ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-11-12(Mon)

 また月曜日になり、5日間の仕事が始まる。家を出るときは外はまっ暗なのだけれども、勤め先の駅でメトロの出口から外に出ると、とうとう「まだ薄暗いな」という感じになってきた。今日は天候も悪くて雨が降ったりやんだりしていたから普段よりも暗かったのだろうけれども、いずれ、この駅に着いて外に出てもまっ暗になるわけだ。今日は昨日買った新しい靴を履いて、気分がいい。Papa's got brand new shoes! である。

 先週はずっと、分厚い「昭和文学全集」を通勤の電車の中で読んでいたのだけれども、土曜日に水戸に出かけたときに別の本を持って出かけたので、今日もその柄谷行人の「日本近代文学の起源」を読むのである。これがけっこう面白いわけで、この本を読んでから「昭和文学全集」に戻ると、何かちがって読めるかもしれない。

 今、となり駅の映画館では「グッバイ・ゴダール」という映画をやっていて、「観に行ってもいいな」と思っている。これは昨年亡くなられたアンヌ・ヴィアゼムスキーの回想本が原作で、ヴィアゼムスキーがゴダールといっしょだった頃のことが描かれているらしい。ヴィアゼムスキーは彼女を見出したロベール・ブレッソンの思い出も「少女」という本に書いていて、これは邦訳も出ているのでわたしも図書館で借りて読んだ。他にも彼女の小説の邦訳も出ているはず(彼女はフランソワ・モーリアックの孫娘なのだ)。
 その「少女」に描かれていたロベール・ブレッソンは、「17歳の少女にそんなことを‥‥」という(ほとんど犯罪レベルの)ロリコンのセクハラおやじで、現代のことであれば「MeToo」で槍玉にあげられていたことだろうというような人物だった。それでこの「グッバイ・ゴダール」でも、かなりゴダールのことがコミカルに描かれてはいるらしい。ゴダールの映画でいえば「中国女」とか「東風」の頃だろうか。ウチにはその「東風」のDVDが、まだ一度も観ないままおかれているので、その映画を観る前に「東風」を観ておこうと、夕食のあとに観るのだった。ウチでDVDを観るなんて、ずいぶんと久しぶりのことだ。


 

[]「東風」(1970) ジャン=リュック・ゴダール、ダニエル・コーン=ベンディット、セルジオ・パッツィーニ:脚本 ジガ・ヴェルドフ集団:監督 「東風」(1970)   ジャン=リュック・ゴダール、ダニエル・コーン=ベンディット、セルジオ・パッツィーニ:脚本 ジガ・ヴェルドフ集団:監督を含むブックマーク

東風  [HDマスター] [DVD]

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 実質の監督はゴダールなのだけれども、この時期の彼は「ジガ・ヴェルドフ集団」名義で「革命的映画」を撮ろうとしていたのだった。脚本に五月革命の立役者のダニエル・コーン=ベンディットもみられる。出演はジャン・マリア・ヴォロンテ、そしてアンヌ・ヴィアゼムスキーら。ま、わたしはこの映画が最初に日本で公開されたときに観てますけれどもね、もちろん憶えてはいません。

 映画は草むらに横たわる男女を写した長いショットから始まる。手に鎖が巻かれているような。その映像をバックに、政治的スローガンを読み上げる男女の音声が重なる。そして映画のためにメイクする女性(これはヴィアゼムスキーではない)、顔に絵の具を塗りたくる男性。西部劇のような騎兵隊の制服を着た男性、19世紀のブルジョワ風のドレスを着た女性など。しばらくは映像と音声はまったくシンクロしない。

 これはどうやら音声で語られるハリウッド映画批判の言葉に合わせたハリウッドの西部劇(つまりアメリカのメジャー映画)のパロディというか、批判的映像のようである。ロケ地はどこにでもあるような起伏のある林(川も流れている)で、おそらくはそんな「西部劇」ロケ地をチープに再現したものだろうか。観ていてだいたい同じ場所周辺をぐるぐる廻って撮影しているようで、カメラも手持ちでワンシーンワンカットというか、しろうと撮影に見える。全体に究極の「低予算」映画という感じ。

 映像に重ねられる音声は主にストライキ闘争のことなのだが、そのうちに「闘争的映画人は何を撮るか」みたいな問いかけになり、「ああ、それをこうやって試みているわけね」と了解。「このやり方ではダメだ」みたいな展開もあり、そのうちに写される映像もスタッフ/キャスト皆による共同討議みたいになり(ここは映像と音声はシンクロ)、ゴダールへの批判も飛び出す。あげくは「コレではダメ」と撮影済みフィルムにキズをつけた映像が流されたり、真っ赤な画面、そして真っ黒な画面があらわれる。

 後半にマルクス主義の定理やスターリン、毛沢東などのことも語られるけれども、この映画の脚本に参加しているダニエル・コーン=ベンディットはアナーキストだったはずで、それがこんなかたちでマルキシズムに接近しているのはちょっとがっかり、かな?

 映画としてはそれはもう「実験映画」という雰囲気というか、「映画を撮る」ということについての映画で、しかも革命に奉仕する映画でなければならないというか。今はもう、こういう試みをする人もいないというか、もしやっている人がいても、その作品を観る機会もないだろう。そういう意味で、1969年〜70年の空気を伝える資料として興味深いというか、これはまたしても先日観た展覧会「1968年」を補足するものなのかもしれない。


 

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