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■ 2017-12-01(Fri)

[] 黒沢美香追悼企画 美香さんありがとう 追悼特別上映会〜ダンサー黒沢美香の世界〜「命日特別上映+トーク『黒沢美香とミニマル』」@渋谷・UPLINK  黒沢美香追悼企画 美香さんありがとう 追悼特別上映会〜ダンサー黒沢美香の世界〜「命日特別上映+トーク『黒沢美香とミニマル』」@渋谷・UPLINK - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

上映作品:
 ●「Wave」稽古風景
 ●「クロソフスキー/アクタイオーンの水浴を覗くディアーナ」
 ●「Edge2-ダンサー黒沢美香・もう私のやることをダンスと言わなくていい-」
 ●「Wave 踊る人」

 映像では、やはり「Wave」が印象に残った、というか、こういう動きはわたしの記憶にある美香さんの舞台でも見られたもので、彼女の<ダンス>の<原点>はここにあるのだろう、と思った。それと、黒沢美香さんを追ったドキュメント的作品の「Edge2」にも、彼女の創作の秘密が語られていただろうか。それでひとつわからないのだけれども、「クロソフスキー/アクタイオーンの水浴を覗くディアーナ」というタイトルだけれども、今まで意識しなかったのだけれども、当然水浴を覗き見するのはアクタイオーンで、覗き見されるのがディアーナなわけである。もちろん、クロソウスキーも「ディアーナの水浴」で、その視点から書いているはずである(未読)。このタイトルは黒沢美香さんによるものだろうけれども、この<逆転>には、どのような意図があったのだろうか。

 武藤さんのレクチャーは、アメリカの「ジャドソン・チャーチ」などのミニマリストの運動を美術のミニマリズムとの関連などから解き明かされ、とてもわかりやすいものだった。その中で、黒沢美香さんとアメリカのミニマリストとの差異について、「美香さんの芸能への接近」を語られたのは、ちょっと核心をつかれたという感じ。‥‥そうなのだ。美香さんの「芸能」への意識というのは、ひとつのポイントだろう。そして、彼女のユーモア感覚、そして、彼女の言語感覚とか、考えることは多い。


■ 2017-05-06(Sat)

[]「ダマスカスからの声」ムハンマド・アリ=アッタール、鴻英良 @三鷹・SCOOL 「ダマスカスからの声」ムハンマド・アリ=アッタール、鴻英良 @三鷹・SCOOL - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 この5月3日、4日に静岡の「ふじのくにせかい演劇祭」で上演された「ダマスカス While I Was Waiting」の作者、ムハンマド・アリ=アッタール氏を招き、シリアで演劇活動を続け今はベルリンへ亡命されているというアリ=アッタール氏のみたシリア、彼の演劇活動についての話をうかがうという催し。わたしは詳細は知らないのだけれども、彼を日本に招聘したのは「ふじのくにせかい演劇祭」を主宰するSPACであり、この日のこのイヴェントはSPACの承認するものではなく、このイヴェントの公的な宣伝は出来なかったという(ただ、「そんなイヴェントは認めない」という圧力はなく、あくまで宣伝活動はしないでくれ、というものだったらしいが)。このイヴェントが成立したのは、アリ=アッタール氏の「日本の観客とふれ合いたい」という意志、希望によっても実現したものだろう。参加者は約二十名。決して多い数ではないだろうけれども、その「ふじのくにせかい演劇祭」で彼の演劇を観て来たという、熱心な観客も多かったみたいだ(そういう意味では何も知らずに聴きに来たわたしの居場所が狭い)。

 アリ=アッタール氏の話はまずはシリアの現在に至る歴史。1970年にハーフィズ・アサドが権力を把握し、以後現在までアサド一族の支配がつづいている。アリ=アッタール氏にいわせれば、「シリアは北朝鮮に似ている」と。「現在、世界では右翼勢力が台頭して来ているが、そういう世界で起こってることの総和、結果として<シリア>がある」と。アリ=アッタール氏がシリアから亡命したのはその「演劇」によるものというより、新聞に書いたコラムなどによるものらしい(演劇の影響を、現政権は重大視していないとのこと)。
 彼がその演劇活動の中で学んだことは、「アートの意味、効果は限られたことである。しかし、限られた効果であっても、それは長く長く残るものだと思う」「今、自分が持っている道具で立ち向かってみる。それが意味のあるものか、有効なことなのか確かめる。そこに直接的な演劇の力がある」「アートは、現実に抵抗するために必要不可欠なものである。絶望したり、現実を理解出来なくならないために」。

 今の日本もまた急速に右傾化しようとしている中で、表現の世界でも「自己規制」という動きがあらわれ始めている。そういう中で、この日このアリ=アッタール氏のこういう話を聴けたことは、わたしにとっても刺激的なことではあった。
 彼の話を聴いていて思い浮かべたのは、オルハン・パムクの「雪」だった。「雪」の主人公もまた右傾化したトルコの中で政府批判コラムを新聞に掲載し、そのために迫害され、アリ=アッタール氏と同じようにベルリンに亡命していた。「雪」の中でも演劇というものが重要な役割を果たすことになるし、「中東ではこのようなかたちで政治というものは動いて行くのか」という「雪」の感想は、今日のアリ=アッタール氏の話をフォローするものだったかもしれない。とにかくはわたしにとって刺激的なトークであったことはまちがいない。聴きに来てよかった。

 

■ 2008-05-10(Sat)

[] 『第2回大江健三郎賞公開対談 大江健三郎×岡田利規』 @講談社の本社6階講堂 5月8日19時より  『第2回大江健三郎賞公開対談 大江健三郎×岡田利規』 @講談社の本社6階講堂 5月8日19時より - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 最初のあいさつで、岡田さんは「この場所はアウエーですからねと、(前回受賞の)長嶋さんに云われました。」と語られていたけれど、そういえば始まる前に前の方にいた方は、思い出してみればその長嶋有さんだったのでした。こういう文学関係の対談というのはあまり体験した記憶がないのですが、つまりはトークショーですか。この大江健三郎賞公開対談というのは、賞が岡田利規さんに決定する前から講談社のHPで一般聴講募集されていたそうで、やはり大江健三郎さんを見に行く、聞きに行くという要素の方が強いんでしょう。聴講客のほとんどがそういう大江ファンらしい人に占められているように見えました。わたしの場合は、岡田さんがその大江賞の受賞が決定された後に、ネットで検索していてこの「公開対談」を発見した次第で、普段だったら平日の東京でのイヴェントで絶対行けないのですけれども、こうやって無職ですからね、応募してみた次第です。いちおう「抽選」みたいに書いてあったけれども、ぜったい当るとは思っていました。

 大江健三郎さんの作品は、もうほんとうにず〜〜〜っと読んでいないですね。いちおう若い頃はそれなりにハマりまして、その『飼育』から『同時代ゲーム』までは、途中からはリアルタイムに、ほとんど全部読んでいました。最後に読んだのは『レインツリーを聴く女たち』か『河馬に噛まれる』あたり。20年以上前ですね。このあたりはもうその内容も記憶にありません。わたしなんかにはやはり彼は『万延元年のフットボール』という、とてつもない傑作の作者として記憶に残っていまして、たとえばノーベル賞を受賞された大江健三郎さんなどは、わたしの知らない大江健三郎、なのです*1

 去年の第1回大江健三郎賞の時、ちょうどその長嶋有さんの受賞作『夕子ちゃんの近道』を読んでいたところということもあって、「群像」に掲載された大江さんの選評というか、感想ですね、それをとても面白く読んだ記憶が残っています。その頃長嶋有さんがちょっとしたマイブームで、それにしてもこういう小説を大江健三郎が面白がるなんてちょっと意外だなぁとか思ったり、その「群像」の大江さんの文章を読んで、彼が『夕子ちゃんの近道』に面白がる、その読み方ですね、そういうのがとても興味深くて、ちょっと大江健三郎という人に惚れ直しそうになったりしたものでしたが。

 で、今回の受賞が、またしてもわたしが読んだ本、岡田さんの『わたしたちに許された特別な時間の終わり』ということになって、わたしそんなにたくさん日本の小説読んだりしていないのにずいぶんシンクロするなぁと思ったりもするのですが、わたし自身もその『わたしたちに許された特別な時間の終わり』は気になっていて、もちろん彼の主宰する「チェルフィッチュ」の舞台も主だったところは観ていて、それはファンだと言ってもいいのですが、その小説の方も気になる存在で、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』には二編の短編が掲載されていて、つまりは戯曲の小説化『三月の5日間』と、小説オリジナルの『わたしの場所の複数』の二作。特にわたしは『わたしの場所の複数』という作品が気になって、面白くて仕方がなかったのですが。

 で、その「公開対談」の会場は、野間一族の牙城たる護国寺の「音羽城」の天守閣、六階大広間でありまして、周りにはずらりと歴代野間一族の肖像画が飾られておるのです。なんか、始まる前に皆で「講談社社歌」かなんか歌わされるんじゃないかと、心配になっちゃった。聴講客席の脇には、4〜5台のTV局なんかが使う大型ヴィデオカメラが並んでいて、で、わたしなんかが座った脇のそんなヴィデオカメラ撮影してる人間が、低い脚立の上に乗って撮影してるんだけれども、この脚立が始終カタカタカチャカチャ音をたてていて、うるさいったらありゃしない。よほど「おめえな、その足元がうるせえんだよ!」って怒鳴りつけてやろうって思っていたわたし。ま、そんなことはど〜でもい〜や。

 とりあえずが、その、大江健三郎さんが、岡田さんの作品のどこに注目したかという話になるのですが、それがチェルフィッチュの『フリータイム』を大江さんが実際に観劇しての感想と重ねられて語られて、そこから岡田さんがどのように舞台作品(戯曲)を演出されていくのかという話に発展して、その、わたしの聴いた記憶では、岡田さんが戯曲を書いている時には何の「イメージ」もつくってはいなくて、それは舞台作品の俳優の身体を介して演出して行きながらうまれてくる、そういう風にわたしは聴き取ったんですけれども、それは以前チェルフィッチュの公開リハを見学する機会もあったものですから、なるほど、さもありなんと了解するところも多く、あのリハーサルの光景の岡田さんの「何かが産まれて来るのを待っている」ような、辛抱強い演出方法の、その一端の理由が理解出来たような気もいたしました。

 で、大江さんはその『フリータイム』のラストの、あの「希望の根拠」ということばに反応されるのが、いかにも大江さんらしいというか、そのキーワードこそは、ある意味で、わたしがかつて読んでいた大江健三郎という作家の探っていたキーワードではなかっただろうかという思いにとらわれて、そこでこそ大江さんが岡田さんに惚れ込むというのも解るというか、つまりは70年代の大江健三郎小説以降、そのような「社会」と「個」の狭間で、ここまで肯定的に「希望」が語られたことはなかったのではないかと、それはわたしの乏しい読書体験から思い巡らせることが出来るのであって、それは『フリータイム』から離れて、受賞作の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の『三月の5日間』に出て来る女性が、かつて書かれたことのない新しい女性像なのだと大江さんが最大限に評価することにも引き継がれるのですが、それはわたしも想像もしていなかったかたちで、たしかに岡田さんは確固とした造形をなされていたのだなぁと。

 で、大江さんは岡田さんに、「どのようにしてそのような造形が可能なのか」みたいなことを聞かれるのですが、それに対して岡田さんは、そういう演劇の演出を通して、人の身体をつぶさに観察しているから、みたいな答をされていたと思います。これはものすごく興味深い発言で、それは単純に「観ていたから書けるんです」などという次元ではないのは明らかです。いやこの問題はこの対談で答えが出たわけでもなく、それはこれから先岡田さんの作品などから読み取らせていただきたい問題なのですけれども。

 それと今回の対談でクローズアップされていたのは、つまりは「視点」というか「人称」というか、やはり作家の視点の問題ですね。その、視点の移行の問題を、大江さんはおそらくはまだ会場にいる誰も読んではいないだろう岡田さんの新しい小説『楽観的な方のケース』などを引き合いに出して語れれるのですけれども、それに対して岡田さんが答えられる目論見、「視点の遍在化」のようなことがらは、その小説の『三月の5日間』であるとか、『わたしの場所の複数』でも当然読者には読み取られる事柄ではあって、それが作品を更新されるごとに新しい地平にすっくと立ち上がってしまうことこそが、岡田利規さんの小説の魅力だとも思えるのですが、そのような問題はこのコラムから外れて、別に書くことにいたしましょう。

 というか、今回のこの対談でわたし的に驚いたのは、その『わたしの場所の複数』という作品で、大江さんが、この小説の中で、主人公の寝っころがっている女性がネットで閲覧しているブログ、クレーム対応オペレーターの「armyofme」さん(わたしこれ、しばらくわからなかったのだけれども、「Army Of Me」なんですよね!)というのが、その主人公の女性の過去の姿だと言い切っていることで、それはホントにわたしの読解力ゼロといいますか、そうなんですよね。読んでみると、たしかに「ブログのキャッシュ」と書いてあって、ここで主人公が読んでいるのは、たしかに過去に自分が書いていて、今はまったく更新していないであろうブログの、そのキャッシュを読んでいるんですよね! ということで、わたしなんか、この作品を読みながら、「この部分はまるで主人公の体験のように書いてあるけれども、これはあくまでも主人公が読んでいる見も知らない他人のブログのことなんだから!」と注釈を付けながら読んでいたわけで、もうほんとに眼からウロコ状態といいますか、さすが大江健三郎といいますか、あ、だからこそ「複数」なのか! と、ここで大きな教授を受けた次第です。

 ということで、3月に観たチェルフィッチュの『フリータイム』の舞台の感想、そして、わたしの読んだ『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の感想など、ちかぢか、別の機会に書いてみたいと考えています。


 

*1:昨年の初めに買った雑誌「新潮」に大江さんの作品が載っていたのは斜め読みしましたが

ShipbuildingShipbuilding 2008/05/12 00:12 大江健三郎さんが舞台を見に来ていたというところは知っていたのですが。この情報と、大江健三郎の解釈はとても面白かったです。ありがとうございます。
また本当に遠くない近いうちでの舞台と小説の感想をお待ちしています。

crosstalkcrosstalk 2008/05/15 11:33 Shipbuildingさま、どうもです。
いつもの怠け癖が出て来ましたので、

■ 2004-05-28(Fri)

[]『身体へ浸透する美術:パフォーマンス アートの30年、ニューヨークの視座から』
     講演:ローズリー・ゴールドバーグ 進行:木幡和枝
     at 東京芸術大学美術学部講義室 『身体へ浸透する美術:パフォーマンス アートの30年、ニューヨークの視座から』     講演:ローズリー・ゴールドバーグ 進行:木幡和枝     at 東京芸術大学美術学部講義室 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 Kitchenの初代キュレーターでもあった、ローズリー・ゴールドバーグによる講演ツアーの最終回。どうでもいいことだが、(おそらく同一内容で)森美術館で行われた講演会は有料だったらしい。どうでもいいことだが、今回は一般に公開された無料講演会である。

 で、生まれて初めて、「同時通訳機」というヤツを渡される。Macに取り込まれた映像/音声を、プロジェクター/スピーカーを介して会場に流し、ローズリー・ゴールドバーグはまったくブレイクを入れずに講演を進め、その内容を木幡和枝が同時通訳する。おそらくはこのシステムで何度も講演して来ているのだろうから、実に流暢である(ただし、途中でMacの調子が悪くなって一時中断はあったけれど)。

 先に知っていた情報でも、当日受け取ったインフォメーションでも、『パフォーマンスアートの30年』となっていたが、会場に映された映像の出だしは「100 years of Performance Art」となっていて、その内容も、「未来派」のパフォーマンスの紹介から始まる、20世紀の通史、であった。

 先に個人的な事を書いておくと、わたしの英語能力はものすごっくおぼつかない。6〜7年前にヨーロッパに5週間程滞在した時には、いやおうなく全ての会話を英語で通し、その旅の終わりの頃には「英語でモノを考えるとはこういう事か」という境地に差し掛かった事もあるけれど、それ以来、カラオケで英語の歌を歌う時ぐらいしか英語は使っていないし、英語圏の映画を見ても、まず字幕をあてにしてしまう事もあって、何を言っているのか、本当に断片的にしかわからない。

 で、「同時通訳機」だが、左耳にそのイアーフォンをあて、木幡さんの声を聴き、右耳からローズリー・ゴールドバーグのしゃべる英語を同時に耳にすると、もう英語の方はほぼ完全にわたしの頭がオミットしてしまう。雑音としか聞こえない。この体験はちょっと面白かった。

 ところが、わたしが借りたその「同時通訳機」、講演が始まって30分ぐらいでバッテリーが切れてしまったのだな。あとはもうわたしの英語力だけが頼り。日常会話程度なら何とかついていけるけど、専門用語の飛び交うレクチャーを聴き取るには相当力不足。だから要点はことごとく聴き逃しているだろうけれど、映像などでは初めて眼にするような素材が多く、それだけでも楽しめた。そういう地点からの感想。ゴールドバーグ自身も、ここで紹介するのは20世紀の膨大な作品の中から、一面的な見方での紹介に過ぎないから絶対視しないでほしい、みたいなことを言っていたような(???)気がするから、ま、気ままな気持ちで。


 まずは、20世紀の美術が、実はパフォーマンスが先行した世紀ではなかったかという問いかけ。未来派やダダイズムは言うに及ばず、マニフェスト(こういう言葉を今さら政治的に流行させてほしくないのだけど)が先行したシュルレアリスム、さらに抽象表現主義をも含めて、「まずはパフォーマンスありき」ではなかったか? これは近年のシンディ・シャーマンやマシュー・バーニーまで含めて。そして、フィリップ・グラスにせよ、スティーヴ・ライヒにせよ、そのスタートが「パフォーマンスとしてのアートの舞台」から始まっているとの指摘。

 で、このような視点から、『未来派宣言』が、その発表からわずか3週間というタイムラグ(というより、同時性)で日本で翻訳発表された事なども踏まえ、村山知義や「マヴォ」の運動が評価紹介され、「具体」の村上三郎や、(ちょっとあいだがぬけるけれど)森村泰昌の活動が紹介される(オノ・ヨーコの1965年のパフォーマンス、「Cut Piece」のヴィデオも流されるけれど、彼女は「亡命者」だからね)。

 ま、この講演が日本で行われる事を前提としているのであるから日本のマテリアルを、と探索した結果なのかも知らないけれど、表現が貧弱であれば、写される映像にその弱さも露呈してくるだろう。わたしは本当に不勉強な人間だから、村山知義が屋外で行った公演の写真などは初めて見たりしたんだけど、なんかこう、スコーンと抜けちゃっているような強さがある。

 個人的には、日本の現代美術のことに考えをめぐらしてみたりする事が多くって、例えば今、この芸大の美術館と木場の現代美術館で開催されている『再考:近代日本の美術』(タイトル間違えてるかも知れない)など気になっていて、ま、西欧近代の歴史性の中に参入する事を絶望的に希求しながら、椹木野衣の言う「悪い場所」の「閉じられた円環」という呪縛から逃れられない「日本」の「現代」の「美術」。このような「場」の中でいったいどのようにして主体性を獲得すればよいのか。これは美術作家(と呼ばれたいと思っているらしいよ、ワタシ。)としてのわたしの、それこそ一番の主題ではあるのよ。このくらいの認識はたいていの美術作家は認識しているわけだけど*1、そういう事で、先日わたしの知っている批評書いてらっしゃる方が、彼のホームページのご自分の日記に、先にあげた『再考:近代日本の美術』展を『ONO YOKO展』と比較されて、日本の美術総体が西欧追従に過ぎない「粗大ゴミ」だ、と切り捨てられた事に、深い怒りを感じているのだ。「再考」してほしいのだな。

 とは言え、わたしはこのような講演会で海外の講演者が日本の表現を持ち上げてくれた事を素朴に喜んでいるわけではない。そうではなく、こと日本の事はちょっと置いておいて、「正史」としての西欧の20世紀とは、はたしてどのようなモノであったのか、というヒントが、この講演会にはいっぱい詰められていたと思うのだ。つまり、西欧とはどのような場たり得るのか。

 この講演の終盤の木幡和枝とローズリー・ゴールドバーグの対談で、木幡和枝の「これからのアート・パフォーマンスの主題はどのようなモノになっていくと思うか?」との問いに、ローズリー・ゴールドバーグは、「より政治的なモノになるだろう」と答えていたが、う〜ん、わたしの苦手なテーマだなぁ。でも、確かにそうなって行くのだろう。

 そういう意味で、ローリー・アンダーソンが、「9.11」のわずか10日後のライヴで、それまでずっと封印して来た「O SUPERMAN」*2を、実にン十年ぶりに舞台で歌った、そのライヴの冒頭の、短い(実に短い)映像を見る事が出来たのが、今日の一番の収穫だったかもしれない。

 あと、パフォーマンスの記録としての写真の問題など、興味深い話題はいろいろとあったようだけど、とにかくちゃんと聴き取れていないのだから、墓穴を掘るのはやめて置こう。


 ‥‥しかし、講演会の最後、好例の質疑応答、すごかったな。「某SONYの社員」と自己紹介した英語しゃべる男が、「ロボットとパフォーマンス(というよりダンス)の可能性」についての質問をする。そういった「企業戦士」という立場で、こういうパブリックな講演会で、企業のバックアップを臭わせた設問をするのはルール違反、というか、「今すぐここから出て行け!」と言いたかったな。木幡さんの応対はミゴトだったと思う。英語だったからよくわからないけど。で、最後の質問も、また村上隆ネタ。「コスプレがアートと認定されずに、村上隆がアートなのはなぜか」って。コスプレをアートの舞台に持ち上げようとかの戦略も持ち合わせていないくせに、よくそんな設問ができるよな。これは今の美術志向のやつらの悪いクセで、一夜明けたらそれまで自分が興味を持っていたサブカル的な現象が「アート」と認定されてしまっている事を夢見ているだけ。で、「わたしもそれって昔ッから興味あったのよ」って参入しようとする。自分で方策を練って戦略作れよ。

 あ、オヤジが若いコを叱りつけるような口調になってしまった。そんなわたしって何者だよ。

*1:わたしが「crosstalk」というイヴェントを立ち上げたのも、このような認識と深くつながっているのです

*2:わたし、このシングル盤持ってます

kijiqkijiq 2004/05/28 23:56 あれ。行かれたのですね。自分はチラシ配りに行ってました。ソニー戦士、責めないでくださいな。仲良くなったし。

crosstalkcrosstalk 2004/05/29 00:09 あ、はじめまして。読ませていただいてます。って、チラシという事は、霜田さん関係のお方なんですか??? 黒田さんも来られてましたが(いや、入り口で黒田さんとお会いして一緒に会場を探したんですけど)。これからもよろしくです。

kijiqkijiq 2004/05/29 00:11 霜田さんとさっきまで茶しとりました。私は仕事で途中から入ったのですが、そうですか、ニアミスですね。黒田さん、生きた芸術作品ですよね。

crosstalkcrosstalk 2004/05/29 00:39 馬六明のパフォーマンスの事とか、読ませてもらいました。今日の講演でも、マリーナ・アブラノビッチがそういうパフォーマンスをやって、相当ヤバい状況になってしまった事など、ちょっと紹介されてましたね。西欧人は節度というモノを知らんようですな。

H-WORKSH-WORKS 2004/05/29 01:05 お邪魔します。行きたくていけなかった者です。NIPAF関係の方がだいぶ絡んだ企画だったのですかね。レポありがたいです!

crosstalkcrosstalk 2004/05/29 01:23 H-WORKSさん、はじめまして。(こんなに忙しいのも始めてだな。)いえいえ、NIPAF組は便乗して宣伝しただけですよ(と、いきなりkijiqさんを激怒させてみる試み)。‥‥25時を過ぎると自分の発言に責任が持てなくなって来ますが、失礼をばお許し下さい。しつれい。

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