ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-12-29(Sat)

 年末年始の連休が始まった。これから9日間、仕事のことを考えずに家に居られる(多少は「お出かけ」もする予定はあるが)。懸案の「作業」に打ち込みたいと思う。昨日も一昨日もまるでやらなかったので、今日やらなければわたしはただの「ナマケモノ」になってしまう。ついに作業台に向かい、今までの作業を見直し、やはりすべてやり直すことにした。前に考えたように、「細部をおろそかにしてはいけない」。これだけが指針であろうか。
 まだまだシノプシスの段階だが、いちど全体を見渡せるところまでやっているので、その反省をふくめて進んで行けると思う。この連休、もう<大そうじ>なんかやらないで、「作業」に集中していきたい。

 今年、2018年は、だんだんだんだんと「ディストピア」に近づいていく年だったけれども、この年の瀬に来てさらに悩ましい問題を耳にするようになった。
 ひとつは安倍総理が2020年に「日本博」を開催したい、などと言い出したこと。その総合テーマが「日本人と自然」などと、沖縄の辺野古の美しい海を赤土で埋め立てようとしている安倍が言うのだから、これはブラックジョークだ。また、例によって旧態依然とした「日本文化」へのステレオタイプな視点、その視点は決して、<現在形>の今進行中の<文化>には関係しないのだ。思った通り、安倍の考えているメインは「伝統工芸品」であったり、「能」や「歌舞伎」とかいうものらしい。
 安倍の考えている<日本文化>とは、つまり「レトロスペクティヴ」であり、もちろんわたしとて「伝統工芸品」「能」「歌舞伎」の価値を否定するものではないけれども、では、現在進行形の「文化」を助成する気のない現在の安倍政権に、「日本博」など開催していただきたくはない。
 このことをちょっと補足すれば、今年のカンヌ映画祭で是枝裕和監督の「万引き家族」がパルム・ドールを受賞した際も、安倍総理は何の反応も示さずに<無視>した。安倍総理は医学博士の本庶佑氏がノーベル賞を受賞されたときにはダイレクトに電話して祝意を述べたし、冬季オリンピックで金メダルを得たアスリートにも祝意を述べていたが、彼が現在の文化面で何かを語ったということはない。そして、今の基準でいえば、宮崎駿氏などはまさに「国民栄誉賞」に値する人だと思うのだが、「国民栄誉賞」はアスリートのために特化してしまっている。いや、もちろん宮崎氏はそんなことになったら当然「辞退」することと思うし、じっさい、宮崎氏は今げんざい、辺野古埋め立てに抗議するコメントを発せられている。そういうことからも、実は安倍政権は「現在形で進行するラディカルな(反体制的な)日本文化」は嫌悪していることは想像がつく。今の安倍政権が好きな現在形の<日本文化>とは、量産されるアキバ的なアニメなのではないのか*1。‥‥「文化」とは、そのときそのときの体制に迎合するものではなく、そういう「政治的な流れ」とはもっと違ったものを視点に置いたものなのだと思う。

 もうひとつ。日本は「国際捕鯨連盟(IWC)」から脱退した。考えられないことである。
 たしかに、わたしが幼いころには<鯨肉>というのは一般的、というか、偏食のひどかったわたしの、いちばんのお気に入りだったタンパク系の食べものは鯨肉、とりわけ、「鯨の刺身」だった。むかしの「鯨の刺身」というのはほとんど冷凍されたまま売られていて、その四角くカットされた凍った鯨肉をさらにスライスして、しょう油につけて温かいご飯にのせると、それがじゅるじゅると溶けていく。口の中に入れると、さらに口の中でトロリととろけていく。今思い出しても、あんなにおいしかった食べ物はなかったと思うのだけれども、いつしか、流通が整備されたせいか、そういう「冷凍」の鯨肉というのは店頭から姿を消し、今売られている「鯨肉」に、わたしは何の<思い入れ>もない。それを「日本の食文化を守る」などといって、国際捕鯨連盟から脱退する日本は滑稽だ。もう今のわたしは「鯨肉」には何の思い入れもない。何十年もかけて、そういう世の中になったのだ。この今になって、「鯨肉を食べるのは日本の文化」などというのはばかばかしい。先の「日本博」でいう「日本文化」と考え合わせるがいい。今の世界は、「鯨を捕るのはやめましょう」という方向になっているというか、そういうことになっている。そこでなぜ、世界の動向に逆らって「わたしたちは鯨を捕る」となるのだろうか。やはり日本の進路はおかしいと思わざるを得ない。

 それで昨日から、日本海で韓国海軍駆逐艦が日本の哨戒機にレーダー照射したとの問題が、トップニュースになっている。夜のニュースで自衛隊からの映像を見たけれども、わたしには判断出来るようなものではない。ただ、軍事的に日本と韓国が敵対するなんてことはあり得ないわけだけれども、ネット上では「嫌韓」の連中が大騒ぎしている。愚かだと思うけれども、まだわたしにはどうこうと言える知識はない。

 わたしの生活の話に戻って、今日はそうやって「作業」もしていたので、「今夜はカレーだね!」というのもめんどうになった。それと、「年末だからちょっといい<酒>を」と思って買った、(中クラスの)ウィスキーを飲んでいたら、気分が悪くなってしまった。(そんなに飲んでいないのだけれども)ぜったいにウィスキーのせいだ。もうわたしの身体は、安物のウィスキーに同化してしまっているようだ。夕食をつくるのもめんどうだし、先日スーパーで買った「天ぷらの盛り合わせ」がおいしかったし、それをまた食べたくなり、まだダイコンは残っているし、「よし! 天ぷらとウィスキーを買いに行こう!」と、炊飯器でご飯を炊くセットをし、暗くなってから「お買い物」に出かけた。
 スーパーに行ってみると、もう店内は「お正月」モードだった。わたしは目標の「天ぷら」をカートに入れ、ウィスキー(いつもの安いヤツ)を入れ、ついでに「冷奴」も食べたいな、と豆腐を選び、ちょっと「おつまみ」を買って会計して店を出た。帰宅して、冷蔵庫のダイコンをすりおろし、買って来た天ぷらで夕食にする。おいしい。ひょっとしたら、わたしのいちばんの好物とは「天ぷら」なのではないだろうか。
 食後に、買った安いウィスキーを、おつまみをつまみながら飲む。これも最上。どうやらわたしは、身体全体が「安上がり」モードに改造されてしまったのではないかと思う。スーパーで売られている「天ぷらの盛り合わせ」なんて安いものだし、毎日こういう食卓でもいいと思う。でも、明日はカレーをつくるつもり(これもまた、「ロウ・バジェット」だが)。


 

[]「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳 「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳を含むブックマーク

 愛おしいプニン。万年助教授のプニン。皆にその所作を笑われているプニン。でも、プニンの内面には、やはり「哀しみ」が隠されている。
 もちろん、ナボコフには「青白い炎」とか「アーダ」とか「ロリータ」、その他すばらしい作品があるのだけれども、けっきょく、ナボコフの作品の中でいちばん愛おしい作品とは、この「プニン」なのではないだろうか。

 彼の「文学講義」にあらわされる、博学の底からにじみ出るユーモア精神が、ストレートにその作品に表出されたのは、やはりこの「プニン」なのではないだろうか。そして、ひとつの作品としての、断章ごとの組み立て方の面白さ、アメリカ文化とロシア文化との差異というか、「世界をみつめる人たちは、同じ視点から世界をみているわけではないのだ」という視点。そして、まさにナボコフらしい、その「修辞」と「隠喩」の豊富さ。みごとなまでのその「省略」の効果(誰もが、プニンの住まいの外の小川に転がるサッカーボールには泣けるのだ)。ラストの、二台のトラックにはさまれたプニンの車は、いったいどこへ行くのだろうか?

 もしもあなたが、「ナボコフなんて、気取った<芸術家小説>(「セバスチャン・ナイト」「賜物」)、もしくは<マニアックな気狂い>(「ロリータ」「青白い炎」「アーダ」)ばかりを書いていた作家だと思っているとしたら、この「プニン」を読めば、ナボコフの「奥深さ」、(屈折はしているだろうけれども)その「優しさ」にうたれるのではないだろうか。ナボコフの著作のベスト3を選ぶなら、この作品を選びそこねてはならないのだ!


 

*1:アニメ業界での「下請け」的アニメーター、作画スタッフの「劣悪」ではすまされない労働環境は、もっと問題にされなければならない。

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