによるとジャック・ドゥミ監督とはエコール・デ・ボザールで同級生だったらしい。ルイ・マル(恋人たち)、トリュフォー(大人は判ってくれない)、シャブロル(いとこ同志)、ゴダール(女は女である)、アラン・レネ(去年マリエンバートで)などなど、彼の関わった作品はそのままフランス映画史を構成しそうである。中でもゴダールの「女は女である」は音楽もミシェル・ルグランだし、この「シェルブールの雨傘」と並べて考えたくなってしまう作品。ここではシーンごとに、セッティングされた街並の原色基調の色彩と、登場人物らの衣裳の色彩とをマッチさせ、町の風景を夢みるような世界に変貌させている。

 この作品がどこまでセットを使って撮影されたのか、どこまでシェルブール現地ロケで撮影されたのか、どうも観た感じはほとんど現地ロケなんだろうと思う。そんな街並に大胆な色彩設計をほどこし、美しいライティングでシェルブールを「夢の町」のように変身させたこの演出、みごとだなあと思う。
 そう、そういう町の中は舞台の書き割りのような美術でその姿を変えているみたいだけれども、第二部の「別離」での、シェルブール駅の「駅」そのまんまのリアルな感じが、この作品でひとつポイントになっている感じがする。「ミュージカル」といっても、ただセリフにメロディがつけられて歌になっただけの、ダンスシーンなどというもののないこの作品で、この駅での別れのシーンのリアルさと、そして美しいメロディの歌とのかもし出す、この映画だけ、ワンアンドオンリーの哀しさ、美しさ。
 そして、そのシーンと対をなすような、ラストの雪のクリスマスのガソリンスタンドのすばらしさ! ここに、「まさに映画だなあ!」という、奇跡のような美しさがあると思った。


 

[]「ロシュフォールの恋人たち」(1967) ミシェル・ルグラン・音楽 ジャック・ドゥミ:監督 「ロシュフォールの恋人たち」(1967)   ミシェル・ルグラン・音楽 ジャック・ドゥミ:監督を含むブックマーク

 「シェルブールの雨傘」がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞して大ヒットし、贅沢な予算を組むこともできるようになり、それでつくられたミシェル・ルグラン/音楽、カトリーヌ・ドヌーヴ/主演という、続編のようなミュージカル。でも内容はまさに「ミュージカル」で、ダンスも満載、ストーリーもめっちゃ明るいポジティヴなもの。

 とにかく予算はたっぷりあるものだから、「ミュージカルならこの人」という感じで、アメリカからジーン・ケリーもジョージ・チャキリスも呼んじゃうし、この主役のカトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアック姉妹、当初はオードリー・ヘップバーン&ブリジット・バルドーとか、とんでもない配役も検討されていたとか。今考えると「そりゃないだろう」という感じで、ドヌーヴ姉妹に落ち着いてめでたしめでたし、という気もするのだけれども、その他のフランス勢も、ダニエル・ダリューだとかミシェル・ピコリだとかの顔ぶれ。この人たちは踊らないけれどもね。

 ここでも、じっさいにロシュフォールの町でのロケーションが行なわれていることは観ればわかるのだけれども、この作品の撮影は「バルタザールどこへ行く」で観たばかりのギスラン・クロケだったりして、「器用な人だなあ」などと感心してしまう。街角を最大限に利用しての、ダンスを交えての長廻しとか、さすがなものだなあと思ってしまう。

 物語はもう、それぞれの男女が「運命の出会い」を待っているという感じで進行して行き、こりゃあラストは出演者ら全員がそろって、壮大な歌とダンスの大団円になるんだろうなと思って観ていて、きっとラストはまた「双子姉妹の歌」なんだろうな、などと思っていたんだけれども、その期待はみごとに裏切られてしまった。カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアック姉妹のさいごの見せ場は日曜の祭りの舞台で、ミュージカルとしての派手さもあるだろうけれども、日中の自然光で撮られたこのシーンがクライマックスのひとつというのは、ちょっと意外だった。このあとにフランソワーズ・ドルレアックとジーン・ケリーとの出会い、ダニエル・ダリューとミシェル・ピコリとの出会いがあって、ちょっと大団円風の展開にはなるのだけれども、「じゃあカトリーヌ・ドヌーヴはどうなるの?」みたいな置いてけぼり。それでラストはあらら、ミュージカルのラストっぽくはないというか、フランス映画風というのかな、そういうエンディング。

 ダニエル・ダリューとミシェル・ピコリとはむかしから知り合った仲で、「感動の再会」というところだし、大音楽家であるジーン・ケリーに見初められたフランソワーズ・ドルレアックの将来もバラ色、というところでしょう。しかしそんな中でカトリーヌ・ドヌーヴの「運命の」相手は、除隊したばかりの画家志望の若者(これがジャック・ペラン)。彼の絵は町の中のギャラリーでみることが出来たのだけれども、これがもう、死ぬほどにドイヒーな絵で(まあドヌーヴに似てることは似てるけど)、「予算があるんだったらもうちょっとどうにかならなかったのか」というようなシロモノで、なんだかこの映画のカトリーヌ・ドヌーヴの未来も暗鬱なるものがあるなー、などと思ってしまうのでした。

 ミシェル・ピコリの楽器店のカウンターに、モーツァルトと並んで「スゥイングル・シンガーズ」の名前が読めるのが、「クスッ」って感じではありました。


 

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■ 2017-01-24(Tue)

 風が冷たい朝。「寒い」というよりも、「冷たい」。毎朝のしごとがつらく感じる時期。しごとを終えて家に帰るとホッとして、「もう外には出たくない」と思う。
 和室ですわってパソコンに向かっていると、ニェネントがわたしの目の前の「お立ち台」に上がって、外をじっとみている。「キミにはわからないだろうけれども、外は風が冷たいんだよ」。わたしにしっぽを向けて外をみているニェネントの、そのお尻のあたりにそっと指を伸ばし、チョンとお尻にふれると、びっくりしたニェネントは、大げさなまでに体を「ビクッ!」とさせる。そのおどろき方がおもしろいので、ちょっと時間をおいてもういちどやってみるのだけれども、ニェネントはもうそういうことをされるのを予測しているのか、特におどろきもせずに平然としている。

 昨日の食事はありモノの缶詰とかあれこれで、いいかげんに済ませてしまったのだけれども、今日は何かマトモなものを食べたくもなったし、午前中に南のスーパーに買い物に出た。やはり風が冷たく、何か温かいものを食べたくなる。スーパーの中をぐるっと廻ってみて、小振りな白菜が安く売られていたのをみて、「今日はまた水炊きにしようか」と思ってその白菜を買い、となりのドラッグストアで豆腐を買うことにした。このあたりの店で、豆腐がいちばん安いのはこのドラッグストア。店に入ってみると、「稀勢の里優勝記念セール」と書かれたポスターが貼られていた。「へぇ〜、やっぱりそういうことをやるんだね〜」と店内をみてみると、カップ麺の「ちゃんこラーメン」とかいうのが山積みにされていて、コレがセールのメインみたいだった。ま、買おうとは思わなかったけれども。

 そういうわけで、夕食は鶏肉を使っての水炊き。これもあんまり本格的な料理などといえたものではないが、ネギをたくさん入れると体が温まる気がする。まだネギも鶏肉も豆腐も残っているので、明日もまた水炊きにしようかと。


 

[]「リアル 〜完全なる首長竜の日〜」(2013) 乾緑郎:原作 田中幸子・黒沢清:脚本 黒沢清:監督 「リアル 〜完全なる首長竜の日〜」(2013)   乾緑郎:原作 田中幸子・黒沢清:脚本 黒沢清:監督を含むブックマーク

 この日記で検索すると、わたしはこの映画を2013年の6月に映画館で観ていることになっている。この時期の記憶というのはわたしにとっていちばんヤバい時期で、この映画を観たことも記憶にないし、もちろんその内容もこれっぽっちも記憶に残っていない。

 Wikipediaで黒沢清のフィルモグラフィーをみると、この作品は2008年の「トウキョウソナタ」に次いでの作品で、そのあいだに五年のブランクがあるのが気にかかる。なんでもこの時期、黒沢清監督は日中共同製作の「一九〇五」という作品を撮る予定だったらしいのだけれども、尖閣諸島問題で主演を予定されていたトニー・レオンが降板するなど撮影が進まず、このおかげで製作・配給のプレノン・アッシュは倒産してしまったらしい。
 ただ、「一九〇五」クランクイン予定の2013年には、すでにこの「リアル」は撮影が終わっていたようなので、「一九〇五」製作のトラブルが黒沢監督の五年のブランクの原因というわけでもないみたいではある。けっきょく、その黒沢監督のブランクの原因はわからないのだけれども、この「リアル」にしても、製作側が「この原作を映像化出来るのは黒沢監督しかいない」と請われてのことだったようで、「回路」につづいての東宝配給作品になっている(企画・製作はTBSテレビ)。

 作品は人の内面世界、精神世界を映像化するというような、クリストファー・ノーランの「インセプション」のことをどうしても思い浮かべてしまうもので、そのあたりのことは製作側でも期待しての黒沢監督への依頼だったみたい。黒沢監督は「トウキョウソナタ」でも組んだ田中幸子と協力して脚本を書き、それは原作の設定からずいぶんと離れたものになったということ。

 作品は監督の「回路」につづいてVFXを多用した作品になっていて、前半の世界観、映像にはどこか「回路」に似通ったところも感じられるけれども、「リアル」な現実世界と非現実である内面世界とが干渉し合うような展開、表現は興味深かった。いわば精神世界の中での「回路」というようなところもあるだろうか。そしてそして、ラストにはまさに「首長竜」が登場し、「ジュラシック・パーク」???みたいな(そんなことはないが)展開になったりする。ここでまさに「現実」と「非現実」との干渉がクライマックスになり、映像の完成度の高さが観る視線を引っぱって行く。
 わたしは観ていて、「相手(愛する人)の内面に到りたい」とする、ある意味で普遍的なテーマをあつかったものとして、そこにあらわれる相手の姿が「自分がよく知っていたと思っていたのに、自分にはわからない謎を抱えていた」というような展開をとっても面白く観た。なぜかヒッチコックの「めまい」とかを思い浮かべてしまったのはなぜだろう。
 黒沢監督の作品にはおなじみの、スクリーンプロセスによる車中のショットもやはりいいポイントで使われていて、つまりはこういう「浮遊するような車中の描写」というのは、黒沢監督の永遠のテーマをあらわすものだろうかと思ったりもする。

 ドラマの中での「現実」と「非現実」とのせめぎ合いで、「これこそが<リアル>」とでもいうように登場する、上野の科学博物館の首長竜の化石標本。天上から吊るされたその骨格標本が、ラストの「非現実」の首長竜の登場を予感させる。美しいショットでもあったと思う。

 映画の中に「センシング」というものを行なう医療(?)機器が登場し、これはじっさいに一千万とかの金をかけて現物を作成したらしいのだけれども、じっさいについ先日に脳の検査のためにMRIとPETの検査を受けた身からいうと、やはりドーナツ型の輪の中に頭を突っ込む形式の方が、リアルだろうとは思うし、そのセンシングを行なう病室(?)が雑然とした感じだったのは、なんだかちょっと違和感があった。しかしここで登場する中谷美紀の、現実なのか非現実なのかわからない感じの不気味さには惹かれた。


 

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■ 2017-01-23(Mon)

 夜中に夢をみて目覚め、奇妙な夢だったのでメモを取ってからまた寝たのだけれども、目覚めてそのメモを読んでみても、まったくイメージがよみがえってはこない。ただ、こういう夢をみたらしいと、メモを書き写しておく。
 その夢のなかでわたしはどこにいるのかわからないのだが、男と女とで、何か謎のような仕事をしている。男はその仕事に関係する、先日起きた出来事の意味がわかっていない。何とかしようと、「お茶でも飲みに行こう」と女を誘う。二人で行った喫茶店には、男の知っている別のメンバーらがいる。女が腕で血圧を測りながら、「わたしには他の仕事をさせて」というのだが、そんなことは男の一存ではどうすることもできない。そんな夢だった。

 今図書館からもう一冊、脳に関する本を借りていて、タイトルは「海馬 脳は疲れない」というものだった。海馬に関する本ならば読んでみようと、あまり内容とかよく見ないで借りて来たのだけれども、今日になって、ざあっと読んでみようとその本をよく見てみると、池谷裕二という海馬の研究をされている方と、糸井重里との対談からなる本だった。‥‥わたしは糸井重里という人にあまりいい印象を持っていないので、「しまった、糸井重里が絡んでいる本だとわかっていれば借りなかったのにな」と思ってしまう。でもそういう「印象」というのは勝手な思い込みで、理由のないものかもしれないし、とりあえず読んでみようかとページをくくってみた。そうすると、やはりダメである。「何、この男」という感じが、その発言の隅々からほとばしり出ている。どうもなんというのかこの人物、「頭の良い人物がわざとバカな振りをしている」という人物像を演じているようなところがある。つまり、バカなことをいっても「実のところはオレは頭がイイのだ」という態度ふんぷんたるところがある。やはりわたしは糸井重里が大嫌いなのだということをあらためて認識したところで、この本を読むことはやめた。


 

[]「フライト」(2012) ロバート・ゼメキス:監督 「フライト」(2012)   ロバート・ゼメキス:監督を含むブックマーク

 今日はなぜか、デンゼル・ワシントンの主演する映画を二本つづけて観てみた。まず一本目は、アルコール依存症だけれども操縦の腕は超一流だったという旅客機のパイロットを演じた、「フライト」という作品。なんでも、監督のロバート・ゼメキスはこの脚本に惚れ込んで、実写映画としては12年ぶりにメガフォンを取った作品だとか。

 ‥‥たしかに、ストーリー展開は面白い。普通に考えれば、主人公がアルコール依存症だったことは旅客機が制御不能になったことの原因ではないし、逆にその制御不能の航空機をあやつって多くの乗客の命を救ったことは純粋に賞賛されてしかるべきだろう。しかし、酒を飲んで、コカインまでキメてコックピットに搭乗することはまさに「有罪」ではある。でもだからといって、そのことで「過失致死罪」を負わなければならないものなのか。主人公が酒を飲んで搭乗していたことと、その操縦技術で多くの乗客の生命を救ったこととの矛盾というのか、そういうことがこの映画の背後にあるから面白いのだろう。

 そしてさらに、この映画では宗教的な視点を多く取り込んでいる。まずひとつ、滑落する旅客機は教会の尖塔を破壊して、その教会の敷地に落ちるわけだし、旅客機の客室乗務員のマーガレットは、そのフライトのあとは教会へ行く予定だったことも語られている。そして、多くの登場人物が「神」のことを語る。事故で下半身不随となった副操縦士は、主人公ウィトカーが見舞いに病室を訪れた際、その妻と共に「事故は神の意志だった」と語り、搭乗時にウィトカーがジンのにおいをプンプンさせていて、飲酒していたことを知っていたものの、そのことを責めようとはしない。そのあとの乗務員の葬儀もまた、つまりは宗教的儀式でもあるだろう。
 そして、ウィトカーが病院内で喫煙しようと非常階段へ行ったとき、そこでやはりタバコを喫いに来た二人の人物に出会う。ひとりは薬物依存症で病院にいたニコールで、もうひとりは名もわからぬ末期ガンの患者。末期ガン患者は、ニコールとウィトカーとのそこでの出会いが「神に決められた運命的な出会い」だという。じっさいに退院したウィトカーはニコールを訪ねて行き、わずかな期間ニコールはウィトカーの避難場所でいっしょに暮らす。ウィトカーはニコールとジャマイカへ逃げることを考えるのだが、ニコールは酒をやめられないウィトカーの元を去っていく。

 ここにもうひとり、そういった人物とは対照的な人物がいる。ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」をバックにあらわれるハーリン(ジョン・グッドマン)で、彼はウィトカーへのヤクの売人であり、そのヤクのおかげでウィトカーは飲酒状態を隠すことが出来る。まさに彼の存在は「悪魔の誘惑」であろうし、ラスト近くにもういちど、このハーリンの出番がやって来る。
 パイロット組合と組合の雇った弁護士とのおかげで、ウィトカーはあと一歩で「フライト前の飲酒」の事実を隠蔽することが出来たのだけれども、そこでウィトカーは「神よ、助け給え」と、真実への道を歩み始める。

 ジョン・グッドマンの登場シーンはコミカルで、全体にシリアスな調子のこの作品の中で浮いている感じもするのだけれども、わたしがジョン・グッドマンに期待するのはまさにこういった役どころでもあるので、「ま、いいか」って感じ。そもそも、終盤の彼の登場では、その前のウィトカーの「禁を破っての飲酒」という展開も相当にコメディじみているところがあるので、あまり違和感もない。悪魔というものはこうやって、滑稽な身振りで登場するものなのかもしれない。

 3DCGを取り入れるのが得意技になっているらしいロバート・ゼメキス監督、冒頭の旅客機滑落に到る描写はさすがのものというか、カット割りもみごとなものだし、その後の人間ドラマの演出もうまいものだと思った。そうそう、音楽で、Cowboy Junkiesヴァージョンの「Sweet Jane」が流れたりしておりました。


 

[]「トレーニング デイ」(2001) アントワーン・フークア:監督 「トレーニング デイ」(2001)   アントワーン・フークア:監督を含むブックマーク

 今度は、デンゼル・ワシントンが悪徳刑事を演じるクライム・サスペンスで、この作品でデンゼル・ワシントンはアカデミーの主演男優賞を得たらしい。

 物語は、その日からロス市警の麻薬取締課に配属されたジェイク(イーサン・ホーク)の視点で描かれて行く。彼はベテラン捜査官アロンゾ(デンゼル・ワシントン)の下に付き、そのさいしょのうちこそは型破りな彼の捜査法にしたがって行くのだけれども、だんだんに彼への不信感をつのらせて行く。一方、アロンゾはアロンゾでそのとき、追いつめられた自分の情況を打破するために、ひとつの計画を実行しようとしていた。

 ジェイクの視点で描いているから、観ているこちらも「そういう捜査法というのもアリなのかもしれないな、そういうことに馴れてこそ一人前の麻薬捜査官になれるのかもしれない」「アロンゾはめっちゃ型破りだけれども、それは有能であることの証しなのだろうか」などと思いながら観るのだけれども、だんだんに「こりゃいくらなんでもマトモじゃないぞ」と、ジェイクと同じく思うようになる。そしてようやく、アロンゾが何をやろうとしているのかがわかることになる。というか、アロンゾはジェイクをも消そうとしていたのである。長い長い一日はまだ終わらない。

 キメキメの悪役を演じるデンゼル・ワシントンは、実に楽しそうに演じているようにもみえるけれども、わたしは映画が始まるときからだんだんに、その表情を変えていくイーサン・ホークがいいなあ、と思った。もうラストの彼の顔つきは冒頭の彼とは別人である。

 しかし思ったのだけれども、このラストでイーサン・ホークがデンゼル・ワシントンに勝ち、彼を「死」に導き、彼が納めるはずだった何百万ドルという大金が今はイーサン・ホークの手元にあることを知っている人物は、もう誰もいないではないか。デンゼル・ワシントンがほかの悪徳警官らと策略した売人元締(スコット・グレン)殺しは、すでに本署へ連絡済みで「一件落着」になっているし、デンゼル・ワシントンがロシアン・マフィアに撃ち殺されたことは、ほかの悪徳警官にとっても「しょーがなかった」みたいなことであり、疑惑を抱くようなことがらでもないだろう。つまり、イーサン・ホークは、デンゼル・ワシントンから奪った何百万ドルという金を、自分のものにすることもできるわけである。
 ま、この映画を観る限り、彼がそんなことをやらかすとは思えないけれども、そういう可能性をも考えさせるということは、演出の上でどこまで計算されているんだろうか。


 

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■ 2017-01-22(Sun)

 今、図書館から借りたオルハン・パムクの「わたしの名は紅」を読んでいるのだけれども、この600ページを超える書物を、図書館の返却期限までに読み終える自信はまるでない。もちろん複数回借りて読めばいいのだけれども、先日読んだ同じオルハン・パムクの「雪」がわたしには異様に面白かったこともあるし、このところの読書体験では特筆すべき体験でもあった。つまり、読んでいても前の日まで読んでいた内容を忘れてしまうようなこともなく読みつづけることが出来、読み終えた今でも、その内容はかなりしっかりと把握している(つもりである)。こういう読書体験というのは、わたしに脳の障害が出てからおそらくは初めてのことで、何か特別なことに感じてしまう(ちなみに、そのあとに読んだスティーヴンソンの短編集、やはりいつものように、いくつかの作品はもう思い出すことができない)。そういうことで、この「わたしの名は紅」も、手元に置いておいて、返却期限とか気にせずに読み進められる方がいいのではないかと考え、Amazonの中古本で注文した(新本だと3700円もするし、中古なら送料を入れても700円ぐらいだから)。その本が昨日、無事に到着した。はたして今回もスムースに読み継ぐことが出来るだろうか。はたしてオルハン・パムクは、わたしには「特別な」作家なのだろうか。

 そのオルハン・パムクの「雪」だけれども、Amazonのユーザーレビューをみると、その翻訳がすっごく評判が悪い。これはちょっと「びっくり」だった。わたしも「雪」を読んだとき、「特異な文体を選んでいるものだなあ」とは思ったけれども、おそらくそれは原作の文体を意識してのものだろうと思ったし、馴れてしまえば特に気になるものでもなかったし、その内容はちゃんと把握することが出来た。こういうものを「翻訳が悪い」とはいわないだろう。「悪訳」というものはもっと別のもので、その「雪」の和久井路子さんの訳文は、日本語というものを可塑化したようなところがあって、逆に「名訳」といわれてもいいものではないかと思った。

 ドナルド・トランプの大統領就任から二日経ち、アメリカだけでなく、世界中で「反トランプ」のデモが行なわれているという。「世界にとっての脅威」トランプを、世界はあと四年間やり過ごせるのか。夜のテレビで、アメリカの「キリスト教原理主義者」らのことを紹介しているのを、少しだけ見た。トランプ=キリスト教原理主義というわけでもないけれども、アメリカの保守層というものの「とてつもなさ」には、あらためて驚愕してしまう。そういうわたしは、「ネコ原理主義者」ではあるが。

 

[]「妄想科学小説」赤瀬川原平:著 「妄想科学小説」赤瀬川原平:著を含むブックマーク

 図書館で借りた本。赤瀬川原平が1976年から79年にかけて、「公評」という雑誌に連載していたもので、2015年に初めて単行本化されたもの。それぞれが初出雑誌の見開き2ページに収められ、こうして単行本になっても一篇が5〜6ページのものが35編収録。最後にちょっとだけ長い、「妄想科学小説の妄」という作品。

 この時期は、赤瀬川原平が「小説」を書き始めた時期と重なり、読んでいるとまさに「小説」的世界への模索をする赤瀬川氏の姿が読み取れる思いがする。いろいろと視点を変えてみたり、題材の選び方にも苦労がしのばれるというか。それがだんだんに、連載後期には普通のエッセイになってしまっていたり、読んでいて「その発想からの展開には無理があるだろう」みたいな作品もけっこうある。

 いちばんさいしょの作品、「人殺し」というのが、銭湯で見かけたという「連続自殺未遂事件犯人手配書」というものからのお話で、これはめっちゃ面白かったので以降に期待したのだけれども、わたしにはこの「人殺し」を超える作品はそのあと見つけることが出来なかった。ああ、もう「忘却」がわたしを襲い始めている‥‥。


 

トルコ人トルコ人 2017/02/07 21:10 日本語の美しさはわかりませんが、和久井路子訳は単純ミスの誤訳だらけという指摘があります。http://d.hatena.ne.jp/cesur_civciv/searchdiary?of=25&word=%2A%5B%B8%ED%CC%F5%A4%AB%B0%D5%CC%F5%A4%AB%5D

crosstalkcrosstalk 2017/02/08 10:54 ご指摘の紹介、ありがとうございます。もちろんわたしはトルコ語をまるで解しませんし、「わたしの名は紅」はまだ読んでいる途中ですので、「そうなのか」と思うばかりです。文庫化されたときに改訳されているようなので、じっさいにそういう問題はあったのでしょう。
Amazonでの「雪」のレビューは「誤訳」として批判しているのではなく、「読みにくい」という批判が大半でしたので、「そういうことはなかった」という気持ちで書きました。

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■ 2017-01-21(Sat)

 今日も寒くて空は曇っているけれども、雪が降るような天気ではない。昨日のような凍える寒さはない。土曜日だから、「ウィークエンド サンシャイン」と「世界の快適音楽」とを連続してエアチェックする。しごとから戻るとちょうど、「世界の快適音楽」が始まったばかりの時間で、つまり土曜日はテレビも面白くないのでそのまま「世界の快適音楽」を聴き、十一時に放送が終わってエアチェックも終了してから、「ウィークエンド サンシャイン」から聴き返す。しかし、先週今週と、それほどに楽しめる内容でもない。「ウィークエンド サンシャイン」は先週に引き続いて、視聴者の選んだ去年のベスト音源を放送。どうもわたしは、今のリアルタイムな音楽にあまり興味が持てなくなってしまっている。これは今に始まったことではないのだけれども、やはり年寄りになったということか、いやそれとも、こういうところにも脳の機能障害が影響していたりもして。

 昨日の夕食は「おでん」にしたのだけれども、その「おでんセット」に加えて大根1/2本とジャガイモを2個入れたわけで、分量的にもたっぷり。もちろん昨日の夕食だけでは食べ切らなくって、今日の昼食も、そして夕食もまた「おでん」ということになった。

 今、大相撲の初場所をやっていて、夕方にはちょくちょく見たりしているし、場所中は早朝の四時からも幕内の全取り組みを放送している。相撲を見るのはけっこう好きだけど、こういうのも年寄り趣味のひとつなんだろうか。今場所は上位陣で途中休場が目立つ場所になったけれども、そんな中で稀勢の里が快進撃を続けていて、「ついに初優勝か」というところに来ている。今日稀勢の里が勝ち、勝ち星の差ひとつで追う白鵬が負ければ、明日の千秋楽での対決を待たずに稀勢の里の優勝が決まる。「どうなるだろう」とちょっと気にして、その時間にはテレビのチャンネルを合わせてみた。それでつまりは稀勢の里は勝ち、白鵬は初めて顔を合わせる平幕の力士に負けてしまった。なんだか、あっけなく稀勢の里の優勝が決まってしまった。ほんとうをいうと、やはり千秋楽の直接対決に勝って優勝を決めた方が「劇的」だったろうと思うけれども、優勝は優勝。茨城の人たちはずっと稀勢の里を応援し続けて来たから、うれしいだろう。わたしも茨城県民なわけだから、やはりちょっとうれしい。

 

[]「ル・コルビュジエの家」(2009) ガストン・ドゥプラット/マリアノ・コーン:監督 「ル・コルビュジエの家」(2009)       ガストン・ドゥプラット/マリアノ・コーン:監督を含むブックマーク

 「ひかりTV」の番組表で、こんな映画が放映されるのを知り、録画してみたもの。放映していたのは「MONDO TV」というチャンネルで、このチャンネル、競輪競馬そしてパチンコ麻雀などのギャンブル番組、グラビアアイドル番組などを主に放映している、つまりは独身男性向け娯楽チャンネルというか、とにかくわたしは今までいちどもチャンネルを合わせたことはない。そんなチャンネルでいったいなぜ、こういう単館ロードショー系の地味そうな映画を放映するのか、大きな謎ではあるのだが、とにかくはこれからはこのチャンネルで放映される映画には気をつけていた方がいいだろうか。

 で、内容もまるで知らないまま、そのタイトルに惹かれて観始めたわけだけれども、この映画はアルゼンチン映画。そのアルゼンチンに、南アメリカで唯一のル・コルビュジエ設計の邸宅があり、その「クルチェット邸」を舞台にして撮られたのがこの作品。去年に上野の西洋美術館が世界遺産に登録されたとき、同時にこの邸宅も世界遺産登録されたみたいである。

 しかしこの映画、舞台となるその建物がル・コルビュジエの設計になるということは、まったく映画のポイントにはなっていない。ル・コルビュジエの名前などいちども出て来ないし、そういう、この建築物を紹介するような視点は、表面的には皆無である。ただしこの映画、次にあげるポイントを充分に意識しての演出であり、そのことがこの映画の面白さを形作ってもいると思う。これは「クルチェット邸」で検索して見つかったサイト(http://www.taisei.co.jp/galerie/gallery/2000/0724_02.html)からの引用。

 クルチェット邸は、ル・コルビュジエが言うところの「建築的プロムナード」を実現した作品である。「プロムナード」とは、散歩(道)とか、練り歩くこととかを指す言葉であるが、ル・コルビュジエは「建築的プロムナード」という言葉を使うことで、「建築はその内部を歩き回り、地上1メートル60センチのところにある目で見て、体験するものだ」という彼自身の説明を一言で言い換えている。つまり、建築は外観をただ見るだけでなく、その内部に入って五感を鋭敏にして体験しなければそのすばらしさは理解できないということである。

 クルチェット邸はアルゼンチンの街ラ・プラタの住宅地の、三方を既存の住宅に取り囲まれ、前面だけ公園に開かれた道路に面した、長方形の敷地(前面は斜めに切れている)に建てられている。
 彼が手がけた住宅作品は、比較的郊外の広い敷地内での一軒家が多く、こうした建て込んだ街なかの住宅はオザンファンのアトリエ、プラネクス邸他、数点しかなく、戦後の作品ではクルチェット邸だけだが、彼は、共有壁によってぴったりと隣家が接している敷地条件と、医師のクリニック兼住宅という条件を非常にうまくクリアしている。

 つまり、「共有壁によってぴったりと隣家が接している敷地条件」ということが、この映画の根本のテーマにもなっているということ。‥‥しかし、こんな文化財的に重要なスポットで、そういう文化財的な歴史からは自由に、こういうちょっとブラックなシチュエーション・コメディを撮ってしまうという気概というものはすばらしいと思うし、そんな文化遺産の元でこういう映画撮影が可能という風土(?)がまたすばらしいと思う。

 さて、この映画のことだけれども、映画の中でその「クルチェット邸」に住んでいるのは、彼のデザインした椅子が世界中でバカ売れしたという家具デザイナー、レオナルドの家族。妻はその家でヨガ教室を開いていて、思春期というか反抗期真っ盛りのひとり娘はいつもイヤフォンを耳につけて親のいうことは聞かない。ある朝、「ドン、ドン」と響く騒音に目覚めたレオナルドは、手を伸ばせば届くような隣家に住む住民のビクトルが自宅壁に穴をあけ、レオナルド邸に向けて窓をつくろうとしているのを知る。そんなところに窓をつけられたらこっちの家の中は丸見えになってしまうし、それは法律に違反した行為でもあるだろう。レオナルドが窓越しに抗議すると、ビクトルは「自分の建物の中に日の光を取り入れたいだけだ、どこが悪い」と来る。どうも印象としてビクトルは難物である。とにかくは窓工事は中断させ、開いた穴はとりあえず黒のビニールで覆うのだけれども。
 ‥‥レオナルドも、ほんとうに窓工事をやめさせたいのならもっと手段がありそうなものを、なんというか自力にこだわるというのか、そういうこだわりが事態を悪化させるようである。それで観ているうちにだんだん、隣家のビクトルの言ってることも正論じゃないかとか、「けっこういいヤツなんじゃないか?」みたいなことにもなる。逆に、レオナルドという人間、どこかコミュニケーション障害というか、彼が関わるどんな人とも、彼はコミュニケーション不全を起こしているんじゃないかということがみえてくる。ビクトルはなんとかレオナルドと仲良くなりたいんだということが見えて来て、そこにレオナルドとビクトルとの抱え持つ背景の差異からギクシャクしてしまうのがおかしい。傑作はビクトルのつくったオブジェをレオナルドにプレゼントして、レオナルドが困ってしまうあたりかな。奥さんがヨガ教室の生徒を招いてパーティーをやると、その生徒の愛人としてビクトルがやって来たり、おかしい。まあこの奥さんも「困ったちゃん」ではあるけれども。
 なんか、ラストが「えええ!」というような突然の展開で、実はここでのレオナルドの行動がよくわからない。しかしけっきょく、観終わってみると、レオナルドに分の悪い作品だったというか、そういうコミュニケーション不全、インテリ層の思い上がりこそがテーマだったように思えてくる。

 ビクトルがその窓越しに娘に見せている、段ボール背景の指を使った劇がほのぼのと楽しいし、「イノシシのマリネ」のレシピもグッド。もんだいの「クルチェット邸」も、外装こそはよくわからなかったけれども、「建築的プロムナード」などということはよくわかったし、コルビュジエ設計の家で撮ったというその意図は、うまく活かされていただろうと思う。拾い物の一作だった。


 

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■ 2017-01-20(Fri)

 寒い。今日はしごとも非番で休みなので、いつもよりものんびりと寝ていたのだけれども、目覚めても外が寒くてなかなか起きられない。こんな寒い日というのも一年を通してそんなに何日もないのではないかと思う。なんとか起き出してテレビをみると、今日は関東の平野部でも雪になりそうだといっている。窓の外の空をみてもどんよりと曇っていて、たしかに今にも雪が降り出しそうにみえる。今日の夕食はおでんを考えているので、なんだかこの天候にお似合いではないかと思う。

 わたしの財布の中身も給料前で寒いのだけれども、今日は近くのドラッグストアでポイントが1.5倍で使える日。もうポイントが千ポイントぐらいたまっているので、つまり千五百円ぐらいの品はお金を払わないでゲット出来る。なんつって、けっきょくは酒を買ってしまうのだが。今日はいちおう安心株の日本酒の鬼ころしと、「モノは試し」と、イオン製のウィスキー(いかにも不味そうだが)とを、つまりは金を払わずに手に入れた。これで給料が出るまで持てばいいけれども。それと、今夜のおでんに入れてみようと、半額になっていた大根とを買った。

 この日は内科医への通院日でもある。ここでまた、ちょっと財布が軽くなるので心配なところ。このところ血圧が高めなことも心配ではあるけれども、次回もまだ血圧が下がらなければ薬を換えてみましょうということ。
 病院からの帰りに、みぞれのような細かい白いものが空から降り始めた。踏切りの手前のコンビニのところに、またあの野良がいた。近寄るとにゃあにゃあとなくけれども、逃げて行こうとはしない。「人間とはごはんをくれる存在」と思っているのかもしれない。ある程度以上に近づくと逃げる。「なんだ、ごはんをくれるんじゃないのか」というところなのだろうか。

     D

 帰宅してからは、寒いのでもう一歩も外に出ないようにして過ごした。窓の外はずっと灰色の曇り空で、雨なのか雪なのかみぞれなのか、しとしとと降っているのがみえる。冬も最高潮だな、などと思った。


 

[]「ピンク・キャデラック」(1989) バディ・バン・ホーン:監督 「ピンク・キャデラック」(1989)   バディ・バン・ホーン:監督を含むブックマーク

 イーストウッドの作品としては、先日観た「ハートブレイク・リッジ」、「ダーティハリー5」、そして「バード」に続いての作品で、監督は「ダーティハリー5」と同じくバディ・バン・ホーン。どうもこのバディ・バン・ホーンという人物、はたして監督としての実体があるのかどうか謎の人物というか、そもそもがイーストウッドのスタントの代役をやっていたというキャリアの人物で、映画監督としてもイーストウッドの代役なんじゃないかという疑い。調べてみると、このあともイーストウッドの作品の多くで「スタント・コーディネート」をやっている人物で、どうもやはり、一本の映画全体を演出するような人物ではないのではないかと。実態は、イーストウッドが主演していて演出面にかかりっきりになるわけにもいかないので、サポートするような存在ではなかったのかと思う。そのうちにイーストウッドも主演しながら演出することに馴れて来て、もう彼の助けは必要としなくなったのではと。ま、これはあくまでも推測ではありますが。

 そういうところで、いっちゃわるいけれども、ここではイーストウッドも演じることを楽しんでいた作品というか、リラックスしちゃってる感じ。この作品での彼の役どころは、このあいだ観た「ジャッキー・ブラウン」で出てきた「保釈保証業」に関連したような存在で、こういうしごとって、アメリカではかなり一般的に存在するのかと思い、「やはりアメリカという国には奇怪なところがある」とか思ってしまった。え? そこまで奇怪なことでも何でもないのかな?

 起承転結の実にはっきりした作品というか、因果関係もはっきりしているのだけれども、やはりその「結」の部分がしょぼい、という感想になってしまうことは否めない。でもわたしは、ここでイーストウッドの相手役をつとめるバーナデッド・ピーターズという役者さんがけっこう気に入ってしまい、基本的にはOKな映画だった。
 このバーナデッド・ピーターズ、そもそもがミュージカルで名を馳せた女優さんということで、そのあたりのリズム感の良さみたいなことが目立ち、そうすると逆に、イーストウッドはリズム感はイマイチな俳優だなあ、とか思ってしまうことになる。

 この映画に登場してくる「悪役」の「純血団」とかいう連中、今でもドナルド・トランプあたりがいい出しそうな主張があるわけで、やはりトランプには悪役がふさわしいと思ってしまう。そんなトランプもついに今日、アメリカの大統領に就任してしまう。一年前の今ごろ、いったい誰が、こんな世界になると想像していただろうか。


 

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■ 2017-01-19(Thu)

 給料日を前にして、あまり手持ちの金がなくなってしまった。実はわたしには今後大きな試練が待ち構えてるので、無駄遣いはしたくない。ただ、金があるうちにパソコンを買い、携帯を買い替えたい。試練はそれからだ。そんなことをあれこれと考えて、明後日のCowboy Junkiesのライヴ、キャンセルしてしまった。行きたかったことはたしかだけれども、けっきょくCowboy Junkiesの「おさらい」も出来ないままになってしまったし、しょうがないかと。四月にはローザスも来日して二公演やるようだし、水族館劇場の公演も始まる。やはりここはセーブしなければ。
 今日は南のスーパーで一割引きの日なのだけれども、何でもかんでも買ってしまうようなことは慎む。ただ、おでんのセットがかなり値引きされていたので買い、ジャガイモも一個38円だったので「ま、いいか」と、三個買う。ジャガイモも安いときには一個28円とかになるのだけれども、最近はなかなかそこまでに安くならない。まだ冷蔵庫にもやしが残っているので、今日はもやしを使っての献立にするけれども、明日は「おでん」で決定。ジャガイモも入れて、二日分はあるだろう。

 携帯については、いったいどこがいちばん安いのか、ネットで調べてみたりしたのだけれども、毎月の支払額でいうとTSUTAYAのものがいちばん安いようだ。ただ、最初に携帯本体を買うわけで、これが三万ぐらいするようだ。これが分割払いだと仮定すると、一ヶ月千円で三十ヶ月ということになる。はたしてそういうことを考え合わせて、ほんとうに安いのかどうか。もうちょっと検討してみた方が良さそうだ。どうもこういうことを考えるのは苦手。

 夕食には、予定通りもやしを使って、豚肉ともやしの炒め物。またシャンタンを使ってのお手軽調理だけれども、おいしく出来た。「食費をかけない」ということでは、「もやし」という食材がすぐに思い出されてしまうのだけれども、「手間がかからない」ということでも、もやしは優等生である。それに、もやしをたくさん使う分には、大きな失敗というのが起こりにくいということもある。もっと活用してあげたい食材ではある。

 このところ、ニェネントをばっちり撮った写真というのがあまりないので、ちょっとニェネントを押さえつけて撮ってみた。あら、かわいい〜。なかなかにプリティーではありませんか。このところ、「やっぱりニェネントもおばさんになって来たか」と思っていたけれども、まだまだ可愛いですよ。

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[]「バルタザールどこへ行く」(1966) ギスラン・クロケ:撮影 ロベール・ブレッソン:脚本・監督 「バルタザールどこへ行く」(1966)   ギスラン・クロケ:撮影 ロベール・ブレッソン:脚本・監督を含むブックマーク

 ずっと前に「ひかりTV」で放映されていたのを録画してあった作品で、「これは特別な作品だから」と、今の今まで観ないでしまい込んだままにしていた。そういう作品はハードディスクの中にあれこれとたまっている。こういう作品は「観てしまったから」と消去するようなことはぜったいにないわけで、ふだんは観た作品は消去して、それで新しく録画して行くというローテーションでやっているけれど、こういう「消去しない作品」を観ても、回転効率はよろしくないわけである。そういうこともあって、「消去しない作品」というのはなかなか観なかったりするのだけれども、「そんなんじゃ録画した意味がないじゃないか」と、やはりどんどん観て行くことにした。いろいろとそういう「消去しない作品」=「名作」はあるのだけれども、今日はまず、ブレッソン監督の「バルタザールどこへ行く」を観る。

 この作品、わたしは高校生の頃にアートシアター系で封切られたときに観ていて、おそらくは日劇文化で観たのだと思う。パンフレットも買って持っていたけれども、そのパンフレットもいつか処分してしまった。惜しいことをした。それ以降今まで、この映画は観たことはないと思う。ひょっとしたら、もういちどぐらい観ているような気もしないではないけれども、まあ四十何年ぶりに観ることになるのだろう。
 そして、去年だかに、この作品で主役のマリーを演じたアンヌ・ヴィアゼムスキー、彼女の書いた「少女」という<小説>を読んだこともあり、この映画でのロベール・ブレッソンの演出姿勢というか、そういうことにも興味を持ってしまっていた。そしてついに、この「バルタザールどこへ行く」を観た。

 ‥‥いかん。わたしはそもそも、動物モノ映画に極端に弱いのだった。しかもこの演出。もう、映画の後半には目に涙がたまってしまい、それが終盤にはポロポロと目からこぼれてしまう。ラストはもう嗚咽というか、映画館で観たのではなくって、家でひとりで観ていてよかった、と思うのだった(こうやって今、この文章を書いていても、思い出して涙目になってしまう)。

 原題の「Au hasard Balthazar」とは、「バルタザール行きあたりばったり」とかいう意味合いらしい。そこからは運命に翻弄されるロバのバルタザールの、そのさまざまな遍歴を考えてしまう。主人公のマリーの家と、農園主の息子ジャックの家とが蜜月時代にあったときに買って来られたロバの子は「バルタザール」と名付けられ、マリーら子どもたちに「洗礼」のまねごとを施される。ジャックとマリーは無邪気に、「将来はいっしょになろう」と誓い合うような仲だったけれども、蜜月時代は終わり、ジャックの家族はマリーの家を訪れなくなってしまう。マリーの父とジャック家とは裁判で争うことになり、バルタザールの持ち主も変わり、バルタザールは荷役に酷使されるようになる。何年も経って、そんな主のところから逃げたバルタザールは、今は住む人もなくなった昔過ごした家へとやって来る。そこでマリーと再会し、バルタザールはふたたびマリーとの生活をはじめる。近所のパン屋の不良息子のジェラールはマリーを手に入れようとし、バルタザールに暴力を振るう。こじれた裁判の結果、なんとバルタザールはジェラールの家に譲渡される。裁判をなんとかしようとしてか、ジャックがやって来てマリーと再会する。しかしマリーは「もうあの時代にはもどれない」と、ジャックを拒絶する。マリーはジェラールへとなびいて行く。
 バルタザールは、ジェラールら不良グループと関係のある、おそらくは人殺しもしている浮浪者のアルノルドのもとへ行くことになる。いちどはアルノルドの元を逃れ、サーカス団に拾われて「計算の出来るロバ」と、サーカスの呼び物にされるが、サーカスを観に来たアルノルドに連れ戻されてしまう。アルノルドはバルタザールに乗ってあてどない旅に出ようとするが、すぐにバルタザールの背から落ちて死んで行く。ふたたびマリーに会いに来たジャックに心動かされたマリーは、ジェラールらのところへ行くけれども、そこでジェラールら不良グループに暴行され、姿を消してしまう。バルタザールはジェラールの密輸の手助けをさせられ、警官に見つかって発砲される。ジェラールらは逃げてしまうけれども、バルタザールは弾で傷ついてしまう。ひとりさまよい、羊の群れに囲まれて息絶えて行くバルタザール。

 説明を極力排した演出は、時にわかりにくいこともあるけれども、その分「力強さ」を秘めているだろうか。そして、まずは洗礼を受け、そして信仰者のように死んで行くバルタザールをからめたストーリーのすばらしさ、さらに、演出の強烈さというものがあるだろう。バルタザールの悲劇は、一見、マリーの悲劇とシンクロするところもあるようにみえるけれども、はたしてそれだけなのだろうか。ここにバルタザールの「死」の原因となり、マリーを躓かせたジェラールという存在があるのだけれども、どこまでも「悪」を具現化したようなこのジェラールという男、それでも教会の聖歌隊の唄い手であったりもする。「ジェラールとは誰か」ということは、単純なことではない気がする。そして、そもそものすべての堕落の原因になったのは、マリーの父のプライド故なのではないのか。マリーの父がほんとうにマリーの幸せを考えたのなら、もっと違った解決策を出すことも出来たのではないのか。そしてそのことが、ひいてはバルタザールの幸福でもあったのではないのか。
 そしてもうひとり、アルノルドという浮浪者の存在がある。彼は不幸な存在であり、バルタザールのことも理解していたようでもある。彼とジェラールとの関係はいまひとつ読み切れないところもあるけれども、この映画で語られる「悪」、「錯誤」という問題の中で、彼の存在は重要だと思う。

 ブレッソン監督の演出は、先に書いたように極力説明を避け、映像に語らせていくスタイルだろうか。そんな中で、「外」と「内」を隔てる「扉」というものが、演出の上で重要な機能を果たしているように思えた。う〜ん、もういちど、大泣きするのを覚悟で、すぐにでも観直してみたい誘惑に駆られる作品だった。やはり傑作。


 

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■ 2017-01-18(Wed)

 昨日受けたPET検査というもの、いったいどういうものなのだろう。MRI検査というものは、磁気と電波によって脳などのスライス断面を撮影するものだと、だいたいのことはわかっているけれども、PET検査というもののことは、実はよく知らない。調べてみると、これは一般にはガンの早期発見に使用される検査らしく、ガン細胞を可視化した断面映像が得られるらしい。これは一般に保険適用外で費用のかかる検査で、五万から二十万ぐらいかかるというような検索結果。なんだかツアー旅行と組み合わせた検査コースとかがあるようで、つまりはなんというか、富裕層の健康チェックという側面があるのだろうか。ではわたしの場合のように脳の検査というのはどういうことかと調べると、これは脳の血流量や酸素、ブドウ糖の消費量を測定出来るということらしく、そこからてんかん発作の原因となっている脳の部分、てんかん焦点という箇所を特定出来るということらしい。したがって、てんかんを含む精神疾患の治療の一環とみなされ、自立支援医療の対象とされるようである。そうでなければ、この最先端の医療検査、わたしはン万円の検査費を請求されていたことだろう。ここは「自立支援医療制度」というものに感謝である。

 今日は、NHKのBSで放映された「ロンゲスト・ヤード」という映画を録画し、録画が終わったあとにさっそく観始めたのだけれども、冒頭からなんだか気もちはフィットしないし、主演男優の顔はイヤだし、十五分ぐらい観たら、「このあとどんな展開になるのか」全部わかってしまったので、もう観るのをやめてしまった。もちろん、先の展開が読めるから観るのをやめるというのは正当な映画の観方でないことはわかっているけれども、今のわたしには、観ても得るものはないという気がしたわけである。何でもかんでも、話題作ならば観てみるというような映画の観方は、もういいかげんにやめなければいけない。そういうことである。

 夕食は、もやしとウィンナとを炒めて玉子もプラスした、お手軽献立。中華調味料のシャンタンで味付けすれば、他は不要でおいしく食べられる。この頃はなんか、自炊といえるような、労苦をともなう調理をまるでやっていない気がする。やはり、それなりにめんどうなことをやってのけて、それで美味な料理を仕上げるということに、料理の楽しさはあると思うのだけれども。


 

[]「スティーヴンソン怪奇短編集」ロバート・ルイス・スティーヴンソン:著 河田智雄:訳 「スティーヴンソン怪奇短編集」ロバート・ルイス・スティーヴンソン:著 河田智雄:訳を含むブックマーク

 この本は1988年初版の、今はなき福武文庫の一冊。まあ福武文庫もかなりマニアックなものを刊行していたわけだけれども、このスティーヴンソンの短編集も、そういう一冊だったようにも思う。
 ボルヘスが、何かの評論の中でスティーヴンソンをかなり絶賛していた憶えがあるけれども、わたしはさまざまな小説を読んだ記憶が残っていないので、今回スティーヴンソンを読んでも、どこが優れているとか、そういうことはわからない。ただ、この文庫本の「訳者あとがき」には、「スティーヴンソンは凝った、外国人にはわかりにくい表現を随所に用いている。気軽に原文を読み飛ばしている時にはさほど感じないが、いざ訳してみると、意外に手ごわい作家である。最も日本語に訳しにくい作家の一人と言っていいのではないだろうか。」とあるのだけれども、じっさいにこの翻訳書を読んでいると、「それは奇妙だ」という表現が、随所にみられるように思う。読み通せば意味が分からないことはないのだけれども、読んでいるときには妙にひっかかる。そんな七作品。

●死骸盗人
 薄気味悪さ満点の短編。じっさいにこの時代には、こういう墓荒らしがあったのだろう。年代を隔てて、「おまえはあの時の」みたいな告発になっていて、そのことがいわゆる正義とか、モラルとか、そういうことと無縁の空気感になっているところがいいと思った。

●ねじけジャネット
 うーん、よくわからない。奇譚としての面白さはわかるけれども、なんかあっさりしている感じがする。訳者はあとがきで、「原文では、スコットランド人の老人が物語る形式になっているが、今回は普通の文章体で訳してみた」と書かれているが、読んでいると途中で「視点」というか、見ている位置が変わってしまうことが気になってしまう。これはちゃんと原作通りに、「老人が物語る形式」として翻訳すべきだったのではないかと思う。「原作に忠実に」というのは、基本ではないのか。

●びんの小鬼
 これは面白かった。ある面で「リング」の元ネタになっているみたいなところがあるのだけれども、「望みを叶える」ということと「地獄落ち」ということを同時にはらみ持つ「びんの小鬼」という存在のあり方は面白い。

●宿なし女
 スティーヴンソンには、「女性」なるものを転移させて恐怖の対象とするような、いわばミソジニー的な視点もあるみたいで、この作品でもそんな醜い女性像が描かれる。わたしはこの短編の展開はみごとだと思った。

●声の島
 先の「びんの小鬼」、「宿なし女」に続いての南海の島国での物語で、じっさいにその長くはない生涯の晩年にサモア諸島で暮らしたという、その体験が活かされているのだろうと思う。西欧的論理思考とは異なる、超自然現象というものへの思い入れとか、そういうものが不可思議なタッチで描かれた傑作ではないかと思う。

●トッド・ラプレイクの話
 これもまた、南太平洋の島国を舞台としたような、怪奇幻想譚。

●マーカイム
 これはロンドンの下町を舞台とした一挿話というおもむきで、強盗殺人を犯してしまう男の、その心の動きをみごとに定着させた、佳作だと思う。


 

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■ 2017-01-17(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今日は小平の「国立精神・神経医療研究センター」というところへ、つまりはわたしの脳の検査をやりに行く。検査はMRI検査が午後一時半からで、PET検査というのが三時半からということだけれども、その前に今通っているクリニックへ十二時に行き、紹介状を受け取ってから行くことになる。逆算すると家を九時前に出なければならないし、PET検査の前六時間は何も食べないでいなくてはならないということ。まあ家を出る前に朝食をとって、そのあと何も食べなければ、自然に六時間の絶食になる。ちょっと早めに七時半頃に朝食をとり、八時半頃に家を出た。今日も空は晴れていい天気。

 いつもより多少混んでいる電車で新宿まで行き、中央線に乗り換えて国分寺へ。クリニックへ行って紹介状をもらおうとすると、自立支援医療の対象医療機関を今回だけ国立精神・神経医療研究センターに変更しているので、通常通り三割負担になりますといわれ、ちょっとドキッとしてしまった。前に地元で近郊の大学付属病院への紹介状を書いてもらったら何千円もかかった記憶があるので、今回も相当額払わなければならないかと思ってしまったのである。でも、会計は750円で済んだので、かなりホッとした。

 その国分寺から、西武線で萩山という駅へ。「検査が終わったら断食あけにおいしいものが食べたいな」と思い、駅前に目ぼしい食事どころがあるかどうか、チェックしておこうと思ったのだけれども、その萩山駅で降りてみると、駅前にはな〜んにもないのだった。

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 手元にあるそのセンターへの案内地図をみると、武蔵野線の新小平という駅にも歩いて十分ほどらしく、それでは帰りは新小平駅の方へ行ってみて、そっちで食事出来るところを探そうと考えた。

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 一時ちょっと過ぎに「国立精神・神経医療研究センター」到着。木立の中の、学校のような建物。ロビー受付あたりは、前に行った大学付属病院と同じ仕組みになっているので、すぐに見当がついた。まずはMRI検査。いかにもハイテク医療機器がある部屋という感じだし、放射線も使用される検査だから外とは隔離されている。担当インターンっぽい若い無精ヒゲの男が、わたしに軽く検査の説明をするのだが、わたしの目を見て話そうとしないので、なんかアブナい感じ。わたしがMRI検査する前に、この兄ちゃんを先にMRI検査やった方がいいんじゃないかとか思う。
 大きな縦に立てられたドーナツの、その輪っかの中に頭を突っ込むようにベッドが設置されていて、そのベッドに横になる。頭を固定する枠の中に頭をおさめ、「音が大きいですから」と、ヘッドフォンをつけさせられる。この姿勢で、約二十分動かずに我慢するのである。目を開いていてもしょうがないので目を閉じていたけれども、特に目を閉じるようにとはいわれなかった。
 検査開始。「ピコピコ」と、電子音のような音が聴こえる。パルスのように一定のリズムを刻んで聴こえることもあるのだけれども、不規則に、まったくランダムに聴こえるときもある。聴いていると、電子音によるインプロヴィゼーション、ノイズ音楽みたいでもあり、「こりゃあ面白いや」と、フリー音楽でも聴くつもりで音の中に身を委ねた。なかなかに楽しい。
 よくあることだけれども、ノイズっぽいフリー音楽のライヴなどへ行っても、「こんな雑音っぽい音の中でなぜ」という感じで、眠くなってしまったりするわけで、今回も、ハッと気がつくといつの間にか眠ってしまっていたという感じで、何度かふいに目が覚めて、自分の置かれている情況がわからずにビックリしたりしてしまった。

 MRI検査終了。検査を始めたのは一時半だったけれども、時計をみると二時二十分になっていた。検査に要する時間は二十分と聞いていたけれども、四十分はたっぷりかかっていたのではないか。眠ってしまったりしていたので、自分の中では時間の感覚がわからなくなっている。十分か二十分ぐらいしか横になっていなかったような気がする。

 次は、PET検査である。こんどは点滴だか注射だかをされ、それが全身に回るまで、四十分ぐらい横になっていなければならない。案内されたところは何だか物置きみたいな部屋で、さっきまでのハイテクっぽい雰囲気とはまるでちがう。「こんなところでやるの?」って感じ。今回はなぜか外が見えないようにアイマスクをされた。注射をして横になっても、はたして体を動かしちゃいけないのかどうか、よくわからない。とにかくはあまり動かないようにしていたけれども、やはりまた眠ってしまい、体が「ガクッ」と動いてしまって目が覚めたり。
 寝ちゃったので、いつの間にかの四十分。感覚としては十分ぐらいの感じ。医師に起こされて、まずはトイレに行かされる。そのトイレに、「尿には放射性物質が含まれているので、必ず水を二回流して下さい」と書いてある。えええっ、そういうものを注射されていたのか。まるで知らんかった。
 さて、これからが検査の本番なのだけれども、検査室はやはり今いた物置きのようなところではなく、MRI検査室のようなハイテクっぽい部屋。検査機器もさっきのMRIのとほぼ同じ形で、やはりドーナツの穴に頭を突っ込むのである。こちらの本番検査はせいぜい数分のもので、この日の検査はすべて終了。時計をみると三時半ぐらいだった。会計は「自立支援医療」の限度額目一杯で、やはり普通にかかると大変なことになる検査だったのだろうなと納得。

 センターを出て、さあ、あとは断食あけで何かおいしいものを食べたい。考えたように持っていた地図を見て、歩いて十分ぐらいの新小平駅の方へ向かった。‥‥駅はすぐに見つかり、その小さな駅の前の広場のようなところに、向かい合って二軒の中華点心料理の店があった。ちょうどそういう中華が食べたいと思っていたので、この二軒のどちらかにしようと決める。駅の右にある店の方がメニューも豊富でちょっと安く、そちらへ入ろうと思ったのだけれども、まだ時間は四時半で、こっちの店は開店前だった。残念。それではしょうがないのでもう一軒の方へ入り、「お得セット」とかいうのにした。生ビールに餃子、それとおつまみ一品で千円と、それほどに安いわけでもないのだけれども、ま、いいかと。おつまみにはピータンを頼んだ。

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 ‥‥う〜ん、これは失敗でしたね。悪いけど、餃子もピータンも、わたしの満足出来る味ではなかった。残念。ちゃっちゃっと飲んで食べて外に出ると、さっきまだ開店していなかった向かいの店、もう営業を始めていた。もうちょっと遅くに来ればよかったと、ちょっと悔やまれる。

 あとはもう帰宅するだけだけれども、時間的にもちょうどよかったので、またターミナル駅で降りて、駅ビルのスーパーでお弁当とか買って帰ろうかと。ところがこちらでも、もうたいていのお弁当は売り払っていて、つるつるの白い棚が光っているだけ。かろうじて残っていた「鶏唐揚げのタルタル弁当」とかいうのを籠に入れ、店の中をまわってみると、先日ここで買って非常に美味だった日本酒「玉乃光」が、また(まだ)値引きされて売られていた。「よし、これを買おう」と、弁当と日本酒とを買って帰宅。今日は残念ながら、ニェネントくんへのお留守番のごほうびはありません。
 で、買って帰ったお弁当を温めて食べたけれども、これがちっともおいしいものではなかった。がっくり。今日は食運のない日だった。


 

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■ 2017-01-16(Mon)

 晴天がつづいている。今日も快晴。空をみると、薄青く澄んだ空に白い雲が薄く拡がっている。空とはつまり宙で、宇宙につながっていることが実感できる。それというのも、こうやって雲が地表近くにへばりついているからわかること。背を伸ばせば雲に近づき、その上には無限の宙がある。冬にはそんな感覚がある。

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 明日は小平に検査に行くので、夕食は遅くなるだろう。またスーパーでお弁当を買って帰る方がいいだろうと思う。朝もあわただしくなるかもしれないので、すぐに手軽に食べられるようにパンとかを買っておいた方がいいと思う。そして今日の夕食も弁当ですませてしまおうか。
 弁当やパンの値引きされる七時半頃を待って、南のスーパーへと出かける。意外にも弁当類はまるで値引きされていなくて、逆にパン類はすでに100円まで値引きされていて、ほとんどが売れてしまっていた。パンは袋に詰められて元値が450円ぐらいになるものを、七時頃には300円ぐらいになり、普段は七時半になって150円になる。それが時に100円まで安くなるのだけれども、どういう基準で150円までの値引きになるのか、100円までにしてしまうのか、まるでわからない。弁当にしてもなぜこの日値引きされていなかったのか、わからない。
 とにかくは残っていたパンを二袋買い、海鮮コーナーにあった海鮮丼がいくらか安くなっていたので、それを買った。ついでに、ニェネントくんに小さな刺身パック、半値に値引きされて140円なのを買って帰った。

 海鮮丼を食べていると案の定、ニェネントが寄ってくる。「ではキミにはこれをあげましょう」と、刺身パックから刺身を出してテーブルにおいてあげると、すぐに前足で引っかけて床に落とし、あっという間に食べてしまう。それで、海鮮丼を食べているわたしをのぞき込んでくるのである。先日の「めかじきの刺身」はまるで「ネコまたぎ」だったのに、大きな差である。そんなに味がちがうのだろうか。


 

[]「蜜のあわれ」(2016) 室生犀星:原作 石井岳龍:監督 「蜜のあわれ」(2016)   室生犀星:原作 石井岳龍:監督を含むブックマーク

 石井岳龍つまり石井聰亙だけれども、わたしはこの人の改名後の作品を観るのはこれが初めてになると思う。石井聰亙時代の「エンジェル・ダスト」から「五条霊戦記」にかけての作品はどれも大好きだったけれども、改名されてから観ていないのは単にわたしの情報収集力不足から来るものだと思う。「生きてるものはいないのか」という作品など、原作は前田司郎の戯曲だったわけだし、「なぜ観なかったのだろう」と、解せない気がする。そしてついにその、石井岳龍の作品を観ることができた。

 原作は室生犀星で、出演は二階堂ふみ、大杉漣、真木よう子など。大杉漣演じる老作家と、彼の飼う金魚の化身である小悪魔的な少女(二階堂ふみ)との関係をとらえた作品である。基本はその二階堂ふみのコケティッシュな小悪魔ぶりをみせるというか、全体のタッチはかなりユーモラスなものではないかと思う。ただ、映像的にはつまり昭和情緒というか、古き日本の情緒を感じさせられ、「耽美」といってもいいのだろうかと思う。
 実はこの作品、去年わたしの娘が観ていて、それでわたしに教えてくれたものだけれども、彼女がいうには「ツィゴイネルワイゼン」の模倣ではないのかと。そうやって観ると、う〜ん、映像的にはちょっと「ツィゴイネルワイゼン」を思わせられるところもあるけれども、演出のタッチはちがう。しかしちがうといっても、そこにやはり鈴木清順の「ピストルオペラ」とか、「オペレッタ狸御殿」にみられるような、奇妙なユーモアのセンスは受け継がれているのかも知れず、やはりどこかで鈴木清順を思い浮かべるというのも「あり」なのかもしれない。そう思って観ると、その「ピストルオペラ」でデビューした韓英恵がちょっと出演しているところとか、意識的な配役なのかなとか思ってしまう。

 しかし、けっきょくのところ、わたしはこの作品をさほど熱心に観ることはできなかった。つまり、わたしにはそういうユーモアセンスと、一種耽美的な映像、そして二階堂ふみのかもし出すエロティシズムというようなものとかが、お互いに相殺し合っているように思えてしまったようである。観ていてとっても居心地が悪かったというのが正直なところで、それがなぜそうなのかというのはよくわからない。
 ただどうも、わたしにはこの老作家のことなどどうでもいいと思っているというのか、彼がどんな幻想にひたろうが、それがここで描かれるような幻想世界なのであれば、興味を持てないということだと思う。もうちょっと、心的なコンディションがいいときに観直せば、もっと興味深く観ることもできるのではないかと思ったりもするけれども、とにかく今回はパス!という感じであった。


 

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■ 2017-01-15(Sun)

 今日のことではない、二〜三日前のことだけれども、ニェネントがお立ち台の上で、いつものように窓の外を眺めていたのだけれども、どうも見ていると、ニェネントが外を見ているさまが「何か外に来ている」という雰囲気で、またあの子ネコが来ているのかとわたしも窓の外を見てみると、あの子ネコではなく、茶トラのネコがベランダから降りようとしているところだった。わたしと目が合ったその茶トラネコは、しばらくそのままの姿勢でわたしの方を見返してくる。すっごく栄養状態もよさそうで、でっぷり丸々とした体つきにみえる。けっこう毛並みもきれいな感じで、どこかの飼いネコかもしれないとも思った。先日来ていたネコはやはりこのネコだと思うけれども、間近に見るのはこれが初めてだった。

 ふっと思い出してみると、明後日は小平で精密検査の日で、いろいろと朝からたいへんな一日になりそうだ。明日はそのことを考えて動く必要もあるし、今日だって、いちおうはそんなことを考えていなくってはいけない。とりあえずは「ゆっくりと休養だね」という感じで、昼からは午睡。

 長かったカレーライス生活はようやく今日の昼で終わり、夕食には最近おなじみのメニューになったチャーハンをつくった。つくり方がひとつ落ち着くと、大きなハズレのない出来上がりになる。そのかわり、クッキングの醍醐味、「新しい味に挑戦」という面白みはなくなってしまい、ルーチンワークになってしまう。


 

[]「月光の囁き」(1999) 喜国雅彦:原作 塩田明彦:脚本・監督 「月光の囁き」(1999)   喜国雅彦:原作 塩田明彦:脚本・監督を含むブックマーク

 昔観て「お気に入り」だったはずの映画だけれども、もちろん記憶に残っていたわけではない。この作品は塩田明彦の監督デビュー作で、彼の作品としてはこのすぐあとに「どこまでもいこう」があり、「ギプス」「害虫」「黄泉がえり」「カナリア」と続くはずで、わたしはこの頃は塩田監督作品は全部観ていたはずである。記憶が消えてからは「害虫」だけは観直す機会があったけれども、それ以外の作品のことはまるで記憶に残っていない。また観返してみたいのだが。

 原作は喜国雅彦による漫画。ギャグ漫画家と知られた喜国の、初のシリアス作品だったということ。わたしはこの原作漫画も読んだような気もするのだけれども、残念ながらそのあたりの記憶は消えてしまっている。とにかくは高校生男女のアブノーマルな愛の形を描いた作品。言い換えれば、「変態」である。
 この映画、そのあたりの「変態」具合、その「成長」(?)を、じっくりを描いてくれる。主人公の日高は、同じ剣道部で同級の北原のことが好きなわけだけれども、そのことは彼女の足の隠し撮りで昇華し切っているというか、満足しているというか、つまり「足フェチ」である。そして北原もまた自分に好意を持っているとわかり、自分の部屋で彼女といっしょになるのだけれども、肝心のセックスよりも、彼女のトイレの音の隠し録りの方に熱心なのである。そんな彼女の足ばかりの写真や盗録したテープを北原に見つかってしまい、北原は日高を軽蔑し、別れようとするのだけれども、日高は「オレは北原の犬になる」と。ここで日高は「マゾ」としての自分を主張し、北原はそんな日高を嫌いながらも、だんだんに「サド」的に日高に惹かれていってしまう。日高を押し入れに閉じ込め、先輩とのセックスを聞かせたり、セックスのあとにかいた汗を日高になめさせたりする。さいごに北原は温泉宿に先輩と日高を呼び寄せ、先輩に日高の性癖を話す。日高に近くの滝に飛び込んで死ねといい、じっさいに日高は滝に飛び込み、九死に一生を得る。病院に見舞いに行く北原だが、それは見舞いではなく、SM関係の完成を確認するようなものだった。

 面白い。とにかく面白い。ひとつにはその日高の変態ぶりを段階を追って見せていく演出が巧みで、さらにそれを受ける北原の対応をねちねちと見せているあたりから来るのだろうか。雨の使い方、押し入れの中に潜む日高の目を印象的にとらえるカットだとか、ある意味でとってもスマートである。撮り方によっては卑猥な、それこそ悪趣味な映画になってしまいそうなところを、うまくすくい上げている印象で、ラストの土手でのふたりの語らいなど、まるで純愛映画なのである。

 塩田明彦という監督、まさに「シネアスト」という呼称のピタリとする監督というところで、ここでも、破綻のないみごとな映画づくりをみせてくれていると思う。もっともっと、彼の作品を観たくなった。


 

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■ 2017-01-14(Sat)

 このところ、ちょくちょくと夢をみているのだけれども、メモを取りもしないので、けっきょくは全部忘れてしまう。夜中にベッドの中で目覚めて、「あ、夢をみていたな」と思い、その夢を懸命に思い出そうとする。その時すでに夢の全部を思い出すことは出来ないのだけれども、印象的な場面はまだ覚えている。夢は時に、シュルレアリスムの源流のように非日常である。「こんな情景は現実にはあり得ないな」と思い、「これだけ妙なシーンだったらきっと覚えていられるに違いない。キーになるこのことさえ覚えていられたら」とベッドの中で何度も思い返し、これなら覚えていられるだろうと思いながら、また眠ってしまう。しかし、朝に目覚めたとき、もう夢を思い出すことは出来ない。

 昨日の満月の写真を撮り損ねたので、今日はデジカメを準備してシャッターチャンスを待ち構えた。仕事中でもあったので、いちばんいいシャッターチャンスは逃してしまう。しかし月というものは、同じ時間でも、一日でずいぶんとその位置を変えてしまうものだと、あらためて納得した。この写真を撮った時刻、昨日はもっともっと地平線近くに沈んでいたものだったけれども。それに、昨日はきれいな満月だったけれども、今日はもう右側が欠け始めている。やはり、昨日の月の方が美しかった。

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 先日観た「赤い砂漠」、あのモニカ・ヴィッティの役は、日本だったら若尾文子が出来そうだな、などとぼんやりと思ったりした。でも監督がいないな。日本には。溝口健二がもっと長生きしていたら、こんな映画を撮った可能性もなくはない。そんな気がした(いややはり、それはないな)。

 今日も昼食、夕食とカレーライス。さすがにいいかげん飽きてきたけれども、ようやっと、あと一回の食事でカレーもおしまい。これで連続して七食がカレーだった。パッケージには「八食分」と書いてあったけれども、まさにぴったり八食分になったわけだ。


 

[]「白鯨との闘い」(2015) ロン・ハワード:監督 「白鯨との闘い」(2015)   ロン・ハワード:監督を含むブックマーク

 監督のロン・ハワードという人は、やはり娯楽作品を撮られる方という印象で、普段だったらこの人の映画を観たいと思うことはない。でも先日、彼の監督したドキュメンタリー、「ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK」というのが公開され、「どうなんだろうな」という気もちはあったし、この作品がまたメルヴィルの「白鯨」に絡んだ作品らしいというので、ちょっと観てみた。

 「白鯨」の作者ハーマン・メルヴィルが「白鯨」執筆の参考にしたという、捕鯨船エセックス号の沈没事故という史実を映画化したというもの。原作となるドキュメンタリー本が存在するようで、日本でもかなり前に翻訳されていたようだ。
 この映画の原題は「In the Heart of the Sea」といい、必ずしも白鯨とのドラマを中心に据えたものではなく、船の難破による凄惨なサヴァイヴァル・ドラマという方がメインではないかとは思う。ただ、いかにも3D映画らしくも、対象に近接したカメラからの、鯨による船の破壊シーンとかに心血を注いでいる感じでもあり、やはり娯楽作という印象はある。

 ざっと観た感じ、「神なき時代にどこに神を見出すのか?」というようなテーマがあるのかとも思う。そのなかで、白い鯨の存在が畏怖すべきものとして、神の化身としてあらわれているのだろうか。そういう意味では後半の漂流は、神に抗った人間への「罰」という試練なのだろうかとも思う。そこに「反捕鯨」というメッセージを読むことも出来るからこそ、公開も出来たわけだろう。
 しかし、いちばん気になるのは、この映画でもって、メルヴィルの「白鯨」とはそんなものかと思われてしまうことで、まさに畏怖すべき傑作ともいえる「白鯨」は、この映画で描かれることがらとは基本的にまるで関係がないのである。おそらくはそのタイトルは知られていても、じっさいに読まれることの少ない古典の代表格ともいえる「白鯨」、これでもって「そんなものか」などとは、ぜったいに思わないでいただきたいものである。

 わたしはずいぶん昔にその「白鯨」を読み、もちろんその大半は忘れ去ってしまったとはいえ、その圧倒的な世界観には畏怖の念を憶えたものであった。この映画を観たことをきっかけに、またあの大書に挑戦してみようかとも思うようになった。


 

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■ 2017-01-13(Fri)

 早朝、夜明け時、明るくなってきた西の空低くに美しいまん丸な月が浮かび、東に昇ってくる太陽とは反対に、地平に沈もうとしているのがみえた。とても美しく、しばらくは見とれてしまった。この明るさならばわたしのカメラでも充分に撮影出来るだろうと思ったけれども、そのときは仕事中でもちろんカメラなど持ってはいない。「明日も同じように、同じぐらいの時間にまたあんな月がみられるのなら、ぜひ撮影したい」と思った。

 アメリカでは、あと一週間でオバマが退陣し、代わりにドナルド・トランプが新しい大統領に就任する。先日、ゴールデングローブ賞の授賞式で、メリル・ストリープがトランプを痛烈に批判して、話題になっている。これに対してトランプはtwitterで反論したらしいが、昨日は当選後初めての記者会見を開き、また「トランプらしさ」全開で、CNNを批判し、CNN記者の質問を無視して答えようとしなかったらしい。自分のお気に入り報道機関を優先し、気に入らない報道は無視するというのはどこかの誰かもやっていたことと思うけれども、はたしてどんな「独裁者」になってしまうのか。いったいアメリカはどうなってしまうのか、日本に住むわたしも心配である。
 一方で日本には安倍政権。トランプ政権は、いちおうまずはこれから四年間と期限付きだけれども、安倍政権はいつまで続くのか見当もつかない。プーチンみたいな長期政権をめざしているのだろうかと思うけれども、野党はどんどん弱体化しているようにみえるし、今の政権にストップを、ブレーキをかけられるような要素はみあたらない。こんどは「共謀罪」の成立をめざした法案を提出するという。改憲をふくめて、今の政権の向かう方向は、どんどんと戦前の全体主義国家に戻ろうとしているようにみえる。トランプも恐いけれども、安倍はわたしの生活に密接に関わるところでわたしたちの人権を狭めようと画策しているわけで、もっともっと恐いのである。
 しかし、悪名高いYahoo!ニュースのコメントなどをみると、政治的な問題に寄せられたコメントはほぼすべて、恐ろしいほどに右寄りのコメントで埋められている。リベラルな考えを持つものは「反日パヨク」などと呼ばれて排斥される。はたしてこれがほんとうに今現在、日本に住む人たちの意見なのだろうかと、おどろいてしまう。読んでいると、まるで百年前の亡霊が甦ってきたような思いがする。
 まあこれから先、こんなことをブログに書いていると誰かさんにしっかりとチェックされ、リストに載せられることになるわけだろうか。おっと、もうやられているのかな。


 

[]「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」(1986) クリント・イーストウッド:監督 「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」(1986)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 う〜ん、やっぱりイーストウッドって共和党支持者なんだよね〜、てな作品で、1983年のアメリカ軍のグレナダ侵攻をあつかった作品。イーストウッドは、朝鮮戦争の時代から数々の戦場を体験してきた海兵隊古参軍曹で、引退前に海兵隊の海兵師団の訓練をまかされると。落ちこぼれでやる気もなかった新参兵たちは、イーストウッドの訓練で一人前の兵士へと成長して行く。そしてある日、グレナダに侵攻してグレナダのアメリカ人学生を救出せよとの命令が下る。

 イーストウッドの作品としては、88年の「バード」の前の作品ということで、彼がつくった娯楽に徹した作品としては、ほぼ最後の作品といえるのかもしれない。ただこの作品、軍隊のポジティヴな面ばかりを描こうとしたせいか、どうも印象が散漫というか、あまり集中して観る気分の作品ではなかった。特に前半は何を描きたくて撮っているのかわからなくって、とにかくは短いエピソードの連続で、それぞれはリアルなものではなくてウソっぽいというか、「とにかくは観て楽しんでくれればいいのよ」という演出なのだろうか。
 グレナダ侵攻作戦は史実だし、史実に則って演出されたらしいのだけれども、まあ終盤の三十分ぐらいでちゃっちゃっと要領よく終わってしまう感じで、他のリアルな戦争映画を見慣れた眼からすると、「なんだかなー」というところではある。

 どうもやはり、アメリカの戦争映画で評価の高いものは皆、厭戦的なものというか、戦争の非人間性をクロースアップするとか、そういうものが多いわけで(戦争というのはきっとそういうものだろうから、それはあたりまえのことではないかと思うのだけれども)、イーストウッドは「そうじゃない、アメリカ軍(特に海兵隊?)は素晴らしいものだぜ!」というのを撮りたかったのだろうか。これは現実にもヴェトナム戦争の「敗北、撤退」という過去を持つアメリカにとって、久々のアメリカ軍隊の海外での勝利であったのだけれども、これは当時のレーガン大統領の周到に準備した「反共戦線」であり、レーガンのイデオロギーと結びついた「仕組まれた侵攻」だったわけである。そこにくっついた「アメリカ勝った、万歳!」みたいなこの映画、映画として面白いわけでもなく、やはり困ってしまうのである。

 今まで観たイーストウッドの映画では、「J・エドガー」もまた「困った」映画ではあったけれども、やはりイーストウッドには、政治的なことは撮らせない方がいいと思う。


 

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■ 2017-01-12(Thu)

 昨日カレーを大量につくったので、これからは当分、カレーライスの連続になる。朝だけはトーストだけれども、昼食はカレー、夕食もカレー。多分明日も明後日も同じことに繰り返しだろう。

 今日は昼前に、借りていた本を返却しに図書館へ行った。かわりに何か借りようかと館内をぐるっと廻ってみて、やはり「雪」が圧倒的に印象に残っているオルハン・パムクの、「わたしの名は紅」を借りることにした。それと、「何か軽く読めるものを」と、赤瀬川原平の「妄想科学小説」という薄い本とを借りた。ただ、今は自宅本、「スティーヴンソン怪奇短編集」というのを読んでいる途中なので、読むのはこの本を読み終わってからのことになる。だからいま読んでいる本は、早く読み終えてしまわなければ。
 図書館の帰りに市役所に寄り、「自立支援医療」のノートの、指定医療機関の書き換えをやってもらった。来週はいよいよ、小平でMRI検査などである。帰宅して、ちょっとやる気も出てきたので、不動産屋の契約書類も書き上げて投函した。

 先日買った日本酒はあまりにおいしいので、どうも一気に飲んでしまうのがもったいなくもあり、普段飲むのは別の酒にしようと、ドラッグストアで紙パック酒「鬼ころし」を買った。いろいろと飲んでみてけっきょく、紙パックの酒というのはどれもロクなものではないのだけれども、そんな中ではこの「鬼ころし」が値段も安いし、味もスッキリしているように思う。いちばんマシであろう。とにかく、先日買った紙パックの酒などは比べモノにならない。


 

[]「怪談」(1965) 小泉八雲:原作 小林正樹:監督 「怪談」(1965)   小泉八雲:原作 小林正樹:監督を含むブックマーク

 小泉八雲の「怪談」から、「黒髪」(原作タイトルは「和解」)、「雪女」、「耳無し芳一の話」、そして「茶碗の中」の四作品を映像化したオムニバス作品で、トータル三時間を超える長尺である。この作品は「にんじんクラブ」が長く企画をあたためていた作品で、当初松竹での映画化が検討されていたけれども、東宝の元での映画化が実現したらしい。しかし膨大な制作費がかかった上に客は不入り、この作品ゆえに「にんじんクラブ」は倒産、解散ということになったらしい。

 まずさいしょの「黒髪」と「雪女」とは、セット撮影ということを前面に打ち出して武満徹の音楽をフィーチャーした、「黒」と「白」とで対になったような作品。どちらも30〜40分の長さで、ひとつこのオムニバスの基調を示したようなところがある。
 「黒髪」は三國連太郎と新珠三千代との出演で、とにかく新珠三千代が美しい。ただ、どうしてもこれは溝口の「雨月物語」の短縮版ではないか、というところがあり、観ていても「雨月物語」のことばかりが思い出されてしまう。セットは豪勢で、じっくりと撮られたカメラワークもすばらしいのだけれども、そこは「雨月物語」だって、どこをとっても勝るとも劣らぬわけで、そういうことは小林正樹だって、先行する「雨月物語」の完成度の高さは意識していたことだろうに、と思う。
 次の「雪女」は、岸惠子と仲代達矢。先に書いたように、演出スタイルは「黒髪」と同じで、全篇スタジオ撮影。いっしゅん見える岸惠子の足の美しさにドキッとするのだけれども、まさか胸まで露出してみせるとは思わなかった。わたしとしては、雪女の岸惠子がいつも着物の袖をつかんでいる妙な立ち姿が気になり、わたしは小林正樹の作品というのをそんなに観ているわけではないのだけれども、「この人は女性を描くのは上手くはないんじゃないか」とか、「エロティシズムというのは苦手なんだろうな」とか、そういうことを思ってしまった。

 次が「耳無し芳一の話」だけれども、ここではセットだけでなく海岸でのロケも行われていて、先の二作とは演出もずいぶんと異なる。ここだけで一篇の映画に出来そうな長尺で、このオムニバス映画のハイライトだろうか。とにかくまずは、物語の背景になる源氏と平家の争い、壇ノ浦の戦いのことが、まるでその芳一の唄のように、琵琶にのせた語りで語られ、画面には中村正義の描いた「源平海戦絵巻」が俯瞰映写される。そしてようやく、本編が始まる。芳一を演じるのは中村賀津雄で、すばらしい演技をみせてくれていると思う。これは知らない人はいないだろうという有名な話だけれども、きっちりと映像化されていたという印象。

 そしてラストは「茶碗の中」。これは、結末が書かれぬままに残された原作に、脚本の水木洋子がオチをつけたもの、ということだろうか。出演には中村翫右衛門に中村鴈治郎と、なんだか懐かしい名前が並んでいる。意外と、この二人が共演したのはこの映画だけなのかな。ここではふたたびセット撮影に戻り、あまりギミックなことはやらずに、正攻法での演出のようでもある。でも、感想をいえば、オチのない話にあとからオチをつけて、成功することはない。オチはいらないのである。そう思う。

 ‥‥この映画、この年のキネマ旬報ベストテンでは2位に選ばれ、カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞している。しかし、わたしが観た感じ、この映画、いろいろな意味で、60年代日本映画の哀れな末路、みたいに見えて仕方がない。ひとつには「ジャパネスク」。カンヌで受賞したというのも、このジャパネスクゆえではないのかと思えるのだけれども、それは50年代の海外での日本映画ブーム(黒澤や溝口とか)でみられた日本映画の特色を、表層だけで再現したもののように思えてしまうのである。先に書いたように、「黒髪」は溝口の「雨月物語」に酷似しているし、原作者である小泉八雲(ラフカディオ・ハーンという外国人)が惹かれた「日本」を描いた作品として、一面でそこに「ジャパネスク」があるということは出来ると思う。じっさい、日本の観客は、ある意味でこの作品を見捨てている。それは理由のないことではないと思う。

 そしてもうひとついいたいのは、この映画に日本60年代の「モダニズム」というものが、良きにせよ悪きにせよ、明確に姿を見せているように思えるということ。それはひとつには、このセット美術(特に前半二作品の空の書き割りとか)にはっきりとあらわれていると思えるのだけれども、こと美術に限ってみても、これはそれまでのいわゆる「日展」的な美術からの背反、離脱としての、60年代的な「前衛」の姿なのではないのか。まさに象徴的なのが、「耳無し芳一の話」において、中村正義の壮大な絵巻をこの映画のために描かせたという事実だろうか。この中村正義による作品は今は近代美術館に所蔵され、今も彼の代表作とみなされている。そういう作品が、この映画のために描かれたということ。そのことは、何らかの事情を象徴しているのではないかと思う。

 先に書いたように、50年代には日本映画はとつぜんに海外で最大限の賛美を受けた。そのことを受けて、そのことを引き継ぐつもりでつくられたのがこの映画ではないのか、そういう気がする。そこに対海外として「ジャパネスク」という問題があり、国内的にみれば60年代の「モダニズム」とは何だったのか、という問題があるように思えてしまう。
 例えば、先日観たアントニオーニの「赤い砂漠」(この「怪談」とほぼ同時期に撮られている)もまた、きわめて「アート」的な作品だと思えるのだけれども、そこにはある種の「普遍性」のようなものを感じ取ってしまう。しかし、この「怪談」、どうしても「60年代という時代はこういう表現だったのだよな」というように、資料的にしか観ることができないわたしがいる。
 このあと日本映画というものは、ATGの低予算映画の中にこそ活路を見出し、いわゆる五社のメジャーな大作と対立するようなかたちで発展してきたと思うし、今でもその流れは続いていると思う。そういう、メジャー大作と低予算映画との対立(?)というのは、この頃から始まっているのではないかと思う。この作品、戦後日本映画の歴史を眺めてみて、その分岐点ともいえる作品ではあるのかもしれない。


 

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■ 2017-01-11(Wed)

 一昨日買ったケイト・ブッシュの「エアリアル」が、とってもいい。このところ、このCDばかりを聴いている。わたしがさいごに聴いたケイト・ブッシュのアルバムは「レッド・シューズ」で、それ以来12年ぶりになるアルバムということだけれども、ある面で「まるで変わらないな」という印象でもあるし、より深化したという印象でもある。実はわたしには「レッド・シューズ」はそれほどまでにこころに残るアルバムではなかったのだけれども、この「エアリアル」はどこか、その前の「センシュアル・ワールド」とかを思い出させられる音世界な気がする。
 彼女にとってはじめての二枚組アルバムで、一枚目が「A Sea of Honey」、二枚目が「A Sky of Honey」とのタイトルがつけられている。内ジャケットが庭に干された洗濯物の写真で、その風になびく洗濯物が、左側でははばたく鳥に姿を変え、左端へと飛び立って行ってしまう。一枚目にはそういう洗濯機のことを歌った曲もあるし、何というか、そういうパーソナルな世界を中心とした一枚目から、世界へとはばたきを見せるような二枚目へと、みごとな世界観だと思った。
 彼女はこのあと、「雪のための50の言葉」というアルバムも発表している。やはり、そちらも聴いてみないとしょうがないかな。

 今日と明日とはしごとが休みの二連休で、この二日間のあいだに「やらないで放置していたことをやってしまいたい」と思っていたのだけれども、午後になってすぐに、また昨日のように「昼寝」に突入してしまい、目覚めたらもう外は暗くなっていた。
 そろそろ、ちゃんと自炊をしてみたいとも思っていて、やはり冬は「カレー」がいいと、二〜三日前から決めていたので(カレーなんて自炊のうちには入らないともいえるのだけれども)、目覚めてからカレーづくりにいそしんだ。特にこだわりはなく、カレールーの箱に書かれている通りのつくり方で進める。ただ、さいしょにタマネギのみじん切りをタマネギ一個分ぐらい、じっくりと炒めてから、他の肉野菜を加えてつくりはじめる。市販のカレーパウダーもプラスして、さいごに「いなばのタイカレー」を一缶ぶち込む。これでおいしいカレーの出来上がり。

 食事のあとは「やっぱりヒッチコックだね」と、DVDで持っている「めまい」を観た。どうせ明日も休みだから、多少夜更かしをしてもだいじょうぶなのである。


 

[]「めまい」(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「めまい」(1958)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 観始めて、もうすっかりこの映画の内容を忘れてしまっていることがわかった。前に観たのはおととしの九月のこと。もう十五ヶ月以上経っているから、わたしの壊れた記憶マシーンでは記憶しておくのは不可能だったのだろう。でも誰かがいったように、「記憶していないのなら毎回<初めて観るように>楽しめる」というのはほんとうで、初めて観る映画のように楽しめただろうか。それはそれで<悲しい>ことではあるけれども。

 そう、わたしが先日観た「素晴らしき哉、人生!」みたいな映画を楽しめないのは、そこに出ているジェームズ・スチュワートって、つまりはこの映画の主人公みたいな人間でもあるせいなんじゃないかと思う。決して一般的な常識の中で生きる健全な「常識人」なんかではないじゃないか、そういうところである。

 意外と長尺の作品で、二時間をちょっと越える。そのまさにちょうど半分のところで、前半と後半とがくっきり分かれている。映画としてはミステリー仕立てで(原作はミステリー作家のボワロー&ナルスジャックである)、その前半は主人公のスコティ(ジェームズ・スチュワート)が、過去に囚われた女性マデリン(キム・ノヴァク)をけっきょくは救えなかったというところまで。ここでスコティが高所恐怖症だということが活かされて、彼女を救うことが出来ない。そしてスコティはマデリンに恋してしまっている。スコティの悪夢のようなイメージ映像が挿入されることで、かっちり映画の半分のところで前半が終わる。何がミステリーなのか?

 後半、おそらくは前半の事件の顛末から相当の時間が経っているのだろうけれども、スコティは街角でマデリンにそっくりの女性ジュディに出会う。過去の幻影、マデリンの幻影を追い求めて、スコティはジュディに接近する。ここであっさりと、ジュディの書いた、スコティには渡されることのなかった手紙で、真相は観客に知らされることになる。「え〜、なんだ、そうだったのか」というところで、だったら、刑事でもあるスコティが、いかにその罠を解き明かして真相を解明するか、そういう展開になるのだろうか。ところが映画はそのように直線的には進まず、スコティの妄執を執拗に描くことになる。その妄執とは、ジュディをどこまでもマデリンに仕立て上げ、そんな彼女を愛しようとすること。マデリンと同じ服を着せ、同じ髪の色、同じ髪型をさせる。
 この妄執の世界は、映画としてまるでデヴィッド・リンチの映画のような様相をみせてくれる。スコティの部屋の緑のカーテンを通して差し込む、まるで現実味のない緑の光。そこに室内の照明からの光。外に光るピンクのライト。前半には決して顕われることのなかった、異様な世界である。そして、マデリンの姿をさせられてまさにマデリンと同一になったジュディが、まるで霧がかかったような部屋の奥から、霧を晴らしながらスコティの方に不安定に進んで来る。そして、口づけをするふたりのまわりをグルグルと回転しながら、ふたりを撮って行くカメラ。もう、この一連のシークエンスは、ミステリー映画とか何とかいうのではなく、「アート」ではないのか。とにかくは強烈である。そしてふたりは、前半でのスコティとマデリンの行動をなぞるように、またもや破滅的なラストへと向かって行く。

 気になることがひとつあって、この映画の中に登場して来る、ミッジという女性とは何なのか、ということ。スコティとミッジとは古い知り合いで、かつては婚約していたこともあったという。その婚約はなぜか履行されなかったけれども、スコティにとってミッジは良き友人、相談相手ではあるようで、前半ではスコティはミッジの部屋をよく訪ねている。みている感じ、ミッジは今でもスコティを愛しているようなのだけど、スコティは彼女のことをまるで「愛情の対象」とはみていないようだ。ミッジを通して見えてくるスコティという人物、どうも今までの人生で、ほんとうに女性を愛したことがなかったのではないかと思える。そんな、スコティの世界の中で「異性」、「女性」というのは、そのミッジという存在で代表されるというか、要するにほかにいなかったということか。つまり人を愛したことのないスコティは、マデリンとの出会いで人生で初めて人を愛することを知り、そこにのめり込んで行く。マデリンの「死」で対象を失ったスコティの愛情は、ジュディと出会うことでジュディをマデリンに置換して愛情を成就しようとする。これは「狂気の愛」であろうか。その行為は「破滅」するしかない運命だったろうし、その「破滅」への道案内が「修道女」だったということもまた、むべなるかな、というところだろうか。

 スコティとマデリンの、海岸の波打ち寄せる波濤をバックとしての抱擁とか、強烈な名シーンにあふれた映画でもある。この作品、2012年には、英国映画協会が発表した「世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選」の第1位に選ばれたそうだけれども、うなずける選択だと思える。あまりに素晴らしい映画である。


 

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■ 2017-01-10(Tue)

 さて、東京から帰宅して、まずは「携帯電話をどうしようか」ということなのだけれども、いま契約している会社の店舗で昨日、「わたしは顧客だぜ」ということを無視されて(ということは関係ないとしても)酷い応対をされたことが不快だったし、メールアドレスも電話番号も変わってしまうのであれば、執着する必要はどこにもない。もっと安いところを探すだけの話である。ネットで検索すると、いくらでももっと安いところが見つかる。ただ、どこも皆ネットからダイレクトに契約に行ってしまうというのが何か不安で、出来ればじっさいに店舗に行って、話を聞いてから契約をしたいという考えはある。

 もうひとつ、やっておかなければならないことがある。不動産屋の契約書類を書いて送らなければならないのだけれども、今日もまた午後から長い昼寝をしてしまったので、もう目覚めたときには何もやる気はなくなってしまっていた。夕方から昨日観た映画の影響でヒッチコックの映画を観て、そのあとに昨日買ったDVDの「ミラーズ・クロッシング」を観てしまった。いつもになく夜更かししてしまったけれども、明日はしごとも休みだからかまわない。


 

[]「知りすぎていた男」(1956) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「知りすぎていた男」(1956)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 ヒッチコックにしてはスケールが大きいというか、モロッコからイギリスへと展開する国際陰謀のストーリーで、そんな中に巻き込まれてしまうアメリカ人家族の奮闘。主人公はジェームズ・スチュワートで、その奥さん役は歌手としても著名だという設定のドリス・デイ。彼女が歌手であるということが、物語展開で大きな意味を持つ。

 クライマックスのひとつはロンドンのアルバート・ホールでの演奏会なのだけれども、ここで演奏されるのはベンジャミンの「ストーム・クラウド・カンタータ」という曲で、指揮をするのはヒッチコック映画の音楽でおなじみのバーナード・ハーマン。みているとコーラスに何十人、いや、百人単位の人たちが絡む大曲である。このシーンでの、シンバルが打ち鳴らされるところこそがポイントだぜ!ということは映画の冒頭でも示されているわけだから、少しは集中して観るわけだけれども、いやはや、このシーンでのカット割り、カメラの移動には恐れ入ってしまう。カット割りで場面が変わるたびにカメラ位置が変わっているのだけれども、これが、どこまでも違う位置からというのが続いて行く。おそらくは十ヶ所、いや、それ以上の場所からホール内を撮っているだろう。「何もそこまでにやらなくってもいいだろうに」と思ってしまうぐらいに、執拗にホール内の全体をとらえようとする執念。恐れ入ってしまうのである。これは映画の冒頭のシーンで、ワンシーンワンカットでカメラがだんだんにシンバルに近寄って行く演出と好対照というか、その「技」に見入ってしまう。


 

[]「ミラーズ・クロッシング」(1990) イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン:脚本 ジョエル・コーエン:監督 「ミラーズ・クロッシング」(1990)   イーサン・コーエン:製作 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン:脚本 ジョエル・コーエン:監督を含むブックマーク

 バーニー(ジョン・タトゥーロ)という、どうしようもない卑劣漢がいる。町の新興勢力のイタリア系マフィア、キャスパー(ジョン・ポリト)はバーニーを始末したい。しかしキャスパーを抑えつけるアイルランド系マフィアのレオ(アルバート・フィニー)はバーニーを始末しようとは思わない。なぜなら、レオはバーニーの姉であるヴァーナ(マーシャ・ゲイ・ハーディン)に惚れているから。レオの懐刀(ふところがたな)であるトム(ゲイブリエル・バーン)は、皆に「頭がキレる」と認められているけれども、最近はギャンブル運に見放されている。そして、レオのその判断はマズいと思っている。しかもトムもまたヴァーナに惚れていて、レオに隠れてヴァーナと関係を持っている。キャスパーにはディン(J・E・フリーマン)というこわもての用心棒がついていて、トムを嫌っている。ディンはゲイで、バーニーの友達であるミンク(スティーヴ・ブシェミ)と愛人関係にある。トムはそこがディンの弱点ととらえている。

 ヴァーナを尾行していたレオの用心棒が殺害され、レオはキャスパーの仕業と考えてキャスパーのアジトに攻撃を仕掛ける。キャスパーの側は逆にレオの邸宅を襲撃する。町は一触即発の状態である。そんな中、レオはトムに「ヴァーナと結婚したい」と語る。ここでトムはどう考えるのか。どうやらレオとヴァーナとの関係に水を差して結婚をあきらめさせようという考えなのか、自分がヴァーナと関係を持っていることをレオに告白する。怒ったレオはトムを追放、トムはキャスパー側に着くことになる。キャスパーの部下として彼がさいしょにまかされたのは、バーニーを「ミラーズ・クロッシング」へ連れて行き、そこで殺すことであった‥‥。

 対立するふたつの陣営のあいだで、頭を使ってうまく立ち回るというと、「用心棒」的なところを思い浮かべてしまうけれども、トムの場合、すべてが計算ずくというわけではない。レオにヴァーナとの関係を告白したのは「愚行」ですらあるだろうし、バーニーにいちどは恩情をかけることが彼の足を引っ張ることにもなる。ただ、そんな危機から逃れるための「計算」にこそ彼の真骨頂があるというか、情況を読むことに長けている。
 トムの弱みは、とにかくもヴァーナに惚れてしまっていることにあるようで、それゆえにレオのもとを(一度は)去ることになるし、バーニーを始末出来ないというのも、ヴァーナゆえのことと考えられるだろう。ある意味ではバカな男なのかもしれない。しかしついに堪忍出来ずにバーニーを殺してしまうとき、そのいっしゅんに、トムはヴァーナとの関係をあきらめたはずである。そこんところでこの映画、観ていてグッとしてしまうわけでもある。けっきょくつまりこの映画、大切な何かを失うことになる男の物語なのだろう。彼は実はクレヴァーな男なのだけれども、そのクレヴァーさは感情を動かすことは出来ない。しかしさいごには彼も、「あんたにもハートがあるだろう?」と問われて「ハートはない」と答える人間になってしまう。

 DVDの特典映像で、撮影のバリー・ソネンフェルドの話が聴けるのが有益だった。彼のコーエン兄弟と共に始まったキャリア、そしてこの作品での広角レンズと望遠レンズの使い分け、フィルムの使い分けなど、興味深い話だった。
 そのスタイリッシュな映像(特にファーストシーンの、風もないのに飛んで行く帽子!)と、印象的なカーター・バーウェルの音楽とのせいで、この映画はわたしにとって愛すべき映画であり続けている。

 いつもコーエン兄弟の映画で目立っていた、キャスパー役のジョン・ポリト、この作品でも熱演をみせてくれているのだけれども、去年の九月にお亡くなりになられたようである。残念なことである。


 

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■ 2017-01-09(Mon)

 今日は、今年初めて東京へ行く。新宿で映画「ヒッチコック/トリュフォー」を観るつもりで、ついでに携帯電話の買い替えについて、店を覗いて検討してもみたい。映画は十二時ぐらいから始まるので、こっちは九時四十分の電車に乗ればいい具合だろう。今日はしごとも休みなので、朝はバタバタしないでゆっくりと準備ができる。しかし、このしばらく、長いじかん家を空けることをやっていないので、ニェネントをひとりぼっちにして置いて行くのがかわいそうになってしまう。これでわたしが出かけるときにニェネントが玄関先まで出て来て、よくやるように柱にあたまをこすりつけながらわたしのことを見送ってくれたりなどしたら、「ごめん、やっぱりキミを置いては行けないよ」と、外出を中止してしまうかもしれない。でもニェネントはわたしが出かけるときもベッドの上で寝つづけていたので、そんな感傷に囚われることもなく出発出来た。

 外はちょっと雨が降っているけれども、予報では午後には雨もやむようにいっていた。傘もささずに駅に向かう。今日は「成人の日」で祭日なせいだろう、思ったよりも電車を待っている人は多かった。

 この時間帯はターミナル駅での乗り換えもスムースにいくので、順調に新宿へ向かう。しかし赤羽駅に着いたところで「先行電車で異音がした」とかいうことで、点検のために電車がストップしてしまった。「どうせすぐに動き出すだろう」とそのまま乗っていても良かったのだけれども、「やはり早く着いておこう」と、動いている埼京線に乗り換えた。わたしと同じように多くのお客さんが乗り換えたので、埼京線はラッシュアワー並みの混み方になった。こんなにぎっしり人の乗った電車に乗るのも久しぶり。新宿には十一時半ぐらいに到着した。

 まず、駅に近い映画館へ行ってチケットを買って座席を確保し、喫煙出来るところへ移動して一服。コンビニに寄ってミネラルウォーターとサンドイッチを買い、「これを昼食にしてしまってもいいな」という気分。上映時間が近づいて映画館へ戻る。けっこう混み合っていた。

 映画もなかなかに面白く、「観に来てよかった」という感想。映画が終わって外に出ると、もう雲の間から青空がのぞいていた。「では携帯電話のショップへ行ってみよう」と、今持っている携帯を引き継いでいる店に行ってみる。わたしとしては、今の携帯の電話番号、そしてメールアドレスを変えたくはないのである。店に行って、どんな買い替えのプランがあるのか聞こうとしたら、身分証明を持っていないとダメだという。わたしはその会社に毎月使用料金を払っているというのに、その拒絶の仕方が一方的なので、ちょっと腹が立ってしまった。そういうときには「身分証明がなければ、お話し出来ることと出来ないことがあります」ぐらいの言い方をすればいいじゃないか。「なんでそういう対応をするのか」と、ちょっと語気を荒げてしまった。そこでようやくもう一人の人物が「まあまあ」みたいに入って来て、ちゃんと説明出来る範囲で説明してくれるのだった。なんだかなー、という感じはした。それでわかったのは、もう同じメールアドレスは使えないということ、そして電話番号も変わってしまう可能性が高いということだった。
 わたしは今の携帯はほとんどメールのやり取りばかりに使っているし、メールアドレスが変われば、どっちにせよその旨をみんなに知らせなければならない。電話番号が変わっても変わらなくても同じことである。ということは、もう今契約している会社にこだわる必要もないわけで、それだったら出来るだけ安い料金ですむ携帯に乗り換える方がいい。これは家に戻ってからでもじっくりと調べてみようということにした。

 時間はまだ三時半ぐらい。あわてて帰ることもないので、近くの中古本量販店に行ってみることにした。そうするとグッドタイミングというか、今日まではたいていの品が20パーセント引きになっているのだった。それだったら何か買おうとゆっくりと棚を見てまわり、コーエン兄弟の「ミラーズ・クロッシング」、そしてタルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」(これは掘り出し物だと思う)のDVD、ケイト・ブッシュのCD「エアリアル」とを買った。本も何か買おうと思ったのだけれども、文庫本には欲しいものはなく、単行本は気になる本は二割引でもちょっと高すぎる気がして、何も買わなかった。ナボコフの「透明な対象」があって、ちょっと欲しかったのだけれども、本を開いてみるとあちこちに赤線が引いてあったりしたので、「これは買えない」という判断。

 さて、買い物も終わったので帰りましょう。そうそう、もう紅茶のティーバックが残り少なくなったので、ターミナル駅のアルコール量販店に寄って、買って帰りましょうと、いつものようにターミナル駅でいちど下車してお買い物。ついでに駅の下のスーパーにも寄って、ちょっと奮発して「晩酌セット」と書かれた揚げ物の詰め合わせを買う。めかじきの刺身が半額になっていたので、「これをニェネントのおみやげにしよう」といっしょに買い、ついでに酒売り場をのぞいてみたら、「玉乃光」という京都の吟醸酒が二割引で置かれていて、「おいしいかもしれない」と買ってみた。

 帰宅して、買ってきた「晩酌セット」と、「玉乃光」とで夕食。うん、この「玉乃光」という日本酒は、とってもおいしい。今までに飲んだ日本酒の中でもトップクラスの味だと思った。大ヒットである。いちどに飲んでしまうのはもったいないので、大事に取っておくことにした。

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 お留守番ありがとうのニェネントくんには「めかじきの刺身」なんだけれども、皿に出してあげても、なかなか食べようとしない。やっぱり「かつお」じゃないとダメなのか。グルメなネコになってしまったね。ま、皿に出しっぱなしにしておいたら、いつの間にか食べてしまったようだけれども。


 

[]「ヒッチコック/トリュフォー」 ケント・ジョーンズ:監督 「ヒッチコック/トリュフォー」 ケント・ジョーンズ:監督を含むブックマーク

 トリュフォーがヒッチコックと対談し、その対談をもとにした書物、日本でも「映画術」として翻訳されている、「映画のバイブル」ともいわれる有名な書物があるけれども(わたしは未読)、この映画はそのときの録音テープを使用して、該当するヒッチコック映画の抜粋、そして数多くの現代に活躍する十人の映画監督へのインタビューとを編集した作品。単に「映画術」の映像版というのではなく、そういった現役の監督へのインタビューを交えることで、ヒッチコック映画の現在の映画への影響、今日的な意味などを浮かび上がらせる作品になっていて、おそらくは、書物の「映画術」とは別の面白さにあふれた映像作品に仕上がっているのだと思う。それはつまり、「映画の面白さとは何か?」ということでもあり、現役映画監督のコメントが、脈々とつづく「映画の歴史」ということをも感じさせてくれる。

 備忘録的にその十人の監督の名前を書いておけば、以下の通りになる。
 ●デヴィッド・フィンチャー
 ●ウェス・アンダーソン
 ●ジェームズ・グレイ
 ●ポール・シュレイダー
 ●オリヴィエ・アサイヤス
 ●ピーター・ボグダノヴィッチ
 ●マーティン・スコセッシ
 ●黒沢清
 ●アルノー・デプレシャン
 ●リチャード・リンクレイター

 もう観終わった今、一体誰がどんな発言をしていたのか、思い出すことも出来ないけれども、黒沢清監督は「ヒッチコックがハリウッドに来たことで、ハリウッド映画も変わったのだ」みたいなことをいっていたような。そしてピーター・ボグダノヴィッチやマーティン・スコセッシは世代的にも上なので、ヒッチコック映画を封切りされたときに観た思い出を語りもする。

 前半はヒッチコックの作品をイギリス時代から俯瞰するような構成だけれども、後半はそのなかから特に「めまい」と「サイコ」とをクロースアップして分析してみせる。うん、やはりこの二本だよな、という感じである。デヴィッド・フィンチャー監督が「めまい」にふれて、「変態映画ですよ」と語っていたのが印象に残る。

 今のハリウッド映画は観客を飽きさせないために、クライマックスの連続のような演出ばかりするようになったが、映画の面白さとはそういうものではない、というような話もあった。けっこう中身の濃い作品だったし、DVDになったら購入してみたいとも思うし、そもそもがその「映画術」という本、やっぱり読んでみたいなあ。


 

[]「物忘れの心理学」 星薫:著 「物忘れの心理学」 星薫:著を含むブックマーク

 「忘れる」ということはどういうことか、いろいろなアプローチから考えられた本だけれども、わたしがほんとうに興味があるのは「病的な物忘れ」という章だけ。いろいろなデータの盛り込まれた本ではあるけれども、山ほどあるはずの「参考文献」がまったく書かれていないというのはちょっと困った。あくまでも包括的に「記憶」の問題をとらえているとはいえ、ただそれらの事象を紹介するだけというところはある。正直、あまり参考にはならなかった。

 若くしてアルツハイマー病に罹った、ダイアナ・フリール マクゴーウィンという人の書いた、「私が壊れる瞬間(とき)」という本は、ちょっと読んでみたくなったけれども。


 

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■ 2017-01-08(Sun)

 このところ、しごとでの非番の休みが多くなる。まず昨日が休みだったけれども、今日出勤すればまた明日は休み。明後日出勤するとそのあと二連休である。「遅い正月休み」という感じでもあるけれども、特にどこかへ出かけるとかいう予定を立てたわけでもない。でもやはり、今日か明日あたり、観ようと思っていた「ヒッチコック/トリュフォー」を観に行くぐらいのことはやってみたい。映画館の上映スケジュールをみてみると、今日からは昼の12時ぐらいからの上映一回だけになっている。そうするともう今日行くのは無理だから、明日行くことにしようかと計画をたてる。

 新年になってから、読書もはかどらないでいる。今読んでいるのは図書館から借りている、記憶に関しての薄い新書本で、こんなのは普通一日で読めてあたりまえみたいな本なのだけれども、寝る前に数ページ読むだけで、集中して読むということが出来ない。こういうこともなんとかしたいものだけれども、これもわたしの読書室である電車に乗れば、かなりはかどることになるだろう。とにかくはいま読んでいる本を早く終わらせてしまいたい。

 昼間、アントニオーニの「赤い砂漠」を観たら、なんだかノックアウトされてしまったようで、また何も手につかなくなってしまった感じである。でも、ずっと自炊らしいことをしていないので、夕食にはウインナともやしを炒めて卵をからめるという、実に簡単なメニューをつくってみた。こういうのは「自炊」とはいえない代物だけれども、けっこうおいしかった。ポイントは、よけいな調味料とか加えずにシンプルに仕上げること、かな。

 夜にテレビをみていたら、ザ・ピーナッツのアーカイブ映像とかの特集番組をやっていた。これは地上波ではなくて民放のBS放送なのだけれども、今までの契約ではNHKのBSとWOWOWしか見られなかったのに、去年の暮れからとつぜんに、民放のBSも見ることができるようになっていたわけで、だからといってその恩恵にあずかることもなかったのだけれども、今日ははじめて、そうやって民放BSのお世話になった。しかしやはりザ・ピーナッツとは、たぐいまれな才能豊かなデュエットだったなあ、などと感慨深く昔の映像を見た。


 

[]「赤い砂漠」(1964) カルロ・ディ・パルマ:撮影 ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督 「赤い砂漠」(1964)   カルロ・ディ・パルマ:撮影 ミケランジェロ・アントニオーニ:脚本・監督を含むブックマーク

 実に久しぶりに、アントニオーニ監督の作品を観た。この「赤い砂漠」は「欲望」の二年前の作品で、モニカ・ヴィッティがアントニオーニの作品に出演した最後の作品。実はわたしは小さい頃、この映画の音楽だけは聴いて知っていて、この映画タイトルも「アントニオーニ」という名前も記憶していた。

 当時のラジオでは、映画音楽を主流とした「ユア・ヒットパレード」というベストテン番組が放送されていて、公開されてサウンドトラック盤シングルのリリースされた映画音楽が、読者投票で順位付けされてオンエアされていたわけだった。わたしも毎週この番組を聴いていて、そんな中でオンエアされていたこの「赤い砂漠」のサントラ盤、かなり記憶に焼き付いていた。サントラ盤といっても、映画冒頭の現代音楽風のヴォーカリーズをフィーチャーした曲ではなく、劇中でモニカ・ヴィッティらが桟橋の小屋の中でパーティー風に盛り上がる場面で、そこに置かれていたポータブル・ラジオから流れる、ちょっとポップなギター音楽の方である。
 「アントニオーニ」というと、今は作家主義の映画作家として、ちょっとマニアックな映画ファンに知られる作家だけれども、昔は「太陽はひとりぼっち」にアラン・ドロンが出演していたことなどから、一般にもかなり知られた監督さんだったと思う。しかし、その「太陽はひとりぼっち」の次に公開された「赤い砂漠」、当時どのくらいの評判を呼んだのだろうか。キネマ旬報のベストテンの記録をみると、この作品、1965年に外国映画の第8位にランクされている。まあ、キネ旬の評価と一般の評判とは乖離があるだろうけれども。

 前置きが長くなってしまったけれども、なんというか、「ヤバい作品」だと思った。これは「欲望」についての映画。その欲望はもちろん、性欲でもある。そしてそのことを、世界との関係でとらえた映画だろう。主人公はジュリアーナ(モニカ・ヴィッティ)という、既婚で子供もいる女性。場所はイタリアのどこか、港に近い工業地帯。モニカ・ヴィッティはやはりここでも、神経症的な女性であり、過去に自殺未遂していることが明かされる。そこに夫の仕事の関係でコラド(リチャード・ハリス)という男がやって来て、パタゴニアでの短期労働者を募集している。パタゴニア〜ある意味で、「ここではないどこか」という地、なのだろうか。ジュリアーナとコラドは自然と知り合い、ジュリアーナは自分のことをコラドに語る。コラドの中に自分に似た存在を認めたのか。二人はあるとき、ジュリアーナの夫ら、複数の男女といっしょに港の入り口の粗末な小屋に入り、そこで乱交パーティーじみた展開になって行く。しかしそこに大きな貨物船が入港して来て、黄色い旗を揚げる。伝染病患者がいるということだと誰かが言う。集まっていた男女は現実に引き戻され、またジュリアーナは残されてしまう。世界との違和感。愛する息子でさえも、彼女に嘘をつくではないか。彼女が息子に語る、島にひとり住む少女の話。
 彼女はコラドのもとに走り、結ばれるのだけれども、それは「解決」ではない。コラドにはジュリアーナは助けられないのだろう。言葉の通じない船員のいる貨物船に乗ろうとするジュリアーナだが、自分が何をしているのかわからなくなるようである。満たされない欲望を抱えたジュリアーナは分裂している。けっきょく、彼女はこの世界で生きて行くしかないのだろう。

 アントニオーニ初めてのカラー作品だということで、灰色にくすんだ街のなかで、ジュリアーナが持とうとする店の壁に塗られた色彩、何よりも、乱交パーティー的な展開になる海辺の小屋の、その部屋の壁の強烈な「赤」が心に残る。ここにタイトルの「赤い砂漠」があると考えると、それはもちろん、人の心の中の砂漠だろうし、ジュリアーナの中の砂漠なのだろう。
 いちど観ただけではまとめられない、何度も観返したくなる作品だった。


 

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■ 2017-01-07(Sat)

 昨日は「いろいろなことをやるのがめんどうだ」ということを書いたのだけれども、そういう、物ごとをやるのが何でもめんどうと思うのは、いくぶん「鬱」の気がある、ということでもあるらしい。そう思ってみると、「たしかに少し<鬱>なのかな?」というところはあるのかもしれない。こういうときはどこかに出かけて、気分転換するのがいいのかもしれない。
 新宿で、観たいと思っている映画、「ヒッチコック/トリュフォー」というのをやっていて、今日はしごとも休みだし、観に行ってみようかと思っていたのだけれども、やはりけっきょく、行くのをやめてしまったりする。

 ウチの近く、ターミナル駅の映画館で、何か観たい映画をやっていたりしないだろうか?と調べてみたら、来月のことだけれども、観たいと思っていた「この世界の片隅に」をやってくれるようだ。すばらしいことである。やはり「この映画館はポリシーがある」と思っていただけのことはある。来月にはきっと観に行こう。

 先日買った紙パックの日本酒、「辛口」と書いてあるので期待したのだけれども、いやあ不味い不味い。こんなに不味い酒は初めてではないのか。いや、以前、月島のもんじゃの店で飲んだ日本酒に匹敵する不味さ。日高屋の日本酒の方がずっとマシである。あー、おいしい酒が飲みたいものである。


 

[]「ジャッキー・ブラウン」(1997) エルモア・レナード:原作 クエンティン・タランティーノ:脚本・監督 「ジャッキー・ブラウン」(1997)   エルモア・レナード:原作 クエンティン・タランティーノ:脚本・監督を含むブックマーク

 わたしは一時期、この映画の原作者のエルモア・レナードにハマっていた時期があり、この原作の「ラム・パンチ」もたしか持っている。もちろん内容はこれっぽっちも記憶してはいないし、いちど観ているはずのこの映画も、やはり記憶に残っていない。ただ、主演がパム・グリアという女優さんであることを覚えていただけ。

 タランティーノとしてはこれが監督第三作になるようだけれども、彼の作品でおなじみの、延々と続くしょうもない会話とかいうものはなく、かなりストレートな演出になっている。一ヶ所だけ時系列をいじるところがあり、それがタランティーノらしいところなのかもしれない。
 物語は、武器商人オデール(サミュエル・L・ジャクソン)の「運び屋」をやっていたスチュワーデスのジャッキー・ブラウン(パム・グリア)がFBI捜査官につかまってしまい、オデール逮捕に協力するように迫られるのだけど、そのオデールとFBI捜査官とのあいだでうまく立ち回り、逆にオデールの金50万ドルを自分のものにしてしまう、というようなもの。FBI捜査官のひとりをマイケル・キートンが演じているほか、オデールの彼女にブリジット・フォンダ、オデールの相棒にロバート・デ・ニーロなどが出演している。

 どうも観ていて、オデールがメキシコに預けてある50万ドルをカリフォルニアに持って来るのに、どうしてそこまでにややっこしいことになってしまうのか、どうもよくわからないのだけれども、まあそういうめんどうな手順を踏まないといけないんだな、ということで納得したつもりで観る。そのジャッキー・ブラウンに魅力を感じてというか、彼女に惚れて彼女の手助けをする、「保釈保証業」というものをやっているマックス・チェリー(ロバート・フォスター)という男の存在が、このドラマのひとつの核になっていて、やはりどこかジャッキーに魅力を感じているようなマイケル・キートンと共に、ジャッキー・ブラウンという魅力的なヒロインを盛り上げることになっている。
 サミュエル・L・ジャクソンの悪役ぶりもいいのだけれども、彼の周りにたむろするブリジット・フォンダやロバート・デ・ニーロらのぐだぐだした感じが、一方のジャッキー・ブラウン周辺の(しゃきっとした)人物らとの対比とでいいコントラストになっていたと思う。しかしここでのロバート・デ・ニーロはほんとうにチンケな脇役で、彼もそんなおバカな人物を嬉々として演じているようでもある。


 

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■ 2017-01-06(Fri)

 不動産屋の契約書類の作成のほかに、新年早々にやらなくてはならないことがいろいろとある。怠惰なわたしにはどれも実にめんどうなことであるが、放置するわけにはいかない。ひとつには17日に迫った小平での脳検査のために、自立支援医療手帳の書き換えを申請しなければならない。これは検査一回だけのためのものなので、検査が終わったらまた役所へ行って、元に戻さなければならない。それと、「ひかりTV」のチューナー交換をしてほしいという依頼が来ていて、これもまた連絡しなければならない。まあ単に役所へ行ったり電話をすればいいだけの話なのだけれども、わたしにはめんどうである。

 年賀状も何通かいただき、これも返事を出すべきなのだろうけれども、Aさんとメールでやりとりした以外は放置している。特にBさんご夫妻には昨年久々にお会いしていて、ごあいさつしておきたいのだけれども、わたしの病状のことにも触れておきたく、そうすると、そのようなことを書くのがめんどうになってしまう。でもやはり、Bさん夫妻とは今後もいい関係を続けていきたいし、そうすると自分の状態のことも、どこかでいちど伝えておかなければならないと思う。なんだか考えるとめんどうである。

 先日スーパーで雑煮用の鶏肉が安く売られていたのを買ってあって、今日の昼食はその鶏肉を使ってチキンライス、というかオムライスをつくってみた。なかなかにおいしかった。夕食には同じ鶏肉を使い、水炊き鍋にした。お手軽なものである。しかし、このところ、「自炊」といえるようなことをあまりやっていない気がする。ゴミ袋にはそういう、お弁当のトレイとかカップ麺の容器とかがあふれている感じである。

 ずっと観ている「レッキング・クルー」の特典映像だけれども、今日は残りのセクション、「ピアノ」、「プロデューサー/編曲家」、「管楽器」と観て、長かった特典映像ツアーもようやくにして終わりになった。ピアノ編ではレオン・ラッセルがかなりフィーチャーされる。彼のセッション・ミュージシャンとしての経歴は長いのだ。こうして「特典映像」を通して観ると、個々のミュージシャンのことがより深くわかるようになり、そのことで、当時のミュージック・シーンのこともまた浮かび上がって来ることになる。60年代の、ロック・ミュージック誕生以前のポップソングになぜわたしが今なお惹かれるのか、それは単に、わたしの感受性のいちばん強かった頃に聴いていた音楽だったから、という以上の理由が、そこにはあったようだ。このDVDに出会えてほんとうによかった。

 昨夜「ひかりTV」で、デジタル修復されたユーリ・ノルシュテイン(そのチャンネルの表記では「ユーリー・ノルシュテイン」)の作品が放映され、もちろんわたしは録画しておいたのだけれども、今日はそのうちの一篇、「キツネとウサギ」を観た。そのデジタル修復に立ち会うために来日していたユーリー・ノルシュテイン自身の解説付きだった。


 

[]「キツネとウサギ」(1973) ユーリ・ノルシュテイン:監督 「キツネとウサギ」(1973)   ユーリ・ノルシュテイン:監督を含むブックマーク

 ノルシュテイン氏によれば、このストーリーはロシアの人なら誰でも知っている民話なのだという。
 キツネは広い氷の家に住んでいた。一方ウサギは樹皮造りの、暖炉もある快適な家で暮らしていた。キツネは「ヤボな家だ」とバカにしている。しかし季節が暖かくなり、キツネの家は融けてしまう。キツネはウサギを追い出して、その家を乗っ取ってしまう。外に放り出され、家の外で泣くウサギ。まずはオオカミが「どうしたのかね」みたいにウサギに事情を聞き、「それはひどい! その家をキツネから取り戻そう!」と、キツネのところへ行くのだけれども、簡単に追っ払われてしまう。また外で泣くウサギ。同じようにクマも来るしウシも来て、オオカミと同じように「キツネを追い出してやる!」と勇むのだけれども、どちらもあえなく敗北。また外で泣くウサギ。さいごに来たのは雄鶏。ウサギは「またダメだよ」と思うのだけれども、剣を持った雄鶏は大奮闘。ついにキツネを追い出すことに成功し、それからは雄鶏はウサギといっしょに暮らすようになりましたとさ。そんな話。

 ロシアの伝統的な織物を思わせる、四角く枠どられた平面的な空間の中で、色彩豊かな世界が繰り拡げられる。とにかくは色彩が美しい。ノルシュテイン氏は、ロシアの伝統的な「ガラジェッツ絵画」というものを取り入れてこの作品をつくったということ。
 アニメーションというものは、そもそも徹底して二次元の世界なのだけれども、ここまでにその二次元性をおもてに出したアニメーションというのも、そんなにはないのではないだろうか。そこに民族的な伝統美術が巧みに活かされ、まさに「ユーリー・ノルシュテインのアニメーション」という世界になっている。とっても好きな作品。


 

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■ 2017-01-05(Thu)

 年末に、わたしの住むこのアパートの管理が別の不動産屋に変更になったとの通知があり、新たな契約書類の作成とか、家賃の振込先の変更とか、いろいろとめんどくさい。新しい不動産屋は千葉にあるようだし、なぜそんなめんどうな変更になったのか、よくわからない(家主さんは品川在住のようだし)。これからいろいろと不便なことが起きそうな予感がする。杞憂であればいいが。それで昨日、その新しい不動産屋へ一月分の家賃の振込みをしてみると、前の不動産屋へも自動引き落としで一月分が振り込まれてしまっていたので、うちの近くの、その前の不動産屋へ行ってみた。話はすぐに通じて、すぐに返金してもらえた。その際に「もう家主さんは新しい店子を探さないつもりなんだろうか」と、不動産屋さんに聞いてみると、「あなたの部屋もそうだろうけれども、震災でどの部屋も相当のダメージを受けてるんですよ。特に上の階ほど被害はひどいんです。あれでは‥‥」ということだった。そうか、そのことには思い及ばなかった。そうすると心配しなければならないのは、「もうこのアパートは解体しますから、出て行って下さい」という日が来るかもしれないということだろうか。とにかくはこのアパートに未来はないということだろう。
 この地に来て十年、今までずっとお世話になって来た不動産屋さんで、いろいろと親切にしていただいた気もする。「今までいろいろとお世話になりました」と挨拶して、外に出た。

 ひとつ気になっていたのは、ニェネントを育てるようになったことを原因のひとつとして、この部屋の中が相当にひどいことになっていることで、他にもわたしがタバコを喫うせいで壁がヤニで変色していたり、いろいろと「これはわたしが撤去するときに<現状回復>といわれればヤバいことになるな」と考えていたのだけれども、ある意味、そのことで心配しなくてもだいじょうぶ、ということかもしれない。まあ、「出て行って下さい」などといわれないよう、祈るしかないけれども。

 その、ウチの部屋をメチャクチャにしてくれたニェネントだけれども、このところ、今までになくわたしに懐いてくれている。リヴィングで横になってテレビを見ていると、和室の方からわたしに近づいて来て、わたしが「おいで、おいで」と呼ぶと、わたしのすぐ脇にやって来る。そこでつかまえて抱き上げ、わたしの胸の上に乗せてやるのだけれども、「ニャ〜、ニャ〜」とはないていても、嫌がって逃げて行こうとはしないで、かわいい飼いネコを演じてくれている。うれしいことである。ニェネントもこれで七回目の正月。もういつの間にか、おばさんネコではないか。そのうちにニェネントの「老い」とわたしの「老い」とが同じ程度になり、そのあとはニェネントの方が先に老いていくことになるのだ。とにかくは、いつまでも健康でいてほしい。そしてわたしも、ニェネントと暮らしていくために、健康でいなくってはならないのである。


 

[]「卒業」(1967) マイク・ニコルズ:監督 「卒業」(1967)   マイク・ニコルズ:監督を含むブックマーク

 これは公開当時映画館で観ていて、それ以来の鑑賞になると思う。当時はわたしも中学生か高校生の時期だから、こういう「大人の事情」みたいなところはわかるわけもない。あだ、ラストの教会からの花嫁略奪は爽快だった。そういう記憶しかない。

 原作小説があるようだけれども、この脚本はとってもよく書けていると思う。それを、元々が舞台演出家だったマイク・ニコルズが、うまく生かした映像にしている。舞台的な演出と、映画的な演出とがうまくかみ合っている印象がある。特にベンジャミン(ダスティン・ホフマン)の実家のプールに絡んだ描写がすばらしい。家にあるプールといえば、そりゃあある程度の富裕層の象徴みたいなものだけれども、ベンジャミンはそのプールべりでの卒業記念パーティー(?)で、有無をいわさずに潜水服を着せられて、プールへ入っていく。このシーンで、ベンジャミンが親の意志を継ぐかぎり、家のプールの中に沈んで泳ぐだけ、みたいな未来が提示され、そんな世界への反抗意志ということは理解しやすくなるだろう。ロビンソン夫人(アン・バンクロフト)との情事へのめり込むのも、もちろんそんな反抗意識もまた後押しをしていることだろう。
 しかし、そんなロビンソン夫人との情事も未来があるわけではなし、ロビンソン夫人もまたベンジャミンの父の仕事仲間の奥さんという、富裕層一族の一員でもある。ベンジャミンはロビンソン家の娘のエレーン(キャサリン・ロス)に惹かれるわけだけれども、彼を取り巻く狭い世界の中で「未来」をみせてくれるのは、エレーンとの関係だけではあるだろう。

 「若い」ということは、バカなこともやってしまい、それが許されもする「特権的」な時期でもあるだろう。でもそんな「愚行」から未来へと飛翔するのもまた、若さゆえの突拍子もない行動なのではないか。そういうことをみごとに描いた作品として、やはり「名作」として映画史に残る作品ではあるのではないか。そう思った。
 ただ、サイモン&ガーファンクルの音楽はわたしは好きではないので、「またかよ」という感じではあった。


 

[]「戦争の犬たち」(1967) フレデリック・フォーサイス:原作 ジョン・アーヴィン:監督 「戦争の犬たち」(1967)   フレデリック・フォーサイス:原作 ジョン・アーヴィン:監督を含むブックマーク

 実はただ、クリストファー・ウォーケンが主演しているから、という理由だけで観始めた作品だったけれども、観ていて「これはしっかりとした原作があるにちがいない」と思うことになり、つまりそれはフレデリック・フォーサイスだったわけである。あとで調べると、撮影もジャック・カーディフ。「へぇ、大作じゃないか」とも思うのだけれども、作品としてはどうもイマイチという感覚でもある。監督はジョン・アーヴィンという人物で、名前のさいごに「g」がつけば大小説家なのだけれども、この作品が監督デビュー作ということ。この作品のあとは、主にアクション映画を中心に撮り続けておられるようである。

 ま、とにかくはクリストファー・ウォーケンのカッコよさを観るだけであれば、かなり楽しめる作品だと思うし、わたしもそういう視点から楽しんだ。物語は、西アフリカの架空の独裁国家でクリストファー・ウォーケンらの傭兵が政権を転覆させるというもので、まずはクリストファー・ウォーケンが依頼を受けて単独でその国に野鳥学者として潜入し、ま、いろいろあって帰国後はその依頼主の資金提供を受けて傭兵を集めて武器を集め、ついに独裁者を倒すのである。
 しかし、依頼主はいったい何が目的でその独裁国家の転覆を企んだかというと、その国に膨大なプラチナ鉱山があるらしいため、ということで、その独裁者を倒したあとの傀儡政権を指導する指導者も用意しているわけである。ウォーケンもその「未来の指導者」に会うのだけれども、彼もまた独裁者の資質の持ち主なわけである。このあたりで、物語の転がり方もなんとなく予測出来てしまい、じっさいにその通りの展開になる。

 二時間ちょっとの作品で、じっさいのその独裁国家へ乗り込んでの戦闘はラストの三十分弱で、多くの時間がヨーロッパで武器を調達し、運び出すまでを描くことに割かれるわけである。ウォーケンの仲間にトム・ベレンジャーなどもいて、若き日の彼もまたカッコいいのだけれども、とにかくはこの作品では、クリストファー・ウォーケン以外の人物のことはよくわからない。ラスト三十分の戦闘シーンもなんだか印象が薄いし、どうやら原作を大幅にはしょっているらしく、原作ファンにはとっても評判の悪い作品のようだ。でもまあ、先に書いたように、わたしはクリストファー・ウォーケンがカッコよければそれでいいので、それなりに楽しんだ作品だった。


 

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■ 2017-01-04(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 今年の抱負。まずとにかくは今の国分寺のクリニックに通い、わたしの脳の状態がいったいどうなっているのか、そのことを知ること。はたしてそのことで治癒する部分があるのか、ただ状態がわかるだけで、もうどうしようもないという結論になるかもしれないが、あきらめなければならないのならばもう、あきらめるしか仕方がないだろう。

 今の状態では新しい学習体験をしてもすぐに忘れてしまうというか、過去の蓄積が失せているので、そういった新しい学習体験から何かを学ぶことが困難になっているというのが、わたしの認識するわたしの状態なのだけれども、去年の年末に読んだオルハン・パムクの「雪」の読書体験は、自信になった。読んでいてもそれまでの経過をそれほど忘れずに読み進められたし、その書物のメッセージも、それなりにちゃんと読み取れたようにも思う。何よりも、読み終えてまだ二週間ほどしか経っていないとはいえ、その内容をだいたい記憶していることがうれしい。本の種類にもよるのかもしれないけれども、それならなおさら、ある程度複雑に入り組んだプロットの作品を読み通せたということは、大きな自信になった。そういうことで今年は、もう少し本を読んでみたいものだと思う。とにかくは去年は28冊しか読んでいないし、この倍は読みたいものだと思っている。そのためには、「どうすれば本が快適に読み進められるのか」、そういう読書環境をちゃんと考えなければいけないと思う。図書館に通うというのもいいかもしれない。
 あと、頭を活性化するためというか、小さなものでいいから、普段手帳を持ち歩き、活用したい。それと、絵を描いてみたい気もちもある。

 買いたいものがいくつかある。まずは携帯電話を買い替えたい。おそらくはずいぶんと無駄に高い契約料を払っていることと思うし、今はいわゆる「スマホ」に買い替えても、契約料など月ごとに支払う額はもっと安くなるのではないかと思う。こういうことはもっと早くやっておかなければいけないのだけれども、「まだ今度の機会でいい」と思ってしまう。今年こそ、それも今月とか、早い機会に買い替えたい。
 そしてパソコンも買い替えたい。先日新宿の中古ショップをみて、ノートパソコンなどを望まなければ、今のわたしでも無理しないで、そんなに劣化していない中古パソコンを買えることがわかった。そしてあとは、出来ればバッグが欲しいな。今使ってるのはボロボロになってしまっているし。‥‥以上のことは、今のわたしの経済状態でも可能なことだろう。このくらいの希望が叶えられてもいいだろうと思う。

 ずっと観ている「レッキング・クルー」の特典映像。昨日は「エンジニア」のセクションを観た。アル・シュミットらエンジニアが語る60年代レコーディング・システムに関してだけれども、とにかく与えられた仕事は何でもこなしたと。こういうのを聴くと、同じ時代にイギリスではジョージ・マーティンがいたのだということが、よく納得出来る気がする(ジョージ・マーティンはエンジニアではないが)。今日は「アーティスト」のセクション。バリー・マクガイアやジャッキー・デシャノン、リチャード・カーペンターらが自ら語る経歴、ペトゥラー・クラークのアメリカでのレコーディングの話、かつてのモンキーズのメンバーらの語る裏話、レイ・チャールズの逸話など、とっても面白いセクションである。次の「ベース」のセクションは、キャロル・ケイがベースを弾いてみせる短いパートと、ジョー・オズボーン、ライル・リッツの話。そして今日は、次の「ドラム」のセクションまで。フランク・キャップ(ロックはガレージから始まったという)とゲイリー・コールマン(この人はカッコいい)の話、そしてハル・ブレインへのトリビュートのパート(ハル・ブレインはまだご存命だけれども)。


 

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■ 2017-01-03(Tue)

 元旦、二日と出かけなかったので、「今日はせめて初詣とかに出かけてみよう」と考え、「しばらく地元の神社で初詣をやっていないから(というか、一度もやったことはなかったかもしれない)、その駅の向こうの神社へ行ってみよう」と、午後から出かけてみた。
 このところ晴天がつづき、風もないし、昼間に外を歩くのは快適である。神社に着いてみると、もう正月も三日になるし、それほどに参拝される方の姿も見えなかった。露店も出ていないし、なんとなくもの寂しいじゃないか、そういう感じ。

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 参拝をして、神社のまわりを一周してみた。この神社はもちろんこの町の氏神で、創建は1481年と、相当古い。日光東照宮なんか問題にならない。今ある本殿も、1634年建立というから、四百年近く経っている。建物をみても、歴史を感じさせられる。そんな古い神社だけれども、この町の人たちは「古い由緒ある神社なんだぞ〜」というふうでもない。まあ町自体がかなり歴史の古いところだからなのだろうか。

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 帰り道はちょっと遠回りをして、旧道というか、西側の高台を通る道を歩いてみた。おそらく以前は、この旧道の方が町の中心になる商店街だったのではないかと思う。古い家具屋や電気屋、そして菓子屋などが並んでいる。古い蔵を、この町出身の有名な陶芸作家の作品を並べたギャラリーにしたスポットもある。わたしは陶芸作品のことはわからないので入ったことはない。

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 このケーキ屋(?)の建物は、モルタル浮き彫りの壁面がすばらしい。文化財にすべき建物だと思いますね。

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 帰りにスーパーに寄ってみると、「もう正月も終わりだね」という感じで、おせち料理などが値引きされて置かれていた。では何か買おうと、またローストチキン、そして今夜は弁当ですませようと、半値になった弁当とを買って帰った。帰宅してからは今年初めて、録画してあった映画を観た。


 

[]「ウエディング」(1978) ロバート・アルトマン:監督 「ウエディング」(1978)   ロバート・アルトマン:監督を含むブックマーク

 アルトマンお得意の群像劇だけれども、これはあまり面白くなかった。ストーリー展開がいかにも「仕組まれた」ものという感じで、「ここでこう持ってくれば面白いだろう」とかいうような、脚本のあざとさばかりが気になって、楽しめなかった。成り上がりのブルジョワを笑いモノにするのは、ある意味で簡単なことだろうし、同性愛までも笑いの材料にしてしまうのはよろしくないと思う。


 

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■ 2017-01-02(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 新しい年は、わたしにはいろいろとめんどうなことも待ち構えている。考えると「どうすればいいのかわからない」ところもあるのだけれども、とにかくはクリアしないことにはどうしようもない。しかも新年早々に考えなければならないこともある。とりあえず今日はそういうこともうっちゃっておいて、「しごとも休みだし、天気もいいことだから出かけてみようか」などと考える。今日は上野公園で水族館劇場の別プロジェクト、「さすらい姉妹」の野外劇があるので、それに行ってみようかと、着替えまでして準備したのだけれども、やはり出かけるのがめんどうになり、けっきょく出かけずじまいになった。あとで去年の日記をみてみると、去年も同じように「さすらい姉妹」を観に行こうかと迷い、やはり行かずにすませてしまっていることがわかった。去年と同じことを考え、同じように行動していた(いや、何もしなかった)のかと思うと、去年と同じことをしないように、無理しても出かければよかったと思った。そうすれば、新しい年が去年よりもより良い年になるような気がしたわけである。別にそこまでに去年が「悪い年」だったと思っているわけでもないけれども、良い年ではなかった。

 そう考えると、この新しい年には、一月〜二月とで脳の検査をばっちりとやるわけで、「いったいわたしの脳はどうなっているのか」ということが、よりはっきりとするだろう。それは新しいスタートにもなることだと思う。もちろん、最悪の結果も待ち受けているかもしれないけれども、それはそれとして受け入れるしかない。そこからのスタートなのだと思う。

 ニェネントのことだけれども、このごろ、時にわたしで遊ぶようなことをやるようになった。このあいだはわたしがベッドで横になっていて、腕を布団の外に出していたら、駆け寄って来て前足を伸ばし、サッとわたしの腕にタッチして、すぐにUターンしてリヴィングの方に逃げて行ったりしたし、今日なども、わたしが部屋の中を歩いていると物陰から飛び出して来て、うしろからわたしの足にタッチして、すぐに逃げて行ったりする。こういうことはまだニェネントが幼い頃にたまにやったことはあったけれども、しばらくはみせたことのない行動。どういう心境の変化なのだろうか。でもこういうことをやられると、「おお、なんとかわいいヤツよのう」と、うれしくなってしまう。

 今日もまた、「レッキング・クルー」の特典映像。まずは「ミュージシャンズ・ジョーク」という短いセクションを観るけれども、う〜ん、英語のジョークだし、これはほとんど、何がジョークなのかわからんかった。
 次は「ギター」というセクションで、トミー・テデスコ、アル・ケイシー、ビル・ピットマン、ボブ・ペイン、そしてグレン・キャンベルにジェームズ・バートンらのセッション・ギタリストらが、自分のキャリアやエピソードを語り継ぐ。特にビル・ピットマンが自分の経歴をずっと語って聞かせてくれるパートが、とても興味深くも面白かった。もちろんわたしはギターが弾けるわけでもなく、聞いてもわからないことも多々あるけれども、ポップ・ミュージックの歴史の中での彼らギタリストの役割、その進化をダイレクトに聞かされるのは面白い。

 夕方を過ぎ、暗くなってから北のスーパーに買い物に出た。けっきょく店内をぐるっと回っただけで、何も買わずに家に戻った。帰る途中に暗くなった空をみると、三日月になった月のすぐそばに、宵の明星、つまり金星が明るく光っていた。「まるでトルコの国旗だな」とか思って、「デジカメで撮れるだろうか」と、家に帰ってからデジカメを持ってまた外に出て、空に向けて撮ってみたけれども、やはりこれは無理だった。明るさから露出時間が長くなってしまい、撮っているあいだに手が動いてしまう。でも、こんなヒドい写真でも、月のそばに明るい星があることがわかるだろう。

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■ 2017-01-01(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 2017年の元旦を迎えた。しかしわたしは今日も、昨日と同じようにしごとに出る。仕事量は少ないのですぐに終わってしまい、ちょうど仕事を終えた頃に日の出の時間になった。雲ひとつない晴れ渡った空、東の地平線の、この辺りからみると筑波山のちょっと左側に、まぶしい太陽が昇ろうとしている。この「初日の出」を撮ろうとデジカメを持って来ていたので、パチリと一枚。

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 ニェネントにも正月の一枚を撮らせてもらって、これで、皆さまへの新年のご挨拶とさせていただきましょう。ふむ、キリッと前を向いて、しっかりとした意志を感じさせられる一枚が撮れました。

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 でも、新年だから、正月だからといって普段とちがうわけでもなく、ただテレビは正月のバラエティ番組みたいなのばかりでつまらない。どこへお出かけするでもなく、またDVDで「レッキング・クルー」の本編を観て、観終わるとまた特典映像のつづきを観て過ごす。本編のことで書き落としていたけれども、ここでフィーチャーされるミュージシャンは主にギターのトミー・テデスコにギター/ベースのキャロル・ケイ、そしてドラムのハル・ブレインらで、やはり観ていてこの三人のことが心に残る。
 もちろん、トミー・テデスコこそが、ある意味でこのドキュメントの主役でもあるわけだけれども、彼の逸話はやはり面白くも興味深い。そして当時唯一の女性ミュージシャンだったキャロル・ケイ。あとで調べると、トミー・テデスコとキャロル・ケイとは、意外にも共にフランク・ザッパのレコーディングに参加していたのである。トミーは「ランピー・グレイヴィ」のセッションで、キャロルはザッパのデビュー・アルバムの「フリーク・アウト!」で12弦ギターを弾いていたとか。キャロルはザッパの書く詩に同意出来なくて、その後は関係を絶つらしいけれども。そしてハル・ブレインはどうやらもう、60年代を代表する名ドラマーだったようで、当時のアメリカのヒット曲の、実に実に数多くの曲でドラムを担当している。わたしはこういうことはまるで知らなかったけれども、こういう人たちのことを知ると、当時のヒット曲をまた、そういう意識で聴き直してみたくなってしまう。
 今日観た特典映像は、「テーマ」というセクションで、「ビートルマニア」「映画音楽とレコード」、「鬼のフィル・スペクター」などなどという、どれも面白い内容。ビートルズがアメリカのヒットチャートを席巻し、まずは管楽器の出番が減ってしまったし、ヒットチャートはイギリスのミュージシャンばかり。レコード会社は「今レコードを出してもどうしようもない」と、新作リリースを手控えたらしい。
 彼らスタジオ・ミュージシャンは映画のサウンドトラックにも狩り出されたわけで、そこで、レコードと映画音楽との違いについて聞かせてくれる。これもとても興味深い話だったけれども、つまり映画音楽は何度も録り直し出来ないし、リハーサルの時間も取れなかったという。しかもレコーディングに参加するミュージシャンは顔なじみというわけでもない。「それじゃ、映画音楽っていうのは完成度が低かったのか」とか思ってしまうけれども、そのあたりの即断は出来ないだろうな。
 フィル・スペクターのセッションというのは独特のもので、まるで休憩もないままに連続して演奏させられ、しかも録音はしない。三時間ぐらいは演奏を続けさせられ、それからようやく録音開始になるらしい。これはミュージシャンが個人主義に走る余力を奪うためだったということ。

 そろそろ「おせち」の食材も安くなっている頃だろうかと、北のスーパーへ行ってみて、半額になっていた伊達巻きとかまぼこのセットを買って帰った。これでお正月の、元旦の夕食。あんまりぱっとしたものではない。ニェネントには昨日買ったマタタビをあげてみたけれども、やっぱりそれらしい反応はない。やはり、ニェネントにはマタタビは効かないのだと思う。


 

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