ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-08-31(Fri)

 八王子へ行く。八王子市夢美術館というところへ、エドワード・ゴーリーの展覧会「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」を観に行くのが目的だが、もう八王子へ行くとなると、ちょっとした「旅行」という感覚だ(ま、片道2時間ほどなのだけれども)。もちろん八王子へ行くのはこれが初めてではないとは思うが、行った記憶は何も残っていないから、初めて行くのとおんなじだ。

 今日は仕事は有給休暇を取っていて、朝はちょっと朝寝。それでも5時半ぐらいには起きてしまい、普段見られない平日の朝のテレビなど見るが、たいしておもしろいわけでもない。
 外は晴天で、今日も暑くなりそう。ひょっとしたら、八王子はこのあたりよりずっと暑そうだ。10時ぐらいに家を出て、新御茶ノ水でJRの中央線に乗り換える。たいていの中央線の快速電車というのは「豊田」というところが終点なので、その豊田の手前に八王子もあるのだろうと思っていたのだけれども、八王子は豊田の次の駅で、「豊田行き」に乗っていても、八王子に連れて行ってはくれないのだった。知らなかった。
 車窓から見える八王子あたりの風景は、ウチのあたりで見られる風景とあまり違いはない。12時半ぐらいに八王子駅到着。駅を出ると、そこはいかにも中央線沿線という感じの街のたたずまいだった。

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 まずは昼食。駅前にはいろんなファストフードの店が並んでいるけれども、せっかくだから地域色のあるような店に行ってみたい(ただし、わたしの財布に適うようなところ)。歩いてもそういう店がなかなか見つからず、目的地の美術館も通りすぎてしまった。
 美術館を過ぎてちょっとのところで、ようやく「ここは」というスパゲッティの専門店みたいなのを見つけ、ドアを開ける。キッチンのまわりをカウンター席がぐるりと囲んだだけの小さな店で、客は誰もいなくて店主らしいおじさんがひとり、カウンター席でテレビを見ていた。いい。こういう店は大好きである。ランチメニューはナポリタンかきのこのスパゲッティー。コーヒーとかのドリンク付き。「きのこ」の方を注文した。‥‥出来てきたきのこのスパゲッティーはすっごい家庭的な味わいで、きのこがいっぱい入っていておいしい。いい店を選んだな。店主のおじさんが「今日も暑くなりそうですね」といい、わたしは「いつまでも暑さがつづいてイヤですね」とか答える。食べ終えて出ようとするとき、「暑いですから水をいっぱい飲んで行って下さい」といわれた。そういう心遣いがうれしい。次に八王子に来ることがあったら、またこの店に寄ろうと決めた。

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 さて、満腹になって満足して、美術館へ行く。単独の建物ではなく、ビジネスビルだかマンションだかの2階部分だけが美術館になっている。

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 この展覧会は今週でおしまいだし、まだ夏休みはつづいているので、それなりにお客さんの数は多い。というか作品が小さいので、誰かがその作品を観ていると、次の人は待っていなくてはならない。思っていたよりもそんな原画が多く展示されていて、じっくり観てまわると2時間以上かかってしまった。充実の時間だ。図録も安いわりに内容も充実して豪華で(ゴーリーの作品は基本モノクロだから、カラー印刷の必要がないからこの価格なのだろう)、迷わずに購入した。

 美術館の中に別に区切られた、「美術館所蔵作品展示室」とかに、清原啓子という銅版画家の作品が何点か展示されていた。1987年に31歳で夭折。生涯に遺した版画作品は30点あまりだという。そのミクロコスモス〜マクロコスモスな世界観はかなり強烈で、未整理なところもあるとはいえ、蠱惑的だった。この版画は記憶しておこう。

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 帰りは新宿とかで途中下車して、長らくご無沙汰している代田橋の「納戸」へ行ってみようかとも思ったのだけれども、それは次の機会にすることにして、まっすぐに帰路に着いた。そのうち、何かのついでに行くのではなく、「今日は行くぞ」とちゃんと決めて行くことにしよう。

 6時頃、自宅駅に帰還。まだまだ外は明るいけれども空は曇っていて、地面は雨が降ったあとのようにまだらに黒くなっている。そうか、雨だったのか。また雷とか鳴っていたらお留守番のニェネントはパニックだったな、とか思ってウチに帰る。夕飯は途中のコンビニでお弁当を買って帰った。

 「ニェネントくんただいま〜、お留守番ありがとう〜」と、遅いニェネントの夕食を出してあげ、わたしも(たいしておいしくもない)弁当を食べる。そんなことをしていると外で雷の音が聞こえはじめ、「あららら」と思っているうちにどんどんと雷鳴は近くなってきて、またもや我が家は雷のサラウンド状態になってしまった。もちろんニェネントくんはパニック。右往左往しておる。落ち着かせてあげようと、「抱いていればいいだろうか」と抱いていたのだけれども、雷鳴が響くと、わたしの腕の中で必死でもがく。地震のときだったら「だいじょうぶだよ〜」とあやしてやれば平気なのだけれども、雷の音はダメみたいだ。わたしの座っている机の下におろしてあげると、そこでず〜っとじっとしていた。よっぽどこわかったのか。もう雷も鳴り止んで、すっかり静かになったあとも、いつまでも机の下から出て来ようとしないのだった。


 

[]「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」@八王子・八王子市夢美術館 「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」@八王子・八王子市夢美術館を含むブックマーク

 ほぼすべての作品が、はがきの大きさにおさまるだろう小品。彼の絵本の絵のサイズは、イコール原稿サイズだったわけか。それは作者が、印刷物において自分のペンのタッチを正確に再現するための要求だったのだろう。

 シュルレアルで不条理で、どこか不気味なエドワード・ゴーリーの作品は、あのエドマンド・ウィルソンもファンだったという。そう、彼の作品はその絵単独で心を惹くばかりでなく、そのトータルな一冊の本として、「文学」の世界に近接する。これはコレクションしたくなるわな。

 わたしはやはりそのペンの繊細なタッチ、ほぼ絶対にベタ塗りをせず、線の密度、その線の方向で空間を表現して行く技法に夢中になってしまった。

 ゴーリーは愛猫家で、生涯独身だったけれども、その生涯のほとんどをネコといっしょに暮らしたという。でも、彼の描くネコはなぜか彼の描く他のキャラクターと異なっていて、「不気味さ」というものがないな。それだけネコを愛していたのだろう、ということで。

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[]二〇一八年八月のおさらい 二〇一八年八月のおさらいを含むブックマーク

ダンス・演劇:
●ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』黒田育世」黒田育世:振付/出演 @日暮里・d-倉庫
●イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター

美術:
●「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」@八王子・八王子市夢美術館

映画:
●「この世界の片隅に」こうの史代:原作 片渕須直:監督
●「菊とギロチン」瀬々敬久:監督

読書:
●「燈台へ」ヴァージニア・ウルフ:著 中村佐喜子:訳
●「続いている公園」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「パリにいる若い女性に宛てた手紙」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「夜、あおむけにされて」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「占領された屋敷」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「悪魔の涎」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「追い求める男」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「正午の島」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「南部高速道路」・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「ジョン・ハウエルへの指示」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「すべての火は火」フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集」より)
●「こちらあみ子」今村夏子:著(「こちらあみ子」より)
●「ピクニック」今村夏子:著(「こちらあみ子」より)
●「星の子」今村夏子:著
●「鳥と進化/声を聴く」柴崎友香:作(福永信:編「小説の家」より)
●「女優の魂」岡田利規:作(福永信:編「小説の家」より)
●「あたしはヤクザになりたい」山崎ナオコーラ:作(福永信:編「小説の家」より)
●「言葉がチャーチル」青木淳吾:作(福永信:編「小説の家」より)
●「案内状」耕治人:作(福永信:編「小説の家」より)
●「Thieves in The Temple」阿部和重:作(福永信:編「小説の家」より)
●「ろば奴」いしいしんじ:作(福永信:編「小説の家」より)
●「森の精」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「言葉」ウラジーミル・ナボコフ:作 秋草俊一郎:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「ロシア語、話します」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「響き」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「神々」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「翼の一撃」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「復讐」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「恩恵」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「港」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「偶然」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳(「ナボコフ全短篇」より)

DVD/ヴィデオ:
●「めぐりあう時間たち」(2002) マイケル・カニンガム:原作 スティーブン・ダルドリー:監督
●「雪夫人絵図」(1950) 舟橋聖一:原作 溝口健二:監督
●「赤線地帯」(1956) 溝口健二:監督


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■ 2018-08-30(Thu)

 明日はこの仕事に就いて初めて、有給休暇を取る。別に何かやりたいことがあって休むのではないが、ほんとうは水戸芸術館で内藤礼の展覧会を観ようかと思ってのことだった。それが9月下旬に順延したので、明日は八王子にエドワード・ゴーリーの展覧会を観に行きますか、ということにした。とにかく有給は積極的に活用したいわけだが、9月はそもそも祭日が多いのでそれに頼り、10月に2〜3日つづけた休みを取ろうかと思う。

 それで今日は、仕事のあとに新宿に出て、上映が明日までの「菊とギロチン」を観ることにしてある。仕事を終えて飯田橋からJRで新宿に出るが、電車内ですわっているとこっくりこっくりと眠くなってしまうのだった。はたして3時間の長尺映画、ちゃんと観ることができるだろうか?

 とにかくは新宿に着き、まずは映画館へ行って座席位置を決めてチケットをゲットする。座席はそれほど埋まっておらず、自分の好みの席を指定することができた。しかし、わたしは映画の開映は12時50分ぐらいからと勝手に思い込んでいたのだが、実は12時20分からということがわかった。あと30分強のあいだに、昼食を済まさなければならない。

 実はわたしはこの日は久しぶりに、駅のそばの「扇寿司」で海鮮丼とか食べたいと思ってた。ま、あの店は注文して出てくるのも早いから、映画館からの歩く時間を考えても、30分あれば十分だろう。

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 鉄火丼、海鮮丼680円。これは平日のお値段で、土日になると780円になってしまう。店に入ると、威勢のいいおやっさんが迎えてくれる。海鮮丼を注文すると、1分も待たないで出されて来る。おやっさんは店の人と、「あの◯◯のおじいさん、最近来ないね〜」とか話している。「もう半年は来てないね。死んじゃったかな? 今年になって来たことあったっけ?」とかいうと、店の人が「今年は来てないっすね」とか答え、「そりゃ〜もう、死んじゃったんだな」とかいうことになった。何だか江戸時代の町内のうわさ話の延長にあるみたいな話で、ちびっとタイムスリップ感覚を味わう。牛丼屋ではこうはいかない。海鮮丼も、酢飯がおいしいし、みそ汁も小皿料理もお茶もついている。

 店を出て映画館へ戻り、座席に着く。冷房がガンガンに効いていて、これでは寒いのではないかと思っているうちに映画が始まる。それで、やはり序盤戦で少し寝てしまった。それでも「だいたいこんな映画だった」ということはいえる。感想は下に。

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 映画が終わってまだ3時半。それでも、まっすぐ帰っても家に着くのは5時ぐらいになってしまうだろう。ニェネントのご飯も出してあげなくてはならない。さっさと帰路に着くのだった。


 

[]「菊とギロチン」瀬々敬久:監督 「菊とギロチン」瀬々敬久:監督を含むブックマーク

 「女相撲」という興行形態は実在し、この映画によると昭和30年ぐらいまで活動していたらしい。映画を観るとそれら女力士らは元遊女、亭主のDVから逃げて来た女性など「ワケアリ」の女性らだったようで、興行主も彼女らを庇護するような姿勢がみられ、いっしゅ「駆け込み寺」に近い役割をも果たしていた気配がある。そして、「ギロチン社」とは大正末期に活動したアナキスト集団で、大杉栄の虐殺以後闘争を過激化させるというか、ニヒリスト的テロリズム遂行集団となるのだが、運動成果をほとんど残せないままに主要メンバーが逮捕されて消滅してしまう。

 この映画はそんな「女相撲」の女力士と、「ギロチン社」の首謀の中濱鐵、古田大次郎らとの<友情>を描いた作品というか、つまりは「青春映画」である。ただその主人公らが、軍国主義へとまい進する日本の進路に反抗するもの、はみ出したものらであるということで、「反体制・青春映画」といいたいところであるけれども、例えば大島渚の「日本の夜と霧」のようなアクチュアリティー、深刻さはみじんもない。観ていると、まるでどこかの放送局の朝ドラとか大河ドラマのダイジェスト版を観ているような気分で、ま、いろいろな挿話はつぎつぎに差し挟まれるわけだけれども、もっと当時は酷かったはずの男尊女卑も軽く描き、そもそもギロチン社の理念がまるで描かれていない。全体がただ気分的に「反抗した青春だったのよ」といっているだけ。

 瀬々敬久という監督はずいぶん前には惚れ込んだところもあったのだけれども、いつの頃だったか、「もうダメじゃん!」と思うようになってその新作は観なくなったのだけれども、やっぱり「ダメ」だったな。


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■ 2018-08-29(Wed)

 今朝起きるとニェネントが珍しくリヴィングに出てきてゴロッとしてるので、「いい子、いい子」とからだをなでてやった。それがうれしかったのか、そのあとわたしが仕事に出ようとすると、ニェネントが玄関ドアのところに先回りしてきて、久しぶりに「行かないでよ〜」のアピールをやられてしまった。やはり、スキンシップというのは大切なのだなと思った。

 そんな玄関を出るとき、もうすっかり玄関のあたりは暗くなってしまっていて、靴がどこにあるのか見えなくなった。外に出ても薄暗い。今のこのあたりの日の出の時間は5時ぐらい。わたしが家を出るのは4時50分ぐらいだから、もう日の出前に家を出るようになってしまった。すぐにまた、駅への道は暗闇に包まれるようになる。8ヶ月つづく闇。

 来月は水戸芸術館へ内藤礼を観に行くつもりなのだけれども、その「水戸芸術館」のサイトをウチのパソコンで閲覧しようとすると、「接続が安全ではありません」とのメッセージが出て、まるで見ることができなくなってしまった。
 それで今日は、久しぶりに「青空文庫」でチェックしたいことがあったので見ようとしたら、やはりダメだった。

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 「攻撃に対して脆弱な古いセキュリティ技術を使用しています」ということで、安全に閲覧したければそのサイトの管理者に問題を修正してもらいなさいというのだ。しかし「水戸芸術館」にせよ「青空文庫」にせよ、平気で閲覧している人は山ほどいるというか、こういう問題が起きるということが異常であり、これはわたしのパソコンの側の何らかの設定によるものではないかと思う。というか、これは「早く新しいパソコンを買いなさい」という<告知>なのだろうか。

 そういえば、2020年に予定されている東京オリンピックのために、その金銀銅のメダルを一般からの金属供出で製作することにしたらしいのだが、まだ「銀」の供出量が足りないので、「国民はもっと出しやがれ」と誰かが言っている。使わなくなったケータイやパソコン、デジカメなどを集めているらしいのだが、戦時下の「金属類回収令」を思い出させられる。しかし、普段だったら「ゴミ」として出すことの出来ないデスクトップパソコンも、「メダルの材料にどーぞ」と差し出せば無料で引き取ってくれるらしいので、喜んでいる人が大勢いる。わたしも今パソコンを買い換えれば、「やはりゴミでは出せないか?」と迷ってしまうこのノートパソコンも、無事引き取らせることが出来るだろう。今が買い替えのチャンスか。
 しかし、その「金属類回収令」もどきといい、ボランティア問題といい、どうもこの国はオリンピック開催をチャンスに、戦争時の非常体制再現のテストをやろうとしているように見える。まあ今どこかを相手に戦争を仕掛けようとしているわけではないだろうが(そんなことをしたら瞬時に国は滅亡する)、国民を「国家に従順な国民」に仕上げようとしていることは確かだろう。

 夜、ニェネントと「やはりスキンシップね!」といろいろ遊ぶと、寝る時間になってわたしがベッドに行くと、ニェネントはもちろん「また胸の上に乗せて!」とベッドに跳び乗ってくるのだけれども、この夜はしばらくわたしの胸の上に居座ってからベッドから降り、するとまたベッドに上がってきて「もう一回やって!」ということで、それを繰り返してなんと、4回もわたしの胸の上に滞在して行ったのだった。うれしい新記録だ。


 

[]「恩恵」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳 「恩恵」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳を含むブックマーク

 ドイツ、ベルリンの街。ブランデンブルグ門の前で、来ない恋人を待ちつづける青年の心象風景。

 そのとき、ぼくは世界の優しさを、自分をとり囲むすべてのものにある深い恩恵を、自分とすべての存在の間の甘美なるきずなを感じた―――そして、悟ったのだ。君の中に捜し求めていた喜びは、君の中にだけ秘められているのではなく、身の周りのあらゆるところに、飛び過ぎて行く街の音の中に、滑稽に引っ張りあげられたスカートの裾に、金属的で優しい風のうなりに、雨に膨れた秋の雲の中に、息づいているのだと。ぼくは悟った。世界は決して争いではなく、獰猛な偶然の連続でもない。瞬ききらめく喜び、恵みにみちたおののき、ぼくらには価値がわかっていない贈り物なのだ。

 ‥‥美しい。


 

[]「港」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳 「港」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳を含むブックマーク

 前の「恩恵」と合わせて、語り手の心象風景を語る、散文詩的な作品。南フランスの港でひとり彷徨うロシアの青年(ナボコフ自身のように思える)。亡命者という疎外感と孤独感。「流れ星が心臓発作のような唐突さで横切った。強く清らかな一陣の風が、夜の輝きを受けて色あせてみえる髪をさっと撫でて通り過ぎた。」


 

[]「偶然」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳 「偶然」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳を含むブックマーク

 ナボコフの作品によく読み取れる、読者にはちょっと意地の悪いナボコフ。でもここでの主人公の絶望は、亡命者がいやおうもなく引き受けなくてはならない絶望感で、それは先の「恩恵」や「港」で語り手の感じる心象風景と表裏なものなのだろう。この「喪失感」を越えて、何かを見つけなければならない、というのがこのときのナボコフの課題だったのだろうか。


 

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■ 2018-08-28(Tue)

 また夢をみた。この日の夢には人は登場せず、ただ「本」だけの登場する夢で、その本の内容とか、その本がどこそこから文庫として再刊されたのだとか、そういう夢。変な夢だった。

 昨日は、「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこさんが亡くなられていたことが公表された。テレビでは、ニュース速報でもこの知らせを伝えていた。「ちびまる子ちゃん」は、さいしょのブームのときに単行本を買って読んだ。単に家族の「ほのぼの」ストーリーではなく、ものすごくシニカルな視点を持ったコミックで、好きだった。さくらももこさん享年53歳。早すぎるなあ。また「ちびまる子ちゃん」コミックを読みたくなった(きっと本屋にいっぱい並ぶだろう)。

 今日は朝から曇天で、今にも雨の降り出しそうな天候だった。勤め先に向かう途中で、セミがアスファルトの上に落ちているのをみた。セミはその背を地面につけながらも必死ではばたいているのだけれども、ただ地面の上でクルクルと廻るばかりで、もう飛び上がる力はない。自分に残された体力を越えて、「まだ生きたい!」と、もがいている。‥‥ああ、もうあなたの季節も終わろうとしているのだね、と思った。あなたの「生きたい!」という執念は、それを目撃したわたしのものにさせていただきます。

 それで仕事中、階段のところでヤモリをみつけてしまった。まだ小さくて子ども。おそらくは倉庫からとか這い出して来てしまったのか。倉庫に戻してあげたいけれども倉庫には鍵がかかっているし、このままにしておけば誰かに踏みつけられてしまうとか、誰かに「捨ててしまおう」とつまみ取られてトイレの水洗で「じゃ〜っ!」と流されてしまうかもしれないし、「外の植え込みのところに出してやろう」と思う。手でつまむとそれだけで傷つけてしまいそうだから、トイレットペーパーを持って来て、それですくい取るようにして捕獲した。小さいね。

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 外に運んで、植え込みの近くで放ってあげたけれども、そのあとになって「ヤモリ(家守)というぐらいだから、屋内でなくっては生きていけない動物なのか?」などと思ってしまったのだが、調べると、食べるものさえあれば屋外でも大丈夫みたいなので、ひと安心。大きく育ってほしい。

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[]「響き」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳 「響き」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳を含むブックマーク

 たしか後に、「わたしは<音楽>のことは書けない」みたいに、<音>のことは書かなくなったはずのナボコフが、ここではすべて音、音、音。音の連鎖から書いている。
 ‥‥いけない、読み終わったらもう、内容のことをほとんど忘れてしまっている。あとでもういちど読もう。


 

[]「神々」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳 「神々」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳を含むブックマーク

 この作品は、海外でこの「全短篇」が出版されるまで未発表だった作品。‥‥ここに、わたしの知らないナボコフがいる。思弁的に「この世界」から飛翔するような、この詩的な作品の中にこそ、若き日のナボコフが存在しているだろう。まさにこの「未発表作品」の中に、ナボコフが幾百の凡庸な作家から抜け出ていることが示されているのだろう。この作品も、またあとで読もう。


 

[]「翼の一撃」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳 「翼の一撃」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳を含むブックマーク

 リゾート地のスキー場での一情景。とても視覚的にヴィヴィッドな印象の作品で、「誰か映画化してくれないかしらん」と思ってしまうような一編。ナボコフはこの続編も書いていたらしいが、その原稿はいまだ発見されていないとか。‥‥この時期のナボコフは、何かちがう。その作家としての大きさを感じさせられるのだ。このあたりの作品はまた読み返したい。


 

[]「復讐」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳 「復讐」ウラジーミル・ナボコフ:作 毛利公美:訳を含むブックマーク

 前までの短篇でその翼を拡げた感のあるナボコフが、ある面で「大衆受け」するような路線を求めたような、コント的作品。以降ナボコフは、拡げた翼を小説という枠組みの中にいかに活かすか、ということに専念するようでもある。ナボコフらしい意地の悪いコントだが、冒頭に登場するマクガフィン的な人物の使い方に以後のナボコフらしさを感じるだろうか。


 

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■ 2018-08-27(Mon)

 実は以前からちょっと、右膝の関節のところに痛みを感じていたのだけれども、歩いているときには別に平気だったりして放置していたのだけれども、先週末あたりから急に痛みが強くなり、たとえば座っていて立ち上がるときに「いててて‥‥」となったり、歩いていても若干の痛みを感じるようになってしまった。「これはもう病院に行って診てもらわないといけないかな」と思うまでになってしまったのだけれども、昨夜ネットで「膝の痛み」とか検索してみたら、「膝の痛みをとるストレッチ運動」みたいなのを見つけ、見てみるとかんたんな運動だったので、「ま、タダなわけだし」とか思って、ワンコースやってみた。それで今朝起きてみると、おっとびっくり! 先週までの痛みがほとんどなくなり、まるで気にならないレベルにまでなっていた。「こういうことってあるんだな〜」と、ある種驚嘆ですね。これからはこの運動を継続するようにしようではないか。

 さて、今日からは通勤電車内で、あの分厚い「ナボコフ全短篇」を読みはじめる。車内でこんなでっかい本を拡げることは、やってみるとそんなに気にはならなかったけれども、しかし、本を入れたショルダーバッグが重たい。肩に食い込むではないか。‥‥ま、読了するに一ヶ月ぐらいかかるだろうかな?
 それで知ったのだが、ナボコフの「青白い炎」の新しい邦訳が、来月にも刊行されるらしい。ま、今出回っている富士川義之訳のは「誤訳がいっぱい!」とか、あれこれと評判が悪かったりしますからね。やはり出たら読んでみたい。それでまた知ったのだが、最近(先月)、ある番組で宇多田ヒカルがその「青白い炎」を朗読したのだという(え? どうやって朗読したのだろう? あの膨大な<脚注>はどう処理したのか? そもそも<朗読>不可能な作品ではないのか?)。それでTwitterに、自分も「青白い炎」を読んでみようと買ってしまいました、みたいなツイートが載っていたりした。
 ‥‥いや、ナボコフ知らない人が、いきなり「青白い炎」は危険です。ほんとうは「ロリータ」だって危険です。むむ、「<ナボコフ入門>には何がいいのか?」と考えてみたけれども、これは、まちがいなく「プニン」。「プニン」以外にはない。ナボコフをこれから読もうとするなら、まずは「プニン」を読みましょう! 河出あたり、もしくはすでにナボコフをいくつか刊行している「光文社古典新訳文庫」あたりで、「プニン」を文庫化すべきだと思う。これぜったい!

 電車の話だが、週末にTwitterをざざ〜っとみていて、ベビーカーで赤ちゃんを連れて移動するお母さん(もちろんお父さんでもある)は、その赤ちゃんのことを「かわいい」といわれるのがいちばんうれしいらしい。それはわたしの体験からも同意するところのものだが、今日仕事の帰りに、乗ろうとしたメトロの同じドアから、そんなベビーカーで赤ちゃんを連れたお母さんといっしょになってしまって、その赤ちゃんがお世辞抜きで死ぬほどかわいらしくって、「ここで<かわいいですね!>って言わないといけないんだよな!」と身構えてしまい、メトロに乗ってもすぐ近くにいらっしゃったのだけれども、「言おう、言おう、あ〜っ! 言わなくっちゃ!」と思ううちに、自分が先に電車を降りてしまった。いや、ほんとにかわいい赤ちゃんだった。あまりに「言わなくっちゃ」と意識しすぎてしまいましたね。ま、Next Time!

 今日は夕方から外は曇って来て、そのうちに遠くに雷鳴が聞えてくるようになった。窓から外を見てみたけれども、このあたりは雨も降っていないし、稲光とかも見えるわけではない。しかし、埼玉あたりでは相当な雷雨だったようで、これはネットで拾った画像だけれども、すっごいことになっている!

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[]「森の精」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳 「森の精」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳を含むブックマーク

 ナボコフもまた、「詩作」→「短篇」→「長篇」という道筋をたどったのだと理解できる、そんな中での「詩」から「短篇」への過度期的作品という印象。そのあとの作品を読んでも、ナボコフは決して政治的人間ではなかったのだけれども、ここには自分が祖国から逃れなくてはならなくなったという<呪詛>のようなものが、自然の精霊という詩的な表現を通じて語られる。このままで行けば単に<亡命作家>というマイナーなところに落ち着いてしまう可能性を感じるのだけれども、さて、ナボコフはそんな地平からどうやって抜け出したのだろうか?


 

[]「言葉」ウラジーミル・ナボコフ:作 秋草俊一郎:訳 「言葉」ウラジーミル・ナボコフ:作 秋草俊一郎:訳を含むブックマーク

 まさに、ヴィジョンとしての<天使>の登場する、ノヴァーリスとかを想起させられるようなロマン主義的作品というか。原色の飛び交うその色彩感覚が強烈というか、まさに「若書き」というしかないような作品なのだけれども、けっきょくここでナボコフが意識しているのは、まさに「言葉」のことなのだ。


 

[]「ロシア語、話します」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳 「ロシア語、話します」ウラジーミル・ナボコフ:作 沼野充義:訳を含むブックマーク

 初めての、ストーリーのある短編小説。と同時に、ここでナボコフは、既存の<亡命作家>というものから一歩踏み出しているのではないのかと思う。それは<アイロニー>を含んだ視点というか、つまり前にあった<呪詛>のみの視点をどうやって乗り越えるのか?ということを、ユーモアを込めてやってのけているという印象。まずは「一皮むけたかな?」という感じだろうか。


 

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■ 2018-08-26(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 夜中に夢をみていた。面白い夢だった(と思う)。いちど目覚めて「面白い夢をみたな」と思い、その夢のことを書きとめておこうかと思ったのだが、まだ寝ていたいし、何度もその夢のことを反芻して、「これなら忘れることもないだろう」と、また寝る。結末は誰しもが予想できることだが、朝に目覚めたときにはその夢のことはこれっぽっちも思い出せないのだった。‥‥いつものことだ。

 それで、ちゃんと目覚めたのはもう外も明るくなった6時半。「今日は新宿に映画<菊とギロチン>を観に行きたいんだったな」と、ネットで上映時間とかを確認すると、この金曜日が上映最終日で、そのときに監督とか出演者のアフタートーク(というのか)があるらしいということを知った。「今日出かけても、すぐに明日からまた仕事になるし、それよりも翌日は仕事も休みという金曜日にその映画を観て、あとはのんびりした方がいいように思えて、はい、「今日出かけるのはやーめた!」ということにした。

 さらに、午後になって考えると、その今度の金曜日はわたしは有休を取って休むことにしてあって、そんな、せっかく休んでいるのに、わざわざ仕事をしている日みたいに出かけるのはバカバカしいということになり、その「菊とギロチン」を観に行くのは木曜日の仕事が終わってから、ということにした。

 それで書くのを忘れていたのだけれども、本来はこの金曜日は水戸の芸術館に内藤礼の展覧会を観に行くつもりで有給を取っていたのだけれども、そのあとになって、9月の中旬にその水戸の芸術館の近くに新しいギャラリーがオープンすることがわかり、それがなかなかに良さげなので、予定を繰り下げて、そのギャラリーがオープンしてから水戸に行くことにしてしまった。

 ‥‥と、いうわけで、「今日やろうと思っていたことは明日以降に繰り下げる」という、ナマケモノ特有の生態を発揮してしまう今日この頃。今日はゴロゴロいたしましょう、などといいながら、昨日借りた石井桃子の評伝をぼちぼちと読む日曜日。途中「午睡」とかはさみながら読んでいたら、あら大変! 図書館本を汚してしまった! やばい! 「本を汚すんじゃね〜ぞ!」と、借りる人たちを脅しつづけている恐ろしい図書館の、その蔵書を汚してしまったではないか。‥‥まだ、ぺたっと表紙を閉じた状態なら汚したことは外からはわからないからアレだけれども、来週とか返却に行くときにはドキドキものだな。
 それで、この本はやっぱりけっこう面白くってアレなのだけれども、石井桃子が「わたしは母の産道をくぐり抜けたときのことを記憶しています!」とか、「産湯につかったときのことを憶えています!」とか語っていたというのは強烈というか、たしかに何かの本で「産道をくぐったことを記憶しているという人がいるらしい」というのは読んだ記憶はあるのだが、それは石井桃子のことだったのか。‥‥ま、これこそ眉にツバをつけて読まなくてはならないだろうけれども。

 それで夕方になるぐらいの時間、本を読みながらそのまま和室のベッドに横になって、うつつ状態でいたときに、外から女性の悲鳴のような声が聞えた。「うわっ!」と思ってベッドから体を起こすと、玄関ドアの前にいたニェネントがこちらを振り返り、目が合ってしまった。わたしがベッドから身を起こすとニェネントはわたしの方にやって来て、わたしが立ち上がってニェネントの方に行こうとすると、ニェネントはその身を翻して玄関ドアの方へ頭を向けて歩み、それはわたしに「ねえねえ、こっちに来て、ドアの外を見てみてよ!」っていっているみたいだった。「何が起きたのだろう」と、玄関ドアのところへ行ってドアを開けて外を見ると、とたんにドアのところかネコが走って逃げて行った。茶トラのネコで、今まで見た記憶のないようなネコだった。
 玄関ドアの下の部分には、換気口というのか、完全に閉ざされてはいない「隙間」があるので、そこからニェネントの気配を感じたのか、「ココにはネコがいるようだ」と、よそのネコが来ていたのだろう。それで、自己アピールだかなんだか、あの女性の悲鳴みたいななき声をあげたのだろうか。ニェネントはときどき、そんな玄関ドアのそばに降りて行っているときもあったのだけれども、そういうときはひょっとしたら、外によそのネコが来ていたのかもしれない。でも、そんなニェネントが、わたしがその外のネコの声に気づいたとき、「ねえねえ、来てみてよ!」みたいな反応をしてくれたことは、やはりわたしのことを「仲間」と思ってくれているようで、うれしかったのだ。

 夜になって、そんなニェネントの、「あら、かわいいじゃないの!」という写真が撮れた(気がする)。

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 このところ、[ISBをめぐる、いつまでも続くとりとめもない散策]というのをまるで更新していないのだけれども、ちょっと今はそういう気分ではないので、しばらくお休みです。


 

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■ 2018-08-25(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日は昼から、新宿に映画「菊とギロチン」を観に行こうかとも考えていたのだけれども、昨夜映画を観たばかりで連続するのもアレで、ブレイクを入れようと思い、今日は家で休んで映画を観に行くのは明日にしようか、ということにした。そうすると図書館から借りていた本を、今日返しに行くことになる。外はまた暑そうで、めんどうだと思うのだが、しょうがない。それでついでに、我孫子駅の近くの動物病院まで、ウチから歩いて何分かかるのかとか、時間をはかっておくことにした(はかったからといってどうなるというものでもないのだが)。

 昼ご飯を終えて、家を出る。やはり外は暑い。空にはまだらに白い雲が散在し、「これは<いわし雲>というのだったか」と思ったりするが、いわし雲は秋の雲だろう。たしかに季節は変わろうとしている。てくてくと歩いて、その動物病院の前に来て時間をみると、家からここまで16分だった。わたしはいいが、ニェネントが我慢できるかどうか(でも、引っ越しのときには2時間ぐらいキャリーの中に居て平気だったから大丈夫だろうけど)。とにかくはもう少し涼しくなってからだ。

 さらにさらに歩いて行くと、道路のそばに何とも巨大なアロエが生えていた。こんな大きなアロエは見たことがない。まるで熱帯地方みたいだ。

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 ‥‥図書館に到着。時間をみると、家から25分の距離だった。空を見上げると、さっきまでなかった長い長いヒコーキ雲が空を横断していた。空の切り取り線だ。この線で切り取って空をめくってみると、何が見えるだろうか。

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 もう来週からはまずはナボコフを読むことにしていて、当分自宅本を読むことに集中しようと思ったばかりなのだけれども、こうやって図書館に来てみると「何か読みたい本なかったっけ?」と思ってしまうのが悲しい習性で、そういえば先日、「石井桃子の評伝本の表紙がヘンリー・ダーガーの絵で、それはなぜ?」と、Twitterの書き込みから知ったばかりで、石井桃子にはずっと興味があるし、その本を読んでみようかと思ってしまう。評伝本というのは読みやすそうだし、普段とは逆に、通勤電車では自宅本のナボコフを読み、できるだけ自宅でも本を読むようにして、それをその石井桃子の評伝にすれば、貸出期間の2週間で読めるのではないかと思うわけで、その「ひみつの王国」という、蠱惑的なタイトルの本を借りてしまった。がんばって読もう!

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 図書館を出て、目の前の手賀沼へ行ってみる。この暑さのせいか、あたりにはまるで人影はない。わたしが歩いていると、「やっと食べ物をくれるヤツが来たか!」とばかりに、ハトたちがわたしのまわりに寄って来るのだった。
 岸辺には4羽のコブハクチョウがいて、これは前に見た家族なのかもしれないけれども、皆しきりに身繕いをしている。いつまでもいつまでも、ただひたすらに身繕いをしていて、まるでネコみたいだと思った。

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 それで次に、やはり図書館のそばのドラッグストアに立ち寄り、ニェネント用の固形食(カリカリ)でいいのがあるだろうかと、チェックしてみる。ちょっと高くてもいいから、ネコには無意味な合成着色料など添加されていないものを探したけれども、この店にはそういうのは置いてなかった。しかし、ついでに店内をグルッとまわってみると、このドラッグストアはいろんなものがこの附近でいちばん安いことがわかった。もやしは18円。インスタントラーメンの5袋入りが288円(これは近所のスーパーより百円以上安い)。そのほか、あれもこれもスーパーより安い。ウチからあまりに遠いのが難だけれども、どうせニェネントのネコ缶はココに買いに来るのだから、これからはそのときにいっしょに、いろいろと買いだめすることにしよう。

 帰宅して、借りて来た「ひみつの王国」を和室のベッドに横になって読む。和室はエアコンがないので普段から暑いのだけれども、今日は格別だ。汗が流れる。だらだらと流れる。わたしの感覚としては、この日がこの夏でいちばん暑かったように思える。


 

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■ 2018-08-24(Fri)

 夢。わたしは修学旅行のような旅で地方都市に来ている。なぜかわたしは娘とカラオケに行くことを楽しみにしている。自由時間にひとりで町に出て、本を買う。どうやら分厚い洋書のようだ。その本を机の上に置いておくと、Gさんがそれをみているのだった。記憶しているのはこれがけで、他愛のない夢だが、もっといろんなストーリーが絡んでいたようにも思う。

 台風が西日本に近づき、このあたりでも午前中はときどき雨模様で、その台風のせいか、だんだんに風が強くなって来る。昼に仕事を終えて帰るときにはすっかり空は晴れ、陽射しが強い。そして風はいっそう強くなっていた。

 今日は久しぶりに映画館で映画を観よう。隣駅の柏駅のそばの映画館で、今日まで「この世界の片隅に」が上映されている。この映画は前に茨城に居たとき、あの火事のあとに観に行ったのだけれども、今ではその内容もほとんど記憶していない。まだまだ記憶障害は続いているわけで、やはりもういちど観たいと思った。
 上映は18時半ぐらいからなので、それまで家でのんびりして、17時ぐらいに家を出た。早くに着くから、あたりの本屋でものぞいてみようかと思っていたのだけれども、手持ちの現金が少なくて並んだATMがけっこうな行列だったりして、けっきょく映画館のロビー(喫茶室?)で時間をつぶした。
 開場されて映写室に入り、バッグに入っているはずのメガネを探したら見つからない。あらら、家に置いて来たみたいだ。‥‥ま、わたしの近視はそれほどのものでもないし、洋画のように字幕を読まなくっちゃいけないわけでもないし、すっごい前の方の席(前から3列目)を選んで、これで問題ないだろうとしたわけだけれども、上映が始まって、「よく見えない」とかそういう感覚はまるでなかった。これからも、前の方に座ればメガネはいらないだろうか。

 終映。「そうか、そういう映画だったか。まったく記憶に残ってなかったな」と思いながら外に出ると、この夜は満月だったのだろうか。駅のそばのビルのあいだに、まん丸な月が輝いていた。風もおさまって、雲もみんな、それまでの風に吹き飛ばされて行ったようだ。

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 駅に行くとちょうど電車が来るところで、すぐに自宅駅に戻れた。自宅から30分ぐらいで映画を観に行けるというのは、やはりいい感じだ。‥‥それでまだ晩ご飯を食べていないので、いつもの自宅そばの中華の店に行く。今日は金曜日だからアルコール類は全品半額! 瓶ビールと、それからイカのピリ辛炒め飯とかと。デザートもついていて、自分的に久々の御馳走ではあっただろうか。

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 どこかでニェネントくんへのおみやげを買って帰ろうと思っていたのだけれども、買いそこねてしまった。‥‥ニェネントくん、明日ね!


 

[]「この世界の片隅に」こうの史代:原作 片渕須直:監督 「この世界の片隅に」こうの史代:原作 片渕須直:監督を含むブックマーク

 というわけで、2年前に観ているのに何も覚えていなかった映画。これはきっと、いろんなエピソードが積み重ねられてつくられた作品だったからかな?とか思う。今回観終わった今でも、「あ、そんなエピソードあったっけ?」と、ほとんど忘却の海に沈んで行こうとしているパートもあるような。‥‥さて、今回はどのくらい憶えていられるかな?

 冒頭からの、視点をさまざまに変えての、ヒロインのすずの立つ広島の高台の描写が気もちよく、アニメならではの表現の魅力を感じる。そして「ひとさらい」とか「座敷童」とかが登場し、この一面でリアルな物語にファンタジーへの通路をあけてくれる。それで、その「ひとさらい」のかつぐ「かご」の内部の異様な広さが、「この世界」の内側の、別世界の存在を感じさせてくれるが、それはまたヒロインのすずの「想像力」でもあるのだろう。

 すずはのんびりと、おっとりとした性格のようだけれども、絵を描くことに天分があり、戦時下に物資が欠窮してくるとき、工夫と応用力で乗り切る適応力を持っている。そういうわけで映画は、だんだんと戦時色が濃くなって行く中での、けっこうリアルな人々の生活ぶりを描いていって、同時にヒロインのすずが嫁いで、まだまだ少女っぽいたたずまいから大人の女性へと(ゆっくりと)成長して行くさまがあらわされる。でもついに昭和も20年になり、嫁いで行った呉の町も空襲に見舞われるようになり、それは悲しい「惨事」へと移行して行く。

 ラストにまた、冒頭に登場した「ひとさらい」が出て来て、すずの描いた「絵」が重ね合わせられるあたり、彼女が生きる活力を取り戻し、また、絵を描いていた頃の「想像力」をも取り戻した、ということだろう。エンド・クレジットに重ねられる「絵」には、またもうひとつ別のストーリーが語られているみたいだった。

 この冬には、今回公開の際にカットされた部分を加え、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」として公開されるらしい。観る。


 

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■ 2018-08-23(Thu)

 また台風が近づいていて、西日本の方を直撃するみたいだ。今年は襲来する台風が多いような気がするが、9月以降こそ台風の季節。もう大きな台風が日本を直撃したりしなければいいのだが。
 それでこちら関東は今日も晴天で、また暑い。暑さのせいというわけではないが調理するのがめんどうで、今日の昼食はストックしてある白米パックですませてしまおうと、棚から引っぱり出してみると、ちょうど賞味期限が切れたところだった。多少賞味期限を過ぎても気にはしないのだけれども、あと2パック残っているので早めに食べてしまおうと思う。その分メシを炊く手間が省けるし。夕食は昨日買ったスパゲッティ・ナポリタンのソースのレトルトパックで行こうと、ウインナやタマネギなどの具材を足してやったのだけれども、そのレトルトパックを開けてみるとほとんど具材の姿はみえず、これだけでパスタとまぜても寂しいことになるだろう。ま、安かったからね。そのレトルトパックに冷蔵庫のトマトソースやケチャップをプラスしたもので半分以上残ってしまい、明日もまたスパゲッティになるだろう。

 図書館から借りている本をだいたい読み終えたので、「さて、この先は何を読もうか」と考える。ひとつ読みたいのはトルストイとかドストエフスキーの大長編、「アンナ・カレーニナ」とか「カラマーゾフの兄弟」とかなのだけれども、やはり自宅本も読み進めたい気もちもある。「読もう、読もう」と思っていてなかなか読めない、ナボコフの短篇全集を読もうか? しかし、コレはデカい本だから、持ち運びもたいへんというか、電車の中でこのデカい本をひろげて読むというのはちょっと気がひける。
 ‥‥しかしどうも、「自宅で集中して本を読む」ということがどうしても習慣化せず、せいぜい寝る前に数ページ読むぐらいのことしかできない。これではいつまでも自宅で読みたい本を読むことも出来ないので、思い切って来週からはそのナボコフの短篇全集を読もうかと思う。もしもその、でっかい本を電車の中でひろげて読むことに慣れたなら、ウチにはほとんど手をつけていない例の「昭和文学全集」がそれこそ山のようにあるわけで、そのバカでかくって一冊千ページを超える、百科事典とか辞書のような本も平気で電車の中で読めるようになるだろう。そうでもしないと、この「昭和文学全集」、けっきょくわたしが死ぬまで開かぬままに終わってしまいそうだ。そう、やはり来週からはナボコフを読みはじめることにして、そのあとは「昭和文学全集」を読み継ごうか。そうするともう、図書館には当分用はなくなるな。

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 前に買ったニェネントのセカンドトイレだが、しばらく新聞紙を敷いていたのだけれども、やはりちゃんとネコ砂にしようと、今まで使っていた「おしっこで固まる」タイプのものではなく、木質ペレットというのか、いつまでもサラサラのままというヤツを買い、先週から使っている。これが見た目はたしかにずっとサラサラのままで、「あれ? ほんとにニェネントはこのトイレ使ってるのだろうか?」と思うのだが、トイレの下の段に敷いたシートをみてみると、ちゃんとおしっこで湿っている。匂いもまるでしないので、リヴィングに置いてあっても気にならない。ニェネントくんも、和室に置いてある古いトイレはうんち用で、リヴィングのはおしっこ用と、しっかり使い分けてくれている。おりこうさんである。ま、うんち用の古いトイレは2段式になっていないのでシートは敷けないけれども、こっちはペレットではなくて普通の安いネコ砂でだいじょうぶ。こっちのトイレまでペレットにしてしまうと、ニェネントも迷ってしまうかもしれないし。
 あとは、ニェネントの食事の「カリカリ」に、何を選ぶかだな。やっぱりちょっと高くっても、穀類不使用、ノーグレインのものを買いたい。それでニェネントのお口に合うか、嘔吐しないか、ということになる。


 

[]「ろば奴」いしいしんじ:作(福永信:編「小説の家」より) 「ろば奴」いしいしんじ:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 この「いしいしんじ」という作家のことはまるで知らなかったのだけれども、この作品にはとっても興味を持った。いつの時代のどことも知れない場所を舞台に、神話的というか寓話的というか、そういう不思議な世界が展開する。このアンソロジーを読んで、これまで知らないでいた魅力的な作家に出会えるといいという思いもあったのだけれども、その「出会い」は、このいしいしんじで果たされた思いがする。

 あと、古川日出男の「図説東方恐怖譚」、円城塔の「手帖から発見された手記」を読んだが、あまり刺激を受けることはなかったかな。巻末に栗原裕一郎の「<小説>企画とは何だったのか」と福永信の「謝辞とあとがき」とがあり、福永信の「謝辞」には笑わせられた。


 

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■ 2018-08-22(Wed)

 たしかに予報通り、涼しかった日曜日以来、日ごとにちょっとずつ、また暑くなって来ているような気がする。しかしもう8月も下旬。この暑さももうちょっと辛抱すれば「秋」かな(しかし、9月になっても「残暑」というぶり返しが必ず来るだろう)。
 しばらく映画館で映画を観ていないので、「何か映画館で観てみたいな」という思いはしょっちゅう頭をもたげてくる。先日はけっこう毎年何かしらは観ていた「イメージフォーラム・フェスティバル」で、ヤン・シュヴァンクマイエルの(最後の?)作品をやっていたのだけれども、行きそびれてしまった。今は「ぜったいにこれが観たい!」という映画があるわけでもないのだけれども、先月からやっている瀬々敬久監督の「菊とギロチン」は観てみたい気がする。これは大正末期のあの「ギロチン社」の活動を、当時じっさいにあった「女相撲」と重ねて描いたものらしいのだが、とにかくアナーキズムシンパのわたしは、「ギロチン社」というと無視出来ないのだ。何年か前に、あの山田勇男監督の「シュトルム・ウント・ドランクッ」という、まさに「ギロチン社」の活動をテーマにした映画が公開されたのだけれども、いちばん良かったのは宇野亜喜良によるポスターだっただろうという、残念な作品だった(って、今では何も記憶にないのだけれども)。
 それで今回の作品は瀬々敬久監督。彼の作品は「雷魚」「汚れた女(マリア)」「トーキョー×エロティカ」の頃はずっと追っかけて、大ファンだったのだけれども、メジャーなところで大作をつくるようになってからは、わたしの興味から離れてしまった。さてさて、今回はどうなんだろうと思うのだが、ネックは3時間というその尺の長さで、なかなか「観に行くぞ」という決意をつけられない。もうそろそろ上映も終わってしまうので、それまでには観ておきたい気はするのだけれども。

 「ギロチン社」というのは大正末期に結成されたアナキスト集団なのだけれども、大杉栄の虐殺を経て過激化し、テロリズム集団を目指すことになる。しかしじっさいには銀行襲撃に失敗、武器調達にも失敗と挫折が続き、集団のほとんどが逮捕され死刑となる。その活動がどっちかというと「おそまつ」といいたくなるようなものだったので、「大逆事件」のように今になって記憶されてはいないのだけれども、その判決は彼らの「思想」を裁いたものであることは明白で、もっと記憶されるべきことがらではないかと思っている。はたして、その「菊とギロチン」ではどのように描かれているのだろうか。やっぱり観てみたい。

 それから今、「カメラを止めるな!」という作品が世間をにぎわしていて、「どんなのよ」という興味もあるのだけれども、この作品は来月に柏の映画館で上映されるそうなので、そのときに観に行こうと思っている。評判になった「万引き家族」もやはりその柏の映画館でやるので、これも観に行こうかと思っている。さらに今、ジョイス・キャロル・オーツ原作でフランソワ・オゾンの監督した「2重螺旋の恋人」というのも公開されていて、ちょっと観たいのだが、これまた柏の映画館で来月末に上映されるらしい。もう、何もかもその柏の映画館でカタがついてしまうみたいだ。

 今日はリヴィングでパソコンに向かっていると、ニェネントがじ〜っとわたしのすぐそば、キッチンのフロアにすわっている。きのうニェネントにとってわたしはライヴァル、と書いたけれども、ライヴァルであると同時に、パートナーでもあるのだ。それはいってみれば「同じチームの中で張り合うライヴァル」という関係というか、いや、わたしはそんなことは全然思っていないのだけれども、ニェネントの中ではそういう気もちがあるのではないのか。「同じ部屋部屋の中で、いっしょにいるのはアンタだけだからパートナー関係は維持するけどね、さいごに勝つのはアタイだよ!(とにかくアンタは食べものをゲットして分けてくれればいい)」とでも思っている気配があるぞ。


 

[]「案内状」耕治人:作(福永信:編「小説の家」より) 「案内状」耕治人:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 「あら、古めかしい!」と思ったら、この作品だけは1958年に美術手帖に掲載された作品だったそうな。このあたりの経緯は、巻末の栗原裕一郎による「<小説>企画とは何だったのか」に詳しい。挿画として2点掲載された<漫画>が、この小説の「正しい」読み方を示唆していて楽しいか。


 

[]「Thieves in The Temple」阿部和重:作(福永信:編「小説の家」より) 「Thieves in The Temple」阿部和重:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 これこれ、この作品を読みたいがためにこの本を借りたというところもある、阿部和重の短篇。これがなんと、白いアート紙に、白もしくは透明インクで印刷されたモノで、これを読むには光の角度を調節し、文字部分に光を反射させないと読めない。どうやら当時、美術出版社にはクレームというか問い合わせがいろいろとあったらしい。いや、これはわたしなどの世代にはアレでしょ。実はただの白い紙だと見えるヤツの、その表面を鉛筆でこすると文字が浮き上がって来るという、少年雑誌とかの付録についていたようなヤツですよ。だからこういうの見てもそれほど「びっくり!」ということでもなかった。‥‥それでこれは(図書館で借りた本なわけだから)ナイショだけれども、わたしはこのページの上から鉛筆をこすってみた。‥‥あらら、ダメじゃん! やっぱり文字は浮き出て来ない。むかしのアレとはちがうんだなと、コレは図書館に返却しなくっちゃいけないから、消しゴムでていねいに消しましたよ。そ、そ、そ、そうすると、その消しゴムで消したあとに、うっすらと文字が浮かび上がって来たのです。これはすごい! 面白い! アレですね。わたしは図書館から借りた本だから自由自在にいじれないけれども、自分でこの本を購入された方は、この作品全ページに鉛筆を塗りたくって、それを消しゴムで消してやれば、そんな「光の角度」とか気にしないで、(ま、薄い文字ではあるけれども)普通に読めるようになりますよ!と、皆に教えてあげたい気分です。‥‥いや、ここまでは作品内容とまるで関係ないですけれども。

 それでもこの作品、読んでいれば、舞台になるのはわたしも行ったことのある瀬戸内海の「直島」だろうということは想像がつくわけで、別のところで読んだのだけれども、今はその直島にジェームズ・タレルの「地中美術館」というのがあり、そこではまさにこの本のように、「光」がテーマになったインスタレーションが観られるらしい。そういうところで、この本の企画がアートとのコラボレーションだとしたら、もうこの時点でこの作品がいちばん!

 ‥‥で、その作品(小説)の内容というか、感想。「チュドーン、ドッカーン!」です。すっかりヤラれてしまいました。まいった。しかし、いちおうまともなことを書いておけば、前振りの「射精」が、ラストの「打ち上げ花火(ちがうって!)」にリンクしてるのかな?という印象。ま、とにかく楽しめました。


 

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■ 2018-08-21(Tue)

 火曜日。この日は午後から高校野球の決勝戦があり、ちょうど仕事を終えて帰宅して一段落してからの試合開始なので、ぜんぶ見ることができる。楽しみにしていた。‥‥しかし、始まってみると金足農業の吉田投手は連投の疲れからか力みからか不調で、これまでになく打ち込まれてしまい、ゲームは完全にワンサイドになってしまった。残念だ。やはりこの猛暑下、ピッチャーひとりに連投させるのは酷というか、万全の体調でマウンドに上がれるような配慮をしないと(これは何もピッチャーだけに限ったことではないが)、普通の意味での野球の試合とはいえなくなってしまう気がするし、つまり今回優勝したチームのように、選手層の厚いチーム(また、そういうチームは全国から有望な生徒〜選手〜を集めるのだ)こそが有利ということになってしまうわけで、いい意味での「アマチュア精神」、本来の「地区対抗」という性格は失われてしまうと思う。
 そもそもがこの酷暑のもと、熱中症への心配などをあわせて、開催に疑問を抱く声もあがっていた夏の高校野球、SNSにも批判が上がっていたけれども、今日はそんなSNSへの投稿で「最初は批判していても始まってしまえば熱中して応援してしまう、きっと2020年の東京オリンピックもそういうことになってしまうだろう」というのがあり、「むむむ、そうだよな」と思ってしまうのだった。

 野球中継が終わって買い物に出かけ、スーパーの「m」にかつおのたたきのブロックが安く売られていたので、ニェネントくん用にと買って帰った。‥‥正直、このスーパーのかつおのたたきのブロックは(人間さまが食べるには)味がいまいちなところがあるのだけれども、とにかく安いときは圧倒的に安いので、丸ごと(味覚音痴の)ニェネントくんのため。
 家に戻って、「ニェネントくん、いいものを買って来たよ〜」とパックを開け、まな板の上で包丁を入れているともう、魚の臭いがただよっていくのか、ニェネントがすぐそばに飛んで来て、調理場の横に置いてある椅子に跳び乗って、わたしの手元をのぞき込むのである。それで皿に盛って出してあげると、ほんとうにおいしそうに食べる。食べる。食べる。
 食べたあとのニェネントは急に元気になり、久しぶりにリヴィングから和室へ、和室からリヴィングへと「ニャッ!」となきながら走り抜け、運動会である。そのあとは静かにリヴィングで横になっていたのだけれども、ふと見てみると、ニェネントにはめずらしくも、ほとんどヘソ天で寝ているのだった。

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 「ヘソ天」で寝るというのは、ネコにとっては「警戒する必要がない」という、安心しきったポーズなのだという説もあるが、ネコそれぞれの習性の個体差もあるのではないかと思う。
 とにかくはニェネントにはとってもめずらしいことというか、わたしはニェネントのヘソ天を見るのは初めてな気がする。

 思うに、ニェネントにとってわたしは、どこかライヴァルのような存在と認知されているような気がする。もちろんわたしのことは「ただ図体のデカい同類」と思っているのだろうけれども、ごはんとか出してあげても、それで「親」の役を果たしていると思われてはいないのではないのか。‥‥ま、ごはんを出してあげるときにわたしのすねをペロッと舐めてくれたりはするけれども、それでもってわたしのことを「保護者」と思っているとはいえないだろう。なぜニェネントがわたしのことを「ライヴァル」と思っていると感じるのか、これを説明するのはむずかしいけれども、ずっとこうやっていっしょに暮らしていると、自然と感じ取れるところである、ぐらいにしか言いようがないか。


 

[]「あたしはヤクザになりたい」山崎ナオコーラ:作(福永信:編「小説の家」より) 「あたしはヤクザになりたい」山崎ナオコーラ:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 この日記で検索すると、わたしは過去に山崎ナオコーラの作品はいくつか読んでいる。あの「人のセックスを笑うな」も読んでいるわけだが、もちろん何も覚えていない。それでまあ、初めて読む作家のつもりでこの短篇を読むのだが、けっこう売れっ子のイラストレーターの主人公と、彼女と同棲する男との対話を中心に展開するストーリー。正直、小説としての新しい面白さを感じるわけでもなく、書かれている内容もわたしの想像の範囲内だった(挿画も山崎ナオコーラ自身による)。

 次のまるで知らない作家、最果タヒの「きみはPOP」もどこか似たような感じで、2〜3ページ読んでやめてしまった。その次は長嶋有の「フキンシンちゃん」。思いっきり「マンガ」である(ダイナマイトプロという集団(?)のサポート)。学園モノ少女マンガというか、作者としてはそういうネームの組み立てに興味を持ったのだろうか。吹き出しのセリフ、説明文字などの配列? 話は面白がるようなものではないけれども、どこか心にひっかかるというか。


 

[]「言葉がチャーチル」青木淳吾:作(福永信:編「小説の家」より) 「言葉がチャーチル」青木淳吾:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 巻末の「謝辞」に、青木氏はヴィジュアル面については「学習漫画のようにして下さい」といわれたということで、じっさい、まさにそのような挿画付き。内容はまさに、「小説的なエクリチュール」から脱しようとされる青木氏らしくも、1940年から41年にかけての、チャーチルの言動を歴史の動きと共に追ったもので、そういったドキュメント的な、没個性的な文章を読みながらも、どうしてもその背後にあるだろう「小説としてのコンセプト」を読んでやろうとしてしまうのだけれども、そういう目論みはスルリとかわされてしまう思い。


 

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■ 2018-08-20(Mon)

 先週、Aretha Franklinが亡くなられた。すばらしい歌手がこの世から旅立たれた。ネットなどでいろいろな弔辞、追悼文を読んだのだが、その中に強く心に残るものがあった。それは「彼女が唄った"you"という言葉は、いつも"神"を意味していたのだ」というものだったのだが、わたしは今までぼ〜っと生きて彼女の歌もぼんやりとしか聴いていなかったわけで、これは「そうだったのか!」という、今さらながらの「啓示」だった。そう、そもそもがゴスペル歌手としてスタートした彼女、その魂はいつまでもゴスペルを原点にしていたということ。
 つまり、ずっとわたしは彼女の唄う"you"というのは普通のポップ・ミュージックのように"彼氏"とか"恋人"のことと思い込んでいて、例えば大ヒット曲の「I Say A Little Prayer」とかで"I say a little prayer for you"と唄われる"you"も、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」の"you"も、"彼氏、恋人"のことだろうと(深く考えないで)思っていた。ちがうのだ。それは"神"だったのだ。そう考えてそれらの曲を思い起こしてみると、それはまったくそれまでとちがって思い起こされるのだ。わたしは彼女の歌をずっと、そういう意味では誤って聴いていたのだった。

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 そうすると思い出されるのが、そのAretha Franklinに捧げられて1985年に発表されたScritti Polittiの曲、「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」という曲のことで、昔っからこの曲の歌詞のことは意味がよくわからないところがあったのだけれども、するとここでの"Pray"というのは「神への祈り」のことなのかと思うわけで、ま、そう考えてネットでこの曲の歌詞をみてみると、むむむ、やはりこの曲もたしかに「神への祈り」を唄っているのではないかと思えるのだった。今ごろになって知るなんて‥‥。

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 さて、月曜日で今日からまた仕事。日の出の時間がいつしか遅くなっていて、わたしが家を出るときもまだ暗く、玄関のところで足元が見えなくなってきた。これから日ごとに日の出時間が遅くなって行き、すぐにわたしが家を出る頃もまっ暗になってしまうだろう。そしてそのうち、職場に着く時間になっても暗闇、ということになるのだ。
 そんな日の出が遅くなったせいではなくて、外は涼しくなっている。ただ、出勤前に見た天気予報の週間予報では、これから日ごとにちょっとずつ気温が上がるといっていた。今日がしばらくはいちばん涼しい日になるらしい。仕事先の駅に着いて外に出て、これまであんなに聞えていたセミの鳴き声が、ぱったりと聞かれなくなっていた。どうやら夏も終わりに近いらしい。

 今日は高校野球の準決勝が行われ、午前中はちょっとわたしが応援したい秋田の金足農業が登場する。どうも帰宅する時間の前には試合も終わってしまうようだけれども、仕事を終えてケータイで見たところではリードしていて、ちょうど自宅駅に着いてチェックすると、まさにゲームの終了したところ。金足農業の勝利だった。午後の試合には前に逆転サヨナラ満塁ホームランで勝利した愛媛の済美高校が登場する。どうせなら済美高校に勝ってもらって、逆転サヨナラ2ランスクイズの金足農業と決勝を戦ってほしいと思い、帰宅して昼食のあとはずっと見ていたのだけれども、残念ながら敗れてしまった。

 夕食はニラを使わずに豚レバーと野菜を炒めてみたが、ちょっと味が薄かった。ニェネントは自分の食事のときだけ寄って来て、あとはずっと和室のベッドの下に引きこもっていたが、わたしが寝るときになってようやく、いつものようにベッドの上にとび乗って来て、それでわたしと遊ぶ(わたしが遊ばれる)のだった。


 

[]「鳥と進化/声を聴く」柴崎友香:作(福永信:編「小説の家」より) 「鳥と進化/声を聴く」柴崎友香:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 このアンソロジーは、かつて「美術手帖」に不定期掲載された11篇の短篇小説を収録したもので、それぞれの作品が基本(たとえ「さし絵」レベルでも)アートとのコラボレーションというかたちをとり、その作品のテーマも、いちおう「アート」に絡むものが求められていたらしい。それで全部読むことになるかどうかわからないけれども、読みたい作品もあれこれとあるので借りて読みはじめた。

 その最初の作品は、今まで読みたいと思っていていまだに何も読んでいない柴崎友香の作品。‥‥すっごくパーソナルな視点から、その関心事がどんどんと拡がって行き、カラスの鳴き声を中心にしての小宇宙が形成されるような。面白かった。やはり次は柴崎友香をちゃんと読んでみたくなった。コラボしたヴィジュアルは知らないマンガ家の描いたもので、ふつうにさし絵だったかな。


 

[]「女優の魂」岡田利規:作(福永信:編「小説の家」より) 「女優の魂」岡田利規:作(福永信:編「小説の家」より)を含むブックマーク

 この短編小説は、のちにチェルフィッチュの舞台で上演されたものの「原作」というか。
 主人公は「元」演劇女優だったというか、役を取られてねたんだ別の女優に殺されてしまって、つまり今は「幽霊」というのか、そういう存在になっている。そんな彼女が、「女優」であるということ、「女優」として生活して行くことなどを「独り語り」して行くというもの。もちろんそれは「俳優論」となり、「演劇論」「芸術論」でもある。こうして文字で読むとちょっと「ナマ」な感じもするけれども、たしかにこれを舞台で演ったなら、ちょっとした「二重構造」というか(すいません、もっと適切なワンワードがあると思うのだけれども、今思い浮かばない)、「演じる」ということを演じるという面白さがあっただろう。その舞台、わたしは観てないんだな(どうせ観ていても記憶に残っていないだろうけれども)。ヴィジュアルはその舞台写真だ。


 

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■ 2018-08-19(Sun)

 夢をみた。夢の中でわたしは友人のFさんらといっしょに映画を観ている。その映画はおそらくウェス・アンダーソン監督の映画で、先日観た「犬ヶ島」みたいなパペット・アニメーションだったような。ペットがいろいろと登場して来て、そのうちにいっしょに観ているFさんも映画の中に登場する。わたしはそれを観ていて、「これって<夢>なんじゃないかしらん?」と思いはじめるのだった。夢を見ていて「これは夢では?」と思っていたというのは、初めての体験な気がする。

 今日は日曜日なのでいつものようにダラダラしそうになったが、ちょっとがんばって頭を活性化させようと、昼からウチにあるDVDでまだ観たことのなかった、溝口健二監督の「雪夫人絵図」を観た。DVDを観たあとに買い物に出かけたが、ドアを開けて外に出てみたら、室内よりも外の方が涼しかった。
 ドアの前の地面からトカゲがチョロチョロッと這い出し、向かいの石垣によじ登る。ケータイを持っていたので写真撮ってみた。近づいても逃げなかったのでうまく撮れた。このあたりではときどきトカゲの姿を見かけるのだけれども、写真撮れたのは初めてだ。

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 お買い物。この日はスーパー「O」でもやしが1袋10円だったので、つい喜んで2袋買ってしまう。これでしばらくは「もやし」づくめだ。帰宅してさっそく夕食は野菜炒め。いい感じの味に仕上がった。最近の野菜炒めではわたしのベスト。あとは久しぶりに放映の「モヤモヤさまぁ〜ず2」をみて楽しんで、この日はおしまい。


 

[]「雪夫人絵図」(1950) 舟橋聖一:原作 溝口健二:監督 「雪夫人絵図」(1950)   舟橋聖一:原作 溝口健二:監督を含むブックマーク

  

雪夫人絵図 [DVD]

雪夫人絵図 [DVD]

 溝口健二のこの作品はそれまでの松竹での製作を離れ、新東宝と瀧村プロダクションというところによる製作。溝口監督は以後松竹では一本も撮っていないから、何かしら松竹を去る理由があったわけだろうか。これ以降はだんだんに、大映で撮るように移行して行くことになる。この前の1949年に撮った「わが恋は燃えぬ」は興行的にもふるわず、評価も低かったことも関係しているのかもしれない。
 そこでこの「雪夫人絵図」。原作は当時のベストセラー作家の舟橋聖一だけれども、この人はどちらかというと「大衆小説」作家で、今は読まれることも少なくなっているだろう。この時期の舟橋は女性を主人公とした作品を多く書いていたようで、そのあたりでプロダクションが「これを溝口監督で映画化を」と思ったのか、それとも溝口サイドで「やってみたい」と思ったのか。とにかくは主演もいつもの田中絹代ではなく木暮実千代だし、「今までにない溝口映画」を自ら期待したか、外から期待されたか。脚本も依田義賢ひとりではなく、舟橋和郎(この人は舟橋聖一の弟)との共同になっている。

 映画本編のことは少し置いておいて、もう少しその背景を調べてみると、この映画の主な舞台となったところの、後半で旅館になる熱海の旧家の別荘だけれども、これは熱海に実在する起雲閣という旅館(現在は熱海市所有の観光施設)を使って撮影したらしい。そしてもうひとつ登場する箱根の芦ノ湖畔にある「山のホテル」というのもまた、実際にあったホテルなのだ(設計がジョサイア・コンドルだということ)。美術はいつもの水谷浩なのだけれども、わたしは見ながら「水谷浩もすっごいセットをつくったものだなあ」と思ってしまったのだが、基本既製の建物でのロケ撮影。そういうところでは水谷浩の出番はほとんどなかったわけだ。
 しかし、溝口監督の日本家屋の空間というものの把握、映像への活かし方には飛び抜けたものがあり、この作品でも、その旅館のシーンなどのいたるところですばらしい絵をみせてくれる。旅館のシーンはその中だけれども、「山のホテル」では俯瞰撮影で外側から攻める。いやまあ、映画全体ですばらしい絵だらけなのだけれども。

 さてそれで、この作品のヒロイン「雪」は木暮実千代が演じる。この雪という女性、こころ(気もち)とは裏腹にからだ(セックス)に引きずられてしまう、いってしまえば「弱い」女性で、その自我の分裂に悩み、いつも悲しそうな表情でいて、不幸を絵に描いたような風情である。しかも元華族の気品あふれる女性なわけだから、その「くずれ方」「悲しみ方」にもどこまでも品がある。というか、ここに木暮実千代のみごとさがある。雪は没落した華族の娘で、愛情なく政略的に直之という男と結婚しているのだけれども、この直之というのが雪と対照的に下品な俗物というか、京都とかで蕩尽して妾もつくって家の没落に拍車をかける。妾を留守を守る雪のところへ連れて来たり、雪が残された熱海の別荘を旅館としてスタートさせると、自分の妾に経営させると割り込んで来たりする。
 ところがこの直之という男、実は雪なしには生きていけないという男で、雪が思い決して「別れる」と告げると、「お前を愛しているから別れないでくれ」と泣きつく。それだったら例え蕩尽してももうちっと雪を大事にすればいいのにと思うのだが、これはサディストということで、そうすると雪はマゾヒストとして、フィジカルにはウマが合っている夫婦ということなのか。

 しかしフィジカルには夫に引きずられてしまう彼女だが、夫の仕打ちはメンタルには我慢出来ない。そこにもうひとりの男がいて、雪とは家族ぐるみで親しくしている琴の師匠の菊中という存在。これを上原謙が演じているのだけれども、彼は雪と夫との情況も知っていて、雪はそんな菊中にことあるごとに相談する。このあたり、どうみても菊中は雪のことを好きでいて、雪の方も菊中が誘ってくれればどこへでも、みたいである。ところがそんな「触れなば落ちん」という雪を目の前にしても菊中はふたりの距離を縮めようとはせず、「あなたは強くならなくてはいけません」と精神論を説くだけ。みていても歯がゆいかぎりである。

 ‥‥どうもこう、物語構造としてどこか深みに欠ける印象の物語で、おまけに後半では、夫の直之の妾にくっついて来た男(これが山村聰)が妾とデキていて、旅館を乗っ取ろうとしているみたいな話まで出て来る。そういう、「困ったな〜」というストーリーをかろうじて救うのが、雪という女性を「お姫様」のように慕って、田舎から熱海に手伝いのためにやって来る浜子という女性の存在で、これを久我美子が演じているのだが、映画の始まりが彼女が電車とバスを乗り継いで熱海にやって来るところで、この作品全体がこの浜子という女性の視点から進んで行き、同時に雪をみる浜子の感情の変化をも描いて行く。そういう、女性の視点から見た「お姫様のような旧華族の没落」というのがあって、「やはりこれは溝口健二の映画だ」と、救われた思いになる。

 終盤、ふたたび出て来る「山のホテル」の前庭のロングショットで、カメラが右に振れてボーイが建物に入ってお茶を持って戻り、またカメラが左に移動してみると‥‥、という、ちょっと「雨月物語」でもあったようなカッコいい演出がみられる。


 

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■ 2018-08-18(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 土曜日。今日も涼しいようなのだけれども、部屋の中にいると暑い。冷房慣れしてしまったというのか、ついついエアコンのスイッチを入れてしまう。ニェネントは朝ごはんを食べたあと、しばらくはわたしといっしょにリヴィングにゴロンとしていたのだけれども、わたしがちっともかまってやらないせいか、和室のベッドの下に行ってしまい、それからずっと出て来ないのだった。

 今日は夜の7時から、おととい偶然お会いしたEさんのやられている、早稲田の「shy」で開かれるニジンスキーについてのトークを聴きに行く。前から「いちどはおじゃましなくては」と長く思っていたスポットなのだけれども、今まで機会が合わなくてまだいちども行っていない。この四月に早稲田の「どらま館」で演劇をマチネで観たとき、帰ってから「しまった、<shy>がすぐ近くだったんだから、何もやっていなくっても寄ってみればよかった!」と気づいて悔やんだりして、それ以降室伏鴻さんがらみのイヴェントが続いてはいるのだけれども、まるでスケジュールが合わずに今日まで来た。今日は鈴木晶さんと國吉和子さんとの対談で、ま、わたしのよく知る人ではないし、今そこまでニジンスキーに興味があるわけでもないのだけれども、この日を逃すと次にいつ行けるかわからないので行くことにした次第。先に予約してあったおとといにEさんにお会い出来たのもよかった。

 5時近くなって家を出る。やはり、部屋の中より外の方がよっぽど涼しいのだ。行き先のメトロの早稲田の駅はわたしの勤め先の飯田橋のふたつ先なだけで、つまり経路はいつもの通勤経路とまるで同じなわけで、いつもは早朝に乗る電車にそうやって夕方に乗るのは、ちょっと変な感じだ。夕暮れの陽射しが電車の窓から射し込んできてまぶしい。朝の出勤時とはちょうど12時間ちがうのだから当然だけれども、まるっきしちがう光だ。

 早稲田駅に着いて外に出て、まだ時間があるので「松屋」で牛めしを食べる。場所は何度もマップで確認していたので、迷わずに直行出来た。ちょうど日の暮れた時間で、藍色の空にピンクに染まった雲が横線を引いている。

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 「shy」は普段はカフェとしてやっていて、その壁面には室伏さんの蔵書やCDなどがぎっしりと並べられ、つまり「室伏鴻アーカイヴ」なのだけれども、やはり室伏さんが亡くなられたあと、このようなスポットを立ち上げられたEさんの尽力、その成果には敬服するしかない。目にしていた写真などから、わたしはてっきりビルの2階にあるものだと思い込んでいたけれども、じっさいには1階に道路に面していて、歩く人はその中を覗き込んで行くのだ。店に入ってEさんにあいさつして席にすわる。お客さんの数は多く(といっても10人も入るとけっこう満員感になるのだけれども)、けっきょくぎっしりのお客さんになった。わたしのすぐあとに先日お会いしたCさんもやはりいらっしゃって、
 今日のトークは、ニジンスキーの写真などを映しながら、主に鈴木晶さんによるレクチャーで進行し、ひととおり語り終えたところで國吉さんが加わるという感じ。わたしはニジンスキーについてはディアギレフの「バレエ・リュス」の花形ダンサーであったこと、「牧神の午後」がスキャンダラスな評判になるが早くに引退し、以後は精神の病いに陥ったことぐらいしか知らない。それでいろいろと興味深くも聴いたわけだけれども、その自らの振付けにおいて当時は考えられなかった中性的なダンスを行ったこと、残された写真から推測するに、エジプトのレリーフ彫刻から影響を受け、(観客の視線から)「平面性」を重視するような振付けだったのではないか、などという話はおもしろかった。

 9時半頃に帰路について、家に着くのは11時ぐらいになるだろう。ケータイでニュースをみていると、高校野球(この日は準々決勝)で秋田の金足農業高校が1点リードされた9回裏、逆転サヨナラ2ランスクイズを決めてベスト4に勝ち進んだという。金足農業の前の試合は見ていて印象に残っていて、ちょっと応援したい気分でもあっただけに、その「2ランスクイズ」の映像を早く帰宅してテレビで見たい!と思うのだった。
 帰宅してスポーツニュースでそのシーンを見、「これはめったに見られないプレーだ」とは思うものの、やはりリアルタイムにナマで見たかったものだ。

 今日から、図書館で借りているもう一冊、現代作家のアンソロジー「小説の家」というのを読みはじめた。もともとは美術手帖に不定期に掲載された小説を集めたもので、ヴィジュアル的に各作家とも挿画とか写真とか共に掲載していて、長嶋有のように自分でマンガを描いちゃってる人もいるし、阿部和重の作品は白いインクで印刷されていて、紙面に光をあてる角度を調整しないと読めなかったりする。この本全部読んでしまうかどうかわからないけれども、最低でも岡田利規、青木淳吾、阿部和重は読みたい。などと思いながらも今日は律儀に冒頭の柴崎友香から読んだのだった。

 さあ寝ようというとき、ニェネントがリヴィングの出窓のところにいて、ちょうどカーテンの間から頭を出して、「本日はこれにて<幕>でございまする」とやっているみたいにみえたので、写真を撮ってみた。本日は、これにて<幕>でございまする。

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■ 2018-08-17(Fri)

 今朝、家の近くでネコを見た。ほとんど黒の、鼻のまわりだけ白いネコだし、いつもニェッタのいた場所のそばにいたもので、さいしょは「ニェッタがいた!」と思ったのだけれども、ニェッタは鼻の横も黒くなっているから、このネコはニェッタではない(ケータイでアップにしての撮影なので、粒子が粗い)。

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 この写真は「さて、ネコはどこにいるでしょう?」みたいになってしまったが。

        f:id:crosstalk:20180818104951j:image

 わたしが近づいても逃げて行かず、じっとこちらを見ていた。けっこう人慣れしている気配もある。
 ‥‥しかし、ニェッタは元気にしているだろうか? 今日見たネコ、ひょっとしたらニェッタの血縁かもしれない。

 今日は涼しい。早朝の出勤のときには半袖では涼しすぎて、「上にシャツでも羽織ってくればよかった」とか思った。どうやら一般の「夏休み」も終わったのか、今日の仕事場は人にあふれていた。やはり、人がいないよりはある程度人の気配を感じる方が、こちらの気分も生き生きしてくるように思う。
 それでちょっと、今日は金曜日だし、仕事の帰りに映画でも観て帰ろうかな、などとも思ったのだけれども、明日は出かける予定があるし、来週再来週は終末に予定もないし、映画を観たりするのは来週とかにしようと思い、家に帰るのだった。

 帰宅して昼食はお茶漬けでサッサッとすませて、パソコンに向かいながらテレビの高校野球を見るような見ないような。こうやってしばらく高校野球を見ていると「このチームを見るのは2回目だ」とかなってきて、応援したくなるチームも出来、つまり少しばかり、高校野球のファンになってしまった気配である。
 そうやってわたしがパソコンに向かいつつテレビを見ているとき、ニェネントはわたしから1メートル半ぐらいのところでゴロッと横になっている。そんなとき、玄関の郵便受けに何かが投げ込まれる音がした。ニェネントがむくっと頭を起こしてこっちを見て、わたしと目が合う。「何か来たね」とわたしがいうと、ニェネントはのそっと起き上がり、「どれ、見て来てあげるよ」みたいに玄関ドアのところへ行き、郵便受けを覗き込むのだった。これで、届いたものを口にくわえて戻って来てくれたら<パーフェクト>なんだけれども、ニェネントがそんなこと出来るはずはない、なっ!

 夕食は、昨日つくって残りを冷蔵庫にぶちこんでおいた水炊きを温めて。今回はなぜかとてもおいしい。って、それは単にあたらしいポン酢を使ったからだろう。

 

 

[](50)ジェイムズ・ジョイス「室内楽」福田陸太郎:訳。 (50)ジェイムズ・ジョイス「室内楽」福田陸太郎:訳。を含むブックマーク

 さて今日は、先日訳してみたジョイスの「室内楽」の「Strings in the earth and the air」の大御所の翻訳、先日届いた「世界名詩集大成」の「イギリス2」に載っていた、福田陸太郎氏のものを掲載してみます。
 福田陸太郎という人はWikipediaをみると英米文学の大御所で、ホイットマンの詩の翻訳などで「日本翻訳出版文化賞」を受賞されておられる。そもそもが詩人でもあられたようで、こうやってわたしが酷い翻訳をやってしまったあとにこの大御所の翻訳を載せるなどというのは、「赤面」どころの騒ぎではないというのが本心。

 それでは、読んでみましょう。

地と空の中の絃(げん)は
  音楽を美しくする。
絃は河辺(かわべ)に
  柳のすれ合うところに。

川ぞいに音楽がある、
  そこに愛の神がさまようから。
マントに青白い花をつけ、
頭髪に暗(くら)い葉をつけて。

真に静かにかなでながら、
  頭をその調べにうなだれ、
指はさまよう、
  楽器の上に。

うす闇は紫水晶の色から
  深い、さらに深い青色に変る。
ランプは淡い緑の輝きで
  大路(おうじ)の木々を満たす。

古いピアノが一曲を奏する、
  静かにゆっくりそして陽気に。
彼女は黄色い鍵盤にうつむき、
  彼女の頭はこちらへ向く。

はにかむ思いと深刻(しんこく)な広く開いた眼と
  思いのままにさまよう手―――
うす闇は更に暗い青に変る、
  紫水晶の光をもって。

 ‥‥もういちど、原詩を掲載しておきましょう。

Strings in the earth and the air
Make music sweet
Strings by the river
Where the willows meet

There's music along the river
For love wanders there
Pale flowers on his mantle
Dark leaves on his hair

All softly straying
With head to the music bent
And fingers playing
Upon an instrument

Twilight turns from amethyst
To deep and deeper blue
Lamps light with a pale green glow
The trees of the avenue

The old piano plays an air
Sedate and slow and gay
She bends upon the yellow keys
Her head inclines this way

Shy thoughts and grave wide eyes
And hands that wander as they list
Twilight turns a darker blue
With lights of amethyst.

 こうやって読むと、福田氏の翻訳はおどろくほどの対語訳になっていて、しかもそこに詩の美しさをあらわしていると思います。原詩のニュアンスを翻訳にも活かすということでは、やはりわたしのように無学でセンスのないものには適うものではありませんね。

 特にこの二節目の、「For love wanders there」というのが「そこに愛の神がさまようから」と訳されていたのに「眼からウロコが落ちた」というか、わたしなんか「彷徨う恋人のために」と訳したのはまさに「誤訳」。冒頭の「Make music sweet」をわたしは「甘美な音楽を産む」と、これはわかってて誤訳したんですけれどもね。あと、「Sedate and slow and gay」をわたしは「静かにゆっくりとやさしく」としたけれども、「gay」に「やさしく」という意味はないので、ここは「明るく」とすべきだった。

 ‥‥でもですね、わたしの訳もそんなにボロクソに酷いわけでもなく、それなりにいいところもあるように自負いたします。もういちどわたしの訳を引いておきましょう。

大地と大気の弦が 甘美な音楽を産む
河のそばの弦が 柳と出会うところにて

河に沿う音楽は 彷徨う恋人のために流れる
薄青い花は彼の外套に 暗い色の葉は彼の髪に

すべては柔らかに彷徨う 音楽の示す方角へと
そして指は奏でる 楽器の上を

たそがれは紫水晶の紫から 深く深い青へと変わりゆく
淡い緑の灯火が燃え 並木道の樹を照らす

古いピアノは旋律を奏でる 静かににゆっくりとやさしく
彼女は黄色のキーを弾き その頭を傾ける

内気な想いと沈痛に開かれた瞳 傾げられた手
たそがれはより暗い青になる 紫水晶の明かりとともに

 

[]「星の子」今村夏子:著 「星の子」今村夏子:著を含むブックマーク

 

星の子

星の子

 小さい頃に病弱だった(これはきっと重症のアトピーだ)ちーちゃんの両親は、娘を健康にしたい一心から、知人にすすめられるままに新興宗教に入信してしまう。ちーちゃんは健康になるのだが、そのうち、お姉さんは家出してしまい、以後行方はわからなくなってしまう。ちーちゃんはごく普通に小学校、中学校と通い、高校進学も間近になる。そんなちーちゃんの暮らしを、ちーちゃんの一人称で彼女の視点からだけ描いた作品。

 描かれた年代が「こちらあみ子」のあみ子の成長していく年代と重なることもあるし、お姉さんの家出とか家族が危うくなるあたりからも、「こちらあみ子」と比較したくもなるのだけれども、ちーちゃんの意識の中には「信仰心」が出てくるわけでもなく、ごく普通の学園生活がユーモアたっぷりに語られ、ときどき笑ってしまったりする。でもおそらくは、ちーちゃんの中では両親が新興宗教に入信したのは自分を健康にするためだった、という意識はあるのだろう。さらっと、家がだんだんに貧乏になって行くらしい様子も語られる(住む家が引っ越しのたびに狭くなって行く)。それなりに宗教団体の集会なども催されてちーちゃんも参加して、同じ歳ぐらいの知り合いも出来る。きっとクラスの皆はちーちゃんの家が新興宗教にハマっていることを知っている。「めんくい」のちーちゃんが好きになる南先生は、ちーちゃんを拒絶することになるけれど(ま、モラル的に当然だけれども)、このあたりは「こちらあみ子」での「のり君」の存在に対応している感じがする。あみ子は高校に進学しなかったけれども、ちーちゃんがどのように高校進学するかというポイントはこの作品でそこまでは語られず、宗教団体の施設へ家族で泊まりがけで参加する全国集会の、その夜に父母とちーちゃんとが夜空をみつめて流れ星を探すところで作品は終わる。そこに、ちーちゃんと父母との微妙な意識のズレが感じられ、この作品からはみ出す、この先のことを想像してしまう。

 今村夏子にはもう一作、「あひる」というのがある。それも読んでみたくなった。


 

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■ 2018-08-16(Thu)

 今朝家を出たとき、赤く萌える美しい朝焼けを見ることができた。もう日の出時刻は遅くなってきていて、わたしが家を出る時間(4時50分)は、今は日の出ギリギリの時間になっている。

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 昨日は、出勤するときに思いがけずもCさんとばったりお会いしてしまったのだけれども、今日は仕事を終えて帰るとき、大手町駅で乗り換えのために歩いているときに、やっぱり思いがけずもこんなところでお会いしてしまったEさんに声をかけられてしまった。きゃ〜っ、こんなところでお会いするなんて。「こういうことってあるものだな」と思うのだが、明後日にはそのEさんのやっているスポットに行く予定で、予約もしてあるので「グッドタイミング」だった、ということはいえる。ひょっとしたらその明後日には、昨日お会いしたCさんも来られるかもしれないし。

 そう、今日は職場で、今まで見たことのない小さなスイカ、これは「ミニスイカ」というのだろうか、そういうのを目にした。明かりがうまく取れないところで撮ったのでわかりにくいけれども、外側はまさに緑色に黒い縞の入った「スイカ模様」で、身は赤いスイカの実。黒いタネもある。直径は5センチぐらいだ。食べてみたかったけれども、「こういうモノもあるんだな〜」という感想。

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 風が強い。おかげで暑さを感じることはないけれども、帰宅してから洗濯をして(普通平日に洗濯はしないのだけれども今日は特別)、外に干してみたら、あっという間に物干竿からハンガーごと飛ばされてしまい、次に見たら地面に転がっているのだった(遠くに飛んで行ってしまわなかったのは<幸い>だった)。昔、ナット・キング・コールだかの歌で「暑い夏をぶっ飛ばせ」という曲があったと記憶しているけれども、この強い風が「暑い夏」を吹き飛ばしてくれるなら、それはそれでいい。

 読んでいたコルタサルの短編集を読み終えたので、今日からは先日図書館で借りた今村夏子の「こちらあみ子」を読みはじめたのだけれども(むかしいちど読んだ本だけれども、先日Aさんが「最近は今村夏子がいい」というので、どうせ記憶に残っていないし再読する)、このくらいの単行本ならば一日で読み終えてしまうのだった。明日は同じ今村夏子の「星の子」を読もう。

 夜は残っていた白菜(ぜんぜん傷んでいなかった)と先日買ったネギと豆腐、それと解凍した鶏肉に昆布を足して「水炊き」をつくった(「つくった」というほどのものではないが)。昨日あたらしいポン酢を買っていてそれで食べたのだが、「こりゃあうまい!」というおいしさだった。ニェネントに分けてあげられないのが残念だ。

 

 

[]「こちらあみ子」(「こちらあみ子」より)今村夏子:著 「こちらあみ子」(「こちらあみ子」より)今村夏子:著を含むブックマーク

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 「あみ子」という女の子の、小学校時代から追って、中学を卒業してまでのストーリーを、基本あみ子の一人称描写で追った作品。あみ子は普通に学校に通っているけれども、どうやら知的障害すれすれのところにいるのだろうか。学校に行かないでいることも多いのだけれども、この小説で読むと、彼女には情緒面で欠けているところはないと思う。ただ、その彼女の感じる「情緒」を他者に伝えるとき、ことばにしてしまえば「思慮のなさ」ということが問題になってくるのだろう。そのことのため、あみ子の家族は崩壊してしまうし、学校であみ子が好意を持ちつづけている男の子ともうまく行かない(あみ子は彼に殴られて歯を折ってしまう)。
 表面だけみれば「やっかいな子」で、そのように処置されるのだけれども、読者は彼女の情緒面の「善意」は理解出来る。その代弁者のように、彼女の学校生活のさいごに、彼女に好意を持っているであろう男の子が登場する。その気分がこの作品のさいしょとさいごに見えてくる「さきちゃん」という少女に投影され、「生きる希望」を読み取るだろう。とてもいい作品だと思った。


 

[]「ピクニック」(「こちらあみ子」より)今村夏子:著 「ピクニック」(「こちらあみ子」より)今村夏子:著を含むブックマーク

 ここでは、「七瀬さん」という女性に対して、仕事仲間の「ルミたち」からの視点で彼女のことが解釈される。「ルミたち」は、テレビタレントと交際しているという七瀬さんに「七瀬さんすごい!」と感情移入(?)していて彼女を応援しているのだが、「ルミたち」は七瀬さんの言うことをただ信じ込んでいるだけで、彼女の言うことが「真実だ」という証拠はどこにもない。そのことをわかっている新入りの仕事仲間は、暗喩的にそのことを指摘しているのだが。

 その七瀬さんの恋人のテレビタレントが、「川に落とした」というケータイを探すため、七瀬さんがほとんど「ドブさらい」のような行為を毎日のように繰り返し、それをルミたちがサポートするという展開は、かなりのブラックユーモアというか、「あぶない」。‥‥こういうのって、あの古屋兎丸のマンガであったように思うけれども。


 

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■ 2018-08-15(Wed)

 73年前のこの日、戦争は終わった。前に評判になったアニメ「この世界の片隅に」を観て、その中でちょっと憎ったらしい義姉が「玉音放送」を聞いて「あ〜、終わった終わった〜っ!」とせいせいしたように伸びをして語る場面で、「きっとああいう風に感じだ人はおおぜいいたんじゃないだろうか?」と、ものすごく共感したことが思い出される。8月15日は暑い。

 出勤のため飯田橋の駅から職場の方へと歩いていたら、まったく思いがけなくも、向こうから歩いて来るのはCさんだった。「な、な、なぜこんな時間(6時20分頃)にこんなところでCさんと出会うのだ?」とびっくりしたのだが、それはCさんの方にしても同じことで、互いに驚き合うのだった。実はCさんはこの近くに住んでおられるということで、「いいところに住まわれているんだな〜」と。Cさんとはひょっとしたらまた、この週末にもお会いすることになるのかもしれない。

 今日も職場に人数も少なく、やることも少ないので普段やらないことに手を出してしまったらけっこう面倒なことになってしまい、それはそれで時間が過ぎ去るのも早くなってしまったのでいいかと。

 仕事を終えて自宅駅で降りる。駅のそばには広い広い空き地があって、今は雑草が生い茂っている。去年の秋にいろいろと測量とか下水工事みたいなことをやっていたので、「近々大きな建物が建設されることになるのかな」と思っていたのだけれども、その後放置されたままだ。こういう空き地は、昔だったら夏休みとか子どもたちの絶好の遊び場になったんじゃないかと思うのだけれども、とにかくは「立ち入り禁止」になっているわけだし、この酷暑では「外で遊んではいけません!」てなことになっているのかもしれない。誰もいない広い土地が、どこか荒廃した世界を思わせる。たしか、ここに自生している草に「ススキ」があったんじゃないかと思う。秋になるとここにススキの草原が見られるのだっただろうか? それはそれで風情があって良い。

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 帰宅してドアを開けると、最近には珍しくニェネントがドアのところまで出て来ていて、「お出迎え」してくれた。昼食は「そうめん」で簡単にすませる。長く受容のなかった「そばつゆ」が、一気になくなってしまった。今日はスーパー「m」が全品一割引きの日なので、涼しくなったら買い物に行こうと考える。
 わたしがこうやって机の前にすわり、パソコンに向かっていると、ニェネントはすぐそばのリヴィングの床の上で「べたー」っと伸びている。ぺっちゃんこになっていて、みているとまるで「ネコのお好み焼き」みたいだと思う。「おい、具合が悪いのかよ?」と心配するが、そういうわけでもなく、突然に起き出して前足をぐ〜んと前に伸ばして頭を低くして腰を上げ、大きな伸びをする。そのあとは後ろ足を伸ばして腰を低くして頭を上げて、それで「伸び」運動の仕上げである。目を細めて大きなあくびをして、また「べたー」っと伸びてしまう。まだ残暑の続く、夏の午後だ。

 3時頃から買い物に出かけ、なんだかあれこれと「おつまみ類」ばかり買い込んでしまった。「そろそろ梅干しがなくなるよな〜」と思って買って帰ったのだが、冷蔵庫に入れようとするとまだ前の梅干しはけっこう残っていた。梅干しなんて「お茶漬け」するときにしか食べないし、これであと3年分ぐらいは大丈夫になってしまった。
 夕食は「チャーハン」にしようと、ネギと焼豚とでチャッチャッとつくって食べ、食べ終えたあとで「アレ? 何か入れ忘れたな?」と思ったら、先日買ったキャベツを使おうと思っていたのを忘れてしまっていた。‥‥ま、キャベツ(炒めると水気が出てしまう?)など入れない方がシンプルでおいしかったりもするのだけれども。

 

 

[]「ジョン・ハウエルへの指示」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「ジョン・ハウエルへの指示」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 冒頭に、「ピーター・ブルックに捧げる」との献辞。まさに「演劇」の世界が舞台となって不条理な展開になるというか。
 舞台観劇に来ていた男が、その第一幕の終わったところでスタッフに「ちょっと、こちらへ‥‥」と楽屋に呼び出され、「いったいなにごと?」と思っていると、第二幕からの主役にされてしまい、衣裳、かつら、めがねをつけられて、舞台に上げられてしまうのである。しかし、舞台に上がってみると彼は主演女優からの「助けて」とのメッセージを聞き取り、表面的なストーリーの背後の舞台全体を覆う陰謀(?)に気づき、その陰謀を阻止しようとするのである。
 舞台を構築しようとするスタッフ、その舞台世界を否定して現実をあらわにしようとする主人公。生身の人間が眼前で<演技>を演じるという、演劇そもそもの不条理性をテーマとした作品だろう。そして主人公が<劇場>から抜け出したあとも、劇場空間を覆っていた<リアリティ>が主人公を追い回すのだ。


 

[]「すべての火は火」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「すべての火は火」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 現代のパリの卑近な不倫話と、「スパルタカス」みたいな古代ローマの剣闘士との話とが交互に語られてほとんど混合するようになり、どちらも炎につつまれることで終幕を迎える。
 ‥‥むむ、今からみるとこういうモダニズム的な作品というのは、いささかなりと古くさく感じてしまうのはたしか。

 これでこの短編集は読み終えたわけだけれども、作者のコルタサルは、やはり魅力的な小説家だったことはたしか。わたしは前半の作品の方が好みだったが、やはり彼の「石蹴り遊び」を読んでみようかな?などという気にはなってしまった。


 

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■ 2018-08-14(Tue)

 昨日のような雷雨が今日もあるかもしれないと、天気予報がいう。朝から少し風があり、そのせいか気温は低く感じるのだけれども湿度が高い。空は晴れていて深く、もうじきに「秋の空」を感じさせるようになるのだろう。

 今日も職場に人は少なく、「コレだったらウチらも休みにしてくれてもよかったのに」と思ったりし、大した仕事もやらないのだがフルタイム職場にいると、仕事をやらないことでかえって疲れてしまうのだった。

 帰宅するとすぐに、注文していた「世界名詩集大成」のイギリス篇2冊が届いた。前に買った同じシリーズの「フランス」巻と同じく、誰かが開いた形跡もない、死蔵されていた美本だった。

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 面白いのは、この本をAmazonで注文したときに、他の古書店も同じくこの本をほぼ同価格で売りに出していたのだが(その古書店の方が3〜40円安かったのだが、そちらは「イギリス1」の方だけの販売で、つまりはめっちゃ高かったわけだけれども)、今日Amazonで同じ本をみてみると、その古書店は一気に「いちまんえん」に値上げしているのだった。‥‥おっとっと、あぶないところだった。1万円ならぜったい買わないもの。
 それで下に書いたように、その「イギリス2」に含まれているはずの、ジョイスの「室内楽」からの詩を一編、翻訳してみようと思っているわけで、今日はその部分は避けて読まないようにしてパラパラと内容をチェックする。ま、とにかくはブレイクの主要詩集「無心の歌」「天国と地獄の結婚」そして「経験の歌」が全訳なのがうれしいし、キーツの「レイミア、イザベラ その他の詩集」も全訳。巻の2の方ではT・S・エリオットの「荒地」も「聖灰水曜日」も全訳。オーデンの「見よ、旅人よ!」も全訳である。すばらしい。

 さて、今日はスーパーの「O」で玉子の安い日で、いろいろと買い物しておきたいのだけれども、買い物に出て昨日のような驟雨や雷に遭うと大変なのでためらっていたのだが、3時近い時間で空にはまったく雲もみられないし、「買い物に行くなら今のうち」と出かける。‥‥おととい、ついつい100円ショップでネギを買ってしまったもので、そのネギを何とか活かしたモノをつくろうと考えて、ずいぶん前に買った白菜もまだ残っているし、豆腐を買い足して「水炊き」をやることにした。それと、安い焼豚を買って、チャーハンもやってやろうと目論む。‥‥しかし帰宅すると炊事がめんどうになってしまい、さんまの蒲焼とかの缶詰を開けただけの夕食にしてしまった。

 

 

[](49)ちょっと中断して、ジェイムズ・ジョイスのことを(またも無謀な試み)。 (49)ちょっと中断して、ジェイムズ・ジョイスのことを(またも無謀な試み)。を含むブックマーク

 先日書いたように、こうやってIncredible String Bandの曲を聴いて、歌詞を訳したりしているとやはり古いイギリス詩(とりわけウィリアム・ブレイクとか)読み返したくなってしまい、そういうところでは「これしかない!」という平凡社の「世界名詩集大成」のイギリスの巻を注文したのですが、その巻の「1」だけでいいや、と思っていたところが「2」もいっしょに買ってしまうことになり、20世紀前半までの(ディラン・トマスまでの)イギリス詩を一気に読めることになりまして、そうするとその巻の「2」にはジェイムズ・ジョイスのデビュー作(最初に活字になった作品)の詩集「室内楽(Chamber Music)」(1907年刊)の全訳も含まれているわけ。するとロビン・ウィリアムソンはそのソロアルバム「Myrrh」(1972)の中で、そのジョイスの「室内楽」から「Strings in the earth and air」という詩に曲をつけたものを歌っているわけで(作曲はロビンではなく、Incredible String Bandの「おとうと弟子」バンドともいわれたDr. Strangely Strangeのメンバー、Ivan Pawleによるものだけれども)、やはりその曲を思い出してしまう。

 ‥‥そのジョイスの詩の原文はわかるわけで、その訳詩が載っているであろう「世界名詩集大成」もおそらくは明日あさってには届くことだろうけれども、その前に、その「Strings in the earth and air」を翻訳してみて、まあ、いかに自分の翻訳がヒドいものであるかという例証ですね。そういう恥さらしなことをやってみましょうということです。
 本が届いたらそこに掲載された訳詩をココに載せ、「いかにわたしの翻訳が酷いか」ということをやってみましょう。

 まずは、その「名曲」であるといってもいいだろう、Robin Williamsonによる、美しい「Strings in the earth and air」を聴いていただきましょう。ここでRobinはマルチレコーディングでヴァイオリンとフルート、マンドリンとベースを演奏していて、この当時のIncredible String Bandのマネージャーだった(相棒のMikeの彼女だった!)Susie W-Tがフルートのソロを、そしてこのときRobinと結婚したばかりだったJanet Williamsonがオルガンでレコーディングに参加しています。

  D

 ‥‥さて、訳してみましょう。まず原詩。

Strings in the earth and the air
Make music sweet
Strings by the river
Where the willows meet

There's music along the river
For love wanders there
Pale flowers on his mantle
Dark leaves on his hair

All softly straying
With head to the music bent
And fingers playing
Upon an instrument

Twilight turns from amethyst
To deep and deeper blue
Lamps light with a pale green glow
The trees of the avenue

The old piano plays an air
Sedate and slow and gay
She bends upon the yellow keys
Her head inclines this way

Shy thoughts and grave wide eyes
And hands that wander as they list
Twilight turns a darker blue
With lights of amethyst.

 ‥‥翻訳。

大地と大気の弦が 甘美な音楽を産む
河のそばの弦が 柳と出会うところにて

河に沿う音楽は 彷徨う恋人のために流れる
薄青い花は彼の外套に 暗い色の葉は彼の髪に

すべては柔らかに彷徨う 音楽の示す方角へと
そして指は奏でる 楽器の上を

たそがれは紫水晶の紫から 深く深い青へと変わりゆく
淡い緑の灯火が燃え 並木道の樹を照らす

古いピアノは旋律を奏でる 静かににゆっくりとやさしく
彼女は黄色のキーを弾き その頭を傾ける

内気な想いと沈痛に開かれた瞳 傾げられた手
たそがれはより暗い青になる 紫水晶の明かりとともに

 

[]「南部高速道路」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「南部高速道路」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 日曜日の午後、その南部高速道路を使ってパリに戻ろうという人たちの車で、道は埋め尽くされている。渋滞がはじまり、主人公は「まいったなー」と思うが、ま、最悪明日にはパリに戻れるだろうと思っている。ところがところが、渋滞はまったく解消されず、周囲の車といっしょに、数メートル走っては当分その場に釘付けという状態がつづく。渋滞の原因はわからず、周囲からいろいろな憶測が聞えてくる。そのうちに主人公の車の周囲で車に乗る人々があれこれとコミュニケートし合い、水や食糧を融通し合うというサークルが生まれはじめる。それは高速道路上のいたるところで同じような情況が起こっていて、そんなコミュニティのリーダー同士の話し合い、コミュニティ相互間での物々交換、品物の売買などが起こる。とにかくは渋滞は何日も何日もつづくのだ。コミュニティ内で皆がそれぞれの役割分担を受け持ち、大きな車は「病院」の役割も果たす。渋滞は季節を越え、主人公ととなりの車の若い女性は「いい仲」になり、彼女が妊娠してしまったことも判明する(笑)。

 わたしは車を運転しないからわからないが、こうやって渋滞に巻き込まれたときの心理はわからないでもない(電車だって、事故で停まってしまって<いつまでも動き出さない>という情況に巻き込まれることはあるのだ)。それまでは自分が目的地に到着することだけを考え、となりで走っている車を運転する人がどんな人なのか、そんなことはまるで思いもしない人たちが、身動きもとれない状態に追い込まれたとき、「まわりの人たちも自分と同じ境遇なのだ」と考えれば<連帯感>も生まれるだろう。この短篇は、そんな連帯感が拡がって、ひとつの原始的なコミュニティがうまれるさまを、けっこうリアルな筆致で描く。そこでは国家の法律も警察の規制も無力。皆が互いのことを思いやり、<社会>を形成して行く。

 でもあるとき<渋滞>はとつぜんに解消し、皆はバラバラに自分の車の運転にかかづらうことになるのだ。この短篇のラストは、そんな主人公の独白だろうか。

車は今時速八十キロで、少しずつ明るさを増して行く光に向かってひた走っている。なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないか、その理由は誰にもわからなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた。


 

[]「正午の島」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「正午の島」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 主人公のマリーニは、ローマ〜テヘラン間の空路のキャビンクルーなのだろう。毎日同じ航路を飛ぶうちに、ちょうど正午頃に機が地中海のある島のそばを飛ぶことに気づき、その島に魅了されて行く。「その島へ行き、その島で暮らせないだろうか?」
 そしてマリーニはついにその島へ行く。「心を決めさえすれば、そうむずかしいことじゃない」。しかしこれらすべては、彼が死を迎えるまでの幻覚だったのだろうか。

 久々にまた、コルタサルらしい「現実」と「幻想」の交錯する世界。「死」に近接した世界とはきっとこのように、「ここにわたしの夢見た世界がある」と思うような、美しい世界なのだろう。


 

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■ 2018-08-13(Mon)

 夢をみていた。わたしは(多分見知らぬ)若い女性と、それなりに清潔な白壁の倉庫のような建物にいる。外は雨になっているのだが、ふたりで「帰ろう」ということになって外に出る。目の前に高速道路の陸橋のような道があり、わたしたちのいるところから右側にゆるやかに上り坂になっているのだが、その道に、赤土をまき込んで赤い水となった雨水がまさに濁流になって、しぶきをあげながら流れ落ちて来るのがみえた。わたしはいっしょにいる傘をさした女性の方を振り返り、「これではとても帰れないから、戻って雨が小やみになるのを待とう」といっている。

 アラームの響きで起こされる。午前4時。今日からまた一週間の仕事がはじまるのだ。「いやだなあ」と思いながらベッドから起き出し、まずはニェネントの朝食。昨日買った「カリカリ」を出してあげるが、ニェネントはあっという間に食べてしまう。無心に食べているニェネントをみていると、とにかくはとってもおいしそうだ。「ニェネントくん! 喰え! 喰え! 太れ! 太れ!」とか思う。‥‥わたしはまるで食欲がなく、バナナだけの朝食(そういうのは朝食とはいわない)。

 世間は「お盆休み」らしく、朝の電車もいつもより空いている。仕事先にも人影は少なく、仕事量も少ない。暑いといえば暑いし、湿度が高くてムシムシするのだけれども、暦の上ではもう「残暑」ということだろうか。残らなくていいから、早く消えてほしい。帰りの電車の中では、子どもたちの姿が多かった。夏休みの思い出を、お父さんやお母さんとつくるのだな。いい思い出をつくりたまえ。

 自宅駅からの帰り道、空がどんよりと曇っているのが気になった。予報ではこの午後、関東では激しい雷雨に襲われるかもしれないといっていたけれども、ホントに来ちゃうのだろうか。
 ‥‥ホントに来た。2時半ぐらいになって、いきなり「ドーン!」と雷の音。まずは遠くの方で雷鳴が聞えてとかいうのではなく、とつぜん直近である。つづけて雷鳴が響き、リヴィングで寝そべっていたニェネントがびっくりして立ち上がり、右往左往する。さらに「ドーン!」と来て、まるで先日の花火大会。わが家の右からも左からも雷鳴がきて、ステレオ状態。窓の外を見ると、かなり激しい雨が降っていた。ニェネントは和室の方に逃げて行き、「どうしてるのか」とみてみたら、ベッドの下に避難しているのだった。臆病だなー。
 雷はせいぜい10分ぐらいでおさまり、雨もしばらくしたらやんでしまった。まさに夏の「夕立」というところで(「夕立」というには時間的にちょっと早かったけれども)、「こういうのもいいよな」と、懐かしい思いもした。ネットとかをみると東京の方の雷雨はかなり激しかったようで、千葉でこの時間に雨が降ったのは、ウチの辺りのごく狭い区域だけだったようだ。

 ニェネントくんはもう、わたしが夕食でネコ缶を出してあげるまで和室のベッドの下にこもりっきりで、今回は先週の花火大会とはちがってサラウンド効果満点だったので、花火大会のとき以上に怖かったのかもしれない。というか、ベッドの下の空間が居心地がいいと発見したのかもしれない。


 

[]「追い求める男」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「追い求める男」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 おっと、突然に作風が変化して、パリに滞在するジャズマンをジャズ批評家が追うという、ちょっと長めの(百ページ)作品。解説に執筆(発表)年代が書かれていないので困るのだけれども、書かれているジャズ・シーンの描写などから、これは1950年代後期のことで、そう考えると、この作品に書かれているジョニーのモデルはチャーリー・パーカーのようにも思えるのだが、パーカーはヨーロッパで暮らしたことはないだろう。特に「このモデルは誰?」などと考える必要はない。

 というよりも、ここでのジョニーと語り手のブルーノとの関係には、ケルアックの「オン・ザ・ロード」のようなものが見えてくるし、ジョニーが求めた時間感覚、世界との関係性というものはまさに、ケルアックらビートニクスの求めたものなのではないだろうか?
 たしかに、ここでのコルタサルのとつぜんの作風の変化にはとまどうところはあるけれども、この現世を越えて「ここではないどこか」を求めるジョニーの指向は、どこかでシュルレアリストたちの求道精神に通じるものがあるのではないのかと思う。だって、ジャズの「即興演奏」は、シュルレアリストの「即興詩」に通じるものではないのか?

彼はあの即興演奏の中で、何とか脱出しようとして問いかけたり、必死になって手さぐりしながら出口を見つけ出そうとしている。それがまた何とも言えず美しく感じられる。ジョニー自身には理解できないだろうが(それというのも、彼にとっては失敗であるものが、ぼくたちには一つの道、少なくとも一つの道を示すものになっているのだ)、(‥‥)。


 

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■ 2018-08-12(Sun)

 今朝は(昨夜飲んだことだし)思いっきり朝寝をした。ま、「思いっきり」といっても起きたのは8時半のことで、普通に考えてそんなに朝寝ではないだろうけれども、わたしにとっては「とてつもない」朝寝ではあった。とにかくは起き出してテレビを見ながらハムトーストで朝食。ニェネントくんへの朝食は、その前に(6時頃?)寝ぼけながらもいちど起きて出してあげていたのでOK。今日はニェネントくんのごはんをいっぱい、買い出しに行きますからね〜。

 だらだらとテレビを見ていて時間も過ぎ、「では昼食はまた<そば>にしよう」と、食品ストック棚から取り出して開けてみたら、<そば>ではなくって<そうめん>だった。「ま、いいかっ!」と、そうめんで遅い昼食にしたが、やはり食べたかったのは<そば>の方だったな。

 さて、そういうことで我孫子図書館のそばのドラッグストアまで、ニェネントの「ネコ缶」を買いに行く。前にも書いたけど、このドラッグストアが、同じネコ缶でも圧倒的に安いのである。「まとめ買い」すると、一気に何百円もの差になる。それで先日ちょっと調べたのだけれども、その「ネコ缶」、ペットフードの中でも相当に好評価の一品で、「ネコ缶」部門ではトップクラスの好評価。そこまで知っていて買いつづけていたわけではないが、ニェネントもいつも喜んで食べてくれるし、もうやめることは出来ない。
 それで昨日はニェネントの調子がちょっと悪そうに見えたこともあり、あの「どうぶつ病院」以来(せっかくあまり吐かなくなっていたのにまた吐くようになってしまった!)、ニェネントの食生活をちょっと乱れさせてしまったな、という責任も感じていて、「まずはニェネントの食生活をもとに戻してあげよう」という気もちもあり、今は朝も夕方も「ネコ缶」にしてるのだけれども、やはり朝は「カリカリ(固形食)」に戻した方がいいような気もするし、「カリカリ」にもいろいろといいモノがあるのだけれども、せっかく先日まであげていた「食事の吐き戻し軽減」というヤツが、たしかに効果があったようには思うわけで、ま、メーカーはあまり評判がよくないのは知っているけれども、いちどとにかく「好調」だったときの食生活にそっくり戻してあげて、それからまた考えようかな?という気分。

 で、せっかく図書館のそばまで行くのなら「何か借りようか」ということもあり、昨日Aさんに町田康の「湖畔の愛」だかが「いいよ〜!」と聞いていたので、「それを借りようか!」という気分でお出かけ。
 今日は、いくらか猛暑も和らいで、歩いていてそこまで「死ぬ〜」というわけでもない。まずは図書館に到着。‥‥あらら、「湖畔の愛」は「貸出中」ではありませんか。ま、今読んでいるコルタサルの短編集もすぐに読み終わるだろうから、(読めるかどうかわからないけれども)3冊ほど借りてみて退出。それでドラッグストアでネコ缶購入。さらに駅を越えてスーパーの「I」へ行き、「カリカリ」を買う。さらにさらに帰路の途中のコンビニの100円ショップみたいなところに立ち寄り、ネギとかキャベツ(半分)とかバナナとか、いろいろと買って帰る。やはりこの100円ショップは使いでがある。なかなかこの店の方角に出かけることがないのが残念。

 帰宅して、まずはニェネントくんの夕食のネコ缶を出してあげる。皿にネコ缶を出そうとしていると、ニェネントがわたしのすねをペロッとなめてくれるのである(帰宅してすぐズボンを脱いでるので、パンツ一丁なのだ)。あんまりわたしに甘えたりしないニェネントだけに、こういう「ありがとね〜」みたいなサインはいちばんうれしい。
 テレビをつけると高校野球。どことどことのゲームだかわからないけれども9対9とかいう熱戦で、面白そうだから見ていると延長戦になだれこみ、今は延長12回を越えると「タイブレーク」という制度が導入されていて、得点が入りやすいようになっているのだな。先攻チームが2点入れ、「さあ、どうなるかな?」と見ていたら後攻チームは満塁になり、「面白いなー」という感じで、なんと「逆転サヨナラ満塁ホームラン」で決着がついた。夏の高校野球100回の歴史の中で、「逆転サヨナラ満塁ホームラン」というのは初めてのケースだったらしい。負けたチームのキャッチャーが号泣していたのが印象に残り、「やはり高校野球というものも面白いものだ」などと思ったりした。


 

[]「悪魔の涎」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「悪魔の涎」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 ミケランジェロ・アントニオーニがこの短篇からインスパイアされて、「欲望」を撮ることになる。
 主人公のロベルトは翻訳家で、余暇をアマチュア・カメラマンとして過ごしている。彼はパリのこじんまりとした公園である女とそして少年という、年の離れたカップルを目にする。ロベルトはふたりを見ながらその背後にあるドラマを想像し、ふたりをこっそり撮影する。しかし女性に気づかれてしまい、フィルムを渡すように要求される。そのあいだに少年は逃げて行き、それまで無関係と思っていたそばの車の中の男が降りて来て、ロベルトに近づいて来る。ロベルトは「このフィルムはぜったいに渡さない」と決めて逃げ帰り、現像した写真を大きく引き延ばして壁に貼って眺める。
 するとロベルトの目の前でその写真が動き出すように見え、そこであらわされた光景は、実はロベルトが見たと想像したドラマとはまったく異なるものだった。

 ‥‥ここでも、先に読んだ「夜、あおむけにされて」のように、いったい何が<現実>で何が<想像されたもの>なのかということがあいまいになるのだけれども、主人公は覚醒していて、幻覚の中にいるのではないだろうというあたりが、「夜、あおむけにされて」との差異になるだろうか。翻訳もやっているという主人公の文学趣味というか、そういう文学的な世界へのまなざしこそが、彼にこのような体験をさせたのではないかとも思える。そしてこれまで読んだ短篇のようなシュルレアリスムからのダイレクトな影響から、作者自体が一歩抜け出したような印象もある。

 次のようなパリの街の描写に何を感じるか。

十五歳の神秘の町。家々のドアには暗号が記してあり、うす気味の悪い猫がいる。一袋五十フランのフライド・ポテト、四つに折り畳んだポルノ雑誌、空のポケットのような寂しさ、幸運な出会い。町は未知の事物で埋めつくされている。風や街にも似た気易さと貪欲な好奇心に駆られて彼はそれらの事物を熱愛する。


 

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■ 2018-08-11(Sat)

 土曜日だ。毎週聴いているピーター・バラカンの「ウイークエンド サンシャイン」。この朝は途中からゲストに鈴木慶一氏を迎え、「1968年」の特集だった。今のわたしにとって1968年といえば、Incredible String Bandの「The Hangman's Beautiful Daughter」、そして「Wee Tam & The Big Huge」のリリースされた年であり、先日「実はIncredible String Bandが好きだった」とカミングアウトされたバラカン氏、ひょっとしたら「The Hangman's Beautiful Daughter」から何かかけてくれるかな?と期待したのだけれども、ま、やはりあのアルバムからかけるなら代表曲の「A Very Cellular Song」だろうし、それはやはり長尺すぎるわけだったろうというわたしの勝手な判断で、かかることはなかった。
 わたしはこの1968年というのは、やはり大衆音楽(なんて変な言い方だが)にとって画期的な年だったろうと思っていたのだが、こうやってこの日の特集を聴いてみると、いわゆるロックの分野よりも、R&Bだとかブラック・ミュージックにとっての最良の年だったのではないか、という感想にもなった。Aretha FranklinとかMarvin Gaye、そしてJames Brownなど、転回点となるような音をリリースしているのが1968年だ。
 例えばFairport Conventionの「Liege & Lief」も、Frank Zappa(Mothers of Invention)の「Uncle Meat」も、翌1969年のリリースだった(Frank Zappaは、1968年には「We're Only In It For The Money」という傑作はリリースしているが)。
 とにかくはこの1968年、わたしにとっては、それまでのBillboard Top 40とかのヒットチャートを追いかけることから離れて、アルバム単位で音を聴きはじめた、その端緒になるような年だったと思う。いろいろと楽しくも、あれこれと考えてしまう番組だった。

 見た感じだけれども、今日はニェネントの元気がない。「あれ、いないな」と思うと、和室のベッドの脇の狭いスペースで横になっていたり、キャットタワーの隅に丸くなっていたりする。そういうことはこれまでなかったことだし、このところ食事の内容をコロコロと変えたせいではないのだろうかと、ちょっと心配になる。実は今朝もわたしが寝ているときに吐いている声が聞えたし、決して今健康な状態ではないように思える。動物医の指示に従ってやったこととはいえ、ニェネントには悪いことをした。せっかく体調も良くて吐くこともなくなっていた、この前の状態にとりあえずは戻してあげたい。

 今夜は、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターに、イデビアン・クルーの「排気口」を観に行く。観に行くにはウチを4時ぐらいに出ればいいのだけれども、午後から眠くなって昼寝をする。アラームをかけていたのだが、アラームで起こされてもなお強烈に眠く、「行きたくない。このまま寝ていたい」という気もちが強い。でもこの日の公演は「観たい公演」だったし、去年のイデビアンの公演を(チケット買ってあったのに)スルーしている前科もあるだけに、「がんばって行こう!」と起きて、支度をして(ニェネントくんのことは心配だけれども)出かけた。っつうか、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターにはどうやって行くのか、よくわからない。この日記で調べると前に行ったのはちょうど2年前のことで、この千葉に転居してから行くのははじめてのこと。「乗換案内」で調べると、千代田線をどこまでも乗って行って、表参道で半蔵門線〜田園都市線に乗り換えると、乗り換え一回だけで行けるという。楽ではないか。千代田線はけっこう万能である。

 そういうわけで久しぶりの「世田パブ」。ま、今まで何十回も通った、見知ったシアターである。「誰か知っている人が来てるだろうか」と思ったのだが、ちょっと見回してみて、そういう知人の姿は見当たらなかった。やはりクラスタがちがうかな?という感じ。

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 この「排気口」の公演は、10年前の初演のときも観ているのだけれども、もちろん何一つ記憶に残っていない感じ。それでもめっちゃ楽しくも興味深い舞台で、堪能した。感想は下。

 ‥‥終演。「さ、帰ろうか」と席を立ち、出口に向かうと、思いがけなくもAさんとばったり出会ってしまった。‥‥あららら、先週日暮里でお会いしたばかりじゃないですか。それでつまりは「じゃ、飲みに行きましょうか」ということになり、ほんとうに久しぶりに三軒茶屋で飲む。「すずらん通り」の居酒屋ね。ふたりで差し向かいではなく、並んで飲んじゃいました。きゃんきゃんといろいろとおいしいものを食べ、おいしい酒を飲み(って、わたしはいつも「ホッピー」なのだが)、音楽、文学、舞台とかの話題で話もはずんで楽しい時間をすごした。しかしなー、話の流れで、「"crosstalk"をやれよ!」みたいなことになってしまいましてね。‥‥むむむむ。悪酔いしそうだ。

 帰宅して、ちょっと心配な様子だったニェネントも出迎えに出てくれてひと安心。明日は、ニェネントのごはんをまとめて買いに行きますからね!

 

 

[]イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

 十年前の作品の再演。実はわたしはその十年前の舞台を観ているのだけれども、例によって<これっぽっちも>記憶していない。この日記にそのときの感想を書いてあるのだけれども、どうもその十年前にそろそろ「コンテンポラリー・ダンスの危機」みたいな空気があったのか、わたしはけっこう面倒なことをぐちゃぐちゃと書いているようだが、そのほとんどはイデビアン・クルーの舞台とは無関係のことだし、今日その十年ぶりの再演を観たあとに読んでみると、「オレ、けっこういいかげんな見方をしているな」みたいな感想にもなる。そもそもが安藤洋子さんを見間違えている気配があるし(再演で配役が代わったという可能性も、ないわけではないが)。

 それで今日の舞台。これは十年前も書いているけれども「喜劇・駅前旅館」みたいなもの。ただ、じっさいに「喜劇・駅前旅館」という映画は存在していて、1958年に井伏鱒二原作、豊田四郎監督で撮られていて、これはけっこうヒットしたようで配給の東宝は以後「駅前」シリーズを連続してつくることになったみたい。YouTubeでこの「駅前旅館」の予告を観ることは出来るのだけれども、いや、イデビアンの舞台とはまるっきし違う(ま、同じなわけもないのだが)。わたしは舞台の井出さんの番頭がしらは、これはフランキー堺がモデルだろうと思って観ていたのだけれども、映画「駅前旅館」にフランキー堺は出演はしているけれども、番頭役ではなかった。映画での番頭役は森繁久彌と伴淳三郎なのだった。

 その「排気口」の舞台はまさしく旅館が舞台で、奥行きの深い舞台は白木の柱と枠だけの障子戸だけで奥の部屋、廊下、手前の部屋と分けられて、いってみれば映画の「縦の構図」を現前させたものともみえ、総勢17人のダンサー(「踊り子」といいたくなるが)も前景、中景、後景と分かれて、それぞれまるで異なったダンス(踊り)を見せたりもして、これがとっても刺激的というか、「見たことのない構成ではないか?」という感じになる。出演者は井出さんが番頭で、あとたいていの女性ダンサーは女中陣(中にひとり、ヒゲづらの男性も)、それから女中頭とか女将さんとかいるわけだろう。旅館付きの芸者が二人に板前、そして「ご隠居さん」みたいな老人らが旅館スタッフで、そこに黒服につばひろの帽子の梶芽衣子みたいな女性と、やっぱ黒っぽい服のイケイケ系みたいな男子とがカップルで旅館の客。このメンバーで全体では何かしらストーリーが展開しているようだが、小ネタとしてはわかるように思うのだけれども、大きなストーリーはよくわっかりませ〜ん。どうも客の男女はケンカして女が出て行ってしまい、それでなぜか男客の方が番頭らにいたぶられるという展開はある。
 ま、そういう「どういう意味?」とかあまり考えないで、このユニークなダンス世界を楽しむことこそ<いちばん>だろう。動きにくいであろう「和服」をまとっての、そういった制約を考えてのドメスティックなダンス展開なのだろうけれども、それは時に「昭和の日本映画で<ウエストサイド物語>をやったら」みたいなダイナミックさと娯楽性とを感じさせてくれる。先に書いたように、奥行きの深い舞台をうまく使っての立体的な演出、そしてあちらこちらで感じさせる昭和の日本映画からの引用っぽい演出など、「このシーンは何の映画だろう?」*1みたいな引きずり方など、観る人の興味をどこまでも引っぱる演出(振付)はすばらしい。やはりこの作品、「和製コンテンポラリー・ダンス」の、最高水準の作品のひとつだろうとは思う。観終わったあとの「爽快感」もまた、相当なものだった。


 

*1:小津映画みたいなシーンもあったし、「貞子」も、いっしゅん登場するのだ

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■ 2018-08-10(Fri)

 インクレディブル・ストリング・バンド関係で自分勝手にヘタな翻訳をやっていると、やはりイギリス詩の古典というものをもういちど読みたくなってしまい、そういった翻訳詩を包括的に読める本というのは、もう60年も昔に刊行された平凡社の「世界名詩集大成」こそが、今になっても<いちばん>なわけで、前にもフランス詩のシュルレアリスム時代の巻を購入したのだけれども、またAmazonで検索して注文した。ほんとうはウィリアム・ブレイクとかジョン・ダン、キーツとかシェリー、スウィンバーンとかの収録されている第一巻の方だけ買えばいいかな、と思っていたのだけれども、第一巻単独で売っているところと、第二巻と2冊いっしょに売っているところが同じ価格だったので、迷わず第二巻といっしょに注文した。第二巻にはジョイスの詩やエリオットの「荒地」全訳なども載っていて、OKである。

 それと、しゃれのつもりで「肉球新党」というところから缶バッジを購入して、それが今日届いたのだけれども、思っていたよりも本気(マジ)にリベラルな活動しているところのようだ。「猫の生活が第一」という党則、異議があるわけはない。党員証ももらってしまったことだし、これからは「肉球新党」党員として活動するのだ。

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 いや、ほんとうの党員は、ニェネントの方なのか。

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 今日は「生活が第一」ということから、ちょっと物価の調査を。「物価の優等生」ともいわれ、スーパーで売られているあらゆる商品の中でも最安値なのが「もやし」。わたしが茨城にいたころはどこのスーパーでも一袋19円が基本だったけれども、その後「これではやっていけない」という生産者の声もあがり、徐々に値上げされて来ている。すると今では店によってかなり価格もバラバラになり、その価格差が大きくなっている。それで、ウチの近郊の店での「もやし」一袋の価格を比較してみた(じつは一袋の容量をチェックしていないので、公平な比較ではないのだけれども、だいたい少なくて250グラム、多いと350グラムの範囲内だろうと思う)。
 19円:スーパー「m」
 28円:スーパー「K」
 29円:スーパー「O」(ここは「m」に近く、たまに対抗して一袋10円になる)
 39円:コンビニ「F」
 48円:農家直営のスーパー「N」(ここは野菜類は激安だが)
 そもそもの価格が低いので、比率で考えると店によって倍以上の価格差があるわけだけれども、売れる量も相当なものだろうから、個々の店舗の収益もそれなりに大きいものだろう。価格を安く抑えた店はそれだけ「あそこはもやしが安い」と皆が買うから大量に売れ、利益率が低くてもOKだろう。逆に「いちおう品揃えの上でかかせないから」ともやしを置いている店は、それなりの利益率の出る価格設定をするから、大きな価格差が出る。
 しょうじきわたしだって48円のもやしは買いたくないのでスルーするけれども、じっさいには生産者のことを考えれば、そのあたりが「適正価格」なのかもしれない。
 ま、あまり突っ込んだ「調査」ではないけれども、これだけの価格差があるということには興味がある。こういうのでやはり興味深いのは「玉子」の販売価格だけれども、それはまたいずれ。

 それで台風も行ってしまい、また「暑さ」が戻って来た。朝、自宅から駅まで歩くときは空は少し曇っていたけれども、勤め先の地下鉄通路から外に出るとき、青空が見えて陽射しがまぶしかった。この時間はそこまでの暑さでもなく、この陽射しがうれしかったのはたしかだ。

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 仕事を終えて帰宅するときには、また相当の暑さになっていた。今日もまた昼食は「ざるそば」(「ざる」がないので「ざる」には乗っていないのだが)。残りの夏は<そば>で乗り切ろう!

 

 

[]「占領された屋敷」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「占領された屋敷」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 これはほとんどブニュエルの「皆殺しの天使」の原形みたいな。「皆殺しの天使」のように「(理由なく)出られなくなる」というのではなく、こちらは「(理由なく)部屋から追い出される」のである。ま、「理由なく」というか、「音」がして、「ああ、もうこの屋敷のあっち側には入れない」と登場人物は思ってしまうわけだ。

 コルタサルの描く「不条理」は、まさにシュルレアリスム的不条理であり、そういうプロットの展開で読ませる小説家としては、もっとも優れた「シュルレアリスム小説家」という印象を受ける。


 

[]「夜、あおむけにされて」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「夜、あおむけにされて」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 バイクに乗って交通事故を起こし、病院に緊急搬送された男の心象風景。病院のベッドの上で「夢」というか「幻覚」を見るのだが、その「夢」、「幻覚」がリアルな現実だったのか、どちらがどうなのかわからなくなる。それはもちろん、読み手の方で「どちらがどうなのかわからなくなる」ということで、読み手として「ああ、これは<幻覚>なのだ」とか判断するのではなく、自分もまたその「どちらがどうなのかわからない」世界に巻き込まれてしまう。わたしはそんな世界の中を遊泳するしかない。


 

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■ 2018-08-09(Thu)

 台風が来た。上陸こそはしないようだが、昨夜からこの朝にかけて、関東地方に最接近することになっている。昨夜は「明朝目覚めたときに暴風雨だったら大変だ」と思いながらベッドに入ったのだが、起きてみると枕のそばの窓は静かなものだった。風はおろか、雨が降っている気配もない。「今回もよくある<空振り台風>だったか」と起き出し、にゃんにゃんないているニェネントに朝ごはんを出し、自分も着替えてから朝ごはんを食べて出勤。ドアを開けてみると雨はぽちぽち降っていた。風はさほどでもないようなので、「最悪はレインコートを着て駅まで行こうか」というわけでもなく、ビニール傘をさして家を出た。
 しかし事情は昨日と同じで、国道に出てみるとそれなりに風が強い。特に道路を大型トラックが走り抜けたあととか、傘が飛ばされそうな風が巻き起こる。「駅まであと一歩」というところで、傘がおちょこになり、骨折三ヶ所。これはもう使えないな。勤め先で廃棄出来るから捨ててしまおう。
 それで電車に乗って飯田橋で降りてみると、さすが千葉よりは台風から距離があるわけで、ただの曇天で雨も風もない。これで仕事を終えて帰宅する頃には、ウチの近くもおだやかな天気になっているだろうと想像できる。今回の台風の個人的被害:ビニール傘1。
 勤め先の外のコンクリート地面に水たまりが出来ていて、そこにきれいな絵が映っていた。こういう絵を描いてみたいと思ったりする。

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 それで昨日買い物に行けなかったものだから、今日は帰りにふたつ手前の駅で途中下車して、駅のすぐそばにあるスーパーでお買い物をして帰る。‥‥このスーパーはちょっと大きくて、自分でレジをすませて支払いする「セルフレジ」のコーナーがある。四つのセルフレジがまとめて設置されていて、そこをひとりの店員がサポートしている。通常のレジには行列が出来ているけれども、この「セルフレジ」コーナーは空いているので、前からわたしはこの「セルフレジ」を使っている。固定されたバーコードリーダーに商品のバーコードを読み取らせるのだけれども、これがけっこう面白いといえば面白い。「バーコード、強力!」というか、これはたしかに「物流革命」だねと実感できる。野菜類とかはバーコード付いていないのだけれども、サポートの店員さんに聞いてやり方を教わる。ま、うまいことシステムの中に取り込まれてしまっているだけでもあるだろうけれども、今は商品を店で買うということは、すべてこういうことなのだ。
 ‥‥そのスーパーで「ざるそば」が売られているのをみて、「そうだ、<夏>といえば、<ざるそば>とか<そうめん>とか<ひやむぎ>、というものがあったではないか!」と思い出し、ウチにも「そば」のストックがあったはずと、帰宅して食品ストックの棚をチェックして、(賞味期限の切れている)「そば」をみつけて、昼は「ざるそば」にした。とにかくイージーな調理だし、夏向きだし、なぜこんな食材の存在を忘れていたのだろうと(食品ストックの棚が今は自分の目線よりはるかに高いところにあり、ついその存在を忘れてしまうのだ)。これからはまだいっぱいあるストックの「そば」で、夏を乗り切ろうと思う。

 昨夜、沖縄県知事の翁長雄志氏が在職中に急逝された。日本の戦後は、沖縄に「負」を背負い込ませることで成立したところがある。そのことに抵抗し、まさに戦い続けられた翁長氏の死は、「殉職」というにふさわしいものだと思う。沖縄の「平和」は、日本の平和の第一前提だと思う。
 今日見つけた写真は、沖縄の慰霊祭に出席した安倍総理を厳しい表情で見つめる翁長氏の表情の印象的な写真。翁長氏だけでなく、周囲の人物すべての表情が険しい。特に安倍首相のすぐ右に見える少女の顔は記憶に残さなくてはならない。翁長雄志氏に追悼。

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[]「パリにいる若い女性に宛てた手紙」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「パリにいる若い女性に宛てた手紙」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 先に一部読んでしまったあとがきの「解説」によると、コルタサルは若い頃にアルフレッド・ジャリに傾倒していたという。その解説にはジャリは「シュルレアリスト」と書かれているが、1907年には夭折してしまったアルフレッド・ジャリが「シュルレアリスト」なわけはない。つまり「先行したシュルレアリスト」というところで、彼の代表作は「ユビュ王」であった。
 わたしはそんな「ユビュ王」をしかと記憶しているわけではないが、この「パリにいる若い女性に宛てた手紙」におけるユーモア感覚というのは、アルフレッド・ジャリから来ているものではないかと思ったりする。ここにあるのは「ロジック」から成り立つ世界ではなく、いってみれば「不条理」の世界なのだけれども、そこにプレ=シュルレアリスム的なユーモア感覚が加味されていると思った。主人公が吐いて産み出してしまうかわいい兎、その兎が、主人公が借り受けて住む部屋に居住しつづけることを困難に追い込むのだ、とここまで書いてみて、それがどこかカフカの「変身」の変奏曲のようにも思えてしまう。

 コルタサルの作品はどこか「視覚的イメージ」を喚起させられるのだけれども、その「視覚的イメージ」というのが既視のイメージではなく、どこか、「これまでに観たことのない造形作品」を想起させられるところが好きだ。


 

 

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■ 2018-08-08(Wed)

 今朝もまた涼しい! って、台風じゃん! 台風13号が近づいていて、今夜には銚子沖に接近して関東地方はドイヒーなことになるといっている。もう、先日の西日本の豪雨、そして全国的な猛暑と、テレビの画面は連日のようにトリミングされて、周囲にブルーバックの「速報!」というか「アテンション!」というのが映されていて、もうなれっこになってしまったというとヤバいのだが、「これが日常」みたいになってしまっちゃっている。
 とりあえず仕事に出るので家を出ると、曇天ではあるが雨が降っているわけでもなく、道を歩くのも快適。‥‥おっと、家のすぐそばで、久々に見知っている野良に出会ってしまった(ちょっとピントが合っていないけれども)。このコはわたしがこの土地に来てさいしょに出会った野良のはずだから、名前は「ベンナ」(ウォロフ語で<1>の意味)とでも名付けておいたらいいでしょうか。ほんとうにしばらく出会っていなかったけれども、元気でいましたか〜、という感じだ。

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 そういえばまたしばらく、ニェッタの姿を見かけていないのだけれども、元気にしているのだろうか? 「見かけないな〜」と思っているとふいに現われるのがニェッタだから、きっとどこかで元気にやっているものだと思う。また会いたい。

 昨日読んでいた「燈台へ」を読了したので、「さて、今日からは何を読もうか」と、仕事に出る前に部屋を見渡して、このところずっと床に転がっていたコルタサルの短編集を拾い上げ、「今日からはコレだね!」ということにした。
 電車の中でそんなコルタサルを読んで「むむむ!」と思い、何とか仕事を終えて帰宅。少し雨が降り始めていた。今日は」「買い物も行けないかもな」と思ったので、帰りにコンビニに立ち寄って「ミートソース」のレトルトパックを買い、帰宅してからひき肉やタマネギを炒めて買って来たレトルトパックを足し、ケチャップなどをプラスしてミートソースを増量し、そうやっていっぱい出来てしまったミートソースで昼食も夕食もスパゲッティにした。

 昼間、いちど「買い物に行こうか?」と思って外を見ると、雨足も強くないようだし風もそこまで強くないように思ったので、買いたいものもあるし、「買い物に出てみましょうか?」という気になって、外に出てみた。‥‥少し雨は降っているけれども、それほどの雨量ではない。「行けるかな?」と思って国道のところまで出たら思いのほか強風で、「そうか、国道のあたりはこのあたりではいちばんの高台になっていて、風の吹きつけ方もちがうのか」とわかり、ちょっとキビシいので買い物はやめて、ウチに帰ることにした。‥‥買い物は明日、おそらくはわたしの仕事の終わった頃には台風の影響もなくなっていることだろうから、仕事の帰りに近くの駅で途中下車して買い物することにした。

 さて、明日の(というか「明朝の」)台風の進路が気にかかる。暴風雨の中を歩くのはごめんこうむりたいのだが、はたしてどうなってしまうのだろうか。

 

 

[]「続いている公園」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「続いている公園」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 文庫本でわずか2ページの掌編。読んでいて途中で、「あ、コレはこういうオチになるな」という予測はつき、じっさいにその通りだったのだけれども、いやだから、「先の展開が読める!」といことでつまらないというのではない。
 例えば、先日観た映画の「めぐりあう時間たち」でも、その1951年のシークエンスのラストで少年リッチーのクロースアップになるとき、観るものは「このリッチーはのちのリチャードになるのではないのか」と読み取るわけだけれども、それは演出家の意図することだったということでも、この短篇でも、作者はこの展開のことは読者に「読ませている」と思う。まさにそこで、「そういう展開だろう」と読んでしまった読者は、この掌編の宇宙にからめとられてしまっている気がする。

 この作品のストーリーを書くことはいかにも簡単なのだけれども、もちろんそれでは、これからこの短篇を読む人への「侵犯行為」になるからやらない。これは、まさに「活字」の世界の中で繰り拡げられる世界で、それは「活字」の中でこそ<発生>する、「事件」のようなものだ。

 わたしは「活字」の世界というのは次元として何次元になるのかはわからない、「一次元」なのか(それはないだろうけれども)、「二次元」なのか、それとも「三次元」なのか、もしかしたらそれを越えて「四次元」とかにもなってしまうのか、もしくはそれ以上なのか。とにかくは、そういう「活字」世界の次元がいかに奥深くまで達し得るか、ということをこの作品で知ることができるのではないか、とも思う。

 「こういうのはあるよねー」というのではなく、これはある意味でマルセル・デュシャン的な展開なのだと思う。


 

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■ 2018-08-07(Tue)

 今朝は涼しい! 昨日までの暑さが嘘のようだ。次の台風も近づいているというし、その影響で暑さもどこかへ移動して行ったのだろうか。外に出ると空は曇っていて、半袖のTシャツ一枚では肌寒さを感じるくらいだ。今年の夏も終わったのかな。

 帰りの電車だが、大手町駅で乗り換えて千代田線ホームに行くと、ちょっと早いと(つまり東西線の電車が一電車早いのに乗ると)やって来るのが綾瀬駅どまりの電車で、その電車に乗ってもウチまで行ってくれないから、これまでは乗らないでやりすごしていたのだけれども、先日「待てよ? 北千住駅で常磐線快速に乗り換えたら、柏駅でひとつ早い我孫子駅行きの各駅停車の電車に乗れるのではないだろうか?」と思って、その綾瀬駅に乗って北千住で乗り換えたところ、思惑通りに、柏駅で先行して走っていた各駅停車の電車に乗り継ぐことができた(ちょっと、北千住駅での乗り換えがあわただしいが)。つまりコレだと普段よりも10分早く帰宅できるのだ。それ以来、できる限りその電車乗り継ぎを利用して、早く帰れるようにしている。今日もそうやって、12時半ぐらいには帰宅するのだった。

 ‥‥それで帰宅して、キッチンに足を踏み入れると、何かヌルッとしたものを踏んづけてしまった。むむ、感触としてニェネントのゲロ。足元をみるとまさしくそうなのだが、最近いつもの胃液だかの液体だけでなく、食べたものを全部吐いてしまっている。それも一ヶ所ではなく二ヶ所に分けて、朝食べたものをすべて吐いてしまっている。‥‥せっかく、このところネコご飯を吟味して、「これならどうだろう?」とかやって、少なくとも食べたものをそのまま吐いてしまうということはしばらくなかったというのに、どうぶつ病院の処方に従ったらとたんに逆行ですよ。
 さて、これからどうするか? 病院に処方された「消化ケア」のまずそうなネコ缶を、ニェネントが「わたし、コレ食べたくな〜い!」というのを騙してほかの(これならぜったい食べる)ネコ缶とまぜて食べさせて、また吐いてしまうというリスクを冒すのがいいのか。いやいや、そんなことはぜったいにできない。吐くことを抑えるための食事なのに、それでこれまで以上に吐いてしまうのではどうしようもない。しかもニェネントはそのネコ缶を思いっきり好きではないのだし、「治療」でも何でもないじゃないか。かんたんに決めたけれども、もうその「消化ケア」のネコ缶はニェネントには出さない。しばらくはぜったいに食べてくれるいつものネコ缶だけでやって行こう。
 それでどうも、先日行った「どうぶつ病院」は、もう行かない方がいいのではないのか。とにかく、「吐くのが止まったら<健康診断>の必要はないですから」という判断が気にかかるのだ。わたしとしてはやはり、今までニェネントは生まれていちども「健康診断」受けていないのだから、例えば血液検査とか、ひと通り受けさせたい気もちが強い。そういうところで「やらなくていいです」というのは、わたしには納得が行かないところがある。別に「ダメな動物医だ」と決めつけるつもりはないけれども、とにかく今はせっかく順調に来ていた「嘔吐の治療」をわたしなりにやって、やはり「健康診断」を受けさせたい。我孫子の駅の近くに別の「どうぶつ病院」があるのはわかっていて、ウチからの距離はたしかにかなりあるのだけれども、次は(もうちょっと涼しくなってから)そのどうぶつ病院に連れて行くべきだろう。ニェネントの健康が第一!なのである。(‥‥待てよ、ウチのすぐそばには「ペット専門学校」なるものもあるのだけれども、そこで<健康診断>とか「実地学習」みたいにやってくれたりしないのだろうか? いやいや、やっぱりそれはリスクが大きいか。)

 

 

[]「燈台へ」ヴァージニア・ウルフ:著 中村佐喜子:訳 「燈台へ」ヴァージニア・ウルフ:著 中村佐喜子:訳を含むブックマーク

 先に読んだ「ダロウェイ夫人」(1925)で追究した、「意識の流れ」路線の作品で、発表は1927年。「ダロウェイ夫人」では、ヒロインの一日の行動の中に彼女のそれまでの生の流れを読み込んだわけだけれども、この「燈台へ」では、10年という時の流れを逆行して、一日の時の流れのなかにフィードバックしたような。

 本は三部構成で、第一部は「窓」、短い第二部は「時は逝く」、第三部は「燈台」である。舞台になるのは海沿いにあるラムジイ家の「夏の家」で、まず第一部ではそのラムジイ夫妻とその8人の子どもたち、そしてあれこれの客人らと、すこぶる大所帯である。また書き出しがいい。

「えゝ、もちろんよ、あしたお天気さえよければね」と、ラムジイ夫人が云った。「でも、そうすると、あなたはひばりと一緒に起きなきゃならないのよ」とつけ足した。

 ラムジイ家の子どもたちは、家から見えるところにある灯台まで行ってみたい。ラムジイ夫人は上にあるように「いいわよ」という感じなのだけれども、夫であるラムジイ氏(学者である)は頑固者というか偏屈というか、「明日は雨だから行けはしないさ」といって、子どもたちの夢を打ちこわす。特にこのとき6歳のジェームズはがっかりするのだけれども、この気分が第三部に持ち越されて描かれることになる。ラムジイ家に滞在している、誰からも嫌われているチャールズ・タンズリイとか、絵描きのリリーとか、この日に婚約してしまうポールとミンタとか、ラムジイ氏の内面だとか、さまざまな人間模様が描かれて、ヴァージニア・ウルフお得意の「意識の流れ」を追った、圧巻のその夜の晩餐会になる。幾人もの内面を交替交替に追いながら、その中でもラムジイ夫人に焦点を当てながら第一部が終わる。「そして夫人はほゝえみながら、夫を見守った。ふたゝび、彼女は人生に凱歌をあげることができたために。」

 ‥‥あらら、もう第一部でほとんどすべて「完結」しちゃってるじゃないですか!みたいな第一部の終わり方でもあるのだけれども、これが第二部になるとそれから十年経っていて、ラムジイ夫人とか2〜3の人物は亡くなられてしまっている。誰もいなくなったラムジイ家の夏の家に、画家のリリーとか、ラムジイ氏や子どもの幾人かがふたたび訪れることになる。‥‥この、短い第二部がいい。

 第三部。16歳になったジェームズと一歳年上の姉のカム、そして父のラムジイ氏とはボートに乗って「灯台」へと向かう。十年の時を経て、「燈台へ」が実行される。ジェームズは父への敵意、悪意を継続している。父は何だか、何を考えているのだかよくわからない。そして、「夏の家」の近くではリリーが海を見ながら、そんな十年前の情況を思い出してもいる。そしてリリーは、この作品のラストで、カンバスの上に「私の幻影(ヴィジョン)」をとらえるのである。

 ‥‥ラムジイ夫人は、どこか「ダロウェイ夫人」のようなところもあり、世俗の中でその日の暮らしを切り盛りする「世俗の人」みたいにみえる。第一部の登場人物たちもどこか、世俗の中で生きる人ともいえるだろうか。しかし、まずは父のラムジイ氏は、そういう「世俗」を何とか越えようとしている人だろうか。そこに反撥するジェームズとの対立が第三部の興味深いところなのか。そして、これらを眺めているリリーという女性の存在。彼女もまた「世俗」を越えようとする「芸術家」であり、彼女の視点は独特だ。そしてラストにリリーが「わたしのヴィジョン」を得るというこの書物、面白いというのではとてつもなく面白いのであった。



 

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■ 2018-08-06(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 今、折りたたみ式のガラケーを使っているのだけれども、先月から折りたたみすることができなくなり、いつも開きっぱなしのだらしないヤツになってしまっている。それで「修理してもらいますかね」と、仕事の帰りにモバイル・ショップに立ち寄ってみた。先週にもいちど立ち寄ったのだけれども、順番待ちの人がけっこういて、ネットから予約しておけばスムースに行くので、今日訪れることは先週末にネット予約しておいたのだ。
 ‥‥ところが、ショップへ行ってみると先客など誰ひとりいなくって、予約の必要など、まるでなかったのだった。‥‥ま、世間というものはこういうものであろう。それで、店の人に状態を話して修理を依頼すると、「コレは中のデータが全部消えてしまいますけれども」という。「ま、電話帳ぐらいは残せるかと思いますが」というのだが、とにかくいろいろな設定が消えてしまってまた再度設定し直すのもめんどうだし、それなりに「消えてほしくはない」データもある。たいていはパソコンにコピーしてあるはずだけれども、古いフォトデータ(たとえばニェネントのお母さんのミイのフォトなど)で消したくないものもある。って、要するにたかだか「折りたたむことが出来なくなった」ぐらいの、普通の操作に影響のないトラブルだから、「そういうものだ」と我慢することはできる。というか、そのくらいのトラブルで中のデータを消してしまいたくはない。「じゃあいいです」ということで、今のままで使いつづけることにした。

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 昨日、「昔はネコを飼うには<ねこまんま>で充分だった。今の人のネコの飼い方は<過保護>」という人の発言を紹介したのだけれども、考えてみたらそもそも、そんな飼いネコが<ねこまんま>で育てられていた時代というのは、基本ネコは<外飼い>だったわけで、ネコたちは<ねこまんま>では補給しきれない動物性タンパク質とかは、そんな外世界を闊歩する中で自然とゲットしていたわけだろう(忘れてはいけないのは、ネコはそもそも<肉食動物>なのだ)。金井美恵子のエッセイとか読むと、ヘビだってやっつけちゃうのがネコなのだ。今は都市周辺の自然も変わっているし、たとえ飼いネコを<外飼い>にしても(推奨出来ない)、ネコたちが外で充分な小動物を捕えて食べちゃう、なんてこともあまり期待出来ないんじゃないだろうか。しかも今はほとんどのネコは<室内飼い>。そこで、「あんたねー、昔は<ねこまんま>で充分だったんだよ」などとやっても、ネコたちは栄養失調になるだけではないか。ネコ缶やカリカリを与えることは理にかなったことであり、こんなことを「過保護」といわれたらたまったものではない、というか、いまだにそんな前時代的なネコの飼い方をつづけていれば、これまた「動物虐待」に値するだろう。

 さてそれでニェネントくんだが、夕方になって、夕食で例の「消化ケア」のネコ缶を出してあげると、お皿のところで「フン、フン」とやって、そのまま口もつけないで別のところに行ってしまった。‥‥あらら、ニェネントが出されたご飯を食べなかったなんていうのは、もう絶えて久しくなかったこと。たしかにね〜、このネコ缶、わたしが見てもちいっともおいしそうにはみえないのだけれどもね〜。昨日一昨日とこのネコ缶を食べてしまったあと、「もうコレは食べたくないわよ!」という反応っぽい。「困ったな」と思い、こっちはぜったいに食べてくれる別のネコ缶を半分足してまぜまぜして、それでようやく、なんとか食べてくれた。

 読んでいるヴァージニア・ウルフの「燈台へ」は明日にも読了出来そうだけれども、それでまた、(なぜそんなことをまだ憶えていたのかという)古い読書の記憶がよみがえってきたことがある。それは何の本で読んだのかは忘れてしまったけれども、誰かが何かのエッセイで、「ウェルギリウスのことを、<ヴァージル>と翻訳しているひどい本があるのだ」と書いていたのだけれども、なんと、それがまさにこの中村佐喜子訳の「燈台へ」なわけで、登場人物の好きな詩人のことを<ヴァージル>と書き、それでもカッコの注で「紀元前のローマの詩人」とは書くのだが、ま、これはヤバいっすね。たしかにウェルギリウスの英語表記は<Virgil>で、英語圏では<ヴァージル>という発音になるのかもしれないのだけれども、かなり恥ずかしい。ま、中村佐喜子さんは「文学研究者」というよりは「作家肌」の人だから、そういうことには厳密ではなかったのでしょうけれども、ちょっと残念なことではあっただろうと思う(いや、この翻訳全体は、前にも書いたように、とってもいいのです!)。しかし前にもあったことだけれども、本を読んでいて遥かに昔の読書のこと(その本の内容ではなく「断片」的なことだが)を思い出してしまうというのは、何とも不思議なことだとは思う。

 今日はまだ、土曜日曜の<疲労>をひきずっているのか、とっても疲れた感じ。夕食はがんばって「鶏レバーの甘辛煮」というのをつくり、ゆで卵も入れてスタミナをつけることにつとめた。すぐにでも結果が出るといいけれども。

 

 

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■ 2018-08-05(Sun)

 一昨日、日暮里で遠くで雷が光るのを見て(「遠雷」というヤツだな)、そういえば<夏>というのは、そうやって夕方に雷が鳴り、<夕立>におそわれる、というのが季節の風物詩だったと思うのだけれども、夏にそういう<雷>や<夕立>が来る、ということがなくなってしまった気がする。やはり年ごとにそういう「気象」というものが変化してきていて、それがこうやって「酷暑」とかいうことになってきているのだろうか、とも思う。ある程度昼間にガンガンに暑くても、夕方になって雷がゴロゴロ鳴って、それで猛烈な夕立がドサーっと降って、それがあっという間にやんでしまったりして、「ああ、夕立が来て涼しくなったなあ」とか感じることもあったのだ。そのうちに、「夕立」などという言葉も死語になってしまうのかもしれない。

 先日どうぶつ病院でニェネント用の「胃にやさしい」消化ケアのネコ缶を買い、それとネコ用の胃薬とをしばらく続けているのだけれども、どうやらそれ以来、ニェネントの「吐く」クセも治まっているみたいだ。まだ吐くクセが続くようだと、またこの特製のネコ缶を買いに行かなくちゃならないのか。とにかく1缶257円。わたしが普段食べているサバ缶だとかさんまの蒲焼缶とかの倍以上の価格ですからねー。それでしかも安価な固形食のカリカリはやめることになったわけで、朝夕共にネコ缶ですからねー。とにかくニェネントくん、元気でいてくれ!

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 それでネコのことだけれども、先日あるネットの書き込みで、「今のネコブームの世の中の、ネコの飼い方は過保護だ」と書いている人がいて、「どうなんだろうな?」と思った。でも、その書き込みをしていた人物は(ネコを2匹飼っているようだ)、しょっちゅうネコを家に置いて仕事で2〜3日外泊を続けることも多いようで、その人物がアップしていたその飼いネコの写真は、(あくまでその写真で見た感じの問題だけれども)発育不良というか、あまり健康そうには見えなかった。その人は「昔は残ったご飯にみそ汁をかけて、かつお節をふりかけた<ねこまんま>で充分だったのだ」と書く。これは単純に<無知>である。ネコは肉食動物であり、白米など消化出来ないし、みそ汁の塩分はネコの腎臓に負担をかける。それでネコにとって必要とする栄養分を配合したキャットフードが生まれたわけで、それ以降<飼いネコ>の寿命は延びているはずだ。こういう、自分本位のレトロスペクティヴな(?)無教養な飼い方をして、現在のネコの飼い方を<過保護>といってのける人物はやはり、自分本位なネコとの接し方をし、ネコのことを好きなわけでもないのだろうと思う。

 それで「ネコの過保護」ということで検索してみると、ちょっと興味深いサイトにぶち当たった。

猫と付き合うコツは、自分自身がハッピーであること。

 ‥‥なるほど、いつもいつもネコにべったりべったりでは、ネコもたまったものではない。放置するわけではないけれども、ネコとの距離感は大切だ。わたしはニェネントがじっさいどう思ってるかは不明だけれども、いちおう距離は取ってるつもり。だって、追って行けば逃げてしまうし、そこでしつっこく追っても嫌がられるだろうとは思う。でも、じゃあ自分は家にいなくってネコにずっと留守番させていればいいじゃん!とは決して思わない。わたしが家にいれば、ニェネントはちゃんと自分で距離感をはかってわたしのそばにいるわけで、わたしが同じ家にいることに満足しているというか、心の落ち着きを得ていると思う。それはわたしがリヴィングから和室へ、和室からリヴィングへと居場所を変えるとそれとなくいっしょについてくることからもわかるし、特に昨日のように外で花火大会があり、その花火の爆発音が室内まで響いてきたとき、ニェネントはわたしのすぐそばに居たがる。音が怖い、守ってほしいのだ。ニェネントはわたしの存在に大きな意味を感じている。それでうまくタイミングが合えば、わたしがニェネントをなでたり、あれこれとかまったりしたとき、そのあとに「ありがとね!」というメッセージはくれる。夜寝るときには遊びに来て、「かまってね!」とベッドの上に跳び乗って来るのだ。

 上のリンク記事で面白いのは、その「キャットシッター」の条件に「恋愛経験があること」というのがあることで、ま、わたしも大した「恋愛経験」があるわけでもないけれども、こうやってニェネントといっしょに暮らしていると、そういう一方向的に「おまえが好き!」ということだけではぜったいにやっていけない、ということはよくわかる。よくネコは「ツンデレ」だといわれるけれども、もうニェネントなんか、その「ツンデレ」度数はマキシマムで、ま、そういう女性とお付き合いさせていただいたこともありますからね。<小悪魔>というか‥‥。どこまで彼女のごきげんを取るか、どこから「ちょっと、妥協点を見出そうよ」ということになるか、ニェネントとのお付き合いで思い出したりしますからね。
 ‥‥ま、つまり、わたしとニェネントとの相性は、それはそれで、きっといいのです。きっとね(女性を愛したことも、愛されたこともない、さらに友人も誰もいない〜愛情はおろか、友情さえ知らない〜という淋しいアナタは、よけいなことはいわないように! そして、もうネコは飼わないように!)。

 さて、今日も暑い。昨日に続いて今日も、部屋から一歩も外に出なかった。テレビでは高校野球が始まって、いちおう今の住まいの近くの高校も出場しているので、ちょっとは応援するつもりでテレビ観戦したけれども、負けてしまった。残念! 夜になって某国営放送の動物番組を見ていたら、ニェネントがテレビのそばに来て、画面の中の鳥のことをじ〜っと見つめているのだった。ちょっとは狩猟本能が甦ったかな?

 

 

[](48)アルバム「The Hangman's Beautiful Daughter」(8) (48)アルバム「The Hangman's Beautiful Daughter」(8)を含むブックマーク

 さて、Andy Robertsの批評文のようやっとの最終回*1。もうたいへんです。一気に行きましょう。

 さてアメリカでも、負けず劣らずの好評価。New York Magazineのリチャード・ゴールドスタイン(Richard Goldstein)は、頭をかきむしっている。「ロビンの声は、古代の岩石からしみ出す水のような、甲高い囁き声だ」と。読者に「Hangman」のレコードを買うことを強く薦め、「それがあなたの地域で最初の宇宙教会の魔術の崇拝者となることになるだろう」と。さあ、もうちょっと、ゴールドスタインの書くことを読んでみよう。それはほとんどアルバムそのものぐらいいいんだから。どんなかっていうと:「それぞれの曲は金細工で刻まれたような音響詩であり、繊細でしかも力強い。すべての曲の詩は聖歌とわらべ歌との完全な調和である」

 ‥‥むむむ、これで一気に最後まで訳してしまおうと思ったが、やはり疲れてしまった。翻訳という作業は何と骨折れることであることか。世の中の翻訳に携わる方々を敬服いたします!(中には、「それって、機械翻訳でやらしてるだけでしょ!」みたいなのもありますが*2)。


 

*1:ではありませんでした!

*2:例えば、国内盤インクレディブル・ストリング・バンド紙ジャケ版の訳詩ね! これがスゴいんだ!

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■ 2018-08-04(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日は、ダウンである。昨夜そんなにたくさん飲んだという気もしないのだが、朝からまるっきりダウナー気分。とにかく朝はめずらしくも、8時過ぎるまで寝ていた。こういうときは普通、ニェネントが「早くメシをくれよー」と起こしに来るのだが、今日はそういうこともない。ニェネントも今日は「こりゃダメだ」と思ったのかもしれない。

 そうやって8時を過ぎてようやく起き出し、ニェネントの朝ごはんを準備して、なんとか自分の朝ごはん(ハムトースト)を食べ、あとはぼんやりする。FMの「ゴンチチの世界の快適音楽セレクション」とかを聴き、それが終わるとエアチェックしてある、その前の番組、ピーター・バラカンの「ウイークエンド サンシャイン」をMDで聴く。MDのメディアがもう「不良品」になってしまっていて、音飛びがはげしい。

 昼はスパゲッティをゆでてたらこを混ぜて超簡単な昼食にし、またベッドに行って寝る。目覚めるともう夕方だった。

 今日はすぐ近くで大きな「花火大会」がある。去年の初体験ではウチにも大きな音が響き、外を見ると向かいの屋根の上に花火がパーッと拡がるのが見え、ウチから5分ほど歩くと花火見物のスポットがあったので、そこまで行ってしばらく花火見物などしたものだったけれども、今年も行こうか、どうしようかと漠然と思う。

 外が暗くなり、7時半ぐらいになって大きな音が響き、どうやら花火大会が始まった。部屋の中まで花火の音が響いて、部屋が振動する感じだ。とにかくニェネントがおどろいて、部屋の中を右往左往する。どこか隠れるところを探しているようだ。おびえている。去年はわたしも無神経でそんなニェネントの「怯え」に気がつかないで、ニェネントを部屋に残して、花火見物に外に出てしまったのだけれども、これだけニェネントがおびえているのを見たら、とてもニェネントだけを部屋に残して外に出ることはできないな、と思った。
 わたしが机のパソコンに向かっていると、ニェネントはその机の下のスペースに入り込んできた。明らかに花火の音をこわがって、おそれている。わたしのそばに寄って、「守ってほしい」と訴えている。そんなニェネントの背中をなでてやり、「大丈夫だよ」と気を落ち着かせてあげる。これはぜったい、ニェネントをひとり部屋に残してはいけない日だな。年に一回、この「花火大会」の日は、わたしがウチにいてあげて、ニェネントを落ち着かせてあげないといけない日だとわかった。なかなかに「罪つくり」なイヴェントだな。

 花火のつづくあいだずっと、ニェネントは机の下で丸くなっていた。花火大会は1時間ほどで終わったようで、音がしなくなるとニェネントも机の下から這い出し、どこか別のところへ行ってしまった。わたしはこの日は異常なほどたっぷりと寝たのだったが、それでも9時頃にはまたベッドに行き、またすぐに寝てしまうのだった。

 

 

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■ 2018-08-03(Fri)

 もう巣立ちしたと思っていた飯田橋のスズメだが、今朝はその巣の近くにスズメがいるのがみられた。はたしてここで営巣していたスズメなのか、それともただ、このあたりのスズメが偶然にこの場所で休んでいただけなのか、今は何とも言えない。

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 金曜日だ。今日は仕事のあと、竹橋の近代美術館に行くことにした。企画展の「ゴードン・マッタ=クラーク展」も観てみたい気もちはあるが、今日もまた常設展「MOMATコレクション」を観る。常設展は季節ごとに展示替えされるし、特に今は、「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」というセクション展示があり、それが目当て。

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 美術館のエントランスには、ゴードン・マッタ=クラークの作品が置かれていて、「お手を触れないで下さい」と書かれているのだが、ツーリスト(だろう)の男の子が、思いっきりいじりまわしていた。

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 この酷暑のもと、美術館の中は涼しく、そして静かで心地いい。あれこれの日本美術史に残る美術作品に囲まれ、まさに<生命>を得る気もちになるだろう。今日は靉光の「眼のある風景」、古賀春江の「海」、北脇昇の「空港」など、日本のシュルレアリスムの先駆といわれるような作品の展示があり、これはその「瀧口修造」のセクションに合わせた展示だったのだろう。
 今年は2018年、あの「1968年」から50年というので、そんな1968年に製作発表された作品群を展示したセクションもあったのだけれども、そこまでに注目する作品もなかった感じがした。しかし今は別コーナーで細江英公の「薔薇刑」の作品の一部も展示されていて、これらの作品からはやはり、今でも大きなインパクトを受ける思いがした。この「薔薇刑」は、1963年の作品だ。

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 その「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」のセクションにたどり着き、実は目当てにしていた小冊子も無事にゲットした(内容は若干期待外れだったが)。

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 展示は内外のシュルレアリストやその周辺の作家の作品(セザンヌの作品まである)、そして赤瀬川原平や荒川修作など、瀧口修造周辺のアヴァンギャルド作家の作品など。いつもこの近代美術館に来ると、「赤瀬川原平がいいな」と思わされるのだけれども、やはり今日もそうなった。そう、思いがけずもジョセフ・コーネルの作品と出会い、しばらく忘れていたコーネルのことを思い出しもし、自分の何かがそのコーネルの箱の中に入って、旅をするような感覚を得た。この日いちばんの収穫。また観に来たい。

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 今日は夜にまた出かける予定もあるので、ちょっと駆け足の鑑賞になってしまった。またゆっくりと来てみよう。一時間ちょっとの滞在で帰路に着き、3時すぎに自宅に戻った。

 さて、今夜は先週につづいて日暮里のd-倉庫。やはり「病める舞姫」をお題としての公演で、この日は黒田育世。「今夜も知人は来ないだろうな」と思い、実は先週から始めているTwitterで「これから日暮里」と書き込むと、Aさんから「行くよー」とのリプライがあった。おお、それでは今夜は日暮里でAさんとかと飲みますか。Aさんとかと飲むのも意外と久しぶりのことになるな。
 5時を過ぎて家を出て、日暮里駅で降りてd-倉庫へ。道すがら、「どこか良さげな居酒屋は?」とか見ながら歩いた。d-倉庫に着くとさっそくに、黒田さんの夫でもあるところのBさんに出会い、「老けましたねー」といわれる。Bさんに会うのも数年ぶりになるからね。

 黒田さんのダンスの感想は下に書くとして、会場にはこのところFacebook上でAさんと論争(?)を継続しているところのCさん、そしてお久しぶりの、まだまだお元気なDさんなどの姿があり、わたしとAさん、そしてCさんとで先に居酒屋を探して飲みはじめ、あとからDさんも合流することになった。って、論争中のおふたりの間にわたしが入って、いっしょに飲むのかよー、こわいなー、という感じ(考えてみたら、Cさんと飲むのはこの日がはじめてのことになる)。
 この日は日が暮れてからかなり涼しくなり(公演がはじまる前には遠方で稲光が光るのがみえて、もうそのときに涼しい風が吹きはじめていた)、外で飲むには絶好の夜。しかも金曜日だし、日暮里駅周辺の居酒屋はどこも満員である。それでも、わたしが来るときに「ここはどうよ?」と気に留めていた居酒屋で空席があり、その店で飲むことになった(ちょっと高い)。Dさんも無事に合流し、いや、Dさんと飲むなんて、ひょっとしたら十年以上ぶりではないかと思う。しかしお元気なDさんだ。
 ま、AさんとCさんが<論争>をはじめてしまう、という展開にはならず、いろいろと楽しい飲み会にはなった。けっきょく店が閉まるまで(意外と早い閉店だ)飲んで、皆と別れて帰路に着いた。いつもと同じ量しか飲んでないと思うけど、けっこう酔ったな。

 

 

[]ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』黒田育世」黒田育世:振付/出演 @日暮里・d-倉庫 ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』黒田育世」黒田育世:振付/出演 @日暮里・d-倉庫を含むブックマーク

 音楽が伊福部昭のミックス。誰もが「おっ! 伊福部昭!」と思うところだろう。正直わたしは、黒田さんはBATIKでの公演のように、自分の身体がヘロヘロの限界に行くまで踊り倒すような舞台になるかと思い、またそういう舞台を期待していたのだけれども、ものすごくキッチリと構成された舞台で、その背後には<大きなストーリー>があるのだと、思わざるを得ないような、そんな舞台だった。
 全体が非常に抑制されていて、それはわたしの眼には「モダンダンスみたいだ」と映り、今わたしが観たいところの、「何かを壊していくような舞台」(先日の伊藤キムの舞台にはそのようなものを読み取った)というようなものは残念ながら感じ取れなかった。わたしはその、今日のダンスのストーリーを読み取れなかったし。

 印象としてどこかコンサヴァティヴな公演だったと思い、彼女がこういうところに落ち着いてしまわないでほしい、そういう感想を抱く公演だった。


 

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■ 2018-08-02(Thu)

 目覚める前に何か悪い夢をみていたようで、その夢のことはまるで記憶に残らないのだが、アラームで起こされて目覚めたあとに、深い絶望感のようなものに包まれていた。この気分を追い払うのにしばらく時間がかかり、いつもの電車に乗る時間に遅れそうになってしまった。

 ニェネントは新しいトイレをさいしょの一回しか使っていない気配で、やはり<ペレット>を買って、敷いてあげないといけないかと思う。
 ニェネントはふだんわたしがリヴィングにいるときは、リヴィングの、窓に近いところに置いてある扇風機(めったに使わない)の前でごろ〜んとなっているか、その横の出窓の上にあがって外をじっとみているかやはりごろ〜んとしているか、さもなくばわたしの机のすぐ近く、キッチンに置いてある、彼女お気に入りの段ボール箱の中で丸くなっているか、だいたいはこのいずれかでる。今日はそんな、段ボール箱の中のニェネントにちょっかいを出し、身体をなでてあげたり、いろいろとかまってやったのだけれども、それがニェネントのツボにはまったというか、どうやらとっても気もちがよかったらしい。そのあとわたしがキッチンを歩くとふいに飛び出して来て、わたしのかかとをうしろから抱え込んでわたしをおどろかせるのだった。それはまあ、ニェネントにはめずらしくわたしにじゃれて遊んでいるというか、ごくたまにしかやってくれないのだけれども、今日はなんだか、ニェネントが「ありがとね〜、気もちよかったよ〜」といっているみたいだった。ニェネントと暮らしていて、最高にうれしいと感じる時だ(普段はわたしにじゃれ付いたりなどしないネコだから)。

 お米がもうなくなってきた。洗濯洗剤も買わなくてはいけない。昨日書いたように、遠いスーパーの「S」までこの酷暑のもと、お米を運ぶためのキャリーを引きずって「お買い物」に出かける。とにかくは「お米」を買うには、こうやって木曜日の「S」の全品一割引きの日(アルコール類は除く)に買えば、「あきたこまち」が税込みで5キロ1600円ぐらいで買えるので、もうお米を買うのは木曜日、と決めている。‥‥しかし、5キロ以上の荷物をひきずって、この炎天下、20分とかの道を歩くのはキツい。「重労働」ではあった。

 東京医大で、過去にさかのぼっての入学試験で、女子受験者の点数を10パーセント差し引いて、女子の入学数を減らしていたことがわかったという。スーパーの一割引きではない。「女性は医師になっても離職率が高いから」というのが理由だという。まず、「入学試験」というのは「公正」であるべき制度のはずなのが、そのしょっぱなから女性を排除しようとする動きがあったということ。なんとヒドいことだろう。
 先日の杉田水脈議員の差別発言もきちっと謝罪とかされてないし、幹事長の二階は「つまらんことをいつまでも騒ぐな」みたいな発言をしたという。この安倍政権下で、保守、ウルトラ保守の連中は「もう何を言っても許される」という空気になっているのではないのかと思う。

 「発展途上国」というのがあるとすれば、日本は今、「没落途上国」なのだと思う。その没落の過程は、おそらくは安倍が自民党総裁に三選され、2年後に東京オリンピックが開催されるというところで、ひとまずの没落の「底値」に至るのではないかと思える。2020年の東京オリンピックは、まるで1936年のベルリン・オリンピックに酷似したオリンピックになるのではないのか。NHKのニュースではオリンピックを「国威発揚」の場と語り、まるで戦時下のような「オリンピック特別体制」が敷かれるようだ。日本はジムバブエのような国になるのだろうか。

 今日は溝口健二監督の遺作、「赤線地帯」を観た。

 

 

[]「赤線地帯」(1956) 溝口健二:監督 「赤線地帯」(1956)   溝口健二:監督を含むブックマーク

 脚本はいつもの依田義賢ではなく、成澤昌茂という人。撮影は宮川一夫で、ちょっと奇怪な(テルミンを使っている?)音楽は黛敏郎。そしてこの作品のチーフ助監督は、増村保造だった。特定の主演というのはいなくて、京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子らによる群像劇。当時のリアルタイムな「売春防止法」制定に合わせ、そういった銘酒屋(この時代はもう「銘酒屋」とはいわないのか)を舞台として、その店の複数の娼婦らのドラマを描いたもので、溝口監督の得意とするところ、ともいえる作品。

 舞台は吉原らしいけれども、もちろんセット撮影で、美術はもちろん水谷浩。店の中などでも単に水平、垂直の線だけでなく、巧みに斜めの枠や曲線を画面の中に取り入れ、さすがにみごとな空間をつくる。そして、冒頭からしばらく続く、縦の構図の撮影のすばらしさはやはり宮川一夫の真骨頂で、ここに溝口監督の演出する女優たちの共演が重なるのだから、文句のつけようがない感じ。決して重たくはならずに軽快なテンポで進むドラマだけれども、当時の女性たちのつらさ、苦しみは溝口監督らしくも強烈に表出されていたと思う(今の女性たちもまた、今になっても<つらい>のだが)。

 どの女優さんもすばらしくって、「さすがに溝口監督」と思うのだけれども、わたしはとりわけ木暮実千代の「子持ち、通いの娼婦」のパートが好きで、それで彼女の「あがり」を、病弱の旦那さんが赤ちゃんを背負って待っていて、いっしょに「中華ソバ」の店に入って中華ソバをふたりで食べるシーンが大好き。見ていても何だか具も入っていなくってまずそうなラーメンなのだけれども、旦那さんはすぐに食べちゃって、木暮実千代はひとくち食べただけで旦那さんにあげ、旦那さんは「ここのソバはおいしいね〜」と、それも食べてしまう。何でもないシーンだけれども、やはり溝口監督はすごいな、と思わされる。
 そんな木暮実千代が、「子どものミルクひとつ、思うように買えないで、何が文化国家よ! 私は死なないわよ!」と呪詛を語るシーンは意外というか<ナマ>な呪詛で、依田義賢とは違ったテイストを感じさせられた。

 ちょうどわたしが先日入手した2年前の「キネマ旬報」が「溝口健二&増村保造映画祭」の特集で、そこでこの脚本の成澤昌茂氏が、この「赤線地帯」に関してインタヴューに答えているのが、とっても面白い。溝口監督は成澤氏の初稿を読んで投げつけ、「こんなホンで俺が撮れると思っているのか、馬鹿野郎!」と罵倒し、「君は吉原を知らないから駄目だ、吉原の郭に行って帳場で書きなさい」と言われ、じっさいに吉原の帳場で書き直したということ。
 まず三益愛子に関しては、彼女に、「君はね、土の上を歩いていないよ。板の上を歩いているよ」とダメ出ししたらしい。「板の上」とは「舞台」のこと。なるほどねー。京マチ子には、「だめです、感情がない!」といい、京マチ子は段々に大芝居になって行き、それで本番のとき、溝口監督はひとこと、「京くん、今の感情の、九分を引っ込めなさい」と言ったということ。溝口監督の演出術の一端がうかがえる。木暮実千代の演技には溝口監督は「芝居のテンポがよくないねえ」と言ったらしいけど、木暮実千代は「テンポ、テンポって、こんなんじゃあ私は芝居ができないわ!」って、溝口監督に噛みついたらしい。溝口監督に噛みついたのは木暮さんだけだと。
 若尾文子も「肺活量が足りませんよ」とかいろいろとダメ出しされ、家で泣いてきて、次の日の撮影で顔が腫れてるからそう言うと、彼女は「泣いてません!」と答えたらしい(じっさい、彼女はこのとき泣いたのだと、別のインタヴューで語っている)。溝口監督は成澤氏に、この役のモデルになった女性を見せてやるようにといわれ、彼女をこの役のモデルになったふたりの女性のところに連れて行ったということ。彼女はそれを吸収し、この映画の「やすみ」という女性をうまく演じたのだという。

 先日読んだ金井美恵子の「スタア誕生」で、登場人物の「金魚の娘」は映画界に入り、ひょっとしたらこの「赤線地帯」で、まだ若くして娼婦になろうとする娘役で銀幕デビューしたのではないか、と書くのだが、その娘とは、この映画のラストで「‥‥ちょっと、ちょっと‥‥」と慣れない声で道行く人に声をかける、あの印象的なラストシーンに登場した女性だった、ということになるのだろうか。


 

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■ 2018-08-01(Wed)

 ニェネントの新しいトイレを買って、まずはその新しいトイレをニェネントくんが使ってくれるかどうかが心配だったのだけれども、今朝起きてリヴィングに行ってみると、ちゃんと新しいトイレを使ってくれていた。とりあえずはホッとした。

 一時期、「これで暑さも一段落かな?」と思っていたのだけれども、またまた酷暑がぶり返して来たようだ。どうも朝に家を出るときに、「やっぱりニェネントのために、エアコンをつけっぱなしで出ようか?」とも思うのだけれども、ニェネントは「あたいの祖先はエジプトの出だから、暑さなんかぜんぜん大丈夫なのよ〜」といっているというか、きっとニェネントはサバンナ気候みたいなのは平気のへいざで(ま、今の日本の気候は「サバンナ気候」ではないのだが)、「暑さに弱い」のはわたしの方なんだろうと思い、エアコンは切って出るのであった。
 それで仕事が終わって昼すぎに家に戻ってみると、やっぱり「元気なニェネントちゃん」というか(もう「ちゃん」付けするには「おばさん」なのだが)、チャンチャンと、元気にお出迎えしてくれるのであった(ただし、お出迎えのあとはリヴィングでずっとゴロ寝している)。

 今日はスーパーの「m」が水曜日で全品一割引き(アルコール類は抜かす)の日なので、いろいろと買っておきたいものもある。3時ぐらいになってお買い物にお出かけ。外の陽射しはやはり強く、ジリジリと身を焦がされるように暑い。買い物を終えて外に出ると、スーパーのすぐそばで年配の男性がレジ袋を地面に置き、ひざに手をあてて身体を曲げ、赤い顔をして苦しそうな様子に見えた。「この人、熱中症なんじゃないかしらん」と思い、「だいじょうぶですか?」と声をかけた。すると男性は「今、タクシーを呼んだところだからだいじょうぶです」という答えだった。それでわたしは安心してしまって、「暑いですから、お大事に」とか言って帰って来たのだったけれども、あとで考えたら、「ではタクシーが来るのをわたしが見てますから、店の中とか涼しいところにいて待ってて下さい」とかいうことまでやらないと、全然ケアしたことにならなかったな、と思った。声をかけたのはよかったとしても、20点。
 帰宅して、洗濯の洗剤を買うのを忘れていたのに気づいた。米もそろそろなくなってきてるし、明日はもっと遠いところのスーパー「S」が全品一割引き(アルコール類は抜かす)なので、やっぱり明日も買い物に出なくっちゃならないな、と思う。やはり明日も暑いのだろうか。外に出るのはイヤだ。

 夕食はまだ残っているトマトシチューですませ、DVDで「めぐりあう時間たち」をもういちど観て、もう暗くなったので寝る。

 

 

[]「めぐりあう時間たち」(2002) マイケル・カニンガム:原作 スティーブン・ダルドリー:監督 「めぐりあう時間たち」(2002)   マイケル・カニンガム:原作 スティーブン・ダルドリー:監督を含むブックマーク

 原作は、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」に触発されて書かれたマイケル・カニンガムによるもので、この原作の邦訳も出ているようだ。ヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)の入水自殺のシーンにはさまれて、そのウルフの「ダロウェイ夫人」執筆当時の1923年のストーリー、そして、1951年に「ダロウェイ夫人」を読む女性(ジュリアン・ムーア)のストーリー、2001年の、クラリッサという名の、「ダロウェイ夫人」とあだ名された女性(メリル・ストリープ)のストーリーと、三つのストーリーが描かれる。

 ヴァージニア・ウルフのパートでは木々、植物の緑色が強調され、逆光の美しい画面。1951年のパートは、黄色みがかった色彩、そして2001年ではグレーを基調として、青みのかかった色彩と分けられていて、観ていてストーリーが別の時代に移行しても、その画面のタッチで「ああ、いつの時代だな」というのが自然と了解できる。そして、その三つの時代をつなぐのがフィリップ・グラスの音楽で、これが単に映像のBGMということを越えて、映画の構成というものに深く関わってもいるし、音楽としても聴きごたえのある、美しいものだった。ヴァージニア・ウルフを演じるニコ―ル・キッドマンは「付け鼻」か何かの特殊メイクを施していて、それでも丸っきりヴァージニア・ウルフには似ていないのだけれども、とにかくはぜったいにニコール・キッドマンには見えないので、それはそれで「これはヴァージニア・ウルフなのだ」という気分で観ることが出来ただろうか。

 もちろん、すべての時代のストーリーに、小説「ダロウェイ夫人」が深く関わることになり、特にわたしは1951年の、ジュリアン・ムーアの主演するパートに強く惹かれた。この映画はどのパートも優れた俳優陣による素晴らしい演技の連続なのだけれども、特にこの1951年のパートがいい。このパートは6人の人物しか登場しないのだけれども、演じたどの俳優も、ちょっとした端役に至るまで、みごとな演技をみせてくれる。とにかくジュリアン・ムーアがあまりに素晴らしいのだけれども、ドラマの重要な転回点をみせる隣人のトニ・コレット、出番は6〜7分だけれども、強烈であった。そして、ジュリアンの夫役のジョン・C・ライリーもいい。この二人の子どものリッチーが、のちに成長して2001年のストーリーでリチャード(エド・ハリス)として出てくるのだな、と納得させる、このストーリーのさいごの、そのリッチーに視点が移動する演出も見事。そして、その2001年のストーリーのラストに、1951年のストーリーが重なってくる。そこでジュリアンは、あれは「地獄のような生活だった」と語る。

 夫は彼女を愛している。決して暴君ではなく、彼なりの「優しさ」に満ちた愛情を、妻に示している。夫は自分の生活に満足し、「わたしはとっても幸せだ」と語る。しかし、妻にはその夫との暮らしは「地獄」なのだ。描かれた一日はその夫の誕生日であり、妻は夫のために「バースディ・ケーキ」をつくろうとする。それは夫の愛情に答えるための「義務」なのだ。妻は「ダロウェイ夫人」を読んでいて、そのダロウェイ夫人の内面的な危うさを正しく読み取って、自分に重ね合わせているのだろう。彼女には夫とのあいだにリッチーという子どももあり、今二人目の子どもを産もうともしている。表面的には「幸せな家族」なのだけれども、彼女には「幸せ」はない。そこに隣人のトニ・コレットがやって来て、自分はこれから子宮の腫瘍の検査のために病院へ行くので、イヌにえさをあげてほしいと頼みに来る。彼女はその生活に「幸せ」を感じているようだけれども、ただ「子ども」だけが授からないことが「不幸」だ(トニ・コレットが、だんだんにそんな自分の「不幸」を表面化する演技は、あまりに見事!)。ある面で、ジュリアン・ムーアとは真逆の人であろう。ジュリアン・ムーアは、自分の内面の「不幸」を、ここでトニ・コレットと共有出来ると思う。そしてジュリアン・ムーアはトニ・コレットを抱き寄せて、接吻をする(この映画の、いちばんのクライマックスであろう)。このときのトニ・コレットの演技もすごいのだけれども、そんな接吻を受け入れる表情を見せながらも、そのあとには「優しいのね」と語って「平常」に戻る。「何もなかった」のだ。これはトニ・コレットの価値感としても、そばでリッチーという男の子が見ていることも考えても、一面でノーマルな反応だろう。そしてそのことが、ジュリアンを深く傷つけ、彼女は「死」を決意することになる。
 ジュリアンは息子のリッチーを知人に預け(リッチーは情況を感知していやがるわけだ)、自分はホテルに行って持参した「薬」で自殺しようとする。しかし完遂出来ず、リッチーを連れ帰り、ケーキをつくって夫の帰りを待つことになる。
 夫はすべてに満足し、その夜、バスルームで泣いている妻に「早くベッドにおいで」と何度も呼びかける。このシーンがこわい。夫は表面的にはとっても優しいのだが、けっきょく彼が求めているのは「幸せな夫婦」という幻想というのか、ひとつ越えて「妻の幸せとは?」ということはまるで考えていないということがわかるというか、彼女の内面のことは想像すらしていないのだ。それが、彼女には「地獄」なのだ。そしてその「地獄」は、きっと息子のリッチー(リチャード)に引き継がれるのだ。



 

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