ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-03-31(Sat)

 二日つづけて外で飲んだのでいささか寝不足で、昼間はずっと寝てすごした。昨夜、一昨夜とも楽しい酒だったので、気分はとてもいい。

 夕方から起き出し、Facebookで音楽にふれているグループでCrosby,Stills,Nash & Youngの"4 Way Street"について書かれている人がいたので、「ウッドストック」でのCrosby,Stills & Nashのプレイを久しぶりに聴きたくなり、DVDをプレーヤーに仕込んだ。飛ばしながら観ていると、記憶にないCanned Heatのライブ演奏なんて場面もあって、「あれれ?」とか思ってしまったのだが、このDVDは劇場公開版に追加映像を加えたエクステンデッド・ヴァージョンだったわけで、もちろんわたしはこのDVDを通して観てはいるのだけれども、例によって記憶から消えてしまっていたわけだ。これはもういちどちゃんと観てみないといけないなあ。

 この「ウッドストック」の映画ではいろいろと思い出すこともあって、まずさいしょは当時勤めていたアルバイトの同僚といっしょに映画館へ観に行ったわけで(ひょっとしたら、その前にひとりで観に行っていたかもしれない)、ま、そのときのバイトの同僚にはロック好きな連中もいろいろといたから、職場で映画の話とかをあれこれとした記憶がある。いっしょに映画館へ行った同僚はCountry Joe & Fishのことが気に入り、別の同僚はSly & Family Stoneの、あのSlyの観客のアジり方は好きじゃないな〜、などといっていたっけ。
 そのあと、それから何年か経ってから、映画館ではない上映会にもひとりで行ったのだけれども、そのときの観客は、自分の好きなミュージシャンが登場してくると拍手するわけだ。「疑似ライヴ体験」みたいなものだけれども、Sha Na Naみたいな、「あんなのどうでもいいやん」みたいなのにも拍手する連中がいておどろいたりしたのだけれども、それだったらさいしょのRichie Havensに誰も拍手しなかったというのは、いかにもかわいそうではあった。そう、「ピースサイン」を出した尼さんのショットでも拍手があったなあ。

[]二〇一八年三月のおさらい 二〇一八年三月のおさらいを含むブックマーク

ダンス・演劇:
●山田せつ子ダンスソロ「クロディーヌの手」@三鷹・SCOOL
●ミクミヤナイハラプロジェクト vol.11「曖昧な犬」矢内原美邦:作・演出 @吉祥寺シアター
●北村明子・アジア国際共同制作プロジェクト Cross Transit「vox soil」北村明子:演出・構成・振付・出演 @仙川・せんがわ劇場

美術:
●「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」@上野・東京都美術館

映画:
●「リバーズ・エッジ」岡崎京子:原作 行定勲:監督
●「あなたはわたしじゃない(サロメの娘/ディコンストラクション)」七里圭:監督
●「シェイプ・オブ・ウォーター」ギレルモ・デル・トロ:製作・原案・脚本・監督
●「デトロイト」キャスリン・ビグロー:監督

読書:
●「火のなかの輪(A Circle in the Fire)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)
●「黒んぼの人形(The Artificial Nigger)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)
●「善良な田舎者(Good Country People)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)
●「高く昇って一点へ(Everything That Rises Must Converge)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)
●「キング、クィーン、ジャック」ウラジーミル・ナボコフ:作 諫早勇一:訳
●金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013] 2「猫、そのほかの動物」金井美恵子:著
●「昭和史 1926~1945」半藤一利:著

DVD/ヴィデオ:
●「ミスティック・リバー」(2003) クリント・イーストウッド:監督


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■ 2018-03-30(Fri)

 昨日はほんとうに暖かい一日だった。夜に半袖Tシャツにジャケットだけで外を歩いても、「肌寒い」などと感じることもなかった。上野では夜も野外で花見をする人たちにあふれていたけれども、快適な「花見日和」だっただろうと思う。

 今は年度末でダンスなどの公演の集中する時期で、わたしも今日もお出かけ。夜六時半から、仙川の「せんがわ劇場」で、北村明子さんのCross Transitの公演を観る。乗換案内で経路や時間を検索するのだが、わたしは京王線というのはいちど新宿に出て乗り換えるのがあたりまえと思い込んでいたのだけれども、実は新御茶ノ水駅で都営新宿線に乗り換えれば、いちどだけの乗り換えで行けることがわかった。それは知らなかった。それならばよく行く代田橋の「N」にも、もっとかんたんに行けるわけだ。
 四時ぐらいに家を出れば充分に間に合うこともわかったので、昨夜遅くまで飲んだ寝不足分を取り戻しておこうと、仕事から帰ったあとはアラームをかけて昼寝をした。‥‥いい時間に目が覚めて、今日は昨日ほどに気温は上がらないということではあったけれども、昨日と同じ恰好で出かける。

 なるほど、新御茶ノ水駅から都営新宿線の小川町駅への乗り換えもそんなに歩かされるわけでもなくって容易いし、楽々とすわって行けるのもいい。

 都営新宿線はそのまま新宿から京王線に乗り入れているのだけれども、電車が新宿駅に着いたとき、電車の外、ホームの方で何か騒々しい。女の人の大声が聞えてくるのだ。「どうしたのだろう」とホームの方を注視していると、帽子を被った中年の女性がひとり、大声で叫びながら歩いてきた。日本語で叫んでいるのだけれども訛りがあり、中国かどこかアジア系の人だと思う。だんだんといっていることが聴き取れるようになったけれども、「日本はひどい国だ! みんな鬼のような顔をしている!」といっているのだった。まわりの人は彼女のことを無視している。いったい何があって彼女がそのように叫んでいるのかはわからないけれども、事情もわからないから皆傍観するしかないのだろう。
 わたしは一面では「そんな言動がまた<差別>につながってしまうのにな」と思ってもいるのだけれども、その彼女の<ことば>自体からは、「あ、わたしも<鬼のような顔>をした一人なのか」とも思うわけでもあったし、金曜日の夕方の仕事を終えての帰宅時間、そういう混み合った通勤電車の中では、みんな殺伐とした空気もあるだろうとも思うのだった。わたしはそういうラッシュアワーに乗り合わせることはあまりないのだけれども、たまにそういう電車に乗ると「いやだなあ」と思ってしまうことはある。ちょっと動いてくれれば駅ごとの乗り降りでもっとスムースに動けるのに、と思うのに自分の立っている場所を死守しようとばかりに踏ん張って動かない人とかには、たしかに不快になる。そんなとき、わたしも<鬼のような顔>になってしまっているかもしれない。心にゆとりを持ちたい。叫んで歩いていた女性が、そんな不愉快な思いをしないような世の中になるべきだ。そう思った。

 仙川駅に着き、劇場に入って開演を待っていると、うしろから「トン、トン」と肩を叩かれた。振り向くとMさんだった。ああ、うれしいな。これで、終わったあとMさんと飲みに行ったり出来るかもね、などと思う。

 舞台の感想は下に書くとして、終演後、Mさんと「飲みに行きましょうか?」ということになり、まずは仙川界隈で飲み屋を探す。これは書いていいかどうかわからないけど、どうせイニシャルだからわからないから書くけど、先日飲んだFさんと、このMさんとは、ヘヴィースモーカーというか、禁煙区域の路上でも平気で喫煙してしまう。まだFさんは「ヤバい」という意識もあるようだけれども、Mさんはほとんどおかまいなしに路上喫煙する。今日もそうやって二人で歩いているとMさんはタバコ喫うのだけれども、そんなわたしたちをパトカーがゆっくりと追い抜いて行く。わたしは「ヤバいよ」というのだが、Mさんは「警察は禁煙チェックしないでしょ」など平気なのである。あ〜あ、知らないよ、って思ってたら案の定、パトカーは停車して警官が降りてきて、わたしたちのところに来る。「すみません、ちょっと質問を」などと、職務質問の体勢である。え〜っ! 禁煙地域での喫煙を注意するのならわかるけど、職務質問かよ!と、わたしもちょっとキレそうになる。「どちらにいらっしたのですか?」と聞くので、「そこの劇場に行ってきたところ」と答え、「あなた、さっきタバコを捨てましたよね?」とMさんに聞き、Mさんは携帯灰皿持ってるし、決してポイ捨てはしないので、「捨ててません」と答えると、「とにかくはこの地域は禁煙ですのでよろしく」ということで去って行った。ま、あっさりとした尋問(?)でよかった。

 それで仙川駅前辺りで居酒屋とかを探すのだけれども、「いい感じ」という店は満員で、「ではここにしようか」という店は「禁煙」。それではMさん宅のある笹塚に移動しましょう、ということになり、Mさんの知っている店に入った。

 わたしの記憶からはもう消えてしまっているのだけれども、以前にもわたしはMさんと二人で飲んだこともあり、Mさん宅に泊めていただいたこともあるという。意外と深い付き合いだったのだな。Mさんとの会話は、いろいろな舞台の感想とかでそれなりに深くもあるし、話題の幅も広い。Mさんは友だちも多く、皆に慕われている存在だけれども、それも当然のことというか、この夜もMさんのあたたかい人がらに触れる思いがして、この夜にMさんといっしょに飲めたということをうれしく思うのだった。


 

[]北村明子・アジア国際共同制作プロジェクト Cross Transit「vox soil」北村明子:演出・構成・振付・出演 @仙川・せんがわ劇場 北村明子・アジア国際共同制作プロジェクト Cross Transit「vox soil」北村明子:演出・構成・振付・出演 @仙川・せんがわ劇場を含むブックマーク

 この日記をみると、ちょうどほぼ5年前(2013年3月29日)に青山で、北村さんのソロ・ダンスを観ていることがわかった。そのソロ・ダンスのこともほとんど記憶から消えそうなのだけれども、ただただ「すばらしいダンスだった」という記憶はある。それからは「この人のダンスは観なければ!」という思いで観つづけているけれども(というほどの回数でもないけれども)、たしか前回まではインドネシアとの共同制作で、インドネシアの文化を吸収して日本のダンサーらとの「融合」を目指すような舞台だった(「前回まで」というのはまちがいで、前回はカンボジアとの共同制作だったか?)。今回はインド北東部マニプール州のミュージシャン、マヤンランバム・マンガンサナを芸術監督に迎え、その伝統音楽「ペナ」を取り入れながら、6人のダンサー(北村明子を数えれば7人)による作品。

 カンボジア、インドネシアの男性を含むダンサーたちは皆力量があるわけだけれども、わたしはそんな中でも、西山友貴というダンサーに目が釘付けになってしまった。その身体のキレとしなやかさ、リズム感が圧倒的。近年はいろんなダンサー/振付家の作品に参加されているようだけれども、圧倒的。これからも注目して行きたいと思ったダンサーだった。

 今、過去の日記を読み返してみると、前回(2016年10月)の"Cross Transit"の公演はカンボジアとの共同制作で、ポル・ポト政権下での暗い過去というものが、カンボジアの写真家の写真とのコラボレーションが印象的だったようだ(って、実は記憶していないのだが)。そのことに比すると、今回の公演でのマニプールの音楽とのコラボレーションは、それがうまくいっていたのかどいうか、今のわたしにはわからないところがある。
 ただ、この人数のこのダンスに対して、劇場の舞台はやはり狭すぎるのではないかと思えたし、ダンサーらの黒い衣裳に合わせたかという舞台美術が良かったかというと疑問。「ストロボライト」というのも、演出としてどうですかね?という感覚も。

 この"Cross Transit"は、この秋にも次作が予定されているようなので、また期待したい。

 

 

 

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■ 2018-03-29(Thu)

 朝の天気予報では、「今日はほとんど初夏の陽気」といっている。「それではそういう初夏の装いで行こうか」と、半袖Tシャツにジャケットをひっかけただけで家を出る。たしかに、こんな早朝のまだまっ暗な時間でも、そこまでに「肌寒い」というわけでもない。仕事をやっているあいだに日も昇り、予報通りに暖かくなってきた。

 今日はいろいろと予定を立てている。仕事を終えてまずさいしょに千駄木で途中下車し、「去年もチケットを買いに来たなあ」という、「水族館劇場」のチケットを取り扱っている古本屋へ。その古本屋の前に行ってみるとシャッターが閉まっていて、「しまった! 今日は定休日だったのか!」と思ったが、すぐに内側からシャッターが開けられる。ちょうど十二時で、開店の時間だったのだ。ナイスタイミングだったというか、もうちょっと早く来ていたら、あきらめて出直そうと考えていたところだった。‥‥チケットを買って、しばらく店内の棚を見て歩いたけれども、「この古本屋はちょっと価格設定が高いな」という印象で、何も買わずに店を出た。

 今日はこのまま上野まで歩いて都美術館で「ブリューゲル展」を観て、そのあと同じ美術館内の「人人展」に行き、出品しているJさんと会って、夜は湯島あたりで飲む予定。長丁場になるのでいちど帰宅してから出直そうか、とも思ったのだけれども、それでは微妙に時間が足りない。それでダイレクトに仕事の帰りに来てみたのだけれども、逆に時間はたっぷりある。久々に谷中界隈を歩いてみよう。

 不忍通りを渡って谷中方面に歩く。気候は暖かく、薄着して来て正解だった。千駄木から谷中への道はわたしもむかし住んでいたこともあり、よく知っている道。まずは「よみせ通り」を歩くが、この道はむかしっからほとんど変わっていない。今日は欧米系の外国人のグループが多いな。路地で三毛のネコをみかけた。ちゃっちゃっと逃げて行く。

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 さらに歩いて、これが谷中銀座に入ると、とたんにすっごい人波。谷中銀座は古くからの店もいっぱい残っているけれども、新参の「猫グッズ」を売るような店が増えている。街全体がオープンなネコカフェという売り方なのだろうけれども、ネコたちはどこかに隠れてしまっている。これだけの観光客、それは当然だろう。さっき三毛をみかけたのはラッキーだった。

 日暮里駅方向に上がり、上野方面へと右に曲がる。このあたりはむかしと変わらない店が並んでいる。わたしはこの先にある中華の店で昼食を取ろうと思っていたのだが、気づかずに通りすぎてしまった。このあたりで歩く外人観光客が谷中墓地の方へ行くので、「そうか、谷中墓地の<桜>だよね!」と思い、わたしも谷中墓地の方へ歩いた。

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 ‥‥すごい! 壮麗。谷中の桜はこんなにすごかったのか。上野公園に比べて道幅も狭いから、まさに「桜のトンネル」で、もう散り始めた桜の花びらが情緒を高める。「ツィゴイネルワイゼンだ!」と、声を出しそうになる。

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 上野への道、久しぶりに「SCAI THE BATHHOUSE」にも寄ってみた。このあたりは花見目当ての人がいっぱいなんだけれども、「SCAI THE BATHHOUSE」に立ち寄ってみようという人はまるでいない。ギャラリーに来る人はたいてい、さいしょっからこのギャラリー目当てで来ているようだ。今はメキシコの作家、ボスコ・ソディの個展。土、植物からの作品が大地を感じさせる。桜のシーズンに似合った展示だと思った。

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 上野公園に到着。こちらも花見客でなかなかの人出。時間も一時を過ぎ、そろそろ空腹である。「都美術館のレストランへでも」と行ってみたけれども、レストランの外には席の空くのを待つ人が行列をつくっているし、今の都美館レストランはわたしの知っているむかしのレストランと違って、ちとばかし高級指向というか、つまり「高い」のだ。これは科学博物館でも国立博物館でも同じことだろうと思い、つまりは「上野公園の外に出ないとダメだな」と考えて、科学博物館の脇の道から北へ歩き、JRの線路をまたいで北上野へ出てみる。ずっと歩きづめで、いささか疲れても来た。

 昭和通りに出るとすぐにエスニックの店が見つかり、迷わずドアを開ける。どうやらメキシコ料理の店で、ランチメニューの「タコライス」とビールを注文。ワイルドながらなかなかに美味で、満腹になった。これから上野に出てきたときはまた、この店まで来てもいい。

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 ゆっくりと食事を終え、「ではブリューゲル展を観ましょうか」と、再び上野公園へ戻り、再び都美術館に。この展覧会も今週末で終わるのだけれども、そこまでに混み合ってはいなかった。感想は下に。
 ブリューゲル展をゆっくりと観てまわったので、出たときにはもう四時半に近い。「ちょうどいい」と、同じ館内の「人人展」会場に移動。受付にすわっていたJさんともすぐに会うことができた。

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 この「人人展」も、もう何年も観つづけているのだけれども、今年の展示は今まででいちばん良かったような印象がある。今まではどこか「アンデパンダン」、「何でもあり(宝玉混合)」という印象もあったのだけれども、今年は「一作家一壁面」という感じの展示が徹底し、ミニ個展の集合を観ているようなところがあり、それぞれの作家の作品をじっくりと観ることができた気がする。いくつか、「この人の作品はいいな」と惚れ込んでしまうようなものにも出会えた。今年はJさんの他にも、わたしの知り合いのKさんも出品していたし、Jさんの作品もKさんの作品もとってもよかった。

 「人人展」は同時期に湯島の画廊で並行して「小さな人人展」をやっていて、都美館が閉館になったあと、Jさんとその湯島の画廊へと歩く。そちらにはKさんもいらっして、うれしい再会である。Jさんの知り合いのLさんもいらっして、その四人で「飲みに行きましょう」という流れになる。ほんとうは毎年Jさんと行く居酒屋「A」に行くつもりで歩いたのだけれども、途中に「こんなところにも居酒屋があったんだ」という、こじんまりした良さげな居酒屋があったので、「この店にしましょう」ということになった。これがなかなかにいい店で、料理もとても美味だったし、雰囲気も悪くない。わたしも「この店ならまた来たい」と思える店だった。まさにいろいろと話に花が咲き、実に楽しい飲み会になった。会計もこれは「激安」という感じ。

 帰りは皆で上野駅まで歩こうということになり、Kさんのリクエストで、不忍池を弁天堂経由で横断する。夜桜が美しかったし、ライトアップされた弁天堂も格別だった(写真を撮り損ねた)。

 いろいろと歩きまわったりして疲れはしたけれども、生きる活力を得たような、ハッピーな一日になった。Jさん、Kさん、Lさんに感謝。


 

[]「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」@上野・東京都美術館 「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」@上野・東京都美術館を含むブックマーク

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 わたしはこの展覧会のことは先にあまりチェックしていなかったのだけれども、勝手に、ピーテル・ブリューゲルの作品がそれなりに来ているのかな?と思い込んでいた。‥‥そう思い込んだのには理由があって、以前何かの記事で、日本のテレビ局かどこかがウィーン美術史美術館と十年間だかの提携をして、これから先、そのウィーン美術史美術館の作品がど〜んと日本に貸し出されるのではないかという期待があったわけ。その第一回が先年の「クラーナハ展」だったわけで、「ウィーン美術史美術館」といえば数の少ないピーテル・ブリューゲルのコレクションでも有名、去年のそのブリューゲルの「バベルの塔」展で来た作品もウィーン美術史美術館所蔵のヤツではなかったから、今回はそのピーテル・ブリューゲルの作品が何かしら来てるんじゃないかと、勝手に思い込んでいた。それで勝手に期待してこの展覧会を観たのだが‥‥。

 ‥‥これが、大きなまちがいだった。あとで調べたら、その「ウィーン美術史美術館」と十年間のパートナーシップを締結していたのはTBSテレビで、今回のこの「ブリューゲル展」の主催は「日本テレビ/読売新聞社」なのだった。そういうわけで、ウィーン美術史美術館からの借り受けはなし。期待していたピーテル・ブリューゲル(父)の作品は、版画の下絵とか工房作品とか、期待に答えるような作品ではなかったのが残念。

 しかも、この展覧会全体の出品作品の、そのほぼすべての作品が「個人蔵」の作品であって、それは「個人蔵」の作品がクオリティが落ちるとはいいたくはないけれども、でも多少はいいたいのだな〜。いったいどうして、ここまでに「個人蔵」作品にかたよった展覧会を開催出来たのか、そのことにもある意味ではおどろくのだけれども、あまり感心することも出来ない同時代の作家の作品展示を含め、正直いって「イマイチ」という展覧会ではあった、と思う。

 そんな展示の中で、いちばん見ごたえがあったのは、ピーテル・ブリューゲルの息子(2世)による父親作品の模写作品群とかだったのだけれども、その中でもよかった「鳥罠」という作品、「なんか見たことあるよな〜」と思ったら、別ヴァージョン(というのか)作品が、すぐお隣の西洋美術館の常設でいつも展示されている所蔵作品だったわけで、ま、美術研究家が借りて観ることに意義はあるのかもしれないけれども、一般観客からすれば「まるで同じに見える作品をわざわざ海外から借りてきて展示しなくっても、西洋美術館から借りれば良かったじゃん」とも思うわけで、さもなくばその西洋美術館の所蔵作品を並べて展示して、互いを観比べさせるみたいな展示にすれば良かったのに、などとは思う。

 ブリューゲルの子孫のヤン・ブリューゲルというのは花の絵で著名だったらしいのだけれども、展示されていた彼の花の絵は「概念」で描かれた絵で、いってみれば今の時代のクリスチャン・ラッセンのイルカの絵みたいなもので、ま、そこまで酷くはないというか観るところはあるのだが、わたしにはそんなに感心するものではなかった。

 お父さんブリューゲルの系譜も、時代を下るとどんどんデッサンもおかしくなって「下手」になってしまうし、ある面で、「才能ある(というか<天才>だね)父親の絵画才能的な遺産を、その子孫らがいかに食いつぶしたか」という悲惨なドキュメントを観る思いでもあった。残念ね。

 

 

 

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■ 2018-03-28(Wed)

 安倍首相がこのまま「総理大臣」を続けるのは、最悪だ。安倍晋三という人物は、「しめしめ、これで難局も乗り切れたぜ!」と思っているのだろうか? それはつまり、「うまく国民を騙し切ったぜ!」ということであって、民主主義の根本を否定する「独裁者」の思考だろう。こんな首相をこのまま継続させるなら、それはわたしたち日本人の「恥」である。日本はジンバブエではないのだ。

 さて、ようやく、ピンチョン「逆光」上巻を行き帰りの通勤電車の中で読了。860ページ、長い道のりだったけれども、まだやっと折り返し地点。下巻が待っている。まさに「マラソン」だ。‥‥そういうことで、今日は仕事の帰りに一駅乗り越して我孫子駅まで行き、図書館へ。今日は天気予報でも「暖かくなるよ〜」といっていたのが外れずに、昼間は歩いていると汗ばみそうな陽気。「お花見日和」なのだろうか。図書館の前の手賀沼公園も、陽春ののどかな雰囲気。久しぶりにハクチョウの姿も見られた。
 サクラの花もいいけれども、この季節は野に咲く花が愛おしい。タンポポの花はよく見かけるけれども、この地にはスミレの花も咲いていた。

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 図書館では「逆光」の下巻と、「もう一冊」と思って、今読んでいるフラナリー・オコナーの、評伝というか解説本を借りた。


 

[]「昭和史 1926~1945」半藤一利:著 「昭和史 1926~1945」半藤一利:著を含むブックマーク

 この「アベゲート」の時期に、日本が最悪の路線を突き進んだ時期の、政治の流れを解明した書物を読了。長い時間をかけて読み終えたので、例によって細かいところは記憶していないけれども、連鎖が連鎖を呼んで「ほぼ勝つ見込みもない戦争」に突き進んで行った過程のていねいな記述。ただ、「では国民はどうだったのか」ということは、いまいちわからないところがある。「どうにかして、この無謀な路線にストップをかけられなかったのか」という思いにかられるわけで、このことをしっかりと今の時代に活かさなければいけないと思う。

 しかし、この本では「ただひとり、理性的に動いたのは昭和天皇だった」というようなことになっているが、「では、昭和天皇が理性的であれた理由はどこにあるのか」ということは、もうちょっと知りたいと思った。

 

 

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■ 2018-03-27(Tue)

 Frank Zappaを聴くということは、とにかくは気分が高揚してよろしい。この頃の不調ぶりから脱して、少し元気になれる気がする。今、上野では「人人展」というのが開催中で、毎年出品されているJさんから案内状もいただいているし、今年はKさんも出品されている。「ぜひ観なければ」という思いで、どうせならJさんと会って、またいつものように飲みたいものだと連絡を取り、あさっての木曜日に行くことにした。今は上野も桜の真っ盛り。そういう「花見気分」のお出かけもいいだろう。

 今日は「森友問題」に絡んで、前国税庁長官の佐川氏の国会での証人喚問が行なわれた。「ひょっとしたら<大暴露>もあるのかも?」というわずかな期待もあったのだが、彼は証言拒否の連発で、官邸の関与に関してだけは強く否定するのだった。見ていた印象では「ああ、何にもならなかったな」というところでもあり、気分的にがっくり。これまで黙り込んでいたネットの保守系、安倍政権擁護するいわゆる「ネトウヨ」連中が俄然元気になり、「これ以上森友学園問題を論議追究する必要はない」との大合唱。もちろん、明日からの安倍政権の路線を先取りしているわけだろう。ここはこの問題で勢いづいているジャーナリズムの、さらなる追究に期待したいというか、してもらわないと「暗黒時代」だ。

 あと数十ページでピンチョンの「逆光」上巻を読み終えるので、明日は仕事の帰りに図書館へ直行して返却し、下巻の方を借りてこようと思う。今日はオコナーの短篇をもうひとつ読み終えた。


 

[]「高く昇って一点へ(Everything That Rises Must Converge)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より) 「高く昇って一点へ(Everything That Rises Must Converge)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)を含むブックマーク

 暗示的なタイトルというか、原題を直訳すれば「すべて昇るものは必ず収束する」ということだけれども、何を意味するのだろうか。この短篇が発表されたのは1961年で、「公民権運動」盛んな時期。この短篇はバスに乗り合わせた白人と黒人との接触がテーマでもあるのだけれども、そういう公民権運動のことを調べると、まさにそういう、「バスの中での人種差別への抗議」という事件(モンゴメリー・バス・ボイコット事件)が存在したことを知った。「バス」という、中の閉鎖された空間という存在、まさにそういう問題を浮かび上がらせるポイントではあったのだ。

 ストーリーはやはりアメリカ南部が舞台で、バスに乗る白人女性、その息子である大学生のジュリアンとが中心になる。すでにあからさまな人種差別は撤廃されているのだが、ジュリアンの母にはまだ黒人への差別意識があり、進歩的考えのジュリアン(大学を卒業したばかりで、作家志望)はそのことを苦々しく思っている。ジュリアン母子の乗っているバスに、黒人の母子が乗ってくる。男の子は四歳ぐらい。ジュリアンの母はその黒人の母のことは同じバスに乗っているのもイヤなのだが、しかし黒人の子というものはとてつもなく可愛い存在だと思っている。バスの中でもちょっとした出来事がつづき、ジュリアンは母の行動を止めたいと思う。
 バスはジュリアン母子の目的停留所に着くが、黒人母子も同じ停留所で下車する。そこでジュリアンの母はハンドバッグの中をさぐり、黒人の子に小銭をあげようとする。ジュリアンは母に「そんなことはやめなさい!」と強くいうが、母は小銭をあげるのだ。しかし、その黒人の母はそんな小銭を払いのける。ジュリアンの母はショックで道に座り込んでしまい、ジュリアンは母に「そんなことをしてはいけないと言ったでしょう!」と強く二回いう。気力を失った母は「家に帰る」といい、その途中で卒倒してしまうのだった。

 またまた、ひとすじなわではいかない作品というか、単純に「愚かな母と進歩的な息子」の寸劇というものではない。たしかにこの母は愚かなのだろうが、その愚かさはこの当時、南部世界の抱えるものだったわけだろう。そして、ジュリアンのいうことはまさに正しいのだろうが、ジュリアンと母との関係の中で、ジュリアンの態度はこれでよかったのだろうか、ということになる。そこで「正しさ」というものは、曖昧になってしまうだろうか。

 

 

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■ 2018-03-26(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 月曜日。また仕事が始まる。仕事場のそばの桜並木は、満開になった。毎日こうやって、桜の花を見ながら仕事に向かうのだけれども、桜並木は広い道の反対側なので、そこまでに「桜花を楽しむ」という感覚でもない。

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 今日は仕事の帰りにお茶の水に寄り道して、「買いたい」と思ってしまったFrank Zappaの「Thing Fish」を買って帰ることにした。これで、「店に行ってみたら売れてしまっていた」みたいなことだと大ショックだ。
 飯田橋からお茶の水に出るには、通勤定期を使ってのいつものコース、東西線で大手町に出て千代田線に乗り換えて、新御茶ノ水で下車すればいいのだけれども、運賃はかかるけれども、飯田橋からダイレクトにJR中央線でお茶の水に出る方がはるかに簡単。実は通勤に普段でもJRを使った方が早そうなのだけれども、そうすると定期ではメトロ〜JRの併用となって高くなってしまうのだ。‥‥ま、たまにはJRを使うのもいいと、今日はJRでお茶の水に出た。無事にCDもわたしを待っていてくれて、買わせていただいて帰路に。これが、短い時間とはいえCDショップに立ち寄ったというのに、帰宅時間は普段とまるで同じなのだった。「早く家に帰りたい」というときには、こうやってJRを使って帰るのもよさそう。ときどきやってみてもいい。

 帰宅して、さっそく「Thing Fish」をプレーヤーにぶっ込んで聴く。まずは歌詞カードも見ずに、ただ「音」を聴く。Frank Zappaはむかしむかし、高校時代から聴きまくったものだった。とにかく彼のデビュー盤「Freak Out!」から数年は、同時代的に主に国内盤で聴いていたわけで、日本でももっとも早いZappaのリスナーのひとりであったろうと、自負するところでもある。でもそれでも熱心に聴いたのは彼のMothers時代が主で、Mothersを解散させてアルバムがすべてZappaの個人名義になったあたりから、わたしの耳には「普通のロック」になってしまったようにも思え、あんまり聴かなくなってしまったというわけ。
 だからこの「Thing Fish」も、ちゃんと聴くのは初めてね、という感じでもあったのだけれども、それでもロック・ミュージカル仕立ての構成の中には「あ、この曲は別のアルバムで演っていた曲だ」というものもかなり入っていて楽しむことが出来たし、やはり「音」として面白いのだった。
 それで、肝心の「英語のお勉強」だけど、ざっと聴いてフレーズとして聴き取れる部分もあるけれども、やはり、通しての「意味」というのを理解するまでにはいかない。しかも、ここで語られるSpoken Wordはかなり強烈なスラングが含まれているし、発音もアチラのブラック系の人たちのDirtyな発音、いちばん特徴的なのは「th」の発音がみ〜んな「d」になっちゃっているわけで、例えば「The」は「Da」、「They」は「Dey」みたいに発音する。‥‥この発音まで「教材」として学習してしまうと、それはトンデモナイことになりそうである。

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 とにかくこのCDがいいのは、歌詞の日本語訳の分厚いブックレット(160ページ!)がついていることで、まさに「教材」として「もってこい」なのだとは思う。これはかなり以前にリリースされていたCDで、もちろん今は廃盤。一時期はかなりのプレミア価格がついていたらしいのだけれども、わたしが買った店では千円ちょっとという安値で売られていた。Amazonでみるとこちらでは今でも数千円の値がついているので、「安い買い物をした」ということはいえそうだ。とにかくはこのアルバムを聴き、英語に慣れることからはじめようか。


 

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■ 2018-03-25(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 ニェネントが、リヴィングのどまんなかに「おしっこ」をしていた。びっくり! 何てお行儀が悪いんだと思ったが、コレはやはり先日から感じているように、トイレをわたしと共有していることへの「反撥」なのではないかと思う。‥‥こうやってこの新居に転居してきてほぼ一年、今まではうまいことトイレを共有していたというのに、何かの理由でニェネントは「あんたといっしょにトイレを使うのはガマンできない!」と、ストライキを起こしているというか、「待遇改善」を求めているのかもしれない。‥‥いや、トイレをわたしと共有するというのは、わたしからすると「あなたとわたしは<同格>だと思っているわけで、いいじゃないですか」という感じなのだけれども、そこはさすがに「ネコ」というか、ニェネントの感覚からすれば「I'm the one!」なのだろうか。‥‥ふふ、そうすると、ニェネントくんには「ネコ用トイレ」を設置してあげればいいということになり、そんなのだったらそんじょそこらの普通のネコ家庭と同じことになってしまうんですけれどもね、などとは思う。

 東京では桜の花は満開になったらしいけど、この千葉はもうちょっと(一日か二日)遅れるのだろうか。今日は、昨日気になったFrank Zappaの「Thing Fish」を、またお茶の水まで買いに行ってもいいな、などとも思ったのだけれども、もちろんそんな「くたびれる」ことをやるわけもなく、今日はまた、朝から寝てばかりの一日になってしまった。もっと書いておきたいこともあるけれども、こんなものであろう。



 

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■ 2018-03-24(Sat)

 次に国分寺のクリニックへ行くのは、勝手に4月末だと思っていたのだけれども、ふっと予約カードを見てみると、4月6日なのだった。あと二週間ぐらいしかないではないか。次回の診察では、わたしが去年観た映画の記憶がまるで消えてしまっていることに関して、その他の消滅した記憶などについてレポートを書いて行くことになっている。前から「書かなくっちゃな」と思っていてそのままいつまでも放置していたのだけれども、ほんとうに本気で書かなくっちゃいけない。それでこの日記をチェックし直して、観たり読んだりしたものでどのくらい記憶に残っているか<頭の中>を調べてみたら、だいたい一年をさかのぼってしまったもの、読書にせよ観劇、映画鑑賞にせよ、ほとんど記憶から消えてしまっているわけで、ま、あらためて愕然とする。というか、レポートを書くまでもなく、「み〜んな記憶に残ってませ〜ん」みたいなモノである。お話しにならない。死ぬね。‥‥みてみると、だいたい読んだり観たりして三ヶ月経つともう記憶があやしくなる。わたしは三ヶ月の<インソムニア>、なのである。ところが、前にも書いたことだが、なぜか一年半前に読んだオルハン・パムクの「雪」のことは、今でもしっかりとその内容を記憶しているのだから困る。このことはクリニックの先生にでも解明していただこうかしらん。わたしはいい<研究材料>ではないかと思うのだが。

 ‥‥こういうことは、「自分はまともな人間ではない」というコンプレックスにもつながっているわけで、だから先日Aさんと会ったときにも、Aさんがわたしを「欠陥人間」と思っているのではないか、などとも思ってしまうことになり、落ち込んでしまうという結果になってしまう。それで、立ち直るのに時間がかかるのだ。しかもわたしが生きる糧というものが、その多くが「記憶」というものに負っているわけだから、「記憶」が消えてしまえば、わたしは「無」になってしまうのだ。意外とこの「苦しみ」は人にはわかってもらえないようで、前にも「記憶が消えている」という話をすると、「それはおもしろい!」などというリアクションをされたりもした。それがどれだけ残酷なリアクションであることか、言った当人にそんな自覚はないのである。

 それで今日、ふと、「もういちど、ちゃんと英語を学んでみようか」と思うことになった。
 わたしの<記憶>でダメなのは、言うところの「エピソード記憶」というヤツで、それは<体験>と結びついた記憶。これはどうも、わたしの考えるところでは、そんな<体験>のなかでも<非日常体験>にあたるモノであって、そこでストーリー的な展開があるものが、記憶から消えて行ってしまうようだ。しかし、そういうことでも<ルール的>なことがらというのはそんなには忘れないようで、だから日常生活は不便なくすごせているし、それは「日常生活のルール」は忘れない、ということではないかと思う。
 ちょっとちがうかもしれないけれども、例えばカーリングのルール、などというのはしっかりと記憶していて、カーリング競技を月日を経て観ても、「わからない」ということはない。で、そうすると、「文法的なルール」というものが支配する「語学の学習」などというものは、今のわたしにも「有効」なのではないだろうか。そう思うのである。‥‥このことは、次回にクリニックに行ったときに聴いてみたいとも思っているけれども。

 さて今日は土曜日で休み。夜には吉祥寺で(苦手の)観劇の予定があり、昨日会ったFさんも来るというし、観劇後にFさんと飲んだり出来るだろう。Fさんは決して先日のAさんのような態度を示されることはないだろうし、不愉快なことにはならないだろうというか、楽しめるだろうと期待する。ぜひ行きたいと思うところ。

 公演は六時からなのだけれども、なぜかわたしは三時頃に家を出てしまい、「あらら、早すぎちゃった」みたいなことになり、「時間をつぶそう」と、乗り換えのお茶の水駅で近くのDISK UNIONに寄ってみた。いろいろと棚を見ていたら、Frank Zappaの「Thing Fish」の中古盤がかなりの安値で置かれていて、「あらら、ひょっとしたらこの盤、ちょうどいい英語の学習の<教材>になるんじゃないかしら〜?」などと思い、「買っちゃおうかな〜」と思うのだった。ま、でも「もうちょっと考えてから」ということにして、ちょっと早いけれども吉祥寺へと向かう。実に久しぶりの吉祥寺だと思ったのだが、この日記で検索するとほぼちょうど2年前に、やはりミクミヤナイハラプロジェクトの「東京ノート」を観に来ているわけなのだったが、これまた完璧に記憶から消えてしまっていて(どうも観劇中にずいぶんと眠りオチしてしまっていたようだけれども)、何一つとして憶えていない。これがわたしの状態〜常態である。そもそも会場の「吉祥寺シアター」の場所がわからず、チラシの地図を見ながら、またケータイのGPS機能のお世話になりながら、なんとか到着。着いてみればたしかに見覚えのある劇場ではあったのだが、ちょうどそこでFさんとHさんとに遭遇し、いっしょに劇場へ。

 ‥‥終演後、「ではちょっと飲みに‥‥」とFさん、Hさんと駅の方へ歩いていると、昨日三鷹にも来ていらっしたIさんともお会いして、つまりは四人で駅の近くの中華の店に。昨日の話、今日の話といろいろと続き、楽しい集まりになった。これで週初めの「悪夢」も払拭出来たかな。とにかくはよかった。

 帰りはちょっと遠回りして、我孫子駅まで乗り越して帰路に。途中のマンションの間の桜並木はほぼ満開。そう、書くのを忘れていたけれども、この日、東京のサクラは満開となったとのニュースだった。咲き始めてからあっという間に満開になったような気がするけれども、ここ千葉県はちょっと遅いかな。そんな、「夜桜」というのもいいものである。

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 実はこの桜並木の、公演の前にあるベンチに若い女性が三人並んですわっていて、静かに、何もしゃべらずに、ただじっと桜を眺めていた。そこだけ時が止まってしまったような、不可思議な空間(さすがに、彼女たちを撮影するのはためらわれた)。


 

[]ミクミヤナイハラプロジェクト vol.11「曖昧な犬」矢内原美邦:作・演出 @吉祥寺シアター ミクミヤナイハラプロジェクト vol.11「曖昧な犬」矢内原美邦:作・演出 @吉祥寺シアターを含むブックマーク

 矢内原さんの<演劇>というと、わたしはどうしても「桜の園」のことが思い出され、というか、「桜の園」しか記憶していないといってもいいのだけれども、そういうところから、俳優たちはステージを駆け抜け走り回り、セリフを絶叫し、肉体的に疲労困憊してしまうような演劇を想像してしまっていた。‥‥ところが、始まってみるとまるでそういったモノではなく、けっこうシリアスな「密室劇」というか、「不条理劇」というか、つまりはかなり「まっとう」な演劇だった。もちろん、ある程度はジャンプを続けたり、走り回ったりという展開はあるのだけれども、そういうのをいつまでも続けるということもなく、つまり「フィジカル・シアター」的な面は、ほぼ皆無といっていいような作品。

 わたしは矢内原さんは同時にNibrollというダンス・カンパニーも主宰されているところから、そういう「演劇」と「ダンス」との境界をさぐるような試みを継続されているのかと思い込んでいたので(先日のNibrollの公演「コーヒー」は、そういう意味でどこか「演劇的」な展開も感じられる作品だったし)、これには「はぐらかされた」というか、意外なことだった(って、これはわたしの勝手な思い込みがいけないのだけれども)。

 この作品は3人の男性だけの出演で、正方形に区切られた舞台の4つの角に、ドアを模した縦長の白い枠が設けられている。ここはじっさいには壁に囲まれた閉ざされた空間で、白い枠はしっかりドアが閉められているらしい(観客の目には見えないわけだが)。さいしょはふたりの男が、鍵は持っているのだけれども、その鍵ではドアが開けられない〜外に出られないということでパニクっている。ここにそれまでは舞台後ろに引っ込んでいたもうひとりが加わり(このあたり、「壁」はどうなっているのか?というのは、それこそ「曖昧」である)、以降3人での「騒ぎ」になる。彼らは監視カメラの存在にも気づくのだが、その監視カメラからの映像は、舞台の上の方に設定された3つの正方形のスクリーンに写し出される(この映像が単に「監視するリアルタイムの映像」ではない〜時間軸が微妙にずらされたり、静止映像になったりする〜あたりがポイント、なのだろうか?)。

 わたしは記憶力がアレなので、その「曖昧な犬」とはどういうことだったのか、(犬の話は出て来たけれども)記憶出来ていないのだけれども(その他にもいろいろと記憶出来ていない)、つまり閉じ込められた3人が胸に「2」「5」「7」(だったかな?)の番号の刷られた白の上下の、つまり囚人服のようなものを着ているわけで、みていると「つまり彼らは囚人なのか」という感じにはなるが、それが「リアリズム」によるものなのかというと、そうではないとは思える。たとえば舞台の上手奥にはずっと地球儀が置かれてあって、みていて「あの地球儀はどう絡んで来るんだろう」と思っていたら、意外と無造作にサラッと密室内に持ち込まれたりする(その「地球儀」は「夢」というか「幻想」の産物みたいなのか)。そういうのでは、不条理な「寓話」というようなテイストもあって、それはよくわからないけれどもベケット的なものと捉えてもいいのか。「記憶」、そして「視点」というようなことをめぐっての、会話というか言い争いというかが続く。

 ‥‥ふむ、などと書いているとわからなくなって、「もういちど観てみないと」みたいなことになってしまい、まともな感想も出て来ないのだが、安直な感想をいえば、圧倒されるようなパワー(これを感じたかったのか?)は感じ取れなかったし、「それでいいのか?」と思わされるようなものであったともいえる。‥‥やはり今のわたしは「演劇」は無理だ、ということになるのか?

 

 

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■ 2018-03-23(Fri)

 今朝(早朝)、仕事に出る前にテレビの天気予報をみていたら、今日は昼には気温が上がって16度ぐらいになり、昨日よりもずっと暖かくなるといっていた。‥‥って、あんたは昨日は18度まで気温が上がるといっていたではないか。予報が外れてしまった「お詫び」はないのかよ、などと思ってしまった。予報はアテにならない。わからないので昨日と同じ服装で出た。今朝も曇り空。勤め先のそばのサクラは昨日とほとんど変わりはない。

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 さすがに今日は昼には晴天になり、たしかに暖かくなった。帰宅して、今日の昼食はインスタントの焼きそば。ニェネントがにゃーにゃーとないている。
 日記を書いたりしてパソコンに向かっていると、そのときには出窓のいつもの「お立ち台」に上がってまどろんでいると思っていたニェネントが急に、「シャー!」という、威嚇の声というか怒りの声をあげた。「お、どうしたんだ? 外によそのネコが来ているのか?」と、ニェネントのいる出窓の外を見てみると、窓のすぐ外に、小学校高学年ぐらいの男の子がふたりで遊んでいた。ははあ、その男の子がニェネントをみつけ、窓の外からニェネントをかまおうとしたのだな。
 ‥‥ニェネントは、わたし以外の人間に決してなつかない。わたしにだってなついていないところがある。人間が大っ嫌いなのだ。男の子たちは「ネコちゃんネコちゃん」とあやそうとしたのかもしれないが、ニェネントはぜったいに怒る。前にウチの娘がニェネントと初対面したときも、ニェネントのあいさつは怒りの「シャー!」であって、あとで娘は「あんな怖いネコはいない」といっていた。単に怒り、威嚇の「シャー!」というより、野生動物が人間を見たときにみせる反応に近いのではないか。ライオンとかの「うなり声」に近いところがある。わたしだって「こいつ、すっげーな!」って思うところはあるのだ。
 これはきっとお母さんネコのミイからの遺伝で、ミイというネコも、「ここから先はぜったいにあなたに心は許さない」という一線があり、わたしがミイを「飼いネコ」にしようという意志を<強く>拒んだのだった。それは<野生>の心、みたいなもので、ニェネントの中にはそういう<野生>の心が、ずっと息づいている。それがどこか、ニェネントに「わたしは飼いネコではない」という、「気高さ」みたいなものを感じさせる。まあ「気高さ」というのはわたしのひいき目なのだけれども、「わたしはもう、生まれたときからずっと、あんたの世話になってるから、そういうところではあんたのことを頼りにするしかないのだけれども、わたしの本当の<心>は、お母さんのミイが生きたような<野生>にあるのだよ」というものがあるように思う。
 だから、ニェネントは、普通に世間でいわれている「かわいいかわいいネコ」とは違う。ある意味、ニェネントは(遺伝として)世間の<野良ネコ>の哀しみ、苦しみを背負って生きているのだと思う。それは、お母さんのミイから受け継いだ、ニェネントの<生き方>なのだろう。わたしは、そんなニェネントの<生き方>を尊敬し、いちばん大事にしてあげなくてはいけないのではないか、とも思う。それがわたしの「飼い主」としての役割ね。そんなことを理解して、ニェネントのことを守ってあげるのだ(だってキミは、ひとりで<野生>では生きていけないのだから)。
 ‥‥ふむ、でも、ニェネントくんは、「番犬」ならぬ「番猫」(「番ネコ」?)としてわたしの役に立ってくれるのかもしれない。‥‥あ、見知らぬ人が来ても、とりあえず威嚇しても、そのあとは逃げるだけだからダメか。ネコの限界だな。

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 そう、こういうニェネントの持っている空気は、あのわたしの好きな近所の野良ネコのニェッタに共通するようなところもあり、ニェッタにしても、決して人に媚を売って「かわいいでしょ!」とアピールするネコではない。そういう、ニェネントとかニェッタから感じられる<ネコの生き方>は、いわゆる、今ブームの「かわいいネコ」というものとは、ちょっと違う気もする(わたしには「かわいいネコ」なのだけれどもね)。

 昼間はテレビで高校野球をぼんやりと見ていたのだけれども、どうも高校野球というのは「凡プレー」の連続で、悪いけれども、見ていて面白いものではない。そういう勝敗を決する場面も凡プレーによるものだったとしても、つまりは「配慮」から基本的にリプレイはしないわけで、やはり、<アマチュア>レベルのプレーを、無理して<国民的行事>にしている感じで、楽しんで見られるものではないと思った。これは、カーリングの競技の中での<ミスショット>というものとはまるで意味合いが違う。カーリングの<ミスショット>を<エラー>と捉えるのは、これは違うのだ。

 夜は、三鷹まで出かけ、山田せつ子さんの「ソロ・ダンス」を観る予定。時間計算をして四時すぎに家を出て、六時半ぐらいに三鷹に到着。ちょっと雨が降っている(これは天気予報でいっていた?)。公演は七時半からで、まだ時間があるので、コンビニでサンドイッチとドリンクを買い、「軽い夕食」にして、駅前のベンチに戻って食べるのだった。そうやってベンチにすわってサンドイッチを食べていると、駅の方からDさんがわたしの方を見て、いつものようにニコニコとしながらやって来るのだった。ちょうど食べ終わったのでDさんといっしょに会場へと歩き、道すがら、先日観た、Dさんも出演していた映画の感想を伝えた。

 会場の「SCOOL」に着くとまだ開場してなくて、わたしたちの前にはEさんの姿も。開場してみれば中にはスタッフのFさんもいらっしゃるし、あとからGさんも来られる。いろいろと知人の姿がみられて、ちょっとうれしい感じ。

 公演の感想は下に書くとして、終演後にFさんに「飲みに行く?」とも誘われたけれども、まわりは知らない人も多かったし、Fさんに聞くと、明日はわたしと同じく吉祥寺で「ミクニヤナイハラプロジェクト」を観る予定だというので、「じゃあ明日飲みましょうか」ということにする。「帰ろうか」と外に出ると、かなりの雨が降っていた。駅への途中までDさんとGさんといっしょに歩き、わたしは腹ごしらえして帰ろうと、お二人と別れた。
 また「日高屋」へ行き、瓶ビールとレバニラ炒め、そして餃子などを注文する。わたしの近くの席でひとりで食べていた女性が、文庫本を読みながら、けっこうわたしと同じような注文をしていたことが気になってしまったりした。‥‥ふふ、昔だったら声をかけてみた? いや、そういうシチュエーションではなかったな。

 三鷹ではけっこうな雨だったが、自宅駅に戻ってみると、雨など降っていなかった。部屋に戻って十一時過ぎ。明日も明後日も仕事は休みだと思うと、ちょっと伸び伸びとした気分になった。


 

[]山田せつ子ダンスソロ「クロディーヌの手」@三鷹・SCOOL 山田せつ子ダンスソロ「クロディーヌの手」@三鷹・SCOOLを含むブックマーク

 同じSCOOLでの山田さんのソロダンス公演は10月、12月とおこなわれていて、これで三回目。わたしは10月の公演は観ていて、けっこう強い感銘を受けたものだった。12月はいろいろあって観に来れなかったわけで、今日の公演を観るのは楽しみにしていた。

 タイトルの「クロディーヌの手」の、クロディーヌとはフランス在住のクロディーヌ・ドレという美術作家で、紙をくしゃっと折りたたんで、何というのか槍を持った人間のような形にし、それをカンバス上に集合させたような作品をつくる作家のようだ。山田さんは2012年にも、青山のスパイラルホールでのダンス公演でクロディーヌ・ドレの作品を使っていたらしい。わたしはその公演のことはまるで知らなかった(記憶に残っていなかった)。会場の壁面にはそんなクロディーヌ・ドレの作品が、映像として投射されていた。

 実は会場に入って、今日の公演がそういう美術作品とのコラボレーションだと知って、少しがっかりしたというか、今日の公演について不安に思ってしまった。
 前に観た10月の公演では、ホワイトキューブ的な空間のなかで、そんな空間を活かしつつ、レインコートなどを小道具的にうまく使ったことが印象に残ったのだけれども、こうやって白い壁面に美術作品の映像が映されると、なんだか従来よくあるギャラリー公演みたいなものになりそうで、もちろん「ギャラリー公演」といってもピンキリあるわけだけれども、そこでどんなダンスをみせてくれるのか、つまり不安になったわけだ。

 今回の山田せつ子さんは、オーカー色のパンタロンに黒の長袖Tシャツという衣裳で、そのTシャツにはやはり黒の、レースのような布地が、鎧のように巻き付けてあるという感じ。さいしょのパートには映像はなく、指〜手をゆがませるような動きをみせる。その動きは例えばマリー・ウィグマン的なものを思い浮かべもしたけれども、この導入部はわたしにはけっこうインパクトもあって、先の展開を期待するのだった。
 しかし、そこから先にはバックに音楽も使用され、背景にはその作品映像も映され、う〜ん、危惧していたように、モロに「ギャラリー公演」的なものになってしまった感じがある。音楽も何曲かとっかえひっかえに使われ、「コレはじっくり聴いてみたい」という面白い曲もあったりはしたし、さいごはリストの「ラ・カンパネラ」だったりと、やはりこのあたりもありがちな、「好きな曲を並べてみました」的なものと受け取ってしまっただろうか。
 それで、もしかしたら、そんな中で山田せつ子さんは独創的なダンスを繰り拡げられていたのかもしれない。しかしながら、わたしの目には、どこか既視感のあるものとして写り、それは10月の公演で受けとめた「ダンスの豊穣さ」というものとは距離のある、どこか「類型的な」というイメージになってしまった。

 今回の公演にはそういう、ちょっと否定的な感想を持ってしまったのは確かだけれども、でも10月の公演を思い出してもやはり山田さんは卓越したダンサーではあり、これからも観ていきたいな、とは思った(先の予定で、また、この三鷹のSCOOLでやるようなことをおっしゃっていた)。

 

 

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■ 2018-03-22(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 先週末から鉄道のダイヤ改正があり、早朝の電車運行時間には変更はなかったのでわたしには影響はないだろうと思っていたのだが、これが仕事を終えて帰るときにいささかの影響があるのだった。千代田線の運行ダイヤが3分ぐらい動いてしまったのだが、おかげで帰りに大手町駅で東西線から千代田線に乗り換えるとき、結果として今までの時間よりは7〜8分遅くなってしまうのだった。これはけっこうショックで、つまり朝の四時半ぐらいに朝食をとって、それから8時間以上何も食べていないわたしは腹ペコなわけで、「早く帰って昼飯を食べたい」状態のわたしは、ここでおあずけをくらってしまうということ。まあここは割り切って、駅のベンチにすわって読書時間ということにいたしましょうか。

 読んでいるピンチョンの「逆光」。たしかにこれまで読んだ作品のような複雑怪奇な複数の物語の交錯する展開はそれほどなくて、読みやすいのかもしれない。ただ、今のところ、冒頭に書かれた飛行船「不都号」の連中の行動と、それ以外のアメリカでの無政府主義者の暗躍する「ポスト西部劇」的な復讐譚(?)〜コレが面白いのだ〜とはまるでリンクしてこない。っつうか、まだ上巻の半分をようやく越えたあたりなわけで(今のところ、ほとんど「空想科学冒険少年スパイ超能力探偵SM陰謀ミステリ歴史小説」という雰囲気ではないのだが)、本来ならばこの週末には貸出期限が終わってしまうから返却しなければいけないのだけれども、ま、もう一週間延滞しないといけないですね〜。

 今日は出勤のとき(早朝)には気温も低く、まだ少し雨が降っていたのだけれども、出勤前にみたテレビの天気予報では、「雨は午前中にやみ、雨のあとは気温も上がって18度ぐらいにまでなるでしょう」といっていた。こういう日はまた着るものに困る。出勤するときに寒くないようにして出ても、帰るときに18度とかになっていたら、朝の服装では暑すぎる。「ま、いいか」と、それほどの防寒でもない綿のセーターにジャケットを羽織って家を出た。
 写真は勤め先近くの桜並木。もうかなり咲いている。

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 ところが、仕事を終えて帰るときにもまだ少し雨は降っているし、ぜんぜん気温も上がってなくって、この時間でも肌寒い感じであった。帰宅してからも気温は上がらないようで、部屋の中で暖房をつける。天気予報は「大ハズレ」という感じであった。

 それで、ニェネントがこのところいやにわたしに懐いてくれて、とってもかわいい。最近は人間との交際に疲れたわたしにとって、最高の癒しである。
 前にも書いたけれども、このアパートに転居してきてからはいつもトイレのドアは開けっ放しにして、トイレはわたしとニェネント(おしっこの方だけね)との共用にしている。これはニェネントのいちばん「おりこうさん」なところでもあるのだけれども、わたしがトイレを使うときも別にほかに誰もいないわけだから、ドアは開けっ放しで使ってるのです。それが、以前はそういうことはそんなになかったのだけれども、わたしがトイレに入っているとニェネントがやってきてトイレを覗き込み、わたしを見上げて何かを訴えるように「にゃあにゃあ」となくのである。そのさまがとってもかわいくって、「あら、まるで<優良飼い猫>ですね〜」とか思うのだけれども、はたしてニェネントくんは何を訴えようとしてないているのか、これはどうもわからないでいた。それが今日になって、ニェネントは「ねえねえ、そこって<わたしのトイレ>なんですけど?」と訴えてるのではないのかという気になった。「あんたは自分のトイレを別の場所に探しなさいよ」といっているのかもしれない。

 夜、寝る前にちょっとずつ、半藤一利の「昭和史」を読んでいるのだけれども、これがようやく終わりがみえてきた。戦争に突入してしまった大日本帝国の終わりが近い。しかしこのところは読んでいても「今の日本もこんなだしな〜」と、絶望的な気分になる。安倍首相は四月には辞任せざるを得ないだろうという(当たり前の)見方もあるが、「このまま続行」という悲しい見方もある。日本の民主主義を守るため、何としてでも、安倍を辞めさせたいものである。


 

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■ 2018-03-21(Wed)

 今日は「春分の日」の祭日。朝から外は雨で肌寒い。こういう天候ではサクラの開花が遅れるだろう。まだこのあたりでは、サクラの花は咲いたとはいえない。もうちょっと、というところでのブレーキだ。わたしは家で朝から、昨夜観た「ミスティック・リバー」をもういちど音声解説の方で観て、午後からは特典ディスクのインタヴューなどを観た。そのあと外をみると雨もやんでいるようなので、スーパー「m」へと買い物に。そのあとはずっと、ニェネントと仲睦まじいひとときをすごした。やはり、ニェネントがいつもそばにいることに、ささやかな幸せを感じる。

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 夕食は「m」で買ったもやしと、まだまだ残っている白菜とで、前に豚肉でつくった「ピリ辛鍋」を、今日は鶏肉でつくってみた。‥‥結果。これはやはり「豚肉」でやらないと、おいしくはない。つゆの味が全然ちがうのである。これは勉強になった。

 さて、今日観た「ミスティック・リバー」の特典ディスクだけれども、イーストウッド、そしてティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンがあちらの番組「チャーリー・ローズ・ショー」というのに出演し、そのメイン・キャスターのチャーリー・ローズという人物からインタヴューを受ける映像が収められているのだったけれども、このチャーリー・ローズという人のインタヴューがかなり踏み込んだ内容のもので、単にインタヴュー相手を持ち上げるようなものではない。「こういうタイプのインタヴューは日本のジャーナリズムで出来る人物はいないだろうな」などとも思い、その「チャーリー・ローズ」という人物について検索してみると、なんと、この人物、去年の十一月に八人の女性からセクハラ行為を告発され、CBSを解雇されているのであった。今につながる「#MeToo」の動きの、その大きな反映による事件のひとつだったのだ。ちょっとびっくりしてしまった。


 

[]「ミスティック・リバー」(2003) クリント・イーストウッド:監督 「ミスティック・リバー」(2003)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 もう過去に何度か観ている作品で、この日記にも感想は書いている。発作のあとにも観ている作品なので、ストーリー展開は観る前もけっこう記憶していた。

 舞台はボストンの下町で、まずは25年前にさかのぼり、ジミー、ショーン、デイヴの11歳の少年たちに起きた事件が短く語られる。三人は道路で遊んでいたのだが、そこに車で乗り付けた二人の男に、デイヴだけが連れ去られてしまう。二人の男に性的に陵辱されたデイヴは何とか逃走できたのだけれども、事件はもちろんデイヴの心に深い傷を負わせることになるし、ジミーとショーンにも忘れられない事件となる。

 25年後の現在、ジミー(ショーン・ペン)は雑貨屋を経営しているけれども、どうも「堅気」でもない雰囲気がある。最初の妻は死亡し、その後アナベス(ローラ・リニー)と再婚していて、19歳になる前妻との娘のケイティと、まだ幼いアナベスとの娘と暮らしている。ショーン(ケヴィン・ベーコン)はボストン市警の刑事だが、最近妻が失踪してしまっている。時おりショーンのもとに無言電話がかかってくるのだが、それはまちがいなく失踪した妻なのだ。デイヴはアナベスの従姉妹のセレステ(マーシャ・ゲイ・ハーディン)と結婚し、息子もいるのだが、25年前の「事件」のことは妻にもしかとは話していないようだ。

 そんなとき、ジミーの娘のケイテイが行方不明になり、翌朝死体となって発見される。捜査にあたるのはショーンと部長刑事のホワイティ(ローレンス・フィッシュバーン)である。そんなケイテイが殺された前の夜、デイヴは遅くに手にケガをして血まみれで帰宅し、妻のセレステには「強盗に襲われ、逆襲してひどく殴ってきた。殺してしまったかもしれない」と話す。
 ショーンらの捜査で、ケイテイが殺された夜に友人らといたバーの客の中に、デイヴがいたことも判明する。デイヴの話を聞くショーンとホワイティは、当然デイヴの手のケガに気づくのだが、デイヴは「家具を運んでいてドアに手をはさんでしまった」と答える。一方ジミーはショーンらの捜査が遅いと感じ、「堅気」ではなさそうな仲間の手を借りて、自分で事件を解明しようとする(自分で犯人を殺してやると言う)。

 かつての幼なじみ三人は、「被害者の父」、「捜査する刑事」、「容疑者」という立場に別れてしまう。‥‥ふむ、観ていると、いかにもデイヴが犯人のようにも思えてしまうのだけれども、「動機」がないし、25年前の事件のことを思うと、とにかくはそこに大きな「闇」がありそうだ、とは感じながら観続けることになる。しかしデイヴはその時ごとにウソを重ねていくわけで、わけがわからない。これは妻のセレステにしても同じことで、「夫は明らかにウソをついている」=「ケイティを殺したのは夫なのでは?」と思うようになる。そして、よりによってその疑念を「被害者の父」であり、「堅気ではなさそうな」ジミーに話してしまうのである。‥‥一方のショーンらは、犯行に使われた拳銃を特定するのだが、それは意外な過去の事件を明るみに出すものかも知れない。そして別の証拠から、デイヴではない別の容疑者にせまるのだった。

 いったいなぜ、デイヴは「ウソ」を繰り返したのか。そこにやはり、25年前の出来事が深く関わっていたこともわかる。妻のセレステが夜中に彼の部屋に行くと、デイヴはひとり「吸血鬼」映画を観ていて、そこで「吸血鬼」というのは、ただの人が血を吸われると別の存在になってしまうことを語る。それは25年前の「事件」の前と後のことをいっているのだが、デイヴのその抽象的な独白はセレステにはわからない。
 「事件」のことはジミーの語ることばもあって、「もしも25年前に車に乗ったのが自分であったなら、そのあとに自分は腑抜けになっていて、ケイティの母親を口説くことなど出来ない男になっていただろう。そして、ケイティが生まれることもなかっただろう」と語るのである。‥‥「事件」のとき、デイヴを連れ去った二人の男は警官のフリをして道路でいたずらをしていた三人を叱責し、それぞれの住まいを聞き出すのだが、そのなかで離れたところを(正直に)答えたデイヴが「車に乗れ、お前の家まで行こう」と、連れ去られたのである。あとの二人はその遊んでいた場所の近くが自分の家だと答えたことで難を逃れたのだけれども、それは「ウソ」だったのかもしれない。そのときに「正直」だったデイヴが犠牲となり、だからその後のデイヴは「正直」であることに疑念を持つようになった、ということもあるのかもしれない。

 デイヴがその夜に「血まみれ」だったということの「真相」もまた、一歩違いで明らかになるわけだけれども、そのことがまた25年前の事件と関わることでもあり、デイヴはセレステに「真実」を語ることが出来なかった。

 ‥‥ま、ほとんどネタバレしてしまっているけれども、いちおうはっきり書くことは避けてあとを書けば、ラスト近くにジミーの耳元で妻のアナベスが囁きかけるという印象的なショットがあり、そのあとのシーンでは横臥するジミーの上にアナベスが馬乗りになって、「あなたはこの町のボスなのだ」と語る。ここにまさに、ついに夫のデイヴを信用出来なかったセレステとの「差異」があるというか、ジミーの行為すべてを肯定し、バックアップしていくという、ある面で恐ろしい「決意」がある。この場面でのアナベス〜ローラ・リニーは、まさに「マクベス夫人」なのである。
 そして、過去のことも含めて、今回の事件の全容をつかむショーンだけれども、果たして彼が「明るみに出ていないもうひとつ(ン?ふたつあるのか?)の殺人事件」を捜査究明するのかどうか、そのことまではこの結末ではわからないのである(ただ、その手を銃に見立てて<犯人>に狙いを定め、引き金を引く「ふり」をすることで、「わかっているぞ」ということは示している)。
 わたしはアメリカの中で「ボストン」という都市(町)がどのように位置づけられて認識されているのかまるで知らないけれども(ニューヨークから海岸線に沿って北東にある都市だが)、この映画にはそんな地方都市(といっていいのか?)の地政学のようなものも読み取れる気になる。殺されたケイティは実は翌日には恋人とニューヨークに駆け落ちする予定だったわけで、それは「ここは<中心>ではない」という意識だろうか。<中心>ではないからこそ、ジミーの妻のアナベスは「あなたはこの町のボスになるのだ」と囁きかけ、おそらくはそのことを(「町」というのがどれだけの範囲をいっているのかわからないが)ジミーも受け入れる。ショーンがこの映画のあとに「真相」を暴くのかどうかは「わからない」が(とにかく彼は<全貌>を知っているだろう)、その「わからない」という背後には「ボストン」という土地が大きく影響することだろう。25年前の記憶が道路にいまだに刻み込まれた、町の<呪縛>。デイヴはついに、そこから抜け出すことが出来なかったし、セレステは(アナベスと違って)その町の中に埋没する道を選ぶ。

 「何も死ななくてもいい人物」が死んでしまうということもあり、とにかくは「重苦しい」空気に包まれた映画ではあるけれども、この時期のイーストウッド監督は前年の「ブラッド・ワーク」の演出から2008年の「グラン・トリノ」あたりまで、ちょっと重苦しい作品を続けて監督しているわけで、わたしはこの時期のイーストウッド監督の作品が、飛び抜けて好きなのである。この作品では、チラッとショーン刑事の失踪した妻からの電話というシーンがはさみ込まれ、このあたりにどこかヨーロッパ映画、という雰囲気もして、とにかくはハリウッド製映画とはどこかで一線を画した作品になっている印象。
 その内容の「暗鬱さ」に呼応するように画面もまた暗く、登場人物は暗いシルエットとしてしか見えない場面も多いし、先に書いたデイヴが吸血鬼映画を観て妻に「吸血鬼」のことを語るシーンも、不気味なほどに暗い。‥‥このあたりは特典映像の中で語られていることがあり、撮影のために照明スタッフが例えばふたつの照明をセットしていると、イーストウッド監督が見て、ひとつの照明を消してしまって「これで行こう」とやったりしたそうだ。ここにも従来のハリウッド映画とはまるで異質な画面が生まれるわけだけれども、そのこともイーストウッド監督に意識されていた「演出」なのだ、ということがはっきりとする。

 特典映像を観てもうひとつ面白かったのは、公園の奥でケイティの死体が発見されたあと、公演の木立の下から空を眺めるショットがあるのだけれども、イーストウッド監督はそのショットでたくさんのハトを空に飛ばすつもりで、500羽からのハトを準備していたらしいのだけれども、「いざ本番」というとき、ハトたちはいうことを聞かずに飛び立たなかったのだという。普通の監督だったら「もう一回やり直しだ」と、またハトを集めてテイク2ということになるのだろうけれども、イーストウッド監督は「ダメだったものはしょーがない」というところで、そこであきらめてしまったらしい。
 とにかくは「早撮り」が有名なイーストウッド監督、出演者らもそのことをさかんにいっているのだけれども、「俳優というものはしっかり準備をして、本番では<ここ一発>と、一度で最高の演技をみせるべきだ」というのとはまた異なる、独特の「映画」というものへの考え方なのだと思う。

 

 

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■ 2018-03-20(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 どうもこの一ヶ月ぐらい、精神状態がよろしくない。鬱として楽しめないというのでもないが、とにかくは不調である。一昨日もいちどは舞踏公演を観ようと出かけたものの、けっきょく観ないで帰ってきてしまったし、昨日のAさんとの飲み会もまるで楽しめなかった。これはひょっとしたらタバコをやめているせいかもしれないぞ、などと思ってしまう。むむむむむ。

 今日は20日で、某ドラッグストア「W」では、貯めていたポイントが1.5倍に使える日。そのTポイントというヤツもずいぶんとたまっているので、この際一気に使ってしまおうと、仕事の帰りにその「W」に寄ることにした。ウチの駅の近くにも「W」はあるのだけれども、店の規模はそんなに大きくなく、それだったら先日行った亀有の「W」に行くのがいいのじゃないかと、わざわざ亀有で途中下車して寄ってみた。先日その亀有の「W」へ行ったときの感覚では、駅から徒歩10分ぐらいかと思ったのだけれども、この日歩いてみるとなかなかに到着しない。雨の中を歩きに歩いて20分近く歩いてようやく到着。せいぜい二百円とかそこら得するために、すっごいエネルギーを浪費してしまった感じであるし、そういうポイントサーヴィスの戦略にまんまと乗せられてしまっているのである。

 帰宅してテレビで相撲などを見て、夕食の時間。まだまだ先日のトマトシチューが残っているのだが、それもようやく今日でおしまい。‥‥やはり、ブロッコリーを入れたのは失敗だったというか、ブロッコリーを入れたときにはさっさと、その日のうちに一回で食べ終えるのが正解。それ以上に「つくり置き」してしまうと、ブロッコリーが分解されてぐちゃぐちゃになってしまう。これは前からホワイトシチューをつくったとなどにも思っていたことだったけれども、トマトシチューだから許されるというわけではない。ブロッコリーというのはその都度別に仕込み、食べるときごとにいっしょにしてやるのが正解だろうか。

 とりあえずは明日は「春分の日」で休日。今日一日、何とか昨日一昨日の冴えない空気を追い払おうと思い、先々週とかに映画を連続して観たときは精神的にも快調だったではないかと、ウチのDVDでも観ようかということにして、買ったまままだ観ていなかったクリント・イーストウッド監督の「ミスティック・リバー」を観ることにした。このDVDは二枚組で、本編のほかにイーストウッド監督や主演者らへのインタヴューの収められた特典映像盤もついているし、本編には主演のティム・ロビンスとケヴィン・ベーコンによる音声解説もついている。今日は本編を観て、休日の明日は音声解説でもう一度観て、さらにインタヴュー集を観るというのがいい気がする。明日も一日雨だというから部屋にこもってDVD。いいだろう。‥‥ということで、夕食のあとはその「ミスティック・リバー」を観た。感想はいちおう、明日音声解説付きで観て、特典盤も観てからにしよう。


 

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■ 2018-03-19(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 今日は新宿で、久しぶりに会うAさんと飲む予定。楽しみではある。その前にこの日は国会で「森友問題」に関しての新しい展開の見られるはずの日で、仕事を終えて帰宅してからはテレビをずっと見ていた。‥‥野党、特に共産党からの追究は厳しく、「このままではすまないぞ」という空気感は強い。あとで知ったのだが、午前中の自民党からの質問では理財局長に対して「あなたは民進党政権のときに野田首相の秘書官も勤めていた。今回のことは安倍政権をおとしめるためにやったのではないか?」などと、言語道断、とんでもないことも言い放ったらしい。先日書いた、文部科学省が前川前事務次官を講師に招いた中学校に対して、その講義の内容を提出させようとしたことなどをふくめて、「とても民主主義国家で起きていることとは思えない」わけであり、それもこれもすべて、自民党が安倍擁護のために行っていることから端を発しているのだろうと想像がつく。これ以上、この国を「とんでもない国」にしてはいけない。ここはジンバブエではないのだ。

 Aさんとは四時半に新宿で待ち合わせなので、三時頃に家を出る。天気予報では「ひょっとしたら雨になるかも」といっていたが、曇天だけれどもまだ雨は降っていない。無事にAさんと遭遇し、「今日はどうしようか」となり、Aさんが近くのおでんの店「O」に行こうかというので、つい「いいよ」といってしまった。むむ、今日はたくさん食べてたくさん飲もうと思っていたので、「O」ではちょっと予算がキツいことになる。「ま、いいか」と、店ののれんをくぐる。‥‥ふむ、この店はアルコール類の価格設定が高いな。
 それでアレなんだけれども、どうもこの日はAさんとわたしとの相性がよろしくない。こんなことはAさんを相手に感じたことはなかったのだけれども、Aさんはすぐに黙り込んでしまうし、話をしても何だかわたしのことをからかうようなことばかりしゃべる。「わたしのせいなのか」とも思ってみるが、いや、わたしは人と飲むときは基本、極力サーヴィスに努める人間だし、今日もそんな路線を崩すわけもない。どうしてこんな飲み会になってしまったのかわからないけれども、わたしも終いにはだんだんと不機嫌になってしまい、早く帰りたいという気分になってしまった。‥‥人と飲んで、ここまでに不愉快になったという記憶もない。どうもAさんはわたしのことを見下している。そうとしか思えないところがある。これではこれから先、Aさんと楽しく飲むことも出来ないかもしれないな(コレがこの日だけのことであればいいのだけれども)。

 部屋にニェネントをひとり留守番をさせたのがかわいそうになり、早くニェネントと会いたい気分でAさんと別れ、ウチへの帰路を急いだ。


 

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■ 2018-03-18(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 どういうつもりなのかわからないけれども、ニェネントはこうやって暖かくなってくると、夜にわたしの寝ているふとんの上に乗ってこなくなる。寒いときはわたしが暖房の役に立つけれども、もう暖かくなったので「暖房」はいらない、ということなのだろうか。ちょっと寂しいことなのだけれども、ついにこのところ、わたしが寝ていてもふとんに乗ってこなくなった。「ああ、春になったのか」というところなのだけれども、昨夜は夜中になって「ドサッ!」とふとんの上に重みがかかり、それで目が覚めた。おっと、ニェネントくんがふとんの上にきていたのだ。寝ぼけながら「よく来たね〜」と思っていたのだけれども、それでもニェネントはすぐにふとんから降りて行ってしまった。「寒いと思ったけど、やはりもう暖房はいらないや」というのだろうか。わたしは単に、「大きな湯たんぽ」なのかもしれない。

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 今日は午後から、日暮里に舞踏の公演を観に行くことにしてあり、予約してある。しかし朝起きてみると、「行きたくない〜」という気分になっている。実は先日Aさんと連絡を取って、あさっての月曜日に新宿で会うことにもなっているので、二日つづけて「お出かけ」というのも気が重い。何度も、「もう行くのはやめよう」とも思ったのだけれども、こうやって部屋でじっと、うじうじしているのも精神衛生上よろしくない、やはり「お出かけ」すれば気分も変わるだろうと、けっきょく出かけることにした。

 場所は日暮里の「d倉庫」というところで、もちろん昔に行ったことはあるスポットなのだけれども、それは発作で記憶を失う前のことであり、今では「いったいどこにあるのか?」と、その道筋もわからなくなっている。そういう意味でも、「もういちど行って、ちゃんと場所を確認しておきたい」という気もちもあった。今日の公演にはBさんも出演されているし、音楽(ギター)はCさんということで、やはり行ってみたいところもある。しかも今日はBさんの誕生日だということも、Facebookの記事で知ってしまった。わたしはBさんとそんなに親しいわけではないが、何か「そういう日ならばお祝いしてあげたい」などとも思う。

 日暮里に行くには、西日暮里と日暮里なんてそんなに離れていないわけだから、西日暮里から歩けば持っている定期がフルに使える。仮に日暮里駅にダイレクトに行くにしても、柏駅で快速に乗り換えればいいだけのことで、運賃もそんなにかからない。今日は乗り換えるのもめんどうなので、西日暮里に出て歩くことにした。
 ‥‥西日暮里というところ、わたしが二十歳ぐらいの頃に住んでいたところでもあり、懐かしいスポットである。こうやってこの駅で下車するというのも何十年ぶりになるか、という感じでもあるけれど、駅の周辺は昔のおもかげがしっかりと残っている。こういう風に何十年もそんなに変化しないスポットというのも、珍しい気もする。
 しばらく歩くと日暮里駅前に着くのだけれども、こちら日暮里駅の前は相当に様変わりしてしまっている。そこからは持っていたチラシの地図をみて、「d倉庫」へと歩く。道すがら、Bさんへの誕生プレゼントを何か買って持って行こうなどと考えて、ケーキ屋とかに立ち寄ってもみるのだけれども、「何だかな〜」などと思ってしまって何も買わずに外に出たり。それでも、「d倉庫」に近くなったところにあったスーパーに寄ってみて、そこにあった「ベルギーチョコ」を買ってしまった。

 歩いて行くと、その裏道に入ったところで「d倉庫」の看板を見つけたのだけれども、そのしゅんかん、なぜか行くのがイヤになってしまった。「もう帰ろう」と思ったのだ。この心理は自分でもよくわからないけれども、とにかくは「帰ろう」という気もちに圧倒された。
 ‥‥チラシに書いてあった連絡先に電話して、「予約してあったけれども行けなくなったのでキャンセルします」と伝える。そのしゅんかんに何だかホッとしてしまったので、やはりわたしのどこかに「行きたくない」という気もちがくすぶっていたのだろう。明日はAさんと飲む予定にもなっているわけだし。

 「では家に帰ろう」と、「こちらに歩くと西日暮里かな」と思う方向に歩いていると、思いがけずに「三河島」の駅前に出てしまった。まるで初めて来るところ。都内の「駅前」だというのに、スポットらしいものも何もない。ウチの自宅駅、北柏みたいだ。

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 駅前をぐるっと歩いてみると、遊歩道にあったサクラの木の、そのつぼみがもう咲きそうになっていた。

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 ここから日暮里とか西日暮里に歩くのもたいへんそうなので、もう今日はこの三河島駅から帰路を取ることにした。意外と混み合っていた電車で柏駅まで出て、各駅に乗り換えて北柏駅から歩いて帰る。まだ空は明るい。帰り道にある神社のサクラは、まだ咲くのはもうちょっと先のように見えた。

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■ 2018-03-17(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 東京で、サクラの開花宣言が出たという。平年よりもずいぶんと早い。この冬はめっちゃ寒かったように思っていて、何となく「今年はサクラが咲くのも遅くなるだろうな」と思っていたので、ちょっと意外。これは解説があって、サクラの花のつぼみというのは前の年から育っているのだけれども、秋から冬にかけては「冬眠」状態になっているそうな。それが、一月とか二月の「厳寒」に刺激され、冬眠から目覚めるということらしい。そこから「開花」までは、その厳寒のあとに急に暖かい日が続くことで早まるということ。つまり、今年は一月二月がすっごい寒かったから、サクラのつぼみも一気に覚醒。「ううう、なんて寒いんだ」ということで活動を始めるということなのかな? それが三月になって一気に気温も上がったので、「むむ、もう咲いちゃおうかな」となってしまうらしい。そういう意味では今年はサクラの覚醒が早められ、さらにこのところの暖かさで一気に開花へとなってしまったらしい。「寒さ」も、開花の一要因というわけで、その開花活動のきっかけになるというのは面白い。

 でも、今日はそんなに暖かくはなく、電気ストーブのお世話になった。ニェネントがいつものようにストーブのそばに寄って来るので抱き上げてかまってやったら、これがものすごい抜け毛で、はいていた黒いズボンが真っ白になってしまう。やはり「春」だ。

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 「森友問題」に関して、あのNHKの報道も、このところ安倍政権を見放した気配がある。先日は愛知県の中学が前川(前)事務次官に講演をしてもらった件で、文部科学省がその授業内容の提出を求めたことを報道し、「これは戦前の政治への逆行である」と、強く弾劾していた。これまでのNHKは、どちらかというと前川バッシングに加担していたわけで、大きな変化だと思う。ま、まだ「公文書改ざん」ではなく「公文書書き換え」といういい方はしているけれども、こういう報道姿勢は「もう安倍政権をフォローするのはや〜めた〜っ!」、「安倍、麻生の退任を応援しよう!」という立場への変化をみせるものだと思う。皆、日本はまだ「民主主義国家」であるはずだ、というところでの主張を盛り上げている。この事態は、わたしが生まれて以来最大の「民主主義」の危機だと思っている。これからも自民党政権が継続することになるかもしれないが、少なくとも安倍晋三のような唾棄すべき人物が国のリーダーであることは、これは回避すべきである。安倍晋三は、収監されるに値する、「民主主義」に対する犯罪人である。とにかく来週、国会でどのような展開になるのか。

 ところでわたくしはといえば、相変わらずシャンとしない。朝はこの日記を書こうとして、前の日の行動の痕跡がどうしても見つからず、「また<発作>が起きてしまったのか」と、鬱になってしまった。しばらく「アレはどうしたんだっけ?」と考えて思い出そうとし、「あっ、そうだった!」と、何とか解決がついた。記憶の減退によるものではなかったので、とりあえずホッとした。

 このところ、スーパー「m」で売っている「アップルケーキ」が無性に食べたくなり、一昨日も(多少は)コレを買うのを目的に買い物に行ったのだけれども「売り切れ」ていて、くやしくって今日は午前中に買いに行った。今日は無事に買えたのだけれども、食べてみると予想ほどおいしいものではなかった。
 買い物に出かけるとき、ウチの前の空き地の、ニェッタが住処にしていた廃車をのぞいてみた。‥‥おぉお、ニェッタくん、いるではないの! ‥‥でも、うむ、何か健康状態悪い?って感じはあるね。

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 今日の夕食は、想定通り「トマトシチュー」。今回はブロッコリーを大量にぶっ込むのである。いつも通りにつくって食べて、「アレ? 肉が入ってないな〜」と思ったら、煮込むときに先に炒めておいた肉を入れるのを忘れていた! やはり何かヤバいかな?

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■ 2018-03-16(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 一昨日は「眠りすぎ」ぐらいにたっぷりと寝たのだけれども、昨日はいつも通りの時間に眠りにつき、いつも通りの睡眠だった。もうちょっと「寝付きが悪い」とかいうことになるのかと思っていたのだが。

 書き忘れていたけれども、昨日、勤め先の外の、ビルのまわりの植え込みのところで奇妙な生物を見た。真っ黒なミミズのように思えたけれども、頭のところがハンマーのようにT字形してたので、「ああ、これは昔見たことがある。<ヒル>じゃないか!」と納得(写真を載せようかと思ったけど、グロいのでやめて、かわいいイラストにした)。

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 「ヒル」といえば「ヤマビル」というヤツが吸血性でヤバいのだけれども、都心にいるはずもない。帰宅して調べたら、「クロイロコウガイビル」という種類だったようで、特に人に害するわけでもないようだ(人を害するヒルは、永田町の首相官邸とか、国会議事堂に大きいのが何匹かいるのだが、もうすぐ退治されそうだ)。

 しかし、都心で「ヒル」にお目にかかるとはビックリ! 「六本木ヒルズ」ではないのだ。しかも都心なのに「コウガイ(郊外)ビル」などと名乗り、ビルのそばに棲息するとは、シャレの好きなヤツなのか? 東京も謎に充ちているな、などと思うのだった。

 今日は朝から曇り空で、出勤で家を出るときにはポツポツと雨も降っていた。それでもけっこう暖かい。今日は仕事の帰りに我孫子の市役所へ行き、来年度の「自立支援医療」の申請をして来ることにした。前から「行かなくちゃ、行かなくちゃ」と思っていたのを先延ばしにして来たもの。もう三月も中旬になったし。

 仕事を終えて外に出るとちょっと雨模様。駅前の「B」という店で、ワンコインのハンバーガーセットで昼食にする。前にも来た店だけれども、ココはゆっくりと出来るし、フライドポテトがたっぷりなので満腹になる。ハンバーガーもおいしい。食事を終えて、いつもの帰路の電車を乗り越して我孫子駅で下車。おっと、こちらはかなりの雨模様で、傘をささないと歩けない。って、バッグに入れてあった折り畳み傘は、先日亀有に行ったときに強風にあおられて骨折していて、まともにはさせない状態になっていた。‥‥その、骨折した部分を応急処置でバンドエイドでつなぎ、なんとかOK(もうこの傘はダメだな。新しいのを買わないといけない)。

 ま、そんなに傘をさす必要もなく、駅前からバスに乗って、久しぶりの市役所へ。「めんどいことになるのかな」とか思っていたけれども、担当の方の親切な対応でスイスイと進み、早くに手続きを終えることができた。天気が良ければ帰りは駅まで歩いていいのだけれども、やはりそれなりに雨も降っているので、帰りもバスを利用した。

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 帰宅してテレビをつけるとパラリンピックの中継をやっていて、見るでもなく見ないでもなくつけっぱなしにしていたら、日本の緑夢という名の選手が金メダルを獲得した。緑夢と書いて「グリム」と読む。いわゆる「キラキラネーム」みたいなところもあるけれども、この「緑夢」=「グリム」という名はいいな。付けた親のインテリジェンスが感じられるというか、ドイツ・ロマン派ですね。夢を感じる名前だ。見た感じも「好青年」だったし、障害にめげず、さらに夢を追って生きて行ってほしいな、などと思った。

 パラリンピック中継のあとは大相撲中継。この、藤井アナと、解説の北の富士とのコンビがすばらしい。相撲の面白さの一端はこのふたりの中継トークにもあるだろう。いつまでも続いてほしいところだ。

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 夕食は、考えていたようにブロッコリーをゆで、トマトとタマネギとでサラダっぽいのをつくってみた。タマネギがちょっと辛かったけど、けっこうおいしかった。まだまだブロッコリーはいっぱいあるし、トマトも残っているので、次はまたお得意の「トマトシチュー」だな。


 

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■ 2018-03-15(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 というわけで、いつものアラームで目覚めたのだが、つまり昨日から12時間以上眠ったわけだ。しかもまだ寝足りない感じで、起きるのがおっくうだ。どうもやはり体調がおかしい気がする。

 起き出して、まずはニェネントくんに朝食のカリカリを出してあげる。あれ? わたしは昨夜、ニェネントくんの夕食を出してあげてないんじゃないかな? 悪いことをした。ちょっとカリカリを多めに出してあげる。ごめんね。わたしも昨日の夕食を食べてないしね。それでわたしも、いつものハムトーストとコーヒーで朝食をとり、テレビのニュースとかを見る。早朝のニュースは、どうやら意識して「森友問題」関係のニュースは取り上げないようで、今日の天気予報とかそういうのがメインになる。今日はとっても暖かくなり、五月並の気温になるといっている。ふむ。何を着て出勤すればいいか。
 今の時期、この通勤着というのはひとつ難題で、早朝に家を出るときにはまだ気温も10度に届かないぐらいなのだけれども、それが仕事を終えて帰路に着くときには、20度近くになってしまう(今日は20度を超えるということだ)。もうダウンジャケットはやめて、出勤のときは多少「寒い」と感じてもガマンしないと、帰るときに「暑い暑い」ということになってしまう。

 駅に着いて電車を待つと、だいたいこの時間に同じ電車に乗って通勤する人の顔ぶれも決まっているわけで、「あれ、今朝はあの人の姿が見えないな」とか思ったりもするのだけれども、そんな「いつもの顔ぶれ」の人たちは、まだ「衣替え」してる気配でもなく、いつもと同じ服装である。おそらくたいていの人は夜まで働かれるのだろうから、夜になるとまた気温も下がるから、まだ「衣替え」には早い、ということなのだろう。

 職場に着き、仕事をしているとたしかに気温が上がってくるのがわかる感じで、「予報の通りだな」と思うわけで、仕事を終えて帰るときには、歩いているとちょっと汗ばむぐらいの陽気になっていた。

 帰宅して、昼食の支度もめんどうなので、カップ麺ですませる。「夕食は何にしようか」と考えるのだけれども、昨日の買い物で大きなブロッコリーが百円しない値段で売られていて、このところブロッコリーも高かったわけだから「おっ! 安いなあ」と、ついつい買ってしまっているから、何かブロッコリーを使ったものをつくらないと。いつものトマトシチューにブロッコリーを入れてもいいだろうけれども、買ったブロッコリーはかなり巨大なので、ぜんぶシチューにぶち込むとすごい量になってしまいそうだ。トマトもけっこう残っているから大量につくってもいいのだけれども、ここはまず、ブロッコリーを三分の一ぐらいゆでて、トマトといっしょにサラダにしてヘルシーな食事にしてみようと考える。

 それで、「そろそろ米もなくなってきているから買わないといけないかも」と米の在庫をみると、もう一週間も持ちそうもないので、今日は木曜日で、いつも米の安いスーパーの「S」は今日は全品一割引きだから、またカートを引きずって「S」まで買い物に行くことにした。‥‥米を買い、(これは一割引きにならないけれども)ウィスキーを買い、ウィンナーを買い、その他あれこれ買ったらば、五千円近くになってしまった。こんなに買い物をするというのも珍しいことというか、カートに満杯になったあれこれの品を引きずって歩くと、カートといえどもかなり重たい。ズルズルと引きずって延々と歩き、なんとか帰宅。もう夕食を仕込む気力も失せ、パックのごはんを温め、牛丼とかのパックを温めてごはんにかけて簡易夕食。むむ、うまいものではないな。


 

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■ 2018-03-14(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 スティーヴン・ホーキング博士が亡くなられたとの報道。「いつかはそういう日が来る」とは思っていたけれども、ショックだった。わたしも彼の著作は読んだものだった。もちろんその内容をはっきりと記憶しているわけではないけれども、「宇宙物理学」への興味は、今でも持っている。ホーキング氏は若くして難病を患い、「余命は数年」と診断されながらも、奇跡的にその後半世紀も研究を続けられた。その研究は、20世紀の難題のひとつだった、「一般相対性理論」と「量子力学」とを統合する理論を組み立てるもので、人類の宇宙理解を大きく前進させた。その理論構築もまた、「奇跡」のようなものだ。彼の存在は、「人」の無限の可能性を知らしめてくれることだった。そのイギリス人らしいユーモアのセンスも、彼に親しみを感じさせてくれるものだった。追悼。

 今日はやはり、夜になってから首相官邸前での抗議集会に参加したいと思う。いちど帰宅して、その前に買い物に出かける。あれこれと、思いがけずに大量に買ってしまった。買い物から帰って、このところの「だるさ」がずっとつづいているわけで、「いちど休んでから出かけることにしよう」と、ベッドにもぐり込んで昼寝。昼寝というのは二時間ほどで目覚めるのがいつものことなので、それから出かけることにして充分に間に合うとの計算。‥‥ところが、目覚めてみるともう外はまっ暗になっていて、時計を見ると六時をとうに過ぎてしまっていた。これではもう出かけるには遅すぎるだろうし、しかもまだ眠気はつづいている。時間的に夕食を取る時間でもあるのだけれども、「もういいや」と、そのまままた寝つづけることにした。今日はこれでおしまいである。


 

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■ 2018-03-13(Tue)

 今日も、体調があまりよろしくない。先週、連日のように映画を観歩いていたときには「快調だね!」とも思っていたのだけれども、週が明けてまた、「あんまり元気でないわたし」と、お付き合いしなければならない。しかし世間では「森友問題」で揺れていることだし、このところ連日のように、永田町の首相官邸前では抗議集会が催されているみたいだ。今日も、ネットでみると12時から官邸前で集会をやるようで、「それならばわたしの仕事が終わって駆けつけて、ちょうどいいではないか」ということで、仕事を終えたあとに行ってみることにした。

 また飯田橋の駅前の日高屋で「とんこつラーメン」の昼食にして、そのままメトロの南北線に乗り、溜池山王駅で降りる。集会をやっているのは議員会館前か首相官邸前かどちらかのはずで、とりあえずは首相官邸前の方へ行ってみる。‥‥ふむ、信号の角のところで、マイクを持った人たちが何やらしゃべっている。立ち止まって聴いている人はいない。「わたしたちは安倍首相をどうこう(暴力的に?)しようというのではないのですよ」みたいなことを、男女の掛け合いの漫才みたいにしゃべっていて、聴いていて「そんなことでいいのかよ?」と思ってしまう。わたしの気もちの中にある「怒り」とは、釣り合いが取れない。気分が悪くなる。割って入ってマイクをぶんどって、「安倍はやめろ!といいたいんだよ!」とか言ってやりたくなる。どうもちゃんとした抗議運動はやはり夜になってからのようで、昼間は誰もいないから時間つぶしにバカがしゃべってるんだろう。しょうがないので帰ることにした。とんだ時間のムダではあった。

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 帰宅して、さらにドッと疲れてしまった感じで、ぐったりである。森友問題ではついに、財務省の職員に自殺者も出てしまった。安倍首相や昭恵夫人など、「それは自分の責任だ」と、心を痛めることもないわけだろうか。人非人である。来世には「天国」も「地獄」もないことをわたしはわかっているが、安倍晋三氏や昭恵夫人には「地獄」へ行ってもらいたいものだと、思いたくもなる。


 

[]「善良な田舎者(Good Country People)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より) 「善良な田舎者(Good Country People)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)を含むブックマーク

 オコナーの作品は、どれも「バッド・テイスト」なところがある。この「善良な田舎者」もまた、ある種の「裏切り」の話であって、「バッド・テイスト」である。ここで裏切られるのは著者のフラナリー・オコナーの分身のような人物。ここでもやはり「キリスト教」というものが背後にあって、敬虔なクリスチャンとして聖書の訪問セールスをしている男が、実は「食わせモノ」だったという話。そういうストーリー展開に、一見関係のないような第三者を噛み合わせる手法にオコナーらしい手法も感じるけれども、多少、作者のナマな感覚が表に出過ぎているようには思ってしまう。

 

 

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■ 2018-03-12(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 ピンチョンの「逆光」を、読みはじめた。‥‥ふむ、(今のところ)そこまでにいろんなストーリーが錯綜しているという感じでもなく、たしかに「読みやすい」のかもしれない。「空想科学冒険少年スパイ超能力探偵SMミステリ歴史小説」とな(笑)。ただやはり内容は濃密で、そんなにパッパと読み進められるモノではない。今日は何とか50ページちょっと。こんなペースではこの上巻だけで一ヶ月かかってしまいそうだ。もう、フルタイム稼働で読み進めなければ。

 政局の「森友問題」はバンバンと進行し、もう海外のメディアは「安倍は終わった」みたいな論調になっている。そうなればいいのだけれども、この日本はもうすっかり「骨抜き」にされた日本で、はたして今でも「民主主義国家」といっていいのかどうか。ま、そのあたりの恰好の「試金石」でもある事件なわけで、とにかくは「まだ日本も捨てたもんじゃないぜ」と思える展開にはなってほしい。
 それで今日は首相官邸前とかで抗議集会が行われているようで、わたしも行きたい気もちはあるのだけれども、今日はちょっと無理。明日以降もこういったデモ・集会は継続されるようなので、きっと参加したいとは思っている。‥‥むむ、ウチにPhotoshopとかプリンターとかがあれば、そういう集会のために<プラカード>?をつくって披露してやりたいところだけれども、手ぶらで行かなければならないのがくやしい。

 そんなことに気を取られていると大相撲も始まっていて、今場所も横綱は鶴竜ひとりだし、栃ノ心が<連続優勝>してくれるのか、また平幕から優勝力士が出るのか、三役から優勝力士が出るのか、それとも鶴竜が意地でがんばってくれるのか、興味は尽きないところ。って、あらら、栃ノ心は負けてしまった。


 

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■ 2018-03-11(Sun)

 政局ではずっと、「森友学園問題」というものが継続しているのだが、これは誰が考えても安倍総理が昭恵夫人の関与を隠そうとしているのだと、わかりきっていることなわけだけれども、この問題がここに来て急発展をみせ、朝日新聞のスクープで、財務省の公文書が「改ざん」されていたことが明らかになった。これはもう否定しようのない「事実」であり、ついについに、財務省長官だった佐川氏が辞任することになった。この展開は「ウォーターゲート事件」の展開に似ているのではないか。常識で考えれば安倍総理もまた辞任すべきであろう。はたしてそこまで追い込めるだろうか。また、そのためにわたしなどが出来ることはどんなことだろうか。考えてしまうのである。
 しかしこのところの安倍総理、トランプにくっついて北朝鮮に圧力をかけるべきと言い続けていたところが、トランプは安倍のことなど無視してとつぜんに「米朝首脳会談」に踏み切りそうだし、やはりトランプがワシントン・ポスト紙を目の敵にして「フェイク・ニュース!」などと攻撃しているのをマネして、先日から朝日新聞を攻撃し始めようとしていたばかりのこのタイミング。やること為すこと思いっきり「空振り」ばかりだし、今回のこの<窮地>である。はたしてどのようなことになるのか。

 さて、今日は日曜日で、この日は図書館に借りている本を返却する。ネコ缶もなくなってきたので買わなくては。図書館への道を歩くと、あちこちで梅の花が咲いているし、桜の樹のつぼみも、もう目立つようになってきている。春は近い。

 図書館で本を返却し、「さて次は‥‥」と考えれば、コレはもう順番としてピンチョンの「逆光」なのである。ピンチョンの作品ではいちばん読みやすい作品だということだけれども、その分厚さもまた「いちばん」。上巻だけで800ページを超える。持ち運ぶだけでもたいへんである。‥‥これを、通勤電車の中で読むかね?という感じ。でもまあ、読むものは読むのだ。がんばろう(この「逆光」を読めば、いちおうピンチョンは全作品読んだことになる〜「LAヴァイス」を読んだのはかなり前なので、すっかり忘れているけれども)。

 帰り道に図書館のそばのドラッグストアでネコ缶を買い、我孫子駅の反対側のスーパー「I」に寄る。この頃消費量急上昇のハム(このスーパーのがいちばんお買い得かな?)を買い、量は少ないけれども一袋17円のもやしを見つけて買う。わたしのようにひとり分の料理しかつくらない人間には、このくらいの量の方がちょうどいい。

 帰宅してしばらくテレビを見て昼寝。目覚めて「さあ、夕食はどうしよう?」と考え、もやしを買ったのだからもやしを使わなければいけない。このあいだつくった「もやしと白菜、豚肉の鍋」がおいしかったのでまたつくろうと、こんどはちゃんとレシピを調べてつくる。前回は鶏ガラスープをつかったのだけれども、ネットでみたレシピでは「だしの素」と「コンソメスープ」でつくるのだった。「そうか、そうだったのか」とレシピ通りにつくると、これがたいへんにおいしかった。わたしの「お気に入り」のひとつである。


 

[]金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013] 2「猫、そのほかの動物」金井美恵子:著 金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013] 2「猫、そのほかの動物」金井美恵子:著を含むブックマーク

 前半は「遊興一匹 迷い猫あずかってます」全編の再録、真ん中に「タマや」、「永遠の恋人」、「兎」の三つの短編小説があり、後半は単行本未収録のエッセイを収録。

 「遊興一匹 迷い猫あずかってます」は、金井美恵子といえども「猫バカ」であることにかわりはないのだ、というような一冊ではあるけれども、「この十年ぐらいで、こういうネコの飼い方というのは(特に都会では)みられなくなっただろうな」という感想も。そういう意味で「今の常識」からみて、金井姉妹のネコの飼い方におどろくようなところもあるのはたしか。トラーがヘビを捕るというのにもおどろいたのだけれども、これはけっこうネコには普通のことらしい。家に持ち帰らないではほしいけれども。
 短編小説三作は、どれも金井美恵子の若い日の作品だけれども、「兎」がいかにも才能ある少女作家の作品という感じで、「これは<少女作家>にしか書けないよな」と感心。「タマや」も彼女らしくて、その生意気さみたいなのが爽快。
 後半のエッセイはどうもわたしには「空振り」な印象のモノが多く、やはり金井美恵子は「目白雑録」以降の毒舌冴え渡るエッセイがサイコー、なのであることを再確認した。トラーの<昇天>を書いたエッセイを読んで、「ああ、わたしもそのうちに、ニェネントのことを見送らなくってはいけなくなるときがくるのだな」と思うと、そう思っただけでニェネントのことが愛おしくなり、もっともっと、いつもいつもニェネントといっしょにいたいと、思ってしまうのだった。

 

 

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■ 2018-03-10(Sat)

 土曜日で仕事は休み。晴天で外は暖かそうだ。「どうしようか」迷ったけれども、今日もまた、映画を観に行くことにした。しかし映画は新宿のレイトショーで、開映は夜の九時。映画が終わって帰宅すると十二時を過ぎてしまいそうだ。「そういうのはツライな〜」とかも思うのだけれども、ま、少しはそういう外的な刺激を享受しつづける努力も必要かと思う。体調もかなり回復して、夜中に起きて咳き込むことはあるけれども、ふだんはもう健康体という感じ。さて、「はたしてわたしは<花粉症>だったのかどうか?」という答えは、むむむ、わからないままではある(かなりの確率で<花粉症>ではないとは考えられるのだが)。

 こうやって日記を書いていて、その日記を書くのはたいてい該当する日の翌日とか翌々日、なまけていると三日ぐらい前の日記をあとで書いているわけだけれども、そうやって書こうとすると、「はたして、その日の食事は何だったっけ?」と考えてしまい、思い出すのに苦労してしまうことがある。このあいだも思い出すのにしばらく時間がかかってしまい、「また<発作>が起こったのだろうか?」と、心配になってしまったりする。以前クリニックで、「前の日に何を食べたのか思い出せないのは<物忘れ>、食べたことを覚えていないのは<認知症>の疑いがある」と聞いてもいて、まあ「食べた」ということは覚えているのだからアレだけれども、「何を食べたのか覚えていない」ということと「食べたことを覚えていない」ということの境界はとっても曖昧で、「何を食べたのか思い出せないと、食べたかどうかもわからない気がする」ということになる。先日は何とか、何を食べたのか思い出せたけれども、やはりこうやって、「つまらない記述だ」と思いながらも、「何を食べたのか」ということを思い出して、日記に書くというのは、今のわたしには<大事>なことのように思えるのだった。というわけで、今日の朝食はいつものトーストにハムで、実は昼食も「同じく」なのであった。こういう日は、あまり記憶テストにはならない。

 夕食は外で食べることにして、七時前に家を出る。新宿には八時半ぐらいに着き、まずは映画館へ行きチケットを買い、近くの「松屋」で、実に久しぶりに「牛丼」なるものを食す。「こんなものだったか」という印象で、何かもうひと味ほしい気もしたけれども、牛丼とはこういうものだったろう。

 開映時間が近づき映画館へ戻り、ほんとうは本編上映のあとにトーク・ショーがあるのだけれども、聴いていると遅くなってしまうので先に帰る。新宿駅の構内に入ると以前のクセで「湘南新宿ライン」のホームへ行きそうになってしまった。そこで「もう、新宿から湘南新宿ラインに乗るということも二度とないのだろうな」と思うと、なぜか少し感傷的な気もちになってしまった。今のわたしは中央線でお茶の水に出て、そこから千代田線に乗り換えて帰るのである。帰宅して、ちょうど十二時になっていた。


 

[]「あなたはわたしじゃない(サロメの娘/ディコンストラクション)」七里圭:監督 「あなたはわたしじゃない(サロメの娘/ディコンストラクション)」七里圭:監督を含むブックマーク

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 七里圭監督というのは、以前に清水真理さんの人形をモティーフに短篇を撮られていたりして、気になっていた監督さんではあるのだけれども、作品を観るのはこれが初めてになる。この作品には安藤朋子さんも出演されているし、黒田育世さん、飴屋法水さん、川口隆夫さんらダンス/パフォーマンスの世界の方々、そして井土紀州監督の作品によく出演されていた長宗我部陽子さんなどが出演している。あ、長宗我部さんとは、いちどお会いしたこともありました。

 作品は<実験的>な作品、<アート・フィルム>といってよく、「音から作る映画」として、2014年から続いているプロジェクトということ。映像として残されたものとして今回特集上映される作品に「Music as film」、「サロメの娘 アナザサイド(in progress)」「アナザサイド サロメの娘 remix」があり、関連する作品は七里圭監督のすべての作品、ということになるようだ。これらの映像とライヴスポットでのライヴ・パフォーマンスとが相互に干渉し合いながら、発展しているものらしい。いったん完成した映像を「ライヴ」としてパフォーマー参加の上で上映され、それがまた映像として記録されていくような形式であり、今回のこの「あなたはわたしじゃない」では、そんなライヴ映像と「より<映画>らしい」野外ロケ映像とが組み合わされている。

 映像の全編に「ちょっと、山へ行ってきます。と母の書き置きがあった。」から始まる女声のモノローグが流れる。おそらくは映像にあらわれる若い女性(青柳いずみ)の声と想像していいのだろう。そこに、映像の中に<映写されている>映像が取り込まれ、人物に同じ人物が重なったりもする。映像の中の風景は美しく、とつぜんに馬が登場してきたりするのが印象に残った。

 語られることばはモノローグなのだけれども、それは語りかける映像とのダイアローグのようなかたちも感ぜられ、そんな映像が複合化していくと共に、ダイアローグも複雑になっていくような。

 例えばカフカの長編小説が、ひとつの状況のもとでいくらでも増殖していけるものであるように、この映像作品も、モノローグのテキストをもとにしてどのようにも増殖していくのではないかとも思った。それは観ていて「難解」であるとか思わせられるものでもなく、自然と観客として映像の中に入って行けるようなもので、ある意味でとっても<心地良い>作品でもあり、五時間つづいても六時間つづいてもその中に浸っていられるように思った。


 

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■ 2018-03-09(Fri)

 さて今日もまた、映画を観に行くことにした。こんどは柏駅前の映画館でやっている「デトロイト」を観る。ひょっとしたら明日もまた映画を観に行くかもしれないので、三日連続ということにもなるかも。

 今朝も雨が降っていたけれども、仕事をやっているあいだに雨もあがり、いちどは晴れ間も見えるようになった。ところが仕事が終わる時間になるとまた空は暗くなり、雨もまた少し降っているのだった。傘が必要なほどの雨でもなく、傘は勤め先に置いて帰路に着いた。映画は一時十五分からの上映で、まっすぐ電車に乗れば十二時半頃に柏駅に着いてちょうどいいのだけれども、それで映画の前に昼食をとろうとすれば、ちょうど昼食時で店はどこも混み合うだろう。ということで、勤め先の近くで先に昼食をとっていくことにした。日高屋のとんこつラーメン。さっさと食べ終わってみると、いつもの帰りの電車よりふたつだけあとの電車に乗れたのだった。時間的には十分ぐらいのもので、そんなに早く食べ終えてしまったことに、自分でもおどろいてしまった。ほとんど「立ち食い蕎麦」の次元である。

 柏駅に着いても少し時間があったので、駅のそばの「東急ハンズ」に立ち寄って、ちょっとお買い物。それでも余裕で開映時間には間に合うのだった。

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 ‥‥むむ、なかなかにジリジリとする怖い映画だった。感想は下に。
 映画が終わってまだ四時前で、何か買い物をして帰ろうかとも思ったけれども、早く帰宅してゆっくりすることにした。ニェネントくんの顔も見たいし。夕食は、残っていた中途半端な量のごはんを使って、オムライスにした。トマトを一個つぶしてごはんと炒めたら、なかなかヘルシーな感じになっておいしかった。


 

[]「デトロイト」キャスリン・ビグロー:監督 「デトロイト」キャスリン・ビグロー:監督を含むブックマーク

 1967年7月の、デトロイトの暴動をドキュメントタッチで撮った作品。わたしは不勉強で、このデトロイトの暴動のことは知ることもなかったのだけれども、その<暴動>の三日目、暴動鎮圧のための不条理な捜査で三人が犠牲になった「アルジェ・モーテル事件」にスポットが当てられ、同時に、この事件に巻き込まれた、まさにこのときデビューしようとしていたリズム&ブルース・グループの「ドラマティックス」のことが描かれる。そう、この映画がアチラで公開されたのは2017年のことだから、ちょうどこの<事件>から50年経ってのこと、だったわけだ。しかし今でも、年間に何人もの黒人が、警官に射殺されているというのが「アメリカ」という国で、そのことはまるで変わっていない。いや、トランプの時代になって、また「ひどい状況」が訪れようとしているのが、今のアメリカではないのか。

 映画はまず、デトロイト市警の白人警官のクラウスという男がいる。彼は暴動が起きた当初に逃亡する黒人を後ろから撃ち殺し、上司から譴責を受けていたのだが、「アルジェ・モーテルから誰かが発砲している」との連絡を受け、同僚らとアルジェ・モーテルに乗り込み、またもそこにいた武器を持たない黒人を射殺する。「どうしても狙撃犯を挙げなければ」と追い込まれたクラウスは、モーテル内にいた8人(白人女性2人を含む)を一室に拘束し、とんでもない過激な尋問を延々と行なうのである。
 そこに、近くの食料品店の警備員をしている黒人のディスミュークスが駆けつけるが、自分が「警備員」であるということと、「黒人」であるということのはざまで、何も出来ないのである。
 そして、デトロイトのクラブでオーディションを受けるはずだったグループ「ドラマティックス」のリード・ヴォーカルのラリーが、友人のフレッドと共に拉致拘束されていた。

 ‥‥この、ほぼ密室での尋問が、ほんとうに延々と続く。観ていても感覚がヒリヒリし、拘束された人たちの恐怖が伝染してくる。クラウスの探す「銃」は、どれだけモーテル内を捜査しても見つからない。そもそもが、ひとりの若者が面白半分にスターター・ピストルでふざけてしまったことから始まった惨劇なのである(この若者が、さいしょにクラウスに射殺された男だったことも、クラウスの<尋問>を終わらせない悲劇につながるのだった)。

 クラウスがやったのは、拘束されたものを恐怖で怯えさせ、自白させようとした行為(ゲーム)だったのだが、その意図を理解していなかったクラウスの同僚が、拘束された黒人のひとりを実際に射殺してしまい、「死のゲーム」はゲームではなくなってしまう。均衡を失ったクラウスはラリーの友人のフレッドも射殺するのだった。

 ‥‥ようやく事態が終息し、解放されたラリーは「ドラマティックス」のメンバーと再会するが、「もう白人を楽しませるためには歌いたくない」とグループを脱退し、教会でゴスペルを歌うという道を選択する。
 さいごは映画に登場した人物らの後日談が語られるのだが、裁判で無罪になったクラウスら州警のメンバーだが、もとの職場に戻ることはなかったというし、ディスミュークスは<報復>を恐れてデトロイトから逃れることになる。

 ‥‥1967年の夏というと、わたしなどは「ああ、あの"Summer Of Love"のときではないか」と思ってしまうのだが、ヒッピーたちが「愛と平和」を説いていた一方で、それは「長く熱い夜」の季節でもあり、つまり"Summer Of Riot"だったのだ。思い返せば、デビュー時から"Phony Hippies"とヒッピー思想を揶揄していたフランク・ザッパの、そのデビュー・シングルはまさに、「ワッツの暴動」のことを歌った"Trouble Comin' Every Day"だったわけで、この映画「デトロイト」を観たあとにそのザッパの曲を聴くならば、その後あらゆるものを嘲笑して行ったかにみえるフランク・ザッパが、このデビュー曲でいかに<真剣>であったかがわかるわけで、改めてそのことにおどろくのである。

 「ドラマティックス」というグループの名前は聴いたこともあるように思うのだが、その曲は思い出せない。この映画で描かれたところでは、当時あの「モータウン・レコード」との契約を目指していたようだが、調べてみると彼らがメジャーと契約するのは1968年(この事件の翌年)になってからのことで、それも「モータウン」ではなく、メンフィスの名門「スタックス」との契約。順調なデビューとはならなかったようだけれども、1971年になって初アルバムをリリース、トップテンに入るヒット曲も生まれているようだ。
 この映画で描かれた1967年のあと、1968年になると、わたしでも記憶しているメキシコ・オリンピックでの「ブラック・パワー・サリュート」というものがあったし、音楽の世界ではジェームズ・ブラウンが"Say it Loud - I'm Black and I'm Proud"を大ヒットさせるのだ。そして1969年の「ウッドストック」では、スライ&ファミリー・ストーンが、観衆を熱狂させるのだった。‥‥そのような時代であれば、ラリーもR&Bとかソウルの世界で活躍するのではなかったかとも思いもするけれども、そういう簡単なことでもないだろう。

 もうひとつ、この映画のことで書いておけば、監督のキャスリン・ビグローのことなのだけれども、先日(2月2日)この日記にも書いたことだけれども、彼女がかつて「Art & Language」に在籍していたらしいということで、今回は映画のパンフレットを買って、そのあたりのことが書いてあるかどうか確認してみた。‥‥って、さすがに「Art & Language」なんてだ〜れも知らないからね、そういうことは書かれていなかったけれども、次のように書かれていた。

(‥‥)画家を志してサンフランシスコ・アート・インスティテュートで学び、同行を卒業後、ホイットニー美術館の自主研究プログラムに参加。その後、コロンビア大学院芸術研究科のフィルムスクールで修士号を取得した。

 ‥‥これじゃわからんと、Wikipediaをみてみると、こういう感じ。

Bigelow's early creative endeavors were as a student of painting. She enrolled at San Francisco Art Institute in the fall of 1970 and received her Bachelor of Fine Arts in December 1972. While enrolled at SFAI, she was accepted into the Whitney Museum of American Art's Independent Study Program in New York City.Bigelow's early work benefited from her apprenticeships with Vito Acconci, Richard Serra, and Lawrence Weiner. Also in her early days in Manhattan, Bigelow teamed up with Philip Glass on a real-estate venture in which the pair personally renovated distressed apartments downtown then sold them for a profit.

Bigelow entered the graduate film program at Columbia University, where she studied theory and criticism and earned her master's degree. Her professors included Vito Acconci, Sylvère Lotringer and Susan Sontag, as well as Andrew Sarris and Edward W. Said, and she worked with the Art & Language collective and noted conceptualist Lawrence Weiner. She also taught at the California Institute of the Arts. While working with Art & Language, Bigelow began a short film, The Set-Up (1978), which found favor with director Miloš Forman, then teaching at Columbia University, and which Bigelow later submitted as part of her MFA at Columbia.

 こういう英語は苦手なんだけれども、つまり、ヴィト・アコンチとかリチャード・セラとかに美術を学び、フィルムスクールではスーザン・ソンタグだとかエドワード・サイードとかに学んでいるということ。最初の短篇"The Set-Up"を撮った頃に、Art & Languageにいたみたいですね。なるほど。


 

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■ 2018-03-08(Thu)

 今日はまた亀有へ行き、シネコンでやっている「シェイプ・オブ・ウォーター」を観ることにした。仕事を終えて亀有の駅に着くのは十二時ちょっと過ぎで、「シェイプ・オブ・ウォーター」は十三時半ぐらいからの上映回があるので、そのあいだに昼食などをとればいい。時間が余ればショッピング・モールのなかでいくらでも時間をつぶせるだろう。

 今日もまた雨で、明日まで降りつづくという。亀有駅の反対側には「こち亀」の両さん単独の銅像があり、こちらは彩色されていないので「銅像〜Statue」という感じはする。

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 まずは3階のシネコンへ行き、チケットを買っておく。ここのチケット発券は自動販売機仕様で、自分でチャッチャッと座席まで選ぶことができるのがいい。まだ上映まで一時間以上時間があるので、座席はほとんど埋まっていない。

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 チケットを買い、食事タイムになるのだけれども、ココには1階にレストラン・エリアもあるし、地下にはスーパーの食品売り場もある。レストラン・エリアには、これは何というのか、複数のテイクアウトの店が並び、その前に自由に座れるテーブル席がいっぱい並ぶ区域がある。ここで地下のスーパーからお弁当でも買ってきて食事にすれば安上がりだろう。そう思って地下に降りて、サンドイッチとドリンクとを買ったのだけれども、これで五百円を超えてしまい、これなら普通にテイクアウトの店で何か買った方が安上がりだったのだ。

 食事を終えて、まだまだ時間があるのでモールの中をウィンドウ・ショッピング。‥‥これだけ大きなショッピング・モールなのに、書店というものが一軒もないというのが寂しい。小さいけれどもTOWER RECORDSの店舗があったので、そこで時間をつぶすことにした。「アナログ盤取り寄せます」との掲示もあり、やはりアナログ盤の復活というのはホンモノなのだなあと思う。

 上映時間が迫ったのでシネコンへ移動して、上映スクリーンへ入る。このシネコンは松竹系らしいのだが、そういう松竹系の予告を山のように見せられる。「観たい」と思うような映画は、何一つなかった。場内はそれなりに客も入っているけれども、座席の四分の一とか五分の一ぐらいしか埋まっていないだろうか。天候も悪いし、平日の昼間だし、こんなモノなのだろうか。

 映画の感想は下に書くとして、かなり心に迫る作品でラストでは涙もこぼれ、スクリーンを出てパンフレットを買い、シネコンを出たのだけれども、そこでこの映画のポスターが目に入り、それがつまり映画のラストシーンなわけで、また涙があふれてしまった。外に出ると雨が降っているわけで、これまた映画のラストを思い起こされるわけで、またもウルッと。さらに、電車の中で、買ったパンフレットを袋から出すと、その表紙絵をみて、またまた泣きそうになってしまった。

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 とにかくは帰宅して、ぼんやりとさっき観た映画のことなどを思い出したりして時は過ぎていく。「夕食は何にしようか」と考えて、冷蔵庫にはもやしが残っているので早く使ってしまわないといけない。あまり炒め物は食べたくないな、という気分で、以前白菜ともやし、それに豚肉とかを煮込んで輪切り唐辛子を入れたのがおいしかったことを思い出し、「またやってみよう」と。レシピがわからなくなっているのだけれども、「こんなもんだろう」と適当につくってみた。‥‥むむ、憶えていた以前の味とは隔たりはあったけれども、「これはこれでいいじゃないか」という味で、これからのレパートリーとして憶えておこうということにした。


 

[]「シェイプ・オブ・ウォーター」ギレルモ・デル・トロ:製作・原案・脚本・監督 「シェイプ・オブ・ウォーター」ギレルモ・デル・トロ:製作・原案・脚本・監督を含むブックマーク

 前の「パンズ・ラビリンス」はフランコ独裁政権下のスペインが舞台だったけれども、この作品は冷戦下にあるアメリカが舞台。ソヴィエトが初の有人宇宙飛行を実現し、キューバにミサイルが配備されたというようなことが語られるから、これは1962年ぐらいのことだろう。「航空宇宙研究センター」で清掃員として働くイライザ(サリー・ホーキンズ)が主人公。彼女は幼い頃のトラウマでことばがしゃべれない(そもそも、その出生にも謎があるみたいだ)。そんな彼女が勤め先で<極秘>扱いの「ある生きもの」に出会うことから始まる物語。

 海の底のような水中を進んで行く映像が、浮遊するイライザをとらえ、それがイライザの住むアパートのベッドの上に重なるイントロ・シーンがとっても美しいのだけれども(まるで「天空の城ラピュタ」で、空をゆっくりと下降してくるシータみたいだ)、このシーンは、ラスト以降の解釈へのひとつの布石になっている!
 そのイライザの住むアパートは、1階が大きな映画館になっていて、イライザの隣人には、仕事のめっきり少なくなったイラストレーターのジャイルズ(リチャード・ジェンキンズ)がいて、イライザとは仲がいい。その1階の映画館で次に上映される作品は、史劇「砂漠の女王(The Story of Ruth)」とミュージカル「恋愛候補生(Mardi Gras)」の二本立て(奇妙な二本立てだ)。

 イライザの職場での同僚はゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)。あるとき、二人は機密の部屋に呼び出され、「すぐに部屋をきれいにしろ」といわれる。その部屋には大きな水槽のようなものが設置されていて、床には血が流れているし、人間の指まで落ちている。イライザはその水槽の奥に、不思議な、人間のような生きものの影を見る。「彼」(ダグ・ジョーンズ)はアマゾンの奥地で発見されてこの研究所へ運ばれた「半魚人」である。ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)が「彼」の生態を研究し、その呼吸法を解明すれば宇宙飛行での人間生存のヒントになると思われているらしい(実は、ホフステトラー博士はソ連のスパイなのでもあった)。直接に「彼」を「管理」するのはストリックランド(マイケル・シャノン)だが、彼は「彼」を生体解剖すればいいと考えているわけで、「彼」に暴力的に対峙する。部屋に流れていた「血」は、ストリックランドが「彼」の反撃を喰らい、手の指を二本噛み切られたのである。

 ここからイライザと「彼」の秘密の逢瀬が重ねられ、イライザは「彼」に手話を教え、持ち込んだ蓄音機で音楽をかけ、ダンスを教える。しかし、ストリックランドは早急に「彼」の生体解剖を望むのである。そのことを知ったイライザは、ジャイルズとゼルダの協力を得て、「彼」をセンターから救出する計画を立てる。偶然にも、ホフステトラー博士の協力も得て、イライザは「彼」を自分のアパートに連れてくるのだった。そして、雨が降って川の水位が上がったときに、波止場から「彼」を海に逃がしてあげようとするのだ。しかしストリックランドの「追跡」は執拗を極め、ついにイライザの前にストリックランドが‥‥。

 ‥‥まず、映画を観てめっちゃ印象に残るのは、ストリックランド(マイケル・シャノン)の強烈な「悪役」ぶり。これはもう、「オールタイム映画の悪役ベストテン」にランクインしてしまっておかしくない。サディストでレイシストで、しかも自分のスタイルに最大限の神経をはらう。憎たらしいこと120パーセントで、彼がさいごに倒されることはだいたいわかりきっているので、「どうせならメッタメタのグダグダにして、(途中で犠牲になった猫ちゃんみたいに)八つ裂きにしてやればいいのに!と思うぐらいだった(そういう意味で、彼の末期は「甘すぎる」)。
 しかし、ここで思うべきなのは、このストリックランドが単に「強烈な悪役」だということではなく、彼がまさに「60年代の"American Way of Life"」を体現しようとする人物である、というポイントだと思う。‥‥いったいなぜ、一見不必要とも思われる彼のプライヴェート・ライフが映画の中で描かれ、彼が絵に描いたような「アッパー・ミドル」な生活をしているさまが描かれるのか。ティム・バートンの映画に登場するような、画一的なアーバン・ライフ。高級そうな住宅に二人の子供と、60年代の雑誌から抜け出てきたようなステレオタイプな「美しい」妻。そんな美しい妻と、真っ昼間からセックスするだね。‥‥いったいなぜ、ギレルモ・デル・トロ監督は、ただ映画のレイティングを上昇させるだけの、この昼間の夫婦のセックス・シーンを挿入したのか、コレがまず、この作品の、実は重要な「キモ」ではあると、わたしは思う。
 先に書いておけば、この作品のテーマは、まさに「マイノリティ」の救済ではあると思うのだけれども、その「マイノリティ」の対極にあるのが、ここで描かれたストリックランドの「生活」ぶりであって、そのことは今現在のアメリカの、つまりはトランプ大統領なんかが「移民? 難民? とんでもない!」ということの根底につながるものではないか、と思うのである。まさに「外」の世界からやってきた「半魚人」である「彼」に、人格など認めようとしないストリックランドと、「彼」を愛しようとするイライザとの、明確な対立。そして、そのストリックランドの、白昼の一見おおらかなセックスというものがまた、「セックスさえも抑圧されたマイノリティ」との対極にある、と解釈されるのではないだろうか(だからこそ、終盤には、そんなイライザと「彼」との<解放された>セックスが暗示されるわけであろう)。

 そうやってみると、その「60年代の"American Way of Life"」というものを映像化しようとした先達に、先に書いたティム・バートンなどがあったとは思うのだけれども、けっきょく、ティム・バートンの現在の(ある意味での)「失速」を思うと、ティムにはこのギレルモ・デル・トロの作品のような、「今に通底するものとして60年代を眺め、そして批判する」という視点が抜けていたわけではないか、とも思うことになる。

 いろいろと、「深読み」の出来るストーリーになっていて、ここには今書かなかったけれども、「ああ、そういうことだったのか」みたいなこともあるし、アメリカのミュージカル映画へのパスティーシュも気持いい。「パンズ・ラビリンス」も紛うことのない「傑作」ではあったけれども、この「シェイプ・オブ・ウォーター」、その「パンズ・ラビリンス」に勝るとも劣らぬ「傑作」だということはまちがいはないと思う。また観に行きたい。



 

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■ 2018-03-07(Wed)

 昨日までそれなりに気温も高く、「春も近いな」という感覚だったのだけれども、今朝起きてテレビの予報をみると、今日はまたグッと気温が下がるのだという。そうだ、この季節は「三寒四温」ということで、だんだんに春になって行くのだった。それで、今日はまたちょっと厚着をして仕事に出た。たしかに、寒い一日だった。ニェネントも、丸くなって寝ているのだった。

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 今日はまた亀有に寄って、「シェイプ・オブ・ウォーター」を観ようかとも思ったのだけれども、今日は水曜日でスーパーの「m」が一割引きの日。わたしとしては「お買い物」を優先することにして、何だか家庭の主婦のような気もちである。いちど帰宅して昼食をし、まったりしてから買い物に出かけた。この日は何だか買い物しまくって、持って行った買い物袋からあふれてしまうほどの食料品を買い込んだ。

 帰宅して、先週エアチェックしてあったピーター・バラカンの「ウイークエンド サンシャイン」を聴く。「今回は女性ヴォーカルがメインです」みたいな紹介だったけれども、単に女性ヴォーカルというのでなく、英国フォーク中心の選曲でうれしかった。このエアチェックしたMDは「保存版」になるだろう。内容はAnne Briggs、June Taborなどが中心で、それにわたしも先月買った"MOJO"のNick Drake特集号にオマケでついていたCDからも何曲か。そして、近年Incredible String Bandの曲をカヴァーしていたという、知らないバンドによる"Chines White"など。バラカン氏もIncredible String Bandの"5,000 Spirits"が大好きだったという話が出て、それは初めて聴く話というかうれしかった。Incredible String Bandの曲をリクエストしてしまおうか、などと思ってしまうのだった。

 今日はナボコフの「キング、クィーン、ジャック」を読了した。明日からは金井美恵子の「猫、そのほかの動物」にかかりきりになるだろう。


 

[]「キング、クィーン、ジャック」ウラジーミル・ナボコフ:作 諫早勇一:訳 「キング、クィーン、ジャック」ウラジーミル・ナボコフ:作 諫早勇一:訳を含むブックマーク

 去年、ウチにあるこの本の旧訳(英語訳からの翻訳)を読んだばかりだったけれども、ま、だいたいはもう忘れているのですね。情けなくも悲しいこと。

 今回読んで感じたことは、この三人の主要登場人物の、その視点が自在に入れ替わる文体の面白さというか、ひとつのセンテンスの中でもフワッと、マルタからフランツへ、そしてドライヤーへと移動して行く面白さ。やはりナボコフはただストーリーを展開させるだけの作品を書いているわけではなく、「これは<小説>なのだ」という強い意識のもとにこの作品を書いている。そのことが再読、再々読に耐えさせる強度をこの作品に持たせている。

 今回はナボコフによる「英語版への序文」を読んで(ウチにある旧訳本には掲載されていなかった?)、この小説の終盤にナボコフ自身が登場していることを知った。‥‥なるほど、「深く読む」ということでは、「この人物は作者自身ではないのか?」ぐらいのことは気がつかないといけないのだな、などと思った。


 

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■ 2018-03-06(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 昨日の「カツオのたたき」がまだいっぱい残っているので、ニェネントくんには今日もまた天国であろうか。わたしはというと、やはりまだ、まるで本調子ではない。夜中に目覚めて、激しい咳が出て苦しい。これでもう一週間近くも不調がつづいていて、ここまで調子が悪いというのも近年にないことというか、自分の記憶(あてにならない)でも今までになかったことのように思う(ま、やっぱり「風邪」なのだと解釈すれば納得も行くわけだけれども)。

 昨日アメリカのアカデミー賞の発表があり、作品賞と監督賞はギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」が受賞したらしい。ギレルモ・デル・トロ監督作品としては、あの名作「パンズ・ラビリンス」的なテイストを引き継いだ傑作だという前評判も聞いていて、「観たいな〜」と思っていた作品。というか、アカデミー賞を受賞して観客が急に増えてしまっても困る。昨日行った亀有のシネコンでもこの作品はかかっていて、あそこならそんなに混み合うこともなさそうだし、明日か明後日にまた亀有に足を運んで観てみようかと思うのだった。あと、先日観た「スリー・ビルボード」で、主演のフランシス・マクドーマンドが主演女優賞、それと警官役のサム・ロックウェルが助演男優賞を受賞していた。サム・ロックウェルは「いい役者だな〜」と思ったので、「やっぱりね」というところはある。フランシス・マクドーマンドは「ファーゴ」以来二回目の主演女優賞だけれども、二年前に「ウースター・グループ」の一員として来日し、わたしのわずか数メートル前で素朴な歌を歌い、踊ってくれた彼女が、昨日は何とも華々しい舞台で脚光を浴びていたということが、奇妙な気がするのだった。


 

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■ 2018-03-05(Mon)

 今日は、亀有にあるシネコンで「リバーズ・エッジ」を観ることにした。亀有というスポットが通勤経路にあることはまるで意識していなかったけれども、そのシネコンはずいぶんと大きそうだし、つまりそのシネコンがあるショッピング・モールというものが、かなり大規模なものみたいだ。とにかくはいちど行ってみよう。仕事から帰宅したあと、映画の上映時間に合わせて、夕方からまた電車に乗って「亀有」へ。

 あいにくとこの日は「雨」。それほどの雨量でもないのだけれども、風も強くて「嵐」みたいな雰囲気。でも、駅のすぐそばにスーパーの「I」とか「かめありリリオホール」とかの入っているビルがあり、そこから歩いて二、三分のところに、そのショッピングモールがあるみたいだ。駅前には「こち亀」の銅像(?)があって、「いらっしゃ〜い!」と、わたしを出迎えてくれるのだけれども、むむ、こういう原色塗りたくりの像というのは<銅像>といえるのか。おそらくこういうのは、TDLとかUSJとかの延長的な<スタチュー>であって、こういうモノに古い価値感で<銅像>などと呼んではいけないのだろう。

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 それでそのショッピング・モールへ行くとさすがに大きくて、もしもこの世界にゾンビが蔓延して残る人類をおびやかすならば、こういうショッピング・モールに避難すれば当面はだいじょ〜ぶ、という空気感にあふれていて頼もしい。あとは「バイク族」さえ来なければいいのだが、ということになる。
 そのショッピング・モールの3階にシネコンがあるのだけれども、10スクリーンもあるわけだし、都内で上映されているメジャー作品はたいていココでも上映されている。これからは無理して都心の映画館で映画を観なくても、メジャーな作品ならば、この亀有のシネコンで観ることにすればいいではないか、ということになる。これからはそうしよう。

 ‥‥というわけで、「リバーズ・エッジ」。前に新宿で観ようとしたときにはチケットがソールドアウトで観られなかったのだけれども、ここ亀有では無問題。この差異は何だろう?とも思うのだけれども、とりあえずは無事に鑑賞出来たのであった。

 さて、終映時で八時半ぐらい。このショッピング・モールにはやはりスーパーの「I」が入っていて、そちらに足を運んで今夜の食事も買って帰ろうと。こういうことが出来るのも、「近場」だからこそのこと。売り場を見て歩くと、時間も時間だからいろんなものがかなり値引きされている。‥‥おお、ニェネントくんの好きな(と、わたしが勝手に決めている)カツオのたたきのブロックが、半額になっている。このところニェネントくんはまた「かわいいね〜」という感じでもあるし、今日も「留守番」をやってもらっているし、久々にニェネントくん用に「カツオのたたき」を買ってあげることにした。そしてわたし用には海鮮丼。

 帰宅して、ニェネントにはカツオのたたき、わたしには海鮮丼で遅い食事にする。海鮮丼は、先日飯田橋で食べた海鮮丼よりもおいしかった。ニェネントもいっぱい<魚>を食べて、わたしと共に満足そうではあった。


 

[]「リバーズ・エッジ」岡崎京子:原作 行定勲:監督 「リバーズ・エッジ」岡崎京子:原作 行定勲:監督を含むブックマーク

 岡崎京子の原作は読んでいるはずだけれども、例によってまるで記憶にない。「あれ? 主人公はワニを飼っていたんじゃなかったかな?」と思ったりして、いえいえ、それは「pink」のことですね。

 ‥‥この舞台は川崎?というところの高校の、その生徒たちの群像劇。鬱屈する「終わりなき日常」という日々、そしてそんな「終わりなき日常」に亀裂を入れる川縁の<死体>。ヒリヒリするような<おぞましい日常>。その中で、自分たちは<何>を信じて生きて行くのか。<わたし>と<あなた>とは何を共有できて、何をできないのか。普遍的な問いかけを1990年代という時制の中で描いた作品。改めてこうやって観ると、「踊るミシン」と近接したところも感じられる気がした。

 行定勲監督の演出は、それなりに凡庸である。というか、「それはないでしょ」というようなカット割り、編集にうんざりさせられるところはある。主要登場人物へのインタヴューの挿入は、どことなくゴダールの「男性・女性」を思わせられるところもあり、おそらくはそういう意識はあるのだろう。

 じっさいのところ、この作品の映画化は主演の二階堂ふみの意向もかなり強かったようで、彼女がこの作品に賭けるところは彼女の演技からも伝わって来る。
 あとで、この映画に対しての観客レビューを読んでもみたのだけれども、若い世代の人たちにはメッセージも伝わっているみたいだ。歳をとると否定的になる。若い人たちが「いい」と思えたことは、それは<救い>ではないかとは思う。


 

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■ 2018-03-04(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 日曜日。今日も昨日とまるで同じだった。はたしてこれが<風邪>の症状なのか、はたまたついに<花粉症>がわたしを征服したという結果なのか、それとも内科医に処方された「眠気を催す恐れがある」という<風邪薬>の副作用がいまだにつづいているということなのか、まるでわからないから困る。

 昨日たっぷり寝ているから、朝の六時前には目覚めたのだけれども、それで朝食を取るともうだるくなってまたベッドにもぐり込み、また眠ってしまう。そしてまた二時間ぐらいで目覚める。つまり、二時間寝て二時間起きてという繰り返しで一日が過ぎてしまう。どうやら今日は異様に暖かいらしく、関東南部の気温は二十二度ぐらいにまで上がっているらしい。こんな日に外に出かけたらまた調子が狂ってしまいそうだと、一歩も外に出ない。ただ、ベッドのある和室と、リヴィングとを往復するだけである。そして、そんなわたしの室内移動に合わせてニェネントも、和室からリヴィングへ、リヴィングから和室へと移動を繰り返す。なんだかいじらしくもかわいらしい。

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 そんな、「寝たり起きたり」の中で、一、二度夢をみた。覚えている夢は現実の延長のような夢で、ベッドから起き出したわたしはリヴィングへと行くのだけれども、そのリヴィングの窓が下から半分外されかかっていて、そこからネコとイヌとが室内を覗き込んでいる。ネコは黒白のトラネコで、イヌは「ハッシュパピー」のイヌだから、バセットハウンドというヤツだろうか、耳の垂れているコである。「入ってきちゃダメだよ〜」と窓を直そうとしたら、ネコのそばにはまだ生後半年ぐらいの真っ黒な子ネコがいて、何かを抱え込んで横たわり、「クッ、クッ」と、その抱えたものに足キックしている。「かわいいな」と思うけれども、もうニェネントの他にネコを飼うわけにもいかないので、「どうしようか」と思っている。そういう夢だった。

 読んでいる金井美恵子のエッセイ・コレクション、「猫、そのほかの動物」の前半、「遊興一匹 迷い猫あずかってます」の部分は読み終えた。残りには短い単発エッセイとかも含まれているので、感想は全部読み終えてからの方が良さそう。ただ、ここまでで思ったのは、金井家ではその「トラー」を、自由に外に出て行ける「半外飼い」にしているんだけれども、トラーは1989年の末に金井家にやってきたらしいわけで、その頃はそういう飼い方というのもごく普通だったわけだな、とは思う。もちろん今はもう、猫は「部屋飼い」こそが基本で、外に出したら近隣に迷惑はかけるし、事故に遭ったり病気に感染したりと、ロクなことはないというのが常識になっている。ニェネントなんかそんな飼い方していたら今ごろは生きていないような気もするのだけれども、トラーは17歳とか18歳まで生きて大往生を遂げたのだった。
 トラーはよく外で他のネコとケンカして、傷を負って帰って来ることが多かったらしい。そんなの、わたしなんかとっても耐えられないというか、それで傷口から悪い病気に感染したりしたらどうすんのよ、などと思ってしまうのだけれども、いやそれで思い出すのは、ニェネントだってごく幼い頃一度だけ(1歳か2歳ぐらいの頃?)、前の住居のベランダの外で、他所のネコと大げんかをやらかしたことがある。ニェネントの方が相手にどれだけ傷を負わせたかはわからないけれども、ニェネントの方はといえば、頬に大きな爪傷が一ヶ所、それと、腰のあたりにもやはり爪傷がひとつつけられてしまっていた。思い返せばあれがニェネントが今までで負ったいちばん大きなケガであって、ま、それ以外は毛が丸く抜けてしまう皮膚病ぐらいしか患ったことがないわけだけれども、あのケガのときには「やっぱりニェネントは弱っちいのか」と思ったもので、金井姉妹が「トラーは強いのだ」と思い込んでいるのはすごいなー、と思ってしまうのだ。
 それでも最近、たとえ一度だけでも、ああやって外で他所のネコと決闘をしでかしたことがあるというのは、ニェネントの成長にとっては「良かったこと」なのかもしれないな、などとも思うことがある。「外の世界」のことも多少は知ってるぜ、ということだろうか。先月だったか、どこかの野良がウチの前で窓越しにニェネントとにらみ合いしていて、わたしはそのとき間違えて窓を開けてしまったのだけれども、そのときニェネントは猛烈な勢いで外に飛び出して行って、その野良を追い払ってしまったのを目撃した。「おお、ニェネントくん、けっこう<勇敢>だねぇ!」などと、ちょっと感心してしまったことがあったのだ。

 さて、そのニェネント似の二階堂ふみが出ていて、先日観ようと思ってチケット完売で観られなかった「リバーズ・エッジ」だけれども、調べたらこの常磐線の亀有にあるけっこう大きそうなシネコンで、一日に一回上映しているようで、明日は夕方の六時ぐらいからの上映らしいので、観に行ってみようかと思っている。このところちょっと観てみたい映画が多くて、キャスリン・ビグロー監督の「デトロイト」も隣の柏駅の映画館での上映が始まってるし、「パンズ・ラビリンス」的な世界がまた!という、ギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」も観たい。しばらくは舞台を観る予定もないので、映画をいっぱい観たい。それには、この体調をなんとかしなければ!


 

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■ 2018-03-03(Sat)

 土曜日。昨日たっぷり眠ったので、今日は爽快な日になるかと思ったのだけれども、これが大きなまちがいだった。やはり<風邪>だか<花粉症>だかで全身がだるく頭が重く、量は減ったとはいえ、鼻水も流れつづける。そして今日もまだ、眠くて眠くてしょうがないのだ。

 ‥‥なんということだろう! けっきょくこの日も、昨日とまるで同じように、眠ってばかりの一日になってしまった。もう今日はテレビを見るために起き出したりはしない。起きるのは食事のためだけ。その食事もトーストとかインスタント食品とかばかりですませた。ほとんど、死んでいるような一日だった!(ただ、ナボコフは読み進め、オコナーの短篇ひとつだけ読み終えた。あと、「昭和史」も休み休みぼちぼちと。)


 

[]「黒んぼの人形(The Artificial Nigger)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より) 「黒んぼの人形(The Artificial Nigger)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)を含むブックマーク

 南部の、鉄道の駅もないような田舎町から、ヘッド老人は孫の、十歳になるネルソン少年を連れて、特別に鉄道を止めてもらい、南部の大きな町へと日帰りの旅に出かけるのである。ネルソン少年はいちおう生まれたのはその都会で、「僕がその町へ行くのは二回目になるのだ」とこだわる。ヘッド老人がネルソンを町に連れて行くのは、ひとつにはもう住んでいる辺りで見かけなくなった「黒んぼ」を少年に見せてやろうという目的があるようだ。「黒んぼ」=「Nigger」という呼び方である。ヘッド老人にとってもその町を訪れるのは十五年ぶりのことであり、まずは汽車の中に昼ご飯を置き忘れてしまう。そして、駅が見えなくなると駅への道がわからなくなるのだ。けっきょく二人は道に迷うのだが、先に道を走って行ったネルソンは老婦人に衝突して彼女の持っていた荷物が道に散乱し、道に転倒した老婦人はネルソンをののしり、近づいたヘッド老人に「あんたの子だろう? 責任を取ってくれ」とせまる。そのとき、ヘッド老人は「これはわたしの子ではない、わたしはこの子を今までに見たことがない」と否認するのである。まわりに集まっていた人々は、その老人の「否認」を聞いて、激しい嫌悪から道をあける。
 道に迷ったことがわかったヘッド老人は、自分の罪を感じ、このままこの町から帰れずに夜になれば、強盗に会うだろうと予測する。老人は自分に「神の裁きが速やかにくだされること」を望み、自分のおかした罪の報いがネルソン少年に及ぶこと、自分の行為が少年を破滅に導いていると考えることに耐えられなかった。ヘッド老人は道端に水道栓を見つけ、朝から水すら飲んでいないことを思い出す。自分は水を飲むに値するものではないが、ネルソンものどが渇いているだろうと、まずは自分が水を飲み、ネルソンに「ここにきて、水を飲まないか!」と声をかける。しかし、ネルソンは水を飲もうとはせず、ヘッド老人は、それからの自分を待ち受ける暗澹とした老年期を思い絶望的な気分になる。
 道の向こうから来た男に出会ったヘッド老人は、「わたしは道に迷った!」と訴え、駅への道を聞くことが出来た。ヘッド老人とネルソンが距離を置きながら駅への道を歩くと、道端に石膏製の「黒んぼの人形」を見つける。大きさはネルソンぐらいで、低い煉瓦塀の上にすわっていた。ヘッド老人が黙ってその人形を見つめていると、ネルソンも近づいてくる。ヘッド老人は「黒んぼの人形だ!」とささやく。ネルソン少年も同じように、「黒んぼの人形だ!」と声に出す。その人形は、彼ら二人の「不和」を溶かし去ってくれた。ヘッド老人はそこに「神の恵み」を感じ取り、列車の中で、「神の恵み」とはどのようなものであるかを認識するのだった。

 まだまだこれだけの話でもないのだけれども、「聖書」の題材の活かされた、まさにフラナリー・オコナーらしい作品なのではないかとおもう。しかし、老人はなぜ少年に「黒んぼ」をみせようと思ったのだろう。そこにこそ、住んでいるところにはない、「大きな町」ならではの存在があると思ってのことなのだろうが、それが「アフリカ系」の人を知らない少年に「差別意識」を植え付けることにもなりそうだし、もちろん「差別」を乗り越えるために、知らしめるという目的も考えられるけれども、この作品が発表された1955年という時代を考えれば、この老人が「差別」を乗り越えようとしていたとはとても思えない。ところが、ある意味で少年を「差別」へとみちびく行動でもあり得たこのことは、書かれた事件によって「聖性」を与えられ、「差別意識」なども乗り越えるものへと浄化されるのであろう。

 アメリカ南部という風土の中で、その風土を生かして、ここまでに「キリスト教」という教義の持つ「豊かさ、奥深さ」を描いた作品というのも、すごいものだと思う。ちょっとノックアウトされた思いもする。


 

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■ 2018-03-02(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 昨日内科医に処方された<風邪薬>、「眠気を催すかもしれません」とはいわれていたのだが、これはほとんど<催眠薬>レベル。昨日の夜と今朝の仕事前と二回服用したのだけれども、異様に眠い。仕事をつづけるのが困難なほどに眠くなり、歩いていても眠さで前のめりに倒れ、そのまま昏々と眠りつづけてしまいそうに眠い。電車の中ではもちろん<爆睡>である。それで鼻水は多少治まったようではあるけれども、これが薬の効き目によって治まったのかどうか、まるでわからない。

 今日は金曜日で明日から仕事も休みなので、ほんとうは仕事を終えたあとに映画とか観に行こうかと思っていたのだけれども、この<眠気>では、映画館の座席に座ったら、そのとたんに眠りこけてしまうことだろう。いちど家に帰り、まずは昼寝をしてそれでたっぷり寝て、夜になって目覚めて「これでたっぷり寝た」というところで出かけてもいい。そう思って帰宅して昼寝する。いちおう二時間ほど眠って目覚めたのだけれども、まるですっきりとはしない。まずは<花粉症>なのか<風邪>なのか、やはり鼻水はつづいているし、とにかくは全身がだるい。とても「お出かけ」という気分ではないのだ。

 仕事の帰り、ウチの近くの、かつてニェッタがたむろしていた駐車場のところで、まだ会ったことのないだろうネコと出会った。春が近いせいか、またネコたちの姿をチラホラと見かけるようになった。近所を歩く楽しみがふえる。

     f:id:crosstalk:20180306161110j:image

 夕食も外に食べに行こうかと思ったけれども、買ってある「もやし」があることだし、ひき肉ともやしを炒め合わせたかんたんなおかずをつくってみた。‥‥そしたらサラダ油をちょっと多く使いすぎてしまって、サラダ油のスープの中にひき肉ともやしが泳いでいるようなモノが出来てしまった。むむ、これはこれでおいしかったのだけれども、「ちょっと味付けを」と思って、しょう油をたらしてみたら、これが辛くなりすぎて大失敗だった。まだまだ眠いし、早く寝よう!ということにした。


 

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■ 2018-03-01(Thu)

 夢。わたしは母と暮らしている。そこに米屋の配達が来るのだが、母は「これからは前金を払っておかないと配達してくれないのだ」といい、その前金の用意をする。米屋は肩に30キロの米袋をかついでいる。その足元の引き戸の内側にニェネントともう一匹、黒のトラネコ(これは金井美恵子の本を読んでいるせいで、「トラー」なのではないかと思う)とがいて、米屋が引き戸を開ければ外に飛び出そうとしているみたいだ。でも、部屋の中にネコごはんを盛ってやると、二匹のネコはそちらに飛びついていく。それを見た米屋さんが、「やあ、ニェネントも新しいごはんの食べ方をマスターしたみたいですね!」とかいう。わたしは米屋さんにまず九万円払い、母が残りの小銭を用意してくれるのを待っている。

 ‥‥しかしやはり、昨日300円のギュスターヴ・モロー展の図録を買っておかなかったことはまさに<後悔>で、昨夜はおかげで悶々として寝付きが悪かった。こういう「思い切りの悪さ」というのはやはり、わたしの課題なのかな、とは思うのだが。

 実は昨日からちょっとのどが痛かったのだけれども、今日はそれにプラスして鼻水が、壊れた水道の蛇口のように流れ出る。最近はこういう現象がよく起きて、二、三日もしたらケロッとしてしまうのだけれども、この日は気温も上がり、東京でも二十度を超えたらしい。「花粉症」ということばも聞くようになり、とにかくはこのハナミズは尋常ではない。「ひょっとしたら、わたしもついに<花粉症>になってしまったのか?」とも思うのだ。ちょうど今日は、内科クリニックから処方されている薬が切れてしまうので通院しようと思っていたので、ついでに聞いてみようということにした。

 それで内科医では<風邪薬>を五日分処方され、「コレを飲み終わってもまだハナミズが止まらなければ<花粉症>ということでしょうね」といわれる。クリニックの帰りに、この日は木曜なので奥のスーパー「S」は全品一割引きなので、テクテクと行ってみた。そう、この頃ニェネントくんに「おみやげ」を買ってあげてないし、昨日の早朝のニェネントくんはとってもかわいかったこともあるし、久々に<かつおのたたき>を買ってあげるのだった。ついでにわたしも、ちょっと値引きされていた<にぎり寿司>で夕食にすることにして、今夜は「お手軽」タイム。帰宅して、ニェネントくんに<かつおのたたき>をわざと「ドロボーネコ」させる。うん、こうやって、瞬時にかつおをくわえ取り、「ヒュン」と逃げて行くさまは、見ていても爽快である。

 ところで、金井家の姉妹はネコに関してはいろいろと「それはないだろ〜」ということをやっているのだけれども、その最たるものはそのトラーに与える食事。彼女たちは愛猫にエビを与え、そしてホタテなどまでも与えるのだ。「え〜っ! ネコにエビ???」と思うのだけれども、どうも金井家姉妹にとって、一般的な「ネコにはこういうものを食べさせましょう」という指針は、ペットフードの会社と猫医師との癒着による陰謀なのだ、と解釈されているようだ。ま、金井家のトラーはいろいろとグルメなネコであったことはたしかなようで、たいていのネコ缶は「ネコまたぎ」、冷凍のかつおとか鯛とかにも見向きもしなかったようだから、「そりゃー大変だね」とは思うのだけれども、そんなことも金井美恵子が書くと「だからわたしゃネコには贅沢させるのさ、フン!」みたいな文体になってしまう。
 ま、ウチのニェネントも、「出されたものは何でも食べる」というわけでもなかったわけで、ある種の<安物>のネコ缶などはまるで見向きもしなかったし、魚なら何でも食べるというわけでもない。しかしそこで、例えば人間が食べるために「エビ」を買ってきて、ネコが欲しそうにするからそのエビをあげてしまい、あげくは「ネコが食べるために」エビを買うようになる、というのはやはり、ぜったいにちがうと思うな〜。


 

[]「火のなかの輪(A Circle in the Fire)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より) 「火のなかの輪(A Circle in the Fire)」フラナリー・オコナー:著 須山静夫:訳(「オコナー短編集」より)を含むブックマーク

 おっと! フラナリー・オコナー、なかなかにやっかいな作家だぜ!と思わせられる作品。コープ夫人という女牧場主、その使用人のプリチャードさん、その二人を部屋からのぞいているコープ夫人の娘という三人の女性のところに、三人のローティーンの男の子がやってくる。そのうちのパウエルという子の父親が、以前にこの牧場で働いていたのだという。この状況をいちばんよく見渡しているのはプリチャードさんで、コープ夫人に「あの三人はしばらくここに滞在するつもりですよ!」とか告げるわけだ。彼らは牧場の森やそこの馬が気に入ったのか、森の小屋で寝起きする。いろいろな伏線があって、かんたんにストーリーを要約することを拒絶するような短篇ではある。

 ひとつにはそのコープ夫人の「森」が誰のものであるかというやりとりがあるわけで、そこから少年たちはそれは「おれたちのもの」、「神のもの」だといい、パウエルはここに大駐車場をつくるという。そして、持っていたマッチで森に火をつけるのであった。

(‥‥)耳をすますと、遠くのほうに、二、三度、荒々しい高らかな歓喜の叫びが聞えた。それはあたかも預言者たちが燃えさかる炉のなかで踊っているようだった。天使が切りひらいてくれた輪のなかで預言者たちが踊っているかのようだった。

 そういう、ローティーンの男の子らの持つ「暴力性」と「聖性」とでもいうのか、その雰囲気がラストの炎のなかにみごとにあらわされている作品で、「ああ、こういう感覚はつい忘れてしまうたぐいの感覚だな!」とも思うし、そこにやはりオコナーなりの宗教感がうまく活かされているように思えた、などと書いてしまうと「ソレ風」にやりすごしてしまえそうだけれども、この作品のパワーはそういうことではすまされない、相当なものではあった。フラナリー・オコナー、すごい作家である。


 

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