何故、少女達はネギまを読むのか?〜萌えの文化化〜

最近、女の子が結構ネギまを読んでいるという。
ネギまは、元々男の子をターゲットにした萌え漫画だ。裸とかパンツとか、主に男の子だけが喜ぶ描写がバンバン出てくる。それなのに何故女の子達がそんなものを読もうとするのだろう。
何かの間違いかとも思い、ネギのお茶会2で赤松健先生に直接質問できる機会が有ったので訪ねてみたのだが、やはりそれは事実で、先生自身も女の子読者層を意識してねぎまを描いている事を明らかにしてくれた。
何故、少女達はネギまを読むのか?
この疑問は、結構普遍的な問いかもしれない。つまり、最近、萌え作品を嗜む女性層が富に増えてきているように思えるからだ。
最も近い例だと「けいおん!」だろうか。ニコ動で「演奏してみた」を検索してみると、女の子達が嬉々としてけいおんの曲を演奏している姿を多数見ることが出来る。
男である私にはそんな女の子の心理を察する事など到底出来ないのだが、この疑問を解くべく、現象を反転して自分に置き換え、考えてみた。
自分が少女漫画を初めて読んだ時、結構無理矢理読んだものだった。これを楽しむ女性達が沢山いる。昔から読まれている。だからきっと面白いはず。最初は抵抗があったのだが、そう思って読んでいく内に抵抗も薄れた。いや、その抵抗すら、自分が知らない世界を知る一寸した試練として楽しむ様になった。歴史があり、評価する人が多い。それを「そんなものだ」として認知し受け入れる事は、一寸した快楽になる。なぜなら、それは「文化」と呼べるものだから。文化とは、歴史と普及を兼ね備えた人にとって一段上のステージ。人は、文化を手に入れる事自体を楽しむ、文化的動物だ。
この感覚と同じものを、女の子達は萌え作品に対しても感じているのでは無いだろうか。
実際、萌えという概念が出来てから十数年。十代の若年層にとってみれば物心つく前からある娯楽だ。それが世間に普及してからもかなりの年数が経つ。萌えを当たり前の文化として認識するのは必然と言える。
例え自分達の直接的な娯楽として位置付けられていないものであっても、女の子達がそれ=萌えを「文化」だと認識しているとすればどうだろうか? 
今のご時勢、世間には娯楽が溢れている。立派な腐女子だとすれば、イヤになるくらいのBL本を手に入れる事が出来るだろう。
その時、思うのだ。「ただ単に娯楽に興じるのは飽きた。文化を嗜みたい」と。
そう、もしかしたら、女の子達にとってネギまは、萌えという文化を嗜むツールになっているのでは無いだろうか?
女の子達にとって、裸とかパンツは抵抗があるかもしれない。しかし、それは萌えという文化を手に入れる為の試練であり、文化的動物の娯楽なのかも。
しかし、必ずしも全ての萌え作品を女の子達が受け入れている訳ではない。
私も、まるっきり女の子女の子している少女漫画は結構苦手なままで、少女漫画的な「要素の薄い」、少年漫画の題材にしても良いような「フックを持つ作品」を読む程度に落ち着いている。
逆に女の子達も同じだろう。萌え要素は薄く、それでいて女の子達も楽しめるフックを持った作品である事。ゆるい萌えで、バンド音楽という普遍的なフックを持つ「けいおん」とか、世に広く受け入れられた萌え作品などは、このように女の子達にも受け入れられているのかも。
ネギまも、「男が身勝手すぎる萌え」や「暴力的な性表現」などが無く、それでいて最近はBL要素も散見できる。明日菜や刹那の活躍ぶりも見所になっているだろう。萌え漫画というレッテルを外せば、いや萌え文化を受け入れれば、女の子も楽しむ事が出来る要素は充分あると思える。
そして、併せて萌えという異文化を取り込む事ができるのだ。これほど女の子達にとって美味しい漫画は無いのかもしれない。
女の子達には、これからもどんどんネギまを読む人が増えていって欲しい。
そして、赤松健先生においては、これからも大胆に萌え要素ネギまに取り入れていって、女の子達に萌えという文化を注入して欲しいものだ。萌え文化の、更なる隆盛の為にw。