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■ 2010-06-30(Wed) 二○一○年六月のおさらい

[]Mother And Child [Maddy Prior & Rick Kemp] Mother And Child [Maddy Prior & Rick Kemp] - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ワールドカップの日本対パラグアイ戦をけっきょく全部見てしまい、寝不足だし、結果があんなだったので、なんだかガックシしてしまって何もやる気がしない。最近の気候からの夏バテの初期症状というのもあるかもしれない。図書館から借りている東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」も、ページを開いて読み始めるとすぐに眠くなってしまう。面白いのだけれども、あまりに密度が濃いせいだと思う。それで昼寝とかしてしまうと、また頭がどんよりしてしまう。

 今日は夕方から、慶応大学の日吉キャンパスで、笠井叡のダンスと吉増剛造のリーディングとの共演があり、無料ということもあって行きたいと思っていたのだけれども、ひょっとしたら日帰り出来ないことになるかもしれないし、そうするとなんとなくウチのミイたちが心配とも漠然と思ったりもして、やはり出かけようと準備してもSUICAがどこに行ったのかわからなくて探したりして、けっきょく行くのをやめてしまった。そのこともちょっと落ち込む原因になって、夕方からもどんよりと過ごしてしまった。
 ひかりTVでヘンリー・ダーガーのドキュメントを放映しているのを見始めたけれども、これも途中で寝てしまった。これは以前映画館で観ているし、いちおう今回録画もしているので、あまり熱心に観なかったせいだろう。そういえば先日の朝のTVで、「世界でいちばん長い小説」として、ダーガーの「非現実の王国で」が紹介されていた。そのテキストのことはよくわからないけれど、今回観てもやはり、ダーガーの絵は美しい、と思った。その美しさとは何なのか、最近観た、むかしのB級低予算映画でのイマジネーションの具現化にあらわれてくる予想外の楽しさと合わせて、考えてみることがある。想像されたイマジネーションの世界で、ものごとはどの程度にまでクリアに想像されているのか、それを具現化するときの物理的、技術的障害が、そのイマジネーションをどのようにゆがめるのか。知覚されているイメージをそっくりに再現することが、そのまま表現になるわけではない。「ゆがみ」のなかにこそ、表現のリアリティが保証されているのではないのか。

 ミイはやはり、外に出て来て板張りの上にべたりと横になって休んでいることが多い。ただその姿を見ると、具合が悪いんじゃないかと心配になってしまう。それでも、もうすっかりとわが家の飼いネコ然としたふるまいをするようになっていて、わたしがリヴィングの食卓に向かうと、その食卓の下にもぐり込んで来る。わたしが食卓から何か落とすと、さっと飛んで来て、いったい何が落ちて来たのかたしかめたりする。おいおい、それじゃあまるで飼いネコのしぐさだよ。
 近所のドラッグストアに買い物に行ったら、ネコ缶が少し安く売っていたので、ミイの慰労で買ってあげる。「ミイ、いいものをあげよう」と皿に移して出してあげると、ものすごく気に入ったようで、食べ終えてしまっても皿をペロペロなめている。
 子ネコたちはずいぶんと足がしっかりして来たようで、足を使ってはい回るようなしぐさをしているし、後ろ足で下半身をぐいと持ち上げたり出来るようになった。うっすらと目を開いたりしていて、もうおそらくは目も見えるようになっているのだと思う。眠っているのを見ていると、口を半開きにして縦に丸めた舌を突き出していて、母乳を吸っている体制のままだったりする。くしゃっとして、変な顔ばかりだ。

 今日の一曲は、Steeleye Span を解散したMaddy Prior と旦那さんのRick Kemp が1990年にリリースした、この名義では一枚だけのアルバムから。おっと、Steeleye Span は解散したのではなくてずっと継続していて、このアルバムはそのバンドとは別活動の産物、ということかもしれない。


 

 

■ 2010-06-29(Tue) 「危険な関係」「エロスは甘き香り」

[]Back In My Arms Again [Supremes] Back In My Arms Again [Supremes] - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 朝起きてTVを見ていると、ベランダからミイが部屋に入って来た。ベッドの下で子育てしてると思ってたんだけど、外に行っていたわけか。ミイは食事をして、また外へ出て行った。子ネコ、放っておいていいのかね?と、ベッドの下を覗いてみると、驚いたことにすっかりもぬけの殻になっていた。わたしが寝ているあいだに引っ越ししたらしい。昨日まで新しい住処を探すようなしぐさをしていたけれど、家族全体の緊急の要請で住処を換えようとしていたのか。ベッドの下だと夜になると上にわたしが乗っかったりするから落ち着けなかっただろうし、スペースも充分ではなかったのかもしれない。ふうん、いなくなっちゃったのか。これで一週間前と同じに戻ったか、と思ったけれども、一週間前には五匹の子ネコはいなかった。これでは野良ネコ候補一挙に五匹誕生、ということになってしまう。わたしも五匹の子ネコを面倒みれるわけではないから、内心少し重荷がおりたようで安堵の気持ちもあるけれど、ミイたちの将来を考えると気持ちは晴れない。またミイがある程度成長した子ネコをここに連れて来るようになると、つまりはまた野良ネコの餌付けという状態になる。もう少し、何かしてあげられるとよかったのに、などと考える。

 しばらくすると、ベランダからネコの啼き声が聞こえて来た。ミイはめったに啼かないのであれはノラにちがいないと思ってベランダをみると、寝そべって休んでいるミイのそばにノラがいるところだった。わたしの姿を見るとノラは逃げて行き、ミイはそのままベランダに残っている。ミイのそばに寄るとまたわたしにちょっとからだを押し付けて甘えて来る。「そうか、引っ越ししたのか。前のところに戻ったのか?」などと話しかけてみるけど。

 それからまたしばらくして、ふたたびミイがやって来た。こんどは口に子ネコをくわえて。「ええ! また引っ越して来るのかよ!」と驚いて見ていると、キッチンの方に入って行った。いったいどこを住処にするつもりなのか、見ていると、キッチンのガスレンジのわきにあるデッドスペースの部分、わたしはそこにカラーボックスを置いて上に炊飯器などを置いてあるのだけれども、そのカラーボックスは台としてしか使っていないので、中は空っぽになっている。その部分に潜り込んで行った。「そんなところ? そこはわたしが炊事したりするから、前より落ち着かないんじゃないの?」ってアドヴァイスするけどね。しかも、この往来の多い時間帯に引越しなんて。

f:id:crosstalk:20100630104218j:image:left ‥‥とにかく、またミイの家族は引っ越して来た。出戻りである。またあまりに騒々しいので出て行ってしまうかもしれないけれども、とにかくは様子を見る。少し心配なので、リヴィングの窓際にミイたち皆が入れる段ボール箱を置いて、「よかったらこのマンションにも‥‥」と準備しておく。しかし、ミイたちの頭の上で火を使ったりするので、炊事には気を使うことになりそう。でも、ミイはほとんどの時間は新しい住処の中にこもって、子ネコに母乳をあげているようだ。ミイがちょっと外出しているときに住処を覗き込むと、子ネコたちのおなかはパンパンに張っている。写真を撮ってみた。ケータイのカメラの性能が悪いので、暗いところでは画像が荒れる。しっかし、これからどうなるんだろう?

 昨日からBSでダグラス・サーク監督の作品を連続して放映していて、いちおう全部録画しておこうと思っているのだけれども、さっそく昨日の分の録画に失敗してしまった。120分テープに3倍速で録画予約したつもりだったのが、標準速度での録画になってしまい、2時間6分ほどある作品の、最後の3〜4分が録画出来ていない。なんということ。ラストがどうなるのかわからないなんて、観たことにならないのではないのか。特に50年代ぐらいの映画はラストでバッチリ決まって、余韻もなく終了というケースが多いから、たとえ1分でもラストが観られないと、感想を持つことも出来ない。BSは二ヶ月ぐらいあいだを置いて再放送することが多いので、それを期待するしかない。今確認してもまだ予定はわからないけれども、8月にはこんどはアンゲロプロス作品が一挙放映されるようだ。

 今日の「ひかりTV」は、また藤田敏八監督のヴィデオ配信、観ることの出来る残り二作品を観る。まずは1978年製作のラクロ原作「危険な関係」。こんな作品を撮っているのは知らなかったけれど、脚本は新藤兼人で、主演は三浦洋一、宇津宮雅代、片桐夕子など。また、このころの助監督は根岸吉太郎。
 なんか、ストーリー知っているだけにちいっとも面白くないというか、冬の蓼科でのロケがクリシェな感じでスケールを小さくしてる印象もあるし、いったい何を見せたくて演出しているのかよくわからない。それでも、貞淑な片桐夕子をなんとかモノにしたいという執念はちょっとはわかる気がして、映画内の片桐夕子がじっさいに貞淑な人妻に見えて、そんな彼女が堕ちてしまうあたりは見て楽しめた。

 もう一本は1973年の「エロスは甘き香り」。なんと、桃井かおり出演で、高橋長英や伊佐山ひろ子などが共演。脚本は「八月はエロスの匂い」と同じく、大和屋竺と藤田監督の共同執筆で、この時代の助監督には長谷川和彦の名前が。
 おそらくは立川あたりの米軍ハウスで共同生活を始める二組のカップルの話だけれども、主に自称カメラマンの男の抱く、時代への閉そく感(1973年、なのだ!)、自身の運命を自分で決定し得ない無為なニヒリズムあたりが主題になっているのか。「八月はエロスの匂い」みたいに観念性の空転した演出という感じはあるけれど、「八月はエロスの匂い」の方が空転の度合いが激しく、その分わたしには面白かった印象になる。
 これでヴィデオ配信で観ることの出来る藤田敏八監督作品はぜんぶ(たった6本だけど)観たけれど、ぜんたいに70年代初めの作品が、アメリカン・ニューシネマっぽかったりして面白く観ることが出来た。ほかの作品も観てみたいと思っている。

 今日の一曲は、ミイの一家がいちど出て行ってまた戻って来たりしたのでこの曲。1965年のヒットで、この頃のSupremes はリリースするシングルを連続して全米No.1に送り込んでいて、この「Back In My Arms Again」がその連続した5曲目。Beatles でもなし得ていない記録として当時話題になった(Beatles はイギリスでの正規シングルリリースではない曲があれこれシングルカットされてるわけだから、いっしょに比べるのは無理っぽいけど)。でもこの曲あたりは正直印象は薄くって、次の「Nothing But Heartaches」がさらにしょぼい曲で、連続No.1の記録は途絶えてしまう。それでもSupremes はその後また盛りかえして、Diana Ross の脱退まで、60年代後半をトップグループとして乗り切って行くことになる。


 

 

■ 2010-06-28(Mon) 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇」

[]Baby's In Black [Beatles] Baby's In Black [Beatles] - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 以前、圓朝の「真景累ヶ淵」を読んだとき、さいごの仇討の展開の部分に、相撲力士が手助けで登場して来た。ちょっとやくざな侠客という感じで、じっさいに力士というのはそういう怪力をあてにされての、用心棒だとかの役を担っていたのだろう。江戸の初期には浪人集団とのつながりがあり、幕末には勤王側の志士となった力士もあったらしい。だいたい大相撲が国技とされるのも、明治天皇が相撲のファンだったということもあるらしいし、もともと神事であった相撲が、国家神道を目指した近代日本のイメージに合致していたこともあるだろう。しかしじっさいのところ、大相撲の興行はプロ・スポーツとしての商業興行で、大相撲の本場所を神事と認識することは難しい。相撲をプロ・スポーツとみればプロレスと同じようなもので、暴力団との関係も濃厚なものだと思う。力士部屋自体が暴力団のようになって新弟子をリンチ殺害したりもするし、今回のように野球賭博とかの問題も出て来る。じっさいのところ、暴力団が絡んだ「八百長」がまかり通っていることはもう「公然の秘密」であって、ここんところをクリア出来ないで、それ以外に噴出して来る不祥事をその都度それ単独として処理して行っても、じっさいにはすべて「八百長」問題につながっているのを隠ぺいするだけになる。もうどうしようもないよね、という感じ。国技として庇護しまくろうとするからおかしくなるのではないか。皆が、ありゃあプロレス並みにダーティーなスポーツだと認識すれば、競技自体も面白く見れるのではないか(プロレスを「ダーティー」といってしまっていいのかよくわからないけれど、イメージとしてね)。まわしのあいだに凶器をはさみ込んで土俵に上がったり、まげの中にも工夫したら何か隠せそう。‥‥まあそれは冗談にしても、庇護しまくるわりには管理が全然出来てないというのは問題だと思う。というか、前近代的な徒弟制度、その管理方法に問題があるんだろう。相撲協会としてのコンプライアンスが不在、という印象。

f:id:crosstalk:20100629100134j:image:right 今日のミイはひんぱんに住処から出て来て、和室から出たところの板張りにゴロリとなって休んでいることが多い。もうあまり付きっきりで子ネコにかまっていなくても良くなったのだろうか。覗いてみると、どうやらもう目も開いているのではないのか、あちこち動き回っている。こんなのが五匹。子育てというのも大変なんだろうな。「ごくろうさん」と、ねぎらってあげよう。わたしも昼間は、グウグウと昼寝してしまった。

 ヴィデオは今日は一本だけ。昨日の続きで、1993年の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇」。監督も主演も同じツイ・ハーク、ジェット・リーなど。今回の舞台は北京で、ようやく西太后もちょっと登場して、清朝と列強とのダイレクトな交渉がテーマに浮上して来る。今回は紫禁城前での獅子舞大会に絡む獅子王争奪の陰謀に、ロシアによる清朝総督暗殺計画を絡めた物語。前回まではイギリス帰りのヒロインが撮る写真機というアイテムがあったけれど、今回はキネマトグラフの登場。図らずもロシアの陰謀を記録してしまう重要な役割を果たしている。
 ここへ来て急にワイヤーアクション全開で、クンフー・アクションというよりは、乱れ飛ぶピーターパンたち、みたいな。しかし、この作品で素晴らしいのは何度か出てくる獅子舞の華麗さ、とりわけ、ラストの紫禁城前での獅子王札争奪戦の美しさで、夜間撮影の赤を基調とした色彩の美しさと、獅子たちの動きのダイナミックスさはほんとうに記憶に残るものだった。このシリーズの美術だとか照明の仕事はほんとうに素晴らしい。
 ここまで三作で、アメリカにロシアは悪党だったり陰謀抱いたりと悪役扱いだけれども、産業革命後のイギリスの技術導入は善しとされるし、前の作品でもイギリス人は新興宗教と政府軍に攻められる被害者的な善玉だった。やっぱ香港映画だから。

 今日の一曲はまた「Baby」ネタで。ウチの黒ネコくんはあまり可愛くありませんが。


 

 

■ 2010-06-27(Sun) 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明」「ワンス

[]Baby, Now That I've Found You [Foundations] Baby, Now That I've Found You [Foundations] - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ミイが住処からはい出して来て、部屋の中をグルグルと観察してまわっている。育児に疲れたのだろうか。凹んだところを見つけると、そこに入れるかどうか試してみている。最近ミイの考えていることがなんとなくわかるようになって、ミイがここに引っ越して来ることも予感していたけれども、この行動、子どもたちが大きくなったときとか、ミイが子離れしたときにとか、新しくそれぞれが棲める場所を探しているんじゃないかと思う。ベッドの下は狭いし、子ネコがもう少しでも大きくなってしまうだけでも窮屈になってしまう。まあ探してもいい場所は見つからないだろうから、わたしが何か考えてあげなくてはならないだろう。
 今日もミイはわたしに甘えて来て、からだをなでてやると目を細めてうれしそうにのどを鳴らす。顔が小さくなって、前よりもいっそうかわいくなったみたい。

 「ひかりTV」の7月分のTV配信の番組表が送られて来た。ああ、フェリーニの「インテルヴィスタ」をやるのは観なくっちゃな、などとずっと見て行くと、7月31日の深夜に、ブレッソンの「ラルジャン」を放映するとある。ええ〜! これ、7月31日の24時を過ぎての放映だから、7月で契約を打ち切ると当然観られなくなるわけだ。そうか、そういう策略で来るわけか。くやしいけれども、策略にはまった形でもう一ヶ月契約を続けようか。8月からは無料サーヴィスでなくて有料になってしまうけれども、どうせ契約解除すればDVDレンタルをまた始めてしまうのだから、少し倹約して、8月もDVDレンタルしないようにすれば乗り切れるか。
 7月放映のであとめぼしいのは、やはりフェリーニがらみの「世にも怪奇な物語」とか、ロジェ・バディムの「血とバラ」、それからゴダールの「小さな兵隊」など。そう、明日からはBSで、怒濤のダクラス・サーク5作品連続放映というのも始まる。

 今日も、配信終了間際のヴィデオをふたつ観る。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明」と、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱」。どちらもツイ・ハーク監督、ジェット・リー主演で、清朝末期に実在した医師/武術家のウォン・フェイフォンをモデルにしたクンフー・アクション。「天地黎明」は1991年公開のシリーズ第一作で、欧米列強に侵略される中国で主人公は自警団を組織し、地元の悪徳組織、奴隷商人みたいなアメリカ商人と戦う。映画製作時はもうワイヤー・アクションまっさかりの時代ではないかと思うけれども、そんなに宙を舞うようなアクションという感じはしない。ただ、クライマックスの倉庫内でのアクションははしごなどを駆使して、もう空中戦というに近いかもしれない。ロザムンド・クワンの演じるヒロインが英国帰りで、ほとんど西洋かぶれみたいなキャラなんだけれども、これは欧米先進技術を中国も取り入れなければいけないというその象徴的存在で、中国から搾取しようとする欧米人とは同一視されないようだ。難しいところ。
 コミカルな要素を前面に押し出した演出はこのシリーズの基調になるけれども、やっぱりクンフー・アクションはすごいな、と思う。19世紀末の街並を再現したセットの美術も素晴らしい。

 次の「天地大乱」は1992年公開。反欧米を前面に出した武装宗教団体と政府軍、そしてウォン・フェイフォンの味方することになる孫文ら革命勢力、宗教団体の被害者であったり陰謀をめぐらす側だったりのイギリス領事館の人々らが、相互の利害関係で敵対したり共闘したりするストーリーがかなり面白い。そして何より、教団のリーダー、政府軍提督それぞれと主人公の、笑っちゃうぐらい強烈なクンフー・アクション。演じる役者たちの武術的な力量も相当のものなのだろうけれども、この演出は素晴らしい。前作でも武術の世界が変わって来たことを告げるような描写があったけれど、この作品でも「銃」に相対する武術、という側面もクローズアップされる。また、アクションを生かすセット美術も、照明も、特筆すべきものがある。なんて楽しいんだろう。

 今日の一曲は子ネコにちなんで「Baby」の曲。しばらくこの路線をやれば、いちいち考えたりしなくてもいくらでも見つけることが出来る。ほら、見つけた! というのが今日の曲。1967年にヒットしたイギリスのグループ、Foundations のデビュー曲で、ちょっとばかしモータウン・サウンド風の一曲。


 

 

■ 2010-06-26(Sat) 「八月はエロスの匂い」「もっとしなやかに もっとしたたかに」

[]Mother's Little Helper [Rolling Stones] Mother's Little Helper [Rolling Stones] - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ベランダのバジルの芽がいくつか出て来た。さいしょに発芽していたひとつは消滅してしまって、あとから種を買って来て捲いたのから、かたまった場所で発芽。あまり密集しすぎているし、ほかの場所からはぜんぜん芽が出ないのが不満。クレソンの方もずいぶん成長して来たのだけれども、去年と同じように青虫が発生し、葉っぱをどんどん食べはじめた。去年はこれでクレソンはほとんど全滅してしまったので、今年は芋虫駆除につとめる。駆除といっても単純なやり方で、クレソンの葉や茎を指ではじいてやると、ついていた芋虫が下に落ちる。これをつまみ出すだけ。小さなプランターなのにものすごい数の芋虫が寄生していて、昨日も今日も十匹以上駆除した。昨日のやり方は甘かったと、今日は徹底して駆除して、プランターも室内に移動した。しかし、あれだけの数で寄生すると、小さなプランターのなかの葉っぱなんかすぐに食べ尽くしてしまい、けっきょく自分たちも飢え死にしてしまうんじゃないのか。まあ地球に寄生している人類みたいなもので、資源を食いつくす前に自分が先に寿命を全うしてしまえば、あとのことは関係ない、ってか。

 ミイはいままでになくわたしに甘えて来るようになった。わたしの近くにねっころがって、「かまって」と催促する。子育てで疲れてしまって、わたくしだって癒されたいのですわ、というところだろう。夕方になって外へ出ていき、帰って来たと思ったらミイのあとにノラがくっついて来て、ずうずうしくも部屋に入って来た。これは堪忍してほしい。ノラからはこっちが養育費を取り上げたいと思っているくらいなんだから、ノラまでここで養っていこうなど思ったこともない。かわいくないし。「こらっ」と追い出す。
 それからしばらくして、こんどはユウがベランダに来た。ユウは啼き声がいちばんうるさく、わたしの方にミーミー啼きつき、それでわたしが近づくとまた「フーッ」と威嚇して来る。ベランダからは退散するけれど、前の駐車場あたりでたむろしている様子。すると、ここでミイが部屋から出て来て駐車場へ降りて行った。すぐに、ミイの消えた物陰からネコ同士の喧嘩するうなり声、叫び声のようなのが聴こえた。ミイがユウを追い出しているわけだ。親子なのに非情な世界。駐車場の車の下にミイの姿が見えたけれども、まったく平然としている。ミイとユウではまるで勝負にならないだろう。こういう感じでノラも追い出してくれるといいんだけれども。
 子ネコたち、覗いてみた感じでは、少し耳とかもピンとして来て、もう自分の足でもぞもぞ這い回っている感じ。薄目が開いて来たように見えたりするけれど、まだ目は見えていないかな。おそらくこの子たちが産まれたのは今週の月曜日から火曜日ぐらいのことだと思うから、まだ生後五日ぐらいのものなんだ。今日良くみると、鼻の下の黒いバカネコマークは、五匹のうち三匹にマーキングされている。前に書いたように、真っ白いのから黒の勝ったものまでほんとうにグラディーションになっていて、固体識別がとても簡単。ただ、二段階めに黒い二匹がちょっと似ていて、ここだけが区別が付きにくい。わたし的には二番めに白いヤツ、ちょっと黒のブチの入っている子が、ミイに似ているし、鼻の下にバカマークも刻印されていないので、情がうつる気がする。

 今日も「ひかりTV」のヴィデオ配信で、また藤田敏八監督の作品をふたつ観る。まずは、1972年の「八月はエロスの匂い」で、よく知らないけれども、これが「日活ロマンポルノ」の第一作、らしい。脚本は藤田敏八と大和屋竺で、今の感覚でこれを「ポルノ」と捉えると、かなりの肩透かしをくってしまう。画面はおそらくはTV用にトリミングされている模様。
 主人公の女性はデパートの貴金属売り場に勤めているけれど、若い男がそのレジから金を奪って行く。誰も目撃者がいないので一時は「狂言」と疑われるし、彼女の学生時代の教師だった恋人の反応もすっきりしない。有休を取って彼と遊園地に遊びに行った彼女は、そこで金を奪った男をみつけ、彼と二人でそのあとを追跡するのだけれども、という作品。
 なんか、こうやってごく乱暴にあらすじ書いて、映画のことを思い出してみると、なんだ、ものすごく面白い映画だったじゃないか、などと思ってみたりする。金を奪った男は、何人かの「フォーク・グループ」の一員のようで、彼らは車でギターをかき鳴らし歌を唄い、海に行って裸で泳いだりする放埒な集団で、反社会的な匂いもする。しかし男はその集団の中でも「シラミ」と呼ばれ、ちょっと蔑まれている印象。この集団のフォークに対応するように、女の彼氏のBGMはジャズになる。「体制」vs.「反体制」、オープン・ロケという雰囲気、演出スタイルなどにAIP映画に共通する空気を感じさせられ、じつは観念的な題材から、モンテ・ヘルマンにも近いんじゃないか、などと思ってしまう。もうちょっと演出がしっかりしていれば、「いい作品」だったのに、と思う。

 もう一本は、1979年の「もっとしなやかに もっとしたたかに」。脚本は小林竜雄。森下愛子、奥田瑛二らの出演で、逃げられた妻を探す男が不思議な雰囲気の少女と出会い、奇妙な疑似家族的な生活を始めるという感じ。これはもう藤田敏八監督はあきらかに、森下愛子に秋吉久美子的なものを仮託している。それはいいんだけれども、どうしてこう、そつなくもすんなりとした演出になってしまうのか。藤田敏八監督、普通に演出上手じゃん、というのではなく、やはり彼の作品はどこかぶきっちょな演出でもって、変な味わいを出してくれなくっては面白くない。作品の完成度はもう「八月はエロスの匂い」など問題にならないのだけれども、作品の魅力(森下愛子の、魅力、ではない)としては、「八月はエロスの匂い」の方にこそ、愛着が残ってしまう気がする。先に書いたことと矛盾してしまうようだけれども、やはり、ウェルメイドな作品を作ればいいというものではない。「八月はエロスの匂い」は、あれはあれでOK、なのだろう。

 今日の一曲は、おかあさんネコのミイさんを、ちょっとばかり癒してあげたりして、お母さんのちょっとした手助けくらいの役にはなったわたしを癒してくれる曲。これは「Paint It Black!」に続く1966年夏のヒット曲で、この頃はまだ生きていたBrian Jones のシタールが聴かれるわけです。



 

 

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