新海誠という「流れ」 〜アニメにおける写実的心象派の誕生〜

大上段に構えた題名だけれども、実際には映像史とか全然知らない者の、思いつきに任せた戯言。
新海誠が登場してきた時、その話題性は、何はともあれ「一人でアニメを作った」という事ばかりだったと思う。PCを駆使すれば一人でアニメを作れるという事を証明した事がなによりの話題性であり、それが故に、もしかしたら彼の映像に関して正当な評価がされきっていなかったかもしれない。もちろん、映像面でも、充分評価されてはいたけれども、実際にその映像が持っていた「本当に意味」について、明確な位置付けがされていなかったのではないだろうか。

  • アニメーション表現の行き詰まり

「アニメーション表現の限界」が言われだして久しい。アニメーションにCGが取り入れられて、映像のクオリティは格段に上がったけれども、それとほぼ同時に「行き詰まり」も提示されてしまった。CGの使用による映像クオリティの向上とは情報量の増大であり、それは際限の無い写実主義となり、最後には実写との違いをアニメーションに見出せなくなった。「アニメーションである事の意味」すら問われかねない事態になったのだ。
しかし、元来アニメーションとは何を目的として生み出された映像技術だっただろうか。それは、なにより「人の心の中にある画を動かす」という事から始まった事だろう。つまり、アニメーションとは元々心象映像の表現だったといえる。それなのに、アニメーションがCGを使った「実写的なアニメーション」になってしまっては、その本来の目的から乖離してしまう。人の心象の映像と実写映像に相違があるという事は、実写映像の世界を見ても明らかだ。実写においても、その目的によっては、いかに心象映像に近づけることが出来るかという取り組みがあるくらいなのだから。アニメーションは、CGという新しい技術=「手段」に捉われて、「目的」を見失ってしまっていたと言えるだろう。
そして、そんなアニメーション表現のクオリティ向上の行き詰まりに対し、一つの方向性を提示していたのが、新海誠だったのではないだろうか。

新海誠の画には「力」がある。それは、主に背景によって形作られた力だ。彼の作り出す画の背景は、現実に見まごうほど写実的に描かれていている。しかし、それでいてとても現実とは思えないほどに美しい。
元来、アニメーションにおける背景とは、ある意味「添え物」だ。しかし、それは当然といえる。アニメーションが「人の心の中にある画を動かす」事を目的とした場合、人の心は背景よりも実際に動いている物を注視しているはず。だから、背景が「煩くならないようにする事」は、アニメーション技術においてかなり根底にある「常識」なのだろう。それは、CG技術によってリアルな背景が可能になった後も変わらず残っていた。というか、実写的背景を伴った「実写的なアニメーション」が、その実写的背景の無意味さを証明してくれた。
しかし、その「背景は添え物」という考え方は、実際には誤りだ。人の心象には、多くの場合その背景も含まれている。いや、その場合は「風景」というべきか。
人が心象に「風景」を残す事は実に多い。例え「人との係わり」を心象として残す場合でも、その心象には「その人と係わった空間」も含まれるのだから、当然だ。いや、実際には、心象における「人との係わり」の中でも、「人」の部分は「言葉」として「音の記憶」の方が強く、案外、「映像の記憶」はその「風景」として残っているのではないだろうか。「風景」とは、本来、心象映像を作る上でもっとも重要視すべき要素といえるだろう。
そして、その心象における風景とは、実写のような「現実そのもの」ではない。CG技術によって実写的な風景が作りえても、単に「実写的なもの」を作っては意味が無い。実際に必要なのは「心象的な風景」なのだ。「心象的な風景」は、もちろん現実を元にしているので実写的ではある。しかし、心象として残っている風景は、例えば過分に美しかったり、醜かったりという、その時その風景を感じたであろう人間の「感情」を含んでいる。そんな映像は、実写を合成技術で加工しても、なかなか作り得ない物だ。もし、それを本当の意味でやろうとするならば、それこそ全てを「描き起す」必要があるだろう。
「描き起こす」・・・そう、つまりこれは「アニメーション」の得意分野といえる。本来、完全な「心象的な風景」を作ろうとすれば、それはアニメーションがもっとも適任なはずなのだ。しかし、それは今まで膨大な作業が必要たった為、出来なかった。実際にやろうとしても、大幅なクオリティの妥協が伴っていた。その為に、アニメーションにおける「風景」は、あくまで「背景」として、添え物的な位置に甘んじていたといえるだろう。
しかし、現在、それを実現させる技術は、CGによって既に整っていたのだ。ただ、長年の「常識」が邪魔をして、その事に誰も気付けなかったのではないだろうか。たった一人の天才を除いて。
新海誠の「風景」は、写実的であるが故に実に現実味がある。しかし同時に「過剰なほどの美しさ」という「感情」を多く含んだ映像でもある。そこに、「現実味」という強い力を持った、そして「感情」を充分に含んだ映像という、真の意味での「心象的な風景」というものが作り出されている。それは、人によっては自身の「心象風景そのもの」と認識できるほどのものかもしれない。これはある意味、心象的映像を作る場合において究極の完成度を目指せる映像表現といえるだろう。

  • アニメクオリティ向上の指針「写実的心象派」

もしかしたら、上記程度の事は、新海誠が登場した当時に、既に認識されていたのかもしれない。
というのも、以降の「背景のクオリティが高いアニメーション」において、そのクオリティの意味に「心象的である事」が含まれている映像が、幾つか現れているから。
例えば、押井守の「イノセンス」なども、その例に含まれてしまう。あの圧倒的な映像美も、その中に「心象的な意味」を加えることで、さらに凄みを増している。もしかしたら、既に押井守新海誠より先に「気付いていた」のかもしれない。けれども先にやられてしまった。その事実が在った以上、その点において押井守新海誠の後に続く者になってしまったのかも。
実写と見まごう程に写実的な背景を備えた、クオリティの高いアニメーションというものは、あまり多く作られる事はないだろう。だから、新海誠の残した影響は、今までなかなか見えてこなかった。しかし、それでもそのような機会は必ず巡ってくる。その時、そのアニメーションは、そのクオリティをどのように提示するべきだろうか。もちろん、色々な方法があるだろうが、やはり、新海誠が提示したものも意識せざるを得ないだろう。
それは、クオリティという点から写実的でありながら、アニメーションの目的=心象映像である事をしっかりと認識したものとして、正に、アニメーションクオリティ向上の「真正面の指針」といえる。いうなれば「写実的心象派」。
もしかしたら、これと同じ事を新海誠以前にやっていた人もいるかもしれない。けれども、新海誠は「一人製作アニメーション」という話題性と共に、その映像美を世間に提示してしまった。その事実がある以上、この流れは新海誠の流れだ。
アニメーションのクオリティは向上し続けるだろう。それに伴い、この「写実的心象派」が検討される機会も増えていくに違いない。
そして、それは一人でアニメーションを作った、新海誠という一人の天才が作った流れとなるのかもしれない。