ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-10-31(Wed)

 仕事を終えてウチの前に来ると、そこに宅配便のトラックがとまっていて、ちょうど配送の人が荷物をまたトラックに積もうとしているところだった。って、それってわたしが注文してあった「作業台」ではないですか? トラックのところに行き、「それって、◯◯宛てですか?」と聞くと、やはりわたし宛てだった。グッドタイミングというか、あぶないところで「再配送」というめんどうな手続きを踏まないといけないところだった。配送の人にとっても、「これは助かった」というところだっただろう。
 届いた作業台は自分で組み立てるわけで、梱包もそんなに大きいわけではない。今日はこれから昼食をとってまたお出かけして、映画を観ようかなと思っているわけで、とりあえず部屋の中に配送品を入れて、組み立ては明日にしようということにする。

 ということで、今日はまたとなり駅の映画館に映画を観に行く。今日観るのは「500ページの夢の束」という、ほんわか楽しそうな映画。わたしの好きなトニ・コレット、それにダコタ・ファニングが出ているからいいのだ。
 昼食はハムトーストでちゃっちゃっとすませ、「ニェネントくん、ごめんね〜、お留守番してね〜」と家を出て駅まで歩き、電車でとなり駅に。わたしはもうかなり、このとなり駅の映画館の常連と化しつつあり、この10月はこの映画館に来るのも4回目になる。ま、近いことだし、けっこうわたし好みの映画を上映してくれるし、もう都心の映画館へ行くのがめんどうになってしまっている。

 さて、映画館に到着して、チケットを買おうと受付けに行くと、その受付けにいる人が全身黒装束で、顔にはあの「カオナシ」の仮面をかぶっていた。わたしは驚いたときのリアクションが派手なので「ぎょっ!」とばかりにステップして後ずさりすると、けっこう受付けの人たちに受けたみたいだった。そう、この日はまさに「ハロウィン」なもので、それでこんなことをやっているようだった。
 関係ないけれども、そういう「驚いたときのリアクション」というのは、昔はかなり意識してわざとやっていたのだけれども、そのうちにすっかり板についてしまい(?)、意識していなくても、驚いたときにオーバーアクションになってしまうようになった。先日もスーパーで小さい子どもが角から駆け出してきて、びっくりして飛び上がったら、うしろにいたその子のお母さんがその子に、「ほら、店の中で走っちゃ行けません。人がびっくりするでしょ!」なんてたしなめたりするのだった。‥‥というわけで、わたしはコメディー映画の出演者のように、ものごとにオーバーにびっくりする人間になってしまっているのです。

 映画を観終えて4時。また今日も夕食をつくるのがめんどうで、駅の反対側のスーパーまで行き、お弁当を漁るのだった。いつもは買い物しないスーパーに行くと、ちょうど値引きのシールが貼り始められたところだったので、おいしそうな「カキフライ弁当」を買って帰った。駅から空を見上げると、「蒼空」という感じで気もちいい。

        f:id:crosstalk:20181103094635j:image

 自宅駅に戻り、ウチの近くに来ると、またニェッタに出会ってしまった。わたしが近づいてもすぐには逃げては行かない。堂々としている。

        f:id:crosstalk:20181103094731j:image

     f:id:crosstalk:20181103094821j:image

 

[]「500ページの夢の束」ベン・リューイン:監督 「500ページの夢の束」ベン・リューイン:監督を含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181103094908j:image

 ちょっと自閉症の女の子ウェンディ(ダコタ・ファニング)が、「スタートレック」の脚本公募に応募しようとするが(彼女はそもそも「スタートレック」の大ファンで、脚本公募に関わらず以前から自分で脚本を書きつづけていたのだ)、郵送が締め切りに間に合わないことがわかり、その脚本原稿の束を持って、ひとりロサンゼルスへと出かけてしまうという話。正確には「ひとり旅」ではなく、愛犬のピートがついて来てしまい、バッグに隠してバスに乗るのだけれどもバレてしまい、バスから降ろされてしまう。そこから苦吟難銀の旅になるのね。
 ウェンディを支えているソーシャル・ワーカーがトニ・コレットで、とつぜん行方不明になったウェンディを必死に捜す。ウェンディが犬のピートと共に、ロサンゼルス行きのバスから途中で降ろされたことまでは突き止めるのだけれども。

 ま、たしかにハートウォーミングなドラマだけれども、ウェンディが出会う人が皆が皆「いい人」ばかりというわけでもなく、「ひったくり」のカップルに持っている金のほとんどを奪われたり、買い物のときに店主に値段をだまされそうになったり、そういうあたりはリアル。そんな中で同じく「スタートレック」のファン、という警官が彼女の「怖れ」を取り除いて保護したり。

 迷ったウェンディの心の中に、彼女が「スタートレック」のスポックと共にふたりっきりで、見知らぬ惑星の荒野をさまよう光景が浮かぶのだけれども、この映画がとにかくはいいのは、このシーンがあるから。それは単に彼女が「スタートレック」オタクだからそんなことを妄想するのではなく、自閉症であるがゆえの彼女の世界の中で、いったい何が彼女の支えになっているのかが伺えるから。
 そういう、「何を心の拠り所として生きますか?」というものを見せてくれたところに、この映画のいいところがあった。たしかに、観て「元気」をもらえる映画ではあった。


 

[]二〇一八年十月のおさらい 二〇一八年十月のおさらいを含むブックマーク

ダンス・演劇:
●「ウースターグループ×岡田利規(チェルフィッチュ)によるエクスチェンジプログラムプレゼンテーション」@横浜・KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ
●北村明子 Cross Transit project「土の脈」北村明子:演出・構成・振付・出演 @横浜・KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ
●バック・トゥ・バック・シアター「スモール・メタル・オブジェクツ」ブルース・グラッドウィン:演出 @池袋・池袋西口公園

美術:
●「I LEFT my BODY FALL into A RHYTHM」Heather B. Swann @北千住・BUoY

映画:
●「バンクシーを盗んだ男」マルコ・プロゼルピオ:監督
●「シャルロット すさび」岩名雅記:脚本・監督
●「沖縄スパイ戦史」三上智恵・大矢英代:監督
●「ウィンド・リバー」テイラー・シェリダン:脚本・監督
●「500ページの夢の束」ベン・リューイン:監督

読書:
●「初恋」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より) 
●「ランス」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「重ねた唇」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「怪物双生児の生涯の数場面」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「ヴェイン姉妹」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)
●「変身」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「流刑地にて」フランツ・カフカ:著 柏原兵三:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「田舎医者」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「断食芸人」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「巣穴」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「判決」フランツ・カフカ:著 柏原兵三:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「三人の女」ローベルト・ムージル:著 川村二郎:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)
●「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」ヨースタイン・ゴルデル:著 須田朗:監修 池田香代子:訳
●「テヘランでロリータを読む」アーザル・ナフィーシー:著 市川恵里:訳
●「フランケンシュタイン」メアリー・シェリー:著 森下弓子:訳

DVD/ヴィデオ:
●「恐怖分子」(1986) エドワード・ヤン:監督
●「鏡」(1975) アンドレイ・タルコフスキー:脚本(共同)・監督


トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181031

■ 2018-10-30(Tue)

 今日もおだやかな天気がつづく。今週中の平日に上野の「マルセル・デュシャン展」を観に行きたいのだが、今日はやめておいた。考えてみたら今週は内科クリニックにも行かなければならないし、観に行きたい映画もある。土曜日には千葉市美術館まで出かけて「1968年展」に行きたいと思っているので、なんだか多忙ではないか。あと、ワイズマン監督の新作の「ジャクソン・ハイツへようこそ」も観たいのだが、上映時間3時間を越えるというのがネックというか、なかなか行く決断がつかないでいる。そんなことよりも、自分の計画も早く実行したいわけだし。

 読んでいた「フランケンシュタイン」も読み終わり、「さて、明日からは何を読もうか」となるのだけれども、やはり寝る前にちょっとずつ読んでいた「ジェイン・オースティンの読書会」を一気に読んでしまって、さてそれからついに、「昭和文学全集」を読みはじめようか、という気もちもある。

 夕食はまた「台湾焼きそば」。めっちゃかんたんなので、このメニューはもう失敗することもないだろう。しかし、このところ焼きそばとかばかり食べているので、ずいぶんしばらくと白米を炊くということをやっていない。ずいぶん前に買ったトマトが傷みつつあるし、ジャガイモも山のようにあるし、ニンジンも先日買ったままあまり使っていない。この材料ならばこれも得意な「トマトシチュー」をつくればいいわけだけれども、週末は出かけることが多くなるので、はたしてどうなることか。


 

[]「フランケンシュタイン」メアリー・シェリー:著 森下弓子:訳 「フランケンシュタイン」メアリー・シェリー:著 森下弓子:訳を含むブックマーク

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

 映画などで知る「フランケンシュタイン」とはまるで違うこの「原作」。「怪物」が醜い容貌だということは映画どおりだが、常人を遥かに越える身体能力を持っていて、そして人々に忌み嫌われることを悲しみ、自分が愛し愛されるであろうパートナーを生み出してくれと、自分をつくったフランケンシュタインに迫るのである。いちどは受け入れながらもこれを拒否したフランケンシュタインの周辺につきまとい、彼の友人、そして婚約者までも殺害し、北の果てまで追走劇は続くのである。

 「愛」を追い求め、それが得られない自分の「生」を恨む「怪物」という存在には、どこか近代的自我の苦悩を思わせられるところもあるし、作品中で自然を愛でる視点など合わせて、「ロマン主義」を思わせられる作品ではある。
 このあたりは、この文庫本のかなり精緻な巻末解説(新藤純子)に詳しいのだけれども、一般にこの書物は「ゴシック小説」のひとつと見られているそうで、じっさい、この「フランケンシュタイン」が刊行されたのはちょうど今から200年前の1818年のことで、イギリスのロマン主義運動の始まる時期ではあるし、メアリー・シェリーがこの作品を執筆したのは彼女の夫のパーシー・ビッシュ・シェリーやバイロン卿らと共にヨーロッパに滞在していたときのこと(このことは「ディオダディ荘の怪奇談義」として知られているようだ)。

 登場人物が著者のあやつり人形に思えるような、欠点みたいなところはあるのだけれども、わたしなどはこの「怪物」に情が移って読んでしまったところもあり、「異形のものの哀しみ」として同情をおぼえながら読んだ。「いったいなぜフランケンシュタインは、いちどは約束した怪物の伴侶をつくってやらないのだ」とか思ってしまうのだった。もういちどちゃんと、有名な映画版の「フランケンシュタイン」(1931)を観たくなった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181030

■ 2018-10-29(Mon)

 また仕事が始まる。今朝も何か夢をみた。ほとんど記憶に残っていないのだけれども、誰も人物は登場しない。ただ、四つの高層ビルがあり、そのビルが2棟ずつ対になって、その下層部から<エネルギー>が上昇するのがみえる。都市機能を描くCG画面をみるような夢だったか。

 おだやかな天気で過ごしやすい。早朝の通勤時にはちょっと肌寒くなってきたけれども、仕事を終えて帰るときにはそれなりに暖かい。服装の調節がむずかしい感じで、こういうときに風邪をひいたりするんだろう。

 夕方は、一昨日つくった「台湾焼きそば(もどき)」を本格的につくろうと、まずは買い物に行って「ニラ」をゲットしようとしたのだけれども、買いに行ったローソン100ではニラは売り切れで、そのかわりにニラとかもやしとかニンジンとかキクラゲとかがワンパックにされた、お手軽なパッケージが置いてあった。だいたいいつも、ニラなんかちょっとあればいいのに、スーパーなどでは束で買わなくてはならなくって「ムダだなあ」と思うところもあったわけで、こうやってニラもキクラゲも入っているのを「すぐに料理に使える」かたちで売られているのは、実際には高くついているとしても、「ひとりぐらしに適量」という意味で助かる。結果的には安上がりというところもある。
 ‥‥一昨日の<反省点>も考えて、クッキングする。むむ、今回は大成功というか、ぜったいに中華屋の「台湾焼きそば」に負けない味に仕上がった。

     f:id:crosstalk:20181101143154j:image

 これでまた、「焼きそば」のレシピを習得した。もうほとんど「焼きそば」のスペシャリストになりそうであるが、またいろいろとつくってみよう(まだ材料がもう一回分残っているので、明日もこの「台湾焼きそば」だ)。


 

[]「テヘランでロリータを読む」アーザル・ナフィーシー:著 市川恵里:訳 「テヘランでロリータを読む」アーザル・ナフィーシー:著 市川恵里:訳を含むブックマーク

     

 著者(女性)の父は元テヘラン市長で、彼女は欧米で教育を受けて1979年、イラン革命直後にイランに帰国、テヘラン大学の教授となるが、1981年にそのテヘラン大学から追放される。その後もイランで教鞭を取りつづけたけれども1997年にアメリカに移住したという人物。この本はその1979年のイラン革命からイラン・イラク戦争を経て、彼女がアメリカへ移るまでの18年間の記録。

 この目次の上で語られる作家は、ウラジーミル・ナボコフ、スコット・フィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、そしてジェイン・オースティンの4人で、取り上げられる作品はそれぞれ「ロリータ」、「華麗なるギャツビー」、「デイジー・ミラー」、「自負と偏見」がメインにはなるけれども、例えばナボコフであれば「断頭台への招待」など、それぞれの作家の他の作品についても語られる。ナボコフの章は導入部だとして、フィッツジェラルドの章は「イラン革命」、ヘンリー・ジェイムズの章は「イラン・イラク戦争」、そしてオースティンの章は著者がアメリカ移住を決める時期と、全体に20世紀末のイランの市民生活の状況、とりわけ、女性たちがどのように生きたかということが、そんな文学作品の解釈と並行して語られる。
 本は著者の大学教師としての体験から、大学の教室で教えたときの学生らとのやり取り(フィッツジェラルド、ジェイムズ)、大学教師を辞めたあとに、自分の選んだ学生らと自宅で開いた読書会(ナボコフ)、そして著者の個人的回想(オースティン)というような章仕立てにはなっている。
 いちおうわたしはナボコフはほぼ全作品読んでるし、「華麗なるギャツビー」も最近読んでまだ記憶は残ってる。「自負と偏見」はずいぶんむかしに読んでけっこう忘れかけているけれども、全体の大きな流れとか登場人物の記憶は残っているし、ヘンリー・ジェイムズの「デイジー・ミラー」は読んでいないとはいえ、ジェイムズの他の作品は読んでいるし、彼がどのような作家であるかという知識はある。そういうところでは、そんなにたくさんの本の記憶が残っているわけではないわたしにとって、なんというか「Just Fit!」という感じの本でもあった。

 わたしは読む前は、そんなイランの国でナボコフの「ロリータ」を読むのであれば、まさにハンバート・ハンバートの犯罪を「西欧の頽廃」として批判的に読むのではないのかと想像していたのだけれども、まるでそうではなく、著者はまずはナボコフの「断頭台への招待」について語りながら、若き日にロシア革命を体験したナボコフの作品を、イラン革命以後に生きる自分たちになぞらえて読むのである。そして「ロリータ」も、<あらゆる全体主義的な物の見方に反するもの>として読むのである。‥‥この読み方はわたしにも「目からウロコ」的なもので、今まで展開やプロット、そしてディテールの文学的な面白さでこそ読んでいた「ロリータ」が、一気にその「断頭台への招待」や「ベンドシニスター」と連続したものとして姿を見せ、それ以外の作品も含めてナボコフという作家の一貫性を改めて知らしめられた気がした。

 その「西欧の頽廃」という読み方は、次のフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」において、授業の中で男子学生から提示されるわけで、そこにわたしなどは「イラン革命」の文化的な影響をみるわけだけれども、ここでも著者はフィッツジェラルドを擁護し、ギャツビーを「夢に憧れた心」とし、その夢が現実化と共に崩壊しやすいという、「喪失」の物語だとする。‥‥以下、ジェイムズの「デイジー・ミラー」でも、第一次世界大戦を経験したジェイムズの視点を語り、「デイジー・ミラー」のヒロインを擁護する。

 この本はそういう小説の「読み」、解釈でわたしなどの教えられることが多く、「買って持っていて本棚に置き、いつでも取り出して読めるようにしたいな」と思うような本だった。また、そのイラン革命、イラン・イラク戦争時代のイランの生活の描写から、ムスリムの人たちの精神の一端を知る思いでもあり、読みながら以前とても印象に残った本、オルハン・パムクの「雪」のことを思い出したりするのだった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181029

■ 2018-10-28(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 今日は本当は、六本木の森美術館でやっている「カタストロフと美術のちから」展をメインに観て、周辺のイヴェントを周回しようと思っていたのだけれども、調べるとその「カタストロフと美術のちから」展の図録がまだ完成していないようで、今、どっちかというとそういう図録が欲しいかなと思っている身からすると、行くのはやはり図録が完成する11月中旬以降にしようか、ということになった(この図録がすっごく高価で、いやんなっちゃんのだけれども、きっと欲しいのだ)。しかし青山方面にお出かけという計画は変わらず、なんとまずは青山公園で開催される「JCPサポーターまつり」というのに行く、という計画。「JCP」とは何かというと、コレは「Japanese Communist Party」、つまり日本共産党のことである。

 わたしは特に政治活動をメインに生きようと思っている人間ではないが、実は茨城時代にそれなりに共産党の方々にはお世話になっているし、昨今の安倍首相の暴走ぶりをみていると「とにかくはヤバい時代になった」と思っている。この思いはさらに、9月に首相官邸前での抗議集会に参加したときの異様な警備からも、「これはもう民主主義国家の姿ではない」と確信することになり、そういった動きに対して、何もしないで暮らしていたら自分の首を絞めることになると思う。こういうことではまだまだ書きたいことはあるのだけれども、どうせそのうちに書くことになるから今日は置いておいて、とにかくはそういう場に足を運んでみようということ。
 今の安倍政権に立ち向かうには、立憲民主党でもいいのだけれども、とりあえずは今は共産党、そして立憲民主党を応援して行きたい。それで今日の「JCPサポーターまつり」は特に共産党員だけのためのイヴェントではないわけだし、実は前にわたしが<党員>になっているところの「肉球新党」もブースを出しているということで、ま、今回このイヴェントに出かけるのは、その肉球新党のブースでトートバッグを買いたい、ということもあるのだった。

 会場の青山公園は都新美術館のとなりで、メトロの乃木坂駅のすぐそば。ちょうどお昼頃に駅から出て公園の方へ行くと、警官がなかなかの数集結しておられる。そりゃあ今の政権からすれば「非合法団体」候補No.1の政党だろうし。公園の入り口にはひとり、横幅の広い警官が立ちはだかっていて、明らかに入り口から公園に入る人らの邪魔をしている。気分的にも共産党を敵視しているという態度を全身から発しておられるのだ。
 会場内にはもうそれなりにおおぜいの人が集まっていて、いろいろなブースのまわりに集まっていたり、周回されたりしている。遊んでいる子どもたちもいるし、すっかりお祭り気分だ。

     f:id:crosstalk:20181030142655j:image

 いろいろな食べものを売る<屋台>もあれこれとあり、どこも人が列をつくり始めている。みてみると意外と高いな。わたしも早めに食事をしておこうと、そんな中ではいちばん安かった沖縄料理の店に並ぶ。「クファジューシー」という、沖縄風の炊き込みご飯が食べたい。

     f:id:crosstalk:20181030142741j:image

 それと別の屋台で「オリオンビール」を買い、わたしなりに沖縄へのエール。

        f:id:crosstalk:20181030142822j:image

 「肉球新党」のブースをみつけ、「No War, No Nukes, Anti animal cruelty」のトートバッグを購入。

     f:id:crosstalk:20181030142857j:image

     f:id:crosstalk:20181030142936j:image

 このあと、メインのステージでは志位委員長が登場し、そんな肉球新党の人からの一問一答のコーナーなど。志位委員長の人柄の良さのにじみ出るようなトークだったけれども、ウィットとかユーモアがもうちょっと欲しいかな? 昔5匹のネコを飼っていたとか。

 さてわたしはこのあと表参道へ行って、スパイラルホールで展示されている三田村光土里さんの作品を観たいし、それで急に思いついて、また池袋の西口公園へ行き、昨日観客席から観た「スモール・メタル・オブジェクツ」を、通行人のフリをして役者さんと同じ地平から見てみたい気になった。

 青山公園を出て、まずはメトロにひと駅乗って「表参道」駅へ行き、スパイラルで開催中の「蒐集衆商」という展示を観る。さまざまなギャラリー、そしてインテリアショップなどが、それぞれの勧める作家の作品を展示、即売するというイヴェントか。「こんな作品が評価されるのか」と、わたしの批評眼ではわからない作品(タブロー?)なども並び、単に大きな美術展を観ているだけではわからない<現場>の空気を味わった、かな? 久しぶりに観る三田村さんの作品は、よかった(写真は良くないが)。

     f:id:crosstalk:20181030143018j:image

 次は池袋へ。表参道から原宿駅へと歩いていると、道路を車両通行止めにしてのマーチが行われていた。どうやら、ハロウィンの仮装カーニバルみたいだ。警官に守られ、整然として健康だなあ。わたしは渋谷で大騒ぎするハロウィンの方が面白いけれども(あとで調べたら、これは原宿の商店街が主催して、子どもたちのために行われている「キッズ・ハロウィーン・カーニバル」というものらしく、参加者は先に限定数の「参加証」を買い求めているのだという)。

     f:id:crosstalk:20181030143103j:image

 さて池袋。もう時間は3時に近く、公園で上演されている「スモール・メタル・オブジェクツ」も終盤。しらっと、演じられている世界の中にまぎれ込んでみる。面白い。同じ地平の中に、実は別次元の空間が挿み込まれているのだ。ぐるっと視線をめぐらせると、一方に<観客席>があり、こっちを眺めている。ふふ、わたしも眺められているわけか。

     f:id:crosstalk:20181030143148j:image

     f:id:crosstalk:20181030143233j:image

 またFさんとお会いしてちょっとお話しし、さて帰路に。帰りにケータイでツィッターとかみていると、「JCPサポーターまつり」には今「ジンタらムータ」がライヴを行っていると。「ジンタらムータ」は「シカラムータ」の別働隊というか、大熊ワタルさんらの率いるユニット。これは観たかったなあ。残念ではあった。‥‥また来年の楽しみに。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181028

■ 2018-10-27(Sat)

 今日は昼間、池袋の西口公園で行われる野外劇というのか屋外劇というか、オーストラリアからの劇団「バック・トゥ・バック・シアター」による「スモール・メタル・オブジェクツ」というのを観に行く。都会の雑踏の中で演じられる<演劇>ということで、楽しみ。

 12時ごろに家を出て、池袋には1時半に到着。その公園のところの受付にFさんがいらっしゃったので、あいさつをする(このイヴェントはFさんのお薦めで観にきたところもあるし、今朝Facebookでこの日がFさんの誕生日だということも知ったので、そんなあいさつも)。それでわたしはすぐそばの東京芸術劇場へ行き、12月の勅使河原三郎の公演の前売りチケットを買う。これはシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」、アルバン・ベルクの「抒情組曲」の生演奏とのコラボレーションというもので、その生演奏だけでも魅力的。前に勅使河原三郎のメールマガジンで先行割引き予約を受け付けていて、そこで予約しておこうかと思っていたのだけれども、これ、よくみるとシニア・チケットというのがあって、そっちは3000円。先行割引でも4500円なので、あやうく大損するところだったよ。そのチケットの一般発売が今日からだったので、うまくゲット。ちょっと前すぎる席かもしれないが、ま、たまにはそんな、舞台にクロースな席で観るのもいい。

 また外に出て、西口公園の片側に設置された客席への開場を待つ。それぞれの席にヘッドフォンが置かれていて、それを介して雑踏の中での<劇>の会話を聴けるのだろう。

     f:id:crosstalk:20181029142240j:image

 開場されて座席に着き、ヘッドフォンをつける。そのうちにヘッドフォンから音楽が聴こえ始め、いつしか<劇>が始まる。そんな人通りの多い<公園>での、通行人もまた巻き込むような展開を楽しんだ(実はわたしは平日の午後の回に観に行こうと思っていたのだけれども、公園に人通りの多くなる週末に観た方が面白いだろうと、この日の午後の回を選んだのだ)。

 終演後、公園の脇にすわっていたらFさんがやってきて、しばらくお話をする。そうやって知り合いに気配りをしてくれるFさん。誰もに好かれる彼の人がらはこういうところにもあるんだろう。Fさんの話では、この公演がベルリンで行われたとき、じっさいのヤクの売人が役者にからんできて、「ここはオレたちのシマだから出て行け!」とやったらしい。面白すぎる。

 さて、Fさんともお別れして帰路に。その前にまだ昼食をすませていなかったので、近くのカツ丼屋で遅い昼食(このところ、カツ丼に凝っている)。まあまあおいしかったけれども、やっぱり「蕎麦屋のカツ丼」が食べたいという思い。そのうちにきっと行こう。帰りに、午前中にAmazonで注文した「作業机」の代金を支払った。

 帰宅。ニェネントくんのお出迎えはなし。冷たいね。パソコンの電源を入れ、いろいろとみていたら、さっき代金を支払ったばかりの「作業机」の、もっと安くって、わたしには使い出がよさそうな机がすぐに見つかってしまった。「しまった! 早まったなあ!」という感じ。
 テレビをみながらごろごろして、この夜は先週の「ブラタモリ」の、<有田焼>の続編。やはり有田焼はいい。そのあとは夕食。ちょっと考えて、残っている「焼きそば麺」、「もやし」を使って、いつも近所の中華屋で食べる「台湾焼きそば」の味の再現にトライしてみた。具は刻んだウィンナともやしだけ。そこに粉末の鶏ガラスープの素で味付けし、「輪切り唐辛子」をぶちこむ。‥‥あらら、出来たじゃないの。かなりおいしい。麺の不味さも気にならない。ウィンナの代わりにひき肉の方が良さそうだし、もちろんニラとかを入れればベターだろう。これは、いつも中華屋で680円とかの「台湾焼きそば」を注文するのがバカらしくなってしまう。今日のコストは7〜80円ぐらいのものだし、150円もかけたら、それこそ満腹になるおいしい「台湾焼きそば」がつくれるではないか! ‥‥明日もまた、このメニューでやってみたくなった。

 

[]バック・トゥ・バック・シアター「スモール・メタル・オブジェクツ」ブルース・グラッドウィン:演出 @池袋・池袋西口公園 バック・トゥ・バック・シアター「スモール・メタル・オブジェクツ」ブルース・グラッドウィン:演出 @池袋・池袋西口公園を含むブックマーク

     f:id:crosstalk:20181029142329j:image

 街なかで演技されるのは4人の役者。そのうちの2人の役者さんは知的障害者。まずは人ごみの中での、そのふたりの会話から。ふたりは共同生活をされているのか、そのうちのひとり(ゲイリー)が膝の手術とかで入院されるとかで、残されるもうひとり(スティーヴ)のことを心配している。そこにケータイで連絡が入る。どうやらゲイリーは、何かヤバいブツの取引きをやっているようで、その<客>からの電話だ。
 雑踏の中で取り引き相手の第三の人物が現われ、あれこれのやり取りが行われるのだけれども、そこでゲイリーは残されるスティーヴのことを心配し、取り引きを中断しようとする(?)。取り引きを続けたい<客>は、話が進展しないことにしびれを切らし、ネゴシエイターの女性を呼んで交渉にあたらせるみたいな。ゲイリーのスティーヴへの思いやり、友情が心に残る。

 とにかくは<舞台>になる池袋西口公園は、この公演のために立ち入り禁止とかしているわけではなく、それなりに通行人が<劇>の進行するそばを通り抜けて行ったりする。やはり、こうやって「通行人が多い」という状態こそが面白い。公演を通り抜けようとして、わたしたちの観客席の存在に気づいて、びっくりしたように観客席を見る人。観客席からすれば、思いっきり<カメラ目線>みたいなエキストラだ。途中であの演劇評論家の某氏が現われて、公演を通り抜けて行ったりして、びっくり! 役者が通行人にからむシーンもちょっとあるし、ラストは公園周囲にすわっていた人たちのところに役者も並んですわって同化する。

 それはかつて(50年ぐらい前)には、寺山修司の「天井桟敷」などが、もっと過激な<街頭劇>を実行したりもしているわけだけれども(映画版の「書を捨てよ町に出よう」で、その雰囲気は観ることができた)、そこまでにハードコアな演出ではないとはいえ、<街>を取り込んだ作劇はやはり刺激的で、面白いものだった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181027

■ 2018-10-26(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 朝、わたしが起きだしてニェネントにごはんを出し、そのあとわたしの朝食時間なのだが、わたしがハムトーストを食べていると、自分の食事を終えたニェネントがわたしのそばにやってきて、わたしの食べているハムトーストを欲しがる。トーストとハムとをちょっとちぎってニェネントにあげると、トーストもいっしょにペロッと食べてしまう。ほんとうはトーストにせよ塗ってあるマーガリンにせよ乗っけたハムにせよ、ネコ向きではない塩分が含まれているので、あんまりあげちゃいけないなということはわかっているのだけれども。
 それでニェネントはわたしが出かけるまでキッチンでのんびりしているわけだけれども、このところまた、わたしが家を出ようとするときの「行かないで!」コールが強くなってきた。わたしが玄関ドアに近づくと、寄ってきてわたしを見上げてにゃんにゃんとなく。今朝はわたしがドアを開けようとする前にドアの三和土のところへ下りて、そこで丸くなってにゃんにゃんとなく。つまり、ドアを開けさせまいとしているのだろう。‥‥これはわたしもつらいところで、ニェネントを抱き上げてドアの前からどかせ、それで出かける。ドアを開けるときに、ニェネントが先にドアの外に跳び出したりしたらどうしようとか思うのだが、ニェネントにはこのウチのこのドアの外の世界は「出てはいけないところ」という認識があるのか、こちらのドアから外に跳び出したことはない(反対側の窓の方からは、隙あらば外に跳び出そうとするのだが)。

 それで、わたしが仕事を終えて家に帰ってくると、わたしの足音を聴きつけて玄関ドアのところで「お出迎え」してくれるかというとそうではなく、わたしがドアを開けて家の中を見ると、和室のベッドの上でゴロッとしているわけで、それでわたしの姿をみてもすぐに寄ってくるとかそういうことはしない。こういうところが「ツンデレ」の面目躍如というところ。それでわたしがリヴィングで机とかに向かっていると、いつの間にかキッチンに来ていて、けっこうわたしの近くにすわり込んでわたしのことを見ているのである。ただわたしのことをウォッチしているだけで、近づいてきてすりよってくるとか、そういうことは決してしないのがニェネントである。
 ただ、いちどわたしが仕事から戻ったあと、買い物などに出かけてから戻ってきたときには、わたしの足音を聴きつけて、ちゃんと玄関ドアのところまで「お出迎え」してくれるのである。

 今日は、昨日買ったさんまを焼いてみた。前にこの部屋でさんまを焼いたときには部屋に煙が充満し、備え付けの「火災警報器」が「火事です!火事です!」と絶叫し始めて、えらいことになったわけで、今回はレンジの火を小さめにして、始終裏返したりして気をつけて焼いた。おかげで火災警報がヒステリーを起こすこともなかったけれども、それでも部屋の中はそれなりに煙が充満してしまった。
 さて、昨日はナマのさんまは「ネコまたぎ」したニェネントくんだが、焼きさんまは食べるんじゃないか?と、ニェネントの皿に取ってみた。寄ってきたニェネントは、今回はペロリと全部食べてしまったのだった。ぜいたくなのかグルメなのか、手のかかるコである。

     f:id:crosstalk:20181028093329j:image

 わたしは昨日の焼きそばがまだ2食分残っているので、今日はもう「あんかけ焼きそば」はやめて、普通に「ソース焼きそば」をつくってみた。‥‥やはり、おいしくはない。どうも、野菜との相性が良くないような気配もある。明日はまた違ったレシピでやってみよう。

 今日の日暮れどきの、雲と太陽。

        f:id:crosstalk:20181028093034j:image

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181026

■ 2018-10-25(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 月は満月、秋の月(きれいに撮れてはいないけれども)。

        f:id:crosstalk:20181027111339j:image

 いろいろと次にやることの準備が出来てきて、毎日そのことを考えているのだけれども、それで「仕事場はリヴィングではなく、今はただベッドが置いてあって寝るだけにしか使っていない和室の方にすればいいのではないか」と思いついた。どうしてもリヴィングですわっているとテレビもみてしまうし、パソコンも閲覧してしまう。「今は仕事の時間!」と割り切るには仕事場を別のところに設えて、そういう「よそ見」をしないような環境をつくるのがいい。そうすると、「欲しい」と思っていた作業机も買って和室に置き、その前にすわれば仕事をやるのだ、という気分に自分を追い込むことも出来るだろうし、リヴィングは食事と「休憩」の場、という風に割り切ることも出来そうだ。だいたい必要なものも揃えたし、あとはその「作業机」を買えばいい。
 そうだ、作業中に音楽を聴けるよう、安いCDプレーヤーを買って和室に置きたいな。今あるプレーヤーはFMを聴くのにテレビとつないであったりするので、和室の方に移動するのはちょっと大変(置く場所もないし)。またまた「お買い物」という話になってしまうけれども、プレーヤーも安いものなら五千円ぐらいで買えるのではないだろうか。中古でも動けばかまわないと考えれば、そういうハードの中古屋に行けば千円台でも買えるだろう(ちょっと冒険だが)。
 とにかくは作業机を買ってしかるべきところにセッティングすれば、怠惰なわたしでも「いいかげんやらなくては」という気になるのではないか。まだ「何をやる」のかは書かないけれども、ま、大したことではない。

 明日はまた観劇で出かける予定で、買い物に行くチャンスもあまりないから今日買い物に出た。今日は木曜日でちょっと遠くのスーパー「S」は全品一割引き。テクテクと歩いて行くわけだが、そのスーパーまでの道はそれなりに交通量もあり、歩道はブロックで区切られているのだけれども広くはない。向こうから自転車が走ってくると、いつも脇の畑とかに避けて自転車を先に通れるようにしているのだけれども、今日はそうやって歩いていると向かいから自転車に乗った、高校生らしい男の子が来て、わたしは自転車が先に通れるように脇に避けようとしたら、先にその男の子が自転車を停めて、わたしが通れるように自転車を移動してくれた。「あっ、どうもありがとう!」といって先に通させてもらった。‥‥ここの歩道は狭いから、たいていの人はこうやって「ゆずり合い」の気もちを示してくれる。歩いていて、気もちがなごやかになる。

 スーパーに着いて、とにかくはこの店が圧倒的に安いマーガリンとかを買い、先日レシピを開発した「あんかけ焼きそば」をまたつくろうかと、焼きそばの生麺を買う。これもこのスーパーは自社ブランドのものを売っていて、圧倒的に安かった。それと、先日友だちのところで「さんま」の生身をニェネント用にいただいたのをニェネントがきちんと食べていたので、「どうよ?」と、今が旬でとっても安い「さんま」を買ってみた。あとは酒のおつまみ。「たくさん歩いて来たわりには、大して買うものもなかったな」と思いながらテクテクと歩いて帰る。

 まずはニェネントくんのため、買って来たさんまをちょっと切り取って、骨をよけてニェネント皿に出してみる。「何よ?何よ?」と寄って来たニェネントは、そんなさんまを皿から引きずり出して、「食べてくれるかな?」と見ていたのだけれども、けっきょく皿から引きずり出しただけで、床の上に放置状態。‥‥「なんだ、食べないのか」と、ちょっとがっかりする。
 次はわたしの夕食。買って来た「焼きそば麺」で、例の「あんかけ焼きそば」をつくってみたのだけれども、あららら、これがおいしくはないのだった。ちょっと手順をまちがえたところはあるのだけれども、そういうところに原因があるのではなく、この「麺」が、圧倒的においしくはないのだという結論。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181025

■ 2018-10-24(Wed)

 柏に買い物に行くことを考えていて、それならばいっしょに映画でも観ようではないかということになり、ちょっと気になっていた「ウィンド・リバー」という映画を観よう。上映スケジュールをみるとだいたい2時ぐらいからの上映回があるので、いちど帰宅して昼食をとり、それから出かけようということにした。

 今日も秋晴れのいい天気。一年でいちばん過ごしやすい気候の頃かもしれない。仕事から帰宅して、炊いてあったご飯でちゃっちゃっとお手軽な「お茶漬け」の昼食。ニェネントくんはわたしが買い物から帰るまで待っててね〜、と、またお出かけ。

 しかし、ハリウッドというかアメリカ映画を観るのはけっこう久しぶりのこと。調べると3月に「デトロイト」を観ているから、そこまでに「久しぶり」というわけでもないのだけれども、今年はけっこう映画館で映画を観るようになっているので(この地元映画館のおかげだろう)、そんなにアメリカ映画というのは観ていないという感覚。
 でもやはり「アメリカ映画」だからだろうか、映画館は平日というのにけっこうなお客さんの入りだった。

 まったく内容も知らないで観た映画で、「ミステリー映画だろう」という予測はみごとに裏切られ、サスペンスというか、けっこう撃ち合いシーンとかもまざった「アクション映画」というテイストだった。でも面白かった。

 映画が終わって外に出て、まずは、そばのビルの上にある東急ハンズでお買い物。ま、これが今日の「お買い物」のメインではあったのだが、そのあとは100円ショップに行き、それでさいごはスーパー「I」で今夜のお惣菜とか。

 もちろんまだまだ明るいうちに自宅駅に戻り、ウチの近くにさしかかったとき、目の前の物陰からはみ出して、ネコのしっぽのようなのが動くのが見えた。「あれれ? これはひょっとしたらニェッタくんかな?」と思ったら、それはまさしくニェッタだった。たしかに以前姿を見せてから2ヶ月ぐらいになるか(今調べたら今回は1ヶ月半だった)。やはり、このあたりを定期的に周回しながら暮らしているのだろうか。元気そうなのでホッとするし、とにかくニェッタの姿をみるのはとってもうれしい。次に逢えるのは、また2ヶ月ぐらい先のことかな?

        f:id:crosstalk:20181026164641j:image

     f:id:crosstalk:20181026164719j:image

 

[]「ウィンド・リバー」テイラー・シェリダン:脚本・監督 「ウィンド・リバー」テイラー・シェリダン:脚本・監督を含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181026164848j:image

 そもそもはこのポスターのヴィジュアルで、「面白そうだな」とは思っていた映画。俳優の顔のどアップとかのデザインではなく、日本でデザインされる映画ポスターのデザインとしてはちょっと画期的、かなと思う。

 さて、映画だけれども、実は本編が始まってしばらくの「導入部」の演出、撮影、そして編集が粗いというかほとんど「稚拙」で、「あららら、この映画を観ようと選んだのは<大失敗>だったかな?」とは思ってしまったのだった。あとで調べたらこの映画のテイラー・シェリダンという監督、そもそもは脚本家として評判になったという人物で、監督作品はこの作品が一作目だということ。そのあたりのことが関係しているのか、わたしの絵の見方が正当なものだったかも不明だけれども、わたし的には導入部は「アウト」。

 などと書きながら、実はわたしはこの映画がどのような映画なのかほとんど知らずにいて、ただ「アメリカのどこかど田舎で若い女性の死体が発見され、そこにFBIから女性捜査員が派遣されるのだが、この土地には過去にも同じように、若い女性が殺されて未解決になっている事件があるのだ」ぐらいのこと。ま、ポスターの絵柄の印象からも、先に書いたように「これはミステリー映画だろうな」と思っていたわけだけれども。

 まず、ワイオミングの奥地、けっこう極寒の地で若い女性の死体が発見される。発見したのは、当地で家畜を襲う「ピューマ」(音では「ライオン」と言っていたな)などを駆逐する、おそらくは公務員的な資格を持つハンターのコリー(ジェレミー・レナー)で、すぐに現地の警察に知らせるが、この地は先住アメリカ人の居住区(「Reservation」だね)で、警察署長らはいるけれども、手に負える事件ではなくFBIの助っ人を要請する。それでやって来たのが、ま、まだ新米女性捜査官で、ラスヴェガスから回されて来たというジェーン(エリザベス・オルセン)。当然彼女ひとりでは手に余る事件のようで、援軍を呼びたいところだったのだが、死者の死因が「凍死」ということがわかり、「他殺」が成立しない。彼女ひとりで捜査にあたることになり、彼女はコリーに「手伝い」を要請する。

 被害者はやはり先住民の娘で、コリーとは家族ぐるみよく知っている人物である。というか、コリーの前妻もまた先住民であり、三年前にもまたコリーの娘も殺害されていて、その事件も解決していなかったのである。コリーには、この捜査に加わる充分な理由があったのである。
 寒冷地の気候にまったく不慣れなジェーンを助け、現地の人間関係をもとに捜査方向を決めるコリー。このあたりから、「ミステリー」とかいう感覚はなくなるというか、けっこうその捜査方向がドンピシャで、見方としては「これは<サスペンス>だね」とシフト。「なんでコリーの娘が殺されたときにこういう捜査が出来なかったのかねえ」という疑問もあるけれども、とにかくは何らかの工事だか何だかで、長期間この地に滞在し、トレーラーで暮らしている労働者らが怪しいのではないかということになる。
 それで、このあたりからは「ドンパチ」と銃を撃ちまくる「アクション映画」風味になるのね。「なんか、こんなシーン、タランティーノの映画にあったよね」みたいなエグい撃ち合いとか。わたしゃ2〜3回、いきなりの銃音でのけぞってしまった。さすがにアメリカ映画だ。

 この事件の背景には、何の産業も娯楽もないへき地を「居住地」とされてアメリカ政府に追いやられ(このときの悲劇は数多く語り伝えられている)、まともに就業することも出来ない先住民の子孫らを囲む環境の問題があり、この映画に描かれるように治安維持のための行政もきわめて脆弱。そこに、外から長期間送り込まれる労働者らがいたとすると、「何もない」地域の中で本能のままに暴走する連中もいる、ということだ。

 ラストに字幕で、先住民居留区でのこのような女性の行方不明事件、殺人事件とかは、現在でも統計的にカウントされていないのだ、みたいなことが示される。そう、この作品はいちおう、「実際の事件に基づいて」つくられた映画らしい。
 これは日本でいえば例えば、「北海道のアイヌ民族などは存在しない」というような、一部の連中が事実としていまだに語っていることと相合するようなものだろうか。さすがにわたしも、例えばFrank Zappaが「Concentration Moon」で歌い、Paul Revere & Raidersが「Indian Reservation」を歌って半世紀も経った今、まだこんな問題が現実に残っているとは思っていなかった。これはもう、「アメリカ合衆国」というものがいつまでも背負わなければならない「原罪」のようなものなのだろうか。そういうものがなお、アメリカで継続されているということを知らしめられた、ということで「観てよかった」といえる映画だった。‥‥そう、低音の効いた音楽がいいな、と思っていたら、ニック・ケイヴのスコアだった。

 映画のラストで、銃撃戦で重傷を負って病床にあるジェーンに、コリーが「生き残る人間というのは、強くて意志を持った人間なのだ」(だったかな?)と語ったのが、今のわたしには印象に残った。わたしも、「強く、意志をしっかり持ちたい」ものだと思ったのだった。好きな映画だ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181024

■ 2018-10-23(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 笑える夢をみた。夢の中にトランプ大統領が出て来て、それが皆にスタイリスティックスの往年のヒット曲、「Can't Give You Anything (But My Love)」を聴かせる。それでわたしが「そうか、やっぱりウチらには何にもくれないのか。でも、あんたの<愛>はくれるのか。‥‥そんなのいらんがな。そもそもあんた、<愛>なんか持ってないだろうが!」と思ったところで目が覚めた。
 もちろんこの夢、トランプではなく安倍首相でこそ切実な意味を持つわけだけれども、どうやらウィーンのフロイト氏とやらが共謀し、「夢の検閲」とやらをやらかしてくれた気配である。‥‥このスタイリスティックスの曲、先週の「世界の快適音楽セレクション」でかかっていたのをエアチェックして昨日聴いていたので、それで夢に出て来たのだろう。別に好きな曲というわけでもないのだが。

 夏に、ウチの駅前の土地が、わたしがこの地に移って来てからいつまでも空き地のままで、ほとんど放置状態だと思っていたわけだけれども、それが最近になって草が刈られ、ついにショベルカー(ユンボというのか?)がやって来て、地ならしをしたのだった。地面から浮いて飛び出していたマンホールもすっかり土に埋もれ、「ついに何かつくりはじめるのだな」という雰囲気になった。「な〜んにもない駅前」から「賑やかな駅前」に変貌する?

     f:id:crosstalk:20180817162032j:image

     f:id:crosstalk:20181025141839j:image

 昨日とか、ニェネントの食欲がないようでちょっと心配もしたのだが、今日は出してあげた食べものは全部食べていたし、見た感じも元気なので、心配することもないだろうと思う。ただ季節が変わって、もう寝るときにわたしのところに来て「乗っけて遊んで!」ということがなくなったのは寂しい。

 本はやはり「テヘランでロリータを読む」がとっても面白くも興味深い。ちょうど最近のツイッターで、アメリカで発売されている「real LOLITA」という、「ロリータ」のモデルとなったとされる当時の実際の事件を書いた本が紹介され、その紹介者はナボコフのオリジナリティに疑問を呈し、「その頃ナボコフはスランプだった」と、まるでナボコフが「ロリータ」で一山当てた三文文士のように紹介していたのだった(ま、「一山当てた」のは確かだろうが)。ナボコフのキャリアを知り、他の作品を読めば、ナボコフの奥深さがわかるだろうに。この件では別な方が、この「テヘランでロリータを読む」を読めば今さらそんなナボコフ像は書けないはずだと書き込まれていて、そのことが「わたしも読んでみよう」というきっかけでもあった。
 その、「ロリータ」を扇情的作品とし、ナボコフを三文作家扱いされた方はそれでも、「ロリータ」と「羊たちの沈黙」を同列に扱うのであった。おそらくは「セバスチャン・ナイト」も「青白い炎」も読まれたことのない方なのだろう(それでも翻訳家らしいのだが)。いうまでもないことだが、そりゃあ「羊たちの沈黙」は、猟奇ミステリーとして卓越した面白さがあったとはわたしだって思うわけだけれども、あれは犯罪を追う捜査官が「レクター博士」という超絶スーパースター的犯罪者の助けを借りて事件を解決するという「娯楽作」であって、幼い女性を愛して同衾し、あげくに殺人を犯したハンバート・ハンバートの書いた「獄中手記」という設定のナボコフの「ロリータ」、その文体、ディテールの面白さとはまるで別物であり(これは「羊たちの沈黙」が作品として劣るというのとは別問題)、その差異を理解出来ないというのは「文学関係者」としてはほぼ「失格」なのである。その人物の名は記憶したので、これからは彼女の関係した書物は避けて行きたいと思う。

 さて、今週末はそれなりに「お出かけ」の用事もあるのだが、それ以降は12月まで買ってあるチケットもないし、じっくりと「計画」を実行に移そうと考えているのだが、よく考えたら上野の「マルセル・デュシャン展」、千葉の「1968年展」、水戸の「中谷芙二子展」も観ておきたい。もうしばらく、あれこれと「お出かけ」がつづきそうではある。

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181023

■ 2018-10-22(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 また月曜日で、仕事の日々が始まる。通勤の電車では、今日からは昨日借りた「テヘランでロリータを読む」を読むことにして、読みさしの「フランケンシュタイン」は寝るとき、その他時間があれば「ジェイン・オースティンの読書会」を読むことにした。それでちょっと「テヘランでロリータを読む」が痛切で、なんだか、「ジェイン・オースティンの読書会」はアホみたいな本になってしまったかな? わたしは中東地域で「ロリータ」を読むのであれば、もっとナボコフの姿勢に批判的な書き方になるのかと思っていたのだが、まるでそうではなく、「ロリータ」の中に解放への契機を読むような読み方というか。これは読み終えてからしっかり書くべきことだけれども、そこに「書物」というものの「奥深さ」を知らしめられるような気がして、啓発された。

 今日はちょっとした「知らせ」も受け取って、「これはいつまでもうかうかしてはいられない、わたしのタイムリミットも迫っているではないか!」という思いにもさせられ、本当に、今のようなウキウキした生活をつづけていてはいけないと思わされた。そろそろ、「大変革」を実施しなくてはならないか。

 それで、ニェネントくんが、食事を残す。朝の「カリカリ」は完食してくれるのだが、昼に出した「かつおのたたき」とか、ぜんぶは食べないで残しているし、「どうしたのよ」と。ちょっと心配になる。ま、「太れ!太れ!」と、やたらに食べものを出してあげるわたしのやり方がいけないのだろうけれども、見た感じで「どこか具合が悪い」ようにも見えないから大丈夫かと。心配だけれども、もうちょっと様子をみよう。

 わたしは、「あんかけ焼きそば」メニューを昨日完成したので、ちょっと有頂天である。今日も夕食で昨日のレシピを思い出しながら調理して、「やっぱりおいしいじゃないか!」という出来上がりでひと安心。このレパートリーは、もう万全であろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181022

■ 2018-10-21(Sun)

 日曜日だ。今日は雲もない晴天で、まさに「秋日和」。さて、こんな日は図書館まで歩いてみよう。今回は読みたい(借りたい)本がある。「テヘランでロリータを読む」という本。帰りにはショッピングプラザで買い物をして帰ろうか。

 昼前に家を出てぼちぼちと歩く。それで常磐線を越える歩道橋に上がろうとしたら、向かいからおじいさん(70歳以上?)とお孫さん(3歳ぐらい?)とが降りて来るところだった。「いいな、あいさつしよう」と思っていたら、おじいさんが先にその子に「ほら、おじさんにあいさつしてね」といわれてしまい、その子がごにゃごにゃとあいさつしてくれるのだった。わたしも「こんにちわ、かわいいですね〜!」とあいさつする。すれ違って、「いいですね〜!」と声をかけたけれども、もうひと言、「お気をつけて!」とかいえばよかったと思った。それでも気分はいい。もっとみんながね、すれちがうときにあいさつし合える世界だったらいい。わたしは職場で知らない人とすれちがうことが多いから、いつも基本はあいさつする。

 図書館で探していた本を見つけ、「他にも何か?」と考えて、ゴヤの薄い画集と、同じシリーズのバーン=ジョーンズの画集とを借りる。今ちょっと、ゴヤの版画をもっと観たいと思っているし、バーン=ジョーンズの作品の装飾性にも心動かされる。

 今日の手賀沼にはハクチョウの姿はみられなかった。オオバンとカモがいっしょの群れになってたむろしていた。

     f:id:crosstalk:20181023132402j:image

 帰り道はショッピングプラザ経由。先日ニェネントのトイレ用品を買ったのだけれども、「あと900円分ぐらい買えば500円の商品券をあげますよ」という悪辣な商法にまた引っかかり、「ストックしておいても問題ないから」と、ニェネントの猫砂を買ってしまうのだった。
 スーパーで、またニェネントくん用に「かつおのたたき」を買い、帰り道には「ローソン100」に寄って、半額になっていたバナナとか、キムチとかを買うのだった。帰宅して、昼食はまた「栗ごはん」。

 午後はゴロゴロしていたら、「そういえば、北千住での展覧会で、Eさんが<作品の一部>になって参加しているんだったな」と思い出し、調べたらその展示も今日でおしまい。時間もギリギリだったので、ニェネントにごはんを出してからあわてて出かける。
 展示は午後5時までだというのに、会場のBUoYに着いたのは4時50分ぐらい。ほとんどエンヴァイラメント、という雰囲気の展示の作者はオーストラリアのHeather B. Swannという方。BUoYの半廃墟的空間を巧みに使い、とっても心にしみる展示だった(ちょっと詳しくは下に)。1階と2階との展示の、1階の方におそらくはEさんが「展示作品」になられていた。すぐにクロージングの5時になり、それでもしばらくは会場で作品を観てから帰ろうとすると、ちょうど外に出たところでうしろからEさんに呼び止められ、「シャンパンとかありますから」というのでまた会場に戻る。作者のSwannさんを紹介されてちょっとあいさつし、そのあとしばらくEさんとお話しする。「そろそろおいとまを」と、もういちどSwannさんのところへ行って、すっごい久しぶりに英語を使って話をした(大した会話をしたわけではないが)。いい気分で帰路に着く。空には月が輝いていたが、この夜は「十三夜」ということだったらしい。

 帰宅して、「お留守番」のニェネントに「かつおのたたき」を出してあげ、わたしは買ってあった焼きそば麺を使って、またまた「あんかけ焼きそば」に挑戦。それがついに、この日はうまく成功し、「見かけは悪いけれども、この味だったらそこいらの中華料理屋に負けないぞ!」というおいしい「あんかけ焼きそば」が出来た。かなりうれしい。ポイントのひとつは、麺を電子レンジの「トースター」機能で焼くこと。今日のこの手順は、しっかり記憶しておかなければいけない。


 

[]「I LEFT my BODY FALL into A RHYTHM」Heather B. Swann @北千住・BUoY 「I LEFT my BODY FALL into A RHYTHM」Heather B. Swann @北千住・BUoYを含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181023132002j:image

     f:id:crosstalk:20181023132045j:image

        f:id:crosstalk:20181023132126j:image

     f:id:crosstalk:20181023132207j:image

        f:id:crosstalk:20181023132246j:image

 BUoYの廃墟のような空間と、人の身体、そしてSwannさんのオブジェ、そして音の統合された「環境」に身を浸す。良かった、というか、こういう表現をなされる方に嫉妬の感情を憶えた。

 さいごの写真の奥にいるのは、「作品の一部」の役目を終えて上がろうとするEさん。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181021

■ 2018-10-20(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 土曜日で仕事休み。それでも6時半ぐらいには起きる。天気予報どおり、外はちょこっと雨模様。今日はいちにち、こんな天気だという。ニェネントの朝ごはんを出そうとすると、ニェネントが「今日は朝ごはんが遅いじゃないの!」という感じでニャンニャンなく。わたしの朝ごはんはハムトースト。それで、昨日仕込んだ栗がいっぱいあるので、「おつまみ」としてクイクイ食べる。
 昨夜観た「沖縄スパイ戦史」の記憶が鮮明で、朝のテレビのニュースをみていても、日本はまだ(また)そんな沖縄戦を再現してわたしたち国民(の中でもマイノリティー)を虐げようとしていると思える。なんとか、ニェネントとわたしとが生き残る術(すべ)を手に入れなければならない。

 意外と天気も持ち直したというか、午後からは晴れ間も拡がったので、明日にしようと思っていた洗濯を一気にやる。
 それで今日は20日で、某ドラッグストアでは某Tポイントが1.5倍で使えるという日。こういうことに乗せられてしまうのも情けない思いもするのだけれども(Tポイントのカードはいつの間にか使うようになっているけれども、他のポイントカードはもう、加入して手に入れようとは思わない)、その手持ちのポイントがいつの間にか600ポイントを越えてしまっているので、今日お買い物をすれば千円ぐらい値引きされる。やはり活用させてもらおうと、駅の向こう側にあるドラッグストアへ行くのだった。
 店に着いて、「買うのならコレしかない」と思っていたサプリメント、いつものDHAのサプリにプラスして、今回は先日国分寺のクリニックでも勧められた「鉄分」のサプリとを買う。両方合わせて4000円近いけど、今回はDHAの方は2ヶ月分、「鉄分」の方は100日分あるから、「ま、そんなもんか」とあきらめる。どうか記憶力がちゃんとして、そして健康でいられますように。

 夕食は、まだまだいっぱいある栗をインスタントのお赤飯に入れて、昨日につづいて秋らしい栗ごはん。珍しくテレビで「ブラタモリ」とかをみると、今夜は「有田焼」についてで、これが今までの「ブラタモリ」でもいちばんぐらいに、興味深くも面白くみてしまった。攻めどころが「有田焼」一点に絞られていたから、わたしの興味もつづいたのだろう。それで、「さあ、これからじっさいに焼きものを焼くぞ!」というところで、つづきはまた来週なのだった。「お、来週の土曜日の夜は予定が入っていたっけ?」とか確かめてみたりする。何も予定はなかったので来週もみよう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181020

■ 2018-10-19(Fri)

 ようやく金曜日になった。今日仕事をやりとげれば、明日明後日は仕事は休み。しかし、一ヶ月ほど4労3休をつづけてきただけに、今週の月〜金の5日間は長かった。この体制こそは通常なのだから、早く馴れなくては。
 このごろ天気予報は毎日、「雨も降ったりするでしょうから傘をお忘れなく」といっていた。たしかに朝方にちょっと降っていたり、厚い雲が空を覆っていたりするのだけれども、傘が必要なほどに雨が降ることもなかった。天気予報は、明日もそんな不安定な天候だといっているけれども。

 先週半額で買って放置してあった栗、「いいかげん何とかしないと」と、ついに皮むきの下ごしらえをした。久々に圧力鍋を使う。そんな圧力鍋を引っぱり出してふたを開けてみたら、中に突っ込んであった取説〜レシピ集にすっかりカビが生えてしまっていた。鍋の中に水が残っていたのだ。大失敗。
 栗を取り出して、ペティナイフで栗の上のとんがったところに十字に切れ目を入れ、圧力鍋にぶっこんで火にかける。これで10分加熱してやると、鬼皮も中の渋皮も剝きやすくなるのだ。意味もなく栗の数を数えながら下処理していると、ちょうど50個あった。それで皮を剝いてみると、中がすっかり傷んでしまっているのが1割強。皮むきの見本のようにかんたんに、すっかりきれいに剥けた栗が2個(こんなのばかりだったらいいのに)。残りの栗は、ちょっと苦労して剝けばきれいに剥けるのが三分の一。一部傷んでしまっているのが三分の一。剝いていてぼろぼろになってしまったのが残り三分の一、といったところ。‥‥けっきょく、予想していたように、ペティナイフで2ヶ所ほど指を切ってしまった。‥‥まあ、バンドエイドのお世話になるような大きな切り傷でもなかったけれども。

 それでも皮を剝いた栗はそれなりの量もあり、食べてみると栗の甘みが口に拡がって「秋」。今ウチには職場からもらって来た「保存食」のお赤飯がいっぱいあるので、その中に栗を入れてみると、予想した通りにとってもおいしかった。これで、当分はそんな、「栗入りのお赤飯」の食卓がつづくことになるだろうか。

 今、となり駅の映画館で「沖縄スパイ戦史」というドキュメンタリー映画が上映されていて、その上映は今夜まで。おそらくはDVD化とかされない作品だろうし、「スパイ戦」というものに「どういうのだろう?」という興味もあったし、やはり沖縄戦というものについてもっと知っておきたく思ったので、観に行くことにした。

 映画館はこの日のこの回が最終上映ということもあり、それなりのお客さん。わたしの座った席の並びにはまだ高校生ぐらいに見える女の子がふたり並んでいたし、反対側にも二十代だろうという女性客がいた。若い人がこういうドキュメンタリーを観てくれるというのはうれしいが、若い男性の姿が見えないというのはちょっと寂しかったか。

 映画を観終えて外に出るとちょっとだけ雨が降っていたけれども、空を見上げると雲を透かして月の姿がみえた。自宅駅に着いたときにはすっかり雨もやんでいた。今日は金曜日なのでウチのそばの中華の店はドリンク類が皆半額。今日は給料振込み日でもあったので、「ま、いいか」と店に行き、ハイボールといつもの台湾焼きそばとで満足して帰宅。さっき観た映画のことを考えたりしながら、いつもよりは遅くに寝るのだった。


 

[]「沖縄スパイ戦史」三上智恵・大矢英代:監督 「沖縄スパイ戦史」三上智恵・大矢英代:監督を含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181021091845j:image

 映画は主に3つのパートからなる。

1:本土からの軍人が、沖縄地元の少年を徴収して「護郷隊」を組織、山岳ゲリラ戦を遂行させる。少年らの身長を越える丈の銃器、少年らの体重ほどの装備を担がせ、沖縄北部の山中を右往左往させる。アメリカ兵が射殺した「護卿隊員」は、十歳にも見えなかったという。
 少年らを指揮した将校は生き残り、戦後に沖縄を訪れたとき、戦死した少年の遺族に「何でおまえが生き残ってるんだ」とつかみかかられたと。映画の末尾に、その元将校は毎年沖縄の慰霊祭に参列し、そして毎年自分の育てたソメイヨシノを沖縄に送りつづけたという。しかし、気候の合わない土地で、そのソメイヨシノが根付くことはなかった。
 晩年に車いすで慰霊祭に参列したその元将校は、慰霊碑の前で号泣したという。そんな彼の、心のうちを知りたいと思った。

2:例の「中野学校」出身者が偽名を使い、「教師」という名目で波照間島にやって来る。彼は全島民を北の西表島に強制避難させる。その西表島には「マラリア」が蔓延し、波照間島民の避ける土地だった。けっきょく、西表島で多くの島民がマラリアに感染し、五百人近い死者が出た。

 しかし、波照間島はアメリカ軍の攻撃対象ではなかった。日本軍は波照間島から住民を追い払い、島民の所有する家畜を日本兵の食糧として調達することが目的だった。島民は死んでしまってOKという判断だったようだ。波照間島の慰霊碑には、はっきりとその<教師>の名前が、怨みと共に刻まれている(その<教師>もまた戦後に生き残り、滋賀で工場の経営者になったという。彼の生前に、波照間島の生き残った人が彼と電話で話をしたテープが残っているのだが、彼からの<謝罪>の言葉はいっさいなかった、という)。

3:沖縄戦がほぼ終結したとき、「敗残兵」が山中などに降伏せずに居残った。彼らは島民が情報をアメリカに伝達するのを防ぐため、島民の間に「あいつはスパイだ」との情報を流し、多くの一般島民を殺害した。

 ‥‥これらの「戦略(?)」は、予想される「本土決戦」のシュミレーション(主に一般市民に対しての)として日本軍が試みた戦略で、つまり日本軍は日本の国民を守ろうなどとは考えていず、ただ日本の「国体」をこそ守ろうとしていたということ(このことはわたしが読んだ別の本で、戦争末期になお「一千万が<特攻とかで>死ねば、日本は勝てる」と語ったという軍人の発言に呼応する)。

 そして、このドキュメンタリーの末尾に、こういった戦中の軍隊の国民への姿勢は、今ある「自衛隊法」の中にそのまま生かされていることが語られる。

 この「悲劇」を繰り返してはならないが、安倍政権は憲法を変えて自衛隊を軍隊に昇格させ、「国民」ではなく「国体」を守る国をつくろうとしている。わたしたちはまた、踏みつけられようとしている。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181019

■ 2018-10-18(Thu)

 今朝も何か「気がかり」な夢をみていたのだけれども、夜中に目覚めたときに憶えていたことも、もちろん目覚めたときには忘れてしまっている。しかし、なぜ「忘れられた夢」は、いつも「気がかり」なのだろうか。思い出せなくなってしまったものは、どんなものでも気がかりなのだけれども。

 今日から、通勤の電車では昨日買った「フランケンシュタイン」を読みはじめたのだけれども、そのさいしょのところで、極地で犬ぞりに乗ったフランケンシュタインと彼のつくった「怪物」との追走劇の場面を読んで、「あらら、この本はずっと昔に読んだことがあるよ」と思い当たった。それでも、イメージに残っていたのはその冒頭の場面だけだったから、あとの展開を記憶しているわけでもない。読み進めることに支障はないし、こういう、「この本、過去に読んだことがあった」という追憶は、どこかでわたしのなかでプラスに作用するものだという気がする。読み進めよう。‥‥って、けっこう密度の濃い文章なので、さいしょは「今日と明日でだいたい読み終えられるかな」と思っていたのだけれども、これは四日間ぐらいかかりそうだ。読んでいて思うところはいろいろあるけれども、それは全部読み終えてから。

 米がなくなってきた。今日はスーパーの「S」が木曜日で10パーセント引きの日でもあるし、もう米を買うのはこのスーパーの「S」で木曜日に、と決めてあるので、5キロの米を入れて帰るためのキャリーをゴロゴロと転がせて、買い物に出た。スーパーの店内を一周し、米のほかにカップ麺とか、酒のおつまみとかを買う。仕事を終えて帰宅したとき、「あ〜、昼食つくるのめんどうだな〜」というとき、やはりカップ麺とかに頼ってしまうのだ。80円ぐらいなら「ま、いいか〜」と思って買ってしまうのはよくないのだが。

 家に帰って買って来たおつまみで酒を飲み、そうそう、ニェネントくんにご飯を出してあげ、それでしばらくネットとかを閲覧し、「もう日本もおしまいだね〜」とか思いながら時間が経って、夕食は昨日の残りの「ジャガイモの煮物/おでん」ですませ、ニェネントくんに追加で「かつおのたたき」で肥満を加速させる。
 食事を終えたら「もう寝ますか〜」って感じになり、ベッドに横になって、あと残り少しになっていた「ソフィーの世界」を読んでいたら読み終わってしまい、「あらら、読み終わっちゃったよ」と、次に先日買った「ジェイン・オースティンの読書会」を読みはじめたら、おもしろそうなんだけれどもスイスイと眠くなってしまい、まだ7時ぐらいだというのに寝てしまうのだった。


 

[]「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」ヨースタイン・ゴルデル:著 須田朗:監修 池田香代子:訳 「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」ヨースタイン・ゴルデル:著 須田朗:監修 池田香代子:訳を含むブックマーク

 この本の奥付を見ると、「1995年6月30日 第一刷発行 1995年7月27日 第11刷発行」とある。刷を重ねるペースが早い。つまり、当時の大ベストセラーだったのだ。‥‥いったいなぜ、この書物がそこまでに売れたのか、わたしはその理由を知らないが、とにかくは先日読んだ何かの本で、この頃にこの「ソフィーの世界」がベストセラーになり、「哲学ブーム」が起きたのだ、ということが書かれていた(何の本だったか、たいした本ではない)。「ほんとかよ?」と思う反面、そもそもが「哲学」というものはいつの時代にも偏在するもので、「ブーム」などということとは無縁だろうが、とは思うのである。それでわたしも当時、その「ブーム」がおさまった頃だろうか、例の某量販古本店で最安値で買って読んだ記憶はある。
 話は脱線してしまうけれども、そういう一過性の「ブーム」というものは、そのブームが去るとそういう量販古本店に最安値で並ぶことになるわけで、わたしなどは時にそういうことを「ありがたい」とは思う。例えば前に買ったオルハン・パムクの本なども、これはきっと彼がノーベル文学賞を受賞したおかげで一時売れてしまったのだろうけれども、ま、正直、普段「ラノベ」とかしか読まない人たちにはきっと歯が立たないわけで、そういう人たちは普通の古書店で処分せずにそういう量販古本店に処分してくれるので、わたしなどがチェックしているとすっごい安値で買えたりするわけだ。これはありがたいことで、これはついこのあいだそんな量販古本店で買った「ジェイン・オースティンの読書会」などでも同じようなことで、映画が公開されたからその原作を買ってみました、という人が、制覇出来ずに(というか、わたしが買った本は読んだあともなかったのだけれども)処分し、超安値で店に出されることになって、わたしなどが喜ぶわけである。
 当時この本を読み終えた頃に、知人の某女性とこの本の話題になり、わたしが通読終えたというと「すごい!」と驚かれた記憶がある。つまり、その女性はこの本でとちゅう挫折したらしいのだが、これしきの本で挫折するかね、と、ちょっとびっくりした記憶はある。

 閑話休題。とりあえずは、古代からの哲学史を要領よくまとめ、その上にちょこっと「メタ書物」的な仕掛けをほどこして、楽しく読める本ではあって、「そりゃあ売れただろう」とは思う。わたし自身だって、そんな「通史」として哲学のことを考えたこともなかったし、ヒュームやバークリなんて人物の思想なんか知るゆえもなかったわけだし、つまりは「勉強になった」。前にもこの日記の中でちょっと書いたことだが、この本が出版された1990年代は、世界でリベラリズムが優勢だった時代だろう。そんな空気感がこの本にも盛り込まれているわけだけれども、それからほぼ30年が過ぎようとする現在、世界はある意味とんでもないことになってしまっているのではないのか。この本を読んで、そんな当時の時代のことを呼び戻したくなってもしまうのだった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181018

■ 2018-10-17(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 夢。わたしは会合というかパーティというかに出席している。場所は会議室とか教室のようなところで、外から明るい陽射しが射し込んでいる。ビルの上の方の階らしい。どうやら一段落ついたところで皆は帰るようで、わたしとしてはこの場所で夕食の時間まで過ごそうと思っていて、ちょっとガッカリしているのだが、どうやらDさんはあとに残るようなのでホッとする。
 場所はその建物の屋上らしいところに移動し、わたしを含めて数人の男女が談笑している。わたしの知らないちょっと太った女性がわたしの持っていたタバコを珍しがり、取り上げる。たしかに、ロングピースのパッケージの色をもう少し濃くしたような、見たことにないタバコだったのだが、その女性はタバコを手から落とし、タバコはビルの下まで落ちて行ってしまう。そのビルは側面の一つが斜めになっていて、その白い傾斜面のところどころに出窓が出っぱっている。わたしは「この斜面から下に降りれるだろうか」といっしゅん考えるが、すぐに「それは無理だ」と思い、ビルの下に落ちたタバコを取りに行く。
 ビルから降り、「落ちたのはこの辺りだっただろうか?」と歩いて行くとまた場面はガラリと変わり、緑に囲まれた石碑の並んでいるところに出る。わたしはそんな「緑」と、石碑との色の対比が美しいと思い、何枚か写真を撮るのだった。

 今日出勤するときには少し雨が降っていたけれども、勤務地に着いたときには雨は降っていなかった。早朝は涼しくてジャケットを羽織っていないと寒いのだが、仕事を終えて帰るときにはもうジャケットはいらない。空は晴れていて気もちがいい。
 昨日まで電車の中でムージルの「三人の女」を読んでいて、今日からはゴンブローヴィッチの「フェルディドゥルケ」を読みはじめようとしたのだが、どうも今の気分ではこのような長編小説を読みつづけるという気分ではなく、これを飛ばして、次のブルーノ・シュルツの「肉桂色の店」を読みはじめたのだけれども、「これはあまりに面白いぞ!」ということになり、そうするとシュルツの作品は全部読みたくなり、この本には収録されていない「クレプシドラ・サナトリウム」も読まなくっちゃということになり、そうするとこの全集アンソロジー本ではなく、たしか平凡社から出ている「ブルーノ・シュルツ全作品」とかを買わなくっちゃな、ということになった。そうするとシュルツを読むのはその「全作品」を買ってからまとめて読みましょう、と決めた。

 今日は天候も気もちがいいので、半分「散歩」のつもりで、我孫子の方まで買い物に歩いた。せっかくだからいつもとはちがう道を歩こうと、角でいつもは曲がらない道の方に曲がってみた。しばらく歩くと、道路脇の大きな農家のような家の庭に大きな柿の木があり、そこにまさに柿色をした柿の実が、満艦飾に実って垂れていた。歩いていてその柿の木が目に入るとさすがにびっくりして、「うわっ! 柿だ! 柿だ!」と、声を出してしまった。知らない道を歩くと、こういうことがあるから楽しい。

     f:id:crosstalk:20181018141353j:image

 銀行とかに寄り道して、「ま、いいか」と預金をちょっと引き出して財布に入れたら気分が大きくなってしまい、この日はショッピングプラザに行っていろいろと買い物をしてしまった。まずはめったに行かない3階の100円ショップで買いたいものがあって3階に上がったのだけれども、「そうか、ここに本屋があったんだ」と思ってその本屋の中に入ってみると、そんなに悪い品揃えではない。岩波文庫もそれなりの量置いてるし(わたしの地方の本屋の善し悪しの判断基準は、いまだに「岩波文庫が置いてあるかどうか」というわけである)、いわゆるヘイト本も置いてあることは置いてあるけれども、紀伊国屋書店みたいに酷いことはない。「地元だし、何か買って帰ろうか」とみていると、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」の文庫本があったので、買ってしまう。‥‥この12月には、そのメアリー・シェリーの伝記映画が公開されるので観たいと思っていたところ。メアリー・シェリーを演じるのはエル・ファニングという、グッドなキャスティングの映画。

        f:id:crosstalk:20181018141439j:image

 100円ショップで欲しかったものを買い、あとは1階に降りてスーパーの「I」でお買い物。まずはニェネントくんのトイレの猫砂、そしてトイレシートを買う。なかなかにいい価格なのだ。あとはわたしの大事なウィスキーとか、肉まんとか、それと見ているとまた「かつおのたたき」が安かったので、ニェネントくん用に買う。買い物袋がいっぱいで重たくなった。それでさらに帰り道にローソン100に寄り、「今夜はまたおでんにしよう」と「おでんセット」を買って帰る。まだまだいっぱいあるジャガイモをぶちこんで、先日とまるでおんなじの「ジャガイモ煮込み風おでん」で夕食。ニェネントには夕食にプラスして「かつおのたたき」のおやつ。ニェネント太る。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181017

■ 2018-10-16(Tue)

 わたしが夜にベッドに行って寝つくのは8時か9時のこと。普通の人よりはずいぶんと早いことだろうと思う。老人だからのことではない。仕事のために朝に起床するのが午前4時だからだ。それで夜眠っていて、それでも夜中に2度か3度、目が覚める。そのたびに時計をみて、「ああ、まだこんな時間なのか」とか、「あと◯時間ぐらい眠れるな」とか、「もう起きなくてはいけない時間か、もっと寝ていたいものだ」とか思いながらまた眠り、最終的に4時のアラームで起こされることになる。
 ベッドから起きて、さいしょにやるのはニェネントに朝ごはんを出すことだ。目覚めたばかりで気分はまったく元気ではないから、ただ無言で「カリカリ」をニェネントの食器に移すだけ。これが昼ごはんならば「ニェネントく〜ん、ごはんですよ〜!」とか、せいいっぱいニェネントのご機嫌をとるのだけれども、大きな差異がある。ニェネントにしても、わたしのことを「かわいくないヤツだな〜」と思っていることだろう。

 それにしても、今日はいつまでも眠い。仕事にも身が入らないというか、「早く終業時間になってくれ」みたいなことばかり考えている。本当にナルコレプシーなんじゃないかとか思う。

 ようやく仕事も終わって帰宅して、昨日買ってあった惣菜で昼食をちゃっちゃっとすませ、それでようやく元気を取り戻した感じもあって、「あともうちょっと」だった、読みさしのムージルの「三人の女」を読み終える。

 それで今、実は寝る前に少しずつ、いにしえのベストセラー本「ソフィーの世界」を読んでいるのだが、これもあと100ページぐらいのところまできた。ちょっとした簡易な哲学史として面白い本だったし、この本の刊行された1990年代?には世界のベクトルはどこを向いていたかというのを知るのでも面白い。あれから20余年、なんという世界になってしまったことだろう。


 

[]「三人の女」ローベルト・ムージル:著 川村二郎:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「三人の女」ローベルト・ムージル:著 川村二郎:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

●「グリージャ」
 鉱山調査に来たホモという男が、現地の女性と関係を持つ。ホモには妻子があり、相手の女性(ホモは彼女を牛の名の「グリージャ」と呼ぶ)にも夫はある。文体が奇妙で、はたしてグリージャが何を考えているのか、しかとはわからないし、ホモの行動原理にしてもわからないといえばわからない。‥‥これはホモの運命なのか。原罪なのか。すべては坑道の奥にそのまま埋もれて行くようで、読んでいてその坑道の奥の光、もうホモがたどり着くことが出来ない光にこそ惹かれるのだった。

●「ポルトガルの女」
 伝承物語のようなストーリー。崖の上の城。まさに「説話」のような背景のもと、またも「不倫」ということがテーマなのか。「神の身替わり」として登場する猫が殺され、おそらくは「ポルトガルの女」は救済される。とっても面白い話だ。

●「トンカ」
 ちょっとばかし長くなる物語。男はトンカという女性といっしょになるが、はたして男はトンカを愛しているのか、トンカは男を愛しているのか、しかとはわからない。そもそもトンカという女性は何を考えているのか。そして男は何を望んでいるのか。トンカは男の不在のあいだに日にちの合わない子を宿し、同時に病いも背負い込むことになる。はたしてこれは「愛」のかたちなのか。やはり不可解な文体の中に、読むわたしの意識は宙づりになるのだろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181016

■ 2018-10-15(Mon)

 またこれから5日間の仕事がつづく。しばらく4日仕事で3日休みというのがつづいていたので、5日もつづけて仕事というのはイヤだなあと思う。

 仕事を終えて帰宅して、借りているDVDを今日返却しなければならないので、まだ観終わっていなかったタルコフスキーの「鏡」を観る。観終えて電車でとなり駅まで行って返却し、ついでにスーパーに寄って惣菜などを買う。帰宅して、昨日の残りの「おでん」だか「ジャガイモの煮物」だかわからないおかずで夕食をすませ、早くに寝るのだった。


 

[]「鏡」(1975) アンドレイ・タルコフスキー:脚本(共同)・監督 「鏡」(1975)   アンドレイ・タルコフスキー:脚本(共同)・監督を含むブックマーク

 映画の中で詠まれる「詩」はタルコフスキーの父の書いた詩だそうで、そういうことはただ映画を観ていたのではわからない。

 「自伝」というものを、映像であらわそうとすればこういうかたちになるものだろう。そもそも「記憶」というものは映像的なものだろうと思う。モノクロからカラーへと、カラーからモノクロへと移り変わる画面。古いニュース映像も挿入され、「個人」の記憶の中の歴史感覚が再現される。そして「火事」の炎のオレンジ色の鮮明さ。「風」、「気配」。劇映画でも、ドキュメンタリーでも提示出来はしない映像の世界から、まさに時間の中の「生」というものが浮かび上がってくる。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181015

■ 2018-10-14(Sun)

 今日は横浜へ行く予定。午後1時からの北村明子の「土の脈」のチケットを買ってあるから行くべきなのだが、実はあまり行きたくない。彼女のこのプロジェクトは3月に「vox soil」というのを観ているわけで、それで今回(今日)の公演はそのときの<発展系>というか、どうも、そもそもほとんど同じなんじゃないのか?という雰囲気がただよってきているのだ。それは半年の時間を経てグレードアップしてくれていることだろうから、期待したいところはあるわけだし、とにかくはチケットを買ってしまっているので、行くのだ。

 朝はやはり6時ぐらいに起きて、のんびりと10時ぐらいまでテレビをみてから出発。ウチを出て歩いていると、わたしの前をイヌのお散歩で歩いている人がいた。イヌはかわいい。わたしも、いちどぐらいはイヌを連れてお散歩をしてみたいものだと思う。ちょっと撮ってみたら、おっと、おしっこしているところでした。失礼。

     f:id:crosstalk:20181017041145j:image

 延々と電車に乗り、みなとみらい線の「日本大通り」駅で下車。時間はちょうど昼。気分的には「今日こそおいしいカツ丼を食べたいな」というところで、「たしか近くに蕎麦屋があったはず」と行ってみたら、その店は土日は休みなのだった。「しょうがないな」と歩いて、目の前に「大戸屋」があったので、店頭のメニューをみると「親子重」があったので、「これでいいか」と店に入る。サラダとかおみおつけとかついて、それなりのグレード。おいしかった。‥‥わたしのそばにはどこか東欧系なのか、英語圏ではないところの海外からの年配のご夫婦が食事をされていた。メインディッシュの他に、旦那さんはビール、奥さんは日本酒を飲まれていたのだが、その表情はあんまり満足されているようなものではなかったような?

 食事を終えるともう開演時間も近くなっていて、今回の公演は全席指定だから、とにかく「始まるまでに行けばいいんだよ」という気分。こういうのは気分的に楽。‥‥で、会場に行ってみると、思いがけずもわたしの席は最前列。そんなつもりはなかったのだけれども。

 ‥‥舞台が始まってみると、いやそれは既視感といいますか、それは3月の「vox soil」とおんなじみたいな感じではあったわけでした。

 終演後はまっすぐ帰路に。まだ明るいうちに帰宅してニェネントくんに食事を出してあげ、わたしもそのあとで昨日の「おでん」だか「ジャガイモの煮物」だかで食事にし、テレテレとテレビなどをみて、9時前に寝るのだった。


 

[]北村明子 Cross Transit project「土の脈」北村明子:演出・構成・振付・出演 @横浜・KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ 北村明子 Cross Transit project「土の脈」北村明子:演出・構成・振付・出演 @横浜・KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオを含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181017041313j:image

 記憶力のダメダメなわたしが言ってもアレだけれども、その内容はほんとうに3月の「vox soil」と同じだったと思う。ただ会場が多少広くなったので、前回の「狭っ苦しさ」はなくなっていたとは思う。

 次はやはり、北村明子さんのソロ・ダンスを観てみたいものだと思う。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181014

■ 2018-10-13(Sat)

 土曜日。仕事は休みだ。今夜は渋谷のイメージフォーラムのレイトショーで、首くくり栲象さんを捉えたドキュメンタリーが上映されるので、観に行きたいと思っていた。しかし昼間ダラダラしていたらすっかり遠出する気がなくなってしまい、「明日は早い時間に横浜に行くわけだし」とか考えもするし、借りているDVDも観ておかないといけない。そんなこんなで、今夜はずるけることにした。

 午後からDVD「恐怖分子」を観て、そのあとは近所のローソン100に買い物に行く。今夜の献立を考えるのもめんどうで、これは100円ではなかったのだけれども「おでんセット」を買い、けっこう量のあったジャガイモなども買う。帰宅して冷蔵庫をみてみると、「もうあまり残ってないだろう」と思っていたジャガイモはけっこうな量が残っていて、しかも皆さん芽をスクスクと伸ばし始めて成長中。さわってみると、もう芽に養分とか吸い取られてぶよぶよっすね。ま、それでも充分においしく食べられるのがジャガイモの「万能保存食」たるところだけれども、さすがにこうなると早く食べてしまわないといけない。それで今夜の「おでん」には、山ほどジャガイモをぶち込んで、もう「おでん」なんだか「ジャガイモの煮物」なんだかわからないことになった。


 

[]「恐怖分子」(1986) エドワード・ヤン:監督 「恐怖分子」(1986)   エドワード・ヤン:監督を含むブックマーク

 実は今、「室内、そして窓をどうあらわすか」ということになぜか興味を持っているのだけれども、そういうところでこの作品にあたまからグン!と持って行かれた。クールな描写の中にどこか暴力的な空気をただよわせるのは、90年代の黒沢清の作品みたいだ(黒沢清は影響を受けたのだろうか)。

 ストーリーは主にひと組の夫婦がメインで、妻は小説を書いていて夫は研究所みたいなところに勤めている。妻は自分の体験したことからしか作品が書けず、スランプである。夫は妻が小説を書くことに協力的ではあるが、ただ「書く環境」を整えてやるばかりで、彼女の内面の問題は放置している風。夫の勤め先の上司(課長)が突然死して、彼は上部にライヴァルの同僚に関して虚偽を伝え、自分が課長代理になる。妻は夫に隠れ、過去の勤務先の上司に会って関係を持つ。
 映画は市街地でのチンピラ同士の抗争、銃撃という事件から始まるのだが、ここにその抗争に絡む混血の不良少女がいて、さらに事件を目撃して撮影するカメラマン志望の若者がいる。若者は良家の子息みたいだが、徴兵される前に家を出て「自分は眼がいいからいいカメラマンになれるだろう」と、恋人とも別れてひとり修行している。銃撃事件があって空き部屋になったアパートを借り、暗室として使うことになる。そこに混血少女がやってくる。短い接触。混血少女は意味もなくいたずら電話をかけるが、その電話は小説家の妻が聴くことになる。混血少女は若者のカメラを盗み、故買屋に「売れた金で高雄に行く」と売りつける。

 カメラマン志望の若者は実家に戻り徴兵の招集状を受け取り、彼女とよりを戻すようだ。混血少女はけっきょく、チンピラ仲間から離れられないようだ。小説家の妻はその「いたずら電話」を元に作品を書き、それが文学賞を受賞する。もう夫とは離婚して元上司との生活を始めようとしている。離婚を突きつけられた夫は、同時に課長代理の座からも転落する。彼は狂っていく。

 登場人物は皆、自分の前に敷かれた「日常」というレールを「どう越えていくか」、という問題と直面しているのだろうか。実のところ、この「日常を越える」という命題をクリア出来る人物はいないようだ。小説家の妻も「自分の身に起こったこと」しか書けないという限界は自覚しているわけで、今回は「いたずら電話」が後押しをしたかたちになったが、では元上司との新しい関係が創作の契機になるかといえば、どうも長続きしそうもないだろう。カメラマン志望の若者は、とりあえず兵役が終わるまでペンディング、という気分もあるのだろうが、「日常を越える」という反抗的気分は捨てたようにはみえる。混血少女は、カメラを売った金で高雄に行ってしまえば別の可能性もひらけたのだろうが、けっきょくは犯罪の蠢く都市から離れられないようだ。夫は破滅した。

 ‥‥この、のしかかる抑圧感。「何を試みてもうまく行かないだろう」という、ドローンとした暗鬱な気分が、この作品を支配しているように思えた。「何も変わらない」というこの世界は、2018年のこの日本にも通じるところがあるように思った。‥‥いや、今のこの日本からこの映画を観たからこそ、このような解釈になったのだろうか。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181013

■ 2018-10-12(Fri)

 今日は国分寺のクリニックへ行く。予約時間が2時45分とちょっと遅いので、それまで時間をつぶすのが大変だ。まずは仕事のあとは駅前のカフェでいつもの「ワンコインセット」でてりやきバーガーとポテト、それとコーヒーのセットで昼食。そのあと近くの某古本量販店に行って、店内を見てまわる。「海外文学」の「ここのコーナーは安いよ〜」というところに、「ジェイン・オースティンの読書会」が転がっていて、値札をみると200円だった。本の「つか」を見てもまるで読まれた形跡もないし、「あらあら、かわいそうに」と思って、買うことにした。それでDVDとかの売り場に行くと、こんどはブレッソンの「ラルジャン」が2250円で置かれている。「これはぜったいに格安だろう!」と思い、ま、2000円を越える買い物はちょっと考えてしまうので、約5分間ほど思案して、けっきょく買うことにした(これは帰宅したあとにAmazonでみると、中古でも3000円していたのでやはり「お買い得」ではあった)。

     f:id:crosstalk:20181015182538j:image

 飯田橋駅から中央線で国分寺駅に移動。新しく出来た駅ビルに行って時間をつぶす。ここにあった本屋は売り場面積も狭くて品揃えの個性もなくってつまらない(前に行った仙川の本屋と売り場面積はそんなに変わらないのに、大きな違いだ)。上の階の某「東急ハンズ」に行く。この店舗も売り場面積は狭いのだけれども、ステーショナリーをみていると、シャープペンシルとかで使いやすそうなのが置いてあった。前に100円ショップで買ったシャーペンはすぐに壊れてしまったのだが、ここに置いてあるシャーペンは手触りもよく、しかもせいぜい500円とお安い。これはまさに、「100円ショップで買うと失敗するよ」という好例だろうか。今日は買わなかったけれども、いずれウチのそばの東急ハンズとかで買おうかと思う。

 クリニックへ行き、主治医の先生に前回の血液検査の結果などを説明される。やはり血液中の鉄分が足りていないというのか、貧血気味だということ。レバーのやきとりはせっせと食べているのだがな〜。先生に「サプリメントでもおやりなさい」といわれた。‥‥そうか、そうだよな。今服用しているEPA&DHAのサプリメントで、プラスして鉄分も補給出来るようなサプリメントを摂取すればいいわけだ。こんど探してみよう。きっとそういうのもあることだろう。

 さて、次回のクリニック通院は三ヶ月後の来年早々のこと。「次回には<脳波検査>をやりましょう」ということ。‥‥脳波検査というのは、検査中に入眠しないといけないのだけれども、過去に二回連続して検査中眠れなくって失敗している(先生は「大丈夫ですよ、検査結果はわかりますから」というのだけれども)。次回は何とかうまく眠ることができて、きちんと検査出来るといいと思う。


 

[]「判決」フランツ・カフカ:著 柏原兵三:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「判決」フランツ・カフカ:著 柏原兵三:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

 語り手(主人公)の名前がヨーゼフ・K。そうするとカフカの長篇「審判」との関係を考えたくもなるが、よくわからないけれども「審判」の方が先に書き始められていた気配。

 この作品は、よくいわれるカフカと父親との関係とがあからさまに如実に語られている作品で、この作品での父親の、ほとんどグロテスクなほどのありさまには驚くしかない。この、(無意識の)抑圧こそが、カフカのすべての作品に通底する不条理、絶望感なのではないのか。「カフカとは何か」と問うときに、見逃すことの出来ない作品ではあるだろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181012

■ 2018-10-11(Thu)

 昨夜はそんなに遅くまで飲んだわけでもなし、酒の量もそこまでではなかったと思うのだが、今朝はなかなかにツラかった。「今日の仕事を終えたら休日」ならいいのだけれども、まだ今日は木曜日で明日まで仕事がある。気分的に落ち込む。外は少し雨も降っている。

 雨は朝方だけで止み、気温も上がって過ごしやすい日になった。勤め先からメトロでそんなに離れていないところの映画館(名画座)で、今週はカウリスマキの「希望のかなた」と、ウェス・アンダーソンの「犬ヶ島」との2本を上映している。2本ともすでに観た映画なのだけれども、例によってすっかり忘れてしまっているので、特に「犬ヶ島」はもういちど観たい。明日は国分寺のクリニックに行く日なので、観るとしたらこの日しかない。ちょっとがんばって、仕事のあとに観に行くことにした。

 仕事を終え、まずは昼食。先日新宿でおいしくないカツ丼を食べてしまったので、「もうちょっとおいしいカツ丼」を食べたいという気もち。こういうのは普通に蕎麦屋とかで食べればいいのだけれども、「富士そば」の「カツ丼」はどうだろう?ということで、飯田橋の駅前の「富士そば」でカツ丼を食べた。‥‥先週の新宿でのカツ丼よりマシだけれども、やはりわたしの食べたいカツ丼ではなかった。やはり、最低でも700円とか800円とかのカツ丼でないとダメだな、という結論になった。Try next time.

 メトロに乗って映画館へ。まだ12時前で、その時上映している「希望のかなた」も、まだ30分ぐらい。この映画もラストを憶えていないので、途中からだけれども館内へ。ちょうど皆が和食レストラン(寿司屋)を始めたというところで、わたしにはタイミングがよかった。「そうか、そういう展開だったのか」と確認出来た。
 休憩をはさんで「犬ヶ島」。ところがここで、観ていて眠くなってしまい、途中何度も寝落ちしてしまう。しっかり観たとはいえない鑑賞になってしまったが、記憶の脱落部分は補完出来ただろうか。どうもわたしは、本を読むにしろ映画を観るにしろ、2回は読んだり観たりしないと、キチンと記憶出来ないのではないかと思う。もちろん舞台も2回観るべきなのだが、舞台を2回観るというのはなかなかに困難なことだ。


 

[]「巣穴」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「巣穴」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

 この主人公(語り手)は地中に棲む肉食動物なのだが、いったい何なんだろう? 「もぐら」のようでもあるのだけれども、もぐらはここまでに肉食性でもないだろう(今調べたら、もぐらには魚類や両生類を食する種類もあるらしいので、やはりコレは「もぐら」と考えていいのだろう。

 主人公は巣穴を掘りめぐらす。それは自己防御のためであり、侵入する<他者>から身を守るため、さまざまな工夫をする。作品にはこの語り手以外にどんな動物も登場せず、語り手はすっかり孤独である。ある意味、語り手の巣穴への尽力は、自分の<孤独>をこそ守るため、とも読み取れる。終盤に外に他の生物の気配はあるのだが‥‥。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181011

■ 2018-10-10(Wed)

 バンクシーの作品をテーマにしたドキュメンタリー、「バンクシーを盗んだ男」を先日観たばかりなのだけれども、そのドキュメンタリーではつまり、バンクシーが壁に描いた「絵」が切り取られ、オークションにかけられたが買い手は現われないというラストだった。ところが先日、サザビーズのオークションにバンクシーの小品が出品されて競り落とされたのだが、そのときにその作品に仕込まれたシュレッダーが稼働し、作品を裁断してしまったというニュースが映像つきで報道された。びっくりではあるけれども、その作品は完全には裁断され終わらずに、「寸止め」でかろうじて額とつながっていて、けっきょくはその「途中まで裁断された」作品としてしっかりと残ってしまうのだった。この顛末にはまちがいなく作者のバンクシー自身が関わっているわけで、「あららら、バンクシーらしくもない」と思ってしまうのだった。
 ま、以後現代美術史の中でのひとつの「事件」として語り継がれることになるだろうけれども、この資本主義世界の中で奇妙に肥大化してしまっている「美術作品の売買〜オークション」という制度を、けっきょくは肯定してしまっているではないかと思う。

 さて今日は、Bさんと会って、柏で飲もうということになっている。北柏駅で待ち合わせ、ま、北柏駅前には「な〜んにもない(まったくないこともないけれども、わびしい)」わけだから、柏に移動しようということ。Bさんも柏駅から乗り換えだからちょうどいい。
 それで、実に久しぶりにお会いしたBさんは、以前とほとんど変わっていなかった。聞けばもう9歳のお子さんがいらっしゃると。柏駅北口の方に行き、「これって、我孫子にもあるじゃん」という居酒屋へ。

 Bさんは意外と、現在もコンテンポラリー・ダンスとかさかんに観ていらっしゃるようで、先日の日暮里の伊藤キムのソロも観ていたそうな。おそらくどこかでお会いしていた可能性も強いけれども、わからずにすれ違っていたのかも知れない。いろいろと当時から今までの話をして、「そうか、そういうこともあった」と思い出すこともあるし、充実した時間を持てた。
 話していて印象に残ったのは、ふたりの共通の知人のCさんという方、今はイタリアで暮らしているのだけれども、BさんはそのCさんといろいろ連絡を取っているようなのだけれども、CさんはBさんに「もう日本はおかしくなってしまっているから、あなたもイタリアに移り住むといい」と話されているという。わたしも、お子さんもいて今の日本に住みつづけるより、そんなCさんをたよってイタリアへ行った方がいいとも思うのだが、そんな、イタリアに住んでいるCさんが、「日本はおかしい」とちゃんと認識されているということだ。それは、Cさんの周辺のイタリアの人たちのあいだでも、そういう日本の評判が立っているということだろう。

 9時近くまで飲んで、「せっかく近いんだから、きっとまたお会いしましょう」ということで別れた。いろいろと楽しい時間ではあったし、また彼女と会えることを楽しみにする。


 

[]「断食芸人」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「断食芸人」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

 4編の小品からなる作品。「芸人」にまつわる話が多い。

●「はじめての悲しみ」
 サーカス(ヴァリエテ)の、空中ぶらんこの曲芸師の話。曲芸師はいつしか、興行のときだけでなく昼も夜も、ぶらんこの上で暮らすようになる。興行師は彼の希望を叶えるようにして、興行地の移動のときも汽車の網棚の上で曲芸師が過ごせるようにする。あるとき曲芸師は、「もう二度と、一つのぶらんこでは芸をしない」と興行師に告げる。曲芸師の中に起きた変化は何なのか。実存のゆらぎなのか。

●「小さい女」
 ‥‥めんどくさい作品だ。カフカにはときどき、こういう回りくどいというか、「知らねえよ!」というような作品がある。いや、ここにこそカフカという人物がいるのだが、自分を嫌っているらしい「小さい女」のことをくどくどと書く。ちょっとした神経症の症例みたいだ。

●「断食芸人」
 カフカの「芸人モノ」作品というのは、外からみるとそれは「芸」なのだが、芸人にとってみれば、それは彼が生きるところの「原理」なのだということをあらわしている。

●「歌うたいのヨゼフィーネ、あるいはねずみ族」
 ねずみのヨゼフィーヌは歌をうたう。しかし、ねずみ族というものは「歌」というものを理解出来る種族ではない。書き手の描写を読んでいると、「はたして、ヨゼフィーヌはほんとうに卓越した<歌手>なのか?」という疑問もわく。音楽をひとつの「芸術」と考えて、では「芸術」を解さない、不要なひとにとって、「芸術」は有用なのか?という問いか。でもヨゼフィーヌは「歌い手」として絶対の評価を受けているのだ。パラドックス?


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181010

■ 2018-10-09(Tue)

 今日からはまた仕事。早朝に家を出るとき、ついに東の空もまっ暗なままになってしまった。これから半年間、暗闇の中を駅まで歩くことになる。でも日が昇ってみるとこの日は快晴で、気温もけっこう上がって暖かい一日になった。湿度が低くてカラッとしているのが気もちがいい。

 ツィッターでいろいろみていると、長くお会いしていないBさんが昨日の大駱駝艦をみていたことがわかった。Bさんは2時の回でみていたので会えなかったが、彼女から連絡を受けてやりとりすると、彼女がウチの近くに勤めていることもわかった。「では、せっかくだからお会いしましょう」ということになり、明日会うことになった。どうもやはり今年は、"crosstalk"の同窓会的な年になっている。


 

[]「田舎医者」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「田舎医者」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

 「田舎医者」の標題のもと、掌編がいくつかまとめられた作品。

●「新しい弁護士」
 この新しい弁護士のブツェファレスは、アレクサンダー大王の軍馬であったところの「馬」である。アレクサンダー大王不在の今、人々を導くような指導者はもういない。ブツェファレスもまた、今は弁護士として法典を研究するのである。‥‥カフカにはこのように、動物を擬人化した掌編が多い。

●「田舎医者」
 医者は遠方の重病人のところへ行かなければならないのだが、彼の馬は昨日死んでしまった。そんなところに、豚小屋の中に一頭の馬がいて、男が「この馬を使え」という。好色そうな男は医者の手伝いの娘と家に残り、医者は彼女を見捨てざるを得ずに病人のいる村へ行く。不条理な展開の末に医者は村から逃げ出すが、ただ雪の曠野をさまようことになる。

●「天井桟敷で」
 サーカスで、馬に乗って「死の跳躍」の芸を披露する少女騎手。天井桟敷の若い客はその芸を「やめろ!」と叫ぶだろうか。‥‥そうはならないで、座長の心配げなまなざしのもとで芸を完遂する。天井桟敷の男は涙をこぼすだろう。

●「古い記録」
 語り手の国の一帯は、北方の遊牧民に占領されている。彼らとの意思疎通はできず、彼らは野蛮に食糧を調達する。遊牧民はこの国の宮殿に魅せられて来たのだが、宮殿に閉じこもった皇帝、衛兵はもう宮殿の門を閉じ、外に出て来ようとしない。「祖国を救うのは、ぼくら職人や商人にまかされている。」ぼくらはそんなことができると自慢したことはない。そのために、ぼくらは滅びるのだ。

●「掟(おきて)の前で」
 これはよく知られた作品。「掟の門」を通らせてくれと頼む男と、それを拒みつづける門番。門番は「いつかはおまえも門を通れるかも知れないが、しかし今はだめだ」という。待ちつづける男と、拒みつづける門番。男はその臨終のとき、「皆が掟へと向かうはずなのに、この長いあいだ、この門にはわたししか来ないではないか」と。個々で門番が何と答えたか、知っている人も多いだろう。

●「ジャッカルとアラビア人」
 ちょっと先の「掟の前で」風の、永遠に続く寓話。ジャッカルはアラビア人を憎み、北方から来た男(語り手)に、アラビア人を殲滅してほしいと錆びた鋏を渡そうとする。これは「宿命」なのか。

●「鉱山の訪問」
 鉱山を訪れる十人の技師と、一人の小使のスケッチ。

●「隣村」
 「人生は驚くほど短い」という、ほとんどアフォリズム的メモ。

●「皇帝の使者」
 またもや、無限に続くとも思われる「宿命」。臨終の床の皇帝のことづてを、使者が伝えようと出立するが、使者は何千年も、宮殿を抜け出ることは出来ないだろう。

(‥‥)彼がついにいちばん外の門からとびだしたならば――しかし、けっして、そんなことは起こりえないが――はじめて首都が、世界の中心が、下層に沈んでいる社会の滓(おり)にみちみちて、彼の前にあらわれる。だれもここを通りぬけるものはいない、まして死者のことづてをもっていては――。しかし夕暮れが来ると、きみは窓べにすわり、あのことづてを夢みるのである。

●「家父の心配」
 これも有名な作品。あの「オドラデク」のことの書かれた作品なのだ。

●「十一人の息子」
 「鉱山の訪問」のように、語り手が自分の十一人の息子のことを語る。どの息子も、「みかけは◯◯だが、実はそうではないのだ」というように語られる。

●「兄弟殺し」
 シュマールがヴェーゼを刺し殺す。タイトルからするとシュマールとヴェーゼは兄弟なのだろう。近くの三階の部屋からパラスという男が殺人の一部始終をみており、シュマールに「みんな見たぞ」と告げる。ヴェーゼ夫人が死んだヴェーゼの上に倒れかかる。シュマールは警官に連れて行かれる。

●「夢」
 主人公の名が「ヨーゼフ・K」である。彼は夢を見るのだが、その夢の中で彼は墓地へ行き、墓石に芸術家が文字を書こうとするのをみる。それは彼の名前で、ヨーゼフ・Kは墓の下にあおむけに沈んで行く。「この光景にうっとりして彼は目をさました。」

●「学士院へのある報告書」
 捕えられ、以後を人間の意識を持って生きた「猿」による報告書。こういう、動物を主人公とした掌編を、カフカはときに書いている。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181009

■ 2018-10-08(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 今日も祭日で休み。三連休の最後の日だ。天気も秋っぽい晴天。ちょっと暑いけれども。朝からネットをみていたら、『テヘランで「ロリータ」を読む』という本が読みたくなり、昨日図書館へ行ったときに借りればよかったのにな、などと思いつつ、今日も図書館へ行こうかとも思ったのだけれども、今日はもう、いっぱい歩いたりはしたくない気分。というか、午後からとなりの柏駅の商店街で大駱駝艦がストリート・パフォーマンス(大道芸というのか)をやることを知り、それを観に行きたくなった。

 午前中に、スーパーの「O」とか「m」まで買い物に行く。「O」で栗が半額になっていたのでついつい買ってしまったが、どうするんだよ! 渋皮むくの大変なの知ってるくせに。でも、何とかむいて「栗ごはん」とか、秋らしいのをやってみたい。

        f:id:crosstalk:20181010142600j:image

 その他おつまみ類をやたらに買ってしまい、帰宅して、そんなおつまみでちょっと飲んでいたら案の定眠くなってしまい、昼寝になるのだった。目が覚めたらもう3時になっていて、「おお、大駱駝艦を観に行くのだった!」と、あわててお出かけする。柏駅前の通りを行くと、ちょうど始まるところだった。

        f:id:crosstalk:20181010142650j:image

 舞踏手(ダンサー)は男5人。わたしも大駱駝艦は何年も観ていないし、こういうストリート・パフォーマンスを観るのは初めて。‥‥うん、「暗黒舞踏」らしさは皆無というか、かなりスピーディな激しい動きのダンスではありました。ここまで激しく動くとは思っていなかったのでちょっとびっくりしたけれども、けっこう「ショー」と割り切っての構成のようだった。EXILEもやるし、BGMもブレイクビートというか。

        f:id:crosstalk:20181010142725j:image

     f:id:crosstalk:20181010142803j:image

 でも、これで「こういうのが<大駱駝艦>か」と、本チャンの舞台を観に行ったならば、「全然違うでないの」ってことになってしまうだろうね。

 帰りに、しばらく前にDVDレンタルの店から「契約期限が切れたよ〜」とのはがきが来ていたので、契約更新に行ってみる。しばらく前まではビルの地下に店舗があったのが、最近同じビルの3階、4階に移転したばかり。店舗面積が増えて在庫も増えたのかと思ったけれども、ステーショナリーの店とかと同じフロアを分け合っていて、つまりは「店舗縮小」であった。たしかにもう、DVDとかCDとかを借りて映画を観たり音楽を聴いたりする時代ではなくなって来ている。わたしはといえば、家のパソコンはポンコツだし、そもそもクレジットカードを持っていないから、まだまだこういうレンタルショップのお世話にならなければならない。
 「せっかくだから何か借りようか」と、すっかり様変わりしたDVDの棚をみていると、目の前にタルコフスキーの「鏡」とエドワード・ヤンの「恐怖分子」が並んでいたので、どっちもまだ観たことのない作品だったので借りてしまった。‥‥はたして、ちゃんと観ることが出来るだろうか?


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181008

■ 2018-10-07(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 昨夜(というか今日)遅かったので、いつまでも寝るかと思ったら、やはり普段の習性というか、7時前には起きてしまう。4時間ぐらいしか寝ていないか。朝食を取ってテレビをみて、「そうだ、今日は図書館に借りていたCDを返却に行かなくては」と、昼前に出かける。今日も晴天で、秋というにはちょっと気温が高いみたい。Tシャツ一枚でもちょうどいい。

 図書館に着いてCDを返却し、「さて、何か借りようか?」と思うのだが、今読みたいと思っている村田沙耶香の「地球星人」はとうぜんすべて貸出中なので、「ま、いいか」と館を出る。それで今日の手賀沼。いつものコブハクチョウ、そしてオオバン、それとカモ。オオバン同士ではエサの取り合いのケンカをしていたけれども、異種同士は平穏。

     f:id:crosstalk:20181009165055j:image

 帰りにそばの100円ショップに寄り、壊れてしまった折り畳み傘を買い直し、メモ帳などを買う。そのまま駅を越えてスーパーの「I」に寄り、ハンバーグのお弁当などを買う。なぜかハンバーグが食べたい。

 帰宅してからはついに「寝不足」の影響が出て、食事もしないで長い午睡。でも、この夜は友だちの家に遊びに行く約束だったので、いつまでも寝ていてはいけない。目覚めて着替えして、お出かけ。思ったよりも遠くて一時間ぐらい電車に乗り、駅で出迎えてくれた友だちとバスに乗り、あらら、けっこう立派なお家へと招かれる。‥‥って、けっきょくその家で夕食を御馳走になり、それでテレビで「モヤモヤさまぁーず」を見ただけで帰って来た。なんだかな〜。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181007

■ 2018-10-06(Sat)

 今日からまたまた三連休。この三連休はそれほどの予定がつまっているわけでもなく、家でのんびりすごせるのだろうか。いや、のんびりできるのだったら、やりたいことが待っている。

 今日から、岩名雅記さんの監督作「シャルロット すさび」の新宿でのレイトショー公開も始まり、わたしはどうもこの初日の今日しか行けそうもないので、今夜観に行くことにした。おそらく終映も11時半ぐらいになるだろうから、帰るのは最終電車だろうか。だいたいその映画が3時間近い長尺だからキツい。

 上映開始が8時半だから、ゆっくりと7時近くに家を出て、時間もあるので、映画館の近くのファストフード的そば屋でカツ丼を注文して食べる。‥‥しまった。このそば屋は以前にも来て、そのときもカツ丼を注文して食べて「まずいな〜」と思った店なのだった。なんだかね、カツの肉がパサパサというか。

 映画館へ行く。今日は初日なので、監督や出演者の舞台挨拶があった。

     f:id:crosstalk:20181009142115j:image

 映画はさすがに長くって、わたしは途中でついウトウトとしてしまい、知人の出演していたという、映画の中でも大事なシーンを見逃してしまった。

 終映後、帰ろうとしていたところを監督の岩名さんに呼び止められ、映画のパンフレットと岩名さんの著作(この映画のモチーフともなった過去の日記)とをいただいた(わたしは、この映画の広告宣伝のクラウドファンディングの出資者だったのだ)。とっさのことで映画の感想も出ず、「よかったです」ぐらいのことしか伝えられなかった。

 帰りはJR新宿駅から山手線で西日暮里へ出て、千代田線に乗り換えたのだけれども、やはり終電車になってしまった。家にたどり着いたら、もう1時半ぐらいの時間。映画を観ていたときには眠かったのに、妙に眼が冴えてなかなかに眠れず、いつしか3時近くまでベッドの中であれこれと考えたり、眠れないでいた。

 

[]「シャルロット すさび」岩名雅記:脚本・監督 「シャルロット すさび」岩名雅記:脚本・監督を含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181009142150j:image

 意外とオーソドックスな、撮影の美しいパリを舞台とした前半。ある意味臆面もない、パリの日本人同士の恋愛模様。そこに異形、畸形といっていいシャルロットという謎の女性がからむ。「夢で逢いましょう」と主人公に語るシャルロット。舞台は日本へ移り、恋愛は発展し、二人は過去を求める旅へと出発する。

 トータルにみて、やはりこの映画は臆面もないファンタジーだ。そんな「臆面のなさ」を、一歩一歩ていねいに、足元を踏みしめるように映像化して行く岩名監督の、その情熱は熱い。わたしもその熱に感染しただろうか。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181006

■ 2018-10-05(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 1)昨夜帰宅したのはもう零時に近かったので、今朝4時に起きて出勤するのはけっこうつらい。行き帰りの通勤電車の中ではもう本も読まず、睡眠につとめる。また明日からは3連休なのだ。

 2)帰宅してこの日は内科医に通院。このところちょっと血圧が上がり気味だけれども、「寒くなってくるとしょうがないですね」というところで、特にもんだいにはならない。

 3)今、やり始めたいと思っていることがあるのだけれども、なかなかに始められない。自分が怠惰なのか、それとも根本的にそのような能力が欠如しているのか。少なくとも、後者であるということにしてしまってはいけないと思う。

 4)新しい安倍内閣はさっそくに「教育勅語」を再評価しようとしたり、「やっぱりね〜」という路線である。「高齢者がさらに働ける環境を」という主張もあり、つまりは「年寄りは年金をアテにするな。生活保護なんか<ホゴ>にするからもちろんアテにするな。いちおう最低賃金は支給するようにするから、死ぬまで働け!」ということだ。わたしはそういう展開を前から予想していたからこそ、やり始めたいことがあるのだ。これはニェネントのためでもある。

 5)寝るときにニェネントを無理矢理つかまえてベッドに連れて行き、胸の上に乗せてしばらく遊ぶ。ニェネントはけっきょく、そうやってわたしの胸の上にいることが嫌いではないのだ。「にゃ〜ん、にゃん」となきながら、けっこうわたしの胸の上に滞在して行くのだ。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181005

■ 2018-10-04(Thu)

 今日はまたまた横浜へ行く。この日は先日観たウースターグループが、チェルフィッチュとの「エクスチェンジ・プログラム」のプレゼンテーションを公開するという。やたらカタカナが多いけれども、つまりふたつの演劇ユニットが、その演出法を互いに提示し合い、その結果を観客にみせるということ。正式な公演ではないので入場料も安く、チケットの前売りとかもやらずに(そもそも、公演ではないのだから「チケット」というものはない)、当日のみの受付け。それで満員になった時点で受付けを締め切るのだという。
 ‥‥こういうのは困る。いったいどのくらいの人が押し寄せるのか。土曜日から3日間のウースターグループの公演に来た観客の数、そして、チェルフィッチュという劇団の公演は必ず観るという人の数を合わせて、それらの人が皆このプレゼンテーションに興味を持って来場するとしたら、すぐに満員になってしまうだろう。そう考えると、やはり早くに行っておくに越したことはないだろうと思う。それで、仕事を終えていちど帰宅して昼食をとったあと、ニェネントくんにはちょっと早い食事を出してあげ、3時前ぐらいに家を出た。なんだか、入れ込んでしまっている。

 さて、4時半ぐらいに、神奈川芸術劇場に到着した。それで会場の大スタジオのある5階の方へ上がると、まだ5階へのエスカレーターは閉じられていて、なんと、待っている人はひとりもいないのだった。あまりうれしくも楽しくもない「一番乗り」だ。ま、開場までの一時間ちょっと、ソファにすわって本を読んで待てばいい。

 待っていると途中でAさんから連絡があり、「何人ぐらい並んでる?」と聞かれたが、その時点でもまだ2〜3人。けっきょくAさんも到着した18時の開場時にも10人ぐらいしか集まっていなくって、「わたしは何のために早くに出て来たのだ?」と、自虐気分も高まってしまった。それでつまりは、集まった観客はだいたいが「どうみても<演劇関係者>だろうが」というような人たちばかりで、客席は「ほぼ満員」になったとはいえ、スタートぎりぎりに来てもまるで問題はないのだった。

 感想は下に書くとして、プレゼンテーションの終わったあとは、またAさんと「飲みに行きましょうか?」ということになり、今日は新宿三丁目まで出てから飲むことになった。新宿三丁目まではKAATのある「日本大通り」駅から乗り換えなしで一直線だし、新宿三丁目からウチに帰るのも、都営新宿線の小川町〜千代田線の新御茶ノ水と乗り換えれば簡単なので、OKである。新宿末広亭のそばの中華の店へ行く。おいしい点心料理とおいしい紹興酒。なんかこの頃はAさんと飲んでばかりだが、ま、やはりAさんと飲むのは楽しいのだ。今日は「どっちが眼がいいか?」みたいな、くだらない比べっこみたいなことをやってみたり。それでも、マジメな話ではやはり、Aさんはオーソリティーであるというか、そんなAさんがわたしなんかと楽しんでくれるというのは、わたしもうれしいことである。でもこれで、しばらくはAさんといっしょになることもないようだ。ちょっと残念ではある。


 

[]「ウースターグループ×岡田利規(チェルフィッチュ)によるエクスチェンジプログラムプレゼンテーション」@横浜・KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ  「ウースターグループ×岡田利規(チェルフィッチュ)によるエクスチェンジプログラムプレゼンテーション」@横浜・KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ を含むブックマーク

 テキストにブレヒトの「母」という戯曲を選び、コレをたたき台に、まずはチェルフィッチュのプレゼンテーション。ひとりの俳優がアバウトにその「母」の長いセリフを読み上げる、というか演じるのだけれども、そのさまをヴィデオに記録し、次の役者はそのヴィデオをみながら、<動き>をなぞるようにして演じて行く。なるほど、これがひとつのチェルフィッチュのあの独特の身体性につながるのか。

 ‥‥このメソッドをウースターグループも試み、次にウースターグループのメソッド。それはある「映画」(「日本映画」というだけで何の映画かは伏せられたが、観客席最前列にいたわたしはモニターを多少のぞき込むことが出来、俳優とか確認出来なかったとはいえ、「これはきっとあの映画だ」と推測してしまうのだった)をモニターに流し、先ほどのチェルフィッチュのように、その「映画」での俳優の動きに合わせて、「母」のテキストを演じる。各俳優はモニターのイヤフォンを装着し、映画上の俳優のセリフ廻しのニュアンスも再現する。また、映画の中でカットが切り替わり、視点が変化すれば、それに合わせて椅子を移動させたり立ち位置を移動させたりもする。‥‥なるほど、この演出法はたしかに今回の「タウンホール事件」でも、映写された「タウン・ブラッディ・ホール」の映像に対してやっていたことだ。

 ウースターグループはチェルフィッチュの「ゴッド・ブレス・ベースボール」のニューヨーク公演も観ていて、そのメソッドもこの「タウンホール事件」にも取り入れられていたそうで、このプレゼンテーションは<急に>でっちあげられたものではなく、その必然性も大きなプレゼンテーションだったわけだ。ウースターグループの演出のエリザベス・ルコンプトは、このようなメソッドに対してチェルフィッチュは<内面>から、そしてウースターグループは<外側>からのアプローチだったのだ、みたいなことを語られていた。

 なるほど。そう考えると、今回の「タウンホール事件」の上演の中で、俳優が<日本語>で語る場面があったことは、もういちどその意図など、考え直さなければならないか、と思った(もちろん、「日本で上演するからサービスで日本語やってみましたよ」みたいな解釈はしなかったけれども)。

 いろいろと、「演劇というものの演出」の現場を垣間見せてもらった感じのプレゼンテーションで、刺激されるところの多い時間だった。

[]「流刑地にて」フランツ・カフカ:著 柏原兵三:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「流刑地にて」フランツ・カフカ:著 柏原兵三:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

 もちろん、この作品の展開は承知していたのだけれども、その終盤に、旅行者に「処刑機械」を説明する将校がいったいなぜ、自ら処刑されることになってしまうのか、そのあたりの記憶は曖昧だった。こうやって読み直してみると、旧司令官に心髄する将校が自分の思う新司令官への反抗に旅行者を巻き込もうとして失敗し、敗北を知った将校が自ら処刑機械に自分をセットするということだった。その罪名は、『正しくあれ!』というひとことであった。

 ここでの「旅行者」の立ち位置というか視点というものが、例えば先の「変身」の書き手の立ち位置を思わせるところがあり、そういうところからのカフカのスタンスというものこそが、とても興味深いものなのだと思った。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181004

■ 2018-10-03(Wed)

 ニェネントは肉まんも好きだ。「肉まん」というより、「肉まんの具」なのだろうが、わたしが朝に肉まんを温めて食べようとすると、すぐそばにすり寄って来て、肉まんに鼻先を伸ばしてくる。そういう、肉まんにはネコ類を強烈に引きつける「芳香」があるのだろう。それで、レンジで温めたばかりのアツアツの肉まんの具をちぎって、ニェネントの前に置いてあげるのだけれども、「猫舌」ともいわれるように、ネコ類は熱い食べ物はダメよというのが通念なのだけれども、これが意外とニェネントは、そんなまだアツアツの具をペロリと食べてしまうのであった。

        f:id:crosstalk:20180930195049j:image

 昨日、自民党の総裁選で<当然のように>勝った安倍晋三が新しい内閣を組閣し、そしてノーベル医学生理学賞に京都大学の本庶氏が受賞され、NHKをはじめすべてのメディアは、沖縄での玉城デニー氏の勝利などこれっぽっちも伝えずにそっちの報道ばっかりになってしまった。本庶氏のノーベル賞受賞を批難するつもりはないが、ニュースへのコメントで「同じ日本人として誇りに思う」などという発言にあふれているのは、わたしはイヤだ。そういうのを「人の偉を借る狐」というのではないのか。本庶氏のノーベル賞受賞が「快挙」なのであったら、そういう本庶氏の研究をサポートした日本の理学研究への支援もまた賞賛されるべき、というのはわかる。しかし、今の安倍体制の日本は、その方面への支援をどんどん削除しようとしている。そのことのどこを「誇り」に思える、などと言えるのだろう。報道をみていてもわかるが、本庶氏のノーベル賞受賞は、氏の1990年代の研究成果に対してのものであるといえるだろう。決して「現在形」のものではない。没落して行く「日本」をちゃんと見据えなくてはいけない。

 8月から読みはじめた「ナボコフ全短篇」を、ようやく読了する。その内容は「濃密」で、今はそれぞれをもういちどゆっくりと再読して、その感想をぼちぼちと書いて行きたいと思っている。やはり今のわたしには、例えば本であれば少なくとも2回読まないと、ちゃんと把握はできないように思う。前に読んだピンチョンなどにしても、2回読んだ「重力の虹」あたりはまだ多少心に残っているところもあるけれども、一度しか読んでいない「メイスン&ディクスン」以降は、どうもその内容さえ思い出すことができないでいる。そういう意味では、ピンチョンの「メイスン&ディクスン」以降ももういちど読まないといけないだろうか。
 それで「次に何を読もうか」ということだけれども、もうしばらくは図書館本はやめて、自宅本に集中したいわけで、前に書いたように「ついに<昭和文学全集>に突入か?」というところもあったのだけれども、今日はつい、目の前にあった本をバッグに入れて通勤電車の中で読みはじめてしまった。それはつまり集英社の「世界の文学」の「ドイツ・中欧・東欧・イタリア」の巻なわけなのだけれども、けっきょくこの日は、そんな本の冒頭に載っていたカフカの「変身」を読んでしまった。


 

[]「ヴェイン姉妹」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)  「ヴェイン姉妹」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より) を含むブックマーク

 

[]「変身」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より) 「変身」フランツ・カフカ:著 城山良彦:訳(「集英社ギャラリー【世界の文学】12」より)を含むブックマーク

 ひとつまず、この主人公のグレゴール・ザムザの、<変身>前の生活スタイル、朝は4時に起きて5時に出勤するというのが、まさに今のわたしの生活スタイルと同じなもので、「わたしもそのうちに、<朝目覚めたら蟲になっていた>などということになるの?」などと思い、ちょっと不安になってしまった。

 カフカはこの作品を朗読するときにクスクス笑うことを止められなかったというが、たしかにここには「信じられない情況に追い込まれる」ということにともなう「こっけいさ」がある。そして、この「こっけいさ」というものが、ディストピアな情況を描くときに重要なものであることも学んだ。

 おそらくはカフカ自身は自らをグレゴール・ザムザに投影して書いているはずなのだけれども、そこで余計な感情移入をしない。そこにこそ、この作品の普遍性があるのだ。そう、自分が死んで行くということはこっけいなことでもあり、そのことが次の世の、新しいスタートにもなるのだ。これは<普遍的な真理>であろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181003

■ 2018-10-02(Tue)

 夢。また人物の登場しない夢だ。夢の中でわたしは「自分的にいちばんすばらしかったアルバム」のことを考えている。そこで出て来たのはビートルズの初期のアルバムで、レノン/マッカートニー作のオリジナル曲の並ぶアルバムなのだが、夢から醒めて考えてみて、そんな現実のアルバムは存在しなかったし、夢の中で聴こえていたビートルズ・ナンバーも、現実には存在しない曲だったようだ。しかしあの夢の中の曲はすばらしい曲だった。
 その夢のつづきで、わたしの目の前に「焼きいも」というか「スイートポテト」というか、そういう料理、食べものが並べられるのだけれども、夢の中ではっきりと、その焼きいものとってもおいしそうな匂いがただよっていたのを憶えている。「匂い」の夢。

 そう、この日記を書いている「はてなダイアリー」が来年3月いっぱいでサービスを終了し、「はてなブログ」というものに統合されてしまうらしい。つまり、この日記をつづけようと思ったら、その「はてなブログ」の方にお引っ越ししなくてはならない。それはそれでしょうがないのだけれども、この現在の日記での、そこまでに気に入っているわけでもないけれども、いちおう苦労してつくったデザインが、新しい「はてなブログ」にどこまで移植できるのか気になるところはある。

 そしてそれとは別に、ちょうど、「この日記をどうしようかね〜」と考えているところではあったのだ。それはプライヴァシーに関してのことなのだけれども、ま、今はわたしの実名は出さないで書きつづけているとはいえ、「crosstalk」というイヴェントをやっていたというところから、わかる人にはわかるわけで、しかもわたしと同居しているネコのニェネントはまさに「実名」で、これが「タマ」とか「ポチ」(ネコに「ポチ」という名前はないだろうが)とかいう、どこにでもある名前なら「どこの誰」ということはわかりはしないのだけれども、多分おそらく、「ニェネント」という名前のネコはオンリーワン、この広い世界にただひとりだと思えるので、これはかんたんに特定されてしまう。実は今、そのことが「よろしくないな〜」と考えてもいるわけで、そういうことから今、この日記を「プライヴェート」なものにしてしまおうか、ということも考えていたところなわけです。
 ただ、前から思っていたのは、この日記を書く上で「誰からも見られる」という設定こそが、こうやってこの日記を書いているわたしに<緊張感>みたいなものをもたらしてくれるわけで、そういうのを遮断して「プライヴェート」に書くならばきっと、もっとグダグダな文章になってしまうことだろう(もちろん今でも充分にグダグダだろうけれども)。そういうところでも、今いろいろと考えているところなわけではあります。

 さて、普通に「日記」にもどって、今日も天気は良くって気温もけっこう上がり、しかも湿度が低いので過ごしやすい一日。それで仕事に出てみたら、昨日の台風の強風で近所(?)の建物の外装が勤務先の敷地に飛んできたようで、敷地内に折り畳んで片付けられていた。どこから飛んできたのかわからないらしいが、少なくとも「向こう三軒両隣り」からではない。こんなのが、歩いていて吹っ飛んできてブチ当たったりしたら、大ケガをしてしまうこと必至。やはり強風のとき、無理をして外を歩くのは危険だ。

     f:id:crosstalk:20181006093826j:image

 帰宅して買い物に行き、「もう中華まんのおいしい季節だなあ」と肉まんを買ってしまったり。帰り道、空に拡がる雲が雄大で、空の大きさ、広さを感じさせられた。秋は空が高くて広い。

        f:id:crosstalk:20181006093907j:image

 

[]「重ねた唇」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)  「重ねた唇」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より) を含むブックマーク

 

[]「怪物双生児の生涯の数場面」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より) 「怪物双生児の生涯の数場面」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)を含むブックマーク


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181002

■ 2018-10-01(Mon)

 月曜日。この日は有給休暇を取っているので、多少朝寝をする。それでも6時半頃に起き出してテレビをつけると、どうも台風の強風の影響(雨はそれほど降らなかったらしい)で首都圏の鉄道が乱れているというか、首都圏のJRはすべて運行していないらしい。もちろん常磐線もストップしているから、もしもわたしがこの日に有給休暇を取っていなかったら、「どうしよう、どうしよう」とあたふたしていたことだろう。ま、「どうしよう」といっても出勤出来るわけないのだけれども、会社に連絡したりあれこれと大変だったことだろう。特に予定があって有給を取ったわけではなく、当初の予定では、前の日に横浜で遅くまで滞在することにもなりそうだったので、睡眠時間をたっぷり取るために取得した有給だったから、いちにち家でブラブラしているつもりではあったし、ま、いろいろとラッキーだった。
 台風自体はすでに遠く彼方へ去ってしまっていて、空はいわゆる「台風一過」の青空。風もすっかりおさまっている。今日はゆっくりと、のんびりできる。

 それでパソコンをつけてパソコンのニュースを見ると、昨日の沖縄知事選挙で故・翁長氏のあとを継ぐ玉城デニー氏が当選したということ。これはうれしいニュースで、わたしも「どうなることか」と注目していた選挙だったけれども、この日本がどんどんと「暗黒」への道を進もうとしている中で、それこそ今日の青空のような、一縷の希望の光をみたような気分になった。
 天気予報では今日はもちろん一日晴天で、気温も相当に上がって30度を越えるらしい。それは家にいても暑くなるだろうから、ひとつ映画でも観に行こうかと思う。となり駅の映画館の上映スケジュールをみると、「バンクシーを盗んだ男」がだいたい12時からの上映で、これなら映画を観たあとも家でのんびりできるから、いいのではないか。映画自体も興味あるものだし。

 昼食は映画を観たあとに食べることにして、昼前に出かける。もちろんこの時間はもう電車も動いているのだが、こんな、電車の止まっていたような日に映画を観るなどという人もいないのではないのか、「バンクシーを盗んだ男」というのもまたマイナーそうな映画だし、「ひょっとしたら<独り映画館>が実現するのではないのか?」と期待したところもあったのだけれども、映画館に入り映画が始まってみると、けっこう(10人近くの)お客さんも来ていたのだった。考えてみたら今日は10月の1日で、いわゆる「映画の日」で、誰もが割引き料金で映画を観られる日なのだった。

 映画を観終え、いろいろと興味深い内容だったので「パンフレット買ってしまおうか」と売店で注文したのだが、受け取ってみると800円もするわりに小ぶりで(A5サイズ)しかも16ページと薄っぺらく(前に買った「犬ヶ島」のパンフなんか、48ページあったのだ)、「むむむむ‥‥」と思ってしまい、売店の女の子に「たかいね〜、ちっちゃいね〜、うすっぺらいね〜」などと話してたら、「このクレーマーおやじが!」みたいな冷たい無表情な応対をされてしまった。

 昼食は「休日で天気もいいし」などと思って、自宅駅の反対側にある「日高屋」に久しぶりに立ち寄り、「やきとり丼」と「ラーメン(大盛り)」、それとハイボールなどという注文で、これで千円でお釣りが来るのだから安い。そしてそこまでにマズくもないからいい。
 あとは自宅でグダグダとのんびり。夕食も適当にすませ、明日からはまた仕事だし、早めに寝る。今夜は暑いので掛け布団をかけないで寝ていたらニェネントくんが遊びにきたので、やはりニェネントくんはなぜか掛け布団が嫌いなのだろうと結論づけた。


 

[]「バンクシーを盗んだ男」マルコ・プロゼルピオ:監督 「バンクシーを盗んだ男」マルコ・プロゼルピオ:監督を含むブックマーク

        f:id:crosstalk:20181005191859j:image

 そこには「壁」がある。わたしの記憶で(最近の記憶よりも遥か昔の記憶の方がはっきりしているのだが)、昔の安部公房の「壁」の文庫本の解説で、たしか石川淳が「ある人は壁を壊そうとした、ある人は壁を避けて行こうとした、しかし安部公房はその壁に画を描いたのだ」みたいなことを書いていたはずだ。今では忘れかけられている感のある石川淳だが、この文章の<壁>というものの考え方だけでも、石川淳のいう作家に<先見の明>があったというものだ。ここに<ストリートアート>、そしてバンクシーの基本がある。

 このドキュメンタリーは、パレスチナとイスラエルとの境界に築かれた「壁」に描かれた、バンクシーによる「ストリート・アート」「壁画」をめぐる顛末を、さまざまな視点から追っていったもの。ここで、彼の作品(といっていいのか)「ロバと兵士」が、パレスチナの人々にどう受け止められたのかという問題も絡めて進行していく。ナレーターはイギー・ポップ。

 バンクシーの作品のみにとどまらず、ストリートアート全体の問題として、政治的・文化的・経済的側面からさまざまに問い詰めて行く。そんなアートを迷惑と感じるパレスチナ市民の声も拾い上げ、ドキュメンタリーの幅を拡げていた。音楽がいい。

 (すいません、日記を書く時間が取れなくって、アバウトな記述でご勘弁を‥‥)


 

[]「初恋」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)  「初恋」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より) を含むブックマーク

 

[]「ランス」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より) 「ランス」ウラジミール・ナボコフ:著 若島正:訳(「ナボコフ全短篇」より)を含むブックマーク


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20181001
   3234291