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■ 2012-01-06(Fri)

 きのうみた夢のこと。何もかもぶっこわし、空を紙幣が舞いさかう景気のいい夢だった。これはおそらく、いま観ている次郎長映画の影響のようである。
 豪華なホテルのような建物に、客人が宿泊している。中年にさしかかるような夫婦と、まだ成年ちょっとまえぐらいの子どもたち三人とのあわせて五人。その客人が皆に「珍獣(?)」を見せてくれるらしいのだけれども、それを聞いたわたしは、ふたりの仲間といっしょに先回りして、その珍獣を捕えに行くようである。わたしはカメラを仲間に持たせて、飛ぶようにかけていき、その珍獣を発見する。体長10センチぐらいの、ミニサイズの「ゴジラ」型の恐竜、なのである。ほとんどブリキ製のおもちゃにしかみえない。これが口を開けて火を吹くのだけれども、その口のなかをのぞきこむと、発火装置の機械が仕込まれているのが見えたりする。わたしたちはその珍獣の写真を撮る。
 主人は客人たちのことが気に入らないらしく、どうもわたしはその主人の息子の友人らしいのだけれども、いっしょになってそのほかの手助けと共に、派手にその客人を追い出すのである。ここが破壊と紙幣乱舞のシーンになる。客人は出て行き、手柄のあった男が主人に呼ばれて、わたしなどといっしょに食事をする。その男は某フリー・ジャズのミュージシャンらしいのだけれども、その顔はまるで別人である。とにかく、なんかよおわからん夢やった。

 きょうはしごとはなし。それでも早くに目覚め、朝から「キンミヤ」を飲んでいるとついつい飲みすぎて、やっぱり眠くなってしまう。午前中からまた寝てしまった。目覚めるともう昼すぎで、アルコールのせいでぼんやりしているというか、何もする気がしない。キンミヤ、ダメである。これはわたしのなかで「キンミヤ禁止令」を発令しないと、まいにちまいにち寝てばかりになってしまう。もうこれからは「キンミヤ焼酎」は買わないこと。

 昼食にスパゲッティ。夕食はきのう炊いたごはんの残りと、きのうの鍋の残りと。ほとんど何もしないで、いちにちがすぎて行く。ニェネントだけが部屋じゅうかけまわって叫びごえをあげ、活発というのか、うるさいのである。
 たっぷりと睡眠をとっているので、なかなか寝つけない。ヴィデオを一本観て、読みさしのナボコフの小説を読み終えた。

 

 

[]「次郎長三国志第六部 旅がらす次郎長一家」(1953) マキノ雅弘:監督 「次郎長三国志第六部 旅がらす次郎長一家」(1953)  マキノ雅弘:監督 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 

 これまでのように広沢虎造の浪曲がバックに流れるのではなく、子どもの唄うもの悲しい曲が、テロップで歌詞が表示されながら流される。「旅がらす」とはいっても、兇状旅であって、隠れながらの逃避行である。おまけに次郎長の妻のお蝶は病をこじらせている。金も食べるものもない。めっちゃダークな、悲劇的展開。三五郎も「やくざになってこんなにつらい旅はない」と、泣き言をいう。かつて相撲興行で助けてやったことのある久六のもとにやっかいになろうとするけれど、裏切りにあう。けっきょく、あたらしい仲間の七五郎の留守宅に世話になり、七五郎の妻のお園(越路吹雪)が登場する。酒はいけるし槍の使い手の女偉丈夫である。金子を用意して追ってきたお仲も合流するけれど、お蝶はついに力つきる。久六らの追っ手が来ることを喜代蔵(長門裕之)というチンピラが知らせてくれ、久六らを返り討ちにし、一行は清水への道を向かう。

 薄暗い部屋のなかから外にひらけた外光にカメラを向け、室内でドラマが進行する印象的なシーンがいくどもあらわれる。木立深い森のなかの、霧のただようドラマの場面も美しい。ちょっと暗い展開を、この演出が際立たせる印象である。


 

[]「カメラ・オブスクーラ」ウラジーミル・ナボコフ:著 貝澤哉:訳 「カメラ・オブスクーラ」ウラジーミル・ナボコフ:著 貝澤哉:訳 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク


 ナボコフ三十三歳のときの、長篇第五作。まずはロシア語で書かれたものが、のちに著者によって英語訳されて「Laughter In The Dark」(邦題は「マルゴ」)となるけれど、たんじゅんな英語訳ではなく、人物名をはじめ、内容にかんしてもずいぶんと改変がなされているらしい。その原典ロシア語版からの本邦初訳がこれ。若きナボコフの、気取ったレトリックが鼻につく時代の作品である。

 中年男が家族を捨てて少女のような女性にのめり込み、破滅して行くというプロットは、もちろんのちの「ロリータ」を想起させられるわけだけれども、「ロリータ」の狂気をはらんだ一人称文体ではなく、書き手は「神の視点」からの描写にたよる。つまり、読み手は、主人公が見えていないところでいったい何が進行しているのか如実に知ることになるわけで、これが読者にも見えないようにされると、より「ロリータ」に近接してくる。

 光と闇との対比、そして登場するさまざまな色彩の描写(意味の持たせ方)など、楽しめるところはいろいろとあるけれど、わたしが面白かったのは、登場人物のひとり、主人公が「真実」を知るきっかけを書いてしまう小説家の存在で、ここでどうやらナボコフは、いわゆる「リアリズム小説」の批判をこころみているように思えてしまう。たとえば、その小説家に独白させる次のような文章がある。

(‥‥)たとえば、若い娘に半年もつきまとったあげく、饒舌(じょうぜつ)な短編小説のなかで彼女のことを微に入り細を穿って精緻に描いてみせたにもかかわらず、その娘の父親が、彼を叩きのめしに来たことがいまだにない、ということのほうがはるかに驚くべきことなのだ、ということは彼にもわかっていた。

 ‥‥ほんとだよねって感じで、このことでいえば、日本の近代から現代の小説家で生傷のたえなかった作家は、いっぱいいっぱいいてもおかしくはないだろう。

 ラストの、死者のほか誰もいなくなった室内にあるものを、順ぐりに描写して行く文章がちょっと良くって、若いころのナボコフもやっぱりいいじゃないか、という気分にもなった。

 ちなみに、この英語訳はトニー・リチャードソン監督によって「悪魔のような恋人」の邦題で製作、公開されていて、ヒロインをアンナ・カリーナが演じていた。主人公はさいごには失明して黒メガネをかけるようになるんだけど、その黒メガネ姿の主人公はそりゃあどうしたってゴダールにしか見えないという、イタズラな映画だった。残念なことにこの映画、著作権の関係で再リリースは不可能なようである。もういちど観たいけれどもね。




 

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