ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-11-05(Mon)

 月曜日。また五日間の仕事が始まる。それで先週まで読んでいた「フランケンシュタイン」とか「ジェイン・オースティンの読書会」とかも読み終えていたので、「さ、今日から通勤電車の読書室では何を読もう?」ということなのだけれども、今は寝る前に先日観た「デュシャン展」の図録を読んでいるのだけれども、これを電車の中で読むのは「どうかな?」という気もちはある。それで何か新しい本にしようと思うのだが、朝に仕事に出るときに、近くにあったのが「昭和文学全集」の一冊だったので、これをバッグに入れて家を出る。
 前から、通勤電車の中でこの(デカクて分厚い)「昭和文学全集」を読むことに踏み切れるかどうかがひとつの関門だったのだけれども、今朝は「そんなにデカい本でもないじゃん」という感覚で、電車の中でも気にせずに読みはじめることができたのだった。それで今日読み始めたのはその第31巻で、次の顔ぶれ。

  澁澤龍彦  中井英夫  中野孝次  三木卓
  色川武大  田中小実昌 金井美恵子 三田誠広
  青野聰   立松和平  村上龍

 ‥‥この作家たちは、昭和四十年代に作家としてのスタートを切った人たちだろうか。その作風に共通性があるなどということはなく、この名前をずらりとみても、「読みたい」と思う作家、そして「まったく読む気がしない」作家と、わたし的には極端な反応も出る。とりあえずはページ順に読んで行き、「あ、コレはダメだわ!」というのはとばしながら読み進めることにしようか。とりあえず、今日は澁澤龍彦から。

 仕事を終えて帰ってくると、ウチのすぐ前にニェッタの姿があった。今回はなんだか、いつまでもニェッタの姿をみる。しばらくはこのあたりで暮らすのだろうか? ‥‥この写真の、遠くの方のどこかにニェッタがいるのだが。

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 それで今日は夕食に実に久しぶりに米を炊き、そしてついに、しばらく考えていたように「トマトシチュー」をつくった。はたして、<こんど「トマトシチュー」をつくるぞ!>という思いが凝縮されたのか、大成功の<おいしい「トマトシチュー」>ができた。トマト缶だけではなく「生のトマト」(冷蔵庫の中で朽ち落ちる寸前だったが)をつかったこと、隠し味にソースを入れたことなど、いろいろとうまく行ったようだ。例によってたくさんつくったので、これでしばらくは「トマトシチュー」がつづく。


 

[]唐草物語より「鳥と少女」澁澤龍彦:著(「昭和文学全集」第31巻より) 唐草物語より「鳥と少女」澁澤龍彦:著(「昭和文学全集」第31巻より)を含むブックマーク

 先日の「1968年展」、「デュシャン展」、そしてこの澁澤龍彦とつづくと、まさにわたしの高校生時代への追憶、みたいなわけだけれども、1968年前後の文化、芸術の再検証とかは面白いし、デュシャンのことを考え直すこともまた楽しくも奥深い。しかし、こういっちゃ何だけれども、「澁澤龍彦再読」という気もちにはあまり傾かない。今日はこうやって、手近にあった本の先頭が澁澤龍彦だったという事情もあって、「ま、いいか」と再読を始めた。

 わたしが澁澤龍彦で思い出すのは、彼の「幻想の画廊から」という本で、いわゆる「歴史観」を無視して、古典〜ルネサンス絵画と現代のシュルレアリストの作品を並列し、「異端」「幻想」というキーワードでつなげて行く史観(というのか?)は、わたしのような高校生にもわかりやすいというか刺激的で、この図版の多く紹介された本から、わたしは多くを学んだものだと思うし、それ以来この「澁澤龍彦」というブランドには、ひとしきりお世話になったものだ。
 ‥‥しかし、彼が亡くなられて、わたしもひとり身に戻ったりして、改めて彼の著作のことを思うとき、もうまるで再読する気などなくなっているのだった。なぜそう思ったのか、ここで書くと長くなってしまいそうなので、ただ「もう読む気がしなくなってしまっていた」という状態が、今までつづいていたということだけを書いておく。

 それで、実に久しぶりに、そんな澁澤龍彦の小品を読むのである。この「鳥と少女」は、初期ルネサンスの画家、パウロ・ウッチェロを主人公とした創作である。
 ‥‥で、やはり面白くはない。


       

[]唐草物語より「空飛ぶ大納言」澁澤龍彦:著(「昭和文学全集」第31巻より) 唐草物語より「空飛ぶ大納言」澁澤龍彦:著(「昭和文学全集」第31巻より)を含むブックマーク

 この澁澤作品の「つまらなさ」は何だろうと、つづけてこの「空飛ぶ大納言」を読むのだが、やはりもちろん、つまらないのである。

 思ったのだが、これらの澁澤作品は、基本は彼の「エッセイ」の書き方を踏襲しているというのか、そんな彼の「エッセイ」との境界が面白くない。
 つまり、彼のエッセイというのは、まずは「ある本にはこのようなことが書かれている」と、そんな書物の内容を紹介する。それに対して、「そのことを、わたしはこう思うのである」と自説を述べる。ま、エッセイのひとつのティピカルなあり方だと思うのだけれども、この方法をそのまま、「創作」として持ち出しているのが彼の「短編小説」なのだろうと思う。で、彼はその作品が「創作」として自立できるよう、ある程度の<工夫>をこらすわけだけれども、どうもそのあたりの<工夫>の下手さ加減が、これらの作品の「つまらなさ」になっているようだ。つまり読んでいて、「なんでこんな書き方をするのだろう」ということに意識が行ってしまう。


 

[]唐草物語より「火山に死す」澁澤龍彦:著(「昭和文学全集」第31巻より) 唐草物語より「火山に死す」澁澤龍彦:著(「昭和文学全集」第31巻より)を含むブックマーク

 これはあの「博物誌」を著した、ローマの博物学者プリニウスの死を描いたというか、想像した作品。ある種の資料を元として、こういう想像をすることはわかるのだが、ではそれが<文学>として面白いかというと、これはまるで「面白くない」のではないか、と思う。誰かに、この作品に「面白さ」があるのなら、それを教えていただきたいものだ。


 

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