劇場版 魔法先生ネギま!ANIME FINAL

一言で言えば、全体的な出来は非常に「悪い」。
無理に良い点を挙げるとすると、全キャラクターの活躍を描こうとしている事と、映画としての盛り上がりを演出しようとしている事。しかし、この二つの点こそが最大のネックとなって、作品の出来を非常に悪くしている。
ネギまはキャラクターの非常に多い作品だ。だから、今までのアニメにおいてもそこがネックになって、なかなか良い作品に成り得なかった。この映画版はファイナルだというが、となれば、「ネギまは、ついにアニメ化の方法論を持つことが出来なかった」と言い切っても良いだろう。
キャラの見せ場を並べ立てて描いたからといって、それが物語の中で意味を成していなければ、全然嬉しくない。多数のキャラを魅力的に動かすには、キャラ一人ひとりの役割を熟知し、それを「演出として」どう割り振るのかという方法論が必要。原作の漫画でも、1話の中で出てこないキャラなどいくらでも居る。そこで描かれていない事こそが「キャラとしての演出」という場合もある。そういったキャラの使い方は「キャラへの信頼」がないと駄目で、それは今までコロコロと変わった演出家の中では、ついに生まれる事は無かったという事だろう。まあ、脚本の丸尾でこさんは、初めて入ってきてここまで仕上げたのは良く頑張ったともいえるけれども。
そして、「映画にしよう」とした為なのか、物語が無駄に深刻になっていたのも、はっきり言って全然駄目。結局、設定が乱雑になり、各キャラクターの情緒面も全然描けて居ない。みんな非常時のテンションだから、非常時の反応しかしないというわけだ。もちろん、映画にはそういった部分があってこそ「映画足りえる」のだけれども、そうであったら、対比として「通常時の」情緒も描かねばならない。1時間以下の短い時間で、これだけのキャラクター数でとなると、どうしてもそれは無理なので、なんだか「しっちゃかめっちゃかな」作品になってしまった。まあ、良く言って「PCゲームのムービーパート編集版」といったレベルだろうか。映画にしようとして逆に「そのレベルに達していない」作品になったと言えるだろう。
では、ここまで駄目だったのだから、再チャレンジして欲しい・・・かというと、もう、今となっては、そうでも無い。と言うのも、「とある魔術」とかもそうだったが、今のアニメ業界では、「設定ありき」的な作品を上手く作る事はほぼ不可能なのでは無いか、と諦めているから。
脚本家を一人立てて、そこに監督、演出家、作画、プロデューサーなどが意見を出しあうというのが、オーソドックスなアニメの作り方なのだろう。つまり、ほとんどの場合、脚本家か絵コンテを切る演出どちらかの「一人の頭の中」でしか、構成を仕切る事が出来ない。原作者本人ならともかく、映画の成功とかも考えなくてはならない他人がそれをするのは、設定が多ければ多いほど不可能に近くなる。ネギま位の規模の作品であれば、まず数人の脚本チームを作って、構成を練り直すくらいな事をしなければ駄目だろう。無駄に作画に金をつぎ込むくらいならば、そのくらいやっても罰は当たらないと思うのだが、そういった方法論が無いのだろう。
・・・門外漢がゴタクを並べてもただ恥ずかしいだけなのだが、出来の悪さについ熱くなって、無駄な事を喋ってしまった。
まあ、これで一旦ネギまのアニメは終った。無駄に期待して、いや、今の体制では絶対に駄目だと確信しながらも、それが出来るまで一縷の望みを持って待つ、という苦行が無くなったのは、私にとって決して悪いことではないという認識だったりする。
ネギまというコンテンツが、今後何らかの形で継続していって、いつか「真性ネギまファン」育ちがアニメ制作側になるとかしたらよい映像ができるのでは無いか、とか、非常に薄い線で今後の期待をしてみたり・・・
最終回における設定についても色々書きたかったのだけれども、悪口で長文になってしまったので、また次に。