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■ 2018-08-11(Sat)

[]イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 十年前の作品の再演。実はわたしはその十年前の舞台を観ているのだけれども、例によって<これっぽっちも>記憶していない。この日記にそのときの感想を書いてあるのだけれども、どうもその十年前にそろそろ「コンテンポラリー・ダンスの危機」みたいな空気があったのか、わたしはけっこう面倒なことをぐちゃぐちゃと書いているようだが、そのほとんどはイデビアン・クルーの舞台とは無関係のことだし、今日その十年ぶりの再演を観たあとに読んでみると、「オレ、けっこういいかげんな見方をしているな」みたいな感想にもなる。そもそもが安藤洋子さんを見間違えている気配があるし(再演で配役が代わったという可能性も、ないわけではないが)。

 それで今日の舞台。これは十年前も書いているけれども「喜劇・駅前旅館」みたいなもの。ただ、じっさいに「喜劇・駅前旅館」という映画は存在していて、1958年に井伏鱒二原作、豊田四郎監督で撮られていて、これはけっこうヒットしたようで配給の東宝は以後「駅前」シリーズを連続してつくることになったみたい。YouTubeでこの「駅前旅館」の予告を観ることは出来るのだけれども、いや、イデビアンの舞台とはまるっきし違う(ま、同じなわけもないのだが)。わたしは舞台の井出さんの番頭がしらは、これはフランキー堺がモデルだろうと思って観ていたのだけれども、映画「駅前旅館」にフランキー堺は出演はしているけれども、番頭役ではなかった。映画での番頭役は森繁久彌と伴淳三郎なのだった。

 その「排気口」の舞台はまさしく旅館が舞台で、奥行きの深い舞台は白木の柱と枠だけの障子戸だけで奥の部屋、廊下、手前の部屋と分けられて、いってみれば映画の「縦の構図」を現前させたものともみえ、総勢17人のダンサー(「踊り子」といいたくなるが)も前景、中景、後景と分かれて、それぞれまるで異なったダンス(踊り)を見せたりもして、これがとっても刺激的というか、「見たことのない構成ではないか?」という感じになる。出演者は井出さんが番頭で、あとたいていの女性ダンサーは女中陣(中にひとり、ヒゲづらの男性も)、それから女中頭とか女将さんとかいるわけだろう。旅館付きの芸者が二人に板前、そして「ご隠居さん」みたいな老人らが旅館スタッフで、そこに黒服につばひろの帽子の梶芽衣子みたいな女性と、やっぱ黒っぽい服のイケイケ系みたいな男子とがカップルで旅館の客。このメンバーで全体では何かしらストーリーが展開しているようだが、小ネタとしてはわかるように思うのだけれども、大きなストーリーはよくわっかりませ〜ん。どうも客の男女はケンカして女が出て行ってしまい、それでなぜか男客の方が番頭らにいたぶられるという展開はある。
 ま、そういう「どういう意味?」とかあまり考えないで、このユニークなダンス世界を楽しむことこそ<いちばん>だろう。動きにくいであろう「和服」をまとっての、そういった制約を考えてのドメスティックなダンス展開なのだろうけれども、それは時に「昭和の日本映画で<ウエストサイド物語>をやったら」みたいなダイナミックさと娯楽性とを感じさせてくれる。先に書いたように、奥行きの深い舞台をうまく使っての立体的な演出、そしてあちらこちらで感じさせる昭和の日本映画からの引用っぽい演出など、「このシーンは何の映画だろう?」*1みたいな引きずり方など、観る人の興味をどこまでも引っぱる演出(振付)はすばらしい。やはりこの作品、「和製コンテンポラリー・ダンス」の、最高水準の作品のひとつだろうとは思う。観終わったあとの「爽快感」もまた、相当なものだった。


 

*1:小津映画みたいなシーンもあったし、「貞子」も、いっしゅん登場するのだ

■ 2018-08-03(Fri)

[]ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』黒田育世」黒田育世:振付/出演 @日暮里・d-倉庫 ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』黒田育世」黒田育世:振付/出演 @日暮里・d-倉庫 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 音楽が伊福部昭のミックス。誰もが「おっ! 伊福部昭!」と思うところだろう。正直わたしは、黒田さんはBATIKでの公演のように、自分の身体がヘロヘロの限界に行くまで踊り倒すような舞台になるかと思い、またそういう舞台を期待していたのだけれども、ものすごくキッチリと構成された舞台で、その背後には<大きなストーリー>があるのだと、思わざるを得ないような、そんな舞台だった。
 全体が非常に抑制されていて、それはわたしの眼には「モダンダンスみたいだ」と映り、今わたしが観たいところの、「何かを壊していくような舞台」(先日の伊藤キムの舞台にはそのようなものを読み取った)というようなものは残念ながら感じ取れなかった。わたしはその、今日のダンスのストーリーを読み取れなかったし。

 印象としてどこかコンサヴァティヴな公演だったと思い、彼女がこういうところに落ち着いてしまわないでほしい、そういう感想を抱く公演だった。


 

■ 2018-07-28(Sat)

[]ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』伊藤キム」伊藤キム:振付/出演 @日暮里・d-倉庫 ダンスがみたい! 20「お題、土方巽『病める舞姫』伊藤キム」伊藤キム:振付/出演 @日暮里・d-倉庫 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 こうやってしばらくは、全部で7組のダンサー/振付家が、その土方巽の「病める舞姫」をテーマに舞われるという面白そうな企画で、しかしわたしはその「病める舞姫」は読んだこともない。

 いちおうわたしは、伊藤キム氏が立ち上げられた「フィジカルシアターカンパニーGERO」の旗揚げ公演は観ているのだけれども、実はこの記憶はすっかり消えてしまっている。むしろその前の松井周演出の「サンプル」の舞台に出演されていた伊藤キム氏、さらにその前の仙川での「JAZZ ART せんがわ」に出演されていた伊藤キム氏のパフォーマンスの方が、いくらかなりと記憶に残っているところがある。それで今日の公演、おそらくは「ことば」へのこだわりはあるのではないか、という予想みたいなものはあったけれども、それは一面で的中していたといっていいのか。

 客入れの段階で、舞台には黒地に白抜き文字で、おそらくはその「病める舞姫」のテキストが映されている(読んだことないからわからないけど、多分そうだ)。開演すると、下手のドアを模したところから伊藤キムが、「おじゃましま〜す」みたいに忍び込んで来る。ちょっと順番は忘れたけれども、その「部屋」を模した空間にはプリント紙が大量に置かれていて、伊藤キムはそのプリントを手に取って読むのだったか、それともその前から暗誦しはじめているのだったか、とにかくそれは「病める舞姫」のテキストであろう。彼は室内からそんなプリント紙を漁りはじめる。暗誦はどこまでも続く。よくある「三段ボックス」の裏側を頭でぶち破り、そこから顔を出したりもする。順番は忘れたが、いちど舞台は暗転し、そのあと彼は舞台下手に置かれていたギターを手にし、歌いはじめたりもする。置かれていた小型シュレッダーにそんなプリント紙をぶち込み、細断しようともする。そんなシュレッダーが絶妙のタイミングで「紙づまり」でストップしたり。
 暗くなった舞台の奥で彼は着ていたものをすべて脱ぎ、アイパッチまで外して黒いジャケットを着、「いかにも」というかつらをかぶり、素通しのメガネをかけて踊りはじめる。彼の顔をモンタージュした映像も投影される。どこか「狂気」を感じさせる、凄みのあるパフォーマンス。シュレッダーにかけられた紙片を舞台中にぶちまける。その衣裳もメガネもかつらも外して元の出で立ちにもどる。

 ‥‥わたしの読みでは、ここにはしっかりとしたストーリー展開があると思った。「土方巽の部屋」に忍び込んだ主人公が、部屋にある原稿で「病める舞姫」を読む。そのことは主人公に「変身<メタモルフォーシス>」を強いるだろう。それは「狂気」を孕んだものになるだろう。切り刻まれ、もみくちゃにされた土方の原稿は宙を舞い、世界を賛美するだろう。
 「ダンサー/舞踏家」としての経験、「フィジカルシアター」の経験、そして「演劇」への参加を経て、「身体表現」の様々な位相をこの舞台にまとめて提示し、そのことが土方巽へのみごとなオマージュとなっていたのではないのか。

 近年わたしは「ダンス/パフォーマンス」がわからない、という気もちが、どんな公演を観てもついてまわっていたのだけれども、わたしにはこの日の伊藤キムの「ダンス/パフォーマンス」はみごとなものと眼に映り、「これはすばらしい舞台ではないのか」と、久々に舞台から大きな感銘を受けたのだった。マーヴェラス!



■ 2018-07-21(Sat)

[]伊藤郁女「私は言葉を信じないので踊る」伊藤郁女:テキスト・演出・振付 伊藤郁女・伊藤博史:出演 @彩の国さいたま芸術劇場小ホール 伊藤郁女「私は言葉を信じないので踊る」伊藤郁女:テキスト・演出・振付 伊藤郁女・伊藤博史:出演 @彩の国さいたま芸術劇場小ホール - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 わたし個人としては、もう少しこの伊藤郁女の「自分」をあらわすダンスを観たかった気はする。ずいぶん昔に彼女のダンスを観たような記憶があるだけに、そこから喚起されるものをもっと欲しかった。
 前半とかにちょっと観れた彼女のダンスは、どこか「ネコ」を思わせられるようなところもあり、そこには魅力もあったと思う。

 しかし今回の公演は彼女と、その父親とのインティメートな共演というか、悪いけれども、それは第三者である観客にみせるようなものではないだろうと思った。そして父親は彫刻家で、さらに過去にイヨネスコとかの演劇の演出をしたことがああるという。そういうところで非常に「舞台慣れ」されている方で、それはつまり予定調和的に<面白味のない>舞台だった、ということも出来る。
 もちろん、この父娘にとっては、こうやって舞台の上で観客を前にして<踊る>ということが、いかに<意味>があったのか、ということは充分に理解出来るし(わたしだって人前で娘と踊りたいという願望があったりする)、その舞台を共感を持って見つめる観客が存在することも認める。それでもやはり、今のわたしが観たい種類の舞台ではなかったことはたしかなこと(あくまで。私的な感想ですので)。

 タイトルの、「私は言葉を信じないので踊る」というのはヤバいというかいいかげんというか、そのことは突き詰めて聞いてみたいところがある。「なぜ、<踊る>ことは信じられるのか?」。そこにこそ、さいしょの<疑問>を置くべきではないのか?と、まだまだ「言葉」を信頼するわたしは思うのであった。


 

■ 2018-05-05(Sat)

[]「Responding to Ko Murobushi #3 Alexandra Rogovska」@北千住・BUoY 「Responding to Ko Murobushi #3 Alexandra Rogovska」@北千住・BUoY - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

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 室伏鴻さん没後の、マネージャーのAさんの尽力というものには驚異的なものがある。この「Responding to Ko Murobushi」のシリーズも、これから八月末まで十人以上の海外ダンサーを招いて公演を実施されるし、早稲田には「shy」という、室伏さんアーカイヴのカフェを立ち上げられている。そして何よりも、河出書房新社からの「室伏鴻集成」の刊行。じっさいにどういう経緯でこのようなプロジェクトが実現されたのかわからないけれども(こんどお会いしたらそのあたり、いろいろとお聞きしてみたい)、今回のチラシをよくみると、このイヴェントの主催は「一般社団法人 Ko&Edge」となっていて、つまり社団法人も立ち上げられたわけなのか。社団法人申請というのは役所との煩雑なやり取りもあり、めったやたらな気分で取りかかれるものではないと承知している。すごいな〜。もう、「偉大なマネージャー」と呼ばせていただきたくなる。

 今日のダンサーのAlexandra Rogovskaさんは、ウクライナ生まれのギリシャ国籍。サシャ・ヴァルツの作品などに出演し、室伏さんのさいごのプロジェクト、「真夜中のニジンスキー」に参加されていた方ということ。
 舞台は、床に足を縮めて横たわるダンサーが、からだの上に銀のヴィニールをかぶってじっとしているところから始まる。このダンサーの姿勢は室伏さんの「意匠」といってもいい姿勢だし、そして「銀」は室伏さんのカラーだ。思いっきり、室伏さんへのオマージュから始まった感じ。少しずつ動き始めるダンサーはその銀のヴィニールから抜け出し、舞台を這いながらも次第に跳躍をも始めるようになる。この導入部は、繭(もしくは蛹)から抜け出した昆虫が脱皮を繰り返し、飛翔するまでをあらわしたようにも思えた。‥‥動きはたしかに「舞踏」的なものからの影響が強いのだろうけれども、やはり、こういってはアレだけれども、西欧のダンサーの身体性は抜けられないのだな、とも思いながら観ていた。
 彼女の長い茶髪を使っての、その顔を覆うような振付けもあったのだけれども、あれが日本人の黒髪ならばそれこそ「貞子」というか、舞踏的に観られることにもなるのだろうけれども、「茶髪」というのはやはり違うんだな、という感想も。
 別の、床に拡げられていた銀のヴィニールを使っての、そのヴィニールの表面に由る「しわ」の印象に残るシーンなどもあったが、わたしはバックに流れるノイズ音〜ノイズ音楽に惹かれるところがあり、やはり海外のアーティストは、こういう「選曲の妙」というのを心得ておられるな、などと思うのだった。


 

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