ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-12-12(Wed)

 昨日は、フランク・ザッパが出て来たような夢をみたのだけれども、今日はそれにつづいて、ゴジラの出て来る夢をみた。‥‥夢ではわたしには家族がいて、けっこうしっかりしたマンションみたいなところに住んでいる。そこにゴジラが来るのだ。そのときわたしの視点は建物の外から建物全体をみているのだけれども、その後ろからゴジラが登場し、建物はガラガラと崩れ落ちはじめるのだった。みていて、「あ〜、こりゃ助からないな」とか思っているのだけれども、この夢には続きがある。実は先ほど来襲したゴジラは、近年の「シン・ゴジラ」に出て来た<超>デカいヤツで、コイツは身長50メートルとかあるというわけなのだが、みていた<夢>はそこで最初からまたやり直しスタートになるのだけれども、今度やって来たゴジラは<初代>ゴジラで、身長は15メートルと、さっきの巨大ゴジラの三分の一もないのである。そうすると、わたしの住まいはそんな<初代>ゴジラの攻撃などものともせず、つまりビクともせずに無事なのである。「住まいがゴジラに壊されなくってよかったね〜」というところで目覚める、変な夢だった。
 それで、関係ないのだけれども、ゴジラのことでいつも思ってしまうのは、例えゴジラが東京に来襲しても、ゴジラのあの体重からしたら東京の地盤なんて<ぬかるみ>みたいなもので、東京湾から上陸して来ても、ズブズブとその体が自身の体重で沈んでしまうはずだと思うのだ。というか、ゴジラが東京湾に足を踏み入れたとたん、ゴジラは東京湾のヘドロに足を取られ、ヘドロの奥深く沈んでしまうだろう。「ゴジラ対ヘドラ」はヘドラの勝利に終わるわけだ。‥‥ん? ゴジラって泳ぐんだっけ?
 とにかく、ゴジラくんが思う存分にふるまい、活躍するためには、強固な岩盤の地面が必要だろう。そう思う。

 今日は、午前中は雨だった。雪になってもおかしくないような寒さで、関東でもどこかでは雪になっていたはず。仕事を終えて帰宅する頃には雨もやんでいたのだけれども、部屋の中も冷えきってしまっていて、寒い。寒さに弱いはずのニェネントは意外と元気で、リヴィングの出窓の上に跳び上がって外を眺めたりしている。わたしは「さあ、やることをやるぞ!」と意気込んで、和室に設えた仕事スペースの明かりをつけたりして準備したのだが、やはり和室はあまりにも寒く、暖房の効いたリヴィングから動こうという気にもならない。なんとか和室に移動してはみたけれども、「ちょっと本でも読んで」と、ベッドに上がって布団にもぐり込んでしまう。‥‥これはもう、計画の挫折の典型的なパターンで、そのままやはり眠ってしまうのだった。それで目覚めるともう7時半で、「いかん! 夕食も取っていないではないか!」と起き出して、もう何もつくる気にもならないので、まだまだいっぱいあるインスタントのお赤飯で侘しい夕食にした。

 食事を終えるとあとは寝るだけになってしまうのがわたしの悪い習慣なのだが、今日は午睡もとったあとだったし、思いのほか読書がはかどった。今、寝るときに読んでいるのは「ウンベルト・エーコの世界文明講義」なのだが、この夜読んだ「絶対と相対」の章はとても刺激的で面白く、「高かったけれどもこの本を買って良かった」と思わされた。この章は2007年のエーコの講演からの書き起こしみたいだが、エーコの語り口にヨーロッパの情況への危機感のようなものがにじみ出ていて、その<危機感>は、わたしも今の日本の情況に当てはめて読めるように思った。この章はもういちど、しっかりと再読したいと思った。

 そう、今日は通勤のときに太宰治を読みはじめていて、「どうだろう」と、ちょっと探りを入れるような気もちもあったのだけれども、やっぱりそういうだらしない<文士>の、わたしが好きになれないところの道楽話にうんざりするところもあるにはあった。しかし3〜4篇読んで、その中では「ヴィヨンの妻」がとっても面白く、いろいろと思うところもあった。順番にこの全集本のすべての作品を読むのではなく、次はあいだをすっ飛ばして「斜陽」を読んでみよう。

        

 

[]「ヴィヨンの妻」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「ヴィヨンの妻」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より)を含むブックマーク

 いくら太宰を今まで読んだことがなかったといって、この「ヴィヨンの妻」というタイトルぐらいは知っている。それで読みはじめたら出てくる小説家、おそらくは太宰自身がモデルだと思われるぐ〜たら男が「泥棒」と呼ばれるところから、「そうか、<ヴィヨン>というのは<フランソワ・ヴィヨン>のことなのだったか!」と、今になって初めて知るのだった。

 太宰治といえば、麻薬中毒、自殺未遂の繰り返しなどと、いわゆる<文人>の負の部分を一身に引き受けたような人物という先入観もあり、そのことが今の今まで彼の作品を読もうとは思わなかった理由でもあるわけで、この全集本で他に読んだ作品でも、特にタイトルは上げないけれども「やっぱりイヤだな〜」と思う作品もあった。それでも、この「ヴィヨンの妻」は、とっても面白く読めたし、心に残る作品だった。

 もちろん、この作品に出てくるしょ〜もないダメダメの文士の大谷は太宰治自身のことだろうが、この作品の語り手をその愛人(実際上の妻)の「さっちゃん」に置いたところ、その「さっちゃん」の、終戦後の混沌とした社会での「労苦をものともしない」ようなエネルギッシュな生き方に、小説として読み手に共感を呼ぶところがあると思った。

 どうもここでは、太宰自身もほんとうの自分のダメダメなところは暴露していない風でもあるけれども、ま、彼女にいわれてしまうように「人非人」ではある。しかしこの作品で、太宰=大谷として、その太宰=大谷は、さっちゃんの愛情をこの小説の文章に書きあらわし、ま、懺悔の気もちがあるのかどうかはわからないけれども、そこで「いっしょに生きよう!」という気もちは読み取れるだろう。やはりラストの、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」というのは名文句だろう。
 それで思ったりするのは、やはり今の「世間」のことで、ネットなどでみていると、「自分は<普通>の人だ」という人たちが、そういう<普通>という基準から外れた人たちを攻撃する。主にそれはマイノリティの人、そして日本国籍ではない人たちへの攻撃、「ヘイト・スピーチ」というかたちを取ることが多いようだ。おそらくそういう自称<普通>の人たちが、この「ヴィヨンの妻」を読むならば、ここに登場する「ダメ男」「人非人」の大谷という男のことを許容することはないだろうと思う。わたしは、「わたしは<普通>だ」という人というのはいちばん恐ろしい気がする。そんな「わたしは<普通>だ」という視点からすれば、この「ヴィヨンの妻」なども否定されてしまうことだろう。

 もちろん、わたしだって、目の前にこの作品の大谷があらわれたら、出来るだけ避けて通り抜けたいと思うかもしれない。「さっちゃん」、えらいね〜、とはいうかもしれない。でも、この作品が残るべきなのは、さっちゃんがえらいからではない。ここに「世界」のひとつの姿があると思うからなのだ。ここに「文学」のひとつの姿があると思うからなのだ。


 

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