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2009-02-14

[]衛宮士郎の破綻と再生――「Fate/stay night」におけるポストモダン的不安とその超克―― 20:47 衛宮士郎の破綻と再生――「Fate/stay night」におけるポストモダン的不安とその超克――を含むブックマーク

Fate/stay night」というゲームにおける主人公、衛宮士郎のあり方は、極めてポストモダン的状況に落ち込んだ人間の、複数のあり方を示していて興味深い。彼はその状況に対して立ち向かい、敗北し、そしてそれを超克するプロセスは、極めて典型的に「ゼロ年代的」であった、といえる。ゆえに「ゼロ年代の想像力」という概念が失効しようとしている今、あえて回顧的に振り返ってみたい。

衛宮士郎は世界喪失者である。これは、彼と世界との間にある「大きな物語」が失効することに拠っている。彼は10年前の聖杯戦争がもたらした大災害において、当たり前のはずの安寧があっという間に焼け落ち、多くの人々が全く無意味に死んでいくという「大量死」を見せ付けられ、自らが生きる意味すらも「確率性」に還元されてしまうという体験をした。多くの人々が全く無意味に死んだように、彼もまたあそこで死んでいたかもしれない。養父である衛宮切嗣に助けられなければ、言峰の生贄になっていたかもしれない。今生きているのはなんらかの意味のあることではなく「確率性」の結果でしかない。そのような世界の無意味と、自らの存在論的意義の喪失が、彼の信じるべき「大きな物語」――すなわち世界には他者と共有可能な意味と秩序があるという信頼を断ち切ってしまっている。それゆえに、彼は世界喪失者とならざるを得なかった、といえる。

このような形で「大きな物語」を失った人間は、むき出しの無意味な世界と直接対峙することとなる。ここで士郎は、世界の無意味さを超克するため世界と対決する「決断主義」を選択する。*1彼の決断は「全てを救う」「正義の味方」となることである。それにより、彼は自らの精神的外傷たる「大量死」と「確率性」の問題を超克し、世界に自己があるべきと願う意味と秩序を取り戻し、それにより自己の存在論的根拠を回復しようとするのだ。

しかし、それはあらかじめ不可能性を帯びている。広漠たる世界において、ひとりの人間の存在は余りにも小さく、そこでなしうることは余りにもささやかだ。これを超克する手段として、Fateなど奈須きのこ作品世界の魔術師たちは「根源」を求める。世界の根源に至れば、世界の無意味さを超克し、自ら意味を与えうるからだ。しかしながら、士郎にはその道は閉ざされている。彼は彼自身の心的外傷を癒し、彼自身の意味と秩序を取り戻そうとしているのだから、幾世代もの時間を掛けて目指す根源の探求にその身を費やすことはできない。また、士郎自体の心的外傷が「全てを救う」執着を生み出している以上、彼は根源的レベルでの意味と秩序の回復を求めつつ、目前の「救われなければならない」ものに対しても執着し続けなければならない。このようにして彼の願望の不可能性はなりたっている。だが、あらかじめ不可能であっても――いや、ある意味では「それが故に」士郎は自らの決断の正しさを信じ、それに邁進する。

その正しさを、例えそれが不可能であっても貫き通すことを肯定するのが「Fate/stay night」3部作中の第1シナリオ「Fate」であり、その答えの果てにあるのが、第2シナリオ「Unlimited Blade Works」である。ここでは士郎の通った/通るであろう道が、結局は世界どころか、自己の決断にすら敗北する過程が描かれている。その中で彼が掴み取ることができたのは「あえてそれを選ぶ」シニシズムの一瞬の美しさでしかなく、根底的な解決にはなっていない。精々「諦めなければ何度でも挑戦できる」という、トライアルの権利の保全でしかなく、結果を導き出し得るものではない。ここに衛宮士郎という存在の破綻は決定的なものとなる。

そして、この破綻をいかにして回避し得るかを問うのが、第3シナリオ「Heavens Feel」である。士郎はこのシナリオで、自らの世界に対する超克という観念の倒錯を断ち切り、ヒロインのひとりを死地から救い出すことに全てを賭ける。これにより、彼とヒロインの間には「個別の小さな物語」が生まれ、それを軸にして士郎が精神的再生を遂げるであろうことが予測されるエンディングが訪れる。たとい「大きな物語」が幻想にすぎず、そして世界に意味と秩序を取り戻そうとする試みが無駄であったとしても、自らの手の届く範囲で小さな物語をつむぎ、それを守り育てていくことで自己の存在論的根拠を回復し得るという、ゼロ年代的コミュニタリズムの発想がそこには見受けられる。

しかし、そのある意味単純な結末に至るまでに士郎の払った犠牲と克己の努力はいかばかりのものだったろうか。ギャルゲ史上有数の波乱万丈の物語と幾多もの苦難を乗り越え、やっと掴むものがそのような「青い鳥」――身近にある単純な幸福――であるというこの屈折は、一体何に起因しているのか。「Fate/stay night」という作品は、その「困難さ」というモチーフを無視して語り得ない。

この困難さは「Fate/stay night」という物語が描き出そうとした結論が、実際の現代において極めて到達困難なものであることの反映ではないだろうか。「大きな物語」を失い、無意味な世界と対峙するデラシネたる士郎の、そして士郎に似た「ぼくら」の「小さな物語」にそれなりの強度を与えるためには、平穏で単純な物語では到底足りないことを――あるいは平穏で単純な物語すらこのような困難を秘めていることを示しているのかもしれない。*2

*1:状況に埋没する「動物化」は彼の心的外傷ゆえに不可能である。第3の道である「小さな物語」の指向は後述。

*2:まあ、これは半ばこじつけであるのだが。

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