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2009-03-02

[]「うみねこのなく頃に」が非選択肢式オムニバスノベルであるべきたったひとつの理由 19:41 「うみねこのなく頃に」が非選択肢式オムニバスノベルであるべきたったひとつの理由を含むブックマーク

うみねこのなく頃に」という作品(以下うみねこと略)は、現状で一意的な回答を出せるようにはなっていない。先のエントリでもあげたように、推理というのは「テクストと読者の共感性に拠って立つものであり、論理実証主義に基づいていないからだ」という問題もあるが、むしろ意図的に解を発散させようとしているように見える。それは選択次第で別のストーリーラインが描かれる、選択肢式ノベルゲーの構造に近い。

ならば、真実は人の数だけある、という方式でもいいのではないだろうか。そういう意味で、うみねこという作品はかなり譲歩し、ポストモダン的なテクストとの戯れの可能性を示唆しているにも拘らず、最終的には豊穣な可能性を切り捨てているように思える。うみねこは多世界同時存在解釈が一番スマートに当てはまる形式なのに、それをあえてむりやり一意的現実に収斂させようとしているように見える。

上記のような理由で、むりやり一意的な回答に結び付けるよりは、解を発散させ、選択次第で異なる結末に至るほうが面白いとは思っていた。とはいえ、それは竜騎士07も自覚しているように思える。シュレディンガーの猫箱の例えや、カケラ世界の存在などにその認知の片鱗が見える。

ならば、解が発散するのは当然とした上で「あえて」解を収斂させることに意義があると、竜騎士07は考えているのではないか。竜騎士07にとっては「解の発散部分」は「解を収斂させるための情報を索引できる可能性」であって、解としての意義を持たない。梨花ちゃまも戦人も「この」梨花ちゃまや戦人であり、その個別性を担保に発散した解のひとつひとつを切り捨てていき、望む回答が出るまで粘り続ける。発散する解ではなく、唯一解としてのトゥルーエンドを、竜騎士07は切実に書こうとしている。それ以外の解(エピソード)はトゥルーエンドに向けてのバッドエンドと、それにともなうシナリオ/情報ロック解除の積み重ね、そしてトゥルーエンドにおいて最大のカタルシスを用意するための蹉跌の物語としてある。無数の試行錯誤と蹉跌を経て、トゥルーエンドへといたる道を描くことにより、トゥルーエンドに最高の物語的価値を与えること。それによって、うみねこという作品を喝采とともにしめくくること。それこそが竜騎士07の目的であり、うみねこが「非選択肢式オムニバスノベル」でなければならない唯一の理由である、といえるのではないか。

付記1

うみねこの構造は「異常に厳格な読解規則を持つ選択肢式ノベルゲー」に類似するといえる。この「解を収斂させる方向」の問題意識というのは、解の発散によるマルチエンド型選択肢式ノベルゲーに批判的なクリエイターが良く取る方法論である。読解規則やその他の規則を用いてテキストの読みを固定的にし、最終的にトゥルーエンドへと送り込む、あるいはそもそも一本道テキストしか存在しないような構成が多く用いられる。おそらく、竜騎士07もそうした先行作品群からの影響を強く受けているのではないだろうか。

付記2

解の発散をトゥルーエンドまでの地ならしとして徹底的に活用するという意味で、非選択肢・オムニバス形式はノベルゲーの迎えたひとつの究極形態であるだろう。もうひとつの究極形態は「あらゆる解に発散しうる」バベルエロゲなのだが、後者ははてしなく無理である。なぜ無理かというと、新城カズマ氏が指摘したように「解が無限に存在する場合、読者の求めるトゥルーエンドへといたる手順は無限となる」からだ。