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■ 2018-12-31(Mon)

[]「六つの心」(2006) アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督 「六つの心」(2006)   アラン・エイクボーン:原作 アラン・レネ:監督 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 ずっとこの頃の、晩年のアラン・レネの映画作品というのは、彼の作品の常連役者による「アラン・レネ一座」の舞台作品というおもむきの作品がつづき、そんな作品自体も、「舞台作品を映画にするとしたらどんな方法があるのだろうか?」ということの発展形式、みたいなおもむきがあると思う。そういう意味で、アラン・レネが演劇家のアラン・エイクボーンの作品を多く映画化したということは、「わかりやすい」ところもあると思う。しかし、そこは<映画>というものに卓越した視点を持つアラン・レネ。ひとすじなわでは行かないユニークな作品を産み出すのである。

 原題は「Cœurs」で、まさに「Hearts」、「心」。登場人物は6人(足しか見えないあの男を含めれば7人)。皆それぞれが、「孤独」というか、「Loneliness」を抱え持っている。そういう意味で、この映画の主題は「Loneliness」だと思う。

 ティエリー(アンドレ・デュソリエ)は不動産屋で、今、ニコール(ラウラ・モランテ)に3部屋の物件を紹介している。ニコールは婚約者のダン(ランベール・ウィルソン)がいて、彼は新居に自分の<書斎>がぜったいに必要だといっている。しかし彼は軍隊を退役後仕事を探そうともせず、バーで飲んだくれてばかりいることに、ニコールはうんざりしている。ダンの行きつけのホテルのバーのバーテンダーのリオネル(ピエール・アルディティ)は、自宅で寝たきりのわがままな父を介護していて、そのために介護士を頼んでいる。新しく夜間の介護士として来たのが、ティエリーの同僚のシャルロット(サビーヌ・アゼマ)。彼女は信心深く、同僚のティエリーにテレビの宗教番組を録画したものを見せたがる。一方、ティエリーには毎夜のように「出合い系サイト」経由とかの出会いを求めて、胸に目印の赤い花をつけてカフェへと出かける妹のガエル(イザベル・カレ)がいる。

 「ねじれ」その一。ティエリーがシャルロットから借りたヴィデオテープの、その肝心の録画のあとには、シャルロットの秘められた性癖が収められていた。ティエリーはそれをみて興奮し、そのテープが自分へのメッセージではないかと<誤解>する。「ねじれ」その二。ニコールはダンと別れることにして、ダンは家を追い出される。ニコールにもほのめかされて「新しい恋人」を求めたダンは、いつものホテルのバーでティエリーの妹のガエルと逢うのである(その一部始終をリオネルがみている)。「ねじれ」その三。リオネルの父のあまりの強情さに途方に暮れたシャルロットは、ついに隠していた自分の性癖をその父の前で「披露」する。

 ラストの展開はそれぞれの「顛末」が示されるのだが、つまりはそれぞれの人物は自分の抱える「Loneliness」をもてあましているというか、その問題を「どうにかしたい」と思っているのだ。この映画の中では誰ひとり、その即席の<解決>を得ることはないのだけれども、それぞれが自分の<問題>に向き合うことにはなるだろう。

 冒頭の、航空撮影(今ならば「ドローン撮影」)の街並の映像がまずは強烈で、街に人一人歩いていないこの街、ぜったいにミニチュアである。こういう、わずか10秒ほどの映像にこれだけのミニチュアをつくらせる、というのがアラン・レネの演出であろう。
 そして、カットごとにそのカットをつなぐ、降りしきる<雪>の映像(この作品はほぼすべて屋内撮影なのだが、ただひとつ、ティエリーとシャルロットの職場の不動産屋だけが、外に向かった大きな窓があり、雪の降る街の情景が映される)。その雪はついに、リオネルとシャルロットとの対話のシーンでとつぜんに室内のテーブルに降り積もっていて、その雪の中に置かれたリオネルの手に、シャルロットの手が重ねられるという印象的なシーンがある。

 わたしの持っているDVDのパッケージには「ハートウォーミングドラマ」などと書かれているのだが、わたしにはこの映画は、「そもそも人はそれぞれ<Loneliness>を抱えていて、そのことは容易くは解決することではない」といっているとしか思えない。

 ラストシーン、「何か」を期待してヴィデオを見つづけるティエリーのところに、夢破れたガエルが帰ってくる。<砂嵐>の映されるテレビモニターに、「fin」の文字が重なる。‥‥カッコいい! 映画のラストシーンの、ひとつのベストショットではあるだろうか。


 

■ 2018-11-27(Tue)

[]「シェルタリング・スカイ」(1990) ポール・ボウルズ:原作 ヴィットリオ・ストラーロ:撮影 ベルナルド・ベルトリッチ:監督 「シェルタリング・スカイ」(1990)   ポール・ボウルズ:原作 ヴィットリオ・ストラーロ:撮影 ベルナルド・ベルトリッチ:監督 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

シェルタリング・スカイ [DVD]

シェルタリング・スカイ [DVD]

 ウチには、この原作の文庫本もあるし、もちろん映画も映画館で観ているのだが、今ではまるで思い出せない。しかしどこか、観ることが切実で、つらい映画だった記憶はある。そんな映画を、おそらくは20年ぶりぐらいに観る。

 物語は、ポート(ジョン・マルコヴィッチ)とキット(デブラ・ウィンガー)のモレスビー夫妻のモロッコへの旅を描いたもので、ここにタナーという若い男が同行している。おそらくタナーはキットに横恋慕しているわけで、そのことをポートも充分承知している。ポートはつまり、この西欧文化から距離を置いた地で、キットへの愛を確認し直そうと思っているようだ。だから彼の旅行は観光のためのものではない。キットはどうなのか、ポートの言動に不信感も持っているようでもあり、ポートとタナーとのあいだに立たされる立場を面白がっているようでもある。
 おそらく前半は、そんなポートの望む「旅」にそった描き方。‥‥これは、いってみれば「バッド・トリップ」かもしれない。というか、ここには「外」を観ないで、自分の内側を見つめようとする「旅」の怖さがある。例えば若い頃に「ひとり旅」をするとき、それが観光目的ではなく、自己を見つめ直すような旅であることがあるだろう。わたしもそういう「旅」をしたことがあるから、そのときの体験とこの映画のポートの体験が結びつく。だからこの映画もまた、「ひとり旅」の映画ではないかと思う。

 ポートはタナーをうまく追い払い、キットと共に砂漠を自転車で進み、「ここを君に見せたかったのだ」という景色のところへ行く。ここで「ひとり」は「ふたり」になり、ひとつのクライマックスだと思うのだけれども、ポートは罹病してしまう。けっきょくポートは死ぬのだけれども、その死の前に、キットに自分がどれだけキットを愛しているかわかったというようなことを語る。この言葉も、自己の中にひとりで深く沈み込んでいった人物の「独白」だろう。そしてポートの死んだあと、キットにポートが乗り移ったかのごとき展開になる。キットは別のキットになる。

 けっきょく、キットはベルベル人の隊商と行動を共にして、美しい男ベルカシムの愛人、妾のような存在になる。別に彼女がそのままで残された人生をベルカシムと共に過ごすならばそれでよし、とは思うのだけれども、映画では彼女の中に西欧の価値感(フランスの紙幣)がよみがえり、隊商の共同体を去る。ま、いくらなんでもそういう価値感をぶり返すほどに彼女は愚かではないだろうとは思うのだけれども、映画としてはそういう結末で、つまり彼女は「迷った」存在となる。‥‥どうも、そのあたりが観ていて釈然とはしないのだけれども、とにかくは「行ってそのまま戻って来ない旅」というものを、ばっちりと描いた映画だったとは思う。蠱惑的な作品だ。
 まずはポートが「冥界巡り」をし、そのまま戻って来なくなるのだが、そのあとを追って冥界の入り口まで行ったキットは、そこで道に迷ってしまったということか。

 そう、音楽が坂本龍一なのだけれども、この音楽はなんだか、ゴダールの「気狂いピエロ」での、アントワーヌ・デュアメルなんじゃないの?みたいな気がした。

 いろいろと特典映像とかコメンタリーとかついているようなので、また観てみたいDVDだった。っていうか、原作、また読む?


 

■ 2018-11-12(Mon)

[]「東風」(1970) ジャン=リュック・ゴダール、ダニエル・コーン=ベンディット、セルジオ・パッツィーニ:脚本 ジガ・ヴェルドフ集団:監督 「東風」(1970)   ジャン=リュック・ゴダール、ダニエル・コーン=ベンディット、セルジオ・パッツィーニ:脚本 ジガ・ヴェルドフ集団:監督 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

東風  [HDマスター] [DVD]

東風 [HDマスター] [DVD]

 実質の監督はゴダールなのだけれども、この時期の彼は「ジガ・ヴェルドフ集団」名義で「革命的映画」を撮ろうとしていたのだった。脚本に五月革命の立役者のダニエル・コーン=ベンディットもみられる。出演はジャン・マリア・ヴォロンテ、そしてアンヌ・ヴィアゼムスキーら。ま、わたしはこの映画が最初に日本で公開されたときに観てますけれどもね、もちろん憶えてはいません。

 映画は草むらに横たわる男女を写した長いショットから始まる。手に鎖が巻かれているような。その映像をバックに、政治的スローガンを読み上げる男女の音声が重なる。そして映画のためにメイクする女性(これはヴィアゼムスキーではない)、顔に絵の具を塗りたくる男性。西部劇のような騎兵隊の制服を着た男性、19世紀のブルジョワ風のドレスを着た女性など。しばらくは映像と音声はまったくシンクロしない。

 これはどうやら音声で語られるハリウッド映画批判の言葉に合わせたハリウッドの西部劇(つまりアメリカのメジャー映画)のパロディというか、批判的映像のようである。ロケ地はどこにでもあるような起伏のある林(川も流れている)で、おそらくはそんな「西部劇」ロケ地をチープに再現したものだろうか。観ていてだいたい同じ場所周辺をぐるぐる廻って撮影しているようで、カメラも手持ちでワンシーンワンカットというか、しろうと撮影に見える。全体に究極の「低予算」映画という感じ。

 映像に重ねられる音声は主にストライキ闘争のことなのだが、そのうちに「闘争的映画人は何を撮るか」みたいな問いかけになり、「ああ、それをこうやって試みているわけね」と了解。「このやり方ではダメだ」みたいな展開もあり、そのうちに写される映像もスタッフ/キャスト皆による共同討議みたいになり(ここは映像と音声はシンクロ)、ゴダールへの批判も飛び出す。あげくは「コレではダメ」と撮影済みフィルムにキズをつけた映像が流されたり、真っ赤な画面、そして真っ黒な画面があらわれる。

 後半にマルクス主義の定理やスターリン、毛沢東などのことも語られるけれども、この映画の脚本に参加しているダニエル・コーン=ベンディットはアナーキストだったはずで、それがこんなかたちでマルキシズムに接近しているのはちょっとがっかり、かな?

 映画としてはそれはもう「実験映画」という雰囲気というか、「映画を撮る」ということについての映画で、しかも革命に奉仕する映画でなければならないというか。今はもう、こういう試みをする人もいないというか、もしやっている人がいても、その作品を観る機会もないだろう。そういう意味で、1969年〜70年の空気を伝える資料として興味深いというか、これはまたしても先日観た展覧会「1968年」を補足するものなのかもしれない。


 

■ 2018-10-15(Mon)

[]「鏡」(1975) アンドレイ・タルコフスキー:脚本(共同)・監督 「鏡」(1975)   アンドレイ・タルコフスキー:脚本(共同)・監督 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 映画の中で詠まれる「詩」はタルコフスキーの父の書いた詩だそうで、そういうことはただ映画を観ていたのではわからない。

 「自伝」というものを、映像であらわそうとすればこういうかたちになるものだろう。そもそも「記憶」というものは映像的なものだろうと思う。モノクロからカラーへと、カラーからモノクロへと移り変わる画面。古いニュース映像も挿入され、「個人」の記憶の中の歴史感覚が再現される。そして「火事」の炎のオレンジ色の鮮明さ。「風」、「気配」。劇映画でも、ドキュメンタリーでも提示出来はしない映像の世界から、まさに時間の中の「生」というものが浮かび上がってくる。


 

■ 2018-10-13(Sat)

[]「恐怖分子」(1986) エドワード・ヤン:監督 「恐怖分子」(1986)   エドワード・ヤン:監督 - ワニ狩り連絡帳 を含むブックマーク

 実は今、「室内、そして窓をどうあらわすか」ということになぜか興味を持っているのだけれども、そういうところでこの作品にあたまからグン!と持って行かれた。クールな描写の中にどこか暴力的な空気をただよわせるのは、90年代の黒沢清の作品みたいだ(黒沢清は影響を受けたのだろうか)。

 ストーリーは主にひと組の夫婦がメインで、妻は小説を書いていて夫は研究所みたいなところに勤めている。妻は自分の体験したことからしか作品が書けず、スランプである。夫は妻が小説を書くことに協力的ではあるが、ただ「書く環境」を整えてやるばかりで、彼女の内面の問題は放置している風。夫の勤め先の上司(課長)が突然死して、彼は上部にライヴァルの同僚に関して虚偽を伝え、自分が課長代理になる。妻は夫に隠れ、過去の勤務先の上司に会って関係を持つ。
 映画は市街地でのチンピラ同士の抗争、銃撃という事件から始まるのだが、ここにその抗争に絡む混血の不良少女がいて、さらに事件を目撃して撮影するカメラマン志望の若者がいる。若者は良家の子息みたいだが、徴兵される前に家を出て「自分は眼がいいからいいカメラマンになれるだろう」と、恋人とも別れてひとり修行している。銃撃事件があって空き部屋になったアパートを借り、暗室として使うことになる。そこに混血少女がやってくる。短い接触。混血少女は意味もなくいたずら電話をかけるが、その電話は小説家の妻が聴くことになる。混血少女は若者のカメラを盗み、故買屋に「売れた金で高雄に行く」と売りつける。

 カメラマン志望の若者は実家に戻り徴兵の招集状を受け取り、彼女とよりを戻すようだ。混血少女はけっきょく、チンピラ仲間から離れられないようだ。小説家の妻はその「いたずら電話」を元に作品を書き、それが文学賞を受賞する。もう夫とは離婚して元上司との生活を始めようとしている。離婚を突きつけられた夫は、同時に課長代理の座からも転落する。彼は狂っていく。

 登場人物は皆、自分の前に敷かれた「日常」というレールを「どう越えていくか」、という問題と直面しているのだろうか。実のところ、この「日常を越える」という命題をクリア出来る人物はいないようだ。小説家の妻も「自分の身に起こったこと」しか書けないという限界は自覚しているわけで、今回は「いたずら電話」が後押しをしたかたちになったが、では元上司との新しい関係が創作の契機になるかといえば、どうも長続きしそうもないだろう。カメラマン志望の若者は、とりあえず兵役が終わるまでペンディング、という気分もあるのだろうが、「日常を越える」という反抗的気分は捨てたようにはみえる。混血少女は、カメラを売った金で高雄に行ってしまえば別の可能性もひらけたのだろうが、けっきょくは犯罪の蠢く都市から離れられないようだ。夫は破滅した。

 ‥‥この、のしかかる抑圧感。「何を試みてもうまく行かないだろう」という、ドローンとした暗鬱な気分が、この作品を支配しているように思えた。「何も変わらない」というこの世界は、2018年のこの日本にも通じるところがあるように思った。‥‥いや、今のこの日本からこの映画を観たからこそ、このような解釈になったのだろうか。


 

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