ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-11-19(Mon)

 金曜日に仕事の帰りに本屋に立ち寄り、つい「何か買おう」という気になってしまい、「エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談」という文庫本を買ってしまった。読んでいた「昭和文学全集」は中断しているし、先日読んだ「近代日本文学の起源」も未消化だったからもういちど読もうと思っていたのに、自分で邪魔を入れてしまった。

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 ま、先にこの怪談集を読むことにしたけれども、実は今、新刊書で読みたい本がいろいろとあるのだ。ひとつは「タコの心身問題」という本で、前に「タコの教科書」という本を買って読んで、これがすっごく面白かったので、この「心身問題」も読みたいと思っている。タコの生態というものに惹かれるものが多大だ。それと、「ウンベルト・エーコの世界文明講義」。こちらは図版も豊富なようだし、エーコの説く「世界文明」は読みたくなってしまうではないか。

 それで、せっかく昨日から<ライフワーク>(?)をようやく始めたというのに、今日はさっそくお休みして仕事のあとお出かけ。新宿に「ア・ゴースト・ストーリー」という映画を観に行く。これはわたしが大好きな二人の俳優、ケイシー・アフレックとルーニー・マーラが共演しているということで、どんな映画だかまるで知らないまま観に行くのだ。
 映画が始まるのが13時50分と、昼食をとって新宿に出てもまだ一時間以上時間があるので、まずは映画館でチケットを買って座席を決め、そのあとCD屋や本屋に行ったりして時間をつぶす。その、買いたいと思っている2冊の本はどちらもまだ本屋の店頭に置かれていなかったけれども、ナボコフの「Pale Fire」の新訳、「淡い焔」が置かれていた。旧訳の「青白い炎」はいろいろと良くない評判もあるし、この新しい翻訳で読み直したいという気もちが大きい。この本も買うことになるのか。それで「タコの心身問題」を探して生物学、動物関係の棚に行ったところ、そこで「ネコの行動学」という本を見つけ、これもいろいろな理由から欲しくなってしまい、困ったことである。

 映画の開映の時間が近くなったので映画館へ行く。まだ先週末に公開が始まったばかりのせいか、かなり混み合っている。‥‥「そうか、そういう映画なのか」と観ていたが、不思議なテイストの映画だった。「うわっ!」と、不意に映画が終わり、終わったあとにずっと気がかりになってしまう映画だった。

 帰りはいちどとなり駅で降り、ちょっと買い物をして帰宅。5時をとっくに過ぎてしまって、ニェネントくんの食事の時間がすっかり遅くなってしまった。わたしもまたまたインスタントのお赤飯とかで簡単な夕食。今月はこのインスタントのお赤飯ばっかり食べているので、食費がずいぶんと助かっているのではないかと思う(白米を炊くことがすっかり少なくなってしまった)。まだまだお赤飯は残ってるし、勤め先でまだもらって来ることが出来る。

 夜は寝ようとするとまたニェネントが「ねえ、いつものをやって!」とやって来る。しかもこの夜は、3回も「おねだり」が続いたのだった。


 

[]「ア・ゴースト・ストーリー」デヴィッド・ロウリー:脚本・監督 「ア・ゴースト・ストーリー」デヴィッド・ロウリー:脚本・監督を含むブックマーク

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 冒頭に、ヴァージニア・ウルフのエピグラフ。後で「A Haunted House」という短篇からの引用だとわかった。そう、この映画は「幽霊譚」であると同時に、「幽霊屋敷」という話でもある。

 映画は男(ケイシー・アフレック)と女(ルーニー・マーラ)の話で始まり、ふたりの住む家にポルターガイスト現象が起こるようで、転居しようかと話し合っている。ところがすぐに男は車の事故で死んでしまう。死んだ男は、まるでハロウィンのお化けのように、頭からシーツを被った姿の<ゴースト>となり、女と暮らした家に戻って来る。男のゴーストはもちろん誰からも見えない存在。ゴーストはただ家具のようにその家にあり、女の暮らしを見つめつづけている。しかし女はどこかへ転居して行く。ゴーストは<家>に呪縛されているようで、そのあともその家に居続ける。離れの家には別のゴーストもいるようだ。家には新しく、メキシコ系らしい子だくさんの家族が転居して来るが、ゴーストの<脅し>でその家族も転居してしまう。そしてその家は取り壊されてしまい、おそらくは長い年月が過ぎて、その地は巨大なハイテク都市の中のビジネスビルになってしまう。おそらくはそんな世界を嫌ったゴーストは、ビルの屋上から身を投げる。
 ‥‥もちろん、ゴーストが<死ぬ>ことはないのだが、世界は<過去>へと逆進する。時代はアメリカ開拓時代になり、その<家>のあった地に開拓家族が住みつこうとするのだが、彼らは先住民に皆殺しにされてしまう。時が流れ、ゴーストはその土地にじっとたたずんでいる。そしてついに、ゴーストの生きていた時代になり、そこにあの家が建ち、ゴーストの生きていたときの男と、女とが転居してくる。そして‥‥。

 ストーリーはむずかしくはなく、語られていることは明瞭だ。しかしその展開は奥深く、すんなりと頭の右から左へと過ぎ去って行くようなハリウッド映画とはわけが違う。そこはさすが、「登場して来るだけで<ヨーロッパ映画>の雰囲気を生み出す」ケイシー・アフレックだし、ルーニー・マーラだし、このコンビで過去に「セインツ -約束の果て-」という作品(観ていないので観てみたい!)を撮っているデヴィッド・ロウリーという監督の技だろう。
 セリフも極端に少ないのだが、途中のその<家>を舞台としたパーティーの場面で、ある男が「個人の歴史と宇宙の歴史」みたいなことを長々と語るシーンがある。ここでのこの男のセリフ量は、この映画全体での80パーセントぐらいにはなるのではないだろうか。それもそんな大それたことを語っているわけでもなく、誰もがいちどはこういう<宇宙の法則>みたいなことは、考えたことはあるのではないかと思う。しかし、こういうことがこの映画全体の中でひとつの<基調>をつくっていることは確かで、実は宇宙レベルのストーリーだったのだ、と思わせられることにはなるだろう。

 映画が始まると画面が横長ではなくて四角くっぽく、これは「スタンダード・サイズ」というのだろう。しかも、その画面の四隅が丸い。‥‥むむむ、これはきっとアレだな、「わたしはロランス」とか、ウェス・アンダーソンの「グランド・ブダペスト・ホテル」みたいに、さいごにバッと横に拡がるぞ!と身構えていたのだけれども、さて、どうだったでしょう?

 前半の長廻しのカメラ、光のとらえ方がとても良くって、例えばルーニー・マーラが彼の死んだあとに家でひとりでパイを食べる長廻しは記憶に残るし、そうそう、音楽がすばらしくって、男が死んだあとの<回想>映像で男(ミュージシャンという設定)が女に聴かせる音楽の、映像との絡み、その編集が良くって、音楽がまたわたし好みの音だったもので、実はこのシーンで映画館の中でほんとうにぽろぽろと涙をこぼしていた。そして、余韻たっぷりのみごとなラスト。

 何かに書いてあったが、たしかに、アピチャッポン・ウィーラセタクンとも比すべき映像世界は独特で、「アメリカにもこういう才能が存在するようになったか」という感慨にも深いものがある。かなりの<傑作>だと思った。


 

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