ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

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■ 2017-08-28(Mon)

[]「天はすべて許し給う」(1955) ダグラス・サーク:監督 「天はすべて許し給う」(1955)   ダグラス・サーク:監督を含むブックマーク

 これは近年トッド・ヘインズ監督が、「エデンより彼方に」でオマージュを捧げた作品。主演はジェーン・ワイマンとロック・ハドソン。

 未亡人のジェーン・ワイマンは、夫の生前から来てくれていた庭師がその息子のロック・ハドソンと交替したことを知り、彼と言葉を交わすことで親しくなる。彼の家にも招かれ、彼の友人たちとも親しくなってふたりの仲は進展し、ついにロック・ハドソンはジェーン・ワイマンに求婚する。しかしジェーンの街の人たち、彼女の友人らは保守的な人が多く、この婚約をスキャンダルととらえる。すでに別居している社会人の息子、大学生の娘も強く結婚に反対し、悩んだジェーンはロックと別れることに決めるのだが‥‥。

 街の人たちがものごとを世間体で考えるコンサバな人たちであるのに対して、ロック・ハドソンやその友人たちは皆進歩的な(オルタナティヴな?)考えで、この図式的なまでの対立の構図が物語の背景にある。ジェーン・ワイマンがロック・ハドソンの家を訪れたとき、テーブルの上にはソローの「森の生活」が置かれていて、彼も彼の友人も、その「森の生活」に強く影響されていることを語る。それに対して街の人たちは、その頃出回りはじめたテレヴィジョンを買うことがステータスだったりもするわけで、「テレビなんかいらない」と考えているジェーン・ワイマンは、すでに「森の生活」への下地はできていたというか(それでラスト近くに、息子がその母へのクリスマス・プレゼントにテレヴィジョンを買う、というあたりで、息子はつまりは母のことをまるで理解していないのだ、ということがあらわになる)。つまりこれは、ソロー的な自然主義による生活と、まさに「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」的な、物質主義な生き方との関係と読める。つまり、大きな窓から日の出を見ることが出来、暖炉の火で暖を取れて、窓の外には鹿が来るような生活と、毎日テレビにへばりつくような生活と。だから映画でのジェーン・ワイマンとロック・ハドソンとの恋愛の進展も、つまりはジェーン・ワイマンがロック・ハドソン的生き方に惹かれていくもののように描かれているように思う。というか、ロック・ハドソンがなぜジェーン・ワイマンに惹かれたかというのは、正直あんましよくわかんないかな。
 ロック・ハドソンはどうも「オレはオレなんだから変わらない、あとはあんたの問題だ」と、なんだか「導師(グルー)」みたいな立ち位置で、つまりあとはジェーン・ワイマンがどう動くかという話になるわけで、こう、恋愛なんだから、もうちょっとふたりで悩んでみたら?みたいに思ったりもする。ジェーン・ワイマンのお手柄は、ロック・ハドソンが見捨てようとしていた水車小屋を、「ここで住めたらいい」みたいに進言するあたりだけれども、ロック・ハドソンも「森の生活」に心酔してるんだったら、水車小屋なんてマスト・アイテムじゃねえかみたいに思ってしまう(ま、このあたり、独り暮らしだと水車小屋の管理がたいへんだと思っていて、ジェーン・ワイマンとの将来を考えたときに「水車小屋があるじゃないか」となったのかもしれない)。街の人たちの中では、ジェーン・ワイマンの友だちのアグネス・ムーアヘッドだけはジェーン・ワイマンに理解のあるほんとうの友人なわけだけれども、あと、さいごにジェーン・ワイマンの頭痛を診察して、すばらしいアドヴァイスを与える医師の存在がいい。

 映画の「絵」としてみて、これはとっても美しい映画で、まさにトッド・ヘインズが「エデンより彼方に」でやろうとしたような、テクニカラーの美しさがすべての画面を覆っている。特に夜の水車小屋の中のシーン、外の夜景は青の色に染められて、室内は暖かい暖炉の火の、暖色系という対比。そして窓のそばに寄り添うふたりの、逆光によるシルエット。
 もうひとつわたしの好きなのは、そのロック・ハドソンの家で開かれたパーティーにジェーン・ワイマンも招かれ、皆で音楽と踊りを楽しむシーン。ここでいっしゅん、踊るロック・ハドソンとジェーン・ワイマンの足だけが映される短いショットがあるのだけれども、そのショットこそが最高!

 わたしはロック・ハドソンという役者さんのことはほとんど知らず(さいしょにエイズで亡くなった俳優さん?)、もっとでくの坊な役者さんなのかと思っていたのだけれども、これは意外といい演技をみせてくれる役者さんだった。そしてもちろん、ジェーン・ワイマンの演技こそはこの映画を成り立たせていたものだろう。
 近年、たしかメリル・ストリープがハリウッド批判をしていて、それは近年のハリウッド映画では、熟年になった女優の出番がどんどんとなくなっていくというような内容だったと思うのだけれども、たしかに今から60年も前のこの映画を観ると、ただ若くてピチピチした女優さんでなくてもこんなに出番のある映画がつくられてたではないかと、メリル・ストリープの言い分はほんとにもっともだと思うのである(この作品撮影時、ジェーン・ワイマンは37か38、友人役のアグネス・ムーアヘッドは55歳。その他、街の女性たちで年配の女優さんも多数出演されている)。そしてこの映画はもちろん、最近よくいわれる「ベクレル・テスト*1」も、楽々とクリアしているのである(しかしまあ、「女性の幸福は結婚にあるのよ」という旧的な価値観は払拭できないかもですね)。


 

*1:ベクデル・テスト(Bechdel Test)とは、ジェンダーバイアス測定のために用いられるテストである。テストではあるフィクションの作品に、最低でも2人の女性が登場するか、女性同士の会話はあるか、その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるかが問われる。2人の女性に名前がついていることも時としてテストの条件に付加される。(Wikipeiaより)

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