ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-05-10(Thu)

[]「文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校」高田里惠子:著 「文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校」高田里惠子:著を含むブックマーク

 十二年前に読んだ本の再読。その十二年前にこの日記に書いた感想は今回読んでもそれほど変わったわけでもなく、「むしろ」というか「やはり」というか、十二年前の方がわたしもしっかりと読んで、しっかりと感想を書いていたのではないのかなどと思ってしまい、「凡庸」どころか「愚鈍」なわたしはさらに落ち込むのである。

 ただ、今回読んで「そうだったのか」と思ったのは、最終章の中野孝次に関してのことだけれども、当時戦後間もない時期、ドイツ文学といえばトーマス・マン、ヘッセ、リルケ、カロッサの四大家の翻訳、研究に集中していたところを、中野(と、萩原芳昭という人物)は、「四大家とは違う文学」を探し、そこでフランツ・カフカを見つけるのであったと。中野と萩原は共にそのカフカの「城」を翻訳し、出版してくれるところを探すのである。ここにやはりドイツ文学者の筧明という人物があって彼らの相談に乗り、高橋義孝に相談すれば新潮社から出せるのではないか、ということになり、この筧明という人物がなぜか「城」の翻訳チームに加わる(どうも、この「筧明」とされている人物は、辻瑆という人物のようである)。そして高橋義孝に話を持って行くと、これがつまりはわたしも持っているところの、さいしょの「カフカ全集」ということになるのである。とにかくは「城」の出版を目指していた中野は、思いがけずに話が大きくなってしまい、高橋義孝にいいところを持って行かれてしまった気分になったようだ。いやとにかくは、この中野孝次という人物は「ひがみ根性〜怨念」の名人というところもあるのだけれども、しかもしかも、その全集刊行前に、共同翻訳者の萩原芳昭という人物は失踪してしまう。まさに「カフカ的」展開なのだけれども、そのあとに中野孝次の残した文章から(彼は萩原のことを「地上に誤って生れてきてしまった天使かなんぞのようにいまは思われるのだった」と書いている)、著者は中野の同性愛的感情を読み取り、そこから中野の「無償の行為」を思い、「怨念」にこころをめぐらすのである。ふうん、そんな事情(こと)があったのか。わたしはまだその全集版の「城」は読んでいないが、読むときにはそんな事情が気になってしまうことだろう。

 しかし、一般によく、「読書は人を豊かにする」などといわれるのだけれども、こうやってこの本を読むと、それが文学研究者であっても、これはとても「豊かな人」ではないではないか、という感想になるわけで、いくら本を読んでも「精神的にも卓越した人物」になれるわけでもない(あたりまえのことではある)。あの連続強姦殺人の大久保清も、埴谷雄高を読み、リルケの詩を暗唱するような男ではあった。では、「本を読む」とはどういうことなのか。映画を観、舞台を観、音楽を聴き、美術館やギャラリーへ行くということはどういうことなのか、それは、わたしの書いているこの日記が、つねに問われていることではあると思っている。


 

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