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2009-07-10

[]エンドレスエイトにおけるループ描写の特異性 19:12 エンドレスエイトにおけるループ描写の特異性を含むブックマーク

今期の「涼宮ハルヒの憂鬱」においては、原作では1話で済んだ「エンドレスエイト」をループ構造の作品として延々繰り返しているのだが、これはいわゆる「ループもの」の作品とかなり違う文脈で描かれている珍しい例なので、少し論じてみたい。

一般にループものと呼ばれる作品が、実際に同じシークエンスをループすることは余りない。むしろ「ループしている」という状況を、さまざまなベクトルから描きつつ一本のシリアルなストーリーラインに落とし込むか、ループという状況によって多数化された物語の上にメタフィクション構造を積み上げ、そのメタ部分をメインラインとして、やはりシリアルなストーリーラインが組まれることが多い。

たとえば、前者の代表的な作品である「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(正確にはその前半部)においては、登場人物たちそれぞれがループの奇妙さに気付き、それを打破しようとしてさらに混乱していくという物語が、ループの中で描かれている。登場人物たちにとってはループ構造の中にとらわれている物語だとしても、それを観客が見る際には、ひとつの流れというものが存在するし、その流れ自体がループすることはない。

後者の代表である「ひぐらしのなく頃に」においては、ループ構造といいながら、実際のところはひとつの状況が持ちうる複数の可能性を用いて「○○編」という「多数化された物語」を展開しているのであって、見る側からすると多様なシークエンスが並列的に並べられることになるし、その上で、それら並列的シークエンスを並べたときにやはりひとつの「線的な流れ」がメタフィクショナルに浮かび上がるような構造がある。いずれにせよ、そこにおいて実際の「繰り返し」はほとんど描かれない。*1

これに対し「エンドレスエイト」は、ひたすら同じシークエンスを繰り返していて、その「繰り返し」の中に組み込まれたわずかな相違とそのシリアルなつながりだけが、メタフィクショナルな部分での「直線的な物語」を構成しているものの、全体的には「ひたすら同じことを繰り返す」という印象が前景化するように作られている。前者2例がループ構造を云いつつも、実際は「螺旋」というひとつの線をなぞるように進んでいる物語であり、同じところには2度と帰らないのに対して「エンドレスエイト」は、きわめてそのループ性に忠実な作りになっていることが、いわゆる「ループ物」として特異な点だ、ということだ。

さて、このような特異な――逆説的に「ループ」に極めて忠実な――構造が何をもたらすかというと、ストーリーに対する退屈がもたらすストーリーの後景化であり、同じストーリー、同じシークエンスの中の微細な差異に目を向けさせる効果である。ここで作り手は同じシークエンスをいかにして異なる形に見せ、退屈から観客を遠ざけるか、あるいは自らの個性を発揮するかということに専念しなければならなくなるし、観客は退屈から自らを遠ざけるために「同じシークエンスの中の異なる部分」――すなわち演出的差異に目を向けざるを得なくなる。結果として「エンドレスエイト」は、ある限られた状況におけるさまざまな演出手法の展覧会として見ることができる、ということだ。

しかし、そのような七面倒な見方をする努力というのは並大抵ならぬものであり、かなりの人々が「そもそも見ることを放棄する」という選択肢を取るのではないかという危惧を感じざるを得ない。実際「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品でなければ、このような実験的手法はそもそも許されなかったのではないか――あるいは「涼宮ハルヒの憂鬱」であるからこそ絶対に避けるべき手法ではなかったのか――と思えるほど、リスクストレスが高い方法論だといえよう。だが、それにあえて挑戦したスタッフの気概あるいは勘違いの結果、非常に珍しいものを見ることができたことは、それなりに評価しておきたいと思う。

追記

エンドレスエイト」の演出目的は「唯一繰り返しを見続ける存在である長門の心境を観客に追体験させることにある」という指摘をいただいたのですが、これもまた正しい読みだと思います。ただ、それが物語の後景化と細部の前景化という機序に対して否定的に働くかというと、これはまた別の問題です。おそらく、この段階でも「エンドレスエイト」を見続ける人々は、長門同様の気分に陥りながらも、そこから何がしかの差異を見出していくことに注意を払わざるを得ないでしょうし、それに対する作り手側の配慮も前面に押し出されています。そういう形で、ぼくはこの作品を捉えています。

*1梨花は同じことが何度も起こったとループ性を主張するが、観客が見ている物語は線的に編集されている、といってよい。

wyvern359wyvern359 2009/08/21 18:31 谷川氏はこれをモチーフにしてエンドレスエイトを書いたのでは?思われる映像作品がある。
むかしフジテレビとかでやっていた新スタートレック(TNG)の第5シーズン第118話「恐怖の宇宙時間連続体」だ。
登場人物たちはデジャ・ビュで異変に気付き、ループする運命に対処しようとしますが間に合わず、船が爆発して次のループに飛ばされてしまう。
アンドロイドのデータ少佐というのが瑣末なデータを並べ立てるクセがあり、長門のセリフはこれのオマージュになっている。
最後に正しい選択をするとループを脱出できるという構造も一緒。
デジャビュの演出といい、毎回少しづつ進展させ、撮り方も変えてるなど飽きさせない。見事な作品だ。
これと比べるとでエンドレスエイトのアニメの何とつまらないことか。
アニメ製作者は自分勝手な悪ノリではなく、エンターテイメントに徹してほしいものだと思う。
参考:
前半 http://www.nicovideo.jp/watch/sm7709314
後半 http://www.nicovideo.jp/watch/sm7709487