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■ 2018-12-29(Sat)

[]「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳 「プニン」ウラジーミル・ナボコフ:著 大橋吉之輔:訳 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 愛おしいプニン。万年助教授のプニン。皆にその所作を笑われているプニン。でも、プニンの内面には、やはり「哀しみ」が隠されている。
 もちろん、ナボコフには「青白い炎」とか「アーダ」とか「ロリータ」、その他すばらしい作品があるのだけれども、けっきょく、ナボコフの作品の中でいちばん愛おしい作品とは、この「プニン」なのではないだろうか。

 彼の「文学講義」にあらわされる、博学の底からにじみ出るユーモア精神が、ストレートにその作品に表出されたのは、やはりこの「プニン」なのではないだろうか。そして、ひとつの作品としての、断章ごとの組み立て方の面白さ、アメリカ文化とロシア文化との差異というか、「世界をみつめる人たちは、同じ視点から世界をみているわけではないのだ」という視点。そして、まさにナボコフらしい、その「修辞」と「隠喩」の豊富さ。みごとなまでのその「省略」の効果(誰もが、プニンの住まいの外の小川に転がるサッカーボールには泣けるのだ)。ラストの、二台のトラックにはさまれたプニンの車は、いったいどこへ行くのだろうか?

 もしもあなたが、「ナボコフなんて、気取った<芸術家小説>(「セバスチャン・ナイト」「賜物」)、もしくは<マニアックな気狂い>(「ロリータ」「青白い炎」「アーダ」)ばかりを書いていた作家だと思っているとしたら、この「プニン」を読めば、ナボコフの「奥深さ」、(屈折はしているだろうけれども)その「優しさ」にうたれるのではないだろうか。ナボコフの著作のベスト3を選ぶなら、この作品を選びそこねてはならないのだ!


 

■ 2018-12-23(Sun)

[]「ジキル博士とハイド氏」ロバート・ルイス・スティーブンスン:著 夏来健次:訳 「ジキル博士とハイド氏」ロバート・ルイス・スティーブンスン:著 夏来健次:訳 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ナボコフの「講義」はまだ読んでいないわけだけれども、講義のために選んだ世界文学作品七作の中に、このスティーブンスンの「ジキル博士とハイド氏」を選んでいることには、ちょっとおどろく。他に選ばれたジョイスやフロベール、プルーストなどに比べ、スティーブンスンはあまりに<マイナー>ではないのか。どのようにナボコフが評価しているのか早く読んでみたいが、スティーブンスンといえば、ボルヘスもまたその作品で彼のことを書いているわけだし、あの中島敦もスティーブンスンの伝記的な作品を遺している。ナボコフも含め、これら<理知的>な作家を惹き付けるスティーブンスンの魅力とは何なのだろう。そんな興味もあって、スティーブンスンの代表作といってもいいだろう、この作品を読んでみた。

 言わずと知れたことだが、この作品は「二重人格」の代名詞ともされる作品であって、その先駆的意味合いは大きいだろう。そしてこの作品は<ミステリー>仕立てになっているわけで、絞られた少数の登場人物の中で、「真相はいかに?」という展開になっている。すでに冒頭の展開から、謎の「ハイド氏」という存在は極悪人とされているわけで、それをアタスンという弁護士が追う。アタスンの友人のジキル博士の行動はあまりに不自然で、どう見てもハイド氏をかくまっているようにしかみえない。アタスンが真相を追うというよりも、ジキル博士の方から崩れ落ちて行き、周囲に「どうなってるの?」という疑惑が拡がるという展開。それでジキル博士は不可解な情況で死去し、遺されたジキル博士の書いた二通の手紙で、すべての真相が明らかになるわけだ。

 ここには、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」に似た、マッド・サイエンティストによって「生まれるべきでなかった」存在が生み出されてしまった、という構造が読み取れるのだけれども、「フランケンシュタイン」以上に、「怪物」を生み出した存在(ジキル博士)と、「怪物」(ハイド氏)との「陰」と「陽」との関係がはっきりしている。人には、表には出すことができない隠された<負>の性癖がある。その<負>の部分の制御が取れなくなるというのは、これは普遍的な<犯罪>の原理ではあり、社会的に認知された教養人としての<表>の顔の裏側に、犯罪者でしかない<裏>の顔を隠し持っていた、ということは今の世にも多くみられる<犯罪>のかたちではあろう。というか、<犯罪>とはすべて、このようなものだということもできるのだろう。だからこそ、この作品には<普遍的>価値が付与されているだろうか。

 作品としては、その遺されたジキル博士の手紙が示されたところで「スパッ!」と終わってしまうわけで、普通のミステリー小説であれば、この手紙のあとにそれを読んだ人物(この作品ではアタスン弁護士)が、それなりの感慨を述べたり、道徳的なことを語ったりするのだと思うが、そういうモラリスティックな展開はまるで排除されている。そういうことはすべて、この作品を読む読者にまかされているわけだ。そこにこそ、この作品が一般のミステリー作品になることから、いってみれば「純文学」の地位を守っているところのことかもしれない。

 この創元推理文庫版、残念なのは、巻末の「解説」がこの作品からの二次創作のことばかりを書き、肝心のこの作品自体への解説がまるでないことだろう。


 

■ 2018-12-19(Wed)

[]「グッド・バイ」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「グッド・バイ」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

        

 太宰治の未完の遺作。新聞連載のとちゅうで太宰は入水心中してしまったのだ。わずか20ページほど書かれたにすぎないけれども、つまりは「モテモテ」の男性が本業の編集に専念しようと、付き合っている女性たちと別れようとするストーリー。ユーモア小説というかコメディというか、それで男は考えて、付き合っている女たち(十人ぐらいいるらしい)に、「今度この女性と結婚するんで」とその女性をともなって会いに行き、いやおうもなく別れようという魂胆。それでその、連れて行く(ウソの)婚約者は、一方の女性が「この人じゃあわたしの負けね」とおもってしまうような、とびっきりの美人でなくってはならない。それで男が思い出したのが、普段は肉体労働で稼いでいるある女性なのだが、ちゃんと化粧してちゃんとした服を着ればものすっごい美人なのである。しかし、その声は鴉(からす)みたいな甲高い声だから、しゃべらせたらいけない。‥‥それで、それまで付き合っていた女にそれぞれ、その鴉声の女といっしょに会いに行こうという話だったらしい。それぞれの女性との「別れ」のさまを描いて行きながら、ラストにはそれなりの「オチ」も用意されていたという。

 こういう話って、あのジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」みたいじゃん?とか思って、それで特にその怪力で美人のキヌ子という女性のキャラクターも面白いし、ま、さいごまで太宰は「オレってモテちゃってさ‥‥」てな人だったわけだけれども、これはどこかカラッと明るい、面白そうな作品だったのにね。さいごにこういうユーモア小説みたいなのを書きかけで残したというのは、これは太宰治のダンディズムだったのでしょうか?


 

■ 2018-12-17(Mon)

[]「櫻桃」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「櫻桃」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 10ページに満たない短篇。この全集本で、そういう短いのはぜんぶすっ飛ばして読まないで来たのだけれども、太宰の命日は「桜桃忌」ともいわれているわけだし、ちょっと読んでみた。作者の名、「太宰」が実名で出てくるし、フィクションというよりもノンフィクションに近いのだろう。自分の家族、妻と三人の子どもたちのこと。その冒頭は「子供より親が大事、と思いたい」と始まる。家族全員揃っての食事のとき、妻は「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるやうね」といい、太宰が「それぢや、お前はどこだ」と聞くと、「この、お乳とお乳のあひだに、‥‥涙の谷、‥‥」と答えるのだ。これはじっさいに太宰の妻がそのようなことばを発したのだろう。「涙の谷」という、どこか聖書的な言葉がこの短篇のキーワードになる。太宰は、「さう言はれて、夫は、ひがんだ」と書く。仕事にかこつけて家を出て、飲みに行く。そこで櫻桃が出されるのである。ウチの子どもは櫻桃など食べたことないだろうと思うのだが、ここんところはもうちょっとうまく書けばよかっただろうと思う。でも、「涙の谷」は、いい。


 

[]「人間失格」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「人間失格」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

        

 これが、完成した作品としては太宰の最後の作品か。
 わたしは、二十歳ぐらいのときに「ドストエフスキーを全部読んでやる!」と意気込んで、その全集を読みはじめたのだけれども、「罪と罰」を読み終えたところで挫折した(きっと、そのあとの「未成年」かなんかで「や〜めた!」となったのだろうけれども、そのことは今はどうでもいい)。そんなことをなぜ書くかというと、この「人間失格」を読んで、そんなドストエフスキーの「地下生活者の手記」のかすかな思い出がよみがえったから。‥‥もう今では、その「地下生活者の手記」がどんな小説だったかすら思い出せないのだけれども、どこか、心の底で「これだよ!」と思い出させようとする声が聞える気がする。

 いいんだけれども、ただ、太宰治の欠点というか、わたしが読みあぐねてしまうのは、いつも彼が「オレって、モテるんだよね!」ということから離れられないことで、ま、じっさいにそうだったようだから、そこから離れた<生>のあり方は彼には考え及ぶことも出来なかったのだろうけれども、「非モテ」だった(でもないのか?)自分などから読むと、「そういう心理というか境遇には気もちが通わないんだよね!」という感覚になってしまう。


 

■ 2018-12-15(Sat)

[]「斜陽」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) 「斜陽」太宰治:著(太宰治全集10 小説9より) - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 没落する旧華族の女性を「語り手」として書かれた中編。女性の視点から書かれたというのでは、先に読んだ「ヴィヨンの妻」と共通している。

 その前半は非常に面白く読んだのだけれども、太宰自身がモデルらしい「小説家」が登場してからはまるでつまらない。あとで解説(解題)を読むと、この語り手の女性のモデルは太田静子という歌人で、太宰は彼女から彼女の日記を借り受け、この作品の素材にしたらしい。どうもこの作品の前半はほとんど、その太田静子の日記の「丸写し」らしく、つまり、わたしが読んで「これはおもしろい」と思ったのは、その太田静子の日記に対しての感想であり、太宰の創作の加味された後半は「どうしようもない」ということになる。

 「ヴィヨンの妻」では、「人非人でもいいじゃないの‥‥」という<自己弁護>がうまく功を奏した感があったけれども、この「斜陽」は、わたしには受け付けられない。例えば、次のようなところが、そんな「ヴィヨンの妻」に対応するような<自己弁護>だろうか。

 ああ、何かこの人たちは、間違ってゐる。しかし、この人たちも、私の戀の場合と同じように、かうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世に生まれて來た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きてゐる事。生きてゐる事。ああ、それは、何といふやりきれない息(いき)もたえだえの大事業であらうか。

 これは、ほとんど恥ずかしいだけの<自己弁護>であろう。ここには思索のあともなく、「愚かさ」だけを露呈しているとしかいえない。ここに、わたしがまったく好きになれない、愚かな<太宰治>なるものがある、としかいえないだろう。


 

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