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2006-06-30

[]日々雑感060630 16:58 日々雑感060630を含むブックマーク

絶不調。雑用がてら、柄谷行人「言葉と悲劇」をちらちらと読み直したり。

あー。なぜころを語ること自体が既にして倫理的なのだ、という話は最初のなぜころ問答のとき既に出ていたなあ、と、柄谷行人「言葉と悲劇」所収「安吾その可能性の中心」を読んでいてふと思い出しました。

後、麻枝准における言葉の悲劇性について薄らぼんやりと考えていたり。異様なまでにコミュニケーションが明瞭に成立している田中ロミオ作品に比べ、言葉の悲劇性が重視されている傾向がある、というのはなんとなく見当が付いているのですが、では一体どのような形で用いられているか、については、あちこちの過去ログ参照しながらだらだら考えます。

そのほか、爽やか青春ショートストーリー系ネタを考えていたり。g:school-days参入に向けてやんわりと。あー。「ゆらぎの神話」もやりたいけど敷居が高いなあ。どうしたものかしら。キュトスキュトス。

メモ

「勝星一家」(http://yaplog.jp/kamishiro/)さまが更新停止宣言。田中ロミオ関連の情報サイトとして非常にお世話になっていただけに、かなりショックです。

[][]ハルヒにおける言葉と悲劇 16:58 ハルヒにおける言葉と悲劇を含むブックマーク

柄谷読んでたのと某所でのやりとりとが融合して思いついたこと。半分くらいサルベージです。

ハルヒ=神=全能者説の極限値を取る場合(あくまで極限値ですが)、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品世界全体がハルヒの自己幻想に内包されている――つまりはキョンをはじめとしたキャラクターたち全員もハルヒの自我の産物にしてその一部にすぎないことになるわけなのですが、自我が一義的なものではなく、多義的なもの、自己にすら全体を把握できないもの、他者の参照によって成立するものであるという観点からすれば、自己と、外延された自己としての他者というクラスタがそれぞれに存在し、自己クラスタと外延された自己クラスタとのコミュニケーション、あるいは外延された自己クラスタ同士のコミュニケーション、そうしたものが相互に支えあうことで「ハルヒその可能性の中心」とでも呼ぶべきものが見出され、さらにはクラスタ相互の止揚の結果として、大文字の「涼宮ハルヒ」という神を生み出すのかもしれない、というような与太を考えたわけです。

ただ、ここには落とし穴があって。コミュニケーションにおける言葉の両義性・不透過性・非対称性・決定不可能性――ここではこれらを総じて「言葉の悲劇性」と呼びます――などを考えるに、ハルヒと他者、他者と他者のコミュニケーションというのは常に言語ゲーム的な様相を呈するわけで、そうした状況での各クラスタの相互参照・相互関連は必然的にディスコミュニケーションと各クラスタの誤差累積を生み、大文字の神への止揚などという単純な形態を取らず、むしろ各クラスタの個性化と分裂を引き起こすのではないか、などとも考えられます。最初に述べた自我の多義性――「自分のことが自分で判らない」「そもそも他者に参照されることで自己は成立する」という命題が、言葉の秘めたる悲劇性によってここに屹立してきます。結果として、ハルヒというクラスタが望んでいない物事が「ハルヒがそう望んでいると信じている」他のクラスタによって発生する、ということが十分に存在しえるわけです(もちろん、クラスタの表層意識はそんなことを考えていないでしょうけど)。結局、ハルヒが事実神であったとしても、その自我が人間の範疇を出ない限り、やれること、望まれることは限られていて、涼宮ハルヒというキャラクターは全能者たりえない、ということになるのではないか、などと思うわけです。

なので、「涼宮ハルヒ」シリーズにおける個別の事象を「これはハルヒが望んだことではないのか?」などと勘ぐっても詮ないことではないかと思ったりもします。全能性に対する危惧であるなら「(ある系内での)全能性は一義性と対をなす概念なので、一義的でない人間存在には到達できない」し、全能性を否定した上で(これはハルヒ=神であっても、ハルヒ≒神であっても変わりはないのですが)なんとなくハルヒの思い通りに動いて行く世界、というのを懸念するなら「全てがハルヒの思うままになることはありえないので、それがハルヒの存在やビルドゥングロマンにおいて決定的な影響を与えることはない」と考えて良いような気もします。神であろうとなかろうと、ハルヒは世界と対自的な存在で、その一部で、言葉の悲劇性というテーマを常に背負いながらままならない世界に向かってアクションしていくほかないのですから。それがどのような形を取るべきかについての議論は、また別の問題ですが、涼宮ハルヒという人間が世界の中で(それがたとい自らが作り出した箱庭世界の中であっても)決定的な破綻をも可能性に含めた限定的存在として生きていかざるを得ないのは確かなのですから。

それはさておき、ハルヒと彼女を取り巻くキャラクターたちの物語を総体として捉えた場合の「ハルヒその可能性の中心」というのは、ハルヒの世界に対する限定性云々に関らず存在しています。これを捉えることがハルヒ読みにとっての重要なポイントなのですが、そんなことは皆さんよくご存知だろうし、ぼく自身が余りハルヒのことを知らないので、余り語るつもりはありません(もういい加減語っていますが)。ただ、この「中心」が、けして大文字のハルヒという神でもなければ、ご都合主義的世界観に基づく虚無でもなく、花も実もあるボーイミーツガール+なにか、であることだけはメモしておきます。

そろそろ何を書いているのかわからなくなってきたので、ここいらで筆を置きます。