ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-11-29(Thu)

 わたしはいちいちこの日記に書いていないけれども、毎日思うのは「この日本は何て酷い国になってしまったことか」ということで、このところ日ごとにそのヒドさに加速度を加えていると思う。まだ半年前には安倍政権は「モリカケ問題」を抱えていて、このポイントで辞任に追い込めないものかと期待していたけれども、今はもう、そんなことはどこ吹く風で、安倍政権は民主主義という概念そのものを壊す政策を取りつづけている。特に酷いのは、弱者への救済の切り捨てだろうか。生活保護費はカットされ、高齢者は「70歳まで働くのが当たり前」とされてしまった。女性への差別はなお改善されないし、LGBTQへの視線も冷たい。来年には消費税が10%に引き上げられるのだが、その緩和案が笑ってしまうような下劣なものでもあった。そしてここに来て、海外からの「技能実習生」らへの信じられない虐待ぶりも明らかになり、この地球上でここまでに悪辣、劣悪な国家というものはないのではないかと思えるほどだ。そして、2025年には、大阪で万国博覧会まで開催されることになった。
 「万国博覧会」とは何か。Wikipediaの「国際博覧会」の項目をみると、「複数の国が参加した、公衆の教育を主たる目的とする催しであり、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。」とある。この定義にはさらに、「公衆の教育」とは何か、「文明」とは何か、その「進歩」とは何かという、さらなる定義が必要だけれども、本屋に行けば「ヘイト本」が店頭に並び、そんな韓国や中国を蔑視し攻撃する団体の「ヘイトスピーチ」デモンストレーションが各地で行われ、その場では警官隊がその「ヘイト団体」を保護するような行動を取るという「とんでもない」国家に、文明を語る資格があるのか、それは「公衆の教育」に値するのか、これらのどこに「進歩」があるのか。今の日本という国は、世界の中でも有数の「恥ずべき国家」である。わたしはこのことを何とかしたいと行動の機会があれば参加もしたけれども、無力感に苛まれるだけだった。
 こうやって今の日本がオリンピック/パラリンピック、そして万国博覧会と、連続してそういう国際的なイヴェントを開催するのならば、もう今は、海外から「今の日本は<非>民主主義国家ではないか。そんな国で開催されるオリンピック/パラリンピック/万国博覧会には参加しない」という声が拡がることを期待する方がいいようにも考える。今の日本のテレビとかのメディアは、「日本が世界からいかに愛されているか」ということばかりを喧伝していると思う。それは「北斎」であり、「寿司」であり、「(先端的)トイレのシステム」だったりするわけだけれども、その日本は実はアジア・アフリカを蔑視し、西欧の<白人社会>だけを崇拝し、自分たちを認めてほしいと思っている<卑しい国>であろう。
 わたしは、そんな今の日本の、国民であることを<恥>と思っている。そのことに抵抗しようとして<無力感>に囚われていることは事実だけれども、まだわたしが個人で抵抗できることはあるのではないかと思っている。‥‥以上のことは毎日は書かないけれども、今ここで生きていて、いつも頭から離れないことである。わたしは<ディストピア>に生きている。まさか、こんな<生>を送ることになるとは思ってもいなかったが、わたしひとりのことならまだしも、ニェネントもいやおうもなく、そんな世界に巻き込まれているのだ。だからこそわたしは、ニェネントを守るためにも抵抗する。

 今朝も夢をみて、これがまた概念的な夢というか、人物が登場してドラマ的に動くような夢ではなかったのだけれども、つまりは澁澤龍彦のエッセイを誰かが外国語に翻訳したのだ、というような夢だったのだが、その翻訳をしたという人物は、「すなが」何とかという、名の知られた人物だったと思う。何が面白いのかわからない夢だったが、その夢の終わりのところでは、わたしが部屋にいて大きな地震に遭遇する、という展開になって終わるのだった。

 さて昨日はけっこう寒かったのだが、朝の天気予報では「今日も気温は低く、昨日よりも気温が下がるだろう」みたいなことをいっている。それでちょっとだけ厚着をして仕事に出たのだけれども、何のことはない、昼になると晴天で、ちょっと汗ばむような天候だった。天気予報はアテにならない。

 今日は家でのんびりしようというか、今日こそはやろうとしていることをある程度実行して進めなければならないと思っていたのだけれども、それなりに実行できて、それに伴う問題点も把握できて、そういう意味では<実り多い>日になったか?と思う。この週末はさらに先に進めたく思い、やはり土曜日の夜の舞踏の公演はキャンセルした。ごめんなさい。

        

 

[]「古代文字の秘法」M・R・ジェイムズ:著 宮本朋子:訳(「エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談 憑かれた鏡」より) 「古代文字の秘法」M・R・ジェイムズ:著 宮本朋子:訳(「エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談 憑かれた鏡」より)を含むブックマーク

        

 ‥‥むむむ、そういう、「錬金術」であるとか、そういう<カバラ>的というか、<フリーメイソン>的というような「秘教」的なミステリーは面白そうだぞ!とは思ったのだが、けっきょく<単なる>ミステリーに堕してしまったというか、楽しみにしていた「秘教」とはどのようなものなのか、ということは読み取れないで終わってしまった。そもそも、そういう「呪い」をかけられてしまった側の人たちは、その「呪い」の書かれた紙切れを呪いをかけた人物に(知られずに)返せば、その呪いから逃れられて、逆に呪いをかけた人物に「呪い返し」になる、ということをどうして知り得たのか、説明がないではないか。

 ま、とにかくはこの「怪談集」も読了。読み終えて、巻末の濱中利信氏の解説を読んで、そこに以下のような記述があったのが気に入った。これは、「怪談」というものの<名定義>であろう。

 そもそも、怪談というのは、超自然的な現象を扱うわけだから、その現象が発生する理由や背景を全て詳(つまび)らかにする必要はない……というか、余りハッキリ書かれると興醒めしてしまうものだ。また、犯人当てに主眼を置いた本格ミステリなどと違い、物語のディテール全ての辻褄が合っている必要もない。ストーリー自体や出来事の描写に、どこか曖昧な部分が残っていて、そこを読者が想像力を駆使して補って行く過程にこそ、怪談を読む醍醐味がある。


 

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