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■ 2018-05-27(Sun)

[]「ウィステリアと三人の女たち」川上未映子:著 「ウィステリアと三人の女たち」川上未映子:著を含むブックマーク

 

ウィステリアと三人の女たち

ウィステリアと三人の女たち

(↑上記のブログはまったく<無内容>なので、クリックしてもしょうがないですよ!)

 川上未映子の作品は過去にいくつか読んでいるはずだけれども、今はどれひとつ思い出すことはできない。この小品集のさいごの表題作は多少長いのだが、四編の短編集といっていいのだろう。すべての作品の主人公は女性というか、基本、どの作品にも女性しか登場しない。四編に共通するのは「孤独」の感情であり、それは「死」に近接してもいるのだと思う。

●「彼女と彼女の記憶について」
 主人公はテレビにも出演する女優で、「単なる好奇心」と時間が空いていたせいで、田舎の中学校の同窓会に出席する。彼女の視線は同級生への優越感、「上から目線」に満ちているわけだけれども、そこで近年死んでしまった同級生についての話を聞き、その同級生との小学校時代の、同性愛めいた関係の記憶がよみがえる。酔いつぶれて帰れなくなってしまった同級生とホテルに泊まり、彼女から、その同級生の死自体が、同年輩の女性と部屋にこもっての「餓死」と聞き、心の平安を失う。
 「わたし」という一人称で語られる主人公の心の動き、その描写が印象的なのだけれども、この短編集のうちの三編までが、そんな「わたし」の一人称で語られていく。<ネタバレ>になってしまうのかもしれないが、この短篇の末尾の部分。

(‥‥)そしてわたしはいったい今、どこにいるんだろう? 届けられた箱を両手でしっかりとつかみ、そこから何が失われ、何が残されているのかを見なければならないのに、どれだけ見つめても、何も現われてはこないのだった。それでも目をつむってしまえば何か本当にとりかえしのつかないことが起きてしまうような気がして、わたしは目を見ひらいたままその暗闇のなかで息をひそめているしかなかった。

 ここでいう「届けられた箱」というのは、この作品の冒頭、「記憶に、もしもかたちというものがあったとしたら、箱、っていうのはひとつ、あるかもしれないなとは思う」というのに対応していて、この感覚はわたしもまた理解しやすいものではあった。
 この作品にある「過去の記憶」、「死」というのは四編すべてに出てくるものでもあり、「暗闇のなかでひとり」ということもまた、この作品集を特徴づけるものではなかったかと思う。
 先に書いたように「わたし」の心の動き、タカビーな視点がいつかくずれ、自分の深淵をのぞきこむラストへの心理の変化を読むことに惹かれた。

●「シャンデリア」
 一日をデパートの店内ですごすという、ある意味「からっぽ」の女性の一日の行動。彼女の母はわずかな金がないために死んだが、主人公は宝くじが当たるような僥倖で、「金」ならいっぱい持っている。さいごの言動はそんな死を迎えた母のことがあるだろうし、今の自分への悔恨もあるのだろうか。ま、他の三編とは趣のちょっとちがう、読みやすいサービス作品かと。

●「マリーの愛の証明」
 これは、蓮實重彦氏が絶賛した作品。それを読んでわたしもこの本を買ったところがあるのだけれども、たしかに、こういう「小説」を書ける作家というのはいない。ただ「エッセンス」だけで成り立っているような作品で、こういう「切り詰め方」をできるというのは、やはりすっごい才能なのだと思う。
 女子寮のマリーとカレンというふたりはかつて愛し合っていて、今はふたりの合意のもとに「別れて」いる。そのふたりが寮のピクニックで、湖のほとりでまたふたりきりで話し合う。ここに、ちょくせつにはふたりには絡まない、看護係のアンナという女性の話がはさまれる。この作品だけは「一人称」ではなく、三人称客観描写で書かれている。たしかに「強烈」な作品で、短い作品でもあることだし、また繰り返し読んでみたいと思う作品だった。

●「ウィステリアと三人の女たち」
 これまた、すっごい作品だと思う。語り手の「わたし」というのはあるのだけれども、その「わたし」はいつしか消滅し、これは小説として過去の「事実」を書いているのか、それともやはり「わたし」の想像したものなのか、わからないままに進行する。
 「わたし」は、計算すると三十八歳。三歳年上の営業職の夫がいて、結婚して三年目の六年前に今の家を買っている。「そろそろ子どもを」と思ったのだがわたしは妊娠せず、それは夫婦で不妊治療すべきだと思うのだが、そういうことに夫は拒絶反応を示す。「わたし」の家のそばには大きな古い家があったのだが、その家の取り壊しが始まっている。その家には老女がひとり住んでいたはずだが、彼女はどうしたのだろうか。近所付き合いもないからわからないが、思い出せば、その家の門には「英語塾」という看板が出ていたはずだ。
 なぜか隣家の解体工事は中断され、そんな隣家のそばにいた「わたし」は、常習的に「空き家のなかに入り込む」ということをやっているという「腕の長い」女性と出会う。そんな彼女の影響から、夫が出張して不在のある夜、「わたし」はそんな隣家のなかに入っていくのだった。
 作品はそこから隣家の老女の物語に移行する(これはやはり、それまでの「わたし」の想像したこととは思えない)。彼女はある英国人女性を講師に雇い、自分とふたりで「英語塾」をやる。ここでも、同性愛的な関係(片思いではあった)が語られ(この作品のなかで、その英語教師の語ることばは「男言葉」としてあらわされている)、他の作品と通底するわけだけれども、ここで彼女の愛した作家として、ヴァージニア・ウルフのことが語られる。
 そしてわたしも、ここではたとひざを打つわけで、わたしはいろんな本を読んだ記憶というものは消えてしまっているけれども、ヴァージニア・ウルフは過去に読んだことがあるし、そんなヴァージニア・ウルフの作品と、この作品には通じ合うところがあるだろう、というか、この作品自体がヴァージニア・ウルフへのパスティーシュなのではないかとも思う。うん、もういちど、ヴァージニア・ウルフの作品を読んでみたくなってしまった。

 さいしょの「彼女と彼女の記憶について」では、その最近になって「餓死」したという同級生がいっしょに死んだという女性のことは、語り手の「わたし」は知ることはできない(それは読み手の側にも同じであるが)。「マリーの愛の証明」では、マリーとカレンのストーリーと、看護のアンナのストーリーとは、決して交わることがない。そして「ウィステリアと三人の女たち」の、「三人の女たち」とはつまり、語り手の「わたし」、それと「空き家に入り込む」という腕の長い女性、それとウィステリアと呼ばれた老女が過去に愛した、英国に帰って行った英語教師との三人のことだろうか。ここでも、「腕の長い女」とはなにものなのか、わからない(彼女の語る「壊される音」というのは、心に残るが)。そして、先の「マリーの愛の証明」でのマリーとカレンとの関係に似たものとして、ウィステリアと英語教師との濃厚な関係はあるのだけれども、このストーリーと語り手の「わたし」のストーリーとの「交差」はない、もしくはイマジナリーなものに思える。そのイマジナリーなものが、小説的な技巧を越えて「わたし」を浸食するからこそ、ラストの「わたし」の夫への言動につながるとしか思えないのだが、そういう、イマジナリーなものが現実を浸食するという、どこまでも「小説的」な展開が、どこまでもすばらしい。そう感じた。


 

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