ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-12-31(Mon)

 年末に、道に落ちていたクマ(イヌ?)のお姫さまを拾った。わたしはどうも、<目>がついているものは見捨てられないというか、弱い。家に連れて帰って、やはり今年に拾った「泣き虫ちゃん」と並んでもらって<記念撮影>。いっしょに年を越しましょう。

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 2018年もこの日でおしまい。今日はがんばったというか、それなりに充実した一日をおくった(と、いえるようなものでもないか)。
 朝は、しっかりとテレビに向かい、Eテレで「香川照之の昆虫すごいぜ!」をみる。わたしもそれなりに<昆虫ファン>ではあり、この番組は愛好している。こういう、「パーソナルな一個人視点」から昆虫を追うというのは、すばらしいことだ。それぞれが面白かったけれども、パート2の「実録!完全変態」は、是非ともゲストに哀川翔を迎えての<対談>とかをやっていただきたかった。とにかく、明日の元日には<新作>が放映されるというから、楽しみである。
 そんな番組の終わったあと、「見て面白そうな番組もないな〜」と思っていたら、MXテレビで「北斎と応為」という番組をやっていて、そっちを見てみたらこれが相当に面白かった。「テレビだって、いろいろと選べば面白いじゃないか」とも思うわけで、このMXテレビではこのあと、ジュリア・ロバーツ主演の映画も放映していたし、これからはこのチャンネルのことはもっと注目していいと思った。

 いつまでもダラダラとテレビを見ていてもしょうがないし、午後になって「作業」に移行。ついにすべてをやり直すことにしたが、やはり「神は細部に宿る」というか、細部をおろそかにしてはいけない、ということはわかった。しかし、「細部」を見つめることは「視力」のもんだいでもあり、わたしは今まで、裸眼で文庫本のいちばん小さな文字、小さな文字をさらに半分に割った、脚注のカッコ内の文字(5ptぐらい、だろうか)も裸眼で読めることも自慢だったのだけれども、今のこの作業ではやはり、「老眼鏡」とか「虫眼鏡」が必要だろうか、とは思うのだった。それでやはり、近所の100円ショップとかに買いに行こうかと、夕方から出かけるのだった。
 ‥‥それで、店に行ってみると<虫眼鏡>は置いてなくって、そこで「待てよ、ウチの押し入れを探ったら<虫眼鏡>ぐらいみつかるのではないか?」と、いちど家に帰り、押し入れを「家宅捜査」してみると、しっかりと<虫眼鏡>、証拠品押収。‥‥余計な買い物をしなくってよかった。

 それでもやはり「買い物」に行こうかと再び家を出て、我孫子駅の方まで歩く。スーパーはおおぜいの買い物客で混み合っている。いちおう<お正月>ですからね、わたしも好物の「酢ダコ」を買い、ニェネントくんにも何か買ってあげようと見てまわり、けっきょく、サーモンの刺身を買う。その他わたし用に「さきいか」のおつまみを買い、そんなもので帰宅。わたしは昨日つくったカレーで夕食にして、そのあとは「大晦日なんてつまらないな」なんて思うのだが、誰かが「正月なんてつまらない」ということを書いていたはずだ。フロベールだったかしらん?

 それで、「そうだ、こういうときこそDVDとかを観よう!」と思い立ち、「何がいいか」とDVDの棚をみて、アラン・レネの「六つの心」を観ることにした。うん、冬らしい、年末のこのときにふさわしい作品だったかもしれない。
 ‥‥そう、そうなのだ。今まで、夕食のあとは「どうしようか」と時間をもてあまし、そのまま寝てしまったりしたのだけれども、こうやって、食事のあとに一本、何かDVDとかで映画を観るとかいうことをやればいいのだ、などということを思った。

 今年もこれでおしまい。明日はもう、「絶望へあと一歩」の2019年が始まるのだ。


 

[]「六つの心」(2006) アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督 「六つの心」(2006)   アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督を含むブックマーク

 ずっとこの頃の、晩年のアラン・レネの映画作品というのは、彼の作品の常連役者による「アラン・レネ一座」の舞台作品というおもむきの作品がつづき、そんな作品自体も、「舞台作品を映画にするとしたらどんな方法があるのだろうか?」ということの発展形式、みたいなおもむきがあると思う。そういう意味で、アラン・レネが演劇家のアラン・エイクボーンの作品を多く映画化したということは、「わかりやすい」ところもあると思う。しかし、そこは<映画>というものに卓越した視点を持つアラン・レネ。ひとすじなわでは行かないユニークな作品を産み出すのである。

 原題は「Cœurs」で、まさに「Hearts」、「心」。登場人物は6人(足しか見えないあの男を含めれば7人)。皆それぞれが、「孤独」というか、「Loneliness」を抱え持っている。そういう意味で、この映画の主題は「Loneliness」だと思う。

 ティエリー(アンドレ・デュソリエ)は不動産屋で、今、ニコール(ラウラ・モランテ)に3部屋の物件を紹介している。ニコールは婚約者のダン(ランベール・ウィルソン)がいて、彼は新居に自分の<書斎>がぜったいに必要だといっている。しかし彼は軍隊を退役後仕事を探そうともせず、バーで飲んだくれてばかりいることに、ニコールはうんざりしている。ダンの行きつけのホテルのバーのバーテンダーのリオネル(ピエール・アルディティ)は、自宅で寝たきりのわがままな父を介護していて、そのために介護士を頼んでいる。新しく夜間の介護士として来たのが、ティエリーの同僚のシャルロット(サビーヌ・アゼマ)。彼女は信心深く、同僚のティエリーにテレビの宗教番組を録画したものを見せたがる。一方、ティエリーには毎夜のように「出合い系サイト」経由とかの出会いを求めて、胸に目印の赤い花をつけてカフェへと出かける妹のガエル(イザベル・カレ)がいる。

 「ねじれ」その一。ティエリーがシャルロットから借りたヴィデオテープの、その肝心の録画のあとには、シャルロットの秘められた性癖が収められていた。ティエリーはそれをみて興奮し、そのテープが自分へのメッセージではないかと<誤解>する。「ねじれ」その二。ニコールはダンと別れることにして、ダンは家を追い出される。ニコールにもほのめかされて「新しい恋人」を求めたダンは、いつものホテルのバーでティエリーの妹のガエルと逢うのである(その一部始終をリオネルがみている)。「ねじれ」その三。リオネルの父のあまりの強情さに途方に暮れたシャルロットは、ついに隠していた自分の性癖をその父の前で「披露」する。

 ラストの展開はそれぞれの「顛末」が示されるのだが、つまりはそれぞれの人物は自分の抱える「Loneliness」をもてあましているというか、その問題を「どうにかしたい」と思っているのだ。この映画の中では誰ひとり、その即席の<解決>を得ることはないのだけれども、それぞれが自分の<問題>に向き合うことにはなるだろう。

 冒頭の、航空撮影(今ならば「ドローン撮影」)の街並の映像がまずは強烈で、街に人一人歩いていないこの街、ぜったいにミニチュアである。こういう、わずか10秒ほどの映像にこれだけのミニチュアをつくらせる、というのがアラン・レネの演出であろう。
 そして、カットごとにそのカットをつなぐ、降りしきる<雪>の映像(この作品はほぼすべて屋内撮影なのだが、ただひとつ、ティエリーとシャルロットの職場の不動産屋だけが、外に向かった大きな窓があり、雪の降る街の情景が映される)。その雪はついに、リオネルとシャルロットとの対話のシーンでとつぜんに室内のテーブルに降り積もっていて、その雪の中に置かれたリオネルの手に、シャルロットの手が重ねられるという印象的なシーンがある。

 わたしの持っているDVDのパッケージには「ハートウォーミングドラマ」などと書かれているのだが、わたしにはこの映画は、「そもそも人はそれぞれ<Loneliness>を抱えていて、そのことは容易くは解決することではない」といっているとしか思えない。

 ラストシーン、「何か」を期待してヴィデオを見つづけるティエリーのところに、夢破れたガエルが帰ってくる。<砂嵐>の映されるテレビモニターに、「fin」の文字が重なる。‥‥カッコいい! 映画のラストシーンの、ひとつのベストショットではあるだろうか。


 

[]二〇一八年十二月のおさらい 二〇一八年十二月のおさらいを含むブックマーク

 今年は、舞台は34(うち、文楽が2)、音楽コンサートが2、美術展が12、映画館で観た映画が26本とかだった。自分なりに「いい感じ」だとは思う(もしも本気で舞台とか映画とかを批評しようと思うならとても足りない観劇数ではあるが)。来年はもうちょっと、美術展を数多く観たいという気もする。どうなるだろう(ちなみに、<読書>としては174作品読んだ勘定だけれども、短篇も数えているので、そんなに大したものではない)。

ダンス・演劇:
●「ロスト・イン・ダンス-抒情組曲-」「月に憑かれたピエロ」勅使河原三郎・佐東利穂子:ダンス マリアンヌ・プスール:歌 勅使河原三郎:演出・振付・照明・美術 ハイメ・ウォルフソン:指揮 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウス
●山田せつ子ダンスソロ@SCOOL vol.4「破壊の人」山田せつ子:ダンス @三鷹・SCOOL
●地点×空間現代「グッド・バイ」太宰治:原作 三浦基:演出 空間現代:音楽 @吉祥寺・吉祥寺シアター

美術:
●「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」@渋谷・松濤美術館

映画:
●「ヘレディタリー/継承」アリ・アスター:脚本・監督
●「メアリーの総て」 ハイファ・アル=マンスール:監督
●「ミツバチのささやき」(1973) ビクトル・エリセ:監督

読書:
●「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」ピーター・ゴドフリー=スミス:著 夏目大:訳
●「ヴィヨンの妻」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)
●「斜陽」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)
●「櫻桃」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)
●「人間失格」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)
●「グッド・バイ」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)
●「ジキル博士とハイド氏」ロバート・ルイス・スティーブンスン:著 夏来健次:訳
●「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳

DVD/ヴィデオ:
●「六つの心」(2006) アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督


 

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■ 2018-12-30(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 夜中に夢をみていて目覚め、面白いストーリーで気がかりな夢だと思っていたのだけれども、そのあとにまた寝てしまったら、次に目覚めたときには夢の内容はすっかり忘れてしまっていた。

 わたしがちゃんと目覚めてベッドから起き出すと、ニェネントはにゃーにゃーとないて「朝ごはんをちょうだいな!」とネコ皿の前に行って待機する。そんなニェネントをみると、「なんだか肥満しているのではないか?」と思う。しばらく前から夕食のネコ缶からの食事量を増やし、今は毎回、缶の半分をあげている。以前はひと缶の三分の一を一回の食事量としていたのを増やしたわけで、そのせいで太ったのかと思うが、秋から冬になって下毛も増え、それでふっくらと見えるのかもしれない。やはりペット用の体重計を買って、しっかりとニェネントの体重管理をしてやらないといけないと思う。

 わたしはといえば、3年ほど前にちょっと体重が増えて履いているズボンとかも苦しくなり、かかっていた内科医に「ちょっと肥満気味です」といわれ、それからダイエットにつとめたおかげで、履くのに苦しかったズボンも楽に履けるようになり、大昔のスラックスも履けるようになったのはうれしかったのだが、その後もどんどんとスリムになりつづけ、逆に「もうちょっと体重を増やしても」みたいなことになってしまった。ところが、このしばらくはいくら大食しても体重も増えず、「何か内臓疾患でもあるのか」と心配になったりもした。それがこのところようやく、多少は体重も増えたようだ。いいところに落ち着けばいいのだが。ニェネントくんもね。

 今夜はようやく、カレーをつくった。基本は市販のカレールーでつくるけど、いろんな調味料を入れて、トマトもプラスして製作。思っていたよりひと味足りない気がするが、まあまあの味。きっとこのカレーで年越しになることだろう。それで、炊いてあったご飯が2合ほど残っていたのを、「え〜い、食べてしまえ」とすべてカレーをあえて食べてしまったら、さすがに腹苦しくなってしまった。

 今日も多少は作業を進めたのだが、やはり夕食後は(今夜は大食いしたということもあって)なかなか仕事をするということにならない。けっきょくベッドに入って本を読み、それでやって来たニェネントくんと遊ぶのだった。
 そんな、わたしの胸の上に乗ってきたニェネントの、しっぽとかをいじくっていると、力を入れ過ぎというか、「そこはイヤ」というスポットもあるようで、「イヤだ」というときに、とつぜんわたしの鼻にかみついてきたりする。これが痛いのだ。早くに回避すれば傷にはならないが、油断すると鼻の頭に傷を負って出血してしまう。そんなことになると、映画「チャイナタウン」でロマン・ポランスキーに鼻先をナイフで切られてしまうジャック・ニコルソンみたいに、鼻の頭に絆創膏を貼ってすごさなくてはならない。‥‥この夜も鼻の頭をかみつかれ、あぶなく出血の大惨事になるところだった。

 考えてみれば、この日は部屋から一歩も外に出ないで過ごしてしまった。プチひきこもり。しばらくは出かける予定もないので、こんな感じの日がつづくだろう。


 

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■ 2018-12-29(Sat)

 年末年始の連休が始まった。これから9日間、仕事のことを考えずに家に居られる(多少は「お出かけ」もする予定はあるが)。懸案の「作業」に打ち込みたいと思う。昨日も一昨日もまるでやらなかったので、今日やらなければわたしはただの「ナマケモノ」になってしまう。ついに作業台に向かい、今までの作業を見直し、やはりすべてやり直すことにした。前に考えたように、「細部をおろそかにしてはいけない」。これだけが指針であろうか。
 まだまだシノプシスの段階だが、いちど全体を見渡せるところまでやっているので、その反省をふくめて進んで行けると思う。この連休、もう<大そうじ>なんかやらないで、「作業」に集中していきたい。

 今年、2018年は、だんだんだんだんと「ディストピア」に近づいていく年だったけれども、この年の瀬に来てさらに悩ましい問題を耳にするようになった。
 ひとつは安倍総理が2020年に「日本博」を開催したい、などと言い出したこと。その総合テーマが「日本人と自然」などと、沖縄の辺野古の美しい海を赤土で埋め立てようとしている安倍が言うのだから、これはブラックジョークだ。また、例によって旧態依然とした「日本文化」へのステレオタイプな視点、その視点は決して、<現在形>の今進行中の<文化>には関係しないのだ。思った通り、安倍の考えているメインは「伝統工芸品」であったり、「能」や「歌舞伎」とかいうものらしい。
 安倍の考えている<日本文化>とは、つまり「レトロスペクティヴ」であり、もちろんわたしとて「伝統工芸品」「能」「歌舞伎」の価値を否定するものではないけれども、では、現在進行形の「文化」を助成する気のない現在の安倍政権に、「日本博」など開催していただきたくはない。
 このことをちょっと補足すれば、今年のカンヌ映画祭で是枝裕和監督の「万引き家族」がパルム・ドールを受賞した際も、安倍総理は何の反応も示さずに<無視>した。安倍総理は医学博士の本庶佑氏がノーベル賞を受賞されたときにはダイレクトに電話して祝意を述べたし、冬季オリンピックで金メダルを得たアスリートにも祝意を述べていたが、彼が現在の文化面で何かを語ったということはない。そして、今の基準でいえば、宮崎駿氏などはまさに「国民栄誉賞」に値する人だと思うのだが、「国民栄誉賞」はアスリートのために特化してしまっている。いや、もちろん宮崎氏はそんなことになったら当然「辞退」することと思うし、じっさい、宮崎氏は今げんざい、辺野古埋め立てに抗議するコメントを発せられている。そういうことからも、実は安倍政権は「現在形で進行するラディカルな(反体制的な)日本文化」は嫌悪していることは想像がつく。今の安倍政権が好きな現在形の<日本文化>とは、量産されるアキバ的なアニメなのではないのか*1。‥‥「文化」とは、そのときそのときの体制に迎合するものではなく、そういう「政治的な流れ」とはもっと違ったものを視点に置いたものなのだと思う。

 もうひとつ。日本は「国際捕鯨連盟(IWC)」から脱退した。考えられないことである。
 たしかに、わたしが幼いころには<鯨肉>というのは一般的、というか、偏食のひどかったわたしの、いちばんのお気に入りだったタンパク系の食べものは鯨肉、とりわけ、「鯨の刺身」だった。むかしの「鯨の刺身」というのはほとんど冷凍されたまま売られていて、その四角くカットされた凍った鯨肉をさらにスライスして、しょう油につけて温かいご飯にのせると、それがじゅるじゅると溶けていく。口の中に入れると、さらに口の中でトロリととろけていく。今思い出しても、あんなにおいしかった食べ物はなかったと思うのだけれども、いつしか、流通が整備されたせいか、そういう「冷凍」の鯨肉というのは店頭から姿を消し、今売られている「鯨肉」に、わたしは何の<思い入れ>もない。それを「日本の食文化を守る」などといって、国際捕鯨連盟から脱退する日本は滑稽だ。もう今のわたしは「鯨肉」には何の思い入れもない。何十年もかけて、そういう世の中になったのだ。この今になって、「鯨肉を食べるのは日本の文化」などというのはばかばかしい。先の「日本博」でいう「日本文化」と考え合わせるがいい。今の世界は、「鯨を捕るのはやめましょう」という方向になっているというか、そういうことになっている。そこでなぜ、世界の動向に逆らって「わたしたちは鯨を捕る」となるのだろうか。やはり日本の進路はおかしいと思わざるを得ない。

 それで昨日から、日本海で韓国海軍駆逐艦が日本の哨戒機にレーダー照射したとの問題が、トップニュースになっている。夜のニュースで自衛隊からの映像を見たけれども、わたしには判断出来るようなものではない。ただ、軍事的に日本と韓国が敵対するなんてことはあり得ないわけだけれども、ネット上では「嫌韓」の連中が大騒ぎしている。愚かだと思うけれども、まだわたしにはどうこうと言える知識はない。

 わたしの生活の話に戻って、今日はそうやって「作業」もしていたので、「今夜はカレーだね!」というのもめんどうになった。それと、「年末だからちょっといい<酒>を」と思って買った、(中クラスの)ウィスキーを飲んでいたら、気分が悪くなってしまった。(そんなに飲んでいないのだけれども)ぜったいにウィスキーのせいだ。もうわたしの身体は、安物のウィスキーに同化してしまっているようだ。夕食をつくるのもめんどうだし、先日スーパーで買った「天ぷらの盛り合わせ」がおいしかったし、それをまた食べたくなり、まだダイコンは残っているし、「よし! 天ぷらとウィスキーを買いに行こう!」と、炊飯器でご飯を炊くセットをし、暗くなってから「お買い物」に出かけた。
 スーパーに行ってみると、もう店内は「お正月」モードだった。わたしは目標の「天ぷら」をカートに入れ、ウィスキー(いつもの安いヤツ)を入れ、ついでに「冷奴」も食べたいな、と豆腐を選び、ちょっと「おつまみ」を買って会計して店を出た。帰宅して、冷蔵庫のダイコンをすりおろし、買って来た天ぷらで夕食にする。おいしい。ひょっとしたら、わたしのいちばんの好物とは「天ぷら」なのではないだろうか。
 食後に、買った安いウィスキーを、おつまみをつまみながら飲む。これも最上。どうやらわたしは、身体全体が「安上がり」モードに改造されてしまったのではないかと思う。スーパーで売られている「天ぷらの盛り合わせ」なんて安いものだし、毎日こういう食卓でもいいと思う。でも、明日はカレーをつくるつもり(これもまた、「ロウ・バジェット」だが)。


 

[]「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳 「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳を含むブックマーク

 愛おしいプニン。万年助教授のプニン。皆にその所作を笑われているプニン。でも、プニンの内面には、やはり「哀しみ」が隠されている。
 もちろん、ナボコフには「青白い炎」とか「アーダ」とか「ロリータ」、その他すばらしい作品があるのだけれども、けっきょく、ナボコフの作品の中でいちばん愛おしい作品とは、この「プニン」なのではないだろうか。

 彼の「文学講義」にあらわされる、博学の底からにじみ出るユーモア精神が、ストレートにその作品に表出されたのは、やはりこの「プニン」なのではないだろうか。そして、ひとつの作品としての、断章ごとの組み立て方の面白さ、アメリカ文化とロシア文化との差異というか、「世界をみつめる人たちは、同じ視点から世界をみているわけではないのだ」という視点。そして、まさにナボコフらしい、その「修辞」と「隠喩」の豊富さ。みごとなまでのその「省略」の効果(誰もが、プニンの住まいの外の小川に転がるサッカーボールには泣けるのだ)。ラストの、二台のトラックにはさまれたプニンの車は、いったいどこへ行くのだろうか?

 もしもあなたが、「ナボコフなんて、気取った<芸術家小説>(「セバスチャン・ナイト」「賜物」)、もしくは<マニアックな気狂い>(「ロリータ」「青白い炎」「アーダ」)ばかりを書いていた作家だと思っているとしたら、この「プニン」を読めば、ナボコフの「奥深さ」、(屈折はしているだろうけれども)その「優しさ」にうたれるのではないだろうか。ナボコフの著作のベスト3を選ぶなら、この作品を選びそこねてはならないのだ!


 

*1:アニメ業界での「下請け」的アニメーター、作画スタッフの「劣悪」ではすまされない労働環境は、もっと問題にされなければならない。

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■ 2018-12-28(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 ずっと、寝る前の短い時間に「ウンベルト・エーコの世界文明講義」を読んでいるのだけれども、これはとても面白い。この翻訳タイトルはちょっと過剰、過大な訳だと思うのだが、原題は「Sulle spalle dei giganti」というもので、これは翻訳サイトの助けを借りてみると、「巨人の肩の上」という意味で、この本の最初の章、「巨人の肩に乗って」とイコールなのだろう。この本は、「わたしたちが思考する縁(よすが)とするものの、その原理はどこから来るのか」ということを、博学なエーコらしい切り口で、<哲学>というほどにディープにならず、わかりやすく俯瞰してみせてくれるようだ。つまり、「わたしたちはどこから来たのか、そしてどこへ行くのか?」という普遍的な問いへの答えの、ひとつの道を示してくれているように思える。例えば、いったいなぜ、<ネトウヨ>といわれるような人たちの思考法は間違っているのか、そういうことへの解答があるというか。

 このことはすべて読み終えてからまた書きたいけれども、例えば先日、わたしのFacebookのページに、なぜかあの「日本国紀」を推薦する人のTLが表示された。わたしのリアルな友人にそんなことを書く人物はありえないのだが、どうも、音楽関係のグループに参加しているときに、そこのグループに参加している人から<友だちリクエスト>を受け、「知らない人だけれども、ま、いいか」と承認したようだ。それで、わたしのフィールドに「日本国紀」を賞賛するような記述があるのも気分悪いので、自分では意見を述べず、「日本国紀」の問題点を挙げたサイト記事をリンクさせたのだが、その人物から返答があり、「歴史の何が真実かなんて、タイムマシーンでも発明されなければ、分からない! それを承知で読んだ感想なだけです。」ということだった。
 ‥‥これはまさに、エーコのいう「巨人の肩に乗って」という視点を失った人の<考え>なのだろうか。わたしはよほどその人物に、エーコのこの本を推薦したかったのだけれども、その人が読むわけもないのでムダなことはやめた(その「巨人の肩に乗って」とはどういうことなのか、今は書く時間もないのですべて読了したあとに書けるかな?)。

 それで毎夜、ベッドに寝てこの本を読むのだけれども、この本を読みはじめるとかならず、ニェネントがベッドに跳び乗ってきて、「ねえねえ、かまってよ!」と来るものだから、「はいはい、わかったよ!」と本を脇に置き、ニェネントとの<交流>の時間になるものだから、なかなかに読み進められない。時には3〜4ページしか読み進められない夜もある(それでも半分は過ぎた)。

 それで今は、寝るときに図書館から借りているアバドの「グレの歌」(第一部)を、最近買ったラジカセ(という言い方でいいのか)で聴いているのだけれども、コレが<催眠効果>抜群というか、だいたい20分も聴いているうちに眠ってしまっているようだ。ほんとうはいつも、この第一部のさいごの「山鳩の歌」を聴きたいと思っているのだけれども、もう5日ぐらいは連続して、寝るときにこのCDを聴いているのだが、いちども「山鳩の歌」までたどり着いたことはない。わたしが何を言いたいかというと、「グレの歌」=「子守唄」論、だったりして。

 さて、ついに年内の仕事がすべて終わり、明日からは年始まで9連休になる。「休める」というより、「自分のやりたいことに専念出来る」という意味で、やはりうれしい。仕事を終えて帰宅して、「ニェネントくんのお出迎えがあるかな?」とドアを開けるのだが、ドアを開けてもそこにニェネントの姿はない。和室を見ると、ベッドの上でくつろいでいるニェネントがみえる。「お〜い、帰ったよ〜!」と声をかけるのだが、なんと、むこうを向いて寝そべっていたニェネントは、わたしの方を振り向くことさえしないのだった。ショック、である。
 ま、それでもわたしが昼食の準備とかしているうちにニェネントもベッドから降りてきて、わたしの近くでうろうろすることになるのだけれども。

 それで今日もまた、肝心の「作業」は何もやらなかった。明日以降に期待するしかない。ナボコフの「プニン」を読み終えたのだけれども、その感想は明日にでも書こう。


 

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■ 2018-12-27(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 夢。わたしはダンサーのIさんとトークをやることになっているようだ。わたしに不安があったのかどうか、Iさんが「わたしが司会なのだから心配しないで」みたいなことをいう。そのトークの前にまた他の人と雑談をしていて、「ストーンズが来日するらしい」みたいな話が出てくるのだけれども、「もう彼らも歳だから、ワンステージ30分ぐらいになるらしいよ」という話も出る。それで夢の情景は変わり、わたしはバスに乗っている。そのバスが、赤土の丘を切り崩してその下に住居だか事務所だかを設置しているところを通りかかり、きっとここは廃墟なのだろうと想像し「こんなところに住んでみたいな」と思う。でも、バスがそのそばを通ると、そこの一階部分は建設業者の事務所みたいになっていて、机のまわりに紺のジャンパーを着たいかつい顔の男たちがたむろしているのだった。
 あと、目を光らせた、妖怪のようなネコがいっしゅん登場するストーリーもあったのだけれども、そちらの夢のことは忘れてしまった。

 このごろはたいてい、夜中に目覚めるとふとんに重みを感じる。ニェネントがわたしのすぐわきで、わたしに寄りかかって寝ているのだ。時には、すっかりわたしの上に乗っていることもある。「そのままずっと、朝までそこにいてくれるとうれしいな」などと思うのだけれども、アラームで目覚めるときにはベッドの下のクッションの上で寝ている。いや、「寝ている」というか、「そろそろ朝ごはんの時間だ」と思って、待機しているのかもしれない。わたしがベッドから起き出すと、ニェネントはいつも先回りしてニェネント用のお皿の前に行き、「早くごはんをちょうだいな!」という表情で、わたしのことを見上げるのだ。

 わたしはといえば、昨夜クッキングに大失敗したもので、まだ朝から気が重い。朝食もバナナだけにして、仕事へと出る。もう、今日と明日と出勤すれば9連休が始まるぞと、気を引き立てる。
 今日は、仕事を終えて帰宅してドアを開けると三和土のところにニェネントが来ていて、「お出迎え」をしてくれた。それでちょっと気分を良くし、久々に「作業」に手をつけた。「いい感じ」ではあるのだけれども、やはりさいしょっからやり直してみようかと思う。「こんなところでいいだろう」と、自分をごまかしてはいけない。いつも「最上の結果」を求めなければ。

 夕食は、「これなら安全パイだろう」という、「レバ野菜炒め」にした。トマトが使わないまま残っているので、明日にでもトマトを入れたカレーをつくろうかと思う。
 そう、今は図書館から借りたナボコフの「プニン」を読んでいるのだけれども、やはり「読んでいて気もちがいい」というのでは、この「プニン」がいちばんだ。明日にも読み終わるだろうけれども、もう3回ぐらい読んで毎回楽しんでいるので、やはり自分で買って、ウチの本棚に置いておきたくなるのだった。


 

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■ 2018-12-26(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 ニェネントが、リヴィングの窓際に座って、じっと窓を見ていることが多い。ニェネントの位置の窓はすりガラスというか外が透けて見えるようなガラスではないので、外を見ているのではなく、「窓ガラスを見ている」もしくは、「じっと窓に向かっている」でしかない。人間がこんなことやっていると、それは「うつ病」を疑わなくてはいけない。ちょっと心配になって調べてみたのだけれども、たしかにネコにも「うつ病」はあるのだけれども、その症状はどれもニェネントにはあてはまらない。それで、「ネコがじっと壁を見ている」ということを書いたサイトがあって、「これだこれだ」と読んでみたのだけれども、つまり、ネコというのは(意外にも)それほどに眼がいいわけではなく、視力よりもずっとずっと、聴力にたよって生活しているのだ。ネコの耳は人にはまるで聞えない音も聞えてるからね。つまり、そうやって「何も見えない壁」とかに向かってじっとしているというのは、その壁の外の音に注意を払っているのであると。なるほど。それならよく理解できるし(ウチの中でいちばん外の音が聞えるのはたしかに、そのニェネントが座っている場所かもしれない)、あまり心配しなくってもいいみたいだ。‥‥しかし、ニェネントは窓の外のどんな音を聴いて、何を思っているのだろうか。

 注文してあった「ナボコフの文学講義」の下巻が届いた。まったくの美本で、もちろん読んだ形跡もない。新本を三割引きで買えた、というところでうれしい。読みたかった「スティーブンスン」の章をパラパラと読んでみる。

 さて、「夕食は何にしようか」と考え、冷凍庫の中で毎夜、故郷の海のことを思い出して涙を流しているにちがいない「まぐろの血合い肉」を調理することにした。煮物にするわけで、ずいぶん前にやってうまくいったことがあるから、ま、だいじょうぶだろうと思っていた。まずはレンジで解凍してやって、鍋の中に水を張ってその中に入れ、おっぺしてやって血を抜くのだ。しかし、今回はいつまでもいつまでも血が抜けないというか、赤くなった水を捨ててあたらしく水を入れてやっても、まだすぐに水が赤くなる。しかもいつまでも生臭い。そんなことをやっているうちに、水の中でぐしょぐしょにされたまぐろ肉はだんだんに変形、変質しはじめ、まるで深海にたたずむ未知の軟体生物みたいになってきた。よくみると「ここはぜったいに食べられないな」と思えるような白い筋も目立っているし、むむむ、やばそうだ。‥‥とりあえず、もう水を取り替えてもそこまでに赤くはならないな、というところまで持ち込んだのだけれども、その頃には、コレが実はまぐろの肉だったのだとはとても思えない容貌になってしまった。
 ‥‥とにかくは、調理してみようと、しょう油とか酒とか味醂とかといっしょに煮込んでみる。って、そうやって加熱してみても生臭さは消えないというか、よけいに強烈になってしまったように思える。しばらく煮込んで、ちょっと味見してみるが、こ、こ、これは食えない。この味は、モグラでも食べないで跨いで逃げて行くだろう。こんなすごい味の物体を調理したことは、今までに一度もない。なんということだ。コレはゴミ袋へ直行便だ。早く消え去ってほしい。

 ‥‥いったい何が悪かったのかわからないが、そもそもの素材が調理不可能な素材だったようにも思える。ま、25円だったからね〜。とにかく、この悲惨な結果に何ごともやる気が失せてしまい、夕食はもうサバ缶でかんたんにすませ、「今日はもうダメ」と、予定していた作業もすっ飛ばして、昨日「食事のあとに早く寝てしまうのはやめよう」と考えたばかりなのに、7時前にはベッドにもぐりこんで寝てしまうのだった。


 

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■ 2018-12-25(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今年最後の一週間。仕事はあと四日間だ。そうすれば9連休。待ち遠しい思いがする。これは、今朝(わたしが仕事に出るために家を出る4時50分)の空の月。

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 今日、仕事を終えてウチに戻り、ドアを開けたところ、リヴィングの窓際にいたニェネントくんが、それこそ一目散にドア口に駆けて来て、わたしのところに来てゴロリと横になるのだった。‥‥ふだんのニェネントはだいたい、わたしが仕事を終えて帰宅したときには和室のベッドの毛布の上にいて、わたしがドアを開けて和室をのぞきこんでも、「ああ、帰ったのね」みたいな、「夫への愛情が冷めてしまった妻」みたいな応対でわたしの方をちらっと見るだけで、そのまま毛布の上で丸くなっているだけということがほとんど。いちおう、仕事ではなくって帰りが遅くなったときとかは、ちゃんと「ネコ」らしく、遠くからわたしの足音を聴きつけて、わたしがドアを開けるともうドア口で待っていて、「おかえりなさいにゃ〜ん」とやってくれるのだけれども、今日みたいな「お出迎え」は初めてのことだ。きっと、リヴィングの窓際にいたとか、出窓の上にいたとかで、わたしの足音に気づかなかったのだろうか。それでとつぜんわたしがドアを開けたので、ニェネントもびっくりしたのかもしれない。でも、わたしに向かってまっすぐ走ってくるニェネントは、ものっすごくかわいかったのだ(これはどアップで、<かわいい>とはいえないニェネントくん)。

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 さて、玉子の在庫が少なくなったので買いに行きたい。玉子が安いのはスーパー「O」だけれども、先日行ったときには旧店舗は閉鎖されていて、もう今ごろは新しい店舗で営業を始めていることだろう。どんな店だか行ってみようと、出かけてみる。場所は、旧店舗よりもちょっと遠いところ。そんな道のりを歩いていて空を見上げると、冬の空を「ヒコーキ雲」がみごとに分断していた。

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 ‥‥おっと、これは予想外に大きな店だわさ。以前は「よくこんな狭いスペースでやってるよね」という、「田舎のスーパー」という感じだったのだけれども、これはデカい。よくみると、どこかのドラッグストアとの共同店舗みたいだ。どれどれ、中に入ってみよう。

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 ‥‥むむ、どこに何が置いてあるか、まだよくわからないのだけれども、(特に肉類とか)前の方が安かったような気がする。鮮魚類も、かえって前の店の方が豊富にあったのではないか? ま、玉子は前のように安くって、10個で68円。安い。
 それで、帰りに道沿いのスーパー「m」にも寄ってみたのだけれども、‥‥お客さんがいない。「閑古鳥が鳴いている」とはこのことだ。もうすっかり、客を「O」に取られてしまっている、という感じだ。ま、これからは近郊の二つの店で競い合って、どんどん安値で売ってくれればわたしはうれしい。

 で、忘れていたのだが今日は「クリスマス」。もっと遅い時間に来れば、ローストチキンとか半額ぐらいに値引きされたのを買えたかもしれないな。また夕方に出直してくるというのもめんどいので、今日の買い物はこれでおしまい。今夜は昨日の残りの「おでん」でかんたんに食事をすませる。

 さて、思ったのだが、わたしは最近ずっと(十年ぐらい?)、朝が早い生活をつづけていて、夜も8時とかになると寝てしまうわけだけれども、それで、夕食を6時半とか7時ぐらいにすませてしまうと、あとはもう寝てしまう。‥‥コレがよくないというか、今はやりたいこともしっかりあるわけだし、何より、食事のあとにすぐに寝てしまうのは健康に良くないともいう。だから、食事を終えたあと、1時間とか2時間とか、作業時間を取るべきではないかと思う。今は一日8時間たっぷりと睡眠時間を取っているわけだけれども、7時間でもいいじゃないか。これからは、夕食のあと多少はそういう時間を取らなくてはいけないな、などと思いながらも、この日も<いつもの習慣で>夕食のあとはすぐにベッドに行って、寝てしまうのだった。


 

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■ 2018-12-24(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 3連休は短い。もう最終日で、明日からはまた仕事が待っている。

 今日は昼前から我孫子の図書館へ行った。ひとつ借りたいのは、クラウディオ・アバドの指揮した「グレの歌」のCD。けっこう名盤といわれているようだが、どうなんだろう? ウチにはサイモン・ラトルの指揮した「グレの歌」があるのだけれども、このCDで困ってしまうのは、つまり第一部がCD1で、第二部と第三部がCD2なわけだけれども、その各部がまとめて一曲扱いにされてしまっていることで、CD1はすべてトータルで一曲扱い。CD2は、いちおう最初の短い第二部で一曲扱いなのは当然としても、そのあとの第三部まとめて一曲。つまり、第一部で「山鳩の歌」だけ聴きたいな、と思っても、そこを選択することはできないのだ。「早送り」をず〜〜〜〜っと押しつづけ、それでようやく「山鳩の歌」だけ聴くことが出来る。こんなCDはイヤだ。それで、とにかくは他の指揮者のモノも聴いてみたいということもあって、そのアバドの盤を借りてみようと。
 あとは、せっかく年末年始で借りれる期間も普段より長いのだから、何か借りようと書棚をみてまわり、また読みたくなったナボコフの「プニン」、そしてナボコフを翻訳している若島正の、ナボコフ論も載っているエッセイ集「乱視読者の帰還」、ついでに多和田葉子の岩波新書の「言葉と歩く日記」も借り、それと先日読み終えて、「もういちど読み直したい」と思っていた柄谷行人の「日本近代文学の起源」、岩波現代文庫版の「定本」というヤツとを借りた。‥‥はたして、ぜんぶ読めるかな?

 図書館を出てそばの手賀沼に寄る。この日はユリカモメの数が多くみられたけれども、ハクチョウもいた。

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 帰り道、参議院議員の山本太郎のポスターが貼られているのをみた。もうすっかりダメダメなこの日本だけれども、こういうのを目にすると、まだ希望と勇気を受けとめられる気がする。

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 それでもこの日はもう夕食とかせっせとつくる気もせず、というかまだいっぱいダイコンが残っていることだし、帰り道にローソン100に寄って「おでんセット」を買って帰り、今夜はダイコンを入れた「おでん」、ということにした。作業の方はお休み。それで、借りてきたアバドの「グレの歌」を聴くのだけれども、むむむ、何というのだろう。ダイナミック・レンジは広いのだけれども、「これって、<ポップス>じゃん?」という印象がある。重厚さが足りない。これは小沢征爾のモノを借りた方がよかったかもしれないな、などと思うのだった。寝るときにその「グレの歌」を聴きながら、またニェネントくんと遊ぶ。


 

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■ 2018-12-23(Sun)

 3連休中日。今日はようやく、やりたかった作業に手をつける。当初思っていた方向とは若干違ったものになりそうだけれども、それはそれでいいみたい。けっこううまく進行していると思えるところと、「ちょっと失敗したかな?」というところと。けっこう進行したので、「ダメだったらさいしょからやり直す時間も取れるだろう」という感触もある。「この路線でいい」という気もちが70パーセント、「あんまり良くないかな?」というのが30パーセントぐらい。こういうことはちょっと時間をおいてみないと、作業しているときの気分はあてにならない。まずは毎日作業をつづけるという習慣をつくること。これがいちばん大事だ。

 スティーブンスンの「ジキル博士とハイド氏」を読み終えた。それでこの作品について講義している「ナボコフの文学講義」の下巻を早く欲しくなり、「少しでも安く買いたい」と、ヤフオクやAmazonの中古物件を探したのだが、Amazonの中古本で送料を入れて千円ぐらいのがあったので、それを注文した(新本なら1400円ぐらい)。すぐに代金も支払ったので、年内に届くだろうか。

 夜、昨日行けなかった、近所の海鮮レストラン/居酒屋へ行く。混んでいそうな時間を避け、9時過ぎてから行く。

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 けっこう空いていて、4人がけのボックス席をひとりで占領。気もちいい。実はこの店のドリンク一杯無料券を持っている。それを使って生ビールを注文し、あとは席にあるタッチパネルで注文するので楽。まぐろの刺身セットと、タコの唐揚げ、そしてシーザーサラダを注文した。どれもおいしいが、特にまぐろの刺身はかなり美味で満足する。

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 次に頼んだハイボールは甘くって、わたしの口には合わなかったけれども、閉めに「漁師飯」というのを注文。ご飯に刺身が乗せられていて、そこに出汁だかただのお湯だかをかけて食べる。これ、相当おいしかった。
 タッチパネルで勘定もチェックできるのでみてみると、思ったよりいっちゃってる。「あれれ?」と思ったら、刺身が二人分注文されたことになっている。「何かの間違いか」と店員に聞くと、ワンオーダーで二人分出されるのだという。‥‥それって、インチキではないか。二人分しか出さないのだったら、メニューはそもそも「二人分」で載せるべきだ。ま、「これって安いな」とは思ったのだが。
 とにかくは(ハイボール以外は)とてもおいしかったわけだし、ぜいたくな(?)環境でゆったりと飲んで食べれたし、<クリスマス>ということで、こういうこともたまにはいいだろう。ちなみに、四千円に近いお会計ではあった。

 

[]「ジキル博士とハイド氏」ロバート・ルイス・スティーブンスン:著 夏来健次:訳 「ジキル博士とハイド氏」ロバート・ルイス・スティーブンスン:著 夏来健次:訳を含むブックマーク

 ナボコフの「講義」はまだ読んでいないわけだけれども、講義のために選んだ世界文学作品七作の中に、このスティーブンスンの「ジキル博士とハイド氏」を選んでいることには、ちょっとおどろく。他に選ばれたジョイスやフロベール、プルーストなどに比べ、スティーブンスンはあまりに<マイナー>ではないのか。どのようにナボコフが評価しているのか早く読んでみたいが、スティーブンスンといえば、ボルヘスもまたその作品で彼のことを書いているわけだし、あの中島敦もスティーブンスンの伝記的な作品を遺している。ナボコフも含め、これら<理知的>な作家を惹き付けるスティーブンスンの魅力とは何なのだろう。そんな興味もあって、スティーブンスンの代表作といってもいいだろう、この作品を読んでみた。

 言わずと知れたことだが、この作品は「二重人格」の代名詞ともされる作品であって、その先駆的意味合いは大きいだろう。そしてこの作品は<ミステリー>仕立てになっているわけで、絞られた少数の登場人物の中で、「真相はいかに?」という展開になっている。すでに冒頭の展開から、謎の「ハイド氏」という存在は極悪人とされているわけで、それをアタスンという弁護士が追う。アタスンの友人のジキル博士の行動はあまりに不自然で、どう見てもハイド氏をかくまっているようにしかみえない。アタスンが真相を追うというよりも、ジキル博士の方から崩れ落ちて行き、周囲に「どうなってるの?」という疑惑が拡がるという展開。それでジキル博士は不可解な情況で死去し、遺されたジキル博士の書いた二通の手紙で、すべての真相が明らかになるわけだ。

 ここには、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」に似た、マッド・サイエンティストによって「生まれるべきでなかった」存在が生み出されてしまった、という構造が読み取れるのだけれども、「フランケンシュタイン」以上に、「怪物」を生み出した存在(ジキル博士)と、「怪物」(ハイド氏)との「陰」と「陽」との関係がはっきりしている。人には、表には出すことができない隠された<負>の性癖がある。その<負>の部分の制御が取れなくなるというのは、これは普遍的な<犯罪>の原理ではあり、社会的に認知された教養人としての<表>の顔の裏側に、犯罪者でしかない<裏>の顔を隠し持っていた、ということは今の世にも多くみられる<犯罪>のかたちではあろう。というか、<犯罪>とはすべて、このようなものだということもできるのだろう。だからこそ、この作品には<普遍的>価値が付与されているだろうか。

 作品としては、その遺されたジキル博士の手紙が示されたところで「スパッ!」と終わってしまうわけで、普通のミステリー小説であれば、この手紙のあとにそれを読んだ人物(この作品ではアタスン弁護士)が、それなりの感慨を述べたり、道徳的なことを語ったりするのだと思うが、そういうモラリスティックな展開はまるで排除されている。そういうことはすべて、この作品を読む読者にまかされているわけだ。そこにこそ、この作品が一般のミステリー作品になることから、いってみれば「純文学」の地位を守っているところのことかもしれない。

 この創元推理文庫版、残念なのは、巻末の「解説」がこの作品からの二次創作のことばかりを書き、肝心のこの作品自体への解説がまるでないことだろう。


 

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■ 2018-12-22(Sat)

 3連休初日。今夜は吉祥寺に「地点+空間現代」の「グッド・バイ」を観に行く。この観劇のためにしばらく太宰治を読んでいたわけだ。舞台は19時半からと遅いので、その前に渋谷に出て、松濤美術館で始まっている「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」を観ようと計画を立てる。15時ぐらいに家を出ればいいだろうかと思って、それまでの時間はまったりと過ごす。

 ニェネントに早めのごはんを出してあげて、「今日はちょっと遅くなるからね」とお留守番をお願いして家を出る。それで電車に乗るのだが、電車が亀有に着いたところで車内アナウンスがあり、代々木上原駅で車両から発煙があったので運転を取りやめるという。千代田線全線ストップ。あららら、今週二回目ですよ。ケータイでみても、運転再開は16時30分ぐらいになる予定とある。しかし今回は常磐線の快速は動いているらしい。まだ各駅停車も逆方向の下りは動いていたので、しばらくしてやって来た下り電車で松戸まで出て、そこから快速に乗り換えた。
 日暮里で山手線に乗り換え、渋谷に向かう。けっこう車内は混んでいて、座ることはできない。それで電車が池袋に近づいたとき、わたしの斜め前に座っていた若い男性が、わたしに「どうぞ」と席を譲ろうとされる。‥‥うわっ! びっくり。ついにわたしも、席を譲られる側になってしまった。生まれて初めてのことだ。ちょっとおどろいてしまったこともあり、「いや、だいじょうぶです」と断ったのだけれども、考えたらせっかくの親切、好意を無下にしてしまったようで、そんなことしてはいけないと思う。電車が池袋駅に着いてその男性が降りようとしたので、「どうもありがとう」とお礼を言った。けっきょく、彼が座っていた座席にわたしが座ったわけになったけれども。

 渋谷に着くともう時間は16時。美術館は18時で閉まってしまうので、あんまり時間はないな。とにかくもクリスマスっぽくにぎわう渋谷の街を通り抜け、ここは静かな松濤地区へ。美術館がどこにあるのかわからなくなったが、ケータイの位置情報の助けで、無事に迷わずに松濤美術館に到着した。

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 入場して、「ふむふむ」とキャプションを読みながら観ていたら、あっという間に時間が過ぎてしまい、ま、近代日本の作品はあんまり興味がなかったので高速で通り過ぎ、なんとか閉館までに観終え、図録を買って外に出た。

 ここから吉祥寺に行くには、渋谷駅に戻るよりも、近くに神泉駅がある。むかしはときどき利用した駅だったけれども、ものすごく久しぶりにその神泉駅へ、またケータイのお世話になって到着。このあたりの空気はなんだかまるでむかしと変わっていないような気がする。神泉といえば円山町のそばで、円山町というとわたしは今でもどうしても、「東電OL殺人事件」を思い出してしまう。好奇心からあたりをちょっと歩いてみたいとも思ったのだけれども、もう時間がないので駅に入り、電車を待つ。この駅のホームからも、時代を感じさせられる「トンネル」をみることができる。

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 井の頭線で吉祥寺に着き、何か軽く食べておこうと思ったのだが、そんな手軽な店を探しているうちに劇場の開場時間が近づき、けっきょくコンビニでサンドイッチとドリンクを買ってから劇場へ行く。開場を待って座席を確保し、それからロビーの椅子に座って買ったサンドイッチを食べた。食べているとわたしのとなりに女性が座られ、わたしと同じように、どこかで買われたらしいサンドイッチを食べ始められた。ちょっと、仲間意識みたいな。

 先に太宰作品を読んでいたせいか、この日の舞台はとても楽しく、終演後、バーのカウンターを模した舞台をあとにして外に出ても、なんだかどこかで「ちょっと一杯」やりたくなってしまった。残念ながら、この日の客席にはそんなことのできるようなわたしの知り合いは、誰もいなかった。「じゃあ、自宅駅の近くで何か食べながら、ちょっと飲みましょうか」と、帰路に着く。「今夜は、今まで行ったことのない、最近開店したウチの近くの<海鮮レストラン>へ行って、刺身でも食べながら飲みましょうか」と、店の前に行く。‥‥と、看板の照明が消えていて、「あれ? この時間でもう閉店?」という感じ。でも店の中は煌煌と明かるいのでエントランスへ行ってみると、店のクローズは23時、ラストオーダーは22時30分なのだった。今は22時35分。そうか、5分遅れたか、って、閉店時間早すぎないか? やはりココは「地方」なんだな。

 あきらめて帰宅して、このあいだ買ってあったインスタントの「エビ天うどん」をちゃっちゃっとつくって食べる。ちょっと寂しかったかな? 寝るときはまた、ニェネントくんとの濃密な交友。

 

[]「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」@渋谷・松濤美術館 「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」@渋谷・松濤美術館を含むブックマーク

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 近代、そして現代に描かれた「廃墟」。近代のヨーロッパ絵画に描かれた「廃墟」は現実に目の前にあった廃墟を描き、また、その廃墟を組み合わせて「この世にはない廃墟」をあらわしていたが、それが現代に近づくにつれて、「廃墟」は「ファンタジー」に密接してくる。そしてその表現は同時代的には「ディストピア」のリアルな表現になるか。

 もちろん、ピラネージとかの表現には惹かれるが、この展示で初めて知ったウジューヌ・イザベイの版画、そして現代の元田久治の作品がすばらしかった。特に、元田久治はわたしの今考えていた「終末」に近しい。

 簡略に書いたが、刺激的な展覧会だった。久しぶりに観る大岩オスカールの作品もあったが、今は彼は海外に活動の拠点を移しているようだ。


 

[]地点×空間現代「グッド・バイ」太宰治:原作 三浦基:演出 空間現代:音楽 @吉祥寺・吉祥寺シアター 地点×空間現代「グッド・バイ」太宰治:原作 三浦基:演出 空間現代:音楽 @吉祥寺・吉祥寺シアターを含むブックマーク

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 舞台は横長にバーのカウンター。カウンターの上にはさまざまなアルコールのボトルがずらりと。その上のスペースが、バンド「空間現代」の演奏スペース。

 男4人、女3人の演者がカウンター椅子に座る、またはカウンターの上にあがり、太宰作品からの引用をコラージュ、バンドのノリのいい音楽に合わせて朗唱(?)して行く。この舞台全体が、太宰を素材としたライヴという印象になる。この舞台のためにわざわざ「太宰」の晩年の作品を読んでいたことが役に立ち、自分の中に熟成された「太宰」像というものが、この舞台の上、バーのカウンターの前で「虚」をみせてくれる。
 ‥‥そう、太宰治とは、どこか「虚」というイメージがつきまとう。いつも「死にたい」といいながら、それでも「人非人でもいいぢゃないの、私たちは、生きてゐさへすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)と、ぬけぬけと言ってしまう太宰。そういう、「何が<本気>なのかわからない」太宰の生が、軽妙なリズムに乗せて、いかにも「地点」らしい「原典を解体したコラージュ」として演じられる、パフォーマンスされる。実に楽しい舞台だ。

 もちろん、わたしの観た「地点」の最高傑作はチェーホフの「三人姉妹」だったが、この公演はそれ以来の<楽しさ>だったといえる。このディストピアな2018年の終わりに、こんな舞台を観ることが出来たのは<僥倖>というものだろう。もちろん、阿部聡子、石田大らはすばらしかったが、この日は小林洋平、黒澤あすかが印象に残った。まだ書きたいことはあるけれど、時間がないのでこのあたりで。


 

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■ 2018-12-21(Fri)

 金曜日。明日から3連休だ。そして、そのあと4日仕事に出れば、年末年始の9連休が始まる。じっくりと家でやりたいこともあるし、「明日は仕事で朝が早いからな〜」とか考えないでのんびりとできる。それでこの日の仕事が午前中に終われば、すでに連休に入ったというところで、まあ3日半のお休みに突入という感じ。今日は夕方から、となり駅の映画館で上映している名作「ミツバチのささやき」を観に行きたい。何度かヴィデオとかで観ている作品だけれども、スクリーンで観たことはないのではないかと思った(ところが今、この日記で検索してみると、10年ほど前に新宿の「テアトル・タイムズスクエア」という映画館が閉館になるときに過去の名作をあれこれと上映し、その中にこの「ミツバチのささやき」も上映されたのを観に行ったことが書かれていたし、そもそもが最初の公開のときに映画館で観たようなことも書いてある。もちろん、なにひとつ記憶にない。そもそもが3年ほど前に自宅でこの作品を見返しているようなのだが、そのストーリーとか、ほとんど記憶に残っていないのだ。あらためて<記憶を失う>ということの情けなさを思った)。

 映画の上映は4時半ぐらいからで、その前に寄ってみたい店もあるので、2時半ぐらいに家を出る。ニェネントくんの夕食はいつもは3時から4時のあいだに出してあげるのだけれども、だから今日はちょっと早めに。
 電車でとなり駅に出て、あれこれの店を見てまわるのだけれども、けっきょく何も買わずに映画館へ。それなりの数のお客さんにまぎれて座席に着いて映画を観た。‥‥ああ、今までに何度も観ていて、わずか3年前にも観た映画だというのに、根本のストーリーもほとんど記憶から消えていた。「そうか、そうだったか」と、映像から思い出すシーンもあったし、「このシーンは憶えている」というシーンもあったが、この映画のトータルなことはほとんど記憶していなかったのだ。

 映画を観終えて、「さて、今夜の食事はどうしようか?」と思うのだが、ウチには炊いたご飯がまだ一食分残っている。帰宅してから何かクッキングするというのもめんどうなので、スーパーで出来合いの惣菜を買って帰ろうと思い、駅近くのスーパーへ行く。このスーパーには、どこよりも安くておいしい「サバ缶」が売られているので、まずはそれを買い物カゴに入れ、惣菜コーナーへ行き、先週の飲み会で食べた天ぷらがおいしかったこととか思い出し、ウチにはまだ「ダイコン」がたっぷり残っているわけだし、けっこう安価だった「天ぷら詰め合わせ」を買って帰る。帰宅して、大根おろしをいっぱいつくって、買って帰った天ぷらといっしょに食べた。けっこうおいしかった。やはり惣菜のおいしいスーパーだよな、などと思うのだった(ニェネントが「わたしの食べれるものもあるのかな?」と、わたしの食卓に寄ってきたが、食卓に乗ってきて天ぷらの匂いとか嗅ぎ、「あ、こりゃわたしにはダメだわ!」と去って行った。

 寝るときにはふとんの中でこのところの就寝書、「ウンベルト・エーコの世界文明講義」を読むのだが、読みはじめるとすぐにニェネントくんがやってきて、ベッドに上がってきて「ねえねえ、かまってよ〜!」と来るので、本を読むのをやめてニェネントを抱き上げ、胸の上にのせてナデナデしてやる。ニェネントは「ウヮ〜ン、ウヮ〜ン」と、およそネコらしくないなき声をあげる。わたしがしつっこくやると、ベッドから逃げて降りて行くのだけれども、それでもまたすぐにベッドに上がってきて、「ねえ、やっぱりもう一回!」とくる。それでまた胸の上に乗せてかまってやって、それでまたニェネントはベッドから逃げて行く。そしたらすぐに、またニェネントはやってくる。‥‥この夜は、こんなニェネントとのやりとりを5回繰り返したよ。わたしとニェネントとの、いちばん濃密な時間だ。


 

[]「ミツバチのささやき」(1973) ビクトル・エリセ:監督 「ミツバチのささやき」(1973)   ビクトル・エリセ:監督を含むブックマーク

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 その、美しい映像の背後にちりばめられた<隠喩>。そして何よりも、この映画が当時のスペインのフランコ独裁政権への批判をこめた作品だということ。

 この映画については書きたいことがほんとうに山ほどあって、「どうしようか」と思ってしまうのだけれども、ちょうど今「ウンベルト・エーコの世界文明講義」を読んでいることもあり、そこからこの映画作品にリンクして考えてしまうことも多い。逐一書いているといつまでも終わりそうもない。ただ、この作品のなかには、クノップフにも通じる「象徴主義」の美学も多く取り入れられている。クノップフからみた「ミツバチのささやき」というものも、わたしには重要だ。とりわけ、月の光降り注ぐラストの、聖画のようなシンメトリー。そして、父の部屋、子どもたちの部屋の壁にかけられた絵画の意味。


 

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■ 2018-12-20(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 昨日も書いた「辺野古埋め立てストップへのホワイトハウスへの陳情」署名のことで、ある若い女性タレント/モデルさんが、Instagramで署名を呼びかけたところ、ひどいバッシングを受けているみたいだ。民放テレビの報道番組でも、「タレントが政治的意見を発した!」などと取り上げられたという。テレビなんて、アメリカとかの歌手や俳優が「反トランプ」とかの政治発言をしても「すごいね、えらいね」みたいな調子で取り上げるくせに、この日本でそういう人があらわれると「どうなの?」ということになる。というか、保守的なタレントが安倍政権の政策に対してあらわに賛意をあらわしても、まるで問題にならないではないか。逆にそのことが「タレントなのに意識高いね」みたいな見方をされてもいる。なんて国だろう。こういう動きはこの半年で急速に高まって来ているようで、それもこの一ヶ月での加速ぶりは強烈に感じる。
 わたしもこの日記にそんな政治的なことなどほとんど書いて来なかったけれども、今の日本の<動き>は常軌を逸脱していると思うし、あまりに異常だと思う。今では電車に乗っていても、「となりに立っている人は反動的な安倍政権支持者(ネトウヨともいう)なのではないか?」とか、「向かいにすわっている人が読んでいる本は『日本国紀』なんじゃないだろうか?」とか、疑心暗鬼になってしまう自分がいる。わたしは持ち歩くバッグに「肉球新党」のステッカーを貼っているし、上着の胸にはやはり「肉球新党」の缶バッジをつけている。そのうちにそのことが目にとめられ、「あんた、そのステッカー(バッジ)は何だ?」とか言いがかりをつけられ、複数の人たちに袋だたきにあってしまう、そんなことを想像してしまったりする。もはや、「ディストピア社会」ですからね。
 「日本国紀」という本には、「日本人はすばらしい」と書かれているようだけれども、男女格差の大きさが世界全体で110位だったり、報道の自由度も今は72位まで落ちている(それ以降さらに落ちている印象があるから、今は150位ぐらいじゃないかな)。海外(アジア)からの技能実習生を時給93円などという<超>低賃金で睡眠時間を奪ってまでこき使い、3年間に69人もの死者を出す国、そのどこが「すばらしい」というのだろうか。<ブラック企業>ということばがあるなら、この日本という国はもはや、<ブラック国家>である。日本人は毎年、この国からノーベル賞受賞者が出ることをも<誇り>にしているようだが、今年の受賞者の本庶さんが「研究費が圧倒的に足りない」といっていたように、将来的に大きな成果が見込まれるような研究も、予算がカットされてどんどん先細りになっているようで、もう何年か経てばノーベル賞受賞する人など出て来なくなるのではないのか。すでに「映画」の分野ではその傾向は顕著で、皆は日本には「世界のクロサワ」がいた、などと自慢するわけだが、60年代以降、特に2000年以降の日本映画の衰退ぶりは皆のよく知るところだろうと思う。この<ブラック国家>に、<希望>を見つけ出すのはむずかしい。

 今日は、夕方になって、ヤフオクで落札した日本での「クノップフ展」の図録が到着した。ずいぶんと到着が早かったし、わたしが在宅のときに届いてよかった。

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 さっそく開いてみると、この「クノップフ展」は1990年に名古屋市美術館のみで開催された展覧会で、つまりわたしは観ていないのだ。先に入手したマックス・クリンガー展の図録も、やはり名古屋市美術館で開催された展覧会で、この時期の名古屋にはそういう、独特の文化的土壌があったのだろうか。
 内容をみると、先日買った「画集」には掲載されていない作品も載っているし、写真がそれなりに掲載されているのもうれしい。買ってよかった。

        

 

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■ 2018-12-19(Wed)

 先日リンクさせた、「辺野古埋め立てストップへのホワイトハウスへの陳情」署名、まずはひとつの目標だった10万の署名が無事に集まったようだ。もっともっと、もっと増やして、20万でも30万でも集まってほしい。もちろんこのことでホワイトハウスが動くということはないかもしれないが、何らかの回答はあるのではないだろうか。そして何より、国内の運動では可視化されない「辺野古埋め立て」に反対するパワーが、どれだけの数になるかということを示す機会でもある。まだまだ10万は少ない。安倍政権が先日の沖縄知事選で示された沖縄県民の「民意」をふみにじるさまに、怒りをおぼえている人はもっともっといっぱいいると思う。「デモ」や「集会」に参加することにためらいを感じる人もいるだろうけれども、この署名はどこででも気軽にできる。まだまだ皆にこの署名に参加してほしいと思っている。Twitterをみると、ある種の反動的人々(「ネトウヨ」と呼ばれる人たち?)は、こんな署名に自分の名を載せるとアメリカにチェックされて、以後渡米認可が下りなくなるぞ、などという<バカバカしい>言説を述べたりもしているようだ。面白いことをいう人たちだ。

 さて、先日注文してあった「マックス・クリンガー版画展」の図録も、月曜日にしっかりと郵便局で受け取った。この版画展は実はすべて「国立西洋美術館」の所蔵する版画作品で、1989年というから、今から30年ほど前に名古屋市美術館で開催された展覧会の図録だった。「けっこう西洋美術館もいっぱい持っているんだなあ」と思ったりするが、「手袋」の連作も初めて全部に目を通すことも出来たし、いろいろとうれしい図録だった。
 それで、「ヤフオク」というものにまた気もちが行ってしまい、先日買ったクノップフの画集がドイツ語で読めなくって、クノップフの生涯とか代表作の解説とかもっと(日本語で)読みたいものだと思い、その日本での1990年の展覧会の図録をヤフオクでみつけ、これが700円なのでさっそく入札していたのだけれども、これもわたしが落札した。ちなみにこの図録、Amazonでは5000円で売りに出されているのだ。これも届くのが楽しみだ。

 先日、「もう買い物すると時間が取られてしまうので、仕事の帰りに途中下車して買い物して帰ろう」としたばかりだけれども、食パンがなくなったり、あれこれなもので、やっぱり夕方近くに買い物に出かけた。まずは「O」に行ってみたらなんと! 店のシャッターが降りていて、「うわっ! 潰れたのか!」と思ってしまったのだが、シャッターに貼り紙がしてあり、実はこの週末にも別の場所に移転して営業を再開するとのことだった。‥‥ま、よくこんな狭いスペース(半分は屋外)で営業しているよなー、とは思っていただけに、きっともっと「近代的な」、スーパーにふさわしい建物で再オープンされるわけだろう。どうやら新しい場所は図書館の分館の近くらしい。今までよりも多少遠くなるか。
 それでこちらはなかなかに大きなスペースの大きなスーパーの「m」へと行く。店内はすっかりクリスマスモードだし、しめ縄とか「お正月」なモノも売られている。これでクリスマスが過ぎると、店内は一気に「お正月」モードに衣替えするわけだ。

 帰り道、近くの公営のなんとかの事務所の前の空き地に、2匹のネコがいるのをみつけた。この空き地は前にも野良ネコが複数集まっているのをみたことがあり、どうやらそんな野良たちの「集いの場所」になっているようだ。

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 さて、今週も「建設的」なことは何もやらないでいるのだけれども、残りの日も「お出かけ」が多くなりそうだ。今は今週いっぱい(金曜日まで)となり駅の映画館で、あの「ミツバチのささやき」が上映されていて、この作品がスクリーンで観ることが出来るなんてすばらしいことなので、明日か明後日には観に行きたいし、土曜日は吉祥寺に「地点」の公演を観に行く(今年最後の「観劇」)。吉祥寺まで行くのならばその前に渋谷に立ち寄って、松濤美術館でやっている「廃墟の美術史」を観たいのだ。それで、そんなことをやっていたら、この2018年もおしまいですね。

        

 

[]「グッド・バイ」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「グッド・バイ」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)を含むブックマーク

        

 太宰治の未完の遺作。新聞連載のとちゅうで太宰は入水心中してしまったのだ。わずか20ページほど書かれたにすぎないけれども、つまりは「モテモテ」の男性が本業の編集に専念しようと、付き合っている女性たちと別れようとするストーリー。ユーモア小説というかコメディというか、それで男は考えて、付き合っている女たち(十人ぐらいいるらしい)に、「今度この女性と結婚するんで」とその女性をともなって会いに行き、いやおうもなく別れようという魂胆。それでその、連れて行く(ウソの)婚約者は、一方の女性が「この人じゃあわたしの負けね」とおもってしまうような、とびっきりの美人でなくってはならない。それで男が思い出したのが、普段は肉体労働で稼いでいるある女性なのだが、ちゃんと化粧してちゃんとした服を着ればものすっごい美人なのである。しかし、その声は鴉(からす)みたいな甲高い声だから、しゃべらせたらいけない。‥‥それで、それまで付き合っていた女にそれぞれ、その鴉声の女といっしょに会いに行こうという話だったらしい。それぞれの女性との「別れ」のさまを描いて行きながら、ラストにはそれなりの「オチ」も用意されていたという。

 こういう話って、あのジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」みたいじゃん?とか思って、それで特にその怪力で美人のキヌ子という女性のキャラクターも面白いし、ま、さいごまで太宰は「オレってモテちゃってさ‥‥」てな人だったわけだけれども、これはどこかカラッと明るい、面白そうな作品だったのにね。さいごにこういうユーモア小説みたいなのを書きかけで残したというのは、これは太宰治のダンディズムだったのでしょうか?


 

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■ 2018-12-18(Tue)

 朝起きて、ニェネントくんの食卓を見てみると、やっぱり昨日の<ネコ缶>はほとんど食べないまま残されていた。「ダメだったか」と思い、もうニェネントくんの朝食の時間、朝は「カリカリ」と決めているから、お皿に残っていた昨日の<ネコ缶>は廃棄して、カリカリを出してあげた。‥‥ニェネントくん、飛びつく! ちゃんとムシャムシャと食べてくれる! やっぱり、昨日の<ネコ缶>はまずいというか、「こんなものわたしに食べさせるなよ!」というところだったのだろう。‥‥わたしが、悪かった。まずは、たとえ一日、24時間のことであっても、いちど缶を開けた<ネコ缶>の保存には、気を遣ってあげよう。それでも食べてくれないなら、<ネコ缶>の銘柄を換えるとか、また考えよう。

 今朝はぽちぽち雨が降っている。そんなに寒くはない。わたしは早朝の出勤の前にテレビをみて、そのとき現在の都心(わたしの勤務先はいちおう<都心>なのだ)の気温、昼以降のこの日の最高気温の予想、そして天気予報とかをチェックしてから家を出るので、「ま、今日はそこまで厚着してなくてもだいじょうぶだな、雨もわたしの仕事が終わるころには止むだろうね」とか思って家を出る。じっさい、仕事を終えて帰宅するころには雨はすっかりやんでいた。

 しかし、帰路に乗っていた電車が北千住駅に近づいたとき、車内放送が「(どこそこの駅で)人身事故が発生し、常磐線各駅停車は(どこそこの駅より先)ストップしております」などという。「そう、こういうとき常磐線は便利で、<各駅停車>がストップしても、まるで異なる線路を走る<快速>は止まらないだね」と思い、北千住の駅で<快速>のホームへと移動してみた。‥‥するとなぜか、<快速>の方も止まってしまっていることがわかった。どうしてだろう。理由はわからないけれども、とにかくはすぐには帰れないわけだ。どうも、少なくとも一時間ぐらいは電車は動かないみたいだ。どうするかね。

 つまり、駅のホームとかでいつ動き出すかわからない電車が動くのを待つより、なにか有効な時間の使い方を考えようということで、逆方向への電車は動いているわけだから、日比谷とかに戻って、このさい、「そのうち観よう」と思っていた映画「メアリーの総て」を観てやろう、ということにわたしの中で意見がまとまった。ケータイで上映館、上映時間を調べ、「ま、いいでしょう」ということで、乗っていた千代田線の逆方向に乗り換え、日比谷まで行く。むむむ、ニェネントくんの夕食は遅れるけれども、ちょっと待っていてもらおう。

 日比谷駅に出て、映画館のある銀座方面に歩く。日比谷と銀座のあいだの地下道には、ホームレスの人が死んでいるように寝転がっていた。‥‥変な話だけれども、こうやってこんな繁華街でもホームレスの人が生きている(見た目はまるで<死んでいる>みたいだったけど)ということに、なぜか「ホッ」としてしまう。人が住むところには、そういう「隙き間」がなくってはいけないと思う。それはホームレスの人が存在することは悲しいけれども、だからといって、そういう人の存在が見えないように<排除>してはいけない。だって、今の日本という国のあり方で、ホームレスの人がまるでいない<幸福>な国だということは信じられないから。

 さて、お腹もすいたので、昼食をとりたい。南青山の住民は「南青山はランチだって1600円する<高級地>だぜ」と自慢したらしいが、銀座もランチの高い店は高い。「せめて<吉野家>だな」と歩いていて、けっこう銀座のど真ん中で立ち食い蕎麦屋をみつけ、300円台の「かき揚げそば」を食べた。<かき揚げ>がすっごいボリュームで、爽快。やはり銀座はこういう店もあって、南青山とは違うから気もちがいい。

 それで満腹になって映画館へ行き、まずはチケットを買って座席を決める。今日はウチにメガネを置いて来てしまったので、邦画だったらかまわないのだけれども、字幕を読まなくっちゃいけないから、なるべく前の方の席を決めた。‥‥まだ30分以上時間があるので、そばの教文館書店へ行ってみる。ココも当然「ヘイト本」は置いてないから気もちがいい。ぐるっと店の中をみてまわって、最近気になっていた多和田葉子の「献灯使」の文庫本を見つけ、買ってしまう。教文館は、つけてくれる本のカバーのデザインがいいのだ。

 映画の上映時間が迫り、映画館へ戻る。‥‥映画、始まる。字幕の文字はけっこうデカクって、「メガネないから」と心配するほどのことはなかった。で、映画が終わるともう4時を過ぎている。帰宅すると6時に近いだろう。これから食事をつくることなど考えられないから、ちょっと電車を乗り越して我孫子まで行き、「ショッピングプラザ」のスーパーで昨日もらったばかりの商品券とか使ってお弁当を買い、その帰り道でまたローソン100とかに寄ってから帰宅。部屋のドアを開けると、しっかりニェネントくんが「お出迎え」してくれた。「遅いじゃないのさ!」というところだろう。遅くなった夕食、今日は缶を開けたての<ネコ缶>だったので、せっせと食べてくれた。わたしは買って来たお弁当を温めて食べ、「うん、やっぱりこのスーパーのお弁当はおいしいわ!」とか思うのだった。

        

 

[]「メアリーの総て」 ハイファ・アル=マンスール:監督 「メアリーの総て」 ハイファ・アル=マンスール:監督を含むブックマーク

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 ‥‥エル・ファニング! エル・ファニング! この映画撮影時で19歳ですか。成長したものです。先日はお姉さんのダコタ・ファニングの「500ページの夢の束」を観たけれど、姉妹でしっかりやって行っていただきたい! 今回はしっかりと、シリアス・ドラマをみせていただきました。

 さてさて、それでこの映画だけれども、とにかくはメアリー・シェリーのお父さんのウィリアム・ゴドウィンは登場するし、夫のパーシー・ビッシュ・シェリーは登場するし、バイロンは登場するわで、楽しいわけです。まずはメアリーといっしょになるパーシー・シェリーが、自分の浮気の言い訳に「自由恋愛」とか言い出すあたりで、あの「エロス+虐殺」での<アナーキスト>大杉栄を思い出してしまうのだけれども、そもそもがメアリーのお父さんのウィリアム・ゴドウィンがそんなアナーキズムの始祖のひとりなわけだから、観ていてほくそ笑んでしまう。そんなパーシー・シェリーを演じる役者が、70年代ぐらいの軽薄なロックスターみたいな感じでいいのだけれども、それだったらバイロンはもうちっと「カッコいい」役者にやってほしかったかな? あれでは<道化>だ。

 映画は、その<メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」はいかにして生まれたか?>というところに主眼があるようなつくりで、しかもこの映画の中では「フランケンシュタイン」がどのような作品であるのかという<説明>は皆無で、つまり観客は「フランケンシュタイン」のことを熟知していることが求められている。つまり、<ハードル>があるのだ。‥‥もしもこの作品を観る人が、「<フランケンシュタイン>って、ボリス・カーロフでしょ?」とか、いやいや、それ以下の予備知識しか持ち合わせていなかったとしたら、この作品が何を訴えたかったのかということは、そもそも了解出来ないのではないかと思う。これはつまり、あの「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」はいかに誕生したのかという映画であって、観客がいかに小説「フランケンシュタイン」のことを熟知しているかのレベルでいえば「A〜E」で<C>以上、<B>とかのレベルを求めているのだ。いやあ、わたしはこの映画を観る前に原作を読んでおいてよかったわ〜。

 それ以外では、「おじゃま虫」なクレアの存在が面白いといえば面白いのだけれども、これはきっと、メアリー・シェリーの「ネガ」の部分をあらわしていたのだろうか。映画の中で彼女が唄う伝承歌(トラッド・フォーク)が気になって、「あれは聴いたことのある曲だが」と思ってさいごのクレジットをずっと見つづけたのだけれども、唄われた曲のクレジットは出て来なかった。残念。

 あと、さいごに「登場人物のその後」的な字幕が出るのだけれども、日本語字幕は省略し過ぎで、肝心のニュアンスが表現しきれていないね!という<残念感>はありましたね。


 

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■ 2018-12-17(Mon)

 今日もまだ、「グレの歌」をナマで聴ける!という興奮が醒めやらず、気分が何かウキウキしている。わたしの気分を反映して天候もおだやかで、仕事から帰宅しても昼間は暖房を入れずに過ごすことができた。ニェネントも陽の当たる窓際にやって来て、丸くなってひなたぼっこしている。のどかだ。

 先日、我孫子のスーパーでニェネントの「カリカリ」を買ったら、また「期間中に2500円以上のお買い物をすると500円の商品券をあげるよ」というのをやっていて、そういうのに弱いわたしはすっかり乗せられてしまい、「ニェネントのカリカリとかなら保存も効くし、この際まとめ買いしておこう」と、夕方から買い物に行くのだった。ニェネントにぴたりのカリカリは在庫がひとつしかなく、それではと、やはりニェネント用の猫砂とを買う。これで2500円突破。無事に500円の商品券をいただいて帰った。帰りはまたローソン100に立ち寄り、バナナとか買って帰る。このところ、もっぱら買い物はローソン100に頼り切っている。帰り道の空の、夕焼けに染まった雲がきれいだった。「今年もあと半月だな」とか思いながら歩き、「来年はこの国はもっと住みにくい国になるだろう。しっかりと防御策を進めておかないといけないな」と考えるが、その<防御策>はなかなか進展しない。

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 帰宅してニェネントにネコ缶を出してあげたのだけれども、あらら、ニェネントくんはほとんど食べようとしないのだ。どうしたことだろう。前にも一、二度こういうことはあったけれども、時間をおいてけっきょくは全部食べてくれた。ところが今日は夜暗くなってもまるで食べようとしない。どこか具合が悪いのかしらん、などと心配もするが、そのネコ缶は昨日缶を開けた残りで、冷蔵庫に入れておいたあいだに水分がとんでしまったというか、ぱさぱさになってしまっているわけで、そういうのが気にくわないというか、食べる気がしないのではないかと思った。ま、ひと晩このまま出しておいて、明日の朝までに食べてくれるかどうかだな。でも、これからは開けたあとのネコ缶の保存のことは考えた方がいいだろう(開けたてのネコ缶はしっかり食べてくれるから)。

        

 

[]「櫻桃」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「櫻桃」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)を含むブックマーク

 10ページに満たない短篇。この全集本で、そういう短いのはぜんぶすっ飛ばして読まないで来たのだけれども、太宰の命日は「桜桃忌」ともいわれているわけだし、ちょっと読んでみた。作者の名、「太宰」が実名で出てくるし、フィクションというよりもノンフィクションに近いのだろう。自分の家族、妻と三人の子どもたちのこと。その冒頭は「子供より親が大事、と思いたい」と始まる。家族全員揃っての食事のとき、妻は「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるやうね」といい、太宰が「それぢや、お前はどこだ」と聞くと、「この、お乳とお乳のあひだに、‥‥涙の谷、‥‥」と答えるのだ。これはじっさいに太宰の妻がそのようなことばを発したのだろう。「涙の谷」という、どこか聖書的な言葉がこの短篇のキーワードになる。太宰は、「さう言はれて、夫は、ひがんだ」と書く。仕事にかこつけて家を出て、飲みに行く。そこで櫻桃が出されるのである。ウチの子どもは櫻桃など食べたことないだろうと思うのだが、ここんところはもうちょっとうまく書けばよかっただろうと思う。でも、「涙の谷」は、いい。


 

[]「人間失格」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「人間失格」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)を含むブックマーク

        

 これが、完成した作品としては太宰の最後の作品か。
 わたしは、二十歳ぐらいのときに「ドストエフスキーを全部読んでやる!」と意気込んで、その全集を読みはじめたのだけれども、「罪と罰」を読み終えたところで挫折した(きっと、そのあとの「未成年」かなんかで「や〜めた!」となったのだろうけれども、そのことは今はどうでもいい)。そんなことをなぜ書くかというと、この「人間失格」を読んで、そんなドストエフスキーの「地下生活者の手記」のかすかな思い出がよみがえったから。‥‥もう今では、その「地下生活者の手記」がどんな小説だったかすら思い出せないのだけれども、どこか、心の底で「これだよ!」と思い出させようとする声が聞える気がする。

 いいんだけれども、ただ、太宰治の欠点というか、わたしが読みあぐねてしまうのは、いつも彼が「オレって、モテるんだよね!」ということから離れられないことで、ま、じっさいにそうだったようだから、そこから離れた<生>のあり方は彼には考え及ぶことも出来なかったのだろうけれども、「非モテ」だった(でもないのか?)自分などから読むと、「そういう心理というか境遇には気もちが通わないんだよね!」という感覚になってしまう。


 

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■ 2018-12-16(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 昨日ニェネントがおもちゃにして、どこかに行方不明にしてしまった「お肉」が見つかった。風呂のそばに置いてあったバケツの中に落とし込んでしまい、ニェネントには取れなくなってあきらめたようだ。とにかくは見つかってよかった。ニェネントくんには悪いけど、そのままゴミ袋に直行させてもらいました。

 今日はFacebookに、友だちがクラシックのコンサート(パリ管弦楽団)のことを紹介されていて、それを読んでいたらまたクラシックをナマで聴きたくなってしまった。今年はいちばん聴きたかったメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」をナマ体験出来たし、ああいう体験をもういちどしたいものだと思い立ったのだ。それで、これから開催されるクラシックのコンサートをいろいろと調べていたら、な、な、な、なんと、シェーンベルクの「グレの歌」をやるというプログラムを知った。たいへんだ。もちろん「トゥーランガリラ交響曲」は「これがいちばんナマ体験したかった」という曲だけれども、「グレの歌」もまた大好きな曲だし、その壮大なスケールをナマ体験出来ればどんなにすばらしいことだろう。いや、この曲こそ、「いちばんナマ体験したい」曲ともいえる。「トゥーランガリラ」と甲乙つけがたいのだ。それでそのネットの画面をみると、日付けが12月16日、つまり今日になっている。「なんだ、今日だったのか。すっごい残念だなー」と思いつつ、よくみてみると、その日付けはなんと「チケット発売日」のことで、つまりまさに今日、チケットが発売になったというのだ。
 ‥‥これは「偶然」といってしまうよりさらに恐ろしいことで、その「トゥーランガリラ交響曲」のチケットを入手出来たというのも、図書館からその「トゥーランガリラ交響曲」のCDを借りて、「こういうのをナマで聴きたいな!」と思って、「はたしてこの曲が日本で演奏されることとかあるのだろうか?」と検索してみたら、そのときも間近にその曲のプログラムが組まれているのを見つけ、そしてまさにその日がチケット発売日だったということがあった。今回も、検索してみたらまさに「自分が今いちばん聴きたい」曲のプログラムが組まれていて、検索したその日がチケット発売日だったということも同じで、こういう偶然が二度重なってしまうと、「何か、わたしには強力な<背後霊>がついているのではないか?」と思ってしまうのだ(わたしが「クラシック・コンサート」の予定の検索などということをやるのも、この2回っきりしかない)。

 とにかくはすぐにチケットをゲットしようとするが、もう時間も午後になっていたし、「先行予約」というものもあるし、格安の4階席とか5階席のチケットは売り切れ(ちなみに、会場は上野の東京文化会館の大ホール。もちろんまだ行ったことはない)。3階席にまだいくらか席が残っていて、「もう、これね!」とゲットした(さらにちなみに、「トゥーランガリラ」も3階席だった)。ま、そこまでに「高い」という席でもなく、「そのくらいならいいか」というチケット料金。うれしい。すっごくうれしくって、発狂しそうだ。あなた、ナマで「グレの歌」が聴けるんですよ! ‥‥その公演は来年の4月14日。それまで死なずに健康でいなくっちゃ。

 何だかもう、興奮してしまって、ウチにあるサイモン・ラトル指揮の盤の「グレの歌」を聴き、「きゃーっ!、来年にはこの音をナマで聴けるのだ!」と、さらに興奮が高まってしまうのだった。ちなみに、今回の指揮は「トゥーランガリラ交響曲」のときと同じく大野和士で、いちばん楽しみな「山鳩の歌」の「山鳩」は藤村実穂子(この人はすっごくいいらしい)、ヴァルデマール王とかトーヴェはドイツの人だ。

 それで、CDを聴きながら、やはり「山鳩の歌」のところで、泣いてしまうのだった。‥‥来年の4月14日もまた、わたしは上野で泣くのだろうか。きっと泣くのだろう。今日はもう何もやらない。出来ない。

        

 

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■ 2018-12-15(Sat)

 ‥‥ニェネントが、ゴミ箱を倒して中を漁っている。そんな卑しいマネをするネコではないはずなのに、何を漁っているのだろう?とみていると、3センチ角ぐらいの肉のかたまりをくわえ出した。あ、昨日トマトシチューをつくったとき、切り分けていた牛肉を、ついゴミ箱の中に落としこんでいたのだ。しかしさすがネコの嗅覚、わかるんだなあ。ニェネントくん、あなたも今まで「牛肉」というものを食べたことはないわけだけど、そうやって見つけたのだから食べちゃっていいですよ、どうだろう? 牛肉の味の感想は?と思っていると、これが口にくわえた肉を頭を振ってふっ飛ばし、飛ばした先に走っていってまた口にくわえ、同じことを繰り返している。ニェネントの好きな、「綿棒ふっ飛ばし」遊びと同じことをやっている。ちっとも食べないで、遊んでいるのだ。そういうニェネントは見ていてかわいいものだし、「ま、いいか」と、遊ぶニェネントを観察。たまにニェネントの取れないところに飛ばしてしまうもので、わたしが拾い出して手助けしてあげる。何となく肉も小さくなってしまったようで、そんな遊びをしながらもちょっとずつは食べちゃっているのだろうか。
 わたしもいつまでも見つづけるのをやめてしまったのだけれども、いつかニェネントも遊びをやめて「お昼寝」モードになってしまった。あの「肉」はどうしてしまったのだろう。探してみたけれども見つからない。食べてしまってくれたのならそれでいいのだけれども、どこかの隅っこで放置されたまま、腐っていってしまうのはイヤだな。‥‥でも今は寒いから、すぐに腐敗してしまうということもないだろうか。

 そう、この季節が楽なのは、調理した鍋料理とかを、キッチンに出しっぱなしにしておいても傷まないこと。夏なんかは外に出しておくと一晩でダメになってしまうから、タッパーにとって冷蔵庫に入れるとか、冷蔵庫の中を片付けて、鍋ごと冷蔵庫に入れておかなくてはならないわけで、そういうことも少しあら熱を取ってからやらなければならないし、面倒。今はそういう苦労もなく、だから昨日つくったトマトシチューも出しっぱなし。今日もそのトマトシチューで夕食で、まだ二日分ぐらい残っている。ずっと出しっぱなしで大丈夫なことだろう。

 沖縄で、辺野古への基地移設のための埋め立てが始まってしまったという。今の沖縄知事、玉城デニー氏は「辺野古基地移設反対」を公約として先日沖縄知事選挙に勝利し、この件で安倍総理に申し入れもしたというのに、完全に無視された。これは沖縄県民の意志を無視する「暴挙」で、安倍政権の「民主主義無視」「国民無視」の暴走は、このところ加速していて、もはやとうに日本は「民主主義国家」とはいえなくなってしまっている。福祉面での後退も著しく、もうこの国は「先進国」ではない。
 「辺野古」の件では、アメリカのホワイトハウスに直に陳情するネットでの署名システムがあり、年内に(正確には来年1月7日までに)10万の署名が集まれば陳情として有効になるという。どうか、その意志のある方は、下のリンクから<署名>していただきたい。

Stop the landfill of Henoko / Oura Bay until a referendum can be held in Okinawa"

 このサイトから名前(First Name)と姓(Last Name)、そしてメアドを入力し、その下の「Sign Now」をクリックすると、そのメアドにメールが送られて来ます。そのメールの中の、「Confirm your signature by clicking here.」というところをクリックすれば、署名完了です。

 もう、国内で運動を続けても効果もなく(といって、やめてしまうわけにはいかないのだが)、今は国外に訴えることが重要ではないかと思うようになった。例えばデモや集会でも、海外に報道されることを考えて英語のプラカードを提示するとか、TwitterやFacebookでも、英文で書くとかの工夫があってもいい。それでどれだけ効果があるかわからないし、まだわたしもほとんど、そういうことはやっていないのだが(いちおう、わたしのFacebookの友だちに外国の人もいるので、いちど英語でそういうコメントを書いたことはある)。
 先に書いたように、もう今の日本は「民主主義国家」ではなく、衰退へと向かう「後進国」、そして「軍事独裁国家」を目指しているとしか思えない。多くの人たちはそのことを認識せず、安倍政権への支持率はいまだ高い。それならば海外の<眼>から現状を認識してもらうことも必要だろう。もう今の日本は「G7」とか「G20」の参加国である資格はない。そんな、例えば日本が「G7」から除外されるようなことになれば、少しは皆も気づくのではないだろうか。そのようなことを望むことが「反日」であり、「非国民」といわれるような空気があることも知っている(まるで1930年代だ)。しかし、わたしは今の安倍政権下の日本の進路にまったく同意できないわけで、そのことを「非国民」といわれるなら、それはそれで仕方がない。その蔑称を受け入れるしかないのではないかと思う。これは、わたしがネコのニェネントといっしょに、今後も生きていくために選ばざるを得ない考えではある。

 で、そういうことのためにわたしとしてやらなければならないことがあるのだけれども、今日もまた長い昼寝をして、さぼってしまった。やはり今日になって昨日の寝不足が出て来たのだろうか(いちおう、太宰治の「斜陽」は読み終わった)。まるでよろしくない。明日は何とかしたいものだと、気もちだけはグルグルと廻っているのだけれども。

        

 

[]「斜陽」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「斜陽」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)を含むブックマーク

 没落する旧華族の女性を「語り手」として書かれた中編。女性の視点から書かれたというのでは、先に読んだ「ヴィヨンの妻」と共通している。

 その前半は非常に面白く読んだのだけれども、太宰自身がモデルらしい「小説家」が登場してからはまるでつまらない。あとで解説(解題)を読むと、この語り手の女性のモデルは太田静子という歌人で、太宰は彼女から彼女の日記を借り受け、この作品の素材にしたらしい。どうもこの作品の前半はほとんど、その太田静子の日記の「丸写し」らしく、つまり、わたしが読んで「これはおもしろい」と思ったのは、その太田静子の日記に対しての感想であり、太宰の創作の加味された後半は「どうしようもない」ということになる。

 「ヴィヨンの妻」では、「人非人でもいいじゃないの‥‥」という<自己弁護>がうまく功を奏した感があったけれども、この「斜陽」は、わたしには受け付けられない。例えば、次のようなところが、そんな「ヴィヨンの妻」に対応するような<自己弁護>だろうか。

 ああ、何かこの人たちは、間違ってゐる。しかし、この人たちも、私の戀の場合と同じように、かうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世に生まれて來た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きてゐる事。生きてゐる事。ああ、それは、何といふやりきれない息(いき)もたえだえの大事業であらうか。

 これは、ほとんど恥ずかしいだけの<自己弁護>であろう。ここには思索のあともなく、「愚かさ」だけを露呈しているとしかいえない。ここに、わたしがまったく好きになれない、愚かな<太宰治>なるものがある、としかいえないだろう。


 

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■ 2018-12-14(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 昨夜はそうやって、ほとんど「忘年会」かという飲み会(すっごい量の刺身、てんぷら、おでんなどをごちそうになったのだ)にまぜてもらって、久々に、家に帰るのも日付けが変わってからになってしまった。それでつまりこの日も仕事があるわけで、早朝の4時には起床しなくってはいけない。ベッドで寝ついたのはおそらく1時もずいぶんと過ぎてからのことだと思うので、睡眠時間は3時間に満たない。それはキツいな、というところで、やはり10分でもたくさん寝ておきたい。それで4時のアラームで目覚めたのだけれども、「あと15分寝ていたい!」とか思って、ケータイのアラーム機能をいじっているとそれがうまく行かなくって、そんなことやっているうちに目が覚めて、「もう起きてしまおう!」という感じになってしまった。

 出勤のため外に出る。もう冬至も近いこの時期、わたしが家を出る時間はまだ真夜中の暗闇だが、この日は空も晴れ澄み切っていて、今は半分欠けている月の光が冷たく冴えている。地平線近くには雲が白くたなびいていて、暗い空の中で美しい対比を見せてくれる。目をこらすと多くの星がみえるのだが、今は「ふたご座流星群」のピークの時期で、そんな流れ星をみるつもりでいつまでもじっと空をみていれば、きっと流れ星もみることができるのではないかと思う。

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 睡眠時間が短かかった割にはそこまで眠くもならず、出勤の電車の中で「寝よう」と思っていたのだけれども、さすがに本を読んだりとかはしなかったのだけれども、まるで眠くなることもなかったし、仕事をやっていても眠くて困る、ということもないのだった。これはこのところ睡眠の取り過ぎだったのを、ここで帳尻を合わせることになったということだろうか。

 今日は職場で「図書カード(千円分)」をいただいた。うれしいことはうれしいが、これがわたしの冬のボーナスだと思うと悲しくもなる(ということは、この夏に同じく図書カードをいただいたときにも思ったことだった)。
 帰宅して、昨日買ったクノップフの画集をじっくりと眺める。同時代の画家の作品も並列して紹介されていて、その関係性のようなものも示されている。例えばバーン=ジョーンズ、シュトック、クリムトなど。とにかくは彼の作品として初めて目にする作品がたくさん掲載されていて、そんな中でも、今までまるで観たことのなかった彼の風景画も多く掲載されているのだが、そこに描かれた「何気ない風景」が、やはり「この世界ではないどこか」という感じがする。こういう作品にもクノップフの不思議な個性がにじみ出ていると思い、クノップフのことをもっと好きになる。

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 いろいろと心を奪われる作品、気に入った作品が多いのだけれども、今は次にあげる、風景の中の人物の絵がいちばん気に入っている。

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 この人物には、影が描かれていない。まるで草むらの中で宙に浮いているようにみえる。しかし、その横の大きな木にも影がない。そのせいで、この絵に描かれた光景全体が、「この世ならざる世界」のように思えてしまう。男の立つポーズが絶妙だ。この世界に惹き込まれる。
 気になって、「他にクノップフの画集は入手出来るのか」と思ってAmazonでチェックしてみたが、どうやら日本で出ていた画集、日本での展覧会(1990年のもので、この展覧会はわたしも観ているはずだ)の図録など、どれもプレミア付きの高額になっている。そんな中にわたしが入手したこのドイツ語の画集も出ていて、見た限りではこの画集が、今入手出来るクノップフの画集ではいちばん「豪華」なようだ。そして、Amazonで売られているものは、わたしが昨日購入した10倍以上の価格がついていた。これはスゴい「お買い得」だったわけだ。良い買い物をした。

 画集を眺めているだけで時間が経ってしまい、また今日も何もやらないで過ぎていってしまう。「これはいけない」と考え、これから継続してやり続けるためのきっかけになり得るのではないかという「材料」を、となり駅に買いに行くことにした。ついでに本屋に立ち寄って、今日もらった図書カードで何か本を買いたいというのもある。

 もう外は暗くなっている中を駅まで歩き、電車でとなり駅に行く。まずは本屋に行き、ほんとうは文庫の「ナボコフの文学講義」の下巻を欲しかったのだが見当たらず、別に欲しいと思っていた村田沙耶香の「地球星人」を買った。この書店はわたしがポイントカードを持っている書店のチェーン店で、金曜日はポイントが倍増されるはずなのだが、この店ではポイントは3倍になるのだった。そういうことならば、先日買った「ウンベルト・エーコの文明講義」もこちらの店で買えばよかったとか、みみっちいことを考えたりする。
 もうひとつの用件の買い物もとなりのビルですませ、帰宅。「今日はしっかりクッキングをやろう」と、久々にお得意(?)のトマトシチューをつくる。冷蔵庫の奥でもうぐちゃぐちゃになりかけていたトマトも死亡寸前で救出し、成仏させてあげた。いつものおいしいトマトシチューになり、充実した夕食。あとはテレビとかをみて、昨日あんなに寝不足だったのにけっこう遅い時間まで起きていたのだった。

        

 

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■ 2018-12-13(Thu)

 このところ寒くってあまり買い物とかに出かける気にもならないし、今は部屋でやりたいことも待ち受けているので(なかなか実行に移さないのだけれども)、買い物に時間を取られるのもイヤだ。それで、これからはできるだけ、仕事の帰りにとなりのとなりの駅で途中下車して、その駅の目の前にあるスーパーで買い物をしてから帰るようにしようかと考えた。前にも何度かやったことだけれども、先に「あれとこれを買うのだ」としっかり決めて、その上で「何か<お買い得>なものはないか」と店内をぐるりと一周してみる。ま、これはどこででもやっている普通の買い物のやり方なのだけれども、これを全速力でやると、十分に一本の電車の、次の次の電車に間に合う、つまり15分ぐらいで買い物を終えることができる。しかもこの駅前のスーパーもウチの北の方にあるスーパー「S」の姉妹店で、木曜日には基本全品1割引きなのだ。
 そういうわけで、今日はストックのなくなってしまった「鶏ガラスープの素」(今ではわたしのキッチンの必需品なのだ)を買わなければならないし(実はあと、酒もなくなったので買いたいのだ)、仕事の帰りに買い物をした。このスーパーのどこに何が置かれているかだいたい把握しているので、ちゃっちゃっと買いたいものを買い、ちゃっちゃっと店内を一周し、「今日はカップ麺が安いな〜、でも、カップ麺は塩分過多でからだに悪いからやめとこ!」とか思いながら無駄遣いもしないで買い物を終え、思惑通りに2本あとの電車で帰路に着くのだった。
 それで帰宅してみると、郵便受けに郵便物配達の不在連絡票が入っていた。先日ヤフオクで落札した、マックス・クリンガー展の図録だ。先日も「現代日本文學体系」を買ったときにやはりさいしょは「不在連絡票」が入っていて、ネットからその日のうちに再配達してもらった。今日もその路線でやろうと思ったら、もう「14時〜16時」の再配達はアウト、になっていた。今日は夕方から出かけるので、16時までに再配達してくれるのならOKだと思っていたのだけれども、仕方がない。あとの日に「この時間は再配達があるから家にいなければ」と待っているよりも、仕事の帰りに駅前の郵便局で受け取って帰るのがいちばんいいだろうと思い、そのようにリクエストした。

 さて今夜は、久しぶりに三鷹の「SCOOL」へ行き、山田せつ子さんのソロ・ダンスを観る予定。とても楽しみにしている。あまりに楽しみにしすぎていたせいか、17時ぐらいに家を出れば充分に間に合うのに、一時間まちがえて16時ぐらいに家を出てしまった。駅の近くまで来て、「あ、まちがえた」と気づいたのだけれども、ここで家に戻ってもしょうがない。とちゅうで道草くってゆっくり行きましょうと、そのまま電車に乗る。
 まずは、新御茶ノ水駅からJRに乗り換えるとき、駅のそばの某(中古・輸入)CDショップに立ち寄ってみる。もう、今のわたしがチェックする棚といえば、「ブリティッシュ・トラッド/フォーク」の棚ぐらいのもので、「ふむふむ」と中古盤や新譜、再発盤をチェックしておしまい。ま、欲しい盤はいろいろとありましたが。
 それで、JRの中央線に乗って三鷹へ。まだまだ時間は余っているので、「本屋にでも行こうか」と考えるのだが、新本を買うならば、先日ポイントカードをつくった、あの「ヘイト本」皆無のチェーン店で買いたい。ケータイで調べたら三鷹にはそのチェーン店はないようなので、「じゃあ古本屋に行こう」と、やはりケータイで検索してみる。すぐに駅の近くの古本屋が見つかり、その店に行ってみることにする。むむ、ネット検索の出来るケータイは便利だと、年寄りには感慨深いものがある。

 それで、三鷹駅に到着し、その検索した古本屋へ行ってみる。すぐに見つかったその店はきれいに整頓、ジャンル分けされた店で、並んだ古書も美本、リーズナブルな価格だった。ときどきどこかで見かけるような、通路にも古書の山が積み上げられて「ここはゴミ屋敷ですか」と思わせられるような古書店とはまるでちがう。気もちよく店内を見てまわり、特に、美術書コーナー、美術展図録や画集のコーナーが充実しているのに感激。その<画集/図録>コーナーでまず気になったのが、「松本竣介展」の図録。東京で開催された展覧会ではないのでまるで知らなかったものだが、ボリュームのあるその図録は「最上級の松本竣介画集」という感じで、欲しくなってしまったのだけれども、他の本をみていると、わたしの好きなフェルナン・クノップフのドイツ語版の画集があるのを見つけた。本自体がビニールでしっかりと包まれていて、その内容をみることは出来ないのだけれども、内容が「期待外れ」ということはないだろう。そこまでに高価ではない。というか、「安い!」といっていい価格だろう。「これはいい出会いだ。この本を買おう」と、レジへ持って行った。帰宅して中を見るのが楽しみだ。

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 それで駅に戻り、「軽く何か食べておこう」と、駅構内のファーストフードな蕎麦屋で「かき揚げそば」を食べた。これがいい感じのそばの味、おつゆの味、かき揚げのサクサク感と、なかなかにおいしいものだった。

 蕎麦屋を出て、駅構内を歩いていると、目の前にDさんのお姿が。後ろから声をかけてあいさつする。その先にはEさんもいらっしゃった。もちろん、お二人も山田せつ子さんの公演を観に行かれるのだ。人を待たれているというお二人とひとまずはお別れして、会場の「SCOOL」へ。中へ入ってみると、やはりそれなりに顔見知りの人たちが集結されている。「今日は終演後はまっすぐ帰宅か」という路線は崩れたようだ。

 とても素晴らしかったソロ・ダンスが終わり、けっきょくFさんにも誘われて「打ち上げ」に。近くの蕎麦屋〜居酒屋に行ったのだが、参加者人数も多く、座敷があるような店でもなかったので、三つのグループぐらいに分断されて座る。わたしはFさんとかGさん、そしてHさんといっしょの席に座り、「あれ、この四人って、いつかの公演の帰りにいっしょだったメンバーじゃん?」とか思う。話題は最近の演劇とかの話になったので、わたしはかなり門外漢。でもダンスや演劇の客層の話とかで、たとえば今日の山田せつ子さんの公演とかで、若い客がいない(来ない)という問題とか。ま、客席30人という小規模な公演で、早くから予約を受け付けていたから、年配のファンが先に予約キャパを埋めてしまって、じっさいに公演が近づくとか始まってから、「じゃあ行ってみようか」という若い人が入れない、とかいうこともあるだろうと。
 でも、山田せつ子さんも、どちらかというと「舞踏」の時代の<旧世代>に支持されているわけで、わたしも最近行ったそういう、まさに「舞踏公演」の舞台で、その観客があまりに「舞踏」よ!というクラスタというか、そういうところにちょっと嫌気がさしたのも事実。ただ、山田せつ子さんはそういう「舞踏」の世界など軽く乗り越えた表現をされているわけで、たしかに、「ダンス」に興味を持つ若い人たちに観てもらいたい人ではある。山田さんがこうやって、SCOOLという小さなキャパのスペースで連続して公演をやられる意欲というか、そこにある実験性というものにはすばらしいものがあるのだけれども、やはりいちど、大きな劇場でのソロ公演をやられるのがいいのではないのか。山田さんはそういうことが出来る、すばらしいダンサー/舞踏家であるはず。

 それでこの夜はDさんやEさんとまるでお話し出来なかったことは残念だし、山田せつ子さんともあまりお話できなかった。ただ、前回お会いしてお話ししたときに、わたしのイヴェントに参加していただいていた、ある女性ダンサーの、その後の消息をお聞きしたいと思っていて、ようやくそのことを山田さんにお聞きしてみたのだけれども、やはり彼女は「突然に」消息不明になられたということで、山田さんもそのあたりはご存知ではないのだった。というか、その山田せつ子さんの語るその女性ダンサーへの短い言葉から、わたしの感覚というのがいかに「あまちゃん」であるのか、ということを痛切に思い知ることになった。‥‥そうなのだ。(これは書いてしまってもかまわないだろうが)その女性ダンサーは、あの著名舞踏家の<愛人>だった、というのが本当のところなのだろう。彼女が突然に消息不明になってしまった背後に、そういうこともまた読み取るべきだろうか(山田せつ子さんは、その彼女といっしょの舞台に立たれたこともあったのだった)。

        

 

[]山田せつ子ダンスソロ@SCOOL vol.4「破壊の人」山田せつ子:ダンス @三鷹・SCOOL 山田せつ子ダンスソロ@SCOOL vol.4「破壊の人」山田せつ子:ダンス @三鷹・SCOOLを含むブックマーク

 今のわたしには、「ダンス」のことを語る語彙がほとんど消えてしまっているのだけれども、この公演は素晴らしかったと思う。「ダンス」とは何か、そこに「自己表現」というのではない、ただ「ダンス」として自律した、身体の動きがある。逆にそんな地平から、「<私>とは何か」ということが問いかけられるような舞台だった。

 「スタイル」や「様式」に耽溺するのではなく、ここにはただ「表現」があった。しかもそこに「わたし語り」というものもない。山田さんの前の公演にあった「表現主義」的なところも払拭され、まるでこの時代から「ダンスとは何か」と問いかけられるような舞台だったと思う。そのディテールを記憶しているわけではないけれども、「良い舞台だった」と、いつまでも記憶することになる公演だったと思う。


 

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■ 2018-12-12(Wed)

 昨日は、フランク・ザッパが出て来たような夢をみたのだけれども、今日はそれにつづいて、ゴジラの出て来る夢をみた。‥‥夢ではわたしには家族がいて、けっこうしっかりしたマンションみたいなところに住んでいる。そこにゴジラが来るのだ。そのときわたしの視点は建物の外から建物全体をみているのだけれども、その後ろからゴジラが登場し、建物はガラガラと崩れ落ちはじめるのだった。みていて、「あ〜、こりゃ助からないな」とか思っているのだけれども、この夢には続きがある。実は先ほど来襲したゴジラは、近年の「シン・ゴジラ」に出て来た<超>デカいヤツで、コイツは身長50メートルとかあるというわけなのだが、みていた<夢>はそこで最初からまたやり直しスタートになるのだけれども、今度やって来たゴジラは<初代>ゴジラで、身長は15メートルと、さっきの巨大ゴジラの三分の一もないのである。そうすると、わたしの住まいはそんな<初代>ゴジラの攻撃などものともせず、つまりビクともせずに無事なのである。「住まいがゴジラに壊されなくってよかったね〜」というところで目覚める、変な夢だった。
 それで、関係ないのだけれども、ゴジラのことでいつも思ってしまうのは、例えゴジラが東京に来襲しても、ゴジラのあの体重からしたら東京の地盤なんて<ぬかるみ>みたいなもので、東京湾から上陸して来ても、ズブズブとその体が自身の体重で沈んでしまうはずだと思うのだ。というか、ゴジラが東京湾に足を踏み入れたとたん、ゴジラは東京湾のヘドロに足を取られ、ヘドロの奥深く沈んでしまうだろう。「ゴジラ対ヘドラ」はヘドラの勝利に終わるわけだ。‥‥ん? ゴジラって泳ぐんだっけ?
 とにかく、ゴジラくんが思う存分にふるまい、活躍するためには、強固な岩盤の地面が必要だろう。そう思う。

 今日は、午前中は雨だった。雪になってもおかしくないような寒さで、関東でもどこかでは雪になっていたはず。仕事を終えて帰宅する頃には雨もやんでいたのだけれども、部屋の中も冷えきってしまっていて、寒い。寒さに弱いはずのニェネントは意外と元気で、リヴィングの出窓の上に跳び上がって外を眺めたりしている。わたしは「さあ、やることをやるぞ!」と意気込んで、和室に設えた仕事スペースの明かりをつけたりして準備したのだが、やはり和室はあまりにも寒く、暖房の効いたリヴィングから動こうという気にもならない。なんとか和室に移動してはみたけれども、「ちょっと本でも読んで」と、ベッドに上がって布団にもぐり込んでしまう。‥‥これはもう、計画の挫折の典型的なパターンで、そのままやはり眠ってしまうのだった。それで目覚めるともう7時半で、「いかん! 夕食も取っていないではないか!」と起き出して、もう何もつくる気にもならないので、まだまだいっぱいあるインスタントのお赤飯で侘しい夕食にした。

 食事を終えるとあとは寝るだけになってしまうのがわたしの悪い習慣なのだが、今日は午睡もとったあとだったし、思いのほか読書がはかどった。今、寝るときに読んでいるのは「ウンベルト・エーコの世界文明講義」なのだが、この夜読んだ「絶対と相対」の章はとても刺激的で面白く、「高かったけれどもこの本を買って良かった」と思わされた。この章は2007年のエーコの講演からの書き起こしみたいだが、エーコの語り口にヨーロッパの情況への危機感のようなものがにじみ出ていて、その<危機感>は、わたしも今の日本の情況に当てはめて読めるように思った。この章はもういちど、しっかりと再読したいと思った。

 そう、今日は通勤のときに太宰治を読みはじめていて、「どうだろう」と、ちょっと探りを入れるような気もちもあったのだけれども、やっぱりそういうだらしない<文士>の、わたしが好きになれないところの道楽話にうんざりするところもあるにはあった。しかし3〜4篇読んで、その中では「ヴィヨンの妻」がとっても面白く、いろいろと思うところもあった。順番にこの全集本のすべての作品を読むのではなく、次はあいだをすっ飛ばして「斜陽」を読んでみよう。

        

 

[]「ヴィヨンの妻」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「ヴィヨンの妻」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)を含むブックマーク

 いくら太宰を今まで読んだことがなかったといって、この「ヴィヨンの妻」というタイトルぐらいは知っている。それで読みはじめたら出てくる小説家、おそらくは太宰自身がモデルだと思われるぐ〜たら男が「泥棒」と呼ばれるところから、「そうか、<ヴィヨン>というのは<フランソワ・ヴィヨン>のことなのだったか!」と、今になって初めて知るのだった。

 太宰治といえば、麻薬中毒、自殺未遂の繰り返しなどと、いわゆる<文人>の負の部分を一身に引き受けたような人物という先入観もあり、そのことが今の今まで彼の作品を読もうとは思わなかった理由でもあるわけで、この全集本で他に読んだ作品でも、特にタイトルは上げないけれども「やっぱりイヤだな〜」と思う作品もあった。それでも、この「ヴィヨンの妻」は、とっても面白く読めたし、心に残る作品だった。

 もちろん、この作品に出てくるしょ〜もないダメダメの文士の大谷は太宰治自身のことだろうが、この作品の語り手をその愛人(実際上の妻)の「さっちゃん」に置いたところ、その「さっちゃん」の、終戦後の混沌とした社会での「労苦をものともしない」ようなエネルギッシュな生き方に、小説として読み手に共感を呼ぶところがあると思った。

 どうもここでは、太宰自身もほんとうの自分のダメダメなところは暴露していない風でもあるけれども、ま、彼女にいわれてしまうように「人非人」ではある。しかしこの作品で、太宰=大谷として、その太宰=大谷は、さっちゃんの愛情をこの小説の文章に書きあらわし、ま、懺悔の気もちがあるのかどうかはわからないけれども、そこで「いっしょに生きよう!」という気もちは読み取れるだろう。やはりラストの、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」というのは名文句だろう。
 それで思ったりするのは、やはり今の「世間」のことで、ネットなどでみていると、「自分は<普通>の人だ」という人たちが、そういう<普通>という基準から外れた人たちを攻撃する。主にそれはマイノリティの人、そして日本国籍ではない人たちへの攻撃、「ヘイト・スピーチ」というかたちを取ることが多いようだ。おそらくそういう自称<普通>の人たちが、この「ヴィヨンの妻」を読むならば、ここに登場する「ダメ男」「人非人」の大谷という男のことを許容することはないだろうと思う。わたしは、「わたしは<普通>だ」という人というのはいちばん恐ろしい気がする。そんな「わたしは<普通>だ」という視点からすれば、この「ヴィヨンの妻」なども否定されてしまうことだろう。

 もちろん、わたしだって、目の前にこの作品の大谷があらわれたら、出来るだけ避けて通り抜けたいと思うかもしれない。「さっちゃん」、えらいね〜、とはいうかもしれない。でも、この作品が残るべきなのは、さっちゃんがえらいからではない。ここに「世界」のひとつの姿があると思うからなのだ。ここに「文学」のひとつの姿があると思うからなのだ。


 

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■ 2018-12-11(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 夜中に夢をみていて、なんだかフランク・ザッパみたいな人物が出て来ていたのだけれども、それ以上のことはもう憶えていない。それで(関係ないけれども)今日は<燃えないゴミ>の収集日で、いらなくなった掛時計をゴミの収集場所に出した。この時計には茨城時代から長いことお世話になったものだ。今日もまたまた寒い。先週のあの暖かさは、つかの間のまどろみだったのか。やはり寒いのは嫌いだ。また今日も、仕事を終えて帰路に着く頃には鼻水が流れ出る。

 こんなに寒いというのに、今日は夕方から我孫子の図書館へと歩いた。実は再来週に劇団「地点」の舞台で「グッド・バイ」を観る予定なのだが、この舞台がつまり、その標題の「グッド・バイ」をはじめ、太宰治の作品のテキストを、いかにも三浦基さん(「地点」の演出家)らしくもコラージュしてみせてくれるらしいので、「ど〜れ、それでは間に合うように太宰治の作品を読んでおこうか」と思った次第なのである。だから、読んでいるシュティルナーはしばらくお休み。

 そろそろ暗くなる時間に、凍えながら外に出て、テクテクと歩いて図書館へ。まずは太宰治の本を探すのだけれども、意外と「グッド・バイ」の収録されているのって、なかなかないのである。ちなみに、わたしは生まれてから今まで、まったく、これっぽっちも<太宰治>を読んだということがないので(普通、教科書に「走れ、メロス」とかが収録されていることも多いらしいのだけれども、わたしが使った教科書には載ってなかったのだ)、太宰の本ならば何でもいい、というところはあるのだけれども、やはり条件として「グッド・バイ」が収録されていること。そういう基準で探すと、これが筑摩の「太宰治全集」の「小説」の最終巻ぐらいしかないというか、この巻には「ヴィヨンの妻」とか「斜陽」とか、そして「桜桃」、「人間失格」と収録されているものだから、「これでいいや」と、この全集本を借りることにした。
 あと、今ぼちぼちと読んでいる「ナボコフの文学講義」に合わせて、その講義の中で取り上げられている作品も借りてみようかと思う。今読んでいるのはジェーン・オースティンの「マンスフィールド荘園(たいていの邦訳では「マンスフィールド・パーク」となっている)」なので、それを読みたいとも思うのだけれども、ちょっと長い。それで、その次に取り上げられているディケンズの「荒涼館」にしようか、ということで探してみたのだけれども、わたしはその「荒涼館」って、せいぜい200ページぐらいの中編だろうと勝手に想像していたわけで、じっさいに岩波文庫から出ているのを見つけてみると、あなた、厚みが2センチもありそうな分厚い文庫本で全4巻もある。わたしゃ「プルースト」を読もうと思ったわけではありません!と、即却下。それで、「これだったらぜったい薄いだろう」という、スティーヴィンスンの「ジキル博士とハイド氏」を借りたのだった(これは文庫本で150ページぐらいね)。

 帰り道、ショッピングセンターに寄り、そろそろ残りの少なくなってきた、ニェネントくんのとっても高価な、ヘルシーな固形食を買う。「わたしも何か買おうかな」とスーパーを一周してみるけれども、ピンと来ないので店を出て、いつものローソン100でバナナとか値引きされたもやしとかを買って帰る。今夜は冷凍してあった鶏レバーを解凍して、ちゃっちゃっと「レバ炒め」で夕食。ちゃっちゃっとつくった割りには美味だった。
 寝るときにはいつものようにニェネントがやって来て、いっしょに遊ぶ。この夜は何だか、いつもよりもニェネントと心が通い合うような気がして、楽しいひとときだった。それできっとニェネントにも楽しかったのか、しばらくしてからまたやって来て、「また遊んでよ〜!」とのリクエストで、それでわたしの胸の上でからだをなでてあげると、ニェネントは盛大にゴロゴロとのどをならすのだった。ニェネントもうれし、わたしもうれしい時間だった。

        

 

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■ 2018-12-10(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 この週末、土曜日曜と少なくとも一日に十時間以上(十二時間になるか?)寝ていると思うのだが、それで先日「睡眠の取り過ぎは寿命を縮める」という記事をみて(といっても中身は読まず、コワいから見出しをみただけだが)、「ヤバいなあ」と思ったりする。そういうのでいつも思い出すのが南アフリカの偉人、ネルソン・マンデラ氏のことで、彼は27年間も牢獄にあり、過酷な労働にも従事していたというのに、95歳という長寿を全うされたわけである。これはやはり、そういう意味では規則正しい監獄での生活が、彼の寿命を延ばしたのではないのかと思うことになる。
 ‥‥しかし、このことを思うといつも同時に思い出すのは葛飾北斎のことで、食事はいつも店屋モノ、生涯に転居を90回以上繰り返し、けっこう多くの旅を重ね、およそ「規則正しい」生活をおくったとは思えない人物なのだけれども(しかも今より一般に寿命の短かった<江戸時代>の人だというのに)、彼は88歳の長寿を全うされている。これはどういうことなのか(これは逆に、江戸時代の店屋モノとかがいかにヘルシーなものだったか、ということかもしれないが)。このことはわたしだけでなく疑問に思う人も多かったようで、Wikipediaをみると、「ここまで乱れた生活を送りながらも彼が長命だった理由として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説がある」などという記述がある。
 ‥‥ホントかいな。それだったら、皆が皆クワイを喰い漁ることになるだろうと思うのだが。ま、北斎が酒も煙草もたしなまなかったこともあるのかもしれないが、それだったら逆にヘヴィースモーカー、酒浸りで長寿だった人間もいるわけで、ま、つまりは「こうだったから長寿」という法則はないのではないか。おそらくは遺伝的なものがけっこう作用しているのではないのか。そうするとわたしの両親はどちらも80歳過ぎまで存命していたので、わたしもそういう期待は出来るのではないのか。

 ところが今日のニュースをみると、75歳以上の人の医療費を補助する「後期高齢者医療制度」というのを廃止するぞ、とかいっている。すごいぞ。この国はもう「福祉」という概念をすべて廃止する方向に向かっているようで、先日は国立大学の学費が値上げされるという報道もみたし、つまり「あなたが富裕層ではないのなら、もう幸福な<生>はあきらめなさい!」というのがこの日本という国なのだ。ま、日本はこれから、第二次世界大戦後〜1960年代のアジア・アフリカ諸国みたいなものになるのだね。
 先日ノーベル賞を受賞された(今日、その授賞式があった)本庶さんも、「今の研究費の国家援助額では何も出来ない」というようなことをおっしゃっていた。わたしはそういう理科系のことはよく知らないが、文科系の衰退もひどい。これは国家援助とかそういうことではないかもしれないが、例えば映画という分野でなら、いまだに日本人は「映画には<世界のクロサワ>がいた」とか、<小津安二郎>とか、<宮崎駿>とかの過去のビッグネームの名をあげるけれども、今の日本映画のほとんどは、プロデュース・システムのもと、売れたマンガの実写化に夢中になっているように見える。わたしなどが現在の邦画で<観たい>と思うような映画はほとんどない。文学の方でも、例えば海外文学の翻訳は減少し、今は韓国における翻訳に追い抜かれているという。ま、まだまだこういうことはいろいろとあって書ききれないのだけれども、とにかくは<日本=ディストピア>という空気が拡がっている。

 さて、「そんな世の中に吞まれてしまってはいけない」と、わたしはようやく多少、ハッスルしてみるのだった。今日は多少作業を進め、「そうか、先の見えないままに進めて行って、<そのうち何とかなるだろう>」という進め方は(わたしの場合)ぜったいダメなのだと悟った。その作業のさいしょの段階から、<すべて見通せる>仕事を進めなくてはいけない。

 それで今日はめっちゃ寒かった。ついに<冬>が来た。仕事をやっていて、わたしの仕事は外に出たり屋内に入ったり、屋内でも暖房の効いているところ、効いていないところを行ったり来たりするもので、温度差がきびしい。ついに仕事が終わる頃には悪寒がして、鼻水がダラダラと鼻から流れ出るのだ。明らかに「風邪」の前期症状。ヤバい。帰宅しても部屋は寒いので、電気ストーブを引っぱり出して電源を入れて温まる。わたしはやはり、暖房は<電気ストーブ>がいい。‥‥すると、そんな部屋の中の「温度差」に気づいたのか、ニェネントがベッドの布団の中からやって来て、電気ストーブの前の<ベスト・ポジション>にすわり込んでしまうのだった。

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 そんな、ストーブの前に居座っているニェネントの背中にさわると、すっごく暖かい。というか、熱いぐらいだ。「あんた、<焼き猫>になっちゃうよ!」って思うのだけれども。

 今日は注文していた「現代日本文學体系」の「現代詩集」も無事に届いてうれしいのだけれども、夕方にネットをみていたら、ちょうど一年前に神奈川近代美術館の葉山別館で、マックス・クリンガーの版画展が開かれていたことを知った。まったく知らなかったしくやしいのだけれども、一年前の今ごろはちょうど転職した時期で、死ぬほど金のなかった時期だったから、おそらくはとっても葉山とかまで出かける余裕はなかったことだろう。それでも、その図録とかがあるなら欲しいなと思ってチェックしたのだけれども、もっと昔の、1989年だかに関西で開かれた「マックス・クリンガー展」の図録が、ヤフオクで安く出品されていたものですから、ついつい<入札>してしまった。ま、おそらくはわたしが落札することでしょう。今はとつぜん、マックス・クリンガーに夢中になってしまったわたくしでした。

        

 

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■ 2018-12-09(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 昨日「冬将軍」のことを書いたので調べてみたら、これは日本でだけ言われていたり、日本で言われはじめたとかいうのではなく、そもそもが1812年、ナポレオンのフランスがロシアに攻め入った「ロシア戦役」で、フランス軍が撤退始めたことをイギリスの諷刺画家が「GENERAL FROST Shaveing Little BONEY」と表現したことから来ているらしい。フランス軍はじっさいには「寒さ」のために撤退を決めたのではないのだけれども、その撤退中に厳寒に襲われ、これは悲惨なことになったそうだ。フランス軍をはじめとした大陸軍は60万から5千までの兵士しか残らなかったという。しかしこの戦いでロシア軍も(おそらく)45万の兵士が死んだといい、しかもこの戦闘地域に住んでいた住民らの死者はもっと膨大な数で、全体としておそらく数百万の人が命を失ったというから驚きだ。以上Wikipedia情報によるが、「ロシア戦役」というのがそんなにまで悲惨な戦争だったとは、まったく知らなかった。とにかくはロシアはこの厳寒気候のため、攻め込まれても戦闘を冬まで持ち込めば、相手を撃退することが出来たのだ。そこから、日本では「シベリア寒気団」を「冬将軍」と呼ぶようになったらしいけど、つまりは万国共通の言葉、らしい。

 それで今日は昨日よりもなお寒い。寒いので、ニェネントはいつまでも布団から出て来ないのだった。

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 そしてわたしも、「寒いな〜」と午前中から酒を飲んだりしていたのだけれども、それで昼になって「ちょっと横になって本でも読もう」としたら、大方の予想通りにそのまま寝てしまうことになり、なんと、昼食もとらないままに4時近くまで眠ってしまったのだった。これはまったくだらしないというか、けっきょくこの日も、やりたいことは何もやらずに過ぎてしまうのだった。

        

 

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■ 2018-12-08(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 寒くなった。慣用句でいえば「冬将軍」がやってきた、というところだけれども、いったい何で「冬将軍」なんていうんだろうか。「冬将軍」などというと、どうしてもロシア、というか旧ソビエト連邦のこととか思い浮かべてしまって、それって、戦後しばらくはソ連の存在が日本にとって「脅威」だった、ということを言い表わしていたのではないのか、などとは思ってしまう。いや、戦前だって、「日露戦争」というのがあったわけだし、その頃からの慣用句なのだろうか。‥‥そう、だって、いくら猛暑になっても、「夏将軍」が来た、なんて言わないじゃないですか。日本の南には、日本の脅威になるような国はないもんね。いちど、ちゃんと調べてみたい語句だ。

 今日は土曜日で仕事は休み。こういう日にこそ、やりたいことをたっぷりとやりたい、いや、やらなければならないとは思っているのだけれども、昨日ちょっとそういう作業をしてお手軽に「充足感」を得てしまったというか、またダラダラとした一日をおくってしまう。例によって午後からは長い「午睡」。12時頃から3時頃まで寝てしまう。そうすると目覚めたあともぼんやりとして、何をやる気も起こらないのである。けっきょく、一日中ずっと、パジャマから着替えることもなく、部屋から一歩も外に出ないで生きてしまった。しかもほとんど何もやらない。最悪。

 いくら何でも「これではいけない」と、夜になってから、この「はてなダイアリー」を「はてなブログ」に移植するテストをやってみた。「はてな」のメッセージで、「今は混み合っているので、場合によっては移植に数日かかるかもしれない」などという「脅し文句」が書かれていたのだが、とにかくはそれはそれでやってみるかね、と「実行」。
 ‥‥ま、2時間もかからずに「移植」は完了したわけだけれども、この新しい「はてなブログ」のレイアウト・デザインはいやだ。そういうのでは、今のこのブログのデザインもわたしがあれこれといじってここまで持ってきたわけで、新しい「はてなブログ」もそういうカスタマイズが出来ないわけでもないようだけれども、アレですね、肝心のHTML語法をわたしは忘れてしまっているわけですから、「ココからあなたの好きなようにアレンジしてみて下さい」といわれても、「えええ〜っ!」となってしまうのです。
 そんなこんなで、「はてなブログ」へのお引っ越しはもうちょっと保留。ま、いまだに「はてなダイアリー」に固守してるユーザーなんて、わたしぐらいなものらしくって、「はてなダイアリー」のトップページに行くと、このわたしのブログへのリンクがで〜んと出ている。そのおかげで最近は来訪者さんが多くなっているようだけれども、ま、そんなに面白いブログではありませんからね。ごめんなさい。

 けっきょく、なんだかんだで何もしないで夜も遅くなり、「もう寝ましょうか」とベッドにもぐり込み、また昨日のようにKinksの「Village Green Preservation Society」をかける。‥‥すると、ニェネントがにゃんにゃんとなく。いってることはわかる。「うるせえんだよ!」ということだ。どうやら、どう考えても、ニェネントは音楽が嫌いなのだ。「どうしてるの?」とのぞき込むと、普段は入り込まない段ボールの陰に入って、「騒音」から逃れているみたいだ。‥‥そんなにイヤなら、わざわざこの和室にいないでも、リヴィングの方にでも避難すればいいと思うのだけれども、かわいいニェネントくんは、どうしてもわたしのそばにいたいのだ。それはうれしいことではあるし、何だかこうやって寝るときに音楽をかけるのはニェネントのストレスになってしまうのか、それだったら、こうやって寝るときに音楽をかけるのはやめるべきかな、などと考えてしまうのだった。
 ‥‥それでも、そのうちにあきらめたのか、まだ音楽がかかっているうちにニェネントはベッドの上に跳び乗ってきて、「ねえねえ、遊んでよ!」と来るのだった。‥‥むむ、あなたはやはり、史上最高にかわいいネコなのだ。

        

 

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■ 2018-12-07(Fri) このエントリーを含むブックマーク

 わたしの部屋には、和室とリヴィングにそれぞれ、丸いアナログな時計を掛けてあるのだけれども、リヴィングの時計がどんどん遅れるようになってしまった。電池を取り替えてもダメ。しばらく遅れたあとはまたしばらくはちゃんと遅れずに動くので、ガマンして使っていたのだけれども、「やっぱりダメだな」と、新しい時計を買おうと思っていた。先日もとなり駅前の量販電器店でチェックして、千円も出さないで買えるのもあるからよっぽど買ってしまおうかと思ったのだけれども、「ま、もうちょっと様子をみて」と思っていた。それが、勤め先でいらなくなった時計を廃棄するという。特に不具合があるわけではなく、ただ「新しい時計をもらったから」という理由らしい。「ハイ、捨てるならわたしに下さい!」と挙手をして、もらって帰った。部屋に設置して、ばっちりと稼働。ま、遅れたりすることもないだろう。早まって「お買い物」をしなくってよかった。
 やはり部屋には壁掛けのアナログ時計というものは必要なもので、まず和室の時計はつまり寝室なわけだけれども、夜中に目覚めてしまったときに、「いま何時よ?」と見るには壁のアナログ時計がいちばん役立つ。瞬時に今の時間がわかる(たまに、時計の長針と短針とを見間違え、「あれ?こんな時間なの?」と思ってしまうことはあるけれども)。それでリヴィングだってやっぱり、アナログ時計は役に立つ。それはパソコンの右上にめっちゃ正確な現在時刻はいつも表示されているし、テレビだって早朝とかは時刻表示されている。それでも、「ひと目ちらっと見ただけでわかる」のがアナログ時計。数字を読み取るよりも、「パッ!」と、瞬間的に図像として時間を認識出来るのがアナログ時計の良さだ。ま、こうしてアナログ時計を愛好するのも世代的なもので、今の若い人はデジタル的な時刻表示の方がしっくり来るのかもしれない。
 とにかくは新しい時計(といっても相当に中古だが)を歓迎し、これで廃棄処分にする古い時計には「今まで、一ッ時も休まない労働、ご苦労様でした」と、お礼をするのだった。

 今日は金曜日。週末の連休が始まる。この週末には何の予定も入っていないし、家でゆっくりと、自分のやりたいことに集中したいものだと思う。ちゃっちゃっと仕事を終えて帰宅し、買ってあった肉まんで昼食。夕方近くまでいつものようにダラダラと過ごしたが、そのあとは「いいかげん、やろうと思っていることをやろう」と奮起して、ちゃんと和室に設えた作業スペースに立ち向かった。‥‥そうか、こういうところに<難関>があるのか、などと考えもし、「まずはコレをやろう」ということにトライしてみて、まだそのさいしょの段階だけれども、いい感触を得ることは出来た。もんだいはこのあとの段階なのだが。

 夕食の時間になり、ニェネントにごはんをあげ、自分も昨日買った焼きそば麺を使って「あんかけ焼きそば」をつくる。なんとか白菜を消費したいのだ。白菜ともやしをメインに、調味料は「鶏ガラスープの素」だけでやってみた。これが薄味でわたし好みで、もう「鶏ガラスープの素」、万能、という感じがした。

 夜、寝るときにラジカセで、Kinksの「Village Green Preservation Society」を、すっごく久しぶりに聴いた。歌詞が聴き取れる。これはすばらしいというか、よくこういうことを歌にしたものだと思う。ここにはまさに「思想」がある。‥‥と思っていたら、4〜5曲目で寝てしまったのだが。

        

 

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■ 2018-12-06(Thu) このエントリーを含むブックマーク

 先月今月と、わたしには珍しく本屋で本を買うことが多く、この一ヶ月で1万円ぐらいは本を買っているだろう。だいたい今まで、1年間で5千円ぐらい本を買うかどうかというような暮らしだったというのに、驚いてしまう。それで本というものは買いはじめると「蒐集癖」みたいなものが目覚めるというのか、「あの本も欲しい、この本も欲しい」となってしまう。実は今、先日亡くなられた詩人・翻訳家の入沢康夫の詩作品「わが出雲・わが鎮魂」を読みたくなり、図書館からその「わが出雲・わが鎮魂」が全文掲載されているという、ゴージャスな筑摩の「現代日本文學体系」の「現代詩集」を借りているのだけれども、これがとってもいい、というか、今ウチにはあの「昭和文学全集」の「昭和詩歌集」というのがあるわけだけれども、そこには入沢康夫は入っていないし、収録作家数は多いのだけれども、どの作家も切れ切れ、わずかずつの詩作品しか掲載されていない。それがこの筑摩版「現代詩集」は各作家ともその「詩集」基準の選択で、詩集ごとの作品がすべて掲載されているものが多い(中には<抄録>もあるが)。それはすばらしいことだし「昭和詩歌集」には掲載されていない夭折の詩人、富永太郎のほぼ全詩作品も載っているのがうれしい(ま、富永太郎は大正末期の人だから、「昭和詩歌」には入らないのだが)。そう考えると、この「現代詩集」は手もとに所蔵しておきたくなってしまい、Amazonでチェックすると、古本で千円ちょっとで買えるのだった。ちなみに、この本は今でも絶版になっているわけではなく、新本で買うと6千円以上するのである! ‥‥そんなもので、ついポチってしまった。
 今はまだ、ナボコフの「淡い焔」も欲しいし、今読んでいる同じナボコフの「文学講義」も上巻しか持っていないので、どうせ下巻も買うことになるだろう。そうすると続いて「ロシア文学講義」も上下巻買わずにすますことはできないだろう。ま、これは来年の話だ。

 さて、今日は雨。久しぶりに傘を使った。早朝に家を出るときには周辺は雨ではなかったが、勤務地でメトロから外に出るとそれなりに降っていた。そのあともずっと雨は降りつづいていたけれども、わたしが仕事を終えて帰るとき、その勤務地のあたりの雨はやんでいた。でも、これが自宅駅に戻るとけっこうな雨。‥‥今日は内科クリニックで定期診察を受けて、そのあと買い物に歩こうと思っていたので、雨はいやだ。しかし、天候というものは西から変わってくるものだから、勤務地でもう雨が降っていなかったのだから、このあたりの雨もそのうちにやむことだろうと予測する。‥‥まさにその予測が当たり、2時頃には雨もやんでしまった。傘をさして買い物に行くのはイヤですからね、雨が上がってうれしい。

 内科クリニックの午後の診察は3時からだけれども、下手にそれに合わせて3時にのこのこと出かけると、大ぜいの人がすでに待合いにあふれていて、1時間はたっぷりと待たされてしまうことになる。それで今日は3時半をすぎた頃にクリニックへ行ってみた。多少は待たされたけれども、20分ぐらいのもの。これからはこんな感じでゆっくりと行こう。
 それで今日は、前回の血液検査の結果を知らされる。やはりヘモグロビン値がちょっと低く、つまり「貧血」気味なことは前回通りなのだけれども、多少改善されたようでもあり、今はサプリメントで鉄分を補給しているので、「もう少し様子をみましょう」ということ。その他、肝機能などにまるで問題はなし。OKである。

 病院のあとは北の安いスーパーまでお買い物。この冬は野菜の価格が安定しているというか、例年よりも安値になっているらしい。冬というと白菜ですね〜。でも、今ウチには白菜が半分のヤツが冷蔵庫に押し込められているので、買わない。白菜は長持ちするし経済的なのだけれども、料理のキャパがいまいち狭いというか。それで今日はキャベツをひと玉買ったりしたのだが、帰宅してみると、家にはその白菜と今日買ったキャベツとで相当なボリューム。「ああ、キャベツは半分に切ってあるヤツでよかったな」とは思うのだけれども、さいしょから半分に切ってあるキャベツは、保存しておくと、その半分に切った切り口が黒っぽく変色して傷んでくるのでイヤなのだ。と、いうことで、これからは「キャベツを食べるか」「白菜を食べるか」の二者択一でやっていかなくってはならないのか。夕食は、その買って帰ったキャベツを千切りにして、昨日半額で買った焼豚につけあわせて、火力をまるで使用しないお手軽夕食になった。

        

 

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■ 2018-12-05(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 昨日、「花は遅かった」という歌謡曲のことを思い出して書いたのだけれども、そのあと、どうでもいいのに気になって調べたりしてしまった。これは正確には「花はおそかった」とひらがなのタイトルで、美樹克彦の1967年のヒット曲だった。1967年ならわたしは中学生だな。この「美樹克彦」という歌手のことは少し記憶にある。なんか、アクション入れて歌う歌手の元祖みたいな。歌詞は「青い空なんか大っ嫌いだ」じゃなくって、「大っ嫌いだ! 白い雲なんて!」っていうのだった。
 それでこの歌でひとつ思い出したのが、多分70年代になってから、庄司薫という作家(男性)が「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説で芥川賞をとって、わたしも当時読んだのだけれども、その冒頭のところに自分の名前が「かおる」なもので、この「花はおそかった」に絡めて学校でからかわれた、みたいなことが書かれていたはず。この「赤頭巾ちゃん気をつけて」なんていう小説、今ではわざわざ読む人もいないとは思うけれども、当時はその口語体(しゃべりことば)の文体とかで話題になって、すっごいベストセラーになったのだったっけ。このくらいむかしに読んだ本だと逆に多少なりと記憶に残っているわけで、ま、タイトルがサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」から来てるんじゃないかといわれた通り、ふにゃけたサリンジャーというところの小説で、これはそのサリンジャーを訳したりしている村上春樹のご先祖さまじゃないか、というところもあるのではないのか。

 さて、どうでもいい話はおしまいにしよう。昨日はほんとうに暑いぐらいの陽気だったのだけれども、今日もけっこう温かな一日ではあった。‥‥と書いてしまったら、もう他にあまり書くこともない、つまり何もない、何もしない一日になってしまった。いちおう読みさしの本のことでも書いておくと、通勤のときに読んでいるシュティルナーの「唯一者とその所有」、今読んでいる上巻の方は当時の社会情勢の批判、批評みたいな内容で、そのシュティルナーの肝心の「唯一者」についての言及はというと、これは下巻の方に集中しているようだ。とにかくは読むのがめんどうで、さっさと切り上げて下巻に移行したくなってしまう。それで読みあぐねてしまうといっしょに持って歩いている「ナボコフの文学講義」の方を読んでしまうわけで、まだちょっとしか読んでいないけれども、こっちは「すこぶる」付きに面白い。冒頭からナボコフらしいユーモアに満ちあふれ、このナボコフのユーモアのセンスというのは、この時代に彼が書いていた「プニン」の中にみられるユーモアではないだろうか。そういえば「プニン」の主人公は大学教授だったっけ? 自分のことを重ね合わせて書いていたのだろうか。やはり「プニン」はちゃんと本屋で買って、手元に持っていたい本だと思う。
 もう一冊、寝るときにちょっとずつ、「かまってよ〜」とすり寄ってくるニェネントくんに邪魔されながら読んでいるのが「ウンベルト・エーコの文明講義」で、これまた講義もので、これまた面白い。どうも、ナボコフとエーコというのは、どこか世界の見方というものに近いものがあるというか、講義だからそれなりにユーモアとウィットを交えながらというのは誰もがやることだろうけれども、そのセンスがどこか似通っている気がする。

 さて、明日はもうちょっと生産的な一日にしたいものだ。

        

 

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■ 2018-12-04(Tue)

 今日は暖かくなるという天気予報だった。仕事のあとは新宿に出て映画「ヘレディタリー/継承」を観ることにしてある。いちおう予定を立て、新宿でちょっと買い物をしてからそのあとに代田橋に行くつもりでいる。帰るのは7時頃になってしまうだろうか。ニェネントくんの夕食が遅くなってしまうけれども、今日はがまんしてもらおう。ごめんなさい。

 仕事を終えて、たしかに昨日などよりは暖かい。今日の昼食は久しぶりに日高屋でとんこつラーメンにしたのだけれども、汗をかいてしまった。新宿に出てこれも久しぶりに歌舞伎町の方のシネコンへ行き、先にチケットを買う。もうチケットの買い方を忘れてしまっていて、買うのに苦労してしまうのではと心配したけれども、大丈夫、そんな心配はいらなかった。
 映画は12時50分からで、まだ4〜50分時間があるので、近くの郵便局へ行って預金をおろしておこうと思う。いちばん近い郵便局は新宿区役所の中の郵便局。風俗街だね、という道を歩いて行くと、まだ真っ昼間だというのにわけのわからない呼び込みというか、そういう人物に声をかけられたりする。もうちっと<健全>な道を歩こうと道を変えようとしたら、目の前に白黒ブチのかわいいネコが跳び出してきた。路地に入って行ったネコをちょっと追うと、わたしの方を振り向いてしばらくじっとしていた。人慣れしているのか。きっと野良ネコだと思うのだが、このあたりの飲食店の人たちとかにかわいがられているのではないだろうか。おそらく食べものに不自由することもないんじゃないかな(ちょっと写真がボケボケだけれども)。

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 郵便局で用事を済ませ、映画館へ戻る。座席にすわると、ポップコーンとコーラの匂いが匂ってくる。「シネコンの匂いだな」と思う。平日だけれども席はけっこう埋まっている。ウチの近くの映画館のように年配の人がほとんど、というわけでもない。映画が始まって、それなりに「怖い」というか「うへぇ〜」というシーンも多いのだけれども、気にしていたわけでもないのだけれども、わたしの隣にすわっていた人が、そういう怖いシーンでは自分の頬に手をあてているのに気づいたのだけれども、そう思うとわたしも同じに頬に手を伸ばしていたわけで、「あれ?」と思って反対側にすわっている人の方をちらりと見ると、その人も頬に手をあてていた。どうも、人は映画の怖いシーンを観ているとき、無意識にその頬に自分の手をあててしまうのではないかと思った。これは何だろう。「怖いぞ」と思って観ていて、その怖さが耐えられなくなったときに、すぐに自分の目を覆ってやって、画面を見ないようにするための準備ではないのか。そんなことを考えた。

 「いや〜、まいったね〜」という映画が終わって外に出ると、映画館に入ったときよりもたしかに暖かくなっている。歩いていると汗ばみそうな陽気だ。目的の店に寄って目的のものを買い、次は京王線に乗って代田橋へ行き、これも久々の「N」へ寄る。店に入ってみると、この日はオーナーのBさんがひとりでやっていて、火曜日はCさんは休みなのだと。それと、今は店は5時からにしたのだということ。まだ5時にはちょっと時間があったのだけれども、かまわないというので、この陽気ですからね、まずはビールで。それからまたいつものHabana Club7年のロックをいただいて、伝える用事も伝えたので、ちょっと早めだけれども5時半ぐらいにおいとまする。
 帰りの電車はまさに「帰宅ラッシュ」で混み合っていた。やはり家に着いたのは7時ちょっと過ぎだった。ニェネントくんに「遅くなってごめんね」とごはんを出してあげるが、「遅くなってごめんね」と声に出して言うと、わたしが小さかった頃に流行った、「かおるちゃん、遅くなってごめんね」という歌い出しの歌謡曲のことを思い出してしまうのだった。もう誰が歌っていたのかは思い出せないけれども、たしか「花は遅かった」とかいうタイトルで、おそらくその「かおるちゃん」は病気で死んでしまうのだね。それをボーイフレンドの男の子が歌っているという曲で、とちゅうに「大っ嫌いだー!青い空なんて!」って語りの、絶叫が入るのだった。ま、そんなことはどうでもいいとして、わたしも昨日の残りの「水炊き」で夕食にする。
 夜になっても部屋の中でも何だか暖かくて、テレビをみるとなんと、この日は気温が20度を超えたのだという。半袖で出歩いてもいいぐらいの日だったのか。この夜はパジャマも着ないでふとんにもぐり込んだのだけれども、寒いとは感じなかった。それで昼間観た映画のこととか思い出したりして、なかなか寝つけないのだった。

        

 

[]「ヘレディタリー/継承」アリ・アスター:脚本・監督 「ヘレディタリー/継承」アリ・アスター:脚本・監督を含むブックマーク

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 「この50年のホラー映画の中の最高傑作」だとか、「21世紀最高のホラー映画」だとかの文句も目にしたし、とにかく怖いのだと評判の映画。わたしはとにかくトニ・コレットが主演を張ってるし、ガブリエル・バーンも出ているっつうので観に来た。トニ・コレットが映画で主役を演じるのって、ひょっとしたら、わたしが彼女のことを知るきっかけになった彼女の(ほぼ)デビュー作「ミリュエルの結婚」以来のことなんじゃないか知らん(テレビではけっこう主役をやっているらしい)。監督のアリ・アスターという人のことは知らなかったが、それもそのはず、この作品が長篇初監督作品なのだという。それでタイミングよく、このアリ・アスター監督の好きな映画監督というのがネットに上がっていたのだけれども、それをみるとまずはベルイマン、そして溝口健二、エドワード・ヤン、そしてハネケ、ポランスキーなどの名が上がっていた。今どきの監督には珍しい(?)すっごい「アート指向」なのではないか。

 さてそれでこの映画本編。これが「ローズマリーの赤ちゃん」だとか「エクソシスト」みたいな、思いっきり「オカルト・ホラー」なのだった(ちょっと、「オーメン」も入ってるか)。これが「ある家族」の物語なわけで、その祖母が亡くなったというところから話は始まる。残された夫婦の夫ピーターがガブリエル・バーンで、妻のアニーがトニ・コレット。ここに高校生の長男と13歳の長女とがいる。話で祖父は分裂症で餓死し、アニーの兄も過去に自殺していたということ。それで残された家族の中でもあれこれと、表に出て来ない確執があるわけだ(一気に吐露されるシーンもあるのだが)。とにかくはパーティーに出て気分の悪くなった長女は、長男の運転する車に乗って帰宅する途中、車の窓から顔を乗り出したところで道路に立つ柱に頭をぶつけ(切断して)死んでしまう。‥‥ま、いろいろあるのだけれども、アニーは近所で開かれている<降霊会>なるものに出席し、祖母の霊を感じるのだが‥‥。ストーリー展開はかなり面白い。

 むむむ、「怖い」というよりも、わたしにはちょっと「えげつない」とか「禍々しい」とかいう感覚だったのだが、もう途中からは「これでもか!」という連続技になるし、トニ・コレットは楳図かずおのマンガの登場人物みたいな顔するし、かなり強烈な映画ではあった。わたしは途中の家族間の確執が浮き彫りになってくるあたりで「あれ? 黒沢清みたいだな」とも思ったのだけれども(「ハネケみたいだ」という展開もあった)、そんなところでは収まらないというか、ラストにはもう笑ってしまったのだった。

 観終わってしまえば、これはもう「やりすぎ」というか「オーバードゥース」というか、トゥーマッチな感覚。シリアスにやろうとしているのか、ハリウッド的にやりたいのか、ちょっと判別がつきかねるところがある。とにかくは、「霊」を表わすつもりだろうが、あのいかにもハリウッド映画的な飛び交う「怪光」というのはよろしくない、とは思うのだった。


 

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■ 2018-12-03(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 また新しい週。というか、もう12月だから、今年ももう残り4週間ぐらいのもの。天気予報では今週は、特に前半はそんなに寒くはならないだろうといっているのでありがたい。
 それで先週末に「タコの心身問題」を読み終えたので、今週からは何を読もうかということなのだけれども、ほんとうはナボコフの短篇とか柄谷行人の「近代日本文学の起源」とか読み直したい本もあるし、とちゅうで放り投げている「昭和文学全集」もある。しかし、朝になって「そろそろ出勤」というとき、先日引っぱり出して置いてあったシュティルナーの「唯一者とその所有」が目に入り、「これにしようか」と、バッグにつっこむ。この本は、先日読んだデュシャンの本に、実はデュシャンはシュティルネリアンだったのだと書いてあったのが気になって、本棚の奥から引っぱり出した古い本。それと「仕事の合間に読める文庫本を」とか考えて、「ナボコフの文学講義」も。

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 今はそれに加えて、家で空いた時間には入沢康夫の詩を読みたいと思っているし、それと、寝る前には「ウンベルト・エーコの世界文明講義」をちょっとずつ読みはじめている。ナボコフのはまだ編者による「前書き」とJ・アップダイクの書いた「序文」しか読んでいないが、とっても面白そう。そしてエーコの文明講義もまた面白そう。つまり今は、ナボコフとウンベルト・エーコという、大好きな偉大な先達の講義を受けている気分。

 昨日ローソン100で長ネギとか豆腐とかも買ってあったので、今日はお手軽に「水炊き」の夕食。明日は新宿に映画を観に行って、ちょっと買い物をして、それから代田橋の「N」に寄ってみるつもり。そんなに遅くはならないつもりだから、今日残った「水炊き」が明日も夕食のあかずになるだろう。

        

 

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■ 2018-12-02(Sun)

 今日は夕方から、池袋で勅使河原三郎&佐東利穂子のダンスを観る。これがベルクの「抒情組曲」とシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」との生演奏で踊る。「抒情組曲」も好きな曲だけれども、特に「月に憑かれたピエロ」の生演奏は聴きたい。ダンスがなくっても足を運びたいようなプログラムだ。

 昨日は昼間に午睡したあと、ちょっと悪寒がして鼻水ダラダラ、くしゃみを連発するという「風邪の初期症状」を演じていたのだけれども、暖かくして早めに寝たおかげか、今朝起きたらどうってことなかった。そう、ニェネントのネコ缶が残り少なくなったので、午前中にテクテクと買いに歩く。ネコ缶買いのついでに図書館に寄り、先日亡くなられた入沢康夫氏の詩集を借りた。帰りにローソン100で値引きされて150円のお弁当、そしてバナナなどを買い、昼食はその貧相なお弁当と、ウチにまだまだいっぱいあるインスタントのお赤飯と。

 そろそろ出発と、2時半頃に家を出たが、すぐにキジトラの野良と出会った。このコはよく出会うコだっただろうか。キジトラのコはこの辺りに複数いるようなので、しかとはわからない。

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 池袋に3時半ぐらいに到着。舞台の開演は4時。まず劇場の受付けで、来年の2月のNibrollの公演のチケットを買う。それで客席に入ろうとしたら、そこでAさんと出会った。ま、Aさんはここの人だから、お会いするのはあたりまえといえばあたりまえ。ちょっとお話をしてわたしは客席へ。‥‥なんと! 今日の席は前から2番目という、舞台には超至近距離の席だった。「それもいいだろう」と思ったのだが、実は「月に憑かれたピエロ」では舞台の上の方に日本語字幕が出ていたらしい。まったく気づかなかった。観ながら、「歌詞の内容がわかればいいのにな」とは思っていたのだが。‥‥ま、ダンサーらの近くで観ることが出来たのはそれはそれで善し、としますか。

 舞台が終わって5時半。どこかで夕食を取って帰ろうかと思ったのだけれども、これからいろいろと物入りというか、この先の支出予定が立て込んでいるので「ここは節約」と、まっすぐ帰宅。電車の中で「あ、そういえばもう<モヤモヤさまぁ〜す>の始まっている時間だな」と気づき、初めてケータイのテレビ機能を使ってみた。これはけっこう使える。

 帰宅して食事を待ちくたびれたニェネントくんに「ごめんね」と遅い食事を出してあげ、わたしはまたもやインスタントの赤飯に<サバ缶>という、質素というか貧乏な食事。それでネットを見ていたら、今公開中のホラー映画「ヘレディタリーなんとか」という映画にトニ・コレットが出演していることを知り、これをチェックしてみたら、なんとトニ・コレットは<主演>なのだった。彼女の主演作なんてあの「ミュリエルの結婚」以来のことではないかしらん。ほかの出演者をみると、実に久しぶりのガブリエル・バーンの名前も見える。これはぜったいに観に行かなくっては!と思うのだった(すっごい怖いらしいのだが)。

        

 

[]「ロスト・イン・ダンス-抒情組曲-」「月に憑かれたピエロ」勅使河原三郎・佐東利穂子:ダンス マリアンヌ・プスール:歌 勅使河原三郎:演出・振付・照明・美術 ハイメ・ウォルフソン:指揮 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウス 「ロスト・イン・ダンス-抒情組曲-」「月に憑かれたピエロ」勅使河原三郎・佐東利穂子:ダンス マリアンヌ・プスール:歌 勅使河原三郎:演出・振付・照明・美術 ハイメ・ウォルフソン:指揮 @池袋・東京芸術劇場 プレイハウスを含むブックマーク

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 第一部がベルクの抒情組曲に合わせて、主に佐東利穂子のソロ・ダンス。たしかに彼女の身体能力は高く、「すっげえダンス!」というところはあるのだけれども、ひとつにはあまりにこの曲への「あて振り」が強く、もちろんそれはそれで魅力的ではあるけれども、振付のパースペクティヴとして画一的というか、奥行きがないのではないかと思った。短いパートだけれども、ここでは勅使河原三郎のダンスが逆に際立ったような気もした。生演奏だということはあまり意識出来なかった。

 そして第二部が「月に憑かれたピエロ」。こちらの主役は勅使河原三郎で、そもそもがドラマ的な展開の、ストーリーを持つ楽曲ではあり、わたしは観る前から、「マイム的な展開にならなければいいのだが」とは思っていたのだけれども、残念ながらそんな杞憂が的中してしまい、ダイレクトにそういうドラマ的な、マイム的な展開。舞台美術とかで「いいね」と思うところもあったのだけれども、今のわたしが観たいと思うような舞台ではなかった。しかし、ここでは脇役的な佐東利穂子のダンスに惹かれるところはあった。

 ここでよかったのはやはり、何といってもその音楽の生演奏で、初めてナマで聴く「月に憑かれたピエロ」に感激。すばらしいヴォーカルとバス・クラリネットの音が、Art Bearsの1stみたいだと思った。これだけでも、今日この舞台を観た甲斐があったと思う。


 

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■ 2018-12-01(Sat)

 11月29日は、ニェネントのお母さんネコのミイの命日だった。だというのに、わたしはそのことをすっかり忘れてしまっていた。わたしの中では「ミイの命日は12月1日ではなかったか」という記憶があって、それが今日この日ではないかと思い出したのだが、この日記をみてみると、それは11月29日なのだった。ミイの八回忌。忘れていてごめんなさい。ミイのことを思い出して、また泣いた。

          f:id:crosstalk:20181202094828j:image

 12月になって、つまり2018年も残りはあと一ヶ月になった。それで年末年始の勤務スケジュールもわかったのだけれども、つまり12月29日から1月6日まで、9連休ということになるようだ。わたしは日給月給というか時給制なので、休みが多ければ収入も少なくなって厳しいのだが、「ま、何とかなるか」というギリギリのところだろうか。
 それで、今持っている通勤定期が12月25日で切れてしまうのだけれども、それならば26、27、28の3日間は定期なしで通勤し、その後の9連休が明けてから新しく定期を買った方が得ではないかと思った。ところが、来年は今の天皇が退位して「平成」が終わり、その時期には「10連休」というのが用意されている。それでカレンダーをチェックしてみると、そうやって年末に今の定期の期限を調整しても、モロにその10連休にぶっつかってしまうのだった。つまり、そうやって来年1月からの定期にしても、4月末にはその10連休と重なってしまうので、どっちにせよ「通勤しないのに定期を持っている」という状態になってしまう。それだったら、この年末に無理して3日間を「定期なし」で通勤するというのは馬鹿げている。このまま定期を連続して買っていけばどうせその10連休にぶつかるから、そのときに、連休明けまで定期を買わないで過ごせばいいのだ。などという細かい計算をするのだった。年末年始には定期を使って出かけることもあるだろうし(こういうのは低収入者には大事)。

 今日はまた、惚けたように寝てばかりいる一日になってしまった。「やりたい」と思っていたことをやり始め、いちおう「出きるではないか」と思ったことも、のんびりしてしまう原因になってしまったのか。午前中にいちど買い物に出て、パソコンにへばりつき、午後に1時から4時まで昼寝。そして夜は9時頃には寝てしまうのだ。‥‥この頃は、前に買ったラジカセで、寝る前にCDをかけて聴いているのだけれども、そのCDの2曲目ぐらいになったところで、もう寝てしまうのだ。

 読んでいた「タコの心身問題」を読み終えた。昨日、「くまざわ書店」で「ウンベルト・エーコの世界文明講義」を買ったので、来週からはこの本を読む?

        f:id:crosstalk:20181202094718j:image       

 

[]「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」ピーター・ゴドフリー=スミス:著 夏目大:訳 「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」ピーター・ゴドフリー=スミス:著 夏目大:訳を含むブックマーク

 著者は「科学哲学」という分野の研究者/教授であり、優れたダイバーでもあるという。そこで海中で観察したタコの生態から、「ヒト」につながる意識の起源について考察を進めて行くという書物。

 正直言って、タコについての記述、「知能が高い」とか「それに比して寿命があまりに短い」などということは、前に買って持っている「タコの教科書」という本で読んでいたので、目新しい情報ではなかった。ではそこで、意識、心を持つ「ヒト」との分岐点はどこにあり、つまり「意識、心」とは何だろう?というこの本の主要論点は、あまりに「推論」が多くて、そこまでに納得が出来なかったのも確か。むしろ、最近研究が進んでいるという鳥類の知能について、もっと読んでみたいと思うのだった(タコのコロニーについては面白かった)。


 

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