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■ 2005-06-22(Wed)

[] 1995/2/14(その4)  1995/2/14(その4) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 震災後の関西訪問記は前回でおしまい。また東京での日常が始まります。


 2月11日、撮って来た写真の焼き付けをたのみ、「J・V」の新年会は金もないので行かない事にする。5時20分頃、六本木のシネ・ヴィヴァンで、『愛しのタチアナ』をTKさんと待ち合わせ。TKさん、奥さん、そしてその友達の作詞家の人。ちょっと早ければ石井聰亙に会えたのに、との事。フィルムはほんとに愛すべき小品、久々のカウリスマキ、という感じ。ちょっと『ストレンジャー・ザン・パラダイス』みたいな雰囲気。映画のあとはイヴェントで小ライヴがあるのだが、ちょっと外に出るとヴァレリーさんに会う。中で座っているとSSくんも来る。ライヴはどうって事なかったけれど、短くって助かった。例によってTKさんケナす。あとは六本木の居酒屋で飲んだり食べたりしたあと、渋谷へ行って「ロッキンチェア」で終電まで。

 2月12日は焼き上がった写真を元に、東京のAUメンバーに通信をつくる。マメだ。

 2月13日。留守番電話のメッセージを入れ直したりして、外にちょっと出ると、例のお正月の「それ、絵ですか?」の彼(Tさん)に会ってしまう。絵を見せて欲しいと言うので、あきらめて部屋に招待する。多分自分のやっている事と掛け離れていると思ったのだろうけれど、ちょっと引いたみたいだ。

 午後、意を決して、ついに渋谷のハンズにルーター(リューター?)を買いに行く。店員に相談して、ドレメルのセットのかなりイイやつを買う。ウチでテストしてみる。やっぱり強力だった! よかった。これですっごくいろんなことができる事になる。

 12日の夜から13日の朝にかけて、珍しく夢をみた。思い出そうとしても全部を思い出せないのだが、ふたつ見たようだ。どちらにも地震の被災地のイメージがあるのだけれど、一方には「天使」が出てくる。天使はなぜか邪悪な力のせいで羽根を奪われ、少女の姿で病院のベッドで寝ている。すでにこの状態で二日目になるのだけれど、あと残り4〜5時間で「天使」に戻れなくなる。彼女は彼女を包む「少女」のカラを抜け出そうともがくのだが、どうすることもできない。わたしはそばにいて彼女をはげましているのだが、何をしてあげることも出来ない。もう一つの夢はほとんど憶えていない。たしかわたしとYYちゃんが船(貨物船?)に乗って、港の入り口にいる。桟橋のイメージ。

 すばらしかったはずの夢を忘れてしまうのは悲しい。


 「夢」の事を書いてるのは珍しいかな。こうして書き留めたり、人に話した夢の事は、記憶に留まる事になる。でも、「夢」の事は、今は書かない事にしている。「夢日記」はやりたくない。


 

 

■ 2005-06-20(Mon)

[] 1995/2/14(その3)  1995/2/14(その3) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ちょっと間があいてしまいました。写真をもっと拡大してみられるように、とのリクエストもありまして、確かにそうだったな、などと思います。とりあえず、前回掲載の市役所の玄関の貼り紙、これをできるだけ拡大して掲載してみます(一番上の拡大写真の下の方に、「こころのサポート」などという文字がかすかに読めますが、これが、中井久夫さんたちが展開されていた、関西の精神医たちの活動なのでしょう)。


 2月10日、6時半ごろ目覚め、朝食をごちそうになってから、甲子園のアートスペースへ行くのにJR尼崎の駅まで送っていただく。甲子園で降りる。このあたりは芦屋周辺のような被害はないようだけれど、所々崩壊した家屋がある。

(甲子園駅前のようす)

 アートスペースに行くと、ちょうどYさんが来たばかり位の時だった。建物は思っていたより大きくて、きれいだったけれど、入り口のあたりとかちょっと歪んでしまったのとか、外壁のヒビとか見せてもらう。すぐに嶋本先生が来られて、しばらく地震の話など。

 写真を撮りたいと言うと、服を脱いで、昨年の心筋梗塞の大手術のあとも撮らせてもらった。これがすごいっていうか、縫合痕が長さ40cmくらいもあるんじゃないだろうか。足の方がもっとすごいんだと言ってました。

 昼はYさんと近くのスーパーに食糧を買いに行くけれど、スーパーはまったく無傷できれい。歩きながら、まわりの被害の様子を紹介してもらう。音楽の話などしながら(Yさんは「バウハウス」が好きだったんだ)歩いていると、Fさんとばったり会ってしまう。Fさんは今、アートスペースの2軒となりにある実家に帰って来ているそうだ。

 午後はぶらぶらして、倉庫にあるメールアートの作品などを勝手に見せてもらったり。4時近くにHさんも来られたので、皆で記念写真を撮って、AU展のときの写真を少しいただいてからおいとまする。そのまま電車、新幹線に乗り継いで、9時ごろ東京の家に戻る。




 震災3週間後の関西滞在日記はこれでおしまい。嶋本氏の手術後の写真など掲載しようかとも思ったけれど、ま、わたしの権限では出来ないでしょう。

 アートスペースはAU展と連動して、80年代の関西で独特の活動を展開したアートの拠点で、このあたりはもうちょっと評価されないといけないんだけれど(戦後日本美術の総括は、この80年代ぐらいで、いったい何を評価するか、という点で、道を見失っている気もしないでもない)。

 92年に発行されたAUのパンフレットの裏表紙を掲載してみましょう。

 左上は、嶋本昭三氏のスキンヘッド・プロジェクト(というのか?)。当時このプロジェクトを引っさげて渡仏されて、ポンピドー・センターでの、自分の後頭に映像を投影するパフォーマンスは、評判になったのではなかったかな?

 右上はデニス・バンクス氏だと思う。「セイクレッド・ラン」のプロジェクトで世界を周回されていた。この年(95年)のAU展では、その「セイクレッド・ラン」プロジェクトが開催されている。わたしも参加した。

 左下はステラーク氏だろうね。彼とアート・スペースとの関係も密なものがあって、関西ではそのアート・スペースでパフォーマンスしているはず。

 右下が、これは東京都美術館AU展での、寺山修司の『奴婢訓』公演。わたしがAUに参加する前の年のことだったようだ。もちろん都美館の規制に引っ掛かった。


 あと、被災地の写真で、わたしにとっていちばん強烈だった、「本通商店街」の写真を、最後に連続して掲載します。とにかく、この区域に足を踏み入れると、「平行〜垂直」という生理感覚が壊れてしまった。地震とは、「歪み」なのだ、と納得できた。

   

       

   


 次回からは東京に戻ります。



 

七條春道七條春道 2013/10/06 14:27 購入しました!

すばらしいかったです!

ありがとうございます

crosstalkcrosstalk 2013/10/06 17:51 どうもです。こんな古い日記でも、いまげんざい、何かの手助けになれたのならばうれしいです。
コメントを読ませていただいて、わたしも、久しぶりにFrente! のRuby's Arms を聴いたりしました。「いいなあ!」と、いまさらながらに思いました。
こちらこそ、ありがとうございました。

■ 2005-06-05(Sun)

[] 1995/2/14(その2)  1995/2/14(その2) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク



 芦屋の駅の近くで、無傷のビルの下が通路になっていたので、近道をしようと入ると、そこが市役所だった。


 通路の片側は段ボールで壁のようにおおってあり、なにか荷物がおいてあるようだ。片側、役所の入り口の方には援助の衣類が段ボールの中に無造作に放り込んである。「ご自由にお取り下さい」と書いてあるが、やはり衣類はあまっているのだろうか。

 市役所のドアはありとあらゆる貼り紙がしてあり、中は見えない。トイレを借りようと思ってドアをあけるが、水道がまだ通じていないことを思い出す。しかし、そのドアの中はまったく別の世界が拡がっていた。役所の人たちが忙し気に働いているそのビルの中の、ロビーやソファ、イス、その他空いている所に被災した人たちが生活しているのだ。ここで初めて涙がこぼれる。途中で自衛隊が学校を一つ占拠してテントを建てているのを見たが、いったいどういうことなんだろう。テント生活よりはビルの中の方が暖がとれるからかも知れないけれど。


 こんな所でフラッシュをたいて撮影することは出来ないと思った。

 駅の近くで長い行列があり、何かと思うと銭湯への行列だった。

 ふたたび電車に乗り尼崎にもどる。今日は新居に電灯もなく、湯沸かしも壊れていることがわかったので、Hさんの家族もこの駅前の学校に泊まる。

 タオル、石鹸を借りてとなりの銭湯へ行き(そんなに混んでなかった。なんでも、被災地からタクシーで銭湯に来て、入っている間タクシーを待たせておく人もいるらしいけど)、夕食をごちそうになる。他に、Hさんのお兄さんの友人の方で、お母さんが手術予定日直前に病院で地震にあい、そのまま亡くなられた方の話などを聴く。皆、地震の時に寝ていた場所に戻ること、そこでまた寝ることがいちばんイヤだそうだ。

 夜は3階の広い教室に布団を布いてもらう。人体模型や骨格模型が置いてあるのを、カーテンで隠してくれたり、顔を後ろ向きにして下さったり。今朝が早かったのですぐに眠ってしまう。



 ヴォランティアとは名ばかりで、ほとんど何もしないで、ごちそうになって宿泊させていただいただけ。Hさん、その家族の方々には今でも感謝しています。

 タクシーでの銭湯通いは、後に出版された、中井久夫の編纂した精神科医による震災レポート本にも出て来る話で、芦屋あたりの高級住宅地の人たちらしい。「地震の時に寝ていた場所に戻ること、そこでまた寝ることがいちばんイヤだそうだ。」というのも、その本の中に同じ話が出て来る。

 今でもわからないのは、この時の自衛隊の救援活動にはいったいどんな成果があったのだろうか?ということ。自衛隊が学校を抑えないで一般に解放していれば、もっと楽を出来た人たちがいっぱいいたのではないだろうか。続く。


 

■ 2005-06-04(Sat)

[] 1995/2/14(その1)  1995/2/14(その1) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク


 1995.2.14.

 (結局、2月13日の続き)

 そこから南、さらに東へと足をすすめるが、ちょっと空恐ろしい景色が続く。火事や水害であればあたり一面被害にあうのだけど、地震というのはなんとも不公平というか、不平等な災害だ。あたりはまったく大丈夫なのに一軒だけ倒れてしまっている家もあるし、逆にそこだけ残っているような家もある。しかし、たいていの二階建て木造アパートは、何らかの被害にあっている。やはり家の建てかたに問題もあるのだろう。あとは直下に活断層があったかどうかとか。家の建て方に関しては、何らかの補強ををすれば、ずいぶん違ってくると思うのだが。


 しかしながら、崩壊している家は例外なく、皆一階がつぶれてしまっている。そして、二階は残っているケースがほとんど。途中で気が付いたのだが、窓ガラスが割れている家がない。一階がつぶれ、二階が傾いでしまっている家なんかでも、窓ガラスは割れずに残っている。例外的に割れていたのは高層マンションなどで、ガラス自体が柱など建物の構造に組み込まれているせいではないだろうか。サッシなど、建物と別構造になっている部分は、なかなか壊れないのかも知れない。


 写真を撮りながら移動していくと、高速道路が横倒しになってしまった所に出る。すでに崩壊した部分は片付けられている。




 建物のガラス窓は、本当に信じられないぐらい割れていなかった。つまり、建物の構造と、そこにはめ込まれた窓枠の構造とが、連続していないせいなのだろうと思う。建物とは別に「枠」として作られた部分は、どこか別のポイントで、「歪み」の力を吸収しないで済ませるのだろう。連続しない「隙間」というのが大事なのかな。


 


 

 

■ 2005-06-01(Wed)

[] 1995/2/13(その2)  1995/2/13(その2) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク


 1995.2.13.

 その時点でまだ2時半ぐらいだったし、この日はアートスペースには誰もいないとのことなので、皆からもすすめられて震災地を見に行く。カメラを持って行くように言われる(東京からYさんに電話した時も、「何を持って行けばいいですか?」と聞いたら、「カメラを持って来て下さい」と言われてた)。


 それで、一人でまた阪神電車に乗る。尼崎を過ぎるとしばらくして、線路際に突然一軒だけ崩壊している家が見える。だんだんに屋根の青いビニールシートが多くなり、傾いている家が目に付くようになる。潰れてしまっている家も目立って来た。家並みの向こうに阪神高速道が見えるが、例の落ちてしまった所も電車からわかる。


 だんだん電車が進むにつれて惨状はひどくなっていくが、決してすべての家が崩壊しているわけではない。


 墓地があり、ほとんどの墓石が倒れている。倒れんばかりに傾いてしまったビルもある。電車は「青木」という所までしか通っていないので、そこで降りる。駅前では火事があったようで、一角はすべて瓦礫の山になっている。ここにかぎらず、ほとんどすべての場所でおそらくは地震当時のまま、手つかずの景色だ。



 今日は東京で地震が立続けに起こったらしい。わたしの希望する死に方は、大震災とかに巻き込まれて、莫大な数の人と一緒に一瞬にして落命し、後にそんな大勢の人と一緒に「慰霊碑」とかにまつられるような死に方、どさくさにまぎれて、天国へ上る大勢の人の足とかにつかまって天国の門に行き、これまたどさくさにまぎれて天国に入っちゃうような事なのだけれども、どうも生き残ってしまいそうな気配だな。東京にいれば、生き残ったら生き残ったであれこれとボランティア活動する気持ちは(この阪神大震災の見聞から)用意してあるのだけれども。


 やはり大災害は、自分の眼で見ておいた方が良い。現地の人に迷惑をかけるような物見遊山気分は、もちろんとんでもないけれど、災害の結果一体どのように街は変ぼうしてしまうのか、自分の眼でしかと見て来た体験は貴重なものだったと思う。その体験と、想像力とがあれば、自分の住んでいる街がどんな惨状になるのか、いったい安全なのはどんなスポットなのか、考える事ができるようになる。瞬時に死亡するような事がなければ、こんな体験もいかにも有益になることだろう。で、こんな写真でも何かが伝わるようだったら、自分のアルバムにしまっておくよりもこうしてココに掲載すれば、何かの役に立つかも知れない。まだ続きます。



 

 

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