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2011-05-06

[]更新停止 09:28 更新停止を含むブックマーク

諸般の事情により更新停止します。これまでの記事は残しておきます。それでは。

2011-04-12

[]日々雑感110412 13:10 日々雑感110412を含むブックマーク

久しぶりに原稿というものを書いているのですが、書き方を忘れてしまいにっちもさっちも。

[][]岡和田晃氏とのいさかいの経緯 13:10 岡和田晃氏とのいさかいの経緯を含むブックマーク

岡和田晃氏の「海外のわけのわからないものより身近なサブカルチャーを褒めろ?」(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20110411/p2)というエントリですが、実はこれ、ぼくに対する個人攻撃エントリなのです。以下にその次第を説明しておきます。

まずぼくが、Twitterで一連のエントリを書きました。

岡和田晃氏は「エクリプス・フェイズ」に世界内戦の問題意識を見ているようですが、ぼくとしては「ダブルクロス」に世界内戦の問題意識を見出していきたい。だってFEARゲーって批評文脈で全く語られないし、そのくせプレイヤー層は厚いじゃないですか>http://ux.nu/TKs42G

http://twitter.com/crow_henmi/status/56045322346041344

ダブルクロスは程よくアメリカ的例外状態における例外国家の姿を描き出すとともに、例外国家がもたらすさまざまな社会的事象を浮き彫りにし、なおかつそこで実存が何に依拠するかという問題も剔抉している、現代異能が世界内戦へと接続される理路が良く見えるゲームなので世界内戦論者におすすめだ。

http://twitter.com/crow_henmi/status/56045888342208512

単に設定でなくシステムにそれが織り込まれているということも含めて評価されるべきゲームなので対論エントリ久々に書きたくなったな。洋物のわけわからんゲームを云々するより今ここにあって受け入れられているゲームを評価しようよという意味においても。いやEPやりたいんだけどね。

http://twitter.com/crow_henmi/status/56046221281853441

最近ダブルクロス3rdをプレイしてて「そーいやこのゲームもポストヒューマンTRPGなんだよなあ」と思い返すことが多かったので、まあそれを率直に書いたわけです。「洋物のわけわからんゲームを云々するより」と書いたのは、ぶっちゃけエクリプス・フェイズが未普及でプレイ困難であること、逆にそれなりに普及しているダブルクロスが社会批評的/ポストヒューマン的文脈で語られたことを寡聞にして知らないことから出た愚痴みたいなものです。

さて、このようなTweetのあと、岡和田氏からはこのような反応が返ってきました。

「海外のわけわからないものを紹介する=論じる」より、身近の作品を見つめ直すべきだ、という主張が、さまざまなジャンルにおいてなされることがあるが昔からこうした考えには懐疑的だ。そもそも私たちの知識や見識はひどく偏狭なもの。海外作品という「他者」と共存するのがまず先にあるべきだ。

http://twitter.com/orionaveugle/status/56302538038841344

これに対して、ぼくはこのように返したわけです。

ところで岡和田さんにとっては、海外文学より日本のヲタカルのほうがよほど他者的ではないか、という疑問があって、だからこそそっちに眼を向けることに全く無関心であることを危惧するものであったり。まあ、単純に屑だから見ない、という態度は、無論反知性主義の裏返しだし。

http://twitter.com/crow_henmi/status/56493632370376705

それに対する反応が、先述のエントリという次第です。

それはそうとして。

和製TRPGは今そこにあるというだけですでに価値のあるジャンルです。そしてその中では、社会/文芸批評的にも、ルドロジー的にも、コミュニケーション論的にも見るべきものがたくさんあり、今まさに語られるのを待っています。しかし岡和田氏は、それを見ず、語らず、ないもののように扱うことにより「語る価値がないもの」として位置づけるレトリカルな戦術=「単純に屑だから見ない、という態度」を行使しているように見えるのです。

また、岡和田氏にとって、和製TRPGより海外文学や海外ゲームのほうがより「自文化」であり、それゆえ和製TRPGこそが彼の向きあうべき「他者性」として存在しているにもかかわらず、それを無視しているのではないかという危惧があります。この危惧は、彼が和製TRPGの製作者であろうとも消せないものです。なぜなら彼が現在取り続けている態度自体が、そういう意味において極めて偏狭な――自己の和製TRPGデザイナーとしての事績や、和製TRPGとの向き合いを否認するようなものだからです。

すごく簡単に云ってしまえば、岡和田氏のエントリは「サブカルチャー」と「海外作品」を入れ替えるだけで、岡和田氏自身への批判として機能するブーメランです。おそらくそれに自覚的でないことが、彼の問題点であると思います。

余談

TRPGが社会/文芸批評的に語られること自体はそれなりに有意義だろうけど、一部の層にしか届かないものだと思います。そのうえでなお、ある種の付加価値としてゲーミングの共同体の外側にそうした批評を加えていければいいなというくらいの控えめな気持ちです。また、そうした批評をゲーミングの内部に取り込んでいくことができれば、それはそれで面白かろうとは考えています。

追記

岡和田氏によるエントリ後の流れ。

ぼくがエントリを見て驚き、以下のようなTweetをしたのですが、岡和田氏はそれを「個人攻撃ではない」と軽くスルー。

岡和田さんってスタンスを軽く批判されただけで(名指しこそしていないものの)トーンの高い人格批判をするひとだったのね……いうまでもなくここで批判され知性の衰退した反動分子扱いされているのはぼくなのだけど>http://ux.nu/Xy4aoF

@kaspart_j そうそう、おっしゃるとおりです。一度スタンスを書きつけておくのも、必要かなと思いまして。特定の個人への攻撃というわけではありません。むしろ症例を嘆くというか。まっとうなクリエイターや紹介者(翻訳者)であれば、このレベルでブレることはまずないと思いますしw

https://twitter.com/orionaveugle/status/57334153565323264

これに対していささか憤りを抑え兼ねたので、ぼくがこのようにTweet

こうやって「俺はまっとうなクリエイターでない」と間接的にdisってくるわけですか。あとまあ、Logを見ればぼくへの攻撃というのは簡単に立証できますよ。単にそれがきっかけで「症例を嘆く」ことを思いついたとしても、ぼくがその症例に当てはまっていると指摘している段階で不当な攻撃です。

https://twitter.com/crow_henmi/status/57650416011321344

いやまあまっとう以前にぼくはクリエイターではないのですが(昔その端くれのゴミであったことがあるくらい)。それはそうとして個人攻撃であるということについては繰り返し主張しておきたい。みたいな。

ここから先どのように続くのか、よくわからないのですが、まあそれはそうとして、一連の流れのなかにはこういういじましくしょうもない事情があったんだよということをご報告する次第です。

2011-04-10

[]日々雑感110410 07:41 日々雑感110410を含むブックマーク

今年の大河ドラマがあまりにも面白くないのだが、登場人物は一通り魅力的な物がそろっているので、後半は家光=土井利勝=春日局柳生宗矩枢軸が忠長=お江与の方=本多正純連合と徳川家の覇権をめぐって暗闘を繰り返す伝奇ドラマになればいいと思った、というのはすでに一部のクラスタでは常識ですが、そ

[][]世界内戦のアスペクト――世界システム史的観点と実存的観点 07:41 世界内戦のアスペクト――世界システム史的観点と実存的観点を含むブックマーク

Twitterからの転載・改稿。

世界内戦において、ぼくが世界システム史的観点より、クラスタ性・親密圏にまで及ぶ他者性に注目するのは、そこで生きる個人の心理的なありかたというものを重視するからであるという話をしておきたい。

戦う相手が明確にヴィジョンとして見え*1、それに対して素朴コミュニタリアニズム的に共闘できるなら、それは単に友=敵関係の世界的延伸に過ぎない。グローバルなレベルでの非対称戦など、911以前から展開されていた。911がなにか具体的なものをもたらしたとしたら、グローバルな非対称戦が衆目のもとに立ち現れたことであり、その当事者としてのわれわれと、敵としての「他者」=ジハディストが立ち現れたこと、そしてそれにより例外国家の例外状態性が前景化しつつなお是認されたことであるが、それは事実上「過去のこと」として後景化した。結局「911的想像力」――国家の内外における危機のもとに結集し、例外状態を是認する危機の想像力は、その日常化とともにかえって後景化し、無効化してしまったのだ。われわれは都合よくそれらから目を逸らし、ドミノ・ピザスターバックス普遍性に埋没する。どこかの戦場で戦っている兵士やジハディスト、どこかの農園で搾取される貧民、孤立国家で虐殺される大衆などを無視して。現代の例外国家は、例外状態をその外部にアウトソーシングしつつ、それを忘却することによって成り立つ。*2

つまりわれわれ個人の生において、例外国家の世界システム史的な観点からの問題である、グローバルな非対称戦とそれを引き起こすグローバルな経済システムがもたらす影響は割合隠蔽されてしまっている。むしろわれわれは個人の生と社会的・政治的ファクターが重なりあう「今ここ」でこそ進展しつつある、実存的例外状態を強く感じているといえるのではないか。例外国家は危機という物語でわれわれを動員しつづけることに失敗し、自らが進めている例外状態の常態化を隠蔽することでかろうじてその権力を保持している。その権力の枠組の中では、権力自体の脆弱化が進んでいる。法や権力に対する無関心が一般化し、動員のためのヒエラルキー的な社会統合が分解し、われわれは原子化した個人――孤独な実存として、過剰流動性のなかで生存を追求しつつ、つねに他者性と向き合わねばならず、そこにおいて先鋭的な「友=敵」関係が立ち現れやすい状況に陥りつつある。そこにおいて重要なのは、例外国家が提示する危機という物語ではなく、われわれのそれぞれが抱く固有の生に根ざした物語であり、それを紡ぎ出すための原初的な他者との対峙である、というのは、ごく自然な流れではないだろうか。

*1:ヴィジョンであるので実際の有り様と異なっていてもいささかも問題ない

*2:それを赤裸々に剔抉したのが伊藤計劃であり「虐殺器官」とはまさにそのような小説であった。

2011-03-31

[]日々雑感110331 17:00 日々雑感110331を含むブックマーク

またも1ヶ月に1回の更新ノルマを破ってしまったので、この日記は4月8日に書いてます。

AGSで岡和田晃氏がエクリプス・フェイズを「世界内戦下のポストヒューマニズム作品」として一押ししていて、まあそれはそうなんだけど、日本には10年も前からダブルクロスというポストヒューマンSFTRPGがありましてね……というもにょり感を覚えていたら、id:xenoth氏がある程度代弁してくださったので、とりあえず安心していたりする昨今。とはいえ、もう少し掘り下げた意見もあるので、そのうち機会があったら書いてみたい。

ちなみに、ダブルクロス3rdEditionは最近プレイする機会が多いTRPGなので、これを用いて世界内戦下のポストヒューマニズムをある程度明確な形でゲーム的に再現してみたいという気分はある。まあ、プレイヤーと要相談、なんだけど。

[]TRPGにおける世界内戦の再現性(メモ) 17:00 TRPGにおける世界内戦の再現性(メモ)を含むブックマーク

ずいぶん昔にメモしていた文章の再掲。

TRPGにおける世界内戦の再現性」について少しメモしておこう。

 世界内戦とは、ポスト9.11における、世界の誰しもがどこにいても必ず何らかの先鋭的な友=敵関係に包含されそれによる脅威にさらされざるをえないという状況を指す、というのがぼくの解釈だ。その理由は経済宗教イデオロギーなど様々であるが、ここにおいて、世界は無数のクラスタに分断され、それぞれが先鋭的な友=敵関係に晒される。そして個人の主体も、そのような環境の中で再帰的に陶冶される。彼らは生き残るためにそれぞれ有意に友的である存在と共通利害によるバンドを形成し、敵なるものと対峙=闘争することとなる。敵はただひとつの方向にいるのではない。トポロジックに展開されたコミュニケーションネットワークを通じ、あらゆる方向に存在する。一方で、友となりうるものもまたそのように無数の方向に複数存在している。そしてある条件のもとでは敵である存在が、別の条件では友となりうるという両義性をも備えている。それは自らの所属するバンドの内部においてすら通用する規則である。常に破綻の危険性を抱える同盟関係と、常に和解の可能性を秘める敵対関係が無数に張り巡らされた状況下で、主体はその関係性によって縛られながらも突き放される危うい情況にあり、自己同一性を関係性の中に求める限りにおいて深刻なアイデンティティ不安に陥るとともに、その反動としてのダイナミックな自己変革を要求される。

このような不安定な情況と実存TRPGで再現するに当たって、FEARのゲームに頻繁に採用されている「関係性やそれにまつわるロールを動的なリソースとして捉えると共に、物語生成の中でそのリソースを積極的に運用する」システムは好適である。間断なき関係性の変化とそれによる自己の実存的変化をダイナミックに描き出すと共に、それを明確化されたルールのもとでゲーミングに利用できるというのは、そうしたシステムを実装していないTRPGに対する大きなアドバンテージであり、現代的な世界感覚をフィードバックしやすいものである、といえるだろう。そして、それは単に不安定さを描き出すのみならず、不安定さをバネにしたダイナミックな物語創造へと繋がっていくということを注記しておきたい。

2011-02-28

[]日々雑感110228 16:04 日々雑感110228を含むブックマーク

昨日から体調がすぐれず寝込んでいたのだけど、午後にはなんとか回復したのと、1ヶ月に1本はエントリを更新したいな、というのがあって、ちょうど1ヶ月ぶりの更新などしてみた。

で、近況。

ご多分にもれず「魔法少女まどか☆マギカ」にヒャッハーしている昨今ですが、これについては放送終了後blogでエントリーに起こし、その後に新文学04に寄稿させていただくことになっているので、今のところ余り語ることはないのでした。とはいえ、少しは語れることもあるので、今週末その辺について触れたいと思います。仔細は下記URLから。

http://d.hatena.ne.jp/wannabq/20110227/1298734444

まあそういうことで。よろしければご聴取ください。

[][]「コードギアス」と「羽月莉音の帝国」に見られる決断主義者の社会との対峙(メモ) 16:04 「コードギアス」と「羽月莉音の帝国」に見られる決断主義者の社会との対峙(メモ)を含むブックマーク

コードギアス」と「羽月莉音の帝国」について、いささか思うところがあったのでメモ。

いわゆる決断主義的アティチュードによって主人公のマニューバーが決定されていることから、両作品は決断主義的と一部の人には捉えられそうだが、両作品の本質は、自己の欲望が世間という中間項を貫通して世界全体にまで至るエスカレーションである。決断主義セカイ系の奇胎であるがゆえにセカイ系的な現実認識の歪み――すなわち世間や社会という中間項を迂回して直接世界全体と接続すること――をも継承しているが、両作品においては中間項における現実的諸問題との対峙/克服と、それにともなう具体的な闘いの技法がプロットの重要な局面として描かれる。特に「羽月莉音の帝国」においてはそれこそが物語の中心モチーフである。

コードギアスにおいては「世界は自己の思惑とはかかわりなく勝手に自己へと侵入してくる」という伊藤計劃の謂があてはまるかのように、自己の行動が思わぬリアクションを呼んで自己に返ってきたり、自己と関わりないところで進められている事柄に足を引っ張られたりする。もちろんそれは「主要キャラクター間での内輪ごと」と見られるように編集されているが、それは物語的な都合上であって、想像力の本質とは若干外れている。セカイ系的な世界の狭さを云々するなら「主要キャラクター間の関係が濃密であること」辺りが焦点になるだろう。顔見知り同志での世界制覇ゲーム、というわけだ。一方、羽月莉音の帝国においては自己対世界の構図が一段上のレイヤーに上がるごとに対手も変わっていく。これはジャンプのバトル漫画などにみられるある種古典的な「エスカレーション型想像力」なのだが、そこに関わる要素が抽象的な価値ではなく、より実体的な社会との相互作用であることが重要である。

このような例から見られるように、自己の周囲の社会的なるものと相互にコミットメントしあい、なおかつ世界の頂点を目指すたぐいの想像力―― 社会性を備えたセカイ系決断主義というものは十分にありうる。というのも、社会はたしかに結びつきが弱くなっているが、完全に分解したわけでも消滅したわけでもない。であるならば、世界に関わる何かにコミットメントしようとしたとき、必ず社会的なるものは目前に現れ、それと自己との関係性を再確認せざるを得なくなるからだ。

いや、そもそも真に決断するためには社会との対峙を真剣に行わねばならないという点において、決断主義とは社会的協同から一線を引きつつも、社会的なるものと自己との関係性を正確に測る必要がある/赤裸々に剔抉するものではなかったか、とか。そしてサバイブ系とはまさにそのように社会に向き合うときに自らの本質をも剔抉されてしまう極めて実存主義的な想像力ではなかったか。異なる点があるとするなら、実存主義におけるアンガージュマンにおいて、その企投先が大きな物語ではなく目の前の世間になるということだが、それゆえに大きな物語に対するよりも赤裸々に生がむき出しになるし、コミットメントが双方向的なものとして機能するのではないだろうか。