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■ 2018-02-24(Sat)

[]高谷史郎(ダムタイプ)「ST/LL」高谷史郎:総合ディレクション @初台・新国立劇場中劇場 高谷史郎(ダムタイプ)「ST/LL」高谷史郎:総合ディレクション @初台・新国立劇場中劇場 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 えええっ! ダムタイプって、こういう「よく出来たプレゼンテーション」的なパフォーマンスではなかったはずなのに。見た目はそれこそ「おしゃれでカッコいい」感じだけれども、時代を切り取ってみせるパワーは感じられない。音楽に坂本龍一も加わっているのだけれども、やはりみていると「この部分の音楽は坂本龍一だな」とわかるのだけれども、つまりは彼の意匠でしかない感じで、舞台に「力」を付与するものではないと思った。パフォーマーで出ている鶴田真由も、テクストを朗読する場面で、いかにも「手慣れた舞台俳優」みたいな感じで、これはわたしにはミスキャストと思えた。

 昔のダムタイプのように、「時代の先端を行くパフォーマンス」を期待してもみていたのだけれども、まったくそういうものではなかった。これは、「死骸」である。


 

■ 2018-02-10(Sat)

[]「隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで」福留麻里:ダンス 村社祐太朗(新聞家):テキスト @横浜・STスポット 「隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで」福留麻里:ダンス 村社祐太朗(新聞家):テキスト @横浜・STスポット - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ダンサーとしての福留麻里さんのことは知っているけれども、村社祐太朗という人のことはまるで知らない。「新聞家」というのはどういうことなんだろう。聞いた話では、要するに(演劇の人)だよ、ということでもあったわけで、つまりこの日のこのステージでも、「テキスト」を担当されている。‥‥ん? では「演出」は誰が?

 STスポットの小さな(狭い)舞台の床には、高さ・縦幅共に30センチ、横幅120センチ(?)ぐらいの木箱が置かれていて、ここにプロジェクターからまずはリアルタイムの時刻が映されていて、福留さんがあらわれて舞台がはじまってからは、福留さんのしゃべるセリフの英語訳が投影される。

 福留さんの声は小さくて聴き取れないし、それで木箱の<英語訳>に集中してしまうとよけいに印象に残らない。そのときはわかっていたつもりでも、ほら、わたしはもともと記憶力がアレだから、よけいに記憶からは消えてしまう。

 それで、わたしが憶えていられるのは福留さんの<動き>の方だから(何といっても、<ダンス>と紹介されていることだし)、そちらを注視するというか(もちろん、観ていたときにはその<ことば>にも神経をつかっていたのだけれども)。
 そのことよりも(福留さんはほとんど動かないし)、舞台が進行するにつれて変化する<照明>のことが気になってしまう前半。でも、観ているとある瞬間に、福留さんの肩から力が抜けたような、「それまでとちがう」という場面があり、そこから彼女の動きが面白くなった。

 わからないが、前半は「動きたいけど動かない」という身体、後半は「動けるのだけれども動かない」という身体なのかな、などと思ってしまった。でもなぜか、活力をもらえるような、不思議な舞台だったと思う。元気になった。


 

■ 2017-06-02(Fri)

[]小林嵯峨舞踏公演「孵化する」小林嵯峨:構成・振付 @日吉・慶應義塾大学 日吉キャンパス 来往舎 イベントテラス 小林嵯峨舞踏公演「孵化する」小林嵯峨:構成・振付 @日吉・慶應義塾大学 日吉キャンパス 来往舎 イベントテラス - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

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 小林嵯峨さんのことはちょくせつに存じ上げてもいるので書きにくいのだけれども、いろいろと微妙な公演だったという印象がある。ひとつ思ったのは、嵯峨さんはその演出でいつも、物語的なものをつくりあげられるのだなということ。今回も「孵化」ということをテーマに、その「状況」というのではない、ストーリーを紡ぎ出されていた。そして嵯峨さんの動きは、いわゆる「舞踏」というものからは距離があると思う。それは言葉に語弊があるかもしれないけれども、「動きが無造作」ということでもあるだろうか。いわゆる「身体の強度」で見せられる舞台ではない。それは決定的な欠点というのではなく、嵯峨さんの舞台のひとつの「特徴」なのだと思う。その視点から読み解かれるべきものなのだろう。

 今回の舞台には谷川俊之さんとおっしゃる方も客演されていて、この方は60年代に状況劇場、天井桟敷などに参加され、若松孝二監督の「処女ゲバゲバ」には主演されてもいたという方。彼が全身に毛皮をまとい、三本指の爪の鋭い腕でもって、頭から縄の束をかぶったメデューサのような嵯峨さんとからまれる。もう、60年代のアングラ演劇の再来のような様相ではあった。そんな「とんでもない」ありさまを観ることができたということだけでも、この日の収穫だっただろうか。

 

■ 2017-05-12(Fri)

[]SCOOL パフォーマンスシリーズ 2017「来る、きっと来る Surely It Comes About」武藤大祐:振付 @三鷹・SCOOL SCOOL パフォーマンスシリーズ 2017「来る、きっと来る Surely It Comes About」武藤大祐:振付 @三鷹・SCOOL - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 2000年代に入り、グローバル化と多文化主義の思潮に呼応して、ヨーロッパとアジアにまたがった「インターカルチュラル・パフォーマンス」とよばれる作品群がコンテンポラリーダンスの文脈でも現れてきた。代表例がジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』(2005年初演)であり、そのテーマは異文化間の相互理解の可能性や倫理をめぐる反省的経験と要約できる。
 とはいえ、これらがあくまでも近代ヨーロッパにおいてローカルに発達した劇場芸術のリテラシーを前提とした、ヨーロッパにとっての他者に対する「寛容」のスペクタクル的な上演でしかないという歴然たる事実は、グローバルな規模で看過されている。したがってこれらは「インターカルチュラル」というより、むしろ帝国主義的な社会包摂の実践というべきだろう。
 ヨーロッパとそれ以外の世界の間で展開する、こうした古典的な帝国/植民地的状況への批判的応答として、私は「ポストコロニアル・コレオグラフィー」の概念を提起する。
 通常、コレオグラフィー(振付)とは「身体に動きを与える」行為と考えられがちだ。しかし世に存在するものは常に既に、動きを与えられるまでもなく、動いている。それを否定することなしに関係を築こうとするのがポストコロニアル・コレオグラフィーである。
 その実践例として、本作『来る、きっと来る』は、今日の劇場芸術が自明の前提とする舞台空間を脱植民地化することに主眼を置く。「何もない空間(the empty space)」というピーター・ブルックの言葉が端的に示すように、劇場とは純粋な空虚であり、そこは人が動きを持ち込むことで初めて何かが生起する場と見なされている。しかしそうしたニュートラルな空間(=「新大陸」)など本当にあるのだろうか。そこに誰も住まっていないといえる根拠は何か。

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 ‥‥じっさいの舞台について、今日のところは書くのはやめておきますけれども、終演後、その武藤さんとSCOOLの桜井圭介さんとで、「<振付>の概念をめぐって」というトークが行なわれた。おふたりとも、現在の「コンテンポラリー・ダンス」の動向に対しては否定的であられるだろうし、それはわたしもまた同じである。楽しみにしたトークだったけれども、どうもなかなかに話が進まない。けっきょく桜井さんは「わたしが<ダンス>に求めるのは<グルーヴ感>だ」と語られ、そのことに武藤さんも同意してしばらく話がつづいたと記憶している。しかしわたしはここで語られた<グルーヴ感>というものにも懐疑的というか、それは例えば音楽でいえば、商業ロックでも観衆は彼らなりの<グルーヴ感>を信頼して聴いているわけだろうし、コアなインプロヴィゼーション・ミュージックでも、わたしなどはそういって良ければ<グルーヴ感>を感じているわけだろうか。そういう、(言葉はアレだけれども)「敵」も「味方」も同じコトバで原理を語るようになってしまうというのは、ちょっと違うのではないのか。わたしはそう思う。

 

■ 2017-04-28(Fri)

[]「スクリーン・ベイビー」乳歯(神村恵:振付家・ダンサー 津田道子:美術家)@三鷹・SCOOL 「スクリーン・ベイビー」乳歯(神村恵:振付家・ダンサー 津田道子:美術家)@三鷹・SCOOL - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

これまでに「劇場」を解体する視点を投げかける試みや、「見えないもの」を見る修行を行ってきました。今回は「映画」を題材にします。
日本映画の古典的名作からいくつかのシーンを選び、出演者の動きを振付として捉えます。それを丁寧に見ることからスコア化し、再現して、撮影します。
これは、映画を細かく見て、その中に入る修行です。

 選ばれた映画は小津安二郎の「秋日和」と「秋刀魚の味」。会場に映画のセットの位置に段ボール箱を置いて「ちゃぶ台」だとか「化粧台」に見立て、神村さんが映画の登場人物の動きを再現する。また、映画でのセット内でのカメラ位置の移動をハンディカメラで追って行くというような内容。神村さんの<ダンス>的展開を観られると思っていた期待は、ちょっと空振りだった。

 そもそもが小津監督の作品というのは、「リアル」ということでは異様に逸脱しているところがあるというか、よくいわれるように「イマジナリー・ライン」を越えた撮影ということもあるし、クロースアップはやらないし、カメラがパンしたり移動撮影することも原則はやらない(でも、先日「東京物語」を観たとき、あるシーンでカメラが動くところがあって、非常に驚いたものだったけれども)。そういう意味で、この日こうやってその「小津調」とでもいうようなものを掘り下げて、舞台の空間の中でその中へ入って行くというような試みは面白くはあった。

 でも、わたしとしては、こういうことでは先日溝口健二監督の「お遊さま」を観ながらいろいろと意識していたこともあり、「小津ではなく溝口映画でこういうことをやってほしかったなあ」という思いはあった。
 溝口監督の作品では、俳優の動きにともなってカメラの動きということが重要なファクターとなり、いわば「ダンスするカメラ」ともいえるようなシークエンスがあらわれることになる。その「お遊さま」でいえば、乙羽信子が堀雄二に「仮面夫婦でいてくれ」と語るシーンの、そのふたりの俳優の動きと、それを追う宮川一夫のカメラの動きというものが強烈な映画空間を生み出していたわけで、今日のような「映画を細かく見て、その中に入る」というような試み、ぜひとも溝口映画を対象にやってみてほしかった、というところがある。

  

 

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