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2009-02-06

[]「誰かが助かれば、他のみんなはどうなるのか」再考――選択肢式ゲームの構造論(メモ)―― 20:46 「誰かが助かれば、他のみんなはどうなるのか」再考――選択肢式ゲームの構造論(メモ)――を含むブックマーク

選択肢式ギャルゲーにおいてよく議論される問題として「あるヒロインを選択した場合、その他のヒロインはどうなるのか」というものがある。これは、選択肢によって個別ストーリーへと進み、他のヒロインが後景化するタイプのゲームにおいて前景化する問題である。これについては「多世界解釈=遡及的過去生成」説と「同一世界解釈=確定的過去共有」説が有力な説として浮上し、それがある種の対立関係にあるものとして語られてきた、という過去があった。ひらたくいえば、前者は「あるひとりのヒロインが選択されると、そのヒロインルートがひとつの確定的現実として観測され、他のヒロインたちは自動的にドラマを保有しない脇役へと後景化する」というアクロバティックな解釈であるが、後者は「あるひとりのヒロインが選択されると、他のヒロインたちはそれぞれのドラマを保有したまま、主人公と結ばれないことによるバッド/ノーマルエンドへと向かう」という、直感的に判りやすい構造である。

この問題を論ずるに当って「典型的」というにはいささか特殊ではあるものの、徹底的に論じられたゲームとして「kanon」がある。「kanon」において、主人公と結ばれなかったヒロインはどうなるか、という問題意識が論争を生み、上記のような解釈を導き出したことはここに詳述されているが、今回は、かつて「CROSS†CHANNEL」を解析したときに用いた方法論を応用して、これらの論とは異なるランドスケープを提示したい。

CROSS†CHANNEL」においては、繰り返される一週間という表面上のループ構造を用いて、その一週間に起こりうるさまざまな可能性が描き出されてきた。しかしそれは、厳密に解釈していくとループではなく「一週間しか存在しない世界」におけるさまざまな個別の物語を直線的につなげることで、あたかも「ループ」と見せかける演出の上に存在していた。それらは最終的にひとつの物語へと収斂され、大団円を迎えるのだが、この構造は「kanon」の逆倒した形である、といえる。「kanon」において、分岐し、それぞれのルートへと展開していく物語に対し、それぞれ個別の物語が、主人公という特異点を介して収斂する物語として「CROSS†CHANNEL」はある。「誰かが選ばれれば、ほかのみんなは選ばれない」という疑念を包含する「kanon」に対し、「主人公という特異点を通じて、全てのヒロインを選択する」という解法を選んだのが「CROSS†CHANNEL」である。

このように対象的な構造をもつ「kanon」と「CROSS†CHANNEL」であるが、実のところ、テキスト論的立場からすれば、ほとんど構造的には変わらない。その構造を決定的に分けているものは、テキストの読解規則――すなわち選択肢式とループ式の差異である。逆に云えば、この読解の規則を一度捨象することで「kanon」において議論され、そのひとつの解釈に基づき「CROSS†CHANNEL」が克服しようとした問題――「誰かが選ばれれば、他のみんなはどうなるのか」のオルタナティヴな回答が導き出される。

まず、テキストの読解規則を捨象して「kanon」と「CROSS†CHANNEL」を比較した場合、それは「ヒロインそれぞれの個別の物語」の集合として読むことができる。ヒロインの物語は主人公との関係に拠って駆動されるため、正確には「主人公=ヒロイン相関の個別の物語」の集合と見てよい。ひらたくいえば、双方ともに「各ヒロインごとに、主人公に選択される物語」が存在する構造である。これを素直に受け取るならば「あらかじめテキストの中には、ヒロインの数だけ、主人公とのハッピーエンドは用意されている」のであり「kanon」論争における「遡及的過去生成による他のヒロインの捨象」や「ひとりが選ばれると、他のみんなは選ばれない」という読みは曲解となる、といえる。

では、その曲解はどうして生まれるのか。それは選択肢式という読解規則によるものである。選択肢に拠って分岐する物語という構造――つまりは一度のプレイで全てのルートを概観できないという限界が、その分岐の先にあるものを捨象してよいという錯覚、あるいはその裏返しとして、捨象されたものはどうなるかという疑念を生むのだ。

このような問題に対し、後続のギャルゲーはそれぞれに向き合ってきた。例えば「CROSS†CHANNEL」は、ひとりの固有な主人公が全てのヒロインを助けなければならないという強迫観念に拠って、選択肢式ギャルゲの読解規則をループ式に変更した上で、それぞれの物語が実は主人公という特異点でのみつながる個別の物語であるということを説明して見せた。「Fate/stay night」は、オムニバス構成を選び、どのヒロインを攻略するかの順番をあらかじめ決定付けることで、主人公の心性の変化を時系列的に描き出して見せた。また、いくつかのギャルゲーは、もとより選択肢を放棄し、一本道のシナリオに関門を設けてそれをクリアさせていくゲームとなった。

しかしながら、このような試みの大半が、選択肢式ギャルゲーにおいて存在していた「読みの自由」を犠牲にすることに拠って成り立っていることについては、注記しておかなければならない。ループ式、オムニバス式、一本道式――いずれの方法論も、選択肢式のような「誰をどのように選び、選ばないか/誰から順に選んでいくか」というプレイヤーレベルでの自由を疎外することでなりたっている。確かにテキスト全体を見下ろせば、そこにはヒロインそれぞれに対応した物語が存在しており、全てのヒロインは主人公と結ばれるようになっているが、その全てを読まなければならない/固定された順番で読むべき理由はプレイヤーにはない。そこにあるのはクリエイター側の「このように読んでほしい」という要請だ。もちろんそれは選択肢式にもあったものだが、よりいっそう強い要請として、この種のギャルゲーには存在している。

このような強い束縛が、果たして応分の価値をもたらしているかは、各人の判断に委ねたい。ただ、選択肢式ゲームにおいて存在していた選択の自由は、その「選択」という概念がもたらす錯覚とともに、ギャルゲーの重要な概念であった――あるいは、いまだにそうであることは間違いないのだが。

skerenmiskerenmi 2010/02/13 00:30 誰も選ばない物語への言及はされませんか?