ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2017-10-31(Tue)

 今日は、今の職場のさいごの出勤日になる。仕事のあと、新しい雇用主と飯田橋で会うことになっている。朝の天気予報で昼はそれなりに気温も上がり、暖かくなるだろうなどといっていたもので、ついついあまり重ね着もせずに、シャツとジャケットで家を出た。ところが、寒いのである。「失敗したな」とは思ったのだけれども、職場に着いてしばらくしたら、ずんずんと鼻水が垂れてくるのだった。まるで壊れた水道の蛇口みたいだ。幸いに前の風邪のときにマスクを買ってバッグに入れてあったので活用させてもらったけれども、かなり酷い。

 とにかくは何とか仕事も終えて(昨日と同じでほとんど何もやっていないのだけれども)、担当上司だったEさんにあいさつをする。この人にはたいへんにお世話になった。「もう二度と、この職場に来ることもないのだろうな」と思いながら職場の建物を出て、新しい仕事に向けて、飯田橋へと行く。担当のFさんとお会いして、新しい職場ビルにも案内してもらった。ふむ、このあたりは以前に来たことがあるぞ、という感想。

 帰宅する電車の中でも症状は悪化するばかりというか、とにかくは鼻水の洪水だ。マスクなど役に立たず、ハンカチを鼻にあてたままになる。「また玉子酒だなー」と、帰りにコンビニに寄って日本酒を買い、帰宅して「玉子酒」をつくって飲むけれども、う〜ん、あまり効果はないというか、もう寝るしかない。
 夕方になってケータイに電話があり、それはFさんからで、「制服が揃ったので明日から出社してくれないか」という。ちょっと今の状態を考えると<明日の出社>というのは無理に思えるので、そう伝えて明日は休ませてもらうことにした。それで明後日のあとは「文化の日」から金・土・日と3連休になるわけだし、無理して明後日出勤するより、明後日も休ませてもらって、明日から「五連休」とすべきだろうと、わたしの心の声が聞える。そうすべきだろう。とにかく今日は寝る。

 

[]二〇一七年十月のおさらい 二〇一七年十月のおさらいを含むブックマーク

ダンス:
●山田せつ子ダンスソロ「箱の中/外」@三鷹・SCOOL

美術:
●「杉戸洋 とんぼ と のりしろ」@上野・東京都美術館

読書:
●「V.」トマス・ピンチョン:著 小山太一+佐藤良明:訳
●「カストロの尻」金井美恵子:著
●講談社現代新書「「世間」とは何か」阿部謹也:著
●「世界共和国へ ――資本=ネーション=国家を超えて」柄谷行人:著
●「憲法の無意識」柄谷行人:著
●「枯葉の寝床」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より)
●「贅沢貧乏」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より)
●「薔薇くい姫」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より)

DVD/ヴィデオ:
●「白い恐怖」(1945) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「パラダイン夫人の恋」(1947) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「舞台恐怖症」(1950) アルフレッド・ヒッチコック:監督
●「プレイタイム」(1967) ジャック・タチ:監督・脚本・出演
●「ブルジョワジーの密かな愉しみ」(1972) ジャン=クロード・カリエール:脚本 ルイス・ブニュエル:脚本・監督
●「ブロークン・フラワーズ」(2005) ジム・ジャームッシュ:脚本・監督
●「浪華悲歌」(1936) 依田義賢:脚本 溝口健二:原案・監督
●「新・平家物語」(1955) 吉川英治:原作 溝口健二:監督
●「祇園の姉妹」(1956) 依田義賢:脚本 溝口健二:原案 野村浩将:監督
●「雷魚」(1997) 井土紀州:脚本 瀬々敬久:脚本・監督

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■ 2017-10-30(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 天気予報の通りに台風は行ってしまい、出勤するときには傘もいらなかった。ただ、風は少し強い。職場に着き、「次の仕事が決まったので、明日で終わりになる」と伝える。今はわたしの担当していたエリアの引き継ぎ作業をやっているわけだけれども、「では今日から、あなたひとりでやってみて下さい」とすべてまかせ、わたしはほとんど何もやらなかった。しかし、「何もやらない」というのも、なかなかに大変なことではあった。

 仕事を終えて外に出ると、出勤したときよりもずっと風が強くなっていた。あとで「木枯らし」だったと報道されていたが、いやいや、あれは木枯らしというよりも、「台風の余波」じゃないかと思うのだった。

 帰宅してしばらくはウダウダして昼食をとり、今までは朝ドラの再放送をみてから午睡というスケジュールだったけれども、今の朝ドラはもうまるで見る気もしなくなっているので、この頃は早くにベッドに入り、本を読みながら「眠いな」と思ったらそのままに眠ってしまう。そんな日課になった。
 しかし今日は「寝すぎ」というか、目覚めたらもう夕方の五時を過ぎてしまっていて、外はもう暗くなりはじめていた。睡眠時間はいつもたっぷり取っているはずなのに、どうしてそんなに長時間眠ってしまうのだろう。自分でもいぶかしく思ってしまう。

 遅い買い物に出て、卵とかその他を買って帰り、買ったものを冷蔵庫にしまおうとしていたら、入れてあったレジ袋がとつぜんに破れて、卵とかが床に落ちてしまい、パックの中の卵が割れてしまった。「あららら」と思って卵をチェックしたけど、かんぜんに割れたのは一個だけ、あと、殻にひびが入ってしまったのが二個。被害は少なくてすんだけれども、ずいぶんと破れやすい、弱いレジ袋だなあ。
 ものが落ちた音を聴いてニェネントが飛んできて、床の卵を舐めようとする。うん、近ごろはニェネントに卵をあげることもなかったからちょうどいい。この卵はニェネントくんにあげようと、割れた卵をすくって皿に入れてニェネントにあげた。いつもは白身は分けて黄身だけをあげていたのだけれども、今日は白身もいっしょ。ニェネントくん、卵の白身の初体験になるわけだけれども、きれいにぜ〜んぶ、黄身も白身も食べてしまった。

 ひびの入ってしまった卵を使って夕食の惣菜をつくって夕食をすませ、昨日観た「ブロークン・フラワーズ」でフォーレの「レクイエム」が(いっしゅん)使われていたのを思い出し、その「レクイエム」が聴きたくなってCDの棚を探ってみる。すぐに、「名盤」の誉れ高いミシェル・コルボ指揮のCDが見つかり、プレーヤーに放り込んで聴き始める。うん、実に心地よい。「魂が浄化される」とはこのことか。特に低音の響きに身体ごと持って行かれるようで、ついついヴォリュームを上げてしまう。気づいたら、ものすごいヴォリュームで聴いていた。‥‥これでは(こんな時間)近所迷惑になる。あわててヴォリュームを下げるのだけれども、昼間にでもまた、大きな音でこの「レクイエム」を聴いてみたいと思うのだった。                                          

 

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■ 2017-10-29(Sun)

 雨、雨、雨、雨、雨。また台風だ。とにかくはもう、一歩も家の外に出ないようにしよう(今は無駄遣いは出来ないことになっているし)。台風は今夜遅くにこのあたりにいちばん接近するようだけれども、明日の朝、わたしが出勤のために出かけるときにはもう離れて行ってしまうようで、そんなに心配しなくってもいいみたいだ。よかった。

 昼までテレビをみたりしてダラダラと過ごし、一時頃からは読書タイム。読んでいる「重力の虹」もようやく<第2部>に突入したのだけれども、第2部に入るととたんにペースがはかどるようになった。このペースでいけば、返却期間までにこの上巻は読み終えられるだろうことと思う。ただし、内容的にはちょっとばかし、「あれ? どうなってるんだっけ???」とか、わたしの頭の中ではあやふやになってきているぞ。読んでいると「脱線の連続」としか捉えられないところもあるのだけれども、コレが「脱線」などではなく、つまりはちゃ〜んと繋がっているんだろうなあ。やはり、相当の「難物」である。

 夜になって、むかし「ひかりTV」で録画したジャームッシュ監督の「ブロークン・フラワーズ」を観る。今はもう、「ひかりTV」との契約は休止して、チューナーを借りているだけ(そこにHDDをつないで過去に録画したモノを観ることができる)の状態で、つまりHDDのなかに録画した映画とかはDVDに落としてしまえば、もうチューナー/HDDがある必要もなくなるわけで、すっかり契約を解除してしまえるわけだけれども、しかしながらそこでですね、今の皮算用としてはわたしの収入も今後かなり増加するわけで、そうすればまた、ちゃんと「ひかりTV」と再契約してやっていけるのではないか、などと楽観的なことを考えてしまうのだった。                                                                                                                                                                                                                                            


 

[]「ブロークン・フラワーズ」(2005) ジム・ジャームッシュ:脚本・監督 「ブロークン・フラワーズ」(2005)   ジム・ジャームッシュ:脚本・監督を含むブックマーク

 むかしちゃんと映画館で観た映画のようで、ウチにそのプログラムも残っている。もちろん(いうまでもないが)何も記憶には残っていない。

 冒頭、ビル・マーレイが自分の家のリヴィングで聴いているのはフォーレの「レクイエム」だ。ああ、フォーレの「レクイエム」はいいなあ。また聴いてみたい。ビル・マーレイはジュリー・デルピーと同居していたらしいのだけれども、ジュリー・デルピーはつまりは愛想尽かしして出て行くらしい。そこに一通のピンクの封筒の手紙が届く。「あなたとは20年前に別れたけれども、そのときわたしはみごもっていたの。わたしが育てたその子は19歳になり、お父さん(つまり「あなた」)に会うために家を出て行ったわ」というような内容。ビルはなぜか仲のいい隣人のジェフリー・ライトにその手紙を見せてしまい、それで急に探偵風に吹かれたジェフリーは「母親を捜すべきだ」とビルをたきつけ、ビルは心当たりのある四人の(元彼女の)リストをつくる。ジェフリーがお膳立てし、ビルはその四人を訪ねる旅に出るのである。ははは。
 その四人の「元彼女」は、シャロン・ストーン、フランセス・コンロイ、ジェシカ・ラング、そしてティルダ・スウィントンというメンツ。こういう構成がどこか、「ビル・マーレイ対四人の女優」というオムニバス形式っぽくって、先々に期待がふくらんでしまう。それで、ビル・マーレイという俳優さんがどこか「オブジェ」めいているというか、こういう「無表情」で「何も考えていない」みたいな姿をみせてくれる俳優さんというのは希有な存在というか、つまり、すばらしいのである。そういう「からっぽ」みたいなビル・マーレイを、ジム・ジャームッシュ監督がその演出で息吹きを与えるというか、そこにどこかなまめかしいような、微妙な「絡み」が生まれる。そこにこそ、この作品のきわめて面白いポイントがあるというか、もうストーリー展開などどうでもよくなってしまうわけである。空港の待合いでビルが目にとめる、隣にすわる女性の足への視線、まさに「ロリータ」としてビルを挑発するシャロン・ストーンの娘のロリータ、椅子にすわって待つビルに強烈な流し目をくらわす、ジェシカ・ラングの助手のクロエ・セヴィニーなどなど。こういった「刺激」を、ビル・マーレイはまったく無表情に受け流しているようにみえる。いややっぱり、さいごの「今まで見たことのないティルダ・スウィントン」こそが、わたしには強烈だったけれども。

 ‥‥いつまでも「無表情」「無感動」ではいられなくなったビルがアクションを起こしたとき、「やめてくれ!」と世界は逃げて行ってしまう。そんな、置いてけぼりを喰ってしまったビル・マーレイのまわりを、カメラがぐるりと一周する。なんとステキな映画であることか。


 

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■ 2017-10-28(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 また台風が近づいてきている。今日も夕方からは雨になり、明日も一日雨。月曜日のわたしが出勤する時間には、またまた「台風真っ盛り」の時間になりそうだ。うんざりである。

 前に買って、「やっぱり使えないじゃないか!」と放置したキーボードだが、「英語入力」には使えるじゃないかと、そういう必要もあって、またパソコンにつないでみた。ところが! これが「日本語入力」出来るのである。どうも、「日本語入力」モードにしてある状態で接続すれば、そのまま日本語入力出来るみたいだ。まあそれなりに不便なところはあるけれど、「なんだ。使えるじゃないか!」というところ。そんなことをしていると玄関のチャイムが「ピンポ〜ン」と鳴り、つまりは注文してあったMac用のキーボードと、CD/DVDプレーヤーとが届いたのだ。‥‥なんだか、前のキーボードが「使える?」とわかった瞬間に新しいキーボードが届くなんて、裏に誰かの悪意を感じてしまう。
 とにかくは届いた荷の梱包をとき、そのキーボードにセッティング用のCDがついていることを確認し、CDプレーヤーを取り出して接続しようとする。ところが、そのCDプレーヤーはUSBから電源も取るし、データのやり取りもやるしと、ポートがふたつ必要なのだった。わたしのこのノートパソコンにはなぜか、USBポートはひとつしかついていなくって、つまりUSBの分岐ケーブルとかが別に必要なのだった。ダメじゃん。わざわざこの雨の中(もうこのときには雨が降り始めていた)、外に買い物に行くなんて考えられない。明日も雨だというから、コレは月曜日までお預けだな〜、とは思うのだった。

 今日はあまり本も読み進めなかったし、ただぼんやりと過ごした一日になった。明日もこんな感じになりそうな予感がする。


 

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■ 2017-10-27(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 秋らしい好天。今日は面接を受けるのである。時間は十二時半からということなので、九時半に仕事が終わってからしばらく、時間をつぶさなくてはならない。「では仕事場の目の前の<国立近代美術館>へ行くことにしようか」と、まずは美術館の開館する十時までの時間をつぶし、それから美術館へ行く。前回来たときから展示替えも行なわれていて、今は常設展は東山魁夷の特集。わたしはまったく興味はない。ザ〜っと展示を観て、四階の隅にあった「眺めのいい部屋」というレストスペースに陣取り、ひたすら「重力の虹」を読むことにした。ふむ。ココは読書室として最高。こういうセッティングをウチでも出来たなら、もっと読書もはかどることだろう。つまり、ちょうどいいディスクと、ちょうどいい椅子とがあればいいのだ。欲しいなあ。

 そろそろ時間も近づいて美術館を出ると、目の前の毎日新聞社の外のウィンドウに、いちめんに万国旗が飾られていた。「何ごと?」と思うと、つまりは2020年の東京オリンピックまで、今日があと1000日になる日なのらしい。あまりオリンピックに興味はないが、世界の国旗はそれぞれに美しいのかもしれない。これだけの世界の国旗があつまり、それが「調和の美」になる日が来ることを、祈りたくはなる。

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 メトロで二駅移動して、面接の待ち合わせ場所へ行く。担当の方とお会いして、近辺のカフェとかは満席なので、オープンカフェの空き席に陣取っての面接になる。ちとばかし「なんだかな〜」という感じはある。その新しい勤務先へ行っての面接だと思っていたのだが。
 けっこうサッサと面接も終了。ま、感触としてはよろしいのではないでしょうか。採用/不採用の通知は、来週の火曜日に伝えられるという。勝手な印象で、「これなら、よほどのことがなければ落とされることもないだろう」とは思うのだった。ただ、給与の支払いはやはり、「月末締めの翌月20日支払い」ということで、ほぼ「最悪」ではある。このあたりはあとでよく検討してみよう。

 帰宅して遅い昼食をとり、あとはぼんやりと過ごす。いつものように昼寝をして、目覚めてから「買い物に行こうか〜」と。買い物に出るのにドアを開けようとしたら、ニェネントが飛んできて開いたドアから外に出ようとした。それは許せない。「ダメ!」とあわててドアを閉めようとしたら、ドアのあいだにニェネントの首がはさまってしまった。そんなに強く閉めようとしなかったので、ニェネントのからだにダメージはなかったと思うけれども、とにかくは外に出てしまわないように、ドアをそれ以上開けないようにしてニェネントを部屋の中に引きずり込む。まさかこんなことをやるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりした。ニェネントの行動、これからは今まで以上に要・要・要注意である。

 買い物から帰宅してしばらくして、ケータイのコールがあった。出てみると昼に面接を受けた方からで、「制服のサイズを聞きたい」という電話。つまり、わたしは無事に「採用」なのだった。ホッとしたし、結果を早く聞けてよかった。
 さてそれで、やること、考えることがいろいろとある。まずは今まで契約していた派遣会社に、「次の仕事は決まったので、もう仕事を探してくれなくっていいです。大変お世話になりました」と電話をする。あとは、「はたして12月の20日のさいしょの給与支払いまで、今の持ち金でやっていけるのか?」という重要なもんだいについて思案する。まずはそれまでに支払わなければならない税金・公共料金の額を出し、それから通勤に必要な交通費の計算をする。いちおう、タバコ代も先に計算して引いておく(まったく「禁煙」しようという気もちがない)。ザッと計算してみて、通勤にはフルに定期を買うのではなく、ある期間は日払いで通勤することにすればかなりの節約になる。そうすると一日に800円ぐらいは使えるのではないか?という計算結果になる。それならば、きっと何とかなるのではないだろうか。とにかくはひと安心して、早めに寝てしまうのだった。     

 

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■ 2017-10-26(Thu)

 とにかくはペンディング状態というか、明日の面接を経なければ、何とも先が見えてこない。「経済状況も先行き不透明だぜー!」だというのに、このあいだ買ったキーボードが役に立たず、「パソコンの買い替えもしばらくは先のことか」という現状で、いつまでもこうやって「仮名表」で入力していくというのもいかにもしんどく、「ではどうしたら?」と考える。またAmazonでいろいろと検索し、Mac用のキーボードでそこまでの価格でもないものを見つけ、それを使うにはキーボードに付属のCDからソフトを読み込まなければならないことなどがわかる。今のわたしのパソコンは、ずいぶん前にCD/DVDプレーヤーが壊れてしまっているので、「そりゃあかん」というところなのだが、「今はそういうプレーヤーも安くなってるのでは?」と検索すると、たしかにまさに、昔なら考えられないような価格で売られているのである。そのCD/DVDプレーヤーとキーボードとを合わせて買っても、そこまでの価格でもない。いつまでもこうやって「仮名表」を使っての入力の労苦をつづけるのも大変。このあいだWindows用のキーボードを買って失敗したばかりだけれども、やはりキーボードで快適に入力したい。それでついつい、そのキーボードとCDプレーヤーとを合わせて注文してしまった。

 さて、明日はまた面接を受けるので、久々に履歴書などを書く。今回は今げんざいやっている仕事と同じでもあるので、そのあたりもアピールして、いろいろと見る人にわかりやすい履歴書が書けたのでは?とも思う。
 またいつものように昼寝をして、目覚めてから買い物に出る。今日は木曜日。いちばん遠いスーパーの「S」は全品10パーセント引きの日。米もなくなってきたので、もともと「S」が米もいちばん安いので、キャリーを引きずって出かける。「これからしばらくは耐乏生活だぞ」という気分もあり、久々に納豆などを買ったりする(普段納豆はほとんど買わない)。あとはマーガリンとか。マーガリンというか、正式には「ファットスプレッド」なのだが、たいてい「健康によろしくないのだ」といわれているようだ。そういうことはあまり気にしないわたしだが、この前に別のスーパーで別のマーガリンを買ったところ、「コレ、なんか変じゃん?」というか、これだと「健康によろしくない」といわれるのもわかる気がした。マーガリンとしては普段でもこのスーパー「S」で売られているものがいちばん安いのだけれども、わたしにはこのマーガリンがいちばんいい。そして米を買い、キャリーにつめてゴロゴロと引きずって家に帰った。

 読んでいる「重力の虹」は、やはり遅々として進まない。なるほど、これは難物だ。せいぜい一日に60ページぐらいを読み進めるのがいいところ。そういうわけで、今日ようやく250ページになったというところ。まあ読んでいてストーリー展開を見失うということはないのだけれども、これでは貸し出し期間中にこの上巻を読み終えられるかどうか、心配になってきた。

 こうやってリヴィングでパソコンに向かっていると、ニェネントがそばに寄ってきて、わたしを見て「にゃ〜ん」となく。「おうおう、遊んでほしいのか」と、手を伸ばして抱き寄せようとすると、逃げて行ってしまう。いったい何が望みなのか、もう何年もいっしょに暮らしてきたというのに、まるでわからない。なんとかつかまえてひざのあいだに押さえ込み、「あなた!いったいどうしてほしいというんですか!わたしにはさっぱりわかんないんですよ!」と問い詰めるのだが、ニェネントはまるで答えないのだ。なぜニェネントはよそのかわいいネコのように飼い主のひざに飛び乗ってきたり、背中に乗ってきたりしないのだろう。(いつものことだけれども)そういう、わたしとの微妙な距離感というか、「むずかしいよね」と思わせられる。

     

 

[]「新・平家物語」(1955) 吉川英治:原作 溝口健二:監督 「新・平家物語」(1955)   吉川英治:原作 溝口健二:監督を含むブックマーク

 どうやらこの作品は初めて観るらしい。溝口作品だというのに「痛快時代劇!」的な切り口というか、溝口健二のフィルモグラフィーのなかでは「異色」の作品だろうか。実はセリフがよく聴き取れなかったので、「ま、そういうことだろう」というような鑑賞ではあったけれども、いや、この作品はすごい! かなりの感銘を受けました。ひとつには「カラー作品」ということの美しさもあるけれど、それはつまりは、撮影の宮川一夫、美術の水谷浩、そして監督の溝口健二との共同作業としての結果ではあるだろう。
 まずはやはり、宮川一夫の撮影、というのがあるのだけれども、この作品の冒頭のクレーン撮影のすばらしさというのは「天下一品」だし、それ以降も「絵巻物」を想定してのことだろう、俯瞰のクレーン撮影は随所に取り入れられ、この作品の魅力になっている。後半の僧兵の決起のシーンの、たいまつの炎の間を分け入って移動するカメラも強烈だし、山中を移動する大勢の僧兵を捉えた映像もすばらしく、現代のCGを駆使したハリウッド映画も、この映像の前では色あせるものではないかと思う。
 そして美術の水谷浩。これもあまりにすばらしいというか、カラー映像によってその魅力が今まで以上にはっきりと、「これはすげえ〜」と訴えてくる。宮川一夫のカメラが移動すると、それまで見えなかったいろんなものが画面に入ってくるのだけれども、それらのものが皆「うわっ!」と驚かされるようなものばかりというか、この映画全体がひとつの「美術品」とも思えてしまう。
 もちろん、それを支えるのが溝口監督の演出なわけだけれども、「元禄忠臣蔵」で「討ち入りのない忠臣蔵」にしたあたりから、アクションは撮る気のない監督なのかと思っていたのが、みごとに画面の動きのあるドラマに仕立てられている(ま、そこまでに大アクションはやらないのだけれども)。そこに溝口監督らしい人間ドラマもはさみこみ、娯楽作品としてとっても楽しめる作品ではないかと。

 出演陣も、平清盛役の市川雷蔵ももちろんいいし、その母の木暮実千代、父の平忠盛を演じる大矢市次郎などなど、脇役にいたるまでいい演技をみせてくれる(久我美子がもうちょっと見せ場があれば最高だったが)。もういちど、いや何度でもじっくりと観てみたい作品だった。


 

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■ 2017-10-25(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 とにかくは早く次の仕事を見つけなければならない。昨日ネットで見つけた情報だけでなく、もう少し探してみようと、ちょうど仕事が終わって立ち寄った勤務先のビルの中のコンビニに、フリーの求人情報誌が置かれていたので、もらってくる。それで電車の中ででもチェックしようと思ったのだけど、なんと、大手町の駅で千代田線に乗り換えようとしたら、千代田線はストップしてしまっていた。北千住駅と綾瀬駅の間でトラブっているらしく、復旧は十一時頃になるといっている。さて、どうするか。
 ‥‥常磐線のいいところは、千代田線に乗り入れている各駅停車の線路と、上野駅を通る従来の常磐線(快速)の線路とが完全に別になっているので、まず「どちらも不通」ということにはならないこと。どちらかがストップしても、「動けない」ということにはならないのである。仮にわたしが普段利用する北柏駅(各駅停車しか停まらない)がダメでも、わたしは快速の停まる我孫子駅も使えるわけで、まあ「電車が止まってる! どうしよう! 帰れない(出かけられない)!」ということには、まずはなることはないだろう。ありがたいことである。さて、どうしよう?
  案(1):千代田線が動き出すのを待つ。
  案(2):そのまま東西線で茅場町まで行き、日比谷線に乗り換えて北千住まで行く。常磐線(快速)は動いているから、あとは常磐線を使う。
  案(3):今いる大手町駅から東京駅まで行き、常磐線(快速)直通電車を使う。

 案(1)は、即座に却下である。案(2)も考えられるけれども、ちょっと遠回りだ。やはりここは、せっかく東京駅の近くにいることだし、案(3)がいちばんいいだろう。もちろん千代田線がストップしてるのだから、振替乗車券をもらえばいい。
 ところが、その大手町駅の有人改札には、やはり「振替乗車券」を手に入れようとしているのか、「遅延証明書」を求めているのか、何十人もの人が行列をつくっている。ふぅん、みんな行列が好きだなあ。その場所は千代田線への乗り換えに近いから皆そこに集中するんだろうけど、大手町駅の有人改札なんてほかの場所にもいくらでもあるぢゃないか。別のところへ行けばきっと、こんな行列になってないだろうとふんで、別の有人改札を探してみた。それがすぐにみつかった。誰も並んでいない。駅員は「振替乗車券」の束を片手にして、とっっってもヒマそうにしているではないか。もうね、さっきの場所に並んでいた皆さんに、「こっち、こっち!」と教えてあげたくなってしまいましたよ。「東京駅から乗りたいのです」と定期券を駅員に見せ、振替乗車券をもらって使い方を教わって、東京駅へ。うまい具合にちょうど常磐線の特別快速電車が来るところで、けっきょく、普段より十五分ぐらい遅くなっただけで帰宅した。今日の自分の判断は、なかなかに冴えていたと思うぞ。

 さて、「職探し」だが、帰宅して持ち帰った求人情報誌をチェックすると、今の勤め先からふたつ先の駅の近くで、六時半〜十一時半という求人情報があった。皆勤手当も、有給もあるみたいだ。仕事の内容は、今やっている仕事と同じだ。前にチェックしていて、今日応募しようかと思っていたのよりいい。おそらく、朝は今と同じ電車で通勤出来るのではないだろうか。生活リズムが変わらないのがいい(もちろん、仕事が終わるのはずっと遅くなるけれども)。「よし、ココに応募しよう」と電話して、明後日に面接ということになった。
 ‥‥それで心配なこと。もちろん「採用されない」ということもいちばん心配なんだけど、アレね。給与の支払い。「月末締めの翌月25日支払い」(前のところがコレだった)だったりしたら、つまりは11月にすぐに就業できたとしても、さいしょの給与を受け取れるのは12月の25日(!)ということになる。つまり、今から二ヶ月間、無収入になる! はたしてその日まで、今の蓄えでやっていけるものかどうか、これが最大の懸案になるだろうか。

     

 

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■ 2017-10-24(Tue)

 書くのを忘れていたが、Cさんとは和解した。わたしもいつまでも「怒り」を引きずっていたくはなかったし、そのままにしていたらCさんは「はぜわたしが怒ったのか」いつまでも知らないままだろう。そのときはもういちど怒りをぶっつけるような感覚で、Facebookのメッセージで「なぜわたしが怒ったか」を、できるだけ具体的に書いて送信した。そうやって怒りをぶつけてすっきりしたところもあったのだけど、すぐにCさんから丁寧な「詫び」のメッセージが届き、それを読んで怒りも氷解した思いで、つまりは「和解」したわけです。そのままにしておかなくて良かった。
 しかし、もう一件の、わたしのなかで係争中の案件(?)、Bさんのことについては、まだ当面は今のままにして、こちらから連絡は取らないでおくつもり。まだ、「あのことは忘れて」という気にはなれない。

 しばらくペンディングしていた「仕事」の問題だけれども、午後から「どうなのよ」と派遣会社に連絡すると、やはり先日提示された案件の話は、なくなってしまっていた。「そんなことだろう」とは思っていたが、やはり自分が動いて、ハローワークへ行くとかしなければ先が見えてこない。それでまずはネットの求人情報をチェックしてみると、今の勤め先のそばに、「どうだろう?」という求人情報が掲載されているのをみつけた。朝の7時から12時までで、今までよりずっと拘束時間は長くなるけど、当然、もらえるものは増える。とにかくは午前中だけ、というところにひかれる。ただ仕事が終わるのが12時だと、帰宅できるのが1時を過ぎてしまう。1時半ぐらいになるかもしれない。その時間から昼食、というのが、一日のリズムとしてちょっとひっかかる。とにかくは、明日そこに連絡を取ってみようと思う。

 夕方になって、Amazonに注文していたキーボードが届いた。梱包を開けて現物を出し、パソコンにつないでみる。もちろん、すぐに使えるとは思っていなかったし、それからがたいへんなわけだけれど、ネット上にあった「Windows用のキーボードをMacで使えるようにするフリーソフト」というのをダウンロードしてやればいいらしい。ところがわたしのパソコンのOSが古すぎるので、そのソフトが使えない。二時間ぐらい苦闘してみたが、つまりは「ダメ」、まったくダメである。それはがっかりしたけれども、まあ相当安いキーボードだったし、「ダメかもしれない」と思いながら注文したわけだったし、「やっぱりダメだったか。しょーがない」という感じ。当分は今のまま、「仮名表」を使っていきますか。

     

 

[]「パラダイン夫人の恋」(1947) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「パラダイン夫人の恋」(1947)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 なんだか一般に評判の良くない作品らしいけれども、わたしにはとっても面白い作品だった。つまり「サスペンス不足」と思われているのかもしれないけど、コレはそういうたぐいの作品ではない。「ファム・ファタール」に魅入られてしまった男、男たちの話だろう。
 その「ファム・ファタール」、夫を毒殺した容疑で告発されているパラダイン夫人を、アリダ・ヴァリが演じ、彼女の弁護を引き受け、妻とそのファム・ファタールとのあいだで悩んで悩む弁護士を、グレゴリー・ペックが演じる。もうひとりの犠牲者というか、パラダイン家の使用人を演じているのがルイ・ジュールダン。アリダ・ヴァリに会ったグレゴリー・ペックは彼女に強烈に惹かれ、「どんなことをしてでも彼女を無罪にする」となる。そんな夫を心配する妻。けっきょく、グレゴリー・ペックの試みた弁護はすべて裏目に出て、ある意味では皆を不幸にしたといってもいい。それはグレゴリー・ペックの妻の「勝利」でもある。

 演出として、まさに「ファム・ファタール」として顕然するパラダイン夫人と、グレゴリー・ペックの妻との対比がみごとで、実はこれは、そのふたりの女性の、目に見えない戦いの映画ではないのか。そしてグレゴリー・ペックの妻の勝利に終わるのだけれども、ヒッチコック監督は決して、勝利した彼女にシンパシーを持った描き方はしていない。ストーリーの上では、パラダイン夫人こそ「恐ろしい女」なんだけど、この映画では、弁護士の妻こそがあまりに恐ろしい。それは卑俗にいえば「夫を尻に敷く女」というところで、ラストでグレゴリー・ペックはみごとに「尻に敷かれる」わけだ。これはある意味、「ホラー映画」ではないか。おお怖い。

 この時期のヒッチコック監督は、映像的にもいろいろな試みをみせてくれて、観ていて楽しいのだけれども、この作品でもカメラワークの面白さ、「法廷」の空間の設定など、見どころはあれこれとあったと思う。


 

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■ 2017-10-23(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 台風直撃か? 早朝に目覚め、外の様子を確かめるが、そこまでに「暴風雨に見舞われている」という感じではない。では、「はたして台風はどうなったか」と報道をみると(もう選挙の報道はどうでもいい)、夜中に静岡に上陸し、今は北関東の北の方を北東に進んでいるようだ。とにかくはこのあたりも、今がいちばん影響の強い時間帯ではないかと思う。暴風雨ではなさそうなのはひと安心だけど、やはり出勤で駅まで歩くのはたいへんだろう。たしかどこかに、この春に大雨の中「水族館劇場」を観に行ったときに買った、ビニールの雨合羽がまだしまってあるはずと探したら、意外とすぐに見つかった。昨日びしょ濡れになった靴も、中に新聞紙を入れておいた効果があって、ほとんど湿気を感じなくなっている。これは「準備万端」ではないか。電車の遅れも心配なのでいつもより早い電車に乗ることにして、早めに家を出た。
 それが、雨合羽を羽織って外に出てみたら、なんのことはない、まるで雨は降っていないのだった。雨合羽を脱いで、それでもこのあと必要になるかもしれないのでくしゃくしゃにしてバッグにしまい、駅へ向かった。駅に着くと、電車もまるで平常通りの運行だった。なんだ。また、「台風クラブ」にはならなかったな。

 電車の中では、「重力の虹」を読む。‥‥ふむ、どれだけ難物かと身構えていたけど、読めるではないか。まだ「V.」の方が難儀だったな。ただ、密度が濃いというのか、なかなかに読み進められない。行き帰りの電車の中で、50ページも読めなかった。こんなペースでは貸出期間の二週間では読み終えられない。これからは終日、「重力の虹」だな。

 そう、仕事を終えての帰りには、風こそ強くなっていたけれども、もう青空も見えるようになった。

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 帰宅してしばらくしたら、土曜日にヤフオクで落札した「カフカ全集」が、早々と届けられた。迅速な処置がうれしい。さっそく梱包を開いてみると、思っていたよりもはるかに状態のいい本だ。特に、全六巻のうち四巻から六巻の三冊は箱帯もついていたし、中を見ると本屋のスリップ(というんだっけ?)もついたままだし、しおりの紐も未使用で月報もついている。つまり、本屋からいちども売られたことのない、いってみれば「新品同様」という品。まあ刊行されて五十年近く経つモノだから、それ相応の劣化はあるわけだけれども、望み得る最高クラスの品だろう。安い買い物ができた(ちなみに、あとでAmazonをみたら、このわたしが買った全集の、「日記」の巻だけがバラ売りに出ていて、それ一冊で五千円の値がついていたのだった)。

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 夜はベッドの中で「重力の虹」を読み継ぎ、なんとか70ページぐらいまで進んだ。

      

 

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■ 2017-10-22(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 台風が近づいている。朝はまだ風雨ともそれほど強くはないが、明日は関東地方も台風の大きな影響を受けそうだ。今日も遅い時間になればもっと風雨も強くなるだろう。今日は衆議院選挙の投票日。ウチのあたりの投票所は、ウチから我孫子駅に行く途中にある保育園。我孫子の図書館にも行くので、早めに家を出て、何もかも用事を早く終わらせてしまおうとしたのだが、けっきょく家を出たのは十時ぐらいになってしまった。いつもの安物のビニール傘ではなく、めったに使わない本格的な(?)傘をさして家を出る。

 「保育園」が投票所、というのも珍しい気がするけれども、考えてみたら、このあたりには小学校も中学校もない。いったいこのあたりの児童はどのくらい歩いて通学しているんだろう。今日は雨だし、投票率も下がるだろう。そうすると安倍政権に反対する勢力には有利かな、などと考えたが、投票所にはそれなりに人が押し寄せていた。今ここにいる人たちが皆、安倍政権に「Non!」というために投票所に来ているのならいいのだが。
 とにかくは自分の投票。投票先はもう決めてあったのだけど、「比例代表」の届出政党のリストをみていて、なんだかどうしても「立憲」の二文字を書きたくなってしまい、つい日和ってしまった。投票はおしまい。

 次は我孫子駅を越えて図書館へ。なかなかに距離があり、雨の中は難儀である。とにかくは到着し、借りていた本を返し、今日の目的、ピンチョンの「重力の虹」の上巻を借りる。「あと一冊借りておこうか」と思い、ナボコフの文学講義の一冊もいっしょに(読めるかどうかわからないが)。
 図書館を出て、さいごに近くのドラッグストアでニェネントのネコ缶を買う。いつも思うのだけど、ニェネントはいつでも無心にネコ缶に食らいつくんだけど、はたしてほんとうに「おいしい」と思ってるんだろうか。実は「食べられるものなら何でもいいや」みたいなことではないのか。このあたりのことは、どうしてもわからない。わたしはできるだけ、ニェネントが「おいしい」と思うものを買ってあげたいのだけど。

 ネコ缶を買えば、あとは帰るだけ。このあたりで、履いている靴の中が湿っぽくなってくる。さすがに「安い靴」だけのことはある。もう早く帰ってのんびりしたい。雨の中、疲労困憊という感じで帰宅。まずは脱いだ靴の中に新聞紙を丸めて突っ込み、できるだけ湿気を吸い取らせようと(明日の通勤にも履かなくてはならないし)。そのあとは昼食、そして(今日は長めの)午睡。

 もうほとんど外も暗くなってから目覚め、かんたんに夕食をつくってすませ、あとはテレビをみる。選挙の開票速報が始まると、とたんに大勢もわかるわけで、「やはりそうなったか」とがっくりし、もう寝ることにする。また、寝てばかりの日曜日になった。

 

     

 

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■ 2017-10-21(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 天気予報の通り、今日も朝から雨が降る。そんなに強い雨ではないが、気が滅入るような、鬱陶しい雨だ。今日は夕方から、池袋でのダンス公演のチケットを買ってあるのに行かなくてはならないのだけれど、なんだか気が重い。どうしようか。明日は選挙の投票日だし、図書館にも行って、そしてニェネントのネコ缶も買わなくてはならない。そう考えると、今日は一日部屋にくすぶっていたくなる。

 朝はラジオでピーター・バラカンの「ウイークエンド サンシャイン」を聴き、つづけてゴンチチの「世界の快適音楽セレクション」。いつもの土曜日だ。ぼんやりとものごとを考えるような、ただぼうっとしているような時間が過ぎていく。ベッドに横になって、ドゥルーズの入門書などを読み、「なんだ、ドゥルーズもそれほど難しそうでもないではないか」などと、ふらちなことを思ったりしている。それでふと、カフカの「日記」がまた読みたくなってしまい、カフカ全集の中にしか収録されていないことを承知で、「カフカ 日記」とか検索してみると、思いがけずに、ヤフオクに古いカフカ全集が出品されているのを見つける。全集六冊で980円。締め切りまであと一時間だ。これは激安ではないのかと覚醒し、迷わず入札した。偶然とはおそろしいものというか、「あと一時間」というところで発見するなんて、なんだか呼ばれていたような気分にもなる。もちろん、わたしが落札した。
 けっきょく、送料を入れると二千円をちょっと超えてしまったけれども、それでもわたしには「安い」買い物だ。カフカの日記だけでなく、全作品(今出ている「決定版」の全集では、その後いろいろと校正追加されているのだけれども)が手元に置いておけるのである。(古い訳文で読みにくいかもしれないけれども)うれしい。

 そういえば、パソコンのキーボードもAmazonで注文しようと思っていたのだったと思い出し、Amazonのなかで検索して、いちばん安いのを注文することにした(この値段なら、もしも使っているMacで使えなかったとしても、あきらめもつく)。コンビニ支払いができないので、ギフトカードを買わなくっちゃいけない。

 ダンス公演に行くなら出かけないといけない時間になり、「やはり行きますか!」と家を出たのだが、家を出てすぐにケータイを持って出るのを忘れたことに気づき、しばらくは「ま、いいか」と駅の方に歩いたのだけど、途中のコンビニの前まで来たとき、「あ、ギフトカードを買わなくちゃ」とか思い出し、そこで池袋まで行く気が失せてしまった。
 こういうのはむずかしい。「チケットを買ってあるんだから、ムダにするのはもったいない」と考えるか、「もうチケットを買ったのは過去のことで、これから出かけてそれ以上に支出するより、行かないなら行かないで節約した方がいい」と考えるか。とにかく、今現在のモティベーションで、そこまでに「観たい」という気分の公演ではないのはたしか。「やっぱりやめよう」ということにして、コンビニでギフトカードを買って家に帰った。こういうこともあるさ。

 帰って、パスタをゆでて、「賞味期限が過ぎてるぢゃないかー」というレトルトのパスタソースを温めて封を切り、パスタにからめる。「なんじゃこりゃあ!」というパスタソースだった。そもそもだいたい、市販のレトルトのパスタソースというもの、ドイヒーなものばかりである(安いのしか買わないからなのかな)。

 

     

 

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■ 2017-10-20(Fri)

 今日は、今は三ヶ月に一度になった、国分寺のクリニックへの通院日。昨日快晴だった空も曇り、パラパラと雨も降っている。台風も日本に近づいていて、現実的には北朝鮮のミサイルよりも脅威なわけで、予報では明日も明後日も雨。月曜にはその台風は関東地方にやって来るみたいだし。

 仕事のあと、いちど帰路に着き、となり駅でDVDを返却し、新しく溝口監督の「新・平家物語」とヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」とを借りる。帰宅してかんたんな昼食をとり、12時半ぐらいに家を出る。国分寺到着は2時ちょっと過ぎ。ずっと駅前で工事をしていたタワーマンションがだいたい完成したみたいで、駅からの通路はまるで今までとちがってしまった。おかげで、前は駅から出るとしぜんとその前を通っていたコンビニは、袋小路の奥の位置になってしまっている。あれでは客は入らないだろうと思う。

 クリニックの診察は今日も問診だけ。「なんだか脳の調子がよくなって、本を読むのが面白いんです」と。次回は来年になるけれど、前にいちどやって、そのときはうまくいかなかった脳波検査をまたやるとのこと。今やれば異常はないんじゃないかと思う。

 帰りは中央線から総武線に乗り換えて、秋葉原で降り、パソコン専門店をのぞいてみて、キーボードを探したり、中古のMacの価格をチェックしてみたり。
 けっきょく、中古のキーボードはロクなものがなく、新品は(Mac用のものは)高すぎる。先日Amazonでチェックした、普通の(Windows用の)キーボードでいいではないか、というところ。それでMacの中古物件だけど、安いものは買おうと思えば買える。これはわたしの決断次第なのだが、気になったのは、「OSなし」というモノならば、破格に安いということ。OSがないというだけで、半額にはなる。わたしはOSのDVDは持ってるし、それをインストールすればいいだけ、ぢゃないのかしらん。それとも、予想もつかないような苦吟難銀の悪戦苦闘が待ち受けているのだろうか? わたしはそこまでの知識がないので判断がつかないけれど、そんなに苦労しなくて立ち上げられるものなら、ぜったいに「OSなし」物品を買う。このあたり、要調査。

 今日は金曜日なので、ウチのそばの中華の店は「ドリンク半額」。先週につづいてまた来てしまった。残念ながら、先日までの「焼き餃子100円」というのはもうやってなかった。今日は「380円」と激安な「台湾ラーメン」と焼き餃子、それと瓶ビールというラインナップ。台湾ラーメンはニラとひき肉の入った、シンプルなしょうゆ味。コストパフォーマンスはOKである。この店で制覇してみたいメニューもいろいろあるので、これからも通うことになるだろうな。

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[]「カストロの尻」金井美恵子:著 「カストロの尻」金井美恵子:著を含むブックマーク

目次。

 「この人を見よ」あるいは、ボヴァリー夫人も私だ/破船
 昇天
 呼び声、もしくはサンザシ
 シテール島への、
 「胡同(フートン)の素馨(ジャスミン)」
 廃墟の旋律
 雷鳴の湾――王女、あるいはMiscellany
 雷鳴の湾――Incident
 「孤独の讃歌」あるいは、カストロの尻
 カストロの尻――Miscellany
 小さな女の子のいっぱいになった膀胱について
 本を燃やす、(あとがきにかえて 1)
 パナマ・ドンパチ・ゲイシャ(あとがきにかえて 2)

 面白かった。冒頭のエッセイ「「この人を見よ」あるいは、ボヴァリー夫人も私だ」はいつの間にか小説の「破船」になだれ込み、それは次の「昇天」、「呼び声、もしくはサンザシ」へと引き継がれて行く。「うわぁ〜!よくわかんないよ!」という「シテール島への、」をはさみ、だいたい二つずつの作品が対になって進んで行く。金井美恵子の幼少期の記憶、そして映画。いつもの彼女ならではの世界が、より深化して繰り拡げられる。
 終盤の「カストロの尻」は「金粉ダンサー」だった男が過去を回想するような内容だけど、中に日本青年館での笠井叡の公演だろう、という話も出て来て、そこでの金井美恵子の「悪意(???)」に同意したりもする。
 もっとキーボードが自在に使えたら、もっといろいろ書きたいのだけれども、さいごのエッセイに心に残る文があったので、書き写しておく。この本は自分で買って、持っていたいな。

 むろん、本を読むということは、一冊のある「本」を読みはじめ読みおえることではなく、こちらの興味や、ある本の一部からゆり動かされる記憶を元に、次々と別の本のページをめくったり、本のページをめくる前に、埃が薄く溜った本棚からその目的の本を探し出し、本の本体を保護している紙箱から、きつすぎてなかなか外せなかったり、反対にゆるすぎて隙間があったりする製本によって違いのある本を取り出したりする手続きを経て、自分の記憶が間違っていたことに気づくと同時に、いつも、まだ読んではいなかった無数のページの中から、何かを、新鮮というわけではないにしても、はじめて知る何かを読みはじめて、こちらの別の本についての記憶が目ざめ、奇妙に錯誤する「読む」という時間の肌理(きめ)の凹凸にはまり込んで出口を失いそうになってしまうことだ。


 

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■ 2017-10-19(Thu)

 ‥‥ということで、災難続きの昨今なんだけど、また別の災厄か?
 今の勤務先は、派遣会社と派遣先との月ごとの契約で継続しているわけなのだけど、11月1日以降の契約更新の知らせがないし、同じ派遣会社から同じ派遣先に来ている「同僚」は、今月いっぱいで契約が切られるらしい。わたしも心配になって、先日派遣会社に問い合わせていたのだけど、その件に関して今日、派遣会社から連絡があった。女性スタッフからの電話で、先日のわたしの問い合わせ内容をもういちど確認。なんだかその女性の対応が、受話器を持った左手のひじを机について、右手にボールペンでも持って、それをクルクル回しながら応対してるような感じで、「フンフン、それで?」みたいなので、(怒ればいいのに)ちょっと笑ってしまう。それで「折り返し担当が連絡する」ということになったのだが、じきにその担当から連絡があり、結局つまりは、わたしも今の職場は今月いっぱいなのだという。おっと、ショック!! これはたいへんだ。そういうことは早く連絡してくれなくては。
 とにかくは、「仕事が途切れないように対処してほしい。つまりは次の仕事を探してくれ」と要請する。けっこういろんな契約先を抱えているようで、即座に「こういうのはどうだろう」とか、いろいろと提示してくれる。そういうところは頼りになるというか、助かる。「それは時間が短すぎる」とか「夕方、夜の勤務は避けたい」とかいっていると、今の勤務先からひとつかふたつ先の駅のところに、良さげな条件の仕事があるのだった。「それがいいです」と伝えて、以後の連絡を待つことになった。
 ‥‥どうなるだろうか? 勤務時間は多少長くなるけれども、つまりその分収入も(ちょっと)増えるだろう。今の仕事がなくなるというのはショックだけれども、それが今のギリギリの生活から脱することになるならば、「災厄」ではなくて「福」の到来?と考えることもできるか。その仕事で決まればいいのだが、まだわからない。とりあえずまた来週になったらハローワーク通いか。

 そういうわけで、壊れたキーボードのことをどうするかという問題も、あわてて決められないような感覚にもなってしまった。とりあえずは急場しのぎに安いキーボードを買うことにしようか、とは思うのだけれども、ちゃんとMac用のキーボード(かなり割高になる)にすべきなのか、「使えないことはないだろう」と安物ですませるか、迷ってしまうところはある。とりあえず明日は国分寺のクリニックへ行く日なので、その帰りにでも秋葉原とかに行ってみよう。



 

[]「憲法の無意識」柄谷行人:著 「憲法の無意識」柄谷行人:著を含むブックマーク

 今度の日曜日は衆議院選挙の投票日。悲しいことに、改憲も公約に挙げている安倍自民党が大勝するようなのだが、この「憲法の無意識」には、「彼ら(保守派)は憲法九条を廃棄しようとはしない、というよりできないのです。もしそれが選挙の争点となるならば、大敗するでしょうから。」と書かれている。
 この本が出版されたのは2016年4月のことだけど、はたしてこの1年半のあいだに、この日本という国は大きく変わってしまったのか、それともそもそも、この認識は柄谷行人氏の「錯誤」だったのだろうか。そのことはそれとして、また興味深い問題ではあると思うけれども、それでもこの本での柄谷行人氏の考え、主張に「もう読む価値はない」ということはない。
 彼は「憲法九条」を支えてきたのは「人々の無意識」なのだとし、「憲法九条」を守ろうとする人々も、(逆説的に)「憲法九条」に守られているのだという(わたしも、このあたり大いに同意する)。そして、「憲法九条」とは、日本から「世界」への「ギフト」であり、今後の最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることだという。

 衆議院選挙以後、改憲の動きは本格化することだろうけれども、そのときにこそ、この本はまた読まれるべき本ではないかと思う。



 

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■ 2017-10-18(Wed)

 なんと今日で、このブログも「連続3000日継続更新」になるのである。われながら、「すごい」と思う。まあそもそもは13年以上前からつづけているブログだけれども、2009年の8月2日(実質は次の日の8月3日)からはいちにちも休むことなく書きつづけてきた(もちろん後で「まとめ書き」ということはやっているが)。その、連続投稿の初日になる「2009年8月3日」とはどういう日だったかというと、わたしが初めて、ニェネントのお母さんのミイに出会った日、なのです。うん、わたしには、ミイというネコは、最初に出会ったその時から「特別」なネコだったのでした。
 というわけで、今日はわたしがミイと出会ってから、3000日目の記念日。またミイのことを偲んで泣こう。
 そんなミイの写真は、ほんとうにわずかしかない。そんな中の一枚を、貼っておきましょう。愛しのミイ、あなたのことは、どんなことがあっても決して忘れませんから。

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 さて、現在時制に戻って、大問題の、パソコン・キーボードの件。早朝に起きて、「ひょっとしたら直っているのでは?」と期待して電源を入れたのだが、やはりダメだった。「いや、仕事に出て帰ったら復帰してるかも」などとのはかない期待をよせて、仕事に出る。今日はほんとうに久しぶりという感じの晴天。わたしが仕事に向かう時間はまだ真っ暗なんだけど、東の空には剃刀で削いだような薄い月と、そのそばには「あれはきっと<明けの明星>か」というような星とがみえるのだった。
 仕事から帰るときにはほんとうに「青空」で、気温も暖かく、「この陽気ならキーボードも復帰しているかもな」などと思ってしまう。

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 ‥‥しかしやはり「ダメ」だ。もう、このキーボードのことはあきらめるしかないだろう。ではどうするか? 
 案<1>、カーソルは生きているから、別にキーボードを買って来て接続して使う。
 案<2>、そろそろ買い換える潮時とも思っていたから、この際あたらしいパソコンを買ってしまう。
 もちろん、このあたりは財政事情との相談なのだが、なんとかギリギリ、パソコンを買ってしまうこともできそうだ(ただし、相当家計は苦しくなる)。う〜ん、悩むところである。ただいま思索中。

 さて、では今、いったいどうやってこのブログを書いているのかというと、この写真のように、画面に「仮名表」、「キーボードビューア」を表示させておいて、そこから文字を選んでいくのである。たいへんである。図書館の検索システムで長い文章を入力する感じ。
 でも、だいぶ慣れて来た。

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[]「祇園の姉妹」(1956) 依田義賢:脚本 溝口健二:原案 野村浩将:監督 「祇園の姉妹」(1956)   依田義賢:脚本 溝口健二:原案 野村浩将:監督を含むブックマーク

 あら、溝口監督のを借りたつもりだったのに、観始めたらリメイク版の、野村浩将監督のものだった。これも感想はまた後日。



 

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■ 2017-10-17(Tue)

 今日はいろいろとたいへんなことだらけ。何か「呪われている」のでは、とかまで思ってしまう。
 まずひとつ。車に轢かれそうになった。もちろんというか、わたしの側に落ち度はこれっぽっちもない。轢かれそうになったというか、赤信号なのに停まらずに歩道にのろのろと侵入してきた車の、フロントに押し倒されて道路に倒れた。赤信号だし、車もスピードも落としていたので、当然横断歩道の前で停車すると思い、そのまま横断歩道を渡ったのだけど、車は低速のまま横断歩道の区域まで入ってきやがったのだ。そしてわたしを押し倒し、そこでようやく停車した。わたしが横断歩道を渡っているのが目に入れば(目に入らないはずがないのだが)、すぐに停車するはずである。つまり運転していた人物は、「前を見ていなかった」たいうことか?
 起き上がったわたしは運転席に近づき、「どこをみてるんだ!」と声を荒げたが(この何十年かでいちばん、声を荒げた)、運転席にいた初老の男性は、「信号を見ていてあなたに気づかなかった」などという。ふざけた話である。スピードが出ていなかったから、わたしは押し倒されるように転んだだけだったけれども、下手したらわたしは轢き殺されてたんよ!
 運転席から降りて来たその男性としばらく話をし、つまりは典型的な「前方不注意」というか、最近よく聞くニュースでの、「もう運転免許は返上された方がいいのでは」というようなお方なのか(年齢を聞くと70歳ということだったが)。誠意の欠如した人ではないようで、いちおうしきりに詫びられる。でもわたしとしては「はい、いいですよ」というわけにもいかないので、いちおう彼の住所氏名、電話番号をメモしてもらい、受け取った(警察を呼ぶという選択肢も考えたけど、とりあえず身体で傷むところもないし、時間を取られるのもイヤなので、そういうことはしなかった)。
 しかしとにかくは、「車のフロントに押されて路上に倒される」というのは、なかなかにゾワゾワする(恐ろしい)体験だった。‥‥これが、さいしょの災難。

 次の災難はちょっと深刻で、夜、ビデオを観ながら足を机の上にのせるという「お行儀の悪いこと」をしていると、その足が机の上に置いてあったコップを蹴っ飛ばし、中の酒がパソコンにモロにかかってしまった。しかもわたしはそのことにしばらく気づかず、だいぶ経ってからパソコンのキーボードのところが水浸しになってるのに気づいた。ディスプレイをみると、フォルダのファイル名のひとつが反転し、しかも点滅をつづけているのである。やばっ!
 状態はつまり、水を被ってしまったキーボードが、ショート、誤作動しているわけだ。これはかなり重症ではないか。とりあえずできることは、まだキーボードの上にたまっている水(酒)を拭き取るぐらいのこと。そしてパソコンの電源を落とし、「少しでもましな状態に」と、パソコンを逆さにして置いておく。
 しばらくして待ちきれず、パソコンを元に戻して電源を入れてみる。‥‥ダメ。キーボードのキーがすべて効かなくなっている。ただ、カーソルだけは動かせるという状態だ。これはもう、一晩とかこのままおいて、水分がきれいに蒸発して復帰してくれることを願うだけ。
 しかしなんという不運、不幸。この事態にくらべれば、昼間車に轢かれかけたことなど、「ほほえましい」事件にすぎなく思える。とにかくは今日はもう寝よう。



 

[]「舞台恐怖症」(1950) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「舞台恐怖症」(1950)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 ということで、今はこうやって文章を打ち込むのもヒジョーにタイヘンなことなので、後日何らかのかたちで復帰したあとに、あらためて書きます。



 

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■ 2017-10-16(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 夢。そこは狭い部屋。床がジグザグに区切られているというか、つまりジグソーパズルみたいに線が引かれているのだけど、ジグソーパズルのような曲線ではなく、直線でギザギザの小さなピースの集まり。それぞれの区切りを見ると、その面積らしい数値が了解できるようになっている。そして、そのそれぞれの数値の数字列が、つまりは「詩」になっているらしい。
 その夢の中に「わたし」は登場せず、ただ「見ている存在」なのだが、わたしがある区切りに目をとめると、その区切りは赤い色に着色される。そしてその区切りの面積の数値がわたしの視角の中に表示され、わたしはそれを「詩」と認識するのである。「1.03842」とか、そういうのが「詩」なのである。
 奇妙だけど、とても心に残る夢。「理数系の夢」というか、「V.」を読んだ影響かいな。

 夕食の準備がめんどうになり、「これで済ませてしまおう」と、机の上にのっていたツナ缶を開けて、マヨネーズをトッピングして食べようとすると、ツナ缶の匂いなのかマヨネーズの匂いなのかをかぎつけて、ニェネントが和室から飛んできた。わたしが食べているところに顔を突っ込んできて、ツナ缶をなめようとする。なんてしつけの悪いネコだろう。「いけません! コレは人間さまの食べるものです!」と、追い払おうとするけれど、ニェネントはどこまでも強引なのである。「ま、ニェネントといっしょに食卓を囲み、同じものを食べるというのもいいものか」などと思ってしまい、(ちょっとだけだけど)ニェネントといっしょの食事をした。‥‥こういうことをやるから、ニェネントはいつまでも「しつけの悪いネコ」のまま、なのである。



 

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■ 2017-10-15(Sun)

 今日も雨で、やはり気温も低い。洗濯をしても乾かないのだけれども、しておかないと着る下着とかがなくなってしまうので、わずかな量だけれども必要なものだけでも洗濯をして、部屋干しにする。天気予報では明日も雨という。また八月のときのように、連日連日雨がつづくことになるのだろうか。

 相変わらず精神状態はよろしくなく、つまりは「紙くずを丸めるようにクシャクシャにされ、ゴミ箱に捨てるように放り出された」という感覚である。人に会って、こんな感覚を受けるのはおそらく、生まれてはじめてのことだ。まだ面と向かって「ケンカ」をする方がよほど、精神の健康にはいい。持って行き場のない「怒り」みたいなものの処置に困っている、というところだろうか。とにかくは、その人物にもらってしまった雑誌やDVDは送り返そう。「そんな人物はいなかったのだ」ということにする。

 なんだかあまり集中できないままに、借りている柄谷行人の「世界共和国へ」を読み終え、そのあとは金井美恵子の「カストロの尻」を読むことにした。図書館が裏表紙に貼り込んである「帯」の文句には「作家デビュー50年の集大成となる著者最高傑作!」とある。って、わたしは彼女の過去の小説の記憶はないからなあ、などと思いながら本を開き、冒頭の、「エッセイ」がいつの間にか彼女流の「小説」へとなだれこんでしまうような作品を読み、「ああ、これはたしかにスゴいかもしれない」などと思いながら、ページを括っていくと、突然に唐突に岡上淑子のフォト・コラージュ作品が挿入されていておどろく。どうも、たいていの作品に同じように岡上淑子のフォト・コラージュが挿入されていて、つまり岡上淑子の作品にインスパイアされての連作ということだろうか。いつもなら姉の金井久美子の作品が並列されているのに、どうしたことだろう。金井久美子は具合悪いのだろうか、などと思ってしまったけれども、装幀はいつもの通り金井久美子とあったので安心した。
 しかし、たしかに金井美恵子と岡上淑子というコンビネーションは「ピッタリ!」という感じで、まるで違和感もないのだけれども、こうやって金井美恵子が美術作品とのコラボというか、ある作家へのオマージュともとれるような本を出すというのがちょっと意外だった。
 岡上淑子を「シュルレアリスム」影響下の作家とすれば、たしかに金井美恵子もまたごく若い頃に滝口修造とも会っていたようだし、彼女のデビュー当時の時代からしても「シュルレアリスム」との親近性は強いだろうとは思う。しかし金井美恵子はそうやって当時の(サブカルチャー、アングラ)の世界にどっぷりの「夜遊び」をしていたはずだけれども、その後、そんな(サブカルチャー、アングラ)の世界とははっきりと距離を置き、「あの頃は良かったねー」的な空気にはぜったいに加わらない。わたしが現在の金井美恵子を愛読するのはまさにそういうところもあるわけで、それは例えば、ぜったいにビート・ジェネレーションやロック文化に染まることのないデヴィッド・リンチの姿勢をも思わせるものがある。
 調べてみると、金井美恵子は1947年生まれの70歳(!)、デヴィッド・リンチは1946年生まれの71歳(!!)なのだ。世代的にはカウンター・カルチャー、ロック文化どっぷりの世代のはずだけれども、彼女も彼も、そのあたりからはしっかりと距離をとっている。
 このことは最近わたしが強く思っているところでもあり、つまり、それは「1968」とは何だったのか、ということにもなるのだけれども、けっきょく60年代以降の「カウンター・カルチャー」なんて、何か道を迷った「愚行」の集成ではないのか、ということ。このことは書き出すとキリがなく、あげくは「澁澤龍彦なんて<愚>の骨頂ではないか」などと言い出して、多くの友だちを失うことになってしまうのだが。
 そういうところで、60年代にはもうアート・シーンから消えてしまっていた岡本淑子を取り上げてコラボする金井美恵子のバランス感覚に、わたしも激しく同調するわけではある。こういうことはいずれ、わたしなりにまとめなければいけないと思っているけれども。

     

 

[]「世界共和国へ ――資本=ネーション=国家を超えて」柄谷行人:著 「世界共和国へ ――資本=ネーション=国家を超えて」柄谷行人:著を含むブックマーク

 ま、他の柄谷行人の著作(「倫理21」や「トランスクリティーク」など)でいっていることをまたいっているという感じで、これなら「トランスクリティーク」をしっかり読もう!ということにはなるのだった(経済問題とか、わたしによくわからないことも書かれているけれども)。


 

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■ 2017-10-14(Sat)

 今日はダメ。昨日のダメージを引きずって、何もヤル気がしない。外は雨で気温は低いし、ずっと酒を飲んで寝ているのである。たまに起き出してCDなどを聴き、この日はEspersの「Espers II」などを聴いたのだけれども、これが異様に良くって、「やはり21世紀の最高傑作はこのアルバムだね!」とか思うのだった。

 いつしかニェネントがリヴィングで、また綿棒で遊びはじめた。綿棒をくわえて首を振り、器用に綿棒を宙に放り上げる。宙に飛んだ綿棒はどこに飛んで行くかわからない。ニェネントは綿棒を放り出したとたんにその綿棒の飛んで行く先に神経を尖らせ、すぐに綿棒を追いかける。そしてまたくわえ上げて放り上げる。これをいつまでも繰り返している。自分の反射神経を鍛えているんだな、とも思う。見ていて飽きない。

 たまに綿棒はニェネントの取れないところに飛んで行ってしまい、そういうときにはわたしがサポートしてやる。わたしが綿棒を放り投げると、ニェネントは狙いをつけて綿棒にジャンプしてくる。ニェネントの野生の姿がみえる。画像に記録しておきたいと思うけど。

     

 

[]「V.」トマス・ピンチョン:著 小山太一+佐藤良明:訳 「V.」トマス・ピンチョン:著 小山太一+佐藤良明:訳を含むブックマーク

 物語は、「木偶の不器用男(シュレミール)」で、「ヨーヨー」としてあっちとこっちを行ったり来たりしてばかりのベニー・プロフェインを一方の主人公に、彼の周辺の「ヤンデルレン(The Whole Sick Crew)」らを交え、かなりハチャメチャな展開をみせるパートと、父の日誌に書かれた「V.」という存在(女性?)を探し求める、ハーバート・ステンシルを主人公とするけっこうマジメなパート、そして主にそのステンシルの父周辺に起きる、十九世紀末から第二次世界大戦後にかけての「事件」の記述とからなる、といっていいのかな。この「事件」のパートには、1898年のエジプトを舞台にしたイギリス、ドイツの諜報合戦、1899年フィレンツェでのボッティティエリ「ヴィーナス誕生」強奪計画、1922年南西アフリカの出来事、1913年パリ、ある天才少女ダンサーの悲劇、そして1943年、マルタ島のヴァレッタでの出来事などが描かれる。

 エピローグを入れて全17章、膨大な数の人物が登場し、「また新しい人物が登場したか」と思い読んでいると、単なる端役でさっさと消えて行ってしまったり、あとになって「この人物は誰だっけ?」ということになったり、なかなかに大変。プロフェインの話とステンシルの話もまったく別々なのではなく、ステンシルの「V.」探究の中でクロスしてくるところもあるし、けっきょくはプロフェインとステンシルとは知り合うことになり、ラストにはもうひとりのキーパーソンのパオラと共に、三人で「ここに謎の答が?」というマルタ島へと向かってしまうのである。ステンシルの「V.」探究の道筋ももちろん平坦なものではないが、プロフェインのたどるズッコケ路線、そしてはさみ込まれる過去の(どのように関連があるのかよくわからなかったりする)挿話、逸話などが面白すぎ。

 まず、このベニー・プロフェインという男、多少肥満気味で目が小さくて左右に離れているというから、ぜんぜん「いい男」とも思えないのだけれども、これがなぜか出会う女性らにことごとく言い寄られる。しかし「シュレミール」であることを自覚するプロフェインは、彼女らと関係を持とうとはしない。ラストにいったいなぜ彼までがマルタ島について行ってしまったのか、よくわからないところもあるんだけれども、いちおうこの長い作品の「現在形」の部分の最終部、プロフェインがマルタ島で知り合った女性ブレンダと、夜の海の方へと消えて行くというラストにはグッときてしまう。

 その肝心の「V.」なのだけれども、あらゆるところにその頭文字がVである女性、そして場所、絵画作品、ネズミまでも登場するわけで、いろいろな登場人物らがそれぞれのVを追い求めている、みたいなところもあるし、はたしてステンシルの父親がいった「V.」とは誰なのか、たしかなことも確定できないようにも思う。ただそんな中で、やはり1898年のエジプトから登場する、ヴィクトリア・レンという女性こそが追い求める「V.」ではあるようには思え、そのヴィクトリアはおそらくはその姿、名前を変えながら、パリやマルタ島にも姿をあらわすようである。ヴィクトリアを「V.」とすれば、彼女は片眼を義眼にし、そのさいごには片足も義足となり、その臍(へそ)の部分には内蔵と連結して取り外すことの出来ないルビーがはめこまれている。段々にサイボーグ化して行くというか、クシャマ殿下みたいなのだけれども、そういうサイボーグみたいな存在というのはこの小説の早い段階から登場し、この作品が「現実(リアリズム)」から遊離した奇想の作品であることを示していたと思う。
 そういう「奇想」というのでは、プロフェインの従事する仕事がニューヨークの下水道での「ワニ狩り」であったり、人体研究所だか何だかの「ヒト型実験器具」のある部屋の警備で、毎夜その「ヒト型実験器具」と対話したりもする。ニューヨークの下水道のネズミを改宗させる神父も登場するし、大変である。

 さて、この作品はもちろん「V.」とは誰、何だったのかを探ればいい、というような作品ではなく、その混沌としたストーリーの奥に、これまでの小説にはなかったポイントを秘めているだろう。それはどんなピンチョンの解説にも書いてあるように「エントロピー」の問題、だろうとは思う。例えば「V.」ではないかと思われるヴィクトリア・レンはだんだんに物質的に変貌して行くこと、彼女の終焉などにも読み取れるだろうし、プロフェインがなぜ押し寄せる女性らを受け入れないのか、ということにも関係するのかもしれない。「情報」という問題も絶えず俎上に上げられるし、そういう、文学の主題の幅を大きく拡げた作品だというのはまちがいないことだと思う。

 あとわたしは、この作品の中の妙に生真面目な部分、そしてナンセンスでお馬鹿な展開などを合わせて読んでいると、どこかで川島雄三の映画を観ているような気分になってしまった。だって、ヤンデルレンらの大騒ぎとかは「グラマ島の誘惑」みたいな気もしたし、いろいろと。

 ‥‥読みながら、気になるところをチェックしていたので、そういう箇所をメモというか引用しておく。

<シチュエーション>なるものに客観的リアリティはない、というのが、ステンシルがずっと前に達した結論だった。<シチュエーション>とは、その場でたまたまそれに関わりを持った人間の思考の中にのみ存在するのだ。複数の人間の思考の寄せ集め、あるいは組み合わせが<シチュエーション>であるからには、それが均一でなく雑種性を帯びるのは当然であり、一人の人間が眺めたときには、三次元の世界に適応した目が四次元の図を見たときのような様相を呈するのである。(p282)

――一つの時代の終わりとは、物事を一方向へ引っぱってゆく力が弱まり、てんでんばらばらな逸脱への弾みがつくことに他ならないのではないかと。(p296)

 この世界に何かしらの政治的寓意が読み取れるとしたら、それは今世紀の人間の活動が、耐えがたいほど二分化された中で行なわれるに至ったということだろう。右派と左派、温室(ホットハウス)と街頭(ストリート)。右派は過去のホットハウスに自らを密封しつつ仕事を続ける。その一方で左派はストリートに立ち、結集した群衆のヴァイオレンスを操って事に当たるのだが、夢みる未来の風景の中にしか居場所を見いだせない。
 現在のリアリティはどこにあるのだ。非政治的な人間、かつては誉れ高かった“黄金の中庸”は滅びてしまったのだろうか。ともかくも、視界には入ってこない。二手に大きく裂かれたこの西欧に、極度の<疎外>を感じる人々が出現するのは時間の問題だろう。(p719)


 

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■ 2017-10-13(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 ようやく、「V.」の二回目を読み終えた。「あらあら」という感じだった一回目読んだときにくらべ、その面白さを満喫した(いや、もういちど読めばさらに面白さを味わえるだろうけれども)。前にもナボコフをつづけて二回読んで「なるほど」ということもあったし、やはり「難物」は複数回読んでこそ了解できるところが大きい。

 天気予報通りに今日は気温も低く、雨模様。金曜日なので、仕事の帰りに柏駅でレンタルDVDの店に。借りる手続きをしようとしていたら、店員が「お客さまのように旧作をお借りになるのでしたら、プレミアム会員になって<借り放題>ということも出来ますよ!」などと勧められる。いっしゅん、「それなーに」と触手が動いたけれども、そんなの「無料」で済むわけがない。わたしは「週に2本」と決めているから(そのうち1本は無料)、ぜったいにその方が安いのだということ。今日は先週「持っている」と勘違いしてしまった溝口健二の「祇園の姉妹」と、ヒッチコックの「舞台恐怖症」とを借りた。

 今日は船橋のCさん宅に招かれているので、「手ぶらで行くわけにもいかないな」と、柏駅前のデパートで柏の名物銘菓みたいなのを買う。帰宅して急いで食事をし、また電車に乗って松戸まで行き、そこから京成線に乗り換える。約一時間の旅程。目的駅に着き、Cさんに連絡して迎えに来ていただく。Cさん宅は駅からさほど離れてはいなかった。

 パフォーマー/ダンサーとして知られているCさんの奥さんにもお会いして、「楽しいミーティング」になるかと思っていたのだけれども、実はそういうことにはならなかった。‥‥実のところ、ほとんど初対面といっていいCさんという方が、いったいなぜ、わたしと会おうとされたのか、その動機がわからない。わたしのパーソナルなことはほとんど何もご存知ないのはいいのだけれども、(悪いけど)そういう「知らない他者」への、ロジカルな「敬意」というものは感じさせてほしかった。逆に、わたしはどこかで侮蔑された思いだけが残った。
 これがすべてではないが、ひとつには、わたしが過去の記憶を失っているという話をしたとき、Cさんは「それはおもしろいですね」とのたまわれた。何が「おもしろい」のか。この人には想像力の持ち合わせはないのだろうか。わたしはそのことで死のうかと思ったこともあったというのに。
 以前にも、「これまでに観た映画のことはほとんど記憶にない」という話をしたとき、「過去に観た映画でも、また<初めて観る>気もちで観られるのはいいじゃん」という反応を受けて、「とんでもないことをいう人だな」と思ったこともあるけれども、そのときより「おもしろい」といわれて傷つく度合いは問題にならない。

 その後もわたしにはあまり愉快ではない展開が続き、「いったいなんで、わたしはわざわざ電車に乗って、手みやげまで持って来て、こんなに不愉快な感覚を味わっているんだろう」と思うことになる。もっと早い段階で、「来たのは間違いでした。失礼します」と帰ってくればよかったのだろう。しかも、帰りもCさんはその前のやり取りでは「近くまで車でお送りしますよ」ということで、少しは期待していたのだけれども、けっきょく駅まで送ってくれただけで、わたしはまたしても電車代を払って電車で帰って来たのであった。不快だった。

 どうもこの新居、crosstalkを乗っ取ろうとしたDさんが接近して来たり、地勢的にはよろしくないところなのかもしれない。まあ、「自分自身に耽溺せよ」という<場>なのだろう。

 帰りは、家にごはんの炊き置きもないので、また近所の中華の店に立ち寄って夕食にする。今日は金曜日なので、この店は「ドリンクすべて半額」なのである。いつものように瓶ビールと台湾焼きそば(うまいのだ)で夕食。「ビールで半額浮いた分で餃子焼いてもらってお持ち帰りにしてもらおうか」と思ったけど、「いやいや、帰れば冷凍庫に餃子ストックあるから」とやめたんだけど、お勘定してもらってると、そのそばに「期間限定!焼き餃子100円!(持ち帰りもOK)」て書いてあって、「あ〜、オレってバカだわ〜!」て思うてしもうた。おかげでちょっと明るい気分になったけれども。
 「V.」の感想は、長くなるかもしれないので明日。

     

 

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■ 2017-10-12(Thu)

 昨日も今日も、昼間は快晴で気温も高い。特に今日は夏みたいな陽気で、窓を開けておかないと今の風邪をひいたあとの体調ではやっていられない。汗が吹き出てくる。窓を開けておくとまたニェネントが窓際にやって来て、なんとか窓の外に出られないものかと窓との格闘を始めてしまう。ニェネントが外に出たときの、何というか「のびのび」とした様子というのは、わたしも見ていてこちらの気もちものびのびとしてしまうようなところもあるので、今までのことに懲りずに「(ちょっとだけでも)外に出してあげたいな」と思ってしまう。それでつい、窓を開けてニェネントを外に出してあげてしまった。

 やはり、外に出たニェネントは「外界はすばらしいなー」というような気分をあたりに発散しながら、周囲を探索していく。しばらくはわたしの部屋の周囲を散策し、それから前の空き地へと移動して行く。わたしの考えでは、ニェネントはこの空き地、そして脇の一軒家の前の庭、それ以上外に行くことはないものと思う。それがニェネントの「ナワバリ」であろう。だからたとえいっときわたしの見えないところに行ってしまっても、とんでもないところへ行ってしまうわけではないと信じている。今日もニェネントはいつしか、わたしの見えないところへ行ってしまった。
 それで、「そのうちに帰ってくるさ」と思っていたというのに、一時間近く過ぎてもまるで音沙汰がない。ああ、毎回思うことだけれども、やはりニェネントを外に出すとわたしの心労がつきない。ダメだこりゃ、という感じで、わたしも外に出てその空き地でニェネントを探すのである。それで、このあいだニェネントが雨宿りしていたニェッタの家の廃車へ行ってみると、まさにその廃車の中にニェネントがいた。ニェッタはいないようだけど、そんなにこの場所が気に入ってしまったのか。
 それで、普通だったら、わたしがそばへ行くと、ニェネントは逃げるように部屋に戻っていくわけだけれども、今回はその廃車の奥へはいり込んでいくばかりで、まったく戻ろうとかいう気配は見せない。これは困った。どうしようもない。「処置なし」という感じである。ニェネントを部屋に戻すというのはこの段階ではムリだと思えたので、しょうがなくいちど部屋に戻る。困った。ニェネントがあの「廃車」を「第二の自分の家」みたいに思いはじめても困るし、とにかくは部屋に戻す方策がない。それにニェッタとの関係もある。今日のようにニェネントがあの「廃車」に執着するようだと、やはり外に出すというのは考えものである。
 ‥‥十分ほど経って、もういちど空き地へ行ってみた。するとニェネントはさっきの廃車から出て、空き地の隅に置かれた別の廃車のそばにいた。わたしが近づくと、今回は「部屋に戻らなくっちゃ」と思ったようで、わたしの部屋に吹っ飛んで戻っていくのだった。‥‥とりあえずは、今回も無事にニェネントは部屋に戻ってきたけれども、う〜ん、やっぱりニェネントを外に出すというのは、どんなことがあってもやってはいけないことだろうな。とりあえず今日はそう思った。

 読んでいるピンチョンの「V.」は残り数十ページというところまできて、明日には読み終えられるだろう。いろいろと思うところはあるのだけれども、はたしてうまくまとめられるだろうか? さて、次はいよいよ「重力の虹」だけれども、その前に金井美恵子の「カストロの尻」を読まなくてはならないし、柄谷行人の岩波新書も二冊ある。

 夕方にテレビのニュースを見ていると、世界の都市ランキングで東京が世界3位に選ばれたという報道。見ていると、海外からの観光客が「食べものが最高!」とコメントし、浮世絵の展示を観ている映像もはさまれる。‥‥つまり、東京は食べ物がおいしくて浮世絵が見られるという都市なのか。それは短い時間でニュースに挿入する映像を選ぶのもひと仕事だろうけれども、「都市」というものはそういうものではないだろう、とは思う。
 今は何だか「クール・ジャパン」とか政府主導でいっているみたいだけれども、ただ過去の遺産に頼るだけの姿は、とても「クール」とは思えない。もっと、オルタナティヴな姿がみえる国、そして都市でないと、わたしには相変わらず「どこか魅力のない」国であり、都市である。

     

 

[]「雷魚」(1997) 井土紀州:脚本 瀬々敬久:脚本・監督 「雷魚」(1997)   井土紀州:脚本 瀬々敬久:脚本・監督を含むブックマーク

 当時おそらくはレイトショーで観て、瀬々敬久という監督の名を注目することになった作品(今では、井土紀州の脚本ということで記憶される作品)。ヴィデオ化されて副題に「黒い下着の女」と付加されている。

 この舞台は茨城の神栖周辺だろう。ロケーションがすばらしく、この作品の魅力の大きな部分を占めている。特にその「川」を真正面から捉えた映像。東京からそんなには離れていないところに、こんな「風景」が広がっているということが、ひとつの風景論を成り立たせ、このストーリー展開をリアルなものにしているだろうか。

 ストーリーは、二つのじっさいに起きた事件をもとにして脚色されたものといい、このやり方はのちに井土紀州が監督として継続、発展させて行くことになる。ここでは二つの殺人がメインとなるけれども、その「人を殺す」という行為は、どちらも唐突ではある。しかしその唐突さ故にか、そのシーンにはおそろしい迫力がある。特にラブホテルのバスルームで女(佐倉萌)が男(鈴木卓爾)を刺し殺すシーン、それまでの青と緑を基調とした映像から、バスルームの壁の赤、そして血の赤と、強烈な対比を見せる*1

 「雷魚」という、タイトルにもなる魚の取り入れ方もいいし、ひとつのキーパーソンとして登場する白痴の女(彼女を演じた人をわたしは知っていたのだけれども)もまた、それを「希望」と呼ぶのか「絶望」と呼ぶのか、不可思議なラストへと導いてくれる。わたしは当時「これは傑作」と、しばらく瀬々敬久監督の作品を追いかけたものだったけれども、彼がメジャーになるにつれて、あまり観る気のしないような作品が多くなった気がする。その逆に、ここで脚本を手がける井土紀州氏の方こそ、今でもこの「雷魚」のスピリットを引き継ぐような作品を人知れず撮り続けていらっしゃるようで、わたしの追いかけるところになっているわけである。


 

*1:この「バスルームでの殺人」というシチュエーション、のちに井土紀州監督が「今のオレならもっとうまく撮れるぜ」とばかり、別の作品(何だったか忘れた)で、たしかにもっと強烈な演出で再現していた

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■ 2017-10-11(Wed)

 たしかに風邪の後期症状とはいう感じで、ときどき咳が出るのだけれども、昨日の「玉子酒」のおかげだろうか、そこまでに酷い風邪の症状、というわけでもなく、これならばそんなにつらい思いをせずとも普通に健康体に復帰出来るだろうと思う。

 ずっと、まえの住まいから持って来た座椅子を使ってるのだけれども、前から思っていたのだが、これがあまりよろしくないというか、映画などを長時間観ていると首の位置がうまくすわらずに痛くなってくる。外見も相当にボロくなっているし、買い替え時かなとも思う。この座椅子を買い替えれたら、そこではじめて「転居した」と思えるような気もしないでもない。今はちょっと「家計」が苦しいのだけれども、今の計算では年末になれば座椅子を買うぐらいの余裕は生まれるのではないかと思う。そして、春にはパソコンを買い替える。これがわたしの夢みるところである。

 今日は借りてあるDVDももうひとつ、溝口健二監督の「浪華悲歌」を観るのだけれども、この作品と同時期に撮られた「祇園の姉妹」はたしか持っているはず‥‥と、DVDの棚をチェックしてみると、なんと! 持っているのはこの、借りてきた「浪華悲歌」の方だったのだ。わたしはわざわざ、自分で持っているDVDを借りてきてしまったわけだ。このあたりのわたしの記憶のいいかげんさに、あらためてうんざりする。

     

 

[]「浪華悲歌」(1936) 依田義賢:脚本 溝口健二:原案・監督 「浪華悲歌」(1936)   依田義賢:脚本 溝口健二:原案・監督を含むブックマーク

 この作品から脚本に依田義賢が参加して、これ以降の溝口作品の黄金コンビが始まるのである。冒頭の字幕では「原作:溝口健二」とあり、つまり原作が別にあるわけではないオリジナル作品ということだけれども、そういうのは溝口作品では珍しいのではないのか。それとも、この三十年代頃までの作品には、そういうオリジナルものもかなりあったのだろうか。

 この頃の作品の関西を舞台とした作品が多いのは、その依田義賢が京都の出身だったということが関係していたのだと、このDVDの映像特典で新藤兼人が語っていた*1。それまで、まずは「都会」といえば「東京」という描かれ方をしていた邦画の世界で、大阪を舞台としたということでも画期的だったわけだけれども、そのあたりさすがに関西人のふるまい、そしてことばを知り抜いている依田義賢の貢献は計り知れないものがあるだろう。そのことはこの作品でのなかなかにシビアな、リアリスティックな展開のなかに、どこか底抜けなユーモアを感じさせるものがあるわけで、それはわたしなどが幼少期に観たテレビドラマでも、関西喜劇の独特の味わいへと通底するものを感じ、それは谷崎潤一郎の「関西もの」と合わせて、トータルに戦中戦後の日本文化のひとつのバックボーンでもあったのではないかと思ったりする。
 この「浪華悲歌」では、まずは婿養子の薬問屋の社長が奥さん(梅村蓉子)にまるで頭が上がらないさまが描かれ、つまり毎晩遊び歩いている妻のことをやきもきして家で待つ社長。ふつうの夫婦関係のまるで逆な世界。それでこの社長は会社で電話交換手をしているあや子(山田五十鈴)を愛人にして、ウサばらししてやろうかと思うわけである。いちどはきっぱりはねつけるあや子だけれども、あや子の家族というのがなかなかに難儀で、父は会社の金を使い込みしていてその金を返さなければならないし、母はいない。妹はまだ学生だし、大学に行っている兄は学費の無心をして来ている。それらいっさい、あや子の肩にかかってくる。
 まったくあや子にたよりっきりで反省の色もない父にあきれ、あや子は家を飛び出して独り暮らしをはじめる。けっきょく、「しょうがないか」と社長の愛人になることを承諾してしまう。しかし、社長と二人で文楽公演を観に行っていたところに社長夫人があらわれ、たいへんな痴話喧嘩がはじまったり‥‥。

 あや子もそんな人間関係の中でうまく立ち回ろうとするのだけれども、けっきょくは警察のやっかいになってしまう。実家に戻って久しぶりに家族らと食事するあや子に、家族は冷たい。そもそもは家族を支えるために詐欺じみたことにも手を染めたあや子に、皆は「家族の恥」との対応を見せる。いたたまれずにまた家を飛び出すあや子は橋の上から川をながめている。「うちは不良少女という立派な病気やわ」と。

 溝口映画らしくも、男たちは皆とにかくだらしがない。というか、金と色に目がくらんでいる。そんな中、さばさばとして行動的な女性たち。梅村蓉子の旦那を尻に敷く恐妻ぶりも楽しいけれども、やはり主演の山田五十鈴がすばらしい。彼女は周囲の最悪の状況に巻き込まれて堕ちて行くわけだけれども、その行動原理にはどこか現代的な感じも受けるので、ラストも「彼女ならばこの難局も切り抜けられるのでは? いや、切り抜けてほしい」と思うことになる。

 溝口監督の演出はこの時代からすでに完成されていたというか、その照明の取り方はどこか「残菊物語」を思い出させられるし、すばらしい長廻しも堪能出来る。特に、あや子が独り暮らしをはじめるアパートに、会社の同僚(恋人)の男性が訪ねてくるシーンの、部屋の外の窓越しの撮影からカメラがぐるっと移動し、部屋の中まで入って行くシーンなど、圧巻であった。ウチにこのDVDは所有しているわけだから、またゆっくりと観てみたい。


 

*1:溝口監督自身もまた、関東大震災以降はずっと京都に住み、日活の太秦撮影所などで作品を撮り、それ以降戦後も、ほとんどの作品を大映の京都撮影所で撮っている

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■ 2017-10-10(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 そんなに、それほどまでに具合が悪いわけでもないけれども、やはり「風邪」である。三連休のあとに久しぶりのしごとだったけれども、汗をかいてしょうがない。多少、熱もあったのだろうか。これはこじらせないようにしないといけない。やはり、風邪のときは玉子酒がいちばんである。その、「風邪には玉子酒がいちばん」という思い込みこそが、風邪にはいちばんなのではないのか。しごとの帰りにコンビニでカップ酒を買って帰り、玉子はストックがいっぱいあるので準備。

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 玉子酒には、玉子を黄身も白身もぜんぶ使うつくりかたもあるようだけれども、わたしは黄身だけを使う。どうも、白身のあの透明でどろ〜んとした感じが好きでないというか、栄養があるように思えない。ぜったい、玉子の栄養というのは「黄身」にこそ凝縮されている。だから、まずは玉子を割って黄身を選り分ける。もちろん、カラザもきれいに取り除く(カラザが残ると出来上がりがなめらかにならない)。そこに砂糖をスプーン一杯加えてよくまぜ、そこに沸騰一歩手前まで熱した日本酒をちょっとずつ注いで、まぜていく。これで完成。飲むとからだが温まり、そのまま寝てしまうのもいい。

 ところで、先日観ていたヒッチコックの「白い恐怖」のことで、そのDVDの字幕がどうも日本語としておかしなところがいろいろあって、基本的には接続詞の使い方がおかしいと思ったのだけれども、そんな中で唐突に「卵入りコーヒー」という字幕が出てきて、「それってなんやねん?」と思って、あまりに妙なので写真に撮っておいた。

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 ‥‥これは何か、翻訳のまちがいだろうとは思っていたのだけれども、今日こうやって「玉子酒」を飲んだことで思い出してしまい、「はたして<卵入りコーヒー>とは?」と調べてみると、なんと、意外にもじっさいに、「卵入りコーヒー」というのは実在するようだった。特に北欧で愛好され、ヴェトナムや韓国でも一般的なものらしい。これにはちょっとおどろいてしまったけれども、じっさいにどんな味なのか、いちど飲んでみたいと思った(きっと、インスタントコーヒーでは無理なのだろう)。

 というわけで、今日は「玉子酒」を飲んだあとはベッドに直行し、読みさしの「V.」を読みながら寝てしまった。夜になって、「さあ、<昭和文学全集>の新しい巻だぞ!」と、その第1巻、<谷崎潤一郎・芥川龍之介・永井荷風・佐藤春夫>の巻を引っぱり出し、その冒頭の谷崎の「春琴抄」をちょっと読み始めたら、これがあまりにも面白そうで、「やはり谷崎は<別格>だ!」と思ったのだけれども、今コレを読み始めてしまうとこちらに夢中になってしまいそうなので(図書館から借りて読んでいない本もたまっているので)、読むのはもう少し先にしておこうと思うのだった。

     

 

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■ 2017-10-09(Mon)

 やはり今日も風邪が抜けず、熱こそはないと思うのだけれども、鼻水が出てだるい。また今日も夏のように暑い日で、リヴィングでじっとしていても汗だくになってしまう。きっと外は好天で、こういう日は部屋の中に居るよりは外に出た方が涼しくって快適ではないのかと思うのだけれども、外に出ようとは思わない。今日も一歩も外に出ず、かなり長い時間は寝て過ごした。とにかくは土曜日に買ってしまった「超巨大ウィスキーペットボトル(2.7リットル入り)」があるので、こいつをロックで飲むとそれで眠くなって寝てしまうのか。ベッドで本を読むからそのまま寝てしまうのか。たぶんこれらの相乗効果によるのだろう。この三連休で、おそらくは三十時間以上は寝たのではないかと思うのだが。ま、とにかくは寝ていた方が風邪も快方に向かうのではないかと思うから、いいのではないか。

 さすがに夕食後は「いつまでも寝てばかりでも仕方がない、借りているDVDを観よう」と、ジャック・タチの「プレイタイム」を観た。

     

 

[]「プレイタイム」(1967) ジャック・タチ:監督・脚本・出演 「プレイタイム」(1967)   ジャック・タチ:監督・脚本・出演を含むブックマーク

 むかし東京で「ジャック・タチ映画祭」があったと思うのだけれども、きっとそのときに観ているはずの作品。もちろん記憶に残っていない。タチはこの撮影のために、この近未来のパリのセットをで〜ん!とつくったのだとか。さいしょの空港の様子、そしてオフィスビルの中のオフィス、それから開店初日のクラブ/レストラン。この、チリ一つ落ちていない清潔感というか、大きなガラス窓の集積の透明感というか、強い美意識を感じる。そして、そんな近代建築の中で右往左往する人たち。

 これはそんな近未来社会を「ね、人間性が疎外されて生きにくいでしょ」という諷刺一辺倒でつくられた作品ではなく、「人間はやはり人間、そもそもヘマをするのが人間なんだよねー」みたいにいっているみたいで、つまりチャップリンとはぜんぜんちがうだろう。わたしはチャップリン的なものはきらいなので(といっても、あまりしっかり記憶してはいないのだが)、こういうジャック・タチの世界観にはすっかりハマってしまい、大いに楽しんでしまう。

 基本すべてロングで撮られた映像、クロースアップされる物音の楽しさ、そんな中で、特に後半のレストランのシーンで「人間って楽しいよね」という感じをしっかりと受け止め、ジャック・タチのユロさんがアメリカからのトゥーリスト女性としっかり仲良くなり、それで何とも粋な「別れ」まで、これはやはりフランスの「エスプリ」なのかなあ、と思うのでした。あ、おまけで短篇「ぼくの叔父さんの授業」付き。



 

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■ 2017-10-08(Sun)

 わたしがこうやってリヴィングの机の前にすわってパソコンに向かっていて、ふと脇をみると、ニェネントがわたしのそばでじっとおとなしくすわっていることがある。それがニェネントの夕食の時間になっていれば、わたしと顔を合わせたニェネントはわたしの顔を見て、「にゃ〜ん、にゃ〜ん」と、いかにも飼いネコらしく飼い主さまにおねだりすることになるのだけれども、そんな時間でもないときにはただじっとすわり込んでいる。「ふむ、やはりわたしのそばにいるのがいいのか」と、飼い主さまとしてちょっとうれしくなるのだけれども、それで「かわいいねえ」と、ニェネントをなでてあげようとかしても、その距離感が絶妙というか、ちゃんとわたしの手が届くか届かないかというギリギリのところに、いつもすわっているのである。なんとか手を伸ばすとヒゲとかにはかろうじてタッチできるけれども、頭をなでてやるとかには手が届かないところなのである。それでわたしがからだをずらせてニェネントにタッチしようとすると、ニェネントはわたしが触れないところまで後退してしまう。なんていうのか、「わたしはあなたのことを<飼い主さま>としてお慕いしておりますが、だからといってわたしのことをチャラチャラと触ろうとしないでほしいのね!」という感じ。「自分の領域」というものをしっかりと守っているというか、「ココは<猫カフェ>じゃないんですから、あなたのためにサーヴィスなぞいたしません!」というのが、ニェネントというネコなのである。

     f:id:crosstalk:20170818201557j:image

 わたしは明日まで仕事も休みなのだけれども、どうもやはり風邪っぽい。とにかくは読みたい本もたくさんあることだし、今日も明日も読書にはげみましょうと、いちにち何もしないでいた。ちょうどいい具合にカレーもたくさんつくってあるし、買い物にも出かけずに食事の準備からも解放され、ただゴロゴロとして過ごした。

 それで、読んでいた「昭和文学全集」の第7巻、ようやく全部読み終えた。いや、多少「これは読んでもしょうがない」と思った作品はすっ飛ばしたけれども、まあ「読んだ」といえるだろう。トータル1198ページ、長い道のりではあった。五月の始めに読み始め、その頃は「一ヶ月に一冊読めるかな?」などと甘い見通しを立てたものだったが、けっきょく他の本を読む空いた時間に読む感じになり、読み終えるのに五ヶ月もかかってしまった。まだあと16冊もあるというのに、いったい全部読み終えるという日が来るのだろうか?

 この第7巻には11人の作家の作品が載せられていたのだけれども、ちょっと思い出して書いてみよう。
●梶井基次郎:全二十編、彼の代表作はだいたいすべて掲載されていたと思うのだけれども、まだ読み始めた頃はわたしの脳の調子もよくなかった時期で、今ではほとんど記憶に残っていない。まあ文章の上手な作家さんだとは思ったようである。
●牧野信一:このあたりもまだ記憶力のおぼつかない時期。まるで知らない作家さんだったけれど、「面白い人もいるものだ」とは思った。
●中島敦:この人の作品を読む頃から、わたしの頭脳の調子も良くなって来たような。うん、この人はすごい! たしかにボルヘスと比べたくもなるのである。ちょっと長いスティーヴンソンの伝記的な作品もよかった。
●嘉村礒多:「びっくりぽん!」の作家。読んでるときはちょっとうんざりもしたけれども、強烈さではいちばんで、また読んでみたい。「破滅型私小説」という概念を知った。
●内田百痢知ってるつもりではいたけれども、不気味な怪談風の作品、夢を書いたような作品の魅力は語り尽くせない。
●中勘助:この作家を知ったのもショックだった。とにかくは「菩提樹の蔭」に惹かれ、有名な「銀の匙」も図書館から借りて読み、「提婆達多(でーばだった)」も「犬」も読んだ。かなりすごい人だ。
●広津和郎:芥川龍之介と宇野浩二との交流の思い出話。あと、「ひさとその女友達」というのは戦中戦後の女性の生き方を描いて、どこか溝口健二あたりが映画化したら面白そうな、そんな作品だった。
●瀧井孝作:こちらは「調和型私小説」ということ。読んでいて途中で、「そんな話聞かされてもな〜」と、読むのをやめてしまった。「リア充」の自慢話みたいな?
●網野菊:親族にはロクな人間(女性)はいないし、わたしは大した恋愛経験もない。おまけに水虫はひどいし‥‥、みたいな繰り言だけれども、なんか面白かった。
●丸岡明:面白くない。
●森茉莉:森茉莉は森茉莉なのである。おしまい。

     

 

[]「薔薇くい姫」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より) 「薔薇くい姫」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より)を含むブックマーク

 これは1976年、森茉莉が七十三歳のときに発表された作品で、「贅沢貧乏」に引きつづき、自分のことを「魔利(マリア)」と呼称してのエッセイ的作品。かなり自分の若いときの、翻訳を始めた頃のことも書かれ、ちょっと自伝めいた趣もある。当然登場人物は皆実在の人物なのだけれども、仮名が使われているので「はたしてこれは誰のことだろう」と考えるのは、ちょっとクイズめいている。鷹見俊というのは「高見順」と、すぐに察しがつくけれども、青石蓮子(なみこ)や耶野(やの)文子となると、わたしの知識ではわからない。作品の終いの方に、「宗方乾」という踊り手の公演を観に行く話が書かれているのだけれども、その宗方乾とは土方巽で、終演後のパーティーの席で、「池見鱒夫」「渋川克彦」「巽五郎」「高田修作」などという面々と、楽しく歓談されたという話が出てくる。「そういう交友もあったのか」と、ちょっと意外ではあった。



 

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■ 2017-10-07(Sat)

 目覚めたら寒い。とても寒い。外は重たい曇天で、雨も降っているのかもしれない。昨日まで着ていたものでは寒さがとまらないので、押し入れとかタンスをごそごそやって、長袖の厚手のシャツとか薄手のセーターとかを引っぱり出す。何だか鼻水も出てくるし、これは「風邪の引きはじめ」みたいな体調である。ヤバい。重ね着をして厚着をして、体温の確保をする。昼食は温かいインスタント・ラーメン(w)。今日は我孫子の図書館へ行こうと思っているので、なんとかもっと暖かくなってほしい。

 我孫子の図書館へ行くというのは、チェックしたら先日まで誰かさんが借り出していた「V.」が戻って来ていたからで、柏の図書館だとまずリクエストを出して、それで取り寄せてもらわなければならないという手間がかかるわけで、すぐに借りて来れる我孫子の図書館の方がいい。それにどっちにせよ、借りているCDとかを返却しなければいけない。

 午後になるとなんと、わたしの願いが空に通じたのか、急に雲が消えて青空がみえてきて、日ざしも暖かそうになった。「これは出かけなくっては」と外に出て歩いていると、これが思いのほか日ざしも強く、こんどは暑いぐらいである。はおっていたジャケットを脱いで道を進むけれども、それでも汗ばんでくる。こういうのも風邪をひく要因になるわけだから、要注意である。

 図書館に着いて、借りていたCDとかを返却し、「V.」の上・下巻と、金井美恵子の「カストロの尻」、あと岩波新書の柄谷行人の「憲法の無意識」というのとを借りた(そんなに読めるのか?)。ついでに「今買い物をするとポイントがつくよ!」というクーポン券にだまされて近くのドラッグストアまで足を伸ばし、何も買うものがないので、超安物ウィスキーの巨大ペットボトルを買ってしまった。これはアル中への入り口、危険である。

 帰宅すると、とたんに汗が吹き出る感じで、着替えをするけれども、これは風邪への入り口として危険である。夕方、「いよいよ今日はカレーをつくるぞ」とがんばった。トマトを入れ、調味料もあれこれと入れてみて、それでも出来上がると意外とあっさり味に仕上がった。しかし食べてみると食欲を引きずる感じで、たいへん珍しいことに「おかわり」をしてしまった。これで「風邪」も吹き飛ぶといい。寝る前に「昭和文学全集」、あと少しで第7巻読了というところでひとつ読み、残すはあとひとつだけということになった。

     

 

[]「贅沢貧乏」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より) 「贅沢貧乏」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より)を含むブックマーク

 先日池袋でお会いしたDさんに、「贅沢貧乏」という劇団があると聞いて、すぐにこの作品のことを思い浮かべた。
 これは森茉莉自身のことを書いているのだけれども、自分のことは「牟礼魔利(むれマリア)」としての客観描写。つまり、代沢の古いアパートでの独り住まい、観潮楼での暮らしや結婚時の暮らしのようないろいろと豪華な家具調度などないけれども、そこは想像力でわたしの心はヨーロッパにあるのよ、と。
 自分のことは「ボサボサの髪の下に、十三歳の少女の顔がそのまま中老になったという、不思議な顔を耀(かがや)かせて、歩いて行く。」などと、これはかなりの自意識過剰というか、自己美化というか、読んでいて「をいをい」と思ってしまったりする。まあこのあたりから世相批判というのか、「ドッキリチャンネル」へと連なるような辛口な独白も飛び出してくる。彼女の生活ぶりがあれこれと想像され、面白い作品ではあった。



 

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■ 2017-10-06(Fri)

 朝にはちょっと雨も降っていたけれども、この雨は天気予報では午前中でおしまい、と聞いたような気がする。仕事の帰りにレンタルDVD店に寄り、「こんどは何を借りようかな〜」と棚をみてまわり、溝口健二の「浪華悲歌」とジャック・タチの「プレイタイム」とを借りた。金曜日ならばわたしのような老人は一本無料になるわけで、これからは毎週金曜日に寄って、二本ぐらいDVDを借りることにしようかと思う。そのすき間に、ウチにあるVHSに録画してある映画とかも観て行けることと思う。

 今夜は三鷹へ出かけ、山田せつ子さんのソロ・ダンスを観る予定でいる。実は「あまり出かけたくないな〜」という気分ではあったのだけれども、気を奮い立たせて夕方から出かける。外はまた雨が降り始めていた。
 ウチから三鷹へ行くのは遠いけれども、それでもいちど乗り換えするだけで行けるわけでもあり、わりと簡単に行ける。六時半頃に三鷹駅に到着。駅前では立憲民主党の候補者が演説をしていた。あまり足を止めて聞いている人はいないようだ。配布しているチラシを受け取って、ちょっと見てみると、まだ「民進党」名義のチラシになっていた。駅前で軽く夕食を取り、会場へ行く。ここで、来週お会いすることになっているCさんに(おそらく初めて)お会いすることができた。これで来週お会いするときに迷わずにすむ。

 山田せつ子さんのダンスはとてもすばらしいもので、「観に来てよかった!」と思いながら帰路に着いた。十時半頃に家に着き、ドアを開けるとニェネントがお出迎えしてくれた。今夜はもう気温も低いので、掛け布団をかぶって寝ようとしたのだけれども、そうするとニェネントがやって来て、わたしの上に乗っかってくる。そう、ニェネントはじかにわたしの体、ひざの上とかに乗ってくることは決してないのだけれども、こうやって掛け布団を使う時期になると、わたしが布団にもぐり込むとすぐ、その布団の上に乗ってくるのだった。わたしには、ニェネントとの楽しい季節の始まり、ではある。

     

 

[]山田せつ子ダンスソロ「箱の中/外」@三鷹・SCOOL 山田せつ子ダンスソロ「箱の中/外」@三鷹・SCOOLを含むブックマーク

 「SCOOL」のスペースはそんなに広いわけでもなく、いわば「ホワイトキューブ」の画廊のような空間なのだけれども、そういう空間を目いっぱい、思いっきり使い切った、すばらしいダンス/パフォーマンスだったと思う。山田せつ子という人の持つ、「ダンス」というものへのさまざまな意識、そしてダンスへの距離感とでもいうようなものが、強く伝わってくる。
 わたしはもちろん過去に山田せつ子さんのダンスは観ているわけだけれども、その記憶は消えてしまっている。でも、この日の山田さんのダンスから、「ああ、この人はこういうダンスなのだった」という記憶がもどって来るようではあったし、同時に、「ダンスというものはこういうものなのだ」という記憶までもよみがえるような。

 まずは空間の角(隅)に小さくしゃがんでいた彼女、ベージュの衣裳の上に黒いレインコートを羽織り、身体のラインではない、レインコートのざっくりとしたラインをみせる。ゆっくりとした動きから激しい動きへと行き来しながら、観ているとたしかに、「そう、彼女は笠井叡の天使館の出自なんだったな」とか思わせられるわけで、つまりわたしの「舞踏〜コンテンポラリー・ダンス」というものの記憶もよみがえる。わたしはつまり、笠井叡のダンス(舞踏?)というのは「今晩は荒れ模様」で観た記憶は残っているわけだけれども、山田さんのダンスはたしかにそういう笠井叡的なものを引き継いでいるようにも思ったけれども、はっきりいって、笠井叡などよりはずっといい。

 レインコートを脱ぎ、あとではそれを小道具的にも使いながら、非常に秀逸な音、音楽の使い方もあいまって、わたしにはひとつの、「ダンスの規範」のような公演とも受け止められた。山田せつ子さんのようなダンサーが、こういう「SCOOL」のような小さなスペースで公演するということもちょっと驚きではあるのだけれども、彼女のこの場所に賭ける試み、その意識はしっかりと受け止められた。彼女はまた十二月にもこの「SCOOL」でソロ・ダンス公演をやるという。見逃さないようにしよう。


 

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■ 2017-10-05(Thu)

 朝起きたときなど、だんだんに涼しくなってきた。というか、わたしは夜中によく目が覚めるのだけれども、そのときに「寒いじゃん!」と、脇によせただけで被っていないで寝てしまった掛け布団を引き寄せて、それを拡げて被り、また寝るのである。そうやって夜中に、「もう秋だなあ」と思う。

 今日は夢をみた。これはちょっとはずかしい夢なのだけれども、今までにわたしが付き合った女性(そんなに多い数ではない)、わたしが好きだった女性などが二人の女性の姿に合体してわたしの前にいるわけで、これがやはり蠱惑的というか魅力的なわけである。そんな彼女らのひとりに、わたしは「ねえ、オレは心をいれかえたんだ」などと語る。彼女は「何それ。今は誰のことが好きなのよ?」というのである。そんなことのあいだ、わたしたちのそばの檻のようなところの中にはBさんがいて、奇怪な、スカトロジックなパフォーマンスを繰り拡げているのである。なんだろね。フェリーニの「8 1/2」なのか。

 二回目の「V.」はさすがにサクサクと読み進められ、そして面白い。さいしょはとにかく、氾濫する登場人物の群れの中で「あれ?この人は誰だっけ?」となって、流れを見失うことしばしだったのだけれども、さすがに今回は「あ、この人物はアイツね」とか、「この人物はこんなところにも登場していたのか」とか、しっかりわかる。やはり二回読むべき本というものはある。このまま読み進めればこの日・月の連休にも上巻は読み終えられるだろうから、早めに図書館に行って下巻のリクエストを出した方がいいだろう。そして「V.」を読み終えたなら、次はいよいよ「重力の虹」だ!

     

 

[]「白い恐怖」(1945) アルフレッド・ヒッチコック:監督 「白い恐怖」(1945)   アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 原題は「Spellbound」で、イングリッド・バーグマンと、まだデビューしたばかりのグレゴリー・ペックとが主演。サスペンス要素を盛り込んだミステリーだけれども、その謎解きに「精神分析」が活用されるわけで、ここまでに「分析」ということを前面に押し出した作品というのもあまりないのではないか(この秀逸な脚本は、基本ベン・ヘクトによるものだろう)、もちろん後の「サイコ」でも、ラストに精神分析医がノーマンの「心的外傷」を明らかにするなどの、精神分析的展開を用いることになるヒッチコックだけれども、ここではドラマ展開のなかにきっちりと「精神分析」や「夢判断」が持ち込まれ、まるでフロイト理論の絵解きのようでもある。

 ひとつ面白いトリック(設定)に、グレゴリー・ペックが記憶喪失に陥ってしまっている、というのがあって、ここから前半は「彼は何者なのか」という展開で引きずって行く。するとだんだんに、彼はある医師の死に関係しているではないか(彼はその医師を名乗ってあらわれている)、ということになり、「彼が殺人犯?」ということになる。それを、やはり駆出しの精神分析医であるイングリッド・バーグマンが彼に一目惚れしてしまったこともあって、彼の無実を証明しようとする。とにかくはいろいろな小道具が精神分析の材料となり、それを視覚的にきっちりと観客に示すヒッチコックの演出手腕がいかに見事か、ということになる。この「分析」をみせていく、という展開がなければ、事件自体はものすごく単純なもので、その事件の全貌、そして答えが出されるのは映画のラスト数分になってからのこと。つまりこの映画、主題はまさに「精神分析」作業ということではあるだろう。
 あとで分析(「夢判断」)の材料にされるグレゴリー・ペックの見た夢のシーン、その美術をサルバドール・ダリが担当していて、見ているとあらら、まさにダリの絵の世界ではないですか。いったいどういう経緯でこの作品にダリが協力することになったのかよくわからないけれども、それはそれで「快挙」ではあっただろう(前に読んだ「ヒッチコック/トリュフォー」に、そのあたりのことが語られていたのかもしれないが)。

 あとひとつ、さいごに真犯人がドアから出て行くバーグマン(だったかな?)にピストルを向けている、その犯人の目線からの映像になるのだけれども、犯人はピストルを発射せず、その銃口を自分の方に向けて(画面ではピストルがぐるりと回転して、銃口が画面に見えるようになる)発射する。このシーンもけっこう手が込んでいて、ピストルをにぎる手はつくりもので(そうでなければこういう撮影はスムースにはいかないだろう)、そのラストの犯人の「心」のさまをも想像させるわけである(ラストに引き金が引かれて火薬が爆発するところで、モノクロ映画なのに、いっしゅん赤い色が見えた気がしたけれども?)。

 イングリッド・バーグマンは美しく、しかも知的で、「美貌の精神分析医」としてみごと。メガネ姿もステキである。相手役のグレゴリー・ペックも「腺病質のインテリ」という雰囲気をよく出していて、つまり好演だと思う。この二人を助ける、年配の医師らのサポートぶりもまた、まさにこの映画をサポートしていた。



 

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■ 2017-10-04(Wed)

 さて今日は、Aさんの奥さん(万葉集の研究家)が、レリーフ作家と共同作業を行った展覧会が、青山で開かれているのを観に行く。さいしょは夜になればAさんも会場にいらっしゃるというので、夜に行こうと思っていたのだけれども、そう知らせたAさんへのメールの返信がなんだか微妙だったので、仕事の終わったあとの早い時間に行くことにした。ギャラリーは十二時からというので、それまでは時間をつぶさなくってはならない。ちょうど、先日Bさんに池袋でお会いしたときに、上野で開かれている杉戸洋という作家の展覧会の招待券をいただいていて、その展覧会も今週いっぱいなのでまずはそれに行き、それから青山へ行けばちょうどいいだろうという計画を立てる。昨日借りた「V.」の新訳の方も車内でいっぱい読めるだろう。

 仕事の帰りに上野に行くには、湯島駅で降りて不忍池のところを歩いて、上野まで上って行くのがいい。不忍池は蓮の葉がせいいっぱい伸びていて、蓮の実も生っているし、なんだかそこだけ見ていると熱帯とか亜熱帯な雰囲気。

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 上野に着いて都美術館へ行き、その杉戸洋の展示を観る。「すき間」というのを重視した展覧会で、そういう意味ではあっという間に観終わってしまった。思っていたよりも早くに上野に到着したこともあって、時間が一時間以上も余ってしまった。たしか西洋美術館で「アルチンボルト展」をやっているはず、と思ったら、もうとっくに終了していた。「それでは今日は動物園に行ってみよう」ということにする。平日の午前中、そんなにたくさんの人が動物園に集まっているわけでもないし。

 上野動物園、過去に来たことがあっただろうか? ひょっとしたら娘がまだ幼い頃に連れて来たこともあるのかもしれないけれども、記憶には残っていない。都美術館のそばの入り口から入ると、すぐに「パンダ舎」がある。パンダは最近赤ちゃんが生まれてまた注目を浴びているけれども、今はお母さんパンダも育児に専念しているわけで、観客の前に姿を見せるのはお父さんパンダだけ。まず見たときには向こうを向いてしまっていて、よくわからない(あとで帰りがけにちょっとみてみると、観客の真ん前で笹の葉を食べている様子だった)。

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 そのパンダ舎のそばにカワウソがいて、このカワウソが何ともヤル気がない。ただぷか〜んと浮いているだけで、「だらける」というのはこういうことなんだろうと思う(決して体調が悪いとかいうのではないようだ)。ちょっと、このカワウソの態度に、心を奪われてしまった。

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 ‥‥トラ、ゴリラ、ホッキョクグマなどいろんな動物をみて、たしかに動物園の檻は狭く、そんなところに閉じ込められた動物たちは「かわいそう」でもあるのだけれども、目の前の動物たちのその容姿、生態はわたしの眼を奪うもので、「動物園などで動物を見なくても、映像で見ることができるじゃないか」という気もちは、軽くふっとんでしまう。そういうテレビなどで見る動物番組はやはり「いいところ」だけを編集してみせるわけで、そうではない、何もしていない、さっきのカワウソのようにだらけた姿の中にこそ、そんな動物たちの「魅力」があるのだと思うことになった。特に「鳥」たちがかわいい。

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 今日は時間的に、動物園の半分もみられなかった。今度あらためてまた、ゆっくりとこの動物園に来てみたくなった。そろそろ青山の方に行く時間になり、上野駅から銀座線に乗る。
 外苑前駅で降りて外に出ると、まさに「青山」という空気で、さっきまでの上野の空気とはまるでちがう。しかし会場のギャラリーはそんな表通りから離れた、裏道の行き止まりのそばにある。その一角だけがとうの昔から開発されずに取り残された区画という感じで、つまりは「昭和」という空気感。都内にはこういう場所に設けられたギャラリーというものがときどきあるようだけれども、ここもそのひとつ、というか典型的な「忘れられた場所」で、一部によく知られたギャラリー、という雰囲気。

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 「万葉集」の歌を「カタチ」にするレリーフ作家の作品と、その作品をさらに「万葉集」から再解釈して「ことば」をそえたコラボレーションというか、その「ことば」の部分を万葉集の研究家でもあられるAさんの奥さんが担当しておられる。わたしは万葉集などまるでわからぬ「門外漢」なのだけれども、そのAさんの奥さんの紡ぎ出された「ことば」からは、時代を越えた万葉びとの「おおらかさ」のようなものが伝わってくるように思えた。

 帰りにもういちど、そのまわりの「風景」をゆっくりと楽しんでから帰路に着いた。この赤いドアの前にはお皿にネコごはんが入れてある。ここにも野良がいるのだろうか。

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 外苑前から表参道まで歩き、千代田線で乗り換えなく自宅駅まで戻った。遅い昼食を取り、まずは読みさしの森茉莉の「枯葉の寝床」を読み終えて、そのあとは昨日借りたもう一冊、岩波新書の柄谷行人著:「世界共和国へ」をベッドで読みながら、そのまま長い午睡へと突入した。

     

 

[]「杉戸洋 とんぼ と のりしろ」@上野・東京都美術館 「杉戸洋 とんぼ と のりしろ」@上野・東京都美術館を含むブックマーク

 杉戸洋という作家のことは、まるで知らなかったが、タイトルの「とんぼ と のりしろ」というのに惹かれる。どちらも「余白」の部分をあらわすことばというか、「とんぼ」は紙の印刷物の外側で、印刷された後は切り捨てられてしまう余白。「のりしろ」は紙で作られる工作の、出来上がればかくれてしまう部分。

 会場は非常にゆったりとした空間配置の中に、古めかしい木製の額縁に入れられた平面作品が壁に展示されていたり、インスタレーションめいてソファー椅子、小さなテーブルと照明などが組み合わされた作品、そして無数のタイルを組み合わせてつくられた大作などの展示。平面作品はその額縁と共に、美術館の空間を「偽装(擬装?)」するための作品ではないのかとも思われ、それはソファー椅子のインスタレーションとも合わせて、とにかくはトータルに、この都美術館の独特の空間を活かすため、というか、美術館空間とのコラボレーションとも思える。また、会場と外とを区切るガラス窓には、これも作者の作品の半透明シート(よく壁紙にあるような花模様とか)が貼られている。

 そんな中でやはり異質というか、中二階(というの?)に展示されたタイルの大作が気になるのだけれども、ここでもその「表側」からみえる作品の姿より、展示のための骨組みもあらわに、観客にも見られるように展示されたその「裏側」の方こそが面白くも興味深くもあり、そこに作者の「生活」が、はみ出てきているようにも見えてしまうのだった。

 そういう意味では、美術館の空間を私的空間にすり替えるような、興味深い展覧会ではあった。


 

[]「枯葉の寝床」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より) 「枯葉の寝床」森茉莉:著(昭和文学全集 第7巻より)を含むブックマーク

 先日読んだ「恋人たちの森」は1961年、著者58歳のときの作品で、この「枯葉の寝床」はその翌年、1962年に書かれたもの。この設定はほとんど「恋人たちの森」と同じなんだけれども、ある意味その「恋人たちの森」を推敲、リライトした作品というところで、「恋人たちの森」とは雲泥の差といってもいいような、秀作に仕上がっていると思う。

 それはつまり、「自分が<理想の愛人>として仕込んで育てた恋人が外の世界を知り、自分のモノではなくなっていく」という根本のストーリーに、男たちの運命感を盛り込み、「死」を受け入れて行く心情が美しく描かれているからだろう。そこにサディズム、マゾヒズムというものも取り込み、もはやBLコミックではない確固とした小説世界を構築している。けっこう面白く読んだ。



 

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■ 2017-10-03(Tue)

 枝野氏の新党は「立憲民主党」という名前になるそうな。さいしょは「なんだか明治時代っぽいな」とか思ったりしたけれども、党の姿勢をあらわした、いいネーミングではないかと、思い直した。

 ずっと、カレーをつくろうと思っているのだけれども、買い物に行くと別の安い惣菜をつい買ってしまい、いつまでもカレーがつくれない。先日もキャベツがひと玉(かなり大きい)が50円とかで売られていて買ってしまい、これで当分は「キャベツを食べちゃわなきゃ!」というスケジュール。カレーの材料というのは日持ちがするものばかりだから、いつも「じゃあカレーはまた今度にしよう」となるのだけれども、さすがにいつまでも待たされていたニンジンは傷んでしまった。今のところ食材のストックはけっこうあるので、しばらく買い物をしないで控えていてもいいのだけれども、ついつい「お散歩がてら」みたいに買い物に出てしまうのは、いつの間にか現代の経済構造に呑み込まれてしまっているのかもしれないぞ。

 それで今日も午後から、図書館の分室にリクエストしていた本を受け取りに行くついでに、その分室の近所のスーパーに寄ったりしたのだけれども、靴下を履かずに裸足で新しい靴を履いて出たら、すぐに靴ずれがひどいことになってしまった。不用意、不注意だった。

     

 

[]講談社現代新書「「世間」とは何か」阿部謹也:著 講談社現代新書「「世間」とは何か」阿部謹也:著を含むブックマーク

 著者は、「世間」とはこの日本で独特の意味を持つ言葉とし、古くから日本の文学などにあらわれた「世間」の意味の変遷を分析する。古くは「万葉集」から、吉田兼好、親鸞、井原西鶴、そして夏目漱石、永井荷風、金子光晴らの作品から、「個人」と「世間」との関係を考察していく。

 阿部氏によれば、「世間」とは個人個人を結ぶ関係の環であり、その個人個人を強固な絆で結びつける。そこには暗黙の「原理」があり、それはまずは「長幼の序」であり、「贈与・互酬」の原理だとする。そして重要な「掟」として「世間の名誉を汚さない」というものがあると。阿部氏は、この「掟」とは、古くから日本にある「ケガレ」によるものではないのか、ともいう。また、日本人が「自分以外の権威に依存して生きる」ときの、その権威が世間なのだろうとも。

 そもそも、日本に「社会」「個人」という言葉が生まれたのは明治以降のことで、明治十年にSocietyの訳語として「社会」という言葉がつくられ、明治十七年頃にIndividiualの訳語として「個人」という言葉が定着したのだという。阿部氏は、「欧米の意味での個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである」という。つまり、熟成した「個人」を生みだす風土もないこの国で、「たてまえ」として語られる「社会」ではなく、ありうべき「個人」を規制するものとして「世間」という言葉があるのではないのか。
 阿部氏によれば、明治以前に例外的に「個人」としての生を生きた吉田兼好や井原西鶴らは、「隠者」的な存在ではあったというし、漱石もまた、「個」のあり方を模索し自覚した人は、結果としてそういう隠者的な暮らしを選ばざるを得なかったとする。

 洋行体験のある永井荷風、金子光晴に関してはまた別の考察がされているけれども、そこはわたしにはあまり興味はない。つまり、今のこの「社会」でも、そういう「世間」に依存するような、「個人」の発露に不快感を持つような「世間」というものは、確固として存在する。それが日本という国なのではないのか。そこに、いわゆる「ネトウヨ」といわれるような匿名性を持つ集団のよりどころもあるのではないのか。けっきょく、いまだなお、この日本では「個人」が「個人」として生きようとすると、それを妨害するものとして「世間」というものを装ったなにものかが姿をあらわすのではないのだろうか。そういう風に読んだ。


 

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■ 2017-10-02(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 もうすっかり、わたしが朝(早朝)に家を出るころは外は真っ暗になってしまった。駅までの暗い道を歩くと自然に早足になるようで、前と同じ時間に家を出ているのに、駅に着く時間はほんのちょっと早くなっている。
 わたしが毎日乗る電車はとなりの我孫子駅始発で(この電車に限らず、この駅にくる上り電車のほとんどがそうなのだけれども)、まだまだガラ空きでぜったい、かならずすわれる。これは毎日、四十五分ぐらい乗ることを考えるとほんとにありがたいことで、わたしの「読書室」として、読書に専念できるわけである。仕事が終わっての帰りの電車も一般の通勤とは逆コースになるわけで、これもかならずにすわることができる。‥‥この条件がなければ、わたしは今の仕事はやっていなかっただろう。
 それで先週は読んでいた「V.」を読み終えて、新訳で読み直すつもりにしてあるのを、明日図書館で借りてくるつもりでいるので、「今日明日で読み終えられるような本を」と、今日は新書で阿部謹也の「「世間」とは何か」を読む。通勤時間で半分まで読み進めなかったので、帰宅してからも読み進めた。
 それで今日は帰りにとなりの柏駅で降り、借りていたDVDを返却した。新しく、ヒッチコックの「白い恐怖」を借りた。このレンタル店では金曜日になるとシニアは「旧作1本無料」になるので、これを活用したく、日にちの調整のつもり。

 夕方からニュースをみていると、期待していた通りに、民進党の枝野氏が新党を立ち上げるようだ。よかった。これで逆に、今まで護憲派も改憲派も、原発反対派も推進派も同居していた、保守だか革新だかわけの解らなかった旧「民進党」というものがすっきりとわかりやすくなり、枝野氏の新党にかつての社会党のようなあり方が期待できるようになる。そういう意味では、(旧「民進党」の保守系だけで飛び出してくれた)前原氏は、よい決断をしてくれたわけだと思う。あとは社民党のように衰弱の道を歩まないでほしいわけだけれども、政権も狙える対抗勢力として成長してほしい。基本、支援する。

 夜、もう寝ようと着替えして和室のベッドに横になると、ニェネントが運動会を始める。リヴィングから和室へと「にゃっ!」となきながら走り込んできて、ベッドの上のわたしのそばまで駆け上がり、さらにベッドのそばのキャットタワーに飛び移り、そこからUターンしてまたリヴィングの方へ駆けていく。そしてまた、リヴィングから和室へと駈け戻ってくるのである。元気があってよろしい。

     

 

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■ 2017-10-01(Sun)

 日曜日で、今日から十月。昨夜が遅かったので八時近くまで寝た。外はものっすごくいい天気らしいけれども(もう「秋晴れ」というのだろうか)、外には出ない。「さてさて、これはまいった展開だなあ」と思いながらテレビをみる。安倍政権はこのあいだ衆議院を解散し、今月には衆議院選挙が行なわれるわけで、「このタイミングで!?」というところだけれども、安倍政権にとってはまさにグッド・タイミングなのだろう。それで小池都知事が「希望の党」などというのを立ち上げ、民進党の前原はもともと保守的体質の人物であるから、民進党を「希望の党」に合流させようとしている。それでは「二大極右政党による政権争い」になるだけ。もう民進党は終わった。枝野は民進党を出るべきで、社民党、共産党と連携して現在の日本の「極右」への流れを阻止すべきだろう。そう期待するしかない。

 午後からまた長い午睡をして、「なんだか何もしない一日だなあ」という空気。ライターがガス欠になってしまったので夕方からコンビニにライターを買いに行き、ついでにビールを買って、ついでに夕食もコンビニ弁当にした。「あれ?」と思ったらケータイに留守電が入っていて、昨日柏の図書館分室にリクエストを出してあった本、ピンチョンの「V.」などが用意できているという。もうちょっと早く気づいていたら取りに行けたのだけれども、もう五時を過ぎてしまっているので、今日はダメ。受け取るのは明後日の火曜日以降になるだろう。そのあいだ、何か別の本を読まなくては。

 コンビニ弁当を食べたあと、借りているDVDのさいごの一枚、ブニュエルの「ブルジョワジーの密かな愉しみ」を観た。

     

 

[]「ブルジョワジーの密かな愉しみ」(1972) ジャン=クロード・カリエール:脚本 ルイス・ブニュエル:脚本・監督 「ブルジョワジーの密かな愉しみ」(1972)   ジャン=クロード・カリエール:脚本 ルイス・ブニュエル:脚本・監督を含むブックマーク

 田舎道をズンズンと歩いていくブルジョワたち。そういうシーンだけはしっかり記憶していた映画だが、やっぱり異様に面白かった。ただ基本は登場人物ら六人(かな?)のブルジョワらが、どうしてもメシが食えない、なかなかセックスできないという、人間の欲求を疎外されてしまった状況がいろんなバリエーションで描かれる(それがブルジョワらのことだから、観ていても「ざまあみろ!」みたいな気分になるのがいい)。そこに夢、夢のまた夢、という話が加味されて、亡霊はいっぱい出てくるし、楽しすぎ!

 ブニュエルの演出というのは意外と端正なもので、観客に「コレを観ておけ!」というのをずっとカメラで追いかけるわけだし、「注目!」という場面ではズームアップする。ある意味、とってもわかりやすいのである。そんな中でストーリーのハチャメチャさ加減に面食らうわけで、壮大なギャグ映画ではないかという見方ができるのではないかと思った。それでやはり、登場人物らはなぜか、田舎道をズンズンと歩いていくのである。


 

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