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■ 2018-02-23(Fri)

[]「女殺油地獄」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 「女殺油地獄」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 この作品も、当時実際に起きた事件から取材したものとして、「世話物」と分類されるのだろう。しかしこのタイトルは秀逸というか、「おんなごろしあぶらのじごく」というインパクトは相当なものという印象。物語はつまり、アホなヤンキー野郎が金に困り、昵懇の人妻を殺して金を奪うという、今でもときどき起こるような事件から取材したものということで、一時期テレビでもよく見られた「事件の再現ドラマ」みたいなものか、というところだけれども、そこはさすがに近松門左衛門で、「なぜこんな事件が起きてしまったのか」ということを、事件の過去にさかのぼって描いて行く。そこに、この事件の背景の人間関係の微妙なところをみせ、「悲劇」へと突き進んでしまったドラマをきっちりと描く。やはりクライマックスは「豊島屋油店の段」の凄惨な殺しの場面になるのだけれども、殺されるお吉が「今死んでは残される三人の子が不憫だ、死にたくない」と語るところでは涙。

 人形遣いとしては今はちょっと「過度期」というか、なかなか難しい時期でもあり、突出した場面も見られなかった気もするし、吉田蓑助の出番も少なかった(彼の人形遣いは「さすが」というところだったけれども)。あとはやはり義太夫の魅力ということにもなるのだけれども、そのあたりはたっぷりと堪能することが出来た。冒頭「徳庵堤の段」での五人の太夫の掛け合いの魅力、そして何よりもわたしには、次の「河内屋内の段」奥の、竹本津駒太夫の太夫、それと鶴澤清友とのコンビがすばらしかった。‥‥やはり、文楽はすばらしい。まだまだいっぱい観たいところである。


 

■ 2016-05-18(Wed)

[]文楽鑑賞教室「曽根崎心中」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 文楽鑑賞教室「曽根崎心中」近松門左衛門:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 「生玉社前の段」「天満屋の段」「天神森の段」と、この日上演されたこの三段で「曽根崎心中」は全部、らしい(「生玉社前の段」で、冒頭にこの日やらなかったお初が生玉神社へ入ってくる部分もあるらしいけれども)。時代物に比べて世話物は短い。ただ「心中するに到る原因」、「心中を決意する過程」、「心中の場」という直線的な構成で、それ以外の余計な要素というものは皆無。「天満屋の段」で郭からふたりが抜け出す、というあたりがスリリングでドラマチックな場にはなっているのだろうか。

 ただ、いったいなぜふたりは「死」を選ばなければならなかったのか。このあたりに、江戸時代の市井の人々の置かれた情況が描かれてはいたわけだろう。だからこそこの人形浄瑠璃に感化され、自らも心中を選ぶという人たちが出てきたわけだろう。
 徳兵衛は伯父である主人の決めた縁談を断り、先に継母が受け取っていた結納金を返して破談にすることを望むのだけれども、その取り返した結納金を友人と思っていた九平次に貸してしまう。偶然会った九平次に金を返すように督促すると、「そんな金は借りた憶えはない」とつっぱねられ、詐欺師呼ばわりされる。ここで徳兵衛は「死をもって自分の潔白を証明する」ことを決意する。徳兵衛はお初を身請けして共に暮らすことを約束しており、その徳兵衛が死を選ぶならばお初に生きつづける意味はなくなるし、そもそもがふたりいっしょになることが夢だったのであるから、徳兵衛と死ぬことを選ぶ。
 これは現代にみられる「心中」のかたち、「ふたりの仲が認められないから死んでいっしょになる」というのとは異なっている。たとえば昨日観た溝口健二の「近松物語」でも、主人公のおさんと茂兵衛とはさいしょは別々の動機から、「ふたりの思いを遂げるため」というのではなくして琵琶湖で心中しようとする。逆にそこでふたりが互いに思い合っていたことがわかると、どこまでもふたりで生きようという道を選択する。そうみてみると、江戸当時の「心中」というのは、現代のわれわれが考える「心中」とはどこか異なるものがあるのではないだろうか。
 まずここで徳兵衛はお初の存在に関わらず、死をもって身の潔白を証明しようとし、そこにお初が同調して行動を共にすることになるようなものだろう。まずは徳兵衛が自死を決める、ということがこのストーリーのかなめではある気がする。そこで、「死んでみせることが潔白を証明する」という思考が、現代のわたしたちには了解できないことではあるけれども、どうなんだろうか、江戸時代の犯罪の取調べというものがどこまで発達していたものかわからないけれども、「おまえは<騙り(かたり)>だ」といわれてしまうと、潔白の証明は困難だったのだろうか。そうすると世の中は九平次のような人物の天国になってしまうのだが。
 もうひとつ、重要な要素として、徳兵衛は伯父からの縁談を破談にする代わりに、大阪からの退去を言い渡されていることがあるだろうか。それはつまりは身請けを約束したお初との仲が終わることを意味していたのだろうか。そうだとすればこのふたりの心中というものも心情として理解できるところはあるし、お初の側の理由は「もう徳兵衛に会えなくなるのなら徳兵衛といっしょに死のう」というものではあるだろう。

 まとめるとつまり、どうも見えてくるのは、「理不尽なことには<死>をもって対しよう」という江戸の人のアティテュードであって、この「理不尽なことへの対抗手段」としての「心中」ということに、この「曽根崎心中」の観客は惹かれたのではないだろうか。

 この日の上演、お初をあやつったのは桐竹勘十郎で、その繊細な動きを堪能させられたし、徳兵衛の吉田和生もよかった。わたしは「天満屋の段」での三味線、鶴澤燕三の演奏が気に入った。



 

■ 2016-02-10(Wed)

[]文楽「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 文楽「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 時代物の名作の、そのクライマックスともいえる段で、能の「船弁慶」の後段からのアレンジもある物語展開。主役は実は壇ノ浦の戦いで死んでいなかった平知盛で、彼はここで渡海屋という廻船業者に扮し、策略をめぐらして九州へ落ちのびようとする源義経に復讐しようとしているわけである。平知盛の扮した渡海屋の女房のおりうは、安徳帝の乳母の典侍局であり、娘のお安というのが実は安徳天皇なのである。そんな知盛の陰謀も実は義経の方は百も承知で、海上で返り討ちしてくれるわけである。そのさまをみた典侍局は自害し、安徳帝はその身を義経が預かることになる。力尽きた知盛は碇を担いで海辺の岩に登り、その碇とともに海に身を投げる。

 太夫と三味線は「口」、「中」、「奥」の三部で交替し、それぞれの持ち味を聴かせる。わたしが十年以上前に観たときから記憶にある名前は、「中」の三味線の野澤錦糸、「奥」の太夫の竹本千歳大夫らの名前であるけれども、それぞれに熱のこもったプレイ(という言い方は浄瑠璃にはそぐわないか)を聴かせてくれた。
 人形遣いでわたしの知っていたのは、その知盛を操った桐竹勘十郎ぐらいのものだったけれども、遠目ではよくわからなかったとはいえ、やはり浄瑠璃人形というものはどこか艶やかでいいものである。メインの人形は三人で動かすという、ある意味でコスト・パフォーマンスのとっても悪い舞台づくりではあるのだけれども、それだけ情感のこもった精緻な表現が可能なのであろう。
 わたしには「浄瑠璃」というもの自体にも惹かれるものがあり、今日も太夫、三味線、そして人形との美しい競演を堪能することが出来た。



 

[]文楽「義経千本桜」道行初音旅 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 文楽「義経千本桜」道行初音旅 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳:作 @半蔵門・国立劇場小劇場 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 こちらは打って変わって「所作」という、つまりは「踊り」ですね。出演は静御前と佐藤忠信のふたり。吉野山の満開の桜の前で、華やかにあでやかに舞うダンス・デュオ。この忠信というのは実は狐の化身で、静御前が打つ初音の鼓には、その親の皮が張られているらしい。それでもって忠信に身をやつした子狐が親を懐かしんで出てくるらしいんだけれども、ここでふたりが源平の合戦をしのんで語り、そして踊ることになるわけ。

 実は終盤に静御前の投げる扇を忠信が受け取る(らしい)という、ちょっとした見せ場があるのだけれども、わたしはちょうどその瞬間に目線を手元に落としてしまい、目を上げると観客皆が拍手しているわけで、そういうカッコいい見どころを見落としてしまったわけで、とにかくも残念なことであった。

 この五月には同じ国立劇場で、「文楽鑑賞教室」として「曾根崎心中」が上演されるらしい。わたしは今まで時代ものしか観ていないし、文楽を代表するような傑作が上演されるのであれば、これはもう観るしかない。ぜったいに予約して観に来ようと思う。五月が来るのが楽しみである。



 

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